2016年3月13日夕にSoundCloudへ、いかにもなジャンル(EDM, Dubstep)の楽曲を、そうタグ付けして投稿した。
https://soundcloud.com/masashi00/microsoft-gs
※スパムを、具体的かつ単純に定義するならば「広告の形式をとらず広告と同様の成果を狙う宣伝行為」である。インターネットで自サイトの宣伝をするには普通、宣伝してもらう他所のサイトに許可得て報酬(無報酬なら相互リンクの許可のみ)を出すが、スパムはそれらの取引をせず勝手に宣伝行為を行う。行為の方法は多々あるが、SNSなどでは当記事に詳述する手段もある。
・・・すると、投稿直後に"Like"が2も増えた。
履歴(通知、Notificationの欄)を見ても似たような画像の色違いアイコンのユーザーということは集団スパムである。
10分ほどでDL数もカウントが1つ増えたが、再生回数は0のままである(スパムロボットは再生ボタンを押す能力が無い)。
つくづくサンクラは空虚である。
今回と反し、再生だけ増えて"Like"が増えないケースもまた同様か。
どちらにせよ、バランスが狂おしく思う。
例えるならば、周囲に人の姿なくして人の談笑が聴こえるようであり、また周囲に人の姿が満ちているのに音一つ聴こえない静けさである。
それは「一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電」であり「應作如是觀(そう思いなさい)」であろう。
3月14日朝は"Like"が9つに増えてなぜか"Follower"も増えていたが、その実は、日本時間3月13日23時ころに女性の顔写真アイコンのユーザーがものの1時間で5人(後追い女性顔1人)もLikeとFollowをしてきたのであって、いずれもスパムである。
フォロワー数だとかを千万と稼いでも、女性顔アイコンがフォロワー一覧に並ばれても、私の心が満たされることはない。
お願いだから、純心のリスナーだけ来てほしく、純心のリスナーが来ないならばスパムも来なくなってほしい。
スパムが来るときだけ来て後から外れる常套手段も気味が悪いから、来たならば来たままでいればよいものを。
3月15日の朝には"Like"が2つ減った。
スパムなど、一時的に高評価を入れたり、ユーザー登録(Subscribe, Favorite, Followなど)して、少し待って彼らの望む成果の有無を問わず、それを解除することは必然的な法則である。
この朝に減った2つ分は、投稿直後に"Like"を入れた「似たような画像の色違いアイコン」のアカウント2つである。
【過去にSoundCloudの問題性を論じた投稿のまとめ】
2016年1月末・糞メッセージ(アラート・通知)問題
2014年8月末・音楽投稿サイトの癖にレート落として音質劣化させる仕様への不満
2014年8月・URL設定での英語大文字使用不可と表示されたメッセージの不親切さの報告
2014年4月末・スパム報告
2014年1月末・主にハイハット音質劣化の疑問
このうち、「音質劣化」に関しては2015年8月30日投稿の音楽ブログ記事に詳細な記述があり、ここに引用しておく。
1年半以上前からの不満となるが、SoundCloudで上げたファイルはハイハットの音が凄まじく劣化するようで、当時検索してもそれらしい情報はヒットしなかった。
今回改めて「"soundcloud" "ハイハット"」と検索したら、2015年投稿のツイート・知恵袋質問に、関連する情報が書かれ、後者の場合「無料アカウント(128kbps)では仕方がない」ということであった。
ここで更に私なりの追究をすると、投稿者が任意で許可するファイルのダウンロード機能では、同じmp3ファイルであることに気付き、ファイルのサンプルレートなど投稿時(192kbps)と全く一緒であった。
