2019年6月14日金曜日

説明用の図の区分、文字配列図・数式・想像図・概念図(抽出図)・写真

目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
以下に、説明の目的としての図 (diagram, chart, graph, 表 table) の区分を示す。
それらは一般的であるよりも私による区分である。
それらの基準は外見的特徴(例は折れ線グラフ・図形・樹形図など)と少し異なる。



アート込み
文字配列図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"であって文字や最小限の記号のみで表された。記号を含めても含めなくても文章表現のみでこの図の機能は可能でもある。文字の大小によって統計結果の提示に用いることもできる(cf. ウェブサイトにおけるタグクラウド 応用1例)。
当ブログでの例は2017-06-20画像4, 2019-05-16画像1

数式…数学・自然科学・精密科学で多様に用いられる。証明のために示されることが多い。この証明とは科学的な意味での証明と思う。一部の自然科学・精密科学は、当然、観測などの実験行為を求められもする。少なくとも、理論が確かであると承認されるきっかけになりやすい。

概念図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"である。その目的性が数式とは異なるとして、それを私は捉える。つまり、証明のためというよりも説明の手段として理解を促す目的であろう。
当ブログでの例は2016-12-082017-04-102017-06-20画像3

modeling modeling parabola chart diagram graph table
概念的想像図…"concept"そのものではなく"conseptual"概念的なスキーマ的な提示である。それらの図はモデリング"modeling"の一種であり、概して近似的 (approximative, approximate; approximation) である。仮定や説明の手段などに用いられる。
当ブログでの例は2019-04-06画像4

想像図…その人が考えていたり認識・記憶しているたりする事象の譬喩(比喩)的な提示である。幾何学的な簡易性の無いイラストレーション"illustration"もよい。その人自身の満足によいが、その人自身でも表現に難があると意識した場合には自ら疑問を残す。うまく扱えれば、他者の理解や興味を誘う。
当ブログでの例は2019-02-03

Bibliotheca Polyglottaからの転用
写真…何かしらの事物の証明に用いられやすい。先の想像図の代用にもなる。その分、読み手は捏造や杜撰な利用に注意を要する。証明バイアス(造語)のようなことで、証明の意味を求めるような精神性にも注意を要する。ちなみに他の図を撮影した写真は、その目的で用いられる限り、写真でなく「目的別の図」に区分される。
当ブログでの例は2017-11-20, 2018-04-20



しかしまた、多用すると冗長な場合もある。
それは「オッカムのかみそり Occam's razor (オッカムの剃刀、節約の原理)」として、適宜に省くこともありえる。



このように概要を述べる私は、2018年以前に「必要な情報を言葉で示したり、外部サイトの詳細または客観的な情報を示せばよい。図を載せるにも外部サイトにあるものはそのリンク程度でよい」という考え方で、図を用いない形式の論文を主要にしていた。
これには、宗教学などで古典を閲覧し続け、そこで、基本的には図(圖)が無いことと、図がある場合も特殊であるか・特定の系統の文献に限ると判断していて同じように私もブログ記事・論文を作ればよいと思った経緯がある。
他方、2015年に始まる「日記メモ」では「証拠写真」のようなものを可能な限りに掲載する。
もともと(2010年から)顔出し動画投稿者のポリシーがあるためである。
2013年から本格化したお絵描きでも、「練習である」とされる絵を可能な限りにインターネットで公開する姿勢がある。

しかし、宗教学など人文科学の学問に関する活動では、私の研究対象の特性上、写真などを用いる必要性が無いことが多いし、図 (diagram, chart, graph)・表 (table) も同様である。
誰かの著作"Quaestiones et decisiones in
quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"
とされるものに載っている
その発言 (Wikimedia commons)
当然、必要性を感じる場面では、パブリックドメインらしい写真・図・表などの画像を引用(私が引用に利用した二次的な情報源も提示)する。

「必要性」と「多用すること」について、その「オッカムのかみそり」に関する格言で"Pluralitas non est ponenda sine necessitate (多数であることは必要性なくして仮定されるべきでない)"と言われている。
他に似たようなフレーズを載せる→"Numquam ponenda est pluralitas sine necessitate", "Entia non sunt multiplicanda sine necessitate"。
言葉を用いた者=オッカムのウィリアムという神学者 (William of Ockham c. 1287-1347)が「中世ヨーロッパのスコラ学の普遍論争の唯名論」に関与していたという前提知識が必要かと思う。
唯名論 (nominalism) とは、個々の事物=認知客体 (object) がカテゴリー化・普遍化される本質は無い(客観的な普遍性は事物ごとに定まっていない)としているそうであるが、彼自身が唯名論の人か私は判断しづらい。
彼の思想には、「明らかに存在すると分かるものや聖書に示された神の存在について過剰に(余計に)説明しなくてよい(要旨がSpade, Paul Vincent 1999 = ISBN 052158244X p. 104. にあると英語版Wikipediaに示される)」という見解があったろう。
インターネットで彼についての典拠と一次文献とを閲覧することに困難さがあるが、興味のある人が各自で調査すればよいと思う。

