2020年3月11日水曜日

楽語共調理論の拡大, 反対の仮想–反例, 自己反証

以下の記事は「楽語共調理論 symphonedy theory」の導入や入門として書かれ、日本語の5母音 (the 5 vowels in modern Japanese) を中心として説明した。
その当時でさえも英語などの西洋言語を比較に用いている。
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html

当記事では、日本語の5母音の見直しを、音声学的に可能な人間の言語のあらゆる母音と比較・対照することで論じる。

まず、先の記事で言うような「二分・三分」の方法によれば:
 口の広狭(舌の低高)"height": あ /a/ = 広母音(低母音)、え・お /e, o/ = 中母音(中央母音)、い・う /i, u/ = 狭母音(高母音)
 舌の位置の前後"backness": え・い /e, i/ = 前舌母音、あ /a/ = 中舌母音、お・う /o, u/ = 後舌母音
 唇の円さ"roundedness": え・い /e, i/ = 円唇母音、あ・お・う /a, o, u/ = 非円唇母音(平唇母音)
となる。

(先の記事所載)言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図 □
5母音はその方法の区分から、右の図のように配列される。
これを音楽の歌詞におけるメロディのノートの音高(ピッチ pitch)に対応するものと見る場合、図の中の:上に位置するほど高い音高のノートに当たり、下に位置するほど低い音高のノートに当たるとした。

これらは絶対的なノートの音高の高低よりも、相対的なノートの音高の高低に対して適用されることを主張してもいる。
相対的とは、特に、前のノートの音高に対するものとして考える。



日本語に対する楽語共調理論の拡大案

先の記事で、イ段・い段の発音 /C + u/ を狭母音に区分しながら規範的に対応するノートの音高が低い必要を示したが、これは形式的な一面の説明であった。
い段の発音は、前舌母音・非円唇母音でもあることから、え段 /C + u/ と同様に第二フォルマント F2 の周波数が高い部類にあるばかりか、最も高くもある。
そのため、い段の発音のもう一つの側面として、前のノートの音高よりもノートの音高が高い場合にも用いることができると言える。

当時にも、そのように許容する案が示されていた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど…(後略)
※フォルマント値は当該記事に"Catford, J. C. (1988)"の情報、と参照されている。私自身の調査目的では別にサウンドスペクトログラムを用いることもしている。

先の記事で、ウ段・う段の発音 /C + u/ を狭母音や円唇母音に区分しながらも、「実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない」と2018年の記述を引用し、現実的には曖昧な調音方法と聴こえであるとした。
先の記事で、そういった理由から『「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である』と記し、楽語共調理論に基づく日本語の歌において音価 [u] を仮想することを示している。
これに関して拡大の案がある。
う段の発音は、現代日本語の一般的な発音でされる場合を許すならば、それがい段の発音に近くもある。
そのため、い段の発音に近い分だけ、ノートの音高が前のノートの音高よりも少し高い場合にも用いることができると言える。

この場合にう段の発音もとい音素母音う /u, ɯ/ は、シュワーともいえる曖昧母音として捉えることもできる。
それは、外国語借用語の二重子音・閉音節で /p, b, k, g, f, v/ といった子音がう段 /C + u/ に置換されることの一つの解釈でもある。
※日本語での話。言語ごとに選択性がある。スワヒリ語では /a/ (音声実現としては曖昧系?)  キクユ語では /u/ だったり (cf. thukuru from en: school)、朝鮮語では /eu/ = /ɯ/ だったり (cf. 스트레이트 seuteureiteu from en: straight) することを考慮した方がよい。言語によっては前後の母音から移る例も多く、キクユ語の borithi は英語 police から借用された(語末閉音節が同じ母音で新しい音節を形成した)ものであり、日本語でも一色"isshiki" vs. "isshoku"、テキスト・テクスト"tekisuto" vs. "tekusuto"、マキシ・マックス"makishi" vs. "makkusu" (これのみ原語で異なる語句である点に注意) などに比較される。この注釈事項は2019年8月10日投稿記事『言語における科学性の多面的な説明』にも説明された。日本語の例にトロッコ・トラック"torokko" vs. "torakku"などもある。サンスクリット→パーリの成節子音 ṛ の母音変化例 (mṛta-mata, ṛṣi-isi) も参照。なお、これは音韻論的現象の側面を示すものであり、キリバス語の Kiribati(キリバスィ)が Gilbert(ギルバート 形容詞でGilbertese)に由来すること(同様にキリスィマスィ Kiritimati はクリスマス Christmas)などは原語の語末の閉音節の母音 (ここでaおよびer) と新たに語末に付加される母音 (ここでi) との関係がうまく明示しづらい。場合によってイタリア語男性名詞のsing. -o, plu. -i  などの屈折語における形態の文法的機能を考える必要もあることに注意されたい。注釈対象の本文の話に戻すと、言うまでもなく /t/ た行は /tu/ が相補分布などで本来の破裂音から破擦音となっており [to] を用いるなど行ごとに例外もある。/z, j/ ざ行・じゃ行は英語の有声後部歯茎破擦音 [dʒ] とフランス語の有声後部歯茎摩擦音 [ʒ] に用いられるが、イメージ (image), オマージュ (hommage) といった音写のジ・ジュ "ji" vs."ju"の差があるなど、恣意的な側面にも注意されたい。

こうした拡大案が許容されるならば、う段の音は日本人がう段の音と知覚できる限りは微細な区別を適用できる。
他の発音も同様に、便宜的な変更がありうる。

例えば:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞, o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ, ɔ], close-mid vowels [e, o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段・う段の音についても、あ段の反対で広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ, ʊ]) を用いる選択肢を持つ。

そうすると「日本語の日本語らしさが崩される」と、現代における保守的な立場からは疑問視を受けると思う。
しかし、現代日本語に至る歴史的変遷の観点、または現代日本における方言の発音の差異など様々な事項の考慮によって、歌唱用の発音における便宜的な変更は日本語に悪影響を及ぼさないと思う。
いわば水道水の塩素系消毒剤、街中の排気ガスの蔓延などの現象の言語版があり、それが既に世間の大衆文化に見られる。
文学の修辞や著名人の発言や大衆音楽の歌唱の不自然さ・・・。
それらに比して、私は規範を意識しながら規範以外の方法を用い、必要に応じて規範を明示する用意がある。
教育や倫理の観点も多々考慮しながら、私の創作がされてきている。
話が脱線しそうであるが、楽語共調理論は「学問知識を用いた芸術の技法の一種」であろうが、最終的に大衆文化の再検討と創出とを視野に入れて問題のない作りであると考える。
どちらにしても、外国語発音についての豊富な知識と経験のある者が、理論的に日本語の歌唱の発音を検証しなおして彼自身の納得・自己満足に繋がる必要がある。

あ段 /C + a/ の音は、先に挙げられた「便宜的な変更」の例に加えていない案もある。
「~た(現代語の過去形/完了形の助動詞の終止形。連体形を含む)」「~ら(現代語の動詞の未然形/已然形/仮定形に伴う形態)、~ば(仮定の助詞)」のような歌詞の一区切りの部分で登場するものが、その歌唱の音符–ノートの音高–ピッチが相対的に下がっているものがある。
そのように「相対的に低い/下の音高」でありながら広母音の音素が登場することが避けられない場合、口の広狭(舌の低高)を中性化するなどで負の効果を低減させる方法が提示できる。
この歌唱の際の母音は [ɐ] (near-open central vowel) や [ɜ] (open-mid central unrounded vowel) [ʌ] (open-mid back unrounded vowel) に近似する。
既存の例でさえも、日本のポップスでそのような発音はよく聴かれている。
それらの歌い手または音楽的監督者は、明瞭に「-ア [ä]」を発する場面を制限している、とは踏み込んだ言い方になる。



認知的「ん /N/」と成節子音 [m̩] [n̩] [l̩]

先の記事で、日本語音韻論でいう「撥音」について以下のように記した;
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。

当時の私にとって、 /n, N/ は閉音節と二重子音の形でのみ歌唱において実現されてほしいということであったし、一般的な母音と比べてフォルマント研究が一般的でないことから、先の記事で考察の対象としなかった。
この「撥音」は、前後の音の如何によって多くの音声実現があり、音声学的子音だけでなく、鼻母音 (nasal vowel/vowels) の多くの種類も含まれていると分析がされる:
@

これらと、成節子音 (syllabic consonant; ~共鳴音、~響音 -sonorant, -sonant) である [r̩] [m̩] [n̩] [l̩] のフォルマントに関しても、何かしら解析される必要があろう。
私の肉声で録音した後に、スペクトログラム画像を載せるなどする。
行っていない段階で、私の感性に依拠して推定すると、:「撥音」のうち成節子音である [n̩] や [l̩] は三角波 (triangle wave) に近似しつつ肉声の実現としては [u] よりも更にF1, F2 の関係が狭まるか低くなるなどする。
それで私は、[u] のためよりも低い音高のノートに使いやすいと思う。






反対の仮想の手段

先の記事で以下のように記した内容は、いくつもの示唆に富んでいる。
原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。

ここから読み取れる話は、楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知 (cognition) に比例する結果を持っていないということである。
以上の引用の最後に、「広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成する」という、発音と意味との両方とも違和感の伴う歌詞の仮想が例示される。
そのような作詞は、楽語共調理論の反対の仮想に資すると思うので、是非、試していただきたい。
当記事では一つ、それを作って載せる。

言語発音・高低アクセントの要旨と実験 □

まず、音楽ではなく言語発音の回顧を試そう。
「あいうえお・かきくけこ a i u e o, ka ki ku ke ko」の時の高低アクセント (pitch accent) を思い出そう。
この高低アクセントは、大概の人にとってそのまま「いえあおう i e a o u」や「かけきこく ka ke ki ko ku」といったアナグラム(音節・モーラ単位)に適用しうるものと思う。
「あいうえお・かきくけこ・いえあおう・かけきこく」はいずれも、私にとって「ウクライナ [ùkúráꜜìnà](中高型。中高は少し揺れもあるがパレスチナも同様)」と同じであるが、「アルバニア・アルメニア・エストニア [èsútóníá]・リトアニア [rìtóáníá]・ポルトガル [pòrútógárú](平板型)」と異なると思う。
もし適用されるならば、現代日本語の高低アクセントの認知が話者の深層に達していることの表象と考えられる。

続いて、中世の日本の和歌の「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月(明恵上人による短歌;和歌の愛好家はスペースで区切ることを好まないのでここでも区切らずにおいた)」を詠んでもらいたい。
「あかあかや」という5拍(5モーラ)一句が先の、日本語アクセント論での平板型「アルバニア・アルメニア・エストニア・リトアニア・ポルトガル」の音高(ピッチ)で詠まれることは、多くの日本人において有り得ず、和歌には和歌のための音高が適用されて短歌5-7-5-7-7や俳句5-7-5といった種々の拍数の和歌が詠まれる。
楽語共調理論と反対に、これは母音が何であるかを問わない自然現象を示している。

こうして、音楽のノートの音高の上下の周波数に、母音の広狭などによるフォルマント値の関係を見出すことは無理であるという「反対の仮想」も可能になる。
その反論としては「言語音声の高低アクセント(日本語など)や声調-トーン(中国語・バントゥー諸語など)やイントネーション(ほぼ全言語)は楽語共調理論の考察対象でない」となる。
そのまた反論としては「楽語共調理論の考察対象のうちにもし人間の認知機能があるならば、その認知において言語音声の高低アクセントやトーンやイントネーションの知識が潜在的に好悪種々の影響を持ちうるので少しは判断材料に加える方がよい」となる。
現状では、たとえ数学的原理に偏るとしても、基盤の研究として数学的原理や自然現象(ここでは人間の可聴の音=音波・音響)の数理モデルが優先されるのだ、と言おう。



全てが広母音の歌詞を示す。
この広母音とは:第一に標準的な日本語の [ä] 音声のみに制限される必要があり、第二に断り付きで聴き心地のよさを目的とする他の音素 /a/ と知覚される母音音声を混ぜること (e.g. 英語 banana, katana /kəˈtɑnə/, Panama /ˈpæn.ə.mɑː/ のようなものをスペース分かち書きごとに適用してみたければどうぞ断り付きでなさるように) が可能である。
記事の目的のために、歌詞の意味や文法へ注釈の必要を感じないが、一点言うと、動詞の活用形は一部の未然形以外が不能であるため、これで他の活用や連用形名詞化・連体形分詞用法などを行うことになる。
既存の歌詞つき楽曲「交差点」の替え歌であり、そのメロディで歌う:

赤坂宝刀 akasaka takara katana,
頭は八幡高菜 atama wa yawata takana,
貴方が語らばまだ花だ anata ga kataraba mada hana da,
夜叉は魔羅から欠かな yasha wa mara kara kakana,

中々長や坂や nakanaka nagaya sakaya,
渡らば川は赤や wataraba kawa wa akaya,
偶々誤りゃ明かさな tamatama ayamarya akasana,
性は幻な間差だ彼場帰処 saga wa maya na masa da aba sarana,

肩下がらば kata sagaraba,
業無や薔薇香有らや waza naya baraka araya,
また利関わや mata kaga kakawaya,
何一切可分 ka sabata wakaya, (これのみ意味を注釈すると便宜的にパーリ語を混ぜた和語かつ全て長短無き広母音ということになる:分別されるべき普遍性は何か?{ का सब्बता √分+fem.ईय })

相良ジャワ鎌 sagara jawa kama,
カナダ七夕名は長かな kanada tanabata na wa naga kana,
綿か藁か束か棚田か wata ka wara ka taba ka tanada ka,
誰が屋墓場 tagaya hakaba,
沙門ならばだ空だ機会時間 samana naraba da kara da samaya kala.