要するに、ダウンロードされたmp3ファイルは劣化せず、SoundCloudサイト上のストリーミング再生機能の音声は別途、音声データがエンコードされて無料会員のものは酷い音質(128kbps説)に落とされるらしい。
後年、音響的に調べると、SoundCloud無料アカウント投稿のストリーミング再生の音声データは、約17 kHz (17,000 Hz) 以上の周波数の帯域が記録されないものと分かった。
手持ちのmp3ファイル音声データが20,000 Hz近く記録されているとして、それをアップロードしても約17 kHz以上の周波数の帯域は記録されないため、ハイハット(esp. オープンハイハット 10~20 kHz)のような高周波数の成分が多い音は顕著に聴覚的な反映が感じられると、私は見ている。
【音楽の世界的な没個性化】
世界的に、軽薄で没個性的なラップ調の曲が流行、というよりは定番となりつつあろうか。
何とも印象を持ちがたいメロディでフニャフニャ・グダグダと歌っているだけの曲がSoundCloudの全ジャンルランキング上位を占めており、徹頭徹尾、陳腐であった。
そういうラップ的なジャンルとは違うはずのジャンルのランキングを見ても、何が異なろうか疑問の曲のみしか見られない。
このランキング(チャート)は定期更新で、集計範囲が1週間であり、それ以上、詳細な情報・ソートなどはない(イマドキ海外サイトは「似非シンプルブーム」でどこも不親切で情報も貧弱だからこのランキング自体あてにならないかもしれないが一応参照しよう)。
https://soundcloud.com/charts/top
ABC順ジャンル、"Alternative Rock" や "Ambient"とは、こんなジャンルであったか?
明らかなジャンル相違であろうが、先の不審と同じくサイトの仕様が変なだけであろうか?
現在のオルタナロック1位→https://soundcloud.com/peachiness/stressed-out
現在のアンビエント1位→https://soundcloud.com/richardwolfmusic/flo-rida-my-house-wolf-rework
高齢者の世代が昔から「最近の音楽は心に残らない」という決まり文句とは、もはや次元が異なり、これからもロクなヒット曲は出ないと思われる。
無論、ヒットした曲が優れた曲であると言うのではない。
私には、ヒットした事跡が観念的ながら穢れと感じられるためヒット曲は往々にして厭うものだが、逆に世間的見地では、ヒット曲が出ない音楽界は異常にも思うから、本来は出て然るべし。
それで、多少奇抜だったり、まだ印象的なメロディやフレーズのある曲が一時的に世界的ヒットを見せる程度であろう(江南スタイルなどは再生工作もあったが)。
近年でもこういう惨状であるのに、今後はますます没個性化を、プロ作曲第一線からリスナーの趣向までが進めていくことは想像に難くない。
「他人のことなど気にせぬ」と、我関せずを決め込むことができない私は大いに憂えている。
自分と他人、内の心と外の世界、これらは相反するようだが、別々でなく相互に関し合うこと、仏法を学べば痛いほど知り得るから、その不二・一如・一体という見方から他人事に思わない。
世間を席巻するヒット曲の傾向と、私のような下人の作曲は共に在る。
一方、日本の音楽はメロディやフレーズが凝っているというか、特徴的過ぎて世界では嫌われる(日本のガラパゴス文化の一種)が、私が作曲するならば古かろうともキャッチー(?)なメロディでも何でも、意のままに作曲してゆこう。
ところが近年は、日本国内(主にアマチュア・同人・素人の作曲界隈)を見ても、音楽性がグローバル路線というか、やはり世界的な凡庸軽薄ラップの真似が進行している。
日本人の一般民衆までもが西洋かぶれで国際的迎合をし、悦に入っているのであろう。
オリコンチャートに載るようなJ-POP商業音楽は存じないが、日本人的にも、あんなものがイマドキ、オサレ・オシャレ・シャレオツな感じなのであろうか?
