2016年4月24日日曜日

日本(倭)による「三韓征伐」とされる事績に関する調査

古事記・日本書紀に関しては、ネット上で粗略な説明や信憑性の薄い情報などが乱れている。
本日2016年4月24日は、前日4月23日に読んだ明治期の論文の記述(高麗・百済・新羅の三韓を我が版圖に歸せしめ云々)に発端し、終日、断続的な調査を行った。


まずは、日本時間2016年4月24日5時、いな同日7時に再投稿をしたYouTube動画の説明文を引用する。
YouTube動画の説明文の欄における制限に抵触する寸前の文字数である。
当記事を即日で突発的に作った動機は、ここにもあろうか。
以下の冒頭にあるよう、単なる録音テストとして不思議な論文を音読し、説明文に簡単なコメントを書く程度のノリであったが、結果は一日中に渡って断続的に悩まされたわけである。
要は、あまり詳しくない分野のにわか仕込みだが、そう思うほどにネット上の「我、記紀を読みたり!」という感じの人々は、どれほどに読了していようか。

今後の録音動画のためのテストとして、とある論文の一部を音読した。

まず、冒頭にいう「兩國」とは、当時における英露(イギリス帝国・ロシア帝国)を指す。
キリスト教の一宗派の代表を女王や帝王が務めている政教一致の国家(エリザベス女王とプロテスタント・ピョートル大帝と正教会)が、国力を得て、ほかの欧州諸国よりも一国の歴史を長くしている状態を示す。
諸外国でも政教一致の姿勢による国家の長命と富強が明白であるから、いわんや先史より祭政一致の日本をや、と比較文化論で力説する。

ここで飛び出る、彼らにとっての史実の開陳が興味深い。
仏教伝来以前の日本は、純粋な神道(レトロニムで古神道)によって強大な国力を持っていたとして、「高麗・百済・新羅の三韓を我が版圖に歸せしめ」たとか、一部中国大陸から朝貢を上げさせたという事績を挙げている(音声、版圖を"はんず"、朝貢を"ちょうぐ"と呉音で誤読した)。
日本書紀あたりに対応する情報があると思われるが、今の日本人は当然目を丸くしよう。
記紀(古事記・日本書紀)は主に編纂当時の伝承を集めた歴史書であり、創作でなくとも誇張や誤伝はあろう(同様に異国側の記録を参照しても事実に異なる場合もある)。
現代では珍説である上、歴史学的根拠には欠けるとしても、日本書紀の金文ならば江戸時代の国学や明治以後の国体思想では通説と成り得る(江戸時代の国学者は合理的な研究をしていたのにこの辺は記紀という「聖典」や日本の史料を偏重したようである)。

そう思うと、明治より戦前まで、学校教育で教授する内容が気になる。
当時のナショナリズムでは、当然日本神話も教えたはずだが、歴史教育はどうであったか。
現代では眉唾話に思える先の三韓(ここでは高麗が百済・新羅を指すそう)の併合・呉(三国時代?)や粛慎からの貢物の徴収など、史実として子供たちに教えていたか。
百済・新羅というと白村江の戦いのころであろうが、高麗が百済・新羅と同時に存在した時代はない(高句麗との混同か高句麗に相当する国を単に高麗と呼んだだけか)。
白村江ほか、秀吉の朝鮮出征も、現代では日本側の敗戦と扱われるが、この点もどう教えられたか。
また、西洋などの世界史を、学校教育ではどう教えたか、あるいは隠したか。
広く教える場合は、先のイギリス・ロシアのような肯定的なケースのほか、残虐にして国家の興亡が著しい西洋史・中国史を示して日本との対比と自国の賛美をさせる目的もあろう。

