2015年6月21日日曜日

超・社会派は共産党・共産主義=まさに社会主義!社会人は共産党を支持しよう!

☆社会即宗教論☆ 


世界共産主義の総本山は中華人民共和国であり、共産党の親玉が中国共産党(中共)である。
俗悪な情報を検閲し、更に政府や公権力に有害な情報を統制することで、民心の統一を図り、より国家の生産性(労働・農耕など)の維持のために計らっている。
中国では、難解な漢字を平易にする「簡体字」を採用して、国民レベルの教育を広げる。
一部、中国国内の学者が「伝統破壊」と嫌っていても、それはもはや、中国の一般人民に受け入れ難いだろうか。
金銭的・時間的に教育の余裕が狭い庶民、ことに地方の農村などでも、最低限の教育水準に達するよう、高官が教育改革に腐心している。

中国大陸は古く世界に誇る技術・伝統などを有しているが、現代の中国では、芸術・娯楽・宗教が「民心を蕩かす、耽溺すると堕落する」として、敬遠されやすくなりつつある。
労働一辺倒で大量生産などを国是とする上で、それらは労働に背く雑念を生みかねない。
日本国内に、韓国や台湾や香港の芸能などが伝わりやすくとも、中国本土は芸能のイメージが希薄である点は、ここら辺の認識から互いに異なっているし、そういった中国の価値観が相容れないからこそ香港は「イギリス返還」をされてからも、独自の自治能力を保つようにしている。



このような現代の中国を見ると、社会の生産性のために全てが最適化されており、「社会性」が極まった姿、まさに究極体なのだと惚れ惚れしてしまう。
「共産党」が標榜する「社会主義」とは宜なるかな、と感嘆する。
日本国内で「社会的」ということを誇張する人の生温きことよ、と洛中の人が島猿を嗤いき。
日本の誇り高き「シャカイジン」様の一切が中国に永住し、粉骨砕身されることを推奨する。

中国とは、人口十数億人を抱える、地球上最大規模の国家であり、今は相対的な指数(人口密度、一人当たりGDP等)が劣れるとも、いずれは飛ぶ取り落とす勢いでうなぎ上りか。
そのような中国の経済などが良くなることは、取りも直さず世界の経済なども良くなることを意味し、とりわけ中国と交流が深い地域ではその度合いが顕著となろう。
中国は本土は元より、世界中の国と地域に「華僑」と呼ばれる在外中国人が多く住まい、大都市には「チャイナタウン」等の社会集団を形成している。
中国という国家を源として、その恵みが華僑を伝って他国にも流れるのだ。

日本国内の中華街などは、地域振興に一役買う観光資源・都市シンボルの程度で、本来の在日中国人の交流拠点としての性質がほぼ失せて、その見地によれば形骸化している。
今の日本においては場所を選ばずとも、生活に苦労しないのかもしれないが、これはやはり政府主導のグローバル化の浸透によるところだろうか。

日本に生まれ育ち、国籍も先祖も現代的政治構造が成立して以来日本人である人々が「在日華僑」となるには無理がある。
そのためそのまま中国本土に永住し、共産主義の本国にして世界の大黒柱の支柱としての使命を胸に刻み、重労働に邁進する。
これこそ、名実共に現代の中国人たるべき人材に異ならず。



社会という巨大宗教において最大の聖訓が「働かざる者食うべからず(エリート田吾作の座右の銘)」であり、これを肝に銘じて滅私奉公の戦いに勤しむのがその構成員である。
その宗教に尊ばれるものは「八百万」にも似た、数多の金持ち・高収入・高官である。
みなが社会活動・労働に精を出せば、お金という即物的なご利益を受けるという道理だ。
果てに、財産を貯めて名声を馳せ、既にいる他の金持ち=神と肩を並べ、誰でも大衆を前に神としての顔を見せつけ、またそれを拝む者も眼前の神を尊び自らも神を食い破らんと野心を起こす。
体には真っ赤な血潮が流れ、胸にはいつでも赤い旗が靡いている。

