2015年9月7日月曜日

呉音では濁音となる漢字・鼻音の後でも連濁しない漢字(天など)

「神道」は"しんとう"と読む。「仏道」は"ぶつどう"と読む。
この二者の違いは「○道」が濁音であるか否か、の違いだ。

前者の「神=しん・道=とう」はどちらも清音であり、また漢音である。
漢音は清音の場合が多い。
「神社」は"しんしゃ"と読まず、"じんじゃ"と読むとおりである。
「道=とう」という読み方は一般的でないのだが、これを敢えて漢音清音統一として取り入れており、筋が通った反骨精神を感じる。
この読みが語の成立当初から今に流れているなら、成立時期も背景も何となく分かってしまう(古い仮名遣いが"しんたう"であることは措いていただきたい)。

後者の「仏=ぶつ・道=どう」はどちらも濁音であり、また呉音である。
呉音は濁音の場合が多い。
「仏」を"ふつ"と読む漢音の例もまた一般的ではないが、「仏領インドシナ」あたりが著名だ。
フランスの音写「仏蘭西」自体、「仏(ふつ)」の読みを踏襲している(中国ではフランスの音写が「法蘭西」と、「仏法」の違いがある)。
仏教用語は呉音の傾向が強く、これは時の王朝が隋の時代に伝えられたところによる(遣唐使以降は鈴=リンなど、一部唐音が増える)。
呉音というのは不規則的な傾向があると言われるが、これはより正確に言って「時の中国(のとある地域)から伝えられた音(上古音・中古音に近い)を慣れない日本人が記録したり、流入してきた音も同時期に多様であった」ことが真実だろう。

例えば「樂(楽)」という字は、同じ経文を同じ流儀*1で読んでも「伎楽(きがく)・遊楽(ゆうらく)・信楽(しんぎょう)」と、何故か三通りも存在している(自我偈には全てが具わる)。
これは日本に伝えた当時の中国大陸のどこかの地域で読み方により意味を複数に分けた例*2の最たるもので、それでもその当時は現在の「ガク=音楽、ラク=楽しい」という意味に相当するものしか確認されない。
信楽・愛楽・楽着など"ぎょう"に相当する音は、中古音とされる中に"ŋau = ngau"があり*3、もしこれを当時の日本人が聴いたのであれば"がう"と仮名遣い・・・仮名も無き時に仮名遣いとは表音漢字だろうか、ともあれ"がう・ぎやう"と聞き取ったことは想像に難くなくて、それを現代流に置き換えると"ごう・ぎょう"となる。
それが日本で特異な語句にこの音が当てられたようであるが、中国大陸で学んだ僧がそう教わってそう呼んだのか、日本で便宜上こうしたのか、詳細は未だ掴めずにいる。

1年以上前にメモ帳記事などで「漢音で"ei"の発音があるものは"you"となる」と語ったりしたが、特にこの記事に通じるものとしては「成・静=じょう」という呉音である。
前者は「成道(じょうどう)」があり、後者は「静脈(じょうみゃく)」がごく一般的な用例だ。
「成功(せいこう)」には、上記呉音の例に加え、「功(こう)」という漢音を鼻音"う"*4に連濁させて"じょうごう"という読ませ方を当方のIMEでは変換できる。
「定(てい)」にしても呉音は"tei→tyou→dyou→jou=じょう"と逆に辿れ(これには時系列的に語弊があるが説明は省く)て、こちらの"じょうごう"は変換できないが「定業(じょうごう)」や「入定」と、仏教用語には「定(じょう)」という呉音は多い。
漢音"てい"が呉音だと"ちょう"という漢字なら「丁(丁寧・一丁)」などが好例だが、「定」のように"じょう(旧仮名:ぢやう = dyau)"として濁音を伴う傾向があることをここで留意されたい。



