2015年11月29日日曜日

日本人の精神性と信仰心 ~ 歴史的経緯と現代のありかた (10月文章抜粋)

今回も10月中に執筆した文章中、「ネット以降の保守思想」に関する項目から抜粋して投稿する。



* 精神面(民族の理念)での問題 *

初めに、"Mental"というニュアンスでの「精神」ではないことを留意されたい。
先の「現実『語』主義」と同様、そういった「精神病」云々を取り上げた論理は、インターネット特有の交流の中で毒された思考から普及し、この論理を弄すると詭弁の域を出なくなるため、私は持ち出さないようにしているし、以下の内容は精神病などとは関係が無い。
私が"Psychology"の側面から人を穿って見ることもしない。
現代日本人がいう科学、ことに医学や人体に関する話をすると、精神病理も栄養学も個々人が勝手なイメージを重ねたり、「血液型による性格の判断」などといった現代的な迷信(造語: 現代唯物教・民間信仰の邪義)が強く罷り通っているため、この方向は好まない。

ここでいう「精神」とは、もっともストレートに言えば「大和魂」ということになる。
また、「趣味」や「感性」といった言い換えもある。
そこで、総括的ではあるが「民族の理念」という括弧の注釈を付けた。



日本人らしからねど然(さ)ある「現代的合理主義」は、この「精神」にも適用される。
現代日本人は「神を信じない」というより、神が何であるか曖昧であるのかもしれない。
キリスト・イスラム等の絶対神を奉じた一神教の神と、日本の伝統的な神から世界の神々(ギリシャ神話からインドのものなど)といった多神教の神、現代の作品の想像上の神など、「神」といっても種類が多々あり、それらが宗教的に統率されないから異なる神々の情報が混在している現代日本では、「神」像が捉えづらい。
更に、実在した賢者にてあらせられる「仏様」を、この「神」と混同・同一視する者も非常に多いことは、キリスト教的な偶像崇拝と、多神教的に多くの仏・菩薩が崇拝されるからかもしれない。
その「神」の存在は、そういった情報や人生経験から存在の有無を個々人が弾き出し、各々の「神」像が形成されてゆき、日本人同士でそうは一致しづらい。

それでも、「この世を支配したり人を救う」性質のある絶対神的なものは、多くの日本人が懐疑的であり、否定する傾向にあることは違いなかろう。
願い事を叶えてくれず、「どうせ神なんていないよ」、誰しもそう心で思うこともあれば、口に出すこともある。
斯く言う私も、一神教の神を信じないし、一般的日本人と異なり宗教の教義上からその理由を述べられるが、ここでは煩瑣であるから省く。
2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。

なぜ現代日本人が、自分たちの神を知らないようになってしまったかといえば、日本の宗教史に詳らかである。
各地の集落などで実りをもたらす山の神など、各々が神を奉じていたわけだが、それぞれが似たような「神」像を掲げ、衝突や吸収などでその神という観念が食いつ食われつの様相であった。
優れた神と劣った神、色々混ざり合って、10世紀までには「天照」が最上となる(記紀のどちらかが根拠)ものの、それまでには仏教の伝来などで、既に神と仏の混在があった。
その「仏」であっても、あらゆる宗派があらゆる仏を等しく崇めるのではなく、「無量光明の阿弥陀仏(念仏・浄土系)」や「遍照金剛の大日如来(密教・真言宗)」などに宗派間で優劣の主張があったり、「仏は娑婆に実在されたお釈迦様と将来下生される弥勒菩薩だけ!」などの主張もある。
平安時代の天皇なら釈迦を中心とした天台宗(比叡山)、平安末期からは加持祈祷好きのために真言宗(高野山)、鎌倉~江戸時代の武士は徳川家菩提寺があることで有名な浄土宗をはじめとした念仏系の宗派など、時の為政者らは中心の「仏」が相容れない宗派で定まらなかった。

西洋(欧州や中東)は国家がどう分裂しても闘争しても統合しても、ほとんどキリスト教かイスラム教であり、中国大陸もどんな王朝であれ儒教や道教の思想を根本とした政治が中心であったのに、この島国の日本は万世一系の君主・皇統連綿と流れても、信仰は多様化を極めていた。
そのような日本人特有の、時代に対する柔軟な性質が悪く作用し、この現代的合理主義と、「神」という各々が懐く観念の複雑化・抽象化が発生した。
この現象を悪く言ってしまえば、軽佻浮薄で移ろいやすく、無節操ということである。

※いや、日本とは和を重んじる、その和とは、すべての存在を尊重して共存する姿勢である。神などの「宗教」という分け隔てを設けず、あらゆる思想も受け入れる。何でも悪しきものを排除する思想は、近代・戦前の日本の過ちであり、今の中国や北朝鮮など独裁的全体主義国家の体制と何ら変わらない、右翼・左翼諸氏は中道・真の「和」を知るべきである。無節操は和の裏返しか。



現在、無神論的だった人(皇室不要といった冒涜など含む)がインターネットの影響で忽然と右傾化したり(小学生→中2にかけての自分がそれ)、一方の人は反安保法案・反戦争法案(センソーホーアンハンターイ)といった迷妄の左傾化も甚だしい(自分の母がニワカ共産党支持者である)。
安易に、元々の考えと反転してしまう人が多いということである。
本題の、ネット経由の新保守思想であれば、日本的なセンスと遠い人(欧米化・西洋気取りなど)が突然に嫌韓・愛国宣言などを始めるということである。
私は、それらの風変わりな状態を批判して、「みな一様にこうなれ」と強いるつもりはない。
また私は、和風=愛国、愛国=和風といった、相互の等式を唱えてもいない。
私思うに、新保守思想の様子は、趣味や感性が自由な現代的保守でありながら、政治などの思想がみな似通うというところが特徴なのであろう、とだけ指摘する。

