2022年8月11日木曜日

カウンターカルチャー:極度の長髪と多分野学習&実践、マイ理念

スーパーロングヘアー (superlong hair)、スーパーサイエンティスト (super-scientist)、スーパーアーティスト (super-artist)。
髪の長さを際限なく追及したり、分野の広さを際限なく追及したり、私はしている。
現代文明の、「多様性を言いながら画一性を求め、分業体制を強める客観情勢」に対する反骨精神。
それでありながら、「こういう人も必要だ」と世の中から期待もされない現実に対する努力。

誰かがやりそうで誰もやっていないことを、広く、多く行うのは世界で唯一、私しかいない、と自負している。
私が長髪を保つことは、その象徴として実践されている。


横野真史と特徴的な自画像の例



剃髪してお坊さんという形式にはあこがれたこともあり、仏教を学ぶ以前には「中途半端な短髪になるくらいならば坊主頭、スキンヘッドがよい」と思ったこともある。
同じ趣旨が本家ブログ2013年8月4日の記事に記されている。 私の頭頂部に「不治のハゲ」と認識される瘢痕性禿髪、瘢痕性脱毛症+頭皮欠損の部分があることが主な原因である。
しかし、現在までに、全体的な剃髪をすることはありえないという方針が決まっている。

その禿の原因になっている普通じゃありえない「すりへった頭皮」は、おそらくスキンヘッドにされた形状をいびつにする。
「いびつにする」と言うと、頭の骨がへこんだような人に同質化され、語弊があるので、それとも違う「独特なものにする」、と修正しよう。
私の瘢痕性はげ部分がスキンヘッドにされた形状独特なものにする、という趣旨が本家ブログ2013年9月20日の記事に記されている。

余談:サブカルチャーのうちには、パンクス (punks, punk) と並び称されるものが、スキンヘッズ (skinheads, skinhead subculture) であるが、これの走りになった60年代のムーブメントでは、頭髪全体を刈るというものであり、剃髪していないが、ずっと後の時代には名前の印象どおりの剃髪された頭 (shaven head or full bald) も出てきた。

また、凶悪犯罪者(暴力を伴う著しい人権侵害犯罪者、刑事犯と裏社会の人間どちらも)の人物例で、スキンヘッドを個人的にいろいろと見たが、長髪 1 m (1メートル) 超の凶悪犯罪者というのを、リアル(一般的な犯罪報道を含む)で見たことは皆無である。
私ほどの長髪が平和主義の体現であることが客観的に決まることが無いのは、科学的思考に明らかではある。
しかし、今の時点で「長髪1m超の凶悪犯罪者」という事実は確認されていないし、されていても同カテゴリ人物のうち極めて少ない割合である。

私は個人主義と自由主義のリベラルアーツを行うとしても、悪い意味でのエゴイズム(不自由さと自己嫌悪と内省の困難さを伴うもの)でない、ということは2019-07-15記事に記されている。
何らかの知能、何らかの状況において、ある種の凶悪犯罪は実行されるが、私はむしろ抑制しているほうである。
防衛機制の「昇華」に相当する。
一部の人間が、子供を産むまたは設ける(養子縁組を含む)のに社会的責任を自覚せず、子を設けてもネグレクトになったり、そもそも相手の男性の分からない女性を除き、パートナー(同性を含む)離別または死別の後に異性の人間に貢いだり、虐待を行う異性の人間と交際したり、宗教団体やぜいたく品に金銭を浪費するなどで実子や身近な人間を苦しめてしまうことは、エゴイズムと別の身勝手な性質であり、理性的な人による個人主義や自由主義とはかけ離れている。
年をおって個人主義や個人の自由が推進され、拡大する中で、社会が、不平不満の部分について解消できない限り、確かに自由の心は毒となって悪い意味でのエゴイズムとなり、個人間の疑心暗鬼と、社会の治安悪化につながるわけである。
それも2019-07-15記事に示唆されていたが、そうして「無敵の人」、「ローンウルフ型犯罪」というのは実際に2021年8月から、社会で問題視される個別事例が増加した。
2022年5月の時点では組織的であるよりも、ローンウルフ型 (lone wolf attack) が基本であるが、コロンバイン高校銃乱射事件のように2人以上のルサンチマンを持つ犯人ないし反社会的カルト教団や宗教過激派組織のようなものの現代版(インターネットで共謀や支援がされたり運動に与する一部分であるパターン)もいずれは警戒される。
全国各地で見られる個別の事件の記憶から、鉄道の利用客は、車内や駅のホームでのちょっとした乗客トラブルに敏感に反応するようになった。
誰もが「不必要な犯罪」におそれず、安心して生活が送れるようになるには、一部の人がその社会の「悪質な習慣」を離れて問題がない状態を得られることにある;つまり、新たな自由が必要である。

