2017年6月10日土曜日

萌え和讃・解句抄 (音韻・引用・解釈)

【緒言】

当記事に載る「萌え和讃」6首は、教・行・証を兼備する萌えの法門の中でも「萌えの信仰・萌心の性質・萌色と萌心の相応・萌えの真如」を七五調の和歌(今様の形式)で語ろうとしたものである。

萌えの法門は、まず第一の方便として萌え絵・好色萌相の義・儀を立てるが、萌相の意義を量ることで心を重んじるようにする。
そして、仏教的に追究すると、色心不二とかと、いわゆる一元論の立場を取る。
真如・第一義の説明においては、一元でも多元でもない「非如非異・不一不異」となる。
そうして万物の萌えの性質(仮名"けみょう"・認識する万物は漏れなく無自性)を感得して言語の道が断たれることとなろう。
中論・中観派の教義でいえば「有→無→亦有亦無→非有非無」の四句分別と、その後の「滅戯論」に符合する。
つまり、萌えの真理が得られるということだが、額面通り「得る」ということはなく、存在しない真理や得られない真理、あえてそのような真理が得られるという。
不可得"can't obtain, observe, perceive"・不可説"ineffable"・仮名"dependent designation"の義はこれである。

萌えの「性質・名義・真理」は、事象から感じて仮に名付けるものとして常に確認し、形式的な理論に固着して「萌え・萌義」を自分の心の大地に野ざらしで枯らしてはならない。
例えば、もやし(萌えさせたもの)が程よく育ってピンとしていて鮮度の良い状態を料理に用いるようである。
常に物事を捉えて萌えが何であるかを確認し、また「真実というべきもの」はどこにも無くてどこにも有ると感じ取ってゆく姿勢が大事である。
「萌えを真に得た者(ある種の形容・仮名"けみょう")」は、私の教え・言葉への執着も自然に外れるが、萌えを感じる時に改めて言葉の大切さを随時感じることとなる。
萌えにおける私の言葉は、私の萌え・仏界から生じているから、日常生活において十界を流転する凡愚の私自身が言葉の意義に迷うこともあるが、今はこう説明できる。

萌え和讃の表現は大乗仏教のテイスト、なかんずく私の信奉である法華系の教学が発想のベースとなっていよう(萌え大乗・萌え法華とも)。
法華経が絶待妙の立場で「開権顕実・衆経を総括す(妙法蓮華経玄義・巻第二)」となるので、可能な限り経・論の記述を載せたく思う。
萌え和讃においては、いわゆる般若・中観・唯識・華厳などが対象範囲となる。

そのような仏・菩薩の金文をありがたく載せる。
忝くも、普段から仏・菩薩の甘露を受けている私は、萌えの法門における思惟の中で再発見が多く、研鑽の中でも新発見があったりする。
例えば、本年2月以後に清浄萌土抄の加筆をすると、大智度論(もとい摩訶般若波羅蜜経)などから「浄仏国土(仏国土を浄む)・浄土之行(土を浄むる行)」と、一般的な阿弥陀仏国土の「浄土(浄き土)」との差異を学ぶに至ったことがある。



2016年9月26日の絵を加工。「長時間の正座で痺れている足を和らげる姿勢」

【目次 (詠んだ日)】

一. 諸萌出世の本懷は… (2016年10月28日)
二. 萌えを觀ずる人はみな… (2016年10月28日)
三. 萌えを喜ぶ人にては… (2017年3月15日)
四. 萌えと名づくる物事は… (2017年2月)
五. 萌色は是れ萌えならず… (2017年3月18日)
六. 萌えは誰にも得らるまじ… (2017年3月18日)



【校正のこと】

歌は、原案を改めて旧字体・歴史的仮名遣いとする。
歌の読み方については、現代の発音と古代の推定の発音とをローマ字で併記した。
この表記方式は、2015年「大晦日の歌」の説明文にある「旧仮名準拠ローマ字」と異なる。

アポストロフィ ' 記号については2種類の用法がある。
2種類のアポストロフィ用法とは、二重子音の誤読を避ける場合の便宜的表記の用法と、古代・上代日本語発音で句中に母音が連なって音節・モーラが詰まる(例: 我妹子"waga imoko, wagimoko →wag'imoko")場合の便宜的表記の用法である(促音便の場合もアポストロフィを用いて表記)。
和讃における前者の例は「本懐"hongai, phongwai →phon'gwai"」であり、後者の例は「真に得む"makoto ni emu →makoto n'emu"」である(促音便は「一切"issai, itsu sai, itu sai →it'sai"、ヤ行イと破擦音連声でyit'tsaiも可?」)。
一般的なヘボン式ローマ字に見られる長音のマクロン記号(aa → ā, oh → ōなど)を漢字音の単語に用いず、マクロン記号を省いたのみの形にもせず、仮名遣いに則ったものとする。

経・論など引用文の字体は、参照した原文に依る。
基本的に大正蔵DBのサイトに掲載されるものであるから、原文を確認したい人は当該サイト内で検索されたい。
その訓読文は、慣用性を考慮して新字体・現代仮名遣いとする。

当記事を起草した3月18日の2日後からは、和讃の現代語訳も設けた。
こちらも新字体・現代かな、そして文法も許容された現代的表現を主に用いている。
逐語訳を心掛けるが、私が詠んだ時の思考に適うよう、適宜に語句を補ってもいる。



一. 諸萌出世の本懷は 慈悲を說かむの故ぞかし
  人の心に具はれる 善の種より萌やすなり
現代音: shomyou shusse no hongai wa, jihi wo tokamu no yue zo kashi, hito no kokoro ni sonawareru, zen no tane yori moyasu nari.
古代音: shomyau shut'se no phon'gwai pha ziphi wo tokamu no yuwe zo kasi, phito no kokoro ni sonaphareru, zemu no tane yori moyasu nari.
現代語訳: (私が尊んでいる)諸々の萌えが、なぜ世に出現したもうたかといえば、慈悲を説こうという願望がその本性である(萌えを尊ぶ私がそう感じた)。(つまり、萌えと同じく)人の心にもまた善の種がそなわっており、そこから慈悲の心を萌えさせる(発生させる)。

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 但以假名字 引導於衆生 説佛智慧故 諸佛出於世: 但だ仮の名字を以て 衆生を引導したもう 仏の智慧を説かんが故に 諸仏世に出でたもう