世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない。
そのイベントや表彰の分野や人物に関して興味を強く持つこと、今仏法を学び奉る私が、新たにそれらの領域に手を伸ばすことは無い。
勉強と創作関連を続ける意志が強く、そういった人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(小学校中学年の頃はアレコレ夢想していたり、唯物論者の中学以降も変に憧れを広げることがあった)。
だから、その時その時で特定のアレ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無いが、伸びしろの広さで子供が優れているくらいだと私は見ている。
子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何も学んでいない人間としか見られず。

しかしそう否定的に、私の信念から来る感情が向かせるので、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。
特定のアレ観戦であれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私がみだりに批判するべきではないかもしれない。



備考

2014年3月6日における自撮り写真へ、2014年3月19日に文字を付与した

上掲はオマケの字幕付き写真である。
本文参照『2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。』

字幕は「頼れる神こそ己の中にある。自我の神格化によって鼓舞するんだ!崇拝対象は最も身近にあると考えろ!」とする。
字幕に「己」と「自我」という類義語があるが、ここでは前者が「深層意識や無意識の精神か何か」を意味し、後者が「当人など誰でも生者の顕在意識が五感を用いて認知できる対象として実在する肉体から存在を認定する生命全般」を意味すると考えればよい。
つまり、前者が深層的に神を宿しており、後者が表層的に神格化されるべきだと、当時の私が字幕において主張をしたかったのだろう。
理由は、2014年6月以前のコンテンツに多かれ少なかれ書かれているかもしれない。
ところで、「神」と「神格化対象」という二者が両者の差異を示しているが、哲学的には定義が困難かと思う。

2015年11月26日木曜日

10月に書いた文章より「現代的合理主義」を抜粋

10月中に起草した下書き記事の一部記述を新設記事として投稿する。
以下からの文章が始まった経緯として、私が小中学生の頃に持っていた思想「インターネット新保守主義」が関連する。
よって、その「中学生の頃の私」を念頭においてご覧いただきたい。
※後日、その10月起草下書きの記事を急いで仕上げて投稿するかもしれないので、そちらも併せて高覧されたい。



*現代的合理主義*

ここに論う「合理主義」とは、実に現代日本の気風によるものである。
よく、「都会の人は歩き方が速い」と言うが、これに代表されるよう、現代の日本人は無機質に効率や利益を追及しつつあるが、この合理性を突き進むと中国のような共産主義に至ってしまう。
だが、日本人は文化性などを尊重して、ほど良くニュートラル、中立の状態を保持しているから、マルクス的な究極の共産主義、中国でも未だ実現できていない境地へ達することはない(ただし戦前期の一国全体が思想を統制され、一致団結した時代は究極の社会主義に見える)。

およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えるよう、何とも安定した職種を志す子供たちが多くおり、それはこの「現代的合理主義」の気風から、その志が生じていよう。
具体的には、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などである。
「広義の公務員」なら、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがあろう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと憧れもとい野望を懐くことは多かったようだが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因している。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん右記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようであるが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてならない。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様がある。
日本のスポーツは多くの競技で好成績、パティシエという菓子作りも食文化も和洋問わず評価が高く、宇宙へ飛び立った日本人は私の故郷さいたま市(旧・大宮市)輩出の若田さんをはじめ多数おり、いずれも日本のキッズが憧れて然るべき職種であるはずだ。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になるが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかである(「望む」ことが前提であるから当人の意に反して無理やり就労させられるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるなら、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例である。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどと、料理店を営み続ける人もいる。
もちろん、そういった人々がなぜ利益を得られずしてそれを続けるか、全く感情が理解できない人も現代には増えているのではないか(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

自己犠牲の姿勢を厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔する、貢献的自己犠牲を厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為を厭わない輩が蔓延っている。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないであろう。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場が必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまう。

利益を得るということは、同時に他へ還元する必要が、この現代社会に存している。
税制などはそのようで、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが一方的に莫大な利益を得て、独占することは許されない。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がある。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはならないのであろうが、真っ当な国ならきっと日本の恩に報いてくれよう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といった社会福祉保障は、現代の民主主義などにおける根底の原理として、先進国的な通念(富の再分配など)がある。

昨今のEUが、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もあろうが、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務がある。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、EU諸国に付きまとう。
先進国だからと悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばならないから、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としてもこういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えよう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく世界が暗転しかねない。

こう語る私は、中学生の頃に「ザ・即物的功利的唯物論者」としての思想が根強くあり、中学1年生の時の開校ウン周年記念冊子で「将来の夢」について書く際、「年収1000万円」と金額を書いて悦に入っていたが、金額を書く真似は不良生徒の「年俸1億」ほどしか見当たらないほどに異端児として不気味な光を発していたことと思う。
どうせ、この年頃に正常・健全な夢を浮かべた学生諸子も、30過ぎてから現実的夢想に耽溺し、「年収800万以上の男性ガー、3高じゃないとヤダー」等とのたまいだすのであろう。
2010年12月の不登校以後も、こうした「カネ、カネ、」という性質が残り続けた。
上の「自己犠牲・富の再分配」ということを知らなければ、納得もできない中学生当時ならなお、「老人に年金出しても税金のムダだ!役立たずを(法整備の下に)殺せ!アフリカなんて未来永劫に発展しねーよ!早々に援助やめろ!」などと強く思っていた(ストレートな表現、御免)。

これは新保守・ネトウヨ時代にも変わらず根深かった。
国益や利潤を追求するのもよいが、行き過ぎると金銭や数字ばかりに囚われる。そうであったところ、今やそういった差別思想など諸々の謬見を排除して、社会のしがらみさえも断っていることは、それなりの思惟を深めた時間の長さ・功がある。
このような中学時代の思想を忌憚なく検分・披瀝しているのも、ご覧の諸君に同様の考え方があるならば、潔く脱却され、真理の階梯を辿る道に入って頂きたいからである。


