2021年10月3日日曜日

行政における個人主義の重要さ、私の行動による確認

「高齢者福祉」「障害者福祉」「児童福祉」「任意の差別解消」「貧困撲滅」「孤独対策」「自殺, DV防止」「性的マイノリティ、性的少数者への対応」などは、人権擁護の下の分野である、と私は思っている。
これら個々の分野のうちに、日本国における「同性婚」「(選択的)夫婦別姓」などの具体的な課題(未解決であることから訴訟事案もある)も含まれている。
それら分野と具体的な課題は、細かいほど具体性が際立つものであり、考え直せば人権擁護の下にある。
社会保障のためには、国家予算をはじめとする財政が関係してもいる。
行政、国家が保障する個人主義、保護する権利ということの大切さを示そう。



目次



「行政の質」とは?
「デジタル化 (多くの文脈では「連続的な」アナログの信号や情報を変換する方法としてのデジタイズを指す用語でない;主に政策IT化, DX, ICTの導入を指す)」とそのセキュリティ維持などが喫緊の課題と言われ、それは生産性や小手先のサービスやパフォーマンスの軸に相当するが、この記事ではもう一方の軸が題材である。
「人権擁護」、そういう理念や信念や正義の軸である。
日本国憲法でもあれ、それ以外の根拠法、国際条約でもあれ、個人主義ということを念頭に置いて任意の国民、市民(任意の法律が定義する法的な「人」)が望んでいることや、対応してもらいたい悩みを解決することがどれだけできるか、ということである。
これは一方的でなく、任意の「望む/悩む」個人自身が、自由と責任のもとで理性的に解決するなどの努力も大事であり、支えあうものとして理解される。
そういうとき、「高齢者福祉」などの領域は、社会主義政治としてでなく個人主義行政として高品質になるという相関性があることを私は信じている。
究極的には「デジタル化」などとも相関性があることを私は信じている。
日本国の行政の質が上がることは、全般で完璧には難しいとしても、私が言うような個人主義として行うならば、急激に改善すると思う。
西側諸国とか西洋的な範疇までであるとしても、国際的な信頼も増すと私は思うし、将来性も期待されるのではないか?
理解があるならば、日本国での宗教マイノリティであるイスラム教徒、ムスリムなどにもメリットがある。

現時点で、色々と、そういう国民の権利が問われる、裁判の事案(先述、具体例は後掲)が見られている。
国内に他国からの人が来る、価値観がもたらされる、権利の主張が強まる、といったことなども時代の必然的か蓋然的な「強い流れ」であり、一国ないし一個人であらがう努力は極めて困難であり、普通であれば注意しながらその流れに乗り、究極的に一個人に関しては死ぬ運命なのだから、結果的な幸福がありうるように努力することが賢明だ、と私は理解している。
その死生観と不可分の幸福観で努力することは法律の道徳性も認めている、と私は理解している。
いくらかのイスラム統治の強い国家、いくらかの独裁国家と事情の違う、民主主義国家の日本が、アジアでは過去に先進的であったし、これからもそれをしようと思えばするだけ、国民の理解もあると思ってよいし、理解しづらい勢力にも承服してもらえるだけの余裕がある、と私は信じている。
無論、それが難しい実例の一つ、アメリカ合衆国では、多様性の名の下で馴れ合う間、銃乱射事件 (mass shooting, 他の国に関しても参照) などの形の人的被害が顕著なヘイトクライムが頻発している。
政治の問題は、#MeToo運動でも浮上したように、アクの強い特定の野党系の政治家や社会活動家たちが、結果的な対立になりかねない行動をして一部の与党の政治家が悪く反応したような「党派性」に、強く見られる。
今後も、ある種の個人主義の立場から、裁判が増えて国の生産性が下がらないように、「拙速でなく可及的速やかに」、じゃんじゃん法改正なりなんなりして自由主義国家の水準に追い付けばよいことである。
そうでなければ、政策への期待や行政の対応能力への信用が失墜し、金融の投資であるとか(上場企業に対するものでない)、通貨の価値であるとか、そういうところにまで悪影響が出る、と私は見通している。
私の個人主義は、社会主義の良い側面を兼ねているし、相互作用のために是非とも、日本国が繁栄されねばならない。

個人主義行政が機能しないと、老若男女を問わない個人たちが、自身の意思をうまく発揮するだけの余裕を持てず、希望を捨て去る運命になりかねない。
それが同調圧力とやらとも相関関係があり、職業選択と転職の不自由さとも相関性があり、たとえ自殺者数を減らすにも相談受付など小手先の手段のみでは「骨折り損のくたびれ儲け」「人権屋の成長」「貧困ビジネスの繁盛」ということに繋がる。
先述の任意の「望む/悩む」個人自身に求められる努力とか、教養や道徳性や倫理観といったものは、有機的な経験や高品質な教育に依拠するので、そういう方面も強化される必要があるが、ここでの本題でない。
私の個人主義は、無政府主義、アナキズム anarchism でないとお分かりいただけたろう。
自由主義も個人主義も、全体としては法律と行政機能ありきであり、微視的に、個人の知性や理性も同時に必要であるということは、基本である。



