スーカラマッダヴァ"sūkaramaddava" (やわらかい豚肉・猪肉, tender pork or boar)
スーカラ"sūkara" (豚・猪, 英語のスワイン swine, sow, 学名Sus, Suidaeと同語源の印欧祖語*suH- インド・イラン祖語*suH- 猪についてはヴァラーハvarāhaという語もある)
マッダヴァ"maddava" (サンスクリット語mārdava 漢語 柔軟"にゅうなん" 同系の言葉にskt: mṛdu, pl: muduがある)
複合語スーカラ・マッダヴァ→同格限定複合語 カルマダーラヤ"karmadhāraya"=持業釈「柔らかさのあるスーカラ(語順反転タイプ)」、所有複合語 バフヴリーヒ"bahuvrīhi"=有財釈「柔らかさのあるスーカラを用いた料理・スーカラが柔らかさを持った料理(スーカラ料理)」
アッタカターによる注釈「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」
※パーリ長部16経・大般涅槃経で、「スーカラマッダヴァ」を鍛冶工の息子チュンダ"Kammāraputta Cunda"が釈尊へ供養したというが、漢訳経典「遊行経(長阿含2経)」における鍛冶工の息子チュンダ→工師子・周那(プラークリット由来?)による供養の品は「栴檀樹耳(≒茸・キノコ)」とされている。栴檀(旃檀とも)はもともと梵語チャンダナ"candana"の音写であるが、同経梵語写本(一部欠損)にはスーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava")の名が無く、チャンダナをチュンダが供養しない。
※「スーカラマッタヴァ」という表記ゆれ(ダ→タ)もある。手塚治虫の漫画などにそう表記されているようである。
2017年11月18日の日記メモでは、日頃の身体的な悩みについて少し仏典の記述を想起したので、色々と文献の調査をしたことを記してある。
日記メモ特有の「簡略な表現」を心掛けてあるので、学術的に危うい部分もあろう。
これを、以下に引用するが、記事で掲載するために内容を多く補強する。
下剤と便秘(排便間隔)に関しては、どのような食品を食べるか、という問題が思い浮かぶ。
問題とは、食べる時間・食べ物の種類・食べ合わせ・一度の摂取量などの検討である。
養生の法"āyus"は仏教らしくなさそうだが、阿含時の教説では多くの用語が見られる。
例えば、「消化"pariṇāma"(pari √nam = 変化=食物については消化することを指すので漢訳経典に消飲食・消食とある)」ということをしばしば問題にしている(説法の報酬として受けた供養は如来以外に正しく消化できる者がいない等とマハーパリニッバーナスッタやスッタニパータといった現代に有名なパーリ経にも見られる表現)。
科学では人間が食物を摂取して後のプロセス「燃焼(糖質・カロリー・生理的熱量)」が言われるよう、仏教でも四大(四界または地・水・火・風・空・識の六界)の「火"teja"」に関連する事象に消化行為(吸収または燃焼・代謝)が示される(食後に体温が上昇するためであろう)。
ajjhattikā tejodhātu = 内なる火界、火の要素(中部28経など)、なるほど、火が物(有機物や油)を燃やして煤と灰・炭素化合物の温室効果ガスを生むことと、体が物(糖質など)を消化・吸収して老廃物・二酸化炭素を出すことは、よく類似するし、共に「燃焼」と呼ばれる。
このように、様々な教説で食物を「正しく消化すること"sammā pariṇāma"」についての言葉が見られる。
経文を按ずるに、出家修行者・沙門・比丘(乞食・托鉢を行う者)にとり、「自由で多様な食事」は取れないための身体的・病理的な悩みが付きまといやすいと思われる。
仏教・仏道修行のスタンスとしては、スッタ・ニパータ4章16経で釈尊が舎利弗尊者に「食べ物・食べる場・寝床・寝苦しさという4つの思慮"vitakka"は己を迷妄に陥れるので制御すべきである(取意)」と説かれるように、積極的に良い衣食住(えじきじゅう)を求めず、如法のままに得られたもので満足すること(少欲知足)である(出家修行者は持戒持律で実現できる)。
