2023年9月24日日曜日

表現方法としての漫画と、企業に求められる進歩的な商業作品

今回は、目が見えて手が使える大多数の人が普遍的に利用可能な表現方法としての漫画(マンガ)と、社会的責任を伴った企業に求められる進歩的な商業作品のあり方の、2点について、提案する。
前者と後者は、スペクトルとして右と左を陣取っているが、中央に及んでおり、両極ではない。
日本のクリエイティブなサブカルチャーの人がよくいう「同人と商業」と似ているが、もう少し、洗練されたものを解明したい。



目が見えて手が使える大多数の人が普遍的に利用可能な表現方法としての漫画

・各々の言語や習慣に従ったもの。
;ただし、国際的な標準化の必要はない。伝統(日本マンガの伝統と習慣と格式)も尊重されることが普通である。もしするならば、日本語での漫画は、大きな習慣破壊が求められる。つまり、吹き出しの中の縦書きを廃止し、横書きにするのみならず、コマ割りや吹き出しの位置も左から右に読めるように対応せねばならない。これについては、「国語の教科書」「400字詰め原稿用紙」と同じ開き方を採用する日本語の漫画雑誌にとって現実に困難なものであり、個人的な漫画では可能になる。
;;「左から右に、横書き(横読み)」というのは、アラビア文字、満州文字、モンゴル文字の言語の人たちにとって不親切ではないか?という声も上がりそうである。
;;余談だが、日本語の漫画の英語への翻訳には、色々な方式がある。一つには、左右反転をするか、しないか。これをすると、例えばキャラクターが「右手を挙げて」と発言する場合、これを「左手を挙げて」と意味ごと反転させて翻訳する必要性も出てくる。縦書き縦読みマンガ英訳の全体傾向として、「昔よりは今が左右反転しないものが主流だ」、とする説もある。もう一つには、吹き出しや擬音語のような文字を全部消すか、しないか。これをすると、原作の出版社か、翻訳業者の方で欠けた絵を描き足す必要性も出てくる。もし全部、上手く完了すると、英語圏のマンガ初心者にも読みやすいように、不自然さは無くなるが、その結果に至る手間は多い。話を少し変える。とある、外国へ憧れる日本人の主人公と日本への留学生2人を中心とした漫画では、主人公が英語を話せるようになると、作者は英語を発していることを示唆して日本語でさえも横書きにする、という表現をしていた。これらのことを熟知している私(とはいえこの業界の現場にいたわけでないが)としては、「国際的な標準化の必要はない」、という理解を示している。ただし、私自身が漫画を描く場合は、別の話である。自前で英語に翻訳しやすいフレキシブルさを求める人は、横書き重視のレイアウトになる。

・商業的な出版を念頭に置く必要はない。
;それをしたければ、後述の「社会的責任」が期せられるほど、ノウハウのある専門的な会社で行うから、難易度が上がる。
;以前から記しているが、表現の自由や言論の自由の絶対主義 (free ** absolutism) というものは、スペクトル上、社会的責任と反対に位置する。暴力や差別を思うがままに表現することは、個人的な範疇ではよいが、衆目にさらすことは望ましくない。無反省かつ退行的な暴力や差別をISBN付で出版することが、「小市民でもできる新時代の自由出版なのだ」などとする論調は、社会正義に反している。

備考:「目が見えて手が使える大多数の人」とは、大多数の人は目が見えて手が使える、ということを意味している。手の使えないか欠損している人でも、それ以外でも、エフォートレスな方法で漫画の方式による表現を使う方法は無いか?と言えば、あるともないとも言える。例えば、「コミPo!」だったか、あのようなツールを使う方法が挙げられる。自分で3DCGのアバターを動かして画像を生成し、コマとフキダシを用意する方法もある。昨今では生成AIの普及が進み、今後も技術が進展することで、思考と想像によって漫画の方式による表現が利用可能になるという期待をする人もいるかと思う。AI以外には、神経科学の技術で想像をアウトプットする方法がある。





社会的責任を伴った企業に求められる進歩的な商業作品のあり方

・侮蔑的な意味 (pejorative or derogatory sense) で使われる傾向の強い語句を濫りに用いない。
;いわゆるスティグマ (stigma) になる語句を濫りに用いない。良い意味や真面目な文脈であれば、まだいくらかの中立的な語句は、スティグマにならない。しかし、ギャグ漫画の類でそれを求めるのはナンセンスというものか。

・ジェンダー、職業、宗教信仰の有無などについて、ステレオタイプへ潜在意識を偏らせる一方ではいけなく、反対のイメージも持てるようにする。



マンガ雑誌だと、編集者が個々の漫画家(原作と作画のように役割分担が明確な共作を含む)に細かくアドバイスしている場合も多いのだから、そんなに難しくないであろう。
それ以前に、作家たちを社員として雇っている場合(そうでない場合が多いとしても)、事前の教育でいくらか、浸透させることもできるかと思う。
少なくとも、雑誌単位で、差別や偏見を、無意識に進ませている状況があり、これは自覚されないと、いつの間にか、それらの雑誌や出版社の足場が崩れているような将来像も浮かび上がる。





社会の趨勢について

・「パーソナライズされていない、価値観が合わないだけのフィクション作品」は、「自分の時間や金を捧げてまでして見る価値が無いもの」と、年々、人々が気づいていくことになる。
;漫画、コミックに限らない。しかし、国内外、映画館 (cinema, theatre) で見る映画 (film, movie) というものは、どうも興行収入がバブルである。コロナ禍の以前、社会的反響の大してない作品(特にシリーズもの)でも、全世界の興行収入が1年間に20億ドルを超す作品が多数、あった。2000年以前には10億ドルさえ超すものがそうそうなかったのにもかかわらず、長期的なインフレーションが遠因だとしても、金額だけ妙な増え方になっている。内容としても、まだまだノンフィクションとかドキュメンタリーはマイナーな地位に甘んじており(というよりはそういうものか)、フィクション作品(特にここ数年のトレンドは昔からのビデオゲームとかおもちゃとかの流れのもの)が優勢である。

