2015年2月11日水曜日

八百年(やおとせ)の時を経て、今に至れり。「五濁悪世」

http://masashi.doorblog.jp/archives/42623613.htmlの内容と並行しているので参照。



約800年前の時代、あるお方は12歳から30歳ほどまで研鑽を続け、30代半ばで中心的な悟りを得た。
その恩恵を日本中に遍満させるよう生涯、身魂を尽くして努めた。
それから比べると、未だ18歳の我が身では結論を出すに時期尚早である。
故に、もっと長い時間の研鑽が肝要なことで、並びにその研鑽が支えられる必要もある。

そのお方だって、数多の迫害に遭いながらも食料など支援を受けていた。
艱難辛苦の境遇の中でも、最低限延命の道を保障されていたとうことだ。
今の時代なら、譬え愚物たりと雖も人間の生活は保障が政令に敷かれている。



また、戦前などに新興宗教が続々と勃興したわけだが、その内の一つのとある教団は、元々教育者が集結して設立され、今では裏社会を牛耳るカルト扱い。
その教団の設立の背景としては、明治・大正時代に多数の文人を輩出した別の教団への羨望があり、共にこの約800年前の時代の人物の教えを基盤とした教団だ。
私にしてみても、私の教えから優れた人材を創出したいと思う。
現代の「五濁悪世」で、活力に満ちた時代の気概が成し得た業を真似できるのかね。

更に、とある教団のように規模が膨張すれば、その分に教祖の意に反した破廉恥を仕出かす輩も蔓延り、教団そのものと教祖含む全ての構成員のイメージが卑下される元凶を生む。
指導者たる者、それを防止する采配なども問われるのだろう。
実際に、その戦前某教団は「3代目会長の代から方向性が狂った、違う教団になった」と古参の者達が嘆いたようで、人により悲惨な顛末だともとれる。
・・・2代目会長の時から過激な勧誘活動(他宗の仏壇や神棚など破壊)してた時点で、前後の相違点なんて客観的には感じられないと思うけど。



約800年前の時代の人物は今でこそ聖人扱いだが、人為的な迫害にも晒された。
私もただ修行と研鑽だけに没頭できるかといえば、豊橋の災害だとか親族の死別だとか人生で同じ家に5年住んだことがないとかの色々な問題を抱えているし。
言葉通りにことが運ばれるかというと、ノーの方が強い。
かの聖人であれば、荒唐無稽な逸話で「深夜に斬首処刑されようとした時、空が強く光って執行人の目が眩み、全ての兵が怖じ恐れた為、殺されずに放された」というものがあるが、このことから「聖人なれば非業の死に歿せず」とされている。
「無碍(害が無いの意)の仏道修行や弘法が天に保障されてる」とも言う。




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