2017年3月8日水曜日

物質的自然法則と「念」の在り方の一考

観萌行広要に「人間の性質として悪の側面もあり、いくら善良な念を保とうとも諸行無常の故に薄れてしまい、対比して煩悩や愚癡の(心の)悪魔が顕在化するため、仏教的理解の利剣・破邪の剣を片手に携えねばならない」と書いた。
そもそも仏教用語の「念"smṛti, sati"」とは、簡単に言えば、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉である。
ここでは、観萌行大要の原文に示されている何らかの「善良な念(萌相や萌義に対する喜びなど)」を指している。
念という精神の状態と作用の完璧な維持は不可能であることを前提に、その精神の状態と作用が崩れつつある時は智慧によっていくらか元に戻す手段を説明している。

科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面に出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。

コンピューターの世界の中(理論上)では永遠に変化なく存在させられる情報も、本体が変質したり壊れたり、情報を利用する人間が脳内で捉えた情報や人間自身が死ねば存在は無も同然であるから、永遠に変化なく存在することは無い(半永久的であるという)。
昔のゲームはシンプルであるから理論の要素が極めて高かったわけだが、2Dのドット絵にせよ3DのCGにせよ、「止まらない噴水」があるとし、その水は理論(プログラム)から生じてモニタに出力された「幻」なわけだから、水源無くしてひたすら幻が生じ続けている。
この水の形をした幻は、ゲーム内に「停止スイッチ」などが存在しない限りは止められず、噴水の部分が破壊可能なオブジェクトでなければ破壊されることもなく、永遠に水が流れ続ける。
噴水の部分が破壊されても、ゲームによっては、破壊されたところからも何らかの設定で水が湧き続けることとなる(この場合は水のグラフィックを別に設けて破壊に応じて消えないようにしている例と噴水の下に水源を想定している例とがある)。
ゲームの世界では、滾々と幻の水が生じ、延々と流れ続ける(有始無終?)。
私がゲームの世界の住人ならば、固定的な実体「我・自性・アートマン」か絶対的な法則が有るとみなすであろう。
それはまさにコンピューター理論がその「実体・法則」となろうが、それすらも本体となるソフトウェアやハードウェアのどちらかに問題があれば成立しなくなり、ある意味では「人有我・法無我」のようである。



話を戻す。
仏教でも諸行無常(行=心行を含む)を説き、心の念は壊れやすく、どうあっても保ちがたいもので、世間の実相に顕在的な法則であるものだが、仏教の理解で半永久的(生命が維持される範囲内)に持続させられる利益が説かれる。
非常に難しいことではあるが、仏教を学んだり実践する努力で、その崇高な境地を目指してよい。
霊長類が現生人類(猿人・原人・ヒト属ヒト種)へ進化することによって知識や欲望や感情を得て意思から種々の行動を比較的自由に行える能力を得たように、個人も仏教の理解によって自由な心の境地が得られるとよい。
そこで、「仮設エッセンス」の価値も成り立つ。
努力の継続=修行の精進とは、仏教知識のみならず、仮設エッセンスも重要である。
観萌の行・萌えの法門においては仏教の理解と、「内蔵萌心の自覚・持続(仮設エッセンスに相当)」を要している。

平等の心が泰然として据わった時、仮設エッセンスも忘却されて泰然自若の姿が出来ているのかもしれないが、それは仙人もどきであり、大乗仏教ではあまり理想的でないかもしれない。
人間として生きている間の悟りは、たとえ終生揺れない悟りであるとしても絶対的とは言えず、「仮」の域を出ない(先ほどの100%の考察と類義)。
仏・菩薩のように、力の限りに法を説き続けてゆこう。
よくよく慢心を制御しながら。

心に誓ったことも保ちづらく、仏教の知識というもののありがたみさえも損なわれやすい自分は、常に恐ろしく感じる。
せっかく感動した・歓喜した教えにも、「自分が記憶・認識し続けるもの」としては誤解・顛倒が伴っているのではないか、という悪い「疑い」が起こってしまうときがある。
正念を失っている状態であろうか。
それが一過性であり、すぐに智慧の心を目覚めさせたい。



起草日: 20170111

仮設エッセンスが念として作用し、念が日常生活の中に生きることを説明した過去記事がある。
およそ、仏教徒の生活・仏道は、各々異なりがあるとしても、そのような念が活きており、八正道を行くための杖となろう。
諸々の所作、一挙一動、五感に捉えた物事の全てが仏を意識させ、四念処と呼ばれるような想起がある。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2016/09/blog-post-20.html

2017年2月20日月曜日

仮設エッセンス(仮我・假我) ~ 主観的真理に生きる道

仏教では「諸行無常・諸法無我」を説き、人の心は"猿が木の枝を飛び回るように"移ろい続けるものとする理解を説いている。
しかし、そう一応の理解があって「戒定慧」の三学の修行をするからこそ、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の定まる境地を得ている。
つまり、「諸行無常・諸法無我」の理解に伴う修行によって禅定を得た定心が据わっている。
「心の行いに常であることは無い、事物に固定的な実体(我・アートマン)は無い」と説くにも関わらず、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の安らぎが常のようであり、自我を保てているようである。

「単に『念』や『定』が保てているだけであって別に『エッセンス・自我』を想定しているわけではない」と思われるかもしれないが、かすかにでも自我が無いと、「不浄の我が身があり、受ける思いは必ず苦である」といった「身・受・心・法」の四念処が成立しない(自己や他者や一切の事物の"我"が想定されなければ不浄の物事が想定されないし自己の"我"が想定されなければ苦を受ける主体も想定されないから)。
また、仮の自我が無いと、仏も菩薩も比丘も、教化や経典編纂などはなされなかったであろう。
教化や経典編纂をするにも、自分の感情が無くて「『慈悲』という名のプログラム」や受信情報のような原理で行う「ロボット」ではないと考える。
覚者は執着を離れて泰然とした心でいるのであるが、喜び(歓喜)もあれば、感極まって言葉を発したりもする(ウダーナ・無問自説・随自意)、とされる。
覚者による諸々の感情表現もまた、感情が無くして「『慈悲』という名の精巧なプログラム」によって発せられた「方便」と言えようか?

私の不十分な信仰の眼で推し量っているが、この事実の相(経典に登場する人物の活躍)を観て私は「自己を自己たらしめる本質・エッセンスが現世の身において仮に設けられた」と説いている。
仮の自我などの世俗諦(世諦・俗諦)が、修行の意義や一切の仏事の成立を潜在的に支えている。
その高尚な自覚は仏に通じており、また常に仏を連想するので「仮に設けた仏のエッセンス」と呼称する。

仏教用語の「仮我」とは、字面において似ているが、これは諸行無常・空の物事で仮に姿形や精神が実在することについて「五蘊仮和合(五陰和合)」を指してそう称している単語である。
「仮設エッセンス」とは、より一歩進み、諸行無常・諸法無我・空の現世を理解した上で自ら保とうとするか自然と保たれるような、自我意識の高尚な境地を示す。
その境地にある人が、先に列挙される諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏がたであると見る。
加えて、在家居士であっても、そういった人物は稀にいるであろう。

「仮我」ではなく「無我の我(諸法無我の世の中で仮に保たれる我)」とでも呼ぶべきか、その人は「無常の常」とも呼べ、いわゆる四顛倒ならぬ涅槃の四徳と呼ばれる「常楽我浄」に通じる。
大乗の大般涅槃経は、既に、そのスタンスで「常楽我浄(経文中に四徳とは呼称していない)」を説いているものであった。
無論、それもあえて言葉で表現する(仮名する)とそう言えるものであって、実際には中論18-6偈でいう「無我無非我」と言うべきか(中論所説の意味するところは少し異なる)。
私はこれを、現代的に「仮設エッセンス」と呼称しているのである。

この「仮設エッセンス」は人間の思考能力・精神性が無くては成立しない。
逆に、その思考能力・精神性があれば、人生に活かされ、仏教のみならず世間の職業や芸術などでも有用である。
この仏教の理解が、却って世間の活気を生み出すことになる。
私が仏教を学んでもらいたい心、「随喜(ずいき)・歓喜(かんぎ)」は、この理解に依る。



「仮設エッセンス」の理解は「生活と仏道」の記事や「觀萌私記」などを熟読し、人間的な精神で玩味することで体得されるかと思う。
何よりは、私のように経律論(三蔵)・経論釈といった仏典を読む行為を推奨したいが、ひとまずは私の記事から当たると仏門に入る準備運動となろう。
「生活と仏道」では、一般人や閑居求道者(引きこもり仏教徒)など在家の人がすぐに行えるか、自然と成立する事柄を述べており、全て潜在的な「仮設エッセンス」の所行であると読み取れる。
「觀萌私記」は、諸教と万物と仏教との通底により、私が好む「萌え系の絵」に適用して仏教理解を説いており、そういった「觀萌」の結果的見解が「仮設エッセンス」の所産であると読み取れる。
また、「内蔵萌心」の見解を詳述して「主観的真理・客観的真理」と、その2つの真理を理解して主観的真理に基づいた人生の尊さを綴った記事も同時に読めば理解が据わるであろう。

この「仮設エッセンス」は、ご聖教の中に説かれていないとしても、理として有り得る。
いわゆる如来蔵思想・仏性思想や天台教学十界の「仏界」に通じているものであり、現代的に説き直したものである。
様々な例から仮設エッセンスの自覚を促す。
仏の種々ある方便・譬喩に倣い、私は説く。
「水の雑じった乳・糞の雑じった飯・玉石混淆・摧尊入卑」との謗りを顧みずに続けよう。
「仮設エッセンス・精髄大神・私の中の仏様・常住如来」の意のままに。

ところで、近頃の私は、その「仮設エッセンス」の理解に執着しつつあり、まるで「法有我」に執着した部派の見解のようである上、肝心の「禅定」や「忍耐(忍従・忍辱)」の心が薄れているように感じられるため、やはり「仮設エッセンス」も一応の理解に留め、執着してはならない。
「空の法有我」みたいな人々には「仮設エッセンス」という「仮の人有我」をほのかに説いて中道・無執着の境地を得てほしいが、「仮設エッセンス」を強調しすぎて「人有我」の外道にならないよう、制御する精神も重要である。
この理解さえも兼ね備え、今後も「仮設エッセンス」の喜びを説こうかと思う。



起草日: 20170104

去る1月1日付けで本家ブログに投稿した記事にも仮設エッセンスの意義を含めて語った部分がある。
パーマリンク設定にあたって「仮設エッセンス"Kasetsu Essence"」の訳語を考えたが、難しい。
"described essence" "designated ssence" "imaginary essence" "temporary essence"
どれをとってもニュアンスの差異はあり、一語で表現が不十分である。
"provisional establishing of the essence"、これに決めようか。そうしよう。長けれども。

我が人生における有始有終のアイデンティティ"Identity"であるが、大乗仏教の理にならえば、自分の死後の人間も感化できるであろうし、過去の大徳もアイデンティティを得ていたならば、それは無始無終と言い換えられよう。
その量りようもない過去と未来のことは、信じれば真実のようでもあり、信仰の立場では無始無終と言って疑いはない。
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。

いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。

私は複数の判断基準による多角的な思考の中で自然と行われているが、悪い感情の強い時は、どうしても「世俗的な二分思考」の段階で止まってしまう。
悪い感情・四悪道の心のために四悪道の思慮に留まることは当然であろう。
五蓋の煩悩ともいうが、そういった智慧を蔽い隠す煩悩の作用が「正思惟」を阻害する。
故に仏教では悪い感情・四悪道の心を無くそうと努力するのである。
仏道修行の功徳で「心の余裕」があると、冷静に、このような複数の判断基準に則って思考が行えるであろう。


2017年2月10日金曜日

大乗仏教・反省の論法「而二不二(二而不二)」 ~ 小乗が小乗である理由

「大乗(大きな乗り物・マハーヤーナ・梵語の語源研究は記事最下部に)」を自負する教団から「小乗(小さな乗り物・ヒーナヤーナ)」と呼ばれる部派仏教・教団・教義が「小乗」と呼ばれる所以には、様々なものがあるが、教理の面でいうと、「不了義(法義が不十分であること)」という点に尽きる。
例えば、小乗と大乗は共に「一切皆苦」や「諸行無常」や「空(シューニヤター=インドでの数字の0と同じ発音、虚無・空虚さ"Emptiness"と訳するが自性・固定的実体の空虚さを言うのであって現象の面には因縁で仮に存在していることを以てこう名付ける)」という教理を含めているが、小乗仏教はそこに終わっているので教理が追及されきっていないということを「不了義=了えざる義」と呼ばれる。
小乗の「不了義」の教え(小法)に気付かずに小乗の悟りに留まることを「小智」ともいう。
大乗仏教は、その「中途半端で一面的な不了義」の先に、反対の一面も唱え、それを包括した。

