2017年5月10日水曜日

自分で使用を制限するが他者の使用には寛容な文法(慣用性の許容)

世間に言うところの、単語の誤用や誤文法や漢字の誤読について少し思考を深めてみると「必ずしもそうではないのではないか」という違和感が生じる。
その中には、「文法の究極」に近づく過程で「誤りではない」と分析できるものも多い。
それが分かっても、世間での慣用性の観点に頼って自ら用いることはしない私であるが、他者のそういった用法に対しては寛容になろう。

以下から様々な「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」の例を挙げて反証してみたい。
「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」を気にしないで用いる人も、「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」に目くじらを立てる人も、私の、そういった賢愚を超越した理解に通じてもらいたく思う。
また、私自身は表題に「自分で使用を制限する」とある通り、当ブログをはじめとした文章類で用いることは無かろうが、他人が使用することを問題視せずにもいられる。
私自身がブログで用いない文法・表現は2015年にも少し、理論と合わせて説明した経験がある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/2015.html



1. 「○○い(形容詞)です」、「○○(形容詞の語根)かったです」

近現代の国語の文法において「楽しいです(楽しかったです)」、「無いです(無かったです)」という表現は正当でなくも、「許容する文法」の範疇にあるとされる。
第1期・国語審議会(昭和27年・1952年) 「これからの敬語」
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/01/tosin06/

その文法の判断基準から、上の例を正しく置き換えれば「楽しく思います・楽しう(楽しゅう)ございます」とか、「無い様子です・ありません」と、煩雑なものになる。
また、「楽しい」の語根を取り出して表現を置き換えて「楽しむです(楽しんだです)」とか、「無い」の対義語で「有るです(有ったです)」とすれば、誰しも「何かの冗談か?」、「そういう口調のキャラか?(役割語か?)」と可笑しく感じよう。
しかし、この「楽しいです(楽しかったです)」、「無いです(無かった)」という表現は、古文法から見れば何ら誤りは生じない。
「近現代の国語の文法」とか、近現代の経緯からして新しい表現が「○○い(形容詞)です」であるのであり、より理論的な日本語の文法と精神性とを観察すれば、この問題は「幻影」と分かる。

※ここでは哲学的に「そもそも『誤りだ』云々なんて恣意的な価値判断がそもそも誤謬だ」といった論題から外れる論難は控えておく。自然言語の「性質という名の無性質」から言えば、絶対的な「理論」や「文法」およびそれに伴う「乱れ」は、みな存在しないものだが、一応、現代の合理思考で綺麗に整っている必要のある理論・文法の範疇で考証する。

「無い-」とは、古文・文語文でいえば「無し(終止形)」という形容詞の、連体形「無き-」に「イ音便(ここではk発音の欠落)」が発生した形である。
つまり「無い」とは「無し(文語体終止形)→無き(文語体連体形)→無い(イ音便連体形・現代口語では終止形にもなる)」という変化を伴っている。
「楽しい-」にしても「楽し(終止形)・楽しき-(連体形)」で捉えてもらおう。

古文では「無きなり」という表現があり、現代語に直訳すれば「無いである」とか、敬語では「無いです」となるわけ。
古文として「無いです(無し・にて・あります→無きであります→無きです→無いです)」を捉えると、「無きなり(平安期の敬語"無きにてはべる"・中世以後の敬語"無く御座候")」と同じ構造となる。
この「無きなり」など、形容詞の連体形に「です・である・なり」を後続する際、実は「もの・こと・の・とき・ところ・ころといった「準体助詞」の介在を想定している。
「無いです」であれば、「無い〈の〉です」、「無い〈ところ〉です」、「無き〈もの〉であります!」のように準体助詞を挿入することができる。
また、「準体」という「体言に準ずるもの」は拡大すれば、あらゆる名詞が該当する。
それはすなわち、「(目当ての物事が)無い〈様子〉です」、「(指された物事が)無い〈状態〉です」、「(何らかの物事が)無い〈場所〉です」と表現できる。
この形式が少し乱れた例を挙げれば、「嬉しい〈限り〉です」とか「〈それが〉正しい〈と思い〉ます」のように語句を挿入したり改変する言葉を列ねる。
しかし、口語でこう言っても「無くございます・のうございます」のように冗長な印象があるから、一般人はそう言うべきでないのであろうし、逐一意識する人・念入りな人は稀である。

