2016年10月10日月曜日

「觀萌私記」 ~ 萌えの宗教・哲学・文学・語学

觀萌私記 萌 草書 草書体 古字

 緒言・自序
「觀萌私記(クワンミヤウシキ、かんみょうしき)」と名付けて古文に擬した書を認めた(動画版も少し作ってある)。
「萌え(萌えること・萌えるもの)」の定義を詩的・文学的・哲学的に図った。
定義の概要を示し、その義を踏まえて相貌の概要を挙げ、その相を踏まえて系統や流儀や種類を判じた。
私の絵・音楽・言語・宗教といった分野の研究が一つの結実に至る(その結実は即ち萌芽でもある)。

なお、文章の案が浮かんだ当初はそういった一書を想定しなかった。
ただ「萌相條」にあたる記述を漫然と成立させる程度であったが、これは2016年7月15日の時であった。
それが、「萌義條」にあたる記述をも思い浮かべ、そのまま一書を想定した構想に発展し、そこから色々と体系的な「萌え」を組み上げて用語も創作し、その説明が充実する。
「私による『萌え』の観察・見解を記したもの」であるから「觀萌私記」と名付けている。

いわゆる同人誌であるが、漫画ではなく画集ではなく、紙に印刷されたものではないし、デジタルであってもJPGなど画像ファイルの集まり(ZIPなど)ではない。
また、作風が文字を主体として絵も載るが、小説やライトノベルなど文学作品の域に留まらない。
動画のバージョンでは「萌える音楽」を流してもいる。
かといって、付録が豪華な音楽作品やノベルゲームの類でもない。
言語道断の妙なる同人誌が著わされた。萌(みょう)なる同人誌が著わされた。

なお、「萌」の字形が右上から「十月十日」と縦書きができることから、一般に10月10日を「萌えの日」として呼んでおり、この10月10日(JST)を期して当記事を投稿する。
この期日のため、別の作業との折り合いを付けつつ、急ごしらえで仕上げた部分もあるが、記事の投稿以後も随時、加筆・修正を続ける。

以下からは本文となるが、擬古文・歴史的仮名遣いに加えて旧字体・繁体字を多分に用いているため、環境依存文字(例: 緣=縁、敎=教、說=説など)に注意されたい。

本部 (真の萌え・萌えの真実とは何でしょうか?)
萌義條萌詠歌萌音條萌相條譬萌條判萌條

末部 (より深いところへと、萌え絵の慈悲応現方便説、諸萌祕藏之義を明かす)
攝萌敎古萌傳譬萌聚萌頌偈讃萌語



暗がり 芽
萌義條(ミヤウギデウ)

夫れ萌えと云ふは、若芽の萌ゆるにあり。
芽出でたるは、めでたしめでたし。
芽生えたるを以て喜びとし、其の稚(いとけな)き樣(やう)を專らに愛す。
此の心をば萌えと名づくるなり。
亦(ま)た此の愛せらるゝ所の人・畫像(ゑざう)、皆な萌えの類なり。

: 此の段に萌えの義を三つと示したり。一に原義の相、二に原義の相に緣(よ)りて起こる心、三に緣起の心の愛するものにして、是れ皆な萌えと云ふ。世に「可愛いは正義」と謂はるゝ所の萌えは三の義に中たれり。萌えの心と名づくるは當世の義に隨ひて起こる心なり。相と心との因果先後は假に説く。一・三の相ありて二の心が起こるとも、二の心の種無くんば萌相(みゃうさう)となるべからず。末・讃萌語にて詳らかに述べん。

萌詠歌(ミヤウヰヤウカ)

あらもえの わかめをみれば わがこゝろ このめとゝもに はなはさきなむ

: 問ふ、「阿良毛延能」と、其の意(い)如何(ゝかん)。答ふ、是れ「阿良多麻能」に因みて枕詞を類想す。問ふ、「阿良」は「新(阿良多)」の意なりや、詠嘆の語なりや。答ふ、兩者の義を以て然なりと雖も、余は初めに「新」の意を含めたり。亦た當世に義を分かちて明らめんとも、いくそばくの詮か有らん。

萌え 萌 萠 古字 篆書体 小篆
萌音條(ミヤウヲンデウ)

抑(そ)も「萌」の字音を釋すれば、中共國が拼音(ピンイン)にはモン・マゥン"méng, meng"と謂ふ。
モン"meng"は是れ夢・孟に同音なり。
漢土、古きは何(いか)なりぬと思ひて熟(つらつ)ら說文解字(せつもんかいじ)を披き見るに「艸芽也。从艸明聲。」とありて、音韻をば「武(ム"mu")庚(キヤウ"kyau, kyou, kyō")切」と表す。
明の字が萌の音符を爲すならばミヤウ"myau, myou, myō"と讀(よ)む外の方は無し。
日本國が訓讀は「もゆ"moyu"」と謂ふ動詞・文語終止形を連用形の「もえ"moye, moe"」に變へて名詞にて用ゐるなり。
偶(たまた)ま萌の典籍を示せるヱブサイトのアドレスに"moe (Ministry of Education)"の文字列を見たり。