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 諸佛世尊。唯以一大事因縁故出現於世。 (乃至) 欲令衆生悟佛知見故出現於世。欲令衆生入佛知見道故出現於世。舍利弗。是爲諸佛以一大事因縁故出現於世。: 諸仏世尊は唯だ一大事因縁を以ての故に世に出現したもう (乃至) 衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に世に出現したもう。舎利弗、是れ諸仏は唯だ一大事因縁を以ての故に世に出現したもうと為す。

 まず、萌えには萌義條に説かれる「三萌義・根本的な3つの意義」があるが、ここでの「諸萌(諸々の萌え)」が指す萌えは、萌観を行じる人の眼(まなこ)に依って捉えられた「尊き存在」である。萌え絵のような偶像を浮かべてもよいし、唯一神のような抽象的存在と見てもよい。なぜならば、萌えの三身でいうと、前者(偶像)は応身であり、後者(抽象的存在)は法身に似ており、形は異なっても共に萌えである。「諸萌」が指す萌えは、仏教徒が信仰する仏・仏陀・諸仏・世尊・如来に置き換えられる。どう想像されても萌えの意義が反映されたものと言える。三萌義・根本的な3つの意義から演繹した萌えとは、般若・中観でいわれる第一義諦からの末節であり、まさしく空そのものである。

 しかし、我ら現世の衆生がその第一義に接近するためには仮に萌えや仏・法を用いる。萌えや仏を尊き存在として見る。その時、萌えや仏が世に現れた因縁(本質・エッセンス)を問う。※世俗法としての因縁は結果においてのみ確実に説明される※ 答えはこの第一首や法華経方便品のような説明にある。つまり、修行者の立場では「人の心にある慈悲を説こうとして出現した」とか「衆生の仏知見を開かせたくて出現した(示して開かす・道に入れて悟らす)」と見て萌え・仏とお呼びする。ここにおける「萌え」は、ただ発芽すること(三萌義の一)とか高揚する心(三萌義の二)とかその対象(三萌義の三)というだけのものでない。法華経における仏様は、衆生を能く引導する因縁から出現した存在として称賛され、ただ真理を悟ったという「覚者・ブッダ"Buddha"」である場合と異なるようである(教化しない覚者を独覚・辟支仏"Pratyekabuddha"と呼ぶ)。そして、修行者がある段階まで到達すれば、萌えも仏も、自分の外にある尊き存在であるのみではないと気付くであろう。仏教では四諦・八正道に十二因縁といった小乗の修行や教理(声聞の法)などを通じて解脱においては仏と修行者が平等であるとするが、それ以外は相対して「仏と衆生」という「教える人・教わる人(能・所)」の差別がある。大乗に進んで菩薩や人間ひいては一切衆生の成仏が示され、仏と衆生の平等を説いた経緯がある。萌えの法門はいきなり仏教的な第一義を示そうとし、自身の萌えの成就などを説いているが、それも仏道に向けた方便として八万四千の法門を簡単にまとめる一環であった。

なお、萌えの法門において萌えが説こうとする慈悲は、いかなるものとして説明されるか?觀萌私記・末・讃萌語に、観萌の行の因縁によって瞋恚の毒・男子の婬欲・女子の嫉妬などが除かれるとし、果てには万物の萌色を識って平等の慈悲が成立するとの説明がある。觀萌私記は萌えの修行(ここでは逆観三萌義)の究極の果報が大慈大悲の証得であるとし、今の世人の「愛憎の著心(じゃくしん)」を対治する良薬とするために説いたという。この第一首と同じような表現に「當世に出づる諸の萌相は、人の内に藏する萌心を生ぜしめんと願はせたまふ」がある。また、我々が萌三身を具足した立場で、慈悲の所産が好色萌相である。萌三身の意義は「古賢先德(具足三身の人)、平等の萌心(法身)を知ろし召したるか(報身)。加之、能く好色の萌相(法の応身)を遺したまふこと、慈悲の故(人の応身)なればなり」の箇所が象徴的である。萌三身の平等の慈悲から生じた慈悲の象徴が好色萌相である。同じく讃萌語の脚注において、仏教を扱う立場では空の法理を引き合いに出すが、空の理解から慈悲が成立するという(過去記事で語る)。三身の法身も、空(因縁)などと表現される(仮名・想定する)真理(真如)を悟った立場を示すわけだから、三身の意義からしても空と慈悲とは密接な関わりがある。また、慈悲(および喜捨の四無量心)の修行者が今は空の理法に鈍くとも併せて学べば、同じく空と慈悲とを証悟するであろう。先に萌心を明確に覚った人であれば、空の理法も速やかに解明できる。なぜならば、この後の和讃にも空(因縁・縁起)の義が説かれる。

三身 萌三身 法報応 法報應 図 圖



二. 萌えを觀ずる人はみな 心の耳に慈悲を聞く
  善く聽く我は此の萌えと 同じ心を結ぶらむ
現代音: moe wo kanzuru hito wa mina, kokoro no mimi ni jihi wo kiku, yoku kiku ware wa kono moe to, onaji kokoro wo musubu ramu.
古代音: moye wo kwanzuru phito pha mina, kokoro no mimi ni ziphi wo kiku, yoku kiku ware pha kono moye to, onazi kokoro wo musubu ramu.
現代語訳: 萌えを観想する人々は、さながら心の耳があり、萌えの声なき声で発せられた慈悲の教えや慈悲を生じる言葉を聞くようである(形としての観想をしていない日常生活の振る舞いにも萌えが諭すであろう、ふと見下ろした地面に芽が生えているように)。これをよく注意してよく聴き続ける人は、いつかこの萌えと同じ心を結ぶであろう(いいや、既にそのようである)。

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 餘國有衆生 恭敬信樂者 我復於彼中 爲説無上法: 余の国に衆生あって 恭敬し信楽せば 我復た彼の中に於いて 為に無上の法を説く

