2020年1月7日火曜日

ジェンダー研究の例示(宗教学・社会言語学・美学・文化研究から)

"The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics)"という動画の説明文の案から派生し、当記事では、2016年以降の私の:絵とジェンダー研究に相当する文章を例示する。
以下から、日本語の文を載せる。



2019-08-19記事『文明的な意味での「自由」や「不自由」を芸術・美術で表現する方法』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/53702023.html
紹介: 芸術についての記事であるものの、ジェンダーに関する話題が占める範囲は大きい。絵柄と絵の表現対象の人物(または動物)へ性の認知はいかがか?別の話題でJohn Milton の Areopagitica (1644) を引用した箇所には、当時の英語に性一致 (gender agreement) があったことを説明している。科学研究と雇用における性差に関する言及は2019-05-16記事からの引用あり。実は外部サイトで「女性の管理職」という典型的な話題についても2019年11月に説明することがあり、この記事で載せないが、「セクシャルハラスメントの事案は性の問題を含めて個々に多様なので個人主義的な判断基準が必要になる」という趣旨がある



 2019-02-03記事
この画像は同08-19,
同11-20にも掲載あり
2019-11-20記事『長い冬…? 絵の練習記事 (2018年12月~2019年8月分)』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/53489522.html
紹介: ジェンダーごとに期待される「美人(美男美女)」の容姿は:アート性 artisticity (辞書に載る用語でartistry, artisticness) の表象か?見た目に関わる差別、ルッキズム (sexism as lookism) か?(日本でいう)社会人のみがその批判 (criticism) を受けるか?



2019-09-10記事『言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/09/non-binary-expression.html
紹介: ジェンダー関連の英語に関する議論の現状(2019-03-05記事を参照)から、文法の性別=文法性 (grammatical gender) が無いエスペラント語/エスペラント Esperanto での代名詞・3人称 (pronoun, third-person) をめぐる修正 (reformo) についての報告。性別指示の形態 (e.g. 接尾辞 -ino, -iĉo) についても説明。および、文法性を持つ既存の言語(梵語やロマンス諸語 Brahmic languages and Romance languages)に関する考察。



Gender Studies or Cultural Studies?

Masculinity? Femininity? LGBT? Non-binary? (rhyming with words of 4 or 5 syllables)

原案: The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics).

横野真史によるイラスト作品についての注釈

 日本の創作界隈 *1 では、日本人(準じて世界中のファンたち)が思う可愛い少女 (cute girls, beautiful maiden, bishoujo, bishōjo) の外見のキャラクターが好まれ、それが多く題材にされやすい *2 。彼らには少女の外見についてそのような既成の観念があり、実在人物は男女を問わず憧れを懐くことが多い。何らかの美意識を持つ実在の女性や、美醜のコンプレックスが強い女性などには、それらを好ましく思わないかもしれない。または同調せざるを得ない方向になるかもしれない。私はあえて可愛い少女の外見のキャラクターを「女性的である (feminine)」とする必要性を感じないが、通念上、女性だと認知される外見をそう呼んでいたりもする *3 。性別の定義と別に、好きな題材や画風がある。他者への説明には、男女の典型的な区別を用いる方が直観的である。後述の仏教の話 *4 の通り、便宜的な区別のみであり、本質的にそうであることを言いたいわけでない。

 日本の創作界隈をフォローする海外のファンダム fandom は、彼らのスラング slang として「男の娘 otoko-no-ko」を「トラップ"trap"(罠)」と呼んでいる *5 。これは女性が女性である外見認識から来る性差別的用語 (sexist term) であろう。サブカルチャー subcultures (社会学や文化研究 cultural studies の脈絡の意味。アニメ系ポップカルチャーと混同しないこと)*6 は何であれ、差別主義的なスラングやジャーゴン jargon を用いる傾向にある点も、私が最近ことに興味を持つ点である。「ゲイ gay」という言葉 (too many definitions...) の現代的な派生は好例である *7 。日本のエロ文化 Ero subculture (adult as common, pornography; not to be confued with foreign "Hentai") においては「性的な魅力:巨乳 (huge/large) vs. 貧乳 (flat/small)」や「童貞と処女 (male virginity and female virginity)」も考えられる *8 。

 「好き嫌い」の精神が強い人々、優劣の価値観が強い人々こそがサブカルチャーを育んだように見える。そのようなサブカル日本人の間で2010年代には「サブカル系」・「サブカル女子」という用語が定着した *9 。それは学術的に受容されない。上記サブカルチャーの比較対象には日本の:鉄道文化、野球文化 *10 、釣り文化、パチンコ文化、麻雀文化、現代の飲酒文化 *11 などがあり (世界的には naturism/nudism, New Age, hackerhippie, hip-hop, Sci-Fi/SF fanなどが考えられる)、みな「文化」を「サブカルチャー」と置き換える方が好ましい。任意のサブカルチャーの外にいる人たちは、それらの専門性を受け入れづらい場合が多いものの、必ずしも「オタク・おたく otaku (または geek, nerd)」とは呼んでいない。属する個人や、サブカルチャーごとのそのサブカルチャーとしての性質"subculturality" (または subculturalisticity) の高低を考慮した方がよい。

 サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"*12 が:
 高いものほど、他者に対する当人の精神・価値観に適合した侮蔑の表現が用いられやすい *13 。自虐に関しても同じことになる。属する者が多様性を重視するようになることはあまり無い。また、分野全体の集団性(好例はスラングの単語数の多寡や使用頻度の程度 *14 分野についての個人が持つ帰属意識が高い。サブカルチャーは個々が主要な社会と区別される(逸脱しているが乖離はしていない。大河の支流から作られた水路とも *15)。しかし、高収入や高学歴をステータスにする傾向も見えるなど、社会 *16 や経済における差別性に依存するように見える。多くのサブカルチャーは出費が多いほど誇らしくあるので、それと同じ領域に高収入や高学歴が組み込まれやすい(加えて知識や才能の高低)。音楽業界や漫画–アニメ–ビデオゲームは商業・同人–インディーズを問わず、ファンが出費することがリスペクトの提示だとか *17 、分野の発展に寄与することだとかと評価されやすい *18 。
 低いものほど、分野全体の集団性や分野についての個人が持つ帰属意識が低い。人によっては社会学でいう「左翼 left-wing, leftist」の理性的・リベラル的な側面 (rationalism, liberalism) が重んじられやすい(各個人の政治での自負を指さない。自称リベラルも正当にリベラルであると限らないことに同じ *19)。私(筆者)は左翼や右翼の真に良い側面を尊重する中道であると自負する。そして、サブカルチャーは何であれ、私にとってなじみづらいものであり、関心を持っても長居できない。

 今の結論では、人間の生命の平等の尊厳は、サブカルチャーにおいて通用しない場合が多い。サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"は、そのように対比される主流の文化 mainstream culture や社会 society の尺度(ものさし)*20 が前提にあることで、利用可能になる。どのような地域・文明 *21 の下にローカライズされた localized 多種多様のサブカルチャーがあっても、サブカルチャー属性・サブカルチャー性が普遍的–ユニバーサル universal である、と私は理解した。つまり、サブカルチャー属性の高い彼らは、それほどの深さで「夢中」である。差別の解消方法というものは、宗教的方法論を重んじる私であるが、様々な事例の科学的な分析から原因を追究した後に求めることもよいと思う。宗教的方法論で欲望の奔放さを急進的に対治するか *22、学校教育の改革で幼少期から科学的思考と自己の尊厳についての道徳を与えるか。私は他者を変えさせる意図を持たないので、この点について真面目に取り合おうと思わない。いつもの帰結として「自覚のある個人が自ら変えること *23」となる。