現代の日本では、中国や韓国が歴史の誇張や捏造を含む反日教育を行っているとの情報がネット上で伝播している。
社会主義・国家主義や、それに類する思想が強い今の中韓がああするように、当時の日本も中韓ほど攻撃的ではないにせよ、日本の精神性を重んじる上で方向性を誤っていたようである。
島国の祖霊を重んじる日本がわざわざ、島でも何でもない遠い国を占領していたとなれば、本来の精神性に反する。
明治以降の帝国主義の思想においてはいくら他国の支配を行っても、当時の国体思想(真の国体とは名を同じくして実が異なる)の理念には反しない。
だが、和という実存としての日本を思えば、その往古に遠い国から貢物を得ても占領する発想はあり得ない。
古来に類似の事象があったとしてどう動いても、「版圖に歸せしめ」はしなかったであろう。

日本の「神」とは、日本の森羅万象と日本人の祖先などの精霊であろうが、由縁のない土地を併合しては齟齬が生じる。
当時の朝鮮半島も神道に似た自然崇拝と先祖崇拝(巫道)があって日本が各地の神々の共存を認めたよう、朝鮮にも同じ領域で不可能ではないかもしれないが、結局は日本の神道の精神性は古来から現在まで日本列島にのみ収まる。
日本に渡来人が溶け込んだ事実まではよいが、日本人から遠い土地を取り込めば神道に相違する。
対して日本仏教では、日本からインドまでの諸天善神を尊び、拡げれば世界中の神々に神としての価値を認める。

動画投稿後に参照
日本書紀 巻第七~十一
古事記 中巻
広開土王碑(好太王碑) 而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民



調査の折、少し話題を外れ、とあるブログを閲覧していると、たまたま本日4月24日投稿の最新記事に「水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。」という文章を見かけた。
原文を引用せずに「古事記に書かれてっぞ!」と示されても、ますます情報が乱れてしまうし、大事な聖典の権威のため、「清明(きよくあきらか)」に教えてほしい。
言わば、示して示さないようなものではないか?
その記事においては枝葉末節の話題かもしれないが、私は残念に思っている。

例えば、どこかのお寺の坊さんが「○○上人はこう言いました~、○○聖人の書に書いてあります~」と趣旨のみを書いている度に、私は苛立ちを覚える。
同じ仏教でも、日蓮正宗や創価学会は彼らの発刊している「御書」などのページ数を示したり、キリスト教などでも「〇〇伝、○○による福音書」の何章の何節と示すものだが、なぜこういった姿勢を持たない人がいるか。
とはいえ、彼らが嘘をつくつもりで言っているわけではないのであろうし、たとえ何らかの誇張や脚色や恣意的な想像が混ざったとしても、まあ・・・

というわけで、表題の事績に関して記紀(古事記・日本書紀)および異国の記録の原文や訓読文などを引用する。
至極残念ながら、先の「朝鮮半島が大国主神の版図に入った(三韓に相当する国家を版図に帰せしめた)」としている文言は見当たらなかった(もし古事記に載っているならば上巻にあろう)。
古事記は日本語版Wikisourceに載る戦前発行の注釈付きの本、日本書紀はとあるHPの訓読文+解説(一部活字の本の文章か?)が見やすいが、あとはネット上に全文を通読しやすくしたありがたいページはない。
古事記Wikisource訓読文っぽい文章をより逐語的に変えたり、日本書紀HP訓読文の環境依存文字の便宜表記などを訂正するなど、当方で適宜改良を施した。



古事記 中卷


故備如教覺。整軍雙船。度幸之時。海原之魚。不問大小。悉負御船而渡。爾順風大起。御船從浪。故其御船之波瀾。押騰新羅之國。既到半國。於是其國王畏惶奏言。自今以後。隨天皇命而。爲御馬甘。毎年雙船。不乾船腹。不乾䑨檝。共與天地。無退仕奉。故是以新羅國者。定御馬甘。百濟國者。定渡屯家。爾以其御杖。衝立新羅國主之門。即以墨江大神之荒御魂。爲國守神而。祭鎭。還渡也。