否定の意図は毛頭ないが、私は全く真似したく感じない。
そういう曲を少しは作ってみようと思った時期(2013年まで)もあった。
先述の、国際的迎合というか、時代先取りの意欲も微かにあった。
そういう曲への関心が失せた今でも、そういう曲が「あらゆる音楽の片隅」にある程度ならばそれも尊重できたが、現状の如く、生態系を壊す異常繁殖をされては快いと思わない。
洋楽は元々軽薄ポップスが多い中、特に洋楽メタル界隈は大御所なども軽薄ポップス迎合で劣化の極みである(音がショボくて歌もメリハリがなく陳腐ジャンルに同化した)。
下位ジャンルや有名バンド90・00年代の代表的な曲と、10年代最新楽曲は同じジャンルやバンドと思えぬほど落差が著しく、凡庸にして軽薄ポップス迎合に陥って個性を失ったが、新興勢力や若手ほどが幾分マシの傾向もあるとはいえ、本領を忘れて形骸化したバンドらに\m/ \m/サインを送り続ける人種(ファンら)は、音楽のリスナーではなくバンドの操り人形と思おう。
今の世の中、全てが下降したり狂っているわけで、ベターには戻らないであろうから、今更嘆く話題でもないが、これは若い音楽リスナーであっても異常事態に見えよう。
物事を百分率でいえば、0から誕生して1となり、ピーク時の100は繁栄と分裂の極致であり、やがてまた集合と衰退で1まで陥り、消滅して0に帰す。
盛る我が身もやがて能力を失って衰え死に、人類も地上に遍満して多くの文明を築いては飲み込みあい絶滅しよう。
消滅に至ろうとする現在、インターネットの普及・流行も、大中小サイトの隆盛は停滞して共存と調和は消え、大手サイトに情報が集約されるという破滅の中央集権が凄まじく見える。
今の音楽界は10年ほど前をピークとして、それから陳腐なジャンルへに集約・老衰して細分化も消え、ピーク時の100から見れば20ほどに貧弱で、遠からず1となって限りなく0に近づくであろう。
それで、世界的にも日本的にも、あんな軽薄で没個性的なラップ調の曲が流行、というか定番となっていようか?
もはやこの「濁世」で、V字回復のような現象など望めなかろうか?
衰微して遠からず消滅の0を向かえようか?
しかし孤陋なる私は、これからも大衆・衆愚に迎合せず、卑賤なる音楽を独り追究して参る所存である。
繁栄・衰退とは相対的である。
現状の前がどのような状態であったか、その状態に比して下降している状態、それが継続するほど衰退と呼ぶからである。
ここ数年の様相を現状として、10・20年前から顧みるに、繁栄と衰退の現象は凝縮されている。
ここ数年は、ほんの少し前よりも画一化・没個性化という、典型的な衰退現象が強く出ているから、演繹して後先を簡単に見通せるから笑えてしまう。
消滅はせずとも、実質希望の無い分野として形だけ生き長らえようか(先の指標で言えば10以下)。
私は世界的な画一化・没個性化という現象を2014年に論じて嘆いた。
当記事は音楽の話題に限っているが動画の、当時から既にその現象を「衰退現象」として如実に観じていたわけだから、あのような原稿に基づく動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=kx6FJ2RNyPo
私が最も尋ねたかったことは、諸々のリスナーの感覚として、「あんなもの」で満足できる音楽であろうか、という点である。
2012年4月より前、まだ中3のときに作曲して歌った曲(リンク先動画はサムネイルとタイトルが釣り・無関係で中身の曲は私の作詞作曲)のジャンルが「あんなもの」に類する(ただしメリハリも展開もしっかり混ざるから典型的「あんなもの」とは異なる)。
「ヨー聴けぇ、オレの、リリィクスゥうぉ・・・」
今の私が「あんなもの」に類するジャンルの作曲をすることはない。
録音環境が悪いから歌唱や演奏などは不向きであるばかりか、演奏する楽器・・・話せば長くなるので本家13年8月14日記事(ないし14年6月追記)に任す(ちなみに私が今有する演奏能力も、並みの小学生に特段勝らない)。