私の生活上の課題である「下剤」に通じる概念も"virecana (慣用表記virechana)"として見られる(パーリ経蔵では長部1・2・10経の戒に関する教説でのみ見られる言葉、後述のパーリ涅槃経チュンダ供養話にVirecamāno bhagavā avocaとして下痢"Virecamāna"の単語が見られる)。
心身共に、下剤や耳栓などの常用による延命策に依存することは、非道となるが、どうしても甘えてしまう私である。
※この話題については「真の健康法」についての記事を参照されたい。
有名なパーリ長部16経・大般涅槃経(マハーパリニッバーナスッタ)の釈尊がチュンダ"Kammāraputta Cunda"から供養を受ける話に、"sūkaramaddava (直訳で柔らかい豚肉)"という複合語がある。
前半のスーカラ"sūkara (英語swineに印欧祖語*suH-の観点で通じる>インド・イラン祖語*suH-)"という言葉は「豚」を意味し、後半のマッダヴァ"maddava"(梵語mārdavaと推定されるが同経梵語写本に一連の話に関連する語sūkaraやpariṇāmaが見当たらない)は「柔らかい」という意味である。
そのスーカラマッダヴァが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」であるという見解が周知される(何らかの書に載っていてネットに伝播している?)。
ある英訳では"tender pork (柔らかい豚肉)"と呼ぶ。
注釈書アッタカターの言及では、キノコという説が無い(きのこパーリ語"ahicchattaka"など無し)。
その長部16経の漢訳である長阿含経2経・遊行経(巻第三に載る)でチュンダは純陀・淳陀ではなく「工師子・周那(呉音しゅうな、漢音しゅうだ、プラークリット訛り発音によるか)」と表記され、そこでは周那が「煮た栴檀樹耳(≒茸)」を釈尊に供養したとある。
「栴檀」とは、仏典に多く見られる香木の一種であり、「栴檀樹耳」はそこに生えるキノコと読まれる。
天台大師智顗さん法華玄義・巻第七に「八十二歳老比丘身、詣純陀舍、持鉢乞食、食旃檀耳羹(キノコスープ)、食訖説法、果報壽命中夜而盡。」と、清涼国師澄観さん華厳経演義鈔・巻第六に「阿含説如來涅槃之相者。彼説如來於純陀家乞食。因食栴檀木耳羹。得患背痛。」とあるよう、中国仏教でもその記述が認知されていたようである(ほか妙楽大師の法華玄義釈籤や章安大師大般涅槃経疏)。
そのほか、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」については中国サイトに載る高楠順次郎氏(印度佛跡實冩という本にある?)の説によると、梵語mārdavaに珍味の意味・用例があると示して「野豬所吃之珍味(イノシシに好まれる珍味)」とする。
これが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」説の文献学・学術的根拠と思われる。
※豚は豚でも、メス豚が「オス豚の精巣で作られ唾液に含まれる性フェロモン・ホルモンに似た媚薬効果のある物質を含んだ香りを放つトリュフ (Tuber spp.)」を求めることに依るわけだから、インドに「トリュフのようにメス豚が求めるキノコ」があるかどうかを調べねばならない。しかし、まずは家畜化された豚でなくインド固有種イノシシ"sūkara"のメスにも、同じ性質があるかを証明せねばならない。ちなみに、インドのキノコ(菌類)について生物学的な話・実地調査の例が載る論文がある(日植病報51 p. 251にスーカラマッダヴァに対する所見)。生理学的な話において、ある毒キノコの食後何時間で症状が起きるということを書いてある箇所は、経文の誤読に基づくので無視すべし。インド学者・岩本裕氏の、自虐史観にも似た学問的主張も載っているように、情報を正しく吟味すべし。
