2017年7月21日金曜日

時間 "kāla, samaya, 迦羅・三摩耶" と仏教 (仏教の時間論)

時間は、人間の生活の規則性の維持や、現在・過去・未来を想定するための道具として作られ・用いられる。
その基準は、地球に住む我々が太陽と月の在り方から1日=約24時間とか、1年=約365日と導き出しており、人類史上の多くの文明でおおよそ共通している。
だからこそ、文明の中では絶対的な基準であるが、天文学など専門分野では絶対的なものと考えられず、過去の日本など旧暦では「閏月(2・3年に一度ある)」が設けられたし、現代も「うるう年」と称して2月29日(4・5年に一度ある)を設け、今年1月も「うるう秒」が設けられるなど、人為的に変更が加えられる。
生活に執着している人は、時間が絶対的なもの(客観的存在)だと考えがちであり、現代の若い人は、特にゲーム類やTV番組企画などにある「制限時間」という概念が頭に焼き付いている。
もし「時間は絶対的なものでない(正確でない概念)」と彼らが言われれば、「うるう年」などがあるからこそ時間は正確で絶対的に正しいと主張したくなろうが、私は「うるう年」を設けて柔軟に対処するからこそ100%の絶対性が無く、柔軟に対処してようやく99%、99.999%のようだと説く。
個人の精神や人生が「時間」に拘束されるべきでない。
※精神的努力のために時間に則って規律の取れた生活をする努力をする私は何者か?

しかし、生物の体は、営々と繰り返される惑星の動き・地球環境のもとで進化を遂げてきた。
生命的な時計・・・いわゆる体内時計と表現されるような機能を有しており、そのような機能の作用が、日の出に目覚めて日没後に眠ること(夜行性の動物は夜型の生活をする・微生物は眠らない・朝に咲く花もある)など、様々な生活リズムを作る。
人間は精神を有し、今の人類の文明が進んでいるので、本能からズレた生活リズムを心で受容し、体で実行する。
このように見ると、「時間」には、普遍的妥当性のある人間の概念・数字としてのものと、それぞれの規則性から演繹できるが実際には言葉にしがたいものとがあるように見られる。



「世間でいう仏教の開祖」である教主釈尊は、科学的な話などを文字通りお知りかはともかく、「時間」の絶対性・相対性・善悪ということをご存じであろう。
修行者のためには、「不非時食戒(正午以降は食事しないように禁じる・持斎)」を行わせた。
「不非時食戒」は、インドの既存の風習に似たようなものがあったかもしれないが、いずれにせよ在家信者が六斎日などに持つ八斎戒の中の一戒であり、出家僧侶が日々に持つ戒でもある。
特に出家修行者の集団(僧伽・僧団)は、在家信者からの布施を多くもらうと在家信者の生活が苦しくなるし、在家信者の村に何度も僧侶が出入りして乞食(こつじき・托鉢)をしてきては手間となり、在家自ら僧侶に赴いて供養する場合でも頻度が多くては時間が失われる。
僧侶の修道にも、煩悩を染みつかせたり、時間を削るなどの患い・煩いが生じる。
出家・在家を問わず、様々な煩わしさが付きまとう。
宗教の維持としても、在家の人が多く布施したり乞食の僧侶を頻繁に目にしたりすると、在家の人の信心が薄れたり(街や村を俗人と同じように僧侶が居続けては尊敬する気持ちが薄まる)出家の人が教団の形(衣食住が安定する形式)を固着させる弊害が懸念される。
つまり、相互の思いやりが大切であり、以下の教説では釈尊が出家僧侶に対し、他者の恩恵をもらうことを弁えよと教える(布施・供養を受けて当然だという考えを持たないよう蜂と花の関係や農家と家畜の関係に譬えて説く)。
如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除惱。無得多求壞其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力。 (たとえば蜂さんは花の色香を壊さないで蜜を取るよ。比丘は節度を守って供養を受けようね、多く求めて在家の人の良心を壊さないでね。たとえば牛さんを作業に使う人が賢ければ、牛さんの力を思いやって酷使しないようにするよ。大正蔵12, p1111・佛垂般涅槃略説教誡經)

