2021年2月10日水曜日

自ら使用を制限する対象:真実、危険

「真実(しんじつ、シンジツ;繁体字:真實, 英語: truth)」、「危険(きけん、キケン)」という2つの語句は、現代の場合、感情に糊塗された文脈や政治レトリックで用いられることが多い。
私の場合、この2つをどのように用いるか、内心にガイドラインがある:

・専門用語
;好例として:語句「真実」であれば、論理学および宗教文献。語句「危険」であれば法律、行政および産業。
;「危険」という文字列は、それだけで目を引くもので、題名や謳い文句などに用いて多くの人の注意を向かせつつ、内容や詳細は羊頭狗肉であることも多い。日本におけるナガミヒナゲシ (Papaver dubium) を「危険外来生物」と表現する人の創作物は、バイアス–偏見がけ (biasing/biassing, to bias 他動詞) の好例である。専門用語であれば、何を前提にそう言うか、定義を明白にしやすいので、その限りの信頼をおくことができる。

・文献および発言の引用と、その一時的なニュアンスや定義での参照的二次使用
;この場合は感情的文脈や政治的レトリックなど「悪しき用例」と同じ定義でも、それ自体でないため、私は利用できる。
;キリスト教聖書や神学にあるような「真実 (ラテン語: veritas)」(1611 KJV John 8:32 "And ye shall know the truth, and the truth shall make you free." 他の翻訳も定冠詞 definite article "the" 付きだがラテン語は当たり前としてコイネー・ギリシャ語写本も定冠詞なしで"ἀλήθεια"とのみ、日本聖書協会の口語訳は「真理」)は「専門用語」の例にも相当する。ただ、普遍的真理の方面なのか一時的事実の方面なのか、閲覧可能テクストの文脈で原意を察する必要がある。
;仏教典籍にあるような「真実 (パーリ語、サンスクリット語: bhūta)」(鳩摩羅什訳妙法蓮華経「如来誠諦之語」大正蔵9巻42頁b段、梵語写本IAST表記"tathāgatasya bhūtāṃ vācaṃ"; 法華経や関係典籍:無量義経「未顕真実」大正蔵9巻383頁b段、立正安国論「法華真実の妙文」創価御書 p.17ほか)は「専門用語」の例にも相当する。cf. スッタ・ニパータ4章に頻出するsacca (パーリ語、相当するサンスクリット語: satya), 法華経方便品にある uttamārtha (鳩摩羅什訳「世尊法久後 要当説真実」大正蔵9巻6頁a段、梵語写本IAST表記"ananyathāvādi jino maharṣī cireṇa pī bhāṣati uttamārtham"); これらはみな異なる語彙が原語に見られるし意味合いも各々異なるが、ここで詳述しない。普遍的真理の方面なのか一時的事実の方面なのか、閲覧可能テクストの文脈で原意を察する必要がある。
;多くの日本人は何らかの作品にある「真実は一つ」というキャッチフレーズを連想しやすい。当記事では特に解釈しない。

いずれにしても、「真実」や「危険」という2つの語句は、無反省に自然な感情で用いることを、文章中に私はしないと思われる。
理性的レトリックやジョークの意図であるならば、それと分かる方法を私自身は用意する必要がある。
文章以外であれば、結局、目の前の人を助けるなどの意図で「そこは危険だよ!」とか、「あなたに真実を教えてあげよう」という形で使用できるが、当記事の扱う領域でない。



例文1:真実という言葉の多くの用例は表面の真実を示し、深奥の真実を隠す。
例文2:危険だとみなすことをする論者に、思考の危険さがある。

仏教または宗教音楽の創作として、上記2つの例文から偈(げ, サンスクリット語: gāthā; 韻文、詩 verse, poem の一種)を作って歌詞にでもするとよい。