: 所謂(いはゆる)萬葉假名(万葉仮名)にて「もえ"moye"」の音を字と爲すに「毛延(mo yen)・毛要(mo yeu)」なんど拼音韻頭Yの字を假りて「え"ye"」に替ふるなり。當世、假名遣ひを「もへ"mohe"」なんど類推する者あり。若し「もへ"mohe, mophe, mope"」正しくば、「延・要」等の字を持つべからず。若し其の音然らば、「毛倍」とならんも、萬葉集(まんえふしふ)に斯ゝる假名を以て「萌え」に替へず。則ち「もへ」に非ず、亦た「もゑ"mowe"」に非ず。唯(た)ゞ「もえ(亦爲も𛀁)」を取るべし。

: 萌の字は「もゆ"moyu"」に加へて「きざす"kizasu"」とも訓む(前自動詞・後他動詞也)。兩訓、類聚名義抄に載せらる。次ぎ日本書紀私記を披き見るに「含牙」が「牙(芽)」の訓を注する問答有り。牙は「阿志加比"あしかひ"」なるか「支佐志"きさし"」なるかと問ふに、答へて曰く「此の含牙とは、萬物萌牙の義なり。葦牙(あしかひ)を指して謂ふ可きに非ず。仍つて萌牙の義を取りて支佐志"きさし"と讀むべし」と云云。此の私記は當世に承平年閒の丁本と傳はる零本を參照す。一千年の往古(いにしへ)に於いて斯ゝる學論有るは余の思はざる事なり。江戸の國學隆盛、平安の國風文化の御時には未だ到らざらんに訓讀の義を論じたり。餘談をいたさん。「萌芽」の語は清代の說文解字注に「按ずるに此の本は芽萌(芽萌ゆ)と作(な)す也。後の人、之(これ)を倒す」と云云。古事記上卷「葦牙(阿斯訶備)の如く萠(も)え騰(あが)る物」と云云。北宋・廣韻に甍"meng"の韻の字とて萌・蕄あり。茲(ここ)に耶蘇已前の辞典なる爾雅(じが)を引かく「存存萌萌在也」、また「『莫登切』本亦作萌、又作𢡗」と。淸・康煕字典の心部に「𢡗」の字ありて北宋・集韻より「與萌同(萌と同じ)」と記す。𢡗は萌の下に心を添ふる形なり。是れ心の生起(しゃうぎ)なるか?當に知るべし、萌字に心の騰る義ありと。古人、心の生起をば芽萌(げみゃう)の如しと知る、何等か心に生じて萌の義と爲す?愛なりや?憎なりや?

(現代語): 「萌」と「(梦)」の字が、同じ字音としたが、簡略ローマ字表記においてそうでも、ピンインではアクセント記号にアキュート・グレイヴの差が見える。実際の発音をカタカナで再現すると、「meng2萌」はモ↑ン→(陽平)であり、「meng4夢・孟」はモ↑ン↓(去声)である。説文解字の反切表記でも「萌」の子音が「武」で表され、「孟・夢」の子音が「莫」で表されるという差異がある。しかし、「萌」と「孟」同士は韓国語で共に"maeng"、ベトナム語で共に"manh (mạnh)"である。三者の関係性はなかなかいびつである。

(現代語): 「萌」はPC入力の異体字に「萠(俗字)」があり、「」という字との混同か不明だが、「萌・萠」とも"ホウ"という発音が一般に認知される(萌芽"ほうが"など。萌芽も本来は「芽が萌える」という意味では芽萌が正しい順序)。"ボウ"と読むものについては、反切法の音韻表記の「武(漢音: ブ)」という字からしてBM互換(MB置換)に則れば有り得なくはない。より許容範囲を広げて"ホウ"はその清音化と見る場合、この発音も有り得なくはない。ほか、"モウ"という発音は反切にある「武(ム)・庚(カウ・コウ)」を呉音漢音混交で読めば、これも有り得なくはない。"モウ"については中国での"モン, meng"と似るので、これは良かろう。しかし、私が採用する字音は萌音條に述べた理由によって"ミヤウ=ミョウ"である。歴史的に、10世紀ころの日本でも"ミヤウ"に似た発音をしたろうとみなしている。

萌え 顔 丸い 円 柔和
萌相條(ミヤウサウデウ)