ここまでの注釈

*1…英語で creative scene in Japan と呼ぶつもりでいる。creative は形容詞 adj. でも名詞 n. でも解釈できる。代替表現に n. creation (創造、創作) でも構わないが、任意の作品における「天地創造の場面–シーン(特に一神教)」で解釈されがちである。n. creationist に至っては「創造論者」の意味になる。n. creativist は辞書に無い。他に n. creator, n. creativity でもよい。「シーン scene」とは、ここで独特なニュアンスを秘めた「界隈」を意味する(後述の「サブカルチャー」の代替表現)。創作行為の種類が多岐に渡ると思う時は creative scenes とも。何らかの分野の:それがローカルな立場として in Japan と呼ぶか、固有の特性として the [...] of Japan と呼ぶかは、ここで前者を選ぶ。彼らの価値 (value) を標榜するキーワードは、ずばり「クリエイティブ kurieitibu」と「クリエイター」である。これら形容詞・名詞・前置詞句について理解を示したが、定冠詞 (the) の有無や複数形標示 (-s) の有無など、出だしのために、どうにでもなりそうな文脈に見える。
*2女性を引き合いに出すので、反対に男性キャラクター–男子が題材であっても同様。大衆的なイラスト (イラストレーション illustration) が、音楽作品(特に歌詞 lyrics やミュージックビデオ music video)や映画–ドラマ–演劇 (film or movie, drama, performing arts) などと、同一の「とあるカテゴリ」に加えられる。社会の中のメディア media 領域として見た場合、「老若男女(特に児童と青少年)から各宗教の厳格な信仰を持つ者まで多くの人が見るものなので、道徳–モラル morality を重んじよ/性的特徴–セクシュアリティ sexuality を控えよ」、という論調が世間の一部にある。広い芸術分野の作品 (artwork, アート art 思想的表現全般に関するもの) として見た場合、「自由 (freedom) の範疇によって尊重されるべきだ(直ちに有害なものでない/想像力–創造力を萎縮させるべきでない)」という論調が世間の一部にある。私は中庸–中道の人なのでどちらも正しい側面がある、としか言えない。これらは、学問でいうとメディア研究 (media studies) や美学 (aesthetics) に関わってくる。それぞれの論調に見るように、ジェンダー研究(現状の性的少数者–マイノリティ sexual minority を含む)と問題意識が共有されやすい分野は前者にある。無論、それらの主張が出発点にあっても、研究の姿勢と理論の構築が「社会科学 (social science)」の目的に基づく場合、中立的であらねばならない *-1。イラストの話題について日本と欧米の差異の簡単な説明しよう。いわゆる人間(humanity, 衣服をまとう個体 individuals of  ヒト属ヒト Homo sapiens sapiens)を題材にする問題性が強い風潮で、人間的な表情と歩行を備えた他の哺乳類 (mammals) の動物 (animal, 価値観や自由意思を持たないと扱われる。比較的に恣意的なエロ/グロ表現が可能だと人々が思っている。日本でビデオゲームの:GTAシリーズがCERO Z指定なのに対して架空の動物のリアルな動作–狩猟–切断を伴うモンハン・シリーズはCERO C指定なことも似た例) によるファーリー furry が自然と育つものがWW2以降の欧米にあろう(cf. 1900年以前の絵画)。
*-1…研究の対象/客体 (objects) は本質的に優劣/善悪を問えない (an object の存在自体が無数の要因の副産物で幻に等しい)。2019-05-16記事での科学哲学についての私の説明が関連する。ジェンダー研究に関して言えば、20世紀のフェミニズム feminism に関わる者を含むポストモダン postmodernism 系の学者らの研究内容はアラン・ソーカル Alan Sokal らに指弾されたことが有名である。「E = mc2 は性化された方程式 sexed equation ですか?たぶんそうです(後略)」が著名な例であるが、この詳細は別稿にあずける。私はジェンダーに関連する研究領域を卑下したいのではなく、「人文科学 (human/humanitarian/humanistic science)」・「社会科学 (social science)」として注意を保って行えば、学問の進展として作用することを言いたい(最初から女・男のどちらかを優遇したい人々にとってもそうかどうか)。
*3…例えば、一般的に日本の創作界隈で、ひげ・ヒゲは何であれ (mustache and beard)、男性固有とみなされている。女性キャラの絵では、せいぜい探偵・紳士・仙人・学者などの変装–仮装–コスプレや一部のサンタコス (costume/cosplay of Santa Claus) の雰囲気を出すため、「つけひげ(付け髭)」がその目的で描かれるに過ぎない。それら女性キャラが同一人物で描かれる他の絵では、当然、ヒゲの描写が無い。私は萌え系の絵柄で自画像を描く際に私のヒゲを描くこと (e.g., 絵2016-07-19絵2017-01-06, 絵2019-12-14一公開例)に抵抗が無い。私本人のヒゲは成年男性として薄い。人々の思う女性的な外見にヒゲがあるという自画像は、人々の認知的カテゴリー (cognitive category) に反するかもしれない。単純にステレオタイプ stereotype が破られることである。感覚器官で分かる/観測可能な事実に少しずつ近づける努力(無数な例と反例とを知って中性化すること。努力の形式的完了は無い)は、文化面での差別全般の解消の近道である。何も二本足の動物やロボットやドロドロとしたクリーチャーを人間と呼ぶことが革命的であると言わない。そして私も運動に与するつもりで創作活動をしているわけでなく、本文の通り、好きだという気持ちでただ人生の一部の時間を捧げているに過ぎない。なので、多くの分野を渡り歩く(故郷・埼玉県から離れて愛知県豊橋市から9年間一歩も出ずに)。
*4…上座部や大乗の仏教経典と「萌えの典籍」から、ジェンダーにかかわる教説が示される。2019年以前に私が見聞したり、作成した物事である。ジェンダー研究(ジェンダー論)そのものでない。
*5…cf., 英語版Wiktionary - trap (n. definition 20 and 21), Wiki in Danbooru - otoko_no_ko. quote: English-speaking fandom has traditionally used the word "trap" for this concept. Due to the negative implications of the term and its history (which 男の娘 largely does not share) as well as the term's ambiguity in English [...]. 男性器のある人間は女性器のある人間のみを性的対象とせよ、という保守性である。女装する実在人物であれ架空キャラクターの作者であれ、人を騙す意図で女装している者は多くない。もしそれを見る誰かが「罠だ!はめられた!」と感じても(コメディ映画 comedy film, movie, drama ならばともかく)、その表現が定着するような文化性が欧米にあることは、何か日本と異なりながら似た部分も感じられた。たとえ日本では「男の娘」と女装する者の意思を助けるまたは当人による形容を受け入れることがあっても、各地には各地の差別意識が残っていることを注意する必要がある。「欲望(衝動性と悪い意味での自己保身を含む。人間に欲望が強いときは他人の意思を汲む度量が減る)」の強さを抑えることが難しくとも、理性の剣があれば差別の表面的解消が可能である。根本的解決には宗教的方法論が必要だが、説明を別にあずける。
*6…「下位文化・副文化・亜文化」とも訳される「サブカルチャー subculture」の意味の理解には、まずそれに対比される「文化=カルチャー culture (主流なものを指す。レトロニム: mainstream culture)」を知る必要がある。「文化」は多義的であるうち、考古学的な遺物や遺跡に依存して仮想される学問的概念 (e.g. Yamnaya culture = pit grave culture ヤムナ文化、 *-1) を含む。ここで「サブカルチャー」は大衆文化 popular culture に属するものと、それ以外とがある。生活習慣や生活様式 lifestyle に関わる側面もある。他に、専門性のある点で職業や宗教に比較できるが、区別されるべき相違点がある。いずれにせよ、文化研究–カルチュラル・スタディーズ cultural studies には用語の適用が困難な研究対象 (objects) が多い点で、注意されたい。つまり、曖昧さが高い。本文に括弧で「アニメ系ポップカルチャー pop culture = popular culture と混同しないこと」と記した。結局のところ、アニメ(ここでは英語のAnimeに限らずanimation, cartoon全般)に関する各種業界は主流な社会に属する部分と、ファンの界隈の一部に見られる特殊な部分とが有るので、サブカルチャーの側面の有無が言われるものである *-2。アニメ作品は他のジャンルもあるような映画 (films) またはTV番組 (television programs) を大衆的ソース (source) とする。一般的なファンの場合、日本でも欧米でもアジアでも「幼少期に視聴していた作品が好き/子供に見せる作品が好き」という程度で、作品のグッズを買う場合もあるが、これは主流な社会の消費的コンテンツがある/経済的行為があるに過ぎない。クリエイターとされる人で、1980年代でも2010年代でも一般的な企業で主流に近いコンテンツを出す人が、裏の顔でアンダーグラウンドな活動を持つ場合もある。後述の「サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"」の話が重要になる。