話はずれるが、上のキリスト教聖書引用は「自由」が言及されるが、その後の文では自由と奴隷(隷属)の一体性(一者における二面性とも)が記されており、欲に基づく行為=罪はイエス・キリストにとっての自由では全くないことが説かれている。
誰かしらの引用文に「自由は奴隷である"Liberty is slavery" (ある例では古代ローマのキケロー Cicero というが"Libertas est servitus"は格言のように省略されて原典を探しづらい"lorem ipsum"連想キケロ引用と思われ、別の例では小説家ジョージ・オーウェル George Orwell の作品『1984年』中の風刺的な真理省 Ministry of Truth の3つのスローガンに含まれる;後者は政治好きの英語教育者Tがドヤ顔で引用するには難しいもの)」などということも、こういう宗教によくある反対の言い方(自然と超自然、此岸と彼岸=この世とあの世;仏教の中論でいう世俗諦と真諦のようなもの)に近い。
彼らの神が性質として何であるかはここで論じないが(セクト的なのか無実体なのか cf., 2018-04-20記事)、単純にこの言葉の彼らにおける妥当な解釈が気になる人は聖書解説の文献 (comment, commentary, commentaries) を見ればよい(信じるかはともかく)。
「危険」な引用には、ご注意を。
詭弁?思うことをしても学ばないのは、則ち殆し(危し)?



月平均40,000文字以上になると推計される私の日記メモでは、「真実」という単語の最後の使用例が2016年6月中の日記メモである。
当記事の話は、2016年の当時に対しても如実に真実を言っている、というか、事実を言っていると私は「誓う」。
以下は2016年6月24日の内容の抜粋である:

14時40分台、母親から唐突にふすまをノックされ、声を掛けられた。返事をしても大したことは言わないので、何かを受け取る用件だと察し、その旨を面倒に思いながら聞き、実物を受け取った。受け取ったものは6月22日に公示された参議院選挙の投票券らしき紙である。母親も「投票券」としか言わない。この紙にアレコレと「真実です」と誓える情報を記入し、投票所の立候補者かどこかの箱に投票すると思われるが、こういったことは何の説明もしてこず、母は投票権を渡すだけであった。時間が経ってから見直すと、その「真実です(上記は、真実であることを誓います)」の部分の記入欄は単に期日前投票を行う理由などを示す「宣誓書」の記入欄であった。実際は、この手渡された投票券をそのまま立候補者かどこかの箱に入れると思われる。いや、これは投票券ではなく単なる整理券であるとも見ている。まあ、去る6月20日に投稿した記事で「投票しない」理由などが書かれる通り、そもそも投票しない私であるから、一応確認はしてもそこまでで終わろう。


この文章での用法は、当記事でいう「・文献および発言の引用と、その一時的なニュアンスや定義での参照的二次使用」に相当する。
この当時にも私は、宗教的信条により、「真実 (truth)」には特権的な意味を持たせる以外に自発的な使用をしなかった、と再確認できる。
宗教的な、哲学的な、形而上学的な文脈で言われたものはブログ内で検索すればたくさん見られる。
「事実 (fact)」の強調として「真実 (truth)」を言わず、また、真実の同義語としての「実際/實際」を用いずに、現代文の副詞 (adverb)「実際に/は (in fact, actually, really)」に限らせる(時期によって名詞「実態」の同義語の場合もある)。






起草日: 2020-11-19

ことば、言葉、コトバのファッションらしいものを、私は学んできたろう。
例の「ファッション的な無意味」という著書の英語名称 Fashionable Nonsense に私が影響された部分もある。
宗教学で、言葉の様々な用い方(言辞柔軟、ごんじにゅうなん)を私は学び、自由をわきまえてジョーク的に用いるにも精神的に奔放でありはしない。
著述の時間がこの起草の月やその前月などは少なかったので、著述の行為では当たり前に思われることをわざわざテーマにした。

雑談になるが、語学はファッションと同じように、任意の学習対象言語の「こなれ感」が重要である。
また、私は作曲を行うので、音楽の和声–ハーモニー (harmony) や展開に関しては「ヌケ感/抜け感」が重要である。
こういったことを私はよく思う;作曲したり、作文したり、他者の作品を鑑賞しながら。
こういったファッションやおしゃれの要素を実際に行使する場面は、必要に応じる。
メタファッションの自由な考えでは、ファッション文章やファッション音楽のセオリー抜きでもファッション文章など(科学論文や行政文書もそう見える)が作られると言える。

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