楽語共調理論の立場で、これ(「交差点」の替え歌)を聴くならば、メロディライン・ボーカルフレーズの音高に不調和な歌詞が乗っていることになる。
多くの人にとって「交差点」の歌詞とこの替え歌の歌詞とのどちらがメロディを妨げないものか、考えてもらうことが、楽語共調理論において、一つの社会科学的な見地での検証法である。
非日本語話者の場合(未収得言語での歌詞を聴くこと)はともかく、日本語話者はどうしても言語音声から意味を想起するであろうという、意味の有無に関する問題(cf. 生成文法など言語学で有名な"Colorless green ideas sleep furiously"; 意味が無いまま文法が成り立つモデルとして考案された例)も慎重になるが、今は論じない。

先の和歌「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」ついても、和歌のための音高・ピッチが日本人に定着していることを示すものであって音楽の歌の比較に用いられると思う。
逆に「あかあかや... (月までの計29モーラ)」の音高を平板・平坦にして詠んでみる方法をすれば、これは楽語共調理論の立場での仮想になる。

上記の、「全てが広母音の歌詞」においては子音フォルマントの方も考察してみる価値はある。
「肩 kata」の部分を「束 taba」に置き換えてどちらが任意のメロディの相対的な音高もとい音程に適しているか、と考えるようなことである。
聞く側よりは歌う側の調音部位(主に子音ごとの動作の特徴を持った舌や唇)の運動に関する心地よさに関わる可能性も、仮想の手段になる。
あくまでもその「特殊な歌詞」のためであれば、「子音のフォルマント」は現状で楽語共調理論の説明対象に無い事項である。

ノートの音高側に合わせて認知的「あ /a/」の音声実現を変更することも考察してみる価値はある。
先の記事に以下の説明がある:
種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。



音高の上下を母音で認知する際の母語音韻の影響&個人差

日本人は日本語の基本的な5母音が、「手に取る範囲にある」ように、音高の上下の母音に対する認知に用いやすい。
決して英語の音韻論における英語の母音 (e.g. [æ], [ɪ]) を浮かべないであろうが、英語に堪能な人であれば十分にありうる。
私の場合、音声学の知識が深いので、色々な母音の選択肢を持っている。
それは多言語的であるために個別言語の虚無にも類する。
しかし、母語は母語として影響が大きいし、多言語のためには個別言語の「音韻パック(セット)」というものも用意されている。
そこに、「日本語スイッチ」や「英語スイッチ」を設け、出力を切り替え、聴いているメロディフレーズを色々な母音で自然に認知することになる。
自分で作詞する際は、何度も音楽の作詞の型になるボーカル用メロディフレーズを聴き直して広い選択肢から吟味する。


英語版Wikipedia - oldid=925307085, Eine_kleine_Nachtmusik#I._Allegro に載る画像

それにしても日本の子供がモーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart) の Eine kleine Nachtmusik (I. Allegro) を聴いて最初のフレーズを"baka, aho, doji, manuke"と言語音声に変換する現象は、"baka"以外の語の母音の広狭が割と認知的ノート単位の音高・音程に通じている。
考え方の一例に、2音ごとに区切って解析すれば、"ba-ka"/a-a/ノート音高は上–下、"a-ho"/a-o/ノート音高は上–下、"do-ji"/o-i/ノート音高は上–下、こじつけになるかもしれないが"ma-nu-ke"に関しては前の"ji"を合わせて"ji-ma"と"nu-ke"に変えてこれらの音高のノートは下–上、下–上という具合に相対的な上下の解析ができることを、ここで言いたかった。
恣意的な側面もあるが、考え方の一例で示した。
この場合は、「ニノート間解析 (dual note analysis または interbinote analysis)」とでも呼ぶことになり、元の記事に「『母音の広狭と音高の上下』の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである」と記した「相対的な音高」の解析の基本的な手段に当たる。
ついでに言うと、同じ音高の歌詞ノートでは「中」または「平」とする。

この Eine kleine Nachtmusik 以外に知られる、歌詞なしメロディに対する日本語での空耳の例:「らららコッペパン(らき✩すた 劇中BGMに対するもの, ネット上では作品ヒロインがチョココロネを持つシーンの改編でコッペパンを持つ画像が見られ、作中にコッペパンは登場しない)」、「金のごまだれ(小林明子「恋におちて -Fall in love-」のイントロのメロディに対するネット上での空耳の例だと思ったが、TV CMでの替え歌が発祥らしく違う)」、「デデドン!(Nash Music Library の作品の一つに対するもの、子音に関してオケヒの音ではよくダ行音が当てられる)」
音楽以外のメロディ様の音に対する日本語での空耳の例:「カッコー(かっこう、カッコウ、鳥 Cuculus canorus の鳴き声の擬声語)」、「ホーホケキョ(ウグイス、鶯、鳥 Horornis diphone の鳴き声;現代日本語では声門と軟口蓋という調音位置の近い子音を使うが、江戸時代の途中まではホが両唇音であったと思われるが、子音は楽語共調理論と関連しないし音声学を議題にしているのでないために問題視しない;「法華経」に託した名前であると考えられるので、確かに例として引用するには不適切に思われる)」

音楽以外では、救急車に対する「ピーポーピーポー」や「ピーポーパーポー」といった擬音語は、先の高い1つのピッチが「ピー /piː/」や「パー /paː/」などとF1, もしくはF2 のピッチが最も高い母音で表現され、後の低い1つのピッチが「ポー /poː/」とF1, F2のピッチが相対的に低い母音で表現されることに、楽語共調理論の傍証がある。



応用

楽語共調理論を逆手にとって、任意の歌曲のボーカルボーカル用メロディフレーズの言語的母音を無くして好みの母音に統一してみることで、音高や音程(高いか低いかはもちろん、どの程度で音高の隔たりがあるか)が把握しやすくなる。
一般的な歌曲は、相対的にとても高いノートに「う」が来ることや相対的にとても低いノートに「あ」が来ることに関して意識的に除かれることはないので、そのような母音を保つと音高や音程が把握しづらかろう。
これは、いわゆる絶対音感の強くない人が耳コピを体感的に行いたい場合の下準備の方法として想定する。
この場合は声量など強勢アクセントに類する機能も除いて平坦化する方が、もっとよい。





理論への全般的な反証

先に「楽語共調理論は『学問知識を用いた芸術の技法の一種』であろう」と断っているものの、科学的方法論を用いて「反証 falsification」を自ら試みる。
複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない要因を示して「反証」の可能性を模索しよう。

母音のフォルマントが何らかの楽器に相似する可能性の検証

先に「楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知に比例する結果を持っていない」と記したが、「数学的原理」について用い方を上手く広げれば「例外」と思しき事柄も「枝葉の例」にまで理論化できると思う。
イの発音を材料に、知覚の実験をしてみよう。
イの実際の音声 [i] は、非円唇前舌狭母音 close front unrounded vowel は先の記事でもフォルマントの一研究"Catford, J. C. (1988)"に示された標準値が F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) である。
私にとり、これは楽器音声だと任意のシンセサイザーによる鋸歯状波 sawtooth wave(のこぎり波・鋸波)に似ると思う。
「似ると思う」という印象によれば、正弦波 sine wave は円唇後舌狭母音 [u] ... F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz) となる。
言語音声と楽器音声を、音声波形やスペクトログラムで見て、実際に言語音声の母音フォルマントと相応の類似性があると判断できる場合、類似性のあるもの同士は聴覚的に似たものと認知できる可能性がある。

先に「非円唇前舌狭母 [i] は任意のシンセサイザーによる鋸歯状波、円唇後舌狭母音 [u] は任意のシンセサイザーによる正弦波」と趣旨を記したが、私が個人的に言語音声と楽器音声を検分して、言語音声の母音フォルマントは楽器音声と比較するのに向いていないように見えた。
私の地声での母音言語音声の波形は、[i] の時に正弦波にフォルマント差による縮れた形状が乗り(譬えると250 Hzの波に10分の1の周期を持つ2,500 Hzの波が伴う状態)、[u] の時に三角波のような形状が見られ、[o] の時に最も正弦波と似た形状が見られた。
この結果で、言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも、類似性の認知に対する影響は極めて小さいと判断する(認知機能においては比較材料の多寡が類似性の認知を左右する側面もあるためかなり個人差がある点は別に考慮)。
母音フォルマントよりも、発音する人の「声色」という一般的な特徴の方がまだ、楽器音声の音色との類似性の認知に関連しやすいと考えたい。
記事の本題に寄せて言えば、楽語共調理論の反証に、任意の楽器によるボーカルフレーズの再生行為が、「複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない部分」を暴くことに用いることはできないし、「言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも」。



これらが把握された上で音高の相対的上下について再確認

何らかのメロディアスなフレーズのある楽曲(ボーカルは代用の楽器–インストゥルメントに置換する)を、日本語でも英語でも、即興で母音重視の歌唱をする。
…という方法がある。
これは私が2011年以降に多く行ってきたことであり、楽語共調理論の案に繋がるまでの糧になったことでもある。
私が何かしら、題材になる曲を示した方がよいが、当記事で特別に視聴可能な形で用意するつもりは無い。
例の通り、Sundarknessや活動全体で公開された音楽作品から、気にいるものを見つけて試すとよい。
YouTube - Sundarkness: https://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos
YouTube - playlist: https://www.youtube.com/playlist?list=PLbz1d6dAQMeV79W5OCLkvtos-Z9EM69CE

あえて1曲を題材に考えよう。
とある他者の曲で個人管理楽曲識別番号: 468 (BPM: 120, 拍子: 4/4)は、曲名が"Happy Sunday"であり、歌い出しが"Happy Sunday"と歌うこともできるフレーズになっている。
楽譜やピアノロールを示さないでノートを近似的に示すと:4分休符、8分音符-F#、8分休符、4分音符-E、4分音符-G、4分音符-F#である。
ニノート間解析で:"hap-py = Ja: hap-pī"/a-i/ノート音高は上–下、"sun-day = Ja: san-dei"/a-e/ノート音高は上–下となる。
ノートの上下感覚とどのように合うか、実際に聴いて歌ってみよう(2020年3月11日時点で未公開)。
日本人作曲で英語タイトルであり、日本語のカタカナ発音「ハッピーサンデー [häpʲːiː sände̞ː]」または「ハッピーサンデイ [häpʲːiː sände̞j] (この場合のイは無母音の硬口蓋接近音 [j] または二重子音 [i̯] で音節理論における前の母音と同じ音節とみなす)」とするか、英語GA/RR発音/ˈhæpiː ˈsʌndeɪ/に近似させるか、考えることも楽しい。
なお、これにも反対の仮想ができる。
英語には強勢アクセント (stress accent) があり、見事に"Happy Sunday"の強勢 ˈ と歌い出しノートの相対的に高い部分に一致している。
作者が強勢アクセントを意図したか深層で意識してノートをアクセントのある音節が高くなるように配置したか、歌い出しの歌詞にできる言葉を選んで曲名にした、という可能性もある。
作者の音楽的心理を詮索する目的でこの文を打っているわけでないが、題材を他者に求めて分析する方法に、この慎重さも必要であることを示した。






起草日: 20191107

2019年11月24日から2020年2月XX日までの時間は、この記事に手の加えられることが全く無かった。
この間では、当ブログのラベル「音楽」の記事として音階理論を説明した記事も書かれている。

表題に言う「拡大」は、端的に「日本語に対する楽語共調理論の拡大案–5母音の音素の音声的実現の範囲の拡大」を指している。
本文中から要約すると:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞], [o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ], [ɔ]; close-mid vowels [e], [o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段 /C + i/ ・う段 /C + u, ɯ/ の音は、広狭について狭母音 (close vowels [i], [u, ɯ]) の他に広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ], [ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
相対的に低いノートの音高にあ段 /C + a/ の音の歌詞を当てる場合は、広狭について相対的に狭い母音 ([ɐ], [ɜ], [ʌ]) で中性化する選択肢を持つ。外来語借用語などの語源意識をその単語に適用したい場合に、言語の無母音箇所に挿入された母音(い段・う段・お段)は曖昧母音として捉えて可変性を与える(すなわち音素 /ə/ に置換して「前後の母音に近似する母音」か「中舌中央母音 [ə] に近似する母音」で実現させる)。

これらのために「反対の仮想–反証」なども行って精査していた。


2020年2月29日土曜日

閏年–うるう年、2020年の閏日–うるう日 (leap year 2020)

閏年テスト記事

958F

ワード「閏(うるう)」

漢語(漢字の意味論、中国語)
閏…字形としては「もんがまえ+王(おう)」である。音韻としては:日本語の漢音で「ジュン jun」、呉音で「ニン nin *nyun /njun/」、現代中国語普通話の拼音 Pinyin で"rùn" /ʐwən⁵¹/である。「王」の字形はあるが、韻は「王」と異なる。簡体字の「闰」などUnicodeで符号化された異体字は数種ある (䦞 閠 𥹿 𨳝)。説文解字には「餘分之月、五歳再閏。告朔之禮、天子居宗廟、閏月居門中。从王、在門中。周禮:閏月、王居門中、終月也。如順切。」と解説される。王または天子と呼ばれる人物が門(宮殿というよりは引用された「宗廟」?何か目的がある?)から出ずに「いる(居る/居座る)」期間を指す、と読み取ることになる。しかし、:先にその期間を意味する字「閏」がある後から「うるう=任意の年に天文学的な原因から挿入された時間」の概念のために当てたのか?もしそうであればいつからか?もしそうでなければ字の構成から推定しづらい別の由来(民間語源 folk-etymology の方法で想像しづらいもの cf. 仮借、当て字)があるか? といった特定は、漢籍などから詳細な調査を要する。

なお、現代中国語で、「任意の年に天文学的な原因から時間を挿入する行為=任意の暦においてうるうを置くこと」はそのまま「置閏」と呼んでいる。…と思ったが、百度百科の「闰日」という記事には「别称 置闰」とあり(リダイレクトページ経由では「同义词 置闰一般指闰日」とも表示される)、行為ではなく行為で置かれる側の「うるう日(もちろんグレゴリオ暦–格里高利历によるもの)」を指すとしている。



和語(やまとことば、日本語)
うるう (uruu/urū)=閏…漢字の字形として似る「潤」の訓「うるお-う (uruo-u 潤う)」の転訛。漢語から借用して (loan) 訓 (kun) を当てた例であろう。いつからかは不明(文献的に平安時代か。更に可能な古い時で遣隋使や大化の改新でもありえてそれ以前という人もいるとしても有効な証拠があるかどうか)。「うるう月(閏月)」を伴う暦は、中国からもたらされた伝統的な暦(いわゆる旧暦。種類は多数だが大まかに太陰太陽暦 lunisolar calender を指す)である。現代に、グレゴリオ暦でおよそ4年ごとに加えられる1日を「うるう日(閏日)」と呼ぶ。



英語 (English)
intercalation … ラテン語由来(動詞 intercalare, intercalo; inter- + calo 直訳で:間に+呼び出す。時代用例は未調査)かそのような形態で構成される。これは任意の年に天文学的な原因から時間を挿入する行為を指す。日本人にとって「『うるう』は『うるう日』と『うるう年』に見られる2種の用法がある。多義語か?挿入の手段である時間に対しても、その時間が挿入される期間に対しても、『うるう』で複合語を作るようだ」と考えられるが、英単語"intercalation"は行為を指すと分かる。"intercalation"の訳語は「置閏法(ちじゅんほう)」と考えられる。

いわゆる「うるう日」は"leap day", 「うるう年」は"leap year"(同じく「うるう秒」は"leap second")と呼ぶ。"leaping"や"leaped"のような能動–受動の分詞に語形変化をさせていない。この用語法"leap"を見ると、日本語の「うるう」と同じに見える。日本語に「うるい日」や「うるわれ年」という語形変化が伴わないように。「うるう」については、英語に対して日本語が意味借用 (semantic loan) の一種を持つように見える。

leap … これは「最も多いうるう日=グレゴリオ暦の2月29日」の存在によって曜日の周期性が1日分リープする/飛ぶことに由来する。例えば、クリスマス(聖誕)は12月25日(主にカトリック)に決まっている場合:2014年に木曜日、2015年に金曜日、2016年に日曜日と1年ごとに1日送りであるはずの曜日がうるう日によって2日送りになる。それはOEDなどの辞書にそういう見解が載っているというもので、有効な文献の証拠があるわけでない。
Word Origin
late Middle English: probably derives from the fact that feast days after February in such a year fell two days later than in the previous year, rather than one day later as in other years, and could be said to have “leaped” a day.
— leap year (noun) - Oxford Advanced Learner's Dictionary

cf.,

汉典 (zdic.net, 説文解字注や康煕字典なども掲載) - “閏”字的基本解释.

Unicode.org - Unihan data for U+958F.

百度百科 - 『闰』142993738版, 『闰日』136716246版, 『置闰法』135863740版.

日本語版Wikipedia - 『閏』頁oldid=61477635, 『閏年』頁oldid=75587347.

英語版Wikipedia - "Intercalation (timekeeping)"頁oldid=933049803, "Leap year"頁oldid=939186126.

英語版Wiktionary - 『閏』頁oldid=54575300, "intercalary"頁oldid=55359972, "intercalate"頁oldid=55323787, "intercalation"頁oldid=54545545, "leap day"頁oldid=54446329, "leap year"頁oldid=58065549.

OUPblog - What is a leap year? 2012-02-29. https://blog.oup.com/2012/02/what-is-a-leap-year/ .