思想史や哲学との関連性

個人主義も社会主義も、そういう固定的で合理的な思想として言うならば、近代的な文明の所産であり、唾棄されるべきだと考えている人もいるが、それはニッチなので問題にしない。
近代的なものを嫌う復古主義があれば、それも近代性の産物であろう、と過去記事に記しており(そう思ったが各種データを見直しても同等の表現は見られず、当ブログに限って近い例を挙げるならば2020-02-05)、私こそ生まれながらの文明で注意力や自由意志を伴った人間として「自然や中庸」を行うと自負している。
"une équation sexuée" 性化された方程式とは?珍説の考察』という記事で、私はこう記した:
科学哲学に寄せて言うと、結果的な中立そのものを求めることよりも、中立を求める人間の努力が「中立的である neutral」と私は思う。
偏った現状の全否定は虚無 *6 であって別のカテゴリにおける偏りを生むし、偏った現状の無批判な肯定は努力放棄である。
哲学的に中立性–客観的な視点は存在しない」ということもまた、分かりきっている。
そのような「戯論 prapañca」を止めて仏教徒が修行するように、科学者の努力があると私は思う。
それも、彼女にとっては「男性的 masculin, masculine」であって「女性は苦痛を強いられる"to which women should painfully gain access"」ほどのものか?
それ以上はあずかり知らない。

「行政における個人主義の重要さ」を言う私だが、それが十全に行われた国家ならびに人間文明というものが実現したとして、「理想社会」もしくは平和と安定が盤石であると言えない状況があれば、どうであるか予断を許さない。
反面、他の信念を主軸とした行政が良いことにも積極的根拠など無く、実証主義的な/経験主義的な/功利主義的な(これらの英語名詞形は: positivism, empiricism, utilitarianism; いずれも同義語ではなく別個の概念を指す)範疇でのみ答えがある。
社会がどうあるべきかを問う以前に、誰もが一個人である。
家族や地域社会など小さな共同体、自給自足集団を重んじたい人は、そう重んじたいことも、現代では個人の意思という合理的な区分を伴った個人主義の範疇で可能であり、この合理性をことさらに嫌っている人もいる。
私は宗教的な立場であるともそうでなくとも、良い物事を常に追求しているので、「良い物事を常に追求している」という柔軟性と中立性とを羅針盤にすることについて長年、変わらない。



私の行動による確認

これらの観点から、芸術と学問を総合的に行うリベラルアーツの個人主義革命家を自負する私は、今年から色々と行動して行政をはじめとする社会に関する実際の運用状況を「五感で(皮肉)」確認してきた。
「ニート、ひきこもり」を含むいかなるラベルを私が肩書に用いたとしても、他の人と同じく畢竟平等な一個人であるので、柔軟に行動している。
行動を示した投稿物の一例は、以下の記事である。
2021年3月7日投稿『スマートフォン購入録「コロナ禍が私にスマホを買わせた」& マイナ』
https://masashi.doorblog.jp/archives/55425752.html

私が「冬行動」と呼ぶ計画のうちに、経済的独立という長期的な目標に向けた第一歩の行動が含まれており、そこで、同じく行政をはじめとする社会に関する実際の運用状況を確認することができる。
2011年4月18日に埼玉県から、旅行のつもりで来た愛知県豊橋市内に家出という形で住み始めてから、住民票がある限りの対応以上に、行政との関わりが無い。
同じ居住都市で私は、確認するつもりである。
具体的にはここで説明しないが、まず、一般的な企業の店舗など民間の事業者に関与するので、その後、行政の出番が考えられる。
私の行動の結果、私の傍の草むらから蛇が出るか、ポケモンが飛び出してくるか、私の胸から心臓が飛び出してくるか (cf., 会ったことの無い親戚かずき20代心臓病他界)、定かでないが、行動しないことには何もはっきりとしないので、是非とも実現したい。

ここで記す必要は無いが、一時的に記したいことがある。
「経済的独立」を長期的な目標にするが、行政の個人主義や社会正義の側面での目標もある。
小学校、中学校での生活に「集団ストーカーでもあるのか?」というほどの他人たちの扱いのうちに、精神科に行くことを促す発言や「ガ〇ジ」認定があった。
後のインターネットでさえも、私が2013年に特定UMIの真似をしたり、言及しただけで、2016年以降に栄えた特定の「糖質」界隈が私を統合失調症患者のリストに特定UMIとともに加える「風評被害からの誤認」もあった。
それならば、私は他人たちの精神障碍者認定によって「障害年金」を受けるに値するであろう。
それもなく、「生活保護」制度にさえ関わっていない。

私の現状は、経済格差以上の「差別、迫害、人権侵害」という状況に私が置かれていることが客観的に理解できる。
日本語の精神的国家は、主体たる個人に苦しみだけを与えて他の施しも無いならば、これほど悪辣なものも無い。
それなので、私は行政、医療、企業における「立憲的な個人主義の遵守」の状況を現住地の豊橋市で確認したい。

愛知県豊橋市、松葉公園の遊具で洗濯物を干す高齢女性ホームレス、2021年9月27日12時9分撮影
豊橋駅東口ペデストリアンデッキにも高齢女性ホームレスが見られた;彼らがその生活を望んでいるもの、と我々は尊重すべきか?
※当記事をご覧になった方の行動について、私に帰属する責任はありません。cf., 渋谷ホームレス殺人

また、コロナワクチン接種は、必要性が高く感じられるので、その実行は冬行動の「前哨戦」に当たる。
9月27日11時、モデルナ社 MRNA-1273 Lot. 3005701を受けた(事前に足を負傷して痣を作り、顔を傷つけるなどしていたが実行したという詳細は日記メモにて);2回めは10月25日(4週間後に当たる同じ曜日、同じ時間帯)である。