2015年11月19日木曜日

フランス語の音韻に関するにわか仕込みをしてみた記録

初めに、私は「外国語の学習者」ではなく、僭越ながら「言語学や音韻学の研究者」と自称したほうが正しいから、英語など特定の言語をピンポイントで学びもしないし、話者になる気もあまりない。
故に、たとえ英語に偏ることがあっても、言語学総体における一カテゴリの範疇に留まる。
今回は、最近の母親の浪費の中で、ケーキや観葉植物などがあり、箱や容器などにプリントされたフランス語から少し勉強へ広げてみた記録を日記メモから集成する。
最近のにわかな勉強でも、また知ることが多くて、後学のためにもなりそうだ。

そもそも私は浅学の徒なれども、ナントカ語の文章を目にすると、どうしても脳内でカタカナ表記にしたがる知的好奇心が俄然高ぶって、口頭でそれを読もうとする。
そうして成り立ったカタカナ音を文字にして、それが実際に慣用的なカタカナ表記(カタカナイゼーション"Katakanization")にどれほど合致するか、単語をGoogleで検索するか、英語版Wiktionaryに当たって語源や発音記号を参照するか、Google翻訳の音声合成機能の発音を聴くことで正確なカタカナ表記を模索する。
このような方法でカタカナ表記を定めていくことは、フランス語に限らず、ドイツ語であるとかも同様に役立つであろうが、特にフランス語のように発音法則が掴みづらいか安定しない言語には慎重を期してじっくりと調べている。



ここで、ようやく日記メモの引用を交えた本題へと入ろうとする。
その前に、以下からの記述と併せて、過去・2014年9月28日の、当メモ帳ブログにおけるフランス語記事をお一つ参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2014/09/blog-post_28.html

11月17日の日記メモ

12時50分にヤマト(クール車)から1箱の配達があった。
14時台後半に諸々確認すると、表の段ボール箱には"LeTAO"と書いてあり、内の箱はケーキであり、"Venezia rendez-vous"とある。
後者は、独り言で「ヴェネツィア・レンデツ・ボー」と読んだ。
ベネチアだから後もイタリア語として、"vous"をフランス語のように語末の"s"を発音せず読んでみたのだが、このフランス語の音韻理論は当たっている。
ただ、正式なカタカナでの読み方は、もう少し異なるし、語末の子音を発音しないなら"z"もそうすべきであるから答えは「ランデブー」だそうで、これは聞いたことのある単語でも意味を知っていない。
ところが、今検索するとこれはやはりフランス語のようで、ベネチアの先入観から理性的にイタリア語と思ったが、やはり文字の並びでフランス語理論を思い起こした私の言語感覚は天才的直感であったようである。
このケーキ名、イタリア語の都市名とフランス語の単語を混ぜるとは・・・。
3度のケーキより言葉遊びが好きな私であった。

20時40分前から1Fリビングにて少し作業をしたが、その折、件のLeTAO品がまだ他にあったようで、冷蔵庫に保管されているものを見た。
箱には「ドゥー・クーシェ・コンポゼー・デ・マスカルポーネ・エ・デ・フロマージュ・ア・ラ・クレーム」等とフランス語で書いてあった。
どうやらこちらが件のメーカーの看板商品のようである。
なお、今回のスイーツなフランス語に関連して、過去のスイーツ記事のフランス語についても当該記事に加筆しておいた。

当記事注: ここで、上「ランデブー"Rendez-vous"」を例にフランス語の文字対音韻を詳しくメモすると、子音を伴う"en"も「アン」と読むことは、「"ren"=ラン」の箇所や、○○マンというフランス語の単語なら「"ment"=マン」となるように見られる。上メモの通り、語末のzにしてもtにしてもsにしても、発音はしない=無音化をする。更に、"ou"は大概「ウー」であることも見られている。




11月18日の日記メモ

17時過ぎに配達物と見られる植物(今回は10月末の3点・写真と異なり、模造でない)3点について確認した。
量と大きさから、郵便からの配達のほうであろうが、クリスマス仕様の植物で、またしてもフランス語で「ボンヌ・ジュルネ」や「アン・アヴル・デ・ペ」等と書いてある。
母に色々思い浮かぶことがあるが、10月該当範囲のメモ記述に任す。

ところで、アン・アヴルだかというのは、"Un avre"と書いてある(Un harveとどちらが正しいのかは不明)。
連声のような法則で「アナヴル」と読むのもありえそうだが、具体的な呼称を探しても、先の単語の語末が"n"の例についてはエリジオンともリエゾンとも言えないようで、なぜこう稀有な例に当たって、たまたま調べる初心者以下の私を悩ませるのであろうか。
これは非常に難問であろうから、口先フランス語話者には到底解答し得ないであろうし、いわんや初心者以下の私をや、として離れる。
ちなみに直後の再調査で、恐らくはアンシェヌマンという法則らしい。
なお私は外国語の学習者ではなく、言語学や音韻学の研究者と言ったほうが正しいから、英語など特定言語ピンポイントで学びもしないし、話者になる気もあまりない。



↓11月19日17時26分の投稿時にはこの画像を用いていたが、18時台に写真を取り直して先の画像に置き換えておいた。

ボンヌ・ジョルネ bonne journee journée


2015年11月13日金曜日

同じ作者の2009年の作品と、初公開が2012年で未完の作品それぞれ

私は、2015年以降あまりPCでゲームをやることがなく、ゲーム自体は専ら某サイト関連(RPGが主要であり、自主制作している人が今も少数いる)の携帯のアプリか、同じく携帯電話のソーシャルゲームで2010年・前の家から断続的にやっていて後々フォンブラウザ版(PCでも登録可)などが出来ているもの2種をPCでもプレイするなど、コアもにわかも、ゲーマーなら誰もが身の凍るような思いをするであろう。
ヒョイヒョイ新しいものに手を出したり浪費散財をも厭わないという軽薄さが無い私の、硬派で高潔な精神が伝わり、畏怖のあまり身を凍らせよう。
そんな中で、11月4日の正午過ぎに、予てやろうと企てていたPCのフリーゲームをDLした。



