2020年7月12日日曜日

調と性格: シャルパンティエ&マッテゾン&シューバルト本文翻訳編

「調と性格 (Key and Character): 導入編」の記事より続く。



訳の総合的な注意点

語彙ごとの注釈はそれぞれの項目にある。
時代の差で、現代フランス語やドイツ語の正書法 (orthography, spelling) と異なるなどは、私が参照した比較的信頼できるソースのままにしている。
既存の日本語訳や、Google翻訳(正書法の問題は翻訳用のために修正して解決)などを参考にしてもいる。
その上で、文法と語彙を徹底に検証している。
一部の著者における長めの説明は最小限の要素を抽出してから翻訳した。

普通の日本語の感覚で理解しやすくなることを心掛ける。
それと同時に、逐語訳の特徴を保つようにした。
私にとって、原文と対照しやすくなることや翻訳結果の説明可能性向上を狙っている。
ただし、原文の3典籍の時とは、理論値で最大24ある調(文献ごとに内容の数は異なるが)の位置を変え、一般的な音名ド=ハの長調・短調 (ハ長調は C, C major; ハ短調は Cm, C minor; ドが主音の長音階→短音階) および音程の昇順(i.e. ド→レ♭→レ)で並べる。

「楽しい」、「喜ばしい」、「悲しい」などのシク活用および多くの感情表現の形容詞は:言及の客体に精神がある場合「その精神状態にある」という意味でもあれば、言及の主体側が任意の客体から「その精神状態にさせられる効果を受ける」という意味でも解釈できる。
音楽に寄せて言えば、「この曲は楽しい…」と言われても:「この曲自体が楽しい心でいる、と私は思う」という意味や、「この曲から私は楽しさの感情を受け取った/楽しい気分にさせられた」という意味で解釈できる。
そのような言語の曖昧さの問題(場合によっては同時に、書き手がそこをはっきりとさせない問題)があるため、極めて翻訳に迷う。
それも適宜に翻訳し、できる限り「(主体側が)その精神状態にさせられる効果を受ける(=客体がその精神状態にさせる効果を与える)」という方で理解できるようにしている。
単純に「楽しい」という和語の形容詞(シク活用、形容動詞)は、別の意味論的問題もある。
この語彙だけでは多義的であり、対応可能な語句のうち英語 pleasant の場合、pleasant に与えられている辞書的定義 (任意の英英辞書で"Giving pleasure; pleasing in manner."とされる) で「愉快な」とも言われ、これもまた多義的である感じが否めず、さらに追い詰めて「快適な、快感の」という意味で理解することになる。
任意の例文における「楽しい散歩 a pleasant walk」は、踊るようにはしゃぐ散歩のことではなく、快適さを示唆する場合が多い。
ただし、風景に面白さなどがある、という面白さを示唆する場合、やはり心が躍るような散歩という点で踊るようにはしゃぐ散歩を表現している可能性も否定できない。
いずれにしても、ある程度、互いに意味が区別可能になるようにドイツ語でもフランス語でも日本語でも英語でも、統括的に概念的な構造を私は適用したいと思っている。
「逐語訳」、逐語的であるとしても、ここに慎重さを期してみようと思っている。

音楽には感情に関わる言語表現が多く用いられやすいので、このように少し言語的考察を記した。
感情動詞 verba sentiendi などに興味があれば以下の過去記事も参照されたい。
2019年2月17日投稿『現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性』

シャルパンティエ Charpentier の「調と性格」説を載せる *1
シャルパンティエ説についてはフランス語版抄出があるが、活字文献スキャンなどは発見しづらい。
一ページ例 keychar.htm に載るもので全て。
嬰ヘ長調 Fa dièse majeur, F-sharp major (十二平均律での同音:変ト長調 G-flat minor) などに言及なし、と見られる。

シャルパンティエ述 Les Règles de Composition (c. 1682) *2 より:

ハ長調 (C): 陽気で好戦的な調子
ハ短調 (Cm): 陰鬱で悲しみ嘆く調子
ニ長調 (D): 楽しくて非常に好戦的な調子
ニ短調 (Dm): 真剣で敬虔な調子
変ホ長調 (E♭): 残酷で峻厳な調子
変ホ短調 (E♭m): 恐ろしくておぞましい調子
ホ長調 (E): けんか好きで派手な調子
ホ短調 (Em): 女々しく、恋に落ちていて悲しみ嘆く調子
ヘ長調 (F): 怒り狂っていて正気を失っているような調子
ヘ短調 (Fm): あいまいで悲しみ嘆く調子
ト長調 (G): 甘く楽しい調子
ト短調 (Gm): まじめで壮大な調子
イ長調 (A): 楽しくて牧歌的な調子
イ短調 (Am): 柔らかくて悲しみ嘆く調子
変ロ長調 (B♭): 壮大で楽しい調子
変ロ短調 (B♭m): あいまいで恐ろしい調子
ロ長調 (B): 悲しみ嘆く調子
ロ短調 (Bm): 孤独で憂鬱な調子

Ut majeur: Gai & guerrier
Ut mineur: Obscur & triste
Ré majeur: Joyeux & très guerrier
Ré mineur: Grave & dévot
Mi bémol majeur: Cruel & dur
Mi bémol mineur: Horrible & affreux
Mi majeur: Querelleux & criard
Mi mineur: Efféminé, amoureux & plaintif
Fa majeur: Furieux & emporté
Fa mineur: Obscur & plaintif
Sol majeur: Doucement joyeux
Sol mineur: Sérieux & magnifique
La majeur: Joyeux & champêtre
La mineur: Tendre & plaintif
Si bémol majeur: Magnifique & joyeux
Si bémol mineur: Obscur & terrible
Si majeur: Dur & plaintif
Si mineur: Solitaire & mélancolique