本文に対する補足事項、外部ソース

BBCニュース - 同性婚を認めないのは「違憲」 札幌地裁が初の判断. 2021年3月17日.
https://www.bbc.com/japanese/56424717

日本の憲法24条では、婚姻は「両性」の間で成立すると規定されている。世界の主要7カ国(G7)で同性婚を認めていないのは日本だけ。
しかし、「同性婚、改憲の呼び水にするな」「改憲せずとも法改正で」という文字列で一部の論者の意見を紹介するニュースソースも確認される。
改憲派と護憲派の応酬、押し合い、牽制が続いているので、膠着状態であるか、一部の保守派は敬遠しているかもしれない。
個人主義を重んじる立場ならば、そういう個人たちが国内に少なからずいるという目線で、特に関連の無い「真正護憲論」を等閑視し、改憲でも、法改正でもなさればよいと思う。
この裁判の要点は、同じソースに、こう載っている:
札幌地裁は、このうち法の下の平等を定めた14条に違反すると判断を下した。一方、13条と24条については違憲には当たらないとし、原告の請求を棄却した。
[…]
原告の損害賠償請求が棄却され[…]
私が六色虹旗をかかげるかあしらう(装飾に用いる)などしてLGBT, LGBTQ, LGBTQ+ とやらの社会運動(馴れ合い)につるむ気は無い。
偏見ぬきに、「私、トランスジェンダーの女性ですぅ。しかもレズビアンなんですよぉ、テヘッ☆身体的な女性レズビアンまたはバイセクシャルの方、誰か一緒にお嫁さんになって出産経験してみませんかぁ?」と言うくらいが精一杯である。
私個人は、過去にも言ったが、ロマンスを重んじ、身体的性が男性であることを自覚し、物事の良し悪しを理性的に考察する「ノンバイナリー」である。
これは主体自身はもちろん、客体に対しても性の有る側面と、究極的に非有非無、非非有非非無であることを認定している。
性 (grammatical gender) の有無が人間に確実に与えられることは、インド・ヨーロッパ語族 (Indo-European languages) など限られた言語の中でありうる。
一方、印欧語の中の英語は化石的に過ぎず、日本語では韻律論や役割語のみにしか無いので、当然、そういう言語を学んでこそ、私と同等の知見が得られるし、性差別の歴史、フェミニズム運動を奥深く理解できるというものである。
印欧語のうちサンスクリットなど中期インド・アーリア語で記された文献『維摩経』"Vimalakīrtinirdeśa"の天女 Devatā は、フランスのフェミニストよりもはるかに古い時代である上に、先進的にさえ思える究極の性を説明していた。
2019年9月10日投稿『言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/09/non-binary-expression.html



AFPBB News - 米国人夫が性別移行した夫婦、立ちはだかる日本の法律の壁. 2019年3月5日.
https://www.afpbb.com/articles/-/3213610

エリン・マクレディ(アメリカ国籍)さん、マクレディ緑(日本国籍)さん、日本在住国際カップルの事例の紹介、インタビュー。
訴訟は当時、彼らが起こしておらず、他のカップルが起こしていたが、2021年6月21日に提訴したというニュースが見られる。
私は別に、攻撃的な意味で「制度を壊そうとする」などと感じないが、当事者の意気込みとして上のニュースソースに記され、また、否定的な意味合いでそういう類の文字列が検索結果に多く見られる(Googleが提示したTwitter検索結果ツイートを含む)。
2021年6月時点で「結婚21年目」と念を押すような文言があるように、既成事実として認めてもらいたいような意図も見えており、どうぞ尊重してあげよう。
そもそも、「夫れ大人、制を立て、義、必ず時に隨ふ。苟くも民に利有らば、何にぞ聖の造に妨はむ」と、神武天皇の「制度は時宜によって変える必要がある」という発言を、多くの保守派の日本人は知っている。
諺とか格言とかは、どう用いるかが人によって異なるにしても、私はこの場面でも使えると思っている。
日本で「正しい保守派」ならばなおさら、制度は時代とともに変える必要のあるものだと分かっており、「制度を壊す」という考えにならないものだが、ある種の教条主義者は確かに、彼らの望ましくない制度変更を嫌っている。

2016年7月20日投稿『現行憲法の改正に対する仏教徒の然るべき立場・見解』でも紹介した:
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
余談だが、2019年7月にM. Fujimura人物のツイートを見た際に、この記事の掲載画像と同じものがタイムライン上に見られた。



NHKニュース - 夫婦別姓訴訟 最高裁が上告を退ける決定. 2021年6月28日.
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210628/k10013108391000.html

原告の一人である青野慶久という人物は「サイボウズ」の社長ということで、会社の経営の利益が目当てなのか、賠償金220万円が目当てなのか、社会貢献が目当てなのか疑問に感じたが、読み進めると本人の言葉として「ゴールは立法」とあり、立法機関での法改正のために国会議員に協力を募るそうである。
この人物に関しては、会社の業態と別の社会活動が多く見えるが、ツイッターで継続的に選択的夫婦別姓の話題をしている。