譬如蜂採花 不壞其色香 比丘行乞食 勿傷彼信心 若人開心施 當推彼所堪 不籌量牛力 重載令其傷 (前略 比丘が乞食をするときは在家の人の信心を傷つけないように彼らが精一杯出してくれる量を多めに見てあげようね。たとえば普通の牛さんが重い荷物を載せられると運ぶのが辛いでしょ。大正蔵4, p48・佛所行讃)

蜜蜂のたとえが法句経・ダンマパダにある→Yathāpi bhamaro pupphaṃ, vaṇṇa­gandha­mahe­ṭhayaṃ; Paleti rasamādāya, evaṃ gāme munī care. (Khuddaka Nikāya, Dhammapada, Pupphavagga 50偈 前3偈)

また、眠ってよい時間として「中夜(午後10時~翌午前2時)」の間に限定し、初夜(日没~午後10時)も後夜(翌午前2時~夜明け)も修行せよと説く。
これは、仏遺教経・仏所行讃など涅槃の教えにあるが、般泥洹經・法顕漢訳大般涅槃経・長阿含経およびパーリ長部の大般涅槃経には説かれない(パーリ語の中夜は漢語と意味が通じる語句"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ"だがパーリ涅槃経に見当たらなかったし語句があっても仏遺教経・仏所行讃の話とは異なろう)。
鳴く虫がいない限り、夜は静かな時間帯であり、観想に最適であるから修行すべきであろう。
ある「戒律意識高いです!」という僧侶は、「健康の面で8時間睡眠がもてはやされるが仏教徒としては怠け者だ・5時間で足りる」と話していた。
また、修行や学問に熱心な人は「止暇断眠」を肝に銘じているであろう。
不眠不臥というべき極端な修行を行う場合もある(噂によれば比叡山の千日回峰行の堂中修行に9日間ある)。

修行の道念があって仏の教説を知って信心が深い人は、ふと横になった途端「起きよ」という声(仏の声・梵音声・大音声)がして手を引っ張られる感覚になるに違いない。
是非とも、仏道修行者はそうあるべきである。
眠りたいならば慚愧の正念を持つ(慚恥の服は諸の莊嚴に於いて最も第一と爲す)。
汝等比丘。晝則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廢。中夜誦經以自消息。 無以睡眠因縁令一生空過無所得也。當念無常之火燒諸世間。早求自度勿睡眠也。諸煩惱賊常伺殺人甚於怨家。 (乃至) 不出而眠是無慚人也。慚恥之服。於諸莊嚴最爲第一。慚如鐵鉤能制人非法。 (大正蔵12, p1111)

朝中晡三時 次第修正業 初後二夜分 亦莫著睡眠 中夜端心臥 係念在明相 勿終夜睡眠 令身命空過  時火常燒身 云何長睡眠 煩惱衆怨家 (乃至) 無術而長眠 是則無慚人 慚愧為嚴服 慚為制象鉤  (大正蔵4, p48)

Uṭṭhahatha nisīdatha, ko attho supitena vo; Āturānañhi kā niddā, sallaviddhāna ruppataṃ. (後半は「矢に射られた人は眠気があろうか?」と訳す=後者の時火常燒身・云何長睡眠に相当)
Uṭṭhahatha nisīdatha, Daḷhaṃ sikkhatha santiyā; Mā vo pamatte viññāya, Maccurājā amohayittha vasānuge. (Maccurājā「死の魔王」=両経の「怨家」に相当)
Yāya devā manussā ca, sitā tiṭṭhanti atthikā; Tarathetaṃ visattikaṃ, khaṇo vo mā upaccagā; Khaṇātītā hi socanti, nirayamhi samappitā. (Khaṇātītāはしばしば「空しく過ごす」と訳せられる=両経の令一生空過や令身命空過に相当。以上はKhuddaka Nikāya, Sutta Nipāta 2.10 前3偈)