訳注

  • この性格説の表現フレーズは、ほとんど形容詞2つをアンパッサンド (ラテン語とフランス語では et という英語 and と同じ意味の言葉をくっつけた記号なのでそのまま and の意味で文章中に使用可能) で分けたものであるが、唯一副詞が含まれるフレーズや、形容詞3つの場合に1つめと2つめとの間にコンマが用いられるフレーズがある。形容詞の連結には「~くて(ク活用およびシク活用 ku +助詞 te = kute)」や「~で(ナリ活用 ni +助詞 te の転訛による結合助詞 n'te = de)」を採用し、唯一の副詞にはそれが用いられないことで訳し分けている。
  • "dur"は2度あるそれぞれで異なる訳をつけた。英語 hard の意味の形容詞(どちらも語彙として副詞でもあるがここでは副詞とならない)とされ、その英語も多義的なので、それぞれで適切なものを選択している。
  • "plaintif"は「悲しい感じのある/悲しそうに聞こえる sounding sorrowful」という意味の形容詞で理解し、「悲しげな」とした。"triste"の時の「悲しい」とは異なる。「哀れな」は英語 poor の意味で取る人が多くなるし、フランス語でも他の語彙 pauvre, pitoyable があるので整合しなくなり、選ばない。なお、ラテン語の語源では planctus のようになり、苦しみ嘆く行為 plango の完了受動分詞とそこから派生した行為名詞であり、後のフランス語で plaint, plainte に継承される。その -if 形容詞形が plaintif と見られるので、更に訳を変えて「悲しみ嘆く(悲嘆に暮れる、も可)」とした。後掲マッテゾン説のドイツ語にも同系語が見られるが、現代ドイツ語では辞書にさえ載らない廃語らしく、近い意味として形容詞"klagenden" (klagend、泣き叫ぶ~、嘆きの~) との代替案が注釈される写本も見られた。
  • "doucement"は douce + -ment の副詞 adverb で、意味は「柔らかい soft」「やさしい gentle」などと辞書に載る (adv. softly, quietly, gently) が、イタリア語 dolce などに比較できるラテン語 dulcis に由来する単語なので、副詞「甘く sweetly (甘い sweet)」とした。dolcemente(イタリア語)も参照。無論、この次にある形容詞"joyeux"を修飾する副詞であると理解した。
  • "tendre"はラテン語 tener の目線で「柔らかい tender, soft」とするが、ラテン語では「女々しい effemine」「卑猥 erotic」などの意味もあるとされ、シャルパンティエさんにそちらが想定された可能性も否定できない。



Mattheson, Johann (1681-1764)

マッテゾン Mattheson の「調と性格」説を載せる *3
マッテゾン説についてはドイツ語版抄出があり、更に調査して活字文献のデジタルテキスト化と思しきページを発見した。
そこでは、"À TONO PRIMO, D.MOLL, (DORIO)" というようにニ短調 (D minor) が最初の調であるとしてドリア旋法を重んじているが、例の通りハ長調 (C major) で並べ替えをしようと思う。
翻訳を進める中でフラクトゥール活字画像がGoogle Booksで閲覧できることが分かった。

マッテゾン述 Das neueröffnete Orchestre (Hamburg, 1713) *4 より:

ハ長調 (C): かなり失礼で生意気な調子
ハ短調 (Cm): 極度に愛らしい [調子であり]、なおかつ悲しくもある調子
ニ長調 (D): やや鋭くて頑固な調子
ニ短調 (Dm): 少し敬虔で穏やかな何かを含み、なおかつかなり大きくもあり、快感で満足の感じる調子
変ホ長調 (E♭): それ自身で感情的なものが多い、そして真剣かつ悲しみ嘆くものしか欲しない [調子であり]、全ての充足感にあたかも敵対的なようでもある調子
ホ長調 (E): 絶望に満ちた [感情]、または完全に致命的な悲しみを比類なく表現する [調子であり]、不運で希望なき恋愛の窮状に最適な調子
ホ短調 (Em): 陽気なものに繋がることがほぼありえない [調子であり]、非常に考え込んでいて深慮していて傷心でいて悲しい [気持ちに] させる調子
ヘ長調 (F): 寛大さ、忠誠心、愛など、美徳の名簿の上位にあるもの何でもといった、世界で最も美しい感情を表現することができる調子
ヘ短調 (Fm): 穏やかで静穏でありながら、同時に深くて重い [調子であり]、やや絶望感と致命的な心の恐怖を表している調子
嬰ヘ短調 (F♯m): 大きな悲愴感につながるが、致死的というよりも、だるくて恋している調子
ト長調 (G): 多くのご機嫌どりのものとおしゃべりなものをそれ自身に持っている [調子であり]、 加えて少なからず輝いてもいて、まじめなものと陽気なものの両方に適している調子
ト短調 (Gm): 前の調(ニ短調 d-moll, Dm)に付けられたまじめさを生き生きとした愛らしさに混ぜるだけでなく、並外れた優雅さと礼儀正しさも兼ね備えているので、これら全てで最も美しい調子
イ長調 (A): (同時に [その調が] 輝くかどうかは、?)非常に攻撃的である [と言われ]、遊興よりも、嘆かわしく悲しい情緒に向いている [調子であり]、 特にバイオリンの演奏にはとてもよく適している調子
ここから中途@→イ短調 (Am):
変ロ長調 (B♭):
ロ長調 (B): 嫌気のさす、硬い、そしてとても不愉快で、しかもやや絶望的な特徴をそれ自身に持っている調子
ロ短調 (Bm): 奇妙で、不快で憂鬱な調子