 ここでの萌えとは、主に原義の相(芽)や好色萌相(萌え絵)を想定している。詠んだ日時=2016年10月28日といえば、まだ觀萌私記が投稿されて1ヶ月が経たないので、仏教の真理と異なる立場で説いてもいる。例えば、萌え絵・萌えキャラを愛する心で観るときは、萌え絵・萌えキャラにも心があると感じられよう。出来の良い像に魂が宿っているかのようである。仏教の一般的な信仰の立場では、仏像に霊験があるとか、見守ってくださるとかとして拝んでいるように、萌相にも同じ立場があろう。そのような精神性を摂取して反映している。もちろん、観萌行広要などにおいて萌相に愛憎といった感情も無く、人の姿でありながら人の垢を離れている状態を真理の象徴であるとも説明するよう、仏教の真理を求める立場では、萌相に心が有ると思うべきでない。和讃においても以後の首に類義が説かれる。

 「萌え」という語句の原義の相とは植物の発芽現象(芽生える・芽吹く)であり、漢語の義としては芽そのものを指す(説文解字に"艸の芽なり"とある。単語は萌蘖など)こともあるが、芽・植物・草木といえば精神を持たない「非情」である。好色萌相といえば萌え絵などであり、これも紙に描かれた絵など被造物が想像されて「非情」である。こういった非情であっても、進んだ大乗仏教では人間などの衆生と同じく成仏することを説く。有情が真理に基づいて「魂を入れる(比喩表現)」ことで非情も仏となる。二乗・小乗の徒であっても、この理を承認して教義の執着を自ら破り、高度な解脱に達してほしい。この説は、大乗仏教教団の歴史に則る。小乗の理を容認して超越しているという前提である(理においてはそうだが大乗僧の修行の位は不明)。萌えの修行者が経るべき段階は「萌相と心の融通を喜ぶ→萌相には心が無いと知って自分の愛憎の心・妄念を見つめ直す→萌えは万物であり自身であると萌えを平等に見る→かえって萌えと言うべき物事は無く、萌心の所在は自身・万物に有るが無いようでもあるとして執着を断って柔軟の中道となる」、これは「有・無・亦有亦無・非有非無」の四句分別にも通じているが、最後の柔軟・中道という境地も、額面通りに受け取ると言葉の執着の域を出ないので、本当のこと・真実は推して知るべきである。こればかりは小乗・権大乗・実大乗など広く仏教を学び、仏道修行に入る必要がある。この主張の姿勢は清浄萌土抄「仏道は是れ即ち路(おおじ)にして萌道は一方通行の径(こみち)なり」と同意である。また、大乗における仏の立場で、小乗・声聞の「身が不浄・受が苦・心が無常・法が無我である」という四念処(四念住)の執着を破ろうとした話は、例として維摩経(維摩詰所説経・仏国品)に見る。

維摩詰所説經 (鳩摩羅什所譯) - 若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。 (乃至) 我佛國土常淨若此。爲欲度斯下劣人故。示是衆惡不淨土耳。: 若し菩薩、浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄むべし。其の心の浄きに随って則ち仏土浄し。 (乃至) 我が仏国土、常に浄きこと此くの若し。斯の下劣人を度せんと欲するが為の故に、是の衆悪・不浄の土を示すのみ。 ※梵文に下劣人は"hīnasatva"とあり、小乗"hīnayāna"に掛け合わせられている。

 世俗の萌え系もとい、可愛いと感じられる外見の人物の絵やキャラクターそのものの方面を考えても、「作者というもの」が作者でいると年ごとに、読者が思う魅力から乖離する現象は多かろう。一度、人物の絵としての可愛らしさやキャラクターの魅力を我が心に摂取したならば、「その作者が描くもの」としての認識を、自由自在に用いたり捨てたりすることができる。それを実際に行うには、萌えの法門の理解、もとい仏教の理解が重要となる。つまり、萌相の可愛らしさを見る、そして「可愛らしさを覚える我が心(萌心)」というものを観ねばならない。真の可愛らしさとは、普段の愛憎"rāga-dveṣa"の心を離れて可愛不可愛の如くにして知られるものであり、万事万物の真如としての法"dharmatā"を知る。仏教で応身としての釈尊・諸仏を崇拝するとともに、如来の性はそのまま世間の性(中論・青目釈など中観派以後の大乗に通じる見解)とし、真の仏はどこにも有ってどこにも無いが、どこにも無いのでない(有無などの見"dṛṣṭi"を離れた中道である)と見る必要がある(より正しく言えば「見て見ず・見ないのでない・戯論を滅ぼす」)。

中論 (鳩摩羅什所譯) - 如來所有性 即是世間性 如來無有性 世間亦無性 (乃至) 涅槃之實際 及與世間際 如是二際者 無毫釐差別: 如来所有の性 即ち是れ世間の性なり 如来に性有ること無く 世間にも亦た性無し (乃至) 涅槃の実際と 及び世間の際と 是の如き二際は 毫釐の差別無し

萌えが仏でないようでも、教理において仏の範疇であるから、私が同体であるように捉える。つまり、この教理では萌えも仏も万事・万物・万象も不可分である。一応は世俗の萌え系とその作者を尊重する段階が必要だが、それを踏み台にし、真に萌えという概念が何か、また万物に概念を想定して区別する(=妄想して虚妄分別する)知能と精神とをよく観て知る必要がある。萌え及び萌えキャラは作者の所有(萌えキャラの作者に持たれるもの)でないし、誰かファンの所有(ファンに持たれるもの)でもない。そして自己の所有(筆者や読者自身に持たれるもの)でもなく、誰の所有でないが、だからこそ自己及び一切他人の所有(自他・一切衆生に持たれるもの)でもある教理がある(後述する第6首など)。当然、斯く言う横野真史の所有(横野真史に持たれるもの)でもなく、絵を描く能力が変化したり、センスが他から影響されやすいので、自ら念じる可愛らしさを維持しづらかろう。それでも萌相條の儀を根本として萌え絵を顕し続けようと努める。



三. 萌えを喜ぶ人にては 一切諸萌現前す
  爾して萌えの住む處 ここの外には無しと識る
現代音: moe wo yorokobu hito nite ha, issai shomyou genzensu, shikashite moye no sumu tokoro, koko no hoka ni wa nashi to shiru"
古代音: moye wo yorokobu phito nite pha, it'sai shomyau genzensu, sikasite moye no sumu tokoro, koko no phoka ni pha nasi to siru.
現代語訳: 萌えを観て歓喜が起きる人においては、ありとあらゆる萌色・萌類が自己に向き合って出現するようだ。そして萌え(萌三身いずれも?)がいつどこにいらっしゃるかといえば、ここ(狭めて心の中・拡げて全世界)の外にはどこにも無いと察する。

