2016年2月25日木曜日

「千弁蓮華 "Sahasrāra"」と「千葉蓮華」

2016年2月6日、鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」に本来は無かった「提婆達多品第十二」を読んでいた(日蓮大聖人も女人成仏抄で二十七品が二十八品に増えた経緯を説明している)。
この品なくば「法華経二十八品」という表現が成立しなくなる、といった一定の存在感がある。

※添品妙法蓮華経という後世の法華経において提婆品にあたる記述が「見宝塔品第十一」に追加され、更に後年、羅什訳の妙法蓮華経にもその記述が独立して提婆品が生まれた、という学説がある。また、羅什さんが参照した梵語法華経には提婆品にあたる記述なく、闍那崛多さんが参照した梵語法華経にはある記述が、後年梵語圏で付加された記述であろうとされる。これも以前話した「観世音菩薩普門品の『偈』」と同じような経緯となる。

とある調べごとのために、この提婆品を読んでいたが、その中で無関係ながら「千葉蓮華(せんようれんげ・せんしょうれんげ)」という表現に惹かれた(爾時文殊師利。坐千葉蓮華。大如車輪。倶来菩薩...)。
これは真っ先に「千枚の花弁を持つ蓮"Sahasrāra (マクロン抜き正当: Sahasraara、サハスラーラ)"」という、私が初めてサンスクリット語として覚えた単語を思い起こす。
サンスクリット語といえば、古今東西・英語にも日本語にも影響を与えた世界的言語ではあるから、誰しも語源的に通じる単語を自然と知っている(記事末尾参照)ものであるが、単にアルファベットやデーヴァナーガリーから覚えたものとしては"Sahasrāra"が初めてである。
"Sahasrāra"を知った2013年中に「千弁蓮華」と、独自の漢訳をして記事に載せた(厳密に言えば、直に漢訳する知識は無かったから英語や日本語での意訳を四字熟語に置き換えたのみ)。

この思い出深き"Sahasrāra"との類似性を覚える「千葉蓮華」にあたる単語が梵本・サンスクリット語のバージョンには載っているか、"Sahasrāra"に巡りあえるか興味が沸いたため、調査を行った。
ヒンドゥー教(印度教)関連から知ったものであるから、仏教とは関係ないことは当然分かるが、そのために梵語・梵本の法華経にも見られる単語であるか、突き止めたく思う。

※実はこの2月6日より前に、別の方法で"Sahasrāra"に関する調査をしていた。サンスクリット語で「蓮」とは何だろう・・・私の先入観で"Sahasrāra"が「(千の花弁を持つ)蓮」という認識によって、「Sahasra(千)+ara(蓮)」と仮定していたが、実際には"Thousand-petaled"という英訳の通り、「蓮」の意味を含んでいない。この時、妙法蓮華経の題でも有名な「白蓮 "Puṇḍarīka (プンダリーカ)"」も浮かべていたので、当時はこれを結論とせざるを得ず。



まず、英語版Wikisourceで対訳箇所を探すべく"Chapter 11"を披いた。
先述の通り、この「提婆達多品第十二」は鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」のみ設けられたものであり、別の本ではみな「見宝塔品第十一」に当たるパートに載っているから、"Chapter 11"を参照する必要がある。
また、サンスクリット語版としてDSBCの"11 STŪPASAṂDARŚANAPARIVARTAḤ"も披く。

妙法蓮華経でその記述の前後にある固有名詞などの、ローマ字(ラテン文字)表記を想像して、ページ内検索をかけ続けておおよその位置を特定する。
「文殊師利」は好例にあたるため「英語ではマンジュシュリー"Manjusri ??"だったか」と想像しながら英・梵両ページを探すと、それらしい記述の位置が当たった。
他にも知っている単語である「ボーディ・サットヴァ"Bodhisattva"」のような単語も付近にあることを確認していく。
ほか、自分の脳内で通じた単語は"prajñākūṭa (prajñākūṭo bodhisattva)"の「プラジュニャー」という語根は音写・漢訳で「般若=智」、それで菩薩の名前とすれば「智積菩薩」に通じ、WS所載の英訳本に"six perfect virtues (Pâramitâs)"とあるも箇所も「六波羅蜜」を指すと見た。