これが大乗・大般涅槃経(漢訳では曇無讖)の中に尽くされている。
法四依の中の一つ「依了義経不依了義経」はもちろん、いわゆる外道の四顛倒「浄楽常我」を破る仏教の四念処「身=不浄・受=苦・心=無常・法=無我」の観念を変え、いわゆる涅槃の四徳「常楽我浄」として唱えるなど、不二の法門が見える(ただし件の涅槃経に常楽我浄を涅槃の徳目として挙げている箇所がなく涅槃を常楽我浄四徳とする表現は日本の書にしか見当たらない・例外)。
賢人は、全ての物事に善悪の二面性とその空虚さ(感情的価値判断で善か悪かの一方を決定されること)という様々な性質を見るわけだが、大乗仏教ではこうした理解で「中道」を目指している。
人々は世俗の在り方を反省して一旦は「諸行無常、諸法無我!その通りだなぁ」と思ってもよいが、その理解で終わると「小乗」であり、小乗の理解を反省して大乗の理解に繋げる。
小乗・空(天台教学でいう"但空"の蔵教)ともすると虚無主義に陥りかねないから、小乗の理解に執着しそうな時、反対の理解「非空」も説くことで双方を包括し、また、「空・非空(二辺)」のどちらも絶対的とは言えない「中道」の理解となるように説き続ける。
行ったり来たり(右顧左眄)と面倒臭く思われ、「二枚舌だ!両舌だ!」と敬遠されそうだが、賢い人は最初こそ厭うとしても速やかに中道の智慧を定めるであろう。

この大乗・大般涅槃経は中期大乗仏教経典という文献学上の学説があるが、学説上それ以前のものとして竜樹菩薩の「中論(梵語に基づく仏教学のリネームで"根本中頌")」は好例である。
「空」の教理を様々な物事から徹底して論証してゆく。
第十八・観法品では、有我も無我も説く仏の説法を示し、真実においては有我・無我ではなく、有我・無我でなくもないと語る(18-6偈: 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)。
この中論は、先の四顛倒の「常・楽・我・浄」に関しても、第二十三・観顛倒品において論じており、それらを「有り」とすれば顛倒を断つことができず、それらを「無し」とすれば最初から無いものを断つことができないとし、「有無」を二重否定する論理(中道)が展開される(諸行無常・諸法無我ということも有無を否定する・それでこそ顛倒は断つことができ、解脱の道であるとする)。
第二十四・観四諦品では、論敵から「空に執着しているあなた(竜樹菩薩)は仏教の教義を全て否定している」と誤解されたことにつき、「空」が絶対的法則として唱えられるのではなく、あくまでも「仏が仮に名前を付けた法則のようなもの」であって、この空(空性)の理解(空義)こそが諸々の仏教の教義を活かしていると論証している(24-18偈以降)。



さて、「空」については、絶対視・執着をすると「小乗」あるいは「外道」に陥る危険性がある。
先述の通り、仏が仮に名前を付けて説いた「絶対的であって絶対的でない法則」と確かな認識があれば、まさしく大乗の理解であるが、世間には「空」の教理に感心して絶対視する者もいる。
「ヤハウェ(唯一神の名)」を名乗る人物がインターネットにおり、大乗仏教の法華経・無量義経・大般涅槃経を讃嘆しながら「一切法即空」と唱えつつ、キリスト教やイスラム教の神・唯一神の正体も「空」の象徴であって仏教と同根であるかのように語っていた。
それは一理あろう、一理あろう、と思う。
確かな見解により、「我、神なり!我、真理を得たり!」と思い、自らヤハウェを名乗り(ブッダを自称しても同じこと)、諸教同根を謳うことは自由である。
実際のキリスト教徒やイスラム教徒の大多数が空の教理に並ぶ哲学性や死生観を持っているかどうかは、ここで論うべきでない。

問題は、この人物が「空」を唯一神の如く絶対視していて「非空・不空」の義を立てていないため、恐らくは誤解を犯している点である。
大乗仏教の教理は「而二不二(二而不二)」である。
一切の事物や象形は空であると唱えることは自由であるが、それに執着してそれのみを唱えて満足するようだと、いわゆる「法有我」の小乗の境地に留まるし、見ようには、「見ようには」、それを唯一神として崇めるような非仏教にもなる。
「空」の教理は、釈尊や過去の大徳が正しく説明してくださった「法の宝」かもしれないが、「一切法」を「空」だと思うならば、その理解も執着するところではない。
こういった反省のために大乗仏教は教理を追求していき、中論に見る通り、「空性・空義・空用" śūnyatā, śūnyatārtha, śūnyatā-prayojana"」のような空の区別が「仮に」説かれた。
※その「ヤハウェ」さんが奉じる大般涅槃経の「依了義経・不依了義経」の中に「一切皆空などと言うのみでは不了義経であり、法について足るを知ること(知足)が了義である」と説明される。法義・教説の文字上の理解のみならず、法義・教説を智慧によって正しく意義を了知するということ(依智不依識)。それが「如来随宜方便所説に於いて執著を生ぜず」という、知足・了義である。
その教理でさえも、誤解と執着が発生すれば弊害となる一面もある(日本の諸宗や現代の学者が好例)。



私は法華経を奉じ、大乗仏教を信じている立場を自覚している。
小乗が小乗と非難されることは、教理自体が誤りなのではなく、教理が不完全・不十分、「不了義」という点に当たる。
小乗・大乗は共に仏教である。
小乗の階梯があって大乗の正しさが闡明される。
人はみな大乗を理解すべきであるが、大乗を真に理解するためには世俗・外道・小乗を知って反省する前提が必要であろう(信仰心があれば大乗が先でよいが大乗を学ぶうちに小乗の教義を知る必要性と意欲が出る)。
そうして次第に、法華経、天台教学、日蓮大聖人の法門に通じると考えてよい(天台・日蓮・法華系・五重相対以外でも真言宗の十住心論の所説や華厳宗の教判でも似たような見解がある)。
仏教学・文献学的な歴史研究の成果(古くは江戸時代の国学者・富永仲基らによる加上説)が、かえってこの「反省」を証明している。
仏教学・文献学では大乗仏教ないし日蓮大聖人の法門までを、歴史的正統性の観点で「荒唐無稽」と嘲っているが、教理においては、反省によって補完されていること(止揚?)が知られよう。

現代的合理思考では、大乗経典などに説かれる様々な如来の姿や逸話について懐疑的に見られるが、如来の方便を理解できない・仏教の智慧が浅いためである。
例えば、釈尊がシッダールタ太子として生まれて直後に七歩進んで言葉を発したこと(例: パーリ経蔵・中部123経"Acchariyaabbhutasutta)などは全仏教で共通して語り継がれるが、先の大般涅槃経においては如来性品第四之四に「如来の方便の示現」と理解されており、まさしく方便の故に信ずべきものと理解すべし。
※既成宗教・伝統宗派・新興宗教などには教祖の神話や伝承などが色々とあるが、それも何らかの方便・譬喩の一種と思えば、非常識な妄信による異常な思考とならず、伝統を否定しないから不信誹謗の罪業も作らない中道となる。仏教の「方便」という理解の仕方は、妄信と不信の中道という「正しい信仰」を生む。徳を生んで毒を除く利益があり、これが「方便」の要点である。安易に私が「全て方便だ!」と言うべきでもないが。

仏教のみならず、あらゆる聖典・経典は、その現代的合理思考・文献学の極致において「後世の創作」の部分が指摘される(過去記事でも記したヴェーダやスッタニパータから新約聖書まで)。
その理解があるならば、この際、単なる文学や哲学として尊ぶか、何も信じないで死ぬ方が楽しいはずであろう。
しかし、そうであってはならない。

仮に現代的合理思考・文献学のお眼鏡に適う聖典・経典が見つかったとしても、所詮は過去の言葉・出来事を記録したものであり、映像の如き幻の一種である。
合理的に理解される仏教では、「五蘊皆空」が人口に膾炙されているにも拘らず、仏や尊い人物の姿を眼で見て、声を耳で聞いて脳内に像を結んでも、何であろうか?
真に合理的思考があれば、それのみを尊ぶことに何の価値があるはずもない。
現代的合理思考・文献学的な価値判断で教説の取捨選択などがされることは惜しい。
合理的な人は、私の説を「詭弁だ!」と押しのけてしまおうか?
聖典や経典を編纂した人々の思いは、いかなるものであったか、深く拝する思いである。
如来は常住し、仏界として人の心にあることは大乗仏教・天台教学の通りであり、人々の如来としての性質が現れた(自覚)時の言葉は、慈悲によって真理を説いており、文章の上で整然とまとまっている。

言葉を信じるならば、真理を知りたいならば、須らく教理の優れた説を用いるべきである。
仏教は、その全てを用いて可である。
八万四千法門の全てを知り尽くす必要は無いので、まず見聞した教説は一応信じることを始める。
一つを信じれば不信でなくなるし、広く信じれば妄信とはならない。
※大乗仏教を「小乗より難しい」とみなす人は、こういった不信と妄信の一方に偏って大乗の正しい理解が得づらいことを鑑みていよう。オカルトと誤解されかねない教理・教説も大事な方便であるのだが、そのために不信に陥る者とそればかりを尊ぶ妄信の者とが多い。仮に大乗を信仰したくない人も、一応の理解と尊重くらいは学者・世俗の立場で行えるようになってほしい。真に理解した人は信心の一つくらい起きると思うが。
また、この「信じること」は大乗の理解に依るものであるから、「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」という一節にある「信ずれば・信じること」には該当しない。

「信じること」の範囲が広ければ広いほど、智慧が補完され、堅固になる。
一つの教説に偏らない学習意欲が、むしろ一つの真実を形作ってゆく。
言語道断・心行所滅の一つの真実(真理)は、言葉にされた多くの教説によっておおよそ表すこと(若不依俗諦・不得第一義、一即多・多即一)ができ、後は修行者の智慧によろう。

そうして真実の形が徐々に浮かびあがってくる実感のある私は、諸教の中では仏教、仏教の中では大乗、大乗の中では実大乗たる法華経で明確に説かれていると、確かな結論が出せている。
この境地からすれば、とんでもない世俗・外道の教説も「一理ある」と、すまし顔で言い切れる。
無論、それらの教説をもって万事万物万象を包括した真理そのものとみなすことはない。
仏教の教理・教説ですら、同じことである。
なぜならば、みな如来の慈悲による方便であるから、信じても「一斑全豹」の如くには執着しない。

法華経の信仰の姿勢は、今の私にとってこのように理解できる。
この理解は、方便品・如来寿量品の代表的な教説に随っている。
日蓮系各派の勤行で用いられる方便品長行や如来寿量品偈頌に大乗経典の要点が出ていることは改めて理解できた(そのため経文の引用をあえてしていない・私の言葉が経文に準じるから)。
道心のある人が、最初は理解できずとも必死に学んで読経を続けるならば、遅かれ早かれ仮にも如来の智慧に到ると考えてよい。
私という者は、そうであってそうでもない、未完成の状態ではあるが、こう信じる道ではないか。

大乗の法門・経典の所説が「難信・難解難入」であると、大乗経典に説かれる。
大乗を信ぜずして軽蔑する者や、逆に理解不足のまま大乗を妄信して他者に驕りかねない「二辺」の人々を誡める言葉である。
「如来」の方便であるから、「大乗の自讃」とか「循環論法」云々との見解は、何ら意味をなさない。
「難信・難解難入」とは説くが、正しい信仰を持つならば「易行(行いやすい)」法門となる。
甚深の大乗の法門ですらも、善悪や難易の二面性を持ち合わせている。
だから一括りに、あらゆる物事の善悪や法門の難易を決めることはできない。
物事に「これは善なるものだ!易しいものだ!」と価値判断ができるならば、即ち「これは悪なるものだ!難しいものだ!」とも価値判断ができるので、善が無ければ悪は無く、易しさが無ければ難しさも無いこととなる(物事の価値判断においては善悪など二項の一者によりがちだが物事自体は共に有り真理の中には共に無いと仮に説明した、俗諦・真諦の如し)。

自分のモノとできるかは当事者の精神や性質による。
悪辣に見えるものですら、どう認識してどう扱うかによっては悪を減らせるし、善に変えられるかもしれない(変毒為薬・善悪互具・善悪不二)。
また、自分のモノとできないと自覚して潔く離れることも、一つの徳であろう。
自分のモノとできないために逆恨みすることは非道不徳である。
非道不徳を自覚・反省した時、大乗のありがたさを知って理解に努力するのではないか。
私自身も、様々な大乗への肯定的誤解や、理解不足の信仰を反省して正しい理解と信仰を取り戻したような者である。