かれ備さに教へ覺したまへる如くに、軍を整へ、船雙めて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれ其の御船の波瀾、新羅の國に押し騰りて、既に國半まで到りき。ここにその國主、畏ぢ惶みて奏し言さく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘として、年の毎に船雙めて船腹乾さず、柂檝(䑨檝)乾さず、天地のむた、退きなく仕へ奉らむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の國をば、御馬甘と定めたまひ、百濟の國をば、渡の屯家と定めたまひき。ここにその御杖を新羅の國主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江の大神の荒御魂を、國守ります神と祭り鎭めて還り渡りたまひき。



日本書紀 巻第九


冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰戰慄慄厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日。鼓吹起聲、山川悉振。新羅王遙望以爲、非常之兵、將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎、卽素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂、而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰、而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇、共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是、皇后曰、初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王、常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍、降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

冬十月の己亥の朔辛丑(西暦200年10月3日とされる)に、和珥津より發ちたまふ。時に飛廉は風を起し、陽侯は浪を擧げて、海の中の大魚、悉に浮びて船を扶く。則ち大きなる風順に吹きて、帆舶波に隨ふ。㯭(木+慮)楫を勞かずして、便ち新羅に到る。時に隨船潮浪、遠く國の中に逮ぶ。即ち知る、天神地祇の悉に助けたまふか。新羅の王、是に、戰戰慄慄きて厝(厂+昔)身無所。則ち諸人を集へて曰く、「新羅の國を建てしより以來、未だ甞も海水の國に凌ることを聞かず。若し天運盡きて、國、海と爲らむとするか。」是の言未だ訖らざる間に、船師海に滿ちて、旌旗日に耀く。鼓吹聲起して、山川悉に振ふ。新羅の王遥に望りて以爲へらく、非常の兵、將に己が國を滅さむとすと。讋(龍+言)ぢて志失ひぬ。乃今醒めて曰く、「吾聞く、東に神國有り。日本と謂ふ。亦聖王有り。天皇と謂ふ。必ず其の國の神兵ならむ。豈兵を擧げて距くべけむや。」即ち素旆あげて自ら服ひぬ。素組して面縛る。圖籍を封めて、王船の前に降す。因りて、叩頭みて曰す、「今より以後、長く乾坤に與しく、伏ひて飼部と爲らむ。其れ船柂(木+ノ一也)を乾さずして、春秋に馬梳及び馬鞭を獻らむ。復海の遠きに煩かずして、年毎に男女の調を貢らむ。」則ち重ねて誓ひて曰す、「東にいづる日の、更に西に出づるに非ずは、且阿利那禮河の返りて逆に流れ、河の石の昇りて星辰と爲るに及るを除きて、殊に春秋の朝を闕き、怠りて梳と鞭との貢を廢めば、天神地祇、共に討へたまへ。」時に或の曰く、「新羅の王を誅さむ。」是に、皇后の曰はく、「初め神の敎を承りて、將に金銀の國を授けむとす。又三軍に號令して曰ひしく、『自ら服はむをばな殺しそ。』今既に財の國を獲つ。亦人自づから降ひ服ひぬ。殺すは不祥し。」乃ち其の縛を解きて飼部としたまふ。遂に其の國の中に入りまして、重寶の府庫を封め、圖籍文書を收む。即ち皇后の所杖ける矛を以て、新羅の王の門に樹て、後葉の印としたまふ。かれ、其の矛、今猶新羅の王の門に樹てり。爰に新羅の王波沙寐錦、即ち微叱己知波珍干岐を以て質として、仍りて金銀彩色及び綾・羅・縑(糸+兼)絹を齎して、八十艘の船に載れて、官軍に從はしむ。是を以て、新羅の王、常に八十船の調を以て日本國に貢る。其れ是の縁なり。是に、高麗、百濟、二の國の王、新羅の圖籍を收めて日本國に降りぬと聞きて、密に其の軍勢を伺しむ。則ち勝つまじきことを知りて、自ら營の外に來て、叩頭みて款して曰す、「今より以後は、永く西蕃と稱ひつつ、朝貢を絶たじ。」かれ、因りて、内官家屯倉を定む。是所謂三韓なり。皇后、新羅より還りたまふ。