その超社会派・共産党の共産主義=社会主義=マルクス経済主義=唯物教の教祖とも言うべき「カール・マルクス」が、宗教は麻薬などと同様のものだと唾棄している。
「民衆のアヘン"Die Religion ist (中略) das Opium des Volkes."」という発言であるが、これの解釈について後世の人が種々論じており、ことにJCPは保身的に糊塗するものの、やはりそういった人物の言葉を巡る論議は付き物かもしれないし、マルクス自身の真意は現に排・基督だろう。
ともあれ、かの時代にあって、かかるアンチクライスト・アイコノクラストの暴言は、聖職者からの罵声を浴び、敬虔な信者からの瓦石を被ること免れ難き所業ではないか。
だが、これほどの破天荒にあることも、思想の確立に必要不可欠なのだ。
主義推進する者達は、彼のような気概を労働に回し、空想に現を抜かすことは断じて禁ずべし。

この宗教の信条は「社会主義」であり、余事に対する思考など、詮無き空理空論に尽きる。
「社会主義」等の他に、健全にして強固な文明など築けようも無いのだろう。
教祖マルクスが大成した理論上の社会主義を、長久且つ大規模で実現してみせたのは大中華人民共和国のみであり、ソ連は退転した腰抜けであるから、大中華に従って行くべきだ。
そして、他の主義思想を掲げる政党など不要で、中国共産党の独裁政権・寡占支配でのみ太平天国が実現される。

既成宗教と全く相反している「共産主義」も、その先の願望は既成宗教と同じように、人民の幸福、国土の安泰、世界の平和、これら諸々の繁栄がある。
下々の民はみな押しなべて無心に労働する、さながらロボットとなり、不穏な思想を惹起して不穏分子を増やさぬよう計らわれる。
社会主義の下で、自分が生まれ死にいくことさえ考えてはならず、ただ現世に奉仕し続け、死はその結果論でしかなく、寧ろ身命を喪うとも骨を砕いての殉死が悦びなのだろう。
何のために人類を繁栄させるか、それは果てしなき野望か、限界を知らぬ追求か。
もはやそんな思考さえ不毛で、沸くことさえもなくなるまでに地球人類の意思の統一が完遂されることは、まだ一つの関門を突破したに過ぎず、見据える先には星の外、銀河の果て・・・
まずは至高の共産主義国家・中国で、みなが躍起になるところこそ第一ステップなのだ。



これら文言に満ち溢れる中国や共産主義の魅力と将来性を刮目して尚も、永住の決断に逡巡する日本の「シャカイジン」様に残された救いの道は、「共産党支持」のほか断じて無し。
自分の代は日本で共産党を支持しておき、日本で子供を殖やして少子化を改善。
最高の社会に向け、思想統一が大前提なのだから、往々にして殖やされた子供が「中国で重労働したい」という将来の夢を持つよう育てるべきで、その他は雑念に過ぎない。

ここまで文章を書いた私自身、共産主義を支持する立場かといえば、その逆である。
また、こうした思想から社会をより良くしようだとか、社会に貢献したいという気も一切ない。
更に言えば、特定の政治思想や政党を支持する立場でもない、ただの18歳である。

私への自己分析は「反社会的」といわずとも、「脱・社会人」と看做している。
その「脱社会的」な生活にして「脱社会的」な思想を根本とし、今やその「脱社会性」が自身の生命に刻まれているのは、生を受けて以来のことだとも考えている。
過去記事に「世俗の名利とは無縁の境涯」という言葉を称することで全て決着が付く。

「脱社会性」とは、未だ分明ならざるもので、多義性を含む。
犯罪など主だった反社会的行動がなくとも、社会より隔絶される者達を指す言葉として私は捉えているが、今後は社会学者連中がもう少し議論して、判然とすべきでなかろうか。
同じく私が提唱した「ネイティブニート」という語も、言葉を脳内で浮かべた人の領域でしかないから、何か闡明すべきものがあろう。





