2015年12月20日日曜日

類聚(4) ~ 「譬喩」篇

*横野要文類聚 第四篇・前節*
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「譬喩(ひゆ)」、何らかの物事を別の物事で例えた文章であるが、私の学ぶ分野に疎い人には難読単語である。
このつづりは仏教・漢訳仏典ではよく使われるので、「比喩」と一般的なつづりにはしない。
また、前節は「仏法」に念を押して綴ったが、一応は仏法以外の種々ある話題からも「譬喩」にあたる文章を聚めていく。
というより、類聚案は最初からそのつもりでいて、前節を書くにあたって「譬喩といえば仏典ではないか」として、世尊は~と綴ったくらいである(本来の順序)。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。
ブログ内キーワード「例えば」「平易」「砕いて」「言うと」「ように・ような」






10時40分前から、トイレで健康的山盛りウンコ6本セットを出荷してきた。シリアルという肥料の恵みをありがたく思う次第だが、ウンコ収穫(排便)には結構苦労する。排便はズルズル引っこ抜かれるようだ。…2015/12/17

この夜(に母と弟の2人)は、カキとカレーを食べていたようである。私がキッチンなどにあるゴミ袋を確認して人が何を食べたか知って日記メモに記録することは、ちょうど考古学者が貝塚などの遺跡を発掘調査して古代人の生活を窺い論文で発表するようなものである…2015/12/04


この部屋着にプリントされた亀のデザインについて、「一眼の亀」との折衷を色々と試みたが、やはり原義との定義がズレかねないので断念した。いわく、長久の寿命を持ちながら片目を失い、体が常に灼熱と極寒に苛まれる亀が千年に一度、永遠の安らぎを求めて深海から浮上し、大海の水面のどこかに浮かんでいるとされる聖なる流木「赤栴檀」を探しに出る。こうして私もこの世界で流転輪廻の苦しみを経ながら、人間の生があるうちに、真実の法に値ってこれを受持し、解脱を得て安楽の処を目指すべきである。この亀はその求道心を表すほか、堅固なる道心を胸に持つことも表す、と…2015/11/28 (本家2014/11/13の追記)


今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する (中略) それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである…2015/10/30

法師はハッとした。眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った…2015/10/25

当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、う一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります…2015/10/17

某スーパー系列の全国一有名な店舗(客が炎上騒動)へ到るつもりが、3階建て公共施設に当たったようだ。T字路までは、建物の規模から何だこれ、といった気持ちでいた。航路に例えれば、アメリカから太平洋を船で横断して日本を目指すも、台湾へと流された気持ちであろう。否、海上を西進してインド目指したヨーロッパ人が、後の西インド諸島や新大陸などを発見したような・・・この施設は新発見でも何でもないけれどね。過去記事・動画にもあるし。…2015/10/06


過去に、「夫婦は家の柱」と言った。子供は世間に言う「子は鎹(かすがい)」であるものの、決裂するような夫婦で、揺れ動いた柱はボロボロならば、鎹も外れてしまう。現に、家庭の家庭らしき様相は、夫婦の不仲によって早く崩れている…2015/09/18


例えば、食べ過ぎたという人に対し、欲張りな性格が原因だとしか思わないことと同じである。単なる結果に対する原因を推量する上で、浅薄な思考によって短絡的に決めてはならない…2015/08/17

多くの人間は、どれほどケースを集めても、判断結果を二分と一元にのみとどめる。私は常に、そういった極度な二分思考に陥らないよう、公平に近づけた判断を行う。その深い思考には言語化の必要性もある。達観した末の思考を恒常的に活用するためにも、記事などにメモすることで叶うはずだ。例えば、土の道路があるが、次第に車の交通量が増えた(思考の頻度が増える)ので綺麗に道路を塗装・整備をして(達観に至る)も、多くの車が走る(雑念が混じる)だとか、時間経過と共に荒廃・風化(失念・忘却)するなどで、必ず補修などする必要があるだろう。道路に例えることに意義を持ち、それは今の私が正しい道を進んでいるとの確信であり、また研鑽の意志とは「道を行じる」というところにある…2015/08/17

赤ちゃんに与える離乳食などは、しっかり冷ましてから与えるイメージが諸君にもあるはずだ。イメージしやすく言うと、母親がスプーンに取ったお粥(リゾット)を「ふーふー」と冷ましてから与えてみるが、赤ちゃんが辛い顔をしたり吐き返せば、「あ、ごめんねぇあちゅかったね~」、「赤様ごめんなさい!」と言う光景があるかもしれない。ここで「お風呂の温度」と関係のある話題となるが、小1の頃の私が適温~ぬるいと思っていた「39度のお風呂」も、赤ちゃんには熱く、落ち着いていられないレベルのものではないかと見られる。毎日のように風呂に入る(張ったお湯に浸かる)生活をたった10年程度でも続けている内に、個人差もあるが多くの子供は40度辺りまで慣れてしまう (中略) 浴槽本体に排出するお湯については、少なくとも4年以上風呂に入っていない(お湯に浸かっていない)私が知っていることや意見できることは何もない…2015/08/12