このように、時間という概念は空虚でも生活に根付いているし、太陽と月と地球の動き(日月と地)は生きている限り平常に動いていると知られる(予測しがたい天変地異・天体の異常が無い)ので、そう信じることで無駄な疑念を持たずに修行できるよう、「尊いお釈迦様」が人々に教えた。
「尊いお釈迦様・仏様・偉大な人」の言葉であれば、裏切られないし、修行が進んだ者は事実(認識)が教えに反した結果であっても、後悔や憎悪を強く生じることはない。
極端な例を挙げるが、月が地球に接近して磁場や河川が狂い、または月が衝突して地球が半壊し、または太陽が大爆発を起こすとしても、世界は本来寂滅か一切皆苦であると知るので、釈尊・仏を信じた後悔や憎悪は起きようがない。
そもそも、そういった事象すら憂慮する必要も無く、心身共に、仏の言葉に寄り添うことになる。

私はそのような信仰が得られているし、得られていないとも言えるが、「不非時食戒・中夜に眠ること」については意識している。
2016年からの傾向として、午後は食事を少なくし、夕方などは「体調のテスト」目的を持たない限りは食べない。
夜は20時ころに就寝して翌日の午前2時に起きる(昼夜夜昼逆転自在な生活を変えたときが2015年8月19日)。
このように、在家信者として最善の道を心掛けている(中途半端と言うこともできる)。
眠る際の心掛けは、眠る前に不必要な遊び(〇〇いじり)をしたり眠りを楽しもうと思ってはならないことであり、このことを「心を端(ただ)して臥(が)せ(臥すとは横になって眠らないことか実際に眠ることかどうかは文字通りに不明・眠りに関する行為がある経文や戒律を参照すれば眠ってよいと思われる)」と仏は教戒せられる。
私としても2015年以後は、遊びとしての携帯電話いじりを控えたり(翌日の生活予定や翌日に行うべき作業のメモを携帯で行うことは必要と判断する)、性的な戯れ(寝床でのオナニーは2015年以後一度もしない・布団と戯れること)などを多く減らすことになったが、中途半端のようであり、できることならば仏の念によって「心を端して眠る」ようにしたい。



以上のことは、先に言う通り「修行者のため」という、仏が方便で用いた「時間・習慣」である。
この「世俗法・仮名(けみょう)」を離れた真理において、仏教ではどう説明するか?

Monier-Williams: 上は梵→英p1164 (ISBN: 8120800656), 下は英→梵p804 (ISBN: 8120804546)

多くの経典の冒頭に定型文(お決まりのフレーズ)のように用いられる「如是我聞。一時…"skt: evaṃ mayā śrutam. ekasmin samaye..., pl: evaṃ me sutaṃ. ekaṃ samayaṃ..."」という言葉について、大智度論の巻第一に詳細な説明がされている。
これを参照するに、「時」とは、梵語・サンスクリット語で一般に「迦羅"kāla・カーラ"」と、「三摩耶"samaya・サマヤ"」とがある。
「如是我聞一時」の「時」とは、サンスクリット語・パーリ語の"samaye(処格?), samayaṃ(対格?)"の部分に当たり、主格の"samaya"に直す。

