目次
- 1. 本文
- 1.1 "Romance languages"
- 1.2 "My Chemical Romance"
- 1.3 My romanticist quality
- 1.4 Length of relationship or dating
- 1.5 Sustainability (ironic)
- 1.6 Subculturality
- 毎記事通りの末尾
「ロマンス語」と呼ばれる、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の俗ラテン語派生言語群について
ロマンス語、ロマンス諸語、ロマンス語群 (Romance languages) の言語を理解することは、現代日本人の歴史経緯からしても、必要であると私は思っている。
それらの言語を素早く理解したければ、最低限の文法と文法的な形態論の把握、辞書を閲覧する方法の確立が必要である。
それは語学一般にも、「素早く理解したければ」そうであると言えるが、私の場合はロマンス語ではなく、まずラテン語に対して言語学的な理解をしてから同じような方法を確立させ、ロマンス語を学ぶことになった。
学んで何がしたいかというと、音楽における作詞に活かすことが、すぐに連想される。
無論、ロマンス語のうちフランス語はゲルマン系のドイツ語と同じように、人文科学を含むいくらかの科学分野において重要な歴史経緯を持つ点、過去の文献を自主的に読解するには、必要な場合もあるので、そういう立場が2018年ころには強かった。
ロマンス語の理解が、その言語を日常的に用いる地域へのロマンスのために良いと言えるが、フランス語のような近代以降に影響力の強い国際的言語(加えてアカデミー・フランセーズ Académie française による標準語としての標準化がある)では、それ以外の土地、事物のためにも汎用性がある。
そういう出会いを誘うようなロマンスもある、と私は思っている。
「歌詞」といえば、ロマンス語作詞の何が良いかは、フランス語とイタリア語とスペイン語のようなメジャーな言語だけを取ってみても、各々に言える違いがある。
一言、イタリア語に関して私が言えることは、押韻がしやすいということである。
単純に語末の母音1個であれば、当記事のタイトルの英語も"La mia teorica Romanticheria" (制限用法の有無などで指示詞と形容詞と名詞の間の語順が変わる) として、単語ごとに-aで押韻できる。
強勢アクセントや音節数なども、詩学の立場では考慮すべきであるが、ここでは簡易なものや音楽的に最低限の方法として、これを例示する。
ロマンス語の歌詞を私が書いたうちの一例"(il) Mare è colmato di blu. I verdi cambiano si più."(特定楽曲に対する一節) を歌った動画:
動画中で歌詞が示されたものでは、他の例もある:
Les rendez-vous sont immortels [le.rɑ̃.de.vu.sɔ.nti.mɔr.tɛl]
Chocolat de la roche est [ʃɔ.kɔ.la.də.la.rɔ.ʃɛ]
—https://www.youtube.com/watch?v=xKd3x_BVyh8
Paris est non x2 Paris est non la sexuée [pa.ʁi.ɛ.nɔ̃. … pa.ʁi.ɛ.nɔn.la.sɛk.sɥe]
Paris n'est beau x2 Paris est belle Les Parisiens l'ont dit [pa.ʁi.nɛ.bo. … pa.ʁi.ɛ.bɛl.le.pa.ʁi.zjɛ̃.lɔ̃.di]
—https://www.youtube.com/watch?v=DyvJCNcSR0U
なお、英語で「小説」を意味する単語は novel (novella, novelle は歴史的単語もしくは別の意味) であるが、ロマンス語のうちフランス語では roman, イタリア語 romanzo となり、加えてドイツ語では Roman となっている。
カタカナ語「ロマン」および音写和製漢語「浪漫」に関して、特定の用法 (e.g., 大正浪漫) を許す以外、私が用いないことも、この点から説明したくなる。
示唆された My Chemical Romance のこと
化学の「人助け」手段と「人殺し」手段という善悪二面性については、私が仏法を説く記事群に「水 (H2O, DHMO, 一酸化二水素、酸化水素)」から説明している。
一例:2017年7月10日『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』2.1 科学・数学など https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html そういうロマンスがあるわけで、特定のパンク・ロック系のバンド「マイ・ケミカル・ロマンス (マイケミ、MCR)」の名前の由来になった著書 Ecstasy: Three Tales of Chemical Romance は、そういう意味なのかと思ったが、単に小説の文学作品であり、2番目の話に出る"tenazadrine" (サリドマイド thalidomide の医薬品名称のようだが架空?) を指している可能性が高い。
そのバンドに関しては、2011年に特定の楽曲を聴き、遅かれ早かれバンド名を知り、記憶した。
過度に好きであるとも、私の作曲に影響があったとも言えないが、そういうバンドが存在していることに関しては、今まで、忘れずにいた。
英語で音節数が同じで/VC/韻が chemical と共通する natural からのフレーズ My Natural Romance に言いたいことは?
