2016年10月10日月曜日

「觀萌私記」 ~ 萌えの宗教・哲学・文学・語学

觀萌私記 萌 草書 草書体 古字

 緒言・自序
「觀萌私記(クワンミヤウシキ、かんみょうしき)」と名付けて古文に擬した書を認めた(動画版も少し作ってある)。
「萌え(萌えること・萌えるもの)」の定義を詩的・文学的・哲学的に図った。
定義の概要を示し、その義を踏まえて相貌の概要を挙げ、その相を踏まえて系統や流儀や種類を判じた。
私の絵・音楽・言語・宗教といった分野の研究が一つの結実に至る(その結実は即ち萌芽でもある)。

なお、文章の案が浮かんだ当初はそういった一書を想定しなかった。
ただ「萌相條」にあたる記述を漫然と成立させる程度であったが、これは2016年7月15日の時であった。
それが、「萌義條」にあたる記述をも思い浮かべ、そのまま一書を想定した構想に発展し、そこから色々と体系的な「萌え」を組み上げて用語も創作し、その説明が充実する。
「私による『萌え』の観察・見解を記したもの」であるから「觀萌私記」と名付けている。

いわゆる同人誌であるが、漫画ではなく画集ではなく、紙に印刷されたものではないし、デジタルであってもJPGなど画像ファイルの集まり(ZIPなど)ではない。
また、作風が文字を主体として絵も載るが、小説やライトノベルなど文学作品の域に留まらない。
動画のバージョンでは「萌える音楽」を流してもいる。
かといって、付録が豪華な音楽作品やノベルゲームの類でもない。
言語道断の妙なる同人誌が著わされた。萌(みょう)なる同人誌が著わされた。

なお、「萌」の字形が右上から「十月十日」と縦書きができることから、一般に10月10日を「萌えの日」として呼んでおり、この10月10日(JST)を期して当記事を投稿する。
この期日のため、別の作業との折り合いを付けつつ、急ごしらえで仕上げた部分もあるが、記事の投稿以後も随時、加筆・修正を続ける。

以下からは本文となるが、擬古文・歴史的仮名遣いに加えて旧字体・繁体字を多分に用いているため、環境依存文字(例: 緣=縁、敎=教、說=説など)に注意されたい。

本部 (真の萌え・萌えの真実とは何でしょうか?)
萌義條萌詠歌萌音條萌相條譬萌條判萌條

末部 (より深いところへと、萌え絵の慈悲応現方便説、諸萌祕藏之義を明かす)
攝萌敎古萌傳譬萌聚萌頌偈讃萌語



暗がり 芽
萌義條(ミヤウギデウ)

夫れ萌えと云ふは、若芽の萌ゆるにあり。
芽出でたるは、めでたしめでたし。
芽生えたるを以て喜びとし、其の稚(いとけな)き樣(やう)を專らに愛す。
此の心をば萌えと名づくるなり。
亦(ま)た此の愛せらるゝ所の人・畫像(ゑざう)、皆な萌えの類なり。

: 此の段に萌えの義を三つと示したり。一に原義の相、二に原義の相に緣(よ)りて起こる心、三に緣起の心の愛するものにして、是れ皆な萌えと云ふ。世に「可愛いは正義」と謂はるゝ所の萌えは三の義に中たれり。萌えの心と名づくるは當世の義に隨ひて起こる心なり。相と心との因果先後は假に説く。一・三の相ありて二の心が起こるとも、二の心の種無くんば萌相(みゃうさう)となるべからず。末・讃萌語にて詳らかに述べん。

萌詠歌(ミヤウヰヤウカ)

あらもえの わかめをみれば わがこゝろ このめとゝもに はなはさきなむ

: 問ふ、「阿良毛延能」と、其の意(い)如何(ゝかん)。答ふ、是れ「阿良多麻能」に因みて枕詞を類想す。問ふ、「阿良」は「新(阿良多)」の意なりや、詠嘆の語なりや。答ふ、兩者の義を以て然なりと雖も、余は初めに「新」の意を含めたり。亦た當世に義を分かちて明らめんとも、いくそばくの詮か有らん。

萌え 萌 萠 古字 篆書体 小篆
萌音條(ミヤウヲンデウ)

抑(そ)も「萌」の字音を釋すれば、中共國が拼音(ピンイン)にはモン・マゥン"méng, meng"と謂ふ。
モン"meng"は是れ夢・孟に同音なり。
漢土、古きは何(いか)なりぬと思ひて熟(つらつ)ら說文解字(せつもんかいじ)を披き見るに「艸芽也。从艸明聲。」とありて、音韻をば「武(ム"mu")庚(キヤウ"kyau, kyou, kyō")切」と表す。
明の字が萌の音符を爲すならばミヤウ"myau, myou, myō"と讀(よ)む外の方は無し。
日本國が訓讀は「もゆ"moyu"」と謂ふ動詞・文語終止形を連用形の「もえ"moye, moe"」に變へて名詞にて用ゐるなり。
偶(たまた)ま萌の典籍を示せるヱブサイトのアドレスに"moe (Ministry of Education)"の文字列を見たり。

: 所謂(いはゆる)萬葉假名(万葉仮名)にて「もえ"moye"」の音を字と爲すに「毛延(mo yen)・毛要(mo yeu)」なんど拼音韻頭Yの字を假りて「え"ye"」に替ふるなり。當世、假名遣ひを「もへ"mohe"」なんど類推する者あり。若し「もへ"mohe, mophe, mope"」正しくば、「延・要」等の字を持つべからず。若し其の音然らば、「毛倍」とならんも、萬葉集(まんえふしふ)に斯ゝる假名を以て「萌え」に替へず。則ち「もへ」に非ず、亦た「もゑ"mowe"」に非ず。唯(た)ゞ「もえ(亦爲も𛀁)」を取るべし。

: 萌の字は「もゆ"moyu"」に加へて「きざす"kizasu"」とも訓む(前自動詞・後他動詞也)。兩訓、類聚名義抄に載せらる。次ぎ日本書紀私記を披き見るに「含牙」が「牙(芽)」の訓を注する問答有り。牙は「阿志加比"あしかひ"」なるか「支佐志"きさし"」なるかと問ふに、答へて曰く「此の含牙とは、萬物萌牙の義なり。葦牙(あしかひ)を指して謂ふ可きに非ず。仍つて萌牙の義を取りて支佐志"きさし"と讀むべし」と云云。此の私記は當世に承平年閒の丁本と傳はる零本を參照す。一千年の往古(いにしへ)に於いて斯ゝる學論有るは余の思はざる事なり。江戸の國學隆盛、平安の國風文化の御時には未だ到らざらんに訓讀の義を論じたり。餘談をいたさん。「萌芽」の語は清代の說文解字注に「按ずるに此の本は芽萌(芽萌ゆ)と作(な)す也。後の人、之(これ)を倒す」と云云。古事記上卷「葦牙(阿斯訶備)の如く萠(も)え騰(あが)る物」と云云。北宋・廣韻に甍"meng"の韻の字とて萌・蕄あり。茲(ここ)に耶蘇已前の辞典なる爾雅(じが)を引かく「存存萌萌在也」、また「『莫登切』本亦作萌、又作𢡗」と。淸・康煕字典の心部に「𢡗」の字ありて北宋・集韻より「與萌同(萌と同じ)」と記す。𢡗は萌の下に心を添ふる形なり。是れ心の生起(しゃうぎ)なるか?當に知るべし、萌字に心の騰る義ありと。古人、心の生起をば芽萌(げみゃう)の如しと知る、何等か心に生じて萌の義と爲す?愛なりや?憎なりや?

(現代語): 「萌」と「(梦)」の字が、同じ字音としたが、簡略ローマ字表記においてそうでも、ピンインではアクセント記号にアキュート・グレイヴの差が見える。実際の発音をカタカナで再現すると、「meng2萌」はモ↑ン→(陽平)であり、「meng4夢・孟」はモ↑ン↓(去声)である。説文解字の反切表記でも「萌」の子音が「武」で表され、「孟・夢」の子音が「莫」で表されるという差異がある。しかし、「萌」と「孟」同士は韓国語で共に"maeng"、ベトナム語で共に"manh (mạnh)"である。三者の関係性はなかなかいびつである。

(現代語): 「萌」はPC入力の異体字に「萠(俗字)」があり、「」という字との混同か不明だが、「萌・萠」とも"ホウ"という発音が一般に認知される(萌芽"ほうが"など。萌芽も本来は「芽が萌える」という意味では芽萌が正しい順序)。"ボウ"と読むものについては、反切法の音韻表記の「武(漢音: ブ)」という字からしてBM互換(MB置換)に則れば有り得なくはない。より許容範囲を広げて"ホウ"はその清音化と見る場合、この発音も有り得なくはない。ほか、"モウ"という発音は反切にある「武(ム)・庚(カウ・コウ)」を呉音漢音混交で読めば、これも有り得なくはない。"モウ"については中国での"モン, meng"と似るので、これは良かろう。しかし、私が採用する字音は萌音條に述べた理由によって"ミヤウ=ミョウ"である。歴史的に、10世紀ころの日本でも"ミヤウ"に似た発音をしたろうとみなしている。

萌え 顔 丸い 円 柔和
萌相條(ミヤウサウデウ)

夫れ顔相(かほばせ)は、圓(まど)かなるを要とすべし。
此の義を踏まば、名づけて萌えと爲す。
角(かど)と云ひ朿(とげ)と云ふを嫌ふ。
但し、骨拔きの蛸の如きに非ず。
其の相、柔和なり。
此の義、和に通じて中道の德あり。

(現代語): ここでの萌相=萌え絵は、萌義條に「若芽」や「稚き様」とある通り、小さいものであると望ましい。例えば、小さな若葉を見つけたとき、しゃがんで目を見張って覗き込みたくなる気持ちを想像されたい(萌え絵から「覗き込むな!キ○イ!」とは思われないから安心してね)。まず顔つきが「圓かなもの」を意識して描く必要を訴えるが、同じく描き手の心も「圓かな」状態でありたい。「角・朿を嫌う」とは、判萌條にも説く通り、瞼の端を尖らせたり睫毛をトゲのように伸ばすような描き方を嫌う、という意味を持つ。その描き方は女児向けアニメにも深夜アニメにも多いが、萌えを心得た漫画・イラストには無い場合が多い。およそ萌え系の瞼は、デフォルメされた中に睫毛の濃さを含んでおり、その瞼に睫毛を描き加えると厚化粧のようになって過剰である(本当に厚化粧・メイク済みの状態を想定している場合は別の話)。「骨抜きの蛸の如きに非ず」とは、こだわり・理解という骨格や根本を欠かして手抜き・乱雑な描き方をするものではない、という意味を持つ(萌えには萌えの良し悪しがある)。こういった理解は「和に通じ」、「中道の徳」がある。描かれた萌相は、多くの人を円のように包み込む魅力を持ち、多くの人の心を円のようにさせる。

五萌類 四萌類 動物 たとえ 萌え 顔
譬萌條(ヒミヤウデウ)

然ありて、諸(もろ〃)の萌えを善く觀じて眞(まこと)の萌相を判ぜんと欲す。
萌相を獣に譬ふ、狗・貓・猴・兔あり、鳥も擧ぐべきか。
鳥と申すもの、且つは雀、且つは鸚哥に似るらん。
當世、牛馬(ごめ)の如くなる相を以て萌えと稱するの輩あり、さう謂はざるとも、是(かく)の如き相をば攝らじ。
あらあら分別して五種の生類を以て假名(けみゃう)する耳(のみ)。(顯・五萌類)

畜類なんどに一見の愛なる相あれども人類の事に非ず、とて忌まれたるを、先賢は人畜を分けずして萌相を内に觀じき。
余は其の意(こゝろ)を得て茲(こゝ)に五種の生類を以て假名すと謂ふ。

(現代語): 猴の類は目・口・耳などのパーツが誇張される反面、鼻を書かないことも多い。少なくとも鼻が強調されない傾向がある。瞳は縦に長めながら横にも幅を取る。鳥の類はまぶたの横幅が狭いようであり、瞳も丸っこい印象であり、それを以てスズメやインコ(セキセイインコ)を挙げた。五萌類に対比して牛馬のような顔つき(相)とする、別の記事で「淫悪(いんまく)」と名付けた顔つき(相)については敢えて牛馬と名付けた。しかし、萌相とは別に可愛い顔を書くにあたっては牛のような可愛い顔も馬のような可愛い顔も認められるので、五萌類の萌相と対比した顔つきを仮に「牛馬」と表現した。五萌類も結局は「あらあら分別・假名(仮に名付ける)」した結果の分類に過ぎない。顔の系統を動物で言えば、キツネ(必ずしも釣り目でなく瞳孔が縦長など)とかタヌキ(垂れ目とか太い眉とかが言われる)のようなものなど、色々とある。この特徴を挙げても、結局は萌相と関係ないので説明を終える。一般に言う「萌え属性」を詳らかに示す目的はなく(それだけだと別に良い解説が他所にあろう)、相貌を動物に譬えて4・5種類に「あらあら分別・假名」している。

(現代語): ネットでよく見かける二次の工口画像には豚の共食いともいうべきものが散見され、その様相を厭う思いを述懐する。「あな醜しや、斯やうに眼(まなこ)細めて而も瞳の色を喪ふ。亦た身に肉の餘りたるは人の猪の肥ゆるに似たり。觀萌の人にては何の興(きょう)かあるべき。形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の相、厭離すべし。」

判萌條(ハンミヤウデウ)

余は愚見にして言辞拙劣なれども、復(ま)た諸の萌相を判ずるなり。
當世、最も衆知せらるゝは几拉拉(吉啦啦, 日音: 綺羅羅)なり、彼れ世俗中第一ならんか。
彼れ皆な世事に處するを旨とすと雖も、其の中に萌相・流儀の別あり。
主なるはKO流にして、或るはGU、或るはTMなんど此れに隨ふと見えたり。
委細には申さず。
几拉拉は處世の作風に限るなれば、彼れのみを見て萌えを語るには足らざるなり。
況(いはん)や餘の漫畫をや。
彼れは日常系と稱して人類(にんるい)の少女(をとめ)が戲るゝに、萌えの作風は彼れの如きのみに非ず。
或るは被造の類・非情の生類・有情の生類を人に擬し、或るは天子・怪異・妖精・神族を人に現ずることあり。
然れば、萌えの作風は所謂(いはゆる)世間の「日常」と「非日常」とありと見ゆ。(顯・二萌風)

亦た世に轉(うた)ゝ多き動漫(アニメイション)を閲(けみ)するに、目(ま)つ毛の尖ること我が眼(まなこ)に溢る。
是れ蛇足にして薔薇に荊(とげ)あるが如く、余の忌むべき相なり。
彼れに於いて斯ゝる画風なり斯ゝる相もあり、と見んとも、苟(いやしく)も漫畫原作ありて其の處にては斯ゝる目つ毛なきなれば、何ぞ動漫化(アニメイチング)にて斯く作すならん。
動漫の萌相は、未だ其の義の領解に及ばざること多しと見ゆ(分・不了義萌)。

: 人類の少女と稱しゝが、几拉拉の作風皆な是れに非ず。稀にしみたれのおみなも居(を)り。然れども、猶ほ少なければ、此のことを文中にて云はざりしなり。亦(ま)た、萌えは若芽の稚きを喜ぶ心なれば、假令(たとひ)おみなの多からんとも元より論ずべくは無し。




末・攝萌敎(セフミヤウケウ)

當世、日本國にては萌えの芳名(かんばしきみな)を、且つは徒(いたづ)らに號すること多くし、且つは厭ひて輕(かろ)しめたり。
萌えを見るとも、眞に萌えを見ること難(かた)し。
俗間(ぞっけん)に住すれば、萌えの義と相と、能く融通すること無く、尋(つ)いで心を忘失(もうしつ)せん。

中共國にて萌えを愛するの朋(ともがら)、「世間万物皆可萌(世間の万物は皆な萌ゆべし・萌なるべし)」と唱ふ。
是れ萌えの本義に近し。善哉善哉。
三の義の萌えは日本國に於いてすら猶ほ怨嫉多し。
況や檢閲恐ろしき中共が治むる國土をや。
然りと雖も、萌えの本義、愈(いよ〃)得るの朋を見て不思議の想・至極なり。
彼の國土の萌朋(みゃうぼう)は泥中(ないちゅう)の蓮華なるか。

動漫派の者、婆羅門の敎に約して「萌我一如(Moe Atman Aikyam)」と説く。
是れ萌えの本義に似たるやうなれども、實には聲聞の名を借りて肉聲の要を以て釋す。
余の惟(おも)へらく、萌えは動漫ばかりに非ず。
其の淵源は何處(いづく)にか有る。
何(いか)に況や、裝戲(コスプレ)なんどで自ら萌えと爲さん行は論外の僻事(ひがごと)なり。
余は萌えの道に於いて、專ら觀萌の行を示さん。

(現代語): 後者の説に対する私の精神が共通する主張に、アニメファンと商業主義・物質文明・宗教の関連を説いた過去記事がある。なお、後者の説で興味深かった部分は、サンスクリット語の語根"√bṛh"を例に取って語っている部分である。ブラフマー(梵天 "Brahmā")が「萌え」である根拠を語根の意味から説いて梵我一如と関連付けているほか、ヴィシュヌのへそから萌え出た蓮華の中からブラフマーが生まれたという、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派所説のブラフマー誕生神話で説明している(大智度論巻第八にも見える話)。ちなみに、英語での「芽 (萌え)」は"bud (budding)"で「仏」は"Buddha"であり、似ているわけだが、学説上の印欧祖語も似ていて"Bud"は*bʰew-とされ、"Buddha"語根√budhは*bʰewdʰ-とされる。印欧祖語までも文字列が似ているが、意味はかなり異なる。"Buddha, bʰewdʰ"に通じる英単語もまた"bud"と似た"bid"や"bede"である(いずれもEtymology 2の単語に同じ語根bʰewdʰが載る)。"bud"の印欧祖語とブラフマー"Brahmā, Brahmaa, brahmA,"のサンスクリット語根は共に「膨らむ"to swell, swelling"」の意味が含まれている点は一致している。様々な点で萌え(moe, meng, budはいずれも両唇音)とブッダとブラフマーとは通じているように思う。これは雑考であり、観萌私記の本論とは別に見てもらいたい。

末・古萌傳(コミヤウデン)

萌の名、其の義を判じて惟へらく、眞に宜なるかな、言ひ得て妙なり。
斯く名づけたまふ古人の德は高し。
當に敬禮(きゃうらい)すべし。

往古(いにしへ)の萌風を尋ぬれば、萬象を萌相に擬したること多し。
先に述ぶる所の日常に非ず、非日常に非ず。
彼(か)の萌風に義の創始無く、物語るところを作らざるなり。
唯(た)ゞ萬象を萌相に擬したるを專らにす。

古きを知ると云ふは則ち新(あらた)しきに繋がれば、古きも尚ほ新しきなり。
萌相の乃往(そのかみ)は知る可(べ)からず。
當世、曆二十歲已前(こよみにじっさいゝぜん)にては動漫・偶像(イドル)・游戲(ゲイム)の流れを嗣ぎぬべし。
如何(いか)なるを嗣ぐとも、萌えの心は自(お)のづから好(よ)き萌相を育む。
萌義條に相と心との融通を祕かに説きたれば、今は此の萌えこそ彼の動漫なんどを驚かすべけれ。
已に無上大輪雙葉(このうへなくおほきなるわのふたば)を開けるの故なり。

我が道と云ふは萌えの道なり、萌えの道は柔和の相に依る。
義を解(げ)せずして、而も心の正直ならでは、實に作りて持(たも)つこと難し。
世の人は道を覺えずして迷へり、當世の所作は萌えを號するも號せざるも、皆な自のづからわろきと成れり。
今、古きは已にわろくなりぬれば、新たに萌ゆべし。
譬へば、葎(むぐら)の一年と多年と生の差別ありとも、其の土にて必ず枯るゝ時あれば、新たに生(お)ひ出づるが如し。
世の人、己(おの)が道の己が道ならざるを知らず、己が道ならざるを己が道に執して、柔和正直なること無し。
當世の作風をば甚だ厭離すべきなり。