しかし、その漢訳された阿含経典の原型に「スーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava"またはガンダーラ語などプラークリットでの表現)」という表現があったかといえば、現在出土している梵語写本(校訂: Ernst Waldschmidt 一部欠損・中央アジア出土らしいが詳細不明)に見られないため、長阿含経の訳者(仏陀耶舎・竺仏念さんら)が「スーカラマッダヴァ(に相当する単語)」に直面して「栴檀樹耳(or茸)」と訳したという可能性は低い。
阿含経典の原型となる仏教の伝承や、後世の部派仏教(特に北伝仏教)における変化など、様々な事情を鑑みると、スーカラマッダヴァ(に相当する単語)が必ずしも長阿含経の訳者に認知されるわけでなく、パーリ経チュンダ話に6度載る"sūkara"が梵語写本に一度も載らないことから推して知るべきである。
パーリ経に基づく解釈でもアッタカターに見るように「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」というものでしかない以上、パーリ経におけるスーカラマッダヴァ自体が「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」を指すという根拠になることは無かろう。
「栴檀樹耳」というキノコを用いた料理が釈尊最後の供養であるとしても、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」がスーカラマッダヴァ(に相当する単語)の訳語となるわけでない。
偉大な学者・高楠順次郎さん(大正新脩大蔵経や南伝大蔵経の主要な編纂者)ともあろう方がこの説を唱えたことは、恐らく「お釈迦さまは肉食なんかしていないでしょ?仏教の決まり事だから」という日本仏教徒(特に禅宗系)の信仰を壊したくなかったための、擬似学問の方便だと考えられる。
※とあるパーリ語辞書に、「スーカラマッダヴァ=トリュフ」という西洋人の学者の解釈らしい記述が見られた。その場合のmaddavaは「(豚が)喜ぶもの(=欲求の対象)」という解釈となる(果たしてそんな用例があるか不明・望文生義かも)。そこで少しウェブ検索を行った。西洋の学者が発祥とされる。本来は高楠さんなど戦前の日本の仏教学者では想像しづらい見解を、彼らが想像したと思われ、高楠さんはその説を借りた可能性もある。ネット上には、トリュフ説への批判が見られる。白人比丘Shravasti Dhammika氏は「トリュフ(のようなキノコ)truffle, trufflesはインドに生育しない。フランスで実際に行われるブタによるトリュフ採取は近代のもので無根拠の説だ。菜食主義が仏教の修行だという誤った見解に基づいた主張だ(菜食してもよいが慈悲に根ざしていなければ"food fad"で無益)」とする。スーカラマッダヴァの事実について、現代では解明しようも無い問題だが、学者の一般的な見解は「豚肉(or猪肉)」で一致しているそうである。
釈尊はその、スーカラマッダヴァと表現される鍋料理(スープ)を食べ、残りをチュンダに捨てさせてから強烈な腹痛・下血に至ったという話である。
そういう私は、本日の起床後、キノコと豚肉の粥を作って食べた。
排便も下痢も無い様子である。
※釈尊がスーカラマッダヴァを食べ残してチュンダに捨てさせたことは、スーカラマッダヴァによる中毒症状を予見したためという解釈がある。腹痛・下血・下痢の原因は必ずしもスーカラマッダヴァの成分の影響や雑菌による食中毒とは言えず、単にお年を召された釈尊が食事を機に、そういった症状を引き起こす可能性があっただけで食事を自らやめただけかもしれない。しかし、パーリ経に「たくさんの"pahūta"」という表現もあるから、大勢の比丘が食べられる分量を(中毒症状を予見して釈尊みずから毒味をしつつ)他者に食べさせずに捨てさせたという解釈も妥当である。チュンダ話の全体に、どういった読解ができても、仏教徒は食事に感謝しつつ、五欲を戒めることが大事である。釈尊もといブッダに関する歴史的事実を知りたい人は、経典の伝承を文字通りに見て科学的に考察しても、伝承が曖昧である場合、的外れになることを留意されたい。