「国民の三大義務」は解釈用語に過ぎず、日本国憲法自身はそれを言わないが、日本人の間で浸透し、人権と市民権の必須条件とさえ誤解している。
殺人罪は、勤労の義務(憲法第27条)を行使できない赤ちゃんや寝たきり老人を対象としても、ある女性が新生児を殺害して東京都港区のイタリア公園に遺棄した事件のように、懲役5年以上の実刑判決が下されている。
第11条「基本的人権の享有を妨げられない」のほうが重要だからである。
※そもそも論では、勤労の義務自体が普通の西洋国家の憲法や六法に無いものであり(労働基本権などの権利しかないが、フランス憲法前文 devoir de travailler という例外もある)、旧・社会党の野暮な提案によって戦後憲法に盛り込まれたものであるし、国家が勤労の権利と義務とを保障してこそ意味のある条項であり、私の勤労の権利を奪っている日本国と多くの国民こそが「義務放擲」の怠け者である。「勤勉なニッポンジン」という条文によって戦災復興ができたのではなく、もともとある普通の人間性から戦災復興を果たしたのであり、今の日本人にそんな勤勉さはないし、70年代以降、イスラエルでの「テルアビブ空港乱射事件 (Lod Airport massacre)」など、国内外で多くの人間を傷つけたのも日本国民であるから、統計上、平和的であろうとなかろうと、できる努力で恒久平和を目指さなければ、やはり怠け者である。

その事件に関しては、さらに、そういう弱者女性(新社会人になる前の大学生若者)が無責任な性行為で作った赤ちゃんを殺さざるを得なかった家庭や学校や人権教育レベルなどの社会状況が悪いのである。
SDGs "LNOB"の理念もあったものではない。
日本国民は「三大義務」の詭弁ロジックにより、「労働して納税する怠け者」、「『崇高な理想と目的を達成すること』(日本国憲法前文より)と社会を改善する努力を欲しない愚か者」に変わったのである。
その中から、殺人などの著しい人権侵害に至らないと気が済まないことで実行する人材も現れうる。

人は、どんな境遇でも、私のように自由な、芸術と学問の個人主義リベラルアーツをできるように心が教育されていないとならない。
それは主に、私のような「就労不能だが社会福祉を受けられず、実家にいるしかない」境遇にある人のために向けられている。
同時に、寮や賃貸物件で独居する人でも、目先の失業や退学、長期失業を見込む場合、財産が減る間、生活保護受給(山上のように車を持っている場合は基本的に売る必要がある)を念頭に置き、ゆっくりと再生すればよいし、就労を目指すこともすればよい、という生活モデルを当記事でも2019-07-15記事でも示していたわけだが、まだまだ世間に認知されていない。

政治家も民衆も、同じ社会に存在する様々な種類の弱者(各々に必要な支援が不十分だったり、懊悩と苦痛とが見過ごされた人々)の心理に冷淡であり、今までの社会の思考と言語の習慣を反省することなく、社会的な改善を目指すことなく放置してきた。
今や、社会の癌細胞が浸潤し(増殖し)、転移して取り返しのつかない状態に進みつつある。
いつ、その精神的良薬を社会は認識し、服用することができるか?

参考: from Ld1. 2016-08-25 "髪を切らない日々が6年を超過した"
多数の日本国民たちが私から勤労の権利と居住、移転、学問の自由を奪い上げるならば、「生きて髪が伸びる呪いの日本人形」が増えますよ、と。



普通の人」に、自分のできる努力により、可能な範囲で近づくことを私はしていた。
宗教、学問、芸術の実践もその一部である。
しかし、自分には、「その時点において、それが無理である部分」もあるから、それについては、肯定包容した。
たとえば、犯罪者のうち、刑務所に入っている受刑者は、自由刑(懲役、禁錮、拘禁)を受けている立場を肯定したうえで社会復帰を目指す。
その受刑者がどう努力しようと、刑期を終えなければ「普通の社会生活」など過ごすことはできない。
私は凶悪犯罪、刑法犯をしていないが、無期の受刑者と大差のない身の上である。
しかし、また受刑者の身分でもない。
「幽霊市民」の所以である。





