2019年9月10日火曜日

言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)

表題について、まず私の先行研究を示す。
以下に2019年3月5日投稿記事『英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)』からの引用をするが、それは印での注釈に留まっている。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語il mareは男性、フランス語la merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

当該記事からの引用は以上である。
繰り返しになるが、印での注釈は原文のうちにある。



表題の通り、ノンバイナリー表現を中心に考察する。
ノンバイナリーとは、英語で"non-binary"(alt. ノンバイナリ) と記し、二極でないこと(梵語advaya, advaita は不二一如系になるがここでは多極を標榜するかもしれない)を意味する。
ジェンダー観・ジェンダー論のうちでも性的少数者に関する分野で用いるので、性別の位置づけとして一般に言われる。
日本では「Xジェンダー」と呼ばれる。
数学やIT関係では「バイナリ binary」という言葉が「0, 1 の二進法」の名詞として知られるが、原義的には「2つから成る or 2つのものを含む binarius」という形容詞であり、「バイ・ビ bi」は2つについての事柄を指す形態 (morph) であり、二極・両極端でもある。
「性別の二極でないこと」を換言すれば、男女の二分法に拘束されない性別である。
人によっては、生物の本能に依存した性別の生理的作用をゼロに帰するような立場であろう。

表題には括弧(カッコ)でジェンダーフリー"gender-free"、ジェンダーレス"genderless"、ジェンダーニュートラル"gender-neutral"と併記されるが、記事注ではノンバイナリーとジェンダーニュートラルの2つを基本的に用いる。
抽象名詞に"gender neutrality (性の中立性)"もある。
言語・現代語において、そのような「動き・運動"movement"」があることについて考察する。

人称代名詞 (personal pronoun) の彼・彼女・それ (英語: he, she, it) は、言語における文法的な性 (grammatical gender 以下"文法性") での男性・女性・中性 (masculine, feminine, neuter) になる。
ノンバイナリーおよび性別不明の生命の個体のための専門的な人称代名詞は、英語に無いとされる。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
自然言語には慣習的な特徴が尊重されるべきであるとすれば、急進的に英語でノンバイナリー表現を普及するには困難さが伴う。
現状は、性の無い複数形の人称代名詞である"they"を単数形で用いることが一般的である。
この用法の"they"は、近代英語初期の英訳聖書であるKJV (King James Version, 欽定訳) にも見られる。

Then shalt thou bring forth that man or that woman, which have committed that wicked thing, unto thy gates, (even) that man or that woman, and shalt stone them with stones, till they die. - Deuteronomy 17:5 (旧約聖書・タナハのうち律法・トーラーにある申命記17:5), KJV

※"they die"はそのまま複数形の方に見える。もし3人称の単数形ならば数の一致で"they dies"になるはず。2人称の代名詞 you が複数形由来であることと同様かもしれない。いちおう単数形 they = singular they は主格・主語である場合に述語の動詞が複数形の語形であることは一般的であると一ページに示されるた例文から判断できる。上記引用について、KJV以前からある中英語ウィクリフ訳 Wycliffe (1384, 1394) では、KJVの"that man or that woman"が"þe man and womman (the man and the womman)"として数量的に複数で取れる名詞句を形成しており、その上で"þei ſhulen be þrowen doun (thei schulen be oppressid with stoonus)"と they にあたる人称代名詞を用いる。あまり関係ないが同じ文のヘブライ語では"and"か"or"かというと、"or (either)"の意味に取れる語句 א֖וֹ が使われる。KJVでの他の例に"If an ox gore a man or a woman, that they die: then the ox shall be surely stoned... - Exodus 21:28 (Wycliffe 1384: If an oxe wiþ þe horn ſmyte a man, or a womman, and þei weren deed... ;die が他動詞「死なす」の意味を含んだ時代に"weren deed"で受動構文にしたか)"がある。

