2019年7月15日月曜日

科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動

私がそうであるように…、改めて、ひきこもり(引きこもり・引き籠り)・ニートの人々はインターネット利用可能の限り、家で静かに学問や芸術をすべきであることを付言する。
「ひきこもり」定義は通念上のものと、個人の自覚によるものと多義的であるが、ここでは特に前者と後者の一致を重んじる。
親(経済的な保護者・扶養者)と一緒にいる者のうち、親と不和である者は、それでも忍耐強く・実直な努力をするとよい。
独居で生活保護を受ける者は、行政から就労支援を勧められても、機械的に処理しつつ、忍耐強く・実直な努力をするとよい。
ああ、実際に私のような努力をする人とその可能性ある人は、世間一般を概観するにつけ、千人に一人いるかも疑わしい。
とはいえ、改めて説明したく思う。

学問や芸術を行うこと、その目的を何にするか?
これはまた、各々の人生経験・人生観・死生観・価値観から決めればよいと思うし、まだであるならば好奇心の向く範囲内での努力の結果に自ずと見出せるとよい。
苦しみの心を自覚するならば、その解放を目的とすべきである。
つまり"id est"、自由主義・リベラリズム"liberalism"の原義であるラテン語"libero, liberare"を志向した手段とすべきである(辞書的な語源はフランス語libéralisme<libéral<ラテン語liberalis<liber<印欧祖語*h₁lewdʰ- "people, to grow"となるので私の思想的な語源になりそう)。
リベラルアーツ"liberal arts"とリベラリズムは直接関係しなかろうが、個人の意思や精神の表現の「手段と目的」という関係性そのものに通じる。
リベラルアーツとは、古典的な定義で3つの技能"trivium: grammar, logic and rhetoric(文法・論理・修辞)" + 4つの技能"quadrivium: geometry, astronomy, arithmetic and music(幾何学・天文学・算数・音楽)" = 7つの技能 (skills, arts; artの語源はラテン語ars) を意味しており、内容は表題にあるものと重なる。

しっかりと断っておくと、個人主義や自由主義は「ジコチュー(自己中心的)」とか意味論的和製英語での「エゴイスト・ナルシスト(ナルシシスト)」という意味で捉えられるべきでない。
…、両主義者のうちに半ば重なる例もあるが、ここで客観的にそうかどうかを論うべきでなく、単に「苦しみからの解放」などについて個々人が自ら斟酌できることを望む。
端的に、個人主義"individualism"は「互いの個性・人生を尊重することで自身の個性・人生も尊重されることを志向すること」、自由主義"liberalism"は「互いの自由を侵さないことで自身の自由も侵されずにあることを志向すること」と解釈してもらおう(全体主義の共産主義やナチズムといった反例を参照。相互に意味が異なる経済学や社会学や政治学での見解も参照すべきだがここでは詳述しない。まあ日本の和・仏教の中道によればそういうリベラルvs.保守のような西洋思想の両極端および和や中道それ自体への固執を排除してこそ平和・寂静・自由自在ということかもしれない)。
こう理解すれば、感情的に孤立を求める姿勢を個人主義とも言わないし、他人へ傲慢なふるまいをする姿勢を自由主義であるとも言わない(特に後者の姿勢については犯罪を自由に行うと牢獄に入れられるという古来の人間社会の特徴によって考えると、犯罪をしたがる者が不自由な牢獄で苦を感じずにいる道理が無いことでも分かる。脱獄は稀な者しかできないし苟も脱獄したところで心が安らぐ時が無かろう。そもそもどんな状況でも苦の無い者が犯罪をしたがる精神が有り得ない。荒唐無稽な可能性として外的なマインドコントロールくらいになる。芸術については特に風刺画などでの政治的な主張が芸術を利用した芸術の外の行為=外道であるかその当事者に得させる刹那的な幸福を精神的に良くないと私は思う)。
学問や芸術は、その実行者たちのうちに精神的な苦を強めて精神障害を抱えたり、自殺する人もいたが、彼らは彼らの行為・経験の結果にそうしたものである(弟子や家族や職業に恵まれていてもそうなる)。
一応、興味があれば実例を学んでもよいと思うが、結果的に「じゃあ自分はどう努力してゆこうか?」と省察する糧にせねばならない。

