2020年1月18日土曜日

"une équation sexuée" 性化された方程式とは?珍説の考察

当記事は、ジェンダー研究の文脈を持つ前回記事を原案とする。
そこで、20世紀のフェミニズム feminism に関わる者の科学的見地で問題のある言説として
E = mc2 は性化された方程式 sexed equation ですか?多分そうです…」という記述を例示した。
この記述は、フェミニストかつ人文/社会系の学者とされるリュス・イリガライ氏 Luce Irigaray *1 による。
彼女を含むポストモダン postmodernism 系の学者ら *2 の自然科学–数学を借りた言説は、アラン・ソーカル氏 Alan Sokal の皮肉 *3 にされ、Jean Bricmont との共著で批判対象にされたとの評判を持つ。
その著書は Impostures intellectuelles (Sokal & Bricmont 1997) である。
英訳の例は Fashionable Nonsense (Sokal & Bricmont 1998) である(1999年版が無料公開されている Internet Archiveや Emil Kirkegaard氏サイトのページへのリンクは載せない)。
邦訳の例は『「知」の欺瞞』(田崎, 晴明.; 大野, 克嗣.; 堀, 茂樹. 2000年. ISBN 9784000056786)である(他に「知的詐術」・「知的詐欺」という)。

問題の記述はソーカル氏の批判対象に含まれ、「ソーカル事件 Sokal affair / Sokal hoax」への説明で人口に膾炙している。
記述/発言とその背景について、考察しよう。

フランス語による原文:
Deuxiéme point: l'équation E = Mc2 est-elle une équation sexuée ? Peut-être que oui. Faisons l’hypothèse que oui dans la mesure où elle privilégie la vitesse de la lumière par rapport à d’autres vitesses dont nous avons vitalement besoin. Ce qui me semble une possibilité de la signature sexuée de l’équation, ce n’est pas directement ses utilisations par les armements nucléaires, c’est d’avoir privilégié ce qui va le plus vite [...]

英訳の例:
Is E = Mc2 a sexed equation? Perhaps it is. Let us make the hypothesis that it is insofar as it privileges the speed of light over other speeds that are vitally necessary to us. What seems to me to indicate the possibly sexed nature of the equation is not directly its uses by nuclear weapons, rather it is having privileged what goes the fastest... (Irigaray 1987b, p. 110) *4
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 109 より。最後部分については脚注に説明。

邦訳の例:
E=Mc2 はおそらく、性化された方程式であろう。 この式が光速を、我々がそれなしでは生きていけない他の様々な速度を差し置いて特権化する限りに於いて、そうである ••• 。
柳生, 孝昭. 20110921. 参照。そこでは訳書=田崎. et al. 2000の引用とされる

彼女–イリガライ氏の発言は、その脈絡による以外にも、彼女の思想に原因を求めることもできる。
著書 Parler n'est jamais neutre (意味: 話すことは決して中性的でない) の"neutre"は、本人が望まない「科学」の中立性の批判に用いるものである *5 。
彼女は、男性が優勢である文明で男性に対置される「男性以外の何か」を女性だと分析した。
彼女は、女性器の形質から女性を定義しなおすようである。
科学を含むすべての言説は、男性的であるから中立性と普遍性は幻想だとして「女性は苦痛を強いられる"to which women should painfully gain access"」と言う。
彼女独自の binary, gender binarism のような前提を知らないと、全てが奇怪に見える。

ウェブ上で見られる比較情報を少し載せる:
Luce Irigaray : la sexuation des sciences - A Dangerous Philosophy. 2014-11-08.
https://adangerousphilosophy.wordpress.com/2014/11/08/luce-irigaray-la-sexuation-des-sciences/



参考:ザ方程式の説明の例
(by JTBarnabas or Liugalia, from Wikimedia commons)
世界で最も有名な方程式"the world's most famous euqation"とも言われる E = mc2 を引き合いに出す理由は何か?
「マクスウェルの方程式 Maxwell's equations」は提示しづらいか?
他の方程式では、説明できない問題であったか?

Les sciences procédent donc à une escalade technique, à l'abstraction par équations et formalisme, sans s'interroger beaucoup sur qui les produit et quels en seront les effets individuels et sociaux. Jusqu'à présent, les plaidoyers de certains scientifiques pour la vie, la paix dans le monde, n'ont pas modifié sensiblement le discours scientifique. Certains scientifiques le savent. La question est celle des modalités d'application, de leurs affirmations pacifistes. Ainsi la célêbre formule d'Einstein, E = Mc2 (ou d'autres formules qui s'en sont suivies) a eu comme effet non seulement l'invention des armes nucléaires (comme retombées) mais correspond peut-être (c'est une question que je me pose), à une accélé­ration du temps qui n'est pas dans nos possibles humains. L'humanité devient malade de vitesse.
Irigaray, Luce. 1987 or 1985. Sens et place des connaissances dans la société, p. 102. ただしweb上"Sheffield Zetetic: The Hunt of the Sexed Equation"からの孫引き