そのゲームは、「2012年7月に公開され2013年7月に私が初プレイした長編のフリゲARPG(未完)」の同作者が2009年に公開したもので、共に人名や地名・魔法などの設定のほか音楽なども少なくはあるが通じ合う。
ただ、リリースの前後関係はそうでも、作品内設定の時系列などは私のプレイ順と同じく、リリースの前後関係とは逆であるそうだ。
例えば、DQは未プレイでほぼ知らないが、DQもナンバリングと逆である3→2→1の順で次の時代へと世界が進んでいるらしく同様である。
2013年7月にその某フリゲをプレイしたというのに、2015年11月の今になって同作者の前作をプレイするとは、実に遅れているようだが、これの初プレイ自体は2013~14年中であった。
その時はどういうものか少し気になった程度であったから、初めに苦手な雰囲気を覚えて間もなくプレイを放棄したという経緯がある。
今回はかなり本気で挑んだことにより、食わず嫌い的な意識から脱却できたのであろう。

私の過去記事における、2012年7月公開の某フリゲに関する記述は、本家2014年9月15日の記事終盤と、メモ帳2015年7月16日記事の21日追記などがある(加えて、2014年中の絵の練習記事のどこかに二次創作っぽい漫画を載せてあるが、大部分はモザイクがかかる)。
このように、時間と共に過去作への疑問と希望を募らせ、ゲームプレイに欠いた状態もあることから生活面への影響を調べる意も兼ねてプレイを始めることとなった。
「疑問」とは、いかに設定や名称や音楽や画像に相互性があって、どう相関するか、また作者の意思についても指している。
「希望」とは、2012年7月に公開された作品で気に入ったキャラと同名キャラの存在をたまたま2013・14年頃に知り、そのキャラはいかに登場していかなる設定を持ち、後の作品とどう相関し、また未完である後の作品のストーリーがどう紡がれるかその判断に寄与されようことを期待するものであった。



まず、その疑問の解決について話す前に、両ゲームの仕様を説明する。
2009年のものはRPGツクールで、12年7月のものはWolf RPGエディターであるが、前者は音楽以外のデータが特定の圧縮・暗号化がされているようであり、後者はほぼ全て暗号化されている。

音楽に関して言うと、前者は8~9割がMIDIで残りが全てMP3ファイル、後者は聞いてすぐにMIDIが1割ほどしかないことが分かる。
例えば、09年作でMIDIだった曲が12年作には非MIDIのオーディオになっている例が数個見られた。
12年作はあらゆる内容のボリュームが大きいとはいえ、やはり一番データサイズが大きいものは音楽系のファイルのようである。
BGMが一大要素である日本のゲームは、やはりグラフィックでCGを多用しない反面、豊富なオーディオデータが最も容量を消費する。
余談だが、前者ツクールで鳴るMIDIは各々PCに定義された音源で鳴らされる(私の場合Timidity++を設定し、導入したSoundfont、大抵のWindows環境は初期音源gm.dls)が、後者ウディターはWindowsなら初期音源gm.dlsが強制的に選ばれるようである。



私が12年作で気に入ったキャラクターの1人は、09年作でも登場しているということで、まずその相互性として、12年作では人を超えた種族の設定があり、長寿であることが伝えられる(設定の時系列では過去にあたる12年作でも最低600年以上生きていることが推定され、それから何年か何百年先とも付かない09年作の世界でも登場していると1000歳超もありえる)。
そもそも12年作は、09年作で神話的に説かれる小さな設定(「こういうおとぎ話もある」というスタンス)を主体としており、語弊はあるが「外伝」のようなものである(もっとも、12年作はクオリティの高さから圧倒的な人気の差がつく)。
その09年作での小さな設定・おとぎ話と大きな関わりがあるように描写されつつ、09年作のメインストーリーで活躍されないキャラが、現状は唯一の12年作再登場キャラ(モンスターには再登場が多くある)として、12年作でも現状はストーリーの端で登場する。
「現状は」と二度念を押す理由として、前者の「現状は」なら09年作に同姓と思われるキャラ(妹?)がおり、12年作では「生き別れの妹」の存在が示されるよう、今後のアップデートでその「妹」が09年作から再登場するかもしれないし、後者の「現状は」なら、今後のアップデートで何らかの活躍が期待されるからである。

もし09年作が12年作とストーリーが繋がり、12年作の舞台の後の世が09年作で、同キャラとその妹(?)の関係が12年作の今後のアップデートで判明すれば、同作者の作品の世界観において複雑な移り変わりが一つに結ばれるのであろうか。
それとも、そこまで考えることは行き過ぎであろうか。
このキャラを主体とすると全て結ばれそうであるが、ストーリーや各名称などには齟齬も生じており、全く一体とみなすことができない現状があり、今後どう明確になってくるか注目されよう。



最後に、ここまでの話がまとまっているのか、判断がつかないが、この文章を執筆した11月6日に、冒頭でも書いた「某サイト関連」の活動内では、このキャラクターのドット絵(キャラチップ)のデータを、某サイト関連のゲームと似た雰囲気に修正して、そこでのブログ内に掲載した。
09年作と12年作のどちらかといえば、前者の方をデータフォルダ内の.xyz圧縮データから、通常の利用が可能なpngなどに変換した。
私的利用の範疇を逸脱しているから、他者の知的財産権を侵害しているようだけれど、長年こういう自分はそこら辺の順法意識が薄くて困る。
小6・中1の時に2ch関連の書籍で、著作権を条文のみならず具体例からも学び、半可通とは違った知識を得たが、要は政治家が汚職することなどと同じである。
2014年7月の動画説明文にも「剽窃」云々と、自分について語ってある。



付録:保存楽曲識別番号
当記事も、音楽館の作曲者関連の記事のように、某サイト保存楽曲から識別番号を羅列する。
テーマは、12年作に重なる印象の曲である。
範囲を広げるとARPGやRPG系全般、広げすぎると多くのゲームジャンルに伸びてしまうため、自分でもどの程度までが適切な境界であるかは判然としない。
また、件のゲームはほとんどフリー素材系である(12年作にはオリジナルで提供されたものがあるようだが詳細不明)。