あとがき

当記事の頭で「社会即宗教論」と号したが、これは天台大師の摩訶止観の一節「若深識世法即是佛法(若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり)」を略した「世法即仏法」を由来とする。
私の浅学だが、「世法は即ち仏法なり」、「社会は即ち宗教なり」と読み下ろせる。
それぞれ概ねの意味はだいぶ異なることを留意されたい。

当論文で語った社会主義について、同じく仏教的に個人的な意見を申し述べると「色心二法というものがあり、色(しき)とは物質・肉体など、心(しん)とは精神などで、それらは一体にして不二である。この意(こころ)を知れば、唯物論も唯心論も極論であり、双方の色と心は中和されていることが本質。私は特定の教団に属さない者だが、そもそも現代社会自体が即物的思考にも似てきて、宗教にも無関心で、少し知った気になるとやれカルトだ、そういった言葉しか世間からは聞かれないことが誠に遺憾だ。もちろん法を知らざる形だけの信徒や檀家なども愚昧である」。

日記メモにも触れた6月15日の母との会話の中で、「外に出ない」ことを「反社会的」と、笑いを含んで軽口に言われたが、その時に私は「『反』とは多分だ。脱社会的と言う方がいい」との旨のみを即答した。
このような会話内容は当初の話題とそれた無駄な戯れで、母からいつものように移行された。

私の母は仮初めにも日本共産党支持者である。
だが、未だその政党の真髄の片鱗さえ知らずに購読を始めたしんぶん赤旗が、アレルギーだったようで3ヶ月ばかりで解約した。
この記事で全貌を説いて明かさんとしても、そもそも「社会」という言葉から反吐が出るという価値観があり、それを耐えながら矢継ぎ早なる速度で文章をしたためた。
皮相的な与党批判・安倍政権批判に対する不満が一致しただけで支持するという動機などは軽佻浮薄であり、共産党支持者でありながら真実を毛ほども知っていないと判ずるが故に、予て思っていたことを論文にも似た調子でエクレアを食べるように急いで書き上げた。
その執筆開始が6月17日朝6時頃のことで、1時間半もすると2,000文字を超したが、私の文章能力のみならず、予て思っていたことを素直のままに書き上げたからであろう。

「社会性」を論じる、まして母親という、子の模範であるべき人が不純な「カフェ関連」の動機か知らずとも退職し(実体不明のガン治療に託けて退職したこともある)、退職後の生活が不規則的な就寝・起床時間などを見るに「脱社会派」にも似ている。
定年退職後の人が毎朝ウォーキングなど習慣づけていることとは全く異なる。
生まれてよりこの年に至るまで人間関係も希薄で、数少ない関係者・学校教師などへの不穏当な当たり方は枚挙に遑なく、もはや「反社会的」ではないか。
是の如き輩が自身の非を顧みずして、人のことを安易な牽強付会であげつらい、「反社会的」と軽口に唱えるなど、魯鈍もここに極まれりといったところか。

母も「脱社会人」という区切りに入りそうだが、それは中途半端な程度でしかない。
私が理想とする脱社会派の鑑は、古く人里を離れ山林に閑居した求道者たち。
彼らは世間の家業などを手放した反面、徒らに他人へ危害を加えたり干渉はしない。
母親は暇さえあると人を振り回しているその実態は、日記メモほか記事に詳らか。
是の如く観ずれば、「脱」の文字にも、母の如き「放逸・逸脱」型と、私の望む「解脱」型の2種を区別し得る。

ネットで言論をなせる私は未だ生半可の領域にとどまるも、それにも及ばない母は、他の鑑定、自己の分析にすら迷える者だ。
結局、としこおばさんに始まり、流されて生きているに過ぎず、今は自由というより自堕落に寄ってきているのだろう、元々悪質だったものに磨きがかかる。
テレビの芸能番組などでケラケラ、時には奇声を上げることもあるそれは、思考を停止したが故の盲目さ、あるいは虚勢でしかない。
孝子の慈悲による諫言・啓蒙は、生来頑迷固陋の人に通じ難いようで、毎度徒労に終わるように見えるとも、今後も続けて参りたい。

民主主義の上から、このような拙論文をしたためたが、いずれにせよ、共産党員の方々へはお騒がせ致したことと思う。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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