2022年4月17日日曜日

主体の認知性質が客体の亜属性に同化する現象とレイシズム、エイブリズム差別構造



もし「アジア(特に東アジア)の文字はみんな同じに見える」と言う英語話者がいるとすれば、そのように、彼らの認知の性質が、「アジア(特に東アジア)の各地で続けられている全体主義」に同化するものとなる。
そういう言説は、先にアジア各地域や人種の歴史と現代の習慣に見られる全体主義を多かれ少なかれ知っている上で、「文字」の僅かな個々の事例から全体化しているからである。
そのように、こういった人種差別(レイシズム racism)や、障害者差別(エイブリズム ableism)の傾向が認知主体に発生する現象がある。
※東アジアの文字は漢字から大きく影響を受けたものが多いが、時代や地理を広げると、モンゴル系やブラーフミー系も強い。どういう文字体系 (script or writing system) とそのうちの個別の文字 (an individual letter, individual letters) をそれら英語話者が見たかは、その人自身が必ずも明確でない時点で、そう言われる。それこそ、客体をすでにアジアとして同質化しているので、不確かな言説を出発点に調査することは限界がある。また、東アジアの人種にルーツを持つ英語ネイティブスピーカーのアメリカ国民がいた場合、その人が東アジアの人種の顔をどう知覚するか?いわゆる白人は同じ客体をどう知覚するか?いわゆる黒人(アフリカ系)は同じ客体をどう知覚するか?もし「アジア人(特に東アジア人種、いわゆる黄色人種を指す)の顔はみんな同じに見える」と言う英語話者がいるとすれば?

任意の認知主体 S が、任意の認知客体 Oa という属性で認知した後の亜属性 b に同化してしまう(もしくは主体自身に移したがってしまう)、という現象は、世間で広く見られる。
亜属性 b が、主体 S にとって良い印象であれ、悪い印象であれ、何かしらその Sb に同化する。
当記事では、特に b が悪い印象であるものが、人々にとって無意識であるばかりか、多く発生しやすいものとして私は例示する。
これは主体側の人々の、認知バイアス (cognitive bias)、防衛機制 (defense/defence mechanism) からの攻撃性として、言動に発露する。
そこから、文明と社会の差別構造を解明し、教育の目線から人権状況の改善を図ろうと私は模索する。



例1.1: 日本の新潟県長岡市 "Nagaoka" が、名古屋 "Nagoya" になる。
According to Bloomberg, its largest shareholder is the founder Tsai Eng-Meng, and second largest is Iwatsuka Confectionery, based in Nagoya.
英語版Wikipedia - "Want Want China" oldid 972834726, 959826202 版間の比較
;台湾創業、中国企業についての説明で、創業者と縁が深い長岡の岩塚製菓についての説明で「名古屋所在 "based in Nagoya"」とされた。典拠とされるBloombergのページでは、"Nagaoka"であり、英語圏のウィキペディアンがその理解の誤りを犯したろう。

例1.2: 日本の愛知県豊橋市 "Toyohashi"が、 東京 "Tokyo" になる。
Shaxware is a company located in Tokyo, Japan. They created a Proof of Concept, fashioning the Japanese National ID Card (My Number Card) into a FIDO roaming authenticator. They proposed to extend WebAuthn by using the external IC card as a primary digital certificate.
"2021 FIDO Developer Challenge: Outcomes and Winners". November 8, 2021

FIDOアライアンスからFIDOデベロッパー・チャレンジに関するアナウンスがありました。記事の中で弊社のことが触れられております。(ToyohashiではなくTokyoと間違って紹介されているのが残念)
Shaxware の Facebook ページ. 2021年11月17日.

綴りが似ていると思われた同国内の他の地名に、英語話者の脳内で認識が変換されるという例である。
韓国の平昌 "Pyeongchang" が、北朝鮮の平壌 "Pyongyang" になることも、類例である。
※韓国語と朝鮮語は pluricentric language の関係にあるが、綴り(正書法)に関しても、漢字に対するものに明らかな違いがあり、特に母音 ㅓ に対する /eo/ の綴りは韓国語の方法だと分かるものなので、こういうところも、個別の特徴を学んだ人であれば、一目で地名に対する国家的な違いが分かる。