夫れ顔相(かほばせ)は、圓(まど)かなるを要とすべし。
此の義を踏まば、名づけて萌えと爲す。
角(かど)と云ひ朿(とげ)と云ふを嫌ふ。
但し、骨拔きの蛸の如きに非ず。
其の相、柔和なり。
此の義、和に通じて中道の德あり。

(現代語): ここでの萌相=萌え絵は、萌義條に「若芽」や「稚き様」とある通り、小さいものであると望ましい。例えば、小さな若葉を見つけたとき、しゃがんで目を見張って覗き込みたくなる気持ちを想像されたい(萌え絵から「覗き込むな!キ○イ!」とは思われないから安心してね)。まず顔つきが「圓かなもの」を意識して描く必要を訴えるが、同じく描き手の心も「圓かな」状態でありたい。「角・朿を嫌う」とは、判萌條にも説く通り、瞼の端を尖らせたり睫毛をトゲのように伸ばすような描き方を嫌う、という意味を持つ。その描き方は女児向けアニメにも深夜アニメにも多いが、萌えを心得た漫画・イラストには無い場合が多い。およそ萌え系の瞼は、デフォルメされた中に睫毛の濃さを含んでおり、その瞼に睫毛を描き加えると厚化粧のようになって過剰である(本当に厚化粧・メイク済みの状態を想定している場合は別の話)。「骨抜きの蛸の如きに非ず」とは、こだわり・理解という骨格や根本を欠かして手抜き・乱雑な描き方をするものではない、という意味を持つ(萌えには萌えの良し悪しがある)。こういった理解は「和に通じ」、「中道の徳」がある。描かれた萌相は、多くの人を円のように包み込む魅力を持ち、多くの人の心を円のようにさせる。

五萌類 四萌類 動物 たとえ 萌え 顔
譬萌條(ヒミヤウデウ)

然ありて、諸(もろ〃)の萌えを善く觀じて眞(まこと)の萌相を判ぜんと欲す。
萌相を獣に譬ふ、狗・貓・猴・兔あり、鳥も擧ぐべきか。
鳥と申すもの、且つは雀、且つは鸚哥に似るらん。
當世、牛馬(ごめ)の如くなる相を以て萌えと稱するの輩あり、さう謂はざるとも、是(かく)の如き相をば攝らじ。
あらあら分別して五種の生類を以て假名(けみゃう)する耳(のみ)。(顯・五萌類)

畜類なんどに一見の愛なる相あれども人類の事に非ず、とて忌まれたるを、先賢は人畜を分けずして萌相を内に觀じき。
余は其の意(こゝろ)を得て茲(こゝ)に五種の生類を以て假名すと謂ふ。

(現代語): 猴の類は目・口・耳などのパーツが誇張される反面、鼻を書かないことも多い。少なくとも鼻が強調されない傾向がある。瞳は縦に長めながら横にも幅を取る。鳥の類はまぶたの横幅が狭いようであり、瞳も丸っこい印象であり、それを以てスズメやインコ(セキセイインコ)を挙げた。五萌類に対比して牛馬のような顔つき(相)とする、別の記事で「淫悪(いんまく)」と名付けた顔つき(相)については敢えて牛馬と名付けた。しかし、萌相とは別に可愛い顔を書くにあたっては牛のような可愛い顔も馬のような可愛い顔も認められるので、五萌類の萌相と対比した顔つきを仮に「牛馬」と表現した。五萌類も結局は「あらあら分別・假名(仮に名付ける)」した結果の分類に過ぎない。顔の系統を動物で言えば、キツネ(必ずしも釣り目でなく瞳孔が縦長など)とかタヌキ(垂れ目とか太い眉とかが言われる)のようなものなど、色々とある。この特徴を挙げても、結局は萌相と関係ないので説明を終える。一般に言う「萌え属性」を詳らかに示す目的はなく(それだけだと別に良い解説が他所にあろう)、相貌を動物に譬えて4・5種類に「あらあら分別・假名」している。

(現代語): ネットでよく見かける二次の工口画像には豚の共食いともいうべきものが散見され、その様相を厭う思いを述懐する。「あな醜しや、斯やうに眼(まなこ)細めて而も瞳の色を喪ふ。亦た身に肉の餘りたるは人の猪の肥ゆるに似たり。觀萌の人にては何の興(きょう)かあるべき。形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の相、厭離すべし。」

判萌條(ハンミヤウデウ)

余は愚見にして言辞拙劣なれども、復(ま)た諸の萌相を判ずるなり。
當世、最も衆知せらるゝは几拉拉(吉啦啦, 日音: 綺羅羅)なり、彼れ世俗中第一ならんか。
彼れ皆な世事に處するを旨とすと雖も、其の中に萌相・流儀の別あり。
主なるはKO流にして、或るはGU、或るはTMなんど此れに隨ふと見えたり。
委細には申さず。
几拉拉は處世の作風に限るなれば、彼れのみを見て萌えを語るには足らざるなり。
況(いはん)や餘の漫畫をや。
彼れは日常系と稱して人類(にんるい)の少女(をとめ)が戲るゝに、萌えの作風は彼れの如きのみに非ず。
或るは被造の類・非情の生類・有情の生類を人に擬し、或るは天子・怪異・妖精・神族を人に現ずることあり。
然れば、萌えの作風は所謂(いはゆる)世間の「日常」と「非日常」とありと見ゆ。(顯・二萌風)