注意事項がある。
「グレゴリオ暦でおよそ4年ごとに加えられる1日」などのように簡易に記した情報に関しては、用語の歴史経緯と別の話(現代的な運用や計算方法など)なので詳述しない。
上記のリンク先など外部サイトで調べてもらえばよいと思っている。



起草日: 20200205

📅閏年テスト記事である。
当記事の調査–執筆は、和語→英語→漢語の順番であるため、説明に関して全てを読むことで相互に補完されることになる。
掲載順は起草の当初から漢語→和語→英語である。

太陰暦–太陰太陽暦の「閏月」と現代の「うるう秒」についての言及を持つ過去記事が当ブログにある。
2017-07-21記事『時間 "kāla, samaya, 迦羅・三摩耶" と仏教 (仏教の時間論)』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/time-kala-samaya.html

2020年2月12日水曜日

数詞・人名… 「西洋式と東洋式の語順」について追記されてもよい例

当ブログ2019-03-05記事からの話題;これらに見る課題を詳細に研究し、まとめて誰かが偉大な論文や著作を書いてみればよかろう。



「波斯匿王(はしのくおう)=コーサラ国王パセーナディ"rājā pasenadi kosalo"」に関する復注

 参考までにスペイン語 (Spanish, Español) で「イタリアのマッタレッラ大統領 or イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏」を表現すると"el presidente italiano, Sergio Mattarella"となる。ポルトガル語 (Portuguese, Português) で「アメリカのブッシュ元大統領(子の方)」を表現すると"o ex-presidente americano George H.W. Bush"となる。同様に「アメリカのトランプ大統領」は"o presidente americano, Donald Trump"である。これらはイタリア語で表現しても同じような語順になる。コンマ (, comma) の有無が実際の使用例によって分かれることはここで論じない。



2020年1月16日の注釈(案)

 数詞「12 (十ニ)」は日本語で「ジュウニ jūni, とおあまりふたつ tō amari futatsu」と言うようなことが、東洋式と西洋式とに区分できる。日本語・中国語・朝鮮語は共通の東洋式になる。インド・ヨーロッパ言語では、サンスクリット語dvādaśa द्वादश, ラテン語duodecim, 英語twelve など、"ten-two"(ten + two) ではなく"two-ten"(two + ten) のようにされる。インド・ヨーロッパ祖語も同様ではなかろうか、として推定される。西洋式はアラビア数字の表記と合わないし、和算 (sum) に適していないと考えられる傾向にあり、国際補助語(人工言語の一種)ではエスペラント語dek du, イド語dek-e-du など東洋式にされる(ラテン語deca = 10と duo = 2に当たる語句が12のためにduo + decaではなくdeca + duoとしてラテン語と逆になっている)。面白いことに、「16, 17. 18 (十六・十七・十八)」に関してはラテン語とイタリア語とフランス語のような親子–兄弟(イタリック語派–ロマンス諸語。ただしイタロ・ダルマチア語 Italo-Dalmatian, ガロ・ロマンス語 Gallo-Romance など更に細分化もある。ラテン語も厳密には古典ラテン語が想定される)の言語間で異なる様式がある。La: sedecim, septendecim, duodeviginti (18は20引く2で表現 cf. 19 = undeviginti); It: sedici, diciassette, diciotto (16–17でdiciの位置が変わる); Fr: seize, dix-sept, dix-huit (一見seizeは疑問だがイタリア語に同じ。ハイフン有り). 三者三様かつ、一者のうちでもイレギュラー irregular な命数法が伴っていると分かる。
 cf. 英語版Wikipedia - "List of numbers in various languages" oldid=935245993. 今は例示しなかったドイツ語や朝鮮語–韓国語やアイヌ語の例に限らず、非常に色々な例が見られるが、出典は無いに等しいため、各々が個別に調べ直すとよい。
 認知心理学などの学者 (Iro Xenidou-Dervou, Ann Dowkerら) が言語の数学に対する影響の研究をし、東洋式と私が言うようなものの方が児童の算数–数学の成績に良い結果をもたらすとしている。報道例:"Why you might be counting in the wrong language", BBC Future. by Anand Jagatia (この人名を論文姓名表記にJagatia, Anandと改めるページがインターネット上に見られる)
 数詞の西洋式についても「原初–起源」を推し量るならば、地名や日付と同じく「小さいものから大きいものへ」という判断基準の適用を考えることができる。もう1つの判断基準に「一から十とされる範囲を繰り返す方が行いやすい」というものがある。ここでは、現代アラビア数字「10」とすると0表記ありきの先入観が反映されるので漢数字に「代入」してみる。彼らの手に取る範囲の事物もとい日常的な思考に関わるものとして二十以下の数は「一から十とされる範囲を繰り返す」ことが許され、単に十台 (-teen) であることが分かる形態が伴えばよい。二十以上は日常的に考えなくてよい。しかし、時には二十以上が必要である。そういう場合はどうか、現代人の私が判断材料を探る。三十二–三十三–三十七のためにサンスクリット dvātriṃśa द्वात्रिंश, trayastriṃśa त्रयस्त्रिंश, saptatriṃśa सप्तत्रिंश, という数の表現を用いている(仏教用語の三十二相–三十三天–三十七道品などを参照。同じ用語がパーリ語にもあって比較可能)が、これらを見ても低い桁の数の後に高い桁の数を言う「小さいものから大きいものへ」・「一から十とされる範囲を繰り返す方が行いやすい」という基準の方法になっている。他の例で三万ニ千人いることに「(二+三×十)×千 (two plus three times ten) times thousand」のような表現があったりする(e.g. 1999年にチベットで見つかった維摩経写本: dvātriṃśatā ca bodhisatvasahasrair... 鳩摩羅什漢訳=大正蔵17巻537頁a段:: 菩薩三萬二千)。仏教で定型的に見られる「八万四千」という数は、大乗仏教の脈絡に見る「八万四千法門」以外にあるか探すと、パーリ経蔵・長部17経 Mahāsudassana Sutta に"caturāsīti thambhasahassāni"(中阿含経=大正蔵1巻516頁a段: 八萬四千柱) が見られた。これらはいずれも千にあたる数詞 sahasra, sahassa が数量化される語句 bodhisatva, thambha を隔てて後側に伴う。



旧世界–ユーラシア的な範疇の二項対立に思われそうである。
英独仏や日中韓を一括りにすることを嫌う人がいる。
しかし、便宜的かつ人名にあやかった科学用語のようなもので、ステレオタイプなどの偏見を催すように思われても「東洋式」・「西洋式」という呼称を用いる。
一般的に理解の得られそうな(ポピュラー popular だが)東アジア言語とヨーロッパ言語が中心的に提示されている。
興味のある人がアフリカ大陸や南北アメリカ大陸(アメリカ州)の「エスニックな言語(帝国的な目線での表現)」についても、データを徹底的に調べて体系的にまとめればよいと思う。

当該記事2019-03-05と当記事で「東洋式」・「西洋式」とくくることにした語順は:
・地名 toponym, place name, placename
・人名=姓名 human name, personal name, full name; first–last, given name–surname
・日時=日付と時刻 date and time
・数詞 numeral, number ←New!

「波斯匿王(はしのくおう)=コーサラ王パセーナディ」は同格表現であって文法的な語順–統語論 (syntax) に関わってくるし、インド・ヨーロッパ系の諸語は古典語であっても同格表現の語順に相違がある。
しかし、これに関しても東洋式と西洋式とで対立的な傾向が強いことがいくらかの文献の例示で分かる。
インドが地理的にも語順に関しても中間的であることは当該記事にも示された。

名称は"eastern-western"方式と"oriental-occidental"方式のどちらがよいかは、前者が直感的であると同時にオリエンタリズム orientalism の連想を回避しやすいので、私は前者を選ぶ。
大文字と小文字 (upper-case or lower case) については、標準的に小文字を用いる。

「西洋」は地理的・文化的な範疇を通時的に括るわけでない。
西洋言語の影響下であっても、後世に国際補助語エスペラントの数詞や、ISO 8601による日付表記や、論文の姓名表記などに東洋式で反映された例は示される。

2020年2月5日水曜日

音楽における「和風」議論 ~ 短音階第六音を抜くことの多寡

和風およびエスニックの音楽の特徴に、五音 (pentatonic) という簡素な音高 (pitch) の数で構成される音階 (scale) が挙げられる。
その本源は各種楽器の調律-チューニング tuning の結果として1オクターブあたりの音数の制約があったことと考えられる。
デジタルな制作環境 (DAW, digital audio workstation) でも、その雰囲気は作曲者の感覚または理論から保持される傾向にあるが、七音音階 (heptatonic scale) によるメロディに親しんでいる側面から六音 (hexatonic) が多いか、好まれやすい。
※当記事でいう「音楽」は特筆しない限り、現代の日本の音楽シーンが位置する大衆音楽–ポピュラー音楽 (popular music) を意味する。厳密な定義は困難だが、厳格な伝統の守護の意識が無いなどの点で、そう考える。

当記事は、私がそう結論を得るような研究した経過と結果で構成される。
昔からの経緯を、まず、示す。

某サイト作曲者「らい○」について、2015年8月に私はSU名義(らい○同一人物)とSRS名義(らい○同一人物か疑問の余地)の活動を検証した。
そこ (音楽館 2015-08-30記事) で、以下の情報を書いた。
・らい○時代の2011年1月1日に投稿されたトランスの楽曲では「和風」を称していたが、和楽器を用いていないもので、アンチから「どこが和風ですか(★1評価)」と苦言されて以来、和風曲の解釈に苦しみ続けているようで、SRS名義でも「和風なのは曲じゃなくて雰囲気」と予め断ったロック曲(13年6月)がある。

※「苦言」は疑問符が付いていない疑問文の形式を取り、「どこも和風でない」と言いたい婉曲的な否定の文であろう。らい○本人は「主メロが和風」、「ピアノを琴 (koto, 和楽器の一種) にしようか迷っても楽器でごまかすことはよくないと思った結果」という趣旨を含む低頭の返信をしていた。



らい○ちゃんの「和風曲の解釈についての苦悩」について、一つの説明ができる。
2019年12月15日に私が思い当たることを調べた。
問題の「らい○時代の2011年1月1日に投稿されたトランスの楽曲」の主旋律–メロディ (main melody) は「ニロ抜き短音階(二六 niro 抜き)」に近似していると分かった。
この曲の調(キー key)は嬰イ短調(変ロ短調ともいう。英: A#m, B♭m)であるが、これをイ短調(先の半音のみ低い調。英: Am)に移調すると、本来七音の音階(ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ = A B C D E F G)であるうちの六音(6つ)のみが使われ、使われない一音は第六音 (6th)=ロ(ファ F)である。

 i.e., A B C D E G A… = ラ・シ・ド・レ・ミ・ソ・ラ… (古い音名でイ・ロ・ハ・ニ・ホ・ト・イ…とも表現できるが後述のように、ロ短調と呼ぶようなイロハ式のときのロと二六=ニロのときのロは別物である点に注意)

このような近似ニロ抜き短音階…、ここで厳密に言うと「短音階第六音を除いた音階」の楽曲は東方Projectの曲に多いとして、説明するページがある。
ニロ抜き短音階の考察 - ZUN氏作曲音楽データベースWiki
https://w.atwiki.jp/tohomusicdb/pages/505.html
そこでも例示された「明日ハレの日、ケの昨日 (th10_14)」と「旧地獄街道を行く (th11_06)」を同じようにイ短調にすると、同じく主旋律で使われない一音は第六音=ロ(ファ F)であった(ニロ抜きというがニもといシ Bはそこそこ出る)。
ここでの検証方法は有志作成MIDIファイルの利用によるが、興味のある人が各自で調べるとよい(上2曲については動画で説明する人がTwitterに見られた 1, 2)。
当方ID(私による管理楽曲識別番号。初のらい○記事2014-10-04にも載る。らい○ちゃんの2011年1月1日トランス曲は439)で、和風のトランス楽曲162-163も同じであった。
以上も以下も、注意してほしい点は「短音階=自然短音階 natural minor scale(3種の1。長音階は1種類のみ)」ということと、「あくまでも主旋律のみが対象(伴奏のベースやアルペジオやコードなどは必ずしも当てはまらない)」ということである。



さて、SRS名義での「和風なのは曲じゃなくて雰囲気」(2013年6月) という発言についても思い返そう。
らい○名義・SU名義・SRS名義の全期間において、あまり音楽理論(音階理論や和声理論)は言及されなかったが、このような「和風議論」において音階の側面でも優位な一面があると私は感じた。
なお、東方Projectの曲に多いコード進行VI→VII→i (短調での話。e.g. Am = Cが調の時 F→G→Am) をも、この「らい○時代の2011年1月1日に投稿されたトランスの楽曲」は踏襲していた。

東方Projectのゲームや音楽の作者であるZUN氏(太田順也/博麗神主)は「和風」についてどう楽曲に反映するか?
東方文花帖(同名のゲームもあるが2005年8月出版の書籍の方。ISBN 9784758010375)における「幻想の音覚」の中で、彼の「プレインエイジア (th08_07)」という曲のコメントにこう書いている:
 これこそが日本人が見た日本だ、という意気込みで曲を書きました。純邦楽と言われる曲がありますが、アレは完全に作られた日本なのではないのかと思う。日本人は歴史の物の成長を再開させた様に見えて、その実は歴史と現代を分け始めた。本当は、現代風の手段をもってして、自然とどこかに日本が入ってくる事を目指すべきだと思っています。
 この曲は今の私が考える日本の曲。別に三味線や尺八に拘るわけでもなく、日本ならではの音階を使うのでもなく、ある物で表現する。こういう曲を聴くと、日本に生まれて良かったという幻覚を見る。えっ幻覚?いやいや、幻覚は思い込みなどではないのです。
引用元:东方文花帖(书籍)/幻想的音觉/中日对照 - THBWiki ※リンク先のサイトのコンテンツはフェアユースの範疇でないかもしれない (It may not be fair use)。他に英語サイトなどで載るが、私に原文を検証する手段も無いので、信憑性は読者に任す。

私の記憶を出発点にしてから、「あたかも自らが作曲したかのように滔々とコラムを書き連ねる博麗神主」というような内容を見直した。
これを引用する場面なのかと悩んだが、一応した。
「三味線や尺八に拘るわけでもなく、日本ならではの音階を使うのでもなく、ある物で表現する」という「ある物」は、彼の作曲環境と彼の感性とであろう。
ここで革新的に彼は、合理的な復古主義(近世や近代ならではの科学的なもの)を批判しつつ、彼の生まれながらの感性と自由な学習による音楽性と言語表現とを用いることを是としていよう。
それを日本の「無思想の思想」にも比較してみよう。
作曲環境において三味線や尺八は使用可能であるし(GM音源にShamisenとShakuhachiがある。彼の持つハード音源SD-90プリセット名にも当然ある)、音階についても意識的に用いることは可能である。
典型的な和楽器のインストゥルメントや、和楽器の調律に基づく日本音階(英語版Wikipedia - Japanese musical scalesに色々と載っているが信憑性は不明)を、確かに彼は使わない傾向がある。
ところで、その「プレインエイジア」という曲も、やはり主旋律は六音のみの音階であって短音階第六音が用いられない(i.e. ヘ短調 Fm であって第六音ドのシャープ C#が用いられない。調をイ短調にするとイ短調の音階の第六音ファ Fが用いられない)。

ZUN氏の、2005年8月当時と近い時期の説明も少し参照されたい。
 さてに曲。曲の方もますます独自の世界に入っていきたいと思いつつ。全体的に曲も東洋風を意識しています。東方なんだからね(笑)
かといってこてこての和風過ぎるのも好きではないので、どこか懐かしい感じを受ける程度に東洋風だといいかな?って感じにしたいところです。
- 東方妖々夢 体験版Plus おまけ.txt (web上からの孫引き)