※今までに「信仰、シンコー」と強調して唱えたが、仏道には信仰心・信心が大切な一要素であることは否定されない。邪信を嫌うのみである。小乗・大乗とも共通している。現代人は新興宗教の先入観のために誤解を抱いて否定的・懐疑的になっているのであり、私のような理解があれば信仰の価値を実感できる。信仰を強調する言葉にも「善悪の二面性」がある。どのような理解・どうのような魂胆でその言葉が発されたかを見極められる者は、言葉や概念そのものを嫌いはしない。



現代人はともすると、カルト嫌い・反カルトの旗を掲げて宗教全般に懐疑的否定的になったり、辛うじて仏教を哲学として珍重するようなことがあるのみであり、中道となることはない。
新興宗教の信者らも、その立場を奉じて排他的となりがちであり、教義理解を狭めて智慧を得づらいようである。
閑居求道者たる私が過去記事に説いた「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」とは、「非道不徳の人」と同様の自覚・反省・努力の思考によって得られた結論であるし、同記事に世尊・比丘の振る舞いを示した通り、教理の上でも明確に根拠がある。
愚劣なる私もまた如来の一類であろうから、その仏界の自覚に基づいて説いたことは種々ある。
大乗の教理の個人的理解は、觀萌私記・清浄(淸淨)萌土抄に説いてある。

少したとえ話を始める。
私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。
既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。
このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。

仏教と、仏教を名乗る教団が人間の文明に生き永らえる以上、この「宿命」は繰り返されるということを2017年元日記事に詳述した。
人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。
これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。
そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて宗教を学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。
「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

また、教団が無ければ僧伽が無く、僧伽が無ければ仏法が途絶えて三宝の名は滅ぶが、教団のセクト主義や派閥意識は弊害を生んでしまい、かえって「獅子身中の虫」となりかねない。
それがカルト教団の犯罪や、新興宗教の不調和という形で世間に知られている。
しかし、宗教団体の悪の側面を取り違えて宗教団体を悪そのものと誤解した現代人は、宗教そのものを厭うようになるわけだから、悪循環である。

先に「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」と列ねてあるよう、「自尊にして他者に同ぜず、他尊にして自身を驕らず」という姿勢であってほしい。
これは私・横野真史の言葉ではなく、私とあなたと全ての人間の中にいらっしゃる仏が説いているものとして受け止めねばならない。
私のような理解にあれば、天台教学の十界論・仏界ということや、仏性・如来蔵思想の精髄も得られると思ってよい。
間断なき実践が合わさった時、速やかに菩提を成就しよう。



起草日: 20161230

表題にある「而二不二」に関しては、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。
本文で話題にした法四依=「依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経」に関する話も、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。

本記事は、上記の当日、思うことがあってザッと5,000文字近くの草案を書いた運びとなる。
当日の執筆中、一段落した時に楽な姿勢を取ったところ、ひどく目が痛み、よほど悲しみや怒りを伴わない限りは流れないであろうほどの涙が流れた。
これほど涙を流すことはそう無いほど、痛みで涙を流した。
意味があるようで意味のない現象だと思っておく。
諸々の現象に意味があるかは、当事者がどう感じ取り、感じたことを現象に関連付けるかによる。

仏教徒の場合は、現象に感じたことが自覚・反省・努力に結びつけばよいと思う。
ひょんなことでも、仏の戒めであると思うようにしつつ、思い込みに至って他人に悪い説を発しないようにすれば「理論上完璧な仏教徒」であろうか。
宗教における「バチ」とは何か?全て自覚で決まる。
その自覚に反省や懺悔の思いが生じ、努力や修行に繋がることは、私が2016年6月以降、説き続けた道理である。
「自覚」を自他不二の理解から他人にも説いて善い道に入れようとする慈悲の教化はよいが、過度になって「お前は仏罰・神罰を受けたんだ!愚か者めが!(断罪してやる!)」と怒りを伴った追及は自制すべきである。

最後の段落に軽く成仏観を示したが、これは觀萌私記・末・讃萌語の所説に共通する。
「萌えの三身・大萌尊」の存在を示しつつ、それは人間の「内蔵(藏)萌心」の悟りと「好色萌相」の実践で自ら成就される境地であると暗示している。
觀萌私記の法門を少しでも聞いたならば、既に心の大萌尊を自覚し、過去に恐らくいらっしゃった大萌尊と自身の大萌尊たる性質を共に仰ぐことができるため、「頂礼(禮)大萌尊・拝仰大萌神・・・」という讃嘆の詩が綴られる。
いわゆる「即身成仏」の教理に則っているのかもしれない(私は半端な萌尊であるが仮にも説くことはできる、刹那でも智慧が発せられるから)。
無論、大乗仏教の成仏とは雲泥の差があり、同一にして異なるものと思ってほしい。
観萌私記の法門や修道ということも、清浄萌土抄に説明する通り、「仏道は大きい道(おおじ)で萌道は仏道の外の人を速やかに仏道へ向かわせる径(こみち)」である。
清浄萌土抄は題名からして浄土思想に関連するが、浄土思想は大乗仏教の方便である通り、清浄萌土の説が「萌道を照らして仏道に案内する灯火=方便」と断っている。



語源の研究
「マハーヤーナ"mahāyāna" (漢訳: 大乗・大乘 音写: 摩訶衍)」という梵語の語源について・・・
マハーヤーナとは、当記事の話題の如く、「大きな乗り物」のみならず「大きな智慧(大智)」をも指していたのではないか?

英語版Wikipedia - Mahayanaには法華経のガンダーラ語本に"mahājāna"という単語が載っていることを示している。
mahājāna = マハージャーナ・・・これはサンスクリット語(もといヴェーダ言語)に比して口語とか俗語とか方言の要素を含めたもの、いわゆるプラークリットのガンダーラ語の発音と見られ、サンスクリット語としては存在しない。
この発音は元々サンスクリット語のmahājñāna = マハージュニャーナ(偉大なる智慧・大智慧)を指し、マハージャーナという発音をされるうちに、ジャ"ja"とヤ"ya"の音が混同されてマハーヤーナに変わったとする(私の読解なので誤りが有るかも)。

子音JとYの互換性は2012・13年以後の私が知っていることであり、2014年以後に言語関連の記事でドイツ語(ヤーパンとジャパンの相違性など)やラテン語(ユダとジュダ・ユリウスとジュリアスなど)やヘブライ語のローマナイゼーションや、漢字の日本漢音(ヘボン式J)→広東語(イェール式J表記でY発音)・朝鮮語(2000年式Y表記かY自体の欠落)発音などを引き合いに出して語っている通り、発音が通じている。
JY互換、J/Y置換は音韻学の観点でも「ヤ」が硬口蓋接近音とされ、「ジャ」が有声歯茎硬口蓋摩擦音とされるように「硬口蓋音」のカテゴリで共通する。

音韻の蘊蓄はともかくとして、私の方でも"mahājāna"という語句が梵語の本に載っているか確認したが、DSBC所載のもの(中でも譬喩品第三に相当する部分)には載っていない。
しかし、マハージュニャーナとマハーヤーナは、共に見られた。
DSBC所載の梵本法華経は、いわゆる提婆達多品に相当する部分が宝塔品に載っていることから、時代が下ってマハージャーナという曖昧な単語が修正された梵語の本と考えてよい。

先述のWikipedia英語版の所説をしっかりと読み直すと、根拠は"Seishi Karashima"という学者のものらしい。
今、この記述を追加している2017年2月12日の2日前にたまたま初めて知った人物である。
浄土経典・浄土思想に関する調査の折、「原風景」という単語を冠した論文を創価大学ドメインのサイトから見ていたが、あらためてマハージャーナ説を調べると、この「辛嶋静志」氏の論文「言葉の向こうに開ける大乗仏教の原風景」がインターネットに見当たった。
academia.eduというドメインのサイトにご自身がアップロードして公開している様子である。
同氏の当該論文を披見すると、譬喩品の三車火宅の大白牛車=マハーヤーナ・大乗(古い梵語の本では誤記のマハージャーナ?)を長者が子供たちに与えたことと、マハージュニャーナ・大智慧(口語ではマハージャーナ・マハーギャーナ等と発音する)を仏が弟子たちに与えたことを、掛け合わせたもの(巧みな言葉遊びの一種)であると見解を示している。
そのように大智慧=仏の智慧を求めることを奨励した言葉には"mahājñāna-samatā"(何らかの法華経写本に載るという。漢訳経典では鳩摩羅什訳: 平等大慧、竺法護訳: 慧平等一)がある。
このマハージャーナに関する見解を示した論文の最後には「私の説は日本仏教の伝統の中に受け入れられないかもしれないが、恩師のノーマン博士(イギリス人?K. R. Norman)は賛同してくれただけで満足だ。海外のウィキペディアも私の説を紹介している (趣意)」と記しており、恐らく私が見た英語版Wikipedia記事の存在を認識していらっしゃる様子である。
その記事の脚注・出典に示された同氏の論文"Who composed the Lotus Sutra?"とは、2000年ころの発表らしい。

なお、"jñāna"をジュニャーナではなくギャーナと発音するとする見解を同氏が示していることについても、少し音韻学的に考察したい。
そのような発音に関しては現代にサンスクリット語を口頭で発音する場合もされているようであり、実際の音声は聴いていないが、辞書の文字という理論上の音韻としては、日本人がネットに掲載する辞書に同様の発音が見受けられた。
こちら→http://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi
例として√jñaという接頭語・語根は「ギヤ」と表記され、派生した名詞の語幹であるjñānaが「ギヤーナ」と表記されていた。
また、「ギャーナ」自体を検索に掛けると、ギャーナ・ヨーガという代物が確認され、日本語版Wikipedia「ヴィヴェーカーナンダ」を介して英語版を見ると"Jnana Yoga"の記事に辿り着いた。
現代、話者によろうが、このように"jn-"のローマ字表記を以て"gy- /gj-/"的な発音をする場合もあると見てよい。

※アージュニャー・チャクラとか、プラジュニャーといった単語も「アーギャー」とか「プラギャー」と発音する可能性もある?前者「アーギャー」とは、Google検索・ググッたところ、何らかの作品のセリフに「ジョー・アーギャー」とあるそうだが、ヒンディー語として引かれているデーヴァナーガリー"जो आज्ञा"のローマ字化を図ると、見事に"jo aaj~naa (jo ājñā)"であった。口頭では今も昔(約2,000年前)も「ギャー」発音の可能性が高いか。

この"jn-"の音素の単語は、インド諸語の源流として印欧語根に戻り、西洋に繋げると、英語の"know"に通じる。
√jñaにせよ"know"にせよ、「知る」ということの意味を持つ。
カタカナj系発音がg系発音に通じること自体、現代gで表記される英単語がカタカナj系で表記されることは多い(語頭gはgen類ジェノサイド・ジェンダー、ラテン語から読めばゲノムとなる単語もある。語中gでもageエイジやengineエンジンなどがある。後続が母音であるとき主にカタカナj系 = IPAでのdz発音となる)。
いわゆる"gnosis"、グノーシスも英語の"know"に通じるので、言ってしまうと、"know"はカタカナ表記の際、一般的にノーとかナウとかとするが、より根源的な発音はクノーに似ることとなる。
kとgとは、軟口蓋破裂音の類であり、相違点は「無声音と有声音」という日本語でいう「清音と濁音(カ行とガ行)」である。

こう捉えればサンスクリット語根jña-とは、ジュニャは元より、クナともグナともなるし、jをyに置き換えて無音化する場合にn音という歯茎鼻音を、硬口蓋鼻音nj-にも通じる硬口蓋化破裂音gy- /gj-/に置き換えれば、語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。
あるいは語根jña-のjをgに置き換えた場合にn音という歯茎鼻音を、過去記事の漢字音韻理論と似たようにn→j(dzなどカタカナ系破擦音としてのjに相当)→y(ドイツ語やラテン語での本来的な硬口蓋接近音jに相当)と変化させれば、同じく語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。

またしても言語や音韻について、数学的な解釈を垂れることになってしまった。
または、文字を対象にした科学というか、文字を弄んだパズルゲーム同然である。
原因要素となる文字に、私の分析による例外法則を化合して別の文字をはじき出し、現象の再現を図っている。

2017年1月25日水曜日

考証戯論「お経(経文)・題目・名号などは意味を理解してから唱えるべきか?」

いきなり答え→仏教を信仰する者、"いつかは"経文などを理解せねばならないが、最初の段階から求められることではない。
誰もが最初から経文の意味を知らず、仮に表面的な意味を知っても真意を知ること(後述)と異なる。
また、人によって意欲や成長の度合いも異なる。
場合により、方便(対機説法・世界悉檀)として「唱えるだけで功徳がある」と、例えば科学的な利益・現世利益を訴えてもよい。
「毎日の健康習慣!」とか、「脳の活性化!」とか、「美容にもいい!」とかと主張してもよい。
相手の人格・機根に合わせて訴える。

