2016年4月16日土曜日

勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し。

自然道歌(じねんどうか)


勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近。(勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し)
これ道の在り方なり、意義はいかなるぞ(是云道理、意義者何)。
暫く此の義を語らんと欲す。



平成二十八年三月三十日の文


各々の努力の中に、結果として勝利もあろう。
スポーツとは、勝ち負けの競争や賭け事の世界ではない。
そのような修羅の道であってはならないし、臨む者達も勝ち負けに縛られてプレーすべきではない。
各々の努力による成長こそを尊重すべきである。
勝利と栄光と名声と報酬などは、その「印」、オマケとなる。

正しく道を行く人たちは、勝敗という「印」を等閑視しないため、努力を客観視する上で重視こそすれ、絶対視もしない。
勝敗を絶対視すると、勝利後に相手を見下して「屁のツッパリにもならない」などと、人の健闘を軽んじて冷徹な言葉を吐き得る。
諸々のファン共(ファンに似た何者)が目を瞋らして相手に「負けろ!」と呪い叫ぶこと、悪鬼修羅さながらであり、これが外道たる修羅の道である。
自分が応援するチーム(地域などに縛られる)の対戦相手か、自分の憎むチームに、子供でもしないその罵声を口にし、あるいは軽蔑を心に起こす。
是くの如き修羅の気質がプレーする者に生じるか、ファンの目を気にすれば、予て勝ち負けを案じ、勝った負けたと一喜一憂してその時その時に苦しむ。

正しく道を行く人たちは、負けたときに道を歩み足りないと省みる。
幸いにも勝ち続ける者は、どんな志でも、ただ勝ったのみに道を止めずある。
私は「自己を修養する道」をスポーツには求めないが、これは学問などの道の全てが同様である。
道の途中でお金や名誉を得ることは単なる「印」、オマケであり、拾得物に過ぎない。
今の人は成功主義・即物的であるから、本末転倒に走ってしまう。

私の本心では、スポーツに関わる人、特にファン全般を蔑視しているが、スポーツ自体は修養の道の一つとして尊重はできる。
また、スポーツを修養の本道として真剣に挑む者達も尊重できるが、スポーツ自体の賞賛はできない。
一元ではない双方の尊さを一概に分けて語れない。

勝てない人が卑しい根性で唱えるところの精神論だ、と嫌ってはならない。
正しい道を示す指針とせんが為に説く。
そして外道を具体的に指弾する。
勝敗に拘泥しないばかりか、そもそも勝敗を知らず孤高に道を行く私は、無我夢中に飽くなき探求の精を出す。
世間の迷いを離れた徳とはこれなり。
楽しく道を行って道を外れず、気付けば知らぬうちに素晴らしい場所に到っていることがある、しかしゴールを定めず。

勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し。これが道のあり方か。



文法などの釈

「羅馬亦近」は「復近羅馬(復た羅馬も近し)」としたかったが、類似の文法の例を見つけられなかったためやめた。
漢文の読み下し方や助詞のつけ方には、いくらか遊びがあるとしても、個人的には他の明確な例が見られないと自己流の類推による誤りがありそうで不安が残る。

なお、羅馬"Luoma"は都市のローマを指している。
ローマ帝国という広い名称を、古い中国で「大秦 "Daqin"」などと呼んだようである。
日本でも通じる「羅馬」は、当然日本の音読みでは「ラバ」とか「ラマ」と読むほかないが、このような発音不相応の単語をわざわざローマの当て字として用いている。
中国のピンイン(拼音)で"Luo ma"と、日本のローマの発音に似るし、実際にこの音写・表音は、宋以降の中国で作られたと思われ、日本はなぜか「羅馬」を当て字として借りた(ただし"ラうま"と重箱読みをしてこれを仮名遣い変化で"ろうま"と読むことは不可能でない)。
中国式の音写語句を借りたから、「欧羅巴(ヨーロッパ)」の日本音読み(オウラハ)にしても、中国語の漢字の発音(Ou luo baか口唇破裂音のBP互換でOu luo pa)と比べて当然、原語(英語・ポルトガル語・オランダ語いずれも)の発音に似つかない。
※オウラハとか後述のエイキチリにしても、小学生の時の記憶を思い出した。

