当記事では、この仮定より出発して梵語(サンスクリット等インド系諸語)の文法理解や複合語解釈に基づいた日本語の語源探求について言及することを目指す。
※以下から語源説の予備知識として、上代日本語・古代日本語の「は行=ぱ行"pa or fa or ɸa"」や、いわゆる「やまとことば」の語頭に濁音・有声音は無くて「鼻音(な行・ま行)語句の撥音便(なにと→なんど→など、ひむかし→ひんがし→ひがし等の例が多い)などの条件に基づく連濁由来」であることなどがある。
「たがいに」
「たがいに"modern: tagaini, Historical Kana & ancient: tagapini"」とは、学説(1, 2)において漢文訓読の便宜上に作られた言葉だとする。
実に、「互」という字(漢語)の訓読のためであろう。
漢語の「互」は、交互に・相互に、といった意味の副詞として用いられていることと思われ、訓読で「たがいに」とする。
「交互に・相互に行為をする」という関係性にある2人以上の人物(または2つ以上の事物・動物・集団など)は、自分から見た相手が他人であるし、相手から見た自分も他人である。
他人同士が交互に行う状態の副詞を、「たがいに・互いに」という。
※派生の意味として「交互に行う状態=動詞を修飾するもの」でなく、「双方が同様の状態=形容詞や動詞の形容詞的用法(-した・-している等の梵語の過去分詞や現在分詞っぽい用法)を伴うもの」もあるので一応の区別を要する。類義語に「かたみに」がある。
「訓読の便宜上に作られた言葉(漢語由来の造語)」という前提に基づいて、語源を考えると「他(た) + 交う・かう→連用形: かい + なり→連用形: に」と取られる。
最初から漢語ありきなので、漢字発音に由来する「た=他」が接頭語としてありえる。
「かう→かい」が連濁となることについては、この「た=他」にも「に」とか「の」のような鼻音の助詞が、造語の当初に介されていたためと思われる。
改めて「たがいに」という言葉の形の変遷を遡って示すと、
「たがいに(他交いに)"tagaini"、たがい(他交い)"tagai"←たがひ(他交ひ)"tagapi"←たんがひ"tangapi"←たんかひ"tankapi"←たにかひ(他に交ひ)"tanikapi"」となる。
「たにかひ」だけならば「たにかふ(他に交ふ)」という動詞の複合語の名詞化だが、梵語学・悉曇学・サンスクリット的解釈でいえば、隣近釈アヴィヤイーバーヴァ"avyayībhāva"の副詞的用法として有効となる。
即ち、「たにかひ(仮想された名詞)→たがい+に(副詞)」として助詞「に(ナリ活用の連用形)」が伴う。
「たにかひ+に→たがいに」が、漢語「互」の訓読語として造られたろう。
中国語や梵語の副詞的な語句の特性なども、当時の日本における造語の人(おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者)は理解していたと考えられる。
それは文学・口語にももたらされ、現代まで副詞として使用されるに至る。
※ちなみに、梵語=ブラーフミー言語、インド・アーリア語における「互いに・相互に」という意味の副詞は、サンスクリットで"anya"を重ねて用いた"anyonyam"であり、パーリ語でも同じく"añña"を重ねて用いた"aññamaññam"である(使用例はググれば多く見つかるが1例は"aññamaññaṃ sañjānanti")。これらの語幹たる梵語"anya, añña"は「他の」を意味する形容詞・「他人」を意味する名詞である。また、「互い」という意味の代名詞が古代ギリシャ語に"ἀλλήλων"、英語に"each other"(これは目的格・所有格でしか用いられないという。英語の副詞はmutually)とあり、それらはギリシャ語"alla, allos ἄλλος (単語例はallophone 異音)"、英語"other"、という"anya"の同義語・同根語を含んでいる(ほかに英語"else"も同義語・同根語)。インド・ヨーロッパ諸語を例示・比較することによっても、日本語もとい漢語訓読造語の「たがいに」の「た」が漢語「他」の意味・発音を借りている可能性を示唆したい。