「迦羅」とは、一般的な時間を意味している。
そのような「時間」という概念が、「現在・過去・未来」など様々な虚妄分別などに繋がるので、この語を経典の冒頭に用いないようである。
大智度論の同巻には、先述の「不非時食戒"akālabhojanaまたはvikālabhojana"」の話もあるが、その名称の中にも"kāla"の文字列が見え、ここでは世俗法・仮名に順って"kāla"を用いているとの説明がある。
仮想問答「問うて曰く、若し『時(kālaとして)』無くんば、云何(いかん)が時食(じじき)"*kālabhojana"を聴(ゆる)して、非時食"*akālabhojana"を『是れ戒なり』と遮したもう。答えて曰く、我れは先に已(すで)に説けり、世界の名字の法に『時(kālaとして)』有るも実の法に非ず、と。汝は応に難ずべからず。亦た是れ毘尼"Vinaya"中に結ばれたる戒法にして、是れ世界中の実なるも、第一の実の法相に非ず。 いわゆる二諦=世俗諦・第一義諦の観点で分別している)」 (後略)

大智度論といえば、龍樹(ナーガールジュナ)菩薩が摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈した書として鳩摩羅什三蔵が漢語へ翻訳し、現代までに日本・中国の仏教で支持を受けた書である。
同じく、その龍樹菩薩が論じて鳩摩羅什三蔵が訳した「中論(漢訳は青目による釈つき)」には「観時品」があり、サンスクリット語においては"kāla (迦羅)"を用いてこれを破せられた。
"kāla (迦羅)"に関する執着というものが、外道・部派仏教に根付いていたのかもしれない。
観時品の釈と偈文「問うて曰く、歳・月・日・須臾等の差別有るが如く、故に知んぬ、『時(kālaとして)有り』と。答えて曰く、時(kālaとして)の住まることは得べからず、時(kālaとして)の去ることも亦た得がたし、時(kālaとして)若し得べからざれば、云何が時(kālaとして)の相を説かん。物(bhāva、当記事の本文中や先の問いにあるよう太陽や月などの存在)に因るが故に時(kālaとして)有らば、物を離れて何ぞ時有らん、物は尚お所有無し(cana bhāvo、それら存在すら語感や知能の認識・時間的変化の現象から存在が想定される事物であって実在しない)、何に況んや当に時(kālaとして)有るべけん。」(後略)



「三摩耶」とは、サンスクリット語の語根などから解釈すると"sam- (接頭辞)"が「同じ・等しい・ともに」という意味であり、"-aya"が「行く」という意味の"√i"の変化した形である。
近代の仏教学者・インド学者も、三摩耶"samaya"の解説に「倶(とも)に行く"coming together"」という直訳を用いたりもする。
接頭語の"sam-"とは、阿耨多羅三藐三菩提という単語の「三菩提"sambodhi, sambuddha"」の「三」が「等しい」の意味であるから、「三菩提」は「等覚」と訳せられる。
「三藐"samyak"」にも"sam"の文字列があるが、単語としては"saṃskṛta"や"saddharma"のような「正しく・完全に」という意味の副詞であって三菩提の"sam"とは異なろう。
「阿耨多羅・三藐三菩提」は「無上・正等覚(正しく等しい覚)」と訳せられる。

今、少し冗長な例を以て"sam- (同じ・等しい・ともに)"の意義を説明したが、「三摩耶"samaya"」とする場合には、どのように"sam-"が活きているかを説く。
「同じ・等しい・ともに」のうち、三番目の「ともに(一緒に)」の意義は、集会などを意味するわけで、集会のタイミングということを「時(回想されたもの)」と表現する。
これは「僧伽"saṃgha・サンガ"」という有名な単語の接頭語に同じであり、「僧伽(僧団)」の原義は「集まり・集団」なので三摩耶"samaya"と似る。
経典の冒頭の定型文のうちの「一時"ekasmin samaya"」であれば、「とある集会の時」という意味ありであり、常にこのような「実体が想像されそうな『時』の概念」を想起させない表現にしている。
一般的なサンスクリット語辞書には「時刻・時点」という説明が出ているかもしれないが、「時刻・時点」とは、前述の用法から発展した語義なのか、釈尊および龍樹菩薩在世からそういう意味があったのかは不明である。
一例として、「梵→英 (モニエル=ウィリアムズ)」1164pでは数ある語義のうち、「機会」という意味合いを説明してある"appointed or proper time, right moment for doing anything, opportunity, occasion, time, season"。
「英→梵 (モニエル=ウィリアムズ)」804pでは"time"に当たるサンスクリット語をデーヴァナーガリーで"काल‍ः, स‍म‍य‍ः "と綴る(末尾コロンのような文字をヴィサルガとして表記したがkālaḥ, samayaḥとして想定されているかは不明)。