続いて、記事タイトルにある「鼻音(ウ・ン)の後でも連濁しない漢字」について触れる。
このような漢字は漢音と呉音で読みが一致することも多い。
それは「天」や「開・海・戒・改」などである。
後者の"かい"という漢音がある場合、呉音では「会・回」のように"え (ゑ)"と読む例から、「悔」が"け"、「解」が"げ"と読むなど、漢音→呉音を辿ると枝分かれが見られる*5
もちろん時間的にはその逆で、いくつかある川の上流が下流で合流するもの、と言える。
「カイ川・エ川・ケ川・ゲ川」が下流で多くが「カイ川」に合流していく、と。

そもそも連濁というのは当記事で「成功(じょうごう)」と既に触れているよう、音読みの熟語の場合は鼻音の後が濁音になるという法則がある。
「成功(じょうごう)」を例に取ると紛らわしいが、これは「成」が呉音で「功」が漢音と、複合状態である上に、「功」が「成(じょう)」の2モーラ目"う"の鼻音に呼応して濁音となっている。
「功」が「功徳(くどく)」のように呉音"く"なら"じょうぐ"と読める。
「功徳(くどく)」は、「功(く)」が鼻音でないのに連濁しており、これまで解説するとややこしくなる。
・・・例えば、「諸有修功徳」という自我偈の一句は"しょー・うー・しゅー・くー・どく"と5拍子で読むのだが、"くーどく"となれば、"くー"が鼻音連濁を起こさないともいえないので、他の経文も同じように1モーラの音を伸ばして読むことから、そのまま鼻音のない状態でも連濁したと見る。
いいや、この「功(こう・く)」は元々ピンインでいう"gong"という2モーラ目が軟口蓋鼻音であったが、千数百年以上前の日本では2モーラ目"ng = う"が省かれては「ごう・こう」であるべきところ、「ごう・こう」でない「く」という1モーラのみの清音が普及したと考えてよい。
読経において元々1モーラ相当の音*6が2モーラに伸ばされただけだと、通常は連濁しない・・・だから知らない人にはややこしくなってしまう話となる。
「呉音"く・ぐ"+連濁」で似ているのは「弘通(ぐずう)」などがあるが、「通」という字*7は経文を伝統的に「神通力(じんずうりき)」と読む場合と、一般的に「神通力(じんつうりき)」と読む場合がある。



冗長な話をここで終えて、鼻音でも連濁しない漢字の例について書く。
まず「天」については、「寒天・昇天」から、仏教系だと「梵天・有頂天」などがある。
いずれも前の漢字の2モーラ目にある鼻音"ウ・ン"の後で連濁が発生していない。
連濁の法則が仏教系に多いとしても、「梵天・有頂天」までが"ぼんでん・うちょうでん"となっていないところ、伝来当時の中国などで実際に、濁音が生じない漢字であったのだろう。
そうでなくとも、やはり普遍的な法則に見える仏語における連濁も、例外があるようだ。
ここに理と事の思考が活かされよう。

これは「点」にしても同じく「難点・盲点」など、"ウ・ン"の後で濁音となっていない。
一方、"てん"の発音があるものでは「典」あたりが連濁し、一般では連濁せずとも、仏教系で「経典」は"きょうでん"と読む宗派も多い。
なお蛇足となるが、「法典・聖典」などは"はってん・しょうでん"と心の中で風変わりな読み方をしているが、これについては多く勉強されるとどういう言語的法則が根底にあるか知られよう。
"しょうでん"を変換すると「聖天」なるものが!「天」が連濁しておる・・・
不安なので「梵天」についても調べると"ぼんでん"と呼ぶ例が散見された。
この辺りの考古学的な調査は不可能なので、「そういうこともある」と思うこととしよう。

