2016年7月20日水曜日

現行憲法の改正に対する仏教徒の然るべき立場・見解

さて、仏教徒は盲目的に平和を唱えていればよかろうか?
戦争は確かによくないとしても、現況の改憲・護憲論争について飛躍した主張は多い。
無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。

大前提は、改憲を行えば絶対に安全が保障できるとか、護憲を維持すれば絶対に平和が維持できる、などという結果を望んではならない。
改憲も護憲も、共に功罪はあるが、それは2016年6月23日(現地時間)に実施されたイギリスの国民投票(Brexit投票)の趣旨で、イギリスのEUからの離脱・残留の双方に功罪を包含している事実と同じである。
その功罪の具有を理解し、己が後悔しない判断が第一である。
中道を理解し、この前提を踏襲すべきである。

まず私は、既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しない。
しかし、したい勢力が大勢ならば、好きに改憲をすればよい。
民主主義国家・法治国家ならば当然であろう。
今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば、改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。
改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は、民主主義の現代文明下で起こらないと信じる。

「護憲」の語については多義的である。
「立憲主義」は都合よく用いられる。
護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。
今時に立憲主義を標榜する者は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。



現行憲法9条の原義である、後の自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。
例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。

また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。
皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の、一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。
こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意・ここでの他力とは"平和を愛する諸国民"ではなく"米軍"のことか)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。
現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。
日本の仏教宗派では、浄土真宗・浄土宗系のほか、禅宗系とりわけ曹洞宗は現行憲法の護憲論者が多く、教団規模の取り組みにすら見えてならない。
もっとも、「団体・法人の目的を超えた活動」という非難を恐れて大胆には動かないであろうが(これを怖じずに憲法9条を守ろうと運動する日本山妙法寺という団体もある)。

仏教において戦争・平和とは、欲望などの三毒が生み出す忌まわしい地獄・修羅の業の結果である上、その三毒に塗れたまま命を落とせば死後も地獄などの悪道に堕ちてしまう。
かといって、無理に抑制しようとするものでもない。
結局、当事者の過去遠々劫に於いて積み重ねた悪業の因縁によって結果的に発生する。
巻き込まれる者も同様であり、「自業自得」とは本来、こういった広い見地より言う。
6月20日の記事で紹介した釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)も、最初こそ釈尊は当事者間の衝突を食い止めようと動かれたが、3度目以降に彼らの悪業の因縁を知り、不可避の闘争であると識って不本意ながらもそこで行動を終えられた("仏の顔も三度まで"という諺の原意)。
悪業・宿業の根深さとその忌まわしさは、十大弟子の一人にして阿羅漢果を得た目連尊者が婆羅門に打擲せられて亡くなった故事(尊者自身が過去世の業を覚って死を覚悟した)にも見られるが、妙法である日蓮大聖人の法門は、悪しき宿命をも転換して現世安穏・後生善処の利益がある。
無論、南無妙法蓮華経の信心を守り抜いて他宗信者の武士に処刑された熱原三烈士の死に様は、目連尊者にも似るが、これらは「転重軽受」による罪障消滅であり、無始以来の罪業を現世の一瞬で"軽く受けた"といわれる(死に際しても泰然としておられた心の現世安穏)。
話を戻して戦争・平和についていえば、立正安国論で諸経を引かれて「他国侵逼」から国を護る手段を訴えておられる。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法の理想は空理空論である。
坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。
武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。
その「今」とは、西洋的合理主義が巷間に蔓延って定着し、仏教にも外道の邪教にも理解がなく、現代的合理主義の個人主義と啓蒙思想の相乗効果で宗教を一緒くたに卑下して世俗的・皮相的な思考しかできない現代人(世俗教シャカイ派信者)ばかりの「末法悪世」ではないか!
宗教家であれば、憲法の議論よりもこの事態を甚だ悲しまねばならない。



平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。
率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。
先述の釈尊御在世の故事(6月20日中の記事釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。
虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。
世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は発言する勇気があっても発言した内容の実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。