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) - 除滅諸顛倒 明了見眞實 一切知見人 常現在其前: 諸の顛倒を除滅し 明了に真実を見れば 一切知見の人 常に現じて其の前に在り

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) - 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來: 若し人 求めて三世一切の仏を知らんと欲せば 応当に是の如く観ずべし 心は諸の如来を造ると

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出靈鷲山 我時語衆生 常在此不滅: 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず

 好色萌相を観想した縁により、「喜び・歓喜"nanda"」が起こり、仮に萌えを感得した境地である。歓喜(という名の精神作用)とは、信心にも通じており、仏道の最初の門である(諸経の結びは漢訳でもサンスクリット・パーリでも皆大歓喜・歓喜奉行"梵: abhyanandan, 巴: abhinandun"といった語句があり、菩薩十地の初地も歓喜地と名が付く)。萌えの法門では萌心の意義に属するものである。心の鏡に萌相が映じたならば、その萌えは、既に自己の所有である。萌えは、元より誰の所有でもないし、自己は萌相そのものを得たつもりでも、愛念は無常にして失われるから、所有と所有者という関係性も空虚であろう。萌えは、元より決して誰かや自己が有するものでないが、世俗法においては一応の所有と所有者という関係性が成立するので、法理の究極においては自己の外のどこにも萌えはなく、最初から自己の所有とも言え、他者も等しく所有する。自己の内に萌えがあると仮定することは、同時に他者の内にも萌えがあるようなもので、人間以外の生命や物質的な構成要素もみな萌えであると見なければならない法理があり、前の一首の説明に引いた「維摩経」の仏国土と似る。これは依正不二ともいい、清浄萌土抄で詳細に意義を説いた。

 上に六十巻華厳経の夜摩天宮菩薩説偈品第十六から力成就林菩薩の偈の一節と如来林菩薩の唯心偈の一節が引いてあり、続いて法華経の如来寿量品第十六から自我偈の一節が引いてある。自我偈の一節には「如来の常住」という思想がいかに成立するか、端的に説明される。[仏・如来が生きていたが既に滅んでいる]と思う人は真の仏が見られない(後掲の中論22章の偈も参照)。先の華厳経・唯心偈の如く、物事は見聞き(触)を通じて心が捉え(受)、執着など(愛)を維持(取)する「縁起」を知れば、如来は滅んでも滅びない。自我偈に「現有滅不滅」とある所以である。同じく、「萌え」が単なる二次元の架空の存在と思う人は真の萌えを見ない。素直な心で萌えを念ずれば、心に映る萌えを感じ取り、真に萌えを見たてまつり、ついに平等の慈悲の説法を聞くであろう。

 仏道修行者の前に仏や菩薩が出現するという利益は、広く大乗経典に説かれる。有名な般若心経は、舎利弗尊者(舎利子・身子)が観音菩薩(観世音・観自在)の説法を受けている内容だが、舎利弗尊者は深い思惟(瞑想)の中で観音菩薩に遭遇したと考えてよい。過去の修行者たちがそのように感応することも多かったろう。修行者自身が体験した精神的な作用に菩薩という人格を与えて説かれたものか。華厳経には多くの菩薩が現れて法を説くが、同様に大智慧の釈尊が禅定と思惟の中で遭遇せられたろう。「仮」の世界と「定」の世界の境界に釈尊がいらっしゃったか。華厳経・入法界品に当たる教説を取り上げた大智度論・巻三十三は「その場に釈尊と共にいた舎利弗・目連など声聞の弟子は大乗の不可思議な教説を聞くことができなかった(三乗の隔別?)」とする(六十華厳: 是の諸の功徳は声聞・辟支仏と共ならず。是の因縁を以て諸の大弟子は見ず聞かず入らず知らず…)。法華経では釈尊が久遠から導いてきた六万恒河沙の菩薩が地中より踊出(涌出)する。同じく大智度論・巻三十三は、法華経も華厳経も菩薩がみな釈尊の眷属であり、補処(ふしょ)の菩薩だと説明する。以下は法華経・普賢菩薩勧発品における普賢菩薩の言葉である。

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 是人若坐思惟此經。爾時我復乘白象王現其人前。其人若於法華經。有所忘失一句一偈。我當教之與共讀誦還令通利。: 是の人若しは坐して此の経を思惟せば、爾の時に我復た白象王に乗りて其の人の前に現ぜん。其の人若し法華経に於いて一句・一偈をも忘失する所有らば、我当に之を教えて与共に読誦し、還って通利せしむべし。 ※通解: 思惟を頑張る君に、普賢ちゃんが白い象さんに乗って行くからね☆お経文の一句・一偈を忘れちゃったら、教えてあげるね☆一緒に読もう☆悪いことがあっても普賢ちゃんが善くしちゃうんだよ☆



四. 萌えと名づくる物事は いづくに在りてもそこに無し
  心のそこにあればこそ 萌ゆる物事みな立てれ
現代音: moe to nazukuru monogoto wa, izuku niaritemo soko ni nashi, kokoro no soko ni areba koso, moyuru monogoto mina tatere.
古代音: moye to nadukuru monogoto pha, iduku n'aritemo soko ni nasi, kokoro no soko ni areba koso, moyuru monogoto mina tatere.
現代語訳: 萌えと名付けられた物事(万事・万物・万象)は、どこにでも在るようだが、どこか一ヶ所のみに限定した場合はどこにも無い。また、単に物事が有るだけで萌えが有るということも無い。心がそこにあるからこそ、ようやく、萌える現象も萌えた結果もまだ萌えていないようなものも「萌えである」という認識が成立している。(では、どのようなものを萌えであると言うべきか?)