続いて、「開・海・戒・改」について、単語例は枚挙に遑がないためこれを省く。
簡単に説明できるものは、「信(しん)」が連濁せず、「進(しん)」が連濁するところであろう。
"しょうしん"と清音で読める単語に「正信」と「精進」があるが、前者は"しょうしん"であり、後者は"しょうじん"である差が分かる(正は正法"しょうぼう"とかというように正も精も2モーラ目が"ng"鼻音で連濁させる作用がある)。
私が「仏語」を強調するよう、仏語では多く連濁する漢字も、一般的には鼻音連濁の法則が薄いせいで清音のままというものが多い。
だからこそ、鼻音連濁の多い仏語において鼻音連濁をせず清音のものを探す必要がある。
"しん"の発音なら、「心」も「用心・信心」など、仏教系では鼻音連濁するが、"しょうしん"の変換では「傷心・小心・焦心」など清音で多く出る。
なお、冒頭にあるよう「神」という字は漢音"しん"と呉音"じん"であるから、鼻音連濁の限りでなく、「深」にしても呉音が"じん"であるために「甚深」を"じんじん"と読み、これも鼻音連濁とは異なる。




最後に、漢字の音読みと関係の無い和語の話をする。
「涙」を"なだ"、「喉」を"のんど"と読む場合を見かけないだろうか。
「涙(なだ)」は、"なみた(?)→なんた→なんだ→なだ"と、"み"が"ん"に撥音化されてこれが無音化した("なみだ"という一般的な発音は"なみた"の異流か)。
「喉(のんど)」は、一般的に"のど"というが、これ自体も涙と同様、本来"のみと(飲み門)"と、日本の医療が進んだ時代からか出来たようで、"のみと→のんと→のんど→のど"と、撥音便・無音便(造語)を踏んできている。
ここで注目してもらいたいのは"のみと→のんと→のんど"の箇所である。
"のん"の後の"と"が発音しやすく連濁して"のんど"となった。

和語には、こういった経緯を踏まえる動詞がとても多くあり、源流を辿ると似たような例が散見される。
これは「涙・喉」のような名詞に限らず、多くの動詞にもあるが、これについては勉強してその様相を探ってもらいたい。
案外、重なった言語感覚から手に取るように得られる。

もったいぶってみたが、一個だけとりあえず動詞の例を示す。
「重んじる」とは「重む」という動詞の連用形「重み」に「する」というサ変動詞をつけて「重みする→おもんする→おもんずる→おもんじる」となった。
この法則に気付くと、頭で勝手に「辛んじる」などとポンポン動詞を生んでいる(類推・逆成)。
※「辛うじて」の混同だろうか、「辛(かろ)うじて」とは「辛(から)くする→(ウ音便・字音変化)辛(かろ)うする→(う濁音)辛うずる→(連用形+て)辛うじて」として出来たのだろう。

サ変動詞が「鼻音連濁+じる」と変化するのは「感じる・講じる」など、動詞音読みのものに多くある。
「存(ぞん)じる」「存(そん)する」は、同じ漢字であるが、漢字の読みに清音・濁音の差があれば、サ変動詞も"じる"変化が生じていない。
生じない、変じない。
サ変動詞で連濁し、"じる"変化が起こっているもので、鼻音ではないものは「命じる」等あり、これも"メーじる"という長音だから"じる"変化があると思えばいい・
もちろん、「存(そん)する」のように「呈する」が一般的な"エー"系サ変動詞もあるし、そもそも文語体・古いものは「汝に命ず・肝に銘ぜよ」等書いてしまえば、"じる"変化はごく現代的・慣用的で、必ずしも絶対的な文法では無いことが分かる。
「○○する」というのは、正統終止形で「○○す」となり、古書を紐解くと「○○する」は本来連体形の用例のみであることは判然としていて・・・
これについては過去記事で縷々と語っているので参照されたい。