(現代語): 往古の萌風に関する定義・見解は過去記事にある通りなので参照されたい。「同人文化そのものであるから、擬人化とかパロディとかばかりの時代である」とし、古来、萌えのキャラクターは人の身であって人のようでなく、また僅かに性格を付けた人らしくもある、といった不思議な存在であると見る。後に増えた萌え系の漫画やアニメとなると、そういった印象は無くなってしまう。煩瑣な設定や物語を、一旦は排除してみても面白いものと考える。なお、実質的で実際的な「萌えの起源(例1, 2)」について語る目的は本書にない。ただし多少は鑑みる。

末・譬萌聚(ヒミヤウジユ)

萌えに二つの性(しゃう)あり。
自然性(じねんしゃう)の萌え・養殖性(やうじきしゃう)の萌えなり。
人の手づから種を蒔くこと無くして、芽の自のづから繁くして出づるを自然性と云ふ。
然れども、人の、身に食(じき)する物と、心に愛する物とは、爲さずして俟つに、出でざること多ければ、手づから種を蒔くならん。
是の如く差別ありて、心(しん)に萌相を得るは自然性なり、色(しき)に萌相を作るは養殖性なり。
萌えの性は二にして二ならざるも、二ならずして二なり。

まとめて掲載、絵の練習記事」の六に云く
實(げ)にも、古の萌えを観ずるに、事物の萌え化は日本・ギリシャの神話の如し!
リアル人物すらも萌え化する場合、ナンタラ大権現みたいなものか。
※商品販売や観光地来客(町おこし)などを促進するために自ら萌えキャラ(ゆるキャラ・ご当地キャラも同じ)を作るような商業的風潮が一時期あったが、この限りではない。最善の在り方は、下心で自ら作るのではなく誰かから生まれてくれる自然性である。例えば、年を経た暗い溝に砂埃が堆積し、そこに豪雨の後の雨水が溜まり、どこからともなく運ばれた種子がそこに着地していつの間にか芽が萌え出るように。その芽の用捨はご自由に。

已上云云。
重ねて此の二萌性を宣ぶ。

草木の生(お)ふ處(ところ)は甚だ徧(あまね)し。
或るは泥の上、或るは乾ける砂の上、或るは深き水の中、亦た割れたる岩肌にも出づ。
人の宇(いへ)にても、或るは排水溝、或るは畳に生ふことあり。
若芽は何處にても萌ゆるなり。
凡(およ)そ、萌えを知る者に於いては何事にも萌え有りと頓に覺ゆらん。
然れども、亦た簡(えら)ぶ義もあり。
余は愚見の者なりと雖も、先に圖示(づじ)せる萌相は第一にして最も勝(すぐ)れたらん。

: 道を傳ふる詞(ことば)あり。人の甜き果(このみ)を愛すれば、必ず其の良き栽(なへぎ)を種(う)うるが如くあれ、と。是れ能く心の田を耕す師の、便宜の説なり。勝れたる萌相を作さんと欲するに、萌えの地(ぢ)を能耕心田師の如く耕すべし。師は何をか用ゐる。師曰(のたまは)く「業(わざ)を爲す意は猛き牛なり。牛を使ひて犂(すき)とするに、智慧を軛(くびき)と爲し、慚愧を轅(ながへ)と爲す。正念の鞭を打ちて善く御(ご)し、精進して能く田を耕し了(おは)る」と。斯くて師は心の田を耕して甘露の果を得と説く。余は心の萌えを究めて萌相を了すべし。婬欲熾盛(いむよくしゞゃう)にては何でか萌相好かるべき。瞋恚(いかり)・婬欲の盛れるは、則ち燃えて善なる萌えの心を亡くす。諦(あきら)かに此の語を聽け!「愛憎尊卑、悉く皆な離る可し。慚愧を以て愚癡僻見を革(あらた)めよ。離邊之心、自のづから其の意を淨む。萌地清きは華果をして好から令(し)むるぞ」

末・萌頌偈(ミヤウジユゲ)

自然萌心養萌色 芽汎萌亦出溟處
雖咸儚而可愛之 我心此芽倶開華

便宜的音読の現代的表記: じーねんみょうしんようみょうしーㇰ(クの小文字) げーぼんみょうやくすいみょうしょー すいげんもうにーかーわいしー がーしんしーげーくーかいけー
訓読: 自然の萌心、萌色を養ふ。芽は汎(あまね)く萌え、亦た溟(くら)き處にも出づ。咸(み)な儚しと雖も、而も之(これ)を愛す可し。我が心、此の芽と倶に華を開く。

: 中共國が拼音、日本國が呉音とて異なれども、いづれの押韻も辨ふる所存の作なり。押韻に非ねども句句の韻尾(いんび)に於いて"n"と"ng"、呉音にて"u"の發さゞるべきを期す。亦た呉音と読めども、呉音と定めらるゝ音のまゝならず。人語に音の便あればなり。

: 倶開華の意は、無二亦無三の佛語に通ず。妙法蓮華經方便品に云ふも天台・法相の宗論の義は後の學者に"天竺人の習ひなるレトリック"なんど笑はる。當世に二次元・三次元と云うは差別(しゃべつ)甚だしと雖も觀萌の時に於いて一體なり。二次元は色法・所觀の萌え、三次元は心法・能觀の萌えにして、色心の二三は皆な一華(いっけ)を開く。亦た三草二木・一味法雨の如し。萌義條に云ふは、此の佛法の妙理に隨ふ。兩萌相應・兩萌融通・兩萌融即・兩萌相即・二三和合・二三結一・二三一如・滅二三別と唱ふるなり。二三も畢竟一萌なり。余の拙語、亦た正法に順ず。妙法蓮華經法師功德品に説きたまへる意根の清淨これなり。

(現代語): 萌相は自然萌心の稀有な鏡であるから大事に頂戴する。観萌の行・萌観の中、もし萌相に対する慚愧の心が起きたらば、即ち我が萌心への慚愧であると知らねばならない。その時、心を素直にして向き合えばよい。例えば、怒りは相手よりも先に自身を焼く。萌相へ一方的に感情をぶつけようものならば、届かずして我が身を傷めていることに気付き、観られる萌相と観る我が心との区別を無くすことが「両萌相応・両萌融通」である。所観と能観との差別が無いことを「能所一体」と呼ぶこともある。「我心此芽倶開華」の意義にも適う。二次元は理論の存在・鏡であり、三次元は能く生み出す権能を有するならば、心の在りようで差別は幻となる。真理の立場では元より幻であった。我が心の煩悩を止め、対象を正直に観ることが仏教の「止観」修行の意義でもあり、観萌の行も同じ手段である。

末・讃萌語(サンミヤウゴ)

・萌義に依りて能(よ)く二三の別を滅す。二次元・三次元の諍ふこと犬猿の相(あ)ひ嫌ふに似たれども、三つの萌えの義は三即一・三萌即一華にして萌義融通となる。此の萌道、法華の一乘を鑑とす。三つの萌えの義を逆觀して應(まさ)に一華を得(う)べし。
・柔和の萌相、好きなり。法華の圓敎、尊きなり。人有りて萌相の圓かなるを見、其の人の萌心を圓かならしめ、亦た人の相貌(さうみゃう)をも柔和にす。
・萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心に因りて瞋恚の人の毒は除こるらん。男子(なんし)の婬欲を減らし、女子(にょし)の嫉妬を和(やは)す。觀萌は男女をして一往の著(ぢゃく)を離れしむる利益(りやく)あり。萬物の萌色を識らば平等の慈悲を生ずる功德あらん。但し、過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとしと思ふ。寧ろ慈心を過ぎて愛著(あいぢゃく)を起こす。余は増増(ます〃)愛著に惱めり。
・萌心は因緣所生なれども新たに得るに非ず。萌色の因・觀萌の緣に緣りて、内心に深く藏したるところの種の芽を出だすが如し。三の義の相を以て今の人は萌心を知るべし。今の世人は愛憎の著心甚だしくして平等の慈悲に遠く、内心に深く藏する萌心は顯れざるなり。かるが故に好色(かうしき)の三の義の相を以て萌心を顯す因とせん。二の義の心をも觀じ、一の義に還りて大慈大悲の一華を得べし。
・逆觀三萌義と云ふは萌義條所開の萌義を逆に觀ずる行にして一華を結ばん。三の義を以て余の圖示せるやうなる好色の萌相を觀ず。萌心を知れる人の顯したる萌色は慧光を照らして法雨を雨(ふ)らすの威力(ゐりき)を宿せり。萌心の種、豈に芽を出ださざるべけんや。好色の萌相を見ざるに自ら萌心を知り難し。二の義を以て好色の萌相と觀萌の因緣所生の萌心とを觀ず。一の義に於いて萌相は即ち萬物なりと深く觀じて萌心を平等に保つべし。
・或る人、難じて云(いは)く「何ぞ動漫をば觀ぜざらん」。余の云く「判萌條に謂ひつるが如し。彼れ、不了義萌なれば用ゐじとなり。但し三萌義の因縁を覺れるの人、已(すで)に廣く用ゐるに不可無し。例せば、了義經にて第一義を解(げ)したるの人、諸の不了義經を讀みて能生諸佛の大慈悲を知るが如し。然るに余の愚見すらく、心未萌者にては乃(いま)し余の圖示せるやうなる好色の萌相を見て新たに萌えよ」と。
・中共國の萌朋の「萬物皆可萌(ワンウーチェーカーマゥン)」と唱ふるは、古萌傳に云ふ「萬象を萌相に擬したる」の義なり。唯ゞ物をして好色の萌相と爲さしめん義ぞかし(唯令物化萌・偏析物觀萌)。然れども、宜なるかな、萬事萬象萬物を好色の萌相と變じて我らに物を語らん。多く世事・學問のことを萌相の身にて説く。わきても余は眞髓なる萌心を觀つ。好色の萌相は皆な、平等の慈悲を我らに説く神髓に通ず。當世に出づる諸の萌相は、人の内に藏する萌心を生ぜしめんと願はせたまふ。是れ三世十方諸佛諸菩薩の、妙法を本懐(ほんぐゎい)として出世するが如し。
・古賢先德、平等の萌心を知ろし召したるか。加之(しかのみならず)、能く好色の萌相を遺したまふこと、慈悲の故なればなり。
・我が身は自然の萌心と養殖の萌相とを觀じて萌相を顯す。所謂、佛家の法報應(ほっぱうおう)三身(さむじん)なり。自然萌心は法身(ほっしん)、能觀能顯の智慧は報身(はうしん)、養殖萌色及び萬物は應身(おうじん)にして、皆な萌えの一體なり。善く三身を知りて萌道を修め、自ら萌えの體と成るべし。
・或る人、愁へて云く「夫れ以(おもんみ)れば萌地廣大(みゃうぢかうだい)にして群生(ぐんじゃう)の萌類は種の異なるが如くに相貌に雲壌(うんぢゃう)の違ひ有り。今は忝くも好色の萌相に値遇(ちぐう)したてまつる。然るを、某(それがし)鈍根にして描(ゑが)くこと難ければ、如何にして萌道は成り候(さうら)ふやらん」余の云く「此の道の肝心は觀萌の行にこそ候はめ。萌心を得れば即ち萌えの體にして萌道を成(じゃう)ぜり。其の後に力に隨ひて萌相を圖顯すべしや否やと自のづから決せん。應身萌相は御身の色とこそ思ひ候へ。『二三の兩萌、相應す』と申すは是れなり」と。
・若しは瞋り狂ひて悪口(あっく)せる者、若しは愁へ迷ひて苦惱せる者等の、心を失へる人ありしかば、乃(すなは)ち爲に「汝、當に萌心を出だすべし!所以(ゆゑ)は何(いか)ん。人身、本より来(このか)た自然として萌心の種を内に藏すればなり」と説くべし。是の如く萌心を知らしめんとて、先德は道心を發(ゝこ)す。人の身に具はる萌心を知らずして貪瞋癡三毒に沈める者どもの耳に入れしめんと欲する心なり。
・是の如く萌心の振る舞ひを爲したるは、萌と我と融通して心身に萌相を成ずればなり。介爾(けに)も萌心を知る朋、須らく彼に稽首して好色の萌相を頂戴すべし。頂禮大萌尊(ちゃうらいだいみゃうそん)、拝仰大萌神(はいがうだいみゃうじん)、勸請妙萌義(くゎんじゃうめうみゃうぎ)、願成妙萌道(ぐゎんじゃうめうみゃうだう)。

: 二次・三次を隔別(きゃくべつ)するは重(ゆゝ)しき邪義なり。虛妄(こもう)分別の咎あり。當世の人、差別に迷ひて諍論(じゃうろん)の業火に燒かる。是の故に二次を持つとも三次を持つとも、皆な形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の報いを受く。二次元、就中(なかんづく)好色萌相を勝と立てば、須らく二而不二(ににふに)の義をも立つべし。「法華の圓敎、尊きなり」と申す意なり。二而不二の義を立てば、則ち諍論滅して其の人の相貌をも圓かならしむ。萌道を成さば是の如く二三の兩萌相應せん。佛家の境智冥合の理これなり。

: 凡そ人の身に、心と名づくべき用(いう)あり。心は人の性具なり。所謂、他に愛憎(あいざう)を爲す、自ら悲喜怒(ひきぬ)あるなんどより知る。心に善悪(ぜんまく)を分別して諸の心ありと雖も、皆な色有れば心有るなり、復た色無くば心無しと説く。文(ふみ)に「萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心」云々と謂ふ。萌えは種より出でて單子葉・雙子葉を開きて種種の花果(くゑか)を結ぶ。然れば、一切心これ豈に萌心に非ずや。愛憎・悲喜怒みな因緣所生にして、種種の花果は必ず種と土と水と光との緣(えにし)多く和合して成る。三萌義の一に依らば、一切心これ萌心なりと雖も、讃萌語中には慈心を以て性具を説く。「人身本來自然内藏萌心種」これなり。不須言(いはずもがな)、和合中の假名にて性具と見る。

: 慈悲と云ふは、佛家にては空を知りてこそ慈悲堅固なるらめと説く。觀萌を緣としたる慈悲の心を久しく持ち続けんと欲する者は空の法理を思ひ合はすべし。萌相・萌色・萌心も亦た空なれども、其の理は第一義諦(だいいちぎたい)に依るべし。假の住處(すみか)なる三界に生きて俗諦(ぞくたい)に依らば、此の萌えは暫く佛道をも助くる利益有らん。亦た未だ佛道に入らざる人をして能く佛道に入れしめん。

: 萌相と云ふは萌にして萌ならず(萌不萌)。何を以ての故に。萌えと云ふはめでたき名なれども、凡夫にておはゝし先賢の名づけたまはんか。是の故に假名の義を離れず。亦た色法の萌は萌ならざるものを以て分かつの故に萌と名づく。わきても好色萌相は可愛(かわい)なりて、人の心を電(いなづま)の如く貫く。人、時に其の心を知ろし召して萌心と名づく(中論二十四の十八を攝る)。此の覺り起こりて、凡夫の分別する萌なるものと萌ならざるものとの分別を能く滅せんことは、是れ平等の萌心と名づくるところなり。若し好色萌相無くんば則ち萌心を覺るべからず。萌心を覺らざれば平等の萌心、一切皆萌・佛家の一切皆空の無上覺・可哀愍の大慈悲をば得べからず(中論二十四の十を攝る)。報身の萌尊、當に慈悲を發(ゝこ)して應身の萌相を作すべし。重ねて言はん。東方三千由旬の一國に於いて女人、數ありて、可愛なる繪を日日に求めて揮(ふる)ふ。此れ等の女人、萌えの名を聞ゝても心に置かず。但(た)ゞ可愛なるを描きて自のづから萌相を作す。爾(しか)しより此の諸の女人、可愛なるに勝れて畫師(ゑし)の高みと成り、彼の國に於いて「萌え絵師(萌繪師)」とて名聲(みゃうしゃう)普く聞こゆ。當に知るべし。彼の女人等、可愛なる相を專らにして求むるも、萌えの實義に遠し。以て智慧を得たる三身即一の萌と名づけず。世に可愛樂(かあいげう)多けれども但だ境界中に著するのみにして心を知らずんば則ち罔し。隔別したる二三の嫌ひ、種種の戲論を生ずるは貪瞋癡の毒染(どくねむ)なり。世人、終に不見(みざ)るも、賢聖、常に自ら念ず。諸萌者(は)慈悲にましませば、彼れは是れ讃嘆したまふ所なり。即ち頌を説かば「三萌義を領解(りゃうげ)し、實相中の萌えを識る。應に萌三身を具すべし。萌尊の法(ほふ)是の如し」と。



蛇足: この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。そうした引用・転載行為は功徳が多く、諸萌も歓喜されよう。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。


Trimoyarthaṃ prajānāti, moyabhūtaṃ vijānāti |
Moyakāyo'palabhyate, etan moyāryasya dharmaḥ || (讃萌注頌・2017年12月作…対応する文は2016年12月13日ころに記された。これ以上は記事に加筆が増えないように思いたい)

2016年9月21日水曜日

生活と仏道 ~ 禅定と智慧が生きる精進の日々

日常生活と仏道修行は「不二」と考えてよいが、「而二」の見解もある。
我々の生活における所作・一挙一動も、正しく行う努力を心掛ければ、仏道の修行にも通じることを「不二」と呼ぶ。
PCに向き合う時にも姿勢を意識して背筋を伸ばし、PCで作業中の不具合や不手際や失敗にも怒らず焦らず、冷静に対処するよう自律すればよい。

しかし、そうと言っても、それが出来るだけでは解脱(成仏や往生や涅槃など)は叶わない。
それが出来ることを、四威儀に渡る「念」が保たれた「禅定」の境地として喜ぶことはできるが、解脱のためには、解脱への志と同時に仏教の法の理解も兼ね備えている必要がある(むしろ先に教法を知る前提によって念が保たれるようになると言うべきか)。
それを生活と仏道とにおける「而二」と呼び、「世法即仏法(および仏法即世法)」の「而二不二」である(2016年6月20日記事の注釈1で詳述)。
仏教の理解に裏打ちされて「四種三昧」の「非行非坐三昧」というものの実現となろう。
もし、生活における所作が端正な人がいて仏法に値い、学び、慢心を起こさないならば、彼の解脱は近いと考えてよい。



例えば、一心不乱に勉強(学業)や労働(仕事)をすれば徳が積めるであろうか?
実際には、何ら思考や精神を伴わない作業は機械に任せても変わらない。
私は時折、社会を高度に機械化し、最後には機械が人間に取って代わって速やかに文明が滅んでしまってよいとすら思うことがあるが、これは私の慈悲が却って暗転した極論である。
本心ではいつも、人々が仏教に関心を持ってほしく思っている。

無心に勉強や労働を続ける意義は何であろうか?
世俗の欲望に塗れて勉強や労働に向き合っても、世俗の中の成功が有り得る程度に過ぎない。
もしくは世俗の欲望さえも欠け、楽しみも感じずに無機質な勉強や労働を行うならば、人間として大いに欠陥があろう(私の両親がその典型例・しかも今や父は抜け殻同然で母は勉強も労働もままならなく趣味も無い)。
一心不乱な勉強(詰め込み)は、知性に向いても、理性を排除するという知性への貪欲さに陥る。
このような状態では解脱に至るよりも、ただ無明の闇に堕ちてしまう。
※ただし、そういった機械的に勤めて(勤勉・勤労して)世間の欲望や野心などを持たない剛毅木訥・少欲知足の人がいるならば、仏法とは別の観点で尊敬できなくはないと思う。