古典的には「たがいに(たかひに・タカヒニ)」と表現しても、「たがいなり」といったナリ活用の変化形や、「たがいの=名詞: たがい + 連体助詞: の」といった形容詞化とか属格的表現は見られなかった。
現代では「たがいの」という「両者の、おのおのの(両数形として認知される事象のみ)」という意味の形容詞で用いられる傾向にある。
こういう例示では、「異なる者どうしの=違(たが)いの」という意味にも取れてしまい、前述の「他交い」という仮説は否定され得る。
その他に、「おたがいさま」という複合語や、「たがいが」という主語の表現もある。
繰り返し言うと、「たがい + に」とは、あくまでも漢文「互」という漢語の訓読のために副詞"adverb"として用いられる造語(副詞的複合語・隣近釈"avyayībhāva")であった。
「たがいに」造語当時(広く見て7~11世紀)の日本で、おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者が梵語学(玄奘三蔵門下の法相宗系か密教悉曇系か法道・菩提僊那のような中央アジア・インド系渡来僧の直伝か)の文法概念を学んでいた可能性がある。
※余談だが、梵語文法家パーニニ"Pāṇini"の述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"(注釈"Kāśikāvṛtti")」および中国・日本に伝えられた梵語学・悉曇学に基づいた日本語の複合語解釈を記す。日本語では、多くの複合語が並列複合語・相違釈"dvandva"や限定複合語・依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に当たる(日本語版Wikipedia - 複合語の記事に並列関係や従属関係として載ること)。例として、姓名はその極みである。英語版Wikipedia - dvandvaで「山川"yamakawa"」という複合語を相違釈の例として挙げてあり、「山の川」という意味ならば「やまがわ"yamagawa"」と連濁するが、「山!川!」のような並列関係=対立=平等の状態では、連濁しないことが通常である。「山と川」という2つの語句が象徴的に風景全般を表すという。慣用的に「善悪(ぜんまく、ぜんあく、善と悪)」が道徳観念"morality"全般を表すことと似る。筆者のペンネーム「横野(よこの Yokono)」は、依主釈で「横の野・横にある野・よこしまの(邪悪な)野」と解釈できる(姓名に用いられる野字・埜字は語源的に問うと当て字のようなものであろう)。ちなみに、「動詞: 横切る(切るは当て字っぽい)」は「副詞: 横に + 動詞: きる(撥音便省略連濁: ぎる)(よぎる・すぎる・すごすという動詞も似た語源となる)」という同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"の複合動詞である。サンスクリット・パーリ語の「接頭辞ati (過ぎて) + 動詞語根√i (行く)」は「よぎる・通過する・超過する」という意味の複合動詞であり、ati √iの過去分詞"atīta अतीत "は「形容詞: 過去の 名詞: 過去・過ぎ去ったこと(past)」を意味し、持業釈である。依主釈は、前後の形態素(語根・語幹など)が依存関係にあるものを指す(梵名tatpuruṣa自体が"tat彼の + puruṣa人"=あるじorしもべという意味になるので漢語では依主釈という)。動詞の連用形の名詞化と、その前に動詞の目的語を付随したものが多くある。「窓拭き=目的語の名詞: 窓 + 動詞の連用形の名詞化: 吹き」は、「①窓を拭くという行為"deed, act"」と、「②窓拭きの行為者"agent"」と、「③雑巾のような、行為の達成に用いられる道具"instrument"」の3つのいずれにもなる。もしも別途にそれぞれの意味を明示したければ、「①窓拭き-作業 ②窓拭き-屋さん ③窓拭き-ツール」のように後続の言葉で補う。梵語でも、行為者や所持者の意味を明示するために「-क -ka」で補うことがある。また、「人殺し cn: 殺人(①-罪 ②-者 ③-刀など)」"homicide"といった、動詞・目的語"verb-object, VOまたはobject-verb, OV"構造の複合語はみな、依主釈に当たる。