備考:「労働と雇用」の有無に関する人権

先にも同様の話題があったように、「職業選択の自由(日本国憲法第22条)と転職」の実現性が低い日本社会に関して言いたい。
私が家庭(家族)、学校(同じ学校の児童生徒、同級生、同学)、インターネットでいじめられなければ、そうでなかったとして、大人たちのうち誰か一人が常に寄り添って人道的に最大限の配慮をしていたらば、今の私とは別の方法の努力と運勢とで、任意の高収入の営業または技術開発などの職業を持っていたろうし、医師免許の取得であるとか、「リカレント教育」などでなくとも博学実践していた。
「不慮の交通事故死」?そんなものを私は知らない。
芸能事務所の件も含めて社会的に抹殺されかけても、私が、自殺せず、暴力事件を起こさず、日本国の平和と繁栄と人々の幸福を願い、芸術と学問を行っても、私を正当に評価をした人間が誰もいなかった。
不幸にも、いくらかの共同体の「世の中」は、常々、「逸材」を逸して(失って)いる。
それが、「宗教の聖典言語、古典言語の知識の無い、薄っぺらな大卒学士号と修士号および社会の底辺の寄せ集めと言われているオウム真理教構成員」や、オウム暗殺事件とテロ事件の被害者、犠牲者という形で、マクロ的に具現した。
2021年8月においても無差別の刺傷(東京都内を走行する小田急小田原線の車両)、化学薬品によるターゲット攻撃(東京都の白金高輪駅)などが絶えない日本国の現状である。
そのテロリズムの実行犯も、犠牲者も、その加害と被害という二項関係にならないで、平和に生きられる道はあったろうに。
そう思わずにはいられない。
よって、是非とも企業や行政は、私に人道的な配慮をして私の行動的な要望に快適な答えを返してくれる、と私は警告したい。

就労人口と生産年齢人口と失業率にも関わる問題とその支援策で、2019年から2021年によく聞かれるものは:「就職氷河期世代支援」、「ひきこもり、特に高齢ひきこもり支援」、「フリーター支援」などとある。
特定記事の2020年12月2日追記欄にも私は記したように、私は「高齢ひきこもり」でも「フリーター」でもなければ、「子ども自殺」対策の面でも重要な「不登校」でもない。
それらに対し、「若年の中卒ニート引きこもり」は社会的弱者への救済として機能する肩書やラベルでない。
つまり、ラベル対象の私は日本国での「社会的排除 (social exclusion)」を受けている。
それは言い過ぎでも、「社会的包摂 (social inclusion, カタカナ語ソーシャルインクルージョンも普及)」が他の弱者レッテル貼りの対象よりも少ないと私は感じている。
真面目に努力をしている私が、幼少期から今まで、異なる方法で同じような抑圧の結果を得ているわけであり、私の行動の方向性を「日本に多い、痴情のもつれで元恋人を殺すのでなく人種や宗教とも無関係な『ライフスタイル等の仮想民族ヘイトクライム』」相当の殺人やテロなどに向けることが、日本社会の希望であろうか?
そう勘繰りたくなる。
個人は個人、人間は人間 Homo sapiens sapiens なので、また発狂殺傷の感情を起こす人が現れかねない。
俗な漢字解釈、解説で「人という字は人と人が支え合って…」とあり、「もともと助けられている」とか、色々な言いたいことの説明に補強で引き合いに出されるが、どういう想定でも、これは不快に思う人が多いであろう。
「一人で立っている象形文字だ」「甲骨文字では横を向いた一人の人だ」というそもそも論、「書き順からして倒れそうな人を別人が支えている」という揚げ足取りなどがある。
もし頼りにされなかったり、人々から疎外されたと思うことがあれば、それこそ「じゃあ人間関係を作るぜ!人殺しで殺し合いの関係だ!」などとグレることも、いたしかたのない社会構造である。
取り返しがつかなくなる前に、私は行政の個人主義を説いて自発的に頼ることを試そうとしている。



闇に消えたイギリス古典ニート少年たち ("young people not in education, employment or training" in the text Bridging the Gap) は、その後、どうしたか、学術的調査を私は知らない。
日本でも古典ニート相当の人たちが「吉開学17歳(無職)」とか、そういう状況になるかどうか、全く何も世間に伝えられていない。
私こそ、2012年以降、世界で唯一の「古典ニート相当の宣言」から続く活動者として、どう生きているかの情報発信をし続けている。
なおも無名であり、日本国民は、私を岩瀬高之、岩崎隆一と同じ形で有名にさせたいか?
身体障害者の荒木伸行のように「有権者側(本人の中では権力者を意味する)」云々と指弾するつもりはない。



備考:社会保険または国民健康保険と国民年金の制度の難点

社会保険または国民健康保険とか国民年金とかに関しても労働者の福利厚生に関する歴史があろう。
日本国「健康保険法」(施行じゃないや公布/制定:大正11年=1922年)は、「国民健康保険法」(前身第60号の公布/制定:昭和13年=1938年、現行法第192号の公布/制定:昭和33年=1958年)よりも早いものであり、前者は任意の「労働者」を念頭に置いていたし、後者も第60号の当時はそのようであった。
また、「国民年金法」(公布/制定:昭和34年=1959年)に関しては、それ以前の年金制度が任意の「労働者」を対象としていたので、国民皆保険制度を定めた「第192号の国民健康保険法」の翌年に公布/制定されたこの法律は、当然、国民皆年金制度である。
どの国がどうしているかということについては、ある程度の割合の諸国が、日本国と同様のものであると考えられる。