彼女をはじめとする「ポストモダンの人文系著者」とラベリングされた人々は、しばしばアルベルト・アインシュタイン氏 Albert Einstein とその研究内容を話題にしていた (e.g. Bruno Latour)。
これは恐らく、アインシュタイン氏が自然科学分野の代表的な学者として/世に「天才」の名声で知られるためであると思われる。
そうなると、彼の論文 Einstein, A. (1905), "Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?" に端を発する E = mc2 (この式 formula 自体は同論文に無い) を引き合いに出すことが彼らに最も適した方法になる。
アインシュタイン氏は:多く言及対象にされ、客体化され、偶像化されたように見える。

ソーカル氏らの共著には次のような論評もとい批判が記される:
Whatever one may think about the “other speeds that are vi­tally necessary to us”, the fact remains that the relationship E = Mc2 between energy (E) and mass (M) is experimentally verified to a high degree of precision, and it would obviously not be valid if the speed of light (c) were replaced by another speed.
In summary, it seems to us that the influence of cultural, ideological, and sexual factors on scientific choices—the sub­jects studied, the theories put forward—is an important re­search topic in the history of science and deserves a rigorous investigation. But, to contribute usefully to this research, one must understand at a rather deep level the scientific fields under analysis. Unfortunately, Irigaray’s claims show a superficial un­derstanding of the subjects she addresses, and consequently bring nothing to the discussion.
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, pp. 109–110 より

なお、科学哲学に寄せて言うと、結果的な中立そのものを求めることよりも、中立を求める人間の努力が「中立的である neutral」と私は思う。
偏った現状の全否定は虚無 *6 であって別のカテゴリにおける偏りを生むし、偏った現状の無批判な肯定は努力放棄である。
哲学的に中立性–客観的な視点は存在しない」ということもまた、分かりきっている。
そのような「戯論 prapañca」を止めて仏教徒が修行するように、科学者の努力があると私は思う。
それも、彼女にとっては「男性的 masculin, masculine」であって「女性は苦痛を強いられる"to which women should painfully gain access"」ほどのものか?
それ以上はあずかり知らない。



あえて科学哲学の「パラダイム paradigm」を用いると、彼女に彼女の思想的な前提と経緯があることで理論的説明があり、その原因部分に当てることができる。
ただし、フェミニズムのパラダイムには合わないものとしての批判 *7 もある。
フェミニズムの擁護対象である「女性 (female)」と「女=女人 (woman, women)」は、生物学的性 (biological sex) にのみ則るものではないそうである *8 。
彼女には、女性器の外陰部の大陰唇 (labium majus pudendi) などの形質的特徴に女性の本質–エッセンス essense を決めるような前提があるそうである。
私はよく存じ上げないが、フロイト Sigmund Fleud *9 の「エディプスコンプレックス Ödipuskomplex (Oedipus Complex)」*10 も関係しているようである。
「エディプスコンプレックス」の修正を試みたジャック・ラカン Jacque Lacan *11 の弟子でもあった彼女は、批判的に男性もとい男根 (penis, phallus, adv. phallic) の特権化ということ (privilege) を言っていたようである。
女は「男以外の何か」という対比で存在するものではなく絶対的に女であることの特徴の説明を試みていたようである。
この議論は思弁的に展開される思弁哲学のようで、実証的な印象ではない"speculative, not empirical"と感じてしまう。

共著で彼女の言説に批判を行う章の終盤ではフェミニスト運動に関する言及を含んでいる:
 The roots of the tree of science may be bitter, but its fruits are sweet. To say that women should shun a universal science amounts to infantilizing them. To link rationality and objectivity to the male, and emotion and subjectivity to the female, is to re­peat the most blatant sexist stereotypes.
[... Irigaray 1993 ="Une chance de vivre", p. 200 について]
To reduce women to their sexuality, menstrual cycles, and rhythms (cosmic or not) is to attack everything the feminist movement has fought for during the last three decades. [...]
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, pp. 122–123 より(字下げ有無は原著のまま)



ジェンダーの話題(LGBT運動を含む)で煽情的な修辞が多く見られると思う私は、2019年10月以前にその界隈を好まないでいた。
学者然とした言動よりは、大衆向けの論調が多い。
しかし、ソーカル氏の批判対象にある種々の説に関しては、普通の人に理解しづらそうなものも多い。
例えば、説明対象よりも平易でないもの (e.g. 微積分, 量子力学, 非線形) で譬喩(比喩/隠喩)–メタファー metaphor を作る、といった話 *12 がある。
これに関して、日本でしばしば「深遠なように見せる」という表現が使われる。
共著からのその典拠を見た:
4. The role of metaphor
[...]
Suppose, for example, that in a theoretical physics seminar we were to explain a very technical concept in quantum field theory by comparing it to the concept of aporia in Derrida literaiy theory. Our audience of physicists would wonder, quite reasonably, what is the goal of such a metaphor—whether or not it is apposite—apart from display­ing our own erudition. In the same way, we fail to see the ad­vantage of invoking, even metaphorically, scientific concepts that one oneself understands only shakily when addressing a readership composed almost entirely of non-scientists. Might the goal be to pass off as profound a rather banal philosophical or sociological observation, by dressing it up in fancy scientific jargon?
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 10 より(ソーカル公式サイトにも少し異なった状態で同じ内容が載る)
その表現に相当する部分は"to pass off as profound a rather banal observation"である。
これに関しては、特に「性化された方程式 une equation sexuée」説の批判にあたらないと思うので、気にしなくてよい。