例えば、3000年前に天才の人が「我々の住む土地は丸い星なんだ!球体なんだ!」といきなり悟った事実を話しても、当時の人類には到底理解できない。現代でこそ星の外から地球を見返すことはできても、当時では実質不可能である。せいぜい、「空に浮かぶ星と我々の住む土地は同じ性質なんだよ」とその事実を理屈として、演繹的に話す手段しかない。航海技術が進んだ500年以上前になってようやく「西洋から西に船を進めて東洋に至る」という仮説を実証できるようになった程度である。航空技術や軍事技術も成長した末に、星の外まで飛べるようになった現代、「この目」で住む土地の丸さを見て、球体であることは反論なく証明された。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる…2015/06/03 (メモ帳2015/12/10の加筆込み)


「形骸化した議会」において、議員歴の長い人が議席を多く占めていることは想像できよう。議員歴が浅い人は何らかの志を秘めている。ことに、明確な意志を持って出馬した無所属・無党派の吉田氏の猛威には、彼ら中堅以上の市議にとり安穏ならざるものがある。何せ「ダントツ」の発言回数を以て、矢継ぎ早の弁舌で議会を揺さぶる男は脅威だ。安逸の微温湯に浸っていたかったところに、不遜な冷や水を浴びせられるようなものだ…2015/05/14


「小説を読むことが勉強」とだけ書けば、いかにも滑稽じみているだろう。例えるなら藪医者の治療や民間療法を推すようにアテにならなさそうだ。もちろん漠然と小説を読むこと、文字をただ音に捉え茫洋と浮かべることを、勉強と呼べば「驕り」であると私も頷ける。無為に読むだけなら、ゲームなどの遊戯に耽溺するほうが有意義となる。
しかし、国語や英語の教科書等を思い出して頂きたい。何か文章が書いてあれば、学ぶべき要素がページの隅か、後続のページに載っていたはずである。並びに、教師の存在によって効率よくそれを学べる。私がやってることはこの平凡な授業の形態を、ただ一人、己を師と定め行う必要がある…2015/01/23 (その3週間前らしい)



「楽しみ・幸福感を与え合い、授かり合う。」例えば野良猫に餌やりをする人がいる。 (中略) 野良猫は雑菌まみれだが、彼らは大胆不敵にも撫でる。猫は見てるだけでも気持ちが満たされるが、触れられれば更に上の快楽へ昇華されるだろう。猫に餌を与えることは猫自体の空腹を満たすにとどまらず、与える側はその行為で猫助けした気分になったり、猫の姿で癒されたりと気持ちが満たされるのだ…2014/07/03

当記事注: 相互に刹那的至福を与え合い、授かり合う反面、野良猫の異常繁殖は猫の飢餓と喧嘩を招き、人間生活への衛生問題などを惹起するのだから、長期的には相互に問題を起こす。善悪不二・善悪一元・善悪互具とはこのことであろうか?皮肉で笑えてしまう。

ペットを飼うことが愛する心を育むなどの情操教育として有効とされるが、逆に弟はばあさんを利用してストレス解散の捌け口としているのだろう。ばあさんをペットのように労るなどという考えは皆無であろう。その様はまさに動物虐待と同様…2014/04/21

さあ、例を挙げてみよう。普通は家を建てるに設計図が必要→設計図通りに建てる。我が両親のような者は設計図を作らずに勢いで家を建てた!出来損ないの家が竣工するも、出来損ないを建てた後から直す→手遅れですよと。。。止まらない加齢に焦って、土壇場の高齢出産をしたことが仇となる(知的障害を持つ弟が好例・知的障害でも幸せに育てられる親とはだいぶ事情が異なる・経緯が酷いのだからその後も改善なく苦しんだままの両親)。…2014/01/01



当記事の投稿直後の要文(過去要文の回聚が困難だから仕方が無い)


そもそも、窓枠砂埃は自主的に掃除することがある(最近では10月17日など)。母親こそ、母自身の部屋の窓枠砂埃を除去し続けないでいる。いい加減に自分の非に気付いてから人の非を唱えたら良い。化粧の崩れた婦人が、子供の口についたご飯粒を「みっともない」と激怒するようなものである…2015/12/24

それから間もなく、アメリカの脅威を覚えた日本が真珠湾爆撃をしたごとくに私は、まず空の牛乳パックを地面に叩きつけて牽制し、理性的な鉄槌を加えたところ、母が理性を失った。執拗なまでに襲撃し、攻撃を加え(さながら本土大空襲や原爆投下)てくる…2015/12/22

・・2016年以降も色んな記事で比喩表現を行っているから、よく探してみてね!

―もう一度、前節―
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、植物を中心とした譬喩が現れる。
それは梵語でウパマーというが、人物による譬喩・因縁、梵語でアヴァダーナやニダーナというものもある。
特に「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に載る話には頻出する。
譬喩を中心とした話に「雑萌喩(ぞうみょうゆ・ザフミャウユ)*」がある。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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