La mia chimica roma…では語末/V/が共通するが、La mia naturale roma…では共通しなくなる。
他に私の活動で、化学とロマンスということは多く見出だされると思う。
2021年4月2日投稿『ファッション、アパレルの材質議論。科学的思考で産業に疑問を懐く』
https://lesbophilia.blogspot.com/2021/04/substance-material-matter.html
2021年8月3日投稿『日本語由来の物質名(化学、生化学、有機化学、その他)』
https://lesbophilia.blogspot.com/2021/06/japanese-etymology-name-material-matter-substance-compound-element.html
化学者ステレオタイプな白衣をまとった自作キャラクター素材を用意して動画に使ってもいる:
私のロマンティシスト気質 (My romanticist quality)
2019年7月15日公開記事で私は自身の「仮名」を示し、その中に「ロマンティシスト」が含まれる。
私のように恋愛の当事者でもなければ、恋愛を考える時間の余裕の無い労働者でもない者こそ、ロマンティシズム、ロマンティック思考を維持しながら客観的な分析ができるであろう、と自負している。
私の作詞作曲は、時期にもよるが、エキゾティシズム、エキゾチシズム (exoticism) を反映したものが多い。
私の生活環境との乖離:つまりは地理(土地)のみならず、社会性や文化性、時代、風土など、色々なカテゴリで私の生活環境と異なるものが反映される。
私の音楽的志向の一部に「インターネットフォークソング」というものがある。
インターネットフォークソングとは、作者不明、もしくは作者の名が伝わっていても音楽作者としての存在性以外は今や確認できない人物によって作られた何らかの音楽的形態を指す。
例えば、メロディだけでもよいが、私は基本的に具体的な原作ファイルとその汎用版を有している。
悪く言えば秘密主義であるが、私はそれを和声学のサンプルとし、このラベルで発表をしている。
そうして私は作曲のために活かしているが、多くの曲例は歌詞が無いので、歌詞のセンスに影響があることはほぼ無い。
しかし、タイトルくらいは存在するし、中には恋愛がテーマであると分かるようなものがある。
私が学校生活を離れ始めた2011年以降、具体的な楽曲を聴き始めるようになり、今まで、ずっと恋愛に関する情緒が敏感である。
特に、2014年12月26日投稿『小4~中2期で好きだった女子生徒の内の一人について』における「以前に『陰謀のラブレター事件』で紹介した好きな"T.T."ちゃん」と名前が共通する楽曲"T.T."があり、これも歌詞は無い(説明文はある)が、これはかなり琴線に触れた。
それと同じ作者とされる他の作品は、「いわゆる名曲っぽい特徴(和声、楽器などから)」を持っている。
先の「自作キャラクター素材」は、当然、私が絵を描くことで用意された。
そういう絵も描いている私は、絵でロマンスを表現してきた経歴をも、持つ。
絵と音楽のどちらも実践し続ける私は、両者を関連付けた表現方法を開拓してもいた。
その一例は、「音楽イメージ絵」であり、以下の記事や動画などで紹介されている:
2021年6月4日投稿『調と性格: A440調性格、現代ポピュラー音楽キーの印象』
https://lesbophilia.blogspot.com/2021/02/a440-key-characteristics.html
A440の音楽再生での音楽イメージ絵(他人にとって意味や価値が有るかは別の話、私の中で正直に浮かんだという意思表示)