「苦しみからの解放」ということは、私が仏教の学習を通じて得た人生観である。
仏教に依拠するならば、芸術・学問・リベラルアーツというもの=才芸が強く介在すべきでないことは明確であるし、自覚もある。
例えば、私の仏教学習の初期に日蓮系宗派・新興宗教を学び、日蓮大聖人や彼が尊敬した高僧の一人である伝教大師の言葉にも「仏道修行者は才芸を用いるべきでない(あるいは…才芸に長けているからといってその人を尊敬すべきでない)」という意見がある。
無論、彼らも上代日本・中世日本において十分に才能がある人たちであったろうが、その彼らこそが言う。

伝教大師最澄の願文「自未得照理心以還不才藝(意訳: 真理を観る心を得ていないうちは才芸を行わない、ということが二つめの誓願である)」

日蓮大聖人の御書…頭に浮かんだフレーズの典拠不明。他に似たものには下記。
唱法華題目抄「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」
阿仏房御書「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」

2018年以降、一旦、その方から外れている。
それまでに私は、単に一人の人間 (個体 of ヒト属ヒト Homo sapiens sapiens) として真理の探究を志向していたのであって自身のアイデンティティをニート・ひきこもりであると仮定していなかった。
今は、ニート・ひきこもりである社会的な現実性の観点で芸術や学問の各分野を行い続けている。

因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。当記事注: 当該記事に示されたように中論の24:18偈 = yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || ”衆因縁生法 我説即是無
亦為是仮名 亦是中道義”の要約である点に注意。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

私には「中卒・無職・ニート・引きこもり」という仮名があり、または「シンガーソングライター・イラストレーター・フィロソファー・サイエンティスト・オカルティスト・ロマンティシスト」という仮名もあろうが、「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着がないと考えたい。

関連記事
2018年1月21日投稿『道心あるニート・引きこもりの修行における障壁』
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html



表題にある「芸術運動」ということについて注記しよう。
「芸術運動 (art movement)」とは、ふつう、「芸術分野・芸術領域のうちでの (inside, within) 運動」を意味しており、「芸術行為を用いた (with) 運動(特に社会的・政治的・哲学的な傾向が強い)」ではなかろうが、ここでは両方の意味がこめられる(双方向・共依存・一体不可分)。
大衆音楽・マンガ・アニメなどの商業的な風潮・商業主義に疑問のある人々は、是非とも自己表現の手段として音楽・美術を行ってほしい。
このための簡単な考え方を示そう。

「大衆音楽の歌手・アイドルとその作品は商業的に生産されたものであり、歌手・アイドルが作詞・作曲を自発的に行う権能が無いか許されていない。シンガーソングライターは稀である。多くの場合に大衆音楽は自由な創作性から乖離した商業主義・拝金主義の姿勢である」

「某イラストレーターは『自分から企業に仕事を求めよ=自分を売れ』と発言して『インターネットで”お仕事募集中”である人』を愚弄したが、彼は給料のためのイラスト技能を自慢することになる。しかし独立的な人は他人から仕事などというものをもらわずに自給自足できる。某イラストレーターは自由な創作性から乖離した商業主義の傀儡である」