迦羅と三摩耶に関する概説を示したが、龍樹菩薩ならびに悟りの人々と学者たちが「迦羅"kāla"」という表現についてどう考えているかは、中論の観時品大智度論の巻第一(うち終盤)における「時」の説明に預ける。
彼らにこのような理解があるから、そのような理屈が示されている。
なお、前者を「実時」、後者を「仮時」、と説明することもあり、「実時(実際に存在する時間の法)」という言葉の理解が、先述のように虚妄分別の原因となりかねないという。
結果的に「迦羅"kāla"」が仏教においては、「時食・非時食」というような「時(kāla)=午前・正午以前(対義語の非時はakāla, vikāla)」という意味に限定して用いるようである。





起草日: 20170522

本文前半(仏教における世俗法・世俗諦としての時間を説明する一連の項目)で、またしても大乗経典(漢訳経典)とスッタ・ニパータの共通性を示すこととなった。
仏遺教経・仏所行讃は共に日本・中国で多く参照された経緯がある。
両経の「睡眠」に関する仏の教誡は、現代日本に流布するスッタニパータの331~333(2章10経"Uṭṭhāna")と語彙がよく似ている箇所があることを念頭に置いて本文で引用した。
過去記事で大智度論などに見るスッタ・ニパータの教説を何度も紹介してきたが、このように「スッタ・ニパータ(部派仏教所持の衆義経・義足経)」として伝来せずとも、意義としては伝統的に日本・中国に浸透していたと見られる。

仏遺教経について文献学的に見ると、仏所行讃から分離した「加上説(上に加えて説く・説の追加)」ではないかと思う。
本文に引用した仏所行讃の偈は「大般涅槃品第二十六」のものであり、これは仏本行経(巻第七の大滅品第二十九)にも同様の箇所が見られた。
仏所行讃と仏本行経は名も似ており(大正蔵原本の注記には漢訳仏所行讃の別名が仏本行経であるとか漢訳仏本行経の異名が仏本行讃伝とある)、「品」の構成に差はあるが、原初はサンスクリット"Buddhacarita"であり、普及するにあたって漢訳までに内容が増えたり減ったりした部分があるのではないかと考える(かなり怪しい個人的見解)。
仏遺教経の内容としては、まず釈尊最後の直弟子「須跋陀羅(一般にパーリ語でスバッダ)」を度したという前置きがあり(須跋陀羅についてある人は釈尊滅後に阿羅漢果を得たと言うが何の仏伝に基づくか不明。仏所行讃仏本行経では釈尊の涅槃よりも先に「雨が小さな火を滅ぼすように涅槃に入った」とする)、続いて比丘たちへ大乗・小乗を問わない普遍的な道理などがシンプル且つ詳細に説かれている。
釈尊の実際の涅槃に際して似たような発言はあった(世が無常だから懈怠なく修行せよという教示は代表的)と考えてよいとしても、多くは馬鳴菩薩(アシュヴァゴーシャ)の慈悲心がお説きになったものであろうか?

