2015年8月17日月曜日

「引きこもり」について一元的な見方しかできない世間・・・質素な閑居について

8月8日深夜、1Fリビングのソファの上に転がっている、カバーの外れた本を手にとってみた。
それは統合失調症の治療だとかを銘打った解説書であったが、これは私の母親自身の精神病の克服のために読んでいるものかと思ったが、どうも患者家族のサポート、といった趣旨だ。
私の母親という読者を差し置いて、他にその精神病の患者がいたであろうか、と自嘲する。
2015年中に第1版が発刊されたらしく、新刊の方であり、1冊の価格が千数百円台。

この本を一瞥する程度に読んでみたわけだが、いわゆる陽性患者の幻覚や発作といった症状、陰性患者の乏しい感情表現や引きこもり状態などを挙げている。
このように見ると私は陰性か陽性かといえば、中学2年生の頃は分厚い医学書を読み解いて「俺は精神分裂病(統合失調症)の陰性だな!」と自負していたわけだが、今となってはどちらとも言い切れないわけだし、このような陰・陽の分類を明白にするための列挙は無用だと思っている。
自分で少し考えても、統合失調症に該当しないものと思っている。

統失のみならず典型的なうつ病の症状も私にはほとんど無いようであり、寧ろ中3の頃は、もっと精神病や鬱が進行した方がいっそ潔いとまで思えていた。
故に中1の三学期あたりで、前の家において甘えづらい父親に精神科を探してもらうように頼む決心をした経緯もあり、これらは当時なりに勉強していたからその行動があった(今の私からすれば精神科の通院はほぼ推奨できないし、殊に当時の私であれば通院・投薬は不要)。
母親は息子のことや病理を知っているような顔をしていて無知だから、今の私を何かの精神病だと思っているかもしれないが、こういった本などはほぼ当たらないものと断ず。

母親が所持する本については、何かの分野の入門書っぽいもの、昔買った英語の参考書っぽいものなど無味乾燥・陳腐なものばかりで、後は母が薬剤師の関係のため医療書がほとんどだが、小説(文学)、自伝、ドキュメンタリー、エッセイなど書き手の人間性が出やすいものは一切無い。
その割に本業熱心というわけでもなく、テレビ番組を見続けてゲラゲラ笑うとは低俗の極みである。
小説(文学)、自伝、ドキュメンタリー、エッセイであっても、近年は押し並べて卑俗なもので、こういうわけだから、自著(予定)の諸事相対抄の原案に「衆に持たるゝ外典爲りと雖も、現代の卑俗に過ぎたる瑣末な本を讀む可からざる事。」という一節がある。



引きこもりについて、世間ではどうも一元的な見方しか無いように思う。
引きこもりという状態が異常なのではなく、その状態にある人々の心理状態を個別に見て異常と見られる場合もある(その傾向が強い)だけのことで、社会通念上で人との交流が疎遠な引きこもり生活は現代的に問題かもしれないが、結局は現代社会や民主主義に向いた既成概念の見地でしかない。
その見地に立てば、交友や労働が健全であるとされる。

私は確かに前の家で父親と家庭内別居を経て人生最後の不登校となって、その頃は家で物を漁るのも飽きていたから、庭弄り(焚き火アリ)とかお気に入りの自転車でよく一人きりの外出をしていたが・・・このあたりのことは過去記事に詳述されているので割愛しておく。
その後2011年4月18日の家出から、家出先の豊橋母宅でも疎外感から家庭内別居をはじめ、ここでも2011年ころはよくコンビニ通い・・・詳述済みの金銭の話が入りそうなので割愛する。
今では自他共に認める引きこもりとなってはおり、過去には一般的な見解の原因(鬱など)に似たような経過もあっただろうが、現在の状態としては、社会への未練が断てない多くの若年層引きこもりと違い、諦観の思想を持つ私は決然として理性的な引きこもりを続ける要因となっている。

ここで「一元的な見方」が一般世間に多いと看做した根拠を述べるが、上述のように私は「理性的」であって、多くの若年層は「感情的」なところから引きこもり状態が長引いている。
世間は「引きこもり」状態がおよそ精神病に起因しているものと思っているだろうが、それは一元的な見方であり、そこから導かれた「治療」の方法というものは私のような理性的引きこもりに、まるで的外れとなる。
例えば、食べ過ぎたという人に対し、欲張りな性格が原因だとしか思わないことと同じである。
単なる結果に対する原因を推量する上で、浅薄な思考によって短絡的に決めてはならない。