*-1…キクラデス文明などは文明 civilization と文化 culture のどちらもあるし、ドイツ語のインダス文明も Indus-Zivilisation と Kultur のどちらもあるので定義が不明瞭。多くの場合はよく聞く呼称に乗るしかない。
*-2…多かれ少なかれ、海外にいる日本アニメ (Anime) ファンダムの人々もそのようなものを the "subculture" のように言っているように見える。アニメ作品には字幕"sub"を付けるファン文化行為がある(fansub; 2010年代からは行為の対象として東アジアのミュージックビデオ全般に共通するインドやヨーロッパの音楽・映画の作品にそういうのがあまり見られないことは公式コンテンツの有無によるか不明。ファン翻訳の言語的批評はAbé Mark Nornes, 1999年 "For an Abusive Subtitling", 山本直樹 訳「悪態的字幕のために」がある)。この"sub"は英単語サブタイトル subtitle からの略語であるが、語感についての認知的な作用を持っている、と私は感じる。語句に伴う sub- 自体はラテン語の前置詞(意味:~の下に、など)に由来する接頭辞に過ぎないが、そのような語源認識を彼らは持っているかどうか?"subtitle subculture"と便宜的に呼称できるそれは、80年代から海賊版VHSの流通を伴うアンダーグラウンドな界隈として発生・成長し、公式な字幕コンテンツの整備–流通がITを通したデジタルデータで普及しつつある2019年現在もアイデンティティはともかく生存している。任意の作品の情報に:各地の言語で字幕を付けたり(元は無い語句や文章の挿入を指す)、セリフを変更すること (マンガの吹き出しなど。scanlation とは別にジョーク joke として) などは非常にミーム meme の活性化を促進する間で使用される。
*7…cf., 英語版Wiktionary - gay (especially adj. definition 5-2 as slang, derogatory), 一用法で「ださい・かっこ悪い」を意味する。これも"trap"と同じで普通の英語学習者にとって奇怪な英語の用法に見える。あらゆる英単語の「近年に定着した奇怪な用法(承認されたスラング的用法)」の中で、なじみづらい・容認しづらい代表格ではないか?古典的な"joyful, cheerful; v. to make happy or cheerful"の意味はどこへやら?私がたまたま見たもので、シェイクスピアの詩でも、仏教翻訳書 (e.g. Cowell, E.B. 1927. quote: Her arm gay with a white shell...) でも見られていた。古典的にゲイガール"gay girl"はカテゴリーの認知的エラー (cognitive error, cognitive fallacy) にならないが、現代英語話者ならばどう感じるか?
*8…それらの性的特徴に関するレッテル貼り–ラベリング labeling は、私が世間の言説を例示するまでもなく、意図されるものが想起できると思う。見た目に適合するラベリングもあれば、推定の方法に文章や行動からの心理の邪推を用いるものもあるが、主流な社会で行うには「政治的な公平さ」の観点で望ましくない。端的に言えば「嫌がる人が多い」か「嫌がる心を封印せざるを得ない」。しかし、雑誌やTVのようなメディアが煽ったり育んできたような歴史もあり(断定的でなく詳細な調査を要する)、エロ文化は社会的な部分も大きい。ところで、日本語版Wikipedia - 性的対象化という記事は2019年5月以前の版で「主な出来事の時系列」節へ大量に「性的対象化/客体化 sexual objectification」に関連する例が追加された。これはWikipediaの「フリー百科事典の目的 (cf. WP:5P)」と相違する「雑多な内容 (trivia sections)」に見えるが、参考までに閲覧してもよかろう。Twitterなどで運動家らが「炎上した」などと取り沙汰された例が多く挙げられる。「炎上 (enjō, flaming)」の定量的な (quantitative) 基準は相変わらず不明だが、世間ではそう言われる事象が起こるという。攻撃する側の意図するものと、攻撃される側とがおり、何が誰の人権侵害になるかを別に、企業が「性の商品化」とやり玉に挙げられることをする頻度は、どんどんフェードアウトするかと。
*9…用法や発生経緯を詳しく存じ上げないが、アニメ系ポップカルチャーに制約されやすい。侮蔑的な用法が多かったろう。次に、「サブカル○ソ女 sabukaru-kuso-onna」には、眉をひそめる。その謎めいた語句の起源と原意とその用法が何であれ、日本には慣用句としてそれが定着する土壌がある。「悪く言えば欧米の人々よりも『子供・おこちゃま・ガキンチョ』と形容されるべき日本人に、付ける薬は無い」とするのでなく、文化的な庇護が必要だと感じた。私は「オーストラリア政府はアボリジニ aboriginal, indigenous Australians とその文化を擁護する。台湾原住民/先住民は英語で Taiwanese aborigines という。日本人はある種のアボリジニ (Japanese aborigines) として文化が世界から尊重されるべきではないか?リベラルの風潮は日本に定着しえないし、今までの50年がそうだった」と2019年の数ヶ月間ほど思っていた。人権尊重などについて日本人の理解はどれほど高いか?性差別は、文化や雇用などの領域において解消の余地がない。好きなようにさせるので、日本人がどう生きたり死んだりしても問題は無いと、私は思っていた。大衆の無節操な気質は変わりづらい。しかし、日本人はまた苦汁を嘗めて自省による再出発の機会が与えられることを私は望む。生い立ちの異なる多くの民衆に精神修養を行わせることは不可能なので説明しない。
*10…一例で、日本の2ちゃんねる–なんJで隆盛した「~で打線組んだ」というネタ–ミームの元になる野球の打線についての感覚は、少し野球観戦しただけの一般人にとって詳細な意味が直感的でない。スポーツの競技 *-1 ごとに、このような性質–専門性の高低や濃淡を一般人は感じると思う。
*-1…スポーツについては、国籍–ナショナリティ nationality が人々の旗印であるため、大概は人々の印象が中性化されている。ナショナリティに基づく応援は万国共通(国は人々の精神的国土の意味でもある)。しかし、2019年には日本開催のラグビーW杯 (2019 Rugby World Cup) に関して「にわかファン niwaka-fan」という言葉が強く議論されたとされる(cf., 2019年11月6日発表の新語・流行語大賞ノミネートの一つ)。2015-12-10記事に18歳の私は:
世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない(中略)人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(中略)その時その時で特定のスポーツ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無く、子供の方が伸びしろの広さで優れているくらいだと私は見ている。子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何ら知性のない人間としか見られず。私の信念から来る感情が、そう否定的に向かせるのであるが、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。特定のスポーツ観戦などであれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私が濫りに批判すべき事象でないかもしれない。
…と記した。サブカルチャー界隈に聞かれやすい用語「にわかファン」をめぐってかつてないほど人々が騒ぐまでもなく、その種の話題に関与したくないと2015年18歳当時でも思う。サブカルチャー領域に自由主義–リベラリズムの概念が定着しづらいことが2019年現在でも分かりやすい。
*11…飲酒 (drinking, drunk) に関する文化性は、食文化と一部の社会現象のうちであって生活様式の性質が強いと思われるかもしれない。比較対象に、喫茶(茶道の抹茶や紅茶を含む)文化や喫煙 (smoking, 愛煙家 smoker) 文化や麻薬などのドラッグ系の文化を考える。彼らは各々の行為に適した道具を好み、場合によって専門用語の多寡(種類や頻度が多いか少ないか)がある。世界規模で見て、現代の法律や、違法である場合の流通量に依存する面が強いことなど、主流な社会との関係性が強いので、捉えることは難しい。更に、酒の愛好家たちは個人または酒抜きでも親密な身内で楽しむか、別の集会に酒を用意するだけで愛好家間の集団性が低い(わずかな反例でソムリエ的な人がいる)ので、一般的なサブカルチャーに似ない。その集団性が低いときは、他のいわゆるサブカルと競合することも多くない(例えば成年のアニメファンたちに飲酒する人は多いという私の観測がある。別の社会的意見で飲酒する人でも単にタバコの副流煙を嫌うなどはサブカルチャー間の競合と言わない)。