そうして人が読経などの信仰行為を形式的にも行うならば、自ずと経文・教義の理解もついてくる。
信仰する者の信心(菩提心または少し異なるが好奇心や知的欲求でもよい)が真(誠・まこと)であれば、遅かれ早かれ、唱えるところの題目・名号や経文は理解できよう。
もっと端的に言えば、「理解と行動のどっちが先であるか」という問い自体、愚問であって戯論である。
相互の共生で影響し合う道理を知るべきである。
意味を理解して唱える、唱えて意味を理解する。
または、意味を理解していながら唱え続けて再確認をし、忘れずに思う(反面・形骸化しやすいという二面性もあるが)。
どうであれ、理解と行動とは共生してこそ円満であると思わねばならない。
理解と行動とは相互に価値を高めゆくものである。
また、理解と行動のどちらかが著しく欠けている状態であっても、自ずと補われるのであろう(本題の例はこの範疇である)から、今はどちらかが著しく欠けている者も案じずに精進してほしい(失敗して死ぬことは恐らく無いのだから。否、無いのだと思って励みなさい)。



さて、合理主義的・懐疑的な現代において仏教の信仰を持ちづらい人が、信仰する者に対して「意味も分からずにお経を唱えて何になるの?」と有無を言わさず横槍を入れるケースが散見される。
それは「(発言者にとって難しいお経を読むなんて)下らないことだ」という結論ありきで発せられた、純粋な疑問とは言いづらいものが多いと看取する。
そういう魂胆によって横槍を入れる者は、心が佞悪であり、素直でなかったりする。
過去記事にもあげつらった、新興宗教の妄信者と、反宗教的な合理主義者(懐疑論者)の二元対立構造が非常に分かりやすい。
こういった低劣な(と蔑んでもならないが)論争が巷間に於いてされることは、痛快ではなく、むしろ不快に思う。

仏教系新興宗教および伝統仏教であっても、唱えることに意味があるとする教義は多くある。
法華系・日蓮系であれば、法華経の中に経文の受持読誦の功徳が多く記され、宗祖とされる日蓮大聖人の御妙判・御書と呼ばれる書物にも、如来寿量品長行に説かれた良医の譬喩にならって「お題目・南無妙法蓮華経を信じて唱えることは、母親が乳飲み子に与える母乳の栄養や医者が患者に与える薬の効能が分からずとも、与えられる者が信頼して飲むから作用するように、経文の意義を知らずとも功徳を信じて読めば功徳がある」という趣旨の言葉がある(ネット所載・創価学会御書全集のp341やp499やp1,058など)。
同じ趣旨の例えでは「愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり(同全集1382p)」といって、「金(こがね)・火」そのものは、正しく使えば「愚者」でも「智者」でも等しく機能することを挙げている。
ほか、「南無妙法蓮華経」のお題目の一篇を唱える功徳が法華経一部八巻(経の全体)を読む功徳に相当するという教説(同全集411pなど)も、様々な日蓮大聖人の教説と結びついているものである。
お題目とは、ただでさえ「無量無辺の功徳を具えた聖文・妙文と崇められる法華経(随喜功徳品などが根拠)」の真実性を、「妙法蓮華経(鳩摩羅什・訳)」という五字の経題に凝縮し、しかもそれに「南無(帰命)」するのだから、法華経と等しいか勝るほど功徳が具わっている、と教わろう。
そういった教説について、お経を唱える個人・当事者らが必ずしも理解しているとは言えないが、そういった教義に基づいて宗教団体が奨励している事実はある。
ほか、宗教信者の中にも、布教の方法として「最初から経文の意義を示してゆくことが現代に適う!子供騙しの古い手法は布教を妨げる!」と高論を発する者がいる。

私は、宗教信者・反宗教合理主義者の各々に言い分があるから、大いに尊重できる。
同時に、そういった「一理ある」主張はごく一面的であり、それのみを主張の要となして対立する者たちを侮蔑し、かつ憐愍しているのである。
一辺倒の主張であって広い理解や協調性に欠いている者たちではなかろうか。
中3の時にネット右翼とネット左翼(および横槍を入れる第三者)の終わりを見せない低劣な論争に嫌気がさしたことも、私の達観による。
仏教を学ぶ前から仏教の機根が僅かばかりあった例証である。
人々は人々の理想が多かれ少なかれ意識されるもとに諸々の言論をなしており、大いに尊重できると同時に侮蔑し、厭離すべきではなかろうか。
全て仏・菩薩の憐愍すべき対象である。

仏・菩薩は、一応、説法したり、論理的な説明もするし、大乗仏教で菩薩と尊敬される論師たちも論争に交わったが、同時に、みな論争を超越した存在である。
どんな言葉を発しても、心では常に泰然自若としている(人間の心の奥はみな愛憎も善悪も無い"無記である"と理解する。菩薩は理の無記のみならず事実に体得している。また菩薩は大悲を以て成仏せず衆生済度をされるから同様に論争についても戯論とお分かりで戯論を用いられる)。
現世で我が身の存在する以上は慈悲の心に随い、種々に説法して教化する。
論理的な説明が必要な仏弟子に論理的な説明を行うし、論争に交わって教義を示すならば当事者および当事者の取り巻きなどにも教化が適うということは、内証の悟り・慈悲が泰然として堅固であるからこそ現世の身は柔軟な立場でいる。



それはそうとして、読経の行為について私はどのようであったか?
2015年4月、家に複製の御本尊(ミニ掛け軸)があることを知った経緯(茨城・母方の祖母に関連)で初めて勤行を行い、5月中に動画も上げており、同月中に勤行の習慣を止めた経緯もあったが、2015年12月下旬からぼちぼち再開し、2016年2月以降は毎日に朝夕の略式勤行を挙げている。
「経文」という話題を中心にして話す。

「自我偈(妙法蓮華経・如来寿量品の偈)」の名は2011年・中3の時にたまたま知ったものであり、読経の音声自体は2009年4月・中1の時の祖父葬式で2泊した千葉鴨川の祖父母宅であったろうか。
それらの経緯の影響は仏法に於いてごく薄いが、日蓮系との縁を自覚する要因ではある。
個人的な動機で2014年6月から日蓮系新興宗教(主に創価学会・顕正会)を学び始め、信仰の方は行わないまま(個人の独学・合理主義・好奇心による部分が強いため信仰は難しかった)時間が経つにつれて自我偈の内容は、現代語訳を通じて理解された(部分的には講義・解説など)。
つまり、インターネットなり書籍なりで経文の意味の大要は、理解される。

しかし、それは「現代語訳の文章を理解した」とか「読み下し文・訓読文を理解した」とか「漢文を理解した」とか「梵語の文章・梵文を理解した」という程度であり、経文の心に通じたとは言えない。
信仰する者ならば「我、経の意を得たり!」などと諸手を挙げて喜べたものではない。
百歩譲って言えば、「一応の理解」に過ぎない。
この私であっても、先の「法華教学の再確認」記事の中で自我偈の真意の一部分を説いたつもりだが、今なおも新たに学び得ることや、知識不足の実感がある。

※仏教に「無学」という概念・名称があり、「学が無いもの(新たに学ぶ必要が無い者)」と意味するが、それは「既に学びつくしたからもう新たに学ぶことが残っていない」という意味ではなく「既に解脱したから新たに解脱に役立つ知識は学ぶ必要が無い」という意味である。学びつくさずとも解脱する者は解脱する。後述の周利槃特尊者はこれである。釈尊の言葉を常に聞き続けた「多聞第一」の阿難尊者ですら、ほかの仏弟子に遅れて解脱に至った方である。

文章の暗記をして誇りたければ、いくらでも本を買いあさり、血眼になって読んでもらいたい。
そうして暗記しても、コンピューターの記憶力に適う者はいない(中3のころ単に円周率10桁以上を暗記したがる者を軽蔑する際に発した常套句に似ている。つまらないことに限界を求める人々・二の累乗を暗記した方が楽しく実用的であると弁駁していた。円周率の暗記であっても別に意義があるならば行う価値はあろうが。意義や自覚は宗教の神髄である。心が微塵も無いと信仰も無い)。
誰かが暗記したことを「人の才能の一種」として賞賛できても、当人の人格の向上を認めはしないし、ましてや仏教の徳とは全くならない。
「多聞(であるだけの者)は生死を度せず」ということである。
信仰の価値・意義と仏道修行に関する話は、過去記事の説明に任す。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/theravada-saddha.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/blog-post-20.html

※起草日・2016年12月18日と翌19日にたまたま2日連続で「周利槃特(しゅりはんどく・チューダパンタカ・チューラパンタカ"Skt: Cūḍapanthaka Pali: Cūḷapanthaka")」の故事を見かけた(1, 2)。その故事の要旨を取る。「周利槃特は兄の摩訶槃特の誘いで仏門に入った。釈尊の話に集中できず簡単な言葉(いわゆる経文・偈・教説)も覚えられない(言外の意:持戒・禅定・智慧などの修行が不能)ながらに信仰心や菩提心が強かった。兄に比べられたり、周囲に突き放されて悲しむ中、釈尊から最も簡単なフレーズと共に掃除の雑用(増一阿含経では掃き掃除という説・大智度論では履き物の清掃という説)を任され、これを愚直に懸命に行った。長い時間、そのフレーズを念じて日々に掃除を続け(言外の意:持戒・禅定・智慧が修まり)、阿羅漢果の悟りを得た」と。現代のネットや書籍に見るものは多少の脚色がある(人間の感情によって詭弁的になりやすい)。増一阿含経巻第十一の表現はシンプルであるほか、兄・摩訶槃特が「持戒ができないなら還俗してくれ」と発しているようである。数日かけて漢字では2文字の経文"掃㨹"を記憶し、これを唱えながら掃き掃除をして言葉の意味を徐々に理解し、五盛陰(五蘊)などへの思惟・観想をし、阿羅漢と成ったという。いずれにせよ、この故事は後世にどう脚色されていようと要点をつまみ、理を学んでもらう必要がある。そういうための故事・逸話・譬喩というもの(伝承の中の脚色や誇張も含む)である。持戒が困難で学習がままならなかったらしい周利槃特が清掃作業に没頭できたことは、深い悲しみと釈尊の励ましを受けた経緯によるのかもしれない。なお、パーリ語経典の小部・テーラガーター557-566に同名の人物が登場しており、同じ経緯で仏が、掃き掃除のホウキではなく「足を拭く布を与えた」という話がある。同ウダーナの場合は同名の人物に仏が瞑想に関して助言しているようであった[各邦訳]。ジャータカ(4番め"Cullaka-seṭṭhi Jātaka")に拭き掃除として詳細な話が見られた[邦訳]。法華経では「周陀(CūḍaやKṣudra説は日中のものだがある梵本ではcundaḥとあり漢・梵の英訳ではCundaとかKundaとして純陀を指している)」の名で成仏の授記に列している。

とりあえず、経文の概要などは知ったとしても、経文および経を説いた人物と同じ悟りを得た境地ではないわけであり、仏教において自慢になることはない(悟りも自慢すべきでないが称賛はされてよい)。
そもそも現代の軽薄な合理主義者(日本社会でダラダラと生きる中に自然と身に付いた程度の凡庸な合理主義)の主張は、信仰のある人およびその行為への軽侮である。
そういった主張は、仏教・仏法の中では取り合う価値すらないわけである。
そんな発言をする行為自体が、仏智なく信解なく、求道心もない合理主義的無宗教者(懐疑論者・外道)と看破される。

もっとも、彼らが仮に知的欲求などで経文を理解し、その微々たる功徳から菩提心が起こるのであれば、救いのある話だと思う。
斯く言う私も、似たように合理主義的な者であったが、浅い仏縁でも深いところに通じるわけで、その人々の自覚と行動が大事になってくる。
だから、軽薄で不純な動機や煩悩や三毒に因る動機でも、菩提心に繋がることはある。
煩悩即菩提・変毒為薬の類例である。

しかし、仏教の義のみを知って我が心を観ない者は、三毒を残したまま獅子身中の虫・悪魔となって(悪鬼入其身)仏法を破りかねない。
先の周利槃特(御書では修利・須利)に関連して日蓮大聖人は、提婆達多が多聞で多く教えを記憶していながら、悪業を積み続けて無間地獄に堕ちたことを例に取っており、末法の現在はかえって物質的に豊かとなり、人の機根を愚鈍にさせ、心も毒を強めていよう。
仏教を学んでどうなるか、一括りに言えはしない。
人の価値観や機根が異なる、といつも言っている。
今、言い換えるならば、自覚・反省の心(慙愧)が真っ当な者は最初こそ不純な心でも仏道を成ずることができよう。
諸行無常・空だからこそ、煩悩の宿痾も対治できるものと自覚し、一生成仏への道を勧めたい。