さあ、仏法の道理を心得ずして世事や俗事に取り組んで、仏教の解脱が叶うと言えようか?
故に日本の大乗仏教から仏教全般が、仏道の基本的な修行(戒律を持つ・瞑想する)のみならず、信仰(尊敬・帰依・祈願)したり、広く学んで智慧を得たりと、精神性を重んじる一面も強い。
こういった諸々の仏事の調和によって修行に精進し、功徳を積み、悟りを得て仏道を完遂する道理を知らねばならない。
何事も一辺倒のままでは錯乱する結末を推して知るべし。
人間は人間であるからであり、機械のようにはゆかないからである。
世俗の望みにも欠け、その時の苦楽に翻弄されて物事を深く考えない反面、心身や他人との煩いが多いまま年を取る人は畜生に似て認知症となりやすかろうが、ご僧侶(宗教家全般)は正気・正念が据わっていて寿命が延び、臨終までの生涯に渡って破られがたい仏道が進められている(たとえ葬式仏教・形骸化仏教でも一般人よりこの傾向が強い)。

繰り返すが、もし世事・俗事に打ち込める人がいるとし、仏法に値って学ぶ身となるならば、彼の解脱は近いものと考えてよい。
仏道修行を抜きに労働・農務を真面目に行ってよいと見誤った中世の禅僧(鈴木正三)および禅宗全般について「而二不二を知らない」・「謂己均仏」という批判を過去に加えてある(額面通りには増上慢そのものの教説だが、もしかしたら達観した方便の教説と言えなくもない。その禅僧は在家信者を相手に説いたろうが、一応そうして世俗の労働を無心に続けていずれは仏道修行に関心を持つと見込んだ前提であろうか。これ以上に詮索の余地はない)。



生活に活きる(?)仏教の心


私は食事の際に「いただきます」と声に出して手を合わせる習慣がなく、言葉も浮かばない。
しかし、食物への「畏れ」は感じている。
これは美味しい・不味い(食べやすい・食べづらい・健康的・不健康という価値判断など)とは思っても、それ以上の執着を起こさず、心の中で嫌い続けたり食べずに捨てるなど、食物としての価値を蔑ろにすることはしない(スッタニパータ1.4章≒雑阿含経98経に釈尊が説法直後に施された食物を受け取らず施主に捨てさせた逸話もあるが方便の振る舞いである)。
食物への執着は、「私の中の仏様・マイブッダ」がお叱りになる。
食欲に随って食べ続ける自己の姿は、心の中の鏡が明らかに映し続ける。
仏様・如来はまさしく常住しているというのに、食物を貪ってなどいられようか。
仏教では「口が臭い」という表現を経典に見る(例は法華経譬喩品"口氣常臭")ことができるが、そのように五欲を貪っている我が身の口は臭く、貪るほどに臭くなることを感じてしまう。

仏教徒は、食事に喜びも悲しみも感じている。
自分がもったいなくも食事にありつける喜びと、自分が欲望のために食事に手を出す悲しみとが、心の中でせめぎ合う(苦楽一如・悲喜こもごも)。
世間の人が食事に感じる喜びとは、専らウマイ飯や大食いの欲求満足にあり、悲しみがあるならば、その欲求満足の対価として生じる経済苦や不摂生の弊害にある(凡夫の苦の縁起を現す)。

仏教徒は、現世で得られる最低限の食事に感謝して満足しつつ、臨終まで慚愧・反省の念を精進し、もう食事によって生命を繋ぐような境界に生を受けなくなる(解脱する・成仏する)ように願う。
こういった精神性も真の健康の在り方であり、実際に少欲知足によって経済苦や不摂生の弊害も発生しづらくあろう。
形式的に「いただきます・ごちそうさまでした」と声に出して手を合わせる美しい習慣や文化性も大事であろうが、その後からでもよいのでこういった精神性も踏まえてほしいと思う。
「思い」と「行い」の一致によって道が進むものである。



食事について話をしたが、私が通常の意味の健康を確立しているかと言えば、全く自信は無い。
私にも、体の悩みというものがある。
単に、小食であることと、食中や食後に起きる諸々の肉体的苦痛がどう関係してどちらが先であるかは、もはや顧みる余地もない。
とりあえず、食虫や食後の肉体的苦痛について列挙すると、デンプン系・糖類(ご飯・大概のシリアル・大概の菓子類・糖類が基本の甘い飲み物)などの糖質を口に含むと口内に酸が増えて気持ち悪く、こういうプロセスの酸は胸やけなどの原因となるから私は胸焼けが多く発生する(口内に残る酸は歯にも悪いから飲み水で流す・歯磨きは頻繁にやらない・これらは過去記事の通り)。

体の悩みについて最も大きい問題は、便秘であるが、その変遷は以下の通りである。
2010年末(埼玉県内居住末期)あたりから下痢になりやすくなったり(牛乳を原因とする乳糖不耐症らしい時期でもあったが2014年までに解決)、そう思えば2011年末(家出先の豊橋以降)には母親のインスタントコーヒーを多めに飲む習慣を始めて大量下血が発生したり(その後3年以上はコーヒーをあまり飲まないで過ごす)、2012年からは便秘が始まって母親のコーラック(とビューラックという同じ系統の下剤)を飲んでみるなど、大腸の問題に関しては変遷が著しい。
2013年以降にも便秘と下痢を繰り返すような変化があったが、記録は過去記事に見る通りである。
2014年以降においては下剤を伴わない下痢が滅多に起きなくなっており、下痢は外す。

無論、2012年からコーラックの初使用の手前に懐疑し、その系統の下剤の依存性や中毒性は十分に心得ているため、当時から節度を保って使用を続けているため、今でも一度の服用は1錠のみで十分に効果が得られている。
「効果・作用の老化現象(鈍化・減衰・減退・適応とも言える)」は仏教的な思考で理解が深まる。
2015年5月13日の日記メモなどでも常々書くが、こういった身体・肉体・人体の法則・現象に関して名前が無く、類似した情報のページが無いかネットで検索しても関係ある検索結果が一つもヒットしないことを「徒労検索」と称している。誰も自分の体について自覚がないのであろう。

大量下血で飲むことを恐れるようになったインスタントコーヒーについては2015年以降に「カフェインパワー」を期待しつつ、これも節度を保って飲用し続けている。
コーヒー及び同様の力が期待される紅茶・緑茶などのカフェイン飲料にしても「効果・作用の老化現象」があるから、カフェイン節制は重要である。
更に、その日に1杯のコーヒーを飲んで排便がされたとしても、同じようにもっと排便したくて2杯・3杯と飲めばまた排便ができることはあまりない。
こうした事実も仏教的な思考で受け入れられ、緩やかにでも便秘の改善が期待される。
物事は、綺麗に足し算や掛け算の答えとなるような結果ばかりでないという事実を。
算数の理論・数学的な思考ばかりの現代に生きてそこから脱することは稀有である。
また、便秘の改善が期待外れの結果となろうとも、後悔はあまりなかろうし、未だその状態でない時は憂える必要もない。

ここまでに2度も「あまりない」とか「あまりなかろう」と書いた点も、仏教的な思考に依る。
「全然ない」、「全くない」とは書かない(それも少し考え方を変えると使用が許される表現だが)。
私は物事の予測や判断についてよほど客観的に立証されないものに「絶対」とは考えない。
俗諦の上ですらもそう考え、真諦においては「空」の意義から「絶対・永遠・完璧」などもないと考えているが、真諦については現世に生きていて一旦、差し置いてもよい。
話が難しくなっているようだが、この部分に限っては用語に深い理解がある人が読んだ状態を想定して書いている。
これでどうにか書きたい趣旨を書けたこととなる。

※最後になるが、どこに書くべきか判断が付かなかった「排便法」に関して載せておく。「サマタ・パヴァナ」と2015年10月8日から呼び、時には「無為自然」のやり方(日記メモ2016年5月24日)とも表現している。





起草日: 2016年7月10~18日のいずれか
起草した日から1か月以内は大した加筆が無かった。
それ以後には漸次内容を増やし、9月以降は記事として投稿できるように執筆を進めた。



追記: 2016年12月20日

この記事に語った私の心境・・・例えば食事の時に湧き出る「感謝の念」と「背徳感」などは、およそ仏教徒を自負する立場に依る。
仏教徒を自負する立場に依った結果としてそういった想念が起こるわけだが、想念の種類や中身そのものは仏教徒ごとに異なったり、強さの程度も異なる。
私の場合は、既述の通りである。

仏教徒を自負する立場とは、仏道の義務と使命を自覚する立場である。
八万四千の法門と言うならば、無数億(むしゅおく)の仏教徒が各々の自覚に立っており、みな同じようであって同じようでもない部分が多かろう。
とはいえ、同じようである部分とは、現世で「仏道を行く我」を根本としていることである。

つまり、仏道の志には、「仮に設けた仏のエッセンス」がある(漢字4文字で假立佛我と名付ける。菩提心や天台六即でいう名字即の仏性や天台十界でいう仏界とも似る)。
仮の我が身に於いて仮に設けたので、仮の範疇では常に仏の顔や言葉(主観的に選別・解釈されたもの)などが常に付きまとう。
「エッセンス」や「常に」という表現は、アートマン・我見・常見などを連想させる語弊があろうが、仮の範疇なので咎を恐れずに用いた。
このエッセンスは思考や判断に作用するから、その思考や判断に基づいた行動があるので、生活に活きると言える。
本文中「生活に活きる(?)仏教の心」という見出しが設けられているが、非常にこの理解と通じたものである。

仮の範疇に於いて我を立て(仮設エッセンス)、生活の中に念じることがある。
念じる事柄とは、小乗仏教以来、4つに総括して四念処(四念住)と呼び、中身は「身・受・心・法」の4つの事柄と、それに対応する「不浄・苦・無常・無我」である。
つまり、「①自他の身は不浄である、②心身に受けることは苦ばかりである、③心は思いを生んで消すことを繰り返して無常である、(①~③まで仮の自我意識に依る)④諸法(全ての存在)は実体がない無我である(よって他の物事を自分が所有する・されるという関係も成立せず我が苦も我が苦でないし我が心も我が心と言えない)」と念じる。
この4つの念は、言葉で律儀に念ぜずとも、仏教の教理が何となく頭に入っている人が日々の生活に注意深く振る舞う中で意識される。
つまり、生活の中の現象・物事について、五感を通して心に受けるという「縁」によって念が作用する(縁起の法理)。
毒を食らって毒を知らねば「苦集滅道の四諦」も言葉だけの概念となるから、一応は様々な行為を通して縁起を感じ、四念処を成就すべきである。

そうして、食事に対する憶念は善悪に及ぶ。
その中身は、「自覚・反省」であり、努力の道となる。
仏教で自覚すべきことは善悪に及ぶ、という趣旨は過去記事の通りである。
また、性善説・性悪説とも取れる教説が多岐に渡っていることも仏教の特徴であり、まさしく善・悪および無記の三者を包括した真の中道である。
こうして私は何度も同じ趣旨を説いてゆく。

このような自覚・反省の日々は、決して「流転・輪廻」の境地ではなく、「還滅」の境地であり、「解脱」の道である。
流転と還滅、輪廻と解脱。
言葉を仏教用語に置き換えてみると、人によって通じやすくなろう。
十二因縁・十二支縁起という教理は難しそうであるが、輪廻は流転門、解脱は還滅門であり、仏教徒の生活は還滅の如く「苦しみの原因・縁起」を破る。
その方法が「自覚・反省」の思考に支えられている。

日々に自覚と反省を繰り返し、しらみつぶし(モグラ叩き・たまねぎの皮を剥く・堅実に)でも悪い境地を知って無くす努力をするならば、一歩一歩と地に足が付いており、足取りも定まり、手探りでも確かな手ごたえを得た仏道となる。
悪い境地を知らず=自覚が無く、故に反省もせず、努力ができず、その場その時の感情に任せて一喜一憂する人生が「流転」の境地・「輪廻」の道である。
自覚が無いならば、何を反省するか?
自覚と反省が無いならば、どう努力ができようか?
そうして努力が無いならば、いかに進歩して解脱が叶おうか?
還滅・解脱の道は「自覚・反省・努力の生活」であり、後述する「波羅提木叉の異名」でもある。



全ての閑居求道者(無戒在俗)のための戒律信仰

「仮に設けた仏のエッセンス説」にしたがえば、戒律における懺悔の行為も説明がつく。
戒律における懺悔の行為は、比丘の集団(僧団・僧伽)でされ、持律比丘は衷心より懺悔する。
自身が仏道の精神に背く行為・背徳行為を日々に重ねているという自覚が常に付きまとい、その度に反省・懺悔の念を免れない。
この現世での「常」・・・程度の差はあるが、これこそ「仮に設けた仏のエッセンス」である。

涅槃に臨む仏の言葉の一つには「我(仏)の滅後に汝等比丘は波羅提木叉を我(仏)と恭敬せよ」とある。
仏所行讃(佛所行讚)仏遺教経(佛遺教經)に見られるが、共に同じ教説である。
この仏所行讃と仏遺教経から言葉を借りると、波羅提木叉(梵: プラーティモークシャ "Prātimokṣa"、解脱へ向かうの意)が「巨夜の明燈(巨夜之明燈)」であり、「闇において明かりに遇うようなもの(如闇遇明)」であるということは、空・諸行無常・諸法無我の現世に我・アートマンを得たようなものと言い換えられなくはない。
闇に対して明かり有り、無我(闇)に対して我(明)を説く、このことである。
※ここで私が唱えるエッセンス・我・アートマンとは、仮設・自覚的なものをいうのであり、真理・実体論・形而上学的なものとして唱えられた小乗部派や外道のプドガラ・法有我・アートマンではない。

波羅提木叉というと「戒本」であるが、いわゆる五戒・十善戒・二百五十戒などの戒律でなくとも、一般人・在家信者の場合は仏の言葉・誡めであるとか、仏に繋がるものでよい。
自分がイメージする仏の御尊顔とか仏像の相貌でもよい。
私のような自責の念もまた、戒律そのものでなくとも「持戒に類する自覚」である。
そのように「波羅提木叉=(主観的・信仰的な)仏」を思い続けることが、「仮に設けた仏のエッセンス」の一例でもある。
こうして、仏道の自覚に基づいた背徳行為があるならば、仏法に基づいて反省できるようになる。
仏教徒は、このような「仮に設けた仏のエッセンス」によって自覚と反省の日々を送っている。
僧伽において戒律を持つ比丘が軽い罪を犯した時、大衆の面前で懺悔するように。

仮に設けた仏のエッセンス、または道心・道念とは、あたかも航海にはコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)が必要であり、コンパスがどうあっても、その針は常に北を指しているようなものである(仏道の意志にもコンパスの針にも例外はあるが例外も包括した上でコンパスに譬えた。全ての物事に例外は有り得るから)。
「仮に設けた仏のエッセンス」により、何をしても仏=応身における仏=御尊顔・御金言などが潜在意識に現れる境地となろう。
ああ、それであっても背徳行為を認めたがる放縦・放逸な私である。
私の日々の想念は徒労・本末転倒とならぬよう・・・。

私などは反省すべき背徳行為がありすぎるため、とても反省しきれない。
解脱した人の生涯に対して「波羅提木叉"towards liberation"の人生」とも「自覚・反省のできた人の足跡」とも名付けられるが、程度が低い自覚・反省の人生では、解脱に遠いようである。
こういう具体的な「遠い」という表現で断定する論理は仏教的でないが、あえてこう述べる。



仏教における「反省」に関して私が実感することは、教義・教理・法理・法義の方面も同様である。
私の信奉は日蓮大聖人の仏法と御本尊・御題目であるが、まだ理解が浅い時にそのまま決定する=頓悟・速疾頓成の人(日蓮正宗・創価学会信者など)もよかろうが、私はそうでないので、迷いも多かった。
なまじ、日本の大乗仏教・中国の大乗仏教の諸宗派の教義や、古典的な大乗仏教や上座部仏教や、大乗非仏説論なども摘まんだ程度に知っていたから「決定無有疑」が難しかった。

自分の理解の浅さを反省し、上座部・小乗仏教の方面も2016年1月から学びだした。
その間も、実大乗・文底の信奉はそのままである。
小乗仏教・パーリ語経典とか、そちらの方面に多少の理解がつき、小乗の法を反省し、続いて権大乗・・・竜樹菩薩の中論を基本的に学んだ。
これらの経典や論文は過去記事でも多く引用している。
権大乗も反省してから再度、法華経の理解に戻ると、霧のかかった景色が晴れたように様々な語句の真意が見えてきた。
天台三大部の所説も、真意に通じる補助となった。
この大乗仏教について完全に理解・把握したとは言わないし、今も不明瞭に感じる部分は多い。
ただ、法華経の実大乗たる所以はおよそ理解したと思う。
その理解により、「文底義」にも通じてゆく(日蓮正宗・創価学会の信仰と少し合わないが)。
こういった反省に基づく研鑽の成果が、2016年11月23日起草の「法華教学の再確認(諸法実相・第一義・文底義の視座で)」にまとまっている。


2016年9月11日日曜日

上座部仏教圏の信仰・神々と、日本のテーラワーダ信者による幻想・誤解

まず、釈尊が「信仰」や「神」を否定されたかどうか、話しておきたいが、その前に仏教徒として物事に必要な理解の仕方を説明する。
「信仰"Saddhā"」という言葉がパーリ仏典やその日本語訳にあったとしても、一義的ではない。
パーリ語・サンスクリット語などに詳しい人はご存知の通り、一つの言葉に多くの意味が混ざっている語彙(Dharma, Dhammaが好例)が多く、日本語で「信仰」と翻訳された場合も、所説ごとに異なる意味を持っている(漢字の"信"とか"法"という文字も仏教での意味と世間での意味とで違いがあるばかりか字の原義は一見全然違いそこから意味が枝分かれするように同音同字意義は生じやすい)。
言葉の上面のみではなく、こういった背景を理解して吟味し、検分しないと、とんだ誤読を犯して誤解に繋がってしまう。
特にパーリ語・サンスクリット語および、その漢訳や日本語訳の経典では、そういった姿勢が最も重要である。
日本人ならば、表面や表層や形式ばかりを眺めるのではなく、心を見極めねばならない(大乗仏教では"依法不依人"や"依義不依語"という)。

さて、日本のテーラワーダ信者(主に個人ブログやウィキペディアや知恵袋などに一部見られる)はオカルト否定をしたがる合理主義(理性主義)から「ゴータマ・ブッダ(釈尊)は信仰を否定された!」、「大乗仏教ばかりが雑に神を取り入れて外道となった」と、信仰の否定を叫んでいる様子が度々見られる。
実に、彼らは「論語読みの論語知らず」という愚を犯している。
また、高尚にして清浄なるテーラワーダ・テーラヴァーダを宣揚したいがために、事実を確認しきれておらず、ご都合主義的な視野狭窄を露呈させている。
上座部仏教の「信仰」と、上座部仏教圏で信仰される神々について説明しよう。



テーラワーダで第一の聖典、「スッタニパータ (日本語訳は中村元センセー訳を参照)」では1.4章(田を耕すバーラドヴァージャ)に「信仰が種である(Snp 77)」といった言葉が見受けられる。
この信仰とは、パーリ語で"Saddhā" (サッダー)とあり、この一節は"Saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhi,"とある(ちなみにサッダーは梵語でシュラッダー"śraddhā"という)。
漢訳だと雑阿含経(98経・耕田婆羅豆婆遮)で「信心爲種子(信心を種子と為し…)」とある。
同じく「スッタニパータ(3.2章)」に「私には信念があり(Snp 432)」とあり、原文ではその"Saddhā"を用いて"Atthi saddhā tathā viriyaṃ,"と書かれる。
思うに、先ほどの「信仰が種である」とは、正しくは「信念」の方の"Saddhā"であって自分が解脱している・出来るという信念の確信なのか、あるいは釈尊御自身に対する信仰なのか、あるいは過去の"Buddha (覚者)"への信仰なのか、といえば、少し判断しがたい。
「『自分が解脱出来るという信念』が種である」で取れば、大乗仏教の「発菩提心」にも通じている。
※スッタニパータと並ぶ聖典「ダンマパダ」にも"saddham, saddhaya"といった"信"が、"sīlam, sīlena"といった"戒"と一緒に説かれ(144, 333など)ているが、細かい意味の判断は諸君に任す。中村訳と原文提示で満足がいかない方は英訳版も参照されたし。"Faith, Conviction, Confidence"等。