当記事では、人工言語であるエスペラント(エスペラント語)でどうか、見てみよう。
あらゆる個別言語において最も特筆すべき動向・議論があろう。



エスペラントは元々、3人称・単数の人称代名詞の語形のみ、文法的な性によると思しき語形変化=屈折 (inflection, alt. 曲用 declension) を起こす。
すなわち、li (彼 he), ŝi (彼女 she) のみである。
人称代名詞・指示代名詞の語末には、mi, vi, ni, ĝi など規範的に - iが語尾として伴う(cf. 疑問詞・不変化詞 ĉu; 英語やラテン語に同じ用法の無い不変化詞でポーランド語czyから来る, 疑問代名詞=関係代名詞 kiu; 文法的に意味を有する接尾辞-uが付く, ほかwikt. Category: Esperanto pronouns)。
物理的な性別が言語の指示対象にあって名詞が有すると推測される性は、自然の性・自然性 (natural gender) である、との定義もある。

li, ŝi の2つに、その対格 (accusative case) の語形もある。
ラテン語などと違って対格の標識 (marker) である形態は語尾の -n のみである。
単純に実在の事物における性の区別が必要という観点で、鶏のオスとメス(雄鶏・雌鶏)を koko, kokino (接尾辞 -ino で女性の意味を付与) として・父と母を patro, patrino (両親を意味する場合にgepatrojで複数形のみを用いる)として区別するようなことが、この人称代名詞にも反映されたに過ぎないと考えることもできる。

エスペラントの冠詞は定冠詞 (definite article) である la の一つのみである。
英語と違って不定冠詞 (indefinite article) は無い(数詞 unu = 1 を代用する者もいる)。
参考までに、フランス語には冠詞・名詞・形容詞にいずれも文法性や文法数 (grammatical number) があり、それらの一致 (agreement alt. 呼応) があるが、名詞と形容詞には中途半端に思える文法性・数の無い例もある。
性の無い形容詞や名詞を単数形で用いる際には、冠詞が男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"un enfant espiègle"(「やんちゃな男児」を意味して定冠詞unのみが男性形) と"une enfant espiègle"(「やんちゃな女児」を意味して定冠詞uneのみが女性形) がある。
定冠詞の複数形は文法性で語形が変化しないので、名詞・形容詞に異なった語形がある場合は、それが男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"les adultes français"(「フランスの成人男性たち」を意味して形容詞françaisのみが男性形) と"les adultes françaises"(「フランスの成人女性たち」を意味して定冠詞françaisesのみが女性形) がある。

要するに、エスペラントには性の一致にあたる文法的な機能が、ラテン語やフランス語と違い、存在しないことになる。
3人称・単数の人称代名詞は適宜に照応 (endophora) で用いられれば、それが日本語にもあるような文法的な機能と少し異なる性の一致になるかもしれない。
それでさえも、性別不明の生命の個体を指す場合・秘匿したい場合・性的少数者(性的マイノリティ)への配慮が必要である場合などのため、ノンバイナリー表現を模索する人々は多い。



ノンバイナリー3人称・単数の人称代名詞のためには、何があるか?
ri が、現状で最も一般的である。
これは新語"neologism"である。
性別不明の生命の個体に用いられることが更に一般的である。
ri の使用は Riism, riismo と呼ばれる。
この一種で、両親を意味する gepatroj という複数形のみの言葉の単数形を設けて gepatro と言ええば、ノンバイナリー(ジェンダーフリー・ジェンダーレス)の立場にある親を意味する。
性別が不明または任意の親である人物を指して"unu gepatro"と言ったりする。

なお、ri を用いるなどを基本としてエスペラントから性差を無くする修正・改革 (reformo) としては La riisma Esperanto があって riismo と別に扱われる。
これには基本の語形に女性の形態が別に用意されるものを、男女別で専用の形態を用いることで語形が基本的にニュートラルであることを示す手段も含まれている。
それは iĉismo と呼ばれ、先の雄鶏・雌鶏は、性別不明の個体が koko であって雄鶏・雌鶏は専用の接尾辞 -iĉo, -ino (表記として -iĉ-, -in- も見られる) を用いて kokiĉo, kokino となる。
ことさらに女か男か(雌雄、メス・オス;畜産の人・酪農家などにとって実用的)を示したい場合の手段が用意された修正案である。

li は男性以外にジェンダーニュートラルの用法が伝統的に有ったともいう。
これは epicinity, male-as-norm のようでもある。
英語版Wiktionary - liでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの用法は推奨されない。