合理性・学術性・学問性と、信仰心の大切さを共に理解している私の活動は、当・学術的メモ帳ブログの過去記事にその精神を大きく看取できよう。
仏教の理論にも出ており、觀萌私記の「萌」字音・音義に関する記述も同様である。
仏教自体、そういった両面を原始仏教・初期仏教、部派仏教と続いて上座部仏教なりインド・中国の大乗仏教なりと、包括できていたわけであるが、言語など学問部分を別物に扱って存在する状態が現代の仏教界・仏教学界である。
近現代の合理主義・資本主義的な分業体制の一例と言ってもよい。
不二(二ならず!)・一如(一の如し!)の義を以てしても、学問と信仰の両者がバラバラのままであり、仏教(ひいてはキリスト教などほとんどの宗教)は現代文明から滅んでもおかしくない。

世間においては、人の心・人権・人道を政治経済と両立させる上流階級がいながらに、下層民衆は合理主義にばかり心を奪われている。
また、上下万民は仏教を「一宗教」なるものとして、あるいは尊重し、あるいは無視している(いわゆる傍観者・冷笑主義)。
この世間でも、最後まではユネスコ(UNESCO)みたいな人権屋が、絶滅せぬようにと「無形文化遺産」の如くに保護してくれるであろう。
私が演繹する理論はこの通りだからこそ、事実にならぬよう、私が行えることがあり、今までも、今現在も続けており、今後とも続けてゆく所存である。



起草日: 20161217
本題に関しては、過去記事で取り上げることのない話題であるが、説明の記述については過去記事の所説や記録と重なる部分が多い。
また、そういった記述をせねばならない時、気だるく思っている。
ああ、何たる怠慢であろうか。
毎度、説明を倦むことなく、新鮮な気持ちで、人を思いやる心で全ての文章を書きたいものであるが、思いやるべき他人などどこにいようか。
どんなツラをしているかもわからない他人が無感情で見るか、スパムロボットしかアクセスしないであろうから、と最初から諦め気味に書いている。

その虚脱感・倦怠感というものが、書きたい、伝えたい、という心と同居している。
いかにして対治すべきであろうか。
理性が横槍を入れてくる私の道心には、障礙が幾重も連なっている。
今後も、同じ気持ちでケツ書きをする際、「前にも書いたことだ」と価値判断をして手抜きを犯してしまおうか、と悩ましい。
とはいえ、記事自体は手抜きとなっていないので、安心して熟読されたい。
まだ、慈悲の心(と虚栄心)が、虚脱感や倦怠感に勝っているようである。

どうせ虚脱感や倦怠感の波に逆らえないならば、枯れつつある性欲(2016年10月3日からオナニー射精を自然に行わない記録を起草日も更新中)と共に食欲も削がれてほしい。
起草の月・2016年12月は暫定2度(同月1日・14日)も夢精した経緯があり、夢精もしなくなってほしいものだが。

2017年1月17日火曜日

法華教学の再確認(諸法実相・第一義・文底義の視座で)

中観派かぶれな私の立場で、法華経(諸漢訳・梵語経典とも参照)の「第一義」について再確認する(日蓮大聖人・天台大師・世親等諸菩薩諸師の見解も載せる)。
浅学菲才の徒による生半可の理解の披瀝は慙愧に堪えない思いであるが、何とか記録したい。
諸賢より、一斑全豹・牽強付会との謗りもあろうが、忌憚なく記録したい。
経典解釈は、今まで、高難度の領域として避ける傾向はあったが、断片的な理解を紡ぎ合わせてゆけたので、拙くもこの記事でまとめあげたい。

今の私の解釈で、本門・如来寿量品の深遠なる玄義は、改めて「久遠実成」という特殊ながらも全仏教に通じて諸経を包括し、しかも超越しているものと確信できた。
「久遠実成」とは、極端なドグマでなく、セクト主義を助長するものでもなく、そのように取る人(最近までの私も同類)がいるだけのことであった、と実感した。
私の理解に沿えば、日蓮大聖人や天台大師などが法華経を最勝・第一として称えた真意も分かる(後述する絶待妙の立場で法華玄義の法華總括衆經という一文の真意など)。
そうして真に法華経と法華経以外の経典・教義も尊重し合えるようになる(神と人間のような絶対的上下関係を強いていない)。

まず「法華経」という名の経典は、一般的に鳩摩羅什三蔵の漢訳妙法蓮華経(二十七品ないし二十八品)が認知されるものであるが、その他の異なる漢訳(正法華経など)や元となる梵語などの経典のみならず、経典としての法華経の中にまた様々な「法華経」が登場している。
まだ譬喩品など説かれきっていない段階(迹門)で指された「此の経・斯の経・妙法華経」という立場の法華経や、釈尊が過去世の修行として説く常不軽菩薩が受持していた「二十四文字の法華経(羅什訳: 我深敬汝等。不敢輕慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。當得作佛。 竺法護の訳では27文字)」や、その常不軽菩薩の臨終に聞いた「威音王仏所説の二十千万億偈の法華経」などがある。
色々な法華経が説かれるが、つまり、「文字や言葉にされた法華経」の本源となる「法華経(諸法実相・第一義に仮名を付けたもの)」がある。
我々現世の凡夫が法華経より諸法実相・第一義に通じる道(悟り・解脱・成仏への道)として、まずは、この「法華経」という名前が同じでも、指す所の異なる(名同体異)の様々な「法華経」がある点を理解する必要がある。

而二不二(二而不二、不二而二)の義で弁別しよう。
経典としての法華経も、爾前(五時八教などにおける釈尊が法華経を説く以前の時)の経典と同じ「経典」であり、方便の説を多く込めて爾前の経典とは「不二」、平等である。
経典としての法華経は迹門でも本門でも荘厳な世界(多宝塔や六万恒河沙地涌菩薩の出現・虚空会など)が演出され、壮大な譬喩や因縁(他国土・過去世など)の説話もふんだんに込められているので、方便は多く入っており、それを全て真実とみなして信仰することもよいが、第一義(法華経と仮に名付けられた真理)においてはそうでないと理解する必要がある。
また、法華経と名付けられた真理=諸法実相・第一義を明確に示している点では「而二」である。
つまり、法華経は、紛れもなく諸経の中で最勝だが、同じく不二の立場である諸経とは釈尊の経典として不二で等しくもある。
日蓮大聖人の法門においては、諸経において一応は法華経が最勝であるが、経典自体を称える範疇に留まらず、その進歩のため、過去の諸師なかんずく天台大師智顗さんが法華経の理を究め、伝教大師最澄さんがその理を日本に伝え、日蓮大聖人が日本で法華経の理・義の深奥「南無妙法蓮華経」を顕したとする教義を強調する。

※「方便」は「方便」でも、妙法蓮華経方便品「正直捨方便・但説無上道」の二句は、教主釈尊が「鈍根小智人」に配慮した爾前経のような説き方(対機説法など)をせず、思い切って説ける喜びを表した偈の中の二句であるから、我々に対して「爾前経という過去の方便の教えを捨てよ」と命じられた言葉ではない。「鈍根小智人(罪根深重及増上慢)」の衆生(四衆)が、この偈の直前に去ったシーンがある。「鈍根小智人」が去った後も二乗作仏・久遠成道を示すために様々な譬喩を用い、方便についても「善方便」を用いていると説く。仏教の色々な教義は、他宗教と同様のオカルト・おとぎ話であるように見る人もいるが、経典の所説は全て善方便である。「諸法実相・第一義」を仮に名付けた教義も「俗諦」の方便である。「仏語は実にして虚からず」である。後述のように全て信ずべし。「嘘じゃないから鵜呑みにしろ」という意味ではなく、ここまで・これからの文章と同様の理解で真意が分かる。経典の所説でない教義は別の話だが。



以下からが本題

法華経を読む上で留意すべき二項の両立

・経典の内容を実話と信じて諸仏の存在を認める信仰(一往・世俗諦)
・それら信じる対象が釈尊の慈悲の顕れである方便という理解(再往・真諦に準ずる世俗諦)

・・・法華経では三世十方諸仏が釈尊の分身であると説く(羅什訳の見宝塔品・嘱累品などだが竺法護訳では"分身"の語が確認できない。阿弥陀仏・阿閦仏なども分身諸仏の一分であると見てよいが法華経の理を敷衍して飛躍した例が大日如来など法身仏の教義・後述)。
私は今年に入ってからも、法華経・大乗仏教の世界観を、諸宗教義の悪影響で実体論的に認識し続けていたため(同時に無量の存在・無辺の世界は非算数所知という譬喩の一種とも捉えて同居させていた)、釈尊・釈迦牟尼仏・釈迦如来という仏が、娑婆世界という無量の国土の一国に出世した、無量の諸仏の中の一仏という認識が強かったが、今はむしろ法華経の文に依ってこそ、真実においては釈尊が釈尊であって釈尊でない唯一の仏(報身)であると分かった。
法華経には、諸仏や諸菩薩が異国から、娑婆で法華経を説く釈尊のために訪ねてくるシーンがいくつもあることも、深読み(文底?)すれば、諸仏や諸菩薩は釈尊のために生じた方便の存在と判断できる(信仰の立場ではそう考えるべきでないと今までに考えていたが、方便だからこそ諸仏も諸菩薩も改めて認められると理解できた)。
もし我々も成仏するならば、久遠成道の釈尊(本仏・概念・法身、実体論ではなく非有非無の何か)の一分となろうか(仏の概念が釈迦仏に認定されて釈迦仏が多くの仏とその国土と眷属を説いたので釈迦仏から生じている・・・安易な認識論に陥る?迷っちゃう)。

釈尊は、娑婆で成道した最初の仏であり、事実上はそうに違いない。
しかし、まず原始仏教(とされる時代、下っても紀元前)では仮に過去の七仏を説いた。
尤も、実際に偉大な悟り(無上覚・大菩提)を得た方は釈尊以前にもいらっしゃったかもしれないが、今の私としては方便として必要に応じて過去の七仏を説いたと見ている。
過去仏を認めても、小乗仏教・上座部仏教においては、ひたすらに釈尊一仏(上座部仏教でも未来の弥勒仏を信じる場合がある)を重んじ、民間信仰や寺院の祭祀儀礼ではバラモン教(ブラーフマナ・インド思想・ヒンドゥー教)に由来する神々や生物も祀る(パリッタ云々などの詳細は過去記事)。
神のことはよいとして、大乗仏教では、過去仏の教理を拡張して様々な諸仏の存在を説き、無数の諸仏や仏国土の存在を認めた。
本末転倒にならない範囲では、一切天・神、諸仏の存在を認めて仮に崇拝してもよかろうか。

改めて法華経では釈尊の真意に立ち返った極理が説かれているものと拝察する。
その上で、一切天・神、諸仏の存在も再度認め得るが、真実としては釈尊より先に衆生(有情・生命体)としての仏を知ることはできず、またこの真実を知って改めて如来寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」や「柔和質直者・則皆見我身」など、法華経の教説を深く実感できよう。
※寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」は第一義において「あの世で仏様が私たちを見守ってくださる」という意味ではなかろうが、信仰・修行者の立場としては、そういった見解で自律を心掛けてもよいと思う。真実は私に分からないから、もしかすると本当に「私を見守っている」かもしれないし、信仰とはそのように振る舞って然るべきである。そうでないと、少欲知足・精進勤修などはなかなか維持されない者もいる。奉じている仏に恥じない生活(言動・威儀)が大事である。

自室安置本尊 御本尊相貌

多宝如来と釈尊が同じ会座にいた部分については、これも多宝如来が「仮に如来と称された(表現された・譬えられた)何らかの存在や事物」であると見ている。
天台大師は法華文句巻八下に「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す (多寶表法佛。釋尊表報佛。分身表應佛。)」として、いわゆる三身論に沿って多宝如来を「法仏=法身の仏」であると見ているが、私もこれに同意し、真理・法身をここでは多宝塔と中の仏身に譬えて経に説いたろう(経文で色相をなした存在としてはみな応身と思うべきか)。
日蓮大聖人の御本尊も、大概、仏界の衆生は「南無多宝如来・南無釈迦牟尼仏」として並座の両尊のみが勧請され(私の「自室安置本尊」など一部の例は「三世諸仏・分身等諸仏」が勧請される場合もある)、法身・報身ともいえる両尊(中央の南無妙法蓮華経の首題は三身具足・十界互具・本門の教主釈尊)のみで、応身たる諸仏が法華経の会座に居る意義が成立しよう(特別に記す場合は時間と空間とを分けた三世・分身等の諸仏の名に総合する。しかし弘安以降の本尊は以前の金胎両界の大日如来と同じく名が認められないので方便的に書くものであったか)。
ついでに言うと、三身とは「三即一」で報身に帰するため、「報身たる教主釈尊」によって「法身の真理」が開示され、「方便の応身(諸経ないし文字の法華経)」も開示されたものである(経典・法華経において教主釈尊と真理の法と方便の諸仏は不二だが教主釈尊が第一であり依処である)。