私はジェンダーに関連する研究領域を卑下したいのではなく、「人文科学 (human/humanitarian/humanistic science)」・「社会科学 (social science)」として注意を保って行えば、学問の進展として作用することを言いたい(最初から女・男のどちらかを優遇したい人々にとってもそうかどうか)。
あえて「人文学 humanities」・「社会学 sociology」と表現を区別する。
ソーカル氏でさえも、彼の批判対象に関連する領域について、それら自体に害をもたらす説についての科学的な批判をした、というそうである *13 。
疑問なので、共著からのその典拠を調べた:
 4) Manipulating phrases and sentences that are, in fact, meaningless. Some of these authors exhibit a veritable intoxi­cation with words, combined with a superb indifference to their meaning.
 These authors speak with a self-assurance that far outstrips their scientific competence: Lacan boasts of using “the most re­cent development in topology” (pp. 21-22) and Latour asks whether he has taught anything to Einstein (p. 131). They imag­ine, perhaps, that they can exploit the prestige of the natural sci­ences in order to give their own discourse a veneer of rigor. And they seem confident that no one will notice their misuse of scientific concepts. No one is going to cry out that the king is naked.
 Our goal is precisely to say that the king is naked (and the queen too). But let us be clear. We are not attacking philosophy, the humanities or the social sciences in general; on the con­trary, we feel that these fields are of the utmost importance and we want to warn those who work in them (especially students) against some manifest cases of charlatanism.
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 5 より("Our"の通りBricmontの考えも含まれると思う)



備考:90年代–00年代の日本における類例
90年代に日本の女性学 (women's studies) やジェンダー研究をしていた人たちの中には、仏教の典籍(特に漢訳仏典)を皮相的に解釈して仏教を女性差別の宗教だと非難する根拠にする者がいたそうである *14 。
比丘と比丘尼 (bhikkhu, bhikkhunī; male and female monastic/monk/nun) に代表される出家者の戒律(e.g. 五百戒)の差異などは伝統的であってテーラワーダ仏教(世間で上座部仏教–南伝仏教とも)などで守られ、もしそれを根拠とした過度な女性差別があると悪いであろうが *15 、伝統的な経典にその非難は当たりづらい。

彼らは:
文化相対主義 *16 をご存知であろうか?寛容な右翼としては、各宗教の聖典とされるものを尊重する。
文献学は可能であろうか?科学的な左翼としては、仏教学の場合に漢語(主に中古漢語)や梵語(主にold/middle Indo-Aryan languages)など言語の枠を越えて「同じ人間のことば *17」として慎重かつ批判的な態度で研究する。
科学の目線にある学問としては後者が好ましいと考えられているし、社会的な応用であっても、微細な差異に気を配った論評が求められる。

植木雅俊という仏教学者(Masatoshi Ueki, 物理学出身で理学修士 Kyushu University: Bachelor, Master of Science?)は、彼らの誤り(e.g. 阿含系「六方礼経」 = パーリ経蔵・長部31経 Siṅgāla sutta、「法華経 Saddharmapuṇḍarīka sūtra」関連)を示した博士論文をお茶の水女子大学に提出し、2002年に人文科学の博士号 Ph.D. *18 を取った。
その論文は2004年に岩波書店から「仏教のなかの男女観」という名で出されているそう (ISBN 9784000246224, 2001年にEnglish version? ISBN 9780820451336)。
植木氏が2013年7月26日に語ったことから抜粋:
 女性学の方々は、漢訳の仏典と日本語で書かれた仏教書を参考にしておられました。「婦は、夫に五つのことで事えよ」と漢訳されているのをとらえて、「それ見ろ、これは女性差別だ」と言ったところで、それは仏教の女性差別ではないのです。仏典を漢訳するときの中国人の女性差別なんです。そういった例を序章に挙げておいて、その後の章で、歴史上の人物である釈尊は平等思想の立場に立っていたこと、釈尊滅後に権威主義化していった小乗仏教において在家や女性が差別されるようになったこと、さらに釈尊の原点に還ろうという運動として、大乗仏教が女性や在家の名誉回復を図ろうとしたこと―などを歴史的に論じました。その論文をお茶の水女子大学に提出して、 [...]
— 植木, 雅俊. 「絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―」 創価教育, 第7号. p. 33 より

無論、彼は文献の側面で判断可能な「仏教の男女観」を正しく示すことを意図しており、あらゆる意味で仏教が男女平等であると主張したわけでない。
その限りでお茶の水女子大学から博士号(人文科学)を授与される価値があったであろう。
活字の本が好きな人々(ビブリオビブリ bibliobibuli?)は、是非とも彼の著作やソーカル氏の著作など、色々と読んでほしい。
中学時代から本に出す金銭を持たないでいる–図書館に行く足の無い私の代わりで、彼らにはインターネットで本の内容の論評をしていただきたい。



脚注(主+副で2段構成)