脚注

*1・・・例えば、異なる宗派と地域では、同じ経文でも連声・・・「成仏已来」と唱えるとき「じょう・ぶっ・ちー・らい」と読む場合と、連声せず「じょう・ぶつ・いー・らい」と読む場合とがある。元々連声するのが正統であるとか、あるいは正統気取りで連声をしはじめたとかは、考古学者ではないから知る術がない。二分・多分に分かれた読みは、宗派や地域などによっていずれかが慣用的な読みに変えたり、後世へ正統派の読みが忘却・不相伝などは確実に考えられる。

*2・・・例えば、顕著なものとして「易」という字が挙げられる。「貿易」等に見る"えき"は、交換や変化などを意味する。「平易」等に見る"い"は、難易のやさしさを意味する。これは、中古音に"yek"と"ye"という違いに現れ、それ以前の上古音では意味の違いによる発音の著しい差が生じていない。他は、「惡(悪)」も、状態や行為などの悪さ(悪化・悪行・悪魔)を"あく"といい、憎悪・嫌悪(悪寒は?)などを"お"と言うが、中古音では同じく"ʔak"と"ʔu"という違いがある。"ʔ"という環境依存文字は「声門破裂音」の記号で、有るようで無いような子音だと思えばよい。

*3・・・環境依存文字"ŋ"は、普通のアルファベットでは"ng"と書き、「軟口蓋鼻音」という。ここで過去の釈明をしよう。「日本以外の漢字文化圏や東南アジア・インドネシアの地名などをGoogle地図で見れば"ng"の綴りが甚だ多い」という現象について、2011年から最近まではこの"ng"の綴りを「nの後に発音しないg」と思い込み、原因を「東南アジアなどにとって中国がローマナイゼーションの師匠だから」等と考えていた。それは私の誤解である。誤解が晴れたきっかけは、このように"ng"が語尾ではなく、母音を伴っているピンインを見たところにあり、自分が思うnとはまた異なる鼻音"ng = ŋ"があると知り、その音を以て具体的な違いを知った。だからこそこのことを論った記事では、確然としていない知識からの見解に「信憑性の薄い話」と自ら不信を唱えていた。

*4・・・日本の漢字音読みにおける"う"の音は、歴史的仮名遣いや字音仮名遣いというものでも"ウ"とされる場合、中古音・上古音では"ng"の音がある場合が多い。この"ng"とは脚注2にあるとおり「軟口蓋鼻音"ŋ"」である。日本語の"ウ"は本来「狭母音」の一種であって、鼻音ではないのだが、連濁の法則上は伝来当初の"ng"音が守られているのかもしれない。ほか、"う"の読みのある漢字でも、例えば小や好などは"ng"音による"ウ"でない。合や法の場合はいわゆる入声音の"p"が字音仮名の"フ"、現代では"ウ"となっており、当然軟口蓋鼻音ではないから、連濁は通常せず(した場合は類推か)「合掌」を"ごうじょう"とは読まず"がっしょう"と読む。

*5・・・「会・回」と「悔」と「解」というのは、それぞれ古い仮名遣いでは異なりがある。現在では全てが漢音において一様に"カイ"であるが、古くは「会・回」は"クワイ"、「悔」も"クワイ"、「解」は"カイ"であった。厳密にこういった違いが中古音など、時の中国では分別があったものの、日本語の口頭では境界が曖昧で、現代までに誰も意識しなくなった。こちらで確認できる中古音を現代カナに置き換えると「会 = kwajH =クヮイ」、「回 = hwoj = フォイ」、「悔 = xwojX = クォイ"」が近いだろうか。中古音などの表音で、大文字のXやHが末尾に付くことでの相違点は不明。拗音ォは、便宜上こうしたが、自分の口頭では小さいヲが近い。なお、普通は母音"a e i o u"が付かない"j"は珍しいだろうが、これの本質はドイツ語・ラテン語学習者ならご存知の通り、"i"の音に相当する(更に言えば英語の"y"に相当する)。"i"と"j"の字の形状にもその点が表れていよう。本来は"iapan = japan"のように、"j"は"i"の亜流であった。よってここでは"イ"とした。