亦た世に轉(うた)ゝ多き動漫(アニメイション)を閲(けみ)するに、目(ま)つ毛の尖ること我が眼(まなこ)に溢る。
是れ蛇足にして薔薇に荊(とげ)あるが如く、余の忌むべき相なり。
彼れに於いて斯ゝる画風なり斯ゝる相もあり、と見んとも、苟(いやしく)も漫畫原作ありて其の處にては斯ゝる目つ毛なきなれば、何ぞ動漫化(アニメイチング)にて斯く作すならん。
動漫の萌相は、未だ其の義の領解に及ばざること多しと見ゆ(分・不了義萌)。

: 人類の少女と稱しゝが、几拉拉の作風皆な是れに非ず。稀にしみたれのおみなも居(を)り。然れども、猶ほ少なければ、此のことを文中にて云はざりしなり。亦(ま)た、萌えは若芽の稚きを喜ぶ心なれば、假令(たとひ)おみなの多からんとも元より論ずべくは無し。




末・攝萌敎(セフミヤウケウ)

當世、日本國にては萌えの芳名(かんばしきみな)を、且つは徒(いたづ)らに號すること多くし、且つは厭ひて輕(かろ)しめたり。
萌えを見るとも、眞に萌えを見ること難(かた)し。
俗間(ぞっけん)に住すれば、萌えの義と相と、能く融通すること無く、尋(つ)いで心を忘失(もうしつ)せん。

中共國にて萌えを愛するの朋(ともがら)、「世間万物皆可萌(世間の万物は皆な萌ゆべし・萌なるべし)」と唱ふ。
是れ萌えの本義に近し。善哉善哉。
三の義の萌えは日本國に於いてすら猶ほ怨嫉多し。
況や檢閲恐ろしき中共が治むる國土をや。
然りと雖も、萌えの本義、愈(いよ〃)得るの朋を見て不思議の想・至極なり。
彼の國土の萌朋(みゃうぼう)は泥中(ないちゅう)の蓮華なるか。

動漫派の者、婆羅門の敎に約して「萌我一如(Moe Atman Aikyam)」と説く。
是れ萌えの本義に似たるやうなれども、實には聲聞の名を借りて肉聲の要を以て釋す。
余の惟(おも)へらく、萌えは動漫ばかりに非ず。
其の淵源は何處(いづく)にか有る。
何(いか)に況や、裝戲(コスプレ)なんどで自ら萌えと爲さん行は論外の僻事(ひがごと)なり。
余は萌えの道に於いて、專ら觀萌の行を示さん。

(現代語): 後者の説に対する私の精神が共通する主張に、アニメファンと商業主義・物質文明・宗教の関連を説いた過去記事がある。なお、後者の説で興味深かった部分は、サンスクリット語の語根"√bṛh"を例に取って語っている部分である。ブラフマー(梵天 "Brahmā")が「萌え」である根拠を語根の意味から説いて梵我一如と関連付けているほか、ヴィシュヌのへそから萌え出た蓮華の中からブラフマーが生まれたという、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派所説のブラフマー誕生神話で説明している(大智度論巻第八にも見える話)。ちなみに、英語での「芽 (萌え)」は"bud (budding)"で「仏」は"Buddha"であり、似ているわけだが、学説上の印欧祖語も似ていて"Bud"は*bʰew-とされ、"Buddha"語根√budhは*bʰewdʰ-とされる。印欧祖語までも文字列が似ているが、意味はかなり異なる。"Buddha, bʰewdʰ"に通じる英単語もまた"bud"と似た"bid"や"bede"である(いずれもEtymology 2の単語に同じ語根bʰewdʰが載る)。"bud"の印欧祖語とブラフマー"Brahmā, Brahmaa, brahmA,"のサンスクリット語根は共に「膨らむ"to swell, swelling"」の意味が含まれている点は一致している。様々な点で萌え(moe, meng, budはいずれも両唇音)とブッダとブラフマーとは通じているように思う。これは雑考であり、観萌私記の本論とは別に見てもらいたい。

末・古萌傳(コミヤウデン)