*1…1930–存命。しばしば"linguist"(linguiste, 言語学者) と扱われる人物。実際には、彼女の研究はフェミニスト思想に言語を用いたものであり、私が見てきた印欧語=インド・ヨーロッパ語族の研究に端を発する言語学(主に18–19世紀)と全くの別物である。構造主義の脈絡で知られるフェルディナン・ド・ソシュール氏 Ferdinand de Saussure (1857–1913) も少し構造主義や記号論/記号学の原点となる言及を最晩年にしたというだけ(弟子による講義録が著書「一般言語学講義 Cours de linguistique générale」(1916) になることが最大の要因)で、実際には筋金入りの印欧語研究者であり、私が言う「言語学」では「喉音理論 laryngeal theory」で知られる。また、彼女の研究はノーム・チョムスキー氏 Noam Chomsky *-1 の博士論文などから展開された生成文法 (generative grammar) の派閥とも、異なる。彼女が持つ学位には何があるか?パリ第10大学での1968年の言語学の博士号 PhD とされる。これは心理言語学 psycholinguistic の研究である。それ以前はパリ大学での心理学の修士号 MA らしい(根拠不明)。心理学や精神分析学や精神病理学に近しい人 (psychologist, psychoanalyst...) が、言語学とラベリングされる研究で学位を取得した、と理解しておけばよい。後の研究について、適切にはフェミニスト思想家やポストモダン哲学者と言える。私もそういうラベリングを好んでいないが、言語学者というラベリングが疑わしい側面を説いた。これも幅広い言語学の下位分野間に展開する複数のパラダイム *-2 の差と考えるしかない。
*2…その人々に関して「ポスト構造主義 post-structuralism」と呼ぶ場合もある。言及対象の人々みなが、それらを名乗っているわけでない、と注意されたい。関連ワードは「相対主義 relativism」や「社会構築主義 social constructionism」である。傍から見て「ポストモダン系 postmodern, postmodernist」でレッテル貼り–ラベリング labeling の可能なものになっている程度である。 cf. 英語版Wikipedia - "Category:Postmodern theory"
*3…1955–存命。氏は数学的な物理学者であり、1996年における当の皮肉と風刺を意図したデマ (hoax) 論文創作 ("Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity" Social Text) の「ソーカル事件 Sokal affair」で知られる。このストーリーを私は2019-05-16記事に例示した。彼のデマ論文は「科学戦争 the science wars」という議論の脈絡に乗るものであり、その論文でのみ彼がポストモダン系の言説を演じる。彼による分野を超えた批判に関しては、"Losada line"など *-1 も参照。
*4…ソーカル氏の共著の示す Irigaray, Luce. 1987b.. “Sujet de la science, sujet sexué?” In Sens et place des connaissances dans la société, pp. 95–121. という出典のうち3巻の p. 110 にその記述が見られるとして証拠画像を載せるページ"Sheffield Zetetic: The Hunt of the Sexed Equation"がある。ソーカル氏はかなりマイナーなイリガライ文献から問題の記述を選び出したようである。しかし、1996年デマ論文では英訳のあるイリガライ文献のみが参照されている。問題の記述はフランス語圏の共著者 Jean Bricmont ジャン・ブリクモン氏 (1952–存命) の方が提案したろうか?
*5…先の注釈のように、言語学者という肩書には見づらい、「言語学」との乖離があろう。ここでは主に比較言語学–歴史言語学 (comparative linguistics, historical linguistics) を指す。言語学の文法性 (grammatical gender, genre grammatical) の男性–女性–中性 masculine–feminine–neuter; masculin–féminin–neutre ということは顧みられていないと思う。フランス語には中性 En: neuter = Fr: neutre の範疇が存在しないが、ラテン語やサンスクリットには存在する。「通常の言語学のパラダイムといえるもの *-2」が顧みられているかどうか?彼女について本文に「それ以上はあずかり知らない」と私は記すので、女性フェミニスト学者に興味のある者が調べてみるとよい。
*6…虚無主義–ニヒリズム nihilism (adj. nihilistic) ということはしばしば、相対主義やポストモダン系の言説に対して、非難のために人々が言う。
*7…次のように言及がある:日本語版Wikipedia - 『ソーカル事件』記事oldid=75209450 の『「知」の欺瞞』節、英語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=933908492 "Criticism"節、フランス語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=160853167 "Controverses"節、RationalWiki - "Alan Sokal"記事oldid=1970769 "Fink"節など。
*8…cf. 日本語版Wikipedia - 『リュス・イリガライ』記事、英語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=933908492 節"Criticism" その観点での性の本質主義 gender essentialism に近しいものとみなされている。性別における本質–エッセンス問題については、私による元の記事なども参照。
*9…1856–1939。「ナルシシズム narcissism」の研究などから、心理学界隈で著名な人物。精神分析学の創始者とも言われる。彼の何らかの理論は哲学や一部の科学などから評価がある。
*10…ドイツ語の複合語なので中黒 ・ を使わない。複合語成分の前半はギリシャ神話の人物オイディプースより。1910年の著作で造語が公表されたという。これも理論の概要だけ見ると奇怪ではあるが、理解したところで一時代–一地域の実務者–研究者が彼らの経験と思考とによって唱えた–補強したものに過ぎず、その外に通じづらいものと分かる。つまり、一部の事実(ギリシャ神話を含む)には当たるであろうと言いたい。臨床的に、何かしらの事実に対する判断で機能するとは考えづらい。日本の精神科医もとい精神分析学者(古澤平作1897–1968および小此木啓吾1930–2003)が反応して仏教の説話(詳細な時期は不明だがインドの史実として承認されるもの)にある阿闍世王 (Ajatashatru, ajātaśatru; ajātasattu) から「阿闍世コンプレックス」の学説(1931年または1932年の論文発祥?英語圏で"Two kinds of guilt feelings – The Ajase complex"などと名前が翻訳される)を示したものの、これはそもそも説話についての一知半解か誤解に基づいている *-1 。ドイツ語版Wikipedia - "Ajase-Komplex"記事oldid=181949372 ではDie Arbeiten zu diesem Thema sind besonders auch im Rahmen der Nihonjinron zu betrachten.と記される。いずれにせよ、精神分析学の過去の概念は今のその分野の人にとっても「特定の用途は有るとして日常的でない」というほどの価値ではなかろうか?
