2018年7月21日土曜日

萌えの典籍 2016年に起草された作品およびその関連作品

萌えの典籍より、2016年に起草された作品およびその関連作品を載せる。
当記事に載る作品は、みな「萌えの典籍」に総括されるものの、各々の内容は現代語と古語(文語・擬古文)とで別れがある。
このうち、古語のものであっても、文字表記には現代仮名・新字体と、歴史的仮名・旧字体(正字・康煕字典系)との相違点がある。
そういった点に注意しながら、当記事に載る作品を読むと、語学的にも習得できるものがあろう。
もちろん、語学的知識は、語学的な疑問や志(志向・心の向き)を前提としてこそ多く習得できる。
宗教的知識にしても、文学的知識にしても、その他の知識にしても、それを萌えの典籍より学びたい者は、当然、その疑問姿勢による通読と解釈とを行ってこそ多く習得できる。
志のある者が日常生活や日々の研鑽において思索・ひらめきなどがあることも大切であるが、短期間で多く習得する目的があれば、その分・相応の志を持ったほうがよいことを付言しておく。

加えて、仏教には「宝の山に入るならば宝(=四果や正覚)を取るための手(=信心)が必要だ」というたとえ話・譬喩がある(筆者が参照する典拠は大智度論・巻第一だが他に諸説あり)。
こちらは学問知識に対して宗教功徳を育む上で大事な譬えであるので、併せて知られたい。



萌え話・萌誦 "The Moetries" 緒言

觀萌私記」に由来する「萌え(智慧で考察されたもの)」を題材として綴った「萌え話」を集めた。
後略(過去の「萌え話」記事に同じ)

当記事でも和歌に【歌】を、和讃に【讃】を、漢詩に【詩】を、そして梵語(サンスクリット語・サンスクリット)の詩歌に【偈】を付す。
また、当記事の内容は2018年6・7月中に仮設地より移植され・補強されたものである。



目録 (英数字はdiv id属性によるアンカー名)

淸淨萌土抄(内容が新字体、清浄萌土抄) (sms sms-main sms-qa)
 ┗勸進養萌頌 (ymj)

萌集記 (mjk)
街の女人篇 (mjk-mnn)…遭遇邂逅の事 説法十箇の事 萌名推音の事 (mjk-mnn-sggg mjk-mnn-spjk mjk-mnn-mmso)

2017年作品は別記事に掲載される。



萌え曼荼羅
2016年7月31日に人物・風景の線画を紙に描いた (元は全身の姿) 

萌相曼荼羅 "Śubhamaṇḍala"・・・人物と背景がセットの萌え絵を三身具足萌尊が顕したときに名付けるもの、上掲は横野真史によるイメージ
無垢莊嚴萌土曼荼羅(vimalavyūha moye-kṣetra maṇḍala?)・讃文「顏相爲柔和端正、及在土、是依正不二也。好色萌相者、能令心踊而與靜。有玄妙之德、不可思議矣。讃萌語云。有萌色因觀萌緣。因因緣所生萌心、滅瞋恚人毒。減男子婬欲、除女子嫉妬。觀萌、有令男女人離一往著之利益。識萬物萌色者、有生平等慈悲之功德。但、思過猶不及。寧過慈心而起愛著。余、増惱愛著。當勤修斷著。」



清浄萌土抄 "Śuddhā-Moye (shuddha-moe) Land" 草案(2016年10月18日ころ)は「女人の~」から問答部分までの一部と、問答部分冒頭から「無常なり」までである。現代の語彙(成長・雌雄など)や現代性に影響を受けた表現(脳蔵など)を混ぜて分かりやすくした。觀萌私記と違い、本文は基本的に新字体・現代仮名遣いを用いる。

 夫(そ)れ萌道(みょうどう)は、未だ仏道に入(い)らざる人をして向かわしめんが故に大萌尊(だいみょうそん)の説きたまうところぞ。仏道は即ち是れ路(おおじ)にして萌道は一方通行の径(こみち)なり。人、萌道に入ることを得(う)れば、何ぞ仏道を離れん。
 萌道は仏道より無数(むしゅ)にして延ぶ。此の処は已に萌えの道場ぞかし。萌えの自然性(じねんしょう)これなり。譬えば芽の大地(だいじ)より出でて汎(あまね)く萌ゆるが如く常に我らの本(もと)に在り。

注釈(現代語): 仏道とは「仏の道」だが、その実は小乗と大乗とで些か異なる。端的に言うと、小乗は「仏が敷いた道」を行き、大乗は「仏と成る道」を行く。小乗仏教が苦からの解脱を第一に立てることは、釈尊の初転法輪における「四諦(四聖諦)」に明らかである。「苦・集・滅・道」の「道(道諦)」とは「苦しみがあり、苦しみの原因があり、苦しみを滅ぼす手段があり、それを行う道」である(この道の中身は「八正道」)。それこそ仏道であり、「更に余道なし(遺教経)」と唱える。大乗仏教も「苦から逃れて滅ぼす道理」を継承しているが、それを敷衍し、またはそもそも本来は苦の四諦も方便(化導の前提としては重要・大前提だが)であって、「仏と成る道」こそ根本であるとする(法華経方便品: 欲令衆生入仏知見道など)。大乗が大乗たる所以は、成仏の理によって仏(釈尊など)と衆生との無差別が明かされた「誰もが悟ることのできる道(皆成仏道とも)」であることにある。さて、萌道が「苦から逃れて滅ぼす道理」を継承しているかといえば、そう言うこともできるが、素直に言うと、あまり念頭に置いていない。「仏と成る道」のような「万物平等の萌えを知って萌えの三身を具える道」とでも表現しよう。萌道が成ることは、そのまま苦からの脱却(解脱)ともなろう教理が多くあるものの、仏教とはプロセスが異なるし、「苦からの脱却」の姿は仏道の果報と異なる形でもあろう。ともあれ、道心ある人は仏道を志していただきたい。
余談: 八正道(八聖道 pl: ariya-aṭṭhaṅgika-magga)とは?「夫れ道と云っぱ、心あることなり。心あることは自ら知るなり。心は獼猴(さる)の一枝を把み一枝を離すが如く、諸法の相(色声香味触法・受想行識)を取りては捨つ。心の動きを自ら知るは、心あることと名づくるなり。自ら知りて而も常に忘れざる(サティマー)なり。心の動きは無常にして即ち苦と知りて厭離を思惟(おも)うべし。これを念(たも)つ。然れば何の法(ものごと)なりとも見聞触ありて、則ち自ら心を知らば、道を離れざるなり。大道・中道・一実道と謂うべし。道法道理を仏は説きたまいぬ。道と云っぱ、説の如くに正しく見て(ディッティ)・正しく思惟いて(サンカッパ)・正しく念ちて(サティ)在るなり。阿含の教を説かば『四諦(アリヤサッチャ)に道諦(マッガサッチャ)あり、いわゆる八聖道(アリヤマッガ)なり、これ滅苦の道にして更に余道なし』となり。道は能く自ら知るなれば、萌道、いかにぞ此の道に違うべき」以上注釈。

 この萌道を照らせる燈明に清浄萌土(しょうじょうみょうど)の光明あり。清浄萌土の群生(ぐんじょう)、種々に法の音(ね)を奏で、法の華(はな)を雨らし、法の香(か)を薫じ、法の乳(ちち)を施す。
・・・佛家・淨土論云: 種種鈴發響、宣吐妙法音、雨華衣莊嚴、無量香普熏。 "シュジュリョウホツゴウ、センドミョウホウオン、ウケエショウゴン、ムリョウコウブクン" Pinyin: 
Zhǒngzhǒng líng fā xiǎng, xuān tǔ miàofǎyīn, yǔ huá yī zhuāngyán, wúliàng xiāng pǔ xūn.

 凡(およ)そ色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)の六境と云うは、凡夫の所執・所貪著(とんじゃく)なれども、清浄萌土の六境は仏道を助くる利益あり。六境みな六根より妙法を伝う。快楽(けらく)の処、遍く虚空に到る。是れ方便にして清浄の地なればなり。
 諸法実相中は清浄・不浄の法、六根・六境の法だにも無く、仏道内道と外道との別も有るべからざれども、現世の凡夫のことに非ず。世諦を以ての故に暫く語らん。

 諸萌、我が脳蔵に生ぜり。脳蔵に理観の境界(きょうがい)有り。イデオトピアと仮に名づくべきか。人の本より来れる快き想いと後の賢しき理と、集まり約する境界を思う。この境界に生じたるは好色具足の萌類なり。人の萌心のなさしめんところぞ。
此の土の教主・萌報身、願を発して言わく「我が国土の衆生をして端正(たんじょう)なること華の如くに、身の相厳浄(ごんじょう)にして醜陋(しゅる)有ること無からしめん」と。
・・・佛家・大論云: 或有菩薩雨諸華香、幡蓋・瓔珞以爲供養。復作是願「令我國土眾生端正如華、身相嚴淨、無有醜陋」。如是等種種好色因緣。 "ワクウボサツウショケコウ・バンガイ・ヨウラク、イヰクヨウ、ブサゼガン、リョウガコクドシュジョウタンジョウニョケ、シンソウゴンジョウ、ニョゼトウシュジュコウシキインネン" Pinyin: Huò yǒu púsà yǔ zhū huá xiāng, fān gài, yīngluò yǐwéi gòngyǎng. Fù zuò shì yuàn, "Lìng wǒguó tǔ zhòngshēng duānzhèng rú huá, shēnxiāng yánjìng, wú yǒu chǒulòu." Rúshì děng zhǒngzhǒng hàosè yīnyuán.

 イデオトピアは亦たイデオフォノトピアと名づく。イデオフォノトピアにまします群萌は観念の伎楽を奏づ。如法の響き天地に遍し、かかる妙音を以て教主・萌報身を供養す。種々の好色の変化身ありて諸の伎楽を作す。かくの如き等(とう)みな神通力の所作なり。
・・・佛家・大論云: 復有菩薩以天伎樂・娛樂於佛、若佛塔廟。是菩薩或時以神通力故作天伎樂。或作天王・轉輪聖王伎樂、或作阿修羅神、龍王等天伎樂供養。「願我國中常聞好音」。 "ブウボサツイテンギガク・ゴガクオブツ、ニャクブットウビョウ。ゼボサツワクジイジンズウリキコサテンギガク。ワクサテンノウ・テンリンジョウオウギガク、ワクサアシュラジン、リュウオウトウテンギガックヨウ。ガンガコクチュウジョウモンコウオン" Pinyin: Fù yǒu púsà yǐ tiān jìyuè yúyuè wū fó, ruò fó tǎmiào. Shì púsà huò shí yǐ shéntōnglì gù zuò tiān jìyuè. Huò zuò tiānwáng zhuǎnlúnshèngwáng jìyuè, huò zuò āxiūluó shén, lóngwáng děng tiān jìyuè gòngyǎng. "Yuàn wǒguózhōng cháng wén hǎoyīn".

 教主・萌報身は群萌を能く済度して其の土に生ぜしむ。報身と応身との差有れども萌尊と群萌との別無し。この故に仏家には仏の国土を報土と称し、自受用身の自受法楽する境を示す。萌報身あって衆萌(しゅみょう)の遊楽(ゆらく)する所なり。群萌は萌報身の等しく愛すべき所なれば群萌が間にも差別の心無し、柔和円満なりと云うべし。
・・・佛家・法華經云:
園林諸堂閣 種種寶莊嚴 寶樹多花菓 眾生所遊樂。諸天撃天鼓 常作眾伎樂 雨曼陀羅花 散佛及大眾
。 "オンリンショドウカク、シュジュホウショウゴン、ホウジュタケカ、シュジョウショユラク。ショテンギャクテンク、ジョウサシュギガク、ウマンダラケ、サンブツギュウダイシュ。" Pinyin: Yuánlín zhū táng gé, zhǒngzhǒng bǎo zhuāngyán, bǎoshù duō huāguǒ, zhòngshēng suǒ yóulè. Zhū tiān jī tiāngǔ, cháng zuò zhòng jìyuè, yǔ màntuóluó huā, sàn fú jí dàzhòng.