時宜に随って変化する世俗の条文や法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
事実の真否を問わず、古くから日本人の立法観・政治観はこのように「諸行無常」を弁えていよう。
日本国憲法については昭和天皇の勅語(昭和21年)にも、「國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたのである。」と、あくまでも当時における「國家再建の基礎」を前提としていたし、当時は実際にアメリカなどの占領下であって軍事衝突など考えられなかった(ソ連は終戦直後に千島列島などを不法に侵略したが)。
時局に対して柔軟にあるべき政治ならば、必要性を訴える声に応じて前向きに議論すべきである。



修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。
よほどの聖人や上根上機の人でもないと、俄かには煩悩を断ちがたい。
また、人間(健常者)は誰しも悩みを抱えながら生きている。
多くの悩みをいきなり排除して奔放に生きることなどできないし、他に悩みの速やかな解決の手段としては自殺くらいしかない。
しかし、「死の絶対性」に任せるだけの虚無主義ではいけない。
そこで仏教では、死後の輪廻を説き、また現世における解決法をも説くから、「死ねば終わり」の虚無主義を一蹴している
人間として生存する以上、どのように悩みを解決して幸せを得てゆくか、慎重に考える必要がある。

国家もまた然り。
しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。
日蓮大聖人の「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず (乃至) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(学会御書 1,192~1,193p)」と仰せになった御書の大意は、兵法が優れていても兵法を活かせる運や根本的な精神が無ければ役に立たないことを意味している。
つまり、兵法(国家で言うと軍隊)による危機の回避を認めておられる。
「なにの兵法」とされる実質的能力も、「法華経の兵法」という精神やそれによる福運と共に必要であるそう(ある種の中道や和を説いている)。
お言葉を賜った四条金吾殿は、絶体絶命の諸余怨敵の攻撃を回避すべく、「兵法」を行使したわけであるが、同じく日本国も怨敵の攻撃を防ぐために軍備は必要である(怨敵の如き侵略戦争などしない)。
※大聖人の御文の如くんば、軍備を強化しても放棄しても、改憲も護憲も最終的には国内の乱れ・他国の攻撃を受けて窮地に陥ってしまうか、やはり正法なくして国家の安泰は成り難い。

軍備とは忌々しいもので、核兵器などはその典型例である。
諸刃の剣の如く、自国にもリスクが大きく、保有国がアメリカから北朝鮮までこぞって将来的な核廃絶を主張していても、核軍縮は進まず、核開発を継続するなど、保有国間の疑心暗鬼が強い。
このように、核兵器ですら手放しがたく、現在はなお疑心暗鬼が強まっている。
娑婆に完璧な清浄は有り得ない。
過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。



改めて中道の意義に念を押すと、憲法論争の元凶は無明の邪見「常見・断見」に尽きる。
「常見・断見」とは、人間の生死(死生観)という哲学的・宗教的テーマに限らず敷衍できよう。
極端に現行憲法を「不磨の大典」として守りたがる人は「常見」であり、一方で帝国憲法の復活を訴える人も「常見」であり、自主憲法を作り直そうという徹底的な改革を目指す人は「断見」である。
この「常見(有への執着)」も「断見(無への執着)」も極端な見解であり、「中道(非有非無)」の仏教においては何ら推奨しない。
ただ、改憲の必要があると意見が高まれば、その一点を議論すればよい。
強ちに改憲をせずともよい状況では、差し置けばよい。

自民党に陰謀論多しといえども、現行憲法を既成事実として受け入れ、改憲に前向きである点は、もっとも「中道」、安倍さんのいう「中庸」の旨に近い存在と、私は思っている。
更に言うと、「与党の中の野党」を自称する公明党は、宗教政党だけあって政策も改憲議論も穏当な立場に見え、良くも悪くも中道に見える(支持母体の教団一般会員側と政権与党での立場のバランスが微妙を極める)。
背後の教団も含めた歴史的経緯(投票事件・言論ナントカ・主張の変節・各種陰謀など)についてはここで論じない。

色々と論じてしまえば、自民党がアメリカの言いなりであるから各種政策を成立させてきたとか、過激な護憲派や民共野合野党が中朝の手先であるから与党に文句をごねてばかりで、中朝など実際に戦争を起こしかねず今も国際法を蹂躙したり近隣国家と衝突している現実的脅威には何も抗議をしない、などの陰謀論に走ってしまうから、それらの邪推は封じ込める。
ここまでにそういった方面を触れないでおいた理由は、疑惑による悪心を起こさぬためである。
実相に詳らかでない物事を推し量って仮に信じても、盛んに広めないほうがよい。
万事に顛倒を起こしかねない(6月20日の記事・脚注3に同意)。