既知の通り、名古屋市と東京(東京都または23区、旧・東京市)は日本国の中でも指折りの大都市であり、英語圏の編集者にとっては長岡と豊橋に対するもの以上に、認知度がある。
普通に見ると、この現象は「同一国の内でも多くの企業が所在する有名な大都市」に単純化されている。
綴りが一緒の別の都市 (e.g., cities named Miyoshi: Miyoshi, Aichi and Miyoshi, Tokushima) ならば多少は譲歩できる話だが、長岡と豊橋に対する認知的な誤謬の例では、綴りが異なるために、Googleなどで検索すれば全く異なる都市であると分かるものである。
「時間が無いから」といい加減に扱った、チェックを怠った、どころではなく、アジアの全体主義を知る人たちの認知構造がそれ自身に客体の亜属性を移入させた結果だとしか思えない。
彼らの深層心理が「どうせナガオカとナゴヤは同じニッポンだから "So the cities Nagaoka and Nagoya are the same as in their country Japan, anyway"」とささやいたはずである。

記号で整理しよう:
認知主体 S = 誰か英語を用いた人の認知機能(知能と精神)
認知客体 O = 1 ナガオカ, 2 トヨハシ
属性 a = ニッポン(大都市:1 ナゴヤと2 トーキョーを有する)
亜属性 b = 全体主義、反西洋の秩序、画一性

そんなにも、ナガオカとナゴヤ、トヨハシとトーキョーが似ているのか?
白人や黒人やネイティブアメリカンなどを差別したいのではないし、逆に東アジア人種を差別するつもりもないが、彼ら西側の認知構造がオリエンタルなものを見ると、東側の認知構造に一時的に変容するということを私は長年、感じている。
それなので、韓国人が作成したデータをもとに2012年に私は、以下の動画を投稿した。

『どの子が一番可愛い? Who is the cutest Asian?』




例2.1, 2.2, 2.3: 「ニート、ひきこもり」に関して、国際派の日本人と日系人3名:宗教家「メーダーみちか "Medha Michika"」、政治家志望の芸能人「谷山雄二朗 (Yujiro Taniyama)」、芸術家「マコト・フジムラ "Makoto Fujimura"」がインターネット上で発言した内容。
2019年に言っていた内容の引用、もしくは過去記事2019-07-15の例示。

Fujimura ツイートについて2019年に私が記録した例

彼ら主体にとっての客体 O は、「理想的なダメ人間」、「大多数の日本人たち」、「留学を拒む日本の学生たちとその国、日本」がある。
それら客体に、「ニート」や「ひきこもり」といった無関係の属性 a が彼らの中に想起されたのであろう。
フジムラ氏のみ生まれがアメリカ合衆国であり、父親が日本生まれの音声学者でも、日本語ができるとみなされないが、彼ら3人とも英語を理解して他の言語にも理解があるはずである。
メーダー女史はサンスクリットについて英語で説明する教科書を作り、谷山氏は日本について英語で紹介する著書を作っていた。
しかし、これらの発言には、英語の個人主義(定冠詞と不定冠詞と無冠詞の峻別=定性 definiteness)と合理主義と科学に関する歴史が適用されていない。
発言をした彼らも彼らなりの「ニート、ひきこもり」ステレオタイプを持っていて負の属性もとい亜属性 b が「無能」、「視野狭窄」、「口先だけで行動できない」、「夢が無い」、「将来性が無い」、「寄生虫」、「怠惰」、「大きな子供 (kidult)」、「鎖国(サコク sakoku)」などといったものであると、亜属性 b に同化し、こういう言論になる。
これにも「どうせ... "..., anyway"」という深層心理があるはずである。
個人主義をどう評価しようとも、彼らがまともなシャカイジン様であれば、なんだかんだで同じ人間、ヒト Homo sapiens sapiens として十人十色の特徴が想像できるのに、こういう認知的な異常さが出ている。

嫌っているものについて言及し、あまつさえ真似を無意識にするとは…、よもや「ツンデレ」であろうか?
こういう人たち(特に30代以上)には、すでに教育の力で基本的な倫理を得させるのも難しい、と長年、私は思っている。
学びそこないなのか、一時的な狂気なのか。
前回記事で「つける薬とは、個人の心理現象よりも社会全体に対するものだ」と記したこと(社会病理の意味、真意)が、当記事でも私は言える。
私は社会的な道理を、学問、芸術などへの意欲を通して学んだのでよいが、彼ら宗教家、政治家、芸術家のシャカイジンたち(会社員や準エッセンシャルワーカーである我が両親も同様)が普通に大卒学士号などの学歴であっても、その種類の学びに関係は無い。
彼らは病気が強すぎるのでないし、彼らに病気を想定しても有効な薬は無い。
病気の想定された社会に対するものとしては、存分に、薬がある。
私から社会に対しては、0.01 ppb くらいの濃度しか与えられない…、何たるポストモダンじみたナンセンスの言説であろうか?