*11…1901–1981。彼ラカン氏はまた、ソーカル氏の批判対象の説を持つ。「人生は0が無理数であるような微積分学…、私が無理数と言う時、正確に虚数と呼ばれるものを指す」という趣旨の発言など、多く槍玉に挙げられた。彼はまた、恐らく、ソシュール氏が言語学の第一線から退いた後の「一般言語学講義」で示した「シニフィエとシニフィアン(所記と能記. cf. 小林英夫 訳. 一般言語学講義. 1972年. p. 97とされる)」 Fr: signifié et signifiant, En: signified and signifier といったことの応用を過ぎた濫用(順序をシニフィアンとシニフィエに変えることが特徴。式や図では上下の位置関係を変える。それぞれの学問の目的でソシュールは客体–客観を重んじ/ラカンは主体–主観を重んじたと解釈できる。日本語版Wikipedia記事oldid=69998772はソシュール概念を指しながらラカン流の順序に変えている)もある。先のエディプスコンプレックスに関する否定的な論者で精神分析学者のガタリ氏 Félix Guattari もまたラカン氏の弟子であった。
*12…日本語版Wikipedia - 『「知」の欺瞞』記事oldid=74915093 の「要約」節にある程度まとめられている。そこでの例示を含むいくつかの「極端な例」が 柳生, 孝昭. 20110921. で示される。[0]から[27]を数えて[42]があるので、数にして29挙げられる。
*13…日本語版Wikipedia - 『ソーカル事件』記事oldid=75209450 の『「知」の欺瞞』節に邦訳からのその説の引用がされて載っている。
*14…後続の話題に依拠する「噂話」になる。ただし、後世のインターネットにも同様の主張がしばしば見られるので、継承される?それらについてはここで示さないので、興味あらば調べよ。
*15…各地で宗教の信者による「聖典に依拠した過度な差別行為」はありえるので実例の列挙をしないでおくが、近年の著名な例を1つ示そう。2019年4月に「バングラデシュ Bangladesh の神学校 (madrasa/madrassa, Islamic school) の女子学生 (19) が複数の男子学生から集団リンチを受けた後に灯油で燃やされて重傷を負って4日後に病院で亡くなる」事件があった。2週間以上前、女子生徒が校長(男性?)から受けるセクハラについて告発/通報して校長は逮捕されていたものの、警察の保護が薄かった中で同年4月6日に試験のために学校に行ったことが直接原因である。政治家2人を含む16人が起訴された裁判で、同年10月24日に全員が死刑判決を下された。直ちにイスラム教の教義や聖典と関連しないし、彼らはその動機でなかったとしても、信者の多い風土で起こった事件として見たくなる。インドやバングラデシュなどアジア各地で女性の権利の主張の運動や抗議が強めに行われているようなので、この傾向も参考にされたい。cf., 英語版Wikipedia - "enwiki: Murder of Nusrat Jahan Rafi", BBC News - "Nusrat Jahan Rafi: Burned to death for reporting sexual harassment" および "Death penalty for 16 who set student on fire"
Many girls and young women in Bangladesh choose to keep their experiences of sexual harassment or abuse secret for fear of being shamed by society or their families. What made Nusrat Jahan different is that she didn't just speak out - she went to the police with the help of her family on the day the alleged abuse happened.
— Mir Sabbir. BBC. "Nusrat Jahan Rafi: Burned to death for reporting sexual harassment"より(実は日本語版もある)
*16…cultural relativism... 相対主義"relativism"といっても、先述のものとは異なる(近しくもあるか)。つまり、ソーカル氏ら正統的科学観に依る者が非難する対象としての相対主義は、世界の真理について相対主義であり、区別したほうがよいと思う。少なくとも、ソーカル氏自身は2008年11月22日付けのメールBeyond the Hoax からの自己引用で: (Chapter 3, p. 106) "and it's important to understand that this word is used commonly to refer to three very different things: cognitive relativism (that is, relativism about truth and knowledge); ethical or moral relativism (about what is good); and aesthetic relativism (about what is beautiful artistically).", (Chapter 6, p. 174) "Here we shall be concerned only with cognitive relativism and not with moral or aesthetic relativism, which raise very different issues." と語り、異なる相対主義ごとの慎重な扱いを促している。文化相対主義は、彼にとって"ethical or moral " 倫理–道徳相対主義に当たるのではないか、と私は思う。参考までに、彼およびブリクモン氏は1997年の共著で"Sapir–Whorf hypothesis" サピア=ウォーフの仮説という言語相対仮説について、厳密な意味や用法を加味しており (cf. Kristevaに対する注釈37, Latourに対する注釈127)、それ自体に批判を加えていなかった。
*17…仏も菩薩も人間のためには人間のための「言語活動」があり、ここでそれを「ことば」と呼ぶ。ソシュール的には"langage"か。"langue"と"parole"は、それぞれチョムスキー 1965の"linguistic competence"と"linguistic performance"の比較され、どちらもここでの意味と異なる。「まさしくブッダがお説きになったもの」として形而上学的な意味の推定をしたときの「ことば」は、何か高尚なものとして「人間のことばでない」と仏教徒に扱われている。仏と菩薩の他には神–ヤハウェとイエス・キリストさんも彼らの言葉として(モーセ–ダビデ–ヨハネらを介しても)聖書に記録されて3いるので、その限りで「同じ人間のことば」である。それらが宗教学 (religious studies) や解釈学 (hermeneutics) での研究対象になる。文献学 (philology) というと、元の記録の媒体など、更に物質的な扱い(ハード面)を持つ(書誌学 bibliography? 考古学 archaeology?)。これらは批判的–経験的–実証的 (critical, empirical, positivistic?) な性格が強い。
*18…本文で後掲の引用文リンク先のPDF文書に彼が物理学の課程のかたわら仏教に魅かれた経緯が説明される。そのPDFや2017年の講演の動画 (https://www.youtube.com/watch?v=PFSx6RAVmLU) では「男性初・お茶の水女子大学の『博士号(人文科学)』」という趣旨が示される(平成14年9月30日、web上の公式サイトでは彼が話す法政大学の王敏 ワン・ミン 氏も同じ名目–平成12年12月25日で載っている)。関係ないが、お茶の水女子大学については2020年度からトランスジェンダー transgender の人の女性である自己申告に依拠して女子と同じく入学を受け付けるという話で有名である。この学校は日本の中で「革新的」と考えられるか?