C-Dur: (Dieser Ton) hat eine ziemlich rude und freche Eigenschafft, wird aber zu Rejouissancen, wenn und wo man sonst der Freude ihren Lauff lässet, nichtungeschickt seyn, dem ungeacht kan ihn ein habiler Componist, wenn erinsonderheit die accompagnirenden Instrumenta wohl choisiret, zu gar was charmantes umtauffen, und füglich auch in tendren Fällen anbringen.
c-moll: (Dieser Ton) ist ein überaus lieblicher, dabey auch trauriger Ton, weil aber die erste qualité gar zu sehr bey ihm prävaliren will, und man auch des süssen leichtüberdrüßig werden kan, so ist nicht übel gethan, wenn man dieselbe durchein etwas munteres, oder ebenträchtiges mouvement ein wenig mehr zu beleben trachtet, sonst möchte einer bey seiner Gelindigkeit leicht schläffrig werden. Soll es aber eine Piece seyn, die den Schlaff befördern muß, sokan man diese remarque sparen, und natürlicher Weise bald zum Zweckgelangen.
D-Dur: (Dieser Ton) ist von Natur etwas scharff und eigensinnig, und zum lärmen, lustigen, kriegerischen und aufmunternden Sachen wohl am allerbequem-sten, doch kan man auch nicht in Abrede seyn, daß nicht auch dieser harte Ton, wenn zumahl an statt der Clarine eine Flöthe, und an statt der Paucke eine Violine dominirt, gar artige und fremde Anleitung zu delicaten Sachen geben könne.
d-moll: (Dieser Ton) enthält in sich etwas devotes und ruhiges, dabey auch etwas grosses, angenehmes und zufriedenes, dannenhero derselbe in Kirchen-Sachen die Andacht, in communi vita aber die Gemüths-Ruhe zubefördern capabel sey, wiewohl solches alles nichts hindert, daß man nichtauch was ergötzliches, doch nicht sonderlich hüpfendes, sondern fließen-des mit succes aus diesem Ton setzen könne.
Es-Dur: (Dieser Ton) hat viel pathetisches an sich, und will mit nichts, als ernsthafften und dabey plaintiven Sachen gerne zu thun haben, ist auch aller Üppigkeit gleichsam spinnefeind.
E-Dur: (Dieser Ton) drucket eine Verzweiffelungsvolle, oder gantz tödtliche Traurigkeit unvergleich wohl aus, ist vor extrem=verliebten, Hülffe und Hoffnungslosen Sachen am bequemsten, und hat bey gewissen Umständen so was schneidendes, leidendes, und durchdringendes, daß es mit nichts, als einer fatalen Trennung Leibes und der Seelen verglichen werden mag.
e-moll: (Dieser Ton) kan wohl schwehrlich was lustigem beygelegt werden, man mache es auch, wie man wolle, weil es sehr pensiv, tieffdenckend, betrübt und traurig zu machen pfleget, doch so, daß man sich noch dabey zu trösten hoffet. Etwas hurtiges mag wohl daraus gesetzet werden, aber das ist darum nicht gleich lustig.
F-Dur: (Dieser Ton) ist capable die schönsten Sentiments von der Welt zu exprimiren, es sey nun Großmuth, Standhafftigkeit, Liebe oder was sonst in dem Tugend=Register oben an stehet, und solches alles mit einer der massen natürlichen Art und unvergleichlichen Facilité, daß gar kein Zwang dabey von nöthen ist. Ja die Artigkeit und Adresse dieses Tons ist nicht besser zu beschreiben, als in Vergleichung mit einem hübschen Menschen, dem alles, was er tut, es sey so gering es immer wolle perfect gut ansteht, und der, wie die Franzosen reden, bonne grace hat.
f-moll: (Dieser Ton) scheinet eine gelinde und gelassene, wiewohl dabey tieffe und schwehre, mit etwas Verzweiffelung vergesellschaffte und tödtliche Hertzens=Angst vorzustellen, und ist über die massen beweglich. Er drucket eine schwartze, Hülfflose Melancholie schön aus, und will den Zuhörern bißweilen ein Grauen, oder einen Schauder verursachen.
fis-moll: Ob gleich dieser Ton zu einer grossen Betrübniß leitet, ist dieselbe doch mehr languissant und verliebt, als lethal; und hat auch sonst dieser Ton etwas abandonirtes, singulaires, und misantrophisches an sich.
G-Dur: (Dieser Ton) hat viel insinuantes und redendes in sich, er brilliret dabey auch nicht wenig, und ist so wohl zu serieusen, als munteren Dingen, gar geschickt.
g-moll: (Dieser Ton) ist fast der allerschönste Ton, weil er nicht nur die dem vorigen anhängende ziemliche Ernsthafftigkeit mit einer munteren Lieblichkeit vermischet, sondern eine ungemeine Anmuth und Gefälligkeit mit sich führet, dadurch er so wohl zu zärtlichen, als erquickenden, so wohl zu sehnenden, als vergnügten, mit kurtzen, beydes mäßigen Klagen und temperirter Fröhlichkeit bequem und überaus flexible ist.
A-Dur: (Dieser Ton) soll sehr angreiffen, ob er gleich brilliret, und mehr zu klagenden und traurigen Passionen, als zu divertissiments geneigt ist; insonderheit schicket er sich sehr wohl zu Violin-Sachen.
a-moll: (Dieser Ton) soll einen prächtigen und ernsthafften Affekt haben, so, daß er doch dabey zur Schmeicheley gelencket werden mag. Ja die Natur dieses Tons ist recht mäßig, etwas klagend, ehrbar und gelassen, item zum Schlaff einladend, und kan fast zu allerhand Gemüths=Bewegungen gebraucht werden. Ist dabey gelinde und über die massen süsse.
B-Dur: (Dieser Ton) ist gar divertissant und prächtig, behält dabey gerne etwas modestes, und kan demnach zugleich vor magnific und mignon passiren. Unter andern Qualitäten, die ihm beygelegt werden, ist diese nicht zu verwerfen: Ad ardua animam elevat.
H-Dur: (Dieser Ton) scheinet eine widerwärtige, harte und gar unangenehme, auch dabey etwas desperate Eigenschaft an sich zu haben, ist aber nicht sonderlichgebräuchlich.
h-moll: (Dieser Ton) ist bizarre, unlustig und melancholisch, deswegen er auch selten zum Vorschein kommet, und mag solches vielleicht die Ursache seyn, warum ihn die Alten aus ihren Clöstern verbannet haben.