 それにしても、いつもは西洋風の曲を創っても、何処かしら東洋風の雰囲気が混じるのですが、今回は東洋風に徹しても、何処かしら異国風になっているような気がしてならない。
 決められたものを決められた通りに創れないのは、プロフェッショナルでない証拠ですね(^^;
 和洋折衷、ということで・・・
- 東方妖々夢 おまけ.txt (web上からの孫引き)

他に気になれば"Music Room"コメントなどを「和」などのキーワードで探してみるとよい。
単語例として「和洋折衷」については「紫(筆者注:キャラ名 Yukari)の場合、和洋折衷じゃ駄目なんですよね。分離したまま一つにしないと、肝心の境界がなくなってしまいますから。(東方萃夢想 "夜が降りてくる ~ Evening Star")」、「この曲は私なりに最大限の和洋折衷を目指した曲です。(東方永夜抄"夜雀の歌声 ~ Night Bird")」といった具合に用いられる。
話がそれたので少し戻すと、らい○ちゃんの思う「和風」とは、ZUN氏の音楽性や言語表現に見る「和風」に近いと思ってよい。
これは東方界隈やボカロ界隈が詮ずる所、日本の大衆文化 (popular culture, pop culture in Japan) の中にあるという点で括れば、それで済む話になる。
実際のところ、2011年1月1日トランス曲も、SRS名義2013年6月の曲も和楽器を用いないが、らい○2011年以前には三味線や琴や尺八などがID: 861 893 894で使われる(和楽器はしばしば某サイト曲において他のエスニック系インストゥルメントや笛についてのフルートやパンフルートやオカリナやピッコロやカリオペリードで代用される)。
SRS名義2013年6月の曲「雰囲気が和風」とは、せいぜい曲名や歌詞ということになる点で、ZUN氏と異なる側面もあると結論付ける。



一般的な音楽での結論:
「和風曲」の音階理論におけるエッセンスは…
十二平均律の観点での短音階第六音=長音階第四音抜き、となる。
本来は和楽器やエスニック系の楽器の調律に依存するが、これらは別の検討方法が必要になる。
簡潔に言えば、和風曲では1オクターブ中に使う音高を6つ(できれば5つ)に制約するとよい。

早い段階で「一つの説明」と言ったように、これらはいくつか条件 (conditions: harmony-scale-tuning) が確立されている上で与えられた分析結果の説明であるため、普遍的であるとは限らない。





付録
主旋律(メロディライン)に用いられる音の音高の数により、私の管理データの楽曲の識別番号を区分してみる。
ここでは例示程度の曲数からそのような区分をしてみる。
識別番号 (数字ID) に「上n」または「下n」を付随し、イ短調またはハ長調に移調した際、上げたか下げた半音の数を表示した。
「314下5」であれば、原曲314の調がニ短調 (Dm) であるところを半音5つ下げてイ短調にしたものだ。
「平」の場合は、移調なく(イ短調・ハ長調のまま)音階の調査をしたことを示す。
加えて、先の話で「ニロ抜き短音階」といったことを長調に適用すると「ヨナ抜き長音階(四七 yona 和語の数詞ヒフミヨイムナから)」となり、短音階におけるニ・ロと長音階におけるヨ・ナは同じ音高を指す。
つまりイ短調自然短音階で第二音 (2nd)=ニ(シ B)と第六音 (6th)=ロ(ファ F)はハ長調長音階で第四音 (4th)=ヨ(ファ F)と第七音 (7th)=ナ(シ B)に相当するので、いずれもファ Fとシ Bとが除かれている。
紛らわしいことに「ニ・ロ」は漢数字の漢字発音に由来しており、イロハニホヘト由来の音名 (A B C D E F Gに対応) でニがレ D、ロがシ Bであることと混同しないようにしよう。

私による作曲例も含まれるが、多くは他の個人活動作曲者である。
それについては色々と秘密にする(本当は私的な研究目的のため)。
括弧内に縷々とジャンル名など補足事項を書いてあるが、割と主観的(作者自身の説明や原題に基づく要素もある)なので参考程度にしていただきたい。
前置きが長くなったが、以下から一覧であり、参考のための動画 (https://youtu.be/JOBf018Wv14) も参照されたい。

五音または六音のみの音階で基本的に主旋律を構成する曲:
439下1(本文に言及されるらい○作)
162=163平(本文に言及される和風トランスといえる何か。それぞれ原曲とアレンジの関係)
2平, 629下3, 676下6(黄昏フロンティア東方原作格ゲーのあきやまうに氏・NKZ氏による曲のようなワールド–エスニック系インストゥルメンタル。一説では猫叉Master/佐藤氏の音ゲー曲のようだとも)
74下4, 75上5, 79下1, 96下4, 545上6, 546平サビで上1(東方風)
90上1(東方アレンジ界隈の曲を思わせる。冒頭から終盤まで頻出するフレーズは徹底的にニロ抜き五音で他は六音が基本。ピアノ伴奏・ソロは七音以上を鳴らす部分も)
349下1(東方アレンジ界隈の曲を思わせる。主旋律の大半は徹底的にニロ抜き五音で、Bメロのみ六音と音階の外の音1つで七音。ちなみに一部フレーズは東方原曲「童祭 ~ Innocent Treasures」上6からのオマージュで、その曲も当該フレーズのみニロ抜き五音)
407下1(アニソン風味。長調。第七音を用いない)
467下1(後述のFF等RPGのゲーム音楽に影響された云々の作品群に含まれるが、この曲のみこちら)
492下1(らい○作メロディックデスメタル色の和風V系ロック。短音階第四音レ Dと第七音ソ Gがギターソロ2回分や28-32小節のようなボーカルパート頻出フレーズで抜かれている。ヨナ抜き短音階による五音音階の希少な例)
814平(英語歌詞の洋楽風ロック。短音階第六音を用いないが僅かに七音音階の外の音ファ#とソ#を用いる)
注: 以上は概ね短音階第六音・長音階第四音(イ短調・ハ長調におけるファ F)の無い六音であり、ハモりの旋律は短音階第六音・長音階第四音が現れやすくなる。五音は90や349や492で特筆するほど稀である。74, 75, 79は途中に短三度転調(短三度もとい半音3つ分の転調)が1, 2回あり、いずれも上がるものだが、東方原曲で短三度転調というと「広有射怪鳥事 ~ Till When?」37小節付近と「蠢々秋月 ~ Mooned Insect」26小節付近のように下がるものもある。

基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する曲:
282下6, 526上2, 530上1(らい○作ロック曲)
300下4, 608上4, 820下2, 821平(長調。邦楽ポップ・バラード–ピアノバラード。300, 821は長音階第七音シ Bの頻度低め)
314下5(色々なテイスト。73小節からの主旋律のみ東方風の印象があったが今回の調査でやはり短音階第六音が使われていないと判明。他は七音+ソ# G#)
315平(長調。J-pop風味)
339序奏間奏で下2サビで下5(ユーロビート色のハードコアテクノ風ポップス。BPMとリズムとシンセ音色が「ハレ晴れユカイ」や「魔理沙は大変なものを…」に近似して2000年代のニコニコ受けがよさそう)
435下1, 436上5, 465下6, 466下6(FFに代表される邦RPGの世界観に影響された雰囲気が濃いと同時にハードコアパンクやヘヴィメタルに属するロック)
469下2, 724平(フラメンコ色のワルツで前者はエレキのギターソロ付きハードコアパンク。ボーカルフレーズは両者とも七音音階の外の音が多く用いられる)
504下5(らい○作V系メタル。ボーカルフレーズは短音階第六音の頻度が少なめで七音音階の外の音が用いられやすい)
540下2, 541上5(長調。アイルランド伝統音楽風。後者は現代ミクソリディア旋法またはミクソリディアンスケールと言われる音階"modern mixolydian"に当たる)
726下6(洋楽風ロック)
734平(長調。ポップな矩形波を伴うロック。ループ音楽。最初8小節のフレーズは第二音と第七音が徹底的に抜かれる稀な五音音階)
855下1(長調。オサレ系アニソン風ポップス)
881下3(カンツォーネまたはシャンソンを想起させる・ロマンスあふれるフォークまたはカントリー)
注: 基本の七音から外れた音も伴奏コードに依存して登場する。イ短調は先述の通りラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ = A B C D E F G = 白い鍵盤のみを使うので、これに加わる音は黒い鍵盤となる。典型的にイ短調はダイアトニックコードの一つBmの和音を構成するファ# F#が考えられる。曲によって何の黒い鍵盤が頻出するかが分かれる。465ではソ# G#が用いられ、466ではファ# F#が用いられ、六音が基本の467でもファ# F#が用いられている。ソ Gの代わりにソ# G#を用いる短音階は和声的短音階 harmonic minor scale、そこに加えてファ Fの代わりにファ# F#を用いる短音階は旋律的短音階 melodic minor scale と言われるが、この他の黒い鍵盤の音(ド# C#など)が用いられる場合もある。長音階でも七音の外の音がありうる。場合によっては無調性 atonality や半音階 chromatic scale, chromaticism と呼びうる。もしそう見えても主音 tonic note や終止 cadence などに注目して調を見出すことも可。

基本の七音のうち短音階第六音=長音階第四音を控えめに用いて主旋律を構成する曲:
172下4後半で平(短調。東方風だが特に秘封倶楽部を連想させる。前半部では、伴奏コードのごとく短音階第一音のフラット、イ短調でのラ♭ A♭ = G# が頻繁に見られる)
174=175平(短調。和風トランス。頻繁に繰り返すフレーズ以外は七音)
403上1(短調。洋楽風メロディックハードコア。短音階第二音の使用頻度も低い。なぜか私は噂にあるスコットランド民謡がどういうものか調べたくなった)
544平サビで上5, 705平(短調。東方風)
555下5(短調。邦楽ロックでアニソン風味)
717上4(長調。洋楽風メロディックハードコア。長音階第四音を用いる頻度が低いがそれと同じくらいハ長調でのラ# A#を用いるが伴奏コード依存)
795下1(短調とも長調とも。邦楽メロディックハードコア)

管理楽曲識別番号を用いた例示は以上である。
識別番号による合計の曲数は50 (= 18 + 23 + 9) である。



他に、私の投稿物で今からでも聴ける例を示す:
「ハピコアメロコアメロスピ同盟(仮)」 https://www.youtube.com/watch?v=ecyUbYFg1EQ (平, 短調, 題のジャンル+東方テイスト, 2014年8月–) はイントロのギターソロのみ七音で、ボーカルや残りのギターソロが二五・ニゴ抜き短音階ともいえる五音(A C D F G. 当時の音楽理論理解でミ Eとシ Bを避けていた)で構成される。
「萌通」 https://www.youtube.com/watch?v=L_aKbPZsU1c (下5, 短調, 東方風ジャズ系インスト, 2014年9月–) は六音(調査用イ短調は一度Bmコードの時に主旋律でファ#あり)で基本的に主旋律を構成する。
「大晦日の歌」 https://www.youtube.com/watch?v=Ve3krVxVeQI (上5, 長調, 文語で七五調の歌謡曲, 2015年10月–) は六音で基本的に主旋律を構成する。
「Delightful Sunrise」 https://www.youtube.com/watch?v=VSUm2KE1uDI&t=291 (上4, 長調, ハッピーハードコア, 2016年9月–) は七音で基本的に主旋律を構成する。
「Cupiditas 官能的な牡牛くんが犯した罪の詩」 https://www.youtube.com/watch?v=E3aZmnZIOXI (下1, 短調, ユーロピアンなポップス, 2018年11月–) は六音(短音階第二音なし)で基本的に主旋律を構成する。

他の楽曲(手持ちのMIDI)で少し調べた例も載せる:
Furusato (平, 短調, 日本の民謡「ふるさと」…私の耳コピ) は基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する。
Cielito Lindo (下2, 長調, メキシコの民謡) は基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する。
Calabrisella Mia (下2, 長調, イタリアの民謡) は基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する。
Camino de Llamas (平, 短調, Uña Ramos 1982年アルバム収録?アンデス音楽) は五音で基本的に主旋律を構成する(第二音シ Bと第六音ファ Fを抜く。元の楽器ケーナ quena の調律方法に依存)。
Hatikvah (上5, 短調, Fuggi Fuggi Fuggi フレーズ借用のイスラエル国歌"הַתִּקְוָה") は基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する。
Mayim Mayim (上1, 短調, イスラエル発祥の国際的フォークダンス曲目"מַיִם מַיִם") は基本の七音をバランスよく用いて主旋律を構成する。





備考:東方Project無関係の曲の「東方っぽさ」の理由と反面
日本の大衆音楽・歌謡曲で私が「東方っぽい」と感じる例に「夏祭り (Whiteberryの曲)」がある。
私の測定によれば、イ短調 Am と分かり、有名なサビのフレーズに第六音ファ Fが無いと判明した(BPMに関しても東方のステージ曲とボス曲の過半数が属する150–170のあたりに重なる。コード進行も東方で定番のF→G→Am派生形)。
これは『「東方っぽい」東方Projectと無関係の曲』の代表例として祭り上げてよいと思う(理論的説明をした上で)。
ただし、人々が「東方っぽい」と知覚する理由に微妙な差異もありうる(cf., 東方萃夢想 Music Room - "萃夢想", 作者U2 = あきやまうにコメント 引用: 東方ぽく最初は静かですが [...])。
ZUNさんが先の年代(2002–2010年 cf., 東方妖々夢 おまけ.txt, 東方永夜抄 おまけ.txt, 妖精大戦争 Music Room - "可愛い大戦争のリフレーン")で言うことは「ゲームミュージックは『ゲームありきのミュージック』であり、ゲームの目的に合うだけの価値を持つ」というもので、STG東方原曲に限れば、ステージやボス目的に合わないものを「東方の多くの楽曲が分類される『ザ・東方』の曲っぽい」ということは、難しい。
実際にいくらかZUNさんの「音楽スタイル」として人々に観測可能な特徴は、東方の原作STGでさえ、旧作のもの (–1999年12月) と輝針城以前のもの (–2013年8月) と紺珠伝以後のもの (2015年8月–) とで異なると見られやすい(某掲示板やTwitterユーザーなどでたまたま見た他者の意見による。後はコード進行などを抽出して統計でまとめるなどを仮想している。なおFM音源PMDやSD-90など再生環境に関することは基本的に別の話)。
特に天空璋以降 (2017年8月–)、ドラムのキック–バスドラムの音がテクノ系ドラムマシンのサウンド(いくつかの情報源はGroove Agent 4のElementicとする)に固定されたことは、ゲーム中のグレイズ graze 効果音と混同しないためのゲームの目的性による変更点でないか、と私は感じている。
なので、音楽的特徴の抽出は音楽の一面で偶然的に(強く言えば蓋然的に)合うもの、と理解すべきである。
音階理論から解明される東方っぽさは、漠然と「和楽器が無いのに『和風』の感じ」や「オリエンタルなテイスト」や「フォーク–エスニック系の香ばしさ」と日本人が知覚できるものである。





備考:七音音階は七色?
七音音階の音がきっちり使われている曲は鮮やかに虹色を映しているように、私は錯覚することがある。
虹色は光のスペクトルの赤ないし紫(科学知識によれば電磁波における可視光線の長い波長750 nmから短い波長380 nm)を示すものであり、それを文化ごとに三色とも五色とも七色とも言い、現代日本では七色(7色)で定着している。

七色を唱えた説のうち、有力な説明をした最初の人はアイザック・ニュートン Isaac Newton と思う。
過去記事に記したように、彼の時代はまだ光の粒子説と波動説とがあるうち、波動の面での解明が浅かったので「波長」とは言われずとも、目に見えるもの (visible) としてプリズム (prism) からの光を指すこともできる「スペクトル (spectrum, spectra)」は言及があった。
彼は七色を"Red, Orange, Yellow, Green, Blue, Indigo, Purple"とした。
Blue, Indigo は青・藍と直訳できるが、これら2色は代数的に呼ばれたものなので、今日のシアン Cyan(子ども向けには水色)・青 Blue と言い換えられる方がよい。
彼の七色の説は1704年に刊行された「光学 Opticks」で見られる。
そこには、七色を七つの音 (D E F G A B C, レから始まる) に配当した説明が見られる、と私は認知しているが、原著の文脈を知らないので、少し探してみた。

Fig. 11. PROP. VI. PROB. II. Opticks. …当ブログ筆者による着色を伴う

In a mixture of Primary Colours, the Quantity and Quality of each being given, to know the Colour of the Compound. 

