2015年3月6日金曜日

助動詞「む(推量)・ぬ(否定)」が「ん」となり、現代では混同される

有名なものに「求めよ、さらば与えられ」という言葉がある。
キリスト教関連の語句やフレーズは明治~戦前に、神道・仏教の用語を用いたり古典的な文法に訳されてきたが、これは単純明快且つ最も知名度が高いフレーズだろうか。
現代では関西弁などが全国的に認知されたこともあり、助動詞「ん」は否定形として現代人に浸透していることだが、当然「与えられ」の文法においては否定形のニュアンスではない。
それでは何か、端的に言えば「推量(~だろう、の意)」である。

古典的にはこの「ん」とは、本来「推量の助動詞『む』」であったが、日本語の多くの熟語等で鎌倉時代・室町時代などに「む・ぬ」などが「ん」に置き換えられ、発音がされやすい形となった。
否定形のニュアンスを持つ「ん」は無論、「ぬ(打消しの助動詞『ず』の連体形)」が「ん」と変化したことになる。
これらの文字が「ん」に置き換えられる事象を「撥音便」という。
動詞連用形に付く助動詞「ぬ」は完了(俗に言う過去形)を意味して別物なので、混同に注意。

「○○せわ(例:誰も電話に出わ)」という否定文の関西弁があるとする(関東では「誰も電話に出ねーよ」)。
この「せわ」とは、本来「せ(する未然形)・ぬ(助動詞)・わ(終助詞)」という構成である。
「ぬ」とは何度も書いてるよう、否定の助動詞である。
原型としては「○○せぬわ」となる。撥音便とはこういうことである。
もしこれを「○○せむわ」と書けば、推量の古文になるかもしれないが、「せむ」は譲歩しても、ここに「わ」がついては文章が奇怪すぎる。

その点は取り敢えず、関西弁ではこの撥音便が多くあるなどで、関東(いわゆる標準語)となぜ発音の差が大きいかはこの「音便」等の多用がその印象を付けていることを知れたし。
関西弁などの多くの方言は、この発音の簡易性が江戸期以降に追求されてきた。
また、「わ」を「ぞ」などに変えるか、終助詞自体を付けなければ「俺は知ら(知らぞ)」等、関東の口語でも通じるような場合も多い。
※関西弁かてワイは知らで~さいなら~



冒頭の「求めよ、さらば与えられ」について戻す。
これを分解すると「する・ならば・与える・られる(受動態)・む」である。
即ち、「求めなさい、そうすれば(そうならば)与えられるだろう」と現代語訳できる。
『「む」=推量』とここまで書いたとおり、この一文では『「む」=だろう』に訳せる。

この文章を意味そのままに私の知識で以て書き換えてみよう。
「されば与うらむ(与ふ+ら(受動態)+む)」である。
「与える」など、助動詞"eru"が付く動詞は、この種の漢文の訓読だとか1000年位前の和歌なり文献なりを漁れば、"eru"という助動詞が付いてない形が多い。
「与える」の場合も"eru"が取れて「与う」と書かれる場合も多い。
食べる→食ぶ」、「負ける→負く」・・・このあたりは他の例を私が羅列するより、実際に色々と読んでみれば知識として定着する。
もう一点いえることは、この「与える」と同義の変化で"eru"の"e"は要らず、「与うる」のように用いるような場合も、嘗ては多く存在していたことも留意されたい。

「求める」の命令形「求めよ」についても、「求める」が正しい終止形ならば「求めろよ」になるはずだが、これも結局"eru"形の動詞であるため、「求む」というのが正しい終止形となる。
「意見を求む」と「意見を求める」では、前者が堅苦しいかもしれないなどの「受くる印象の差」も生まれるのは、現代に於ける使いどころの相違点。
"eru"形の動詞と同じような性質のある例が"iru"形の動詞で、「飽きる→飽く」、「老いる→老ゆ」など・・・
eruやiruについて書く記事ではないため、そろそろ表題の件に戻す。