※煩雑な言葉・冗漫な表現など、効率重視の現代人もとい精神的な余裕に価値を感じない現代にあっては、「無用」として笑われる。まあ、それは、現代の「ある領域」が多く占めているからであり、残りの領域では尊重されているわけだが。「ある領域(この場所であってこの場所でないこの場所)」においては「無用」に尽きようか。しかも、「無いです」などのシンプルな表現は、「賢げな人らしさ」も無くて謙虚である。

「(前の出来事により)楽しい〈気分〉です」とか「(目当ての物事が)無い〈様子〉です」という表現には、具体的な語句が含まれずとも、その人が言葉を発した経緯や前後の文脈などから、具体性が感じ取られるし、言葉とは、その相対性を重んじるものである。
それで、言葉足らずであっても概観や人の心が伝わることも多い。
結局のところ、文法的に正しかろうと誤っていようと、真に賢い人は気にする領域でない。
しかし、真に賢い人だからこそ、こうして分析した結果として「物事の正誤の価値判断」が空虚なものであると知り、執着を離れるのであろう。
仏道・仏教徒もまた、そういった思惟を経て心身に無執着の境地を「得る"わけ"である」。

得るである。得る〈の〉である。得る〈わけ〉である。得る〈道理〉である。
→、→、→、と具体的な言葉の「潜在」を見よう。

「無いです」の話でも、深い思索ができたように、仏教徒は「何事も本当はどうでもよい」と考えるが、その結論のために深く検討してこそ「どうでもよい」という無執着に至ろうとする。
「どうでもよい」という判断は、深い思考の結果・結論である。
「どうでもよい」という見解が努力なくして得られることは、慢心や面倒さという悪い精神に起因しており、仏を仰ぐ存在としての仏教徒の理念とは明らかに異なる(面倒さを体現した怠惰な人生の究極も一つの安楽であって差別すべきでないが仏教徒としては理想的でない)。
一応、いまだ、こういった文法に関する思索を欠いている人は、自分一人のために色々と考え込んで結果を「求めてもらいたく思う」。

(私があなたにそのことを行って)もらいたいです。もらいたきです。もらいたい〈気持ち〉です。
もらいたく思います。もらいとうございます。もろともーわ(究極の関西弁)。



2. 二重表現(重言・重複表現・ほか二重敬語など)

「二重表現」についての話題は過去記事にもある。
2015年9月24日の記事(起草は同月19日)に「助詞"は"」や、「準体助詞(準体言助詞、体言のような作用がある助詞)"の(もの・こと等)"」の重複に気を付けることを語った。
今回は「熟語(漢語としての考察)」の意義から考えてみたい。
以下に、短文の例を示し、煩多な説明によって二重表現の許容を主張しよう。

「その見解は、こういった理由によるものであった」という一文のどこに二重表現が含まれるか?
「理由による」の「よる」とは、どう漢字に変換すべきか?
多くのケースは「依る」が浮かぶであろうが、文脈によっては「因る」と綴る場合もあろう。
「理由に依る、理由に因る」・・・かっこよい表現であろうか?字義から違和感はあろうか?