訳注

  • 私が参照した版で"wascharmantes"など、校正ミスが見られたものは適宜に修正してある。他は正書法の問題について触れた通り、そのままにしてある。
  • 調の名の名詞は文法性 (grammatical gender) が男性 (masculine) である、と分かる。マッテゾン説では"ist ein überaus lieblicher…"から読み取ることができる。冠詞 ein の名詞句または不定冠詞句の中で男性・主格・単数形と見られる形容詞 lieblicher (叙述では lieblich) がある。なお、"dieser Ton"も男性である。シャルパンティエ説は額面上、男性だが、無性かもしれない。踏み入った事項は、シャルパンティエ説の原点の文脈や、活字デジタル画像を閲覧していないと、確かには言いづらい。
  • "ziemliche"は形容詞 ziemlich の屈折/曲用が伴った語形である。ziemlich について、英語版Wiktionaryは副詞しか載せていないが、ドイツ語版Wiktionaryは形容詞としても載せている。冠詞 eine の名詞句または不定冠詞句の中で女性・主格・単数形になっている。
  • "Lauff lässet"は、"Laufflässe"など複数の版で異なり、 動詞 lassen = laßen の活用形: lasset = laßet (三人称・複数・現在時制・接続法?), lässt = läßt (三人称・単数形・現在時制・直説法) などにも理解できるように綴る版もある。"(Lauff) läst" と綴る版もあるが、この綴りについてはドイツ語の意味で理解されないのではないか?この綴りそのものはスウェーデン語にのみある。ただし、フレーズ単位で検索すると、Mattheson 文献と同時代の他のドイツ語文献が色々と検索にかかるので、何かしらありえるようである。
  • "schläffrig"に関しては現代語で schläfrig とするも、ここでは f が二重であるし、その他の版で"schlaeffrig", "schlaeffrich"などと、ウムラウトの ä を現代スイス式で綴るものや無声の軟口蓋/硬口蓋摩擦音のために ch と g とで表記が異なるものもある。
  • "enthält" (不定詞: enthalten, 意味: 含む) は"hat" (不定詞: haben, 意味: 持つ、有する) とする文献もあるが、大きな意味の差は無い。
  • "dabey aber auch grosses"は、"aber"の無い版2つを見て、それを除いた。
  • "an sich"は再帰的な (reflexive) 性質を同じ節 (clause) の動詞に与える前置詞句と理解できるが、ここでの動詞 haben (活用で"hat"と) に対して有効な意味があるか不明。直訳した。似たもので"in sich"も後に出てくるが、同様にした。縮約助詞「で」とナリ活用連用形由来助詞「に」の意味は原文を見てもらうことになるが、原文でもナンセンスに近い状態と見られるので、形態を変えることは不必要な思索を生んでしまうか。
  • "plaintiven"は前掲シャルパンティエ説への訳注の通り現代ドイツ語にとって廃語で、"klagenden" との代替案を注釈する写本もある。
  • "Sachen gerne zu tun haben" (gerne は辞書的に gern) は名詞句と見る場合、翻訳不能。ざっくりと「もの、楽しんで、有することをする」と書き残す。2時間ほど理解に苦しんだ後、ドイツ語(もとい一部ゲルマン語)の統語論にあるV2語順について思い返したので、この広い範囲を独立の主節 (main/independent clause) と見た場合、その中の助動詞"will"がV2に相当して最後に"zu tu haben"が謎の慣用句(ウェブ検索およびGoogle翻訳で否定の語句をともなう「関係ない、関わりたくない」と出るが他の意味も見られて意味不明)と見ることもできる。冒険しすぎて謎めいた領域に入るので、—学問的良心としてどうかと思うが—実用的には留保になる。
  • "drucket"は任意の辞書で「印刷する to print」としか言われない。しかし、日本語版WikipediaやGoogle翻訳は「表現する」と文脈に合った翻訳をする。drucket もとい動詞 drucken (不定詞) は drücken という別の現代ドイツ語の語句とほぼ同系の語彙であり、こちらの意味は「押す to press」などとされ、こちらに接頭辞 aus- が付くことで「表現する to express」という意味の ausdrücken になったりもするため、近縁であると言える。この話は抜きにしてもマッテゾン述のドイツ語で「表現する」という語彙は drucken になると見られる。
  • "Huelff- und"はそのようにハイフンとスペースとが用いられる版を私は参照し、訝しいので他の例も比較すると"Hülff=", "Hülffennd" (時代不詳、フラクトゥール活字画像およびテキスト化) などと見られた。正書法の問題として見る限度を超えている。まだ辞書に載っているような Hülfe, Hilfe という名詞も、英語 help に比較される「助け」の意味であり、この名詞のまま理解するには困難がある。既存の日本語訳やフィンランド語訳に歩み寄る必要を感じた。
  • "kan wohl schwehrlich"は現代ドイツ語で kann wohl schwerlich となる。wohl は辞書的に「おそらく」(perhaps) の意味であるが、動詞の意味を「法」(mood, mode) の特質で変える modal particle(法的不変化詞)であるとも。kann […] schwerlich は can hardly となる(現代英語圏でこの想定される意味に can か can't かは分かれる傾向があるがGoogle翻訳は否定表現を付随させないで英語に翻訳した)。一見して直訳は「おそらく困難に~できる」となるが、意味としては「ほとんど~できないであろう」となる。ついでに、wohl schwehrlich の独英対照の例文が読めるサイトも載せる https://www.linguee.com/german-english/translation/wohl+schwerlich.html
  • "pensiv"は"plaintiven"のように、フランス語からの借用が多いマッテゾン説または同時代ドイツ文語の特徴と見られる。英語 pensive に相当する意味のフランス語の形容詞であり、男性・単数の語形"pensif"とする版もある。
  • "leitet" (不定詞: leiten, 意味: …後述) は他動詞か自動詞か?どの意味か?というと、この動詞の前に与格支配の前置詞"zu"と、与格の冠詞"einer"の名詞句または不定冠詞句とが見られるため、英語の自動詞 lead の lead to (意味: ~に導く or ~につながる) に相当するものと理解した。意味は「~につながる」とした。類義語に führen (他動詞の「~を導く」と自動詞の「~につながる」どちらも) がある。