過去の引用文など

カウンターカルチャー (countercultue) と呼ぶからには、対になる時間的に先行する文化 (mainstream culture, cultures) とその研究が必要である。
あんまり個別分野の専門的な研究課題は、多岐にわたっており、ここでは載せないが、2016年から多数の外国語、古典語に手を付けるだけの方法を学習し、獲得したので、その初期段階の例は載せておいた。
以下から、過去の引用文などを載せる:

善き師・善き友、世俗的な意味においても私などは惨めでありますから、小学校の半ばより乏しくありながら、同時にその善き師や善き友を得られることの何と有難いことか、誰よりも知っておりました。
今、また独りでかたじけなくも仏教を学んでいて、やはり仏道を共にする人間がいれば何より心強いことを実感します。
このように、善知識・善友の価値を訴えることは、これまた小乗や大乗の別はございません。
日本でも有名な言葉のパーリ語原文です→Ekassa caritaṁ seyyo, natthi bāle sahāyatā, Eko care na ca pāpāni kayirā, Appossukko mātaṅgaraññe va nāgo.

[...]
大乗においては、仏道に背く者が世間の善行をしようと「悪」であるとされ、小乗においては、世間の道徳に背いたり欲が強くある者が悪とされます。
どちらにせよ、そのようなものと親しみ近づくくらいならば独りでいろ、独り善良であれ、と説いておられますが、それはあくまでも「寧ろ」と消極的な扱いです。

[...]
この"Khaggavisāṇa (環境依存文字抜き: Khaggavisaana)"の章は日本で「犀角独歩(反N博士派いわく独歩如犀)」として有名なもので、上2つは本文中盤の意を表す。 57においては孤独の良さを説きながら、続く58ではやはり優れた人間を友とする価値を説いている。

—某サイト投稿 2016/1/31 15:23:27


If you can’t find a good teacher, it’s better to wander alone.

SuttaCentralにおける
Suttanipāta
1.3 "The Rhinceros Horn" に対する要約


師弟関係は良いものだが、それを持つことができない立場の人も現代には多い。
宗教家・庭野日敬「自己流はクズ」(立正佼成会の教え)、仏教学者・辛嶋静志「独学はクズ」(創価学会、浄土真宗の教え)ということであれば、そういうわけで、彼ら「旧世代すぎる死人たち」は日本国憲法「信教の自由、学問の自由」を蹂躙している。
ただでさえ助けがないのに、意思を持たずに何もせず生きろ、とな?
道心、向学心で生きる人に対して目的を果たせぬままに自殺を煽っているも同然であり、「生存権」さえ否定するようなものである。
不幸な殺人カルト(牛の自警団に同じ)専門家に従属するバクティ依存関係 (bhakti) がお好きならばご勝手に、という感じである。
私の「ヒッキー大学」および「集合知先生 (Professor or Dr. Sifazzi)」という考え方は、社会的包摂の目的を兼ねている。

—Draft: "2021-06-20 ヒッキー大学 OpenCourseWare"




料理中に考えたこと:「日本国民と社会的排除=幽霊市民」、「ハゲと長髪=どちらも」、「男性外見と女性外見=どちらも」、「博士号を取れるほどの研究課題多数と社会最終学歴義務教育卒=どちらも」など、枚挙にいとまのないほど多くの事柄の中間(境界)で苦しまされている今の私は、新しく「就労の必要があるのと必要がないの」の中間で苦しんでいる状況に自覚した。この場合、「どちらでもある」種類ではなく、「どちらでもない」種類である。最終学歴も資格も生活歴も普通の社会人の比較にならないほど底辺であるのに、就労の必要がない病気や障害の立場であるとも認められないでいる。こういうわけで、普通の人は両極端のどちらかにつくことができるのに、私はどちらにもつけないで「生と死の狭間」または「中有(俗語の意味)」に苦しむ亡霊そのものである。

2022年6月24日の日記メモ (ソース公開のみ、ただし同じ部分を別稿で公開予定)