この整然とした・弁別的な複合語解釈は、梵語・サンスクリットは元より、現代の英語にも適用できるので、形式的英語学習者・会話オンリーの人であっても注意深く学べば、一切の言語の学問的道理・発生プロセスに通達する。こういった複合語の名詞は、様々な意味を持つ場合があり、先述の「窓拭き」の窓は「窓を・・・対格"accusative case"」であるが、「拭き掃除」の拭きは「拭き=拭く行為によって・・・具格"instrumental case"」である。ほか、「尻拭い」という言葉もまた「窓拭き」と同じ3つの意味を見出せるが、英語で"ass-wipe (尻拭い→トイレットペーパー→クソヤロウ)"という表現が、"bahuvrihi compound"であると英語版Wiktionaryに載っている。"bahuvrīhi"=所有複合語・有財釈とは、過去記事にも詳述した通り、"bahu-vrīhi"のままでは同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"で「多くの-米」という意味だが、実際にはその所有者「多くの米を持つ者=金持ちの人」となることである。例えば、英語で「ホワイトカラー"white-collar"(白い襟)」という言葉も「白い襟の服を着た者=事務員」という意味となって同様である。いったん、「多くの米=それが単に存在するのでなく誰かの目的によって所持されている=その人は金持ち」や「白い襟=その服が単に存在するのでなく誰かの目的によって着られている=その人は事務員(オフィスワーカー)」として言葉が成立すると、以後は、金持ちが多量の米穀を財産として保有しない・オフィスにワイシャツ着用者がいない状態でも「ヤツはバフヴリーヒ"bahuvrīhi"だ!"They are white-collars!"」と呼ばれる。古代インドと同じ言語感覚による複合語が、現代アメリカなどにも発生することは、面白い。当事者の身体に付随したものの例で、古代ギリシャ語「ὀκτώπους (いわゆるオクトパス)=八つの足-を持つもの=タコ・蛸」や、日本語「ふとっぱら"futoppara"=大盤振る舞いの人」があるが、外的所有物でない点で有財釈と似て非なるものと区別されるべきかと思う。事務員が「ホワイトカラー・白い襟の服」を着ることも、事務員としての当事者にとって身体そのものである点で、実は、有財釈と似て非なるものか。それらは「広義の有財釈」として区別してみたい。
「たすける」と「たよる」
続いて、「たすける"modern: tasukeru, ancient: tatsukeru, or tachukeru "」や「たよる"tayoru"」という動詞について考えてみたい。
これもまた、語頭の「た」が、漢語「他(た ta)」に由来すると考えられる。
事実、「たすける"tasukeru"」の連用形名詞化「すけ"suke"(助太刀"sukedachi"という複合語があり助や介や輔といった類義の漢字が用いられて人名に定着する)」は、語頭の「た」が無くとも、「助ける」の意味に共通している。
この前提において、「たすける=たすく"tasuku"(下二段活用終止形)」の原型を求めれば、「すける"sukeru"=すく"suku"」という答えが導き出される。
「助ける」という意味で「すける・すく」という動詞を用いた例は未見であるが、先述の「すけ」という言葉が化石的に生きている点が傍証となろう。
「たよる"tayoru"」についても、語頭の「た」を省いても、それだけで「よる"yoru"(依る)」という類義語になる。
これらもまた、訓読の便宜上に作られた言葉の可能性を、私は示唆する。
それについて、明確な学説や、文献的根拠は明示できない。
「たすける」・「たよる」という動詞は、「他(た)が助太刀する」とか「他(た)に依る」という「他者・他人」の意味を強めるべく、漢語の「他」が頭に接続された造語のようである。
一応、「すける(終止形: すく)」も「依る」も、それだけで他動詞=目的語・客体の認識を伴う動詞であるから、改まって「他」を頭に接続させる必要は無かろうか。
「他助る、他依る」・・・。
