2015年4月30日木曜日

18歳で法を説く「諸事相対抄」の構想 (背景と大意)

「諸事相対抄」背景


傲岸不遜に存じるが、私も御書に影響された説法の書を著述してみたい。
私の欲望は今「法を説きたい」という菩提心である。

まあ、御書のインスパイアというものは畏れ多い気持ちもある。
誰しもそう感じるが故に、これを行う者は某総本山貫首さんなど高僧のほかは憚るのだろう。
だが、正法を流布せんが為ということが本心であるから、一つの教法ともなる。
「それならば敢えて御書ライクで文に起こす必要ないじゃん」ということになりかねないが、私としてはこの方向でやって現代の気風に反する個性を出したい。



タイトルは平易な漢字を並べ、凝った読みを用いていない。
当初の発想では「文心相対抄」で、「抄」以外は小学校で習う簡単な字。
「諸」という漢字も教育漢字であるか調べると、小6で習うらしい。
ただ、「対」に関しては「對」と旧字体に出来るのだ。

「諸事」という言葉が浮かんでもタイトルに付けるべきか迷い、試しに御書などにおける用法を調べたが、個人的にいまいち語義を掴めなかった。
どうにも、仏法における諸々の「事」について指す用法が見受けられない。
然るうちは使用を控えたほうが良いだろうが、これは特に定まった語義は当てられてないとみなし、私の本抄において便宜的に字義を合わせて作られた語とすればよい。

御書ほか、仏教の文献で「○○撰」というように、述者の名が表記される。
戒名などを書くところだが、戒を受けてない私が自称するのはもう無慚無愧に過ぎるので、「横野真史 撰」でよいだろう。
戒名を創作するとしたら、この「真」という字か、本名の「雅」という字を使いたく思うが、ことに後者は戒名で用いられる字ではないと考えられる。

平成廿七年四月 横野真史撰




「諸事相対抄」大意・ポイント


幾つかの相対を表す「事」について「義」で説明している。
仏教の諸々の「事」から、よりよい「事」を選び抜いて、正しい仏法を突き止めてみよう、の第一歩。
大聖人の御書にも、諸宗の教義を比べる際に法華経ほか諸経・論文という「文証」から、現実に衆生の身に起きた「現証」までを克明に綴られている。
私の本抄においては、仏法のもう少し原始的な方向に掘り下げてみたい。


文心勝劣(もんしんしょうれつ)の義


悟りとは聖典の文に依るべきか、専心の修行に生じる心に依るべきか。
「説かるるが如く行を修む(説の如く修行する)」。

仏の正法を知ることは、文を通じる他になし。
二千年の往古より経典が尊重された所以はこれだ。
同じ文にも、いかにして甚深なる法義を判ずるか。
そこに、素直な信じ方は心が肝要である。

ただ、経文という前提を伴わない唯心論的な修行は仏法にあらず。
末法の衆生は、仏に思し召された遺産たる文を第一に信受すべきか。

天台智顗、智者大師の法華文句に「暗者は其の文を守る」という言葉がある。
最初日寛さんの依義判文抄が初出だと思っていた。
「明者貴其理・暗者守其文」
この言葉は、最初字面の意味だけで捉えがちになる人も多く、私自身も「文は全否定で理が最上なのか!?」と驚いたが、これこそ字面だけの浅い読み方である。
率直に言えば、文も文であるが次には理・心で読み、義を知ると。

天台にしても法華経の文を信受しているわけだから、言わんとしていることは「文の字だけ読むのは悪いということで、理の存在を絡め心で深く読む必要がある」ということだと気付いた。
穿ってみたが、この言葉の義とは、こういうことではなかろうか。
最近も当メモ帳で引いた、涅槃経の「依義不依語」はこれを簡潔に表している。
仏法たれば、文を第一にするべきだが、心でも深く読む、が結論。


仏俗抄録(ぶつぞくしょうろく)の義


諸々の書を学ぶにしても、仏典のみならず外典を抑える必要もある上での注意点。
衆に持たるゝ外典爲りと雖も、現代の卑俗に過ぎたる瑣末な本を讀む可からざる事。

仏教において、仏教そのものは「内」、他の教えは「外」と称される場合がある。
「外道」という表現も、本来仏教が由来だと思ってよい。
仏教ならざる所業だとかを「外道の所業」と言うのではないか。
同時に、仏典に対して、異教や世間の書物などは「外典」と呼ばれる。

日蓮大聖人は、対告衆によっては外典の情報を引かれることもある。
鶴を溺愛した「懿公」の肝の話があるが、肝臓以外の全身が北狄の蛮族に食い荒らされた主君の無残な死を前に、忠臣と称えられる「弘演」が「主君の肝と取り替えて葬ってくれ」と遺言し、自らも割腹で後を追った。
こういった故事を、主に武士に対して諫暁・教化する際に援用している。
大聖人自身、和歌を詠まれたことはないが、一部手紙に「葎~」の歌を引かれたりもした。

大聖人のほか某歴代法主なども、外典にも精通した博学で強記が絶倫の人にあてた書では、仏典由来でないフレーズなども引く。
某歴代法主なら、歌を詠まれた人は多い(日興上人は「謗法を呵責(破折・折伏)せずして外道の書物と歌道に耽ってはいけない」と遺誡された)。