With the Center O [in Fig. 11.] and Radius OD describe a Circle ADF, and distinguish its Circumference into seven Parts DE, EF, FG, GA, AB, BC, CD, proportional to the seven Musical Tones or Intervals of the eight Sounds, Sol, la, fa, sol, la, mi, fa, sol, contained in an eight, that is, proportional to the Number 1/9, 1/16, 1/10, 1/9, 1/16, 1/16, 1/9.
Let the first Part DE represent a red Colour, the second EF orange, the third FG yellow, the fourth CA green, the fifth AB blue, the sixth BC indigo, and the seventh CD violet. And conceive that these are all the Colours of uncompounded Light gradually passing into one another, as they do when made by Prisms; the Circumference DEFGABCD, representing the whole Series of Colours from one end of the Sun's colour'd Image to the other, so that from D to E be all degrees of red, at E the mean Colour between red and orange, from E to F all degrees of orange, at F the mean between orange and yellow, from F to G all degrees of yellow, and so on.
Let p be the Center of Gravity of the Arch DE, and q, r, s, t, u, x, the Centers of Gravity of the Arches EF, FG, GA, AB, BC, and CD respectively, and about those... (後略)
- PROP. VI. PROB. II. Opticks. (ここでの引用元は第4版の内容で1952年に発行された本の本文154ページ。他に初版だという本のネット上で閲覧可能なスキャン物では spread: 73 の [114] とあるページに載る。ただし分数が7つ記される部分は1/9, 1/10, 1/10, 1/9, 1/10, 1/16, 1/9とあり、異なる)

Fig. 11. とは、BOOK ONE. PART II.の中で11番目の図表 (figure) を意味する。
その図表に描かれるサークル(円形)はD E F G A B Cと名付ける線7つで時計回りで区切られ、外側にRedからPurpleまでの色の名が領域DEから領域CDまで時計回りで記されている。
7つの色を分けるD E F G A B Cの線はDを調とする音階または旋法と関係が無いものか?
便宜的なものであろうか?
そのあたりはこの内容から読み取ることができない。
"proportional to the seven Musical Tones or Intervals of the eight Sounds, Sol, la, fa, sol, la, mi, fa, sol"を含んだ段落が、どう関係しているか?
"the eight Sounds, Sol, la, fa, sol, la, mi, fa, sol"という同格表現をどう解読すべきか分からないが、1オクターブ12音高の時に:sol, la はそのまま半音7つ(完全5度)上げて re, mi の位置にすると次の fa, sol, la に繋がり、次の mi, fa, sol はそのまま半音5つ(完全4度)下げて si, do, re の位置にすると、これらは re, mi, fa, sol, la, si, do, re という D E F G A B C D という1オクターブの"the eight Sounds"の"the seven Musical Tones or Intervals" (7つの音程) になる、としか私には理解の方法が無い。

図を見る限り、一般的な音階のE-FやB-Cは半音で隣り合うので、これをスペクトルの Orange と Indigo が視覚的に狭いことに託してDのドリア旋法 (Dorian mode, ドリアン・モード;教会旋法のほう) を採用している、という点で理論的に見える。
Orange と Indigo はそれまで五色が主流だった虹の色数の説明に、彼が七音音階に合わせて七色とするために加えて挙げたものであるとも世間で言われている。
インターネット上でもそういう説明がそこそこあろう。
この解釈には、その理解をニュートンさんが持っていたという直接的根拠があるか判然としない。



虹の色彩は、好む人も好まない人もいる。
白黒二色やモノクロームやモノトーンや任意の色の濃淡明暗の差の色彩と比べてどう好まれるか?
虹の色彩を用いる場面によっては、好む人が増えたり、減ったりする。
七音音階も、五音音階より好きという人も嫌いという人もいる。
七音音階を用いる曲の雰囲気によっては、好む人が増えたり、減ったりする。
七音音階は虹の色彩か、それとも任意の調の下で比較的自然に用いられる白い鍵盤の範囲か?
この話をするうちに思弁的な気がしてきた。
七音音階の好き嫌い・善悪も、認知科学などの方法論で解明したり説明したりできるかもしれないが、現状ではこれ以上の示唆ができない。

いくらかの疑問を残す。
私は、根拠の少ない状態で結論に導くようなことを言いたくないので、読者への宿題ということにしておこう。
それでも、七音音階は虹の色彩に見えるし、七音音階の外の音高は白い鍵盤に対する黒い鍵盤のように虹の色彩で形式的に示される七色それぞれに類似する色に見える、と私の今の感覚を言う。
この共感覚のようなもの (synesthetic sense, sensation like synesthesia) が、過去にどうであったか、未来に続いているかは別の話である。



音高を色で表す合理的な方法も、考えてみよう。
虹の色彩は表現される色数が3であれ5であれ7であれ:
HSVカラーモデルでいえば"Saturation"彩度100%, "Value"明度100%の時の"Hue"色相360度の範囲内にある。
H = 任意でS = 100%のままVの値を下げると黒に近づき、H = 任意でV = 100%のままSの値を下げると白に近づく。
HSLカラーモデルでいえば"Saturation"彩度100%, "Lightness"輝度50%の時の"Hue"色相360度の範囲内にある。
H = 任意でS = 100%のままLの値を下げると黒に近づき、Lの値を上げると白に近づく。
HSVやHSLのモデルを適用し、オクターブの高低の差を色で表現することを可能にする。
MIDIのC-1からC9でいえば、聴覚的に音色の特徴が理解されやすい音域がC4(十二平均律でピッチ基準音440 Hzの場合にC4ドは約261.63 HzでC4シは約493.88 Hz)なので、C4に虹の色彩もとい光のスペクトルを置き、C-1は白か黒、C9は黒か白に近づくように脱色の方向で扱う。

この方式が一般的に採用されているか、私は知らない。
類例として、C D E F G A Bの7つの音高を7つの異なる色にして表示することはMIDIファイルを扱うソフトウェアなどに見られる。
その一例として、Domino では色のスペクトルで(ニュートン式の名で仮定すると)Bが赤であり、Cがオレンジであるところを経由してAが紫となるような配色(視覚的または技術的にはBがオレンジ appr. #ff8000 でCが赤 appr. #ff3000 と逆に感じる;他にはD, E, F, Gは緑、藍=青、黄、青=シアンなので、スペクトルにならって正せばF, D, G, Eのようにしたくなる配色)にしている。






起草日: 20191215

記事本文中に:
短音階の第六音は第6音、第二音は第2音と記さなかった。
長音階の第四音は第4音、第七音は第7音と記さなかった。

個人的に、七色(なないろ/ななしょく/しちしょく/しちしき)の読み方は訓読み「なないろ nanairo」としたい。
ただし、私のセンスでは「三色」が「さんしょく sanshoku」、「五色」が「ごしき goshiki」となるなど、私が音読みのうちの漢音 kan-on や呉音 go-on を単語ごとに分けて用いるような読み方になる。
これも「色々 iroiro」、「色とりどり iro-toridori」ということになる。

ゲーム音楽–ゲームミュージック (video game music) を研究する学問を英語圏で"ludomusicology" (「遊び・遊ぶこと」を意味するラテン語由来の語幹 lud, ludus のギリシャ接頭辞化 ludo-または interconsonantal vowel -o- 挿入 lud-o- が付いた ludology という「ゲーム研究 game studies」を意味する用語に musicology という「音楽学」を意味する用語を合成したという)と呼んでいることは2019年12月28日に知った。
その分野には、国内外の東方ファンおよび国内のゲームファンの交流があまりなさそうである。

民族音楽とされるものを研究する学問を英語圏で"ethnomusicology"と呼んでいることは2020年1月3日に知った。
文字通りに「民族音楽学」と訳語にすることが可能であるが、西洋音楽との対比が差別的であるとか、音楽的特徴以外も研究した民族学 (ethnology) の一種だとして見るために「音楽民族学」と呼んで理解する向きもある。
先に「民族(ethnicity, ethnic group)」と定義を与えたものに属する音楽とその文化を研究対象とすることが「正統派」であろう。
「本物–ホンモノ」だという民族音楽は、「民族」の文化的全体性や社会的な目的などに従属するので、独立の音楽としての側面以外が強調される。
音楽的特徴に関しては音階理論以外にも「狩猟の際の槍・弓矢の使用は弱強の裏拍リズムで、農耕の際の鍬の使用は強弱の表拍リズムだから文化によってリズムの得意・不得意が異なる」云々の論調も含まれる(鍵括弧内については日本人と西洋人を対比して任意の問題の原因を示す際のたとえ話で日本人がよく用いる様子)。
一般的な認知で、民族音楽は民族音楽というスタイル(典型的に楽器・衣装・演奏者らのアイデンティティ)が一般人に分かりやすい範疇で言う。
当記事で「エスニック ethnic, フォーク folk」と呼ぶようなものは、ポピュラー音楽での応用を指すので、この分野に関連しない。
実際、定義の不明な「民族音楽」という呼称は一度も用いられていない。

五音音階をイ短調=ハ長調(key: Am = C)で用いること(A C D E G. ニロ抜き短音階に当たる)は初歩的であって初心者の入門に適しているという趣旨の意見がWikibooks -  "Guitar/Scales". oldid=3454107. に記されている:
A Minor Pentatonic
   A-C-D-E-G-A
Most guitarists feel comfortable beginning with the A minor pentatonic, which is the single most popular scale for solos in Western music. Most guitarists know this shape of the Am pentatonic scale by heart, mainly because it is so frequently used in solos. It can also be used for pretty much anything, especially if you want to give it a slightly melancholy sound.
Remember that this scale pattern (and any other scale pattern) can be moved up and down the fretboard therefore allowing the guitarist to play in many different keys using the one shape. (後略、diagram あり)

当ブログでは、某サイトと東方Projectを同時に言及したことが一度ある。
2015-11-13記事『同じ作者の2009年の作品と、初公開が2012年で未完の作品それぞれ』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2015/11/20092012.html

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2020年1月30日木曜日

The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics) 原稿文

朗読される文 (script read in the video published on 2020-01-30):


The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics)

The man am I. The man I am. I am the man, with long hair. (くどい)

Masculinity? Femininity? LGBT? Non-binary? (rhyming with words of 4–5 syllables)

A comment on my moe-illustration works:
In the creative scenes in Japan, characters of the appearance of cute girls (bishōjo, beautiful maiden) that Japanese people (and fans from around the world) think are preferred, and often tend to be a subject. The real people including men and women have such a preconceived notion about the girl-appearance, and often yearn for them. Real women with some sort of beauty-sense, or with a strong complex of beauty/ugliness may not like them. Or those women might be forced to go along with them. I do not feel the need to recognize the characters "feminine", but I sometimes call so the appearance that is perceived as women by common subjectivity. Apart from definition of gender, there are my favorite subjects and styles of art. It is more intuitive to use the typical gender distinction in explaining to others. As in the Buddhist doctrine described later, this is only an opportunistic/temporary distinction, and does not mean to say that it is essentially so.

Overseas fandoms that follow the creative scenes in Japan, call otoko-no-ko (男の娘, Japanese slang used to refer to persons of male biological sex who have taken on the appearance of the female gender *1) their slang "trap". The "trap" may be a sexist term comes from the perception of appearance that women are women. What I am interested in December 2019 is that any subculture tends to use discriminatory slang or jargon. A good example for it is the modern derivation of the word "gay" (too many definitions). I leave this topic to another article.

Sanskrit word "strībhāva" means female nature/essence or femininity. The word is found in Mahayana Buddhism Sutra Vimalakīrtinirdeśa, an example of Chinese translation is 維摩詰所說經 (CE 406 弘始八年) by Kumārajīva. In English translation by Robert Thurman, the word is "female state". In chapter "devatāparivarta" (觀眾生品) of the Sutra, the character "devatā" (天女, goddess, divine/celestial woman) appears, performs a number of miracles, demonstrates her wisdom, and declares that all things do not really exist. Meanwhile, Śāriputra (舍利弗) the wisest man among the Buddha's disciples asked her "What prevents you from transforming yourself out of your female state?". Using a metaphor of "magical incarnation", she said that her own female state did not exist, transformed him into her body with her magical power (神通力), and her into his body. Also she said "In all things, there is neither male nor female" (sarvadharmā na strī na puruṣa 一切諸法非男非女) as the Buddha preached. Compare with "非非男非非女" from 文殊師利問經 (the Buddha preaches so to Bodhisattva Mañjuśrī 文殊師利菩薩, who was active in the same chapter of the Sutra).

In a story in Moe-religion literature (Moe-scripture), the lord (拾主) told the town woman (街女人) about "strībhāva". What is femininity is just subjective, not by any of the standards (spoken in the story), nor by any middle of the standards. He has a fable of a person with a third gender. The castrated girl is aware of dignity. "I want to make you aware of the emptiness of things with emptiness, so I wanted to teach you with the empty fable." he said.

There is a comment exemplifying a Theravada Buddhism Sutta:
This is a Buddhist enlightenment (*originally 啓蒙 keimō, in the Western sense) regarding "sex discrimination based on fundamental gender recognition". We only temporarily feel masculinity and femininity, both by body and by mind, essentially they do not exist. There is a doctrine as counterexample. See Theravada Pāḷi (Pali) Sutta Aṅguttaranikāya 1.1–10 "Rūpādivagga" and traditional Chinese Sutra Ekottarāgama 增一阿含經 9.7-8 "男女". Shakyamuni Buddha preaches the strongest attachment to anything else. That is, on the assumption of "a mind of man or woman (has perceptions such as seeing the appearance of an object with eyes / hearing to the sound of an object with ears)", the mind is attached to objects of the opposite nature (woman for man, man for woman). AN1.1: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ. EA9.7: 所謂男子見女色、便起想著... (*rūpa/色 = visual form will be replaced to five objects such as sound, odor, flavor and touch four times later. The words of man and woman change each places.) The doctrine contains expressions that can be literally/intuitively read as "man and woman". I would like to read the doctrine as if the mental perceptions and attachments to the existence of all objects/things was preached using the "assumed expression of man and woman".
[...]

YouTube gives us 5,000 characters for the description.