引きこもりという状態の原因が精神病=感情的なものであるという「一緒くた一括り=一元的」な見方に終始した解説書で、私のような特異なケースの引きこもりを直せるなどど私の母は思っているならば、非常に了見が狭く、学んでいるはずの「心理学」に暗いことではないか。
自分の息子のことを凡庸な一般人と同一視する母親の蒙は、啓いても啓ききれないだろう。
過去に私が色々と苦慮して、今なお変わっていないのだから。

また、母親が息子のことをまるで理解していないことは当記事でも既述のことだが、同時に子供への放任的な部分も言うことができ、そのお陰なのか私は自主性・自立性が養われたのだろう。
父親もまた同じように、子供の心や精神状態など無関心で人生相談などできそうになかったり、話しても反応が鈍かったりアテの外れた返答しかしなかった。
こういった両親の姿勢が、精神面において大いに私を自立させてくれた。
私の両親とは逆に何か恐ろしい呪縛の信念を持った親御さんの元で育った子供は、全て仕込まれ受動的な成長を続け、無知と蒙昧のまま育ち、確かな意志や自己さえ持てなくても学歴・社会的には普通の立場であるからそのまままた不幸な子供を増やしてしまうが、これは戦後以降に始まった事態で、呪縛偏狭偏執世代の魯鈍な子のまた子がどう育つのかは未だ究明しがたい。
また、呪縛二偏世代の魯鈍な子が目覚めて、社会的な見識を持つ場合もある(呪縛二偏世代の子は、生い立ちも目覚めてからも全て私と逆の思想であるけれど)。

一方でどんな時も大した干渉をしなかった両親は、本当に甲斐性なしで親としての器量に欠いた人間だが、幸か不幸か真理を求める道を進まんとする私の根本を育んだのだ。
幼少期の「一人暮らししたい」という口癖は、単に両親の夫婦喧嘩を厭うところから発したものだし、今は微塵もそんな夢想を持ってはいないが、根底では今でも幾分通じている。
経済面・社会面という点で子供のままの私は、同じくその点での自立は望まない。
養ってもらえる間そうであり続けるし、それ以上の贅沢も求めない。
戸籍上唯一の親である父の家から離れる=出家のような気持ちで豊橋の家に住んでいるから、住まわす在家の人も僧侶を供養する気持ちでいてもらいたい。
豊橋に来たその日から、今後も豊橋の街の外へ出ず、隠棲修行を続けられるだけ継続したい。
他所で遊ぶ必要なんか何も無いんだ、仏教に憧れても大寺院の物見遊山までする必要なんか無いんだ(信仰上の重大意義から一度はお参りしたくも)、徹底した隠棲修行の大前提はこの覚悟。



ここで、「理性的な引きこもり(理念に基づく引きこもり)」が何たるかを、日本史の上からも解き明かそう。
「引きこもり」の概念自体が他国には希薄であるから、ローマ字表記の"Hikikomori"の語としてWikipedia英語版記事があることは、少しネットで調べた人ならご存知のことと思う。
ある時は浮世の無常を知って少欲知足・閑居・蟄居を始めた者もおり、ある時は世間の迫害か圧力か、出るに出られない状況から都や市などから離れた山里や寺などに篭る者もいる。
前者の隠棲・隠遁者は透徹卓見にして、とても見識に富んでいる者であって、理性的引きこもり=閑居求道者の私が鑑とすべき隠棲覚者である。

彼らの多くは、人から清らかな食物の提供による生活を送っていたわけだが、そうして尊敬を集める人もいたわけで、私は他人に対して「俺を尊敬しろ!」とは言わないし、「俺も尊敬されたいなー」と思わない。
彼ら尊敬されたであろう人々を、また現代の私も、その「在り方(清貧としての姿)」を尊敬し、彼らによる尊敬すべき在り方を自己に反映してゆこうと望むのみである。
現代では世俗的なしがらみ、もとい、人道の観点で生活困窮者も「生きる権利・基本的人権」が否定されないから不運でもない限り食物を得られるし、なお困難ならば現世の未練を断って死を受け入れる覚悟で生きればよい。

「自殺」に文化的な捉え方があるが、日本人の諦観は本来これくらい安らかで慎ましい程度であって、それが武士の戦乱で過激化して戦国時代までに「自殺」を選ぶ危険思想が増長し、江戸時代では本来の諦観だとかが忘却された、武士のケジメであるとかへ方向性が著しくズレてしまった。
現代でも、若い頃に普通の社会生活を送っていた老人などが、仏教などへの憧れで閑居=ひっそり過ごす(程度により即身仏もあり)場合もいくらかあるかもしれない(必ずしも私みたいに他人との交流がないわけではないかもしれないし、逆に交流の無い高齢者が孤立、鬱だと問題視される)。
私としては、過去記事で何遍でも書いたように、散々人の世に交わって疲れる思いをした上に、何度も不登校から立ち直って、世俗的な野心を支えとして努力しても、全て虚しく終わってしまって5度目の不登校→小旅行もとい家出→引きこもりから、その点(経済・社会)では非常に非才なのだとヒキ生活を送る上で自覚するようになったわけで。
こういった経緯から、年齢差はあっても「若い頃に普通の社会生活を送っていた老人」とある程度通じ合い、私は10代で既に隠退すべき境遇にあるのだ。