件のテーマに該当する曲(個人管理識別番号)→230 316 321 374 379 414 462 507

この中で特筆すべきは"230"であろう。
私は2013年9月4日にこの曲を初めて聴いたようであるが、この曲の某サイト投稿は2013年9月3日であり、投稿から間もなく聞いていたようである。
それに、2013年9月といえば、私が12年作を初プレイした2013年7月からまだ日が浅く、この12年作に対する想いがやや残りつつあったわけで、この曲にはかなり強く12年作を重ねた。
曲名に「永久(とこしえ)」と冠している点も、「時間」をテーマとしている12年作(主要キャラの一人がタイムスリップに相当する禁忌の魔術を持ち、第一部エンディングはそれを発動して終了)の印象と重なるものであろう。
また、同楽曲作者のメイン名義と同じひらがな3文字の投稿名で、同ゲーム公式BBSに投稿があるが、同一人物であるかは不明である。

余談となるが、ゲーム系の楽曲に関して少々説明する。
某サイトでゲーム系というと、RPGの対抗馬はSTG・・・もっと言えば東方系(私も投稿経験あり)が物凄く多い。
あらゆるゲーム・アニメ・バンドなどこの世にある中でも、もっとも「コレが多い」という固有名詞を挙げるなら、「東方(厳密には東方project)」に勝るものは某サイトに無いと思われるほど東方風の楽曲が多い。
2006年の時点で3人以上は複数回東方っぽい曲を投稿している(メタルのおじさん含む)。
一方でRPGといえば、典型的ではあるがDQかFFのような戦闘曲がかなり人気である。
広義のゲーム音楽としては、音ゲーの曲も含まれるだろうか。
某サイト作曲者にも音ゲーファンが多く、音ゲーっぽいテクノやトランスも多く見られる。
ただ、やはり作品名などの固有名詞で最多のキーワードは「東方」ではないか。

なお、メタルのおじさんが東方かSTG系、あるいはファミコン横スクロールアクション的な曲を作ったことはあっても、RPG系は見られない。
そもそも、彼の2006年以降に見られる活動名義は、とある横スクロールのSTG(ケイブ以外の何か)の作中における楽曲名の単語3つの頭文字から取られている(本人談)。
3文字である点のみを取っても、東方でいえば「ZUN」「NKZ」のようにSTG界隈の慣習(ZUN氏も言及)を感じさせる。


2015年11月8日日曜日

詮無き空想「捕らぬ狸の皮算用」も小学生の頃には良き夢想

私は日々ネットでの言論を行う。
創作関係(絵・音楽)にしても言論と同様、リアルの形に残したいと思うことは多いが、とりあえず論文を紙面に印刷する場合を考えた。
去年から、自分のネット投稿文章を紙に書写することは多かったが、今年は日記メモを取る習慣が強まるに連れ、その因果関係はともかく、書写行為はしなくなった。

紙に印刷することを考える際、第一にA4コピー用紙一面にコピーする手段がある。
各種資料・学校のプリントのような紙面となろう(それらは主に横書きだが、私は縦書きにしたい)。
こういった場合は、Microsoft OfficeのWordなどが最もポピュラーな編集方法で、この下に印刷を行うものだが、あいにく私のOffice系ソフトは某紛い物メーカーの体験版しかない。
Wordなどにこだわらない手段としては、画像にテキストを貼り付けてその画像データを印刷することか、あるいは直接ブログのHTML画面をブラウザの機能で印刷することも挙げられる。

実は私の思考では、Wordなどオフィス系ソフトは後から思いついていて、今の「画像方式」と「ブラウザ方式」が先行していた。
そういうわけだから、最初から「Word方式」ということは考えなかったが、ブログ記述では便宜上このようにする。
ほか、A4の紙では大きく読みづらい・折れやすいので、後々半分のA5サイズにすることを考慮した印刷方法を採ることもよい。
この場合は、1枚の紙に1Pと100Pついで2Pと99Pのような印刷方法を採るか、1Pと2Pついで3Pと4Pのような印刷方法を採るか、という点も考える。



以上のように真面目な思案を展開しても、空想に近いと気付いてしまう。
なぜであるか、立派に考えても実行が無ければ「捕らぬ狸の皮算用」となってしまうからであり、それは「皮算用」というほどに小中学生時代に多々経験があったからである。
2007年4月、母別居開始から広い家に独りでいる時間が急増した中で、様々な思考に耽っていたものであるが、その中には「皮算用」とも言える計算活動が多かった。
過去記事で「中1時の開校ウン周年」における「将来の夢」欄で「年収1000万円」と、理想の収入を書いた真似に見るよう、即物的思考はあったのだが、ただ現代の大人らがそうのたまうことと異なり、小学生(高学年)の当時からそれなりの計算を伴っていたのである。

想定した年収や月収(月給)を前提に、食費いくら、電気水道料金、ガス代は当時の家がオール電化であることから加算する場合と加算しない場合を考え、光熱費という概念は今でも謎だが、適当に小額加えたであろう、それにマンション・アパート住まいなら家賃だとか、想像しえる各種ケースを精査した上で、貯蓄額や遊ぶ金などをどれほど残せるか計算していた。
今では当時のメモ資料実物など、前の家に置き去りであるから、どのような内容か確認不能であるが、上記はほぼ高学年~中1の頃にそのままされていたことと覚える。



あの広い家で独りきりという中で、ある時はネット中毒、ある時はネットもゲームも無い(2008年夏に別居母との再開の事前に上の画面に数字キー、別にQWERTY配列キー備わり、後のスマートフォン的なブラウジングが出来たスライド式携帯電話を受け取った経緯があるが、これは2008年10月に破壊し同年12月の姫路遠征時に返還した・・・2006年7月にあの家に越した折、2003年購入のSH252iを一時自室内で紛失しつつ小6か中1の時に再発見した経緯もあるが、これは当然2004年のとある経緯でネット接続不能である)環境下で、トモダチだとかもいなかったわけだから、独りで何をして時間を潰したかと言うと、お絵かき・物色など多種あろうが、独自の遊びを開拓することもあった。
独自の遊びと言うと、現在この家や私の所有物にも結局は漫画やゲーム機などが無いわけであるから、このPCにもCPUを荒らすゲームを動かす気にならないため、音楽をいじることが多い。

