2014年9月23日火曜日

ネット問題児・何度も炎上する人。

弱い火に油が撒かれて強まり、そこに風が煽ることで燃え広がる。
火=元々ある悪評 油=単体ではなんでもない 風=単体ではなんでもない 

これ即ち、悪評(火)がある人が目立つこと(油を撒く)をする(それだけでは一見問題でない)と、隠れてたはずのボロが出て、それが騒がれて広まる(風が吹く)。
正に火と油と風の関係だ。火油風の法則。

嫌われ始めた人がとことん嫌われ、何かするごとに注目を浴びて、裏に潜む悪事が露見。
とある人物なのだが、先月、問題視される発言&ファンが暴走して傍観者に咎められたのだが、もう一度別件で騒がれたっぽい。
そして最近もまたやらかした(というほどでもないし、この件は見出しだけ目に入っただけで概要そのものは一切見てなく、興味もない)。
ただ、ちょっとしたことも検閲され、監視下にあるということになる。

その人は今後どうなるか?
まあ活動の拠点はネットじゃないから、その人が気に留めるか次第だね。
でもかなり傷心してるに違いない。

因果応報の理を現す。
積み重ねた罪業の報いである。

その人は、自分が何かするだけで自分のことを騒ぎ立てられるのではないか、また悪行(乃至あまり良くないこと)を暴かれるのではないか、とおどおどしながら活動をせねばならないだろうね。
対して、その人の動向を伺い、目を光らせる者もヒヤヒヤしている。
俺がこんなこと書くのもどうなんかな、とは思うけど。



追記: 2016年
最後の一文に秘めた、記事作成当初の思いを詳細に述べる。
芸能界とは欺瞞の業界であり、芸能人とは虚構の人種である。
インターネット・マスメディアを見るに、魑魅魍魎が過剰に守護し、魑魅魍魎が過剰に非難をすること、墓場の人魂の怨念の罵声大会にも似ている。
私は最初から芸能界なぞ眼中にないし、誰も興味を持たなければ自然消滅するちゃちな存在だと思っているが、等閑視をするわけにもいかない。

芸能人は昨今インターネットで、誰が在日外国人であるとか、どこかの宗教の信者だとかという噂はもとより、暴力団関係だとか不倫・浮気だとか秘密の交際だとか、大小のニュースがある度に仰々しい報道が起こる。
小学生のころからニュース番組で一番に疎む情報は、熱愛報道だとか結婚・離婚報道であり、極めて「どうでもいい」の一言に尽きていた(情報を流しても構わないが鬱陶しくは思った)。
無論、2011年からはニュース番組だとかワイドショーだとか、テレビ全般を自発的には視聴しないでいるが、自室のふすまを隔てた空間から音声は流れる。

ほかに、誰か有名人が世間的な善行(災害の被災者支援や寄付など)をした際に、ネット上で「偽善だ・売名だ」との批判が起こるとかとされるが、私が善行を知っても「売名などの底意がある」などと詮索する意思は毛頭ないし、最初からそんな善行も批判も私は知らない。
「その起きたとされる批判」を摘み上げるニュース・報道で、初めて「その善行」だとか、「善行に対する批判」だとかの存在を知るが、どちらも興味がないというのに、これまた仰々しい報道をする。
それらの報道は押しなべて、批判者への人格的な非難を表面的な趣旨としているが、倫理観を問うべき相手は、批判者らではない。

それは、自分たち自身であり、全人類である(自分も全ての他人も一体不可分であり等しいという仏教の視座より言う)。
テレビもネットも、互いに幼稚な罵言を浴びせあって何が楽しいのであろうか?
俗に「お互い様・喧嘩両成敗・目糞、鼻糞を笑う」といった言葉があるが、それだけで排除できる問題ではない。
そんな不穏な光景を二次的に広げたがるメディアは、愚劣に極まりがない。
みな押しなべて倫理観の異常性を見るが、むしろそれが通常の一般人の痴態である。
あのような形で有名人の善行だとかを知っても、誰が至心より感嘆して評価できようか?

※ほかの類例として誰か知名度があるか影響力のある人物が政治的な発言や問題視される発言をしてネットでの批判が殺到する、とされるが、そんな発言はその批判に対する誰か別の有名人が反撃したときにそれを二次的に広めた報道(多くはネットのメディア・SNS等ネットのマイナー人物の共有など)で知るか、元々知っていても私はそんな発言自体に興味も沸かない



芸能界の欺瞞性・芸能人の虚構性とは是の如し、である。
芸能人当事者も取り巻きのファンや擁護者、その反対に批判者らも全てが魑魅魍魎である。
騒がしいだけの業界なぞ実に険悪であり、智者は須らく厭離すべき低俗な分野である。
私は夙に2010年からバラエティ番組などを嫌い始めた。
今は強ちに批判するつもりはないが、事ある毎に罵声大会を目にしても良い気分とはならず。
私は第三者(中道)としてその罵声大会を偶さか見聞きするとも、傍観者や傍聴者として一笑に付するがままに「我、関せず」の心情ではいられない。
昔からインターネットでは、こういう繊細な精神性のために気負う経験は多かった。

仏教に出会って研鑽と信仰に入る私は、出会う以前から厭離と慈悲の徳を持っていたならば、やはり普通の人が現代に入門は困難であろう。
それでも、何とかして法を説き続けて人々に甘露を味わわせたい。

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