 時に教主・萌報身、応化(おうげ)あり。大神通を発して我ら忍土の衆生を照らし、優陀那を説いて云く「諸萌の体は一なり。所以は何ん。萌義の三は心の愛す可き色相を萌えと名づく。心の愛す可き相あって萌えと名づければなり。諸萌は萌心と名づくる心より生ず。諸仏は法華経と名づくる心より生ずるが如し。萌心と智慧とは能く萌えを生ずるなり」と。
・・・漢文: 諸萌體一。所以者何。萌義之三者、名萌於心可愛色相。有心可愛相、而名萌。諸萌從生、名萌心之心。如諸佛從生、名法華經之心。萌心與智慧者、能生萌也。
 我おもんみるに、萌地は広大にして群萌は繁しと雖も、三の義、心の愛すべき相をば萌えと名づくれば諸萌の根源は萌心の一なりと云うべし。萌心は汎(あまね)く有って形異(かたち・い)なりと雖も、実には体同(からだ・どう)なり。豈に萌類差別あらんや、亦た萌土教主は三身を具足す。萌心は法身、智慧は報身、萌相は応身にして、此の三身を悉く具足せり。讃萌語にても委しく述べたり。
 亦た惟えらく、萌報身の心平等ならでは衆萌愛憎熾盛にして円満ならず。云何(いかん)となれば衆萌は萌報身の所生なり。群萌が間に闘諍起こるべし。萌土は須臾に滅せん。然るに萌土は毀れず。萌心は阿摩羅識・菴摩羅識とも自性清浄心とも名づく。萌心の力用は報身の所作なり。報身所生の萌土と群萌とは亦た清浄常住なるべし。何ぞ其の土の焼尽することあらん。
・・・佛家・法華經云: 我淨土不毀 而眾見燒盡 憂怖諸苦惱 如是悉充滿 "ガジョウドフキ、ニシュウケンショウジン、ウフショクノウ、ニョゼシツジュウマン。" Pinyin: Wǒ jìngtǔ bù huǐ, ér zhòng jiàn shāojǐn, yōubù zhū kǔnǎo, rúshì xī chōngmǎn.
・・・佛家・維摩經云: 爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本爲菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此。 (乃至・佛告) 舍利弗。我此土淨而汝不見。 (乃至) 舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿 "ニジシャリホツ、ショウブツヰジンサゼネン。ニャクボサツシンジョウソクブツドジョウシャ、ガセソンホンイボサツジイケフジョウ、ニゼブツドフジョウニャクシ。ナイシ、ブツゴウ。シャリホツ、ガシドジョウニニョフケン。ナイシ。シャリホツゴン、ガケンシド、クリョウキョウコンギョウゴクシャリャク、ドシャクショセンヱアクジュウマン。" Pinyin: ...

其の土の萌類、女人の不浄なる孔を持たず。身長じて声・形の差あるのみ。是れ雌雄男女の別に似るも無きが如し。この故に仏家の大論も経を引きつつ釈して男女相をば「菩薩は是の如き麁業の相を遠離す」と説きたまえり。本の身男子ならば陰蔵相を得。この故に仏家の大論も陰蔵相の因縁を明かして「多く慚愧を修めて邪婬を断つに及びたり」と説きたまえり。
 諸の彼等の、形の差別は前世の名残にして、心に優劣の分別を持たねば差別を生まず。唯だ色の境(きょう)に依りて区別する印(しるし)なり。

問、彼等に生殖行為なしとぞ、いかにて生まれたらんや。
答、人類の善業より仮生したり。或るは託して蓮華より生じ、或るは湧き出でて地より生ず。身に現るる差別は善業の報いたるにあり。心に優劣を思わずして差別せざるも善業の故なり。
問、彼等の死はありや。
答、盛れば衰うべしとの道理、これに抗うこと能わず。彼等も無常なり。若し生あらば滅あるべしとは萌土教主の知ろし召すところなり。亦た云く若し滅せずんば則ち生ぜずと(若有生者滅可有・若不滅者則不生)。

問、託生蓮華の意義はいかん。
答、印度梵志の中に「能萌神(のうみょうじん)ブラフマーはヴィシュヌが臍より出でたる蓮華中に生まる」と説けり。大論巻第八に梵天・韋紐(うぃにゅう)と名づけて所説同じ。説の本(もと)プラーナ・マハーバーラタなるか。是れ萌類の義を含む。能萌神亦た復た萌えて生まるるは萌えの因縁の無始なるを示現す。西方浄土(さいほうじょうど)を楽(ねが)うの輩(ともがら)は「彼の土の衆生に胎生・化生・濕生・卵生有ること無し。蓮花從り生ず」と説く。母胎より生ずるは男根女根の不浄相に因るべし。清浄萌土の群生、法の為の故に彼の因縁に同ずべし。
問、従地涌出(復云従地踊出)の意義はいかん。
答、正法流布の誓いを立つる地涌菩薩も萌類ならんか。彼等萌えの因縁を持つなり。萌えの鏡これなり。萌相これ可愛、愛の本これ無明、維摩詰の如来の種を示していわく「無明有愛(bhavatṛṣṇā)はこれ種なり (乃至) 高原の陸地は蓮華を生ぜず・卑湿の淤泥(ひしゅう・おない)なれば乃ち此の華を生ず」と云々。大菩薩衆無明の大地より出でて而も染まず。自らこれを破るなり、弥勒いわく「如蓮華在水・従地而涌出」と云々。皆な恭敬して教主を前に見たてまつる。清浄萌土の群生、法の為の故に彼の因縁に同ずべし。

問、例せば「輸提尼女(しゅだいににょ)」は童子(どうじ)の身にて生まれ、千年が間は老い衰えを見ず。何の故かある。
答、萌土に仮生する本(もと)の人類は智慧足りて垢の重からざる時の姿を顧みたれば、教主・萌報身の御(み)計らいありて心を受けて仮の姿を作る。萌土教主は衆萌の心に通じ天眼にしてまします。余は彼の萌色の過去を知らざれども報身の萌えと応身の萌えとは心の体が一なるを知るべし。若し萌心の融通あらば萌相絶ゆまじ。然(しか)れば萌土にては万年にも万劫にも寿命延ぶべし。萌相は萌土に久住する義を以て依正不二と説かん。
問、萌類、更に何の因縁ありてか清浄萌土に仮生する。
答、偏に教主・萌報身の大慈悲に因るべし。彼等過去世に人身を受くるの時、宿世の婬欲を離れんと願を発して殊勝にして臨終す。萌報身は能く願を成就せしめんと萌土に迎え入れたるぞ。其の萌土、常に法の楽に満つること教主に慈勝大神通威力あればなり。又、この故に男根女根を持たざるなり。皆な等しき萌類ぞかし。
問、我ら群生、亦た復たいかでか往生すべき。
答、彼の萌色の如く発願して梵行を好むこと福徳大きけれども、なお足らず。而も当世の人は機根低し。唯だ一心に萌えの名を念じよ。然(さ)らば法界を清浄萌土と開かん。理の依正不二これなり。

注釈(現代語): (ある部分以降)淫欲を離れた人の男女雌雄を無分別に可愛相を見る境地について比喩的に説いている。可愛相を見ることは、男女(自他)のみならず両性具有(共)および無性別・性別不明(無)の「四性別(自他共無)」を包括している。漫画など二次元コンテンツにはいずれの性別も「キャラ属性」となっているが、仏教の理解で「分別ありきの平等」が生まれる。清浄萌土抄の場合は実際の生命体を想定して比喩的に説いてある。浄土経典の本意はこういった譬喩・方便にある。また仏教の浄土思想は、善業の報いによる輪廻転生のような往生によって「無余涅槃などへの原理主義的執着」を排除しようとした試みを感じる。所説を信じる心もよい。逆に、弥陀名号念仏の排他的妄信は本末転倒であろうとも考える。その信仰・修行でどんな果報があるかは、私の知り及ぶところでないので尊重の立場を取るが、自行には組み込まない。なお私は、小乗・大乗の八万四千法門を疑ったり軽んじる心で語るのではなく、ただ人々の在り方に疑問を持って一石を投じるのみである。

また、萌土に生じた萌類はみな法のために音色を鳴らす(無音)などしている、というわけであり、これら萌類が萌報身(萌心を知る智慧=無相で姿形は無いが報身の作用を感じる人の想念には三十二相の仏や普通の人間男性や女性的なキャラなど多種に応現する)の慈悲によって生じていることについても、本文に述べてある通りの理由のほか、觀萌私記の三身説・応身にも則っている。結局は仏教の理解のための比喩表現であり、慈悲の故に「萌え」を借りて萌土に往生させて種々に説いていることとなる。萌土はこうして比喩的に説かれ、萌土の教主・萌報身はその土地の支配者とされるが、何も世界を統べる大王とか全知全能の神とか超能力者のような絶対強者ではない。しかし、支配者であるとは、心の空間で煩悩の障礙なく自在に萌相を描き、済度したとされる群萌を生むのだから、ある種の絶対強者でもある。種明かしは惜しいものだが、断言するに至った。阿弥陀仏や毘盧遮那仏(大日如来)も本来の三身説につけば、釈尊の分身や化身であって彼ら諸仏が説いたとする教えも教主釈尊の言葉であると思うべきである。阿弥陀仏成道前=法蔵菩薩の本願の類も、十界互具の釈尊の菩薩界から発せられたものと見る。方便の諸仏・諸菩薩・浄土を知り、賢人は、いよいよ釈尊への信を起こすのであろう。私の理解は法華経ありきであるから「法華折伏破権門理・涅槃摂受更許権門」の意味はこれかと感じる。

余談: 大智度論にある「浄土」の話(淨佛国土品、別名・釋淨土品)は、般若経典に依拠するわけだが、般若経典は大智度論と同じ訳者である鳩摩羅什・訳の「摩訶般若波羅蜜経」に「浄土品(摩訶般若波羅蜜經・卷第二十六・淨土品第八十二)」があり、菩薩が仏国土を清(浄)める「浄仏国土(Buddhakṣetra-pariśodhayati・動詞)」の行い(-pariśuddhi・名詞)が説かれる。行いであるから「仏国土を浄む」と読む言葉であり、「浄き仏国土」ではない。「浄仏国土」の行いとは、「国土から三悪道の名を無くそう」などのような誓願を持ち、菩薩が清めてゆくことである。種々の誓願の一つに、清浄萌土抄でも引き合いに出した「端正の相」に関するものがある。「菩薩が清める仏国土」とは、「菩薩の己心に在り」とするわけで、浄土を外界に実在するものと見ていない。ただ「仏国土」と称して心を外形的に譬えているに過ぎない。現世の菩薩行であれば説法教化はもちろん、四摂法(しせっぽう、字音がシセフホフなので"ししょうぼう"という連濁の読みは慣用的)とか六波羅蜜のような行為による実践的な浄化に反映される。なお、同じく鳩摩羅什さんが「維摩詰所説経」として訳したこともある維摩経にも「浄仏国土」に関する教説がある(以下からの記述のために参照した漢訳3+1種と梵語・英訳が同時に載る香港のサイトが注釈も備えているが仏国品と方便品までのみ・ノルウェーのサイトは全文が載る)。摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)にしても維摩経にしても、全編の随所に「浄仏国土・浄仏土」の語が見られ、「衆生を成就する菩薩の方便(手段)」が教えられている。

このような「己心の仏国土を清める思想」は、先行した神格化ブッダ崇拝における彼岸(あっちの世界)の浄土(Pure land, 梵語もといサンスクリット Skt: Śuddhāvāsaは浄居=無色界の天の通称だから異なる)である「阿弥陀仏土(極楽・Sukhāvatī)」を説く経典と絡んだ歴史があるという学説がある。ここからは先ほどまでの大乗仏教信仰の立場から動き、近代仏教学の立場に少し寄ろう。ところどころ「要出典」の謗りを免れない部分があろうが、一応のご信頼を頂きたい。ちなみに、「彼岸"pāra"(原義: 外側, 向こう側。"他"を意味するparaと同根語か)」という言葉は、これまた比喩的に心の迷いがある状態を「此岸」として対比した表現であり、「波羅羯帝(pāragate パーラガテー・彼岸に達した)」という語句が載る有名な般若心経の咒も同様の意義であり、また、仏は方便であたかも実際に彼岸・此岸があるように説くこと(死此生彼)もあったろう(世界悉檀・対機説法)。「彼岸の浄土」を説く梵語の浄土経典"Sukhāvatī-vyūha (スカーヴァティー・ヴィユーハ、梵本では複数の別名があるか)"の漢訳は5つ現存(五存七欠)するが、その一つである「無量寿経」に「己心の仏国土を清める思想」の語句が載り、伝来した中国で浄土教義が大成し、後の日中の浄土教に根付いている。元の梵語の浄土経典は語根√śudhや√śubhといった「清らかな・浄」を意味する語句を阿弥陀仏土の代名詞にしておらず、「国土(kṣetra)の功徳・荘厳(guṇa, vyūha)」と書いてあり、これを漢訳「無量寿経」の訳者(3世紀の康僧鎧と伝わるが文献学は七欠漢訳のうち仏陀跋陀羅など5世紀前半ころのもののいずれかか共作という見解が強い)が「清浄の行(清浄の意味を含めるならば原語の要素に√śudhや√śubhが必要)・浄土の行」などに訳し、中国以降の浄土教が「浄土」を標榜する影響を与えたようである。