「法華経」を説く釈尊のために過去世で「妙法華経(便宜上略した表現)」を聞いて成道したとされる多宝如来が出現し、宝塔の中の多宝如来を拝見するために諸仏が集まったという部分も、真諦・第一義諦(文底義?)に依って解釈することができる。
日蓮大聖人がしばしば「法華経への誹謗は三世十方諸仏・諸菩薩への誹謗であり大謗法である」、「三世十方諸仏・諸菩薩は法華経を聞いて成仏した」という教説をされるが、この真諦・第一義諦に通じた理解と言える。
※法華経や大聖人を嫌う人々であっても般若経典や中論を深く理解した人は言葉を置き換えて感情の色眼鏡を外して吟味すれば誰でも理解できよう。小乗仏教以来の「法を見る者は我(仏)を見る、我を見る者は法を見る(パーリ経蔵・相応部22.87経)」という教説とは同義であると考えてよい。法華経は大乗と小乗など様々な対立概念を無くそうとした教説がたくさん看取され、正に「実大乗」であると実感する。釈尊滅後や釈尊をお目にかかれない衆生をして「真実をどのように真実と見るか」を考え直させる教示は、小乗経典にも実大乗の法華経にもしっかりと含まれており、言葉は違っても真意は同じである。「第一義としての法華経」を信解して受持する者は、その法眼によって自然の事物に真理を見られる利益がある。「経典(俗諦)としての法華経」がその鏡であり、この法華経なくして第一義の法華経には通達しない(私が多々引く中論24章10偈"若不依俗諦..."の如し)。
※4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」には法華経について十七の名号が唱えられており、その中に「九名、能生一切諸佛經・十名、一切諸佛之道場」という部分があり、天台大師以前(?)から法華経の真理を知る人がそれなりにいて可能な限り宣伝されていたと考えてよい。と思ったが、私の「分身説」ほど穿った見方ではないようである。単に「法華経と名付けられた真理」を一切諸仏が等しく悟っている、と経文通りに見てこう名付けたようである。

一応、法華経の中に名前がある阿弥陀・阿閦などの如来も釈尊の方便として実在するかのように説かれていて信仰できるかもしれないが、本来・第一義においては釈尊が教主であるとした上でこそ諸仏への信仰が成り立つと見てよい(弥陀・観音などを第一と立てる信仰は本末転倒)。
文献学・合理主義の見解に依り、インドのガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ、シャーキャムニ・ブッダ)さんが言葉で説いていないとみなしても、後の僧侶が彼の言葉や教説を拡張して法理に随って示された存在(方便)となるので、やはり彼・釈尊を親や本源とみなさねばならない。
経典を読む者がどう受け取るかによるが、私は様々に幅広く仏法を学び、日頃に我が身へ当ててきたわけで、宗派は異なっても多くの教説が法華経の教説と繋がって見える。
「事物がそのまま真理に繋がっている」とか、「事物が真理の現れであり、無為自然の森羅万象からいかに仏法の道理を見出せるか」という言い方がされる。
・・・まさか、妄想や幻覚で視界(脳で歪めるプロセス)にホトケサマを浮かべるということではない。
心の中で自己の仏性・仏界・法身を見ることは、大乗仏教の真髄であるから讃えられる。

なお、中古天台・台密の比叡山延暦寺では、「釈迦の内証は大日なり(溪嵐拾葉集: 釋迦内證大日也大日外用釋迦也又内證外用不二平等也 乃至 久遠成道佛是中臺毘盧遮那本地常身也)」などと説明される。
この説明は、大日如来=毘盧遮那仏が、華厳経などで仏の三身の「法身」と定義され、釈尊が法身に対して「応身」と定義されることに基づいていると見る。
自然と具わっている「法(法身・本地)=大日如来」の、現れ(応現・垂迹)が応身の仏であり、釈尊だとする。
しかし、これは、いわゆる「蝙蝠論法」である(妙密上人御消息: 善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ。 乃至 「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し)。
「蝙蝠論法」を換言すると「削足適履(履きたい靴に合わせて足の指を切る)」、「釈迦仏像の手を切断して阿弥陀仏の手印を結ばせる(立正安国論: 切釋迦之手指結彌陀之印相)」ようなものか。
日蓮大聖人がしばしば非難される「法華経と大日経の理同事勝」や「真言密教の訳経僧による一念三千の義の盗作」はこれに当たる。

法華経に基づくならば、法身の仏は大日如来ではなく、久遠成道(久遠実成)の釈尊(釈迦如来)でなければならない(日蓮本仏論においては釈尊の内証=久遠元初自受用報身日蓮大聖人と本門の題目の南無妙法蓮華経および一部教団では弘安二年の大御本尊が該当するか)。
その法身仏を、仮に「大日如来」と名付けたいならば、もう好きにしてよい。
中道の立場、第一義の観点から、今の私はそう言える。
小乗仏典、大乗の経論、法華経などに広く見られる「根源の第一義」を、わざわざ大日如来の名に置き換えて「即事而真」と思うべく大日如来を称える彼らについて、非難のしようが無くなった。

※法華教学における三身(法身・報身・応身)について簡単なメモ・・・「法・空・真理・真如実相・法身の仏(内心・外相・万物)は無始無終であり存在は非有非無であり第一義・真理だが、悟る人という報身がいなければ証明されないので不二であり、この悟る人=報身の仏が説くことは教義もすべて応身の仏である。法身と応身は報身の仏(人とも)に収まる」 「日蓮宗常用開経偈・・・能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は即ち是れ応身なり」 「境=法身・所成(知られるべき境地)、智=報身・能成(知ることができる智慧)、境智冥合=人即法・法即人・人法体一・人法一箇・不二」、「報身の中に三身を論ず、報中論三」 それで、この三身の配当は天台大師だと既述の通り「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す」として私もおよそ同意するが、もう少しアレンジすると、内証・真理の久遠実成(および常住)釈迦如来が法身であり、その境を知って真理を説いた智慧ある釈尊が報身であり、説かれた経典・法華経や諸々の教義が応身とも言える(三身は三宝にも似る?)。なお、4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」は三身を「示現三種佛菩提故。一者...」と法華経より説明している。世親菩薩は寿量品における久遠実成の仏の振る舞いを現在の釈尊が語っているままに、久遠実成の仏を報身とみなしているようである。



そういえば、今の私も法華経について、諸経論・諸師の法(ダルマ、ドクトリン・・・ドグマ?アルティメットトゥルース?)に依りながら折衷して私なりの解釈をしようとしている。
今の私の志向するところは「真理の法について、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と名付け、台密などの密教では大日如来と名付けているだけで正体は一緒だから、どの名前にせよ、三世十方諸仏や諸経の根源は共通する(≒修行法は違っても悟り・解脱に向いている)」という宗教多元主義的な見解に達するであろう(日蓮宗や日蓮正宗では密教の大日如来は単なる理仏の域を過ぎず、しかもそれを崇めることは無意味であると区別している。大日経は理仏・法身のはずの大日如来が説法するという奇怪なスタンスの内容だが私が肯定的に解釈するならば既述の多宝如来に関する見解と同様になるが多々異なりもする)。
私(未成年・教団未所属)の教学に対する姿勢は、その宗教多元主義や個人主義など現代的な自由・民主らしく、インターネットに大いに依存するものであり、諸宗の人もその傾向が出やすい。

日蓮大聖人・お題目の信仰・信奉においてはいかがなものか、と考えるが、そうしてまた大聖人・題目の信仰の裏付けに繋がることを期待している。
手放しに「みんな仏様の弟子なんだ!なんでもいいじゃん!」と言い放つつもりはない(立正安国論には主人の言葉で「同じ仏子を責めるのではなく仏子の中の謗法をにくんでいる」と述懐される)。
少なくとも、日蓮大聖人の法縁(2009年・父方の祖父逝去に際して千葉県鴨川市の父の実家に寄った時が最初だが小湊地域の聖地巡礼はしていない)は偉大であろうし、これは大いに尊重せねばならない(インターネットで創価学会や顕正会のネタに興味を引かれた一面も大きいが)。
現世の修行・世俗諦において日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の法門を以て他宗を破る布教をされたように、私もその信心を保つ必要があると思っている。
故に、法華経文底義・諸法実相・第一義=客観的真理(過去記事で定義)から見た諸経も諸教(キリスト教など一神教も含む)の「主観的真理(過去記事で定義)」も否定しきれなくなるが、現世の凡夫の身は事実として生きている以上、現世のならいとして邪義・異なった主観的真理を破らねばならないこととなる(私は大胆に行わないでおくが少なくとも日蓮大聖人および現代の一部門下はその必要性を自覚している)。



さて、「第一義(空・縁起・中道・言語道断心行所滅)」に通じる理解を得ることは、法華経だけを見ても、法華経以外の経典だけを見ても、機根の高い人は得ることが出来よう(豁然大悟・頓悟する)。
また、釈尊のように生身の仏(第一義に通じた覚者)より教えを受けずに独り瞑想・観想をしても、得られる可能性は0でない。
しかし、大概、それほどの超人はいない(大聖人教学では末法下機下根の凡夫・特に現代人は学校教育やテレビ番組などの悪影響で客観・合理思考の価値判断が・・・)。
私が半ばに得られている状態は、法華経の信心に発端して諸経・諸教を広く見て再び法華経の理解に戻ったプロセスに因る。
法華経(南無妙法蓮華経)の信心と、仏教の広い研鑽とが兼ねられ、法華経の故郷の地に着き、条件が満足するときに伸びた智慧の大樹が第一義の天を衝こうとする(まだ衝ききらない・私の成仏を証明できていない)。
文字の法華経と余経とが相互に関与した上で、真理・真諦・文底・第一義の法華経に「見(まみ)える」こととなろう(法華経の第一義・文底義から諸経を再度俯瞰して法華経の第一義を根源とした教説であると再発見する境地を絶待妙と言う。十法界明因果抄: 法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う。此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり)。

こういった第一義・諸法実相の理解や体得も、「信」を起こすことが前提である。
方便品の以信得入は有名だが、先ほど私が引いた如来寿量品の「柔和質直者」と似た一句に「質直意柔軟」という部分があり、その一つ前の句が「衆生既信伏」となっている(漢訳ではそうだが梵語原典でどうかは解読できない。梵語に依拠した英訳には"upright (or pious)"とあり羅什訳後二十八品に依拠した英訳には"faithful"とある)。
「柔和質直なる者(mṛdu mārdavā)」もまた信心の素直な人を指しているのかもしれない。
それはそうとしても、やはり釈尊の教説への信受は重要である。

前段にあった「諸仏(過去・現在・未来の三世と十方の諸仏)」の存在や、法華経に基づいた多宝如来と釈尊(釈迦如来)の同座や、釈尊などが現した三十二相(妙相)・神通力(神力)について、その内の一部分を神聖視・一辺倒で信ずれば本末転倒だが、全てが第一義に通じた「正しい方便・善良な方便」としては平等に信じなければならない。
それらを確実に手繰り寄せて一歩一歩と踏みしめて経過するところに、五里霧中の三界で「第一義」の像が、徐々に鮮明になると考える。
種々の説法の含意を理解する。
法眼を以て文底の義を見抜く。
とでも言えばよかろうか、言葉が見当たらないが、強いて言う。

もちろん、無量の教説・教義の全てを、試験勉強みたいに暗記したりして学ぶ必要は無く(必要を感じる人は自由にどうぞ)、ただ今に受けた教え・学んだことを信ずる姿勢を言っている。
この信心が現世で最高の宝であろう。
第一義を得るための最大要因として法華経に示された。
この信心という因は、端的に言えば一念三千であって十界互具であって因果倶時の成仏であっててだね・・・。

つまり、この信心を決定している人が既に仏である、とも創○系で言われている。
釈尊など、諸々の大徳は、様々なプロセスで法華経の第一義に達したであろうが、末法の衆生は、その第一義の名である南無妙法蓮華経の信心・修行を日蓮大聖人から教わって(下種されて)実践するので、既にその第一義を直に拝しているらしい。
これについては何とも言えない現状である。
その信心と同時に、こういった教学や理解によってようやく得られるのであろうか。
※以信代慧の妙理は善いようだが、人間の実際問題は、知能において曲解の性質を孕み、信が不足しているときには知識が慢心を増長し、教説の信が有っても慈悲の理解を欠いていれば自他に三毒をもたらしかねない。複雑な問題ではあるが、巧く浄信で制御せねばならない。

