2022年7月10日日曜日

道徳教材、教科書に必要な題材とその演出方法の提案(死刑囚、虐待、孤児、受刑者、教授関係)

「道徳教育」のために時間割の一部を現状と同じくあてるのであれば、教えてもらいたい題材がある。
これらが道徳教育において教えられない限り、時間割から排除したほうがよい、とさえ私は思う。
時間割から道徳が削除された場合、IT(情報技術)の基礎知識でも実技スキルでも、教えてやりなさい。
主に小学校高学年から中学校の範囲で想定される内容である。

「証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育」が完全無欠であることはないし、常に流動的に正しさを求めてこそ、評価できる。旧来の慣習と、伝統的に保持された宗教は、そこが西洋的なものと違っている。

人間、「あくなき追求」のみが出発点、通過点、終着点のすべてを補完するのだ。



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目次



必要な題材

1. 死刑囚も獄中にいるとはいえ、一人の人間として生きているし、人権侵害があれば裁判もでき、その事例 *1 *2 がある。その人間的な表現。

*1… NHK News Web - "死刑執行 “当日直前の本人告知は違法” 死刑囚2人が国を提訴" https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013334801000.html

*2… 宮崎家族3人殺害事件、奥本章寛。 色鉛筆で描いた絵などを販売して遺族への補償にあてていたそう。

:法的根拠の引用もする。死刑制度を廃止しているEU加盟国などとの比較。死刑制度が現在でも機能しているアメリカ合衆国の一部の州などが、どう運用しているかも比較する。死刑制度を存続させるならば、当然、「くず人間スクラップ」みたいな考えを民衆に起こすような運用をすべきでない。運用方法を、立法のみならず第四の権力たるマスメディアもよく考慮せねばならない。これはニンゲン、ヒト (Homo sapiens sapiens) のみならず、動物愛護にも及ぶ。まず人間どうしの殺し合いの考えを無くさないと、他の脊椎動物(主に小動物)、節足動物(主に害虫)、植物に対する人間的に必要な殺害行為以外の殺害行為を無くすこともできない。また、死刑囚の人間らしさが分かると、一般人が「拘置所は人型ゴミ不良品の処理場」みたくとらえて「死刑判決を受けて死にたい」などと供述するような凶悪犯罪を起こそうと思わなくなることを、私は期待する。とはいえ、現在学齢期を過ぎた「旧世代」たちは、私ほどの全分野学習(分野ごとの歴史を含む)をしていない限り、これからもこんな調子であろう。

;動物愛護と動物の福祉 (animal welfare) を言うのであれば、当然、高度な道徳教育が優先される。ヴィーガンは動物の商品的地位(食肉、酪農、皮革、毛皮、ペットショップ生体販売など)を徹底的に排除する信念を持つが、インドのヒンドゥー教徒が行うような菜食主義は、明らかにそれと別物である。インドのナガランド州のディマプル で小児性愛の囚人を引きずり出してリンチ殺人に加担する約1万人の集団もいる (2015 Dimapur mob lynching)。ヒンドゥー教徒のうち、「牛の自警団」が、イスラム教徒ムハンマド・アクラクに「お前は子牛を屠殺した。家に牛肉があるだろう」と言いがかりをつけ、集団で家に押し寄せ、肉(実際はヤギ肉)があるのを確認して私刑を行い、1人死亡、1人負傷の事態を起こす者がいる (2015 Dadri lynching)。インドには独特な 牛の自警行為による暴力 (cow vigilante violence) という犯罪の類型があり、主にイスラム教徒が多数殺されてきた。日常的に、インド菜食主義者もこういうことに加担し、警察などに黙認されているものもあるのでは?"Vegetarianism and Cow Protection" by Krishna.org vs. "India highlights dark side of vegetarianism" by Pallavi Aiyar (在日インド人。Medha Michikaという菜食主義を主張する在インド日本人とは真逆)。菜食主義で自身及び他者の宗教的な美徳に資するどころか、悪用してモラハラと人権侵害をする者は多い。獄中でモークシャ mokṣa मोक्ष のアルタ artha अर्थ を達成するつもりか?また、明治以降の日本では近代化などがされるうちに在来種のトキ、ニホンオオカミを絶滅させた。タンチョウ(ツル属の種 Grus japonensis)は北海道以外の日本の野生で絶滅した;釧路湿原で再発見される前には国内どこでも絶滅したものとさえ思われていた。日本で伝統的な仏教菜食主義が道徳性をはぐくむ、という証拠は無い。教え方を優先せずに、形式的な慣習どまりでいるからである。関東大震災でのデマによる在日朝鮮人へのアグレッシブな私刑も、同様である。20世紀まで、白人が有色人種(主にアフリカ系、黒人)に私刑 (lynching リンチ) を加えて吊るし上げにするようなことはアメリカ合衆国で多く行われていた。証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育が無いと、いくらでも、人間を含む脊椎動物にそういうことができてしまう。「証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育」が完全無欠であることはないし、常に流動的に正しさを求めてこそ、評価できる。旧来の慣習と、伝統的に保持された宗教は、そこが西洋的なものと違っている。

;宗教に関連した、「教誨師」の存在についてはご自由に。





2. 家庭内で虐待され(構図は、実母と再婚相手もしくは内縁関係の夫でもなんでもよい)、学校でも孤立している児童生徒が、児童相談所の一時保護にあうが、しっかりとその後の人生に希望を持つだけの何かがあり、たとえ「中卒」もしくは「高卒」で、ただちに就業できない心理状態 (PTSDなど) でも、人間的な生き方が保障されている、という小さな幸せの話。

;ゆっくりと就業への努力もする。障害者雇用かどうかはここで考察しない。ただし、同様の実例があればそれを取材し、ノンフィクションで描写するという方法もある。

;児相一時保護と養護施設送致さえ受けない児童の中には、小学校や中学校などの学齢期、義務教育期間にさえ満足に通学できない状況がある。事情はいろいろとあるが、日本人の若年層でそういう結果になった人は、相当重い病気や障害があったこと、または家庭事情に原因がある。養護施設+高卒だと進路は「新卒採用」になりやすいので、もう少し、人間性を強調したければ、非人間化 (dehumanization) の餌食にされる中卒以下の学歴の方が説明に向いている。