"strībhāva" is a compound word, consisting of strī and bhāva. In Pāḷi, the cognate of strī is itthi. Therefore, "strībhāva" is "itthibhāva" (which is) found in Saṃyuttanikāya 5.2 "Somāsutta". *2
Reference shown in the video:
Vimalakīrtinirdeśa-sūtra (in Bibliotheca Polyglotta)
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&vid=37&view=fulltext#7339668
AN1.1-10 (Cittapariyādāna Vagga) "Rūpādivagga" (in SuttaCentral)
https://suttacentral.net/an1.1-10
SN5.2 Somā (in SuttaCentral)
https://suttacentral.net/sn5.2



*1 …danbooru というサイトのWikiページに記される情報を参考にしている。そのページの文は2020-01-07記事の注釈の中にも抜粋されている。
*2 …この段落に例示しないが、Vimalakīrtinirdeśaに4度見られる"strīrūpa"(女身–女像–女色–女相) に相当するパーリ語"itthirūpa"は、先のAṅguttaranikāya 1.1–10 "Rūpādivagga"の引用部分にも含まれる=動画中で発音される。



補足事項

文字数に制約のあるYouTube動画の説明文の欄におさめることを工面した経緯がある。
朗読される中の"YouTube gives us 5,000 characters for the description."は、そのさなか(2020年1月24日午前と推定)に追加された。
結果的に当記事を作成してYouTube側では"abstract"の形式で載せるに留めた。
とはいえ、朗読される全体もまた、本来に私が伝えたい範囲の一部であって"abstract"ではないかとも思う(映像に"gender studies"の言及範囲の視覚化があってそちらに任せた)。

原稿–脚本は英語を基盤とした多言語で記されている。
英語の発音に関して、可能な限りRP (Received Pronunciation) とGA (General American) のどちらかに近似するもの(最も惜しいことは con- や -tion にある音素としてのシュワー/ə/の音声実現が実現が無母音 [∅] または中舌中央母音 [ə] に近似するものであるよりも日本語のオ/o/発音に近いことである)として行った。
梵語の発音に関して、文字はIASTのみで綴られ、私が好む発音方法(歯茎ふるえ音 alveolar trill [r] を用いるなど必ずしもシクシャーのインド学的解釈に依拠していないと思う)にした。
漢字に関して、典型的な日本語以外のものは漢訳仏典 (Chinese Buddhist texts or scriptures/canon) に由来するが (文字は繁体字 traditional Chinese characters)、発音は中国語普通話–官話 (Mandarin) でなく、私が自然に可能な呉音と訓読–読み下しにした。

当記事のために、英語の正書法 (orthography) に関して二重引用符 (double quotation mark) とイタリック体 (italic type) の用法(特に作品名や副題や章など)についての修正などをした。
ただし、二重引用符のタイミングに来るピリオド (period/full stop) に関して、一般に米国式が引用符の内側であり/英国式が引用符の外側であると言われることについては、単純に私の感性(もとい鍵括弧 「」 を用いる日本語文章–和文のスタイル)で外側にしている。



起草日: 2019-12-25/2020-01-28?

朗読される文–原稿–脚本を英語で書く前に、日本語での下書きがあった。
それも載せる:

 日本の創作界隈では、日本人(準じて世界中のファンたち)が思う可愛い少女 (cute girls, beautiful maiden, bishoujo) の外見のキャラクターが好まれ、それが多く題材にされやすい。彼らには少女の外見についてそのような既成の観念があり、実在人物は男女を問わず憧れを懐くことが多い。何らかの美意識を持つ実在の女性や、美醜のコンプレックスが強い女性などには、それらを好ましく思わないかもしれない。または同調せざるを得ない方向になるかもしれない。私はあえて可愛い少女の外見のキャラクターを「女性的である (feminine)」とする必要性を感じないが、通念上、女性だと認知される外見をそう呼んでいたりもする。性別の定義と別に、好きな題材や画風がある。他者への説明には、男女の典型的な区別を用いる方が直観的である。後述の仏教の話の通り、便宜的な区別のみであり、本質的にそうであることを言いたいわけでない。

 日本の創作界隈をフォローする海外のファンダム fandom は、彼らのスラング slang として「男の娘 otoko-no-ko」を"trap"と呼んでいる。これは女性が女性である外見認識から来る性差別的用語 (sexist term) であろう。サブカルチャー subculture は何であれ、差別主義的なスラングやジャーゴン jargon を用いる傾向にある点も、私が最近ことに興味を持つ点である。「ゲイ gay」という言葉 (too many definitions...) の現代的な派生は好例である。この話は別稿に譲る。

大乗仏教における維摩経と文殊師利問経の示す「女性・女性性・女性の本質"strībhāva"」の意義
引用:維摩経の第七章の後半で [...] 天女は「私は自分に『女の性質"strībhāva"』を求め続けても知り得ませんでした(膣や子宮や卵巣や男性も持つ女性ホルモンが女性の本質・エッセンスだとは言えないし声や性格なども女性らしさの根源でない)。本質的に女性でない者が男性に変わることはできません。例えば、幻を用いる術者が幻の女人を映し、見る者が幻の女人に対して『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と質問することは正当でしょうか?」と問い返し、舎利弗尊者が「否。幻には実体が無いから転じる対象が無い(もし幻の中での男女の定義はあっても幻の外に同じ定義は通じない)」と答えた。更に天女が「あらゆる物事"sarvadharma"は、幻の性質"māyānirmita-svabhāva"と同じで存在しないのに、どうして尊者は『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と問うのでしょうか?」と告げると、神通力を発揮し、舎利弗尊者を天女の姿に変え、天女は自ら舎利弗尊者の姿となった。 [...] 今の尊者のように、私は女性の姿で現れるだけであり、女性"strī"ではありません。あらゆる女性の人も同じです。仏は『一切諸法(ありとあらゆるもの)は女に非ず・男に非ず"sarvadharmā na strī na puruṣa"』と [...] 「非非男非非女」は維摩経でも活躍した文殊師利菩薩に対して釈尊が発した、文殊師利問経の言葉である。このような仏教の真理の立場では、当然「男女平等(もっと言えば不平等非不平等)」であるが、比丘・比丘尼の戒律差別(八敬法など)があるように、世俗法では男女の差別が存在する。 [...]

萌えの典籍における「女性(ストリーバーヴァ strībhāva)に関する後日談」の意義
引用: (当記事で省略。萌えの典籍・萌集記・街の女人篇・説法十箇の事~五を参照)

上座部仏教の経典を例示した注釈文: (当記事で省略。萌えの典籍・萌集記・街の女人篇・説法十箇の事~五・注2を参照)

(英語学習者は、この文をGoogle翻訳などの翻訳機に入れてどう翻訳されるか/筆者の訳に近いものになるか、試してみていかがであろうか?)
翻訳を開始した時期は2020年1月2日よりも前であったろう。
「仏教の話」の前に関しては、結果的に2020-01-07記事の内容に派生している。
「仏教の話」も全面的な引用に至っている。
暫定的な英語の翻訳結果は2020-01-07記事に「1月7日0時の版」として掲載している。
https://lesbophilia.blogspot.com/2020/01/gender-studies.html

その記事が総合的にも、この「朗読される文」の言及内容の詳細を持っている。
同じリンクは動画の説明文にも載せてある。

2020年1月18日土曜日

"une équation sexuée" 性化された方程式とは?珍説の考察

当記事は、ジェンダー研究の文脈を持つ前回記事を原案とする。
そこで、20世紀のフェミニズム feminism に関わる者の科学的見地で問題のある言説として
「E = mc2 は性化された方程式 sexed equation ですか?多分そうです…」という記述を例示した。
この記述は、フェミニストかつ人文/社会系の学者とされるリュス・イリガライ氏 Luce Irigaray *1 による。
彼女を含むポストモダン postmodernism 系の学者ら *2 の自然科学–数学を借りた言説は、アラン・ソーカル氏 Alan Sokal の皮肉 *3 にされ、Jean Bricmont との共著で批判対象にされたとの評判を持つ。
その著書は Impostures intellectuelles (Sokal & Bricmont 1997) である。
英訳の例は Fashionable Nonsense (Sokal & Bricmont 1998) である(1999年版が無料公開されている Internet Archiveや Emil Kirkegaard氏サイトのページへのリンクは載せない)。
邦訳の例は『「知」の欺瞞』(田崎, 晴明.; 大野, 克嗣.; 堀, 茂樹. 2000年. ISBN 9784000056786)である(他に「知的詐術」・「知的詐欺」という)。

問題の記述はソーカル氏の批判対象に含まれ、「ソーカル事件 Sokal affair / Sokal hoax」への説明で人口に膾炙している。
記述/発言とその背景について、考察しよう。

フランス語による原文:
Deuxiéme point: l'équation E = Mc2 est-elle une équation sexuée ? Peut-être que oui. Faisons l’hypothèse que oui dans la mesure où elle privilégie la vitesse de la lumière par rapport à d’autres vitesses dont nous avons vitalement besoin. Ce qui me semble une possibilité de la signature sexuée de l’équation, ce n’est pas directement ses utilisations par les armements nucléaires, c’est d’avoir privilégié ce qui va le plus vite [...]

英訳の例:
Is E = Mc2 a sexed equation? Perhaps it is. Let us make the hypothesis that it is insofar as it privileges the speed of light over other speeds that are vitally necessary to us. What seems to me to indicate the possibly sexed nature of the equation is not directly its uses by nuclear weapons, rather it is having privileged what goes the fastest... (Irigaray 1987b, p. 110) *4
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 109 より。最後部分については脚注に説明。

邦訳の例:
E=Mc2 はおそらく、性化された方程式であろう。 この式が光速を、我々がそれなしでは生きていけない他の様々な速度を差し置いて特権化する限りに於いて、そうである ••• 。
— 柳生, 孝昭. 20110921. 参照。そこでは訳書=田崎. et al. 2000の引用とされる

彼女–イリガライ氏の発言は、その脈絡による以外にも、彼女の思想に原因を求めることもできる。
著書 Parler n'est jamais neutre (意味: 話すことは決して中性的でない) の"neutre"は、本人が望まない「科学」の中立性の批判に用いるものである *5 。
彼女は、男性が優勢である文明で男性に対置される「男性以外の何か」を女性だと分析した。
彼女は、女性器の形質から女性を定義しなおすようである。
科学を含むすべての言説は、男性的であるから中立性と普遍性は幻想だとして「女性は苦痛を強いられる"to which women should painfully gain access"」と言う。
彼女独自の binary, gender binarism のような前提を知らないと、全てが奇怪に見える。

ウェブ上で見られる比較情報を少し載せる:
Luce Irigaray : la sexuation des sciences - A Dangerous Philosophy. 2014-11-08.
https://adangerousphilosophy.wordpress.com/2014/11/08/luce-irigaray-la-sexuation-des-sciences/



参考:ザ方程式の説明の例
(by JTBarnabas or Liugalia, from Wikimedia commons)
世界で最も有名な方程式"the world's most famous euqation"とも言われる E = mc2 を引き合いに出す理由は何か?
「マクスウェルの方程式 Maxwell's equations」は提示しづらいか?
他の方程式では、説明できない問題であったか?

Les sciences procédent donc à une escalade technique, à l'abstraction par équations et formalisme, sans s'interroger beaucoup sur qui les produit et quels en seront les effets individuels et sociaux. Jusqu'à présent, les plaidoyers de certains scientifiques pour la vie, la paix dans le monde, n'ont pas modifié sensiblement le discours scientifique. Certains scientifiques le savent. La question est celle des modalités d'application, de leurs affirmations pacifistes. Ainsi la célêbre formule d'Einstein, E = Mc2 (ou d'autres formules qui s'en sont suivies) a eu comme effet non seulement l'invention des armes nucléaires (comme retombées) mais correspond peut-être (c'est une question que je me pose), à une accélé­ration du temps qui n'est pas dans nos possibles humains. L'humanité devient malade de vitesse.
— Irigaray, Luce. 1987 or 1985. Sens et place des connaissances dans la société, p. 102. ただしweb上"Sheffield Zetetic: The Hunt of the Sexed Equation"からの孫引き

彼女をはじめとする「ポストモダンの人文系著者」とラベリングされた人々は、しばしばアルベルト・アインシュタイン氏 Albert Einstein とその研究内容を話題にしていた (e.g. Bruno Latour)。
これは恐らく、アインシュタイン氏が自然科学分野の代表的な学者として/世に「天才」の名声で知られるためであると思われる。
そうなると、彼の論文 Einstein, A. (1905), "Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?" に端を発する E = mc2 (この式 formula 自体は同論文に無い) を引き合いに出すことが彼らに最も適した方法になる。
アインシュタイン氏は:多く言及対象にされ、客体化され、偶像化されたように見える。

ソーカル氏らの共著には次のような論評もとい批判が記される:
Whatever one may think about the “other speeds that are vi­tally necessary to us”, the fact remains that the relationship E = Mc2 between energy (E) and mass (M) is experimentally verified to a high degree of precision, and it would obviously not be valid if the speed of light (c) were replaced by another speed.
In summary, it seems to us that the influence of cultural, ideological, and sexual factors on scientific choices—the sub­jects studied, the theories put forward—is an important re­search topic in the history of science and deserves a rigorous investigation. But, to contribute usefully to this research, one must understand at a rather deep level the scientific fields under analysis. Unfortunately, Irigaray’s claims show a superficial un­derstanding of the subjects she addresses, and consequently bring nothing to the discussion.
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, pp. 109–110 より

なお、科学哲学に寄せて言うと、結果的な中立そのものを求めることよりも、中立を求める人間の努力が「中立的である neutral」と私は思う。
偏った現状の全否定は虚無 *6 であって別のカテゴリにおける偏りを生むし、偏った現状の無批判な肯定は努力放棄である。
「哲学的に中立性–客観的な視点は存在しない」ということもまた、分かりきっている。
そのような「戯論 prapañca」を止めて仏教徒が修行するように、科学者の努力があると私は思う。
それも、彼女にとっては「男性的 masculin, masculine」であって「女性は苦痛を強いられる"to which women should painfully gain access"」ほどのものか?
それ以上はあずかり知らない。



あえて科学哲学の「パラダイム paradigm」を用いると、彼女に彼女の思想的な前提と経緯があることで理論的説明があり、その原因部分に当てることができる。
ただし、フェミニズムのパラダイムには合わないものとしての批判 *7 もある。
フェミニズムの擁護対象である「女性 (female)」と「女=女人 (woman, women)」は、生物学的性 (biological sex) にのみ則るものではないそうである *8 。
彼女には、女性器の外陰部の大陰唇 (labium majus pudendi) などの形質的特徴に女性の本質–エッセンス essense を決めるような前提があるそうである。
私はよく存じ上げないが、フロイト Sigmund Fleud *9 の「エディプスコンプレックス Ödipuskomplex (Oedipus Complex)」*10 も関係しているようである。
「エディプスコンプレックス」の修正を試みたジャック・ラカン Jacque Lacan *11 の弟子でもあった彼女は、批判的に男性もとい男根 (penis, phallus, adv. phallic) の特権化ということ (privilege) を言っていたようである。
女は「男以外の何か」という対比で存在するものではなく絶対的に女であることの特徴の説明を試みていたようである。
この議論は思弁的に展開される思弁哲学のようで、実証的な印象ではない"speculative, not empirical"と感じてしまう。

共著で彼女の言説に批判を行う章の終盤ではフェミニスト運動に関する言及を含んでいる:
 The roots of the tree of science may be bitter, but its fruits are sweet. To say that women should shun a universal science amounts to infantilizing them. To link rationality and objectivity to the male, and emotion and subjectivity to the female, is to re­peat the most blatant sexist stereotypes.
[... Irigaray 1993 ="Une chance de vivre", p. 200 について]
To reduce women to their sexuality, menstrual cycles, and rhythms (cosmic or not) is to attack everything the feminist movement has fought for during the last three decades. [...]
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, pp. 122–123 より(字下げ有無は原著のまま)