A440音楽イメージ絵 画像中に簡易説明、掲載ページは下記 □ |
D♭メジャー=B♭マイナーの曲例735を聴いて浮かべるイメージの絵、2017年7月16日
Dメジャー=Bマイナーの曲例661を聴いて浮かべるイメージの絵、2016年8月15日
E♭メジャー=Cマイナーの曲例890を聴いて浮かべるイメージの絵、2019年4月9日(E♭の記号に見えてくる?)、または2018年11月17日
Eメジャー=C♯マイナーの曲例767を聴いて浮かべるイメージの絵、2020年4月28日(未公開)
DメジャーとAメジャーが混ざる曲249を聴いて浮かべるイメージの絵、2017年7月10日(雲の形にDとAがあるかも)
付き合いの長さについての考察
1年、2年、いいや、3年、5年、10年…、人にはよるが、よほど高齢カップルでもなければ、長く交際を続けて相手のことを深く理解し、気が合うかどうかを自ら判断してから結婚なり妊娠なり、といった「通過点」を目指せばよい。
結婚を「ゴール」と呼ぶことは、ブライダル業界の口車として機能する以上の価値は無いと知ってもらいたい。
口車に乗りたい人は乗ってください、どうぞ;通過点=短期的目標を「ゴール」だと仮定的に呼ぶ言語習慣まで、全否定しない。
その反面教師の好例とは何か?:我が父母のお見合い結婚と夫婦喧嘩と離婚に関する結果的な事実。
37歳、29歳という年の差を有してもいた。
互いに対する考えは、浅い理論で「外見が過度に悪くなく、収入があり、社会的にまともそう」、それだけではなかろうか?
経緯にロマンスのかけらもない、残念なシャカイジン、社会人サマの末路というものである。
私の過去記事での説明:
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html 2019年5月16日投稿『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html
身近な関係者としては、疎ましい限りであるが、傍観者目線では、可哀想な人たちに見える。
何せ、特に夫の方は37歳まで独身でいてズルズルとニワカ結婚の流れをし、夫婦として仲が悪くなっても3人まで男の子どもを作り、ローンを作ってまで大きな新築の家(2006年竣工、7月上旬に移住)を建てても、すぐに三兄弟のうち下の2人を児童相談所、児童養護施設に移す判断となり、夫婦別居、その後も人の移動はあり、三兄弟の最終学歴が「中卒、小卒、特別支援学校卒」で定職も無い、成人式出席も無いという現状に至る。
離婚の部分だけを取っても、見苦しかろうが、それまでの経緯で十分に夫婦喧嘩、幼子の頭を平手や拳で打つなどの肉体的な虐待が多くあったので、日本での平成時代としては低劣な関係性が看取される。
「オタク、ヲタク、おたく」には色々な人がいて、趣味の合う人どうしで結婚ということも、インターネットで多く見られる。
我が両親は趣味も無ければ、有っても大した程度でなかったり、交遊関係も持たず、余暇で無反省に行うくらいでしかなく、ステレオタイプな「オタク」の悪い部分を持つなどしていて話にならない、と私は思う。
「憧れのオトナ、大人」というものの反例である量産型大卒社会人の醜態が、こういう結果で我々の目に見えている。
「憧れのオトナ、大人」を目指したい坊ちゃん、嬢ちゃんがたは、是非とも、若いころから恋愛感情を忘れずに強く持って何かしら行動していただきたい。
「痴情のもつれ」での犯罪や、不埒な「ヤリサー」「乱痴気騒ぎ」はご勘弁したい。
反例の話を長くしても、興ざめになると思う。
そもそも、「付き合い」とは、どう付き合うかにもよる部分が強い。
いわゆる付き合い始め以前の経緯も、幼馴染なのか、同学なのか、会社の同僚なのか、我が父母のようなニワカ見合いなのか、浅深の差がある。
