2016年3月28日月曜日

私用ノートパソコンの新調に際した記録と種々の思考

日記メモでは秘密にした話題があり、その話題に関する時期の日付のメモには仄めかす程度の記述のみが見られよう。
今回の記事では、私の理念にやや悖るも、モノ・製品の話題を隠さず述べる。
モノを得るか求める(得たことでなお求める)ほど心を失いそうな観念が強い近頃では、しかも高価なモノを母から買ってもらう、という話題など記録する気にはなれずとも、妄念を滅して虚心坦懐に記していく上でまずは前置きから始める。

3月26日20時かたきしとねメモを残した。
「仮の宿りと終の棲家 現身と思想との住処はいずこ」
新しいパソコンを買うこともないままに今のパソコンが壊れたとしても結果論であろう。
また、壊れる前に買ってもらえる機会があるならば「棚からぼた餅」だが、いずれも喜んだり悔やんだりするべきではない。
このたび、問題なくことが運ばれれば後者のめでたい結果となるからそのための準備を整えている行動は最善だが、過度の期待を持ってはいない。
新しいパソコンを買う機会は、たまたま異常なファンの音を聴くこととなった母からの強い勧めであり、このアプローチなくパソコン故障まで過ごしたとしても、これまた今までにPC故障の必然的一大時を見据えたバックアップの準備から、パソコンなくとも苦しまない心の準備もしていた。

ファンの異常に関連した問題が起きずとも、いつかパソコンは壊れる定めがある。
それを常に思うため、パソコンを利用する以外の日々の過ごし方として、今までに持て余したお金を仏法の為に自分の足で喜捨しにいくことが考えられた。
図書館の本、書店で購入した書籍、これらを家で読んだり、心身の修行に打ち込むほかに、どう現世の日々を過ごしていけようか。
法悦に到っては、結果的に飢えて命が尽きて死ぬこともあろう(法悦の後ろに命終を結び付けるような表現は不適切かもしれない、臨終に際して法悦があるならばよい)。



以上、普段の私は"パソコン"を"PC"と書いているが、携帯電話半角カナ打ちメモの仕様上"パソコン"(原文では"パソ")と綴り、便宜上これを残す。
そのようなわけで、その話題の中身は、PCの新調に関する話が母との会話で俄かに起きた3月20日から始まり、4月1日ころには製品が届くということである(4月1日到着の明文はない)。
過去にも「何か買うよ・買ってあげるよ」、と母が話題を持ち出すことは幾度とあったが、ほとんどの場合は実現性が無かった。
一には母がとても本気ではなかったこと、二には私が負い目を感じて乗り気でなく、曖昧な返答に留めてその機を受け流すところにある。
私自身もおいしい話を自ら辞してはもったいなく思うところもあったが、2015年にもなれば買われようと買われまいと、物欲が乏しくなった上に、物質的充足でのみ心が満足するわけではない精神性を磨き上げた部分もあり、母のアプローチも本気に取り合う気はなくなっていた。

そのような中で、今までの場合とは状況の異なりがある3月20日の場合は、当ノートPC機の一連のファン異常という私が忌々しく思う事態と、母がその場で実感できる問題性の一致によって今まで以上に「買うよ」という母の意思を感じたため、断るわけにもいかないから、私は話に乗った。
当然、私から購入する製品の提案をする必要があるので、一応、動作性が期待できるスペックの上でリーズナブルな価格(こう書くと逆であろうか、現在使用中の当機が新品7万円台だったから同じく新品7万円台を求めた)の商品を、特に母がリピートするメーカーの商品で探したところ、種々の条件が綺麗に合致する商品に出会った。
よって、その商品のページの適切なURLと、文章による必要な情報の提示2点(要約はしてあるが文字数は多い)を、3月21日8時39分にメールで送信した。

現在使用中の当機が2011年10月頃から様々な異常を起こし続けたような不条理さえなければ、この恐らくは宝器たる製品(商品と製品の名称を使い分け)を用いて活動性を蘇生・昇華させられればよい(尤も初心は失っているが)。
一方で現在使用中の当機は数々の問題に遭いながら今までの4年半超を使用できている点、かの製品であっても長寿命に利用できればよい(尤も私が先に死んだり浮浪者となっては困るが)。
前置きの中で「準備を整えている行動は最善」と示したように、一応は活動などでどのように利用するか思い描きつつも、頑張る・本気を出す、という宣言までするわけにはいかないが、一つの好機に与ったのだから可能な限りで尽力したくは思っている。



果たしてこの製品は予定される当日、注文そのままに届くというわけではなかった。
3月27日の日記メモで「本日は2:50のアラームが鳴る直前から意識があったように思う。次に母親が0時57分に送信してきたメールを眺めるなどしてから2時58分に起床した。」と記録したように、母親から製品の内容変更に関するメーカー通販サイトからの通達があった旨のメールが同日0時57分に届いた。
転送されたメーカー通達の内容を要約すれば、「当該商品の受注数が当初の予定を大幅に超過したから当該商品が在庫不足のため予定日に配達できない、代替商品として最新の後継機への変更を提案する・料金に変更は無い」となる。