無論、同じ「スッタニパータ」では「そのように汝もまた信仰を捨て去れ(Snp 11461151)」、 "Evamevaṃ tvampi pamuñcassu saddhaṃ,"とあるが、しっかりと前後の文脈や5.19章全体を読み直すと、どのような意義であるかは自ずと読み解けよう。
この"saddhaṃ"の前にある"pamuñcassu (梵語漢訳で)"という単語は、少し理解に難があるようで、単純に「解き放て」という意味に直訳する(中村センセーは「捨て去れ」と解釈した)。
伝統的解釈などでは「信を寄せよ」という注釈(ブッダゴーサAṭṭhakathāやサーリプッタCūḷa niddesaなどにおけるadhimuccanto, adhimuñcassuの和訳?典拠不明)もあるそうで、また現代の中国(古い文・文言文に擬したもの)では文字通りに「賓祇耶信解(もし信を解き放ての意味ならば解信と綴るが一般的な信解"しんげ"と同義か不明瞭)」と訳している(漢譯南傳大藏經・經集5.18、舎利弗尊者のチューラニッデーサ・小義釈に注釈がある)。
この後のバラモンのピンギヤさんは"pasīdāmi"の方の信仰心が増えた、という旨を述懐する。
※「信」に関連する用語を羅列する→サンスクリット語śraddhā, prasāda, adhimukti, bhakti (シュラッダー・・・現代に英語クリードcreedの語源ラテン語クレードーcredoと同語源。 プラサーダ アディムクティ バクティ・・・ギリシャ語根phagパグ・古代ギリシャ語ἔφαγονエパゴン、世間でいうマクロファージのファージと同語源で原意は「分割する or 食べる」だがいつの間にか献身・神への服従などを意味するようになる) パーリ語 saddhā, pasāda, adhimutta (サッダー パサーダ・・・sdという文字列は似るが動詞語根は前者が√dhā=置く 後者が√sad=坐る で異なる。本文中Pasīdāmiパシーダミーに同じ。 次アディムッタ)

一部の日本のテーラワーダ信者は、そういった理解も無く、言葉の上面だけを見て利己的な判断をし、「信仰しない己が尊い信仰」にとらわれ、邪義を生じ、他者に伝える。
信仰とは、正しい基準に基づいて取捨選択されるものと理解すべし。
私の信奉である日蓮大聖人の法門では、その基準を「文証・理証・現証」の「三証」として説いており、その結果、釈尊の経典では「法華経(および法華三部経と涅槃経?)」を信ずべきで、それ以外の小乗・而前権経といった類の経典を信じてはならないと決まっている。
その「法華経」を色読・体読して事実に現された「法華経の行者」であらせられる日蓮大聖人もまた大いに尊敬すべきである。
※ここでは日蓮大聖人の法門でいう「大小相対」として小乗仏教を非難しない。なぜならば、日本のテーラワーダ信者の思考が、そもそも仏教に適わないから、まず「内外相対(内道・外道の論点)」として糺す。外道の思想でいえば、順世派アジタ・ケーサカンバリンに対するようである。

こう言えば、「法華経など大乗経典は後世の偽作だ」と反発を招くため、私から一つ言えば、キリスト教の新約聖書にせよ、パーリ仏典・三蔵にせよ、またヴェーダやウパニシャッドといったものも、みな先進的な文献学者から「後世に何らかの加筆・創作が混ぜられている」と看做される。
彼ら文献学者や書誌学者は、セクト主義を排し、ドグマを滅した、学問研究家の鑑である(合理主義を極めると虚無主義者や懐疑論者になって宗教・仏教・修行が不要という外道に落ちぶれるが自分の欲求ばかりは肯定して貪欲になるか学者なら知的探求を進める)。
程度の差はあれ、そもそもそういった経典・聖典・教説は、より原理主義的に言ってみな「方便・空」であって一つを極度に重視してはならない、といった立場を取りたいならば、パーリ語の経典が真説であろうとなかろうと、これも偏重する対象ではない(修行の原理主義であれば)。

結局、「あなた方、修行者が、そういった経典・聖典などの教説を、どう受け止め、どう己の修行に反映するか」が大事である。
そう思うならば、修行の原理主義者としては最も健全であろう。
例えば、輪廻転生が事実だとか事実でないとか、ブッダが説いていないとか、そういった議論(教義論争)は修行とほぼ関係がなく、大事なことは輪廻転生の思想を通して「善業を積んで悪業を止める意識」が生まれる勧善懲悪であろう(子供に"良いことをすれば天国に行けて悪いことをすると地獄に堕ちる"といった教育を方便として用いることと同列のようではあるが)。
つまり、釈尊の多くの説法が人の機根に対応したものであり、大概の人は一応の理解・信頼をせねばならない(文献学的にも証明されている原始仏典や基本教義にいくらでも輪廻思想は見える)。
無論、輪廻転生を信じなくとも修行が維持できる機根の高い人には関係ない話だが、そもそも輪廻転生が非仏説であるという見解に執着して議論をする人が、機根の高い人とは言えず、実践的な修行すらろくに行っていなかろう(彼らの実態について断定はしない)。

こういった議論に執着して迷ったり怒れば本末転倒であり、それらが「戯論」と言われ、原始仏教ではむしろ、それが正しい・正しくない、真理だ妄語だと主張する精神が否定される(無論Snp 907-などの話は大体の修行が成っている賢者の境地を説いていて私ら愚者が及ばない話)。
そこで修行が止まるならば、やはり教説への執着は捨てねばならない(そうでなければ一つの教説でもいいから胸に刻んでそれを指針として真面目に修行する・江戸時代某僧侶の正法観)。
だから、どこかの誰かが、信仰自体をやみくもに否定したり、輪廻説を弁駁して否定しても、それは修行者でない外道の所業であるから私の関知しない問題だが、一応、私の見解は書きたい。
信仰が要らない・輪廻転生を信じない、それで修行が成るならばそれでもよいが、私はそう思わない、というだけのことであろう。
信仰にせよ、輪廻説の信受にせよ、私のような未成年教団無所属・無師の者の中途半端な捉え方は、一斑全豹ほどでもないが「群盲象を撫づ」のたとえにも似ていて語るには畏れ多い。



釈尊自身を、一神教のゴッドや浄土教の阿弥陀仏のレベルで崇めることは、確かにこういった原始仏典だとか原始仏教の立場では否定されるに違いないが、健やかな信仰は、むしろ修行者に寄与する面が多いと考えてよい。
何か、信仰や信心自体を、イスラム過激派や、近現代のオカルト的新興宗教や、カルト教団の類を目にして悪いイメージに覆われた者たちが毛嫌いしているのではないか。
そういった偏見に執着しては、それこそ仏教徒としてあるまじき無明・迷妄・愚癡の姿である。
すべからく、そういった偏見の類を払拭されたい。
これについて「不条理だ!」と思うならば、それこそ既に修行の妨げである。
様々な教説に対する広い理解ができず、迷ったままでは、解脱は到底かなわない。
「中道」あるのみであろう。

私は、パーリ語の経典や上座部仏教圏で当然唱えられる「三帰依」に見られるよう、まず「仏"Buddha"・法"Dharma, Dhamma"・僧"Samgha"の三宝への帰依」仏教の三宝に対する帰依・信仰を促しておく。
大乗仏教諸宗では、その仏法僧の定義が変わりもするが、ひとまずテーラワーダにはテーラワーダにおける三宝の定義がある。
これを私から明示する必要はない。
三宝を尊敬・信仰する意義は、仏ましまし、その仏が法を説き、その法を伝え弘める僧(サンガ・僧侶の集団)がいる、そういった教法の時空に渡る布教と維持への祈念にある。

私は、「三宝一体」と呼んでいる。
三宝のうちの一つが欠けては、私やあなた方を救済するもの(解脱への道しるべ)が今は何もない・・・という悲惨な状況となっていたであろう。
こういった慈悲心・信心を起こさなければ、あなたの救い(修行・解脱)もなく、あなたと同じ時代やその後の時代にも救い(修行・解脱)がなくなってしまう。
悲しいことであろう、故に、仏教徒、とりわけ在家信者・在家修行者は三宝を敬うべきである(現代人がそう思えなくてもこういった理解は伝統的に受け止められた経緯がある)。

あなたは解脱するために仏教を学んで修行をしている。
その解脱の法を説いて自ら解脱している「仏」とその「法」を信じ、その仏法をあなたの時代・国家にまで伝えてきた「僧」を信じる。
「仏」は解脱し、仏の所説の「法」は解脱への道を示し、それらを「僧」は現代までに伝えてきたので、あなたが解脱を目指すならば、三宝の一つでも疑ってはならない(あなたが定義した三宝、テーラワーダならシャーキャムニブッダとパーリ仏典と上座部の僧伽・出家僧侶とを信ず)。
こう理解すれば、様式や程度の違いはともかく、修行する仏教徒に「信仰」があって当然である。
また、自分が解脱できるとの確信を持ってようやく信仰は盤石となる。
その意味での信仰すら無く、一様に「捨てよ」というならば、まさしく仏教が無意味となってしまうし、人々が仏教を学ぶ意味も無い(反宗教ならば合理主義・啓蒙主義などの西洋哲学で十分)。



上座部仏教圏でも、イスラム教で禁止される偶像崇拝が普通に行われている。
イスラム教では、神という創造主が人間と同じくして生み出した単なる「被造物」に対する礼拝など、無益であるばかりか、勝手な偶像で神を印象付ければ神の高尚さを損なうからといって禁止され、キリスト教でも神=ヤハウェ(エホバ)を描いた絵画などはほとんどない。
イスラム教の聖典であるコーラン(クルアーン)には、そのように偶像崇拝を禁じ(7章191以降)、そもそも神=アッラーには姿や形などがないと明記されている(要出典)。

一方の上座部仏教圏では、寺院に仏像や置き、絵画を掲げる。(オウム真理教のラオス巡礼動画・34分以降などに紹介されるほか儀式の映像もあり参考までに・ほかインターネットで)
これらを見てブッダと阿羅漢の弟子などへの尊敬を生じ、自分で教えを守り、時空に渡って残そうという道心や慈悲が起こるものである。
一神教における、神を極度に畏れて崇拝する信仰とは異なるのだから、ブッダ・弟子の姿などは、よほどおかしくない限り、個々人が尊いと感じられれば自由なイメージで良い(ただし多くの場合に三十二相といった外見の定義が求められるし特に上座部圏の仏像は金ピカが好まれる)。
ちなみに、ミャンマーには日本でされる仏像の開眼供養と似た、仏像を安置する際の儀式があるそうである(持戒清浄の比丘が5人以上集まって読経するなど)。

私自身は、偶像を好んで入手したり参ったり眺める必要は感じていないが、実際に偶像崇拝は多くの人に支持されている。
「ブッダは『自分の像を作ってを拝め』なんて言ってないぞ!」と鼻息を荒くする教条主義者には理解しがたいであろうが、修行は凡夫の機根に合って多種多様あって然る。
偶像崇拝が万人に必ず有益と言わないが、全否定されるべきでもないと思う。
事実、伝統的にこのような信仰が上座部仏教圏で連綿と続けられている。
伝統的な信仰は、その三宝に帰依する言葉やパリッタを日常的に唱えるとか、托鉢の比丘に恭しく布施するといった行動も含む。
パリッタを唱えることについては、例えば題目や念仏がよく現代人の中で一種の洗脳・催眠・自己暗示と言われているが、こういったことは自分に教えを刻み込む行為として有益であろう。
※後述するが、スリランカではピリット("パリッタ"の転訛)を儀式で唱えて護身を祈願している。



また、「神」自体の存在についても、釈尊はあながちに否定されてはいない。
むしろ、実在を感じられない神についてやみくもに否定することを、釈尊がされようか?
人々の間では、「捨て去れ」と求道者へ命ぜられたような信仰が横行していたから、「摂受」の立場で教説にしっかりと梵天(ブラフマー)や帝釈(インドラ、シャクラ、カウシカ、パーリ経でサッカ、コーシヤ)を取り入れられた。
これは大乗仏教で撰述されたとする経典に限らず、パーリ語の経典にも多く見られ、釈尊が法輪を転じられたきっかけである「梵天勧請」くらいは、日本のテーラワーダ信者もみな知るところである(相応部サンユッタ・ニカーヤ梵天相応1や長部ディーガ・ニカーヤ大本経・毘婆尸仏の話など)。
釈尊の弟子の御一人である難陀尊者が釈尊に弟子入りした経緯の逸話にも、帝釈天の忉利天が登場しているなど、これも広く知られるところである(パーリ経蔵・小部・自説経Nandasuttaṃ)。
原文などは、もはや逐一出そうと思わないし、もし読者の学びが広ければ、十分に思い当たる教説が見つかる事と思う。
そもそも、適当に眺めていても、頭に残るものであろう(その人の心があれば)。

無論、釈尊は、そういった神々そのものを信仰しろとはお説きでない。
しかし現実に、テーラワーダ・上座部仏教圏の寺院にはインド思想の神・・・ブラフマーやインドラが祀られる時もある(タイのワット・アルンが有名)。
神話上の生物(神鳥ガルーダ・蛇ナーガなど)を模したオブジェを随所に配置する、道教建築っぽい装飾も多い。
合祀というか、こういった神や土着信仰などの習合がないと教団も維持しづらかったであろう(そう書くと仏教学者・歴史学者・文献学者のような合理的思考のようで気が引ける)。
日本の大乗仏教・密教が行う邪命養身・邪命自活(護摩焚きなど祈祷・呪術・祭祀・儀礼)などほどでないにせよ、上座部仏教も教団の中に多少、"異物"の受容はあった。

特にタイの首都バンコクの街中では、ブラフマーやインドラをはじめ、ヒンドゥー教・バラモン的なシヴァやガネーシャやヴィシュヌなどが祀られた宗教施設も多い。
仏教寺院ではなく、ヒンドゥー教寺院や華僑系のものも多いであろうし、バンコクのみを語っては偏っていて仏教とは関係がないように思われそうだが、一つ、再確認していただきたい。
カンボジアもよく知らないが、統計上は国民の9割がたが上座部仏教の信者とされ、まあポル・ポト時代に僧侶の凄惨なる大量虐殺や僧団破壊などもあったが、今では上座部仏教が憲法で国教として定められ、実際に人々の生活と仏教が密接に関わっているであろうに、一番有名な観光地は由緒正しきヒンドゥー教寺院「アンコールワット」である(仏教徒の出入りも多い)。
カンボジアでも、民間の仏教信仰にヒンドゥー教の神や生物などが含まれていると考えてよい。
国ごとにヒンドゥー教との習合のレベルに差はありそうだが、いずれにせよ、日本のテーラワーダ信者が声高に唱える「ブッダの教えをそのまま守って継承した純粋仏教」といった趣旨は、一知半解に基づく。

仏教徒ならば「諸行無常」を知っているから、多くの人間の手で長い時間にわたって守られてきたものが、全くの変化もなく続くとは思わない。
北伝仏教・日本の教団や信仰が日本なりの変容を遂げたよう、南伝仏教・彼ら東南アジアやスリランカなどの僧伽・僧団・部派にも彼らなりの変容がある。
そこには、教義的な矛盾・誤謬や、修行・儀式の追加・変更も含まれて当然である。
この事実は、自称・ミャンマーに遊学して分別説部で得度したという真言宗お比丘さま(2000年代まで在家)がインターネットで色々と書いたところに学び取る要素は多い。

その真言宗お比丘さまは、スリランカの教団を酷評していた。
スリランカの仏教については、伝統的に法灯が断たれた経緯があり、今はシャム派という部派(名前の通りタイ・旧シャムから再度伝来した分別説部系の部派)が勢力として最大であるが、スリランカの仏教が一番古来の伝統を残していて正真正銘の仏舎利・仏歯があると謳いつつ、シンハラ人の伝統的カースト制度における高い階級"Govigama (ゴイガマ、内にラダラなど氏族がある)"の者しか出家できず、しかも多くの比丘が托鉢をしない、などが見られるという。
寺院での行事にしても、儀礼などでは密教のようにヒンドゥー教の影響を受けた作法を厳守し、先に言うパリッタならぬピリット(守護利益あり)を唱えて厄除けや魔除け、病気平癒などを願う(最近では交通安全祈願も始めた様子)。
これはこれで尊重したいが、仮にも日本のテーラワーダ信者は、そういった南伝仏教が伝統的で非オカルトの純粋な仏教であると頑なに主張しているため、その点では愚昧な話である。
いくら譲歩しても、彼らが原始仏教・純粋仏教などを標榜している教団の在り方には見えないし、少なくとも日本のテーラワーダ信者が抱える幻想(高尚で非オカルト)とはかけ離れている。
※お比丘さまとは別に、スリランカの寺院には必ずヒンドゥー教の神を祀っているといった情報もあり、著名な寺院も同様であるが、仏の歯が奉納される寺院の場合は不明である。

こういった情報は私が実際に見たというわけではないし、私も完全な鵜呑みにしてはいないが、それは幻想を抱えた日本のテーラワーダ信者であっても私と同じように上座部仏教圏の信仰の実情を実際には見ていない点で等しい(単なる観光で確認したという程度も同様)。
故に合理主義なら合理主義らしく、教理や歴史的経緯など、世間の情報を吟味して正しい理解に目覚めるべきではないか。
反宗教・反オカルト・反外道という名のセクト主義が実に強情である、その迷妄を自ら破れ。

"Apārutā tesaṃ amatassa dvārā, Ye sotavanto pamuñcantu saddhaṃ!!"