しかし、「理由」の「由」という漢字そのものが、漢文では「由る」と読み下しをされる場合も多い(例: ○○に由りて××と為す)。
単語情報の多いIMEで「よる」を変換すると、「由る」が出てくる。
「由」の字義としても、現代用いられる熟語に「経由」とか「由来」などがあるよう、上の一文における「よる」の意味合いを含んだ字であると分かる(由緒という意味合いの"よし"という名詞もある)。
つまり、「理由による("理由=理に由ること・理が由ること・理のよし"による)」という表現は、二重表現であると疑われる。
二重表現の恐れを回避する場合、文末表現では「・・・理由がある」と綴るべきであり、文中表現では「・・・理由の、・・・理由で」などし、「よる」を加えなくとも意味は足りよう(慣用性を重んじる場合・聴く者の理解力を考慮する場合は"理由による・理由によって"という表現のままでもよい)。

「理由による」と似た表現は「根拠による」である。
根拠の「拠」とは、証拠の「拠」でもあるが、この字もまた「拠る」などと「よる」の意義と読みとが与えられている。
さて、ここで色々と「○○による」という表現を思索するが、私は面白い表現の例が浮かんだ。
漢文の話を先にしたが、漢語に訳された仏教のお経や論文(漢訳経典)に「因縁による」というような表現が散見される。
これは漢文に戻すと「因因縁(因縁に因る)」の場合は多い(ただし因因縁という文字列自体は別々の分の尾と頭が接しただけで意味が通じず、実際は因此因縁因是因縁というようなものとなる)。
「因縁」とは、「因」も「縁」も、「依・由・拠」といった字のように「よる」と読み下しができる。
そういえば、私の自著である「觀萌私記」には「因る・縁る(緣る)・依る」という3種の「よる」の使い分けがあった。

依る → 末・讃萌語「萌義に依りて能く二三の別を滅す」
因る → 萌義條脚注「因緣所生の萌心に因りて瞋恚の~」
縁る(緣る) → 末・讃萌語「萌色の因・觀萌の緣に緣りて~」

「因縁」という単語自体を読み下すと、動詞としては「縁(えにし・よること)に因る」とか「縁に因(ちな)む」となり、名詞としては「因(よること)と縁」や「因縁」そのままの形などが挙げられる。
もしそういった訓読を行う場合、その意味は、前後の文脈に依存するか、そもそも、そういった訓読自体が前後の文脈に従ってなされるであろう。
例えば「何因縁」という文字列がある場合は「何の縁に因りて~」と読むよりも「なんの(いかなる)因縁ありて~」と「何」の字が「係り結び」のような作用を持って「因縁」は単一の名詞として読まれる。
※「何因縁」という漢語経文に梵語・サンスクリット語の原典がある場合は、"kena hetunā (またはkenā...)"となる。二単語は、いずれも「何"kaḥ"によって~」「因"hetu"によって~」という具格"instrumental case"表現である。"kena hetunā"を日本語でいえば「何の因によって」となるが、それを漢文に戻すならば「縁何因」や「何縁因」となろう。いずれにしても、梵語の観点では、具格の「-によって~ (短縮形: -で~ ※"~において"短縮の"で"は処格と区別される※)」表現と、「因"hetu" (原因)」とが区別し得る。この具格を日本語で置き換える際は「因る・縁る」といった漢字をあてるべきでない。漢文の「由る(主に目的語が付随して"~に由り")」は「~より(漢文では従り)」の意味が強くなりやすく、その場合は具格よりも従格(または奪格と呼ぶ)"ablative case"の意味合いとなる。ほか、以何因縁」というときの「以、-を以て~」も"kena..."具格由来である。

何にせよ、「因因縁(因縁に因る)」というような、名実ともに(字面も意義も)二重表現となっている表現が伝統的に用いられている。
であれば、現代においても二重表現は便宜上用いて可であるという、心の余裕が生まれた。
この事実を知る人々は、自分の中では二重表現を許容して他者へめくじらを立てずに済む。
無論、人に正しい文法とか正しい国語知識を教えてゆきたいという人は、慣用性・寛容などの理解に立って配慮しながら人の誤りを指摘すればよい。