※ epicinity かどうか不明だが、古典ラテン語には名詞に限って common gender (コモンジェンダー・通性) があるという。冒頭に引用した文に「原則的に生命・生物はインド・ヨーロッパ古典語で男性名詞である。中性では無生物などになるため」と注釈した時の言葉 homo もこの例に当たるとして何らかの辞書に定義がある。何らかの文法書は civis (市民), sacerdos (祭司・巫女), parens (親) などを挙げる。これらが男性・女性の実在人物のいずれにも同じ語形で用いられて形容詞との性一致もあるという。新語としてのエスペラント単語 gepatro を待たずにラテン語でこのような例もあることになる。

li, ŝi を合わせて ŝli (ŝi/li の縮約"contraction"ともいう) とする、ジェンダーニュートラルな表現が作られている。
これは新語"neologism"である。
英語版Wiktionary - ŝliでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの単語は推奨されない。

tiu (その人・あの人 that person, that one) は本来の用法から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも両性的"epicene"(エピシーン、エピスィーン。抽象名詞は epicinity エピシニティ。両性的 androgynous, androgyny と異なる。男性の欠如) である表現に用いるとされる。
ただし、これは代名詞よりも限定詞 (determiner alt. 指示語・指示詞) や指示代名詞 (demonstrative pronoun) として"tiu homo"(その人・その人物・そいつ)というような用途が主要かもしれない。
これも恐らく、専用の単語でない(代替表現らしい)点で、不満足な層がいる様子である。

ĝi (それ・あれ it)は本来の意味から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも"epicene"である表現に用いるとされる。
それで英語版Wikipedia - Gender reform in Esperanto に「1901年の La Revuo 23号にエスペラントの創始者であるザメンホフが性別の不明な個人のために使うことが可能であるという規定がある(筆者が検証すると1901年にLa Revuoという雑誌が存在していない様子。いくつかのサイトを見て1907年として原文を引用する例を見た)」と記され、L. L. ザメンホフさんが実際に用いた文例が子供を対象とする場合にのみあるとする。
挙げられる文は"La infano ploras, ĉar ĝi volas manĝi"(意味は「子供La infanoが泣いている、その子供ĝiは食べる行為をしたいので」という前方照応) である(典拠はL. L. Zamenhof 1893 "Ekzercaro de la lingvo internacia Esperanto"という)。
"infano"は先のフランス語"enfant"と同じ語源を有する言葉であり、伝統的な文法用語としての"epicene"であると言いたいかもしれない。
英語版Wiktionary - epicene の英単語説明の sense 2 としてその仏単語が例示される。
元のラテン語の infans は辞書の定義に英語の"infant"を挙げ、それがまた辞書の定義に「6か月から2歳程度の子供」とするならば、それほど分詞 fans の元の動詞の意味の「話す」ことが否定辞(欠性辞)-in としてできない年齢の子供であって服装や髪型の外見に性別が特徴づけられない場合、日常生活では性器を直に見ないで実在するその個体の性が判断できない。
なので、古典ラテン語からして分詞 fans が男女で性の形態の無い(これはラテン語文法で男女が共通の語形を有するものと扱う)ために否定辞 -in と合わせて、話すことができない(会話が成り立ちづらい)年齢の子供の一般名詞に用いられたろう。
L. L. ザメンホフさんはこの語源を知っても知らなくても、性別不明の子供"La infano"に対する前方照応 (anaphora) に、"epicene"の代名詞として"ĝi"を用いたという旨が当該Wikipedia記事に記された。
同じく当該Wikipedia記事 (oldid=911895413) に「ĝi が人間に用いられないとする考えは英語ゆずり。他の言語には人称代名詞の中性が人間でも用いられる。 e.g. トルコ語 o, フィンランド語 hän そもそもウラル語族やトゥルク語族は3人称の代名詞に性差が無い」とも記される。

L. L. ザメンホフさんが活動していた時代には、当然、言語とジェンダー観のうちの性的少数者に関する議論がほぼ無い。
ただし、冒頭に過去記事を引用するうちに記されたような近代的なヨーロッパ言語は文法性による語形の区別が古典ラテン語など古語よりも少ない、と多くの言語学者が気づいていたろう。
そこからエスペラント(当初に国際語"Lingvo Internacia"という公称がある)をザメンホフさんは構築した、と私は考える。
既述の通り、3人称・単数の人称代名詞にのみ性の語形変化を起こして li, ŝi の2つ(およびその対格 accusative)のみを得る。
文法性による語形の区別が少ない場合は、表現の能力が低くなるので、少ないくらいならば文法性を無くする方が都合のいい結果も得られると考えられる。
その点でフランス語よりも英語が理想に近いモデルとなる。
エスペラントでは意図的に文法性に関して英語らしくしつつ、職業名につくような"-man, -woman"の対立的な形態は用いないようにしたと私は考える。
件の人称代名詞 li, ŝi の2つ以外に、-ino を付けて女性・メスであることを強調するのみで、エスペラントには文法的な性が皆無と思う。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
フランス語の形容詞に男女の語形が異ならない単語も、多くは男性が原型であったかもしれない。