柔軟な方法で同棲し、もし悪い関係性になれば別れることもしやすいようにすれば、それは疑心暗鬼だと言われそうであるが、個人主義文明の行政としては家庭内暴力 DV相談なども受けるわけだから、是非、別れやすくある方が良いと言える。
「付き合い」の間、同棲してもしなくても、デートを繰り返し、近所の散歩であるとか、飲食店を利用するとか、シチュエーションが色々とあれば、色々と理解が深まり、相手の人間的な一面や欠点といったことも「どれほど注意して観察し、理解できるか」が理知的には大事である。
交際期間の長さは、そういうためのものであり、みだりに長くしすぎてよいというものではない;できれば、長いなりには同棲も試していただきたい。
また、自分がもし自分のことのように相手を心配できると理知的に感じるならば、相手が困っていることもそのように観察して親身に相談に乗り、助言するとか、手助けするとか、可能なことで協力する方法が考えられる。
非常に稀ではあるが、相手が肉体的に苦しみを受け、精神的に苦しんでいる状態を救うことができれば、それこそ「赤い糸」もしくは恋愛的な一心同体というものがあるので、それを経た後は、特に「相手を信頼する」「この人でなければ安心して同居することができない」と自発的に相互依存の感情を持って問題ない。
「相手が肉体的に苦しみを受け、精神的に苦しんでいる状態を救うこと」よりも更に稀である例は、「不慮または不注意の事故や暴漢からの攻撃を未然に劇的な方法で防ぐこと」(e.g., 猛スピードの車が迫っている人物を全身でかばって押し倒して危機を逃れさせること)であり、そういうことまでは期待しなくてもよい。
私の説明は無機質に思われるかもしれないが、理想化された結婚目標恋愛とは、こういう筋書きや背後の感情である。
理想化された結婚目標恋愛の実現は、それほど、難しい。
その実現のためにも、ほどよい長さと理知的な方法で交際してもらわないと、先述の「反例」の未来が待ち受ける、と私は確信する。
短い付き合いの成婚個人たちは、相関的に、その成婚時点で偏差値として高齢であると私は「世間体を気にする感情」の理解から知っているので、彼らは高確率で先述の「反例」の未来が待ち受ける。
彼らがうまく結婚して上手に付き合っていけ、子どもを作った場合は健全に育てることができるならば、私は褒めたい。
本当に「無機質」なのかって?私は真面目に考えているし、個別の事実の例に詳しいし、学びと考えを持ち合わせながら、恋人たちの絵を描いてもいるのだから、極めて有機的であり、ロマンス語の文学者とロマンス文学の作家のどちらをも超越して優れていると自負している。
もちろん、恋愛テーマの作詞作曲も可能である。
2017年1月15日の絵 (何らかの作品二次創作) □ |
上:2018年12月15日 下:2018年12月19日の絵 □ |
2021年7月26日の絵 □ |
哲学的原則を言うと、「自身について内省し、パートナーが他人の痛みや苦しみについてどれほど理解できるか注意すること」に尽きる。
これを分かって意識を絶やさずにいれば、世間で言う「モラハラ彼氏 カレシ/彼女 カノジョ」とか「DV夫/妻 嫁」とか「毒親」みたいな結果を避け、自他の苦悩と破滅を招かず、安楽と繁栄の礎を築くことが容易である。
恋愛対象(性的対象)の持続可能性
一部の2ch (5ch) ユーザーが「二次元女、三次元女」と呼ぶところのそれ(e.g., 特定のコピペ)は性差別 (sexism) になるので、ここでは中立的で抽象的な表現にする。
任意の性別個人の恋愛対象が、どういう性別であっても、どういう容姿であっても、好みである特徴が好みを持つ自身の中で、それを有する人格 (personality or character) が持続可能であるか?