一方、同じ「羅」の文字を用いる「羅甸」はラテンの音写・表音となるが、このように、ローマはラテン語を使った地域だが、日本は「羅」の文字を用いるに当たって統一させていない。
先の通り、中国での「羅」は"Luo"と発音されるため、ラテン"Latin"の音写・表音では「羅」を使わず「拉丁"La ding (DT互換でLa ting)"」とするなど、「拉"La"」によっていくつかの音写を表す(日本でもこの文字でラテンの音写をする場合がある)。

「羅馬」のほかに、日本で不相応となる中国音写語句にはイギリスの「英」があり、これも中国では宋以降大概が今のピンインのように"Ying"と発音したろうが、日本では"エイ (呉音はei you互換で"ヨウ・字音ヤウ")"なのだから、なぜ「英吉利・英国」という借り方をしたか不明である。
中国のフランスは「法蘭西」、対する日本は「仏蘭西」と、仏法フォファの違いを取ったように、「英」は何かしら順当な発音の字に変えるべきであった。
「吉」の文字も、日本では上古音・中古音にある入声音の尾子音"t"を踏襲した"キチ・キツ"という読み方をするから「エイキチリ・エイキツリ」というおかしな読み方しか出来ず、尾子音"t"が"l"に変わった朝鮮語ならばまだ「ヨンギルリィ "Yeong gil ri"」と、巻き舌発音でごまかせる(もっともEnglish Englandは見ての通り"r"を含まないし"l"に巻き舌・そり舌の発音をしない)。
清ほどの中国での発音は「吉"ji"」の発音はjとgの互換性から"gi"と発していたろうから、「英吉利」を音写した時代の人々は「インギリ、インギーリー(Ying gi li)」と発音したか。
「インギーリー」がイングリッシュ"English"に擬した音かイングランド"England"に擬した音か不明だが、後者の場合は現代で「英格蘭 (Ying ge lan)」と音写している。



起草日: 20160331

そういえば1年前のこの日この時期には、散歩関連の意気込みを書いたような記事がある。
この記事は「勇躍の足」だとか、旅みたいなテーマの詩を書いているものの、これは単に物事に取り組む姿勢を旅になぞらえた比喩である。
それで、今春の散歩はといえば、特に計画も組まず、既存の計画の実行もせず、ただゴミ出し・自販機通いと同時に公園の桜の様子見を繰り返し行っているのみである。
来月(5月)頭にも今月(4月)分の日記メモまとめ記事を反映するから、そこでも確認されたいが、今年の桜の様子見を行った日は3月17・24・29日、4月1・4・5・14日である。



追記: 2018年7月

2点ほど、追記事項がある。
①「芸術や学問などで道を行く志のある人は、分野や業種などの区分(概念・名称)にくくられず、志のままに取捨選択をできる。例えば、旅においていくらか地図上の地名や道程を認知していても、実際に自分が道を行く時、未知の場所であったり、未開拓の土地や状態の悪い道(=普通の道でない)に当たることもあろうが、進む意志がある時はそれについて嫌悪せず、可能な限りに進む。そうして初めて地図に名の乗る地名や記載される地形や道がある。同じように、自分よりも先に同じことをした人がいなくとも芸術や学問で意欲の強い者は分野や業種などの区分の有無を過度に鑑みる必要が無い。自分の行動の結果によって新たな区分も生じるであろう」

つまり、長安・天竺・羅馬という地名は実在してもしなくても、特定の由緒で意味のある名として発生する。
彼は、日本にいながら・非ユーラシア大陸にいながら、長安・天竺・羅馬を踏破した者となり、更に優れた場所・優れているとさえ表現できない場所にも行くことができる。
地名やそのイメージといった、先の認知は必要・不可欠であろうが、優れた冒険家・探検家にとって、途中(途上)から意味をなさない区分となる。
彼は、何らかの分野の先駆者となるか、他人たちに見られることで先駆者とみなされる。
彼にとって、経由地や到達地は長安・天竺・羅馬とも、天国とも、地獄とも、他の場所とも、名付けることができる。
何らかの分野がその名称と共に新しく成り立つと、じきに合理化→固着・形骸化するので、止揚する者もまた現れるが、これは音楽でも芸術でも学問でも宗教でも、頻繁に発生する現象である。

②羅馬、ローマということで、私がローマの言語たるラテン語で歌を作ったことをここに記す。
http://masashi.doorblog.jp/archives/52087869.html

①の中に記された話題とも関連する。
今の私は、「日本および世界に未だなされないか、あまりなされなかったこと」を、意欲に基づいて行う。
精神的に不備がある今は、常にそうなるわけでないといえど、可能な限りに行うことを期す。




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