政治的な最善をここであえて言及すると、そういった陰謀論・陰謀説を含めて胸襟を開いた議論がされ、護憲派も改憲派も明確な認識を相互に示すことであろう。
とはいえ、今後ともそんな公平公正の議論などされようもないこと、欺瞞に満ちた政治家や政治団体を見ている人は嫌というほど御存知であろう。
現状、相互に邪推をかけて譲らないわけだから、今までが仏教の「中道」に適っていないばかりか、日本の「和(譲り合いや話し合いの意義を重んじている)」の思想にすら遠い。

聖徳太子の十七条憲法に「十七に曰はく 、夫れ事・獨り斷む可からず。必ず衆と與に宜しく論ふべし。少きことは是れ輕し。 必ずしも衆とす可からず。唯だ大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故に衆と與に相辯ふるときは、辭・則ち理を得。」と。
この一条の意義を熟考して拝察し、心せねばならない。
※この訓読文は、複数の検索結果から独自に組み直した。理論を概説すれば、全て和語で読めるようにし(例えば"論う"ならぬ"論ず"は漢語サ変動詞だから非推奨)、"是"・"唯"などは送り仮名を振り、原文にある漢字は出来る限り残した。準体助詞"とき"や再読文字の場合の"べし"はひらがなでよい。





起草日: 2016年7月8日・・・同日に前の政治記事を原稿とした動画を投稿したり、同記事に脚注を設けて2つの注釈を加えた。

追伸: 2016年7月13日19時、今上の天皇陛下が、生前、特に数年以内に退位せられる意向を示しておられるとの御報を耳に入れた。
この日、参院選で当選した無所属議員1人と別の民主系無所属議員も自民党に入党せんと発表し、自民党が参議院で27年ぶりの単独過半数になんなんとする政局の変化を見た矢先である。
時局に複雑さを感じる私だが、向こう数年間は陛下がコロンと崩御せられることはなく思う。
陛下の御宸襟を探るようではあるが、この際に書いてみる。

お年を召されながらに、陰陽、様々な公務の折にも、深いお考えを胸中に秘めておられ、時に随ってこれを周知せしめんと思し召されていたのであろう。
やはり偶然もあろうか(そもそもNHKの独自報道が第一報であって以前より皇室で内々に同意もあった様子)と思うが、陛下の御耳におかれては政局や世情を聞し召しておられようし、生前のうちの退位を御決意せられた経緯は、こういった心境があろうと邪推を致す。
日本国憲法に関連する議論の進行の注視や最終的な裁定、今なお止まない男系護持のための皇室典範の改正議論の動向もあって今は早すぎず遅すぎず、と判断して妥当であるから、こういった政局や世情を観ぜられた影響を拝察する。
現行の皇室典範(異称: 占領典範・日本敗戦後に作られたため)には、この「生前退位」を認める規定もないため、改正の必要性が言われ、これを契機に様々な改正が議論されようか。

無論、皇位の在り方は陛下の御意思こそが第一であり、それ自体を民衆や政治家は論ぜず、ただ戦後に制定された現行の皇室典範の改正の是非を論ずればよかろう。
例えば、現行の皇室典範では皇室の方(皇族)の婚姻に関して内閣総理大臣を議長とする「皇室会議」のメンバーが結婚の是非を決議する必要があり、皇室の尊厳を政治に関連するものとして民主主義の枠に押し込めた、尊卑逆転の制度が縛りつけている。
ただ、皇室の方の意思に対して皇室会議の構成員が著しく反発することも有り得なかろうし、そもそも皇室の方は、民が失望しない判断に自然となるお徳をお持ちであられる。
煩雑な皇室会議の合議も、皇室への障害とはならないように思う。
事実の真否や、実際の行く末はともかく、こういった私の見解も仏教の思想が大いに出ているので、再度、理解を深めてほしい。
そのために、恐れ多くも愚見を忌憚なく綴っている。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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