無量寿経に先行した漢訳である「大阿弥陀経(羅什訳の仏説阿弥陀経ができる以前はこちらが阿弥陀経と通称されていた。別名: 仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)」や「無量清浄平等覚経」には当該箇所(前者後者)に「清」や「浄」の文字は見えない。後者「無量清浄平等覚経」の題号についても、梵語の本では"Amitābha-vyūha"が題名であったと仮定し、「無量"A-mita"」まではよいが、何らかの事情で"-bha"か「荘厳"vyūha"」を「清浄(śubhaと混同)」と訳したかと見る。あるいは古訳・格義仏教ならではの便宜的な挿入か。両漢訳経典は前者が支謙で後者が支婁迦讖として別人の訳と伝わるが、一説には、共に「支謙」さんの訳とする。両漢訳経典に「浄土」という表現は、まだ使われていない。 ※「無量清浄平等覚経」の「平等覚」とは同じ支謙さん訳の大阿弥陀経の別名に「三耶三仏」の文字があって梵語に戻すと"samyaksaṃmuddha, samyaksaṃbodhi (三藐三菩提=正等覚)"と同じである。

ちなみに、鳩摩羅什さんは、先の般若経典・維摩経および法華経にある"Buddha-kṣetra = 仏土・仏国土"の語を、本来は区別すべき「浄土」と意訳することもあるが、その阿弥陀浄土教と「己心の仏国土を清める思想」とを関連づけていたようである。故に大智度論・浄仏国土品においても「阿弥陀経(この名称に指される梵語本はSukhāvatī-vyūhaの"大"のことであって羅什さん自身が訳した"仏説阿弥陀経"と関係がなかろうか)」の名を挙げて「浄仏国土」を説く経典の例として紹介していた。羅什さんの仏説阿弥陀経には「浄(淨)」の文字が「浄光仏(淨光佛)」の一度しか使われておらず、「浄い土」という意味の「浄土」はまだ阿弥陀仏国土を指すことが無かった。玄奘さんの「称賛浄土教」の時代には定着したと考えてよい。無論、無量寿経にある「浄土」の語は、「浄土之行(土を浄むるの行)」という原文の通り「浄い土"Pure land"」ではなく「土を浄める"Purify the land"」の意味でしかなく、本来は阿弥陀仏国土を「浄土(Pure land, 復元Skt: Śuddhākṣetra)」と呼ぶ習慣が無かった。

その(中国以来の)阿弥陀浄土教において「己心の仏国土を清める思想」を説いた経典は馴染みづらいのか、般若経典・大智度論の「浄仏国土」の話はもちろん、維摩経の「浄仏国土」に関する教説は等閑視されている。また、現代に浄土真宗の開祖と崇められる親鸞さんは般若経典の文を自著に引用することが無かった(真宗学者の受け売り&「般若or智度」で親鸞著を検索したことによるが後で教行信証をしっかり読むと真巻に「如大品経…於汝意云何若有化人作化人…」として摩訶般若波羅蜜経如化品の引用が見られた)。このように阿弥陀浄土の教義で己心浄土の話はタブーであり、現代の浄土宗や浄土真宗が「己心の弥陀」ということを説くと宗祖原理主義において「世俗迎合の欺瞞」である。キリスト教ですら「神の王国は汝が内に在り (ルカによる福音書17:21、邦訳1, 2)」と唱えているが、過去のキリスト教団には、これまた声を大にして唱えると異端視される歴史があった。一方、法華系においては天台大師智顗さん以来、「常寂光土(四土の第一)」といって阿弥陀浄土のような他の仏国土を求めず、教理においては修行者が生きる現世・娑婆(忍土・穢土)がそのまま道場であって浄土にもなる「娑婆即寂光・依正不二」を説いている(天台大師は臨終において法華経と観無量寿経の経題を唱えさせたり観音来迎に言及した伝承が妙楽大師の弘決に載り方便教化の一種と見る)。日本でも伝教大師の願文に「淨佛國土(仏国土を浄め…)」の言葉があるし、日蓮系宗派でも霊山浄土の名を現世・娑婆に用いている。しかし、浄土教の人は他力本願に任せたてまつって来世の往生を期していれば、それで現世も安穏だというスタンスが大事であり、己心のことは「不実・邪義」となる。

ところで、なぜ阿弥陀仏が三身説でいう「報身」に当たるとされるか?普通に成道した諸仏の一端であろう阿弥陀仏が「応身としての釈尊」の根源となる報身である、という教説は、道綽・善導らの解釈に基づく浄土教に有るのみならず台密などにも有る。報身ということがしばしば「無量寿仏」という表現に関連付けられる。「無量寿"amitāyus"」は、とある学者がプラークリットなどの音韻理解に基づき、インド北部・中央アジアで"Amitābha (光の元はbhā)"の音が訛り、サンスクリットに捉え直す過程で"amita-āyus (無量・寿命) = Amitāyus"とされたことを起源とし、その後から「無量の寿命」の教説が阿弥陀経に加わったとする(他は不死を意味する"Amṛta・アムリタ"が例としてパーリ語で"Amata・アマタ"であるようにサンスクリット"Amita"を"Amṛta"の訛った言葉と捉えて不死の仏であるという誤認識がインド近辺で広まったなどの見解もあろうか・ちなみにmṛtaの語根は英語"mortal, murder"と印欧語根に於いて同語源)。実際に初期の漢訳の大阿弥陀経や平等覚経で「阿弥陀仏其の然して後に至りて般泥洹したまわば、 其の廅楼亘(観音・アヴァローキタスヴァラ・アヴァローキテーシュヴァラ)菩薩便ち当に作仏して…」とある部分にも明らかに、阿弥陀仏は般泥洹=涅槃することが説かれる。羅什訳・阿弥陀経にはすでに寿命の意義でも「阿弥陀」の由緒を説いているが、本来の阿弥陀仏は「有始有終の迹仏」である。法華経の如来寿量品にある「説仏寿無量ないし寿命無数劫(梵語で後者は"āyuśca me dīrghamanantakalpaṃ")」は応身の仏の寿命を指した言葉ではないから、実際に応身としての釈尊は御誕生から80年ほどで入滅せられている。阿弥陀仏の無量寿とは、けだし応身としての身でさえ無量劫であるとか長い時間に渡ることを指していようから、意義は大いに異なっている。 ※先の"vyūha"と現代に梵語本で伝わる部分を「浄」と訳した人物に竺法護がいる。例として"śubhavyūha (羅什さんは妙荘厳、厳浄などと訳す)"を「浄復浄」と訳している。その竺法護さんの正法華経には「無量寿超度因縁如来(往古品=化城喩品)」や「無量寿仏(薬王菩薩品=薬王菩薩本事品)」が登場している。私が参照する梵語本に"bhikṣavo'mitāyuśca (bhikṣavaḥとamitāyuścaが短縮した)"や"bhagavānamitāyustathāgato'rhan"と、アミターユスに相当する単語が見えるが、これも同じプロセスで原語が変化したものか?

もしも「この世の外側・彼岸の国土に阿弥陀仏がいらっしゃる」という教義を否定し得ない浄土教で、阿弥陀仏が釈尊の根源であると信じるならば、キリスト教の三位一体と同じ教義になる。ヤハウェの神童たるイエス・キリストと、阿弥陀如来の応現である釈迦如来とは、教義において色違いでしかなく、信仰の骨格は同じとなる。キリスト教では一応、「己心の神の王国」を説いていることを先に示したし、一神教の神・ヤハウェも内証が「非有非無・真如実相」であるかもしれないが、それを証明する根拠も無く、大概の信者・教団が実体的なものを想定していようから、信仰においては浄土教と同じ「他界・彼岸」への信仰である。そのような「仏教版・三位一体」信仰では、仏教の三身説において阿弥陀報身が成立するように思えない。清浄萌土抄のような萌報身・報土・依正不二というように、心を外形的に譬えたものでなければ、法華経(根拠は世親法華論と天台法華文句など)・華厳経・真言密教などに見る三身観とは背反する。法華経の久遠実成釈迦如来という「応身としての釈尊の根源・内証」を、わざわざ経典に直截根拠の無い「報身の阿弥陀仏・真如の阿弥陀仏(?)」に置き換える必要も無いと思われる。経典どおりに読めば、阿弥陀仏は応身である。世自在王仏の国土に人間として生まれて国王→出家して比丘→菩薩を経て世自在王仏の滅後に成道した諸仏の一端であり、東方善徳仏・阿閦如来のように娑婆の外で一国土を有している。法華経の意義から読み直せば、釈尊が方便として説いた分身の一仏であり、応身の釈尊も阿弥陀仏も余仏も、それらの内証は「久遠実成釈迦如来・妙法」である。ただし阿弥陀仏を信仰する人は、それらの内証を「報身・法身としての阿弥陀如来」であると定義し、そう唱えていようか。この際、何でもよい。戯論寂滅である。浅学の私だが、このように考えたことを記して留める。鈍根・無慈悲の私ときたら、五劫思惟ばかりか五分間の思惟もならないものである。



勧進養萌頌・・・2017年8月24日に之を詠む(十首ほど)
荊棘獄中に処する韋提希の如き諸士に衆萌利益を勧める歌 (対機説法の一種)

色々と閉塞感や厭世観や憂慮が強まった心情がある。鎌倉時代に流布していた末法時代の説(如来滅後五五百歳)を現代に導入し、なおかつ他力往生の浄土教と正反対の立場で詠んだ。萌頌偈「芽は汎く萌え亦た溟き處にも出づ」という通り、酷烈な状況の者に同情しつつ、心の愛憎といった想念を滅ぼして一応の涅槃を体験してもらいたく説く。



如來滅後五五百歳中勸進養萌頌 (にょらいめつご・ごごひゃくさいちゅう・かんじんようみょうじゅ)

【讃】和讃21首

理の勝れたる維摩經 きよき佛土も心のみ
きよき心に應ずるは きよき衆生と說きたまふ
大集經にのたまはく 五の五百年に入りぬれば
鬪諍言訟(つじゃうごんじゅ)に法隱る 當世は已に之を過ぐ》
滅後末世の衆生には 端身直心そなはらじ
みづから作すも成るは無し 名字佛界見え難し

さて今までは賢しらに 人のよしみを窺へど
邪智諂曲の罪深き 惡人のみぞ來たりける
去來を思ひて悲喜も起く 來たるも去るも空ぞかし
不來不去とて醒めぬれば 涙(なんだ)も甘露と變はらずや

憂き世の恃み盡きぬれば 智者みな已に厭離しぬ
聞法一善まことなり 大地たしかに身を支ふ
五濁惡世に身を受けて 穢き泥にまみれなむ
佛日法雨(ぶつにちほふ)の妙用は 微泥(みに)を淨土と轉ずらむ

淨むべきかな我が心 殻なる人を拂ひ捨つ
衆萌を救ひ養へば 淸淨萌土の成るを得む
うらぐはしきか彼岸花(和: あのよはな) 夕べに遠く見ゆるとも
今は萌土(和: こちら)に香り立つ 風のまにゝゝ覺りの香(掛詞: 果・音訓違い)
思へば虛空(そら)の青かるに 苦惱の五蓋上(かみ)渡る
萌土壞(やぶ)るゝ大禍なり これを除けと佛宣(の)る

忘るべからず萌えの色 衆萌の相を能く知りて
數息(しゅそく)の如く憶念す 奢摩多によりて荒れざらむ
萌土の園を彩らば 微細(みさい)に相を觀ずべし
婬病(いむびゃう)須臾に除こりぬ 毘婆舎那にして利益せむ

注釈: 一身を多身に・多身を一身に作す"nirmāti"という神変・神足・神通力を心の世界で発揮する。神通力は禅定の徳による。この奢摩多=止の瞑想では、萌相の顔貌を想像し、微細に輪郭・眼・耳・髪型、上半身・下半身・服装などを想像して一身を作り、そのように同じ姿でも異なる姿でも多くの萌相を忘れずにイメージすることを求める。毘婆舎那=観の瞑想では慈悲に基づき、衆萌もとい衆生の病が無ければ我が病も無い(維摩居士の言葉)かのように衆萌の病を察知して我が病を無くそうとすることを求める。「我が病」とは、畢竟、科学的妄想概念や自己の精神の煩いであり、萌相のイメージを阻害する=衆萌の生長を妨げるものであるから、衆萌の病を知ることは自己の迷妄や苦悩を自覚し、衆萌の治療=思考や精神から「病」を排除することに先立つ。それは止の瞑想に準じているかもしれないが、他にも、心の衆萌より我が心身を観じてゆき、身受心法の観察の果報を得て無我を実感する・悟りを志向するように、様々な観想を行えばよい。

萌土の大樹ますぐにて 餘の草木もますぐなり
早く人にも見せばやと 求むべからず留まれよ
世に歸りては何かせむ 萌朋すでに得らるまじ
人說かるゝも信受せじ 萌類よそより生(お)ふは無し

菩薩の敎を受くるとも 惡世に染著せられたり
我が身の咎と悔ゆれども 蓮華の如しと成るを得ず
不輕菩薩は蓮華なり むね少なきに衆を度しぬ
萌長枯(みゃうじゃうこ=成住壞)にも穢れ無し 彼も萌土に應じたり

言語の業(わざ)は化他の道 利他を行ずるやうなれど
實にみづから利(かが)を受く 衆萌またゝゝ生長す
智慧慈悲加行勇猛(いうみゃう)の 現ぜられたる力用は
多彩なれども皆な等し 種種の花華(はなばな)開き滿つ
種ゑて植ゑたりさかせたり 華の莊嚴(よそほひ)虛空の橋
菩薩も華を雨らせたり 無數(むしゅ)の花葉(はなば)に偈を書きつ