「音楽をいじる」のであり、「楽器をいじる」行為は、物を持っていないため不可能である。
仮に持っていても、あまり触れないのであろうし。
「音楽をいじる」とは、「音楽ファイル=MIDIなどのデータをいじる」ということであるが、同時にMIDIファイルの再生もまた、視覚的に楽しみ甲斐のあるソフトを利用する。
TMIDI Playerを筆頭に、動画投稿経験ならMAM Playerもある。
MIDIファイルで簡易に音ゲーをプレイできるSynthesiaはインストール済みでも、あまり使わない。
PCゲームとは、CPU・消費メモリのほか、ノートPCのキーボードに対する負荷も考慮しており、ましてやこのような長文を打ち続ける私がこれ以上キーボードへの負担をかけることは忌避する。

その私は、視覚的にも再生される諸ソフトによって、音ゲー的な独自の遊びをしている。
再生画面を見ながら指先でドラム演奏・・・右手のみなら、人差し指がキック・バスドラム、中指・薬指などがスネアの役割、この役割分担は場面によって一律でない。
両手でやる場合は、その視覚的にそれらの再生画面を見ない状態も多い。
再生画面を見ない、ということは、PCの前にすら居ないで、押し入れないで自分の肋骨や腹部など音の異なる箇所でキック・バスドラムやスネアなど区別して叩く。
「一律でない」わけだから、別パートへの展開前などにスネアを激しく叩く場面があれば、両手法の場合今まで肋骨キック・バスドラ演奏の右手を腹部に移動させ、左手と共に打ち鳴らす。
思えば、指のドラムなどの美学は、小5・6の頃から基礎が固まっていたようである。
やはり片手法なら人差し指と中指、両手法なら左手と右手で異なる音が鳴るように気を遣っていたらしく、似たようなことをしている他の男子児童などは、その区別をしていなかった。




2015年10月30日金曜日

「ネト本リア末」議論と而二不二の義

インターネットは、構造上リアルありきとはいえ、人々の生活は趣味や娯楽から、経済活動に至るまでネットに移行しつつあり、依存傾向にさえ変容しつつあることは、既に大衆までも知覚する。
私の場合は、ネットショッピングを行わない(中3の時に数度のみ)が、経済活動そのものが、リアルでもぼちぼち自販機に通う程度に、つましくある。
頻繁に買うならば安価に済む手段に越したものはないが、私は自販機という割高なようでも便利なものに直近3年間は全き100パーセント支出している(不意に小銭を失った時などを除く)。

一方で、創作や言論の拠点は、ネットでの公開を主体としつつ、リアルにも形に残そうと、多少の行動がある。
例えば、紙に絵を描く、イラストや写真のデータを紙に印刷する、言論の文章を筆写する(ペン手書きの訓練にもなる)等。
音楽関連は、CDに焼くなどしたいものだが、結局WAVEやMIDIなどの各種データをUSBメモリに移すほどしか、現状は手段が無い。
ましてや、絵をイラスト集に、文章を著書にして発行するであるとか、自作曲の楽器演奏やCD製作配布・販売など、出来ようもないし、そこまで物質化・大衆化する必要も無い。

今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。
インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。
いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する。
度合いによるが、軽度であれば、ネット掲示板・チャット・ネトゲなどで「なりきり」などとして遊戯雑談を交わす人々がおり、重度を過ぎれば、自分が主人公および作品内キャラ本人そのものと本心で深く刻まれるケースもある。
架空作品主人公に擬したリアル犯罪行為(主にグロゲー)は、精神面だとこの中間で、意識の上に意図的になりきりはするが、行為がそのキャラクターさながらであるから、厄介でもある。
私は深くゲームプレイをしないながら、俄かに新規プレイ(ここではネトゲやソシャゲを除くものを指す)してハマり込むと、何となしにゲーム外での思考の中で混同することもある。

それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである。
恒常的にこうした論理的な思考を維持し、日常のあらゆる場面において精神の安定による冷静かつ迅速かつ的確な判断を繰り出せることが、一つの境地であろう。
ほか、ネット上に最新の顔写真を公開し続けているが、まず写真を撮る際は撮り直しなども多い。
公開できるほどの写真は、話題に合致している場合と、単純に顔貌が美麗である場合などあるが、そのようにネットで公開した写真の時ほど常時美しければよいと思う。
ただし、写真の写りと鏡の映りでは、写・映される顔の状態すなわち絶対性が良い場合、鏡はその絶対性を反映するから、続く相対性で不利になる写真の写りは想像と齟齬があったり、期待はずれのパターンが多い。
この点は複雑であるし、ネット人格に比肩する目標、ということの例としては参考にならない。



ここで改めて、「本末」の語義を考えられたい。
「本」とは根本、「末」とは末節ということであり、本体・末端、本望・瑣末ともいえる。
私の学問分野で、例によっては「本迹(本地と垂迹)」ともいう。
"本"来の自分に対して、その派生であるネット上の人格が"末"端であり、本体がネットを去るか消えたら、活動の形跡は残るとしても、末端の魂、新たな生命活動は無くなる。
死体が腐敗するように、コンテンツ跡地は数年、十年と消滅の可能性が増えるか、あるいはサイトが生き残ればそっくりそのまま十年以上残るかもしれない。

この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている。
その功も徳も、実に高く積まれているように思えて、分裂した人格を本来の人格が羨望し、あるいは神格化したように高次で捉える。
「本迹」でいえば、高次のネット人格"本"が顕現して、"迹"のリアル自分に降臨することを望むか。

「自分で撮った覚えが確然とあるこの顔写真は、横野真史の顔写真であるか・・・、横野真史とは自分であり、自分とは異なる存在なのであろうか・・・。いや、自分は○○ではなく横野真史であったのか。これが横野真史の写真であれば、自分は横野真史なのであろう」といった具合に色々と混乱してはならない。
正しくは、自分が○○であって、横野真史は仮想空間での異称であり、創作や言論などの活動の一切は本体の自分を根源・根本として、仮想空間では横野真史の名で発するのみである。
このように正確な分別を維持しなければ人格は崩壊してしまう。