一通り、この文章を書いてから、少し「たすける・すく」ということを検索してみると、「たすける - ウィクショナリー日本語版」が検索にかかったので見てみた。
そこに載る説では『古典日本語「たすく」 < 手(た) + 助く(すく)』という。
「たよる」についても同様に『「た」(手) + 「よる」(寄る)』という。
出典は不明だが、ウィクショナリーに載るような見解が学者によって示されたということであろう。
もし「手(て→た)」の複合語ならば、「たすける(手助る)」は「手によって(具格"instrumental")助る」という農作業の手伝いが想像され、「たよる(手依る・手寄る)」は「救いの手に(対格"accusative")依る」ような光景が想像される(具格とか対格とかと文法格"grammatical cases"を書いたのは梵語複合語解釈の格限定複合語=依主釈を示唆するため。漢語や英語のようなSVO構造は必ずしも日本語や梵語に適用できないことを知る必要がある)。
「手綱(たづな)の手(た)」のような結合辞を用いる言語感覚のある時代か、その言語感覚のある話者らのうちにおいて、この語が発生したことになる。
「たすける・たよる」の構造に関して、接頭辞が「漢語の他(た)"ta"」ではなく「日本語の手(た)"ta"」であるという相違点が確認できた。
要するに、私の論理は正しかったが、接頭語認識について仮定を誤っている恐れはある。
※余談だが、「助く(すく)」ということは「救う・救ふ」と関連がありそうである。やまとことばの展開としては蓋然性がある。詳細な検証は、当記事の目的より逸れるので、行わない。
研究の展望
さて、いずれにしても、多くの過去記事(国語カテゴリ)と合わせて、この記事においても日本語の語源を判断する何らかのアイデアが示された。
梵語の複合語(サマーサ"samāsa")解釈ということは、古代の日本人(特に西暦8-10世紀)も中国仏教を介してインドの言語学を参照していたろうし、是非、学んでもらいたく思う。
諸言語の普遍性を知っていただきたい。
複合語・造語に伴う音便や連濁といった現象も、蓋然的に伴うので、現代日本語を見た際に、そういった点を注意すれば、日本語の中の複合語・造語がいかなるものか、見分けがつきやすくなると考えられる。
この試案について、以下のように思う人もいようか。
「メートル法の時代・国土において尺貫法を用いるようなものだ」、「第一義諦の理法と世俗諦の理法を弁別する過程無くして同一視する(空見に著する)ようなものだ」と。
私の検証は、古代・上代日本の歴史的・宗教的な背景を鑑みたことに由る。
比較言語学・比較文化論よりも踏み込んだものとなる。
物事、考え方・思考法というものは、適度に良い一面と、悪い一面とを認識し得るものであり、個人的には合理的に妥当な用い方を意識し続けると、過度な問題性を生むことが無い。
私にとっては、中国・インド・西洋(ラテン語=イタリック語派、ギリシャ語=ヘレニック語派)などと同じユーラシア世界の目線を、より多く取り込んで日本の文化・歴史、特に言語について顧みることも必要に感じられる。
私はまだ21歳で、インド・中国・西洋のように歴史が華々しい「中東」の非インド・ヨーロッパ語族(ヘブライ語・アラビア語=アフロ・アジア語族など)について詳しくない。
南北アメリカ大陸の諸言語も同様である。
インターネットで学び得ることを、可能な限り学ぼうと思う。
日本語自体は、ウラル系とかアルタイ系とかシナ系とか朝鮮系とか南方系(オーストロネシア~オーストロアジア?)などの様々な語派・原語的潮流の語彙・文法の影響を受けている点(タミル語とかヘブライ語を引き合いに出す説もあるので借用語の範疇で仮説的に肯定するが直ちに起源説とすべきでない)に加え、やまとことばとしての独自性もあるが、いずれも成立した地域・時期と、後の変遷や合流が明確でない。
日本語の起源説は、学者的な人々(インターネット上で見られる例は北山嘉暲さん・小林昭美さん・金平譲司さんなど)が各々の自説を奉じて主張しており、私はその領域に飛び込もうと思わない。
ただし、個人的には、西洋言語にも通じる自然言語的な成立(主に動詞語幹に見られるオノマトペ的な特徴より看取されること)を支持する。
起草日: 20180205