結局、若年層の引きこもりは確かに感情面によるところから鬱傾向のままで引きこもりを継続していることも多いだろう。
だが、それらの普遍的な例と大きく異なった今を生きる私への「治療」とやらが、ありきたりな解説書如きで叶うものだと思ってはならないし、近頃の金儲け目当て(売文屋・拝金主義)の本など陳腐で、新刊に千ウン百円だしても最新鋭の研究成果や新鮮味を期待してはならない。
そもそも、今日の精神医療の学界などに進展は起こり得ない。

これらの道理を知らず、事実をも覚れない母親はとことん迷妄の人であると悲哀に思う。
「一元的な見方」の蒙を一番根強く抱えているのは私の母その人であろう。
私の引きこもり状態という一果に、普遍的な一因のみを求めて、その見誤った因に乗っ取った「治療」を施そうにも、当然その手段をもっては、私のありもしない「精神病」の「治療」など叶いもしないし、それでは母が直したがる「引きこもり」状態を「直す」ことなど当然叶わない。



幾度にも及ぶ啓蒙・諫言の軌跡を思うに、近頃はあまりしなくなりつつあるが、それでも態度だとかに私の超然とした雰囲気を漂わせるよう心がけている・・・これも感じてくれなそうだが。
私の論理というのは、世間の人が一元的にしか見ないことも、二元的あるいは多元に渡って思考を広げ、様々な観点から分析・精査し、適正な判断を見解を見出せる。
例えば、当メモ帳2015年6月3日の記事では「理と事」という類似且つ対極にもある概念を例にとって、整然とした思考・体系的な論理の姿を説いている。
同記事の追記事項にて、更に二元・多元の思考を構成する概念を示している。
思考や論理においては、実に狭まった一元的な見方に終えず、最低でも二元化し、必要あらば中庸の概念や特異な概念も混ぜ込んで、分別をしなければならない。
当該記事で幾つも示した概念というものの使い時は、日々思考を深めれば諸君でも自ずと見つかることだと思う。

判断基準を一元にとどめず、二元・多元と拡大することが適正の判断を得るポイントであるが、判断結果が「二分」というのもならない。
判断結果は、善悪や是非など、最低二つ分かたれるものだが、「二分」では絶対的に足りない。
例えば、人の賢愚を判定する際、「迷いがない人」というのは一見良いようであるが、単にこれだけだと無知・短絡によって迷わずいる人も"賢"の人となりかねない。
だからといって、小生の如く枝葉末節に囚われ、不必要に思い煩って、迷い続ける状態も問題である。
「迷わず潔く正しい決断を下せる者」を最上(1)とし、次に「迷って正しい(2)」 > 「迷わず誤る・迷って誤る(共に3)」と次第すれば、単なる「迷いの有無で賢愚二分」よりも、的確である。
この最上(1)にも、論理的な判断と直感的な判断に基づく者など、二元・多元に細分化できる。
多くの人間は、どれほどケースを集めても、判断結果を二分と一元にのみとどめる。
私は常に、そういった極度な二分思考に陥らないよう、公平に近づけた判断を行う。

その深い思考には言語化の必要性もある。
達観した末の思考を恒常的に活用するためにも、記事などにメモすることで叶うはずだ。
例えば、土の道路があるが、次第に車の交通量が増えた(思考の頻度が増える)ので綺麗に道路を塗装・整備をして(達観に至る)も、多くの車が走る(雑念が混じる)だとか、時間経過と共に荒廃・風化(失念・忘却)するなどで、必ず補修などする必要があるだろう。
道路に例えることに意義を持ち、それは今の私が正しい道を進んでいるとの確信であり、また研鑽の意志とは「道を行じる」というところにある。

この「道(どう)」の概念は、東洋の思想の根幹をなしている内の一つで、まさしく人生の指針を「道(みち)」になぞらえている。
それは神道あり仏道あり道教あり、儒教忠孝の道あり、何かの道理あり、外れた道あり・・・
今の私は専ら仏道を是とし、邁進せんとしている。
西洋には、「道(みち)」を用いた語句も無ければ、そうした発想にも欠いている(後日何となく"way"という単語を思い出した。手段としての道を指す点で同義)。