*12…サブカルチャー属性・サブカルチャー性(サブカル属性・サブカル性)と併記して紛らわしいので、便宜的な区別を与えよう。サブカルチャー属性を個人に当てて"subculturalisticity"とし、サブカルチャー性を分野に当てて"subculturality"とする。前者の英語名が長い(8音節)と思われるならば"subculturality"だけを使うこともできる。個人 (individuals) の定義はともかく、分野 (fields) の定義と事物への認定も主観的で曖昧ではあるが、それは別の話である。なぜならば世間の多くの文脈が個人と分野を曖昧に特定して呼称しており、私はその検分の役目を負っていない。個人サブカルチャー属性の高さ(濃さ)の認知から、日本の人々は「-ファン」・「-サポ(サポーターの略)」・「-民(みん)」と呼んだり、侮蔑的に「-オタ(オタクの略)」・「-豚(ぶた)」・「-厨」・「-信者」と呼んだりするようになると考えること(これらは状況に応じて比較的やさしい表現にされやすい)も可能である。一昔前 (2008–2012?) の「ギャルとオタクの類似点–親和性(gyaru, 見た目に関してギャルメイクのみの poseur や単に若いガール girl を含むなど比較的広い指示対象を持つがこの限りでない)」に関する世間での議論も、サブカルチャー属性を示唆するものと解釈できる。
*13…現代の商業的な文明の下で、どういう思想・哲学・歴史を知っても、サブカルチャー属性が高い人は自身の言語表現について、あらゆる差別 (discrimination) に関わることを配慮しない。サブカルチャー属性が高い人は他者の道具を「使える (useful)」とか「使えない (useless, trash, waste)」と品定めする。他者の才能の高低を鑑定する。ビデオゲーム界隈を例に取ると、どういうコントローラー(PCゲームでのキーボードまたはパッド)を使うとか、マシンスペックだとかについて、使う他プレイヤーに侮蔑的な評価ができれば、サブカルチャー属性が高い。下手とされる他プレイヤーに"noob, idiot"と侮蔑的な評価ができれば、サブカルチャー属性が高い。このように考えられる。サブカルチャーとされる分野に属する人々は往々にしてこの傾向を持ち、現代文明やそれぞれの国家・社会の下でも普通の構成員である顔をしている時よりも発現しやすい *-1 。つまり、普段は頭をペコペコする企業の従業員の顔であっても、サブカルチャーに属する時はこの傾向が出やすい。人の道具や才能などは個人の問題であって、相手が求めるなどの社会的要請や親密な関係にあるなどの精神的環境が無い限りは干渉すべきでないことが現代文明の個人主義的な特徴であって多様性の尊重がされるはずなので、サブカルチャー属性の高さはその反対を向いている。
*-1…これらの傾向は、更にそれがどれほどの匿名性 (anonymity) を高く持つインターネット上の一領域であるかによっても、かなり変動する。スポーツ会場での観戦におけるブーイング booing, boo が比較できる。サブカルチャーのコミュニティはweb上のBBSやフォーラム forum が土壌である点も考慮される。単に任意の個人の攻撃的な精神的傾向 (aggressiveness) が、突発的な条件で現れることや、私的な領域 (private space, privacy) に制限されることなどの検討は、心理学の領分なので関係ない。
*14…こうなると言語的事項に束縛された研究のようである。反例として任意のアフリカの部族は必ずしも言語コミュニケーション verbal communication に依存しないと言われることがある。しかし、具体的な発現を観測するために、コーパス言語学の方法論を借りた文化研究は、その言語的側面・社会性に限って高い効力を発揮すると思うので、まずここを切り拓くことが手っ取り早い。私が方法論を示すべきでないが、言語的文化領域に介在したサブカルチャー(これは他の言語的文化領域に共有されるのでここでは同一言語のバージョンのみ)の「スラングの単語数の多寡や使用頻度の程度」を調べることになる。情報技術の力の併用が望まれる。ただしビッグデータ的にサンプル量が多くある必要も無いと思う(サブカルチャーを始めとした文化の多くは形式的・定量的な定義ができないため。主観的な意見は学者個人の見解だと分かる形であれば問題ない)。民間–DIYの領域で、既にTwitter投稿物などを対象として似たような研究がされていると思う。
*15…社会の規範に必ずしも合わせる必要を持たないなど独自の倫理観が通用する点で、「逸脱 deviance」は研究初期(1970年代以前)の典型的なサブカルチャーの判断基準にされた。当然、サブカル性の高低を言う立場では、それも程度の差がある。露骨な反抗を伴う/記号的な表示をする場合はカウンターカルチャー counterculture という。次に、比喩で説かれる「大河-支流-水路」とは?主流文化=大河に様々な業界–分野–階級など支流があることは当然とした上で、水路またはその岸がサブカルチャーに当たる。大概はサブカルチャーに属する人々がそれで収入を得るなどしないが、一部は活動を収益化したり、実際の職業にする者もいる。そのようにサブカルチャーのフォロワーなのかリーダーなのかは個人差がある。相互作用・双方向でもありうる。リーダーである度合いは、高いほど大河-支流-水路のうち、支流から分かれた水路の付け根に近い傾向がある。単に世間の職業に従事する側面を持つ個人(芸能人やタレントや作曲家やIT技術者や経営者など)が、そのままサブカルのリーダーの側面を持っていることもある。スポーツにおけるスポーツ選手・アスリートや鉄道における乗務員・開発者 (players and athletes in sports, workers/engineers of railway) などを見ると、先にプロフェッショナルの人がいることは明白である。ただし、「任意の分野の独自性が強まる以前の開拓者・先駆者とされる人々は境界的であり、大概その分野の人でない」ということは別の話である。
*16…社会的に優れている自信を持ちたいならば、サブカルチャー志向や議論に傾注せず、無骨に労働・社会貢献・奉仕・慈善・育児をして他者や特定の社会層を侮蔑しなければ、私も「それだけの人」として称賛できるが、そういうわけでもないらしい。ところで、普通のホワイトカラー white-collar の会社員はそれ自体がサブカルチャーであると見ることは妥当か?そうでない。日本に飲み会 nomikai などがあることは、せいぜい日本の現代化された風習 (modernized traditon of Japan, 宴 utage ・酌み交わす云々の延長) であるし、若手や社会進出の女性たちなどが1980年以前に生まれた男性たちよりも酒・タバコを好まない傾向を持つので嫌がらせの一種・パワーハラスメント power harassment と考慮されやすい (cf., BBC: Japan's workplaces rethink 'drinking with the boss'. By Virginia Harrison)。良い側面だけ保たれればよさそうだが、酔った後の稀な暴行や性犯罪を防止するためなどで、ここ数年は飲み会を無くそうとする意見が高まっている。他のサブカルチャーとの大きな違いは、職業的目的で行われる点と、必ずしもその文化性が関係者の間で好まれない点とである。彼らが精神的に気にするものについての用語(ストレス・セクハラ・パワハラなど。敬語や社交辞令もあるか)も、サブカルチャーでの目的と異なるようである。労働者は労働者で、昔には、各地の民謡–フォークソング–労働歌を作ったとされる。これらも労働サブカルまたは民謡サブカルと呼ばない。サブカルチャー性の低さとは、そのように任意の分野が文明・文化の他の領域との関係性が強かったり、個人にとっても利害関係が深く結びついているものとも言える。そういうものは、サブカルチャーっぽくないと文化研究者も判断するであろう。
*17…cf., 過去記事2015-12-10 引用「一部の現代日本人は、芸能などカルト的に熱狂することもあり、どこどこのチャートで上位を取りたいグループの方策に乗せられて一人でCDを何千枚も買うことは、即物的利益の信仰ともいえ、事実ライブだか握手会・サイン会だかで会う・触れられるならば有難すぎるのであろう。また、何らかの作品や作者などへのリスペクト意識が高いという人は、金銭拠出・正規購入という形でこそリスペクト意識(敬意)の印になるとの即物的観念論を垂れるが、単なる商業主義・搾取のカモか」、過去記事2016-05-22 引用「即物的リスペクト意識」。経済学は私の好みでないが、それを好む人はそういう見地での文化研究も可能か(大学にいる研究者が学生を対象に出費に関して調査するなど)と思う。サブカルチャー性についての証明や反証には色々な切り口があるはずであり、本文に含意がある。
*18…本来大事なはずの愛する心の尊厳(自他の心の尊重)は、考慮されづらい気がする。貧困地域において食品の盗人–泥棒を集団リンチすることに等しい傾向がサブカルチャーに見られる。この点が解消されるほどサブカルチャーは主流な社会と混じり/交わりやすくもなろうが、私がすべき議論でない。サブカルチャーはサブカルチャーのままでよい。
*19…政治・イデオロギーにもサブカルチャー性の高低が見られる。政治サブカルチャーの政治ファン(political subcultures or cults, 日本のネット右翼・ネット左翼に限らず世界的にも多かろう)においては党派性がサブカルチャー性に近似する。「リベラル liberals」・「ネオナチ Neo-Nazi」・「ネトウヨ Netto-uyokuNetouyo」といったラベル labels が、使用者の悪意によって歪められたり汚されたりしていて理性的・科学的な使用が少ないことは遺憾である。ここでの「科学的 scientific」は理性的に rationally, rational 実践されるものとしての社会科学 (social science) のことである。科学哲学についての私の記事 (2019-05-16) も参照されたい。政治サブカルの執着で、そういう感情的用法もある。専門用語さえ固定的・形式的な意味で用いられなくなる。左翼に関しては本来、科学的・理性的なものであって分野の差別や思想の隔たり自体が優劣にならないことを念頭に置くはずである。人間社会は理性と感性に代表される二項対立の一方のみに偏っては危機に陥るので、相克する限りに左翼と右翼に双方の価値があるし、誰でも両方の側面を持っている。それが悪い形で左翼的であったり、右翼的であったりする人がいるだけである。闘争に陶酔する人々が、別の個人の価値を自ら育ててゆくという考えがあるかどうか。その考えが基盤であって方法論や目標は人それぞれであることと、文明の維持・発展の近道になることを覚えているかどうか。