有名な発言や格言は、その帰せられ方の事実性に懐疑が起こりやすい。
先の発言が彼に帰せられるが、実際はそうでないと言う。
実際に誰かと言う議論がされると、特に、彼よりも20年ほど早く生まれたドゥンス・スコトゥスJohannes Duns Scotus とされる
発言の典拠が何かといえば、私が調査可能な限りでは「誰かの著作"Quaestiones et decisiones in quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"」である。
内容は基本的に誰かの質問にドゥンス・スコトゥスが回答する、Q&A形式(問答)であるが、話題の発言については質問の箇所"Proponitur quaestio. - Utrum Angelus possit moveri in instanti?" (大文字Angelus = Angel of the Lord 主の使は立っている場所で動かされることができるか?と直訳) のだいぶ後になる。
Ostenditur non esse necessarium quod Angelus in instanti temporis discreti moveatur. Dico ergo ad quaestionem quod quia pluralitas non est ponenda sine necessitate, et non est necessitas quare clebeat poni tempus discretum mensurans motum Angeli, nam quicquid salvatur per illud tempus discretum salvabitur etiam per tempus continuum in communi, sicut enim oportet eos dicere quod si transeat in instanti, non potest immediate habere alium transitum instantaneum, ita potest poni si transeat instantanee in instanti temporis continui, ita quocl licet post illud instans possit habere motum continuum in tempore habito, non tamen potest habere transitum instantaneum irnmediatum; non ergo est inconveniens ponere Angelum in quantum participat conditionem corporalem, id est quae potest esse eiusdem rationis aliquo modo in ipso et etiam in corpore, quod etiam participet mensuram corporis aliquo modo: in quantum autem movetur localiter participat ubi, quocl est conditio et passio corporalis, aliquo modo eiusdem rationis in ipso et in corpore; ergo etiam potest mensurari mensura primi corporis moti.
 - 1912年の Commentaria oxoniensia 出版物から抜粋

後世に定式化した「オッカムのかみそり」を好む科学哲学などでの脈絡から、改めてその言葉"Pluralitas non est ponenda sine necessitate"を意訳すると「不必要に多くのこと(仮説を証明するための条件)を仮定すべきでない」となる。
私は、西洋哲学・科学哲学を学ばなくとも、宗教学を行う間に、似たような感覚が身についていた。

当記事の話題からすると雑学であるが、かのアルベルト・アインシュタインさん Albert Einsteinが「理論はできるだけシンプルにすべきだが、しすぎてはならない "Everything should be made as simple as possible, but not simpler." (123)」と発言したとして人口に膾炙する元ネタは、1933年7月10日"On the Method of Theoretical Physics (於オックスフォード)"での発言だという。
それは1934年の出版物に載る形で"It can scarcely be denied that the supreme goal of all theory is to make the irreducible basic elements as simple and as few as possible without having to surrender the adequate representation of a single datum of experience." (Philosophy of Science, Vol. 1, No. 2, p. 165., 英語版Wikiquote参照) とあるそうである。
人口に膾炙した後との意味の比較を各自で考えるとよい。



当記事の話題は西洋哲学・科学哲学ではなく、説明用の図の区分と図の多さの必要性であろう。
そのために、当ブログにおける回顧や、行為の展望がある。

当記事の趣旨を記す。

  • 目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
  • しかし、多用すると冗長な場合もある。
  • このように述べる私は、従来からそのように考えてきたが、最近では掲載を増やそうと望む。

Occam's razor pluralitas
2019年6月9日・作「説明には余分なるの図」



起草日: 20190529

途中の部分について本文中に挿入しなかった記述↓
※私は唯名論について仏教でいう空のうちの一面(空"suñña, suññatā , śūnya, śūnyatā"といってもパーリ〇空経MN121-122でのそれとか人法二空とか十八空とか色々な説明が可能なので本当に一面のみ)に比較しようとした。私は科学哲学用語と無関係な様態における神学者オッカムさんについて仏教やインド哲学の論理学・因明 (hetu-vidyā) の量 (pramāṇa プラマーナ) が一般には三量=現量 (pratyakṣa-pramāṇa) 比量 (anumāna-pramāṇa) 聖教量または正教量または至教量 (āgamaまたはśabda-pramāṇa) であることに関して「四量・譬喩量 (dṛṣṭānta-pramāṇa) などで詳細に語る必要が無い」という論者もいると書こうとした。因明のうちで陣那 (じんな・ぢんな dignāga ディグナーガ) さんは聖教量を否定した(成唯識論本文抄に云く「陳那門人師資相順故亦不立彼聖教量」)ということは、科学哲学でのオッカムのかみそりと結び付けられるべきか(人間の受動的な知覚された物事の理解や信用ではなく、やはり学者や修行者らが科学・宗教などの目的は何であれ真理を求めるときの能動的な懐疑が関係するようである)。11世紀以前の漢訳文献を探して頻出しない語句もあると分かったが、私の調査方法の問題かどうかも判然としない。この調査を放棄した。

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あしからず。

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