萌の名、其の義を判じて惟へらく、眞に宜なるかな、言ひ得て妙なり。
斯く名づけたまふ古人の德は高し。
當に敬禮(きゃうらい)すべし。

往古(いにしへ)の萌風を尋ぬれば、萬象を萌相に擬したること多し。
先に述ぶる所の日常に非ず、非日常に非ず。
彼(か)の萌風に義の創始無く、物語るところを作らざるなり。
唯(た)ゞ萬象を萌相に擬したるを專らにす。

古きを知ると云ふは則ち新(あらた)しきに繋がれば、古きも尚ほ新しきなり。
萌相の乃往(そのかみ)は知る可(べ)からず。
當世、曆二十歲已前(こよみにじっさいゝぜん)にては動漫・偶像(イドル)・游戲(ゲイム)の流れを嗣ぎぬべし。
如何(いか)なるを嗣ぐとも、萌えの心は自(お)のづから好(よ)き萌相を育む。
萌義條に相と心との融通を祕かに説きたれば、今は此の萌えこそ彼の動漫なんどを驚かすべけれ。
已に無上大輪雙葉(このうへなくおほきなるわのふたば)を開けるの故なり。

我が道と云ふは萌えの道なり、萌えの道は柔和の相に依る。
義を解(げ)せずして、而も心の正直ならでは、實に作りて持(たも)つこと難し。
世の人は道を覺えずして迷へり、當世の所作は萌えを號するも號せざるも、皆な自のづからわろきと成れり。
今、古きは已にわろくなりぬれば、新たに萌ゆべし。
譬へば、葎(むぐら)の一年と多年と生の差別ありとも、其の土にて必ず枯るゝ時あれば、新たに生(お)ひ出づるが如し。
世の人、己(おの)が道の己が道ならざるを知らず、己が道ならざるを己が道に執して、柔和正直なること無し。
當世の作風をば甚だ厭離すべきなり。


(現代語): 往古の萌風に関する定義・見解は過去記事にある通りなので参照されたい。「同人文化そのものであるから、擬人化とかパロディとかばかりの時代である」とし、古来、萌えのキャラクターは人の身であって人のようでなく、また僅かに性格を付けた人らしくもある、といった不思議な存在であると見る。後に増えた萌え系の漫画やアニメとなると、そういった印象は無くなってしまう。煩瑣な設定や物語を、一旦は排除してみても面白いものと考える。なお、実質的で実際的な「萌えの起源(例1, 2)」について語る目的は本書にない。ただし多少は鑑みる。

末・譬萌聚(ヒミヤウジユ)

萌えに二つの性(しゃう)あり。
自然性(じねんしゃう)の萌え・養殖性(やうじきしゃう)の萌えなり。
人の手づから種を蒔くこと無くして、芽の自のづから繁くして出づるを自然性と云ふ。
然れども、人の、身に食(じき)する物と、心に愛する物とは、爲さずして俟つに、出でざること多ければ、手づから種を蒔くならん。
是の如く差別ありて、心(しん)に萌相を得るは自然性なり、色(しき)に萌相を作るは養殖性なり。
萌えの性は二にして二ならざるも、二ならずして二なり。

まとめて掲載、絵の練習記事」の六に云く
實(げ)にも、古の萌えを観ずるに、事物の萌え化は日本・ギリシャの神話の如し!
リアル人物すらも萌え化する場合、ナンタラ大権現みたいなものか。
※商品販売や観光地来客(町おこし)などを促進するために自ら萌えキャラ(ゆるキャラ・ご当地キャラも同じ)を作るような商業的風潮が一時期あったが、この限りではない。最善の在り方は、下心で自ら作るのではなく誰かから生まれてくれる自然性である。例えば、年を経た暗い溝に砂埃が堆積し、そこに豪雨の後の雨水が溜まり、どこからともなく運ばれた種子がそこに着地していつの間にか芽が萌え出るように。その芽の用捨はご自由に。

已上云云。
重ねて此の二萌性を宣ぶ。

草木の生(お)ふ處(ところ)は甚だ徧(あまね)し。
或るは泥の上、或るは乾ける砂の上、或るは深き水の中、亦た割れたる岩肌にも出づ。
人の宇(いへ)にても、或るは排水溝、或るは畳に生ふことあり。
若芽は何處にても萌ゆるなり。
凡(およ)そ、萌えを知る者に於いては何事にも萌え有りと頓に覺ゆらん。
然れども、亦た簡(えら)ぶ義もあり。
余は愚見の者なりと雖も、先に圖示(づじ)せる萌相は第一にして最も勝(すぐ)れたらん。