現代日本の穢多非人、不可触民 (untouchable)であり、カースト差別と非人間化 (dehumanization) の被害者の代表格が、ニートとひきこもりになっている現状と、インターネット上の悪人 (troll) は誰でもニートとひきこもりであるように証拠の無い認定を行う行為に関する誤謬は、以下の記事にまとめられている。
2020年3月25日投稿『ニートの記号論・記号学で社会正義の程度を判別する』
https://masashi.doorblog.jp/archives/54300497.html

私が10代の時にどういう発言をした、ということも、あえて消さずに公開し続けるのは、当然、そういった社会の害毒を私も受けていてその結果でどういう発言をした、というのが分かりやすいように公開している。
たとえ恥ずかしくとも、汚らわしくとも、隠すことの理由としない。
宗教家、政治家、芸術家のみならず、TVタレント、有名人と著名人 (celebrity), お笑いなどの芸能人 (comedian) でさえも、人の心の幸福と平安、夢と希望と将来性、および社会の豊かさを壊す者が多い。
そのようなことを2014年の時点で私は気づいていた。
それでも、彼ら一人一人は、「世間の幸福を壊す悪の組織」(比喩であり、陰謀論でない)の下っ端(カモ)にすぎない。
彼らを含めた多くの人々を社会正義に一気に目覚めるための有効な手段が何であるか?
私は前回記事に、こう記した:
「心理の生理的な現象」自体をつぶそうとせず、確かな教育を老若男女に全てにゆきわたらせて原因を解消する、地道な努力しか、有効な手立てはない。
「見知らぬ人への攻撃という凶悪犯罪(うち宗教的な心情に基づくテロを含まない)」を無くするにも、急進的なものは何ら解決のすべではなく、ただ、同じように「地道な努力」のみが有効である。

2019年5月、外交官も殺されるような通り魔殺人事件が神奈川県川崎市多摩区で発生し、2021年12月、院長も犠牲になるようなビル放火殺人事件が大阪府大阪市北区で発生し、2022年1月、訪問医が犠牲になるような憎悪の殺人事件が埼玉県ふじみ野市で発生した。
そういう加害者も被害者も、日本国の退治されづらい「悪」の二次的な被害者にかわりない。
それら犠牲者が、どうお仕事ができてもできなくても、「非業の死(という名の社会的な連帯責任)」で殺された。
まず自身の心の悪を抑制することが「善」である。
そうして心を安定させないと、社会のための積極的な善はありえない。
私は幼少期から日本国で虐げられ、心の安定を失わされている。
誰もが意思で互いの福利厚生に資する行動ができるようになるには、心の安定を失わせるような社会の「悪」が排除される必要がある。





この「同化」仮説の問題点
・彼らの一時的な精神状態に関する脳科学、神経科学的な証明ができない。
;脳神経に関連する脳電図、脳波の方法。

・筆者の責任の所在が不明な場合や、匿名性が高い場合は、いわゆるその人種の推定さえできない。
;人種アイデンティティは当事者の自認でも構わない。



人権状況の改善、埋没した人権問題の発掘などを行うには、細かな例を見ていくことは大事だが、解決には学際的な作業が必要になる。
私は心理学を好んでいないが、心理学や認知科学全般に、この役割の一部分を担ってもらいたい。

こういった諸問題を日本国や大韓民国や台湾や香港など東アジア規模で解決しなければ、いつまでも「白人サマ、黒人サマ、人種を問わない英語話者サマがた」は「アジア人=東アジア人」、「そのアジア人はどれも○○なんだ」と深層心理で認知し続けるであろう。
私が一見して一般人でもネガティブに認知される属性を持っている立場であり、それを隠さず、はっきりと伝えよう。