言語学的知識やただの文献考証ではあるが、よく知った情報が、心を解す因子となる。
私の学びは、知的興味や知的欲求の満足のみならず、結果的な心の安楽を望むためでもある。
ただし、物事は知っても知れ切れず、内容を問わなければ無限大に物事があり、取りようには無限大を掛け直したほどの情報が成立する(自分の抜け毛1本を構成する細胞の個数すら数えきれず宇宙の星々は恒星から小惑星まで把握しきれない)。
学べば学ぶほど底なしに限界(視野)が広がっていく道理を、研鑽のみでは確実に覚りきれず、底なし沼のような研鑽が今なおも続いて止まない認識があるので、仏道修行も兼修せねばならない。
誰しも足元の虫に気づかず道を歩くように、情報は取捨選択されるか、そもそも認知されない情報も多く、本来、五感と心とを人間が具有しないならば、万物いかなるものも認知されない。
学問研鑽と仏道修行という、この両翼は、どのような場所へ我が身を運び行くであろうか?

※二重敬語の話は過去記事にあると思って引用したかったが、期待するものが見当たらない。替わりの記事で満足していただきたい。2014年11月30日「慇懃な敬語をエロ方面に用いる試み



3. 呉音と漢音と慣用音(百姓読み)

漢字の音韻・字音に関する話は過去記事で甚だ多く語ってきた(主に当ブログ「国語」カテゴリの記事)ので、今回は必要な情報に絞り込んで記す。

一つ面白い単語の例を挙げると「一反木綿(いったんもめん)」がある。
「一(いっ)」は、「一(いち・いつ)」の促音便である。
「反(たん)」は、「一(いち・いつ・yit)」の影響を受けて「反(はん・ふぁん・pan, phan, han)」が変化した連声の法則を表す(こんにちは→こんにった連声理論だが当時の音韻では"こんにっぱ・いっぱん"の方が正しい気もする)。
「一反(いったん)」をローマ字にすれば、"ittan, it-tan"とするよりも、"itthan, it-than"とする方が理論的であるが、実際に"itthan イッタン(イッㇳハン)"と東南アジア・インド諸語や古代ギリシャ語におけるθ(th) φ(ph) χ(kh)字の「有気音(帯気音)」みたいに発音する日本語話者は、この読みが成立した時代にいたか不明である。
「木(も)」は、「木(もく・mok)」という本来の音のうち、古い中国では「入声音」と呼ばれた音の脱落が現れている(mok→moku→mo -ku)。
「綿(めん・men、中国ではmien, mian)」は、唯一、変化の影響を受けていない。

言語とは、人の口で伝わった歴史が長く、漢字はアルファベット・ブラーフミー(梵字)系などの音素を表す表音文字(音素文字)と比べて音韻が変わりやすい。
漢字に関しては漢や秦の時代以後、「説文解字」などの音韻を示した辞書・韻書が多く著(あらわ)されてきたので、一定の連続性は把握できる(現代中国の普通話と多くの方言は入声音-p, -t, -kを失ったが抑揚に名残がある?)。

日本語の漢字音は、上代や古代では多くの場合に2モーラ目となるべき音を省いた様子がある。
ここでの「モーラ(拍)」という発音の単位は、「仮名(カナ・かな)」の表記法に従って認識する。
地名に「良」という字が「ら」と発音される例が多く見られることは好例である。
良の「ら」という読み方は、伝来当時の中国語でlangやrang (raŋ)の音であって「ラウ・ロウ」という日本呉音読みの元ともなっており、後に/i/が介してliangとかriang (ljang)の音となって日本漢音読みでは「リヤウ・リョウ」と伝わる。

同じように地名にはこういった「2モーラ目となるべき音を省いた読み」が多い。
それらは最初から省いた音として1500年ほど前の当時の日本人が受け取ったのか、何らかの事情や地名表記の便宜上に省いたのか、事実は判然としない。
「2モーラ目となるべき音を省いた読み」の例としては、著名なものが「能登の能"nong (-ng)"("tong"もng省き)」や、「安芸・安房の安"an (n省き)"」や、「安房の房"bō, bou←bau←bang, pang (古代中国) = fang (現代中国)→wang (ng省き)"」である。
呉音を用いる仏教用語にも「功徳・くどく(kong (-ng) tok)」とか「恭敬・くぎょう(kong (-ng) keng)」とか「奉行・ぶぎょう(pong (-ng) giang)」とか「所作・しょさ(sio sak (-k))」と、何らかの字が1モーラ化している(という字は入声音"-k"の有無で意味が変わるタイプの字であり一切の""も同様であり上代日本の1モーラ化法則と異なる)。
これらの漢字が地名表記の読み方で用いられる場合は、古い日本語の音への当て字であり、「良」という字であれば「よい"good"」という意味合いは伴っていない。