;私的な意見になるが、埼玉県白岡市で多数の弟や妹を育てるヤングケアラーが虐待死したような例では、道徳教育で説明のつけられようもない。

;「国民の三大義務」と解釈されるうちの一つ「勤労の義務」は精神規定、倫理義務であり、罰則は無い。その点が「納税の義務」とは全然違う。この義務は、過去の政党「社会党」が提案した所産である。また、「働かざる者食うべからず」とは、聖書のパウロの書簡 (2 Thessalonians 3:10 ὅτι εἴ τις οὐ θέλει ἐργάζεσθαι, μηδὲ ἐσθιέτω. 趣旨: キリストのように神の福音を弘めるための良い行動をせよ・それを望まない者は食べない方がよい) を"Кто не работает, тот не ест"=「働かない者、その者は食べない」などとしてロシア帝国やソビエト連邦の憲法 (それぞれ1918年、1936年) に載せたことが普及のきっかけである。そのような条文はソ連崩壊までに削除されているし、そのような偏った社会主義者たちこそ、すでに淘汰されている、という歴史的事実がある。このようなことを知らずに、同様の思想に支配されるのであれば、その日本人たちこそ日本国憲法を身に体した生き方のできない反社会的な思考の持ち主であり、歴史を学ばずに自滅を望むことになる。そうであるうちは、社会正義を行う私の就労可能な賃金労働職場が日本世間のどこにあるのか?私は私の仕事に務めている。仏教における釈尊(ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダッタ)もまた、それにより、食べる。過去記事およびスッタ・ニパータ1章4経相応部7.11経漢訳の雑阿含経98経を参照せよ。「国民の三大義務」は解釈用語に過ぎず、憲法自身はそれを言わないが、日本人の間で浸透し、人権と市民権の必須条件とさえ誤解している。労働できない赤ちゃんと寝たきり老人の不当な殺害には、後述のように懲役5年以上の実刑判決が下される。第11条「基本的人権の享有を妨げられない」のほうが先だからである。日本国民は「三大義務」の詭弁ロジックにより、「労働して納税する怠け者」、「『崇高な理想と目的を達成すること』(日本国憲法前文より)と社会を改善する努力を欲しない愚か者」に変わったのである。





3. 上の2と同じように、何らかの孤児の希望ある人生。

;通称「赤ちゃんポスト」(baby hatch) とキリスト教、ヨーロッパなど諸外国の例に対する比較。実話(運用事例と孤児個人のストーリー)を求める場合、日本国では、熊本市周辺に多い。「こうのとりのゆりかご」と特別養子縁組。ホスピタリズム (hospitalism) が関係するかの検討。

;身体的な性別が女性の人による産み落とし、その一歩進んだ乳児殺害行為の問題点。是枝監督「捨てる (『ベイビー・ブローカー』 Broker, 2022 film)」どころか、手ずから殺しているのがいる。有名な例では、神戸市から東京に出て港区のイタリア公園(汐留イタリア街のそば)で殺すようなことをする個人がおり、明らかな犯罪(殺人と死体遺棄罪、懲役5年の判決)である。そういう人がそうせざるを得なかった家庭や学校などの社会状況に対する批判。これこそ「社会が悪い、社会のせい」の代表例。時代の変化に能動的に社会が対応しないと、その中の個人の逸脱と犯罪心理に相当するものが助長され、無駄に犯罪者=逸脱者が増える。これが社会病理である。科学的な個人主義が、そのためには薬である。およそ「子供の私物化」をする親(保護者、特に生みの親)は、自殺念慮を懐くとき、一家心中(無理心中)を招く。それらの親は子供の人権を忘れて将来への身勝手な悲観視により、可能性を捨てさせる。この人権侵害の極みも、日本国社会がそれら子供じみた親たちに決断させているも同然である。

この記述が記された後の投稿物:NHK News Web - "“赤ちゃんポスト” 開設15年 預けられた男性が語る「家族」" 2022年6月8日 11時55分 (最終更新) 「熊本市の宮津航一さん(18)」 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20220608/k10013660621000.html (特別養子縁組の例、血縁関係に無い「親、家族」のもとで愛情を受け、大学に進学したという結果)

;投稿予定の動画の説明文に「Google検索エンジンは一方的に『親を罵る、親不孝の子供が不良品、愚の骨頂なのだ』という匿名投稿を見せたがるが、不良品という言葉で責めるくらいしか施す能力のない社会(日本語世界)こそが不良品なのだ」ということを私は記している。尊属殺でも卑属殺でも、殺人が悪ではあるが、それら殺人犯個人を責めても社会全体から同様の個人が育つ現象が終わる道理はない。漸進的な問題解決の努力を欠き、弱者=犯罪者予備軍をいじめることしかできないままでいる、未熟なシャカイジンたちが、今の日本国を構成している。自覚し、改善への努力をせねばならない。この題材3による教材においては、子殺しの話題を盛り込む程度で足りる。





4. 刑務所での刑期を終えて身寄りのない無職者となっても生活保護などの社会保障(公的扶助)で人間として生存権が守られ、不足なく生きられるという方法の提示。

;刑務所はただの豚箱ではないし、社会的去勢を行うための機関でもない。一般的には、そういうほうで認識されている。とはいえ、どう否定的な認識を拭っていても、家の近所に刑務所があると、受刑者が脱走したりするのではないかと不安に感じる人も多い。万が一でもありうるが、実際、脱走というのは刑務所の機能を持った比較的監視の緩い施設(現実の例として松山刑務所 大井造船作業場がある;受刑態度のよい模範囚が多い)で起こりやすい。

;生活や人間関係(体罰、DV問題を含む)の悩みがあれば、自治体(典型的には役所)の福祉部・福祉課や、児童相談所や、保健所や、警察などの行政機関に相談して支援を求める方法を教示する。社会の設計が何のためにそうなっているか、人権と合わせて考えさせる。

;衣食住の充実が標準レベルになってからでないと、社会復帰は到底不可能だという人が多いはずである。前科者でなくとも、ワーキングプアを含む独身の社会的弱者が労働能力を発揮するには、そういう条件が必要であろう。社会保障で心身を整えてから、やっと就職活動などを行うのに足りてくる。とはいえ、元・受刑者はそういう「社会的な支援を募る」ことでさえ、必要性を自覚できなかったり、道筋をつけて計画的に行動するスキルに欠いていたりする場合が多いとのことである。そうなると、刑期のうちにそういう教育が必要になる。後々、懲役刑と禁固刑(禁錮刑)は統合されて拘禁刑としたうえで、何かしら改善する、と日本国の立法では聞かれている(2022年5月時点)。

