2016年2月8日月曜日

人が思う「現実」も妄想の一種であることについて ~ "仮想現実"?

現実と妄想を分かつ基準が何かといえば「人の思考」が第一ではなかろうか。
例え目に映り、体に苦楽(苦痛や快楽)を伴うような事象であっても、全て人間の意思や認識を介した「妄想」に等しくあり、「現実」ということは何もない。
私がこう語ることも、妄想の一種であるかもしれない。
人と思うところに人があり、自分と思うところに自分がいることは、存在の本質である(いわゆる"Cogito, ergo sum")。
確かに、ただ脳内に浮かべた象形と比して、実体あるものを「現実」と呼ぶ意味では正しいことかもしれないが、やはり程度の差でしかなく、絶対ということはないので、それも「妄想」である。

ところで、どのようなことが「幸せの状態にある(幸福)」といえるか?
例えば、世間での出世をして金持ちとなり、家族に恵まれる一生が人間至上の幸福であろうか?

ある田舎出身の若者は、そのような「夢」を懐き、都会に出て勉強と労働を行い続けたが、望むような結果にはいつまでも追いつかない。
そのような中で、突然チャンスを掴み、望むような状態へと上向いて、ついには高官として成り上がり、豊かな家庭を持つ。
彼は最期において、愛人に看取られながら永遠の眠りにつこうとする。
ようであったが、なぜか目覚めると、視界には見慣れた部屋が広がり、昼寝中だったことに若者は気付く。
何とも惨めな自分のありかたに気付いて、田舎に帰ることを決めるのであった(「惨めな~」という接頭語も「妄想」が決めつける表現の一種)。
このように、いわゆる「夢オチ」のたとえ話がある(胡蝶の夢・邯鄲の夢、邯鄲の枕)。

私は、他人の持つ幸福の理想像について、容喙する意図はない。
人間誰しも妄想をする生き物であるのだから、夢いっぱい妄想をすればよい。
だからこそ、他人の良しとする生活に、己の妄想を介入させ、一つに括ろうとすることはあまり好感しない。

人間よりも思考能力の優れた「生物」はいない。
その人間の智慧をはるかに超越する存在、仏が示した真の人生は、真の幸福に導く真道ならんことを信じて已まない。
仏の金言は唯一妄想ではない。
「仏語は実にして虚しからず」と法華経に説かれる。

仏の説く生物の区分を言えば、有情と非情に分かれ、有情のうちは人間と畜生に大別される。
人間と畜生でもその性質が大きく異なるものというのに、その人間という「凡夫」の智慧を超越された仏がこのように示されている。
凡夫などは足元にも及ばない大智慧を具えた仏様がお示しになるところの真道までもが、「夢(夢想)・妄想」であるということは絶対にない。
※私がそう信じていることとしては「我が妄想(汝が妄想)」となってしまうが物事の真実としての在り方は妄想と言い切れない。



ここで、やや話を変えるが、「もし明日人類が絶滅する(地球消滅・世界終了)ならそれまでに何をする?」という荒唐無稽ながらも食いつきやすい質問について、仏教の上から答えようと思う。
世間の人、もとい小中学生の頃の自分なら、散財して遊び呆けるといった享楽的な発想もあれば、嫌な奴らをドサクサ紛れに殺しまくるという何とも大胆不敵にして蛮勇猛々しいことも言う。
遊び呆ければ徳を失い絶やせ、恣の殺人や強姦などの犯罪は大いに悪業を積んでしまう。
他にも、「恋人(家族・大事な人)と一緒に過ごす」といった愛人への執着を見せる者や、「自分だけは必ず生き残るに違いない」といった常見・我見のエゴセントリズムを唱える者も多かろう。
仏教を第一義とすれば、ここは唯一の正答が「執着を離れ、菩提を願い、ひたすら修行に打ち込む」ということではなかろうか。
ここでの「修行」とは、唱題や念仏などの信仰的な実践や、座禅による瞑想などの実践、あるいはヨーガや滝行といった、各宗や個々の信奉などの広い「修行」として全て包括している。

仏教は「涅槃」といい、そもそも「誕生」も「消滅」も人間が捉えた「現実的妄想」であり、真にはどちらも無いのだから、「最後には自分だけ生き残る」という欲望も無く、「自分も必ず死ぬ」という絶望も無い(言い換えると生き残り続ける存在でもあり如来の常住ともいえる)。
あるいは「臨終までに執着を断つ」といい、生命が終わると分かればこそ、このように生死の一大事のみを案じるのである。
そんな時に、私利私欲・安逸ばかりを求めては虚しく命終し、後生あらば三悪道に堕ちてしまう。
全て「妄想(現実通り捉えない状態を現実と思い込む)」だと思う私であれば、そのとき=死期に臨んでいることを覚った時、菩提を願うように心機一転せねばならない。

もちろん、生前の健在であるときから何らかの修養は必要であろう。
何事もいきなり本番に当たって成功するということは有り得ない、と言わずとも、やはり「備えあれば憂いなし」と世間でも言われる。
よって、日々生活記録を取り続け、勉強を進め続け、完璧には守れずとも「戒」を意識して自律の精進をせねばならない。



原版・起草日・・・2015年12月の半ば
だったと思う。12月29日に加筆してからは、1ヶ月以上に渡って何も手を加えずいた。何ということか。
なお、当記事のように「物事・事物(境・色)は客観的実体などなく、それをそうと認識する(取・心行)人間など知的生命体(有情)の、想像上の空間(識)内にのみある」とする思想は仏教でいうと唯識系に当たり、この教義基礎自体は仏教において普遍的である。
人間が行う物事の分別というものは妄念であって、他の人間が同じ思考を持つことを「客観性」と世間では言うけれど、それも妄念が通じた範疇に過ぎず、妄念に変わりないとする。

いわゆる「常識」ということも、この世の中、「今この場所」の時空の共同体を構成する生命=現代社会の人間さまに通用する観念ということであろう。
人間の心がなさしむる業"ワザ"なんだね。

当記事と関連しそうな記事
「ネト本リア末」 http://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_30.html

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