※教えを乞う意思で「師匠、出てこい!」と唱え、面識のなかった生身の人間の師匠が出てくる道理はない。しかも、生身の人間もガッコ先生、カルト教祖も、本人や取り巻きの共同体が教えを受ける個人に対して金を求めるのが普通だし、住み込みでも通学でも教えを受ける方法が限られるのだから、意思だけで簡単にできることはない。迫害された私は、自力で学ぶしかないから、インターネットで宗教聖典でも学術文献でも読んできたし、その後、必要ならばと表で一般社会の営みを見たりもした。私は仮想師事した。「独学孤陋」などと言われる筋合いはない。ガッコ先生、カルト教祖に師事しても、本人の悟りは、最後までもそれらに頼ることで得るというものでなく、自力(浄土教の他力本願も畢竟自力)である。私は生身の人間に師事していない「無宗教、無教養」の人に見えても、仮想師事によって同等の大きな利益を得たから、種々の行動もある。これらのことに関しても両極端の「どちらでもある」種類に相当する。

※心理学用語の「コンプレックス (complex in psychology)」の比ではない、おそろしい境界の苦悩。私は理性的に対処でき、克服できるが、それのできない人は凶悪犯罪にエスカレートすることになる。でも、私ほど並外れた人はいないし、一般人は凡庸な容姿、凡庸な背景、凡庸な才能のなかで、そういうコンプレックスからのルサンチマンによる行動がありうるのみ。社会的に、そういう価値判断の無くなるように弱者への寄り添いが必要である。日本国上下万民の2022年現在の努力レベルは、必要相当水準に遠い。





備考:髪に関する英語の文法

「私の髪は誰のものでもない」(誰にも属していない)と言いたい場合:
A "My hairs belong to no-one."
B "My hair belongs to no-one."

具体的な指示対象が複数であると考えられる場合は複数形、そうでなければ現代の多数派としては単数形になるということである。
以下は、例文である:

George has (無冠詞) brown hair, but I found a hair on the sofa and suspect he's getting some gray hairs. George's hair is brown, but one hair I found was grey, so I think there are probably more grey hairs on his head as well.

この観点で、Bが形式的に正しいが、どうしてもAで問題ないようなことを考えてしまう。







起草日:2022年5月29日

日本国の巨悪の退治(社会が持つ病気の治療)には、相当の力や機会が必要であるが、去年から私がかけている念力によって多かれ少なかれ各地に呼応噴火のような現象が見られてきた。
私は「災厄を起こす」こと、「人の不幸を喜ぶ」こと、そういう悪魔崇拝のために念力をかけているのではなく、日本国民たちの自覚と反省をしうるだけのできごとを求めるためである。
個々の犯罪と災害に関して私は責任を負わないし、通常、関知しないのだが、ケーススタディやリスクマネジメントのために観察している。
こういうマクロ社会の情勢に関しては「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」ということで、日本国に大きな改善を求めるには、小さな客観的現象のみでは不可能であることも、去年から強く実感している。
私は日蓮系の信者でないものの、そういう感覚で、仏教学と宗教研究から離れた以降も日蓮聖人の言葉や思想を受け止めてきた。
ここで詳述しないが、2021年10月13日投稿『行政における個人主義の重要さ、私の行動による確認』の記事で「現代に生きる人にとっての『立正安国論』」のモデルが示されている。
日蓮聖人の仏法と同時に、日本国の祖霊崇拝に関しても、心の神、心の仏という観点で、今の時代には人権尊重の実践が具体的な平和と繁栄の方法論であると私は受け止めている。
当記事に関連する話題から反例を挙げるならば、立正安国論の大集経引用文「仏法実に隠没せば鬚髪爪皆長く諸法も亦忘失せん」という言葉がある。
これは、実際の過去の社会における道徳相対性から言われる教えであって全く別問題に当たる、と私は受け止めている。
それに、実際、今の末法と現代社会で「隠没」しているならば、その時代の私は、それを象徴して長髪でいればよい。
常々断るように、私は出家者ではないし、出家意識は無いし、在家信者どころか仏教徒と名乗ることさえはばかられる程度の立場である。

余談:身延日蓮宗にとって厄介な名古屋の某寺がよく、上の大集経引用文を口で言って他人攻撃をしている。彼らのうちでさえ女性信者の長髪があり、彼らは言っている口によって恣意的に仏法を行っているも同然である。なぜか男性信者はみな剃髪という外見ジェンダーギャップ;教条主義的、復古主義的な宗教ジャンキーなのに、日蓮大聖人ご在世における諸の尼御前のように頭を丸めない?