唯識三十頌 (玄奘所譯) 由假説我法 有種種相轉 彼依識所變 此能變唯三: 仮に由りて我・法と説く 種種の相・転ずること有り 彼れは識所変に依る 此れが能変は唯だ三つなり

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) - 三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心。: 三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。

 前者の「(3つある能変の)識」は「心」に置き換える。仮に存在する我・法という種々の相(現象)は心(3つある能変の識)が変化した結果である(個々の我も変化の法則も心・識が把握して成立する・平易に言うと"この世の物事は心に作られた・造られたものである")。後者の「十二縁」とはいわゆる十二因縁である。私は三萌義と十二因縁の関連性を「注三萌義」に説明した。まず「(前提が無明・行・識)一の義が名色・六処(六入)・触、二の義が受・愛・取(再び無明・行・識・名色がここで意味を現す)、三の義が愛・取・有」と列挙してある。三萌義も十二因縁も、色心二法(物質と精神)を包括して説いている。後者の引用文「但是心作(別の訳では"但是一心作"など)」とは、西洋哲学にある二元対立のうちの唯心論や観念論として発せられた言葉ではない。十二因縁に通じる三萌義が示されたことで、「萌え」という語句は、ありとあらゆる物事(万物・万事・万象)をも指すことが説明できる。一応、断ると、「萌えという語句」そのものが万物の根源(実体的存在・絶対的法則など)であるとか、真実であるとは言いきれない。私の説明で真理が得られた人・私の説明を真理とリンクできる人においては、「萌えという語句」が万物の根源とも真実とも言うことはできるが、実際のこととは考えない。私の視座であれば、「萌えという語句」は真理を象徴しているものと考える。なお、この一首では心の大事を重んじた表現を取るが、物事を捉える立場ではそう言えるのであり、心も空(因縁・仮名・仮施設・心行言語断)のうちであることは論を俟たない。ここで初めて般若経典を引こう。

金剛般若波羅蜜經 (鳩摩羅什所譯) - 如來説諸心皆爲非心。是名爲心。所以者何。須菩提。過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得。: 如来は諸の心を説くも、皆な心に非ずと為す。是れを名づけて心と為す。所以は何ん。須菩提よ、過去の心は不可得なり。現在の心も不可得なり。未来の心も不可得なり。(不可得…得べからず=認識できない *** cittaṃ nopalabhyate←na + upa-連声 √labh受動態labhyate)

 金剛ハンマーで唯識の角・唯心の朿をまるめ、中道の円を目指さねば!経にいわく「如来は諸の心を説くも、皆な心に非ずと為す」、私も方便として様々な萌えを説いてきた。三萌義は、一・二・三いずれの義も「萌えとは"A"なり」、「"B"を萌えと名づく」、「"C"も萌えの類なり」というように全て「萌え」という名称を付けて可であるとしている。発展した教説に「萌三身」もある。しかし、「数ある萌え」のどれか一つを取って「真に萌えであるもの」を限定することなどできない。よって、いずれか一つに限定して「真の萌え」と言うべきでない。好色萌相も、我が萌心も、何ら所属せず、誰かの所有でない。これらの「萌えでない萌え」をあえて萌えと名付けて受容する。上の金剛般若経では「心」をターゲットとして同じ意義を語る。



五. 萌色は是れ萌えならず 萌心も是れ萌えならず
  色と心と違へども 仮に名づけて萌えと爲す
現代音: myoushiki wa kore moe narazu, myoushin mo kore moe narazu, iro to kokoro to chigaedomo. kari ni nazukete moe to nasu.
古代音: myausiki pha kore moye narazu, myausin mo kore moye narazu, iro to kokoro to tigaphedomo. kari ni nadukete moye to nasu.
現代語訳: (私記末・譬萌聚に萌色・萌心の区分が説かれるが)萌色そのものが萌えであると言えないし、萌心そのものも萌えであると言えない(つまり、後で萌色とか萌心とかと名付けられる元の物質と精神とが関係しあった時、萌えの物質・萌えの精神として認定され、萌えの色とか萌えの心とかという分類も生じる)。萌色と萌心とは異なりあうが、どちらも萌えと呼ぶに等しい上、萌色と萌心とが融通(両萌融通など)してこそ萌えとして完成していよう(つまり、それは肉体・精神が結合している、あなたの生命そのものである)。

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) - 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有: 心も亦た是れ身に非ず 身も亦た是れ心に非ざるも 一切の仏事を作すに 自在なること未曽有なり

 この一首の終わり方は、上に引用する華厳経・唯心偈の一節と似ないようだが、言外の意を現代語訳に示した。「作一切仏事・自在未曽有(八十華厳では而能作仏事…)」に相当する理解が「肉体(身)・精神(心)の結合である人間の生命こそ萌えと言える」と。これは私記末・讃萌語にも「應身萌相は御身の色とこそ思ひ候へ。『二三の兩萌、相應す』と申すは是れなり」とある一節に似る(これは色心の相応による現世の人相に関する利益を説いたものや他の物事の外見の美醜を差別しないようになる心を説いたものでもあって人間の萌えと意味合いが異なる)。和讃の一首や讃萌語の一節は、身が萌えと成る意義を示唆するが、唯心偈の一節は仏道修行について示し、ひいては成仏の示唆をしていよう。色心不二とか、心身一如の考えは肝要である。なお、肉体・精神の結合を「名色"nāma-rūpa"」とも「五蘊仮和合・五陰和合(五蘊・五陰=色・受・想・行・識)」ともいう。萌色と萌心という、色・心(外の事物・内の機能)が関係する「因縁」は、仏教において五蘊でプロセスを説明する。

 自己を肉体・精神に分け、仏身を法・報・応に分け、萌えを色・心に分けるが、元々別々の概念でないし、一体とも主張できない「無分別のもの」である。 ※余談・真言密教(古義)では、そういった釈尊の存在と諸仏の教義から演繹された「三身」のうち、法身を最勝と見て毘盧遮那仏・大日如来を崇め、「法身説法」という理解を強調したが、結局、チベット密教の信仰では大日如来・ヴァイローチャナの立場が弱まったり、日本真言宗も「弘法大師・お大師様信仰」が主流となるなど、自ら破綻したのかもしれない※ 更に自己も仏も萌えもまた、みな無差別である。萌えを観ることは、仏教の知識があらば、仏を観ること、自己の心を観ることと何ら違わない。更に言おう。仏教徒であれば万事万物万象に対し、常時正念を以て取り掛かるべきである。