件の製品のスペックに関しては、先に「現在使用中の当機と同じく新品7万円台・母がリピートするメーカー・種々の条件が綺麗に合致する」とした。
後の代替商品を基準として、両機のスペックの相違を具体的に示す。
・・・今の私がスペックの勘定とか検分をする行為には、功利的で合理的な思考じみていながら無知を晒してしまいそうで羞恥を感じる。

現在使用中の当ノートPC機のCPUがcore i7某(2.66GHzで2コア・・・こう書いても当機購入2011年当時からピンと来ないが当時の良品か)で、件のPCは同じcore i7でも次世代の上位互換(2.6GHzで4コア・・・きっと良品)であり第6世代の一つとされる(進化の具体性は実際に体感を)らしい。
HDDの容量も、当機の名目サイズが500GBであるが、件のPCは1TBである。
SSDがあると良い、などとは昔から聞き及んでいるため、そういう製品の選択もできたろう。
特に件のメーカーは受注生産がデフォルトらしいから、カスタム項目に250GBのSSDもあって選択可能ではあるが、母が注文するにあたる手間を省く・説明が正しく通らないリスクを忌避する・コスト低下を期するなどの思慮から、欲張らずに措いた(母を慮る徳で欲を抑えた)。

ほか、件のメーカーのノートPCは今までの母や弟のマシンを見てもディスプレイサイズがアスペクト比16:9の傍系で、奇妙なサイズ(1080p未満720p以上)となっており、当機も件のPCも変わらず。
16:9の1080p(フルHD)や16:10の縦1200などは未だ技術が安価になりきらないか、あるいはメーカーが意図的にハイスペックで高価なモデルにのみ搭載させているか。
ディスプレイのサイズといっても、モニタの物理的なサイズに関しては当機14インチに対し、母や弟のマシンや件の製品など後発のモデルはみな15.6インチである。
代替案メールの中で最も前提知識が無かった、液晶パネルの「光沢(グレア)・非光沢(ノングレア)」という点については、どうもまあ自分が実物を体感しないことには良し悪しの判断はできないように思う。
当(まさ)に現在使用中の機器がどちらであるかすら判別が付かないからである。
当機がどちらか調べるも、自室にあるスペックの表には「TFT液晶」とあるのみで、オンライン上の情報などを調べても判明しなかった(注記、1時間後に再調査すると光沢液晶である旨が在庫切れのAmazon商品ページに見られた、とはいえ判断はやはり実際にまで期待しておく)。

OSに関してはWindows 7の当機に対し、件のPCはWindows 10で今のところ触れた経験が無く、不安もあるが楽観的推量でよほどのハズレという有様は無かろうと見る。
母や弟のマシンは購入時がWindows 8であるが、私が2014年に弟機へWindows 8.1を導入を試した経緯がある。
仮にWindows 8及び8.1ライクの操作性などであっても、楽観的推量でよほどの不備は無かろう。
標準的なマウスやタッチパッド操作で適応できないほど酷かったり、ソフトの互換性が著しく損なわれているような改悪を、まさかマイクロソフト様がなされようとは思わない、と楽観的に推量する。





当記事は3月27日14時半前に起草したが、執筆の中で心を闇が覆うようであった。
靉靆たる暗雲が重々しく棚引いている、PCを手にする前からモノの重みを覚える。
モノを得る・与えられることに何か背徳感や罪悪感を覚えるとは、それまたモノの価値を認め、物質の執着という観念を取り払っていない証でもあろう。
だが、やはり世間的な繋がりは断ち切れていない以上、高額なモノをどんな経緯であれ自分のために買ってもらうことには背徳を覚える。

前置きにもあるよう、PCというモノを得る喜びは無くした方がよい一方で、PCというモノに金というモノを誰か他人という肉体(唯物論でなく)に助けてもらう状況に負い目を感じてはならない。
今まであった母との話であっても、妨げる観念が浮き足立つようにさせ、機を逸した心残り・後悔を僅かでも生んできた。
人に感謝はすべきであるが、それらの観念・妄念・妄執は、是の如く己を責める因となって身を苛み、束縛するようならば、その鎖を解き放つように、それらの一切を捨てれば妨げ・障礙というホダシが解ける。
それらのホダシを解かねば、これからの折角の好機は、逸せずとも台無し同然であろう。
まさに起草日から到着予定日までにはしっかりとホダシをホドク、そうして迎えよう。
去る2015年の大晦日の歌には、同じように一年の煩悩や執着を洗い流して元旦を迎える美徳が歌われている。




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