ここまでに挙げた単語で省かれた2モーラ目は「良(lang)・能(nong)・功(kong)・恭(kong)」に見る"ng"が多い。
この"ng"とは、過去に幾度と語った軟口蓋鼻音"IPA: ŋ"という子音の一種であり、ここでは韻尾(字音の尾)となって2モーラ目に当たる。
古い地名に用いられた漢字で韻尾が"ng"のものは、「相模の相"sang"」や「武蔵・蔵王の蔵"zang"」がある。
相模の「相」場合は"sang - ng = sa"に助詞"が"を介して「模"mo, 転訛でmi?"」を連ねたというよりも、"sang"の"ng"に別の母音がついて"sanga, saga"となって「模」を連ねて"sagami"というような日本の地名に当て字として用いられたようである。
武蔵の「蔵」の場合は"zang"が不思議な変化をして"sashi"の当て字となったのであろうが、これは略説すると、様々な言語(中国漢字音韻・インド周辺諸言語音韻)に見られる法則を無理やり詰め込んで適用すれば"zang→sang→say→sash→sashi(当時であればsasiとも)"というような関連付けができ、当て字として用いる違和感は薄いと私が思う。
蔵王の「蔵」は先の「良(lang)・能(nong)・功(kong)・恭(kong)」と同様であるため、説明しない。

とりあえず、ここでは漢字の音読みについて、様々な条件で一般認知と変化することが有り得る例を煩瑣ながらにも示しておきたかった。
こういった理解に着けば、思考が慎重となり、人に難癖をつける発想が減ると思われる。
こういった知識を蓄える私は、何事に対しても、例外的な可能性・問題性を排除しない。



1・2・3と、このような説明をした通り、日本語や諸言語に関して様々な疑問と検討と調査と思考とを重ね続ける私が、言葉遣いに関して一応の通俗的な正誤を論じられつつ、真には過度な執着を抑えてもらうことを人々に望んでいる。
いわゆる知ったかぶりの人が、インターネットに跳梁跋扈しているとして、国語学者さんとかがインターネットの知ったかぶりの若者などを「ニワカ知識の未熟者である」と論難しても、お笑い種である。
「未熟者VS学者」という、幼稚な意見の対立を離れ、慎重な検討を心掛ければよい。
どこまでも自己の人格の完成というか、仏道に則り、このような思索を発信してゆく私である。
このような思索は仏道に基づき、仏道に資することとなろうし、人々を仏道に導くであろう。
仏道の信条があってもなくても、私自身が今までの人生を通して自然と行ってきていたし、今は仏法に値遇したから仏の仮設エッセンスを得ている。
今までの人生の中の思考や言動や受動的経験自体が、仏道に自ら導いていたと自覚することは、大きな喜びにほかならない。



起草日: 20170219

当記事では、いくつかの例を挙げることにより、表題のような「自分で使用を制限するが他者の使用には寛容」という精神を示した。
人には自己の執着・我執というもの(仏教でいえば末那識)があり、その我執により、自身の浮かべた言葉にも愛着が生じる。
しかし、整然とした文章を以て他人に伝えたいならば、これを切り離す必要もある。
切り離しすぎては無機質だから、残すべきものは残そう。
種々に検討する時間と心の余裕は必要だが、そんな時間と心の余裕のある人は多くなく・・・、これ以上に話を逸らすべきでない。