一昔前だとそうであるが、今はSNS等が個人主義・自由主義を支える結果があり、彼らの自己表現の自由度が上がっているという側面も、社会科学を行う者は考慮したほうがよい。
いずれにせよ、お金稼ぎよりも高く「自己表現の手段」が意識されたい。
常時これを意識せよ、ということでなく、単に必要な時、反省や他者への説明に顧みられよう。
そうして各種芸術行為をすることは、現代日本的な全体主義・商業主義・資本主義のもとでの芸術行為に一つのアンチテーゼを提示することになる。
「社会貢献・奉仕活動」といった旧来からある世間のしがらみと別の立場であるが、またしかし、こうした個人主義・自由主義の立場の芸術も、インターネットなどで公開される限り、同じく社会のうちでなされるものであることを忘れてはならない。

関連記事
2014年12月11日投稿『"手の届かないモノ"への空虚な夢想を断つ』
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html

2016年3月16日投稿『SoundCloudの夥しきスパム"Spammers"の問題と、音楽の世界的な没個性化についての雑感』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/03/soundcloudspammers.html

2016年5月22日投稿『商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html

2017年2月4日投稿『2016年末から年明け後もYouTube・外部サイトで多めに投稿』
http://deathmetal.blog.jp/arc/Jan-20-2017.html



また、インターネットでの言論に資するためには、言語的な技能 (trivium; grammar, logic, rhetoric) を用いて民間レベルの科学研究を進めてほしい。
「科学 (science, scientia)」とは、過去記事 (2019-05-16) に説明が済んでいるように、典型的な理系学問・理科や自然科学に限るものでない。
現代日本人になじみ深い「理系・文系」という二項概念は、用法が乱れて曖昧模糊であって日本でしか通用しないし、そもそも個人の意欲にならった学問の行為に無関係であるから重視されるべきでない。
どうあっても人文科学から自然科学まであらゆる科学の専門家・研究者に匹敵することは無かろうが、民間レベルで言語の自覚や科学知識の向上を資することは可能であるし、それで自身も世俗的な範疇で自信を持つことができる。

私は、この3年ほど、更新頻度を少なくしている傾向にあるが、これに色々な理由が考えられるにせよ、一つには「みだりに語らず、静かに・黙っているべきだ」という考えに従うためである。
インターネットで不必要に多くの情報を流して錯綜させるべきでないと思う(その行為が恥になるかどうかは当人の感性にもよるしここで断言しない)。
メディアリテラシーということを重んじるべきである。
学問で大事な姿勢は西洋の科学史などから縷々と示すこともできるが、ここであえて中国の古典から挙げるならば「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず(孟子・盡心下 引用: 盡信書,則不如無書)」、「学びて思わざるは則ち罔し、思いて学ばざるは則ち殆し(孔子・論語・為政 引用: 學而不思則罔,思而不學則殆)」というものであり、各種研鑽から科学研究まで、これを重んじるべきである。

論議・論争に関することも、おおよそ積極的な加担がされるべきでない。
精神において、勝敗や優劣の茨(泥沼)に入ることを欲すべきでない。
私のことを話すと、誰かを叩きのめしたくて活動をしているわけでない。
反対に、固定的な信念や目的を有しているとも断言しづらい。
自身の活動の意義などは、たびたび書いたことと思うし、ここで詳述しない。

2016年以降に私の言論行為は(曖昧な範囲の過渡期にはその傾向があるとして):
 私の意見であることの明示・事実提示などを峻別して、される。
 当面の目的が明瞭である状態で、される。
その限りで、個人主義や自由主義と、社会貢献と、精神修養との中庸の姿勢がある。

関連記事
2014年10月10日投稿『ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!』
http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

2016年10月21日投稿『事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

2017年1月16日投稿『本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html

2018年9月24日投稿『動画「引きこもりによる芸術・宗教活動と人権・人道」』
http://masashi.doorblog.jp/archives/52483964.html