「多様な働き方」を重んじる社会ならば、それらは「労働者」としてではなく「個人」としてもう少し単純で手厚い制度設計にできないものか?
生産性の無い、社会保険の健康保険証の返却や返納に関する仕組みは、事務所に属する法的労働者だとかではなく、「個人」を被保険者とすれば、もっと普遍的で恒久的なものになろう。
雇用主とか正社員とか非正規雇用とか日雇いとかフリーターとか個人事業主とか、色々とあって柔軟さが個人にあったとしても、制度がそうではないことが現状であろう。
任意の若者が、自由意志でもあれ外部圧力でもあれ「親との絶縁」でバイトを始めても始めなくても、健康保険証「被扶養者」(被扶養者証)というヒヨっ子(ヒフヨっ子)扱いに置かれ続け、その若者個人の自由で変えることができないとすれば、悪辣である。
cf., 資格取得・喪失証明書
現実問題として、DV被害者がそのような社会保険の扶養者とか他の制度での保護者に相当する人物から逃げた場合、行政がその個人を守るかのようにふるまいながら、実際はそんな障壁が待ち受けているか?
保守派の人たちがよく「家族制度を崩壊させようとする、家族制度を壊しかねない」(「家族制度」という用語は曖昧;法律上の「世帯」と半分同じで半分異なる「家族」は社会的または心理的な用語として「家族」に関するいくらかの法律を念頭に置いていると思われる)というような表現を用いており、こういう考え方が現状を維持させているように感じさせる。

行政サービスとしても、国民年金の滞納とやらを理由に、なぜ財産の差し押さえをするか、理解不能である。
こんなことに人員と時間とを割り当てないで、もう少し合理的な対応ができるはずである。
私が今に示した方式で、企業も行政も生産性が現況よりも向上するというものであろう。
他の歴史経緯、伝統、それは当然、私は理解している。
「わざと煩雑にすることが、道徳的、倫理的だ」とでも、権力の権化は言いたいか?
リュス・イリガライ (Luce Irigaray) のポストモダン的な言説で要約すると?「保険制度、年金制度は性化されたものです。労働者、世帯主は男性であり、その意見が反映されたものこそ、これら制度なのです。それ以外の人=女性たちはこの制度の下で、萎縮してしまいます。我らがジェンダー平等、男女平等に向かうならば、この問題点を解消せねばなりません」。



備考:休日の個人主義 ~ 「国民の〇日」増えすぎ移りすぎ問題

まず、日本は世界でも群を抜いて法律で定められた祝日が多いとされる。
また、従来より、日本では元の「祝日、祭日、国民の休日」の由来と外れた「ハッピーマンデー制度」が運用される。
ただし、アメリカ合衆国でも同様の休日とその根拠法がある。
Wikipedia - "Uniform Monday Holiday Act". oldid=1038206675.
他の国々でいかがかは不明である。
単純に、曜日以外の理由から移動する祝日があることは、「春分の日」、「秋分の日」ではっきりとしており、日本語版Wikipedia「移動祝日」に「1. 曜日に基づく移動祝日 2. グレゴリオ暦以外の暦法で決定するため移動祝日となるもの 3. 天文事象に基づいて決定するため移動祝日となるもの」という類型区分で、色々と紹介されている。
また、日本では、東京2020オリンピックの開会式と閉会式のために、柔軟というよりは無節操な「海の日」「山の日(と振替休日)」「スポーツの日」の位置の変更が2020年と2021年の2年連続で行われた(特措法)。
カレンダー業者への同情を私は表明しない。
GW ゴールデンウィークに関しては、2019年(令和元年)5月1日の皇太子徳仁親王の天皇即位による連休期間の拡大があり、人によっては「天皇サイコー」と喜び、人によっては「業務の支障になる」と憂えた。
GWそれ自体、2020年と2021年には、新型コロナウイルス感染拡大からの緊急事態宣言が有っても無くても、医療崩壊を懸念する状況のために、「自粛」「我慢」「ステイホーム」の呼びかけが強くされていたので、「2年連続、不自由なだけの連休」と感じる労働者も多かった。

休みたいときに休む「休日個人主義」、これは立法の議題であるものの、ここで一言したい。
マイナンバーカード交付、コロナワクチン接種の土日、祝祭日への偏りを避けるために平日を利用してもらう必要性と、雇用者側へそのための休日を与えることの必要性を政府が求めるとしよう。
それならば、最初から「休日個人主義」で不必要な「国民の祝日、祭日、国民の休日」を削減して国民個人のためになる休日の取得のしやすさ向上に務めることが重要である。
これは休日、休暇、休業についての合理化であり、「デジタル化」、「スマート〇〇」に比較可能であり、これが可能な形で実現されると日本のビジネスの伝統が完全に終わるように思う人もいるであろう。
「あなたは休みたければ、どうぞ休んで、元気さを自覚できればまた動こう」という、思いやり、道徳的な考えとセットでもある。
無論、産休、育休といった名前の制度(労働基準法第65ないし66条の産前産後休業、育児介護休業法の育児休業)がある場合も、同じような合理化のうちに置くこともできなくはない。
新しい制度ができた場合に、「ブラック企業」が実際にどれほど守るか、ということは考察対象でなく、あえて言えば、労働条件(労基法)に関する高い監督能力を行政が持つと私が信頼する限り、特に問題視しない。