*20…いくつもの尺度(ものさし–メジャー measure)を以てしても、解決しづらい事項は「文化盗用 cultural appropriation」である。白人"white"が:黒人ヒップホップをまねることは"wigger"か?和服–着物 kimono を着ることは"weeaboo, wapanese"か?それらは軽蔑の表現であっても、似た趣旨で深刻な非難は世間にあろう。その尺度がはっきりとしない。現代文明は、片や意思による自由な表現・行動が許されている(白人にカテゴライズされるものとしてのロシア人 Russian がスカンジナビア・北欧文化 Scandinavian, Norse culture やケルト文化 Celtic culture を好いて仮装などをし・発音と文字を模倣して音楽活動してもヨーロッパで非難を受けない)上で、異文化の使用は消極的になる。文化に関するものは感傷的–センチメンタル sentimental, 感情的–センシティブ sensitive, センセーショナル sensational な基準が容れられやすい。異文化の使用は前提と方法と状況が少しでも悪いと「文化盗用」という非難を受ける恐れがある。文化は接触を繰り返す(ことで成立している原因の側面がある)という「定理 (らしいが詳細不明。assimilation, homogenizationの前提を指す)」があるが、今ある文化のうちで民族のアイデンティティに関わるものは少数のみ残すべき *-1 と言いたいか?これは現代的文化研究の難関の一つである。少なくとも、現代の仏教教団では、白人出家者がその宗教的目的で禅僧の直綴 (jikitotsu, 宋朝に伝わる。作務衣は農作業など。他の禅の衣服 rakusu などと呼ばれるが何が一般的なものか不明) や上座部仏教の袈裟(律にある三衣)をまとうことが問題視されないので、ファッション業界と異なる目線がある。
*-1…私のメモ帳ブログにおいて、文化研究の脈絡の記事は学問的見地で存在していなかった。「文化相対主義 cultural relativism」は、文化研究もとい文化人類学 (cultural anthropology) で重要な概念または規範となっている。参考までに、その簡単な説明をする。新年と文化相対主義:日本の新年(Japanese New Year おせち料理・年賀状・天皇新年一般参賀・寺社への参拝を含む)は旧暦の行事を新暦(グレゴリオ暦 Gregorian calendar)で用いるので、「アジア各地の旧暦による新年–正月–春節 (Lunar New Year, Lunisolar New Year)」と「春分によるイラン系文化の新年–ノウルーズ–ネウロズ (Nowruz, Newroz)」と「ユダヤ新年祭–ローシュ・ハッシャーナー (Rosh Hashanah, Jewish New Year, おせちのような縁起物を食べる)」に比べて折衷的である。日本とその他とで、相互の優劣を求めて吹聴することは学問的に推奨されない。何かしらの前提で、何かしらの度合いを見出すことは比較 (comparison) の方法で可能である。一方が他方よりも保守的または革新的に見える、という判断をしつつ、更に原因–背景–環境などを探るように知的好奇心での学者の研究がある。結論に「文化ごとの差異は結果論。多様性 diversity です」と言っても個人の意見として構わないが、結論ありきの研究は好まれない。自然科学から宇宙や生命の「不思議」を無くするように、文化の「不思議」を無くするならば、異文化や他者の意思に対する尊重も可能性が広がるかもしれない。現代文明の「理想」の一つに当たる。しかし、我が身の危機になる天災や人災を完璧に予防できることは考えられない。そうした時、悪魔を退治する宗教の力も、人間が選択肢として欠かすことはできない。
*21…すでに見てきた通り、日本と欧米は日本人にとって対比しやすい例である。1970年代以降に毛沢東主義を半ば放棄した中国は、日本と似て非なる地域特性を持つ。他のアジア東部(韓国・台湾・香港・シンガポール・モンゴル・フィリピン・タイ・ベトナム・インドネシア)とソ連崩壊以前からのロシアは、それぞれと似た部分を併せ持つ。これらが1980年代以降で日本発祥のサブカルチャーがローカライズされる。同様に、日本でも欧米のパンク・ロック punk rock やヘヴィメタル heavy metal のファン文化の受容と定着とがあるようなローカライズがある。ローカライズされると、本土(発祥の地域または伝来元 e.g. 日本仏教でいうインドと中国)に無い用語・概念が発生する場合 (e.g. 日本におけるHR/HMという呼称 *-1) や、すぐに廃れた用語・概念が長く定着する場合もあるが、ここでの考察対象でない。ナショナリズムやマイノリティの強い国家・地域では、日本発祥のサブカルチャーが定着しづらい。確かに少数民族やかつての被支配者であれば彼らの伝統の保持や士気の維持で精一杯の場合もあり、僅かな余裕のある人や知識人らしい人のみが外来の文化について学んで僅かに取り込むほうがよかったりする。少数民族(特に部族 tribes. 現代の国家の方針に従って伝統が変えられる程度が異なる)の伝統に、文明的な民主主義や自由–リベラルのメソッドを組み込むことは忌避されやすい。
*-1…日本ではヘヴィメタル(ヘビメタ)の普及の経緯に、ハードロック hard rock との同一視や同等に扱うことでの便利さがあったかもしれない。欧米の音楽シーンでハードロックは一時期の特徴について言われやすく、サブカルチャーの要素を強く持つものをヘヴィメタルとのみ呼ぶ。パンク・ロックを加えて考え、彼ら音楽ファンやバンドはファッション性が似る。ステレオタイプとしてレザージャケット leather jacket (革ジャン) をまとうという。00年代以降は黒いTシャツ black T-shirt/T-shirts の着用に移行した。Svartbyというロシアのバンドのメンバーは2015年に日本人から受けたインタビューで「私の要約:ロシアのメタルは多様だが、音楽だけの話。日本のライブを3つ見て驚いたことは、日本のバンドの多くがステージ用の衣装を用意すること。ロシアやヨーロッパでは街で着るのと同じ衣装にする者が大半であり、黒Tとジーンズ以外の舞台衣装は、ゲイ"gay"と思われている」と答えている(SIN23OU 2015年6月28日 http://sin23ou.heavy.jp/?p=4952 うちQ8。元のインタビューは英語で質問と回答がされた様子。日本語訳つき)。本文と関係なさそうな話だが、結局はローカライズの土地の既存または主流の文化による本土との差異が出ると分かるし、本土であっても動的な面がはっきりとしている。将来はともかく、今までに任意のサブカルチャーはスタイル面 style での変化が重ねられたろう。記録がある場合は記録のある限り、保守的・復古主義的な部分もある。メタルなどでそれは「オールドスクール old school」と呼ばれる。
*22…私はよく仏教の「衆生の病を治す仏法」の譬えを想像する。①パーリ語経典の皮膚病(らい病 kuṭṭhī)の男の治療の譬え–たとえ話(中部75経"Māgaṇḍiya Sutta")、②法華経の随所にあるの比喩表現、③大智度論の対治悉檀日記メモ2017-06-28本家記事2019-02-17でも言及)における異なる味の薬草の比喩表現など。ただし、各々の教説は対症療法としての薬(①・③)や究極的な薬(②のうちの複数。大正蔵9巻43頁a段「是好良薬・今留在此」は代表的な説)など、役割が異なる薬=教理や修行法が例示される点に注意されたい。変毒為薬という考え方もあり、三毒の心(精神的機能)がそのまま薬=信仰になることなど、仏教の「薬・薬師」観は多様である。思えば、対治悉檀の説で仏道修行の種目を対症療法の薬に例えていた大智度論も、巻第百(最後の巻)では「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」(大正蔵25巻754頁b段より訓読)という変毒為薬の案の提示があるばかりか、究極的な薬の意味も兼ねている。
*23…漢字「自」の形式的用法の一つに再帰マーカー reflexive marker (理解によって再帰接頭辞reflexive prefix とも) がある。この時の「自」は、いわゆる助字である。「自ら変える to change oneself」とは、その訓読で副詞として他動詞「変える to change (transitive)」に掛けている。他動詞の行為の客体を行為主体自身に反射–リフレクトする reflect のでリフレクシブ・マーカーである。再帰動詞 (reflexive verb) とも言え、現代人に分かりやすく言えば「自分で自分を変える」こと。「自分から=積極的に aggressively 変える…何を?→他者を」という意味での解釈は現代的であり、ここでの意味でない。それならば中間的に「自ら"を"変える」として「自ら」は再帰代名詞 (reflexive pronoun) にでもすればよいと言われそうである。なお、自動詞での「変わる to change (intransitive)」は修辞的にニュアンスの差異がある。目的や意識的な方向を伴って「自ら変える」ということである。何にせよ、男女のラベルは自ら付けず、あえて付けるにも対外的な「仮名–宣言」であり、「各々が自覚する当面の目標のための努力(いわゆる自己実現 self-actualization または自己満足)」をしてゆけばよいという話である。私に対する可能なラベリングは、2019-07-15記事にも2018-01-21記事から引用して説明される通り、とても多い。