とりあえず、自分の文章に厳しく、他人の文章にも厳しくあれば菩薩として勇ましいし、他人に直接、または遠まわしでも教えてゆくべきであろう。
しかし、実際の世間で他人の乱文に目くじらを立て、気を損ねては、自分の心が維持されなくなる。
ここに、他者への寛容性を考慮すべきである。
この寛容性は、文法の場合、深長な考察による妥当性と、普遍的な慣用性とによって成立する。
前者「妥当性」は、1章における「無いです」が古文「無きなり」と同じであるから現代国語と古語とを同一視した際に正当な表現である、とした見解に当たる。
つまり、正当な表現であるという確かな根拠が、深い検討の結果に得られたものを指す。
後者「慣用性」は、2章における「どうでもよい」という見解に当たる。
つまり、深く検討しても妥当な根拠が見当たらないものの、一応、意味が通用するならば問題が無いものを指す。

様々な話をしたが、言葉にも仏教の教理が表れていよう。
どう気付くか、自覚の問題である。
他人の文章から何らかの問題を感じ取り、なおかつ、自分もひとごとではないと自覚・反省する展開が重要である。
思えば、私の人生はいつもこのようであり、仏教が増長した。
「私の人生は~」という表現は、脳裏に他者がを想定しており、私の人生を素晴らしいと思う場合、脳裏に他者の人生を卑下していることとなる。
ああ、「私の人生」という虚妄の我執と、我執が生む所の慢心とを除くべきであろう。
ああ、慢心とはいうが、本当にそれは私の所有物か?言葉はきりが無い。



「日本語カナ読みと漢字音韻の雑なメモ」として、2017年3月11日から記し始めたものは、4月9日に分離独立案を立てた。
そちらの記事は、追って投稿する。

http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html

以下、一部引用

仮名表記で拗音表記や濁点・半濁点が無かった時代(江戸時代以前か?)、文書に「すす(すゝ、スス)」と平仮名(片仮名)で書いてある場合、人々は文脈に合わせて「しゅじゅ・種々・種種 "Shuju, Syuzyu"」と読んだろう。
私が確認した鎌倉時代の仏教の僧侶の文書・当時の書簡に、そういった仮名表記が見られる(参考: 日蓮聖人真蹟・種々物御消息、ほか日蓮大聖人御書全集 全文検索"すずの")。
僧侶自身は難しい漢字を読み書きできても、紙が不足している状態にあれば筆で緻密に書く際の視認性を考慮して仮名文字で略記するし、識字率の低い時代に読み手が一般庶民・在家信者であれば考慮して仮名文字の表記を用いる。

難しい漢語を仮名表記した例は、「ひるさな(びるしゃな・毘盧遮那)」や「すりはむとく(しゅりはんどく・修利槃特・・・""の字の中古音や韓・粤語発音は韻尾-mではないがあの時代は仮名"ん・ン"の発音と文字表記が普及していないか?または文書をテキスト化して出版した人物の校正の影響か?)」などである。
鎌倉時代など、仮名表記が本当に「仮」という感覚で用いられた時代には、口の発音に則していない状態ではあったろうが、読み手は「すす」といった便宜的な表記から「しゅじゅ・種々」を連想したと考えてよい。
これら一部の漢字語句カナ表記における「さ=しゃ」、「す=しゅ」といった発音は口伝されて江戸時代辺りにようやく拗音表記が生まれ、現代まで漢字音の拗音読みがもたらされたと考えてよい。
明治時代になっても拗音表記が出来ていない場合、文字を文字通りのまま読む風潮が生まれ、現代にはシャ行発音が口語・俗語・方言以外では命脈を断たれていたであろう。
後述する、本来日本にあった「チ="ti"ティ、ヰ="wi"ウィ」という表記・発音が、外来語の仮名表記ために拗音表記として生み出されることが有り得るくらいであろう。



追記: 2017年9月10日

当記事「①(「○○い(形容詞)です」)」に関連する知識を補足しよう。
サンスクリット語(及びパーリ語)の複合語"enwiki: Sanskrit Compound (サマーサ)"を理解する際に6つの解釈法があり、「六合釈"ṣaṭ-samāsa"」という。
これはサンスクリット・梵語(インド系言語)のみならず、漢語でも英語でも通じる考え方となる。