当記事の要旨は「日本語に見られる複合構造の副詞・動詞の形態素に、漢語が含まれる可能性を指摘しつつ、そういった日本語の発展の土壌には梵語の文法理解のインスピレーションがあったと指摘すること」である。
その前提に基づいた日本語・俗語分析や、日本語史研究や、日本語の将来的発展を模索することを期待している。
中国・インド的な理解に立った音韻論(慣用音・百姓読みを含む)は、2015年以降、過去記事に展開されている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post_30.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/blog-post.html
東アジア言語・西洋言語の知識などを例に、日本語の歴史的変化を語ることは、今までの段階的な勉強の過程を示す記事に見られる。
2015年
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/b-h-v-wf-p-vu-w.html
2017年
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/2-morae-single-morization.html
日本語と中・印欧で共通する自然言語的なオノマトペのこと
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/12/b-p-f-w-m-v-h-circle.html
※文化的・人類史的に交流の起き得ない領域にまで類義・類音の語句があって、それらを結びつけるならば詭弁となりかねない。また、例えば「インドとイギリスの言葉は似ているからどちらかが片方の起源だ!」という仮説を持つ人が、「文化交流における借用語"borrowing"=異母親戚の交流」と「共通祖語の異なる展開"cognate"=祖父母・両親・子・孫」という相違点を区別せず・認識せずに語れば、玉石混淆・牽強付会となる。日本人が漢籍の漢語と和製漢語と仏典の梵語訳語と、呉音・地名に残る古代漢字音・漢音・唐音といったものを、現に区別できていないのだから、況やインド・西洋言語をやである。しかし、自然言語的な類似性を証明することにおいては、その問題性を伴いづらい。自然言語性は、人間の思考に即しているので、かなり必然性・蓋然性を伴う。反面、通俗語源・民間語源"folk-etymology"となる恐れもあるので、自然言語性を取り扱う場合にも、過度な固執は禁物である。
日本語中の参考例: 擬音語・擬態語「パッツン(髪の毛の断たれる音・切られた髪型の状態)」と動詞「はさむ」とその連用形名詞化「はさみ」
http://masashi.doorblog.jp/archives/50481680.html#s1
※ちなみに「パッツン"pattsun"」と「ハサミ"hasami"(挟む)」は共に擬音語か擬声語か擬態語由来ではなかろうかと思う。「古い日本語・上代日本語のハ行(h・声門摩擦音)はパ行(p, ph・両唇破裂音)であり、サ行(s・歯茎摩擦音)はツァ行(ts・歯茎破擦音・当時の方言などに拡大して歯茎硬口蓋摩擦音などにもなる)である」との学問的見解に基づいた上では、「ハサミ→はさむ・ぱつぁむ"hasamu→patsamu"」と復元される。古代の「はさむ"patsamu"」という動詞は、現代の「パッツン"pattsun"」という擬音語もしくは擬態語に似る。「パッサリ"passari"」という擬音語or擬態語とも似る。これも両唇破裂音・歯茎破擦音で「パッツァリ"pattsari"」と復元し得る。サ行と破擦音(チャ行・ツァ行)の関係性→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html ちなみに「震える・旧仮名終止形ふるふ」はプルプルと同じく擬態語に由来しよう。
日本語中の参考例: 「花びら・はなびら=はな(+の or な?)・ひら+鼻音連濁」と印欧語の類似
花・はな・ぱな "modern: hana, ancient: pana"
ひら "modern: hira, ancient: pira" =ヒラヒラもといピラピラとした様子