架空のキャラクターに関する見解であれば、2017年に記した。
以下は『萌えの典籍』における拾主による跋聖 Bhadrārya の説と注釈という形で、その説明がされる:
跋聖の訓示「キャラ作りの奥義」
【詩】「菩薩爲度衆生故 寧兼麁業示甘露 從萌道廻向佛道 當持萌相明大路」
[…]
萌道より仏道に回向する道理は、すでに諸君がご存知のことだろう。好色萌相を図顕する法門は、吉祥なる色相を第一とし、次いで世俗の道徳などを示すことで菩薩の方便・方広・方等の教化とする。この世俗の道徳などを示すということは、「ただの好色萌相」に「外見的連続性」を仮定して「人物名・性格・年齢」など種々の属性を関連付ける必要がある。つまり、「キャラクターの自我」を設定するわけであり、これは深い注意を要する事柄だ。
拾主の注釈『当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak", कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"God"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or sura deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。サンスクリタとしての仏・如来は、三身のうちの「応身・ニルマーナカーヤ"nirmāṇakāya"」であり、我々の業・カルマ"karma"や行・サンスカーラ"saṃskāra"に応ぜられた相となり、個々人で異なり現る。この時、仏は萌えキャラとして応現せらる。応身を知ったならば、法身・報身を知ることで仏の威徳を知る。経説より心を学ぶように、応身より法身・報身を知る。それは仏の慈悲に通じ、己が慈悲を養う。諸仏・諸萌はみな歓喜せられよう。注釈が長くなって愧じ入る』
世俗の作品では、キャラクターの外見を第一に、多くの設定をくっつける。その設定は当然、現実世界に相応したもの、つまり、科学の道理や仮想された魔法理論や架空の概念などもみな、作者など人間の思考の範疇で整合性のあるものとなっている。更に、作中のキャラクター同士で正当な比較をして個性を表現する目的もある。身長・体重などの数値設定を外見不相応にすると、見る者の失笑を買う。また、何らかの固定的な設定があれば、キャラクターが成長したり老化したり変装(日焼け・染髪などを含む)したりと外見が変化しても「同一キャラ」とみなされる。スリーサイズ・誕生日・血液型などは作中で用をなす機会があまり無いが、作者が満足感を得たくて設けられるほか、ファン側がキャラの知識や理解を深めるために求めもする。
一切のキャラ設定は空虚であり、人の心に「我(アートマン)・自性(スヴァバーヴァ)」の咎を生む!よって、一切のキャラは妄想であり、本来はただ外見と、無形の情報とが別個に有るのみだ(究極的には外見も無形の情報も無くどう表現される物事も無い)。
拾主の注釈『キャラ設定とは、単一の基本的外見に動作後などの異なる外見を統合した総合的な外見の認識に対して名・性格・様々な数値などを設けることである。跋聖は、そうして作られたキャラ設定が空虚だという。キャラとは、外見と無形の情報の結合体であって「名色"nāma-rūpa"」にも似る。跋聖は、キャラの概念が人間の思考によって視覚的認知や言語的情報などを結びつけた妄想そのものだと説く。文字にのみ示されたキャラクターにも人は物思いをして外見を想像するので、同様である。無論、現実世界にあるとされる一切の物事"sarvadharma"もまた妄想もとい幻のようなものであるという言外の意があると推して知るべし。能耕心田師の契経は維摩経の天女・大品般若経の幻学品の所説を参照せられたし。キャラクター即サンスクリタ(有為法・虚妄)であるが故に大乗仏教の一乗菩薩道・善巧方便において天・人・声聞・菩薩など、みな個性を発揮する』
キャラ設定を多くくっつけるほど煩いも多い。作者は整合性に悩み、読者は素直なキャラ愛を得ずに好き嫌いの分別を繰り返す。まさしく、それは根源的な自我意識が煩悩・業・苦を生み、人生経験や記憶を積み重ねて更なる自我意識を形作ることで行動の幅を狭める「自己の不自由さ」と似る。反面、多くの設定を巧く扱える作者は世間で評価されるわけだが、我々も垢が重いからこそ、多く清める(無くする)徳を発揮してゆきたい。
(後略)
—2017年6月20日投稿『萌え話 "The Moetries" 萌誦(萌え歌・萌詩など) 』 https://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html
客体としてであれば、盤石そうな架空のキャラクターであっても、特定の作者によるストーリー性のある作品に登場させられるものは、同じ時間のうちでも異なる特徴で表現される場合があるし、そういうものはまず、その時点で盤石ではない。