※当記事の後記を参照。イタリア語・スペイン語の話がある。ロマンス諸語のフランス語もイタリア語もスペイン語も男女の語形が異ならない形容詞が、ラテン語でもそうである場合が多いこと (e.g. 3言語 grande, forte に対するラテン語 grandis, fortis) は、少なくともラテン語がロマンス諸語の3言語と同じ傾向を示していたことになる。梵語(サンスクリットおよびパーリ語 Sanskrit and Pali)では基本的に形容詞・分詞が3つの性別 (m. f. n.) を有する (e.g. sa. nava नव の主格 m. navaḥ, f. navā, n. navam; pa. mahant の主格 m. mahanto, f. mahantī, n. mahantaṃ 用例)。



単語例が多く示されているが、エスペラントでノンバイナリー表現のためには、ri が、現状で最も一般的である。
これが唯一、ノンバイナリー表現たりえる専用の表現・単語であることが大きな理由かと思う。
英語で、そういう新語や造語は、伝統や慣習からして定着しない(する場合は一部のコミュニティにおけるスラング slang の一種)。
どの程度に普及しているかは、特に説明しないでおく。
ノンバイナリー表現の将来性についても、私から意見を述べるものでない。
ただし、自然言語でも、過去から現在までを類推すれば、途中の時代まで自然に弱まってきた事実は既に説明されている。
近代から言語のリテラシーが教育の拡充によって高まっているので、自然に変容することは考えづらいが、変容する場合は、言語・文法における性を認知する人々による運動のような「人為的な力」が加わる結果かもしれない。
社会などのことは現在の未知の事柄はもちろん、1年後・10年後・50年後などそれぞれが未知数だし、これを無理強いに量りたいと私は思わない。
民衆からの変革は急進的な成功が困難であること(特に日本国内規模でそう)のみが考えられる。






起草日: 20190909

社会言語学のうちの語彙など簡単な話題について、詳細に説明を行った。
語彙に関して、現代の言語は大きめの拡張性を持つ。
大概は言語を用いる側が、外的要因に受け身である結果に過ぎないが、当記事では運動にも似た能動的な例を挙げている。
既述の通り、自然言語の各言語やそのうちで最も高い国際的地位を得ている英語よりも、人工言語の一種であるエスペラントは、柔軟かもしれない。
最初の提唱者・創始者というザメンホフさん以来の形式は、ある程度に守られても、エスペランティストのパンク的な精神の側面では、変えたい意思で変えようとすることもあろう。
それが旧時代の否定か、新時代のための要請か、その演出かは不明である。


当記事の起草までの2か月間には、本家ブログにおける絵に関する記事の編集・画像制作などで大いに時間が過ぎた。
今時に行うべき言語関連の話題は無いと思っていたが、9月5日からエスペラントについて少し調査を始め、過去記事に僅かな関連のある話題が見つかったので、このために起草した。
起草日での先の時間に、某所で似たような文の投稿をしていた。
一応それと当記事は、同じ私による投稿である。

ジェンダー関連の話題は本家ブログ2019-08-19記事にも2度記されている。
1度は社会に関する説明(主に男女平等・フェミニズム・LGBT, LGBTQ関連)で、もう1度は言語(近代英語での性一致型の照応)に関する注釈であった。
私の絵と絵画・美術の行為には、大概、社会の話題が直接含まれる余地が無いスタンスであるが、そこではそのように説明するという趣向がある。