;嫌な相手の存在を実際に殺してまで自分の憂さ晴らしをする、もしくは相手を殺して自分も死ぬ方法を社会が黙認してはならない。他方、自殺は、あくまでもゴーディカ尊者、ヴァッカリ尊者、ポール・ラファルグの夫婦みたく、何かしら目的を達成してから自決する、という「尊厳あるもの」(しかし大衆に見せびらかすべきでもない=その人の心の中で尊厳死という理想像を完成させる)にしてほしい。責任逃れや苦しみからの逃避の手段として自殺をすることは、「個人の自由」とか「自己責任」以前に、社会が強要しているような空気が原因である。自殺を自由として放任する社会こそ、責任逃れしている。その空気を社会側が作ってはならない。社会の方が変わらないと、これら個人は「勝手に自殺したんだ」と処理される。これからも、悪い大人の手本として児童生徒は思考の片隅に自殺を選択肢として残すことになる。自発的安楽死 (voluntary euthanasia, VE; 積極的安楽死) についてもヨーロッパ (特にスイス)やカナダの法制度化された実例および医療行為として運用の実例を参考にせよ。普通の自殺に比べて安楽死に関しては自殺ほう助や他殺の側面に焦点があてられる。ALS患者嘱託殺人事件(2019年11月発生、2020年7月逮捕)は、死んだ患者の主治医ではない2人の医師が行ったが、うち山本は医師免許を不正に取得した(韓国で医師免許を偽装し、日本での国家試験受験資格を不正に取得してから合格して医師免許を取得した)と2021年に発覚した。しかも、同年、山本のみならず、大久保と山本の母親は、山本の父親を何らかの方法で殺害したという嫌疑で追起訴されている。これら実行した医師2名の行動から、今の日本国で行われたものとしての自発的安楽死は、社会正義よりも社会不正の側に位置している。容疑者2名は都合の悪い他人を殺したり、金目の他人を殺したのだ、という評価が現状である。「死ぬ権利」とか「本人の希望と同意に基づく安楽死」は、一見して甘美で未来的に見えても、まだまだ精神文化の劣った日本では安楽死法制化など早い、ということである。スイスやカナダのように高レベルな人道水準に教育された人材が増えてから議論してほしい。それと、医療従事者の大多数は人を殺すことに関与したいと思わないであろうし、予期しない人の死は関係先の迷惑となる点(賃貸物件での孤独死や自殺はその一例)からも、医療ロボット(殺人ロボット)の実用化や、高度なデジタル化に伴う情報伝達の的確さと迅速さの向上も同時に求められる。

;2022年1月、東京大学医学部(前期課程は教養学部)現役合格を望んだ愛知県名古屋市・東海高校の2年生が東大本郷キャンパスの共通テスト会場で受験生2人を含む3人を切りつけて負傷させた。犯行に及んだ本人は「死のうと思った」と述べた。同月、埼玉県ふじみ野市の民家でも、66歳男性の攻撃により、医療関係者3人が死傷する事態となった。44歳の医師は死んだ。犯人は凶器で自殺する意図があったが、成功していない。12歳当時の芦田愛菜(後に医学部志望)、王貞治の言葉として「努力は必ず報われる。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」と吹聴した。今の日本国では、抜け駆け努力に成功しても、事件被害者として廃人や犠牲者にならざるを得ない状況が現実に起こる。そもそも、順天堂大学医学部や東京医科大学医学部は女子と三浪以上の浪人生の受験生が不合格になるような操作をした(順大いわく「女子はコミュニケーション能力が高いが後で男女差が解消される」とジェンダーギャップの意味不明な弁明)などで裁判になっていたりと、せっかくの努力が不当に評価されない人の多い現実がある。そういう言葉を信じて受験勉強をするのは人の勝手であっても、日本国の現実にある問題を覆い隠し、社会を不幸にさせている。客観的にそのような「努力と成功の公式」は無い。何が「実らない努力は無い」と?裏口入学までしろと?私は公立中学校不登校からの卒業により、受験戦争などつゆほども知らないが、大卒学士号の両親のあの顛末からしても、児童生徒を抜け殻のような大卒学士号に憧れさせるくらいならば、もう少し人間的な理解を持ってほしいと思う。医学部不正入試の被害者、殺された医師たち、怨念の強い高校生は、ごく少数の「能天気受験生」の踏み台となる。それらの凶悪事件の犯人が出所した後で、どういう気持ちで生きてゆくことになるか?凶悪犯罪者のうちには、裁判前の保釈段階で自殺した人(渋谷区の吉田和人、傷害致死の被告、2022年没;中学不登校の彼を「無職ひきこもり」と世間が噂しても職歴あり、2階子供部屋に住む、自閉症と同様に風景の変化を嫌う、メガネ短髪ぽっちゃりという特徴は私と全く違う;日本では社会的弱者に「俺はクズなんだ!」と自覚させて自殺を誘導する人権侵害が多い)さえいる。絶望的な今の日本国において、何も人間として心の支えを得られることは無い;普遍的な道理を学んで尊ぶ者を除く。それが得られる日本国であれば、どれほど美しいものかと私は思う。

;この記事の大部分が書き終わった2022年6月12日、大阪市西成区のあいりん地区の近況と「高齢男性」について日記メモに記すと、私はCNNで"This elderly man with Alzheimer's killed his granddaughter. He says he doesn't remember" という記事が公開されているのを見た。日本の刑務所の囚人には高齢者が多いとのこと(後述の毎日新聞報道例に「法務省の統計では、11年に刑務所に入った受刑者のうち65歳以上の高齢者は8%、知的障害が疑われる人は22%を占める」とあるが、調査年月2011年の矯正統計調査を指すはず;そちらは同年新受刑者のうち65歳以上の者は約7.95%、約21.7%なのでそのまた四捨五入すれば同じ数値になる;2020年の調査は同じ基準で約12.89%になる)。知的障害再犯と裁判例の判決も、結局は、保護者(後見人もか)のいない知的障害者たちが高齢化していることを示唆している。30年以上前に菅直人の秘書を務めていたという山本譲司 氏の説(著書は『累犯障害者』など)が有名で…、なんか日蓮正宗系の民主党員を思い出したが、この方とは別人の山村明嗣 氏である。別人の山村氏には、日蓮大聖人の御書のひとつ「立正安国論」からもじった『行動あるのみ 〜安国の為に立つ〜 対談×菅直人・江田五月』という著書がある。山本氏の説にある受刑者個人の例(常習累犯窃盗罪に当たる)は、毎日新聞報道例「成年後見人:NPO、60代受刑者の出所後支援 名古屋」とそっくりなものがある。名古屋刑務所出所者の後見人となった「名古屋成年後見センター」の理事長 石川徹 氏と山本氏は、異口同音に「福祉が届いていれば、行き渡っていれば、再犯しなかったろう(趣旨)」と言っている。石川氏は実務者というか著者の側面もあり、山本氏が彼の著書『成年後見人へのそなえ』に「推薦のことば」を書いたことがある。翌日、日本の参議院で「拘禁刑」を導入する刑法改正案が可決された。拘禁刑は地域社会になじんで自立できるようになることを意図するとしても、累犯障がい者のためには、財政面での負担が大きい(後見人に加え、最低限度の生活に必要な暮らしサポート、身元保証人のような仕組みが必要なため)。なお、CNNが報道している福井のアルツハイマー症、認知症の犯罪者は、孫娘 (granddaughter) を殺したというものであり、高齢者や障碍者の累犯とはかなり事情が異なる。