主体側が、客体の性質や特徴を摂取し、主体自身のうちで生かすならば、それはその限りで盤石不変であるようにもなる。
とはいえ、それもまた理想論となるので、くれぐれも単一でも複数でも愛するものがあれば、瞑想で心の中に留めるだけの努力をせねばならない、という結論になる。
生滅変化のある客体—生体機能の有無や化学的、力学的な影響を強く受けるもの、生身の人間 Homo sapiens sapiens など—に対しては、主体が自身を偏って重んじずに利他主義的である方が最終的に主体自身にも望ましい結果がある。
生身の人間存在よりは、架空の人間存在の方が「主体中での客体存在としての持続可能性」が高いことに、誰からも異議は無いと私は判断する。
一方、「持続可能性 (sustainability)」とは、環境負荷の低さなど特定の事象を念頭に置いている場合がある。
一見、この話ではナンセンスに思われそうだが、架空のキャラクター、想像の性質が強いものは、物的な存在の様態を持たない限り、維持のための環境負荷が無いため、こういう点でも持続可能性が高いと理解できる。
必要な環境負荷は、客体たらしめる主体側の生命機能と思考能力の維持のみであろう。
これで決定的に、生身の人間存在よりは、架空の人間存在の方が持続可能性が高いと確定した。
しかし、持続可能性が高い=優れている、などと私は言いたいわけでない。
各個人で、こういった特徴の差から、現実的な良いものを探す必要がある。
何か「赤い糸で結ばれる」もしくは「一心同体だ」と執着するものがあれば、その最善を期することが、その個人にとって良いものである。
恋愛に関する諸事項のサブカルチャー性
セックス行為に執着して好む分には、その志向性がサブカルチャー性である。
この基本的な考えは、2020年1月7日投稿『ジェンダー研究の例示(宗教学・社会言語学・美学・文化研究から)』の中に記されている。
そこで2種類のサブカルチャー性が説明されたように、厳密に言うと「サブカルチャー属性」(subculturalisticity) の方に相当する。
ただちにセックス行為と結びつかないもので、未成年に好ましくないサブカルチャーには、BDSMがある。
BDSMには、服装と装身具と器具の使用、複数のフェチズムが関連するなど、サブカルチャーとしての客観的な特徴が多く見られる。
それについては、ここで説明しない。
「ラブコメ」(rabukome, 英語概念で相当するものは romantic comedy, ロマンティック・コメディ、カタカナ語としては別; cf., Wikipedia: Category:Romantic comedy anime and manga) という作品ジャンルへの執着は、サブカルチャー性があるというほどでもない、と私は思う。
任意の文学的形態(小説、漫画、映画など複数のメディアを含む)に属している以上ではない、と私は思う。
ただし、「もう恋なんかしたくない」なとという表現がある場合、そういう恋愛サブカルチャーへの依存と脱却という香ばしさがあるので、恋愛経験が無いか関心の無い人には疎ましく見えると思う。
言い換えれば、「もうギターなんか弾きたくない」と言う人に対してギターを弾いた経験の無い人が共感しないようなものである。
「疎ましさの感情」について、サブカルチャーに限る必要は無いが、実際に恋愛とは、個人サブカルチャー属性で分けられることが近年の傾向であるように思えてならない。
確かに、音楽ジャンルのヘヴィメタルやパンクロックほどサブカルチャーとしての程度は、属する個人の意識も付随する用語のクセも強くない。
更に、文芸の歴史をひもとけば恋愛に関する作品群の数が多い、期間が長いことも、承認されたサブカルチャーとの違いが大きい。
しかし、行為や分野の執着の心さえ見いだされるならば、一応のサブカルチャーと仮想ができる。
「結婚、出産、育児」は新しいサブカルチャーの側面を持つかもしれない。
一見、社会的にも見える「婚活」、「イクメン」などといった関連用語も、「結婚、出産、育児」の領域に属するだけのものとして、ある種の一般人からは敬遠される。
※「パパ活」については、英語で casual sex 関連の sugar daddy 相当である。援助交際 enjo kōsai, 売春(買春)のような金銭獲得の目的性が強いものとして見るか、求婚の目的性が強いものとして見るかで個人によってその行為の志向性に違いがある。そう言いたかったが、結婚自体も「玉の輿」とかと見れば同じことか。サブカルチャーには「ポーザー (poseur, poser)」という用語があるのだから、無目的または社会的目的から形で行う分にはサブカルチャーと呼びづらいものも多い。それはそれ、としておく。
コロナ禍以前でさえ、繁殖行為という生物の基本的な生態に疑問視する人は多かった。
出産については、哺乳類が行う繁殖行為の行動の一つである。