だから、歌唱も演奏も、私の作曲に取り入れられることはない。
そのうちに歌詞を書く意欲も、2011・12年ころと比べて格段に落ちた。
次に、音楽に歌詞が必要なものであるか否か、一般にヒットする楽曲(J-POP)は歌ありきであることに疑問を覚えた中3頃は悩み考えた。
2012年中に一つの結論を出していたが、活動においては気分次第であろう。
「歌詞や歌声が無くば音楽に非ず」でもないし、「歌など邪道だ」と軽蔑してもいけない、だから気まぐれで歌も作るが、先述のように自分で歌うとか音声合成ソフト(ボ○ロなど)を使うといった手段はとらない。
2014年までは、自分が歌うに良い環境を求めるか、誰か歌が上手くて録音環境の良い人(俗に言う歌い手)の歌唱を求める考えもあったが、今では少しもその発想がなくなった。
それは、以下から綴るような音楽性が定着したためである。
そして私はそれを作曲するが、人々はそれを求めることは無かろう。
「古い・ガラパゴス」が数ある中で、取り立てて私の曲が求められずとも構わない。
最初から、私に世間的な成功の見込みなど、虚像ばかりしかなかった。
私は「作ったものを愛させる」という能動的立場でないが、「作られたものを愛する」という受動的立場にも成れない。
既述の通り「古い・ガラパゴス」のリスナーがいなければ、「古い・ガラパゴス」の作曲者もいない。
ただ我一人、リスナー無き作曲者でいられようとも、誰かのリスナーとは成れない。
リスナーとなるべき作曲者が他にいない。
だから、せめて稀代の作曲者・私を楽しませる者を所望したが、自明の理に失望のほかはない。
何年も明白であったから、ここ1年ほど当記事のような「ジャンル懐疑」という戯論(無駄な議論)を、個人的な思考の中にすら起こさずいたが、また無駄で野暮な話を自ら穿り返す死に損ないの私であった。
近頃は、私がインターネットにはまった2007年、正確に言えば私がネットから受けた影響の文化的年代の雰囲気ある楽曲を好む。
2005~2008年、拡げて2000年代の雰囲気ある楽曲を好む、直截的に言えば、私が2011年から利用を始めたサイトの2006~08年頃に投稿された曲を聴いている。
2000年代の雰囲気とは何か、あくまでもオリコンのチャート上位に列ねたようなポップスなどではない。
まあ当時から積極的にTVドラマだとかも見始めるという、芸能風俗の向きもあったが、新たに求めはしない。
何せ、人間の声の入った曲は好まないためであり、また衛生観念的に、ヒットした事跡やアーティストの存在を、穢れとして感じるためでもあり・・・。
そこで、某サイトの古い楽曲を探しつつ、自らも某サイトでの投稿活動を維持するが、先ほどのように「私を楽しませる者」などいないことは「自明の理」であるから、某サイトには新たな投稿者の存在などが皆無に等しい。
某サイトにはリスナー(楽しまされる者)の存在であっても皆無に等しい現状、まさに孤陋の身で作曲する私はどこまでも不遇である。
「楽しませる者」たちは共に、2006~08年頃や、延ばして2011年までは歓喜の中に熱烈な作曲活動に勤しんでいた(過去の音楽館記事に語るらい○ちゃんや中年男性らも同様である)。
私にはその足跡を拝して偲ぶだけで、とてもその歓喜を共にすることは叶わなく、元より万事同志を得られず精神的には生来・生涯孤独のままと決定しているのであるし、未だに人間関係を求めようとする己の愚かしさ、みすぼらしく物を乞う姿との変わりのなさに虚脱感さえ覚える。
論理的にこう考えるから、自分としては珍しく虚脱感を覚えよう。
自分と無関係な過去の事象を偲ぶ、それは懐古ではなく探求のうちにあろう。
次はどこへと移ろうものか、自分の思議が及ぶ領域でない。
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
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