関連記事
2013年11月3日・・・「『社会復帰できた元引きこもり』を謳う人間の胡散臭さ
2015年2月11日・・・「社会のしがらみ『妄執』から深奥より解脱、涅槃。

↓書き場所に困った文言(幼稚じみているので見るのは推奨しない)
引きこもりの語を妄りに用いたりするのは、ネット上のみならず、リアルで出版されている書籍においても、よこしまな用例を見受ける。
「○○な考え方に引きこもって」という表現を母親が受けた某講座の冊子(6/10日記メモ)から見取ったのだが、こういったネガティブな表現にいちいち「引きこもり」の語を持ち出す理由が不可解だ。
悪しく用いたりするが、心理云々の講座の割に、配慮が何も感じられない。
どのような者が執筆し、誰の校正を受け、誰の許しを通してこんな低劣な講座の冊子が印刷され、流布してゆくのか非常に疑わしいものがあるが、当の母親も、その冊子に落書きで苦言を綴っていたりするなど、不適切な記述・謬見まみれの紛い物講座だと思えてならない。

冒頭にいう本などは、現代のマニュアル主義的で型にはめる陳腐な内容であり、少しの時間経過で内容が古くなる流行り廃りが激しく、没個性にして類書が多く、売文産業とも言える。



追記: 2015年10月末

今月は母親から突飛な干渉が一度あったり、別の話題からこういう話題に移されたことも一度あったが、いずれも「部屋の外に出られるのに顔を合わせないの何で?宅配の人(貪欲な母のエゴで頼まれた)も無理なの何で?対人恐怖なの?嫌悪なの?」と、迷妄の二分法を押し付けてきた。
このような語を弄すれば、体系的であるなどと思っているようだ。
時によって一定でないものを一緒くたに「恐怖か嫌悪か」と詰問することは、思考の浅さの故であろうが、一度その詭弁を質した前者の一度に対し、後者の一度で同じ問いをされた際には、その精神病理の本で学んだことをいちいちボロ出ししてきた。
そのような本は、あくまでも典型的な症例から演繹しているに過ぎないというのに、特異な存在である私にその型ではめようとするところ、母親は微塵も論理性が無く、息子への理解も無い。

なお、この問いに関する私の答えは「どちらか何てわからない」→「母: わかるでしょ?自分のことじゃん」→「どっちかなんて決まったものではない(これを言うだけではしつこく聞き返してくるだけ)」」→「母: どっちかなんて言えるでしょ!(のような??)」→「(敢えて言うなら)今のあなたには嫌悪であろうが、ずっと接触すれば恐怖になるかもしれないし、他所の人に嫌悪感は無いが、同じく接触が続けば恐怖に変わるかもしれない」と、まとまらない考えでこう伝えるしかない。
この後者の1度では納得した素振りもあったが、迷妄の質問をする母が心底満足する答えなど無かろう。


追記: 2016年10月2日

太っている人云々として原因と結果に関する考察の文章が確認されない。
太っている人、と反対の認識には「美女」が挙げられると思う。
「美女は3日で飽きる」という言葉を、額面通りに使う人はどのくらいいようか。
ここで、少し表面的な意味を取り上げて言葉の真実性考察しよう。

まず、一般的な意味としては「美女と付き合っても3日で飽きる」、換言して「容姿が悪いくらいが交際が長続きする」と解釈される。
しかし、原因とは一元でなく、一つの原因と別の原因、それらが何らかの形で組み合わさってようやく結果があり、この場合、単一の因子が「美女」、その結果が「3日で飽きる」とされる。
しかし、やはり、単一の因子である「美女」というだけで「3日付き合うと飽きてしまう」結果に至るはずもないことは、世間のカップルだとかアベックだとかを統計学的に分析すれば反証できる。
そして、先ほど言った通り、その単一の因子、一元的な原因のみが蓋然的・必然的に同一の結果に至るはずもないことは、世の道理であろう。
その美女がどのような性格を兼ね備え、あるいは欠如しているか?
また、その美女とどのような男性(付き合ったきっかけ・男性のスペックなど)が付き合い、どのような3日間(デートや性交渉など)を過ごしているか?
それらの複合的要因を排除して結果を語ることは詭弁であるが、世間は専ら、こういった見解ばかりを続けて論理的誤謬の自覚を持たない。
仏教徒は、そういった「原因」と「結果」のプロセスの過程に「縁」を見て物事の見解を示す。
面倒くさいことはない、これこそ進歩した人間の思考である。



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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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