Schubart, Christian (1739-1791)
シューバルト Schubart (Christian Friedrich Daniel Schubart) の「調と性格」説を載せる。
シューバルト説についてはドイツ語版抄出があるが、活字文献スキャンなどは発見しづらい。

シューバルト述 Ideen zu einer Ästhetik der Tonkunst (1784–85; ed. by his son, Ludwig Schubart, Vienna, 1806) *4 *5 より:

ハ長調 (C): 完全に純粋(な調子 or だ。その性格は:無邪気さ、単純さ、素朴さ、幼児語の名を持つ)
ハ短調 (Cm): 愛の宣言、と同時に不運な愛の嘆き(を表す調子)
ここから中途@→変ニ長調 (D♭):

C dur, ist ganz rein. Sein Charakter heisst: Unschuld, Einfalt, Naivetät, Kindersprache.
C moll, Liebeserklärung, und zugleich Klage der unglücklichen Liebe. – Jedes Schmachten, Sehnen, Seufzen der liebetrunknen Seele, liegt in diesem Tone.
Des dur. Ein schielender Ton, ausartend in Leid und Wonne. Lachen kann er nicht, aber lächeln; heulen kann er nicht, aber wenigstens das Weinen grimassiren. - Man kann sonach nur seltene Charaktere und Empfindungen in diesen Ton verlegen.
Cis moll. Bußklage, trauliche Unterredung mit Gott; dem Freunde; und der Gespielinn des Lebens; Seufzer der unbefriedigten Freundschaft und Liebe liegen in seinem Umkreis.
D dur. Der Ton des Triumphes, des Hallelujas, des Kriegsgeschrey’s, des Siegsjubels. Daher setzt man die einladenden Symphonien, die Märsche, Festtagsgesänge, und himmelaufjauchzenden Chöre in diesen Ton.
D moll, schwermüthige Weiblichkeit, die Spleen und Dünste brütet.
Es dur, der Ton der Liebe, der Andacht, des traulichen Gesprächs mit Gott; durch seine drey B, die heilige Trias [Dreifaltigkeit] ausdrückend.
Es moll. Empfindungen der Bangigkeit des aller tiefsten Seelendrangs; der hinbrütenden Verzweiflung; der schwärzesten Schwermuth, der düsteren Seelenverfassung. Jede Angst, jedes Zagen des schaudernden Herzens, athmet aus dem gräßlichen Es moll. Wenn Gespenster sprechen könnten; so sprächen sie ungefähr aus diesem Tone.
E dur. Lautes Aufjauchzen, lachende Freude, und noch nicht ganzer, voller Genuß liegt in E dur.
E moll. Naive, weibliche unschuldige Liebeserklärung, Klage ohne Murren; Seufzer von wenigen Thränen begleitet; nahe Hoffnung der reinsten in C dur sich auflößenden Seligkeit spricht dieser Ton. Da er von Natur nur Eine Farbe hat; so könnte man ihn mit einem Mädchen vergleichen, weiß gekleidet, mit einer rosenrothen Schleife am Busen. Von diesem Tone tritt man mit unaussprechlicher Anmuth wieder in den Grundton C dur zurück, wo Herz und Ohr die vollkommenste Befriedigung finden.
F dur, Gefälligkeit und Ruhe.
F moll, tiefe Schwermuth, Leichenklage, Jammergeächz, und grabverlangende Sehnsucht.
Fis moll. Ein finsterer Ton: er zerrt an der Leidenschaft, wie der bissige Hund am Gewande. Groll und Missvergnügen ist seine Sprache. Es scheint ihm ordentlich in seiner Lage nicht wohl zu seyn: daher schmachtet er immer nach der Ruhe von A dur oder nach der triumphirenden Seligkeit von D dur hin.
Ges dur. Triumph in der Schwierigkeit, freyes Aufathmen auf überstiegenen Hügeln; Nachklang einer Seele, die stark gerungen, und endlich gesiegt hat – liegt in allen Applicaturen dieses Tons.
G dur. Alles Ländliche, Idyllen- und Eklogenmäßige, jede ruhige und befriedigte Leidenschaft, jeder zärtliche Dank für aufrichtige Freundschaft und treue Liebe; – mit einem Worte, jede sanfte und ruhige Bewegung des Herzens läßt sich trefflich in diesem Tone ausdrücken. Schade! daß er wegen seiner anscheinenden Leichtigkeit, heut zu Tage so sehr vernachlässiget wird. Man bedenkt nicht, daß es im eigentlichen Verstande keinen schweren und leichten Ton gibt: vom Tonsetzer allein hangen die scheinbaren Schwierigkeiten und Leichtigkeiten ab.
G moll, Mißvergnügen, Unbehaglichkeit, Zerren an einem verunglückten Plane; mißmuthiges Nagen am Gebiß; mit einem Worte, Groll und Unlust.
Gis moll, Griesgram, gepreßtes Herz bis zum Ersticken; Jammerklage, die im Doppelkreuz hinseufzt; schwerer Kampf, mit einem Wort, alles was mühsam durchdringt, ist dieses Tons Farbe.
As dur, der Gräberton. Tod, Grab, Verwesung, Gericht, Ewigkeit liegen in seinem Umfange.
A dur. Dieser Ton enthält Erklärungen unschuldiger Liebe, Zufriedenheit über seinen Zustand; Hoffnung des Wiedersehens beym Scheiden des Geliebten; jugendliche Heiterkeit, und Gottesvertrauen.
A moll, fromme Weiblichkeit und Weichheit des Charakters.
B dur, heitere Liebe, gutes Gewissen, Hoffnung, Hinsehnen nach einer bessern Welt.
B moll. Ein Sonderling, mehrentheils in das Gewand der Nacht gekleidet. Er ist etwas mürrisch, und nimmt höchst selten eine gefällige Miene an. Moquerien [Vorwürfe] gegen Gott und die Welt; Mißvergnügen mit sich und allem; Vorbereitung zum Selbstmord – hallen in diesem Tone.
H dur. Stark gefärbt, wilde Leidenschaften ankündigend, aus den grellsten Farben zusammen gesetzt. Zorn, Wuth, Eifersucht, Raserey, Verzweifelung, und jeder Jast des Herzens liegt in seinem Gebiethe.
H moll. Ist gleichsam der Ton der Geduld, der stillen Erwartung seines Schicksals, und der Ergebung in die göttliche Fügung. Darum ist seine Klage so sanft, ohne jemahls in beleidigendes Murren, oder Wimmern auszubrechen. Die Applicatur [der Fingersatz] dieses Tons ist in allen Instrumenten ziemlich schwer; deßhalb findet man auch so wenige Stücke, welche ausdrücklich in selbigen gesetzt sind.