脚注の副

*1-11928–存命。ノーム・チョムスキー氏はポストモダニズムを頻繁に批判しており (12 無意味または意味不明で理解が困難といった趣旨あり。一例は"Some of the people in these cults I've met: Foucault; Lacan; Kristeva; and others. [...] I've dipped into what they write out of curiosity, but not very far, for reasons already mentioned: what I find is extremely pretentious, but on examination, a lot of it is simply illiterate, based on extraordinary misreading of texts that I know well, argument that is appalling in its casual lack of elementary self-criticism, lots of statements that are trivial or false; and a good deal of plain gibberish.")、アラン・ソーカル氏1997年の共著でも彼の意見は掲載されている。ところで、彼はその名前でニム・チンプスキー Nim Chimpsky (1973–2000) という個体チンパンジー chimpanzeeの由来になっている。言語学をはじめとする硬派で理性的な人文学が「無意味 nonsense」な思想家たちの「ファッション fashion」として捕らえられていたところをソーカル氏が救ったとすれば、「チョムスキー=チンパンジーのチンプスキーが解放されて喜ぶ光景」を想像する・・・、このような話が無意味に思われそうである
*1-2言語学もとい文法用語にも「パラダイム paradigm」という言葉が「語形変化の表」の意味で使われていたし (set of all inflectional forms of a word)、比較的古い用法はそれが主要であるが、ここでは故トーマス・クーン Thomas Kuhn (1922–1996) 著作 The Structure of Scientific Revolutions (1962, 第2版が参照されやすい?) から派生した用語のことである。その意味を言語学に用いることについては、筑波大学の池田潤教授の一般向け講義「言語学概論a」(動画あり)の説明を参照されたい。彼は 6-1 で:チャールズ・ホケット Charles F. Hockett 1965. の説としてブレークスルーが4つあった four major breakthroughs 、19世紀にパラダイムシフトがあった、と言う。後者は 6-3 で解説される。彼は先 5-3c で、20世紀にプロダクト研究からプロセス研究(認知言語学–神経言語学 cognitive linguistics, neurolinguistics を示唆する e.g., 言語認知における事象関連電位 ERP 測定: N400, P600)に転換するようなパラダイムシフトがあった、とも言う。彼の解説は非常に役立つと思う。たとえ彼の解説を知らない人が独自で調査しても、やはりトーマス・クーンが自然科学の歴史に関して提唱した「パラダイム・シフト paradigm shift」と似た現象が言語学にあったことを感じると思う。パラダイムシフトの後のニュートン力学と量子力学 (Newtonian mechanics and quantum mechanics) はどちらも大事であるように、それぞれの言語学はどちらも大事である。とはいえ、ポストモダニズムに近しい思想に言語(または言語哲学)を用いた理論があることまでは(○士号の学位と別に)、言語学のパラダイムシフトとみなすことに困難がある。しばしば「学際性 interdisciplinarity」や「文理融合」ということを言ったりして、専門分野の統合や無分野化(人類平等のようなもの)が言われるが、色々と慎重を期したほうがよい部分はある。
学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい12)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。
私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。 [...]
— 当ブログ2019-05-16記事『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』より