私も、先述の通り、何らかの法縁・仏縁なくしては、今の研鑽が無かったであろう。
まさか、それについて「月を指す指は何でもよい」とか「鰯の頭を縁としてもよい」とは言わない。
偏に南無妙法蓮華経の妙用に因る・縁る結果と信じている。
南無妙法蓮華経の信心・唱題が然らしむる智慧の功徳である。





起草日: 20161123
起草日から見て最近、馬鳴菩薩の仏所行讃(曇無讖さんの漢訳ほか参考に梵語も)を披見した。
仏教ファンタジーとまで思える壮大な物語は、史的事実に即して法理を含みつつ、文学的・詩的に魅力を持たせた表現様式がとられる(詩の要素はMahākāvya、カーヴィヤと称される?)。
破魔品は壮大でコミカルな表現が受ける。
釈尊が「超人」のようにも描かれるが、人間的叙情表現も描かれる。
それらは馬鳴菩薩が第一義に達した境地から成し得る、柔軟な筆致であった。
史学的・文献学的に、竜樹菩薩や馬鳴菩薩が法華経を知らなかったとしても、間違いなく、彼らは法華経所説の真理・第一義や諸法実相に通達している。
ましてや、彼らの言葉を漢訳文章にした鳩摩羅什さんや曇無讖さんは法華経・涅槃経(大乗)に関わっている。
仏所行讃・中論・大智度論(過去記事でも書いた通り文献学的疑義は別)を、浅学菲才の私が微力を尽くして管見の限りに読んだ印象である。

※竜樹菩薩・馬鳴菩薩(および天親菩薩など)と第一義の話に関しては日蓮大聖人の教示による。時代によって時代に適った法を広めた説である。主に撰時抄に意義が示される。大聖人は「南無妙法蓮華経」が内証そのものと断言する。法華経や題目を嫌う人でも、信仰心あらば、彼ら大乗諸菩薩の内証・悟りはおおよそ共通していることを認められるはずである。(撰時抄: 竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給うといえども言には此の義を宣べ給はず 乃至 多くの故あり一には彼の時には機なし・二には時なし・三には迹化なれば付嘱せられ給はず 報恩抄: されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり ほか: 月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師・漢土の天台・妙楽・日本の伝教大師等・内には之を知ると雖も外に之を伝えず第三の秘法今に残す所なり)

当記事の理解には「主観的真理・客観的真理」と仮に弁別した記事を併せて読む(起草日や投稿日の順序としてはそちらが先に読まれるべきだが)と非常に理解を深められよう。
改めて、この「2つの真理」について当記事になぞらえて説明する。
釈尊の様々な説法にしても日蓮大聖人の振る舞いや教義にしても、自身の存在意義・他者の教導、といった現世で行うに適した「主観的真理」に随った行動や発言がある(それにつけても天台大師の伝承にある弥陀名号の念仏・法華経読誦の臨終は主観的真理同士ですら相容れないので判断が難しいが妙法と麁法の中和というつもりで行ったか・・・正宗系教団ではタブーの話)。
合理主義の現代、「主観的」という言葉には即座に「独善」という印象が付随しがちであるが、むしろ、仏教では自身の行いとしては「主観性」こそ重んじねばならない。
主観的真理を持たずして客観的真理には通じない(主観的真理に悪い拘泥をしろとも言わない)・・・当該記事において竜樹菩薩の中論を多く援用した。
化他行においても「自他不二」の発想から自身の信念・信仰に基づいた行いと同じように導くべき確信が大乗仏教にはあるが、人それぞれ価値観が異なるから多少の配慮なども必要ではあろう、ということであって、あくまでも主観的真理は過度でない限り、尊重されるものである(現代の人権思想にも通じており、その主観的真理がアイデンティティとなってレゾンデートルとなっているからむしろ否定すべきでないとされる)。

客観的真理は、世間でいう「客観的なもの」とは大きく異なり、当記事などで仮に「第一義(第一義諦)」と称しているように認識できて認識できないような真理である。
科学的思考も究竟は「空・諸行無常(物質的なものについてはエントロピー増大則とかいう)」に繋がるので、ある意味では私がいう客観的真理に通じるが、いわゆる天台教学の「蔵教・析空観」と同レベルであるし、そもそも大衆認知=客観的と言っても人間の共同体の総意はその時空(時間・空間)の中の人間の主観性に過ぎない。
そのほか現代的民間信仰ともいうべき世俗的科学知識は粗末であり、誤解や迷信も混ざっており、とても「客観的」でない。
私のいう客観的真理とは、「実体論的に存在する法」でも「経典の言葉」でもなく、言語道断・心行所滅・不可説のものであり、釈尊・釈迦牟尼世尊(大乗非仏説論の見解で一部教説に限ることを含む)にしても日蓮大聖人にしても竜樹菩薩にしても天台大師にしても、言葉(俗諦)が異なって中身が共通した「客観的真理」に通じていたと考えてよい。
竜樹菩薩・中論24章18偈=空・仮名・中道義と、天台教学・三諦=空・仮・中の語義との相違性を挙げる人がいるが、その相違性は枝葉末節であり、彼らの真意・内証は一緒である。
日蓮大聖人の場合は、この「客観的真理=第一義=不可説」を「南無妙法蓮華経」の七字に表され、これを唱える修行を末法の世に残された、ということになる。

日蓮大聖人や、数々の教説の流れが通じる天台教学に関して誤謬性(文章・文証の誤った引用や解釈や世間事象の予言など)を挙げる人も多くいるが、それらはあくまでも先述の主観的真理に基づく方便・補助などを目的とした枝葉末節の部分である(無視せよという意味ではない)。
そういった点には、人間、誰しも誤りがあろうし(祖師無謬説で信じるのも自由だが)キリのないモグラ叩きに陥る修羅地獄であるから、原始仏典(パーリ経蔵・小部に多い)や過去の大徳は「他者の見解を論う・人の過ちを責めることをしない」と言葉を残した。
一つの第一義の部分はみな一致していて、その枝葉末節に多少の異同や新義のような部分も生じている、という主張をしておきたかった。
「それならばどの仏教でも一緒じゃん」という発想については、記事本文にある通り、ただ私の尊重すべきところに随い、未だ仏縁の無い人には日蓮大聖人の法門を伝えておこうと思っている。
その中に、立正安国論で警鐘を鳴らされた末法の世相・三災七難の由々しき問題の対処も着実に進むであろうと信じている。
哲学・論理学・合理思考・客観的分析の学者たちをして「詭弁だ」と思わせかねない私の言葉だが、あくまでも高潔にして下賤な修行者として綴った。
法門は自覚の問題である。



2017年1月6日金曜日

本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理



觀萌私記・末・讃萌語に「内に蔵する萌心(みょうしん)=内蔵萌心」を示している。
上の画像は、別の形で「内蔵萌心(内藏萌心)」を説いているものである(2016年9月分・絵の練習記事所載)。
觀萌私記所説を畢竟ずるに、「萌心」は慈悲の別称であり、その慈悲の心が本来的・本質的に具わっており、仏教や萌えを学んで観想した人が自覚でき、その人(萌えの覚者)である私の教説を聴聞した人も理解ができるようになる、と。

「本来・本質」という言葉は、共に、仏教の「空・因縁・無我」を原理主義的に前提とした立場から見れば、否定すべき邪義の言葉となってしまう。
人間の生命は、因(因子)の理(義理)として生来的に善悪の種(種が善悪それぞれあるのではなく1つの種が善にも悪にも変化することを譬える)を具えているであろうが、実際に生まれた後の縁(後天的要因)が無くしては、善も悪も成立しないという因縁観に依って否定される。
善悪は背反する概念であるし、物事の結果的に決められる区分なのに、生来持っていてそのまま維持するはずがないという見解である。
私はここで敢えて「本来的・本質的」と称して言葉の執着を排除した。

「本来」とは、「本覚偈(本覚讃)」の中に「"本来"具足三身徳(本よりこのかた三身の徳を具足し…)」とある通り、本覚思想と通じる一面がある(この一句の古い形は「本来荘厳三身徳」)。
この「本覺偈(本覺讃)」は、現代仏教学で否定されがちな「本覚思想」を大きく支えてきた。
主に密教を摂取した日本の天台宗(比叡山の山門・園城寺の寺門いずれも?)で重んじられ、伝統的に唱えられてきた。
「本質」というと、西洋哲学に「実存・本質」という対立概念があり、西洋哲学の定義での「本質"Essence"」という言葉を用いると、仏教が否定する「我見」や「常見」に繋がる。
我見・常見とは、バラモンの我・アートマン"Self, Soul, Identity"、説一切有部の法有我、犢子部のプドガラなどを指し、諸法無我と相違する説とみなされる。

いずれも、仏教の原理主義的立場に基づけば、用いるべきでない言葉だが、そこに固執する必要は無いと思うし、そもそも字義からしてその用例・用法のみに縛られもしないはずである。
もっと言えば、大乗仏教においては、むしろ菩提心を養うならば珍奇な説であっても仮に奉じてこそ、真の原理主義として正統派であろう(後述する2つの真理のうち後者に該当する)。
※釈尊は色々な修行や教説を方便として説いて衆生を度さんとしたお方であるが、「それを根拠として觀萌私記の所説は正当化できない」、「釈尊の修行や教説と関係のないものを創作したら仏教ではない」と言われそうである。觀萌私記は別サイトでも注釈したが、仏教の補助や仏教理論の個人的譬喩であって仏教そのものと強弁したいわけではない。つまり、最初から仏教そのものや仏道修行として説いていないが、仏教に繋げられる中道の立場であり、読者もそう理解して私と同じ程度の中道となってほしい。私への尊重を手段として諸君の中道を成就せよとの慈悲で語る。

私は、仏教を学んでから世間を見直したときに、人間の心の本来的・本質的な「優しい心」、つまり、「良心の呵責」などで作用するような善意・良心を実感した。
その実感とは、あくまでも、仏教を学んだこの私の自覚あってこそである。
だから、私にとって「内蔵萌心」や、本来的な良心・慈悲を、実感できる真理(後述する"2つの真理"のうちの後者)として確立した。

しかし、こういった「本来・本質」の善意や良心や慈悲という精神性が、捉えようには真実味がなく、真理と認定しがたく思われる出来事が、現実(仮)の世の中にしばしば見受けられる。
大小・種々の事件は、人づて・メディアの報道によって具体性や信憑性にピンからキリまであろうが、少なくとも、その情報をそのまま見た前提においては、「内蔵萌心」の真理が揺れて見える。
ここから様々に検証したいと思う(長い前置きだった!!!)。



 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

さて、これは実際の世間の出来事に即して見たところに悩ましく思う。
子供ですら醜悪・陰惨・冷酷ないじめを行い続けており、いくら上流階級の者・為政者たちが人権擁護を訴えて方策を練っても、悪質なケースの発生が留まるところを知らない。
大津市で中学2年生がいじめを苦に自殺した事件のような教職員・行政の隠蔽体質もあれば悲惨ではあるが、いじめ自体も実に凶悪である。
肉体的・精神的苦を大いに受けた被害者への同情だけではない。
加害者の心の醜さも苦因となろうから、同情すべきである。
しかし、その苦を実感せず、剰え平然とし続けられる者たちなので、怒りと悲しみを禁じ得ない。
そのような子供が、人間が、存在すべきものか?
同じ人間であるはずなのに、なぜであろうか?
人生の途上で必要なモノを失ったか、あるいは最初から備えていない不良品なのか?