このうち「持業釈(じごっしゃく)"karmadhāraya"」が、形容詞+名詞=名詞「高+山=高い山・深+海=深い海」や、副詞+形容詞=形容詞「甚+少=甚だ少ない・広+長=広くて長い」を指す。
持業釈とされる複合の形容詞でも、実際に言葉が用いられる文脈を鑑みて準体助詞の意義を付加すれば「甚だ少ない=甚だ少ない〈こと・状態〉」や「広くて長い〈もの・場所・状態〉」という名詞になるが、これは「有財釈(うざいしゃく)"bahuvrīhi"」という。
文脈を鑑みるということは、「広長舌(広くて長い舌)」は「舌(名詞)」に「広長」という形容詞が係っていることになり、この時の「広長」は持業釈の形容詞である。
「舌者広長也」とある場合、「広長」はその持業釈の形容詞に準体助詞の意義を含めて「舌は広く長きなり」と訓読されて「舌(名詞)+者=助詞「は」+広くて長い〈もの・場所・状態〉+也=助動詞「なり」終止形)」と翻訳でき、この時の「広長」は有財釈の名詞である。
このように「広長」は、パッと見て「広・長」と区切られた相違釈"dvandva"の名詞「広」・名詞「長」の羅列のようであるが、多くの用例は持業釈の形容詞となり、文脈によって「広くて長い〈もの・場所・状態〉」という有財釈の名詞にもなる。
今は漢語で例を示し、サンスクリット語での例を後に譲る。

当記事①で「無いです」を例に取ってあることに寄せて言うと、「無也」といえば「無い(形容詞)也(名詞)」や「也(ヤ)無し」という持業釈で理解することは有り得ない。
「無也」の「無」は形容詞「無い」に「もの・こと・とき」など準体助詞の意味が付随するであろう、という話である。
「無」は単一の漢語であるから、「六合釈」という複合語の解釈法を適用すべきでないかもしれないが、「無也」の「無」は紛れもなく「無い〈もの・状態〉」という有財釈の名詞に当たる。
ただし、「無いです・無也」という言葉が、必ずしもそのような意味合い・ニュアンスで発せられるとは限らないので、「漢語の一語・複合語の解釈法」には、複雑な仕組みがあることを知ってもらえればよい。
文章を読むときの注意点・留意点であり、可能な限りは念入りにしておきたい。

例題
「"anityaḥ (a-nitya-ḥ)"→無常也」 
これを訓読「無常なり」と訓読する。
この「無常」は「無常(持業釈の名詞)」か?
または「常なること無き(持業釈の形容詞+もの・こと=有財釈の名詞)」か?
よもや「無と常」という相違釈の名詞ではあるまい。

「"aśubhaḥ (a-śubha-ḥ)" 不浄也」 
これを「不浄なり」と訓読する。
この「不浄」は「不浄(持業釈の名詞)」か?
または「浄ならざる(持業釈の形容詞+もの・こと=有財釈の名詞)」や「浄からざる」か?
よもや「不と浄」という相違釈の名詞ではあるまい。

おっと!有財釈、ウザイシャク、と繰り返して今、"bahuvrīhi"の意味が気になってしまった。
バフヴリーヒとは、現代日本語や英語で「所有複合語 "Possessive compound"」と呼ぶ。
語句はbahu-vrīhi と分け、文字通りには「多くの・米」を意味し、持業釈の名詞として取ると「多くの米」となり、有財釈の形容詞として「多くの米を持つ~」となり、改めて有財釈の名詞として「多くの米を持つ者」と解釈する、
ゆえに漢語では米=食糧=財物として「有財(財産を多く持つ者"rich man")」と訳していよう。
なんと!バフヴリーヒそのものが、有財釈・バフヴリーヒの名詞となるようである。