ここまで、教説の「理」と古代から現代までに至る教団の「事」という、「理・事」両面より説明した。
合理主義に基づき、学問的な見方を是とする日本のテーラワーダ信者が、実は随分と偏狭であり、彼らの合理主義に適った一説ばかりを見て正しい教えと思っている。
その一方で、日蓮系や浄土系などについてを「一つの経典や一つの修行に偏った邪教」であると主張する姿も見られる。
実際は、中村センセーを中興の祖として仰いだ新興宗教の狂信者が、日本のテーラワーダ信者である。
中村センセーですら、ずっと公平公正な視野があるが、彼の狂信者らがご都合主義の愚人であるとは、見るに堪えない悲劇である。
釈尊のみならず、教祖・中村センセーのお眼鏡にも適わないであろう(開祖・スマナサーラ長老については言及しない)。

既成宗教のオカルト性などを嫌った反骨精神で、「合理的・理知的・科学的で思弁哲学的(なように見える)仏教」をたまたま見つけ、あるいは仏教(特にテーラワーダ)を見つけずとも、何らかの思想に傾倒してその思想が正しいとみなし、宗教を非難する。
これまた、「反宗教VS宗教」の対立であり、実に愚かしい構図である。
そういった二元対立・二項対立を離れてこその仏教ではないか。
それは「中道」であり、「右」でも「左」でもないが、右も左もなくした「無」でもない。
また、仏教の教義は、確かに科学にも適う面は多くあるが、それのみを唱えては「画竜点睛を欠く」というものであり、仏教として十分ではない。

彼らが嫌う日本大乗仏教の一部宗派に限らず、彼らも偏狭であって十分にセクト主義が強い。
だから、自分たちの信念である合理主義に適った(ように見える)教説ばかりを金科玉条のように振り回しており、それこそ不平等で狂信的である。
日蓮正宗系の教団では、そういった釈尊や日蓮大聖人の教説の一部分を、文脈も考慮せずみだりに用いる愚行を「切り文」と呼んでいる。
正しい信仰を持てなかった者たちが、「自燈明・法燈明」を誤解して自分の偏狭な思想こそが法に適ったものと思い込み、これを妄信して已まない。

「中道」の立場から言えば、ただ信仰の良し悪しを吟味し、あなたの徳に資する信仰を取り入れて心の土壌を耕し、かといって狂信的になってしまうといった本末転倒を起こさないように用心すれば、それこそが仏教徒ととして好ましい姿勢であろう。
合理主義に毒された日本のテーラワーダ信者にとり、俄かには理解できないことと思う。
私は、そういった現代的な合理思想を一時は強く主張していたが、まさに毒が回らない10代のうちに仏法に値えて研鑽を進められ、そのために「中道」といった偏りのない広い視野が持てた。

テーラワーダ信者は、テーラワーダとしての正しい信仰、いや、個々人にとって心の土壌を耕してくれる信仰や精神の持ち方を、どうにか「自燈明・法燈明」の立場で探ってもらいたい。
「純粋な仏教・本来の仏教」を標榜するにも、それで他宗・他派を攻撃するのではなく、自分たちの矜持として清楚な修行と伝統の守護を日々に心掛けるための合言葉として念じてほしい。
そのようなテーラワーダ信者がいるならば、大いに尊敬したいと心から感じている私である。





起草日: 20160815

数日以内はだらだらと絵や音楽に手を付ける時間が続いていながら、この日は俄かに当記事を起草し、同日中に7,000文字近くを書いた。
元々から思っていたことや知っていた情報などを、吐き出してまとめた内容である。
改めて、短期間中の極端な変化に自ら恐れるばかりである、そう翌日8月16日に思った。
修行・研鑽も、絵や音楽という世俗の趣味も、順調に形を成せる取り組みが大事である。



日本のテーラワーダ信者の愚昧さについて、過去記事でも少々書いてある。
私はあくまでも、テーラワーダの教義自体は尊重していて一部信者の愚昧さを責めている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html#theravada

インターネット上に仏教を語る様々な人がいる中、原始仏典にどこまでも忠実な立場を持ちつつ、様々な思想を論じている人物がいた(当記事関連調査中の8月19日に知る)。
知識量はかなり膨大で、並みの日本のテーラワーダ信者よりも見識が広いようであるが、「原始仏典にどこまでも忠実な立場」であるから、例えばスッタニパータの4章・5章が釈尊真説としつつ、「信仰が種である(中村元センセー訳、Snp 77)」とある部分を含む1章は全体的に後世の仏教徒による創作・追加である、と見ている(ただし1-3犀の角の章のみ1章の中で真説とする学説も強い)。
信仰を頑として否定する魂胆には、この人物の主な批判ターゲットである新興宗教・信仰宗教のオウム真理教・幸福の科学、キリスト教の聖書などの影響があろう(彼はキリスト棄教者)。
本文中に私が綴るよう、信仰をどう論駁して否定しても構わないが、そこまで純粋な釈尊真説にこだわって"信仰"自体を否定する者も、その執着・信仰を持っている(信仰しない己が尊い信仰)。

しかし、仏教の信仰(三宝帰依・自信)を否定するならば、解脱を願った修行も無い。
何となれば、信仰を否定する者は往々にして「発菩提心」を欠かしている。
専ら理知的に学んでいれば悟りがある、などとでも思っていようか?
私は「行動だ!実践だ!」とかまびすしく言うつもりもないし、本当に「智目行足到清涼池」というよう、行動には知識が伴う必要(不二)もあるが、結局は実践を欠いていながらに実践を嫌って「日本人の好きな説教」と屁理屈を垂れるところ、実にものぐさの学者に過ぎない。
現代日本で原始仏教の復古をするにも、仏教の心構えが欠けてしまったところ、信仰一辺倒・修行懈怠・形骸化の既成宗教にせよ、どちらに転んでも日本の仏教は致命的な欠陥を残したまま(両極端)であると思う。

インターネット上にこういった、高説に高説を極めた「仏教学者」サマがいても、大概は現代的合理主義・物質文明のシャカイを謳歌した者であり、この者も様々な食品なり芸能なり世俗の執着が強く、自ら実践など何もないわけであるから、こういった者は「仏教学者・思想研究家」として尊重できても、熱心な「仏教徒」としての尊敬をしてはならない。
「科学的で合理的な教説のみをされたブッダ」という観念偶像を成立させても、結局、彼らは最後まで修行することは無い。
あの大阪のお比丘さまも、そういった学問一辺倒の在り方を示して「仏教学者と仏教徒は違う」、「学説の信者・仏教学信者」という批判を加えている。
また「観念遊戯」といい、これを譬えて「地図を眺めて空想に耽って現地へ実際に足を運ばない机上の人(あくまでも譬えであるから旅行など道楽・物見遊山を推奨する言葉ではない)」と表した。
無論、私も大阪のお比丘さまも、未だ悟っていない、未熟な凡夫であるから、多少は自説を持って言論を行うし、その姿勢が絶対に善いと言わないが、今の段階では修行の糧となろう。



以下は一部本文に対する脚注みたいなものとなる。
起草日の提示の段落から、ここまでの文章よりも、先に書いた。

本文中で少々触れたが、私の信奉である法華経ほか、日本の仏教教団で重用される経典の多くは大乗経典であるが、それらの所説のほとんどが偽作・創作(偽撰)である、といった主張が、よく日本のテーラワーダ信者の中で主張される。
「大乗非仏説論」といい、日本では早く江戸時代の国学者の富永仲基や平田篤胤が唱えた、外道による既成の仏教教団への非難である。
背景には、日本の既成の仏教教団・僧侶の堕落といった状態があった。
どの宗派も重用しない「阿含経(小乗の教えとして多少用いられる程度)」こそが仏説を残している経典とみなした。
後に西洋人が仏教全般を研究するにあたっても、パーリ仏典・経蔵(漢訳では阿含経と対応する)は最も釈尊の言葉を残していて大乗・漢訳経典は偽作・創作が多いとみなされたように、やはり歴史的に外道による非難である。
私としては、そういった学説も、仏教の修行とは別に一理あると思っているが、やはり修行者がこれを鵜呑みにする姿勢であってはならない。
大事なことは、その教理や教説が「三証」・・・特に現証に適い、自身の修行を助け、徳に資する教えであるか、といった判断である。
現代までに仏説として伝えられており、仏教の基本的教理である「縁起(因縁で生じる)」に適っていれば、それ以上に非難する余地が修行者にはあるべくもない。

※パーリ経蔵は増支部にある「カーラーマ経(Kesamutti sutta, Kālāma sutta)」というものを参照して正しく理解されたい。ブッダ様の説であってもあなた自身の仏教的な目的性(自身の苦を除くこと・その意味で如法であること)を通して正邪を確かめてほしいが、エセ学者の立場を抜け出せない日本のテーラワーダ信者の場合はいつまでも困難なままか。なお、カーラーマ経の当該箇所は、漢訳版である中阿含経・業相応品・伽藍経に載っていない。

仏説「筏のたとえ」である(またの名を"月を指す指"、"鰯の頭も信心から")。
たとえ釈尊・仏陀の真説であったとしても自身の修行に反映されないならば荘厳ながらに無用の筏(無用の長物)となってしまうが、ちゃんと因縁に適った教説でありながらに人々から「非仏説」とされるボロボロの筏でも、生死の大河を渡るに問題などなく、筏として機能する。
ここで、大乗仏教の一部宗派だと、「死後もずっと付き添うものとしての信仰」が見られるため、大乗の信者である私が言うには空々しいが、信仰についても「生死の大河を渡る」筏であり、一応はどんな仏・三宝でも、信じることで修行の助けとなれば、みな有益である。
私の場合「如渡得船(渡りに船を得たるが如し)」の法華経・日蓮大聖人の法門を信奉している。
法華経という大きな乗り物・大乗は、私と私の説を聞く人々を倶に彼岸へと渡らせるであろう。



文中の「依法不依人...」や、「切り文」といった語句については、曇無讖による漢訳・大乗の大般涅槃経(パーリ語のマハーパリニッバーナスッタではない)に詳しい。
「依法不依人...」は経文通りとして、「切り文」の意義を含めた経文は、日蓮大聖人の御書にも引かれる「是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん」という部分である。
端的に言えば、ある人が素晴らしい経典を読むとしても、いい加減な解釈をしていい加減に文章を取り出して用いる、といった具合に、経文を乱すと説かれる。

そのような態度で自分の都合のために前後の文脈などを無視して「経文を切り取る」ように用いると、これは日蓮正宗系の教団では「切り文」といって非難される。
私のような原典主義者は、特に、こういった「切り文」の非難を蒙らない努力が重要である。
このような大般涅槃経は、大乗仏教の論理性がよく現れた教説が多く、これを受け止めて折伏を行う。
折伏には、勧持品(忍従)といい常不軽菩薩(尊重)といった精神面の教説と、大般涅槃経に見る論理面の教説とがあり、いずれも折伏の基礎となる。
これら全てが、日蓮大聖人の折伏や一代の布教に現れているものと拝察する。



追記: 2018年3月9日

本記事中に"SuttaCentral"へのリンクが複数あるが、同サイトが日本時間2018年3月8日にリニューアルされたことに伴い、一部のページURLが変わったため、新しくリンクした。
リニューアル概要の動画→https://vimeo.com/257038431

ついでに、ここで一つ、読者に何か宿題を書いておく。
以下の言葉(パーリ原文・日本語訳)は、主題の一つである「信"saddhā"」の原形の動詞"sad √dhā"二人称・複数形・命令法で用いられており、関連する「信解"adhimukti"」の原形の動詞"adhi √muc"も同じように用いられている。
これは、どういう趣旨の教説であろうか?
検索などの手段を用いて原文の経典を探し、自ら問うて答えられたい。

Saddahatha me taṃ, bhikkhave, adhimuccatha, nikkaṅkhā ettha hotha nibbicikicchā. Esevanto dukkhassā
訳: 比丘たちよ、あなたがたは「私のそれを"me taṃ"」信じ・信解しなさい。("me taṃ"について)疑惑なく・疑いなき者たちとなりなさい。「これ"esa"」こそが苦の終焉である。


2016年8月25日木曜日

三大宗教の「慈悲」観を比較する

※敬語使用の背景は察してほしい

諸宗教にはない「空」の思想こそが平和の原理

宗教はアヘン"Die Religion ist das Opium des Volkes"・信仰の意味は無知"Glauben heisst Nicht-wissen-wollen"」という西洋哲学者などの言葉は、キリスト教を念頭に置いて発されました。
これは、キリスト教やイスラム教などの一神教についての非難としては的を得ていましょう。
ただし、私としては、西洋において宗教や信仰全般を否定した、仏教を知らない多くの西洋哲学者の思想なども、一神教の教義と同様に愚昧なものと思っています。

さて、キリスト教やイスラム教が説いている慈悲とか慈愛とか博愛など(mercy, pity, love, kindness, compassion, agape)は、単なる精神論の美徳であり、空虚・空理空論です。
後述のように「慈・悲"Ji Hi = Skt: Maitrī Karunā"」はもっと奥深い概念でしたが、明治時代以降でしょうか当時の日本人はキリスト教やイスラム教の"Mercy"や"Compassion"ほか"Love"の類に「慈悲」を訳語として当ててしまいました(「戒・律"Kai Ritsu = Skt: Śīla Vinaya"」という言葉も漢字の意味からするとイスラム教の概念に訳語として当てては不適切)。
過去に宗教戦争を起こし続けたキリスト教は、第二次大戦後に盲目的な慈悲を説き続けて過激派を生む素地を整えてしまいました。
現況のキリスト教が説く慈悲などは、悪をも悪のまま助けてしまう紛い物です。
そこに、アッラー"Allah"を飾りあげる(Al Rahmanという異名)ための軽薄な慈悲を説くイスラム教の中から、無慈悲な過激派が忽然として勃興しています。

現在の様相は、まさに近現代キリスト教の思想的支配(多文化共生・宗教多元主義・人権尊重・人道主義・合理主義・民主主義・リベラルなど)が根本原因であると知らねばなりません。
過去の巨大戦争への(極端で自己陶酔の)反省をし、(自己陶酔のために)良かれと思って行い続けた人道支援やイスラム教への寛容な姿勢が、かえって過激思想の広まりを助長した事実です。
宗教という心を重んじても、ただ現世的で世俗的な物的支援ばかりで、彼らが奉じるところの西洋的な教育(イスラム主義を奉じた過激派が蔑視する)は不十分でしたので、過激思想を抑制することはありませんでした。
イスラム教徒・ムスリムとなる選択は、西洋的な教育を受けた後、「信教の自由」に任せて選ばせればよかったのでしょうが、それも実現が難しかったことでしょうか?

これからもほくほく顔を浮かべたローマ教皇(法王)・フランシスコだとかのお偉いキリスト教徒や、その走狗の如きEUなど人権屋、更に日本・世界中の識者さまが自覚しないうちは、今後とも悪を生み出すことでしょう。
彼らは高座ですまし顔でいられ、一部キリスト教徒やイスラム教徒が協調の姿勢を見せても、争いの当事者である下層の民衆やEU域内の移民・難民やテロリストなどの間では、軋轢が強まり、争いの火種が絶えず生まれ続けます。
虚栄の慈悲はかえって他人の悪を増長させる・・・「自由」や「放任」とは、決して過保護だとか好き勝手にさせることを意味しません。



私が奉じる仏教は、色んな教理に裏打ちされた「慈悲」を説いています。
「慈・悲"Ji Hi"」の字義を簡単に言えば、「慈」は思いやり、「悲」は哀れみであり、英語で言えば、"Benevolence"と"Pity"を合わせたような言葉です。
片方の英単語の意味だけでは足りません、両方の意味を合わせた単語です(「戒律」もこれで一つの意味ではなく「戒・律」という別の意味のある漢字を2つ合わせた単語)。
「慈悲」の字義から言えば、個人的には"Loving-Kindness"という通常英訳が適切と思いません(MaitriとかMettaといったサンスクリット語・パーリ語も実は"慈"の意味しか含んでおらず漢語の"慈悲"という四無量心・四梵住のうちの2つの概念を言うには不足がある)。
漢語では「抜苦与楽(苦を抜いて楽を与える)」と言われますが、この場合は「抜苦」が「悲」で、「与楽」が「慈」です。

また、「不生不滅」だからこそ「慈悲」です。
「不生不滅」といった「空」を知ってこそ、慈悲や信仰などの精神や実践は活きていきます。
「空」とは、キリスト教にもイスラム教にも強調されることのない真理の一つです。
大阪の覺應さんや大阪の英俊さんなど、彼らは「空」を理解しつつ、慈悲が大切であるとよく訴えられています。

苦しみの性質を説いた「縁起」、その苦しみを構成する事物・苦しみを受ける生命など「縁起」にとらわれる全ての事物・生命が「空」であり、それを知って自分の苦しみを捨て、「空」が根付いた「慈悲」で他人の苦しみを除く(除こうとする意志)、という点で、自他が苦しみから離れるには「空」と「慈悲」のどちらも必要です。
その関係性は飛行機の両翼とエンジンや、建築物の基礎と柱や、建材と金具(枘鑿・ぜいさく)の関係と似たようなものです。
こうして堅実に理解を積み重ねなければ、苦しみの呪縛は永く続き、解脱は到底ありません。
よって、一つでも欠かして進ませれば、手抜き工事の建築物のようにどこかで瓦解しましょう。
※今ご覧のみなさんは今すぐに「空」に関わる教理を解せずとも、一応そういうものと認識してくだされば理解できない文章でもありません。また、深い理解を求めれば、読んでいきなり達成できるはずもないため、ひとまず全文を読んで考え直しましょう。

私の説明を聞かない限り、「空"Emptiness, not Nihilism"」と慈悲は相容れないと思われる傾向がありますが、実は多くの教義とセットなのです。
大昔、仏教徒の中にも、「空」が他の教義を否定するのではないかという議論があったくらいで、理解されづらい歴史があります。
「空」の聖典である龍樹菩薩の中論・観四諦品(24章)にも、仏教の「四諦」や「四果」や「三宝」といった教義(分からなければそういう教義があると認識するだけでよい)は「空」で否定されず、むしろ「空」ありきでそれらの教義が立つとされます。
「四諦」などに限らず、慈悲であっても「空」が根本です(そのタネは"縁起")。
※典拠は中論24-20偈「若一切不空 則無有生滅 如是則無有 四聖諦之法」など(文意が分からなければそういう教説があると認識するだけでよい)

仏教の慈悲は、自分から他人への「抜苦与楽」のみならず、自他の悪をも抑制します。
それができねば、慈悲は慈悲でなくなります。
ただ自己や崇拝するものを装ったり、取り繕うだけの概念ではございません。
俚諺に「情けは人の為ならず」とあり、この"ならず"はナリ活用否定形なので「情けは人の為ではない、自分の為である」という意味となりますが、キリスト教などの慈悲は、所詮ここでいう「情け」の程度の粗末な美辞麗句に過ぎません。
自他は不二、善悪も不二、であるならば、仏教の慈悲とは他人への抜苦与楽のみならず、自分にも抜苦与楽があります(ただし小乗仏教では自分の抜苦与楽が本意である)。
自他に善をもたらして悪を打ち消します。



とはいえ、無論、仏教にだって素敵な教義(本覚思想など)を弄んで悪行を重ねる輩もいます。
しかし、それは多くの教理を知ったつもりで、実際はまともに理解していない慢心・不信心・無道心の者であり、また極少数です。
90年代のオウム真理教のみならず、戦国時代の日本では、愚かな民衆や僧侶までもが、一部仏教宗派の名のもとに戦闘に参加しました。
本来ならば「不生不滅」という「空」の思想に基づき、我が肉体が害されて滅ぼされようと結果論ですが、そういった宗派を奉じて戦闘に参加したことは、日本仏教を独自に信奉する私(未成年・広義の無宗教ですが)としても大いに省みるべき負の歴史です。

その「不生不滅」の理解は、原始仏教の故事が参考となります。
例えば、釈尊十大弟子の一人である目連尊者は「神通第一」といわれ、「神足」という瞬間移動などが使えますが、釈尊の涅槃も近い時、仏教を憎む外道(婆羅門・梵志)に殺害されようとします。
目連尊者は絶体絶命の危難を「神足」で脱するも、重傷を負っていたために同朋の元に戻ってから同朋にその原因を問われ、不可避の業による因縁を明かし、間もなく示寂されました。
また、釈尊は、故郷の人々が襲撃されると知って相手側に3度停戦を促すも、4度目を前に故郷の人々と相手側の深い因縁を知り、ついに停戦に入りませんでした(その後は相手側によって釈尊の故郷の人々への虐殺が始まる)。
「空」による戦闘の不参加は事実に明らかです。

※イスラム教のムハンマドは自分の命のために戦争を辞しませんでしたし、そもそも戦争"Jihad"して敵を滅ぼさねば死にそうになって説教もできなくなる人間が教祖では邪教そのものでしょう。仏教の釈尊や高弟たちが、婆羅門や六師外道や提婆達多などの迫害を受けても忍従された御事跡と、比べるに及ばない卑小な根性です。磔になって殺されたキリストも教祖として不十分であり、イエスのリザレクションは夢想です。己の命が惜しい常見のムハンマドに加え、キリストへの執着が強くて常見の教義を生んだクリスチャンも、「空」の理解などは絶無でした。