法華涅槃の捃拾(くんじふ)も 萌土の園にて行はむ
善の菓(このみ)を蓄へて めぶきの春を望むなり
夕を明かさば日は出でむ 冬を越ゆれば芽は出でむ
うづたかき雪その下に 春の萌兆(きざし)を夙に知る

一萌尊ましまして、實には身の相好けれども、時に衆は之を軽んず。更に内證を知る可き者無し。彼、末法にましませば、方便ありて此の行を爲し、衆萌を成就しぬ。萌土の衆萌の枯れざれば、豈に恐るゝ所あらんや。菩薩の道を行かんと發心して、後に弟子衆を得。時に萌尊の名聲聞こゆるも、彼に慢心無し。還って言く「我が心は知る可きこと難きなり。推求せよ、眞如法中に於いて眼無し・口無し・耳無しと。是を以て覺者の像は作し難し。諸の如來は慈悲方便の故に色相莊嚴を作せども、無相の如し。我が道に於いて何ん。顏の影を作るとも、空なる哉。一切萌尊の内證は一なりと雖も、時と國との異なれば方便一ならず。當に知るべし、我が弟子よ、我が相好の像を作さざれ。毛髮(まうほつ)許(ばか)りの如くも之を想はば、自ら慢あるべし。但し宜しきに隨ひて顏の空なるは之を聽(ゆる)す」と。




萌集記 (ミヤウジフキ、みょうじっき moya-saṃgraha)
過去記事「萌え話」において未集・未収録の話を、当記事で載せる。これに際して新しく絵が載る。以下からの「街の女人篇」は、2016年11月ごろに起草されたものであるが、長らく篇名を持っていなかった。2016年10月1日に起草された「長篇>イデオフォノトピア遊行の事(過去記事「萌え話」所収)」も2018年7月まで同様であった。様々な萌え話は、徐々に整理・区分されてゆくことになる。

萌集記 萌え moe religion literature moya samgraha
2016年7月30日に描かれた絵…萌えの典籍よりも先に絵があり、後に街女人の外見として指定される。

街の女人篇 (まちのにょにん・へん catuṣpatha-saṃyukta; siṃhāṭaka)

遭遇邂逅の事 (そうぐげぐ・のこと 2018年7月21日現在も街女人が拾主に声を掛けられた経緯は不明。一時期の毎日に拾主と尊者が何らかの街中で滞在するようになった際、拾主が「多くの日の同じ時間帯=平日夕方にこの街の同じ通りを行く者がいる」と推量したか、神通力で知って街女人をマークしていたのではないかと思われる。そして初対面で街女人は拾主を断り、拾主は素直に身を引くようだが実際は別の時に再び街女人へ姿を現すことを期していた)

 拾主さまは色々な人々(四衆)に法を説かんと遊行せられており、その傍らには常に尊者が侍っている。人に何を説くべきかは、その人の度すべき所の境界(きょうがい)に随っている。種々に説いてゆく調子は柔軟である。ただ「人々の知らない四諦の理」に適っていることは一貫している。すなわち、苦の認識(苦諦)と苦の因縁(集諦)と苦の解決(滅諦)の手段(道諦)とを徐々に分別・理解してもらって実践の意思を養う、という点(四諦)がいついかなる時にいかなる人へ説いても共通することとなる。初めの段階で嫌われることのないよう、徐々に徐々にと。よって、まず何をどう説くべきかは相手の境界を判断することで自ずと決まる。どう相手の境界を判断するか?状況にもよるが「拾主のみぞ知る」。

 「近寄らないでもらえます!? ベー 宗教なんてお断りです! 時間がありませんのでどうかお引き取りを」 拾主「それでは仕方がない、結構であった」

※街女人についてのメモ事項 真面目 抑圧されて育った 厳格な家柄だが今は単身(剣道を習っていたとか武道設定もアリ?護身術も) 少食 単独行動多い(カフェで憩いの時間を過ごそうとすると見知らぬ男性がしゃべりかけてくるので敬遠する・バーは警戒対象であり酒も苦手なので行かない・帰路のコンビニで同じ品に手を伸ばして買う習性がある・ファストフードの味を好む属性もアリか?お持ち帰りならハンバーガー店も牛丼店も可に) 事務系(もしくは銀行員か保険会社社員・職場でのみ髪をまとめている?) 抱え込むタイプ プライド高い系 フェミ・フィメール意識高い系 宗教嫌いで社会人を自負している 過度な肉体労働を軽蔑する反面、労務に従事しないと誰でも人間性が保たれないという当人なりの哲学を持っている(世間の労働を放擲した怠惰だとされる人々を見てそう演繹したか) 経済性を重視するが富に関して貪欲でない 小賢しい現代的合理主義者 度し難そうだが根は弱いので・・・(上手く懐柔して徐々にほぐす)

※街女人に色々なホンネをきいてみた。これらは質問が直接されるよりも街女人の日常的な思考の一部分に質問文を付加してQ&A形式に見立てたものとして読めば自然である。一応はQもAもほとんど敬語であり、Aに敬語でない部分があれば、それは日常的な思考の中の言語表現としてあるものと理解できる。「Q. お静かな印象ですがオフの時って何してます? A. 外で買い物や用事がある以外はほとんど家で過ごしています」「Q. ご趣味は? A. ありません」「Q. いや、でもオフにオヒマありますよね?何かなさってます? A. 職務に関する考え事や確認があります。遊びならクロスワードや数独やジグソーパズルですかね」「Q. 平和に散歩したりとか似合いますよ? A. たまにしますが」「Q. 文学などに興味ない? A. 人の営みが生々しくて好きじゃありませんし、見ようと思いません」「Q. 結婚をお考えです? A. 臭いものには蓋かしら」「Q. 街中で子供とか見て憧れません? A. 一目見ると子供という存在に『なりたい・かえりたい憧れ』は少しありますが、身近に関わりたいという意味で憧れません」

 こんな彼女でも拾主さまに従う幼い姿(?)の尊者に心残りを感じたらしい。初めて見る相手、それが子供というだけで、彼女は強く思いやっていた。「何か、悪いことを教え込まれていないかしら」と、傍観者的な冷笑ではなく、自分の事のように憂慮していた。拾主さまは、「本当は彼女にも心優しい一面(ツンデレ?)が有るのであるから、その自覚しづらい一面*1を教えてあげなくてはならない」という使命に奮い立つ。尊者は、彼女の拾主さまに対する敵対心や抵抗感、何となく感じ取られた誤解(?)などを和らげ解いてあげたいと案じた。
 拾主さまも尊者も、「相手は同じ人間であるからいつかはきっと理解してくれる」と確信しており、相手もまた「同じ人間ならばこっちの感情に配慮して退いてくれる」と忌避している場合、根競べになる。話を聞いてくれない相手には退くことも手段となるけれども、仏様の御智慧におかれては三世に渡って教化する視野がある。そのように、久遠の時を見通すので、本物の慈悲と教法がきっといつかは相手に受け入れられると確信している。法華経には、常不軽菩薩が色々な人に成仏の教えを説き、聞かせた相手から嫌がられて攻撃されてしまい、彼らが悪業を生む原因を作ってしまったけど、その教えを仮にも聞かせていたので、死後に無間地獄に落ちて千劫の苦しみを受けて贖罪してから、常不軽菩薩の後身である釈尊に再会して現世に法華経を聞き直すことになったという話がある*2。確信がある人の行動は、目先に利益があっても損失があっても、(常識的な時間を超えて)結果的には望み通りになる、との信念に支えられている。もちろん、ただ来世に期待するのみでいるわけではなく、今の行動ありきで来世を期待するという立場*3にある(自力他力の不二・現当二世の不二)。

 彼女は、拾主さまに反発を起こした日から、日々の様々な場面で悪い出来事が重なり、心が苦しくなっていってしまい、ある時、悪いアレな集団に絡まれて・・・ 想像・文字・絵というフィクション世界なので、應に往いて「拾主さまのスーパーな力(酔った象を調伏した釈尊のような威力)」を発揮すべき時だ!彼女の苦しみの経緯が、心身でむりやり苦の四諦を知らせる方便そのものかもしれない、 最後は言葉で教えてあげられれば、もうメロメロだと思う。

 拾主のおっしゃったこと「あなたは最近、様々な場面で苦しい思いをしたことでしょうが、真理を半ば具現化した人である私を誹謗した当初から苦しみの海に沈んでいました。今、苦しみを覚えて、もがきはじめたところを大慈悲のお方が手を差し伸べたということです。いいや最初から手が差し伸べられていたはずです。目覚めた今、拒まずにその手を取りなさい。いわゆる千手観音の仏像には手の数が千もありませんが、観音などの菩薩は真実において千どころか万でも足らない、無数の手を持っています。大慈悲があるからです。千手観音の持つ千の手とは、苦しみの海に没している千人万人億人無数諸人に救いの手を差し伸べる慈悲を意味します。どうしても肉体の手は2つあるのみですが、私は全身全霊に実際のこととして行おうとするだけです」
 この出来事は悟りへの第一ステップとなり、いよいよ信心が起こるものであろう。 彼女いわく「某ム*4みたいな独善性と無恥さが強められないように私が監視するだけです!から…」

 【歌】「おのづから このはのさわぐ よとやいはむ(や+い連声為一*5) ひとゝきばかり ゆるゝさゝかな (自のづから 木の葉の騒ぐ 夜とや謂はむ 一時許り 搖るゝ笹かな)」

*1…「自覚しづらい一面」とは、街女人が忙しくも退屈な日々において忘れがちになっている、人類愛のようなものである。世間の「愛"love"」という言葉は情緒的に用いられて多義的である。ここでは最も現世的な「この目で見た(感官で知覚した)他人を自己のように思いやる愛"loving-kindness"」である。大智度論でいう「衆生縁の慈悲(三縁慈悲の一)」に近い。現世的な愛は無常であり、現世という時と場において生じた愛でしかない。拾主は街女人の遭遇邂逅(そうぐげぐ)における街女人の心を神通力によって読み、街女人のその「愛」を識った。現世的な愛は対立概念に「憎(ぞう・にくしみ)"hatred, disgust"」を持つが、愛憎として一括りにした際の対立概念は「無愛無憎(世間では愛の対義語が無関心だという、その解釈も可能)」となる。現世的な愛は二面性が有るので愛憎と呼ぶべきである。愛憎は貪瞋(欲望・憤怒)"Skt: rāga-dveṣa"であり、これを現世に生きる人間の誰しもが具えているので、街女人に限らず、全人類共通の問題とみなすべきであるが、それはいずれ萌えの典籍を読むうちに啓かれよう。筆者も読者も、共に愛憎の二面性に関する「苦」を克服すべき者である。
*2…妙法蓮華経・常不軽菩薩品"saddharmapuṇḍarīka-sūtra, sadāparibhūta-parivarta"における、日本の仏教諸宗派などで重んじられた話。「私は常にあなたたちを軽んじない!あなたたちは仏に成れる」と他人に語って礼拝を続ける者が、当の他人から「この者は我々を軽んじている」と思われてしまい、彼が他人たちから軽んじられるが、彼は「威音王仏の法華経」を聞いて寿命を延ばし、地獄で苦しんだ他人たちを教化して他人たちから軽んじられなくなる。最終的に彼は現世の釈迦牟尼仏として・他人たちは仏の弟子として、生まれ変わる。これは梵語の名"sadāparibhūta"について、連声・連音・サンディ中の否定辞a-の有無や、過去分詞の能動・受動の用法をどう把握するかによって 「常軽or常不軽or常被軽or常不被軽」いずれにも解釈できるという掛け合わせが含まれる(常不軽菩薩の名は鳩摩羅什三蔵の訳によるが竺法護三蔵は常被軽慢大士と訳した)。
*3…ただし、自爆テロなどの宗教的暴力行為で神の救いを求めることはこの限りでない。宗教的暴力の実行者がどのような冥途を行くかは推断できないが、大概の仏教徒は五戒(特に不殺生戒)に随い、自爆テロなどの宗教的暴力を行うべきでない。世間の倫理観が馴染んだ人の内的な相対性により、たとえ信仰に基づいた行為でも人殺し行為をしようと思って行われるならば彼自身の重い悪業となる。その実行者が悔いても悔いる間もなく即死しても悪業となる。他者への布教として行っても非道徳的な行為は悪業となる。ただし、大慈悲・無所畏の如来や菩薩は別の話である。「拾主」は、何者であろうか?
*4…記述上は宗教の名称を「某ム」と伏せてある。実際に街女人が現代日本の価値観で挙げた宗教の名称(当人の知識が浅いので漠然としている)は、イスラ教(特に過激派を念頭に置く・一斑全豹の可能性もある)やオウ真理教である。このあたりは現代人の大半が肯定しようか。
*5…万葉集でもおなじみの和歌における、句中二重母音の同一化、句中重複母音の単音化、句中2モーラ母音の1モーラ化である。このサンディ・エリジオン的な音韻変化の現象自体は言語学的に"apocope; apocopic form"ともいう(フランス語 l' や d' が好例か)。万葉集・巻一(全体ページ)より例を挙げると、第6首第3句(ぬるよおちす 寐<夜>不落)や第7首第5句(かりほしおもほゆ 借五百礒所念)にこれが現れる。しかし、柔軟にそうしない場合も有ることが第4首第2句(うちのおほのに 内乃大野尓)や第6首第4句(いへなるいもを 家在妹乎)に見られる。この現象を江戸時代の「字音仮字用格」という書も「歌に五もじ七もじの句を一もじ餘して六もじ八もじによむことある、是れ必中に右のアイウオの音のある句に限れること也。古今集より金葉詞花集などまでは此格にはづれたる歌は見えず。 自然のことなる故なり(萬葉以往の歌もよく見れば此格也)」と同様に示す。その柔軟さは、古代インドの詩(リグ・ヴェーダやパーリ仏典など)にも現れる(音節数合わせや軽重音節=韻律合わせで「サンディ・連音」をする・しない等)。