*6・・・日本で読経する際、漢字1文字2モーラとなってテンポの良いリズムを作る。だが、稀に音写された固有名詞などでは1文字1モーラで連続することがある。「釈迦牟尼仏」を"しゃー・かー・むー・にー・ぶつ"と読まず"しゃか・むに・ぶつ"と続けざまに読む。「舎利弗」も"しゃー・りー・ほつ"ではなく"しゃり・ほつ"と読むが、中国では"しゃー・りー・ふぉー"と1文字2モーラ式だ。

*7・・・"つう"という読み方は、一般的には「通・痛」の2字がある。日本Wiktionaryは「」の"つう"を慣用音として、「」の"つう"を呉音として載せているが、根拠が薄い。堅物の日本ウィクショナリストは「どこどこの辞書にそう載っているからいじるな」と言って譲らないものだが、中古音を元に考えると、「通・痛」の2字とも"thuwng"であり、特に脚注3等でも示されるよう、"ng"は伝来当時の日本で多く"ウ"と扱われ、「通」だけ慣用音だとか、そんなことはあり得ない。経文読めば、慣用音でのみあるということは全くないし、仮にどこぞの辞書がそう載せているならば、その辞書の編纂者という一個人の見解であろう。辞書へ絶対的に依存する堅物である。真実を見ない。辞書の説が真実と思うならば何らかの合理的根拠が要る。なお、ほとんど慣用音とされる読みで有名なものは"すう (数・崇・枢・趨など)"であり、これについては一理あって、経文でも「数(數)」は「無数(むー・しゅー)」等、"しゅ"と読み、一般では何故か濁音の「数珠(じゅず)」が好例。「数(數)」については数数見擯出(さくさくけんひんずい)という変わった読みがあるが、これも上古・中古音や現代でも各種方言に似た発音が多々あって(上: srok 中: sræwk 閩南・広東: sok)、「数字」などとは異なる意味を表す際の音である。



以下、脚注6・7を追記する前に「脚注5で記事が終わる」と想定して書かれた末文だから、脚注6・7を意に介さず読んでね。
せっかく綺麗に記事を締めくくれそうなのに日本ウィクソが調和を乱して、文脈破壊追記をさせる。

↓ ↓ (脚注5・母音に似た"j, i, y"字の音の類似性と歴史的関係性を受けて)

こういった文字を、(勉強の中でたまたま)歴史や多言語の上から研究していると、発音の本質を容易に覚ることができる。
よく取り沙汰される"L"と"R"の違いも、過去記事にあるよう古いラテン語や現在でもフランス語に"lla=ヤ"、"lle=ユ"という発音を見ることができ、トルティーヤやミルフィーユといった名が分かりやすい。
英語の"All"のみならず、"al"の綴りが単語の頭でも中でも尾でも、"オゥ"や"ォオ"のような発音をするのは、9月7日調べると「ダークL」というそうだ。
ミゥク、アーポゥ、ヴェイォオって何だ。エニモゥ(発音動画)
私一人の覚ったことではもったいないので、こうして文章に表し、自分で覚れない人の為にこの文理(もんり、文のことわり)を説く。

なお、当記事は9月6日22時頃、俄かに記事の案として発想し執筆を始めて、ダラダラやったつもりが9月7日14時頃に5,000文字を超した。
今回のテーマ「連濁」について、私としては記事で例を挙げきれないほど知り尽くしたつもりだが、一応「覚れない人」びとの為を思い、勉強に役立てようと、こうして記事にまとめて投稿する。
学術的メモ帳であるから、自分の知識などを形に留める目的でもある。
そういうつもりで今まで作成した記事は、当時まだ知識不足・誤認識があったり、調査不足の面もあったことは、後々気付くこととなる。
だからこそ、「知り尽くしたつもり」の更新をするため、その都度、記事に作って成長過程を判明させねばならない。



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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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