*3-1…心理学のうちのポジティブ心理学 positive psychology に"Losada line" (altpositivity ratio, Losada ratio; 後述の経緯からCritical positivity ratioと呼ばれるようになる。日本ではロサダの法則とも)という「世俗的な繁栄=職業的な成功の心理的状態のポジネガ比」がある。社会的な調査の結果の比 2.9013:1 に数学的手法…非線形動的モデル nonlinear dynamic model を借りて裏付けたものである。決定的に"Positive Affect and the Complex Dynamics of Human Flourishing" American Psychologist. 2005年10月; 60。このポジネガ比(ネガポジ比)についての日本での出版物は「バーバラ・フレドリクソン (Barbara Fredrickson, Losadaと共にこの主要な研究者)」の名で出された訳書「ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則 (2010年. ISBN 9784534047243)」がある。2013年、アラン・ソーカル氏を含む3人の研究者らは、この研究の数学的モデリング要素を批判し、フレドリクソン氏はその部分を公式に撤回した(一連の動きの主要な論文は全てアメリカ心理学会 APAの American Psychologist 誌から発表された)。The Losada ratio については、調査方法・統計方法(誰を–どんな精神性を–どんな活動を対象にしたか)の限りの数値が承認され、その数値に普遍性があるという根拠を持つことは無い。信じたい人が信じる。一般人のうちで、科学的なもの(偽科学–疑似科学を含む)に納得のしやすさの偏向のある人が用いるための「新手の運試し・おみくじ」である。たとえ路上生活のヨーガ行者で高度なシッディにある者が精神の幸福を得ていると自覚しても回答対象にされないし、多くの一般人はそういう幸福(精神的/外界の属性:健康・金銭・人間関係に依存しない意味での絶対的幸福)を視野に入れない。ポピュラーサイエンス (popular science 大衆科学–通俗科学) のフリンジ (fringe science, ここではジャンクサイエンス junk science だという人もいるような位置)に位置する。この種の心理学の研究者は彼ら自身の心理や知識を省みて/顧みていないかもしれない。そう思う私が、もし彼らの説に興味を持ったとしても、慎重に見て、「彼らが感性や信念を学問的な理論にするために感性や信念を用いる程度」を検分する。あるいは"7-38-55 rule" (Mehrabian, メラビアンの法則) を代表として、条件を限定する理論や学説がその意図を外れて世間一般に/俗に解釈されやすい分野であることに注意を要する。
*10-1有名な例として漢文のみある仏説観無量寿仏経 (T0365, 第12巻340頁) を参照。父王–頻婆娑羅が太子(王子)–阿闍世によって幽閉されている状態から始まる。父王の延命措置を取る夫人(母)–韋提希が、阿闍世の怒りに触れる。阿闍世は母を殺そうとし、臣下から「王位を望んで父を殺す王子は歴史上に多くいたが母を殺す王子はいない。むごすぎる」と諫言されて思いとどまっている。パーリ経蔵・長部2経 Sāmaññaphala Sutta(長阿含経「沙門果経」)では王位の簒奪の後の阿闍世王が亡き父の殺害を自認して釈尊(いわゆる仏–ブッダ Buddha)に懺悔するシーンがある。彼の名について漢訳の四分律 (T1428, 第22巻591頁c段) は「頻婆娑羅王の子づくりに貢献した仙人(婆羅門–バラモン)がいずれは王位を奪うと予言していたため(原文:當是王怨, 訓読:まさにこれ王の怨なるべし)」として夫婦が子に与えた名を「未生怨」と翻訳して記す。「怨」は訳語なので必ずしも怨みの感情を持っているという意味でなく、単に怨敵=敵対者(アジャセのセにあたる梵語シャトル śatru शत्रुMonier-Williamsは敵"an enemy, foe, rival"とする)の意味と解釈できるし仏教学者の大勢はそう。ただし、中国仏教で妙楽大師湛然をはじめとして伝統的に「怨みの感情」の立場で解釈する傾向にあった。阿闍世が最初から確実に怨みを持ち続けたのでなく、「釈尊に代わる新しい仏になりたがる提婆達多(Devadatta, 調達とも)」から神通力を見せられ、新しい王になるよう唆されたこと(頻婆娑羅は釈尊に帰依していたように王が仏に帰依して守護する関係性による)を大きい要因とする。左記の他に伝承は色々とある(cf. 永原, 智行 H23,; zh-wikisource: 佛學大辭典/阿闍世)。「阿闍世–未生怨」の名の解釈は「未だ怨みを生ぜず(梵語ajātaは過去受動分詞由来なのでこの解釈は原語に適用できない)」などと恣意的に色々と可能である。梵語でさえ「六合釈」の複合語解釈でアレコレ可能である。これらは学問的に複雑である。さて、当の心理学または精神分析学の人の誤解は「その予言によって妊娠している母(韋提希)も子(阿闍世)の生まれる前から怨みによる殺意を懐く」という点と「母が子の皮膚病を治した(実際の伝承は右記と反対→十誦律 T1435, 第23巻261頁c段 引用:母言。汝年小時手指生癰。受急苦痛晝夜不寐。汝父抱著膝上口含癰指。大王體軟汝得安睡。由口暖故。癰熟膿潰。大王心念。却指唾膿復増子苦。即隨咽膿。汝父作是難事願汝時放。王聞默然…)」という点である。日本語版・ドイツ語版・ブルガリア語版Wikipedia記事の情報は限定的なので英語のEncyclopedia.com - "Ajase Complex"を参照。古澤氏らの論文を参照したわけでない私は、彼らの学説は仮説 (hypothesis) としての成立さえできず、精神分析学のモデルとして機能することに疑問をも感じる。話が長くなった。デマカセから巧妙なものまで、どのようなデタラメでも、それを否定する論証には、それが発生する10倍のエネルギーが必要である、と誰かが言っていた。