国家の社会主義の側面で、実際に歴史的な意義のある「祝日、祭日、国民の休日」は尊重されるべきだが、その意義を思い返す上でも、みだりに「祝日、祭日、国民の休日」を増やしたり、移動させたり、月曜日や金曜日になるようなことをしたりと、あまりにも軽薄ではないか?
現在の日本国にある「休日全体主義」と「国家休日ご都合主義」の結果は、「祝日、祭日、国民の休日」の形骸化、精神性の風化を招いている。
当然、私は「国民統合」も推奨しているので、歴史的に有意義な「国民の休日」運用がされてほしい。
そういうわけで、「休日個人主義」こそが社会主義や国家主義にも良い影響を持つと私は「視野の広い」考えを示す。
この点で、小学生の皆勤賞といったものは難易度も上がるし、「結果的に国民の勤勉さが下がる」、「(日本国における、いくらかの)業務の現場は事前に決まった休日が多い方が運用しやすい」といった批判を受けることも承知である。
皮肉にも、日本国の休日制度の現状を象徴する「スポーツの日」は、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」と条文で紹介されており、個人主義と社会主義の両方を指しているように聞こえる。

少し、関連する事項を記したい。
「勤労感謝の日」は新嘗祭であったが、これを廃止して他の国のようなメーデーを置く必要は無いと私は思っている。
埼玉県で小学校と中学校に通っていた間は、全国でもまれな休日としての県民の日である「埼玉県民の日」があり、実際に学校は休みになっていた。

労働生産性だとかの指標の国際的な格付けで、日本国の順位を上げたいという人は、「休日個人主義」が重要な施策の一つであると考えよう。
この祝日や休日の件は、労基法による法定休日と無関係だとされるようで、「働き方改革」の話題で基本的に取り上げられなかったろう。
国際的な格付けやいわゆるグローバリズムを軽視する場合、私が言うような改革の内容は、実行されなくてよい。



備考:他の最近の人権問題

コロナ禍での自殺者数の増加は去年より音に聞くところであり、しばしば、女性や子供に増加が成人男性に比べて強く問題視されている。
ある時、インターネットのNHK で私が自殺者数ニュースの一つを見た数時間後、BBC, CNN は、女性が男性よりも増加率が高いことに関する事柄を抽出してトップページでの見出しに用いるなどしていた。
日本について、男女格差、性差別とかを考えさせる方向の (biasing)、センシティブな、炎上性ある(煽情的な、扇情的な、扇動的な)もの (sensitive and inflammatory) を感じる。
子どもに関しては、記事執筆時点で学校の夏休み期間であり、7月までの2021年の児童生徒(小学生、中学生、高校生)の自殺件数は年間で過去最高だった2020年を上回っているというニュースである。
それらのニュースソースは、各自で調べていただきたい。

任意の漫画(2011年発行)に、「自殺した汚職政治家」の一人娘である中学生が、単身で周囲から攻撃され続けるという表現があり、2011年にそれを読んだ私は、現実的にありうるのか疑問であった。
2021年6月に自殺した成人女性ら2名の報道があり、後から「和歌山毒物カレー事件」存命の死刑囚・林眞須美の年下の長男という人物 (Twitter @wakayamacurry) が成人女性は「姉」であることを認めているとの「噂」を私は聞いた。
当該の成人個人は、事件発生からしばらく、顕著な精神的被害があったという話である。
このことから、改めて00年代までの殺人事件に起因する場合、そういう漫画の表現も、経緯は別に、「親の行為による、行為と無関係の子孫への迫害、攻撃」という現象が起こりうることを確認できた。
さらに、大人になって子供を持った個人も、子供を私物化し、子供個人の生きる希望を奪いあげて無理心中をするということが、今なおありえていることが分かる。
コロナ禍はコロナ禍で、その種の無理心中が日本国内でいくらでも確認されてきたが、今年でさえ、こういうコロナ禍と別の類型もある。
無論、当該の自殺者たちの主張が何も伝わらないならば、自殺志願の原因は断定できない。
「噂」の認識というだけで、私が記事で取り上げるにはあまりにも品質が悪いので、もう少し調査したい。
死刑囚の長男がマスメディアのインタビュー (2021年8月1日掲載) に答えて、大局的には上の内容で問題ないが、2名のうち片方が当該の成人個人の「2番目の夫との娘」であり、「1番目の夫との娘」はその自宅で亡くなっていた(厳密に心肺停止)ということで、親子3人が亡くなった結果である。
コロナ禍の経済苦や家庭内の問題悪化といった複合的な可能性も否定できないが、それこそ生活保護費などの受給や児童相談所の一時保護という形で表面的に解消できるし、閉塞感、絶望感が強まって自殺したくなるならば、それ以上、私がかけることのできる言葉も無い。
もしくは親子喧嘩で、自己否定も他者否定も強くあるようなヒステリックさから、こういう死に方がありうるか?
死刑囚の長男さんが改名などで尽力していたそうであっても、音信不通の時間が「10年以上」とのことである。
他のきょうだい「2番目の姉と妹」が「幸せな家庭を築き、他県で暮らしている」という話が事実であれば、何よりである。