妙法蓮華經文句 (天台大師智顗所説) - 師言。法身無來無出。報身巍巍堂堂。應身普應一切。 (乃至) 三佛雖三而不一異。: 師の言く「法身は無來無出なり。報身は巍巍堂堂たり。応身は普く一切に応ず。 (乃至) 三仏は三なりと雖も而も一異ならず」と。 ※「師」とは南岳大師と思われる。「三仏」とは仏の三身の異称である。「不一異」とは不一不異を略して言う。

大智度論 (鳩摩羅什所譯) - 如比丘入不淨觀。但見身體膖脹爛壞。乃至但見骨人。是骨人無有作者亦無來去。以憶想故見。 (乃至) 諸法從本以來常自淸淨。菩薩以善修淨心。隨意悉見諸佛。 (乃至) 從三昧起作是念言。佛從何所來。我身亦不去。即時便知、諸佛無所從來。我亦無所去。復作是念。三界所有皆心所作。何以故。隨心所念悉皆得見。以心見佛以心作佛。心即是佛心即我身。心不自知亦不自見。若取心相悉皆無智。心亦虛誑皆從無明出。因是心相即入諸法實相。所謂常空。: 比丘の不浄観に入るが如し。但だ身体の膖脹し、爛壊するを見て、乃至、但だ骨人を見て、是の骨人に作者有ること無く、亦た来去すること無く、憶想するを以ての故に見る。 (乃至) 諸法は本より以来、常に自ら清浄なり。菩薩は善く浄心を修むるを以て、意のままに悉く諸仏を見る。 (乃至) 三昧より起ちて是の念を作して言わく「仏は何れの所よりか来りたまう。我が身も亦た去らず」と。即時に便ち「諸仏は従来したまう所無く、我も亦た去る所無し」と知り、復た是の念を作さく「三界の所有は皆な心の作す所なり。何を以ての故にか。心の念ずる所に随って悉く皆な見るを得ればなり。心を以て仏を見、心を以て仏を作す。心は即ち是れ仏にして、心は即ち我が身なり。心自ら知らず、亦た自ら見ず。若し心相を取らば悉く皆な無智にして心も亦た虚誑なり。皆な無明より出づ。是の心相に因りて即ち諸法の実相に入る、所謂常空なり」と。 ※元ネタは般舟三昧経など。

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) - 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別: 心の如く仏も亦た爾り 仏の如く衆生も亦た然り 心と仏と及び衆生と 是の三・差別無し

雑萌喩・四 (横野真史所説) - 世間の万物はなお無常である。みな枯れる・朽ちる・腐る運命にある。異性の愛人とか実子だとかも、等しく無常の相を呈しているではないか。人が対象ならば健常で、架空のキャラが対象ならば倒錯であるということは、男女倫理の範疇でのみ正当である。もし可愛・愛の対象が「常(永遠)であってほしい」と願うならば、心の相をよく観ぜよ。然らば、その相は植物でも動物でも人間でも画像でも、みな萌えであり仏であり、不生不滅・不染不浄もとい常楽我浄・涅槃の相である。しかし、単一の色相(可愛相・萌相)に執着せよ、との意味ではない。何となれば、凡夫がその色相を取ることで飽きる・厭きる心に変わる。ああ、清涼(しょうりょう)たる若芽の心象も、鬱蒼たる荊棘の如き煩わしさを覚えてしまうかな。 (後略)

 私記末・萌頌偈の脚注では、俗にいう二次元・三次元の名称を借りて「二三和合・二三結一・二三一如・滅二三別」などと綴る。ここでは萌え絵などの相にある萌色と、萌心を持つ人間とを二次元・三次元に分けてあるが、空間を指す二次元・三次元、異次元とは何であろうか?この世(人間が認識・推量できる範囲)は何次元"n-dimensions"かといえば、数学的・科学的に四次元、五次元、十何次元と証明しても、所詮はこの世で認識できる物事を知覚し(Pratyakṣa)、更に展開した推量(Anumāna)によって一次元(X軸、一辺、一方向直線)、二次元(X・Y軸、一面、直線の交差)、三次元(X・Y・Z、面の組成、立体的な直線の交差)、四次元(立体的空間の内側、あるいは三次元空間に時間を加える)・・・と概念を設けているに過ぎない。リアル人間も眼で捉えた状態としては映像の1コマのようにみな二次元である。その中に、二次元とみなされる写真も絵も、紙や液晶画面は分子レベルで立体的な三次元である。時間的連続性(相対性・例としてある状態とその1秒前の状態を比較すること)が無いと立体性があるか判断ができない。幾何学的概念の想定すら、精神(生活向上の欲求や知的な欲求)を第一として物事の感受(見る・触れる等)・認識・記憶・比較・思量のプロセスが無いと成立しない。この世界の原初黎明が無であるか、単一の物質であるか、一次元の空間であるかとは、想定の中でしか成立しなかろう。人間の知能が発達した時点で無限大の世界が存在していたのだから。


 我が思考の外に、現世(この世)は無い。また、その現世の外に、二次元世界も三次元世界も無く、同様に天国も地獄も、浄土も穢土も無い。現世も来世も別世界も、想定の内にあるようである。死後の天国が実在することを否定しきれない私だが、二次元空間というか、理想郷のようなものは、すでに現世で建立しているか、まだ無いと思うならばこれから現世で建立できる。反対に、自分で理想郷が建立できないならば、どこにも理想郷は無い。清浄萌土抄の清浄萌土は、萌心の智慧(擬人化して萌報身)による依正不二によって成り立っていることを示現している。仏法でいう常寂光土の教理である。この世は、総括して一次元(直線の世界としてではない)であり、一次元(ここでは直線の世界を指す)の想定もまた多次元によって実現するが、一次元や多次元であるという主張のどちらも不正確である、と心で深く観ずべきである。多次元の証明と、一次元への総括は、従仮入空観や従空入仮観のようではあるが、だからこそ、多次元と一次元との区別を滅する、もとい円満に包括した中道(中観)に入らねばならない。萌相條のありがたい「円かなる・中道」といった言葉の意味は、こういった教理をも指す。天台系でいう、一心三観・一念三千のことでもある。