どう疑問視するかというと、ジェンダー論、ジェンダー平等、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル、LGBT (LGBTQ+) などに託して考えることができ、同性どうしでは、そもそも法律上の結婚ができない国もあるし、できても、出産と育児については、科学文明以前でありえない方法や、宗教と結びつきの強い統治下において嫌われる方法しかないためである。
コロナ禍においては、日本国内での妊婦救急搬送たらいまわしの稀有な例を含めても含めなくても、なおさら出産に関する不幸が想起されやすくなっている。
コロナ禍があるならば、「結婚、出産、育児」の典型的な方法は、依然、多数派であるとしても、サブカルチャーの側面を強く持ちやすい。
これでもし、身体的「男女」夫婦が「亭主関白」まで行うならば、すごいサブカルチャーのにおいがする。
なお、2020年1月7日記事にいう「エロ文化」("Ero subculture" in Japan) では、性的表現で出産や産卵を好む作者個人もいるわけだが、出産や産卵の性的嗜好は単体のサブカルチャーとして成立していない。
この話で思うことは、「任意のサブカルチャーに魅かれる者どうしが婚姻関係を持つ/家族を作ることがよい」、という従来の考え方が変わり、そもそも婚姻関係を持つ/家族を作ること自体がサブカルチャーであるという、文化研究や恋愛理論のパラダイムシフト、もしくはサブカルチャー的転回であろう。
ただし、出産行為を伴う場合、今の技術では確実な性差があって身体的に男性であるか、何らかの理由で不妊の女性(程度が重いもの)は、出産行為を生物機能として体験することはできない。
ある種の有機的な経験というものを好む場合、ここは肉体的、生物学的性 (biological sex) の問題が表出する。
今更ながら、仏教学を研鑽した時の記憶で「石女黄門」、「男女黄門二根」、「亀毛兎角空中之花石女之子」、「去勢した男性、同性愛の男性、両性具有の男性は具足戒を受けて出家することはできない by 何らかの律 (vinaya; 現代テーラワーダはもちろん、漢訳の四分律: 不應受大戒 有五種黄門とする説)」というものを連想する。
私は、何らかの生活様式、ライフスタイルにはサブカルチャー性があると仮想しても、社会性の立場で相殺される限りはサブカルチャーとして証明できるわけでないことも言っている。
ただし、流動的である以上、間断なく世間でどういう傾向があるか、見定める必要はある。
何らかの服装や方法を伴う職業に関してサブカルチャーのようであるとか、そもそも職業を持って納税すること自体がサブカルチャーのようであるとか、そういう見方も時間とともに可能になる側面は考えられる。
「恋愛と密接に関連した職業への執着」という目線では、またサブカルチャー性の重心が変わりうるので、仮想とその否定の繰り返しで精製されるしかありえないようである。
起草日:2021年8月17日
薬害「サリドマイド禍」。これなんてスペカ?それは特定UMIのか?
同年9月23日から投稿日まで、1度も編集されなかったので、同年9月23日に公開分の基本が完成していた。
当記事では、恋愛とほぼ真逆に相当する性犯罪や性的搾取については取り上げていない。
いくらかの性犯罪者は、真摯な恋愛というものから逃げたかったり、性的な優越感を感じたいという心理になるだけの背景があったろう。
恋愛と社会面に関しても、「性的同意年齢(性交同意年齢)」に関する議論や、性教育の徹底や、文化や社会環境が少子化と低い出生率に及ぼす影響など、いろいろな観点がある。
今の日本国の状況(未婚や性行為の経験の有無=童貞と処女の性質 male or female virginity に関する世間体のことから)について痛烈な社会批判を加えることも、ここでは行っていない。
私がLGBT, LGBTQのトランスジェンダー女性であるということも、ここでは表明していない。
言うなれば、今の日本国で「労働と納税を行っていても自己肯定感と愛国心と恋愛の機会とが得られないような人」の多さは、社会正義に基づく努力を怠っている限り、解消されないということである。
「労働と納税、他人に対する」による日本国憲法の「国民の三大義務(条文に対する解釈、俗語)」を十全に行っているからといって、人間的な生き方に因果関係がない。
そればかりか、その偏りが、日本国の成長を止めてしまっているか、他の先進国よりも見劣りする状況を生んでいる。
なんとなれば、それら労働納税者たちが「公共の福祉を重んじて自他の人権を尊重しようという態度」を欠いており、精神的幸福を破壊するからである;そのような納税行為が経済的にどうであれ、最終的に不幸の道を作る基礎になる。
精神的に裕福になる道を知るために、もう少し、「自分の価値観にとって劣る他人を見下したい」という欲求を制御し、自分の心と見つめ合って考えていただきたい。
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