以下に対応する記述のハイライト

atha khalu tasyāṃ velāyāmadhastāddiśaḥ prabhūtaratnasya tathāgatasya buddhakṣetrādāgataḥ prajñākūṭo nāma bodhisattvaḥ| sa taṃ prabhūtaratnaṃ tathāgatametadavocat-gacchāmo bhagavan svakaṃ buddhakṣetram| atha khalu bhagavān śākyamunistathāgataḥ prajñākūṭaṃ bodhisattvametadavocat-muhūrtaṃ tāvat kulaputra āgamayasva yāvanmadīyena bodhisattvena mañjuśriyā kumārabhūtena sārdhaṃ kaṃcideva dharmaviniścayaṃ kṛtvā paścāt svakaṃ buddhakṣetraṃ gamiṣyasi| atha khalu tasyāṃ velāyāṃ mañjuśrīḥ kumārabhūtaḥ sahasrapatre padme śakaṭacakrapramāṇamātre niṣaṇṇo'nekabodhisattvaparivṛtaḥ puraskṛtaḥ samudramadhyāt sāgaranāgarājabhavanādabhyudgamya upari vaihāyasaṃ khagapathena gṛdhrakūṭe parvate bhagavato'ntikamupasaṃkrāntaḥ| atha mañjuśrīḥ kumārabhūtaḥ padmādavatīrya bhagavataḥ śākyamuneḥ prabhūtaratnasya ca tathāgatasya pādau śirasābhivanditvā yena prajñākūṭo bodhisattva  stenopasaṃkrāntaḥ| upasaṃkramya prajñākūṭena bodhisattvena sārdhaṃ saṃmukhaṃ saṃmodanīṃ saṃrañjanīṃ vividhāṃ kathāmupasaṃgṛhya ekānte nyaṣīdat| atha khalu prajñākūṭo bodhisattvo mañjuśriyaṃ kumārabhūtametadavocat-samudramadhyagatena tvayā mañjuśrīḥ kiyān sattvadhāturvinītaḥ? mañjuśrīrāha-anekānyaprameyāṇyasaṃkhyeyāni sattvāni vinītāni| tāvadaprameyāṇyasaṃkhyeyāni yāvadvācā na śakyaṃ vijñāpayituṃ cittena vā cintayitum



同日19時台、ついに「千葉蓮華」の核心に迫った。

"Sahasrapatre"という単語は「千葉」を表していよう。
"Sahasra"は「千」であり、"patre"は「葉」、でなかろうか。
英語版Wiktionary "सहस्र"の記事で"Sahasra = Thousand"であると書かれ、英語版Wiktionary "Leaf"の記事でインド系の諸語の対訳がパーリ語なら"Paṇṇa (Panna)"、ベンガル語なら"Pata"、より追跡してヒンディー語やネパール語にマラーティー語、ついにはサンスクリット語でも"Patra"とあることから、まさしく"Patre = Patra (主格) = Leaf"(葉) であると繋がる。

その直後に続く"Padme"という単語も、Wiktionaryでの調査に限界があるため、槍投げにGoogle検索をかけたところ、何とか期待する検索結果を得られた。
格変化の処格(所格・於格とも)の違いで"Padma"が"Lotus"つまり「蓮」に当たる単語である。
要は、「千葉蓮華」をサンスクリット語に戻すと"Sahasrapatra padma (サハスラパトラ・パドマ)"ということになろう。

※蓮は蓮でも、"Padma"と"Puṇḍarīka"の違いは色にあるようだが、紅蓮・白蓮となろう。単に「ハス」という分類学上の植物の名を指す場合は前者にすべきか、といった点は不明である。そこで別途調査すると、分類学上のニュートラルな名称は「パドマ」でなく「カマラ "Kamala, कमल"」のようである。

※"Sahasrapatre padme"手前の"kumārabhūtaḥ"という単語は「クマーラブータハ(?)」と読むが、クマーラといえばあの妙法蓮華経訳者、鳩摩羅什三蔵も「クマーラジーヴァ」といい、父上も「クマーラヤナ」と称するなど、"kumārabhūtaḥ"の意味が気になるところであるが、これ以上は止みなん、また知るべからず(もう止めよう、知ることはできない)。

2013(12?)年に単語"Sahasrāra"を知ってより、2013年末に"Thousand Leaves (まさに千葉)"の楽曲を聴き、2014年6月に日本仏教への関心を強く持ち、この2016年1月以降はサンスクリット語・パーリ語といった言語に向き合う心の準備が整ってから、ようやく類語などを特定するに至った。
短時間でこれだけ調査したから、実に疲れてしまう。
しかもそれを、「漏らさないうちに知識を移しきろう」としてこの記事を即日まとめたわけだから、作業量が濃密となる。
無論、即日まとめるとしても速記のようなものだから、即日や翌日に投稿するとは意味しない。
現状、メモ帳には4記事のストックがあるので、これらを順次投稿していき、当記事は当月末に投稿・反映する予定を立てよう。



なお、他の英語の意訳として、"Sacred Texts"所載の訳文における「千葉蓮華」の箇所は"centifolious lotus"とあるが、これは「百の葉の蓮」を意味しているようである。
ラテン語接頭辞"centi-"は、センチメートルなどと日本でも言うが、"100, Hundred"にあたる意味を持つ。
ちなみに100は、ラテン語 ケントゥム"centum"であり、サンスクリット語 シャタ"śata शत"である。
"fol"という語幹なら、先のサンスクリット語"Patra"と同様"leaf"を意味している。

ところでラテン語で"Pater"といえば「父親」を意味する単語で、今や全世界に流布する「パパ・ママ "Papa, Mama"」の語源は無論ラテン語であり、ラテン語の前にも(?)古代ギリシャ語"παπάς"など、相当する単語がある。
ラテン語で父・母といえば"Pater, Mater"であるが、これらのより祖先を辿ると印欧祖語というものになるらしい。
同じ印欧祖語が祖先である「印欧語族」にあるサンスクリット語では"पितृ, मातृ"であり、ローマ字表記をすれば"pitṛ, mātṛ"となる。
両親について、父母の順序を「母父"Mātā-pitarau"」という並列の言葉で称しているそう。

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