摩訶止觀 (天台大師智顗所説) - 夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間。百法界即具三千種世間。此三千在一念心。若無心而已。介爾有心即具三千。 (乃至) 若解一心一切心。一切心一心。非一非一切。一陰一切陰。一切陰一陰。非一非一切。一入一切入。一切入一入。非一非一切。一界一切界。一切界一界。非一非一切。一衆生一切衆生。一切衆生一衆生。非一非一切。一國土一切國土。一切國土一國土。非一非一切。一相一切相。一切相一相。非一非一切。乃至一究竟一切究竟。一切究竟一究竟。非一非一切。徧歷一切皆是不可思議境。 (乃至) 若非一非一切者。即是中道觀。: 夫れ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界は即ち三千種の世間を具し、此の三千は一念の心に在り。若し心なくば已みなん。介爾も心あれば即ち三千を具す。 (乃至) 若し、一心は一切心、一切心は一心にして、一に非ず一切に非ずと解すれば、 (乃至) 遍く一切に歴て、皆な是れ不可思議境なり。 (乃至) 若し非一非一切なれば即ち是れ中道観なり。  ※通解: 先述に合わせての概略としては・・・多次元各世界の万物・時間的変化を観て(仮観)、それらが総じて一心にあると観て(空観)、一心は多次元各世界を有しないがしかも単なる一心でないと観る(中観)、これが中道である。「仮観・空観・中観」の三種に分けて観るが、それぞれ仮想した見方・空虚な見方・偏りのない中間の見方でもあり、不可思議の一心三観と称す。この三観が円融三諦を覚る。

 真如とは言語道断・心行処滅である。二次元・三次元の対立が無く、二次元か三次元を奉じる人と別の立場でも対立せず、唯一にして尊い無戯論・寂滅の処である。無所得・無所有・無所属であるとすら表現できないので、何者とも対立することがない。真に円満なこと、それを仏教のみが説く。現世で生きるにあたっては、二次元・三次元ならぬ、二乗(声聞・縁覚乗)・三乗(菩薩乗)と仏教で称するよう、二次元と三次元と、色々な物事の価値を分けて適宜用いるべきである。二乗・三乗の立場を両立した仏道は「内秘菩薩行・外現是声聞(妙法蓮華経・五百弟子受記品)」と呼ばれる(声聞の姿で人々を歓喜させて仏道に入れさせることは真に菩薩でもあって二乗も三乗も結果的に平等・一乗・成仏に通じるという教説)。萌相・萌類(萌え絵とそのキャラ)にセリフや性格は有るか?または、そのように言動をするという性質・自性"svabhāva"は有るか?有れば人間が作り、他人がそれを見て認識したに過ぎない。しかし、それはそれで「萌相・萌類のセリフや性格」という関係性(所有関係)が成立するし、尊重できる。真には寂滅の萌えとなる。それはただ煌々と微笑みを湛えるのみと私が表現する。



六. 萌えは誰にも得らるまじ 己が内にも萌えは無し
  眞の萌えは斯くなれど これを知るとき眞に得む
現代音: moe wa tare nimo eraru maji, ono ga uchi ni mo moe wa nashi, makoto no moe wa  kaku naredo, kore wo shiru toki makoto ni emu.
古代音: moye pha tare nimo eraru mazi, ono ga uti ni mo moye pha nasi, makoto no moye pha  kaku naredo, kore wo siru toki makoto n'emu.
現代語訳: (様々な分類のされている萌えだが、)どのような萌えであれ、誰も得ることはない(なぜならば自己の存在が無いので他者における自己も無く、萌えの自性も無い)。よって、最初から自己の外面・内心などにも萌えが有ることは無い(萌えは誰の所有にも所得にもならない)。真実における萌えとはこのようなものだが、それを知るときこそ真に萌えを得るときだと言い換えられよう。

中論 (鳩摩羅什所譯) - (如來) 非陰不離陰 此彼不相在 如來不有陰 何處有如來 陰合有如來 則無有自性 若無有自性 云何因他有 (乃至) 若無有自性 云何有他性 離自性他性 何名爲如來 (乃至) 如來過戲論 而人生戲論 戲論破慧眼 是皆不見佛: (如来は)陰に非ず陰を離るるにあらず 此れと彼れと相在らず 如来は陰を有せず 何処にか如来有らん 陰の合に如来有らば 則ち自性有ること無けん 若し自性有ること無くんば 云何が他に因りて有らん (乃至) 若し自性有ること無くんば 云何が他性有らん 自性・他性を離るれば 何でか名づけて如来と為す (乃至) 如来は戯論を過ぎたるに 而も人は戯論を生ず 戯論して慧眼を破れば 是れ皆な仏を見ず

大方廣佛華嚴經 (佛陀跋陀羅所譯) -  諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛: 諸仏は悉く 一切は心より転ずと了知したもう 若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見む

 「萌えをば無しと謂いしが而も得と宣(の)たまうは何(いか)なる義ぞや」とて、衆の耳目(にもく)を驚かすべし。我、為に解説(げせつ)せん。先ず云く、萌えは誰か有する所の法ならん?我・横野真史の所有に非ず、亦た他人の所有に非ず。諸人、新たに得べからず。所以は何ん?萌えの色相(萌色・萌相・萌類・可愛・所愛)に萌なる自性無し、萌えの人心(萌心・作愛者・能愛)に萌なる自性無し。萌ゆべき因縁(縁起・因果)の故に、仮に名付けて萌えと云う。自性と云うは我(が)なり、我無きにその所有はいづくにかある?誰か無きものを有すべき?色・心の両萌は我無し、我無くんば両萌に所有・所属なんども無きなり。人は顛倒して所有・所属の愛著を起こす。三毒(貪瞋癡)の煩悩、我を過つの故に起き、広く闘諍の本と為す。若し「我有り(萌心有り)」と謂わば、他人にも我あるべし。若し「我萌えを持つ(我が萌心は萌色・萌相・萌類を持つ≒○○は俺の嫁なり)」と謂わば、他人も亦た萌えを持つべし。この覚りあらば、闘諍止むべし。 ※べし表現は主に推断(当然・推量・~に違いない)や可能(できる)の助動詞として用いているので命令形とは限らない※