葉っぱ・はっぱ・ぱっぱ "modern: happa, ancient: pappa"
サンスクリットで、花"ancient: pana"は फुल्ल "phulla"や पुष्प "pushpa"といって古代日本語と発音が近い。
花びら"ancient: panabira, pananbira, panapira?"=花弁も、葉っぱ"ancient: pappa, pa"に同じ意味の पत्त्र "patra, pattra"といって古代日本語と発音が近い。
英語でpetalという単語が、それらと意味と発音が似る。
英語"petal"は、古代ギリシャ語"πέτᾰλον pétalon"が語源で、これは単に葉・リーフ"leaf"の意味を持つが、「葉」という漢字も字音仮名遣い・歴史的仮名遣いに「えふ・エフ"efu, ancient: yepu, Sino-Japanese: yep"」であり(上古音の学説ではBS式が/*l[a]p/、鄭張式が/*leb/)、音韻構造(fとpという唇系の語幹が生じやすい発音、例えばフとプという日本語になじみ深い例がある。ここまでの議論の前提にハ行→パ行説があるようなもの)・発音が似る。
花弁・花辨の「辨」の発音は、"bien, pien, ben, pen"の類で、古代中国語にも通じる(上古音の学説ではBS式が/*[b]renʔ/、鄭張式が/*breːns/, /*brenʔ/)。
また、古代ギリシャ語"φύλλον phúllon, phullon"は、先のサンスクリット फुल्ल "phulla"と文字列・発音が似ているが、意味は花でなく、葉となる。
これらも、日本・中国・印欧語(印度・欧州の共通祖語)の自然言語性の傍証となる。
※別の系統の言語では、ヘブライ語で 「名詞: 花 פֶּרַח "pérakh 慣用的にはperach ペラハ"」 「動詞: 咲く פָּרַח "parákh"」 と呼ばれているそうである点も、気になる。
参考の過去記事引用 (花と剣の絵に関連して衒学的メモ行為)
http://masashi.doorblog.jp/archives/49405117.html#s2
【花・草と剣に関する話】
英語"foil"はフェンシングの剣、ラテン語"folia"は葉っぱや花弁を意味する"folium"の複数形
英語"flower"とフランス語"fleur"は共に花、フランス語"fleuret"はフェンシングの剣、"fl-"一致
英語"blade"は刃、英語"bloom"は花・咲くこと、"bl-"一致
英語"sword"は剣、英語"sward"は草地?、"sw*rd"一致
草花・刃物の謎の関連性 ※フォイル・フォリア・フォリウム・フラワー・フルール、いわゆるフローラ・フローレンス。フルーレ・ブレード・ブルーム(開花してブロッサム)・ソード(スウォード)・スワード(スヮード、一般にカタカナ表記されない語句)
【刃物を除いて、印欧語根ネタ】
ラテン語"flos"のWiktionary記事より
印欧祖語*bʰleh₃-s (“flower, blossom”), *bʰleh₃-
「グリムの法則」で印欧祖語に対するゲルマン諸語のb系とf系の互換が生じている。
サンスクリット語 फुलम् phulam は「花」
फुल्ल phulla- पुल्ल pulla- は形容詞「咲いている~」
古代ギリシャ語 φύλλον phúllon は「葉」
プロン、プッロン、プラ、プッラ、プラワー"phlower"、フラワー。
पुष्प puṣpa- これも「花」、プスパ。プㇱパ(小文字シは音価[ɕ])。
花・華とは、ハナ、ファナ、パナ、古い日本語。上代日本語発音。
f ,b, pなど両唇音・唇歯音が勢ぞろいの現象!!!!
後日の追記
当記事の一部分を強化して独立記事を作成し、2018年4月8日に投稿した。
『日本語の複合語とパーニニ梵語文法との関係 サマーサ"samāsa (六合釈・六合釋)"とは』 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/04/panini-in-japanese.html
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