行政の個人主義という点では、幼い子どもが生きて直ちに改名することは無理でも、養子縁組の方法で結果的な改名はありうるし、大人であれば後からの改名や遠くの土地への転居も可能である。
転居の方法は、未分類マイノリティ個人 UMIたちのうち、荒木さん(利用施設の出入り禁止や嫌がらせ被害から居住都市を転出すること二度)と山下さん(日本国外フランスへ転出して亡命申請は受理されないで住み続けている)のような例でも、私は把握している。
当該の成人個人は、事件発生都市の和歌山市に、亡くなる直前まで「2番目の夫」と住んでいたか、「1番目の夫」との時期に住んでいたか、詳細がはっきりとしないが、転居の方法ができなかったろうか?
地域社会に、目の前の他人を不当な基準で、個人攻撃や迫害を行うという者がいたろうか?
死刑囚の長男さんが問題になさる、90年代当時とそれ以後のマスコミの報道態勢に関しては、私が言うまでもない。
当該の成人個人に関して、「普通の生活、人生」のために2度結婚してそれぞれ1人ずつ計2人の子どもを作るエネルギーもよかったろうが、英語など外国語の勉強と海外転居、もしくは行政手続きからの改名のための主張と行動のための時間と体力を使う方向性が、ありえなかったことは、極めて遺憾である。
当人が精神的に悩ましくて自発的な努力が難しかったとしても、周囲に助言と支援の意志と能力とを持つ者が皆無であるとは、悲しい。
「英語など外国語の勉強と海外転居」という山下小百合モデルの実現も無く、子どもの私物化や過度の客体化を自制できずに母子心中をした結果は、不幸というほか無い。
私はズケズケと言っていて「第三者による客体化が冷酷だ、学ある人自身の結果から言うところの机上の空論だ」などと非難されそうであるが、率直な感想や忌憚なき正論のつもりである。
とにかく、「子どもの人権」を蹂躙する残念なオトナが増えないためにも、行政が個人主義を重視して運用され、その方針の周知が大事になる。
中絶を嫌うキリスト教の道徳性を問わず、「赤ちゃんポスト (baby hatch, de: Babyklappe)」(お子様ポスト無し)というものは、個人主義行政でも重要になると思う。
※この段落を記した数週間後、東京地裁で「神戸市、女子大学生、就職活動、生まれたて赤ちゃん殺害、都内公園での死体遺棄事件」の判決があり、懲役5年(執行猶予なし)とのことである。こういう救いようのない事件が繰り返されないためにも、厳しい判決は重要だ。しかし、「赤ちゃんポスト」相当の機能が普及していれば、この面での抑止力くらいになったのではないか?避妊具とか、中絶に関してはここで言及しない。大卒学士号かそれに相当する在学経験のある人に、必ず道徳面を重んじた教養があるとは言えない。
よしんば、子どもが無傷で生きたとて、それがまた残念なオトナになるおそれもあるので、人権を重んじている道徳教育の「実用的、具体的、効果的な」質と量とが大事である。

当該「インタビュー」記事インターネット掲載当日の午前9時に滋賀県大津市で亡くなった女児に関しても、当初の「転落事故」という報道が数日後、「目撃者=兄」による「虐待、暴行死」となり、16歳リンチ死亡事件中2いじめ自殺事件に続く大津市最新の「未成年者が犠牲になる未成年犯罪/少年犯罪」となってしまった。
今回のケースは、兄妹の母親を含む家族に問題がある。
幼い妹の世話を兄が強いられ、ヤングケアラー(介護の対象は障害者の親、高齢者の祖父母に限られない)となっていた。
同時に、地域社会全体の問題とも言えなくはない。
ローカルなところでは、そこに適した形で、もっと、先述の「教育」が大事である。
私はここで、その「教育」の監修をしないが、中学以降が特に具体性を持ってもらい、個々人のばらつきはあって当たり前なので、全体の水準ができるだけ上げられ、もし非行に誘う生徒がいても、他の人たちが「私は嫌だ」「私はともかく、あなた自身、それをして悪い結果になる可能性を考えているか?」「どうしてもやりたいか?」と意見を言ったり、各自の反省が可能になるだけの状態になってほしい。
これは「嫌だという気持ちの自覚がある。誰かの被害はまわりまわって自分にも悪影響がある。個人と社会の相乗効果は大きい」という、私の個人主義のような考えで補強される。
児童相談所、児童養護施設、孤児院の子供たちも、それに対して有効に異なる程度の教育で、平等にある。
「児相利権」を嫌う南出某甲が家族主義と個人主義を対比させる論調には、部分的に正しさがあっても、全面的に正しいわけでなく、思考を深めた私や優れた教養教育を受けた人のように「任意の意思や欲望に対する身の丈に合った効果的な対処法」という柔軟で科学的な方法論があれば、致命的な不慮の凶事なしに失敗するということはありえない。
他方の情報源を提示しないのもアレなので、2019年3月29日掲載の週刊誌記事で関係者Mが取材を受けた内容を示したいが、「国連は、児相で人権侵害があり、一時保護を閉鎖しろとも言っているんですけどね」という一文は出典を示さなかったり(「国連の子どもの権利委員会から2010年と、今年の2回にわたって厳しい勧告」であるとしてもそれも直接の典拠不明;南出氏が対立する日弁連サイトなどで「2019年 […] 一時保護の慣行を廃止」という文言が見られる)、意味論のカテゴリの合わない述語と目的語が使われているので、おかしく見える。
対立意見というものは議論から外れたことを言わない限り、大事ではあるが、どこか欠陥や謎めいた部分が目立つと、疑わしい。
私の2人の弟が児童相談所の世話になったということの関係とは別に、私は児童相談所を盲目的に信頼しているのではなく、いつの時代も子どもの収容施設はありうるし、著しい権利の制限でない限りそういう代替の選択肢や受け皿は有って然るべきであるし、民間で駆け込み寺などを無秩序に行うよりはまず児童相談所という明確なラベルの機関が公的に運用される方が明確かつ信頼性も高いと言える。
普通の人間たちが運用すれば、細かいところのミスや不慮の事故などありうるのだから、完璧な安全性を求めることはナンセンスであると誰でもわかる。
行政の話に戻すと、私は自発的に人権擁護、倫理道徳、人道主義ということを学んでいるからこそ、「冬行動」で確認する所存である。