古典ラテン語などにおける文法性の区別を、私は割と好むが、情報技術に依存して創作・学習するからこそ、私は煩瑣に思われそうな語形変化の事柄に精神的な余裕を保つ。
古典ラテン語よりはイタリア語がもっとシンプルである。
いずれにも、好ましく感じることは、後舌母音による語形 -o, -us が男性であることを象徴してキャラクタリスティックであることである。
インド系言語のうち、パーリ語も文中で主格の時の一般名詞男性形が -o(長母音かつ音声学的な母音の特徴はheightが低め=広め  かもしれない)であってサンスクリット語の -aḥ からの派生という点で、イタリア語・ラテン語に比較する。
パーリ語で一般名詞女性形は -ā が多く(他の例は割愛)、イタリア語・ラテン語で -a に比較する。

しかし、イタリア語であっても -a が固有名詞 Andrea (アンドレア 由来: Ἀνδρέᾱς Andreas アンドレアス) , Luca (ルカ 由来: Λουκᾶς Lucas ルカス) のように男性形である場合もある。
ラテン語では古代ローマの著者 Seneca(セネカ 位置づけはコグノーメン)も男性名詞で扱われる。
反対に、ラテン語には Venus (女神ビーナス、ヴィーナス、ウェヌス), pinus (松などの樹・植物"pine tree"、生物学ではマツ科"Pinaceae"のマツ属 Pinus) など -us が女性形として扱われる名詞もある。
スペイン語の Venus は惑星を指す場合に男性(ラテン語と比べて他のロマンス語と同じく中性が無い言語なのでノンバイナリー?)であると思う。
例文として"Venus es el segundo planeta del sistema solar en orden de distancia desde el Sol"(スペイン語ウィキペディア - Venusより) を見出すも、どうにも planeta がスペイン語の男性名詞(ラテン語・古代ギリシャ語も同じ)であるから、その前の定冠詞と形容詞(序数 ordinal number)が男性形を取ったに過ぎないようである。
私自身が彼ら言語を近いと思っても、夜空の星々のことではないが、遠い部分があるっぽい。

既存の文例を探す困難さが伴うならば、「Google翻訳」で訳文の例を求める手段もある。
金星と水星と地球を序数の形容詞で求めて平叙文を作ると"Venus es el segundo."(原文:金星は2番目である。), "Mercurio es el primero."(原文:水星は1番目である。), "La tierra es tercera."(原文:地球は3番目である。;定冠詞la含まれず。「太陽系で」と付け加えてLa tierra es la tercera en el sistema solar.という) として男性形の定冠詞や形容詞で訳文が返答された。
参考までに人称代名詞で作ると"El es el segundo.", "Ella es la segunda."として男女性の区別が確認できる。
ただし、Google翻訳は日本語→スペイン語で翻訳するために用いる際、内部で英語を介しているので、女神ビーナス"Venus"まで惑星"Venus"として処理されるから、女神ビーナスについての翻訳では信頼できず、妥協案で"Diosa Venus es la segunda."とするしかない。
そのまま女神ビーナスと金星と水星を形容詞「白い」で求めて平叙文を作ると、今まで男性扱いの金星について"Venus es blanca"(原文:金星は白い。;返答でピリオドが付与されない) と女性として返答された。
つまり、内部の処理で女神ビーナスと金星の混同があるとき、その確率論は不明だが、どっちかの時には男性・女性で異なって処理されるように、"Venus"という語形は意味によって文法性が異なるものと看取される。
自然言語処理 (Natural language processing, NLP) の壁の一つではあるが、この打開には複文で脈絡を演出することが挙げられる。
すると、その発想で女神ビーナスと金星の違いを先に位置付けた複文を作ると"Venus es una diosa y Venus es blanca."(原文:ビーナスは女神であり、ビーナスは白い。;コンマなし), "Venus es un planeta y Venus es blanco."(金星は惑星であり、金星は白い。;コンマなし) として理想的な返答があった。
注記すると、数ある形容詞で「白い (blanco, blanca, blancos, blancas; white)」を選んだことは、「大きい (grande, grandes)・明るい (brillante, brillantes)」などが男女 (masculine and feminine) の区別を有しないためであり、それ以上に筆者の感性を込めたつもりでない。
後で「良い (bueno, buena, buenos, buenas)」が浮かんだので、そちらでもよかったろう。

このように「Google翻訳 (Google Translate)」を使う手段は、語学のための技能であって、当記事本文にあるような言語学研究と峻別されるべきであると思う。
語学でも言語学でも、個別言語を扱う際、例外を掬い取るような優れた辞書や文法書などがあれば、そちらですぐ調べることをおすすめする。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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