「仏教の話」

2017-01-DD原稿, 2017-08-18記事『観萌行広要の原稿 + 動画中の説明挿入』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html
紹介: ジェンダーに関連する話は「④上 #v4a」などを参照。萌えキャラ (a moe-character) に対する男女の識別 (identification) は予断を許さないという話がある。万物の真理の側面を象徴すると定義された「萌えキャラ」に関するいかなる議論も通じない(「言語道断」の原意。中国以来の仏教の表現で「言語道断・心行処滅」と言われる比較には中論18:7偈「心行言語断」がある)。それは「觀萌私記」の萌えの3つの定義(三萌義)を知っている観萌(いわゆる瞑想)の修行者のために説かれたものであり、社会的な意味を基本的に持たない。

「④上(動画版 5:03 に肉声での発言あり)」より抜粋:
萌相・萌え絵を観るにあたっては、何らかのキャラクター(人格・観念偶像・象徴)の存在を想定することになる。
ここでは他人の作ったキャラでも各自のオリジナルキャラでも、私・横野真史のキャラでもよいので、「萌えキャラ(漢語の場合は人形萌類)」と名付けて説明を始める。
萌えキャラについて観想して心に留めようとすると、萌えキャラに自我があって感情を持っているように捉えられ、萌えキャラを観想している自分に対する好き嫌いの感情があるかのように感じられることもあろう。
萌相條の現代語の注釈文(及び萌相條勘注)に「萌え絵から『覗き込むな!キ○イ!』とは思われないから安心してね」と綴ったが、そのように後ろめたく感じてしまう人もいるであろう。
[...]
萌えキャラのみならず、万物は空・因縁所生であって慈悲応現であり、即ち平等の存在であるという法理に基づくならば、ついには愛憎の二情を超越できよう。
本来、萌えキャラ自体は愛憎の心も平等の心も無いわけ(無記・中道・真如・寂滅)だが、我が萌心の眼(まなこ)で捉えた時、高尚な精神を有した認識的存在に昇華される。
萌え絵の魂魄・エッセンスとは萌心であり、我々が吹き込むものである。
それでは、萌心ではない心で萌えキャラを観るならば、どうであろうか?
女性的な外見であるから、ただの女か?またはメスブタか?
そういった修羅・畜生の心で畜生認定をし、「つまらない存在」か「性的対象」に見てしまう可能性もある。
[...]
萌えにも多種あって、有形の実在(有相)と無形の想念と精神作用(無相)や、有形であれば可愛の相と雑草という様々な種類のものはあるが、それらも悉く二而不二の中道を示現している。
無論、「萌えが中道を示現している」とは能動的表現であり、こう表現することも悟りの立場で「仮名」したにすぎないから、真実・実際には萌えが中道を示現しておらず、示現していないことも無い中道である。
事物に感じる偏向性も、それらを包括して中道だとする悟りも、みな「人間の感情・思考・価値判断」の結果であるから、もともと「人間の感情・思考・価値判断」は有って無く、有ることも無いことも無いと観て更に中道を知る。
このように、中道は説明しても説明しきれない「不可説・言語道断」であり、求めても求めきれない「不可得・心行処滅」と表現される、「不可思議境(摩訶止観・巻第五)」である。



2017-03-04マイナー
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/p/google.html
紹介: 仏教的な存在である「萌え・萌やし」と、龍樹菩薩の中論にある「燃え・燃やし」の譬え(燃可燃)との、相互の等価性が示される。原因と他縁と結果 (causality) が示され、萌えの主体と客体はどこにも存在しない。そして言う:
「燃え」ならぬ「萌え」の一語は、仏教の因果を雄弁に説いている。女性的であり男性的であり、中性的だが中性的でない妙相はありがたい。萌相は善悪・愛憎の心が無い(無記)ので、我々も萌相に男女の相を感じても執着せず、淫欲や嫉妬の心が起こらないようにすべきである。



2017-05-27動画『男性絵師と女性キャラ(?)』
URL: https://www.youtube.com/watch?v=ncbatUTaC8c
紹介: 「萌え絵と男女観」を説明文に綴る。漢文–文言文 (Classical Chinese) で表現して「雖似女相。非女非非女。男相亦爾。是名中道。亦為是不可思議真如。男女・美醜、是可愛相・可憎相也。是故、非可愛・非可憎。萌尊、以方便故、謂可愛相。当推知真理与真如相。」と言い、次に清浄萌土抄とその脚注と萌相三十儀とを引用している。



2017-06-11マイナー
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/p/google.html#stribhava
紹介: 大乗仏教で維摩経が示す「女性・女性性・女性の本質"strībhāva"」の意義と、一般的な仏教における女性の位置づけとが簡潔に示される。

抜粋:
維摩経の第七章の後半で [...] 天女は「私は自分に『女の性質"strībhāva"』を求め続けても知り得ませんでした(膣や子宮や卵巣や男性も持つ女性ホルモンが女性の本質・エッセンスだとは言えないし声や性格なども女性らしさの根源でない)。本質的に女性でない者が男性に変わることはできません。例えば、幻を用いる術者が幻の女人を映し、見る者が幻の女人に対して『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と質問することは正当でしょうか?」と問い返し、舎利弗尊者が「否。幻には実体が無いから転じる対象が無い(もし幻の中での男女の定義はあっても幻の外に同じ定義は通じない)」と答えた。更に天女が「あらゆる物事"sarvadharma"は、幻の性質"māyānirmita-svabhāva"と同じで存在しないのに、どうして尊者は『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と問うのでしょうか?」と告げると、神通力を発揮し、舎利弗尊者を天女の姿に変え、天女は自ら舎利弗尊者の姿となった。 [...] 天女は「今の尊者のように、私は女性の姿で現れるだけであり、女性"strī"ではありません。あらゆる女性の人も同じです。仏は『一切諸法(ありとあらゆるもの)は女に非ず・男に非ず"sarvadharmā na strī na puruṣa"』と [...] 「非非男非非女」は維摩経でも活躍した文殊師利菩薩に対して釈尊が発した、文殊師利問経の言葉である。そこでは、何の分別も用いず、任意の客体が存在しないとさえ思わないための「修行智慧波羅蜜」が教えられていた。このような真理の立場では、当然「男女平等(もっと言えば不平等非不平等)」であるが、比丘・比丘尼の戒律差別(八敬法など)があるように、世俗法では男女の差別が存在する。[...]

これに他の紹介もある:
それは「幻"māyā"」そのものの逸話である。髪や声のみならず、体内のあらゆる特徴でヒト属ヒト(Homo sapiens)のメス(female)として定義される形態を得ても、現象世界の「幻"māyā"」に等しい定義であり、真実には存在しないと理解できる。また、天女は神通・智慧を持ち、過去世からの誓願と共に多くの修行を経てきた、と維摩居士が舎利弗尊者に話す"dvānavatibuddhakoṭīparyupāsitā bhadanta śāriputra eṣā devatābhijñājñānavikrīḍitā  praṇidhānasamucchritā kṣāntipratilabdhāvaivartikasamavasaraṇā  praṇidhānavaśena yathecchati tathā tiṣṭhati satvaparipākāya"ので、個人(an individual)の才能や努力の意思に形態として男・女であること(biological sex)は同じカテゴリ下に服属されないという、現代人の目線で固定的な観念へのアンチテーゼと見ることも可能である。[...]