: 道を傳ふる詞(ことば)あり。人の甜き果(このみ)を愛すれば、必ず其の良き栽(なへぎ)を種(う)うるが如くあれ、と。是れ能く心の田を耕す師の、便宜の説なり。勝れたる萌相を作さんと欲するに、萌えの地(ぢ)を能耕心田師の如く耕すべし。師は何をか用ゐる。師曰(のたまは)く「業(わざ)を爲す意は猛き牛なり。牛を使ひて犂(すき)とするに、智慧を軛(くびき)と爲し、慚愧を轅(ながへ)と爲す。正念の鞭を打ちて善く御(ご)し、精進して能く田を耕し了(おは)る」と。斯くて師は心の田を耕して甘露の果を得と説く。余は心の萌えを究めて萌相を了すべし。婬欲熾盛(いむよくしゞゃう)にては何でか萌相好かるべき。瞋恚(いかり)・婬欲の盛れるは、則ち燃えて善なる萌えの心を亡くす。諦(あきら)かに此の語を聽け!「愛憎尊卑、悉く皆な離る可し。慚愧を以て愚癡僻見を革(あらた)めよ。離邊之心、自のづから其の意を淨む。萌地清きは華果をして好から令(し)むるぞ」

末・萌頌偈(ミヤウジユゲ)

自然萌心養萌色 芽汎萌亦出溟處
雖咸儚而可愛之 我心此芽倶開華

便宜的音読の現代的表記: じーねんみょうしんようみょうしーㇰ(クの小文字) げーぼんみょうやくすいみょうしょー すいげんもうにーかーわいしー がーしんしーげーくーかいけー
訓読: 自然の萌心、萌色を養ふ。芽は汎(あまね)く萌え、亦た溟(くら)き處にも出づ。咸(み)な儚しと雖も、而も之(これ)を愛す可し。我が心、此の芽と倶に華を開く。

: 中共國が拼音、日本國が呉音とて異なれども、いづれの押韻も辨ふる所存の作なり。押韻に非ねども句句の韻尾(いんび)に於いて"n"と"ng"、呉音にて"u"の發さゞるべきを期す。亦た呉音と読めども、呉音と定めらるゝ音のまゝならず。人語に音の便あればなり。

: 倶開華の意は、無二亦無三の佛語に通ず。妙法蓮華經方便品に云ふも天台・法相の宗論の義は後の學者に"天竺人の習ひなるレトリック"なんど笑はる。當世に二次元・三次元と云うは差別(しゃべつ)甚だしと雖も觀萌の時に於いて一體なり。二次元は色法・所觀の萌え、三次元は心法・能觀の萌えにして、色心の二三は皆な一華(いっけ)を開く。亦た三草二木・一味法雨の如し。萌義條に云ふは、此の佛法の妙理に隨ふ。兩萌相應・兩萌融通・兩萌融即・兩萌相即・二三和合・二三結一・二三一如・滅二三別と唱ふるなり。二三も畢竟一萌なり。余の拙語、亦た正法に順ず。妙法蓮華經法師功德品に説きたまへる意根の清淨これなり。

(現代語): 萌相は自然萌心の稀有な鏡であるから大事に頂戴する。観萌の行・萌観の中、もし萌相に対する慚愧の心が起きたらば、即ち我が萌心への慚愧であると知らねばならない。その時、心を素直にして向き合えばよい。例えば、怒りは相手よりも先に自身を焼く。萌相へ一方的に感情をぶつけようものならば、届かずして我が身を傷めていることに気付き、観られる萌相と観る我が心との区別を無くすことが「両萌相応・両萌融通」である。所観と能観との差別が無いことを「能所一体」と呼ぶこともある。「我心此芽倶開華」の意義にも適う。二次元は理論の存在・鏡であり、三次元は能く生み出す権能を有するならば、心の在りようで差別は幻となる。真理の立場では元より幻であった。我が心の煩悩を止め、対象を正直に観ることが仏教の「止観」修行の意義でもあり、観萌の行も同じ手段である。

末・讃萌語(サンミヤウゴ)