・二次的な時間と金銭の消費が、面倒な形で発生することを、年々、人々が敬遠する。
;子どもと高齢の要介護者に、付きっきりで相手をするのが楽しいという人はいない。刹那刹那の楽しさがずっと続く人がいないからであり、さらには、そういうコミュニケーションは疲れのもとである。一時的でもテレビ TV を見せて、子どもと高齢の要介護者の退屈さを埋めさせることでさえ、TVCM(映像広告)の雑多さと、「これ買ってねだり」や「テレビへの攻撃ぼやき」をされる恐れから敬遠されている。YouTube動画広告はウェブブラウザにAdBlock系の拡張機能を導入して消すことができるが、消せないアプリもある。有料動画配信サービスやサブスクだと、広告は、おそらく多くない(典型的な広告とは別に、ステルスの広告が含まれる)。日本のTVアニメ番組の原作が漫画作品だというケースが多い分、商業的な漫画作品を敬遠しはじめる人も、年々、増える。

・煽情的な広告を、年々、人々が敬遠する。
;広告を見て、かえって商品を「悪いもの」として記憶に留め、その個人の心の中の不買運動の意識になる場合がある。
;いくらかの領域 (一例) で、不特定多数にアダルト漫画のウェブ広告が表示される現象について、非難轟々であった。それにより、年々、広告の依頼者、広告代理店、広告の掲載者などの商品やサービスを利用したくなくなる人が増える。意識の流れが読めないと、彼らの収益は減る。「煽情的な広告を見ても気にしない人たち」は、「年々、気にしてゆく」社会全体の通念の水準から外れやすくなり、日常的に心が散乱することになる。中でも、望まない形で表示されるアダルト漫画の広告は、広告の顧客になる人の心理面も含めて多くの人に利益が無いのでは?
;アダルトでなくとも、いきなり、しかめた表情で「は?」と言うシーンで始まる漫画広告(GIFアニメーション)が、普通のトレンドブログ(全然、エンタメ系ではなく、医療、健康、美容品、日用品がらみのもの)で表示されるのは、いかがなものかと。これだと、いくらかの日本人が、J-popを嫌ってK-popに行ったように、マンガ (Manga) からマンファ (Manhwa, マンフヮ、韓国語) に行きかねない。
;;もっと言うと、人間関係の生々しいものなどをフィクションで見たいと思わない、現実の物事に疲れた人々は、ファーリー(furry, ただしそれでさえヒトっぽいケモノが人語のセリフを言うものなどもある)と、そのほか海外(e.g., ディズニー)に多いヒト外見以外が主要な登場人物である界隈に行きかねない。「可愛いは疲れる(かわいいは疲れる)」の尺度だと、ポケモンやサンリオみたいなものも果たしてどうなのか、と思うが、そこまでは踏み込みすぎか。

・個人主義を進める人間社会、現代文明のもとで、表現方法として開かれた、普遍的な漫画が確立されないと、次世代に漫画文化を継承することは難しい。
;継承されるものとしては、形式的で保守的な程度が高くある必要もない。
;言い方が悪くなるかもしれないが、与えられる一方のフィクション作品(マンガ以外も含む)というだけならば、素直に楽しめなくなる。マンガでも小説でも、比較的簡単に表現方法として利用可能になれば、その形で人々に愛好され続けることになる。5-7-5文字で構成される川柳みたいなもの。
;この種の話をすると、やはり手が使えない身体障害者や、そもそも表現力が時間的、心理的、器質的理由で乏しい人たちに配慮した技術を望む声が出てくる。一番に挙げられるのは、電極などを使って脳の電気信号などをアウトプットする脳神経科学の技術である。この技術は、まず神経言語学(神経音声学)や言語療法の領域から進められるかと思う。

・社会的責任(上述)を重んじないエンタメ企業(出版社を含む)は、淘汰される。
;「無意識に借金しすぎて、いつの間にか債務不履行になること」と同じように、私は感じる。生身の人間なら、個人的な借金を債務整理するなどして生き続けられるが、企業は倒産などで消滅するか (e.g., レナウン)、著しく別の形に変わる (e.g., 東芝) ことをしないとならない。金持ちで才能のある人が転落して再び登ることがあっても、企業は再建しようとしたところで、元の流出した従業員と優秀な人材を取り戻すのは困難であろう。





総評:単に面白い作品を作ろうとするだけでは、長期的に良い影響を自他にもたらすことはできない、とそろそろクリエイターもファンも気づく必要がある。
ついでに言うと、よいクリエイターが最初は個人的な活動の側面(小規模な団体を含む)が強くてもよいのだが、途中から、有力な企業の下にいないとマーケティングなどの面でも「大きくウケた(大ヒットした)作品」にはならない。
このことからも、企業の影響力というものは、社会的に監視され、統御されないと、どの業界も、持続可能とは言いづらい。







起草日:2023年8月13日

当記事は、前回記事『企業の社会的責任 CSR と性的対象化の一考(私自身のこと)』に続くものとして作成された。

私自身が翌月6日に作った漫画のネーム(日常系アクション、横書き、左から右に読む)を載せようと思ったが、ここではしない。


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