2016/2017-MM起草, 2018-07-21公開『萌えの典籍・萌集記・街の女人篇・説法十箇の事』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html#mjk-mnn-spjk
紹介: 「(四)」は「容器の砂と天秤、概念と二項対立、外は限りなく広いが、外も内もない」と全体が要約される。「(五)」は「女性(ストリーバーヴァ strībhāva)に関する後日談」と全体が要約される。一般的な文学の方面を念頭に置いていると同時に、社会的な意味を基本的に持たない。注釈文は人文科学としての仏教学の側面(上座部経典での反例を示すなど反証的)を兼ねるが、基本的に仏教の信仰に資する目的である。

「(四)」より抜粋:
(街女人へ拾主が説く)あなたが女性の優れた点を挙げても、一辺のことである。同じように一面的な主張を好む人が、それを聞くと反発して女性の劣った点や男性の優れた点を連想することであろう。諸々の優劣論争も、絶対強者や"0% : 100%"は論争の範疇に存在しない。論争の範疇を超えても存在しない。例えば砂漠から砂を2つの容器に取り入れ、天秤を片方へ完全に傾けさせた方の『容器の砂』が、世界のどの砂の集まり(砂漠・海底の沙など)よりも絶対的に多いという道理はない。天秤という基準で計量した結果に軽重の区別があるにすぎない。天秤は人間が作ったろう。『容器の砂』も人間が容器に砂を入れる行為の結果であろう。男女の優劣も、先天性や後天性という科学・社会など人間の価値判断の範疇に語られるものであり、[...]

「(五)」より抜粋:
(街女人へ拾主が説く:)女性とは何か?顔が女性らしいと女性か?しかし、女性らしい顔とは各々が後天的な経験から価値判断するものである。では髪が長いと女性か?しかし、女性同士でも坊主頭・短髪・腰ほどの長髪・直立で地面に着く長髪など多種ある。声の特徴などを対象にしても同様である。なおかつ、それらの話は男性も同様である。では子供を産む者が女性か?しかし、その者が産む瞬間を誰もが見られるわけでないし、初潮の来ない幼女も適齢期を過ぎた老女も、女性は女性であるといわれる。では股間の状態を確認してこそ女性と決定するか?しかし、我々が逐一性器を観る必要はない。腹部の切開かレントゲン写真撮影などで子宮の有無を確認するか?または性ホルモンや染色体を分析するか?そこまでこだわる必要は無かろう。さて、これらの判断基準の『中ぐらい』で女性認定が可能だといえるか?しかし、『中ぐらい』では確定的判断基準とならず、畢竟、主観的判断であるのみだ。このように全ての判断基準を以てしても女性を女性だと証明できないが、女性を女性だと世間では当たり前のように決め、誰も疑わない。男性に対しても同様である。[...]

「(五)」に伴う上座部仏教の経典を例示した注釈文
「根本的な性認識による性差別(sexism)」に関する仏教的な啓蒙である。肉体によっても精神によっても、便宜的な男女たる性質(masculinity, femininity)を見出し得るに過ぎず、本質的にそれは存在しないことになる。反例らしい仏説もある。小乗仏教とも言われる上座部仏教の、パーリ語経典や漢訳阿含経には、釈尊が「男または女とされる心(眼で事物の外形を見る・耳で事物の音声を聴くなど認識を前提とする)のありかた」を前提に、その心が反対の性質にある事物(男に対する女、女に対する男)に執着することは「他に無いほど最も強い執着だ"増支部の一集1-10経: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ.  増一阿含経の男女経: 所謂男子見女色、便起想著…(rūpa = 色の部分はそれぞれ声香味触といった五塵に置き換わる。男と女の語も入れ替わる)"」という理解を説いている。額面通りに・直感的に「男・女」として読解できるその教説は、どうしても「男・女という仮定表現」を用いてあらゆる事物の存在と心による認識・執着を説いたものであるように、私は読解したくなる。こういった関係性に関する参考の説には雑阿含経パーリ相応部「黒牛・白牛" (黒い牛・白い牛)"」の譬喩があり、黒牛は白牛を繋ぐ主体でなく・白牛は黒牛を繋ぐ主体でなく、両者を繋ぎ合わせた縄・紐(軛・鞅)が両者を繋ぎ合わせる主体であること=十二因縁でいう「触・受」が「愛(taṇhā これは貪"rāga"の異名だが先述の執着に置き換えてもよい)」の主体であることを説く。






起草日: 20191224 (一部は3週間前?)

"The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics)"という、計画段階にある動画の説明文の案から派生して当記事を作成する、経緯があった。
当初の題は"The man with long hair and his gender studies (religion and sociolinguistics)"である。
当記事では、2016年以降の私の:絵とジェンダー研究に相当する文章の例示がされた。

YouTube動画の説明文(字数制限は空白–改行ありで5,000 letters, バイト数 bytes は不問)として1月1日ころから1月5日までに、一部の記述の英語の訳を作った。
当記事が作成される本来の意図は「日本人である横野真史が描く絵–イラストについてのジェンダーに関連する説明」であるため、導入のみ翻訳して序盤に置いた。
残りは、英語圏の人が深入りするのにためらいが生じやすいであろう仏教学の、私による説明がしたかったので、そのあたりが重点的にされる。
私の絵の行為と並行した時間が長い行為の一つが、仏教の研鑽であった。

動画は未完成だが、1月7日0時の版を載せる:
A comment of My Moe-illustration Works:
In the creative scenes in Japan, characters of the appearance of cute girls (bishoujo, beautiful maiden) that Japanese people (and fans from around the world) think are preferred, and many of them tend to be the subject. Real people (to be male or female is regardless) have such a preconceived notion of a girl's appearance, and often yearn for them. Real women with some sort of beauty-sense, or with a strong complex of beauty/ugliness may not like them. Or those women might be forced to go along with them. I do not feel the need to recognize the characters "feminine", but I sometimes call so the appearance that is perceived as women by common subjectivity. Apart from the definition of gender, there are my favorite subjects and styles of art. It is more intuitive to use the typical gender distinction in explaining to others. As in the Buddhist doctrine described later, this is only an opportunistic/temporary distinction, and does not mean to say that it is essentially so.

Overseas fandoms follow the creative scenes in Japan, call otoko-no-ko (男の娘, Japanese slang used to refer to persons of male biological gender who have taken on the appearance of the female gender) their slang "trap". The "trap" may be a sexist term comes from the perception of appearance that women are women. What I am interested in December 2019 is that any subculture tends to use discriminatory slang or jargon. The modern derivation of the word "gay" (too many definitions) is a good example. I leave this topic to another article.

Sanskrit word "strībhāva" means female nature/essence or femininity. The word is founded in Mahayana Buddhism Sutra Vimalakīrtinirdeśa, an example of Chinese translation is 維摩詰所說經 by Kumārajīva (CE 406 弘始八年). In an English translation, the word is "female state" by Robert Thurman. In chapter "devatāparivarta" (觀眾生品) of the Sutra, the character "devatā" (天女, goddess, divine/celestial woman) appears, performs a number of miracles, demonstrates wisdom, and declares that all things do not really exist. Meanwhile, Śāriputra (舍利弗) the wisest man among the Buddha's disciples asked her "What prevents you from transforming yourself out of your female state?". Using the metaphor of "magical incarnation", she said that her own female state did not exist, transformed him into her body with her magical power (神通力), and her into his body. Also she said "In all things, there is neither male nor female" (sarvadharmā na strī na puruṣa 一切諸法非男非女) as the Buddha preached. Compare with "非非男非非女" from 文殊師利問經 (the Buddha preaches so to Bodhisattva Mañjuśrī 文殊師利菩薩, who was active in the same chapter of the Sutra).