ジェンダーの話題(LGBT運動を含む)で煽情的な修辞が多く見られると思う私は、2019年10月以前にその界隈を好まないでいた。
学者然とした言動よりは、大衆向けの論調が多い。
しかし、ソーカル氏の批判対象にある種々の説に関しては、普通の人に理解しづらそうなものも多い。
例えば、説明対象よりも平易でないもの (e.g. 微積分, 量子力学, 非線形) で譬喩(比喩/隠喩)–メタファー metaphor を作る、といった話 *12 がある。
これに関して、日本でしばしば「深遠なように見せる」という表現が使われる。
共著からのその典拠を見た:
4. The role of metaphor
[...]
Suppose, for example, that in a theoretical physics seminar we were to explain a very technical concept in quantum field theory by comparing it to the concept of aporia in Derrida literaiy theory. Our audience of physicists would wonder, quite reasonably, what is the goal of such a metaphor—whether or not it is apposite—apart from display­ing our own erudition. In the same way, we fail to see the ad­vantage of invoking, even metaphorically, scientific concepts that one oneself understands only shakily when addressing a readership composed almost entirely of non-scientists. Might the goal be to pass off as profound a rather banal philosophical or sociological observation, by dressing it up in fancy scientific jargon?
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 10 より(ソーカル公式サイトにも少し異なった状態で同じ内容が載る)
その表現に相当する部分は"to pass off as profound a rather banal observation"である。
これに関しては、特に「性化された方程式 une equation sexuée」説の批判にあたらないと思うので、気にしなくてよい。

私はジェンダーに関連する研究領域を卑下したいのではなく、「人文科学 (human/humanitarian/humanistic science)」・「社会科学 (social science)」として注意を保って行えば、学問の進展として作用することを言いたい(最初から女・男のどちらかを優遇したい人々にとってもそうかどうか)。
あえて「人文学 humanities」・「社会学 sociology」と表現を区別する。
ソーカル氏でさえも、彼の批判対象に関連する領域について、それら自体に害をもたらす説についての科学的な批判をした、というそうである *13 。
疑問なので、共著からのその典拠を調べた:
 4) Manipulating phrases and sentences that are, in fact, meaningless. Some of these authors exhibit a veritable intoxi­cation with words, combined with a superb indifference to their meaning.
 These authors speak with a self-assurance that far outstrips their scientific competence: Lacan boasts of using “the most re­cent development in topology” (pp. 21-22) and Latour asks whether he has taught anything to Einstein (p. 131). They imag­ine, perhaps, that they can exploit the prestige of the natural sci­ences in order to give their own discourse a veneer of rigor. And they seem confident that no one will notice their misuse of scientific concepts. No one is going to cry out that the king is naked.
 Our goal is precisely to say that the king is naked (and the queen too). But let us be clear. We are not attacking philosophy, the humanities or the social sciences in general; on the con­trary, we feel that these fields are of the utmost importance and we want to warn those who work in them (especially students) against some manifest cases of charlatanism.
— 原著の英訳 Fashionable Nonsense, p. 5 より("Our"の通りBricmontの考えも含まれると思う)



備考:90年代–00年代の日本における類例
90年代に日本の女性学 (women's studies) やジェンダー研究をしていた人たちの中には、仏教の典籍(特に漢訳仏典)を皮相的に解釈して仏教を女性差別の宗教だと非難する根拠にする者がいたそうである *14 。
比丘と比丘尼 (bhikkhu, bhikkhunī; male and female monastic/monk/nun) に代表される出家者の戒律(e.g. 五百戒)の差異などは伝統的であってテーラワーダ仏教(世間で上座部仏教–南伝仏教とも)などで守られ、もしそれを根拠とした過度な女性差別があると悪いであろうが *15 、伝統的な経典にその非難は当たりづらい。

彼らは:
文化相対主義 *16 をご存知であろうか?寛容な右翼としては、各宗教の聖典とされるものを尊重する。
文献学は可能であろうか?科学的な左翼としては、仏教学の場合に漢語(主に中古漢語)や梵語(主にold/middle Indo-Aryan languages)など言語の枠を越えて「同じ人間のことば *17」として慎重かつ批判的な態度で研究する。
科学の目線にある学問としては後者が好ましいと考えられているし、社会的な応用であっても、微細な差異に気を配った論評が求められる。

植木雅俊という仏教学者(Masatoshi Ueki, 物理学出身で理学修士 Kyushu University: Bachelor, Master of Science?)は、彼らの誤り(e.g. 阿含系「六方礼経」 = パーリ経蔵・長部31経 Siṅgāla sutta、「法華経 Saddharmapuṇḍarīka sūtra」関連)を示した博士論文をお茶の水女子大学に提出し、2002年に人文科学の博士号 Ph.D. *18 を取った。
その論文は2004年に岩波書店から「仏教のなかの男女観」という名で出されているそう (ISBN 9784000246224, 2001年にEnglish version? ISBN 9780820451336)。
植木氏が2013年7月26日に語ったことから抜粋:
 女性学の方々は、漢訳の仏典と日本語で書かれた仏教書を参考にしておられました。「婦は、夫に五つのことで事えよ」と漢訳されているのをとらえて、「それ見ろ、これは女性差別だ」と言ったところで、それは仏教の女性差別ではないのです。仏典を漢訳するときの中国人の女性差別なんです。そういった例を序章に挙げておいて、その後の章で、歴史上の人物である釈尊は平等思想の立場に立っていたこと、釈尊滅後に権威主義化していった小乗仏教において在家や女性が差別されるようになったこと、さらに釈尊の原点に還ろうという運動として、大乗仏教が女性や在家の名誉回復を図ろうとしたこと―などを歴史的に論じました。その論文をお茶の水女子大学に提出して、 [...]
— 植木, 雅俊. 「絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―」 創価教育, 第7号. p. 33 より

無論、彼は文献の側面で判断可能な「仏教の男女観」を正しく示すことを意図しており、あらゆる意味で仏教が男女平等であると主張したわけでない。
その限りでお茶の水女子大学から博士号(人文科学)を授与される価値があったであろう。
活字の本が好きな人々(ビブリオビブリ bibliobibuli?)は、是非とも彼の著作やソーカル氏の著作など、色々と読んでほしい。
中学時代から本に出す金銭を持たないでいる–図書館に行く足の無い私の代わりで、彼らにはインターネットで本の内容の論評をしていただきたい。



脚注(主+副で2段構成)

*1…1930–存命。しばしば"linguist"(linguiste, 言語学者) と扱われる人物。実際には、彼女の研究はフェミニスト思想に言語を用いたものであり、私が見てきた印欧語=インド・ヨーロッパ語族の研究に端を発する言語学(主に18–19世紀)と全くの別物である。構造主義の脈絡で知られるフェルディナン・ド・ソシュール氏 Ferdinand de Saussure (1857–1913) も少し構造主義や記号論/記号学の原点となる言及を最晩年にしたというだけ(弟子による講義録が著書「一般言語学講義 Cours de linguistique générale」(1916) になることが最大の要因)で、実際には筋金入りの印欧語研究者であり、私が言う「言語学」では「喉音理論 laryngeal theory」で知られる。また、彼女の研究はノーム・チョムスキー氏 Noam Chomsky *-1 の博士論文などから展開された生成文法 (generative grammar) の派閥とも、異なる。彼女が持つ学位には何があるか?パリ第10大学での1968年の言語学の博士号 PhD とされる。これは心理言語学 psycholinguistic の研究である。それ以前はパリ大学での心理学の修士号 MA らしい(根拠不明)。心理学や精神分析学や精神病理学に近しい人 (psychologist, psychoanalyst...) が、言語学とラベリングされる研究で学位を取得した、と理解しておけばよい。後の研究について、適切にはフェミニスト思想家やポストモダン哲学者と言える。私もそういうラベリングを好んでいないが、言語学者というラベリングが疑わしい側面を説いた。これも幅広い言語学の下位分野間に展開する複数のパラダイム *-2 の差と考えるしかない。
*2…その人々に関して「ポスト構造主義 post-structuralism」と呼ぶ場合もある。言及対象の人々みなが、それらを名乗っているわけでない、と注意されたい。関連ワードは「相対主義 relativism」や「社会構築主義 social constructionism」である。傍から見て「ポストモダン系 postmodern, postmodernist」でレッテル貼り–ラベリング labeling の可能なものになっている程度である。 cf. 英語版Wikipedia - "Category:Postmodern theory"
*3…1955–存命。氏は数学的な物理学者であり、1996年における当の皮肉と風刺を意図したデマ (hoax) 論文創作 ("Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity" Social Text) の「ソーカル事件 Sokal affair」で知られる。このストーリーを私は2019-05-16記事に例示した。彼のデマ論文は「科学戦争 the science wars」という議論の脈絡に乗るものであり、その論文でのみ彼がポストモダン系の言説を演じる。彼による分野を超えた批判に関しては、"Losada line"など *-1 も参照。
*4…ソーカル氏の共著の示す Irigaray, Luce. 1987b.. “Sujet de la science, sujet sexué?” In Sens et place des connaissances dans la société, pp. 95–121. という出典のうち3巻の p. 110 にその記述が見られるとして証拠画像を載せるページ"Sheffield Zetetic: The Hunt of the Sexed Equation"がある。ソーカル氏はかなりマイナーなイリガライ文献から問題の記述を選び出したようである。しかし、1996年デマ論文では英訳のあるイリガライ文献のみが参照されている。問題の記述はフランス語圏の共著者 Jean Bricmont ジャン・ブリクモン氏 (1952–存命) の方が提案したろうか?
*5…先の注釈のように、言語学者という肩書には見づらい、「言語学」との乖離があろう。ここでは主に比較言語学–歴史言語学 (comparative linguistics, historical linguistics) を指す。言語学の文法性 (grammatical gender, genre grammatical) の男性–女性–中性 masculine–feminine–neuter; masculin–féminin–neutre ということは顧みられていないと思う。フランス語には中性 En: neuter = Fr: neutre の範疇が存在しないが、ラテン語やサンスクリットには存在する。「通常の言語学のパラダイムといえるもの *-2」が顧みられているかどうか?彼女について本文に「それ以上はあずかり知らない」と私は記すので、女性フェミニスト学者に興味のある者が調べてみるとよい。
*6…虚無主義–ニヒリズム nihilism (adj. nihilistic) ということはしばしば、相対主義やポストモダン系の言説に対して、非難のために人々が言う。
*7…次のように言及がある:日本語版Wikipedia - 『ソーカル事件』記事oldid=75209450 の『「知」の欺瞞』節、英語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=933908492 "Criticism"節、フランス語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=160853167 "Controverses"節、RationalWiki - "Alan Sokal"記事oldid=1970769 "Fink"節など。
*8…cf. 日本語版Wikipedia - 『リュス・イリガライ』記事、英語版Wikipedia - "Luce Irigaray"記事oldid=933908492 節"Criticism" その観点での性の本質主義 gender essentialism に近しいものとみなされている。性別における本質–エッセンス問題については、私による元の記事なども参照。
*9…1856–1939。「ナルシシズム narcissism」の研究などから、心理学界隈で著名な人物。精神分析学の創始者とも言われる。彼の何らかの理論は哲学や一部の科学などから評価がある。
*10…ドイツ語の複合語なので中黒 ・ を使わない。複合語成分の前半はギリシャ神話の人物オイディプースより。1910年の著作で造語が公表されたという。これも理論の概要だけ見ると奇怪ではあるが、理解したところで一時代–一地域の実務者–研究者が彼らの経験と思考とによって唱えた–補強したものに過ぎず、その外に通じづらいものと分かる。つまり、一部の事実(ギリシャ神話を含む)には当たるであろうと言いたい。臨床的に、何かしらの事実に対する判断で機能するとは考えづらい。日本の精神科医もとい精神分析学者(古澤平作1897–1968および小此木啓吾1930–2003)が反応して仏教の説話(詳細な時期は不明だがインドの史実として承認されるもの)にある阿闍世王 (Ajatashatru, ajātaśatru; ajātasattu) から「阿闍世コンプレックス」の学説(1931年または1932年の論文発祥?英語圏で"Two kinds of guilt feelings – The Ajase complex"などと名前が翻訳される)を示したものの、これはそもそも説話についての一知半解か誤解に基づいている *-1 。ドイツ語版Wikipedia - "Ajase-Komplex"記事oldid=181949372 ではDie Arbeiten zu diesem Thema sind besonders auch im Rahmen der Nihonjinron zu betrachten.と記される。いずれにせよ、精神分析学の過去の概念は今のその分野の人にとっても「特定の用途は有るとして日常的でない」というほどの価値ではなかろうか?
*11…1901–1981。彼ラカン氏はまた、ソーカル氏の批判対象の説を持つ。「人生は0が無理数であるような微積分学…、私が無理数と言う時、正確に虚数と呼ばれるものを指す」という趣旨の発言など、多く槍玉に挙げられた。彼はまた、恐らく、ソシュール氏が言語学の第一線から退いた後の「一般言語学講義」で示した「シニフィエとシニフィアン(所記と能記. cf. 小林英夫 訳. 一般言語学講義. 1972年. p. 97とされる)」 Fr: signifié et signifiant, En: signified and signifier といったことの応用を過ぎた濫用(順序をシニフィアンとシニフィエに変えることが特徴。式や図では上下の位置関係を変える。それぞれの学問の目的でソシュールは客体–客観を重んじ/ラカンは主体–主観を重んじたと解釈できる。日本語版Wikipedia記事oldid=69998772はソシュール概念を指しながらラカン流の順序に変えている)もある。先のエディプスコンプレックスに関する否定的な論者で精神分析学者のガタリ氏 Félix Guattari もまたラカン氏の弟子であった。
*12…日本語版Wikipedia - 『「知」の欺瞞』記事oldid=74915093 の「要約」節にある程度まとめられている。そこでの例示を含むいくつかの「極端な例」が 柳生, 孝昭. 20110921. で示される。[0]から[27]を数えて[42]があるので、数にして29挙げられる。
*13…日本語版Wikipedia - 『ソーカル事件』記事oldid=75209450 の『「知」の欺瞞』節に邦訳からのその説の引用がされて載っている。
*14…後続の話題に依拠する「噂話」になる。ただし、後世のインターネットにも同様の主張がしばしば見られるので、継承される?それらについてはここで示さないので、興味あらば調べよ。
*15…各地で宗教の信者による「聖典に依拠した過度な差別行為」はありえるので実例の列挙をしないでおくが、近年の著名な例を1つ示そう。2019年4月に「バングラデシュ Bangladesh の神学校 (madrasa/madrassa, Islamic school) の女子学生 (19) が複数の男子学生から集団リンチを受けた後に灯油で燃やされて重傷を負って4日後に病院で亡くなる」事件があった。2週間以上前、女子生徒が校長(男性?)から受けるセクハラについて告発/通報して校長は逮捕されていたものの、警察の保護が薄かった中で同年4月6日に試験のために学校に行ったことが直接原因である。政治家2人を含む16人が起訴された裁判で、同年10月24日に全員が死刑判決を下された。直ちにイスラム教の教義や聖典と関連しないし、彼らはその動機でなかったとしても、信者の多い風土で起こった事件として見たくなる。インドやバングラデシュなどアジア各地で女性の権利の主張の運動や抗議が強めに行われているようなので、この傾向も参考にされたい。cf., 英語版Wikipedia - "enwiki: Murder of Nusrat Jahan Rafi", BBC News - "Nusrat Jahan Rafi: Burned to death for reporting sexual harassment" および "Death penalty for 16 who set student on fire"
Many girls and young women in Bangladesh choose to keep their experiences of sexual harassment or abuse secret for fear of being shamed by society or their families. What made Nusrat Jahan different is that she didn't just speak out - she went to the police with the help of her family on the day the alleged abuse happened.
— Mir Sabbir. BBC. "Nusrat Jahan Rafi: Burned to death for reporting sexual harassment"より(実は日本語版もある)
*16…cultural relativism... 相対主義"relativism"といっても、先述のものとは異なる(近しくもあるか)。つまり、ソーカル氏ら正統的科学観に依る者が非難する対象としての相対主義は、世界の真理について相対主義であり、区別したほうがよいと思う。少なくとも、ソーカル氏自身は2008年11月22日付けのメールに Beyond the Hoax からの自己引用で: (Chapter 3, p. 106) "and it's important to understand that this word is used commonly to refer to three very different things: cognitive relativism (that is, relativism about truth and knowledge); ethical or moral relativism (about what is good); and aesthetic relativism (about what is beautiful artistically).", (Chapter 6, p. 174) "Here we shall be concerned only with cognitive relativism and not with moral or aesthetic relativism, which raise very different issues." と語り、異なる相対主義ごとの慎重な扱いを促している。文化相対主義は、彼にとって"ethical or moral " 倫理–道徳相対主義に当たるのではないか、と私は思う。参考までに、彼およびブリクモン氏は1997年の共著で"Sapir–Whorf hypothesis" サピア=ウォーフの仮説という言語相対仮説について、厳密な意味や用法を加味しており (cf. Kristevaに対する注釈37, Latourに対する注釈127)、それ自体に批判を加えていなかった。
*17…仏も菩薩も人間のためには人間のための「言語活動」があり、ここでそれを「ことば」と呼ぶ。ソシュール的には"langage"か。"langue"と"parole"は、それぞれチョムスキー 1965の"linguistic competence"と"linguistic performance"の比較され、どちらもここでの意味と異なる。「まさしくブッダがお説きになったもの」として形而上学的な意味の推定をしたときの「ことば」は、何か高尚なものとして「人間のことばでない」と仏教徒に扱われている。仏と菩薩の他には神–ヤハウェとイエス・キリストさんも彼らの言葉として(モーセ–ダビデ–ヨハネらを介しても)聖書に記録されて3いるので、その限りで「同じ人間のことば」である。それらが宗教学 (religious studies) や解釈学 (hermeneutics) での研究対象になる。文献学 (philology) というと、元の記録の媒体など、更に物質的な扱い(ハード面)を持つ(書誌学 bibliography? 考古学 archaeology?)。これらは批判的–経験的–実証的 (critical, empirical, positivistic?) な性格が強い。
*18…本文で後掲の引用文リンク先のPDF文書に彼が物理学の課程のかたわら仏教に魅かれた経緯が説明される。そのPDFや2017年の講演の動画 (https://www.youtube.com/watch?v=PFSx6RAVmLU) では「男性初・お茶の水女子大学の『博士号(人文科学)』」という趣旨が示される(平成14年9月30日、web上の公式サイトでは彼が話す法政大学の王敏 ワン・ミン 氏も同じ名目–平成12年12月25日で載っている)。関係ないが、お茶の水女子大学については2020年度からトランスジェンダー transgender の人の女性である自己申告に依拠して女子と同じく入学を受け付けるという話で有名である。この学校は日本の中で「革新的」と考えられるか?