2019年5月16日投稿『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html





起草日: 20190602

当記事ではニート・ひきこもりが行うべき学問・芸術を示した。
過去には宗教を主要にしていたし、今であってもその話はされてもよかろう。
生い立ちなどで負の自覚のある人たちでも、結果的に今も生きていることに恩恵を感じられるための芸術・学問・宗教である。
芸術・学問は先に仏教徒・高僧の言葉が引用された通り、才芸・利根の類なので、無理だと感じる人もいるであろう。
宗教としては、そういう人であっても、現世における各々の知能・精神に相応する学習や努力の後に良い果報が得られることを説いてもいるし、私の過去記事から仏教・キリスト教で説かれたことを色々と探してみるとよい。
殺人鬼アングリマーラ、先天的障害者チューラパンタカ、その他・・・。

再び人文科学と芸術の話が混ざるが、私の"Dominus Immensus (萌えの典籍の派生作品)"というラテン語歌詞・音楽動画を上記月間に「歌える中古日本語・翻訳版 (v1.01 based)」と「改訂版 (v1.02)」の2本で投稿した。
人間関係などに関しても、研鑽に関しても、忍辱・忍耐・堪忍を行ずるためには、「不可量であること」を思う障礙尊者になりきってみたい。



上記月23日に『ニート・ひきこもり学問芸術「紀要」 (事実上のVol. 2)』と題する動画を投稿した。



link: https://www.youtube.com/watch?v=L1bhNGgV_bE



上記月28日に日系アメリカ人2世の「マコト・フジムラ"Makoto Fujimura"」という芸術家のTwitter, ツイッター・ツイートを見た。
彼の父親は「藤村靖"Osamu Fujimura" (2017年没)」、私の一研究分野である言語学・音声学で先進的だった(というが藤村靖さんを当日知ったばかりで詳しくない)。
その次男(?)にあたる彼のツイートの一つをご覧いただきたい。

海外で学ぶことを望まない日本の若者について"Hikikomori nation"という一言で反応。

既知!論外!勿論。
彼の他のツイートでありえない、当該ツイートは2019年6月28日 (JST) 時点でリツイート・いいね数が0である(画像中に説明)。
私は(公然とツイッターを行わないし単発アカウントを作っても見苦しかろう)コメントを個人的なメモとして残す。
My comment: (字数に制限あり)
Masashi Yokono, he is a hikiko-
mori. He interests international
learning. Fields he does include
your father's field (phonetics).
(Methinks)
"Hikikomori" that you say/define
is not relating him. You Artist
should not mention social topics
and "hikikomori".

(What is "Hikikomori" that you say/define? Is he a "Hikikomori" that you say/define?) ※世人の混乱した定義"confusing definition"で私はひきこもりか否か?しかしそれは関係が無い。私はニート"NEET, Not in Education, Employment, or Training"であってひきこもり"hikikomori"であると自負する。世間の人がどう階級・身分を定義しても、私は全てに該当して該当しない。

国内の日本人同士でも修羅のようなレッテル貼り・カテゴリー化"categorization"・同質化・等質化・均質化"homogenization"(これらは他動詞transitiveの行為名詞nomen actionisで私は用いる)をするわけだが、海外で生まれ育った人であっても、似たような考え方をする。
芸術家とされる彼がそのように野暮な話題・言論を行うならば、彼は芸術家としての魅力と本質"nature, essence"を自ら損なう。"He is not artist or other professional, just... (neither X nor Yは排他や双数に関する表現なのでここには使えない)"
これは私の意見である。