説法十箇の事 (せっぽうじっか・のこと 2018年7月21日現在は7つ)

(一) 思考と論理について人の反応を考察する
 「理性で心を動かし、または衝動に心が動かされ、あれこれと考えを巡らせることを、一旦止めてみてもよい。『留まることの修行』である。先んじて、心の動きを自覚する必要がある。また、余事に振り回されず、修行が絶え間なく続けられることは、清らかな流れのようである。溜まった水は渇いたり腐ったりするが、常にどこからともなく水が流され続けていれば清らかでいられる」
 「あなた、『留まることの修行』を賛美しながら、水は溜めたまま・留めたままではいけないの?溜まった水の保存条件はどういうもので、流れる水が渇かない根拠は何?」
 「比喩表現を気にしてはならない。私が言い訳するならば、留まることの修行を留まらずに滞りなく続けようとすることを、全く別の事象である流れる水や溜まった水に譬えている。"留まる"という同音同義語も立場が変われば全く別の存在となる。言葉はどんな時も『100%の同一性』はない。たまたま1~99%ほどの重複があるに過ぎない。また、執着を離れるという教えのためにも、そんなたとえ話が必要である」
 「(後半の質問には答えないのね、ああ言っているしまあ放っておこう)面倒な思考になりそうね」
 「面倒と思う人(世人)には面倒であり、楽しいと思う人(声聞)には楽しいものであろう。気にならない人(辟支仏)は気にならないだけであろう。人に教えたいために言おうとする人(菩薩)は人に教えたい思いで躊躇わずに考えられる。あなたはどのような人でいられるか、意識の片隅で日々、気にかける努力が必要になる」
 「(・・・)」
 「もっと面倒な道理を言ってやろう。その教えを受ける人もまた『面倒な話』を嫌わない姿勢でいなければ、せっかく教えても『教えたという行為』が成立しない。彼と我との辛い関係性である。こういった面倒な道理を覚った人こそが面倒な思いを生じなくなる。一生は閃光の如く儚くて短いはずであるのに、その一生のうちは常に絶え間なく光と音が飛び交って已まないでいる。想っても想うに非ずして想わざるに非ず。面倒にして面倒に非ず」



(二) 拾主から彼女へ、心に潜む悪を能く自ら照らして善に変える説法
 「自信過剰で熱心な人を見て、冷笑しながら敬遠する、小賢しい一類の人が現代に多くいる。いわく『きもい、笑える、なに熱くなってんだ』と。その彼らこそ、自身に対する非難を恐れている傾向が強い。自信過剰で熱心な人も、それを冷笑する人も、本当はみんな同じように自信を持つ人々である。ただそれに気づかないだけである。仏教では、そういった自信や自我の意識の作用があることを如実に観察し、大乗仏教では"末那識"と呼んでいる。いわゆる八識や九識や十識という教義における"第七の識"に当たるものである。『"末那識"という機能が脳にある・相当する部位が脳内にある』とは思わないでほしい*1。作用を観察した結果、概念化し、"末那識"と仮に名称を付したのみである。"末那識"は身体のどこかにあるものでない。仏教は、熱心な人や冷笑する人など全ての人に潜在する盲目的な自信や自我意識を観察したから、その自我意識という"末那識"を克服してゆく修行を立てている。その修行には、よく自覚された自信がまた、必要である。物事のプロセスを、私は、しばしば『打ち上げロケットとその燃料タンク』に譬える。自信無くして修行は成り立たない。自信や自我の意識などの心を持たない人が修行する意味も無く、それらが有るからこそ修行の価値*2もある。自信や自我の意識に善悪があることを理解・自覚しておくことは『願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ 』*3の姿勢となる」
 「え?なになに難しい?展開が早い?分かるように話してほしい?略説経典のノリだから、これでも聴聞者(対告衆)がすんなりと理解できたりする。経典の世界では、ご都合主義的に聴聞者が良い質問をしたり、説法を領解するからね。詳細なバージョンは別で。ハイあなたは理解できた!」

*1…仏教で意図されたものとして、そのように必要な範疇の定義がある。八識という教義は大乗仏教の瑜伽行派"Yogācāra"・唯識派に端を発するとして知られる。「瑜伽師地論"Yogācārabhūmi-Śāstra"」、「唯識三十論頌"triṃśikāvijñapti-kārikā"」などの文献が代表的。八つ挙げられるうちの末那識"manas"や阿頼耶識"ālayavijñāna"などを、神経学によせて脳(詳細にはブロードマンの脳地図)や神経で説明することは、補足的である。定義には用いられず、余分である。一部の大衆的な仏教学者・文化研究者が科学気どりでそう説明することは、それ自体は何も仏教教義の説明でないという点に注意されたい。また、科学にとっても仏教の概念で定義できるものは今のところ無い。もし何かしらの科学分野で新しい名称が必要ならば、決定の際に仏教にあやかることは可能であろう。
*2…例は四諦。すなわち苦諦・集諦・滅諦・道諦が意味する通り。
*3…漢文で「願作心師不師於心」。「大般涅槃經 (曇無讖の訳。大正蔵0374 V. 12 p. 533下段)」を参照。筆者過去記事では日本で有名なフレーズとして説明したことがある(過去記事:2016年7月10日)。



(三) 拾主から彼女へ、宗教への偏見が薄まったところで根絶する言葉、世法即仏法
 「宗教を行わない、もとい宗教団体に入って宗教的な努力や団体への寄付などをするよりも、世間的な努力の方が優れている・勝者である・価値がある、と考える人は多い。あなたもそうだろう?ましてや、元々宗教団体に所属して不幸な思いをしたというコンプレックスの強い人が、他者にそう言い放つことがある。実を言えば、それは自身の中にある許しがたい自己を駆逐すべく発している。『"失敗経験"をした"負け犬"としての自分』を素直に認められないので、自ら潰そうと、自らいじめている。まことに悲しむべきである。私は宗教団体に所属した経験の無い者だから、彼らに同情しきれないが、とりあえず世間的な努力を望む人には、それについてエールを送りたい。更に言いたいことは何か?輝ける人生とは、『宗教に所属しているか』などでくくられるべきではない。宗教団体に所属したり、その関係を持つ者は、政界や経済界にもゴロゴロいて、陰謀論も多くささやかれるほどである。逆に、一部の人が思うような社会的弱者とされる人もいくらかいるだろうが、そのように富裕層・貧困層のそれぞれを共に抱えて調和があるものであるし、また、無宗教の人にも無宗教としての強者とか弱者とかがいる。これは社会的・世俗的な基準における平等な知見である。この基準で如実に見ることはこの通りである。究極は仏法にも通じる」
 「答えは、宗教所属者だから強者だとか弱者だとか、無宗教だから強者だとか弱者だとか、そういった傾向を見出そうとすべきでない。宗教所属の有無や、どの宗教に所属しているかは、今の自分と身近な他者と、関係する他者まで把握し、その中でどのように自己の向上につなげられるかを模索する材料として用いるまでに留め、それ以上の邪推を用いるべきでない。『その宗教に所属している』という因子が、成功の種か?失敗の種か?成功・失敗という妄想の種も、現実的な命運の左右も、宗教の所属・無所属が唯一絶対の因子とはならない。因果の顛倒である。真実の姿として、どの人の心も人の生涯も、そういった妄想に縛られていない。妄想の中で妄想が成立したり実現するのみである。『転んだまま起き上がらない人がいる』と他人を見る者もいるが、その見方は不爾不然である。それは最初から転んだままである。誰かが一たび転んだことによってその者が再び立ち上がれないことを決めつけるべきでないように、一つの物事に囚われて自ら恣意的に全てを一色で染めあげてはならない」
 「キリスト教の聖職者らが現代ヒューマニズム・リベラルな立場で『あなたのまま輝きなさい』などとお説教をくださることもあり、人権・人道・民主主義の世の中では広く賛同を得ている。私は、あらゆる宗教の人の真理と信念を尊重するし、対して世俗的な努力と幸福とを旨とする『順世教(路伽耶陀・無神論者)個人主義派』の人々の真理と信念を尊重することもできる。だが、みなが今のまま自由でよかろうか?宗教と世俗とを脱却して包括して超越した立場(中道)を願う道心のある人々には、仏の如き平等・如実の知見を得てもらいたく、仏道を勧める。尊重云々の心も、仏法のおかげさまだと自覚するから、他者に勧めようと望む」



(四) 容器の砂と天秤、概念と二項対立、外は限りなく広いが、外も内もない
 「あなたが女性の優れた点を挙げても、一辺のことである。同じように一面的な主張を好む人が、それを聞くと反発して女性の劣った点や男性の優れた点を連想することであろう。諸々の優劣論争も、絶対強者や"0% : 100%"は論争の範疇に存在しない。論争の範疇を超えても存在しない。例えば砂漠から砂を2つの容器に取り入れ、天秤を片方へ完全に傾けさせた方の『容器の砂』が、世界のどの砂の集まり(砂漠・海底の沙など)よりも絶対的に多いという道理はない。天秤という基準で計量した結果に軽重の区別があるにすぎない。天秤は人間が作ったろう。『容器の砂』も人間が容器に砂を入れる行為の結果であろう。男女の優劣も、先天性や後天性という科学・社会など人間の価値判断の範疇に語られるものであり、その狭隘な思索に固執する賢者がいるであろうか?仏法の義に、男女の区別は『粗末な・粗雑な法(麁法、くだけた表現)』と説く。解脱の性の男女差別(だんじょさべつ・なんにょしゃべつ)も同じ範疇で説かれたが、龍樹菩薩が再び示した要法は世間と如来の相即である。不生不滅は涅槃であるともいうから、大乗では生死即涅槃を説く。悟った人々は、人間・動物・植物・無機物などみな真如であって『中道に非ざるは無し』である。この第一義において男女の区別があるはずは無い。もし自分が女性であるとか男性であるという自負が世俗(会話での仮定)でのみ通用することを知れば、直ちに男女の区別を止めることにより、自身が優れているか劣っているかという見解を支えないようにせよ。私は、その境地にいる人を『真に優れた人』と認める。私が認めることをやめれば、誰も優れていないし劣ってもいない」
 「ほかの例として兄弟などが挙げられる。兄弟の優劣とは、自身が兄であるとか弟であるという自負によって気になるものである。かの世親菩薩を大乗の論師たらしめた要因は、兄の無著菩薩にも有ろうし世親自身の努力にも有ろう*1。かの修利槃特尊者を解脱せしめた要因は、兄の摩訶槃特尊者に有ると言えないが修利槃特自身にも有ると言えないようなものである*2。実際は彼らの素質・努力、彼らに関わった人たちの正負の影響、全てを加味しても、原因と断定できない。それでは教主釈尊の力用-ゴッドハンド-が、かの人々を救ったのか?私たちが勝手に原因を想定したり、兄弟の関係性や優劣を判断するのみである。みな大事な存在であり、優れているし劣っている面もある、兄でも弟でも姉でも妹でも一人っ子でも、男でも女でも、その概念による障礙は無い*3。仏教徒は、みなその身のうちに現世利益や解脱があると信じ、ただ道を行くべきである」
【讃】「諍ひありて応ふるは いかにぞ同じくならんずる 若芽の独り尊きに 萌えてまします斯ヽるべし」 「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ」*4