近代合理主義や現代人の知識のものさしにより、古典や聖典に対して誤った解釈(当人の思想に基づいた都合の良い解釈)をすることは、近代学問に多く見られる。「スーカラマッダヴァの訳語としてのトリュフのようなキノコ」説のように。合理主義学問の範疇なればこそ、中立的に極力多角的な目線で、合理的な分析をしつつ、人文系であれば伝統・信仰を重んじることが重要である(学術・伝統ともにトリュフという珍解釈が雑じる余地は無い)。この観点で文献学を仮に用いる私である。合理主義という名称でも、近代以後にしみついた形式的なもの(悪習・無自覚)と、真に体現されたもの(前進・有自覚)と、細分化があり、道心ある若い世代は須らく後者なるべし。
2017年11月18日の早朝にキノコと豚肉を用いた「お粥」を作った |
以上、2017年11月18日の日記メモより抜粋となる。
個人的な「スーカラ・マッダヴァ文献考証」の結論は、冒頭の概略や本文にまで終始一貫するように、「柔らかい豚肉を用いた料理(豚肉を柔らかくした料理)」である。
当記事での補足となる。
スーカラマッダヴァに関するアッタカターの記述を中国人が中国語訳と共に載せているページがあり、当該箇所を以下に引用する。
https://www.facebook.com/tbcm.org.my/posts/1009531315792191:0
隔天,純陀邀請了佛陀和比丘僧團到他的家裡用餐,在供養的食物中,也準備了一些軟豬肉(sukaramaddava)。由於純陀是一位初果聖者,所以這些軟豬肉是他派人到市場買來的現成肉,不是叫人殺的。在《長部註》裡解釋說:「這些軟豬肉是一頭不太幼、不太老很好的雄豬的肉;據說這些肉柔軟而且有油質,是令人煮好、準備好的肉(Sūkaramaddavanti nātitaruṇassa nātijiṇṇassa ekajeṭṭhakasūkarassa pavattamaṃsaṃ. Taṃ kira mudu ceva siniddhañca hoti, taṃ paṭiyādāpetvā sādhukaṃ pacāpetvāti attho.)。」佛陀要純陀把軟豬肉單單只供養給佛陀自己,而供養比丘們其它食物,把剩餘的軟豬肉埋在地下。
ちなみに、私の身体的な悩み・便秘について、当日の翌日や翌々日には「良い便り」がある。
興味のある方は該当する日記メモまとめ記事よりご覧になってほしい。
医学的所見も書いてある。
キノコが便秘に対して善く作用したかどうかは、判断しづらい。
小部・ウダーナ8章"Udāna 8.5 - Cundasutta"にもスーカラマッダヴァが登場するので、そちらの注釈書アッタカターも見ると、「柔らかく脂身の多い豚肉説"sūkarassa mudusiniddhaṃ pavattamaṃsa..."」とは別のものとして、「豚に踏みつぶされた場所に生えるキノコ"sūkarehi madditappadese jātaṃ ahichattaka"」という説もあると記されている。
漢訳の長阿含経のように、パーリ語の文献もキノコ説を示した(今回は注釈書であるアッタカターのみ)という、事実提示をしておく。
漢訳の長阿含経は、原本が法蔵部によるものという近代的研究もある(慈恩大師窺基さんが妙法蓮華経玄賛で四阿含全てが大衆部によるものというが日本の法幢さんは倶舎論稽古で法蔵部の分派元の化他部によるものといって窺基さん説を批判した)。
そういった様々な部派の伝承における原語や、原語の変遷(後日投稿する記事における長部27・アッガンニャ経のrasapathavīに関する解釈が一例でありパーリ語経典=いわゆる上座部・スリランカ大寺派の典籍とインド諸部派の典籍とでは複合語の構成などに差異が生じていることから解釈の相違を見出す)や、それに対する訳経僧の解釈など、年代の関係は把握しきれない。
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
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