訳注

  • 参照したデジタル文献(テキスト、電子文献 e-text, electronic text)には » « という引用符が用いられていたが、ここでは掲載用に取り除いた。




他の注釈

*1... 日本語版Wikipediaの「~調」記事には、原版に言及される限りのシャルパンティエの説が載っている(その日本語訳の責任者は不明、時期は2007年10月)。
*2... WW2以降に英語訳 M.-A. Charpentier's "Règles de Composition" が作られた (1967 Lillian M. Ruff) そうだが詳細不明。
*3... 日本語版Wikipediaの「~調」記事には、原版に言及される限りのマッテゾンの説が載っている(その日本語訳の責任者は不明、時期は2007年8月)。
*4... WW2以降に性格説の部分が Rita Steblin によって英訳されて A History of Key Characteristics in the Eighteenth and Early Nineteenth Centuries (1983) に載るという。フィンランド語のウェブサイトに、そこからの重訳フィンランド語が載っている。原題は多くの場合"Das neu-eröffnete Orchestre"と、形容詞の部分にハイフンが用いられる。
*5... Sprache und Musik (Dürr, Walther. 1994) に引用されたシューバルト説は村田千尋によって邦訳されて「声楽曲の作曲原理: 言語と音楽の関係をさぐる マドリガーレからリートまで」に載るという。



参考文献

調性の性格論 - 福井雄一. 2014-11-26. https://dirigent.exblog.jp/23795125/ (「Sprache und Musik 邦訳:声楽曲の作曲原理」を出典としている)
The affective properties of keys in instrumental music from the late nineteenth and early twentieth centuries - Ishiguro, Maho A. 2010. https://scholarworks.umass.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1561&context=theses
Sävellajikarakteristiikka - Klassismi moduli 3. 2012-11-15. https://klassismi.wordpress.com/johdatus-musiikin-klassismiin/savellajikarakteristiikka/ (フィンランド語訳。Steblin, 1983 からの重訳。マッテゾンとシューバルトの他にルソー Jean-Jacques Rousseau, ガレアッツィ Francesco Galeazzi などの説が載る)
Key Characteristics and Pitch Sets in Composing with Just Intonation - Alves, Bill. Summer 1990. http://pages.hmc.edu/alves/justkeys.html
Tonartenverteilungstabelle.pdf - Johannsen, Daniel "Dschonnie". 2005-05-24. http://www.danieljohannsen.com/Kompositionen/Tonartenverteilungstabelle.pdf
ドイツ語ではなぜシの音をhと呼ぶの?ドイツ音名h(ハー)の謎に迫る!! - スガナミミュージックサロン品川. 2015-08-09. https://www.suganami.com/info/44155



比較する表(簡略、の予定)

KeysCharpantierMatthesonSchubart
C陽気で好戦的なNANA
CmNANANA
D♭NANANA
C♯mNANANA
DNANANA
DmNANANA
E♭NANANA
D♯mNANANA
ENANANA
EmNANANA
FNANANA
FmXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
F♯/G♭NANANA
F♯mNANANA
GNANANA
GmNANANA
A♭NANANA
G♯mNANANA
ANANANA
AmNANANA
B♭NANANA
B♭mNANANA
BNANANA
BmNANANA