仏所行讃自体、サンスクリット"Buddhacarita"の二十八品分で発見されていないので、この「大般涅槃品第二十六」に相当する箇所が馬鳴菩薩のサンスクリット語でどう表現されていたか判断できない(チベットにも中央アジアにも無いものか?)。
漢訳のように二十八品分が残るチベット語訳の、英訳版は無い(漢訳の英訳版はある 1 2)。
この経の注釈書は、インドのヴァスバンドゥ・世親(天親)菩薩の書として「遺教経論」があり、真諦三蔵が訳した(真諦三蔵は他の世親菩薩の書も多く訳した)。
仏遺教経と、インドで撰述されたはずの遺教経論について、梵語の本があるという話が確認されないので、曖昧な情報認識であるから「仏遺教経は仏所行讃から分離して教説を追加して整えたもの」という線を推量するのみである。
経典としてはそうであるとし、教説としては釈尊のものと考えてよい(内容の全編について世の文献学者としては「涅槃の夕べの最後の説法かどうかは判断しがたい」とする)。



続いて、当記事の起草日に近い2017年5月25日の日記メモから、一部抜粋をして載せる。
以下の記録内容は、本文前半における睡眠に関する話の補足ともなろう。
8時20分に排尿してから押入れで「痔のような腫れ(当記事注: 痔・痔ろう・ニキビ・褥瘡のようで10cm超ある・20170527動画(0:38~45)に写真例示)をかばう静養」を取ることにした。この際の独り言は「衆生は心の病を抱えている!心の病は坐って治療に励め!体の病を兼ねたらば寝て治せ!ただし寝る時も『綱渡り』の気持ちでいよ!気を抜けば足元は揺らぎ、地獄の釜や針の山に落ちる。綱を外れたときは掴んで離さないようにして何としても立ち直る。そのように注意して望みなさい」と。横になる・臥すと、数分後には眠気が増える。正念を保っていれば魔の入る余地がないことは仏説の通りだが、私はゆるみが多い。睡魔に襲われて追い払うごとに頭が痛む。お茶・コーヒーのカフェインは、やはり私が眠くなる時間帯における眠気を増やす行為へ歯止めをかけることができない(そもそも真の健康法を説く私は食品の効果・栄養を気にして記録を取っても依存しない)。カフェインを摂らないで午後を過ごしても、19・20時以後の就寝時は全然眠れないという顛倒現象は当たり前となっている。この間も母親は1階リビングでテレビを見たり、2階でバタバタと動くが、どう物音が鳴ろうと眠気は変わらない。このような時間が20~30分続いたのか、1時間以上続いたのか知らない。私が押入れを出た時刻は9時40分以後である。

睡眠に関する補足は、萌えの法門からも少し言及したい。
仏所行讃や仏遺教経に加え、律蔵にも「明相」という表現が見える。
明相とは、仏所行讃において睡眠時に忘れてはならないものとして説かれ、律蔵では睡眠時に忘れてしまうものとして説かれる。

「中夜端心臥 係念在明相」
「亂意睡眠(らんにずいめん)有五過失。一者惡夢。二者諸天不護。三者心不入法。四者不思惟明相。五者於夢中失精。是爲五過失。」

「明相」、それはまさしく、萌道においては、修行者が頂戴した「好色萌相」と考える。
甘美なる睡魔に屈して萌相もとい明相を見失ってはならない!
萌相を想う・念う人は、適度に睡眠を取っておきたいが、私のような5・6時間睡眠か、もっと短時間にできるような努力があってもよいと思われる。
昼夜に道念を絶やさず、想うべき相を失わない、そんな閑居求道者に私はお会いしたい。

・・・この「明相」とは、しっかり四分律などを披見すると「未出」といった表現に関連する。
つまり、「太陽・日の出」や「太陽の動きによって明るくなる状態」を指す可能性もある。
「明相を念にかける・思惟する」といった表現であれば、「世俗的時間を把握せよ・起きてからすべきことを忘れるな」ということか?