この記事の投稿に渋っていた間も、日本国の社会で災害(天災と人災:強風、大雨、落雷、地震、噴火、落石、倒壊、火事、陥没)や不当な人権侵害行為が絶えないわけであるが、特筆すべきことは福岡県北九州市の旦過市場における火災である。
旦過市場は、今年4月の大規模火災の後、総額9464万円のクラウドファンディングと義援金募金などの寄付がされたが、8月10日夜にも発生し、市場関係者たちは憔悴した。
被害店舗数は新旦過横丁を含む前回の方が多かったが、今回は老舗映画館を含む近辺の焼け残り施設が主な被害を受けており、それぞれ延焼面積はほぼ同じ、回数もこれで今年2回となった以上、単に1回で同じ規模の被害が出るのとは異質の精神的なつらさがあろう。
この市場は、2021年から再整備のための土地区画整理事業の対象になっていて一部の土地で現代化が進められていたようであるが、まだ着工しておらず、4月の件ではその事業の対象外の区域が被害に遭ったそうであり、8月の件も同様(cf., FBS福岡放送の図解)である。
去年から頻繁に伝えているように、自由な転職と家族主義の有毒性の観点でも、「何代も続く家業の店を自分の代で終わらせたくない」という執着を捨てて柔軟に生きる発想は、市場関係者のうちにも大事である。
寄付の件は、市場の営みよりも生きている個人の方が重要だから、その被災して仕事の無くなった人たちへの義捐金(そもそも人への生活保障金は行政の出すもの)を集める、といえば理解できるが、市場の復興ということには感心しない。
義援金募金は復興の意図が強いが、クラファンはがれき撤去が主な目的だったようである。
日本国の人々が、本文にもあるように、勤労の権利と学問の自由を同じ日本国民である私から奪い上げながら金稼ぎと納税をし、さらに災害への寄付を行ったところで、諸天善神もとい心の神や祖霊たちが称賛することは無い。
「そんなはした金」は、仏教の徳になるものでなく、三災七難を止める方法にもならない。
UNICEF, WFPなどへの寄付でさえも、今の社会の市民腐敗浄化能力の低さのうちでは、効力を持つものとならなくなった。
民主的で堅実な努力をする自分と同志のために使う、それが社会に有益であり(富裕層が巨万の富と力とをもって寡占支配をする方法や優生思想が正しいなどと言いたいのではない)、市場の多数の人間や世界の貧困層に関しては、どういう心持ちで生きているのか知りえないのに支援する義理は無い、と肝に銘じよ。
民主的で堅実な努力をする同志の知人が被害を受けた、というのであれば別の話である。
先にも記したように、被害の顕著な被災者は市場の復興よりも重要な「生活再建」のための支援を行政から受けることができ、志を異にする遠方の他人が金を出す要素など何一つないのだと覚えたほうよい。
被災者以外の社会的弱者(犯罪者予備軍、被害者予備軍、自殺者予備軍)も同じように、本来は行政や特定NPO法人のようなところがその人々を助けて社会悪から逃れるものである。
そもそも「少しでも助けになれば」という善意が寄付者たちにあったのか不明であるし、「再度の大火」に見舞われようが、見舞われまいが、一方の「幽霊日本国民」の苦しみを助ける気持ちが無いうちは、あらゆる金銭支援は「金ドブ」に等しい。
3.11東日本大震災で経済的被害や風評被害を受けた東北地方が今年に入っても、多くの風水害と地震の被害を作っている事実(特に大崎市や白石市を擁する宮城県)にも同じことが言える。

これら災害や犯罪がどこでどれほどの人定被害を伴って起きるかは、極めて不特定であり、同じところに同じようなことが集中する場合もあれば、そうでない場合もある。
客観的に「天罰 (高位の霊体が行う報いの罰)」は存在せず、これらを他人を愚弄する手段にするよりも、国民的な自覚と反省をする機会にとどめてほしい。
安倍暗殺の数日後から全国各地で大雨が絶えず、本日も本州に上陸するおそれある台風発生とリンゴ農園、農地、農作物、農家の被害などが聞かれ、ことあるごとに農業の打撃も免れない。
この状態では、気候変動に伴う自然災害の激甚化(日本では記述の通りだが、夏場の雨が少ない気候の国ではさらに夏場の雨が減って山火事が鎮静化されづらくなるなど地球上で多種多様に悪化している)への対応能力などが、日本国民全体からますます奪われる。
社会全体を改善するために、一歩一歩、地に足の着いた努力が必要である。
「私の髪はいかなる他人のものでもない」ので、カウンターカルチャーとして髪の長さを維持しながら、「不断の努力」を行いたい。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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