起草日:2021年8月21日

「行政における個人主義の重要さ」と題しているが、立法機関に絡む問題も、色々と浮き彫りになっている。
日本社会で行う場合、まだ長い時間がかかる課題があるが、時代の必然的か蓋然的な「強い流れ」にどれほど早く乗っかるかどうかの差でしかないと私は見ており、一刻も早く乗っかってもらいたい。
とはいえ、中国やロシアの軍事戦略、情報戦略、文化戦略(代替娯楽、大衆文化、芸能)によってアメリカ合衆国と同盟国の覇権秩序が変わりうるという警戒感を先にするならば、未来永劫、人権擁護の進展がならないということも考えられる。
以前に、環境問題を先として社会保障、財政、国債、国の借金を語ることを私はしていた。
ロシアの対外的な代替ニュースメディア RT は、気候変動のうち地球温暖化に関して懐疑的な立場を伝えているそうで、どこの国がどういう言論を英語圏などに流布させようとするか、難しい部分も多い。
壊滅的な自然災害と、その原因として目されている気候変動の種々の症状に関して、これも行政や企業が重要視して改善に取り組むことが主要な流れになっている。
これにしても、他の事柄にしても、一種の社会性や社会正義のために「天秤」を私は連想している。
この欄で、これ以上、言及しないでおこう。
どういう正義などが有るとしても、政治レトリックの「真実」とやらがどうであっても、「冬行動」に繋げてゆきたい。
日蓮系宗派の人の多くは、博学多聞ということを嫌うのであろうが、この記事は現代に生きる人にとっての『立正安国論』、つまり「立正義、安国家、論文」ということで「りっせいあんこくろん」とでも呼んでいただきたい。
本文に「私の行動の結果、私の傍の草むらから蛇が出るか、ポケモンが飛び出してくるか、私の胸から心臓が飛び出してくるか」と記したが、そういう具合に私を待ち受ける者が何であるか、「平左衛門」とやらか、「冬行動」によって確認できるはずである。

起草より後、2021年9月3日に菅義偉さんが次の自民党総裁選に立候補しないことが発表され、9月29日の総裁選の結果から岸田文雄さんが次の総裁に選出された。
その新政権について、特にここで述べる意見は無い。
導入(冒頭の段落)で、財政について記されているが、当記事以前に文脈があるので、その提示であった。
2021年7月22日投稿『著作物を基本的に無料で提供し、信頼できる著者に寄付する形で維持する情報経済
米国の財政関する問題、やはり起草より後、9月28日に「史上初のデフォルト(債務不履行)」に関する財務長官らの発言について、ニュースが飛び交ったし、日本の株式市場(日経平均株価など)にも影響した。
政権与党・民主党 (Democratic Party) の「奢侈」かもしれない財政出動のために、必要な「債務残高の上限額引き上げ」法案と、それに対して財政規律を重んじるとされる最大野党・共和党 (Republican Party) からの反対に起因するとされるが、政権支持率の上昇を野党が好まない側面もあるのではないか?
社会保障費などを国が増やすことと国債に関する問題について、上掲の記事でも私は文章で見解を示していたが、このように、米国議会の野党が大衆的な政権支持率の上昇を好まない党派性からも影響される場合、誰が国を乱すものになるか、民主的に選ばれた政治家の各個人に判断が委ねられる。
私が絵と音楽と文章とを作って無料で公開することは、結局、「才能ある人間を評価せず、徒に社会保障費を増やすだけの世の中でよいのか?」という芸術性を含めていると思っていただければ、よろしい。
「勤労の義務」ならば、私の才能を正当に評価して、勤労のできる状態に、「弱者救済」を実行する社会でないと、例のUMIである荒木さんの話とは別に、民心が荒廃するだけで財政も治安も悪くなる一方ではないか?
また、9月に聞かれた「日本国で10月から最低賃金を引き上げる」という話で、低所得者から中間層の収入ある人の収入が増えることは、表面的にGDP 国内総生産の統計額も日本国の数字が上がることか?労働組合が望んでいる「労働者の福祉」の向上になるか?
プレシャスパートナーズ社による「実態調査」では、回答した企業201社のうちいくらかが「サービスや商品の値上げ」とか「採用の抑制」とかの方法で対応するということを答えたそうである。
価格転嫁での、賃上げね。
これはもし私が生活保護を受給する場合、生活扶助の保護費は据え置きで、物価が上がり、賃貸住宅の家賃も遠因として影響されて上がるならば、私に何のメリットも無い。
私の文脈のように、将来的な就職を考えてもいる以上、失業率を含む雇用統計に影響が出る方法も、懸念される。
このような「物価・賃金スパイラル (price/wage spiral)」が問える「スタグフレーション (stagflation)」が、目前に迫っているとすれば、当然、幾らかの人は絶望的な気持ちにかられよう。
1992年までは世界長者番付10位以内に日本人が4から6人(堤義明など)いたり、国内総生産でアメリカ合衆国の半分以上を日本国は稼いだわけだが、バブル崩壊以後は国民の所得(年収)が伸び悩み、先進諸国のみと比較しても成長が著しく鈍化した。
世界各地では、トップレベルの大富豪とそれ以外との格差が深刻視され、新しく不可逆的な反西洋的状況も増えており、混沌としており、なかなか救われるような結果が遠のいている。
そうなので、私が何度も言うように、投資も財政も、幾らかの領域では環境や人権の問題解決に志向性を持つことで一時の協調を見せているようであるのに、それだけでは貧弱でしかないようである。

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