総評

シャルパンティエ (c. 1682) とマッテゾン (1713) に関しては、かなり共通する説明が見られた。
シャルパンティエからシューバルト (1784–85) までは編年および生没年で100年前後の時間の差があり、解説も変わってくる。
「調と性格」に関する解説は、前の記事の文「実際の楽器ごとにある調の得意・不得意による楽曲を構成する楽器の偏りが、彼らの感性に影響を与えた可能性」や、前の記事の [注釈*8] で引用されたヘルムホルツさんの話(英訳されたもの。元のドイツ語不明)からしても、曲の回想から言われたものと感じることになる。
調律の方法および基準音に関する前提よりも、このことが重要であると感じる。
任意の著者が任意の調について性格を解説することが、同じ時代の作曲家に役立っていたと見る向きも現代の研究者にはある。
つまり、任意の調の性格の解説は、その用いられた曲の目録を暗示しているかもしれない。
当時の彼らは、現代の専門家ほど「曲として完成した状態での音楽」を多く聴く環境にあったわけでないにしても、記憶力や聴く際の精神性が大きく異なり、強く心に余韻を懐いたとも思われるので、彼らなりに記憶の量や熱心さや楽器経験&知識がある上で調の性格を記述した、と私は思っている。
ただし、彼らの解説に楽器の相性に関しては言及されない。
他には、何らかの方法で譜面を多く入手して閲覧していたとも思われる。
「調(調性)の性格論」と呼ばれる研究の界隈で、この点=彼らオリジナルの作家たちの環境が解明されているかはあずかり知らない。

調(調性)の概念そのものについては、その調が星座などによる占いや血液型による性格判断のようなものとして使われる印象を調査以前に懐いていた。
もしくは、「この雰囲気がかっこいい、感動的」といった感傷的でありながら具体的な根拠を求めることの難しいものとも思っていた。
何の調を用いるかについて、今まで調査したことから、作曲者によって、明らかに使用楽器が想定された実用性や親切心に依拠することが多い、と私は考えなおした。
調号などにより、五線譜などの記譜法にも関係する。
ポピュラー音楽で同一フレーズの移調による転調が多いことに関しては、別の話とする。

何となく、「任意の時代・地域における音楽家が何の周波数を基準とした調律の楽器を用いて作曲したとしても、調と性格に当てはめる問題ではない。つまり、調の名のラベルの下に作られた曲想=曲例が印象に作用していて、調の音響的特性が聴く者の印象に作用していない。調の性格論はロゴス的なものの影響が強い」と考えそうになるが、これは恐らく通用しない見方である。
シャルパンティエ、マッテゾン、シューバルトの三者と、19世紀以前に性格論を解説した人たちの時代背景が細かく解明され、整理されてから言えることがあると思う。
ほとんど解明が困難なことは:彼らの時代以前からフランス語・ドイツ語圏に後世のピアノのような1オクターブを満たす十二の半音をそなえた楽器(e.g. チェンバロ=ハープシコード)が多くの音楽家に利用可能であったかということと、それで演奏実験を彼らが行った上で解説をしたか、ということである。
楽器の側面では、やはり17世紀以降のヨーロッパで一般に行われた調律方法(一例では中全音律 meantone temperament の系統?)で任意の調での和音–コードに聴く人にとっての不快感が伴うという問題などが多くの作曲家–演奏家をして忌避せしめるほどに調律の方法が影響することもある。
当記事に載る3名の解説で最も新しいシューバルト説は、ロ短調 (h-Moll) および同主調の変ニ長調 (Des-Dur) に対して「まれ、珍しさ」を言うことで、婉曲的にこの問題を取り扱っているようである(日本語版と英語版のWikipediaはロ長調 B major の方にまれであることが記される。シューバルト説 H-Dur は言及なし)。

古典的な「調の性格論」と別物で、似たような研究もありうる。
特定の調律と基準音とで12の長三和音や12の短三和音を複数の人に聴かせてその印象を調査するような研究は、臨床的な手法である。
これは、同じ根音で同じ第3音の和音がその調であるように関連させる意図でない;前後に何の和音を聴いたか、思ったか、という相対性からの印象になってしまうと、それだけの結果になる恐れもあるので、個人的にしらみつぶしの課題ではないか、と感じる。
古典的な「調の性格論」から出発した別物の、現代的な研究は、一例で、ポピュラー音楽のみを対象にし、大量の「識別された単体楽曲、作品」の楽譜データ(デジタル規格たるMIDIファイルに一括できる)とテーマや印象に関するキーワードから量的に集計することである(キーワードに関して言えばタグクラウドのようなもの)。
これは、権利者サマの存在が強いポピュラー音楽の広い領域を対象にするので、限られた研究者、共同体が可能であろうという意図である。
識別された単体楽曲でも、転調を伴うなどがあり、その考慮には3つの案:基本的な1つの調のみに制約するか、1曲アイデンティティの下に複数パートを別個に扱うか、のどれかによって解決されねばならない。
1つの調でも邦楽における「IV V iii vi (minor scale: VI VII v i) 王道進行」や「IV V vi (minor scale: VI VII i) 進行」などの短調認定をされながら(もし短調の音階–スケールでないならばリディアン・スケール?しかしVI和音の主音VIをメロディにほとんど用いない曲についてメロディ主音は短調らしいと見られる)同じ根音で同じ第3音の短三和音で始まらない進行が主要な曲(言うまでもなく三和音–トライアドを直ちに見いだせないかパワーコードばかりの曲でも基本的に音名と音階の関係で長和音–メジャーコードか短和音–マイナーコードに便宜的な処理ができるや、それら進行とその他の進行とが場面ごとに異なって現れる曲などがあり、1曲アイデンティティの曖昧さは取り扱いに注意を要する。