自分たちが殺されるとしても「不生不滅」、そもそも生きる我が身も死する我が身も、他人の身も、すべて「不生不滅」であり、「空」ですから、深い因縁があって殺されるならば受け入れるしかありません。
人間個人の生命とは最初から「空」であって、生まれも滅びもしないようなものです。
仏教に「生老病死」の苦が説かれていても、仮に説いたに過ぎず、「生老病死」もまた「空」です。
よって、例えば先ほどの目連尊者は、空の思想を理解していたため、死を恐れず(神足によって危難を逃れようとした経緯は仏教徒として生きる使命を自負していたためや相手に悪業を生ませないためか)、死に際しては苦しみもなく無余涅槃に入られたことでしょう。
※目連尊者の話も釈尊の故郷の人々の話も、増一阿含経(前者: 巻第十八 後者: 巻第二十六)を参照します。目連尊者の話については何と最後の偈の中に「不生不復滅」と一句があり、私の話どおり、「不生不滅」の理解を釈尊が示されていました



我が身への執着(我執)に気付かないと、宗教を奉じた戦争を起こします。
「神の名のもとに殺せ!」ではありませんが、やはり自分たちの宗教・宗旨・宗派に偏重したセクト主義があり、「空」を知らないままでは、その宗教・宗旨・宗派の教義の狭隘なる一部分だけを受け止めて戦闘に走ることは必定です。
無慈悲ですね、「空」を知らないで「慈悲」など、到底説けるものではありませんと分かります。
教理を学びきらなかった極少数の日本仏教徒や、西洋でいうと過去のキリスト教、現在のイスラム教(過激派)が、実際に具現化しました。
今のキリスト教であっても、独善的な反省が盲目的な「慈悲と称する偽善」を増長していますから、イスラム過激派の生みの親であり、過激派が台頭した根本原因です。

このように、仏教の「空」を知らねば、修羅の業による戦争を起こし、起こした者は地獄の境界のまま死後には地獄に堕ちる悲劇を歩んでしまいます。
ああ、なんと胸苦しいことでしょう。
彼らは、そういった仏法の真理・真諦には微塵も関わることがありませんでした。
そういった仏法の真理・真諦を知らない者たちが「外道」であり、自他に平和をもたらすことなく、己の解脱もままなりません。



最後に、「空」と「慈悲」が、より教義として密接に関係しあう理由を書きます。
お気づきの方はお気づきになるかもしれません。
目連尊者などは「不生不滅」という「空」を知りつつも、厭世的でなく、また虚無主義的でもなく、懸命に生き抜かれようとしていました。
自分も他人も、憎い人間も、憎んでくる人間も、家族も、国の支配者も、みな「空」です。
動物も植物もあらゆる物質も、人間の文明や言語や知識なども、全てが「空」です。

更に、自分の一生は「空」ですが、また何よりも大切です。
大事な自分の一生が空ですから、他人や、憎い人間や、憎んでくる人間や、家族や、国の支配者など全人類や、果ては動植物の一生も、みな「空」ですが、それも等しく大切でしょう。(事実はともかく仏教徒はこのように考えなければならない)
そして、誰でも大乗仏教でいう「仏性」があるならば、あるいは誰でも徳を積んで解脱ができるならば、どうしてその自他の生命をみだりに蹂躙できましょうか?(修行も解脱もできないように見える人間がいるという価値判断をひとまず捨てて仏教徒はこのように考えなければならない)
目連尊者も釈尊の故郷の人々も、生き延びようと懸命に戦われましたが、同時に、相手を傷つけず、殺さず、自分の生命への執着や生存への欲望に対しても戦われたのです。

「空」、「慈悲」・・・・・・このようなものであり、こうした考え方がそれぞれの教義を相互に活かしていく、そんな深遠にして俄かには理解しがたい仏教を、これからも私は「慈悲」のために広宣して参ろうと強く願いを発しています。
私のような煩悩具足ともいえる末世の凡夫には小慈小悲(自分の心を養えても他人を直接に救済できない小さな慈悲、仏・菩薩でもない衆生は誰しもこれが限度とされる)ばかりで精一杯ではございますが、一人でも多くの人が、真に「平和」という空想じみた、人類共通の理想を実現できる唯一の道を示す仏法の妙音に預かることがあろうと願ってやまない所存です。

こういった「空」の理解がないキリスト教やイスラム教の「慈悲」では、平和の実現も無ければ、常に同じ一神教同士の争いを発生し続け、どちらかを潰す(自他や善悪を分断する二分思考)までは解決しない上に、仮に片方が勝利しても、その中の派閥が争う展開は必定です。
今の時代は、核兵器など大量破壊・殺戮の兵器もあります。
そこでは、関与するほぼ全員が苦しんで死ぬか、文明破壊・人類絶滅の天変地異を待たない限り、争いの輪廻が断たれない悲劇を、再度、知ってもらいたく念を押します。
キリスト教やイスラム教が共存する文明で「平和」があるとすれば、それらの宗教の教条主義が消え、「民主主義・宗教多元主義」を立てて「みんな仲良し」という、宗教の形骸化くらいしかありません。
そんな「みんな仲良し」も、「空」が理解されないままでは絵空事に過ぎない夢想でしょう。



起草日: 20160803
「依空慈悲抄」?
思えば、戦後の日本も、そういった偏狭な慈悲を歌うキリスト教や西洋の人道思想に触発され、ただ中国や韓国に頭をペコペコと下げ、インフラ整備や莫大な投資を続けた(陰徳絶大)。
もし中国や韓国が日本を尊敬し、彼らも彼らの中の悪や非を自覚して抑制するならばよかったものの、実際は日本の寛容さに付け入ってその悪を増長している。
実例は枚挙に遑がないため、省く。
これも、偏狭な慈悲を歌うキリスト教およびそれを奉じている欧米(アメリカ・EU)が、中東やアフリカといった国々のイスラム圏の悪を増長させ、テロリストや過激派を生み出し、9.11テロやパリのテロなど、自分たちをも苦しめている現象と同一轍である。

同じ岐路に立たされている日本と欧米は、このキリスト教的な思想が元凶であると思うほかない。
日本も欧米も、自己陶酔のような反省で、中韓やイスラム圏を好き勝手に許して悪を見放しつつ(悪化してから米英仏露などが爆撃を行う始末)、自分たちの悪だけは強く戒めている。
中韓およびロシア・北朝鮮と、日本との問題は常態化しており、領土問題は勿論、拉致被害者であるとか、種々の問題は当面、解決の糸口が見えてこないばかりか、現状のままでは解決など夢のまた夢である。

やはり、自由・平等といった理念は相互が理解してこそ成立する。
悪を自覚して反省するにも、相手の悪をも責めて正さねば、公平ではない。
こうして相互の善悪を認めることで、初めて平和が成立するであろう。
この思考は、親子喧嘩を主題にして語った過去記事を参照されたい。



追記: 2016年10月24日
某サイトでの投稿に関連し、漫然と勉強する中に「慈悲」は3種類あるということをたまたま知った。
一般に「大慈大悲」という表現があり、状況によっては意味も変わるであろうが、3種類(三種)の慈悲は教理によって小・中・大が分かれている。
3種類とは「三縁」であり、慈悲の縁とするところ(対象とするところ)が3種類あるという。

まず小の慈悲が「衆生縁」の慈悲であり、「空」を知らずに衆生に対して起こす慈悲であり、本文中にもあるキリスト教や一般道徳で言われる程度の慈悲、情けの類である(ものによって「空」を知っていてもこれに当たるか)。
身近な出来事や人間関係などによって起こりやすい(私はむしろ仏教を学んでから改めて愚かしい親・他人などにかえって憐憫を感じるようになったので下記の大の慈悲があってこそ小慈悲も成り立つ一面はある)。
凡夫に多く残る煩悩が起こす慈悲である場合、好き嫌いの感情により、刹那的である=小さい慈悲と考えてよい。
中の慈悲が「法縁」の慈悲であり、自身の執着を無くしつつも「空」を中途半端に捉えた説一切有部の法有我や五蘊の有我に基づいた「いわゆる小乗仏教」において修行者が起こす慈悲である(とされる)。
小乗とされる阿含経・パーリ語経典に、「四無量心(四梵住)」としての「慈・悲(および喜・捨)」の修行が説かれる。
大の慈悲が「無縁」の慈悲であり、「空」を知ってこそ生じる平等の慈悲であり、私などは理性によって真似ができそうでも到底できはしない、仏・菩薩の大慈大悲である。

これらが小・中・大と名付けられる理由は、慈悲の平等さや盤石さに依ろう(本文説明の通り)。
このように「空」を知ってこそ広大にして強固な慈悲となる。
私の求めた答えが当日中、別の形で知ろうとは、仏法の不可思議なる利益を改めて感じ取る。

更に調べ直すと、空の聖人であらせられる龍樹菩薩の大智度論(ここでは文献学的な疑義を差し置く)巻第四十にもこの三縁慈悲(三種慈悲)について記述があり、大慈悲の「無縁」については「諸仏は善く畢竟空を修行するが故に、名づけて無縁と為す (諸佛善修行畢竟空故名爲無縁)」とある通りである。
大智度論は巻二十において、三縁を詳細に説いている(衆生縁の慈悲が「愛楽(あいぎょう)」によるなど)。



イエス・キリストさんが、実は空(心における縁起)を悟っていて一神教の神に仮託しつつ、慈悲忍従で処刑されたという発想は・・・。
いいや!仮にイエス・キリストさんが知っていても、「実際にその宗教で人々が幸福になるか?(抜苦与楽されるか?)」という問題に直面する。
例えば、日本の鎌倉時代で、法然上人の専修念仏が、国に害悪をもたらす教義・修行であるとして天台宗・法相宗(貞慶)・禅宗(栄西・道元)・明恵上人・日蓮大聖人などに非難されたわけである。
よしんばイエス・キリストさん(または高等批評でいう後世の聖書編纂者)が法然上人や親鸞聖人のように空の道理(縁起)を悟っていても、教化の中で明示されず(せいぜいルカ18章ヨハネ1章ローマ1章くらい)、明示されたところで歴史的なキリスト教は闘争的な一面ばかりが顕著であったろう。
日本仏教では、小乗も大乗も「一乗」であり、「平等に悟りが得られる(解脱ができる)」ことを高僧の誰もが知るが、本当に悟りが得られるかどうかは別の話だから、という前提で種々の論争があったわけで、この観点でキリスト教は、日蓮大聖人の「三証」のうち、百歩譲って文証・理証が良くとも、事証では好ましくない。
鎌倉仏教系の信徒でも、当記事で語るよう、武装をして宗派の教義を奉じながら流血の闘争に躍り出た点、畢竟、どんな宗教や時代でも、個人の精神が最重要だと言われてしまう。
個人主義の真意や、ヒューマニズムかも。



追記: 2017年9月21日
慈・悲・喜・捨という「四無量心(四無量行・四等心・四梵住)"apramāṇa citta (brahma vihāra)"」に関する見解は、萌えの法門で更に開示した。
萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会の擬古文や、四会の注釈にある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#ideo4

後々、パーリ経蔵・長部や漢訳・長阿含経にある「三明経」などにある「慈ないし悲・喜・捨で一方~四方・上下・横・一切処を満たす」という教説を閲覧した経緯を執筆した。
それは2017年8月であり、2017年10月に以下のパーマリンクに投稿する予定である。
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/10/brahmaloka-sukhavati.html

以下、参考程度に抜粋し、上記リンク先のページにしていない説明をする。
Dīgha Nikāya 13 - Tevijjasutta (長部13経・三明経。以下は中部40経Cūḷa assapura suttaなど経蔵の随所に同じ形で見られる)
慈で一方・四方・上下・横・一切処を満たすことの教説→So mettā­saha­gatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati. Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettā­saha­gatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.

悲→ karuṇā­saha­gatena cetasā …
喜→ muditā­saha­gatena cetasā …
捨→ upekkhā­saha­gatena cetasā …

そのように慈悲喜捨の心を「自分が思う・知り得る世界」に平等・普遍に満たすということ(じっくりと入念に堅実に粘り強くひろげてゆくこと)が「慈悲喜捨の心の無量である状態=四無量心"apramāṇa citta"」であり、三明経によれば、現世で梵天と共にあり、来世に梵天へ転生する業となるようである(このために梵住"brahma vihāra"とも呼ぶ)。
上記パーリ文の引用にもappamāṇenaという語があり、それは「無量」を意味するサンスクリットの同義語"apramāṇa"であり、具格である(apramāṇa-cittaという複合語は共に名詞の語幹であるが持業釈"karma-dhāraya"で語順を替えて「心の"citta"無量なる"apramāṇa"+状態」と訳せられる)。
上座部仏教でしばしば唱えられる「パリッタ中の慈経"Metta Sutta"(元はスッタニパータ1章8経)」にも、上記パーリ文の要点が含まれる(ほかMettāsuttaというほぼ同名の経が増支部11.15経)。

無執着・無瞋恚にして能動的な慈悲も備えるならば、相当の理法を弁えて智慧・般若もあるので、解脱どころか事における成仏の道でもあろう。
それとも、慈悲喜捨とかの業ですらも個人の解脱のみを目的とした際には、「道の杖」とか「河を渡るための筏」に過ぎなかろうか?
解脱したいか、成仏したり菩薩と成ったりして衆生済度をしたいか、とは、目的"artha"の置き方の違い程度であって「本来は毫釐の差も無い」事柄だろうか?

2016年8月18日木曜日

各宗の修行はみな解脱の正道である場合、日蓮大聖人のご教示をどう受け止めるか

西洋のことわざに「全ての道はローマに通ず」があり、日本でも比較的知られよう。
仏教・仏道の「解脱(成仏・往生・涅槃などを総括)」もまた然り、と考えられなくはない。

例えば、江戸時代のとある僧侶は、「正法」という宗派ごとに相容れない概念について円満にする見解を示している。
即ち、座禅にせよ念仏にせよ唱題にせよ真言にせよ、各宗の修行は名聞利養(世間の名誉・利益)などを眼中に入れず、専心に修行すれば、みな解脱の正法となる、と。
無心に専心に物事に取り組めば、目標とするところに行き着くであろう、とは、誰でも一度は思ったことがあろう(勇躍の足、自ずから長安に到る・略、自作の漢詩)。
その目標を叶える結果を強く望んでもよいが、望みすぎるままでもよくなく、真面目に直向きに質実に今を生き抜けばよい(反面に仏道で無心なのではこれもよくない)。
同じ目標のためでも、ただ私やあなたの良いと思う手段"Way"を選べばよく、私が他人の選択"Way"を批判してする権限が無ければ、他人に私の手段"Way"を嘲笑される筋合いも無い、とまでお考えのようである(背景として江戸時代などは仏教各宗の論争"宗論"が多かった)。
そのように仏道修行を広い視野・・・宗教多元主義的に見れば、「一切修行・皆是正道」とも言えようが、やはり各宗は多少の排他的主体性も無ければ宗派の尊厳も無くなる。

※この江戸時代の僧侶(慈雲尊者・飲光)も、ああ述べた本意は「戒律(特に四分律など二百五十戒)を持つ修行」へ導くためであった。超宗派的ながらに、彼のこだわりが表れている。あの当時、多くの僧侶が小乗の戒から大乗の戒まで持とうとしておらず、宗論に交わる者はそこそこいる程度で葬式仏教化が進んでいた。結局、仏道に入らねばみな六道輪廻を繰り返すか、逆として真面目に仏道を進めばみな後生善処や解脱に至るわけで、単に超宗派的では仏教不要・修行不要の邪見に陥りかねないから独自のこだわりは必要か。俗に「鰯の頭も信心から」と言っても、永遠にそれではならない。仮に敬虔なキリスト教徒がいて異性や富裕に興味を持たず信仰・修道を熱心に続けても、彼に解脱はできない。無心で滅私奉公する軍人、または労働者でも、当然解脱はできないことと同じで、須らく仏智に依るべきか。そういう時、この僧侶であれば、仏道修行の中でも戒律を重視するわけである。私の漢詩で言えば「勇躍の足」のみならず、仏法の智も満足している必要がある。セクト主義も、排除しきってはならない。



私の信奉は何であろうか?私の選択"Way"である。
私は様々な経緯によって日蓮宗的な信心を選び、日々に修行(2015年末から毎日に朝夕の勤行を上げるなど)を続け、教学の中心も法華経や御書(日蓮遺文・御妙判)としている(元々雑駁な研鑽の中でも最近は中観派きどり)。
その信心と修行が、諸道の中の「最第一」にして「成仏の直道」であると信じるところである。
祖師にあらせられる日蓮大聖人は、宗教に詳しい日本の人々・仏教諸宗の人々ならばご存知の「四箇の格言」に代表される排他性の印象を持たれている。
先の記事で私は、その一面を取り上げつつ、「中道・和」を感じさせる教学の在り方(日蓮大聖人の法門を諸宗の亜流であると言うつもりはない)も示した。

日蓮大聖人の法門には、まず「五重の相対」という教義の判断基準があるが、そのうち「大小相対」・「実権相対」の上から見れば、先ほどの僧侶のような宗教多元主義もとい超宗派的な「正法」観は、邪義に当たる。
「大小相対」という大乗教・小乗教の区別は、大聖人御在世において問題とならないが、やはり「実権相対」において権大乗の経典と教理「爾前権教」やそれに依る宗派「権宗」については当時非常に多かったので、そういった「権宗」へ、大聖人は個々に破折されたのであった。
特に他宗派色の強い経典(浄土三部経・大日経など)は、大聖人の教説の根拠とならない場合が多い(法華経以外で主要な引用経典は大乗の大般涅槃経が有力)。このように、法華経(および大乗の大般涅槃経)を「実経・実教」とし、五時教判で法華経以前(已前)とされた大乗経典を「権経・権教」として明確に分別をし、末法では「実」の教理しか有効でないとする大聖人の法門(究極は「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し・ただ南無妙法蓮華経なるべし」)においては「権」のものに執着すると謗法であり、罪障を積んでしまうらしい。

ここでもう一点を付け加えると、日蓮大聖人がご教示の修行法に正確に随わねばならず、一分なりとも信心を欠かせば地獄に落ちてしまうという教説である。
「正直に方便を捨て(法華経方便品の引用)」
「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ(法華経譬喩品の引用)」
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し(顕立正意抄・末文)」
「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄に堕つべし(曾谷殿御返事)」

こういった言葉を、私としては、その実際に地獄に落ちるかどうか自体を云々していると思わない。
つまり、「それほどに純粋な心(信心・求道心)で用心して挑まないと、邪心が生じて道を外れたり、折角の位を退転しちゃうよ」という「教戒(教誡・教訓)」であると私は受け止めている。
無論、そう理解した時、好き勝手に心を移ろわせてもよいわけではない。
日蓮大聖人のこういったご教示も、完璧にはこなせないかもしれないし、色々な紆余曲折や邪心もあるかもしれない中に、完璧にやり遂げようという気概は第一に尊いと思う。
完璧主義のために、少しの失敗や邪心があるごとに大きな罪悪感や背徳感を起こしてしまう潔癖症みたいな思考に陥らないよう、バランスをも保てばよい。
何事にもこういった理解や姿勢は、継続の肝心となるのではないか。
ただ、こう私が語るメンタル面の話は、管見の限り、大聖人のお言葉では未見である。



私のこうした理解も、例えば日蓮正宗・創価学会・顕正会では邪道・邪義とみなされようか。
これらの大聖人のご教示が単なる理屈や観念論ではなく、文字通りの「不惜身命」や「身軽法重・死身弘法」や「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」であるとし、その実践=折伏(彼らのいう破折屈伏・摧破調伏の意)を訴えている。
先の顕立正意抄にも「四悉檀(大智度論巻第一に言う説法の形式の4種類、悉檀"siddhānta"の原意は"成就・達成")」が挙げられ、このうちの「対治悉檀(3番目・薬が病原菌を撃退する勢いで相手の非を責める説法の形式)」のように強烈な折伏が、末法の世界で有効な手段であるそう。
それらは、哀れなる邪宗・無宗教の人々を「慈悲」によって救う精神で行うとする。
彼らの主張にも一理あるが、やはりそれは彼らの手段"Way"であり、機根低くして才覚にも乏しい私には至極困難であり、彼らを遠目に応援するだけとしておこう。

仮にも彼らと接触するだけで「勧誘される」とか「強引に入信させられる」とか「集団ストーカー被害者になる」とか「殺されちゃう」と思ってしまう人もいるであろうが、私はこの際、どうでもよく思っている。
いつも、禍福を結果論と思っているが、仏罰厳然たれば強く慚愧せねばならない。
いや、何事にも苦しみを覚え続ける私は常に自覚して反省し、改善への努力を続けねばならない。
個人的には、真諦から見た全ての現象には必ず原因があると思うも、俗諦から見れば原因は特別に挙げられないいわゆる「不条理」な現象・物事の方が断然多いため、「結果論」と思っておくことが一往は最善であるが、再往は真諦(十二因縁など)から見て全て悪しき我が生・業の果報と思う。
この真諦を踏まえて常に自覚して反省し、改善への努力を続ける姿勢は大事である。
無論、俗諦での原因も、単なる「結果論」として一顧だにしないという「思考放棄」を意味しない。
真諦の面も俗隊の面のどちらとも、しっかりと見つめて考えつつ、精神衛生上は気にしないことが修行者の道心を乱さないであろう、と言いたい。

さて、日蓮大聖人の法門は、きっと忠実に実践すれば、日蓮大聖人がご教示の果報、つまり即身成仏や一生成仏が得られるという。
まさに「如説修行」によってこそ、説の如くに果報が得られるのであろう。
ここまで引用したような多くの教説を根拠とした「如説修行」を、彼ら教団の信者は絶対的信心・急進的思想より、潔い「折伏」として展開しているであろう。
その急進的思想で革命的な布教活動・折伏闘争をする中に怨嫉や大難をも恐れず、勇猛精進をされている彼ら教団の中の信心深い人々は逞しい。
一方の私は、漸進主義を標榜し、これからも様々な思惟の中で実践の道筋が正され、いつの日かその果報に向かうことを仄かに願い続ける。

最後に、佐渡御書の「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。」というお言葉は、こんな漸進主義で「やはらかに法華経を弘」めんとする"ヤワ"な自分を戒めた言葉であることを耳に痛く思うと同時に、そういった彼ら教団の信者のような豪胆さも尊敬できる心情を表明したく思う。
進んで入会する意思は毛頭ないが・・・。
個人主義の現代文明にあって宗教・教団のしがらみを厭う、ヤワな現代人の特にヤワな人種に属する私は、もっと彼らに見習うべき一面を覚えてならない。



起草日: 20160727 「皆正法道抄」?