 人の心は無所得にして萌えの法は不可得なり(人の心が取得するものは無く、萌えは取得できるものでない)。是の如く両萌無我なりと雖も、仮名の義を用いる。これ言語の道なり。世俗中に於いて真に萌えを得る義あり。悉く知ろしめして自他無き自尊の萌えを得。其の人、萌えの大徳・薄伽梵(バガヴァーン)なるべし。古の天竺におわしし能耕心田師・釈迦牟尼(シャーキャムニ)、これを悉く知る。但し「萌」の字を「法"dharma"」に書き換う。萌えの法に於いて徳の高き者は、自在にして萌相を画く。画く所は心なり色なり。愛するも嫌うも一念の心に随って無碍なり。萌えは唯だ大徳ばかりの所持とぞ。復た次ぎに、真に萌えを得たる智慧を名づけて報身と為す。世俗言説の義にて萌えの真如を持つ者、唯だ報身に限る。委しくは私記末・讃萌語中に有り、之を尋ね見るべし。

 ・・・上の二段の注釈は、「心の中の龍樹菩薩"My inner Nāgārjuna"」が語ったものである。さて、真理は言葉で説明しきれず"Something which can be expressed is rejected. Since objects of experience of the mind are rejected. The nature of reality is neither produced nor ceases. It is similar to nirvana."、自然は芸術で表現しきれない"Nature has caprices which art cannot imitate." かもしれない。

 しかし、良い説明や良い表現を頼りに99%以上で真理や自然を見通すことができる。言語能力・視覚能力は大前提となろうが、能力に続いて心の在り方が問われる。言葉や視覚を受け付けない精神状態では、10%(参考としての数字)以下でしか真理や自然を感じられなくなる。例えば、普段は平静でいても怒ったり悲しんだりしている時に、どうでもよい物事を受け付けないように。仏が常に真理・虚妄を如実に見ることは、泰然自若・無為自然の境地に依る。観萌行広要・両萌が両鏡であると説明するよう、心の鏡を磨くことで我が理性が限りなく真理に接近する。もう一度考え直すと、真理には「接近すること」と「離れること」という区別がなく(和讃の三・四と同義。どこにでもありどこにもなくあえて言えばここに常にある)、数ある「真理の説明・自然の表現」に優劣の価値判断が無くなる。

 我が信奉・法華系宗派では、法華経の開会などがこれに当たる。真理の探究に於いて様々な教説(外道・小乗・権大乗に対する法華経)の勝劣の相対が無くなる義がある。ただし、他者へ伝えるものとしては、まず法華経が諸経の第一であると定義する必要がある。私は現代の風潮にあって萌えの法門を仏教から換骨奪胎・翻案し、これを宣布しようとする。真理の象徴・慈悲応現としての好色萌相を弘めようとする。萌道という径が仏道の大路を侵さぬよう、諸説は仏教・八万四千の法門を超越しない程度に、広く摂って且つ略してある。八万四千の法門の総括と称しても、主に大乗経典であって小乗や密教の方面は含めない。2016年以後の各ブログ記事で小乗もとい上座部パーリ語経典や阿含経典を取り上げることは幾度とあった(例1, 2)。2017年、当記事執筆中(3月18日以後)の別の下書き記事は大智度論と、そこに引用されるスッタ・ニパータの教説と原文とを参照して説明することが多い。目的は、大乗・小乗の比較によって仏教の普遍的功徳を確認し、更に融和することである。この私は、どのように仏道を進むものか。萌えの法門で大乗の法義を闡明したく思い、萌え和讃を6首ばかり示した。法義を領解し、心身勇躍し、教・行・証を成就せられたし。萌えの三身は、須らく自ら具足すべし。その人、真に萌えを得る人なり。

妙法蓮華經 (鳩摩羅什所譯) - 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此處 多諸患難 唯我一人 能爲救護: 今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯た我一人のみ 能く救護を為す ※衆生にも世界にも仏にも「我」は無く(無我)、関係性(能所)も存在しないが、ここでは仏が自ら「我」を名乗り、世界を「我が有=所有」とし、衆生がみな我が子であるとまで仰せになる。如来の慈悲心をこのように説く。萌道の人もまた真に萌えを得て、自他を嫌わない。力の限り、広く萌相を施す菩薩道を行こう。






起草日: 20170319

注釈文の最後の段落は2017年3月中(うち起草日以後の期間)に書いたと記憶する。
小乗・声聞に対する釈尊の教説に則った萌え和讃は、その後に"The Moetries"中に詠む結果となった。
"The Moetries"投稿予定パーマリンク
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html

その和讃数種には、2017年4月21日に投稿した記事の中に引用した言葉の中でも、スッタ・ニパータと大智度論のどちらにも見られる教説を取り入れてある。
さて、どのような言葉であろうか?
以下に載せる和讃の内容に加え、当該記事の内容を確認していただきたい。

萌えを謗ずる人はみな 自他の善根よく絶やす
心みづから堕ちむとし 人の心を復た見じと

かくの如きのともがらは 自他の悪心あひ応ず
讃ふべきには蔑(あなづ)りて 呵(しか)るべきには誉むるなり

広く世人を見てみると 万億(まんのく)年に萌えを得ず
浮き世の楽に戯れて 真の道に背きにき

諍ひありて応ふるは いかにぞ同じくならんずる
若芽の独り尊きに 萌えてまします斯ヽるべし

群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし
我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ

このように歌えば、法華経の一乗の意義に通じてくるし、「萌え(芽・植物)」というだけに薬草喩品の内容(三草二木)に似てしまうわけだが、実際にかなり似るものが觀萌私記・末・譬萌聚ほか、萌えの典籍の中に散見される。
先のスッタ・ニパータと大智度論のみならず、法華経からの影響も随所で受けている内容であることを、どれほど和讃中から読み取ることができるか、自らテストしていただきたい。



後の追記

萌えの法門における修行に関する教説は、観萌行広要と「本萌譚・異伝④>2. 修道」に詳しい。
http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#hmi4-2



2018年における追記

萌えを謗ずる人はみな…以下3首の梵語試訳(シュローカの韻律に近似させた)

ye moyaṃ paribhavati (またはatikramati), kuśalamūle kṣiṇvanti (または前節に合わせた相関文te sumūle nirundhanti) |
cittaṃ cyuveta tataḥ, anyāni ca na dṛṣyante ||

evambhūte manumanū, durmanasaḥ samuditaḥ |
vā nindiyaṃ praśaṃsitvā, vā nindati praśaṃsiyam ||

koṭike moyamaprāptāḥ, paridṛṣṭāḥ pṛthagjanāḥ |
saṅgeṣu pramattā bhontī, na vijānīyuḥ sugatim ||




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