;「保護司」の存在についてはご自由に。





5. 教師も一人の人間なので、何か落ち込んでいそうなことがあれば、それを機敏に察知した生徒が助け舟を出し、励ますなどし、「一方的に教える・教えられる関係」を超えた「互いを人間として尊重する関係」(教えながら教わるという双方向性の考え方を含む)としてやっていく話。

;「どんな顔して生徒に教えられるのよ」とつっこみが入るかもしれない。教師が持つ教師用指導書で、的確に指導方法を示してある必要がある。

;教え子の私物化、未成年者に対する性的搾取(売春買春、強制わいせつなどの性犯罪)を私は問題視している。「教育上、有意義だと思った」という強弁(言い訳)は、おためごかしのモラルハラスメントおよびセクシャルハラスメントである。性犯罪の事由で東京都教育委員会(都教委)、東京都の教育庁に関連する教師の懲戒免職や逮捕自殺というのが、今年3から5月に、相次いでいた。東京都のほうで監視と把握と調査がうまかったのかといえば、定かでない。もし全国の中でそうであっても、まだ不十分である。数年経って気づかれるケースもあった。潜在的には東京都にピンポイントでその種類の教師が増えるだけの精神公衆衛生上の問題があった、と事情を疑いたい。学校教師の人手不足に対して、教員免許なしでも赴任できるという制度があるそうである。「小手先の制度改革」である。それだけ実現してくれるならば、それもよいが、ソフト面にあるこの問題点を精査して具体的な教員養成の改革をしてもらわないと、状況は倫理道徳的に改善されることがない。逆に、不祥事を起こした教員の汚職を隠蔽し、ずっと着任させたままにすれば、当然、児童生徒の健全な育成に悪影響を及ぼすことが考えられる。面白いことに、現行の教員免許法では、懲戒免職となっても3年経てば免許の再申請ができるということを問題視して一部の保護者達から、「性犯罪の教師を二度と教壇に立たせるな」と署名が寄せられたというのである。これは2021年、各都道府県の教育委員会による「拒否権」の法改正があったことで一段落したが、実際にそれが行使されるかは3年を過ぎない現状で不明である。いじめ自殺の際に情報を不明確にしたりする市町村の教育委員会も多く、閉鎖的な共同体の一種であるというイメージが拭えない。小手先の制度改革くらいしか図られず、人々が精神的にオトナにならない。シューショクでもケッコンでも、それは完成された人格の終着点であるはずはないのに、まだ過信する者が多い。完成された人格までの通過点ですらない。人間、「あくなき追求」のみが出発点、通過点、終着点のすべてを補完するのだ。どうりで「成長をあきらめた国」などと言われるわけだ。日本国で社会全体の責任意識による正しい教育ができないうちは、人のいがみ合いの泥沼で自滅に進むだけになる。





ほかには、以下のようなものを想定する:

・労働災害の悲しみと、自由な転職
;判定される典型的な労働災害の例には、3つある。肉体労働者の物理的な事故、時間外労働による過労からの心身の損失、職場の人間によるいじめやパラハラによる心身の損失。これら3つの類型のうちでから一つを選び、労働災害に遭った人が、そういう職場から離脱し、再就職または異業種への転職を行うような柔軟さを説明する。決して、その職場への忠誠心や職業気質への愛着ということに固執しない。欧米では「企業戦士」が怠け者と見られる場合 (loyalty vs. laziness) がある。忠誠ということを肝に明示して所属しながら労働するのは自由だが、全ての人にとってそれだけが最善とは限らない、と教える。柔軟に生き、自己実現を目指す道が見いだされる社会について説明されるか、有権者の民主的努力で実現されることを私は期している。

・自己反省=正しい意味での「自分の殻に閉じこもる」方法(内省、瞑想)ことによる社会的個人の自己実現方法
;自分の足元のぐらついた一般社会人の多いこと、それが社会貢献の基礎なのではなく、社会崩壊の一要素になることの自覚、反省、努力が大人たちに求められているが、子供にも子供なりに、そういう残念なオトナにならないための教育が必要である。
;そもそも「自分の殻に閉じこもる」という言葉と、「自己満足」という言葉のネガティブな用法や、侮蔑の意味に言葉を使う習慣からして、シャカイジンたちは、反省すべきでは?どんな言葉でも、もっとポジティブに使うことを含めて教育されるほうが望ましい。日本国民の、他国民に比べて、(複数の情報源によれば) 学生と若者の自己肯定感 (self-esteem) と自己効力感 (self-efficacy) と社会的な使命感と愛国心を上げたいのであれば、そういう努力がオトナ側でされてほしい。

・各種障害や疾病を持った人に対する、身近な気構え、対応方法、コミュニケーションの工夫
;これは、私が望んでいるというよりも、いくらかの患者とか当事者とかの団体が主張していることの受け売りに当たる。私のほうでは、詳述しない。





題材についての問題点

・法令の条文などを引用したり、国際的に比較してまで法律的な考えを育もうとすると、「公民」の授業みたくなる。そのためか、公民権の内容が大いに盛り込まれている。
;私は教訓や知恵に満ちた古今東西の、ないしローカルな歴史を反映したものとして法律を受け止めている。法律が時代とともに更新されるのはもちろんであるが、現時点でも良いものは良いので、児童生徒がそれを理解できるだけの参考材料が提示されることが後学のためになる。
;仏教の律 (vinaya) は、一つ一つの律の項目にストーリーが付属する。仏弟子たちが実際に直面した問題から、それらの律の項目が制定された、という「因縁」が示されている。法律も、そこまで特定の物語が求められないでも、実際の経験から反映されたものが条文である。倫理的な条文についてはさらに多くの歴史や知見が関わっていると同時に、憲法を考案する人(インドでのアーンベードカルや日本でのGHQなど)の理念による影響も強い。