今更、パーリ経蔵を見直すとガナカ・モッガラーナへの教説(中部107経)に"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ dakkhiṇena passena sīhaseyyaṃ kappeyyāsi pāde pādaṃ accādhāya sato sampajāno uṭṭhānasaññaṃ manasikaritvā"があり、これは「中夜端心臥 係念在明相」の原意に通じている可能性がある。
この箇所の和訳はネットで「1. 夜の中分には右脇により獅子の如く足に足を重ね、念あり、正知あって、まさに起きるべしの想を常に作意しつつ臥せ」、「2. 夜の中更には、足の上に足を置き、正念正知のまま、起き上がる思いを作意しながら、右脇にて獅子臥をなし」、「3. During the middle watch of the night, lie down on the right side in the lion posture, foot resting on foot, mindful, clearly conscious, reflecting on the thought of getting up again」とあった。
こういった教説は、漢訳四阿含や漢訳律やパーリ経蔵に多く見られるようである。
「明相」という漢語は、瞑想などで思惟すべき対象(そのうち明るいものといえば仏様)を指すのではなく、「明るくなる状態」や派生した意味を包括する単語だと考えられる。
このように眠らないようにして臥せ、「明相の正念」を持つようにする必要が求められている。

現代の科学とか脳科学の方面では、横になって目を閉じただけでも睡眠効果が7割(または8割)得られるという話が聞かれ、科学的な噂はともかく、悟りの人・悟りに近い人・道心が堅固な人などは、心身共にそれで足りてしまうかもしれない。
悟りや道心とは、四諦の道からいえば苦を逃れた果報やその意欲や、菩薩の道からいえば智慧を得た果報やその意欲を指す。
どれであれ、私は悟りに遠く、道心が欠如しているので、指を咥えて眺める状況にあろう。
しかし、こうして学んだだけでも、今の私にやる気が沸いた気持ちである。
科学的な噂も含め、睡眠時間が確保できない・不眠症だという人々の心のケアにも繋がろうか、と思う(眠れないと自覚した悩みによる悪い精神の悪循環を一時的に止められる)。
「最低3時間、5時間、7時間は眠らないと不健康!」という主張は、それが出来る人のポリシーに留め、出来ない人々はこれらの説や発想を用いてほしい。
私は私で、「硬き褥に臥して思いぬ」という精神を大事にしようと思った。
これは、「押入れの中で横になりながら眠らずにいると良いアイデアが浮かぶ」ことを示すフレーズであり、私が2015年から幾度と発している(同年1月の和歌: かたきしとねにふせておもひぬ)。



【煩雑さを厭って本文中に挿入しづらかったネタ】
悟った人・阿羅漢果を得た人・無漏・無学の人が、どのように夜を過ごしているかといえば、全く想像がつかない。
睡眠時に射精することを、現代は「夢精」といい、仏典では「夢精出・於夢中失精」の語が見える。
小乗の説で、煩悩を尽くした阿羅漢の人は坐ったまま眠らないか横臥したまま正念を保つから、性的な夢を見ず、夢精しないらしい。
しかし、いわゆる大衆部の祖「大天(マハーデーヴァ)」は、彼が阿羅漢を自称しながらも夢精したという経緯を弟子(大天に仕えているのでザーメン汚れ袈裟を洗濯していた)に問われ、阿羅漢も天魔の作用によって夢精するという見解を示した(異部宗輪論「余所誘・ほかのものにさそわれること」=阿毘達磨大毘婆沙論「天魔所嬈・てんまになやまされる、夢失不淨・むせいする」)。
どちらにせよ、有学(学ぶことが有る=学び足らない)の人は性交や自慰を禁じた生活を送ってしっかり眠ると、夢精することは有り得る。

律蔵には、自慰・オナニー・マスターベーションなど故意の射精を禁じる「故出精戒"śukravisṛṣṭir, śukravisarga"」があり、僧残法"saṃghāvaśeṣa"という大勢(20人以上)の比丘への懺悔によって僧団に残してもらえる比較的重い罪に該当する。
律蔵は夢精について赦すようで、比較的重い罪「故出精(故意の射精)」にも相当せずに済む。
※律蔵の規定に厳密な比丘衆は今時いるか?僧伽・サンガというものが現存しているか?
無論、先の説にある正念を保っている人に憧憬・尊敬を懐くならば、夢精を自省すべきではある。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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