北史 卷九十四


新羅、百濟皆以倭爲大國、多珍物、並仰之、恆通使往來。

(横野真史・拙くも訓ず)新羅・百濟は皆な倭を以て大國と爲す、珍物多く、並びてこれを仰ぎ、恆に通使は往来す。

※「隋書」の八十一巻(そのうち倭國の項、通称: 倭国伝)にもほぼ同文が載るが、その原典表記の倭は「俀(イ+妥)と異体字で表記されるほか、「並仰之」の部分は「並敬仰之」とある。ほかの引用に「殊域周咨錄」「蓬窗日錄」などを確認した。



広開土王碑(好太王碑) 第一面 (元の碑文は欠損箇所がある)



百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民

百殘(百済)・新羅は旧、是(高句麗の)属民にして朝貢す。而るに、倭、辛卯年(西暦391年とされる)を以て渡海し、百殘を破りて随へ、新羅をも破り、以て臣民と爲す。



上掲の史料群には異説や異本もあるため、全容を網羅していない旨を留意されたい。
こういった史料群を見て私から出せる結論は、動画説明文の「日本の『神』とは、日本の森羅万象と日本人の祖先などの精霊であろうが、由縁のない土地を併合しては齟齬が生じる」という見地から「古来に類似の事象があったとしてどう動いても、『版圖に歸せしめ』はしなかったであろう」と割り出した見解となり、これ以外に帰結するところはない。
朝鮮半島の国家を降伏させて貢物を受ける、といった結果になるとも、明治期の論文にいう「我が版圖に歸せしめ」や、某ブログ最新記事の「大国主神の版図にはいった様子が古事記に描かれ」などといった見解は、彼らの誤読か拡大解釈、中には単なる受け売りもあろう。
もし、本当に彼らのように読み取れる記述があらば是非、金文の提示を請う。

日本書紀巻第九における神功皇后の事跡の記述にも、新羅国の降伏後に高麗(高句麗)と百済の王らが「これから我々は西蕃と名乗って(倭国に)朝貢を捧げて絶やしません」とあるよう、あくまでも「(日本に対する)西の蕃(蛮族・異民族・異国)」として降伏したに過ぎない。
「三韓征伐」なる事績の真偽を問わず、古来の日本人が朝鮮半島の国家をどう見ようとも、かの半島は異なる国土(属国)として扱う選択が道理でなかろうか、故に乃往に日本の国土とせじ。
記紀においては、そう読み取ることしかできないが、一方の広開土王碑など異国の立場では、同一の事象に対する見解や伝達内容が異なる場合もあろうから、どうにも断言できない。



後記、学者志望(肩書に限らない)ならば、このようにして突破すべき試練に直面する。
調査するスキル自体は元々備わっているものの、記紀に関しては難解そうな先入観から敬遠していた。
当初の想定を超過した時間がかかったものの、今回の調査によって耐性が得られたならば、それもよしとできる。
だがまあ、「我、記紀を読みたり!」という学者さんたちが、もっと惜しまずに知識を披瀝し、情報を発信してくれれば、後に学ぶ者たちの助力となろうが、みだりに「こう書いてある!」と金文をチラつかせ、焦(じ)らせるだけでは消化が悪かろう。
当記事の主目的は、文章の解釈の正誤の如何よりも、研鑽の上で文章を精査する姿勢に念を押す(結果よりも過程を重視する意味で前回記事に似た旨を綴る)。
願わくは、速やかに先人の智を遍からしめ、以て真の和に(於)再興のあらんことを。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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