・道徳的な内容なのかといえば、かなり難がある。それまでの道徳教材の内容に比べると、哲学と法学がまさってしまう。

・希望とは、各々の持ちようである。一部の児童生徒から見ると、2, 3のそれは鼻で笑う(ださい)客体になる。
;それを逆手にとる必要もある。何があるかわからない世の中で、ただ「精神的に他人ベッタリなデレデレさん」としてではなく、その人自身の苦しみにならない方法の例として、僅かばかりでも希望を失わずに生きる方法があることを忘れないでもらいたい。そうでないと、小さな失敗で「うわあああ!」と逆上し、衝動性で破壊や殺人などの凶暴な行動になりかねない。一人でもその被害者と加害者を増やさないためには、この教育が欠かせない。私はその被害と加害との二項関係を離れることを中学生の時にしたにすぎず、侮蔑的に「自分の殻に閉じこもる」ということをした覚えはない。なので、今後とも自殺や他殺などの挙に出るつもりはない。2014年・佐世保市・高校生殺人事件(もなみ事件)の父親が弁護士であるが、その人物は事件を背景に自殺した。法曹が「法律読みの法律知らず」とは情けない。武士の社会における「責任とり、忠誠の切腹」を私は否定しないが、現代法治国家の法律専門家がこの体たらくである。先述の通り、目的を果たしてから自殺する、ということの真逆である。それは誰からも命じられていない「責任のがれ自殺」であるが、日本国の人は弱者囲い込みをしていたのだし、社会が悪いと分かる。現代日本人たちは自ら不幸を作りかねない状況に置かれたが、教育こそ、その原因を離れさせる手段の根幹である、と私は確信している。義務教育の期間が最も影響力が大きい点で、学校という閉鎖的な社会空間での監視と是正の方法の確立も必要ではあるが、ひとまず、教師と生徒とを隔てない「人格教育 (character education)」を私は期待している。私自身は十分に自己教育をしている。



演出方法と表現技法

どんな題材を取り扱っていようとも、「つまらない」「いやいや習っても使い時がない」と思われるようでは、難しい設計図(組み立てには難解で手のつけようもない)や高級料理のレシピ(食材の調達不能)と変わらなくなる。
そこで、私は演出方法について一計を案じよう。

例えば、今の児童生徒たちおよび、「大人になってもいくらか童心のある人たち」が一生、バイブルのように受け止めるためにも、挿絵にはなじみやすい絵柄を採用する。
萌えの典籍(文学作品、觀萌私記など多数)で色々と、2018年以前の私の考え方が表現された。
絵柄の特徴として、アパレル界隈から私は「甘辛mix(甘辛ミックス)」と呼んでいる。
私の創作物の中に、そのときどきの私の考え方がある。
例えば、以下の簡易作成画像や、萌えの典籍や、音楽動画などが、具体例を持っている。



「ジェンダーギャップ」と「合理的配慮」など、自己批判と疑問と簡易説明を、画像中に記した。

私の絵の参考(A440の音楽再生での音楽イメージ絵)、このうち唯一の男性外見人物がリアル系の画風で
女性外見人物と大きく隔たりがあるのは、ジェンダー平等から離れて新たな弊害を生むというのであれば、再考。







起草日:2022年5月24日

私は「総合芸術」、「総合科学」、「総合宗教」として多くの分野の知見を集成させ、歴史と不可分なものとして研究をしてきた。
この「道徳」についても、できる限り多くの知見を応用しているし、福祉とも関連させている。
福祉には医学もつながっており、私自身は精神病理学という曖昧模糊なものとして嫌ってきた分野にさえ、今年からは、神経科学や生理学や化学を応用することで客観的な把握に努めた。
精神症状を持つ人の福祉ということも、私の道徳の近くにある。



2021年10月3日投稿『行政における個人主義の重要さ、私の行動による確認』という記事で、滋賀県大津市に頻発する子供どうしの暴力犯罪による死のうち、当時の最新事例を説明する中で、当記事に思うような「教育」の特徴を念頭に置いていた。

今回のケースは、兄妹の母親を含む家族に問題がある。
幼い妹の世話を兄が強いられ、ヤングケアラー(介護の対象は障害者の親、高齢者の祖父母に限られない)となっていた。
同時に、地域社会全体の問題とも言えなくはない。
ローカルなところでは、そこに適した形で、もっと、先述の「教育」が大事である。
私はここで、その「教育」の監修をしないが、中学以降が特に具体性を持ってもらい、個々人のばらつきはあって当たり前なので、全体の水準ができるだけ上げられ、もし非行に誘う生徒がいても、他の人たちが「私は嫌だ」「私はともかく、あなた自身、それをして悪い結果になる可能性を考えているか?」「どうしてもやりたいか?」と意見を言ったり、各自の反省が可能になるだけの状態になってほしい。
これは「嫌だという気持ちの自覚がある。誰かの被害はまわりまわって自分にも悪影響がある。個人と社会の相乗効果は大きい」という、私の個人主義のような考えで補強される。
児童相談所、児童養護施設、孤児院の子供たちも、それに対して有効に異なる程度の教育で、平等にある。



起草日以後における「動的な変形道徳 (dynamic transformative morality)」=生きる人間の応用道徳

同年7月8日11時、安倍晋三さん(元総理大臣、現役の自民党 衆議院議員)が最新の参院選に関連して奈良市での演説をしていると、銃撃を受け、亡くなった。
人物評として、在任中に「森友学園、加計学園、桜を見る会(モリカケ桜)」でお友達や身内を喜ばせたくても、かえって当事者や関わった多くの人を不幸にさせた顛末(犯罪者の烙印を押したいのではなく実際に近畿財務局の赤木俊夫の自殺や籠池夫妻の長期拘留や黒川弘務の任期延長で不幸にさせたことと多数の国民の政治不信や政界の停滞を招いていた禍根が大きい)は無残と言うほかないが、それが命を奪われる理由ではない。
彼のTwitter @AbeShinzo は、くしくも「三大義務」の詭弁ロジックを唱えていたと私が知る「小野田紀美」の応援に行った、というツイートが最終更新である。
彼の政治活動で良かった部分を挙げるとすれば、私は結果重視でないので、首脳外交の積極性と、神道や憲法に関する本人なりの理念で行動していたことを挙げる。
※結果や実績だけを褒めることは難しい。外交に限って言うと、ロシアのプーチン大統領からは手玉に取られていたのと、韓国とはBBCら欧米メディアが好んで報道したような2019年の不買運動などの軋轢が生まれた、という結果の悪が連想される。彼の首脳外交の何が良いかと言うと、「積極的平和外交」を評価するものでない。ドナルド・トランプ、松山英樹と埼玉県川越市霞ヶ関カンツリー倶楽部でゴルフをプレイする間、彼がバンカーにすっころんだり、イランで大統領らと会談するために滞在する間、ホルムズ海峡の日本とノルウェー船籍の貨物船にドンパチされたりしても、愚直で、ひるまなかったメンタリティが良い。2020東京大会を告知する「安倍マリオ」(スーパーマリオは、USJにその専用エリアが開かれる計画においてコロナ第一波によって延期されたという因縁つき)も象徴的である。その道筋が示されても、首相職の前任者や後任者がどれほど上手く行えるのかを考えると、彼以上に上手く行うのは困難である。