2016年8月11日木曜日

諸宗の教義と日蓮大聖人の法門 "八万四千法門総在"?

日蓮大聖人の法門についてはしばしば、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇の格言に代表される排他的なものと見られている。
加えて後世の関連教団が行う「折伏と称する強引な布教活動」で改宗の強要なども多いため、共産主義のように革命的であって同化(画一化)を強制する危険な思想に見られる場合も多い。
しかし、大聖人の法門を他の宗旨(小乗・権大乗・密教)などと共に知ろうとすると、四箇の格言などに並べて非難された様々な法門(小乗・権大乗・密教)と通底しているように感じられてくる。
それは、ある種の「中道」や「和」である。

表題にある「八万四千法門総在」という私による表現は、端的に言い換えると「オールインワン」である。
日本天台宗・比叡山といえば、「四宗兼学(法華の円教を中心とした禅・戒律・念仏・密教)」と言われるが、それは、別物を別物としつつ雑駁に取り入れた修行法である。
大聖人の法門は、それらやそれら以外の教義や修行を広く折衷していると僭越に愚見する私だが、大聖人自身は「日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず(妙密上人御消息)」とお述べになっているわけで、ただ根本の「南無妙法蓮華経」を末法の世に弘めただけであると報恩抄などに示されている。
決して、新しい思想や奇怪な解釈、または既存の法門の二番煎じを述べたつもりはない、と。

大聖人の法門は、ある門流の場合、久遠実成釈迦牟尼仏を本仏とし、別の門流では日蓮大聖人そのものを久遠実成(久遠元初とも)の本仏とするよう、一見すると一神教に似ているように見られそうだが、日蓮大聖人は法華経の会座にいた多宝如来を始め、様々な仏・菩薩、十大弟子という声聞や、後の世に出現した龍樹・天親などの菩薩の敬称がある論師や天台・妙楽・伝教などに「南無(帰命)」を冠しているほか、天界の神々や魔王、密教の不動・愛染、日本の大師天照・八幡などの神までも分け隔てなく「十界の衆生」として曼荼羅御本尊の相貌に列している。
卑近な表現となるが、こういった多様性や共存のありかたは、「宗教多元主義」と言わないが、先述の「和」という日本の大事な心がよく現れているように思えてならない。
一切衆生はみな仏性があるから尊敬する・・・常不軽菩薩のようである。
みな等しく尊いという平等・不二の立場・・・無論、特別な尊敬対象(本仏・妙法という人法一箇の本尊)もあり、これは而二である。
大聖人にとって排除すべき事柄は、「南無妙法蓮華経」の根本から背いた枝葉末節の邪宗邪義であるとされていよう。
せっかくの仏性を勿体なくする(一切世間の仏種を断ずる)邪宗邪義が許せないといえよう。

法華経自体が排他的である、といった邪説を垂れる輩もいるわけで、見方次第では一理あるものの、それは皮相的な見解であろう。
法華経や大聖人の本意は「中道」や「和」に通じているものである、と念を押したい。
それはそうと、ここからは具体的に他の宗旨と照らし合わせて考察に入る。
浅学菲才・未熟者の謗りを免れがたい愚生ながらに事例を並べて参ろう。



  • 「南無妙法蓮華経」の唱題と「南無阿弥陀仏」の念仏
    • お題目の信心は、自力か他力か中道か
    • お題目の修行は、易行か難行か中道か

  • 「文底秘沈」と「密教(秘密に遺した教え)」(禅宗の「教外別伝」にも似る?)
    • 曼荼羅御本尊・唱題について様式の類例(明恵上人)
    • 合掌という手印(印契)を結びながら法華経の題目という真言を唱える

  • 一部門下にある己心本尊説・凡夫本仏説と唯心論的な禅宗の成仏観
    • 己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と不二
    • 凡夫の観心は御本尊なくして成り立たないとされる

  • 御本尊や仏性とは空か絶対的存在か・大聖人の見解
    • どこからどこまでが六師外道の教義となるか・寿量品所説の常住はどうか(調査不足・常楽我浄の四顛倒も四徳となる・唯識論の阿頼耶識と比べて空ではない第九識)
    • 身延派日蓮宗の荒行は外道修行か通過儀礼かパフォーマンスか"いのちに合掌"への自語相違か

  • 大聖人の御境涯は忍難慈勝にして頭陀(「内秘菩薩行・外現是声聞(外現声聞儀)」とは?)
    • 五戒などの戒律は保たず題目を唱える修行の日々を唯一の戒とす(飲酒の是非は?)

「中道」とは、「自力か他力か」という対立や「己心(内証)か色相か」という対立いずれにも当てはまり、大聖人の法門は「中道」を貫いている。これまで見た様々な教えの特徴も含まれるとすれば、「和」にも通じる。



概説すると、まず大聖人の仏法で肝要な教義・修行が、妙法蓮華経の題目を称える「南無妙法蓮華経の唱題」である。
およそ、一般的には「南無阿弥陀仏」と似ているように扱われるが、その「南無阿弥陀仏」という念仏は主に浄土真宗で「他力本願」と称するように、ただ阿弥陀仏の力で救済されるのみの代物でしかない(法然・親鸞さん以前の日本天台宗の念仏三昧などの念仏修行は真宗サイドから自力念仏と軽蔑されるし法然専修念仏義は旧来の念仏を認める明恵さんなどに非難された)。
日蓮大聖人の唱題も、法然・親鸞さんなどの念仏(専修念仏)も、余行(他宗らしい修行)を交えず、余念をも交えずに行うことが奨励されるか、強制される。
日蓮大聖人の言葉では「或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し(秋元御書)」と、題目を唱えつつ念仏も唱えてしまえば「飯に糞を雑(まじ)える」ようなもので、推奨されないようである。

「他力本願」の「念仏」に対して「南無妙法蓮華経の唱題」が自力か他力かといえば、大聖人の「一大聖教大意」の教説を披見すると、「四性計」に定義された自力・他力・共力・無因力の「四力」のうち、「今の法華経=大聖人の法門」のありかたとして自力も他力も否定されている。
共力・無因力については説明を略しているが、同様の理論で否定されようものと拝察できる。
大聖人の「中道」の見地では、「四力」いずれの要素も含むが、いずれも絶対的でないため、絶対的に自力であるとか他力であるとか、共力や無因力であるとは区別できないとしておられる。

私の浅智から判断しても、自力でも他力でもないという「中道」である。
つまり、南無妙法蓮華経の教主である御本仏の慈悲は深くして救済の仏力法力も高いが、衆生も自ら唱えない限りは功徳が無いわけであるため、自力であって自力でなく、他力であって他力でない。
「慈悲」の概念自体が自利利他であると同時に、慈悲を受け取る側も受け取る心構えがなければ功徳を授からず、ただ慈悲を与えようとする者だけが功徳を積むのみとなる。
「広宣流布(ここでは妙法蓮華経薬王品の語)」といって日本を始めとした全世界へと大聖人の法門・妙法が必ず普く弘められるという教義も、「仏語は実にして虚しからず」や「委細に三世を知るを聖人と云う」と言われるように、「大地を的として矢を射れば必ず当たる」ことと同じく、必ず当たるとされている(諸法実相抄)。
これも本仏や妙法の仏力法力によって、諸天善神が国に災難(大聖人在世では大蒙古・モンゴル帝国からの侵攻・元寇)を起こし、そのために凡夫が目覚めて妙法を信受するとされているが、その単なる他力のみで広宣流布するのではなく、やはり凡夫たちもまた布教活動(某宗でいう折伏など)に邁進してこそ実現するという、自力も他力も不二の立場である「中道」そのものではないか。
よって、妙法に背き、誹謗までする者は地獄にも堕ちる・・・それは真宗の親鸞上人も同様の趣旨を語っている(正像末和讃)ため、見ようには真宗の念仏も自力・他力の絶対的に片方であると言えなくなる(他力本願も所詮はスローガンみたいなものだし)。

続いて、自力VS他力(または中道)ではなく、易行VS難行(または中道)という比較で考える。
題目や念仏の理想を端的に書けば、「題目は一心に信じて唱えると無量の功徳いっぱい即身成仏」であり、「念仏は一向に信じて唱えると現世の利益いっぱい極楽往生」である。
こう概観すれば、どちらも易行であることを歌っているが、反面、法華経に「難解難入・難解之法」とあったり、阿弥陀経にも「難信之法」とあるわけで、一応、そういった面から、特に法華経の真理は「不須復説」といった態度が、方便品で取られる。
しかし、その迹門である方便品ではそうされるが、本門においては「五十展転(随喜功徳品)」といい、法華経の真理を伝えて弘めることが奨励されている。
その功徳は、分別功徳品において「法華経の真理を弘める功徳は六波羅蜜の智慧波羅蜜以外の5つ全てを修行した功徳に等しい」とされ、随喜功徳品において「『人々を物質的・経済的に豊かにするばかりか小乗の説法で阿羅漢果を与えた大施主』の功徳は法華経の真理を五十番目に伝えられて喜んだ人の功徳の百千万億分の一くらい少ない」とされるほど甚大であった。
その、分別功徳品など所説の法華経=円教の功徳は、円教より古い教えである「偏教」の中で最も易行である阿弥陀仏の念仏よりも比較にならないくらい功徳が多いと、あの浄土真宗などで高祖として崇められる恵心僧都源信さんが往生要集・巻下で語っている(守護国家論を披見)。
よって、法華経の題目・唱題とは、念仏よりも易行であって功徳も大きいが、しかし逆縁の人(唱題する側と唱題を誹謗する側の双方)も多く、今生の中では難行とも言えるため、中道としておく。



その「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に南無・帰依する)」とは、経典の妙法蓮華経においても「妙法蓮華経という真実の教え(諸法実相・二乗作仏・女人や悪人の成仏・久遠実成など)を弘めれば功徳が六波羅蜜(菩薩の基本的な6種の修行)よりも広大である」と説かれるのみで単語自体は載らず、また、ほかの漢訳経典のどこにも載っていない。
これでは、根拠のない教えであると人々が邪見を起こし、信じてくれない。
「南無妙法蓮華経」の教義的な根拠は、「文底秘沈(開目抄: 文の底にしづめたり)」である。
つまり、妙法蓮華経などの経典には明文化されないだけで、教えは厳然と存していると大聖人は説かれている。
真言や陀羅尼や呪文を唱えて外道たるヒンドゥー教まがいの護摩を焚く密教に関しても、在世の釈尊が説かなかった「秘密の教え」であるから、文献学的にも教義的にも一見、仏教らしからぬ修行ばかりであり、胡散臭さプンプンだが、こういった教義的な根拠は類似しているとも感じる。

文底秘沈である南無妙法蓮華経は、大聖人が出世される以前の正師である「天台大師」も法華三昧懺儀の中で「南無十方佛(中略)南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩・・・」と三宝や法華経の会座の衆生の中に題目を挙げており、この記述から天台大師自身は弘められずとも唱題の修行をしていたと、大聖人門下の間に伝わる。
そもそも、こういった記述が有ろうと無かろうと、大聖人は久遠実成釈迦牟尼仏および諸仏・諸菩薩・諸師(大乗仏教の馬鳴・龍樹・天親菩薩から天台・妙楽・伝教大師まで)がみな「南無妙法蓮華経」を唱えていた、と教示されている。
彼らが具体的に「南無妙法蓮華経」について述べられなかった理由は、まさに「正像末の三時」の立場で「末法」の時に弘むべき「南無妙法蓮華経」を、彼ら歴世の仏・菩薩・師は末法以前であるから述べず説かずにおいたとされる。

いわゆる「五重相対」とは、教義の優劣の基準であるのみならず、娑婆の仏である釈尊の説法・その十大弟子などの弘教が小乗の仏教(内外相対)であり、次の時代の馬鳴・龍樹・天親などの弘教が権大乗の仏教(大小相対)であり、次の時代の天台・妙楽・伝教などが法華経の一乗を奉じて一年三千を明かした実大乗の仏教(権実相対)などの「教相」にも通じている(報恩抄など参照)。
「文底秘沈」や「末法(後五百歳)に弘める」といった教義的な根拠を示されても、合理思考が強い方々には牽強付会であるように思われよう。
その場合は、真言密教・チベット密教もまた、教義的な正当性や遺伝の正統性が完全に崩れていることを考えたほうがよい。
大聖人自身も、大日如来を出世の由来などが伝わらない有名無実の仏とみなしている。
大日如来という法身仏が金剛法界宮と言う場所で秘密の教えを説法して金剛薩埵に授けたとか、龍猛という名の龍樹菩薩とされる人物が金剛薩埵が鉄塔に隠した秘密の教えを見つけ出したとか、空海さんが唐で正当な密教「純密」を受けて日本で大日如来の姿を現したとか、額面通りに取れば奇怪な話ばかり(最澄さんを相手に法論した徳一さんも空海さんに論難している)であり、禅宗の相伝説と同種であろう。
とりあえず、ここでは「文底秘沈」の教理である一念三千や南無妙法蓮華経が、密教の相伝や禅宗の相伝などに似ている感じがするという側面を示した。



禅宗といえば、特に道元さんを源流とした日本の曹洞宗で「只管打座」といい、無念無想といい、心身脱落といい、豁然大悟といい、単なる凡夫が座禅している状態でそのまま精神が「禅定」に入っているとみなし、それが仏の境地である、というかなり飛躍した成仏観が説かれている。
実際には、自分の思考を殺す無念無想などは虚無主義的である上に、その「エセ禅定」が実現できる人もそういないものである。
そもそも大乗の大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文を拡大解釈して人々が最初から仏であるといった教説もあるようだが、それらは全て邪義か、あるいは何らかの含蓄を持つ方便とも取れようが、邪義とみなせば私の浅慮かもしれないし、含蓄があると考えても思い込みに過ぎてしまう。
こういった教説を鵜呑みにしてしまったとき、「煩悩即菩提」のように、誤解が長じて仏教不要・修行不要として堕落しかねない。
日本の曹洞宗でなくとも禅宗全般が、日蓮大聖人から数々の側面より「謂己均仏」の増上慢であると非難されている(2016年6月20日記事の脚注1)。
※「一切衆生悉有仏性」について過去記事で私は、字面通りの意味がそのまま現実を表しているのではなく、方便のようなものや大乗仏教の極致をスローガンにしたもので、実際には天台教学でいう六即のように、仏教を知り、学び、修行をせねば仏性が無いに等しいと語った

その大聖人の法門の門下においても「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只だ我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事)」という御文を最大の根拠として自分が既に仏であるとか、御本尊や御本仏と同格であるとか、あるいは実際の御本尊を拝まなくてもよい、といった「己心本尊説」が生まれている。
場合により、「本覚思想」とも表現されるか。
この御文については、額面通りに捉えていけないことが明確である。

まず、己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と、その己心が不二である。
凡夫(特に末法の衆生)の観心は御本尊なくして成り立たないとされ、色相・外相としての御本尊ありきで、胸中・己心の御本尊が生じるものと捉えるべきか。
あるいは十界互具の理の事実存在や、己心の本来の清浄なもの・・・つまり「アマラ識(九識)」と言われるものを、その象徴たる御本尊の拝見と観心とによって覚るといえよう。
「胸中の肉団におはしますなり」に続く「是を九識心王真如の都とは申すなり」という一文を鑑みても、こう考えるほかない。
このあたりはまだ領解が浅いので、今は何とも言えないが、少なくとも御本尊不要であるとか、無神論的で自己神格化を誘導することなどがあってはならないと考える。
凡夫も仏の境涯になれるが、それは「因分」と「果分(究竟果分)」の区別があって不二だけではなく、而二の意義も立てられ、完全に御本仏と凡夫が同格であることは意味しない。
少なくとも、凡夫は御本尊ありきの観心・成仏がある、そういった理解が望ましい。
大聖人が御本尊を顕し、門下に広く授与なさったという御事跡から推して知るべし。



大聖人御図顕の御本尊は有り難く頂戴・受持する。
己心の仏界(十界互具だから九界までも?)を色相において顕した"もの(準体助詞)"であり、単なる形だけの"モノ・物(物体の名詞)"ではない。
色相において顕すことで己心の仏界(ないし九界?)を観ぜられるわけであり、外相と己心という「物質と精神」のような対立概念も「不二」である「中道」がここにも看取できる。
端的には「色心不二」や「物心一如」であるが、やはり御本尊を単なる形だけの"モノ・物"と思ってはならない。
ただ、中道の原義に基づくと「中道=仮名=空」であるし、物(色相)にせよ心(己心)にせよ執着してはならない・・・それは中論の所説に基づきすぎた原理主義的教義であり、単純に広義の「中道」、今までの「自力・他力」や「易行・難行」といった二元対立に対する「中道」という定義でよい。
また、日蓮大聖人の法門において信心を持つならば、そういった四法印・空の「第一義諦・勝義諦・真諦」に執着しても齟齬があってだね・・・。
この信心においては、広大無辺の功徳が具わる「唯一無二」、「絶対」、「末法万年から未来の果てまで不滅の大宝」として信ずべきであろう。

この信心は、仏教の「空」に背く外道義と見られるのであろうか?
あるいは「空」の理解とは別に、功徳を積む修行として両立させてよいか?
また、大聖人の法門において重要な法華経寿量品、そこに説かれる「常住」とは、常見であろうか?方便ではあるまい。どのような含蓄があるか?
諸賢の御教示を乞うばかりである。