*1…関連する伝承として「大唐西域記 (玄奘の撰。大正蔵2087, 51巻896頁c段)」を参照。筆者過去記事では公式2017年4月25日記事に解説がある。「世親・天親.・婆薮槃豆 (せしん・てんしん・てんじん・ばすばんず・ヴァスバンドゥ"Vasubandhu")」。
*2…関連する伝承として「増一阿含経・巻第十一・善知識品12経(僧伽提婆の訳。大正蔵0125, 02巻601頁a段)」、「パーリ経蔵・小部・テーラガーター557-566」を参照。筆者過去記事ではメモ帳2017年1月25日投稿記事に解説がある。「周利槃特(しゅりはんどく・チューダパンタカ・チューラパンタカ"Skt: Cūḍapanthaka Pali: Cūḷapanthaka")」。
*3…ここまで兄弟を例示しているので、改めて男女もとい女男に関して経典の説を参照する。釈尊の弟子である比丘尼のうちには、「女性は智慧"paññā"が少なく、聖者"isi"の状態を得ることはできない」という魔"māra"の説に対して「女性であること"itthibhāva"が何か?心がよく和らいで智慧が起きている時、誰でも正法を観ずる。『私は女だ』とか『男だ』とか他にも『何々だ』と思うような人へあなたが説くに値する」と反駁する者がいる。これは「ソーマー"Somā"・蘇摩比丘尼(すまびくに)」と伝えられる。パーリ経蔵では「相応部5.2経」、「小部・テーリーガーター3.8」参照。漢訳仏典では「雑阿含経・巻第四十五・1199経(求那跋陀羅の訳。大正蔵0099, 02巻326頁a段)」がある。萌集記の次の話の背景には、"itthibhāva"という語句のサンスクリット語形に当たる"strībhāva"という語句の大乗経典・維摩経での用法がある(付加された題に私の解説ページのリンク)。
*4…過去萌尊の誦えに同じ。パラレル。



(五) 女性(ストリーバーヴァ strībhāva)に関する後日談・・・男性でも同じこと
 「女性とは何か?顔が女性らしいと女性か?しかし、女性らしい顔とは各々が後天的な経験から価値判断するものである。では髪が長いと女性か?しかし、女性同士でも坊主頭・短髪・腰ほどの長髪・直立で地面に着く長髪など多種ある。声の特徴などを対象にしても同様である。なおかつ、それらの話は男性も同様である*1。では子供を産む者が女性か?しかし、その者が産む瞬間を誰もが見られるわけでないし、初潮の来ない幼女も適齢期を過ぎた老女も、女性は女性であるといわれる。では股間の状態を確認してこそ女性と決定するか?しかし、我々が逐一性器を観る必要はない。腹部の切開かレントゲン写真撮影などで子宮の有無を確認するか?または性ホルモンや染色体を分析するか?そこまでこだわる必要は無かろう。さて、これらの判断基準の『中ぐらい』で女性認定が可能だといえるか?しかし、『中ぐらい』では確定的判断基準とならず、畢竟、主観的判断であるのみだ。このように全ての判断基準を以てしても女性を女性だと証明できないが、女性を女性だと世間では当たり前のように決め、誰も疑わない。男性に対しても同様である。性別の違いについて、このような疑問を持つことを狂人と世間がみなすようでもある」*2
 「さて、一つ過去世の話をしよう。遠い彼方の世界に、ある医者(執刀医)がいた。彼は、その時代において女性の肉体を解剖して去勢する習慣、割礼の実行者であった。その世界その時代は麻酔などの科学技術*3・医療が進んでいたが倫理性についてはいまいちでおり、その習慣が何らかの地域で行われていた。親(保護者)の意向で、幼い少女が眠らされて彼の施術を受けていた。自ら求める成人女性も彼の施術を受けていた。ある2歳の女児もまた、眠らされ、部分麻酔によって痛みを得ない状態で、知らぬ間に去勢の手術を受けることになった。この女児は成長の過程で自己の身体に違和感を持ちながらも、親からは『みなそんなものだ』と言われて有耶無耶にされていた。彼女が14の年に、見慣れない小さなアルバムを家で見かけた。そこには、女児が知らない『かの医者』と両親らしい影の写った写真があり、見続けると、腹部の開かれた幼い子供・・・髪型で女児のようだと思い、次の瞬間は摘出された子宮・卵巣と思しきものの写った写真が目に入った。14歳となった女児・今の彼女にとって半信半疑ではあったが、自己の肉体の違和感と符合した。いわゆる女性ホルモンの分泌も減るであろうから、彼女は半生において自他ともに自身を女性と認識しながら、他者への言動を客観視すると女性らしくないという違和感もあったようである。写真から事実を推理した彼女は、自分が『女性としては抜け殻』だと感じてしまった。いわゆる魂が無いような、我(アートマン)が無いような気持ちであろう。虚無的に退廃的になりかけた彼女だが、しかし、今までの半生で女性らしからぬ我が言動が特段の災禍を生じはしなかったし、将来を案じてもそれこそ空虚に思った。過去・未来に自己の性質(スヴァバーヴァ)*4が有ろうと無かろうと現在でさえなお空虚である。女性だという自負も元々無いようであった彼女は、快活さを取り戻した。悟りの一類である。しかし、その世界のその時代には、なまじ女性という自負が強かったり将来に子供を産むことを望んだりしていたので、子宮・卵巣が無いことを知って自殺する少女もおり、いたたまれない話である。物の価値の置き方が悪いと、その価値が得られないと知った時にほかの全ての価値を見失って本当に何も得られなくなる。自暴自棄とはこれである。あなたがあなた自ら全ての価値を見失うこと・見誤ることが無いよう、今はあなたの目先の問題を排除しようと願う。現代でも、レイプを受けて女性としての尊厳が傷ついたとか、乳がんや子宮頸がんなどで胸・乳房の切除や子宮の摘出*5をしたから女性の価値を失ったと悲しむ者もいるであろう。それはそれで大いに同情できるが、真実としては女性という概念も男性という概念も虚妄であり、自分たちが男女の性(バーヴァ)を持っているという認識も虚妄である。人々よ、虚妄の尊厳一つを失ったと虚妄分別し、ほかの全ての尊厳をも自ら手放したいか?私が示した過去世は虚妄である。私も虚妄を以て物事の虚妄さを気付かせたく思うから、虚妄の過去世であなたに教えたかった。あなたには、この虚妄の過去世・先人を教訓にしてほしい!」

*1…元の"strībhāva"の話では、維摩経の第七章における天女と舎利弗尊者の問答が例示された。天女が神通力で、両者の姿を転換し、舎利弗尊者を「女性の姿(女像 strīrūpa)」に変える。それは「幻"māyā"」そのものの逸話である。髪や声のみならず、体内のあらゆる特徴でヒト属ヒト(Homo sapiens)のメス(female)として定義される形態を得ても、現象世界の「幻"māyā"」に等しい定義であり、真実には存在しないと理解できる。また、天女は神通・智慧を持ち、過去世からの誓願と共に多くの修行を経てきた、と維摩居士が舎利弗尊者に話す"dvānavatibuddhakoṭīparyupāsitā bhadanta śāriputra eṣā devatābhijñājñānavikrīḍitā  praṇidhānasamucchritā kṣāntipratilabdhāvaivartikasamavasaraṇā  praṇidhānavaśena yathecchati tathā tiṣṭhati satvaparipākāya"ので、個人(an individual)の才能や努力の意思は「形態として男・女であること(biological sex)」のカテゴリ下に服属されないという、現代人の目線で固定的な観念へのアンチテーゼと見ることも可能である。街女人には色々な歴史と現代的な見解とを知ってもらう必要がある、と拾主は意図している。
*2…「根本的な性認識による性差別(sexism)」に関する仏教的な啓蒙である。肉体によっても精神によっても、便宜的な男女たる性質(masculinity, femininity)を見出し得るに過ぎず、本質的にそれは存在しないことになる。反例らしい仏説もある。小乗仏教とも言われる上座部仏教の、パーリ語経典や漢訳阿含経には、釈尊が「男または女とされる心(眼で事物の外形を見る・耳で事物の音声を聴くなど認識を前提とする)のありかた」を前提に、その心が反対の性質にある事物(男に対する女、女に対する男)に執着することは「他に無いほど最も強い執着だ"増支部の一集1-10経: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ. 増一阿含経の一子品7経: 所謂男子見女色、便起想著…(rūpa = 色の部分はそれぞれ声香味触といった五塵に置き換わる。男と女の語も入れ替わる)"」という理解を説いている。額面通りに・直感的に「男・女」として読解できるその教説は、どうしても「男・女という仮定表現」を用いてあらゆる事物の存在と心による認識・執着を説いたものであるように、私は読解したくなる。こういった関係性に関する参考の説には雑阿含経パーリ相応部「黒牛・白牛" (黒い牛・白い牛)"」の譬喩があり、黒牛は白牛を繋ぐ主体でなく・白牛は黒牛を繋ぐ主体でなく、両者を繋ぎ合わせた縄・紐(軛・鞅)が両者を繋ぎ合わせる主体であること=十二因縁でいう「触・受」が「愛(taṇhā これは貪"rāga"の異名だが先述の執着に置き換えてもよい)」の主体であることを説く。「男または女とされる心のありかたの反対の性質にある事物に執着することが最も強い執着だ」とする釈尊の音声を聴いた比丘たちは、どのように智慧が深いか浅い人々であったか?
*3…「科学技術」とは、元は science and technology 名詞並列表現の翻訳語であったが、日本では「科学的な技術」という意味で捉えられるか、科学と技術がほぼ同義語で一体的な四字熟語に捉えられており、人により受ける印象が異なっている。用法は曖昧な場合がある。拾主は、一般的な日本語話者である街女人の理解度に合わせてその曖昧な用法にした。
*4…svabhāva, 自性。自己を自己たらしめる本質・エッセンス。自分でいることの状態。
*5…hysterectomy, 卵巣については oophorectomy... 色々な施術が有る。



(六) 拾主と誰かの交わす往古の仏陀信仰の議論を彼女が同行して聞く
 「かの時代の世尊ならびに弟子檀那は、単純に教えを受けたり、供養を施したりするだけで、行為の根拠となる信仰心が無かったといえようか?もし世尊を現代個人主義の視座で推し量るならば、婆羅門の多き時代で信仰の心を完全に捨てられたろうか?また、弟子入りした者・檀那となった者も似たようなものであったか?学問的見地においては様々な条件・要素を加味して検討すべきである。もとい、この視座には過誤がある!この視座でない場合の世尊は解脱せざる弟子檀那の信仰心を大いに尊重し、説法教化せられたことは、先の文言の通りである。思えば、世尊はクシャトリヤ・王族の身にお生まれであり、住まいは富裕と快楽とが地上の忉利天の如く満足して余りあろうが*1、これを浮雲泡沫とみなされ、しかも如実に世の苦を見て出家せられた*2、と一般に周知している。このような成道もとい出家の経緯などは、仏の教説の殊勝さに比べると伝承される必要が無いはずだが、こういった経緯に人々は多く恐懼恭敬を抱いたに違いない。ご生涯も大事な法の体現であるし、それによる尊敬と信仰とが、弟子らの修行に資して可である」
 「続いて言う、あなたの無感情な心で、あなたが見られない古人を無機質なものと捉えてはいけない!感情の有無は、根源的・絶対的な存在として知ることはできない!もしできるならば、脳波とか伝達物質などを検出するという、ごく機械的な手段に限られる!一般的に他人の感情を推し量る手段は、対象人物のその場における表情・発言・行動と、それらが変化した際の、比較という表層の相対性に則っている。あなたの場合は無感情な心が看取できるが、無感情な心もまた無の字を付したのみであって感情に分類する!ここでの無感情とは、推し量る手段の結論だからである!推し量る手段から外れた結論としての無感情さは、植物などにあり、これは当然感情に分類しない!その感情の作用が、他人を捉えてゆくときに発現する!つまり、今のあなたの無感情らしい学問的見地が、感情に由来する!あなたの現代個人主義の立場なりにも縁起観を学んでいれば、理法としての理解はあろう!この理法を、あなた自身の生活・人間関係の現象=世法にどれだけ照らして考察しているかといえば、推量不能だが、仮にも仏教を受けた者としてわずかばかりの人間的な心に私は期待しておく!あなたを無感情な心として仮に判断したことは、この場におけるあなたの学問的見地などから割り出された仮説にすぎない!どうか、自身の潜在的感情を汲み上げて観察し、過去・現在における他者の信仰を類推して頂こう」

*1…パーリ経蔵・中部75経=マーガンディヤ経によれば、在家の時の釈尊(=刹利種、クシャトリヤ、カッティヤたる王子ゴータマ・シッダッタ)は、人間の身としては最高の五欲に関する快楽を享受していたという。この説では、その上で釈尊が五欲に関する快楽より出離したという。"Ahaṃ kho pana, māgaṇḍiya, pubbe agāriyabhūto samāno pañcahi kāmaguṇehi samappito samaṅgībhūto paricāresiṃ cakkhuviññeyyehi rūpehi iṭṭhehi kantehi manāpehi piyarūpehi kāmūpasaṃhitehi rajanīyehi, sotaviññeyyehi saddehi... (略) Tassa mayhaṃ, māgaṇḍiya, tayo pāsādā ahesuṃ— eko vassiko, eko hemantiko, eko gimhiko. So kho ahaṃ, māgaṇḍiya, vassike pāsāde vassike cattāro māse nippurisehi tūriyehi paricārayamāno na heṭṭhāpāsādaṃ orohāmi. So aparena samayena kāmānaṃyeva samudayañca atthaṅgamañca assādañca ādīnavañca nissaraṇañca yathābhūtaṃ viditvā kāmataṇhaṃ pahāya kāmapariḷāhaṃ paṭivinodetvā vigatapipāso ajjhattaṃ vūpasantacitto viharāmi." 「忉利天」についてはパーリ語の「三十三天の…"devānaṃ tāvatiṃsānaṃ"」という語で、この説の譬喩に使われている。
*2…先の経の説以外で、有名な話に「四門出遊」がある。