彼には、身を賭して日本国民に伝えたかったことがある、と私は哲学と道徳から主観的に読み取った。
それは「『美しい国』落ちぶれ、日本 (Japan) は国際的に見て醜悪汚穢(ugly and dirty)になっている、と国民は自覚をして然るべき反省と努力を行え;それが次世代のための『美しい国、日本』を作る道なのだ」、そういうことである。
世界各国の政財界有名人からの弔意が、記憶の鮮明であるうちに亡くなった安倍氏へ、数多く示されても、普遍的価値に当たる人権の著しい侵害を行っていない日本国の内政について各国首脳は言及できない。
私はあくまでも日本国民であり、「美味しい話」ばかりに喜ばず、道徳の主観性と同時に科学の客観性を総合的に分析してこの項目を記したい。

国内に、銃による暴力 (gun violence) が意識される情勢(暴力団員の犯行を除いて民間人だけでも1月 ふじみ野市、6月 豊中市の自殺)において、「日本人が最も動いてしゃべる姿を目にした人物」が1回の散弾銃の攻撃(先行の1回は外れ)を受けて次の瞬間「血の詰まった人形」に変わった出来事は、あまりにも衝撃的である。
さっきまでしゃべっていた人が、目の前で倒れ伏して動けなくなるおそろしさ。
「次の瞬間」というのは、初期の報道で私が見た映像からは、実際に当たった1回の散弾銃の攻撃によって地面に倒れ伏したと見えたことである。
※散弾銃1回あたり銃弾の数は多いので、首に2ヶ所、左肩に1ヶ所、損傷し、心臓に達した傷もある;シャツにも血痕があった。先の外れの直後に、背後にいた容疑者の方へ振り向いた後であり、正面から銃弾を受けたろう。銃撃のケースが多い米国では、公人がいる状況で異様な爆発音があった場合、訓練されている本人がすぐかがむか、周囲の人が「伏せろ! (Get down!)」と叫ぶものである。また、かばったりタックルしたりして要人を守る。現場の広範囲を映した映像を見て真っ先に驚いたことは、そのとっさの危機対応について現場が0点だったことである。「平和ボケ」と言うつもりはないが、痛恨である。東京2020大会の重い役職に就いていた森喜朗の女性差別扱いされた発言の際、周囲で女性も含めて非難の声を上げることがなく追従笑いしていたのとそっくりで、日本の環境が犯罪者と不祥事を助けることを象徴しているように見える。プロのカメラマンの映像は、外れた1回の時点ですぐ位置が下がったので、わずかな人は自分の身を守る行動をした。9日に公表された司法解剖の結果によると、NHKいわく死因は左の上腕部から入った1発の銃弾が、左右の鎖骨の下の動脈を傷つけたことによる失血死と。
どうも、一部の声によれば、その1回を受けて少しの間、受け答えができた、とも。
NHK News Webで最初の一報(当日11時30分ころ)があった1時間以内(12時8分)に「心肺停止」(現場の人が感覚が狂っていない限り、その言葉は死亡と同義)と伝わったことで、私には「これはすでに屍だ」と分かった。
そうと私は分かっていても、一般SNSユーザー、インターネットの人たちと違い、そういう不確実な情報(流言飛語、デマ)を発信していない。
一応は妻の安倍昭恵さんが搬送先の病院に来るまで医療スタッフが「懸命の治療(大量輸血、蘇生措置)をしています」という演技を行い、午後4時57分に病院に到着した昭恵夫人が彼の近くで落ち着くと、彼の死亡が宣告されるような流れ(午後5時3分)であったろう。
いわゆる「看取ることができた」という人倫上の配慮である。
多くの銃暴力と違って自作の銃 (improvised firearm) が道具であっても、人をみだりに傷つける犯行とその目的の所持自体が悪である;犯行目的で作られた原点が実際の凶器の性質になり、役目が果たされてしまった。
だから、当記事に言う道徳教育など、西洋的に進歩的な教育ができていなければ、宗教的な確信犯 (便宜ドイツ語: ein religiöser Überzeugungsverbrecher; 日本語以外でこの用語は定着していない) とは違った「しなくてよい殺人」をする国民が後を絶たない。

「自覚、反省、努力」を、安倍信者と安倍アンチの双方および全国民は、しっかりとできるのか?
それが彼によって遺された課題である。
彼がただ犬死したのではない、として顕彰する名目を私は設定した。
奇遇にも、7月5日付で「選挙とテロ」を示唆する文章を書いており、7月7日の日記メモのうちで載せていた:

今回の参院選(第26回参議院議員通常選挙)について(当月5日筆):前の愛知県議補選では期日前投票を行った。今回、期日前投票をせず、投票日にも投票しない。インターネット自他否定合戦が絶えずあって日本人の互いの幸福を破壊する状況を止められる政党がいない(政策を掲げる党がいない)と絶望することと、世界的に見られる期日前投票はクズだ Vote Early, Vote Foolish という同調圧力を悲しむことから、民主主義的に棄権したい。逆アンカリング佐倉綾音さん主演の愛知選管アニメ企画(先月28日メモ)は、因果関係にならない。世帯主が宣誓書を破棄して私が入手できない状況が、大きいきっかけであったので、投票日に、天気が良くて投票したい候補者や政党があるという気持ちがあれば、投票する(家の状況が軟禁状態で、もともとどう意欲があっても日曜日は投票に行きづらい事情がある;夏は帰宅後に風呂に入りたいなど、軟禁状態では難しい)。世間がやかましく主張する「若者からの投票率」を上げるには、決済アプリのポイントが入るとか、そういう施策が考えられる。地域によっては投票に伴う「選挙割」や「商品券」配布をし、事前にお店の参加を募っている。結局、事前の意識調査で「前回(3年前)と有意差なし」ということであれば、投票日の悪天候で選挙に行かないという人の多さから投票率が下がっても、何でもない。事前の意識調査の段階で、投票したいという回答が前回と同じ実施期間の同じ方法で(ただしサンプルが同一人物たちである必要はない)有意に増えた場合は、ようやく意義がある。「私は努力していても、政治に対する一票は、努力のしるしにならないし客観的な効果は皆無だから投票しなくてよい」という考えの人でも、事前の意識調査でその結果が分かれば「今回ならば投票してもよい」と選挙を前向きに考える。このためには、日本国が西洋的教育(主権者、公民権)を向上させ、教育者も政治家も汚職しないか、汚職腐敗への認識と社会的な批判が受けられやすい状態(民主主義の進歩)にならねばならない。日本国民は、出版社と言論機関と報道機関も含めて自己批判と社会批判の双方が下手であるから、今更、そんな期待は無理であり、西洋的教育の向上による長期的で漸進的な変化が精いっぱいである。その無理な期待をする人は、致命的なテロリズムや、激甚災害の頻発(三災七難)によってのみありうると考えよう。