以前もインド在住の日本人女性「メーダーみちか"Medha Michika"」という人物のブログ(記事は2015-03-28)で、似たような一文を見ている。
他にはオーストラリア・タイで幼少期を過ごして東京都知事選挙に2度立候補(私が埼玉県内に住んでいる2011年4月までに政見放送をNHKで視聴)した「谷山雄二朗"Yujiro Taniyama"」氏も、インターネットで「ひきこもり」を現代日本人全般への侮蔑に用いていた。
「マコト・フジムラ」と「メーダーみちか」と「谷山雄二朗」はいずれも余分な一言でひきこもりに言及したことになり、現実のひきこもり(英語だと無冠詞複数形hikikomori people)に無関心であると私は拝察する。
このような言説(匿名掲示板などの投稿に似る)は無粋であり、非建設的であり、実りなく、現代日本人の一部が持つ「海外に興味が無い」という気持ち(内心の自由・職業の多様性="freedom of thought, academic freedom, economic freedom"に該当するし村には村の伝統や生活がある)を理由にひきこもり認定をされることを望まなかろう(逆に海外どころか世界ありとあらゆる事物・概念に興味を持ちながら人生の目的を確固とするひきこもり生活の私は何者か?学校ならHarvard, MIT, Oxford, Cambridgeなどに限らず広く興味がある)。

彼らは無関心・浅学である限りに黙っている方が賢明である。
雑談さえ、名前のある活動の下で公的に行うべきでない。
i.e. 「自由"freedom"」の範疇にあるべきでない。

原因と結果の短絡的な同質化・等質化・均質化"homogenization"が、社会人・シャカイジン様のみならず芸術家・宗教家にも見られるので、時折、退廃的"It is decadent"と私は思う。
芸術家・宗教家を含む大衆は、確かにニート・ひきこもりの人権"human rights"が無いものとバイアスがかかるが、それは生物学的な矛盾・社会学的な矛盾・歴史的な過失 (cf. Homo sapiens, Capital punishment, racism, such as The Holocaust and Armenian massacre) を擁している。
日系人とその子孫に限らず、海外の人々 (people live in overseas) も、そういう傾向は有ろうことを、今までにインターネットの随所で見出した。

ネット上の傍観者たちは、ニート・ひきこもりに面識ある者が僅かであり、あまつさえ実際のニート・ひきこもりが科学的に定量的研究"quantitative research"がされていない現状で、誤った一般化"faulty generalization"などをし、軽薄な言及をするように見える。
社会にニート・ひきこもりは実在するので、社会人たちはLGBTやキリスト教国におけるムスリムなどのマイノリティを尊重したがることと同じく、ニート・ひきこもりを妄りに・濫りに比喩表現で用いるべきでない。
人間社会には、問題を濁す者が多きに過ぎる(万象のうちの単なる現象に過ぎない何かを問題視する者たち自身がその問題性を曖昧にする)。
実際のニート・ひきこもりは露出せず、当事者たちにニート・ひきこもりアイデンティティが無い(有ってもネガティブな感情に変換する者が多い)。
多くのニート・ひきこもりはサイレントマジョリティに属しており、私のような研究者は現れない。
当記事で語るまでも無く、種々の社会問題の理想的な解決などありえないからこそ、あらゆる階級とも異なる立場で私が研究する。
急進的解決は不可能であり、ニート・ひきこもりの定量的研究にも近道は無いからこそ、当事者の中でも唯一私が「隗から始めよ」として身近なレベルで行う。

ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。

私には目的が有るようで皆無でもあるが、一応、世間の愚かしい対立が和(やわ)されることを願って記す。
多くの社会人たちは何かを問題視してその問題性を忘却するし、彼らは全人類への慈悲やシンパシーなどを持たないし、私はそれらが事実であってもなくても構わない。
ニート・ひきこもりの自覚ある者たちは現代文明で経済的な庇護を受けて生きる限り、芸術や学問の行為を個人主義"individualism"として行うことを、私は当記事で推奨している。



当記事であえて言及しないでいた2019年5月に発生した川崎20人殺傷事件の犯人「岩崎隆一」さんがどうひきこもりであるか、私は説明しない。
同じように私が201213年にブログで取り上げた愛知県豊川市「岩瀬高之」さん、私が2013年から存在を認知していた外出して集団ストーカー記録を行い続ける愛知県岩倉市「岩間好一」さん(派遣社員時代から逮捕歴あり。2019年6月に交通事故に遭う)についても説明しない。
彼ら個人が何であれ、ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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