・萌義に依りて能(よ)く二三の別を滅す。二次元・三次元の諍ふこと犬猿の相(あ)ひ嫌ふに似たれども、三つの萌えの義は三即一・三萌即一華にして萌義融通となる。此の萌道、法華の一乘を鑑とす。三つの萌えの義を逆觀して應(まさ)に一華を得(う)べし。
・柔和の萌相、好きなり。法華の圓敎、尊きなり。人有りて萌相の圓かなるを見、其の人の萌心を圓かならしめ、亦た人の相貌(さうみゃう)をも柔和にす。
・萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心に因りて瞋恚の人の毒は除こるらん。男子(なんし)の婬欲を減らし、女子(にょし)の嫉妬を和(やは)す。觀萌は男女をして一往の著(ぢゃく)を離れしむる利益(りやく)あり。萬物の萌色を識らば平等の慈悲を生ずる功德あらん。但し、過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとしと思ふ。寧ろ慈心を過ぎて愛著(あいぢゃく)を起こす。余は増増(ます〃)愛著に惱めり。
・萌心は因緣所生なれども新たに得るに非ず。萌色の因・觀萌の緣に緣りて、内心に深く藏したるところの種の芽を出だすが如し。三の義の相を以て今の人は萌心を知るべし。今の世人は愛憎の著心甚だしくして平等の慈悲に遠く、内心に深く藏する萌心は顯れざるなり。かるが故に好色(かうしき)の三の義の相を以て萌心を顯す因とせん。二の義の心をも觀じ、一の義に還りて大慈大悲の一華を得べし。
・逆觀三萌義と云ふは萌義條所開の萌義を逆に觀ずる行にして一華を結ばん。三の義を以て余の圖示せるやうなる好色の萌相を觀ず。萌心を知れる人の顯したる萌色は慧光を照らして法雨を雨(ふ)らすの威力(ゐりき)を宿せり。萌心の種、豈に芽を出ださざるべけんや。好色の萌相を見ざるに自ら萌心を知り難し。二の義を以て好色の萌相と觀萌の因緣所生の萌心とを觀ず。一の義に於いて萌相は即ち萬物なりと深く觀じて萌心を平等に保つべし。
・或る人、難じて云(いは)く「何ぞ動漫をば觀ぜざらん」。余の云く「判萌條に謂ひつるが如し。彼れ、不了義萌なれば用ゐじとなり。但し三萌義の因縁を覺れるの人、已(すで)に廣く用ゐるに不可無し。例せば、了義經にて第一義を解(げ)したるの人、諸の不了義經を讀みて能生諸佛の大慈悲を知るが如し。然るに余の愚見すらく、心未萌者にては乃(いま)し余の圖示せるやうなる好色の萌相を見て新たに萌えよ」と。
・中共國の萌朋の「萬物皆可萌(ワンウーチェーカーマゥン)」と唱ふるは、古萌傳に云ふ「萬象を萌相に擬したる」の義なり。唯ゞ物をして好色の萌相と爲さしめん義ぞかし(唯令物化萌・偏析物觀萌)。然れども、宜なるかな、萬事萬象萬物を好色の萌相と變じて我らに物を語らん。多く世事・學問のことを萌相の身にて説く。わきても余は眞髓なる萌心を觀つ。好色の萌相は皆な、平等の慈悲を我らに説く神髓に通ず。當世に出づる諸の萌相は、人の内に藏する萌心を生ぜしめんと願はせたまふ。是れ三世十方諸佛諸菩薩の、妙法を本懐(ほんぐゎい)として出世するが如し。
・古賢先德、平等の萌心を知ろし召したるか。加之(しかのみならず)、能く好色の萌相を遺したまふこと、慈悲の故なればなり。
・我が身は自然の萌心と養殖の萌相とを觀じて萌相を顯す。所謂、佛家の法報應(ほっぱうおう)三身(さむじん)なり。自然萌心は法身(ほっしん)、能觀能顯の智慧は報身(はうしん)、養殖萌色及び萬物は應身(おうじん)にして、皆な萌えの一體なり。善く三身を知りて萌道を修め、自ら萌えの體と成るべし。
・或る人、愁へて云く「夫れ以(おもんみ)れば萌地廣大(みゃうぢかうだい)にして群生(ぐんじゃう)の萌類は種の異なるが如くに相貌に雲壌(うんぢゃう)の違ひ有り。今は忝くも好色の萌相に値遇(ちぐう)したてまつる。然るを、某(それがし)鈍根にして描(ゑが)くこと難ければ、如何にして萌道は成り候(さうら)ふやらん」余の云く「此の道の肝心は觀萌の行にこそ候はめ。萌心を得れば即ち萌えの體にして萌道を成(じゃう)ぜり。其の後に力に隨ひて萌相を圖顯すべしや否やと自のづから決せん。應身萌相は御身の色とこそ思ひ候へ。『二三の兩萌、相應す』と申すは是れなり」と。
・若しは瞋り狂ひて悪口(あっく)せる者、若しは愁へ迷ひて苦惱せる者等の、心を失へる人ありしかば、乃(すなは)ち爲に「汝、當に萌心を出だすべし!所以(ゆゑ)は何(いか)ん。人身、本より来(このか)た自然として萌心の種を内に藏すればなり」と説くべし。是の如く萌心を知らしめんとて、先德は道心を發(ゝこ)す。人の身に具はる萌心を知らずして貪瞋癡三毒に沈める者どもの耳に入れしめんと欲する心なり。
・是の如く萌心の振る舞ひを爲したるは、萌と我と融通して心身に萌相を成ずればなり。介爾(けに)も萌心を知る朋、須らく彼に稽首して好色の萌相を頂戴すべし。頂禮大萌尊(ちゃうらいだいみゃうそん)、拝仰大萌神(はいがうだいみゃうじん)、勸請妙萌義(くゎんじゃうめうみゃうぎ)、願成妙萌道(ぐゎんじゃうめうみゃうだう)。