また、もし法律上の氏名を「横野真史」に改名するか、逆にネット上の名義を「○○」という本名に改名したとしても、やはり全く同一の人格ではない(名同体異、99%までは似せても完全はない)。
そうはいっても、「横野真史」に根も葉もない・誤解の風評が立てば、即リアルの自分への風評として憂えるものであり、横野真史の上で糾弾すべきであろう。
このように、而二不二の義を以て、同じのようで異なり(而二)、異なるようで同じ(不二)という分別を持たねばならない。
先述の「この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている」という一文の通り、本体の自分と遜色がないか、それ以上の人格として生きていて・・・肝心な結びの文章を失念した。なんでかな。

表題に「ネト本リア末」と書いたが、結局のところ、「ネト本リア末」と「ネト末リア本」のどちらが正義であるかは判断が付きづらい。
物質的・歴史的にはネットが先となっていても、今や冒頭の例にある通り、ネットこそ観念上の本体のみならず、世間を動かす力もすさまじく、ここに一つの共同体も見られ、"ネト本"の者も多くて然るべきではないか。



大事な仏法の用語を、謹んで俗用し奉る、恐々合掌。
どこかの人だと、人格、パーソナリティ、ペルソナ、アイドル、等と言い始めてしまいそう・・・。
本記事は、前記事の「携帯電話・半角カタカナ・メモ形式」で原案を作ったが、最初はあんまり私の趣味ではないから掲載さえためらったが、結果はこの独立記事として規模が肥大化した。

記事冒頭ではネト本思想における経済活動の一端として「ネットでの買い物・ネット通販・ネットショッピング」にやや触れた。
母親は、記事執筆の今月2015年10月は高頻度でネット通販を行っていたことが脳裏にあろうか。
この様子についての記録は、来月の3日頃に「日記メモまとめ記事」として、当ブログにおいても閲覧できるようになる。
2015年8月21日の日記メモには、サイトのAmazon アマゾンを例に取ってリアル店舗の需要が減ることについて簡単な記述がある。
「みな母のようにネットでの食品購入が増えたら、佐川とヤマトが肥大化する。需要に応じてAmazon等が独自の配送機関を設けるかもしれない。リアル店舗小売業の雇用が運送業に傾くな、と何となく恐怖を感じるが、それは食品配達に限らず佐川とヤマトが来る度に思うことだ」


2015年10月25日日曜日

横野的な思想文集(雑多に)

いつだか「硬き褥に臥せて思いぬ~」といった形で文章を載せた(1/14, 3/12両メモ帳記事)。
今回も同じく、硬き褥に臥せながら思い、メモ(携帯電話による半角カタカナ入力)に残したことをここで校正し、掲載する。
その形式でメモしたこと以外の情報もあるが、とりあえず一括で載せる。



道心生活 (2015年10月21日の硬き褥メモ)


いわゆるアレの人々に対して、世間では昼夜逆転の先入観を持つだろうし、私自身も昼夜逆転状態の方が生活上で合理的であり、自由度が高く思えるから過去には昼夜・夜昼逆転を自在に繰り返して過ごしていたが、現在は自律的に普通の起床・就寝時間を定着させており、それは道心の故である。
このことは、8月下旬の日記メモに表れはじめ、9月中は1ヶ月間に貫き通し、今月10月であっても、絶えず続いていることは、道心なくして持続不可能である。

たまたま睡眠時間の短い日が続いた20日は満身創痍であった。
前日(19日)夜においては、この近頃の陽気を、件の灰色スウェットにて過ごし、体は主に背中や額に、首や脇などが湿っぽくなり、某サイトの耳に悪いロック系の曲をいじっている上に解体工事の長時間続いた轟音のみならずここで鼓膜が刺激されるのは、もう死体メッタ打ちである。
目にしても右目が、数日前からの違和感が続き、今見れば充血をもしていて、ケツの痔などが不安になるような作業を続けた。
就寝時には後頭部の腫れを仰向けに寝て圧迫されることで意識し、翌20日の朝は4時台に一度目覚めてから二度寝後の7時半の起床では、寝相のためか全身が痛んでいて、その後も首と腹部の筋肉痛が続いた。
後述する安眠妨害などの難・万障はあれ、道心の故に持続しえていることは、合理性から昼夜逆転を続けられるという点もまた、私の実行力が窺えよう。
必要があるから隠棲を続け、必要がないから外出もしない反面、必要があれば外出はできる。

日々生活記録を取り、ネットで披瀝し布衍する。
綿密に計画を練り、自ら律する。
愚物の親が、良き指針を示すということの無きようは自明のことであるばかりか、道心を乱し、志を知らず、安眠妨害をするほどである。
この念を持って日々高揚感が沸き起こり、ますます希望が充ち満ちる。
披瀝布衍の慈悲は俗に言うところの売名や自己主張にあらず。
正見智目を開かしめ、同じく道心ある者を導かんと遍照す。



↓別の時のメモ文章(校正済み)だけれど、少し話が↑と繋がる(意図していないけれど)。
真っ当な考えのある人が減りつつある今(顛倒濁世)、それで諦めず、私のようにいよいよ正しい考えを持つ人を探している。
そんな人と巡り会い、共に真理を追い求め、実証していきたい。
そういう目的で活動しているのに、よく忘れ、見失いやすく、徒労と虚無の懐疑がある。



この章に関する注釈・追記 (2015年10月29日)

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。
というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。
「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
道心を持てば、私のような肩書きの人が誇る「昼夜逆転」状態の生活が、健全な生活に矯正されよう、強く望んで血眼になる苦労などは必要が無い。