※2016年11月~翌1月投稿の新しい見解→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html



外道といえば、日蓮大聖人と直接関係のない話に変わるが、身延派の日蓮宗には、大荒行という冬期の行事(毎年11月1日から100日間)があり、同宗の大本山・中山法華経寺にて行われる。
主に若い僧侶の通過儀礼であるが、志のある者はまた何度も挑もうとするらしい。
それで、特に若い僧侶・「初行」と呼ばれる初参加の者から、しばしば死者が発生している。
様々な意見や疑惑はあるが、この記事で取り上げるべきものがある。

歴史的に不仲である日蓮某宗は、この大荒行について「釈尊が禁止された外道・バラモンの酷烈な修行と同じであって大聖人と関係もなく、謗法呵責もしない癖にこんな修行を取る本末転倒」と非難し、「極楽寺良寛(忍性・後述)の如き尊敬を集めたがるパフォーマンス」と断じ、加えて「『いのちに合掌』という綺麗なスローガンと微塵も符合しない自語相違」とも嘲笑していた。
反論の形ではないが、日蓮宗の僧侶としては、釈尊が禁止された酷烈な修行に似る大荒行について「僧侶たる者、釈尊の6年間の苦行のようにこういった心身の苦悩を経験していかねばならない」と主張しているようである。
私自身は日蓮某宗側の主張に同感である上、娑婆で成道する前の釈尊が経験されたとしても、後の仏教徒が進んで取り入れる必要は無いように思う。
しかし、この際、取り入れたい者がどういう思惑であれ、仮にも彼ら修行者の菩提が養われるならば、自由に取り入れて構わないとも思っている。



さて、大聖人は多くの大難を耐え忍ばれ、ある時は、冬が極寒となる佐渡島に流されて現地のあばら家に3年もお過ごしになるなど、頭陀の行者でもある。
大聖人ご自身は「法華経の行者」であって頭陀に関しては触れることは無かったが、私は個人的にこの御振舞も敬うべきと思っている。
そういった頭陀の御振舞は、大聖人が自称される「法華経の行者」の所以である、大難を受けて法華経を身読・色読したという根拠にも通じている。

大聖人の法門は「末法無戒」ともよく言われ、事実、身延の山林に入られてからの大聖人は、信徒からの御供養のお酒なども口にされ、いわゆる不飲酒戒をお守りの様子ではなかった。
大聖人ご自身は御書の中で「日蓮は無戒の比丘なり」、「日蓮は(中略)持戒破戒にも闕て無戒の僧」とする記述があるが、「今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず」とする記述もあり、場合によって立場の示し方が変わっている。
それはそうとして、教義において考えれば、身延派の日蓮宗も、富士派の日蓮正宗も、分派した勢力や教団も、五戒から具足戒(二百五十戒)まで守ろうという教義はほぼ無い(個人レベルは別の話・具足戒なら四分律を持ったとされる深草元政さんなど)。

実際、日蓮大聖人の法門において戒律を持っても、伝教大師所説と伝承される末法燈明記には「設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。(御書では語句が異なる訓読文を四信五品抄で引用)」と書かれ、これが支持されている。
端的に言うと、末法の世(日本仏教では西暦1052年に当たる永承7年以降)では多くの戒律が時代遅れで、多くの僧俗にとって到底維持できず、その末法の世において戒律を保つ人がいれば、それは街の中に虎や原始人が現れることと同じくらい奇怪である、とされる。
伝教大師(とされる別人説のある筆者)の「此誰可信=誰がこれを信じられようか」という記述については当たらず、日蓮大聖人の時代にも「忍性(極楽寺良観)」という僧侶が橋の建設や難病患者救済などの慈善事業を行ったり、その「具足戒」を持って人々から崇拝されたとされ、この忍性さんを日蓮大聖人は偽善者として「律国賊」の根拠にもした。
他の御書には「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し」や「伝教大師の市の虎の事」と示される。

しかし、同じく伝教大師が定めた「大乗の戒=円頓戒」では、先の飲酒に関連して言うと、自分が飲むことは当然禁止の上に、他人に飲酒を勧めたり強引に飲ませても同罪とする。
大乗仏教の慈悲・自利利他の精神においては、「勧善懲悪」が表れており、この戒相を考えると、まさしくその教理が反映されていよう。
この場合は「勧善懲悪」を通り越して「悪を勧めても同様に懲罰がある」と言い換えられる。
この円頓戒の原典は梵網経であり、厳密な名称は「十重四十八軽戒」とされる。
その梵網経では、美称として「金剛宝戒」ともされる。
なお、比叡山出身であって法華経を重んじた日本曹洞宗の開祖である道元さんは、この円頓戒を「仏祖正伝菩薩戒」と称賛して教義に取り入れた様子である(今の禅戒一如とのたまう曹洞宗僧侶がいかに守っているかは不明だが)。

ところで、日蓮大聖人が説示した唯一守るべき戒も「金剛宝器戒」と名付けられ、その中身は「ただ南無妙法蓮華経の題目を唱え続ける」というものであり、「金剛宝器(ダイヤモンド製で宝飾がきらびやかな器)」とあるだけに「金剛不壊(ダイヤモンドのように堅固で壊すことはできない)」の戒体であるという(教行証御書)。
同名でありながら、戒の中身・戒相や、戒体はかなり異なっている。
ともあれ、飲酒をされた説が確定している日蓮大聖人であるが、やはりこの末法において小乗の戒律が有益でないとの教理を信ぜしめるため、身延入山以降は信徒から頂いたお酒を嫌わずにお飲みになったと考えてよい。
こういった事跡も説法の体現である。
大難を数多く耐え忍ばれた日蓮大聖人というお方が、お酒を嗜み愛するなど考えられないため、やはり慈悲の説法と見るべきである。

※「慈悲」は、戒律を持つ思想の師匠からすると逆の形で現れる。昔は何らかの病気の時に飲酒で治療することも多く、僧侶もそういった場合に飲酒することは許された。しかし、そういった思想の師匠の場合、自身が病気にかかったときに飲酒をすると、病気でもない弟子が仮病などで好き勝手に飲酒するかもしれないという懸念から病気の時でも飲酒しないでいる。弟子や後世の弟子がそうなるくらいならば、自分が飲酒せずに死ぬべきであり、己の不飲酒戒も破らないから己の後生のためになる、と。

とはいえ、私自身の修養としては、お酒を飲むことが成人後もありえないと断言しておく。
閑居求道者たる私が身を挺してお酒を買い求めることは考えられようか。
第一に虚弱体質であり、酒類は心身とも壊す毒であると"体感"している。
多くの未成年者は、多少の飲酒経験があろうという前提で、私の飲酒経験も素直に示した。





最後に、似るべくして似たが、関連性は無いか、たまたま似た程度の例も挙げる。

末法思想関連
煩悩具足にして非僧非俗の親鸞さん
末法無戒思想(五戒など小乗の戒は瓦器"ガキ")
イエス死後に久しくして現れる偽預言者・アンチクライスト
末法に蔓延る邪宗・仏法の中に外道教義(我"アートマン"に類する概念など)が混ざる(古くはインドの犢子部など・今は日本の民間信仰)

教理がキリスト教みたいだ、主張がイスラム教みたいだ("みたい"と特別に書くわけだからどの宗派よりも相対的に類似性が高いという意味)、という他の例示は省く。
そもそも、そういった一神教は、日本の宗派と無関係(学説によっては大乗経典がキリスト教の影響を受けたというものもあるが確証もないし一説に過ぎない)であるから、戯論のようなものであり、論外であろう。
キリスト教やイスラム教について類似点を並べることをここではしない。



起草日 20160725夕

2016年7月20日水曜日

現行憲法の改正に対する仏教徒の然るべき立場・見解

さて、仏教徒は盲目的に平和を唱えていればよかろうか?
戦争は確かによくないとしても、現況の改憲・護憲論争について飛躍した主張は多い。
無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。

大前提は、改憲を行えば絶対に安全が保障できるとか、護憲を維持すれば絶対に平和が維持できる、などという結果を望んではならない。
改憲も護憲も、共に功罪はあるが、それは2016年6月23日(現地時間)に実施されたイギリスの国民投票(Brexit投票)の趣旨で、イギリスのEUからの離脱・残留の双方に功罪を包含している事実と同じである。
その功罪の具有を理解し、己が後悔しない判断が第一である。
中道を理解し、この前提を踏襲すべきである。

まず私は、既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しない。
しかし、したい勢力が大勢ならば、好きに改憲をすればよい。
民主主義国家・法治国家ならば当然であろう。
今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば、改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。
改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は、民主主義の現代文明下で起こらないと信じる。

「護憲」の語については多義的である。
「立憲主義」は都合よく用いられる。
護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。
今時に立憲主義を標榜する者は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。



現行憲法9条の原義である、後の自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。
例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。

また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。
皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の、一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。
こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意・ここでの他力とは"平和を愛する諸国民"ではなく"米軍"のことか)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。
現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。
日本の仏教宗派では、浄土真宗・浄土宗系のほか、禅宗系とりわけ曹洞宗は現行憲法の護憲論者が多く、教団規模の取り組みにすら見えてならない。
もっとも、「団体・法人の目的を超えた活動」という非難を恐れて大胆には動かないであろうが(これを怖じずに憲法9条を守ろうと運動する日本山妙法寺という団体もある)。

仏教において戦争・平和とは、欲望などの三毒が生み出す忌まわしい地獄・修羅の業の結果である上、その三毒に塗れたまま命を落とせば死後も地獄などの悪道に堕ちてしまう。
かといって、無理に抑制しようとするものでもない。
結局、当事者の過去遠々劫に於いて積み重ねた悪業の因縁によって結果的に発生する。
巻き込まれる者も同様であり、「自業自得」とは本来、こういった広い見地より言う。
6月20日の記事で紹介した釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)も、最初こそ釈尊は当事者間の衝突を食い止めようと動かれたが、3度目以降に彼らの悪業の因縁を知り、不可避の闘争であると識って不本意ながらもそこで行動を終えられた("仏の顔も三度まで"という諺の原意)。
悪業・宿業の根深さとその忌まわしさは、十大弟子の一人にして阿羅漢果を得た目連尊者が婆羅門に打擲せられて亡くなった故事(尊者自身が過去世の業を覚って死を覚悟した)にも見られるが、妙法である日蓮大聖人の法門は、悪しき宿命をも転換して現世安穏・後生善処の利益がある。
無論、南無妙法蓮華経の信心を守り抜いて他宗信者の武士に処刑された熱原三烈士の死に様は、目連尊者にも似るが、これらは「転重軽受」による罪障消滅であり、無始以来の罪業を現世の一瞬で"軽く受けた"といわれる(死に際しても泰然としておられた心の現世安穏)。
話を戻して戦争・平和についていえば、立正安国論で諸経を引かれて「他国侵逼」から国を護る手段を訴えておられる。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法の理想は空理空論である。
坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。
武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。
その「今」とは、西洋的合理主義が巷間に蔓延って定着し、仏教にも外道の邪教にも理解がなく、現代的合理主義の個人主義と啓蒙思想の相乗効果で宗教を一緒くたに卑下して世俗的・皮相的な思考しかできない現代人(世俗教シャカイ派信者)ばかりの「末法悪世」ではないか!
宗教家であれば、憲法の議論よりもこの事態を甚だ悲しまねばならない。



平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。
率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。
先述の釈尊御在世の故事(6月20日中の記事釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。
虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。
世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は発言する勇気があっても発言した内容の実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。

時宜に随って変化する世俗の条文や法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
事実の真否を問わず、古くから日本人の立法観・政治観はこのように「諸行無常」を弁えていよう。
日本国憲法については昭和天皇の勅語(昭和21年)にも、「國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたのである。」と、あくまでも当時における「國家再建の基礎」を前提としていたし、当時は実際にアメリカなどの占領下であって軍事衝突など考えられなかった(ソ連は終戦直後に千島列島などを不法に侵略したが)。
時局に対して柔軟にあるべき政治ならば、必要性を訴える声に応じて前向きに議論すべきである。



修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。
よほどの聖人や上根上機の人でもないと、俄かには煩悩を断ちがたい。
また、人間(健常者)は誰しも悩みを抱えながら生きている。
多くの悩みをいきなり排除して奔放に生きることなどできないし、他に悩みの速やかな解決の手段としては自殺くらいしかない。
しかし、「死の絶対性」に任せるだけの虚無主義ではいけない。
そこで仏教では、死後の輪廻を説き、また現世における解決法をも説くから、「死ねば終わり」の虚無主義を一蹴している
人間として生存する以上、どのように悩みを解決して幸せを得てゆくか、慎重に考える必要がある。

国家もまた然り。
しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。
日蓮大聖人の「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず (乃至) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(学会御書 1,192~1,193p)」と仰せになった御書の大意は、兵法が優れていても兵法を活かせる運や根本的な精神が無ければ役に立たないことを意味している。
つまり、兵法(国家で言うと軍隊)による危機の回避を認めておられる。
「なにの兵法」とされる実質的能力も、「法華経の兵法」という精神やそれによる福運と共に必要であるそう(ある種の中道や和を説いている)。
お言葉を賜った四条金吾殿は、絶体絶命の諸余怨敵の攻撃を回避すべく、「兵法」を行使したわけであるが、同じく日本国も怨敵の攻撃を防ぐために軍備は必要である(怨敵の如き侵略戦争などしない)。
※大聖人の御文の如くんば、軍備を強化しても放棄しても、改憲も護憲も最終的には国内の乱れ・他国の攻撃を受けて窮地に陥ってしまうか、やはり正法なくして国家の安泰は成り難い。

軍備とは忌々しいもので、核兵器などはその典型例である。
諸刃の剣の如く、自国にもリスクが大きく、保有国がアメリカから北朝鮮までこぞって将来的な核廃絶を主張していても、核軍縮は進まず、核開発を継続するなど、保有国間の疑心暗鬼が強い。
このように、核兵器ですら手放しがたく、現在はなお疑心暗鬼が強まっている。
娑婆に完璧な清浄は有り得ない。
過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。



改めて中道の意義に念を押すと、憲法論争の元凶は無明の邪見「常見・断見」に尽きる。
「常見・断見」とは、人間の生死(死生観)という哲学的・宗教的テーマに限らず敷衍できよう。
極端に現行憲法を「不磨の大典」として守りたがる人は「常見」であり、一方で帝国憲法の復活を訴える人も「常見」であり、自主憲法を作り直そうという徹底的な改革を目指す人は「断見」である。
この「常見(有への執着)」も「断見(無への執着)」も極端な見解であり、「中道(非有非無)」の仏教においては何ら推奨しない。
ただ、改憲の必要があると意見が高まれば、その一点を議論すればよい。
強ちに改憲をせずともよい状況では、差し置けばよい。

自民党に陰謀論多しといえども、現行憲法を既成事実として受け入れ、改憲に前向きである点は、もっとも「中道」、安倍さんのいう「中庸」の旨に近い存在と、私は思っている。
更に言うと、「与党の中の野党」を自称する公明党は、宗教政党だけあって政策も改憲議論も穏当な立場に見え、良くも悪くも中道に見える(支持母体の教団一般会員側と政権与党での立場のバランスが微妙を極める)。
背後の教団も含めた歴史的経緯(投票事件・言論ナントカ・主張の変節・各種陰謀など)についてはここで論じない。

色々と論じてしまえば、自民党がアメリカの言いなりであるから各種政策を成立させてきたとか、過激な護憲派や民共野合野党が中朝の手先であるから与党に文句をごねてばかりで、中朝など実際に戦争を起こしかねず今も国際法を蹂躙したり近隣国家と衝突している現実的脅威には何も抗議をしない、などの陰謀論に走ってしまうから、それらの邪推は封じ込める。
ここまでにそういった方面を触れないでおいた理由は、疑惑による悪心を起こさぬためである。
実相に詳らかでない物事を推し量って仮に信じても、盛んに広めないほうがよい。
万事に顛倒を起こしかねない(6月20日の記事・脚注3に同意)。

政治的な最善をここであえて言及すると、そういった陰謀論・陰謀説を含めて胸襟を開いた議論がされ、護憲派も改憲派も明確な認識を相互に示すことであろう。
とはいえ、今後ともそんな公平公正の議論などされようもないこと、欺瞞に満ちた政治家や政治団体を見ている人は嫌というほど御存知であろう。
現状、相互に邪推をかけて譲らないわけだから、今までが仏教の「中道」に適っていないばかりか、日本の「和(譲り合いや話し合いの意義を重んじている)」の思想にすら遠い。

聖徳太子の十七条憲法に「十七に曰はく 、夫れ事・獨り斷む可からず。必ず衆と與に宜しく論ふべし。少きことは是れ輕し。 必ずしも衆とす可からず。唯だ大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故に衆と與に相辯ふるときは、辭・則ち理を得。」と。
この一条の意義を熟考して拝察し、心せねばならない。
※この訓読文は、複数の検索結果から独自に組み直した。理論を概説すれば、全て和語で読めるようにし(例えば"論う"ならぬ"論ず"は漢語サ変動詞だから非推奨)、"是"・"唯"などは送り仮名を振り、原文にある漢字は出来る限り残した。準体助詞"とき"や再読文字の場合の"べし"はひらがなでよい。





起草日: 2016年7月8日・・・同日に前の政治記事を原稿とした動画を投稿したり、同記事に脚注を設けて2つの注釈を加えた。

追伸: 2016年7月13日19時、今上の天皇陛下が、生前、特に数年以内に退位せられる意向を示しておられるとの御報を耳に入れた。
この日、参院選で当選した無所属議員1人と別の民主系無所属議員も自民党に入党せんと発表し、自民党が参議院で27年ぶりの単独過半数になんなんとする政局の変化を見た矢先である。
時局に複雑さを感じる私だが、向こう数年間は陛下がコロンと崩御せられることはなく思う。
陛下の御宸襟を探るようではあるが、この際に書いてみる。

お年を召されながらに、陰陽、様々な公務の折にも、深いお考えを胸中に秘めておられ、時に随ってこれを周知せしめんと思し召されていたのであろう。
やはり偶然もあろうか(そもそもNHKの独自報道が第一報であって以前より皇室で内々に同意もあった様子)と思うが、陛下の御耳におかれては政局や世情を聞し召しておられようし、生前のうちの退位を御決意せられた経緯は、こういった心境があろうと邪推を致す。
日本国憲法に関連する議論の進行の注視や最終的な裁定、今なお止まない男系護持のための皇室典範の改正議論の動向もあって今は早すぎず遅すぎず、と判断して妥当であるから、こういった政局や世情を観ぜられた影響を拝察する。
現行の皇室典範(異称: 占領典範・日本敗戦後に作られたため)には、この「生前退位」を認める規定もないため、改正の必要性が言われ、これを契機に様々な改正が議論されようか。

無論、皇位の在り方は陛下の御意思こそが第一であり、それ自体を民衆や政治家は論ぜず、ただ戦後に制定された現行の皇室典範の改正の是非を論ずればよかろう。
例えば、現行の皇室典範では皇室の方(皇族)の婚姻に関して内閣総理大臣を議長とする「皇室会議」のメンバーが結婚の是非を決議する必要があり、皇室の尊厳を政治に関連するものとして民主主義の枠に押し込めた、尊卑逆転の制度が縛りつけている。
ただ、皇室の方の意思に対して皇室会議の構成員が著しく反発することも有り得なかろうし、そもそも皇室の方は、民が失望しない判断に自然となるお徳をお持ちであられる。
煩雑な皇室会議の合議も、皇室への障害とはならないように思う。
事実の真否や、実際の行く末はともかく、こういった私の見解も仏教の思想が大いに出ているので、再度、理解を深めてほしい。
そのために、恐れ多くも愚見を忌憚なく綴っている。