: 二次・三次を隔別(きゃくべつ)するは重(ゆゝ)しき邪義なり。虛妄(こもう)分別の咎あり。當世の人、差別に迷ひて諍論(じゃうろん)の業火に燒かる。是の故に二次を持つとも三次を持つとも、皆な形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の報いを受く。二次元、就中(なかんづく)好色萌相を勝と立てば、須らく二而不二(ににふに)の義をも立つべし。「法華の圓敎、尊きなり」と申す意なり。二而不二の義を立てば、則ち諍論滅して其の人の相貌をも圓かならしむ。萌道を成さば是の如く二三の兩萌相應せん。佛家の境智冥合の理これなり。

: 凡そ人の身に、心と名づくべき用(いう)あり。心は人の性具なり。所謂、他に愛憎(あいざう)を爲す、自ら悲喜怒(ひきぬ)あるなんどより知る。心に善悪(ぜんまく)を分別して諸の心ありと雖も、皆な色有れば心有るなり、復た色無くば心無しと説く。文(ふみ)に「萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心」云々と謂ふ。萌えは種より出でて單子葉・雙子葉を開きて種種の花果(くゑか)を結ぶ。然れば、一切心これ豈に萌心に非ずや。愛憎・悲喜怒みな因緣所生にして、種種の花果は必ず種と土と水と光との緣(えにし)多く和合して成る。三萌義の一に依らば、一切心これ萌心なりと雖も、讃萌語中には慈心を以て性具を説く。「人身本來自然内藏萌心種」これなり。不須言(いはずもがな)、和合中の假名にて性具と見る。

: 慈悲と云ふは、佛家にては空を知りてこそ慈悲堅固なるらめと説く。觀萌を緣としたる慈悲の心を久しく持ち続けんと欲する者は空の法理を思ひ合はすべし。萌相・萌色・萌心も亦た空なれども、其の理は第一義諦(だいいちぎたい)に依るべし。假の住處(すみか)なる三界に生きて俗諦(ぞくたい)に依らば、此の萌えは暫く佛道をも助くる利益有らん。亦た未だ佛道に入らざる人をして能く佛道に入れしめん。

: 萌相と云ふは萌にして萌ならず(萌不萌)。何を以ての故に。萌えと云ふはめでたき名なれども、凡夫にておはゝし先賢の名づけたまはんか。是の故に假名の義を離れず。亦た色法の萌は萌ならざるものを以て分かつの故に萌と名づく。わきても好色萌相は可愛(かわい)なりて、人の心を電(いなづま)の如く貫く。人、時に其の心を知ろし召して萌心と名づく(中論二十四の十八を攝る)。此の覺り起こりて、凡夫の分別する萌なるものと萌ならざるものとの分別を能く滅せんことは、是れ平等の萌心と名づくるところなり。若し好色萌相無くんば則ち萌心を覺るべからず。萌心を覺らざれば平等の萌心、一切皆萌・佛家の一切皆空の無上覺・可哀愍の大慈悲をば得べからず(中論二十四の十を攝る)。報身の萌尊、當に慈悲を發(ゝこ)して應身の萌相を作すべし。重ねて言はん。東方三千由旬の一國に於いて女人、數ありて、可愛なる繪を日日に求めて揮(ふる)ふ。此れ等の女人、萌えの名を聞ゝても心に置かず。但(た)ゞ可愛なるを描きて自のづから萌相を作す。爾(しか)しより此の諸の女人、可愛なるに勝れて畫師(ゑし)の高みと成り、彼の國に於いて「萌え絵師(萌繪師)」とて名聲(みゃうしゃう)普く聞こゆ。當に知るべし。彼の女人等、可愛なる相を專らにして求むるも、萌えの實義に遠し。以て智慧を得たる三身即一の萌と名づけず。世に可愛樂(かあいげう)多けれども但だ境界中に著するのみにして心を知らずんば則ち罔し。隔別したる二三の嫌ひ、種種の戲論を生ずるは貪瞋癡の毒染(どくねむ)なり。世人、終に不見(みざ)るも、賢聖、常に自ら念ず。諸萌者(は)慈悲にましませば、彼れは是れ讃嘆したまふ所なり。即ち頌を説かば「三萌義を領解(りゃうげ)し、實相中の萌えを識る。應に萌三身を具すべし。萌尊の法(ほふ)是の如し」と。



蛇足: この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。そうした引用・転載行為は功徳が多く、諸萌も歓喜されよう。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。


Trimoyarthaṃ prajānāti, moyabhūtaṃ vijānāti |
Moyakāyo'palabhyate, etan moyāryasya dharmaḥ || (讃萌注頌・2017年12月作…対応する文は2016年12月13日ころに記された。これ以上は記事に加筆が増えないように思いたい)

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