なぜならば、個々人には本源的に各々の「善」が備わっているからであり、その善は、正しい徳を得ることで遺憾なく発揮されるし、寧ろ「善」であることが当然の姿である。
正しい徳と道心によって、あるべき「善」に還るという思想は、いわゆる「性善説」である。
儒教の思想かもしれないが、中国以後の大乗仏教はこの影響を受け、日本でも「信仰の功徳により自然と宿命転換して、生活も豊かになる」と現世利益まで説く教団が多い。
この思想が極まると、「徳が無いから、悪因の果報で弱者・貧乏・負け犬」という極端な主張がされる場合もある(儒教はこれが旺盛であり、中華倫理最大の誤謬である)。

そこまで言うつもりはないが、今の私は困窮のようでも、大聖人のように日々悦びを感じ続け、仏法を学ばせてもらっている立場でいられるから、生きる希望を大きく懐いている。
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。
されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレ策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。




如是我聞。


意訳: このような出来事があったかもしれない
注釈: 正統な使い方(仏典)と異なる

昔、仏法を学びつつ、歌道の執着が強い法師がいた。
或る時、その法師が憧れた高名な歌人が亡くなり、法師は悼んでいた。
法師は、歌道を嗜む人々の集いにしばしば足を運んでいたが、そこでその歌人の死について語らうことにした。


すると話し相手の俗人(僧侶でない人)は、饒舌にこう話し始めた。

「なぜ汝はその歌人の死について傷心し、惜しんでいるのか。彼の詠む歌がもう増えないことは惜しむべきだが、今の歌が消えるわけではない。また、いやしくも彼が生き続けたとして、歌を詠むことができないままとなれば、それは彼であって彼でない。彼に歌を詠むことのほかに何を求めようか、悔やむべきことは無い」


法師はハッとした。
眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。
自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。

作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。
育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。
人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。
この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。
法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った。
「人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし 三宝に帰命し奉る」

解説
某サイト多くのゲーム作者や作曲者らの失踪(=歌人の死)・腐敗(=詠めずとも生きる)は甚だしいといえども、彼らが遺してきた多くの作品は良いものだ。
それでも自分は、彼ら「中の人」が気にかかって已むことは無い。
一方でサイト住民の中には、淡々と作品を利用して作者らと交流するのに、失踪などを気にかけない人もいるようであり、何とも言えない心境である。
ある人は「2015年9月6日から失踪中の作者M」らのゲームプレイが主要だが、どこかが抜けているのか、あるいは表に出さないものの作者Mの失踪を憂えているのか。
作者Mと共同で製作した経緯のあるゲーム作者諸氏も、作者Mの失踪に関して口に出さないか、最近1ヶ月はサイト関連の掲示板にも書き込みが乏しくなっている(冷え切っている)。
無論、憂えている私も作者Mに対し、某サイトで楽曲提供をした身であるとはいえ、某サイト内で彼のことは特に触れずにいるが、某住民や作者らは私の比でない親密な交流をしていたはずであるから、もっと悲しみを文字としてもよかろうに。



何でもない昔話 (改行ナシで縮める)


小4二学期で4・5・6年か4・5年か4・6年の時に私と同じクラスに所属し、私と下の名前が同音異字の男児がいた。その男児は私並みに勉強が出来る、と言うよりも、知識の豊富さであれば当時の私を超していたかもしれない。小4三学期に漢字検定5級(出題範囲が小6で習う漢字だから推奨は中1以上)を受けに行く(一度○川市を離れ、故郷・浦和に降りて会場に赴く)ことを彼に話したときは、3級を受けると意気込んでいた(彼の合否は不明だが、私は抜き打ちテストのノリで挑んだから合格点の80~90%ほどで受からず、ちなみにクラスのある女児が7級を受けに行くという自慢を小耳に挟んだ)。同じく小4の時に、エベレストの山頂の所在地を、私が中国・インドと思っていたとき、彼は中国・ネパールと答えた。反面、彼には忘れ物が多く、時の担任教師・ケバい中年女性からよく怒られ、時には授業遅延の犯人としてクラス全児童の前で涙ながらに謝罪をさせられることもあった。これには胸が痛みつつも、私という成績優秀かつ問題児という存在としては、案外、身近にいる彼に敵わないのではないか、と思った。それはそれで、校内にあって気が楽になれる考え方である。彼とは、あの学校生活にあって比較的仲良く会話ができた方であったが、頭突きを売りにしているから、その辺りは冷や冷やしていた。


この彼については、過去にどこかで書いたはずだが、例の如く投稿が見当たらなかった。



相対値の中の絶対数と相対数(絶対と相対の誤謬)


普通の人の1日あたり消費エネルギーを100として、頭での消費を20とする
私の消費エネルギーを80として、頭での消費は相対数で2倍なら32、絶対数で2倍なら40となる。
100の中の20はパーセンテージ20%、これの2倍が40%でも、100の40%は40、80の40%は32。
絶対数で2倍の40という時、私の80という中の相対でいえば50%であるから普通の2.5倍。

次の例として、某ゲームにおけるアイテムドロップ率を挙げる。
とあるモンスターを倒してレアアイテムAがドロップする(拾える)確率を2%として、これに「ドロップ率5%アップ」という効果を備えて臨むとする。
この"5%"が、相対値の絶対数を上げるならばレアアイテムAのドロップ率は7%に上昇するが、相対値の相対数を上げる場合、「ドロップ率"2%"」を絶対と立てるわけだから、2の内の5%、即ち2に0.1を加算した2.1%にしか上昇せず、その効果は有って無きが如し、と言える。
このことは、「○パーセント増加」と「○ポイント増加」という表現の相違にも似ている。

「ドロップ率が5%上がる」という説明だけでは曖昧であるのだが、実際にその効果を備えて臨み、プレイしてみると、レアアイテムAはドロップする気配を見せず、後者の「相対値の相対数」として作用していることが分かれば、有名無実の説明だと思わずにいられない。
簡単な説明はいくらでも解釈でき、それをインチキに用いる側はいくらでも正当化できてしまうため、これで起こるトラブルを回避するのが賢者であり、即ち明瞭な説明を以て明らかにすることで、未然に相手の誤解も不快感を生まない。