法を説く上で、現代の人に通じる平易な例えなどを出したくとも、卑俗に過ぎている作品から学ぶことは推奨しない。



この他、「同じ仏の書でも何を見るべきか?」と、更に次の「事」に進んで語るべきかもしれないが、流石にここら辺で切り上げる。
経典や、数多の宗派の僧侶たちの書で、最勝を決めるということだが、冒頭の通り「大聖人の御書」並びに「法華経・涅槃経」あたりを薦めるべきだろうか。
この辺りは、その結論の「義」が今はまだ出難い。
日蓮大聖人は「無始無終の御本仏」であれば、今の私の年頃には法華経が最勝という判断が確然としているのかもしれない。



それはそうと(おい)、この記事を投稿後に加筆する最中、「我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて~」という御文が目に入った。
文脈としては、「出家僧侶が名利の為に法を説いて尊敬を集めたがるならそれは食法餓鬼」ということで、私は名利云々でもなければ在家(家出経験アリ)であるものの、この記事の題や冒頭などで「法を説く」という表現を使ったばかりに後味が悪い。
家出経験アリ在家+幼少からのハゲで得度済みだから実質出家みたいなモン(これ加筆した僅か10分後に「在家の人が出家を兼ねていると思うのは精神状態を疑いたい」という平成三年四月の僧侶の発言を目にした、俺ツイてなさすぎ)。

何しても運がないね、俺、生じた菩提心が招くものは疑惑の心か。
ここまでやって馬鹿馬鹿しさがとことん込み上げてくる。
「退転するな」ってことだろうか?まあ在家っていっても特定の教団にも属していないけど。

近頃、活動関連でも思うが、「肝胆を摧くのみにして(略)験しなし」といった気持ちで、投げ出したくなり、結局何が真理で何を追求すればいいのかわからん。
勉強・文章を書きまくるならば今月、2015年4月は絶倫そのものだろうか。
お絵かきや作曲等の創作関連といえば、反して鈍化しているようだ。

今回の記事"も"何か悪い方向に落ちた、ささやかな夢も無慈悲に潰える。
今後の投稿予定に「四字熟語+にして」なる記事があるが、それも当初からの意に反して「私の研鑽における障害」を語った内容が現れる。
このブログは私の日記という側面も強いから、今後もこの路線で狂ってみたいが、途中まで一見まともそうな瓊の裏側が瑕だらけっていう記事に終わるのは残念。

俺の完璧な論理が予期せぬキチガイに潰されるパターンもう懲り懲り。
このあたりも、「隠忍自重・忍辱の技術を付けろ」という仏意だと承服できれば、それが不満を生まずに綺麗な収まり方になるのだろうが、未だ気に食わない。
俺の論理は完璧だから、理不尽な問題に対してそういう捉え方も出来るが、あくまで理性の表面だけ、心の内ではますます不快感が燻る。
どうしても救われないから、こういうことを少しは縷々と書きたくなるものだ、私のほかに仏の心に適う人間がいないのに、仏にさえ救われないそうである。

私は涙を感情からは流さないが、いつも泣いているぞ、怒りはしない。
どうしたら度し難き世間・一切衆生を救えるか、ただ悲しく思う。
私が救われずとも、上記のような「毎自作是念」の悩みを持っている。



最後にもう一点、これも記事加筆中に見つけた御文だが、「法華経を読むにも口ばかり、文字読んで心を読まず、心を読んでも身で読まず(趣意)」というのもある。
これはたまたま言葉が似て「身読」について語ったもので、私の「文心勝劣の義」とは関係ない。
「身読」とは、法華経に説かれた末法における行者が遭う「法難」について、末法で法華経を「死身弘法」すれば必ず「法難」に遭う、これこそが法華経の「身読」と言われる。
大聖人が言わんとしたことは「像法時代の天台・伝教などが法華経を広めても難に遭わなかったが、末法時代の日蓮は多くの法難に遭った」ということである。

この御文を「文心勝劣の義」に加筆しようと思って辞めた理由がおわかり。
こう見れば、「諸事相対抄」は無宗教・18歳の著述と思えないほどに教学が及んだ、内容の豊かな書となる。
不満追記の段が本編パートに並びそうなボリュームになったことが悔やまれる。



追記:2015年5月10日5時
「出家」について考えたメモを載せるスペースは、こちらに取る。
出家して山に入る行為について、ことに別の宗派を批判する側が「叡山(など)に篭って修行しても侘しい・空しいだけ」、「社会から隔絶された山寺(各宗の本山寺院など)」と嘲ったり、「社会から逃避して修行」とまで蔑んだりもする。
一方の出家・寺院・宗派としては、ホームページなどで「社会貢献」を強調することもある。
片や出家の反社会性や脱社会性をあげつらい、片や非難された劣等感を糊塗している。

対して、その前者としての立場が強い某在家教団も、一般世間から反社会的カルトと非難される。
宗教同士で「アレは邪教だ」と烙印を押しあうことは順当だが、社会性を持ち出す論は詭弁的。
意見や立場が異なって対立すると結果的には低劣な争いで同化しちゃう真理だろう。
宗教家が「感情」の中の「三毒」や「大罪」に振り回されるとは、色々と失望する。

結局、宗教に社会性を云々するのもアレであるし、真面目に修行をすればよいと思う。
れっきとした犯罪行為ともなれば、法治国家のもとにおいて問題視されようとも、その範疇でなければ問うべきでなかろう。
ことに「出家」であれば、否、「出家」だからこそ社会の趨勢に敢えて迎合する道理はない。
2000年以上前のネパール寄りのインドでは、街を去り山に篭ることが美徳だったはずだ。

この追記について名付けるなら「緇素信行の義」あたりにでもしようかな。


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あしからず。

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