2015年3月12日木曜日

思考に強く介在する「人間への依存」

「ネット」とは人間の為のツールである。
情報の構築や有無は人間の要求や行為による。
機械が自動で更新する情報も多いだろうが、基本的に多くは人間の感情が息衝いている。
「ネット」を重宝する私の思想には、人間の存在が強く絡む。
人間との関係を絶たざるを得ずして久しい私は、未だこの人間への依存を断ち切れずにいる。

勉強も、言語・歴史・宗教などと来ては、いずれも人間達の精神が生きる分野である。
創作関連では、音楽の場合、とあるサイトの楽曲群を作曲者で区切って判別する。
それは楽曲を探したり(検索による)、区別するなどの指針となる。
その上で、作曲者の概念をただの文字列として認識するのみならず、そこに人間性を重ねてしまう。
私の過程を経て、強いキャラクターの意識が築かれるということだ。
絵の練習の方面でも、私が描いてきた絵の多くは「人物」である。

何をしても私には、種々の要因で以て人間への依存が養われる。
どうせ他人、人肌など、触れられずして久しいこの身が、今更それらを希求して好ましく結実すること度、あるわけがない。
こうも冷徹に妄執断尽を、かの主人公の如く為せるものなら。
しかし彼にも、まやかしの過去の残滓が拭いきれぬ一面も多く描写されている。



我、固き褥に臥して思いぬる時。
仄かに中三の頃に多く迷ったことと、同じような話題に当たる。
最近は他にも、別の話題で同様の状況になったが、なぜ今になって頻発したのか。
「考えても詮無いことだ」と、散々過去に出尽くした唯一の答えこそが現実を表す。

良かれ悪かれ、人と直接言葉を交わすことの多かった時間は幸せか。
小1までは、振り返った一年がとても充実されていた感覚であったものの、所詮、母親に毎日頭を殴られ、父親に怯え、戦々恐々とした夫婦関係まで絶えず見せられた時間であれば、当時でも充分にまやかしそのものである。
今振り返る過去の数多ある悦びも、空虚なものでしかないと感じる。
近頃起こる悦びも、全て刹那的にしか思えない。

その諦観に支配された情念で、余生に如何なる希望を持つか。
それを正に今、模索している。
冒頭の話に結びつけると、人肌が密接にある生活こそ多幸感にありつけ、私の本望となるか。
だが、中三の頃にも多く迷った挙句叶わぬことが、今更起こりうるか。
私自身、その当時にさえも気兼ねなく話せるネット上の交流相手はいない。
何かのコメントで一瞬のみやり取りを交わすことであれば、多く経験してる。
結局ネットでさえも泡沫の交流、友好的な文脈は調子が狂う。
リアルの経験であれば、過去にどれだけブログ等で綴ったことか。

人間を求める葛藤は徒労、 断ち切らんとする努力は難儀。
忌々しいだけの人間依存の思考。
これを絶てた時は涅槃である。



ネット利用が私生活の根幹を成している。
故に、情報の構成要素たる「言語」を学ぶことは肝要とも存じている。
言語に準じて、歴史・宗教・・・
ネットが私生活の根幹を成しているという事実があるから、これらを学ぶのではなかろうか。
「これらが人間依存の思考を増長させる」という見解も一理あるが、事実はきっと逆であるのかもしれない。
"逆"というと、ネットに伴う勉強をすることも、「勉強にネットを利用する」という解釈に逆転させられるのではないか。
「どっちが原点か」という命題は、何事にも付随するものだろう。

本題にある「人間」について、私の勉強を混ぜて再考すると、私の家族は形だけ関与があり、その他の有り余る人間ならば、尚更「形骸」の存在である。
私ないし二人の弟は両親からの衣食住の庇護を受けて当然であり、それらが潰えた暁にはより大きな社会たる「国家」が直接の庇護を行うべきである。
そして、世の真理を求め続ける飽くなき研鑽が支えられ続けねばならない。
死期が訪れるその日までに、種々の未練を断ち、死を受け入れられる覚悟を養う。
これが研鑽の究竟目的と思わずにはいられない気が生じた。
何とも小乗仏教的な論調であるが、心の闇が猛ると余人への怨恨が燻ってしまう。
18歳の今から、いつかは新興宗教の教団でも開くのだろうか・・・


0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。