作る側も聴く側も十二平均律の環境が与えられているポピュラー音楽での作曲のためには「平均律和声の性格論」を設けた方が実用的である。
例えば、減七和音 (diminished seventh chord) や増六和音 (augmented sixth chord) は、それらのみであると「暗い、不吉な印象が強いもの」として語りうると同時に、ピアノバラードを始めとしたいくらかのポップスでは「綺麗な深みを与えてほのかな明るさに効果的なもの」として実用できる。
七音音階、ダイアトニックの音の音程 (intervals) には、純正律 (just intonation) の純正音程 (just interval, 単純な整数比であり、平均律の対数の等分と異なる) との違いが12通りに含まれる。
12の音高ごとの関係性/相関性 (relativity, relation, relationship/correlativity, correlation 相変わらず適切な用語不明) というものは、過去の不等分音律の下での調の性格論に類似の数理的問題が内包されるので、平均律和声の印象論の解説を行えば、現代で実利的な性格論となる。
とはいえ、三全音 (tritone, 半音6つの音程) が「音楽の悪魔 (the Devil in music, 新ラテン語 diabolus in musica, 減七和音や減三和音にも含まれる音程)」と評されるような音程は、純正律で定まっていないようで、もし定めても独特な印象は続くし、この呼称自体はどちらかというと印象よりも整数比の前項–後項(いわゆるC major ハ長調における F♯とG♭の相違性とを指す;前の記事のヘルムホルツさんの説を参照)や数値単純化に関する問題を指していそうである (e.g., 7制限純正律で7:5, 10:7; ピタゴラス音律で729:512, 1024:729)。







当記事は「調と性格 (Key and Character): 導入編」の記事より続く内容である。
他の事項はそちらに集約されているので、あわせて読まれたい。
調の印象について各自が自己実験などをしたい場合は、調律の基準のピッチが何であるか(現代の標準は440 Hzである/一時代・一地域は415 Hzである)など、注意事項が付随する。
当記事の話では、「実験」というよりも、解説されたような古典音楽の感性に合わせたい人が擬似的に合わせるためにそのような方法で「訓練」する方に需要がありそうである。
手軽にはDAWという、MIDIの規格を用いたデジタル作曲環境を用いることであり、過去記事に調律の基準のピッチを簡易に変える方法の一例を示したこともあるが、MIDI 2.0 という2020年の最新の規格ではこの辺のもっと便利で確実な手段があるかもしれない。

翻訳をした私自身、調と性格に関して実用的な期待を2019年9–10月に持つことで発案したが、同時に、日本語版Wikipediaの情報のソースを探す意図もあった。
結果的に文献学的批判というかクリティカル (critical) な態度の調査が重なっている。
できる限り丁寧に翻訳しようとしたことも、言語学習の意図によるもので、音楽的実用性は忘れられていると思う。

この間にも、翻訳行為と別に作曲したり、自分で「調の性格」を具体的な曲から感じてみようとする心情はあった。
基準のピッチ 440 Hzの現代的なポピュラー音楽で、一例としてニ長調 (D major) は静かな状態の水のある場所(昼~夕暮れ)に合うような情緒があった。
本文にも趣旨が記される通り、結局は私の認知する曲例 (管理楽曲識別番号: 926, 954) に依拠した感覚である。
他に、ニ長調 (D major) はポピュラー路線のロック系の青春のような雰囲気に合う、この情緒もギターで一般的なEADGBEスタンダード・チューニング(またはドロップDチューニング)が関係する曲例 (管理楽曲識別番号: 11, 49, 341, 651, 807, 820)に依拠した感覚である。
DAW, デジタルに符号化されたオーディオデータを機械的にピッチ調整して鳴らすデジタル環境での作曲で、実際の楽器と異なるが、やはり任意の位置では苦手な鳴り方のある場合もあり、この実用性の観点で頻繁に移調をしながら音を確かめる。
ただし、これは調の性格、印象を決める作業と異なる。
無理に、音階に関する実験のためにハ長調=イ短調に移調して再生した場合が確認できる動画もある(動画内容と説明文を見ての通り、元が何の調であるかは半音いくつ分で動かされたかという形で表記しているが、移調される前の音の状態は再生しないのであしからず)。





当記事投稿以後の2020年7月17日に追加の調査を行い、以下の2点のページを見たことも報告する。

調性格 ハンドブック - デミカ. 2010-03-19. https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=216866&id=51433156
表題の三者以外の説も多く載る。本文での名義は「高木 竜馬」、1992年生まれの人物で公開者はその実母という。この公開よりも2年以上前 (注釈 *1, 3 参照) からシャルパンティエ説とマッテゾン説に同じ翻訳文が日本語版Wikipediaに見られるので、彼らの翻訳行為ではないと見られる。また、典拠に日本人の名は同じく説を持つ「門馬 直美」のみが見られ、注釈にも記したように「日本語訳の責任者」は今なお定かでない。このページは一部の人の手軽な閲覧には向いている(シューバルト説のうち福井氏のものと僅かに異なる部分が見られたり、ことわりなく異名同音調のそれぞれに同じ内容を載せたり、全角数字と半角数字の混在などがある点に注意)。

cat. 調性格 - やわらかなバッハの会. 2008-04-14/2009-01-06. http://equal-system.com/archives/cat_10013560.html
載せられる説は、一つ上と異なる人物も多く見られ、マッテゾン説については不明の「日本語訳の責任者」と仮定するソースは同じ…と思ったが別の記事に「山下道子」の訳と記され、翻訳文の差異もある。「ミース」、「リューティー」については「竹内ふみ子」の訳と記される。これはカテゴリーのページであるため、他の話題も見られる。「調性格の説は不確実、恣意的である」とする。「キルンベルガー」の「平均律は作曲家に長調にするか短調にするかの選択肢しか残さない」という言及(訳者不明、原典不明)もその筆者の要旨になる。調の性格の研究史が別々の記事に色々と記されているので、興味のある方は参照されたい。ご本人のイコール式(音楽教育法・鍵盤楽器奏法の教授、商標登録第5091155号)について、ここで私は詳述しない。2008年10月にバッハ研究 or 愛好つながりの「富田庸」氏から褒められたことを、2016年に自発的な自己紹介に言っているコメント行為が、見られた。



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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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