このサンスクリット語で意味を持たない接尾辞-kaを用いて表現する場合がある
有財釈の形容詞を再び名詞化したものであることを示すために接尾辞-kaを用い、これにより名詞の格変化がしやすくなるという特性がある。
aの音で終わらせると、ポピュラーな単語(deva, brahma, ātma, rāja...これら男性名詞を基礎に女性名詞や中性名詞にも変えられるか)に共通するため、インド系言語の話者にとって格変化がしやすいということである。

※なぜ意味の無い"ka"という発音が選ばれるかといえば、日本の仮名文字あいうえお表は梵字・ブラーフミー文字の法則に倣っているために段で「あかさたな」とあるよう、サンスクリットもといインド系言語でも子音は「カ क」の音から始まることが多く、代表的な音韻であるからであろうと見る。日本語の古文や漢文の訓読(文語体)で「(動詞や助動詞や形容詞の連体形) + なり」という表現は「もの・こと・とき」など準体助詞が暗に介在しているということを説明してきたが、このバフヴリーヒに後続する接尾辞-kaは、日本語の準体助詞「もの・こと・とき」などとよく似ている。あるいは、ギリシャ語-ikosやラテン語-icusに比較できる。あるいは、関係代名詞のラテン語qui, 英語who(古英語hwa このhはゲルマン語派で本来常用の軟口蓋摩擦音/x/なので/k/と音が近い)などの関係代名詞としての用法(この場合「~する者」でバフヴリーヒの「~を持つ者」と意味が似る)に比較できる。サンスクリットでは疑問詞を関係詞に用いることが無いものの(人称代名詞が"saḥ"の時に疑問代名詞が"kaḥ"で関係代名詞が"yaḥ")、サンスクリット以前のヴェーダかインド・イラン祖語あたりには有り得たかもしれないし、印欧祖語の時から疑問代名詞が関係代名詞で用いられていた場合は、その用法の化石的な持続として見ることができる。通常、関係代名詞は関係節の頭に来るが、サンスクリット接尾辞-kaは複合語尾に置くという相違点を再び留意したい。



ほか、上の例題では「無常"a-nitya"」や「不浄"a-śubha"」を引き合いに出しており、これらの語句は漢語だと副詞として用いることもある。
「無常にして~(後続が形容詞・動詞の場合)」、「不浄にして~(後続が形容詞・動詞の場合)」といった「にして(であって)」が付加されるが、漢語を更に訓読すれば「常なること無く~」、「浄きこと無く~」となる。
梵語の六合釈においては、その副詞として用いられる場合の複合語を「隣近釈(りんごんじゃく)"avyayībhāva"」と呼ぶ。
日本語では副詞的複合語とも不変化複合語とも呼ぶ。
先例のanityaやaśubhaのような「接頭辞a- (後続の語に否定の意味で修飾する) + 名詞」の複合語を副詞として用いれば、隣近釈と呼べる。

隣近釈は基本的に、接頭辞や副詞や語幹などの「不変化辞」が名詞に付随している形式であり、副詞としての用例上、中性・単数形・対格で用いる。
anityaであればanityam、aśubhaであればaśubhamとなる。
anitya-mやaśubha-mとして、対格にする"m म् "が付随した状態は、日本語で、同じく熟語を副詞として用いる時に「にして(であって)」が付随するようなものである。
対格"accusative case"とは、伝統的悉曇学・梵学で「業聲 (ごっしょう、業声)」というが、この隣近釈と関連して説明した文献を探して大乘法苑義林章師子吼鈔「又隣近釋者。亦業聲或屬聲。」のみが見られた。
加えて、日本語での形状は、いわゆる連用形(-ず、-なく)で「常ならず~、常ならずして~、常ではなくて~ (不常・非常)」といった、色々なものがあろう。

こういった研究は、文献調査・参考書(紙媒体を私は持っていない)による勉強のみならず、日頃の日常会話・独り言(日本語)の中で意識することで修練されて進行がある。
その中に、自ら察知する道理もあろう。
当記事の元々の話題(慣用性の許容)についても、やはり仏教的な学習や理解と、日頃の意識によって実現があると思う。


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