Reference shown in the video: Vimalakīrtinirdeśa-sūtra in Bibliotheca Polyglotta
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&vid=37&view=fulltext#7339668

In a story in Moe-religion literature (Moe-scripture), the lord (拾主) told the town woman (街女人) about "strībhāva".
↑保留の段落

There is a comment exemplifying a Theravada Buddhism Sutta:
This is a Buddhist enlightenment (*originally 啓蒙 keimō, in the western sense) on "sex discrimination based on fundamental gender recognition". We only temporarily feel masculinity and femininity, both by body and by mind, essentially they do not exist. Some doctrines are counterexample. See Theravada Pāḷi (Pali) Sutta "Aṅguttaranikāya 1.1–10 Rūpādivagga" and traditional Chinese Sutra "Ekottarāgama 9.7 男女經". Shakyamuni Buddha preaches the strongest attachment to anything else. That is, on the assumption of "a mind of man or woman (has perceptions such as seeing the appearance of an object with eyes / listening to the sound of an object with ears)", the mind is attached to objects of the opposite nature (woman for man, man for woman). "AN 1.1: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ. EA 9.7: 所謂男子見女色、便起想著... (*rūpa/色 = visual form will be replaced to five objects such as sound, odor, flavor and touch four times later. The words of man and woman change places.)" The doctrine contains expressions that can be literally/intuitively read as "man and woman". I would like to read the doctrine as if the mental perceptions and attachments to the existence of all objects/things was preached using the "assumed expression of man and woman". [...]

Reference shown in the video: Aṅguttaranikāya, Ekakanipāta, Cittapariyādāna Vagga
https://suttacentral.net/an1.1-10



2013年(16歳)にはヘヴィメタルのサブカルチャーに見られるジェンダー観–セクシュアリティ(セクシャリティ)を私が口で模倣する音声が公開されている(静止画のYouTube動画)。
題名『メタルは男の音楽ジャンル!女はアイドルでもやってろ!』
https://www.youtube.com/watch?v=DI_kqmfpwSQ

ヘヴィメタルの人々の中でもステレオタイプに近いジェンダー観で2013年当時の日本の大衆文化を見る、という前提が「アイドル (aidoru, idol group)」という語句で表出する。
「アイドル」は指示対象が男女を問わない言葉であっても、そこでは、その男性の立場に対置するために女性に特徴づけた。
当時にヘヴィメタルに関して主張したかったことはジェンダー観そのものでなく、商業的コンセプトと結果的な人気に関する疑問であった。
生物学的な特徴で「性=性別 (confusion with sex and gender?)」を隔てると、人間の可能性は性別によって完全に制約されることになる。
「女性であることからの人気(と当時のYouTubeのメタル界隈で観測される現象を私が見たこと)」を逆手に取って皮肉にしたかった。
「男性が3人以上いるバンドに女性が1人だけいることは奇妙だ(傾向としてベース bass, ボーカル vocal, キーボード keyboard)。女性の存在を理由にそのバンドを好むならば、女性が女性だけで構成するアイドル・グループに属することで本能的な性別による役割 (gender roles, ただしそういう語彙は当時に無い) の実現される。それが正当かつ正統ではないか?女性自身の意思と別に、商業音楽は尚更」と。
この話の前提には、Black Sabbath (最初期), Metallica, Slayer (スラッシュメタル), Cannibal Corpse (デスメタル) のような各メタル(70–80年代)の古層バンドと同時期の典型的なバンドの9割以上が全員男性(と見られるか自称する人物)による構成であったという観念がある。

このような見解は、私による他の活動に関連しないが、過去の問題意識として例示する。

しばしば世界中で人気のあるK-popはセクシスト (e.g. boy band の Bigbang, BTS, Exo. girl group の Kara, Twice, Blackpink) と槍玉に挙げられるが、K-pop人気についても、世界の大衆が今なお"boys and girls"(boys or girls) を好んでいることの反映かもしれない。
彼らへの非難は、露骨な差別行為を対象としない限り、当たらないと思う。
アリアナ・グランデ Ariana Grande がポピュラー音楽を含む「芸術作品」のセクシュアリティ(本文注釈*2参照)に関して同様の趣旨を発言していたろう。
大衆については、変えるよりも、相互関係の微細な摩擦によって変わることの方が望ましいようであるから、「自覚のある個人が自ら変える (changing oneself, themselves) 」と本文でも記している。
ジェンダーに関するノンバイナリーの表明が、欧米の芸能で見られつつある。
当ブログでエスペラントからノンバイナリー3人称代名詞を説明した1週間以内に、Sam Smithという歌手がノンバイナリー3人称代名詞としての"they"(singular they) を用いることを表明したと報道があった(同年にはその後も辞書のMerriam-Websterが"they"をそう定義するとか"Word of the Year"に選んだとかと報道される)。



前の段落が書かれる前から、以下の文章がある。

政治的な公平さや正当性 (political correctness) というものは大衆文化に率先して取り込まれる道理が無い。
その時代・その地域の保守性が自然に表現される。
その点で、日本発祥でも欧米発祥でも韓流でも大衆文化は文化的範疇で前衛的なものがあっても、革新的/進歩的でない。
理性的な人物がいる/科学的な知識が用いられるようなフィクション作品も、社会の哲学的実践の範疇で理性的/科学的でない。
平たく言えば、一部の人には「愚昧なもの」として見える。
任意の文化を好む一方が他方の文化を疎ましく思うということは多くある。
私はほとんど「クリエイター creator」や「クライアント–カスタマー client, customer」として商業的領域で関与しない。
しかし、良いと思う部分で愛好したり、実践することは個人の意思の範疇で行われてよいし、私自身もその行為で楽しんでいる。
いつも私は自身の性質について中庸・中道である、と思っている。

絵と音楽の実践を私が中学生のころから重ねながらも (cf. 2014-08-18)、日本のアニメ系コンテンツや音楽産業に資するものは何もない (cf. 公式2014-09-04)。
私による任意の活動について、分野に関連する他人の誰もが、私の存在を望んでいないであろう。
プロ–プロフェッショナルはもちろん、アマ–アマチュア–インディーズ–同人も、みなそうであろう。
学校生活しかり、無宗教非無宗教信仰生活しかり。
※私は横野真史以外にもいくつかのコミュニティの別名義活動を持っている。私が3年以上の安定的な活動を示しても他者は私を無視したという例が2つある。反対の側面もあるにはあるが、すぐにサイトを去る人が多くいたし、それ以外から私は親しい扱いを比較的に得づらい。そういう場合、リアル衣食住は最低限適っている現代的生活の下で、声を掛けられない限り、同人などで「合同企画」とかに参加する意味が無い。キャリアを求めているわけでない。同人誌でもアルバムCDでも、業者に委託で製作して、即売会に出すとか、ダウンロード販売をするとか、それで金銭を得る活動をする必要が無い。サブカルチャーの共同体・協会 (association, a definition of "society") にさえ疎遠である。金儲けにも凶悪犯罪にも意欲・発想は無い。しかし、母親のTV音声やインターネットから世間の毒を多く見せられるので、騒音を発生する身近な人間を殴る/作品を換金するなどの貪欲・瞋恚が少なからず生じる。というか、科学的に物事の善悪が無い上で、様々な可能性を模索する「視野の広い人」が私であり、当分の目的を外れる余分な行動は抑制する repress/suppress しかない。

色々な人は色々な境界に位置するものだが、私ほど多くの境界に位置して両足のそれぞれが対称的な領域(垂直方向の下方に円形の異なる分野が多く重なると仮定)の真ん中に乗っているという者はいないと思う。
性別・宗教・言語・イデオロギーなど文化的/社会的な事項も同様である。
何となれば、これらを含む一切は真に平等な世界には存在しないからである。
慈しみと悲しみと愛おしさを持たないと、この愚昧な場所に平穏な精神状態ではいられなくなる。
慈しみと悲しみと愛おしさを持つことが難しい私はあまり平穏でない。



他の補足・・・当記事の投稿時点で、内容物の日付表記にはYYYY-MM-DDのハイフン表記 (hyphenation, input with hyphen) を用いている。これを「1. はっきりとした日付および時刻 YYYY-MM-DD hh:mm:ss.nnnの確定があること。 2. 技術的に記号の利用が制約されること」が前提であるときの表記として、日常言語に関わる範疇では別表記:ハイフンをスラッシュ (slash) に変え、01にあるような0を省くものにしようと思った。なぜならば期間範囲 (duration, time intervals) の指定のために:ハイフンは用いられないし、エヌダッシュ (en dash, –)はハイフンとの識別に困難がある(視認性が低い)からである。そこでこの表記の規格「ISO 8601」を見直すと、そのためにスラッシュを用いればよいとのことであった。今後はそれで個々の要素の範囲を示そうと思う (i.e. 2016年9月未明から2017年1月未明は2016-09/2017-01-DD. 2017年1月未明までの4ヶ月を示す時はP4M/2017-01-DD.)。

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