 ??:その発言が示すものは「デタラメの方程式 a detarame equation」ですか?多分そうです。
 "...une équation détaramée? Peut-être que oui."






起草日: 20200109 (一部は20200106)

当記事は、当ブログの前回記事から派生して作られた。
元の記事の話題にとって、トリビア(トリヴィア trivia)的である注釈と思い、そこでは完全に除去せず、省略して掲載を維持した。
省略する以前の内容を拡張することで、この記事は作成された。

私のブログに作られる記事の話題は、専門家でない知的好奇心の強い私によるので非常に広いと思う。
確実に典拠に依拠するようにしつつ、自身の意見はそうであるものとして表明してもいる。
突飛に見える題名の記事もあるかもしれないが、多くは実際に今までの蓄積がある状態で過去記事との関連性が強くあると見込まれて執筆される。
しっかりと過去の事例と比較–参照がされなければ、学問は全体としても個人としても継続されづらいと思う。

物理学者たちは「巨人の肩に乗ること"standing on shoulders of giants"」とアイザック・ニュートンが言葉を発したような思想的伝統(特に発言経緯と指示対象に関する解釈が多様でも一つが選択される)を重んじる傾向にあり、ソーカル氏も Beyond the Hoax, p. 427 でその引用を混ぜながら歴史的な知識の相対性や進歩に関して語っていた。
何の学問分野でもよいので、若い人は研究史をしっかりと重んじて参照した方がよい。
この記事の題材は、複数の分野に親和性を持っていよう。
内容は、更に「自己批判を含む批判的思考による科学的な姿勢を持つ人文学もとい人文科学」に念を押している。
備考と注釈を含めてストーリーが色々とあるものの、多かれ少なかれ相互に関係しあうことを私が意図している。
引き合いに出された固有名詞の人々は2020年1月現在も多くがご存命であるし、私が何かしらの肴のように扱って申し訳なくも思う。

2019年4月以前の私の専攻分野である仏教学や言語学にとって「はた迷惑(傍迷惑)」な話が、意外とソーカル氏の批判対象の言説の近くに見られることが分かったと思う。
仏教学者や言語学者は基本的にこのことを語らないか、そもそも知らないと思われる。
仏教と言語の学習を志す人も、「悪い例」として学んでみてはいかがであろうか?
奇怪な言説でも「同じ人間」として「相手を理解してゆく」という態度で聞く努力を望むことがある。

心理学 psychology や精神分析学 psychoanalysis については、共同体の構成員に「欺瞞的」な側面が多いと思うので、科学としての扱いは慎重である。
同様の趣旨は18歳の時の2015-02-01記事にもある。
学問分野はそれ自体が先にあることが皆無で、「任意の事物を研究したいとする人がいることでその行為の対象と方法論があり、学問として成立する」とする場合、当然、いかなる成立した学問も完全に消し去ることはできないし、むやみに消す意味もない。
考えうるあらゆる可能性が排除されるべきでないことは当然であるが、やはりそれらに属する理論は「私にとって疎ましい」。
日本における煽情的な「文系・理系」議論についても、私は好まない。

やはり個人の尊厳と努力の精神と、身近な「困窮者(貧困や病気などで悩む人)」の救済が自発的に行われるようなこととで、平和と繁栄があればよく、神経科学の手法(データのバイアス bias に注意しつつ)以外の精神の「邪推」は望ましくない。
そうした時に悪いレッテル貼り–ラベリングによる「誰かが弱者とされてしかも抹殺されること」が無くなることを私は望む。
弱者は情報弱者も含めて、社会的に救済されるためだけに「弱者」と言われるべきである。
例えば、災害の時に情報を上手く得られないか誤った情報を受け取る人も情報弱者であろう。
一人の死者でさえ大事である、とは民主主義国家の政治家の信念でもある。
もし任意の弱者が弱者と認知されれば、すでに社会の相対性に位置していて社会的存在であり、論理や精神での抹殺は非人道的である。
いかなる人も抹殺されないための努力が、各々の可能な形でされねば平和に遠い。
私は救世主になれないが、この趣旨を心から言うことはできる。
とはいえ、この言明には多くの陥穽が伴うこと(利害関係)も注意しよう。
おおよそ科学と正義 justice については、ソーカル氏や、彼の立場をフォローしたチョムスキー氏や、"the wars"の説明をしたブラウン氏 James Robert Brown に共有されていよう。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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