(七) 街女人に萌えの法門を聞かせること(使聞萌法)の導入
 好色萌相は方便の門として、世俗の漫画やアニメ類(色相の因縁として現世で前提となる事物)に簡異(区別)すべきものである。いわば「植物の藍より出でた青の染料」である。街女人に漫画やアニメについて問うと、案の定か案外か、割と軽蔑しているそうである。それは幸か不幸か?どちらでもあり、どちらでもない。世俗の漫画やアニメには厭離すべき一面と、称賛すべき一面とがあるためである。彼女は漫画やアニメを軽蔑しているそうでも、どのように・どのくらい"How?"という深い洞察が重要である。ともあれ、拾主はいくつか問い、彼女の「Q. どうか?→あまり好きではない・・・意図的に目を背ける(愛憎の二面性ある心・コンプレックスによる)。 Q. 漫画やアニメを愛好する感情や愛好家をどう思うか?→それは苦手、抵抗がある、かつての同学や今の同僚に他人がそういう話題をする人たちがいて疎外感がある(一般的な音楽・芸能・エンタメ・スポーツなどでも同じことか)」といった簡素な説明を受け、「善哉!サードゥサードゥ!(称賛と皮肉を混ぜた意思による)」と声を上げた。そして、拾主が説明する。

 「私や同志(障礙尊者)が今、持(たも)っていること(修行法)について、あなたは程よいステイタスと思う。千差万別に思われる物事は、実に、真実において毫釐の差別(1ミリの差)も無いからだ。『千差万別に思われる物事』とは何を指すか?というと、第一に、あなたをはじめとした多くの人が執着している『社会性・経済力』と、それに関連した情報や知識や技能である。第二に、『一般的な音楽・芸能・エンタメ・スポーツ』と、それに関連した情報や知識や技能である。それは、第一のものと分け隔てられる分野だが、多くの人はその情報や知識や技能を様々に愛玩したり、社交的に用いる。件の『世俗の漫画やアニメ』も、ほぼ同様にある。第一・第二のもののみならず、あらゆる事物を相互に比較すれば『千差万別』のようだが、これらは毫釐の差別も無い。種々の因縁・人生経験こそ千差万別なのであり、それで人それぞれの好悪・好き嫌いに染まった幻影が脳内にあるようなものだ*1。さて、特にあなたのような合理主義の男女衆は、『世俗の漫画やアニメ』およびビデオゲームや視覚的・聴覚的コンテンツを『架空のもの・無駄なもの』と軽蔑することが多くあると仮定しよう。『私や同志の所持の萌え(=萌道の修行に用いる可愛の相)』ということも、大概は同じ見え方となると仮定しよう。世間では、何らかの『架空題材コンテンツ』の特質を各々が用いる。或る者は最高に好ましいものと見て欲求満足に用い、或る者は肉体ある異性の代替品として性的欲求満足に用いる。前者は、天界の人が天界の美食を好んで下界の人の美食を好まないようなものだ。後者は、下界の人の美食の代替として餓えた鬼が雑草を食むようなものだ。もし餓えた鬼が人に接すれば、餓えた鬼が食人鬼となるであろうから、同じように、軽蔑男女衆は後者のような人が性犯罪をするか*2、何らかのマナー違反することを見るなどして『架空題材コンテンツとその愛好家』へ悪印象を持つ。特に肉体ある異性について、何らかの悪い見方を持つと思う者が多いとしても、前者の人は『下界の美食を好まない天人』と同じように、肉体ある異性へ性的欲求満足を求めたり、極度な軽侮をしない。『架空題材コンテンツ』を最高に好ましいものと見るからである。ただし、感性によってそう見て、相対的に劣るものへ興味を持たない場合のことだが。一方、私たちは現世の因縁で萌えの可愛らしい相の特質を認め、そして仏説に依憑(えひょう、依拠)して観想に用いる。この時、萌えの菩薩が修行を助けに現れる。しかし、もし前者の人でも、いずれは天人が人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄のどこかへ落ち、そして彼の欲求満足が従来通りとはならぬように、仏説に依らざれば・修行を欠かせば、肉体ある異性への性的欲求満足に走ることが有り得る。私たち自身は、前者でも後者でもないという」

*1…仏説(パーリ相応部22.100経)にある譬えを借りてみよう。とある犬が一本の柱に紐で結び付けられ、そこでウロウロしたり、横臥するなど時間を過ごす。心は、その犬であり、心の外の物事=自己の肉体、好きなもの・嫌いなもの、地球、太陽、宇宙という全ては、その一本の柱と何ら違いが無い。ここに心と事物との関係を示す「五蘊(色受想行識)のプロセス」を知る必要がある。幻影のような事物に惑わされる心が自己の肉体、好きなもの・嫌いなもの、地球、太陽、宇宙といった幻影を自ら映すが、畢竟、犬が結びつけられた一本の柱に等しい。何であれ、全ての事物は毫釐の差別も無いと分かるので、それを「一本の柱 1」とも「空(śūnya)・ゼロ 0 ∅」とも「一切・全て ∀」とも表現できる。仏説を未だ聞かず・知らずにある凡夫(assutavā puthujjana)は、五蘊のプロセスによる幻影の中に戯れ続け、久遠劫の輪廻を知らず、という仏説(漢訳での名が無知経)であった(観萌行広要関連でも同様に語る)。
*2…拾主の世にその実例は極めて稀である。蓋然的に当事者(軽蔑男女衆)の偏見と関連した憶測となる。

 「あなたは『世俗の漫画やアニメ』について、割と軽蔑しているとのことだった。私や同志(障礙尊者)が今、持(たも)っていること(修行法)について、あなたは程よいステイタスと思う。ただし、その精神にプライドが強すぎると望ましくない。差別的感情が無意識的なままに残された状態で、私たちの道を行けば、巨大な壁*3として現出する。この壁は最初から待ち構えているものでなく、忽然とヒマラヤ山脈のように隆起するものでなく、道そのものである。あなたには、道そのものが巨大な壁として現出する。意味が分からない話かもしれないが、安心して私の教えを受ければ、巨大な壁が乗り越えられて嘘のように小さく感じられよう。ひとまず、念頭に置いてもらいたいことは、『私や同志が今に持っていること』が、他者を軽蔑する根拠に用いられてはならない、ということである。自慢すべく宝の剣を振り回す者が、我が身を切って宝剣を汚すような二重苦の顛末は、仏教で多く示されており*4、私たちが恐るべき事象であるからだ。あなたは私たちと同じ道を行くにも、しばらく普段通りに在家として世の中で交わってほしい。秘すべし秘すべし」

*3…現世の物質的な壁の概念自体、実はとても相対的なものであり、人間の心が決めつける概念であったりする。ここでは、街女人が彼女自身のための「相対的な壁というもの」にいつか相(あい)対することを告げる。また、仏典に説かれる神通力のうちの神足通により、壁(prākāra)を透けて通過できるという。これらのことは過去記事:2017年9月11日にも説明がある。神通力・神変に関する仏説の意義は、萌えの典籍でもしばしば明らかにすることが試されてきた。
*4…何らかの利益を目的に、手段を行使してもその目的を達成できず、かえって不利益を生む譬えのことか。そうであれば、当ブログでも頻繁に援用される中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえがある。または、韻文でない詩"つえ ratnadaṇḍa"(本家ブログ:2017年10月12日)にも、宝の杖を用いることについて似た現象が説かれる。「二重苦の顛末=①我が身を切って②宝剣を汚す」ということまでは再現されづらいが、見方によっては二重苦と見ることのできるものが多い。それがどういう人かといえば、常不軽菩薩を誹謗した人々や、舎利弗・目連尊者を誹謗した比丘の倶伽離と見ることができる。聖者への信を目的達成の手段にする仏教だが、聖者として見られるべき存在を誹謗することは、①身を害する結果を招くのみならず②心の聖なる性質を自ら汚すこととなる。または、大智度論(巻十七)で有名な四禅比丘の、「釈尊を信じて禅の修行する裏で慢心を養っていたので、彼の臨終の時、涅槃に至らないことを悔やみ、釈尊を軽侮して地獄に堕ちた」というを、同様に見ることができる。



(八)・(九)・(十)の案はあるが、ここに載せない。
興味のある者は仮設地へ移動されたい。

(九)の詩・歌(偈頌)のみ引用する。

【歌】
「うぶすなの ことのはわろく もちゐれば うぢがみさりて おにさだまらむ (産土の 言の葉悪く 用ゐれば 氏神去りて 鬼定まらむ)」
「うぶすなの ことのはまさに きよむべし うぢがみとみに かれをまもらむ (産土の 言の葉應に 淨むべし 氏神頓に 彼を護らむ)」*p1
「さきはひの ことだまくにに ありぬべし かくてわざはひ ひとびとは つねにつくれり いづくにか まことのやまと あるともとめき (幸ひの 言霊國に 有りぬべし 斯くて禍ひ 常に作れり 何處にか まことの大和 有ると求めき)」*p2

【詩】*p3–4
I entreat Maha-vira thus.
How we get Aryan-blood for us?
He is Aryan, who don't anger.
He is Aryan, who use mild words.
Neither jati, nor skin's colors.

*p1…「産土(うぶすな・うむすな)」と「氏神(うじがみ・うぢがみ)」の頭音は「う」であることから、いづれも「生まれ」に関連した言葉と認識される。前者「産土」は漢字が当てられた通りの意味で解釈できるとして、後者「氏神」の「氏(うじ・うぢ)」は、伝統的に「生み路(うみじ・うみぢ)」という解釈があろう。江戸時代以降に解明が進まれた神道思想のみならず、個人の誕生を宇宙の誕生に託して見られる宗教的見解 (一神教の創造説と仏教の縁起観)からすれば、この解釈が妥当になる。この歌2首では、拾主が母語=日本語に表象された国の民の立場でその意義を示している。神道は思想に色々と潮流があるか、そもそも思想や信条を定型化して説くべきものでなかろうから、他の見解を否定しないが、この歌2首からは一つの神道思想の表れを読み取る。人が生来(うまれてこのかた)日本語を用いるならば人のうちに日本語の神"deity"がいる。人が生来英語を用いるならば人のうちに英語の神"deity"がいる。本来は形式的に日本語や英語などとという言語は存在しないが、しかも人は何語であるとか外来語であるとかトランスリンガル・複合的であるとかと言うので、そのような神が人のうちに存在する。土地がどこであれ、その神は離れないが、もし神が離れるならば鬼が現れるし、神も鬼も存在しないならば言語も無く、命も無い。インドの解脱者であっても、現世で言語を用い続ける者は天"deva"と魔"māra"とが傍にいる。凡夫との違いは、それらが彼の内を支配しないのみである。もし神"deity"以外の言い方を使いたいならば、魂・霊"spirit"があろう。「言霊(ことだま)」と関連する。
*p2…575757577の長歌であり、萌えの典籍では2018年1月以前に未曽有のものである。
*p3…8小節で1句をなす・脚韻を踏む英詩。第1句の"Maha-vira"はサンスクリット翻字・借用であり、IASTに直すと"mahāvīra"である。これはジャイナ教開祖ヴァルダマーナの異名としてカタカナでマハーヴィーラと呼びならわされた単語ではなく、梵本・法華経方便品の世雄偈(せおうげ)に見られるブッダ・釈尊の異名として用いた(その意味はそのまま世雄)。なお、ラテン語の同根語を用いると"vir-magnus (ウィル・マグヌス、ヴィル・マンニュス)"である。第3句と第4句には"he, who"という人称代名詞・関係代名詞の相関構文(本来の関係節の順が倒置された)が用いられる。意味としては「○○する者"who..."、その人"he/she"は△△である」となる。"Aryan"とはサンスクリット"ārya (アーリヤ、アールヤ)"に由来する英語で「アーリア人」のことであり、人類学的な定義では「インド・イラン語派の言語的祖先を想定した際の人種名」である。ここではサンスクリットの意味と掛け合わせて「高尚な人・往古の婆羅門」とでも捉えればよい。なお、パーリ語仏典で同根語の"ariya"は四聖諦・八聖道(四諦・八正道)の「聖」に当たる用法が主だが、RY二重子音がYY長子音に変化した"ayya"は「ヨーナ(イオニア)やカンボージャには貴族と奴隷の2階級しかなく、貴族が奴隷になることがあり、その逆もある"yonakambojesu [...] dāso hutvā ayyo hoti (中部93経)"」という時の「貴族」を指す。
*p4…ここまでの4句(4行)が2018年7月に考案されたが、2018年8月15日に第5句を追加した。"jati"はサンスクリット翻字・借用であり、IASTに直すと"jāti"である。生まれ・出自を意味する。この第5句全体は、科学的・文化的観点で知能が優れている人種の人へ自己反省とより優れた努力を促すと同時に、知能が劣るとされる人種の人へは憂いを除いて前向きな努力を促す意味を持つ。



萌名推音の事 (みょうみょうすいおん・のこと 画像案@1 ko odan0616→解決?)