最後の一文が、たまたま、この事件に重なる内容である。
「今の日本国の状況から蓋然的にそういうこともあろう」、として私は記していた。
とはいえ、「致命的なテロリズム」とは、2015年のフランス・パリ同時多発テロ事件のように無差別殺傷と宗教信念犯行 (religious belief violence, violent behavior) の特徴で想起されやすい。
もし犯人が個人的な不満によって(つまりテロではない、政治的な意図が無い)安倍晋三というとても有名な人物(現存する日本国民と日系人の政治家では最も有名)を攻撃したのであったとしても、普通に考えて政治的な悪影響の大きい時期である。
選挙運動に関連した演説中の攻撃であったために、初期の段階で与野党の各政党の党首と幹部が口をそろえて「民主主義への挑戦、決して許されない」という趣旨の意見を述べていた。
言い換えれば、この一文が言いたかったことの一部は、日本国が道徳を重んじないで「国家という名の巨大個人 (macro-individual, superindividual) における社会病理」が重症化するにつれ、「テロ」と政界で評価するできごともあり、政治活動が今までよりも厳重で自他の委縮を招くものになることを意味する。
今回の事件は、時間が経つにつれ、「暗殺 (assassination)」と理解されるようになった。
近年、雑誌系メディアなどで人気の高まっている「ひろゆき」氏も、この事件の後、彼自身の「無敵の人」概念とともに、「そろそろ蔑ろにされた人々に向き合うべきか」(1, 2) と言っている。
2022年4月17日投稿『主体の認知性質が客体の亜属性に同化する現象とレイシズム、エイブリズム差別構造』でも、私は「無敵の人」を紹介した:

SDGs「誰ひとり取り残さない」("No one left behind", "No one will be left behind" or "Leave No One Behind" LNOB)とある。
ひろゆき「無敵の人」(2008年、秋葉原通り魔殺人事件の加藤智大がきっかけの概念)と言われる。
どういうことについてであれ、誰かが「取り残された」と思い、「無敵の人」となって凶悪犯罪を起こすことが無いように、誰もが自由と責任を健全に行うことのできる社会の維持に努めてもらいたい。
文明全体、もしくは日本国に限る場合でも、その土地の人々が不幸な傾向があるのに、誰かが抜け駆けしたり、地方どうしの人口の争奪戦に勝者が出ても、そんなことでは共倒れに繋がるだけであり、SDGsでもなんでもない。
「誰ひとり取り残さない」人権状況の改善をして誰もが各々の立場を尊重して活躍できるようにしないと、地獄への特急列車に人々は相乗りして一人残さず堕獄する。

今回の一件で投票率は上がるのか?
→多かれ少なかれ、日本の政治について国民が考える機会は得られるが、結果として投票率そのものが今回の一件で上がるかは不明である。
事件を受けて投票所と開票所の警備増強が指示されており、投票所さえ同様のリスクで怖いと思う人もいる。
前回3年前は、投票日に各地で大雨であったこともあり、今回の投票日の天気が悪くない限り、微増する可能性はある。

去年8月(小田急線の切りつけ事件と硫酸攻撃)から確定している日本国の醜悪な状況が改善されるには、将来の選挙で私が言うような教育の問題点を、しっかりと論点として定められるだけの方向に進むかどうかである。
公約、マニフェストにおいては、小手先の格差是正を掲げるのみならず、社会的弱者メンタルヘルスの尊重を重視する政策が盛り込まれる必要がある。
それをせずにいる旧民主党系の「国民の生活が第一。」とか、「いまこそ生活安全保障が必要です」などというスローガンは、荒唐無稽に過ぎない。
今回の件でも、容疑者家宅捜索するにあたり、爆発物など危険物の存在から、近隣住民の避難が求められるなど、決して安倍氏一人の死にとどまらない多大な影響があった。
奈良市も、市民のメンタルケアのために3人の人材を起用して事件専用の電話相談ホットラインを開設した。
多くの土地で凶悪犯罪者が散発することで、確かに個々の地域社会から声にならない怨嗟が巻き起こっている。



以下、記事投稿後にも、加筆:

暗殺者・山上徹也の語る「母親の家計圧迫から家庭が崩壊し、統一教会 (the Unification Church) に因縁をつけて犯行を計画した」という彼自身の背景が本心であれば、金遣いの荒い「親」(前時代個人にとって神のような存在にして個人主義の大敵) 1人の逸脱によって一国を震撼させる事態が発生したことになる。
くしくも、東アジア人(日本、韓国、中国)の好きな「家族主義」を思わせる名前が、統一教会の現在の名称「世界平和統一家庭連合 (Family Federation for World Peace and Unification, FFWPU)」になっている。
「勝共連合」を含めて統一教会の教祖・文鮮明の設立した組織が、安倍晋三の父・安倍晋太郎とその義父・岸信介のときにも大なり小なりつながりがあった(『週刊現代』99年2月27日号の言う古屋が晋太郎から勝共推進議員のセミナーに誘われたとする内容、および岸信介と文鮮明の友好的な面会&握手写真)、とする陰謀論抜きの一部事実が承認される場合、父の代から受け継いだ「親の業 (karma, 原意:行い)」も、彼の広い人脈と友好の「束」に含まれ、この悲劇の引き金となったことであろう;数字にも表れ、晋太郎と晋三は同じ67歳で死没した。
いみじくも「統一」、「家庭」という彼らの自負は本当である;現代に適合しない家族主義(個人主義にとっては、血縁上の親子であっても個人間の尊重が必要であり、支配の二項関係を可能な限り薄めねばならない)への偏重が引き起こすものとしては。
現代に適合しない家族主義へのアンチテーゼは、かくも凄惨な現実で提示されており、日常的には「毒親」だの「親ガチャ (parent gacha)」だのと世間がトキシックな親 (toxic parents) 概念を罵っている。
この事件について、子なし安倍夫妻の「国民を我が子とする」政治に対する「親不孝 (filial impiety)」、「反逆罪」、または「孤独な狂人による孤立した事件 (isolated incident by a lone lunatic)」などと思わないでほしい。
この項目で私は触れないでいるが、「政教分離」に関する陰謀論と現実運用に関しても統一教会と日本会議と自民党には説明責任が求められそうである。
遠い将来、「集団ストーカー (gang stalking)」といった多くの陰謀論の対象になっている創価学会(国内最大の新興宗教、支持対象の政党が与党に所属している)にも、過去の折伏大行進と公明政治連盟(後の公明党)から今までの社会的悪評についての説明責任 (accountability アカウンタビリティ) が求められそうである。
※自民党による改憲案の第24条1, 2, 3項 (一 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。など) は、現代と次世代とにおける家族の多様性に逆行するものとして批判されている。日本国憲法の改定は、例えば同じ第24条に同性婚(自由な婚姻)の可能な状態に変更したり、同時に民法の三親等内の扶養義務を無くするといったことが、今の子供たちの成人後に適している;家族の助け合いとか労働とかは、産み落とされた子供にまで適用されるべきでないが、そこまで強いられるおそれがある。参考までに、現行のドイツ憲法 Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland (1949) 第6条は、家族と婚姻は国家から大いに保護され、さらには国家が親による子供への義務的な養育を監視し、子供の人権を重んじること(ネグレクトなどのおそれがあれば国家が家族から子供を引き離すこと)を規定している。貧困の親を国家が応援してあげつつ、養育できないと判断される親を戒めるものである。子を授かることは尊さ以上に、責任がある。「こども庁→こども家庭庁」改名問題からしても、自由民主党 (LDP, the Liberal Democratic Party in Japan) を私は、もはや家庭民主党 (Family Democratic Party) とでも呼びたくなる。埼玉県議会の自民党系県議がリベラルな方向で主導していたのも、まるで一時的な目くらましに思えてしまう。巷に聞かれる老々介護と不審な木造家屋炎上事故は、声にならない声の憤怒に燃え上がり、要介護者を巻き込み、その人自身を焼き殺したことに等しい。政治がどう強権的になっても、民意までは改造人間にでもされていない限り、統御できる道理がないことが軍事クーデター後のミャンマー(民間人2,000人以上死亡)などの諸外国の現実を見ても、分からない人たちには分からないようである。とはいえ、実際、今の日本国民(労働納税の怠け者)は状況の冷静で客観的な分析と、成長を願う希望による努力が著しく乏しいので、有事の際に抗議の声を上げるのは期待できない。

凶悪犯罪企図者へ:人は、どんな境遇でも、私のように自由な、芸術と学問の個人主義リベラルアーツ(2019-07-15記事)をできるように心が教育されていないとならない、そういうことも改めて考える。
それは主に、私のような「就労不能だが社会福祉を受けられず、実家にいるしかない」境遇にある人のために向けられていた。
同時に、賃貸物件で独居する人でも、長期失業を見込む場合、財産が減る間、生活保護受給(山上のように車を持っている場合は基本的に売る必要がある)を念頭に置き、ゆっくりと再生すればよいし、就労を目指すこともすればよい、という生活モデルを当記事でも2019-07-15記事でも示していたわけだが、まだまだ世間に認知されていない。

当記事でも法務省の矯正統計を参照しているように、「凶悪事件、凶悪犯罪」と一般に見られている刑法犯(人物、新受刑者が対象)は統計上、「2020年(令和2年)」付のものまでを見ると、減少していることを私は知っている。
短期的には、統計期間が「2020年」である限り、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の自粛と緊急事態宣言の下での行動制限と強い自粛意識(回数が増えるごとに弱まる)において国民の行動が大きく制限されたタイミングに重なり、多くの罪名で新受刑者と認知件数が減った。
長期的なものとしては何が減るかといえば、よくある親族、友人、恋人の間でのトラブルや不満による殺人、ライフスタイルの変化から酔っ払い暴行、防犯カメラとドラレコ普及による意識変化による多くの罪名…、などが考えられる。
知能の高い人は、警察の捜査技術が向上していると知っており、暴力を成功させたうえでその犯罪が認知されないか犯人確保につながらないという「完全犯罪」は、現代で相当に困難であると知っており、よほどの怨念や自信が無いと凶悪犯罪をしたいと思わない。
それら「昔ながらの凶悪犯罪」が減ったところで、現実の2021年(令和3年)以降、「無敵の人」や「ローンウルフ型 (lone wolf attack)」(必ずしも1人だとは限らない)が目立っていることは、明らかである。
しかも、京王線車内切りつけ放火 (Internet Archive: 1, 2)、大阪北新地ビル放火、安倍銃撃などはBBC, CNNホームページのトップに報道されるほどにショッキングであるわけで、ほかの先進国でもそうそう起こらない「レアな種類の攻撃犯罪」が日本国で多発している、と日本を外の国から見ても感じられる。
米国でのちょっとした銃乱射で2人ほど人が死んでも(特に被害者が加害者の身内である場合)、その国以外で注目されないのに、日本での死者ゼロの車内切りつけ事件2つ(小田急線車内切りつけを含む)は、Wikipediaで多くの言語版の記事になっているほど("August 2021 Tokyo stabbings"は5, "October 2021 Tokyo attack"は10; "2021 Osaka building fire"は15, Assassination of Shinzo Abeは46)、世界市民の目にも強い嫌悪感である。
Wikipedia普及以降、日本で1から3人ほど人が殺される事件が発生しても、英語版、中国語版、韓国語版など限られた数の言語版があれば多いほうなので、これらの例は尋常でない。
また、日本国で京王線ジョーカーのような恐怖報道、衝撃的な映像が撮影され、世界のメディアでも好んで取り上げられていることは、道徳上の危機である。
単純な統計にだけとらわれず、総合的に見たうえで私は危機感を発信している。
社会的影響力のある事件の傾向からしても、今は今でタイムリーに変化しており、私もそれを読み取ってこそ有効な道徳教育がある、としてこの記事を記した。
そもそも、田舎でも都会でも安心して生活できるように、凶悪犯罪はもちろん、日本人たちの自殺したくなる身の上を解消してゆく努力は大事である。
有力者たちが、眼中に置かないうちは悪化の一途をたどる、と私は何度でも警告しよう。


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