このように「求めよ、さらば与えられ」というフレーズだけでも、現代と百数十年前とだけで様々な文法の差異を簡潔に抜き取れることがわかる。
ちなみに、「助動詞『む』の撥音便」は推量の他に「意思」等のニュアンスを含むこともあり、「動詞の未然形+とす」という表現などが、これに該当する。
「逃げとした時→逃げようとした時」、「国滅びとす→国が滅びようとする」と訳せる。
「神の御加護があらことを」というフレーズも、同じニュアンスである(神の加護があろうことを、願う、と言葉が省略される)。
※「とす」も本来「むとす」だが、別に「むず」と推量助動詞で派生する例がある。

これで表題の件における「ん」の謎も解けたであろう。
これから「否定文ではなさそうな場合の『ん』」にまみえることとなれば、おおよそ「推量=だろう形の『ん』」と判断するが宜しい。
一年前の自分だと、明確な答えがわからずに、「そういうもの」程度で思考を止めていたのだろうか。
「ん→む・ぬ」の判別を明確に付けられるようになったのが、つい数ヶ月ほど前。
2014年は11月・12月頃より、もやもやしていた多くの知識のもやを、取り払ったような状態にするべく猛勉強を進めてきた。
飽くまで種々の知識を世俗の名利に連なる野心の武器として使い捨てる気ではなく。
この種の勉強において検索中に、某質問サイトなどの学校教育系の質問が目に余る。
葉は萌ゆれども須臾に萎ゆ。根ぞまた枯るゝ。。。



記事末でいつもの変なネタ話
「む」が撥音化された現代の経緯を遡って「チムコ・マムコ」と言う人もたまにいるよね。
いわゆる、類推というものだと思う。
検索したら「次の検索結果~」とか甚だ見当違いな画面を出された。
だから「葉は萌ゆれども須臾に萎ゆ。根ぞまた枯るゝ。」とさっき言ったのにな。ゴミ。
少しでも巫山戯た話しちゃいかのか(この「いか」も「いかぬ・いけない」である)。

2個も記事を書き上げた2月27日から続いてるが、この勉強はいいことない。お手上げ。
2個目の記事は3月3日反映させたが、この日はまさにこの記事を記している今日であり、記事投稿ペースの調整のため反映させたから入れ替わりでこの記事を13時過ぎより書き始めた。

勉強してても日に日にイライラが募るばかりだ。
最近、とあるアレの雑務(漸次、口が悪くなる)から解放されたと思えば今度はこの有様。
「片時も 休まる遑 無かりせば・・・」不満を書くだけでなく、風流に句も詠む俺。
遑なかりせば本当に、勉強の行く末は灰身滅智の様相と化してしまいそうだ。
何しても身を滅ぼしかねない境涯の私には、それが散々知れていても止められない。

この部分で言いたいことは、「当記事における知識量は暫定的なもので、今後当方の確認で誤りが発覚することもあります」だね。
数ヶ月で著しい進歩があるなら、現時点もまた数ヶ月後に振り返られると未熟さに赤面するのではないか、という。



最後に、まだ書きたいことがある。
韓国語などで「金」は"キム"など(ギムとかクムとか)に読まれるが、昔の日本でも「む撥音便」逆行で"キン"は"キム"と発音されていた可能性も浮上する。
もしそうでないという可能性もあるなら、「金の呉音"コン"」を"コム"と発音したか・・・
漢字の読み方が「なんとなく似てる」どころか、実際はこのように詳しい理由を述べた上で同一性をも指摘できるオレ様。
なお、韓国語でも場合によりキム等にも撥音便が生じるかもしれない。
韓国語のみならず、中国方言やベトナム語などの「南"ナム"」という発音も、かつての日本では同様に"ナム"と発音していたのではないか。
これ見た時には→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%A3%B0#.E5.AE.9F.E4.BE.8B


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