 ある時、尊者と街女人(仮)とは、共にいらっしゃりました*1。仏教と萌えの法門とを聴聞して日の浅い街女人は、多くの疑問を懐いており、この時は漢字の熟語の発音について尊者に尋ねました。「宿題といって渡された文書に目を通しましたが、至らないことが多くて読めない熟語があります。まず、過去にいたとされる『萌えの尊(ソン)?萌えの尊い人』って熟語は、どう読むんでしょうか?あの人の口から三萌義(さんみょうぎ)とかと聴きますので"ミョウソン"でよいんでしょうか?萌えって萌芽(ほうが)のホウではありませんよね?」尊者は答えます。「はい、私も"みょうそん"が正しい読み方との印象がございます。萌えの相伝書に載る詩に『ちょう・らい・だい・みょう・そん(頂禮大萌尊)』との一句があり、"みょうそん"という発音*2が見られます。しかし、ときどき拾主は"みょうぞん"とお読みになります。これは『連濁』という現象のようです。"そん"が、前の音の影響で"ぞん"と発音されるという古い時代の法則を、拾主さまが形だけ再現せられています」
 尊者は、詳細かつ平易に教えようと努めましたが、その内容に対して街女人は表情を虚ろにします。尊者は暫く、この意義を整理しながら、街女人に教え込んであげました。後に街女人は、改めて連濁の義の解説(げせつ)を尊者に請いました。「"みょうそん"、"みょうぞん"・・・。そういうの、連濁っていうんですね。あんまり普段、意識しても気にしないでいたことです。どんな原因からその法則が起こるのか、お教え頂けませんか?」彼女は尊者の智慧に期待していらっしゃるようです。

*1…尊者から街女人の家に訪問した可能性がある。その場合、自発的な経緯(定期的な訪問)と、拾主からの指示を受けていた経緯(勉強に付き合ってあげてねという指示)とを想定できる。逆に、尊者が街女人から招かれて訪問した可能性がある。または、そもそも会っていなくて電話か、インターネットを介した会話行為(映像を伴う)かもしれないが、それは絵面として好ましく思わない。
*2觀萌私記・末・讃萌語より。元は「ちゃうらいだいみゃうそん」、「みゃうそん」という歴史的仮名遣いであり、尊者がその口頭の発音をする。

 尊者は自信を持って答えます。「連濁を起こす原因や条件は多種ございます。基本的には先ほど申しました通り、濁音になる子音の前の音の有無や前の音の種類などの影響です。日本の漢字発音では、主に『ん』や『う』の後に続く子音が濁音になりやすいといえます。『う』については、連濁が発生しない場合も多くございます。どうして連濁が発生するか・どうして連濁が発生しないかは、より詳細な分析が必要です」

Jion Kanazukai kana pinyin IPA rendaku voicing consonant voiced prenasalized appendix notation notes 連濁 音韻論 音声学 三身
尊者による図解と注記 (のーと"Notation")、ほか便宜的に付加された情報 (色文字)

 「例として、萌えの三身(さんじん)ということは拾主さまがしばしば仰せです。『三身』も連濁ですが、これはよいとして、三身は三種類の身体、つまり法身(ほっしん)・報身(ほうしん)・応身(おうじん)の3つですね。普通の人がこの三種類の身体を読めば『ほうしん・ほうしん・おうしん』と読むことを免れません。なぜ『法・報・応(ほう・ほう・おう→ほっぽうおう)』はみんな『う』で終わる字なのに、三通りに読み方が異なりましょうか?つまり、今の日本語でみんな『う』と読むのみであり、漢字は中国より伝わりましたので古い中国語発音を知らねばなりません。拾主さまは字音仮名遣いという古い日本語研究を参照せられ、(のり・法律)は『ほふ』、(むくい・報道)は『はう』、(こたえ・応答)は『おう』という情報を得られました。『ほふ・はう・おう』となれば今の『ほう・ほう・おう』と大きく異なります、当世に中国で用いる発音や拼音(ピンイン)と呼ばれる表記法では順に"fa"・"bao"・"ying"です。これらを基に古い中国発音を推定せられ、法(ほう・ほふ)は"pop"、報(ほう・はう)は"pau"、応(おう)は"wong"とお示しです。細かいことは一旦おき、要点としては『う』という部分も-pや-uや-ngとして古い中国語では三者三様の発音があったということでございます!-pも-uも-ngも、訛りがあり、今の日本語でみんな『う』と読むところです。このうち、後ろの音-ngの『応"ou, wong"』のみが連濁を発生させますので、応身は応の後の『身(しん)』が濁音になり『おうじん』といいます。ね!ひとまず、昔の人が日本語で連濁の漢語を伝える場合、そういった古い中国語発音の特徴を残したことをご理解くださいましたか?」
 街女人は心を律して拝聴に徹したため、海綿が水を吸うように言葉を受容し、吟味してから肯きました。街女人が尊者の説明の要点を確認して尋ねます。「中国語を知らない私にはどのような字が-ngの字か今は判りませんが、何らかの字が-ngの字で、それが連濁に繋がるということは理解したつもりです・・・、えー、ということはつまり、『萌(もえ)』の字に連濁があるという話でしたので、萌の字も『みょう』と読む本来は後ろの『う』が-ngなのでしょうか?」
 尊者は、街女人の理解の速さと、明快な質問に喜びを覚えました。お答えです。「然様です、萌の字も後ろの音が-ngでございます。古い中国において-uでも-pでもなく、-ngでございます。萌えを伝える書、先の相伝書に、『萌音條』という項目があります。そこに萌の字は中国拼音で"méng"と示されます。ちなみに発音はモン(口頭: ムォン↑)でございます。これを受けて拾主さまは、古代日本が『ミャウ』として萌の発音を受容したと注記されます。古い中国語発音については、"miang (mjaŋ)"か"mrang (mraŋ)"と推定していらっしゃいます。相伝書には連濁の状態で『萌朋 みょうぼう(みゃうばう)』や『萌観 みょうがん(みゃうぐゎん)』などとも書かれますが、それでも萌尊は連濁の状態でない『みょうそん(みゃうそん)』という振り仮名でございました」

注釈: この尊者の話は、「萌尊」を「みょうぞん」と読み得る可能性の示唆に端を発している。萌の字は現代中国(朝鮮・ベトナムも)をはじめ、古い時代の日本や伝来元の中国でもみな-ngであるという事項を示す。-ngは軟口蓋鼻音であり、鼻音は多くの言語で有声音として発せられるため、後続の音が何らかの無声音のままであるよりも有声音に変えた方が発音しやすいということで、後続の音の有声音化=連濁が発生する。三身の「法 ほふ"pop"・報 はう"pau"・応 おう"wong, woŋまたはʔong, ʔoŋ"」・・・つまり、報身(はうしん pau-shin)を「ほうじん」と読むことは有り得ない。世間に「ほうじん」と読むことがあれば、それは連濁の類推であろう。またはpauのuを鼻母音"ũ (nasal U)"の如くに発すれば連濁も可であるが、その現象は発生し得ない。法身(ほふしん pop-shin)は入声音-pの促音便が発生して「ほっしん」と読む。-ngの字による連濁は、先の鼻母音とか歯茎鼻音"n"・唇歯鼻音"m"などのように"ng (IPA表記でŋ)"が軟口蓋鼻音という名の鼻音の一種であるから発生する。連濁の日本語での例は「いかにか→いかんが・いかが」や「にて→で("ん"省き)」や「なにと→なんど・など(等)」や「のみと→のんど・のど(喉)」など、様々に例がある。「かんがえる"ka-n-ga-e-ru"」の"ga"も、「か+むかふ"ka + mu-ka-pu"=下二段活用かんがふ"kangafu"→現代の下一段活用かんがえる」という変遷によって連濁がされた結果である。古くは"mu-ka"だった部分が、複合的動詞の語源意識が薄れた中世に母音欠落→撥音化し、後続の"ka"による同器官化・有声音化(連濁)と合わさって/nga/ [ŋɣa] (んが・か゚・ガ行鼻濁音・鼻がかり有声摩擦音)という音になっている。このほか、日本語では音韻理論の合理性を離れた有声音化が現れる(「○○ぐらい・ときどき・中田"Nakata, Nakada"」といった複合語を示す理由など)。それは連濁の道理(有声音の連続)と異なった「別の音変化現象」といえる。

 2人は話し合いを続け、尊者が種々の例を玩味しても解決できません。「萌尊」は「みょうそん」か「みょうぞん」か、疑問を拾主に尋ねようと尊者が発案します。「もはやわたくしめの浅智の及ぶ所にございません、拾主さまのお智慧にゆだねましょう」街女人は尊者に付き添います。「あの人、今も苦手なんです・・・」
 2人は拾主のもとに到りました。尊者が拾主に礼を作し、事の経緯を明かしました*3。拾主はお答えになります。「(問: みょうそん?みょうぞん?)どちらも有り得てどちらも有り得ない。つまり、物の見方によってどちらでもよいが、他者に対してはどちらか一つばかりを唱えなければ『考えが定まらなくて信用できない人』と思われる恐れがある。せっかく法義を説いても、『世智弁聡の賢げな人』が受け入れてくれない。よって、自身の中では常に自問自答の繰り返しである。口語感覚では"みょうそん"と読みたいが、音韻理論によって別の用語を連濁にして読んできた経緯を鑑みると"みょうぞん"でなくては筋が立たない。みながみな、極度に音韻理論を知らないか、自分ほどに詳しいか、どちらかの場合には、どのように読んでも疑問が起きなくなろう」
 「私がこのこと(物事の二面性・ジレンマ)を説いた今、あなたがたはどのような音読みをしても、誤りを伴わない。世俗的な知識を追究して限界に達した時、智慧を以て限界を打ち破った。『このこと(物事の二面性・ジレンマ)』を超越した。漢字の読み方・字音にすら『確かなこと』は無いと分かる。時間的・空間的相似性や微々たる共通点があることから、人々は漢字の発音に固定的性質を見出すものの、謬見である。その根源的謬見を見抜けない人々は、『これ誤読・これ百姓読みなり』と論議を起こし、互いに軽蔑してしまう。漢字の読み方・字音を考察しても、諸法はなお無常・無我であると領解できる。何が字音か?つまり、人が、①どう客観的な概念として字音(字形に知能が関連づけた意味とその発音)を認識しており、②その場・その時においてどう想像し、③どのような器官を用い、④どのように発し、⑤本人や聴く者がどうその音声を聴きとるか、である(顕・五何字音)。その過程で結果的に多様に異なった字音を、一音に包括して平等と見る(無分別智)。世人が同音とみなした物事も、人の認識・感覚・感情・概念の中で、千差万別に存在し得るが、これ(一即多)も私が概念を設けて分析した結果であり、実際は字音に一や二は無く、千も万も無数も無い(不一不異)。一とも無数とも言えるどの字音も存在しないかのように、あらゆる学問で研究対象となる物事も存在しないかのようである」

 拾主がお歌いになりました。「【讃】 ピジン言語のあるように 人は字音を好きに取る 格義仏教のあるように 人は自由に語義を得る」

 「もう一度、端的に言おう。学問知識を自己の限界まで求めた人はみな執着を無くす。知識について誇らず、慚愧の心も生まれる。俚諺にいわく『実るほど こうべを垂れる 稲穂かな』と。しかし、私は慚愧の念に住せず、ただ真理を他者へ伝えたい心である。そのためであれば、『衒学的・知識自慢』と他者が認識する行為も厭わずに行わねば、真理は説き示されない」

 尊者は歓喜して称賛する偈を唱えました。「【詩】 連濁義尚淺 拾主意常深 諸語無定音 聖聲不盡演。吾語連濁義 彼祕殊勝意 從淺深見示 絕妙難有事。(連濁の義なお浅し、拾主の意つねに深し、諸語は無定の音なるも、聖声は不尽に演ぶ。吾は連濁義を語る、彼は殊勝の意を秘む、浅きより深きは示さる、絶妙にして有り難き事なり。)」
 街女人は最後まで疎ましそうに眺めていました。実用性重視の人という彼女は、学問論議などのことにピンと来ないようですから、「見解の執着を捨て去る・論争を離れる」という有り難い教えも、「あの人が詳しい話題についての、あの人の考え方」と捉えました。拾主はただ、色々な人が悩む物事について、その場その時の適切な助言を下さるのみです。(街女人が登場する他の話を参照)

*3…ここに書かれないことは、次のようである。礼を作すこととは、大乗経典でも阿含経典でも、右繞三匝(うにょうさんぞう)をするように表現する。尊者が事の経緯を明かすことは、パーリ仏典で比丘・沙門・居士らが一字一句異ならないか少し異形を用いて先の出来事を再び示すように、そのように詳細であったろう。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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