SDGs「誰ひとり取り残さない」("No one left behind", "No one will be left behind" or "Leave No One Behind" LNOB)とある。
ひろゆき「無敵の人」(2008年、秋葉原通り魔殺人事件の加藤智大がきっかけの概念)と言われる。
どういうことについてであれ、誰かが「取り残された」と思い、「無敵の人」となって凶悪犯罪を起こすことが無いように、誰もが自由と責任を健全に行うことのできる社会の維持に努めてもらいたい。
文明全体、もしくは日本国に限る場合でも、その土地の人々が不幸な傾向があるのに、誰かが抜け駆けしたり、地方どうしの人口の争奪戦に勝者が出ても、そんなことでは共倒れに繋がるだけであり、SDGsでもなんでもない。
「誰ひとり取り残さない」人権状況の改善をして誰もが各々の立場を尊重して活躍できるようにしないと、地獄への特急列車に人々は相乗りして一人残さず堕獄する。

中学生のころから、私は何かにつけて自分の対外的な立場を改善したい、あわよくば抜け駆けしたい、と努力していたが、後に、それは菩薩の道でないと分かった。
そこで、人々の不幸なうちは私も決して幸福にならない、と認識を改めた。
私がもし評価されて金銭の寄付を受ければ、中国の土着信仰「布袋さん」みたく裕福になるとしても、それはそういうものなのであって何も「罪」でない。
富裕自体は、ただちに道徳的な悪や罪でないということが分かる。
しかし、それさえ私には無いのであろう。

さまざまな言語話者(ここでは主に英語)の持つレイシズム (racism)、エイブリズム (ableism) のから、文明と社会の差別構造を解明し、解決策を学齢期の教育に求めたい。
そうでないと、働く能力の高い人たちの能力が落ちたり、不慮の事故による負傷と労働災害や非業の死を更に多く招くことになる。
その教育のできる社会では、若い世代、新しい世代が自身の「他人の自由を過度に蹂躙しない程度の自由」で夢を追いかけ、スキルアップにつなげるし、自身に直結するミクロとマクロの社会の問題を真面目に考えることもできる。
私が実際に幼少期から、どれほど他人たちから虐げられようと、各種障害者、マイノリティについて我が身のように考え、健常者としてできる努力をしていたが、今の日本国、文明全体では、そんな素晴らしいことが実現されるとは誰もが夢にも思わない。





備考:亜属性 b が良い印象である場合の例

任意の認知主体 S が、任意の認知客体 Oa という属性で認知した後の亜属性 b に同化してしまう(もしくは主体自身に移したがってしまう)、という現象で、良い効果があるのかについても考えてみたい。
仏像(菩薩を含む悟りの人の肖像)を見て「心が洗われる」などとする意見。
視覚的な客体は単に有形物の側面でしかないが、そこからの精神作用は、関連する知識に由来する。
ほとんど仏の人格について知っているからそういう意見になるので、その人格の属性 aを知っていて尊いことに関する亜属性 b に主体が同化する。
当然、「三学(戒定慧)」の前提を除いたにわか作りの悟りというものは無いし(意味が似ている「頓悟」は三学があってこそ;本覚思想などもそういう経緯から言えるもの)、実際に仮の体験さえしているかも疑わしいのだが、それは人による。
「仏道修行をしたい」と一念発起するかも人による。
両萌相応などの件、リンク@。

本文での「同化」は、認知性質が知的怠慢を欲しているような神経生理的現象のようにも思える点で、「良い印象」プラスの効果というものは、かなり知的エネルギーの消費があるか、一時的な安心感などといった方向にある。
そのため、同列に語ることは困難である。





起草日:2022年2月15日
しかたなく、「亜属性(あぞくせい)」という造語を設けた。
これを英語で表現すると "subproperty"(sub- + property), "sub-property", "supproperty" になる。
ラテン語であれば "supproprietas" になる。
他に英語で表現する候補に attribute を用いたものを考えたいが、at- 部分は接頭辞 ad- であり、それを残して "subattribute" とすべきか、"subtribute" とすべきか、疑問である。
多言語辞書 Wiktrionary の英語版では、"subproperty" と "subattribute" の記事が見られる。
「下属性(かぞくせい、または、げぞくせい)」と訳することもできる。

当記事は、最初の1日に大部分が記され、2月16日からはずっと編集&加筆したことがない状態である。
ほぼ、下書きの状態で、当メモ帳の投稿周期(締切)を迎えた。
そのとき、「下書きと開き直って公開するにしても、不足がある」と思い、4月16日と4月17日に補強した。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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