脚注の副

*1-1…1928–存命。ノーム・チョムスキー氏はポストモダニズムを頻繁に批判しており (1, 2 無意味または意味不明で理解が困難といった趣旨あり。一例は"Some of the people in these cults I've met: Foucault; Lacan; Kristeva; and others. [...] I've dipped into what they write out of curiosity, but not very far, for reasons already mentioned: what I find is extremely pretentious, but on examination, a lot of it is simply illiterate, based on extraordinary misreading of texts that I know well, argument that is appalling in its casual lack of elementary self-criticism, lots of statements that are trivial or false; and a good deal of plain gibberish.")、アラン・ソーカル氏1997年の共著でも彼の意見は掲載されている。ところで、彼はその名前でニム・チンプスキー Nim Chimpsky (1973–2000) という個体チンパンジー chimpanzeeの由来になっている。言語学をはじめとする硬派で理性的な人文学が「無意味 nonsense」な思想家たちの「ファッション fashion」として捕らえられていたところをソーカル氏が救ったとすれば、「チョムスキー=チンパンジーのチンプスキーが解放されて喜ぶ光景」を想像する・・・、このような話が無意味に思われそうである。
*1-2…言語学もとい文法用語にも「パラダイム paradigm」という言葉が「語形変化の表」の意味で使われていたし (set of all inflectional forms of a word)、比較的古い用法はそれが主要であるが、ここでは故トーマス・クーン Thomas Kuhn (1922–1996) 著作 The Structure of Scientific Revolutions (1962, 第2版が参照されやすい?) から派生した用語のことである。その意味を言語学に用いることについては、筑波大学の池田潤教授の一般向け講義「言語学概論a」(動画あり)の説明を参照されたい。彼は 6-1 で:チャールズ・ホケット Charles F. Hockett 1965. の説としてブレークスルーが4つあった four major breakthroughs 、19世紀にパラダイムシフトがあった、と言う。後者は 6-3 で解説される。彼は先 5-3c で、20世紀にプロダクト研究からプロセス研究(認知言語学–神経言語学 cognitive linguistics, neurolinguistics を示唆する e.g., 言語認知における事象関連電位 ERP 測定: N400, P600)に転換するようなパラダイムシフトがあった、とも言う。彼の解説は非常に役立つと思う。たとえ彼の解説を知らない人が独自で調査しても、やはりトーマス・クーンが自然科学の歴史に関して提唱した「パラダイム・シフト paradigm shift」と似た現象が言語学にあったことを感じると思う。パラダイムシフトの後のニュートン力学と量子力学 (Newtonian mechanics and quantum mechanics) はどちらも大事であるように、それぞれの言語学はどちらも大事である。とはいえ、ポストモダニズムに近しい思想に言語(または言語哲学)を用いた理論があることまでは(○士号の学位と別に)、言語学のパラダイムシフトとみなすことに困難がある。しばしば「学際性 interdisciplinarity」や「文理融合」ということを言ったりして、専門分野の統合や無分野化(人類平等のようなもの)が言われるが、色々と慎重を期したほうがよい部分はある。
学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい1, 2)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。
私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。 [...]
— 当ブログ2019-05-16記事『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』より
*3-1…心理学のうちのポジティブ心理学 positive psychology に"Losada line" (alt. positivity ratio, Losada ratio; 後述の経緯からCritical positivity ratioと呼ばれるようになる。日本ではロサダの法則とも)という「世俗的な繁栄=職業的な成功の心理的状態のポジネガ比」がある。社会的な調査の結果の比 2.9013:1 に数学的手法…非線形動的モデル nonlinear dynamic model を借りて裏付けたものである。決定的に"Positive Affect and the Complex Dynamics of Human Flourishing" American Psychologist. 2005年10月; 60。このポジネガ比(ネガポジ比)についての日本での出版物は「バーバラ・フレドリクソン (Barbara Fredrickson, Losadaと共にこの主要な研究者)」の名で出された訳書「ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則 (2010年. ISBN 9784534047243)」がある。2013年、アラン・ソーカル氏を含む3人の研究者らは、この研究の数学的モデリング要素を批判し、フレドリクソン氏はその部分を公式に撤回した(一連の動きの主要な論文は全てアメリカ心理学会 APAの American Psychologist 誌から発表された)。The Losada ratio については、調査方法・統計方法(誰を–どんな精神性を–どんな活動を対象にしたか)の限りの数値が承認され、その数値に普遍性があるという根拠を持つことは無い。信じたい人が信じる。一般人のうちで、科学的なもの(偽科学–疑似科学を含む)に納得のしやすさの偏向のある人が用いるための「新手の運試し・おみくじ」である。たとえ路上生活のヨーガ行者で高度なシッディにある者が精神の幸福を得ていると自覚しても回答対象にされないし、多くの一般人はそういう幸福(精神的/外界の属性:健康・金銭・人間関係に依存しない意味での絶対的幸福)を視野に入れない。ポピュラーサイエンス (popular science 大衆科学–通俗科学) のフリンジ (fringe science, ここではジャンクサイエンス junk science だという人もいるような位置)に位置する。この種の心理学の研究者は彼ら自身の心理や知識を省みて/顧みていないかもしれない。そう思う私が、もし彼らの説に興味を持ったとしても、慎重に見て、「彼らが感性や信念を学問的な理論にするために感性や信念を用いる程度」を検分する。あるいは"7-38-55 rule" (Mehrabian, メラビアンの法則) を代表として、条件を限定する理論や学説がその意図を外れて世間一般に/俗に解釈されやすい分野であることに注意を要する。
*10-1…有名な例として漢文のみある仏説観無量寿仏経 (T0365, 第12巻340頁) を参照。父王–頻婆娑羅が太子(王子)–阿闍世によって幽閉されている状態から始まる。父王の延命措置を取る夫人(母)–韋提希が、阿闍世の怒りに触れる。阿闍世は母を殺そうとし、臣下から「王位を望んで父を殺す王子は歴史上に多くいたが母を殺す王子はいない。むごすぎる」と諫言されて思いとどまっている。パーリ経蔵・長部2経 Sāmaññaphala Sutta(長阿含経「沙門果経」)では王位の簒奪の後の阿闍世王が亡き父の殺害を自認して釈尊(いわゆる仏–ブッダ Buddha)に懺悔するシーンがある。彼の名について漢訳の四分律 (T1428, 第22巻591頁c段) は「頻婆娑羅王の子づくりに貢献した仙人(婆羅門–バラモン)がいずれは王位を奪うと予言していたため(原文:當是王怨, 訓読:まさにこれ王の怨なるべし)」として夫婦が子に与えた名を「未生怨」と翻訳して記す。「怨」は訳語なので必ずしも怨みの感情を持っているという意味でなく、単に怨敵=敵対者(アジャセのセにあたる梵語シャトル śatru शत्रु をMonier-Williamsは敵"an enemy, foe, rival"とする)の意味と解釈できるし仏教学者の大勢はそう。ただし、中国仏教で妙楽大師湛然をはじめとして伝統的に「怨みの感情」の立場で解釈する傾向にあった。阿闍世が最初から確実に怨みを持ち続けたのでなく、「釈尊に代わる新しい仏になりたがる提婆達多(Devadatta, 調達とも)」から神通力を見せられ、新しい王になるよう唆されたこと(頻婆娑羅は釈尊に帰依していたように王が仏に帰依して守護する関係性による)を大きい要因とする。左記の他に伝承は色々とある(cf. 永原, 智行 H23,; zh-wikisource: 佛學大辭典/阿闍世)。「阿闍世–未生怨」の名の解釈は「未だ怨みを生ぜず(梵語ajātaは過去受動分詞由来なのでこの解釈は原語に適用できない)」などと恣意的に色々と可能である。梵語でさえ「六合釈」の複合語解釈でアレコレ可能である。これらは学問的に複雑である。さて、当の心理学または精神分析学の人の誤解は「その予言によって妊娠している母(韋提希)も子(阿闍世)の生まれる前から怨みによる殺意を懐く」という点と「母が子の皮膚病を治した(実際の伝承は右記と反対→十誦律 T1435, 第23巻261頁c段 引用:母言。汝年小時手指生癰。受急苦痛晝夜不寐。汝父抱著膝上口含癰指。大王體軟汝得安睡。由口暖故。癰熟膿潰。大王心念。却指唾膿復増子苦。即隨咽膿。汝父作是難事願汝時放。王聞默然…)」という点である。日本語版・ドイツ語版・ブルガリア語版Wikipedia記事の情報は限定的なので英語のEncyclopedia.com - "Ajase Complex"を参照。古澤氏らの論文を参照したわけでない私は、彼らの学説は仮説 (hypothesis) としての成立さえできず、精神分析学のモデルとして機能することに疑問をも感じる。話が長くなった。デマカセから巧妙なものまで、どのようなデタラメでも、それを否定する論証には、それが発生する10倍のエネルギーが必要である、と誰かが言っていた。

 ??:その発言が示すものは「デタラメの方程式 a detarame equation」ですか?多分そうです。
 "...une équation détaramée? Peut-être que oui."






起草日: 20200109 (一部は20200106)

当記事は、当ブログの前回記事から派生して作られた。
元の記事の話題にとって、トリビア(トリヴィア trivia)的である注釈と思い、そこでは完全に除去せず、省略して掲載を維持した。
省略する以前の内容を拡張することで、この記事は作成された。

私のブログに作られる記事の話題は、専門家でない知的好奇心の強い私によるので非常に広いと思う。
確実に典拠に依拠するようにしつつ、自身の意見はそうであるものとして表明してもいる。
突飛に見える題名の記事もあるかもしれないが、多くは実際に今までの蓄積がある状態で過去記事との関連性が強くあると見込まれて執筆される。
しっかりと過去の事例と比較–参照がされなければ、学問は全体としても個人としても継続されづらいと思う。

物理学者たちは「巨人の肩に乗ること"standing on shoulders of giants"」とアイザック・ニュートンが言葉を発したような思想的伝統(特に発言経緯と指示対象に関する解釈が多様でも一つが選択される)を重んじる傾向にあり、ソーカル氏も Beyond the Hoax, p. 427 でその引用を混ぜながら歴史的な知識の相対性や進歩に関して語っていた。
何の学問分野でもよいので、若い人は研究史をしっかりと重んじて参照した方がよい。
この記事の題材は、複数の分野に親和性を持っていよう。
内容は、更に「自己批判を含む批判的思考による科学的な姿勢を持つ人文学もとい人文科学」に念を押している。
備考と注釈を含めてストーリーが色々とあるものの、多かれ少なかれ相互に関係しあうことを私が意図している。
引き合いに出された固有名詞の人々は2020年1月現在も多くがご存命であるし、私が何かしらの肴のように扱って申し訳なくも思う。

2019年4月以前の私の専攻分野である仏教学や言語学にとって「はた迷惑(傍迷惑)」な話が、意外とソーカル氏の批判対象の言説の近くに見られることが分かったと思う。
仏教学者や言語学者は基本的にこのことを語らないか、そもそも知らないと思われる。
仏教と言語の学習を志す人も、「悪い例」として学んでみてはいかがであろうか?
奇怪な言説でも「同じ人間」として「相手を理解してゆく」という態度で聞く努力を望むことがある。

心理学 psychology や精神分析学 psychoanalysis については、共同体の構成員に「欺瞞的」な側面が多いと思うので、科学としての扱いは慎重である。
同様の趣旨は18歳の時の2015-02-01記事にもある。
学問分野はそれ自体が先にあることが皆無で、「任意の事物を研究したいとする人がいることでその行為の対象と方法論があり、学問として成立する」とする場合、当然、いかなる成立した学問も完全に消し去ることはできないし、むやみに消す意味もない。
考えうるあらゆる可能性が排除されるべきでないことは当然であるが、やはりそれらに属する理論は「私にとって疎ましい」。
日本における煽情的な「文系・理系」議論についても、私は好まない。

やはり個人の尊厳と努力の精神と、身近な「困窮者(貧困や病気などで悩む人)」の救済が自発的に行われるようなこととで、平和と繁栄があればよく、神経科学の手法(データのバイアス bias に注意しつつ)以外の精神の「邪推」は望ましくない。
そうした時に悪いレッテル貼り–ラベリングによる「誰かが弱者とされてしかも抹殺されること」が無くなることを私は望む。
弱者は情報弱者も含めて、社会的に救済されるためだけに「弱者」と言われるべきである。
例えば、災害の時に情報を上手く得られないか誤った情報を受け取る人も情報弱者であろう。
一人の死者でさえ大事である、とは民主主義国家の政治家の信念でもある。
もし任意の弱者が弱者と認知されれば、すでに社会の相対性に位置していて社会的存在であり、論理や精神での抹殺は非人道的である。
いかなる人も抹殺されないための努力が、各々の可能な形でされねば平和に遠い。
私は救世主になれないが、この趣旨を心から言うことはできる。
とはいえ、この言明には多くの陥穽が伴うこと(利害関係)も注意しよう。
おおよそ科学と正義 justice については、ソーカル氏や、彼の立場をフォローしたチョムスキー氏や、"the wars"の説明をしたブラウン氏 James Robert Brown に共有されていよう。