※私はあくまでもいじめの解決策だとか、いじめを無くそうという主張をする気はない。枝葉末節である。専ら仏法の流布によって根本の無明もろとも解決を願わんばかりである。いじめの仏教的な分析は、本家ブログ2016年6月8日記事の終盤に詳述している。そこから、当事者が間接的な打開策を導き出してほしい。現世の凡夫は平等に苦を受け、与え、相互に悪の精神を増長しているが、仏法で「変毒為薬」を願わんばかりである。止められがたいケースについてあえて意見をするならば、いじめを受ける側から何とか脱却する術が段階的で確実であろう。最低限、自殺は免れられたい。過去の私のように。最も望ましい姿勢は、客観的に見て「いじめ」の被害に遭っている状態でも、物ともせず、被害者意識とならずに絶対的な自尊を保てることである。自ら被害者と思わないならば、他者も加害者でなく、いじめも有って無い。忍従の徳を修めれば、心は泰然自若・無分別の仏の如き境地となろう。場合によって厳しくはあるが、少なくとも80年も続く肉体的いじめは無いのでいつかは必ず止む。悩める子供たちに伝えたいことである。

彼ら加害者の心の醜さや、虚心坦懐に事実を認めないではぐらかす教職員(教育機関)・行政の愚かさにすら、私は憐憫・憐愍を覚えてやまない。
本当の苦の報いは、必ず受けるからである(合理主義の人はこういった善悪の業の因果応報を否定する場合があるが私は信仰の立場にあるので真理の一種とみなす)。
苦の現世(四苦八苦)と生命の在り方(六道輪廻)を知らないこと自体、苦(四諦を知らない無明の苦)であり、苦であることは実感の強弱を問わず、仏教徒が等しく哀れむべき対象である。

被害者が自殺をしないケースには、加害者が万単位のお金を平気で強請るケースも確認されたが、まず人間として文明に生きていれば人のお金という「財産」を堂々と強請りもしない上、小学生同士で行われてよいことでなかろう。
自分の行動に悪の意識が薄いならば、物事の価値も薄くしか感じないはずなのに、どうして人を苦しめて大金を取ろうと行動するか。
彼ら加害者は良心の呵責や背徳を覚えることは無かったのであろうか。

※このケース(高齢者虐殺のK市と障害者虐殺のS市を抱えるK県の県庁所在地Y市で発生)の背景は複雑で、この児童の非差別的背景を餌にして加害児童の親が被害児童から金を搾取する指示を出したという見方もある。しかし、加害児童もまた被害児童の事情を嘲笑・侮蔑していた線も考えられ、故に実行されたという面も考えられる。いじめの心理云々と論じる記事ではないが、一応の見解も書く。人により「憶測ばかり」と思われようが、今は主観を本位として記す必要がある。



さて、「ヒトに善良な心が本能的に備わっている」という仮説を真理とみなした場合、彼らは本能が強いはずの「子供」という生命でありながら、その心を持ち合わせないので、ヒトに非ざる生命となろう(仮説を前提にそういったケースの情報をそのまま受け取って論証するとこの結論に達す)。
また、美徳とされる精神性を持っていてこそ人間と認定される宗教の立場から見る場合、彼らは既にケダモノ同然である。
仏教の六道や十界論からいえば、畜生界(畜生道)や修羅界(修羅道)そのものである。
少なくとも、仏教においては「人間の身を成した畜生・悪鬼」とみなされる精神である。
人間の心が「有って無きもの」である。
善良な心が有ろう諸君、私の仮説論証は詭弁であろうか?



「2種類の真理」・・・どちらも理解が大切


こうして実際の世間を見てみれば、人間の身であっても、人間として優れた精神性を持って生活する人々から、とても人間らしからぬ精神性で悪行を重ねる者までいる。
また、純真無垢と思われがちな子供にも、生来善良な心を失っている者すらいるようである、と私をして悩ます。
すると、私の「内蔵萌心」や、本来的本質的良心・善意の説はとても真実でないと思われる。
しかし、真理には2種類あることを注記したい。

まず、「真実・事実に即した道理としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この合理的・客観的見地においては否定されよう。
次に、観念論的見地で「その人が認定・信頼した観念としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この信仰的・主観的見地において肯定されよう(先にカッコ注釈で信仰における真理とみなした善悪業報もこの内か)。
この後者「その人が認定・信頼した観念としての真理」とは、まるでお粗末でデタラメなものと現代人から思われがちであろう。
しかし、まさに「その人」が認定した上では、その人の精神・生命・生活・生涯を養う利益があり、まさに信頼すべき「真理」として肯定できる。
だから私は、この2つの真理についてどちらが正当であるとか、どちらが優れているという差別をしたいのではなく、時と場合によって正邪や優劣があるのであり、仮に区別するために説く。

※般若経典や龍樹菩薩中論の「勝義諦(第一義諦)・世俗諦」や「真諦・俗諦」のような発想である。
※主観的真理を客観的なものと思い込みをして主張すると「お前がそう思うならそうなんだろう"お前の中では"な」と愚弄されかねない・後述。
※社会・人間界で浸透する客観的真理というものも、その文明・共同体における人間どもが認識しているものであれば、ある意味では主観的真理の延長なので「主観即客観・客観即主観」となる。所詮は程度の差に過ぎない。しかし、今は上述の定義で仮に主観と客観を弁別すべきである。
※ちなみに私にとって客観的真理といえるものは仏教の空・諸行無常であり、大乗仏教の様々な教義は正系も反系もみな通じていると思っている・龍樹菩薩中論24-20偈にも説く。様々な主張を尊重して絶対的正当性を無くす。一つの教説のみが真実であるという断定ができないことこそ、真理であり、龍樹菩薩・空の本意ではなかろうか・・・中論18-8偈「一切實非實 亦實亦非實 非實非非實 是名諸佛法」であろう。真理(実相)を示す真理(言説)は真理でない「言語道断」の真理である。

「主観・客観」という対立概念について、現代では専ら、客観性が重んじられている。
それもそれで中立の姿として良かろうが、その一辺倒・絶対化は中立の姿でない。
自身の中で信じるものに「主観的なもの」があってもよい。
むしろ、人間は「良心」のみならず悪い感情を具えて容易には手放せないでいる生き物であるから、無理して合理的・客観的判断を心掛けても、結局は感情や欲望が先行するではないか。
他人に押し付けない範囲では、主観性がかえって自分の利益となるし、自分もまた他人の主観性を尊重してこそ中立・公平ではなかろうか。
「他人に押し付けない」点では、「人の自由を害しない範囲での自由」が容認される「自由主義」の真髄と通底している。
また、修行者は自己をよく知ってこそ修行が進むわけであるから、主観的な立場も必要である。
そうして徐々に、客観的・合理的真理"Supreme Reason, Ultimate Truth"に向かう、これは仏道の漸進主義である。
目的と手段には、確かな段階を踏襲すべき道理がある。
私の発想は、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の影響もあろうか。筏のたとえ(筏喩)とも通じていよう。

私はまず俗世の苦しみを受け、「苦諦」というように苦を苦と如実(主観的?)に認識・自覚し、俗世を厭離してから大乗仏教・上座部仏教を可能な範囲で広く深く学んできた上で、人間の心にはきっと善良なものがあると知識として知った。
改めて俗世の事象・現象・実相を浅く深く狭く広く見たり、自分の生活の中でも実感できた。
「良心」が、人から伝えられる知識から、自己に埋もれたものを発見して実感に至ったという。
しかし、他人の行為など、表面の出来事においては、本当に「ケダモノ同然」のケースも極稀に見られた。
それは仏教を学ぶ前にも見て知っていたであろう、生々しい文明の在り方であろうに(嫌がる私やあえて笑顔でい続ける私に、何かと肉体的苦痛を与えてきたかつての同級生など)。

また、下の弟が実際に知的障害であることを幼少より理解し、自ら薄く先天的な発達障害・精神障害を認定した小中学生のころ、種々の先天性疾患・重病に興味があった。
重度障害の中でも、脳性まひ(脳性麻痺ほか植物人間・脳死)などは、思考能力も精神機能もほとんど持たず、それらが養われもしない。
これらの患者・障害者は現代文明の潜在的問題が人の身に現された点で、良き説法者である。
彼らの存在もまた、彼らに対比して思考能力や精神機能があるとされる人々の哲学や道徳に資する部分が強く、尊重してあげることで我々の思いやりの心(慈悲・平等)が育まれよう。
それはそうとして、そういった重度の知能的障害があると、精神にも同様の影響が及ぶ。
そうした人々が仮に「内蔵萌心」を持っていても、慈悲や善意が萌芽して大きく成長することがないと論を俟たない。
顕著ないじめ加害者に見る「ケダモノ同然」の生命とはまた異なる形ではあるが、同様に「内蔵萌心」の否定材料となる。



改めて大乗仏教の「仏性」説を思い合わすべきである。
天台教学においては仏性の「六即(仏性を持つ者の6つの段階)」を示し、私の信奉である日蓮大聖人の法門でも説かれている。
私の「内蔵萌心」とは、およそ、仏性の語を置き換えたものと考えてよい。
真の健康記事にも六即について語ったが、改めてここに記したい。
要するに、仏性・仏種があっても、仏教の見聞によってその存在を自覚せねば、「有って無きもの」である。
故に、未だ仏教を見聞しない人々の仏性が六即の「理即」という、最初の段階のものと説かれる。
道理・理論上は「有る(具えている)」ものの、仏教の見聞という大地や雨や太陽などという栽培環境が不十分であるので「無き」も同然である。
「内蔵萌心」についていえば、多くの人は仮に萌心を持っていると言えるが、能く芽を出させる「好色萌相(こうしきみょうそう)」に値(あ)っていないので、「理即」=理論上・観念的仮想の萌心を過ぎないこととなる。
何らかの形で、「内蔵萌心」や本来的・本質的善意というものが突発的に起こることはあっても、本来的・本質的に具えているという自覚は持てないので、日々、同時に具えている悪い感情にも流されやすくなる。
なお、日蓮大聖人の法門では、そもそも「仏性」となるべき「仏種」が末法の衆生には植えられていないとされ、日蓮大聖人の出現によって「種を下す=下種」されて今は仏種があって理即の仏性が成立しているという。

そのような仏性、仏種の存在を知り、自覚して初めて「名字即」という段階に上がる。
「内蔵萌心」、本来的な善意・良心・慈悲についてを言葉で見聞きするならば、一応の理解は生まれるであろうし、何らかの実感や同意があれば、今は真理として認定・信頼し、ますます育んでゆくべきである。
仏道に於いても、解脱・成仏の可能性が自分にあると信じて種々の修行を行う意味が生まれるわけであるから、言葉で明確に知らねば難しい話である。
そういった一応の真理認定を頼りに、今の道筋が定まろう。
そうして次第に、物事の絶対的(?)真理が見える時は来ると考えてよい。
再度、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の意味を考慮すべきである。

その絶対的(?)真理ですらも、生きている間に完全な把握は仏様だけなのだ、と思わざるを得ない「凡夫」の私である。
知れば知るほど、「人の死が終着点か、涅槃が終着点か、成仏が終着点か、はたまた・・・」といって遠のくようであるが、同時に、近道も新たに発見された気がする。
少なくとも、生きている間は終着点がなく、果てしない道のりが続いていると思う。
「全力疾走が大事なのか、ただの足踏みに一喜一憂しているだけなのか・・・」そういった考えは既に無用であり、仏果を思えば戯論寂滅である。
遠回りの道こそが最善唯一の道であると深い実感を得た時、その修行・行動は死の間際まで不断に続くわけであり、これは「悟った」も同然であろう(理論上はそうだが私は未だに深い実感ができずにいる)。



とりあえず、私のように「ちょっとだけ悟っちゃったかも!(増上慢ではなく…)」と思う人々は、「本来・本質の善意や良心」や「内蔵萌心」と称される精神性が、人間には平等に具わっているものと信じてほしい。
きっと何らかの機縁があれば、誰でも慈悲の心という花を開くはずなんだ、と。
こうして物事を判断し、何よりもそういった思考や行動によって自身の善意・良心・慈悲の心を育むことを念頭に置いてゆくべきである。

慈悲の修行は物事において自他を利するのみならず、畢竟、自身の解脱・仏果の成就に繋がる。
このようにして究極の目標を掲げ、実現に繋げてゆくべきである。
自分や他人にある慈悲の心を喜びつつ、それに執着せず断念する「喜捨」もセットにした四無量心の思考に基づいた行動を心掛ける生活は、「本来・本質の善意や良心」という「原理主義的には邪義と認定される思想」を奉じていても、間違いなく仏の本意に随うに違いない。
自覚・実感による行動が、仏教の教義に一つでも繋がっているならば、十分、仏教の善行・正法であるに違いなく、功徳も大きいと信じている(=私を尊重してね)。

されば修行者は、教理を信解・受持すると同時に、柔軟な理解と実行性を持つ必要があり、原理主義に陥ってはならない。
大概の仏教学者・小乗仏教原理主義者(主に合理主義的現代日本人)もまた、恣意的・主観的に教説を選別して信仰をしているが、それは彼らが信仰の性質(本質)に疎いためである。
彼らは彼らの中の真理を奉じているようであり、今後どうなるかはともかく、真摯な修行者は一旦、彼らを「異物」として尊重・無視してあげよう。
悲しいことは、2種類の真理のうち、彼らは彼らの主観的真理を奉じているにも拘らず、主観に依って合理主義を絶対的法則・客観的思考とみなしているから、客観的真理だと錯綜して妄信している点である。
観念遊戯・知的遊戯もよいが、そう耽溺するのみであってはならないのである。





起草日: 20161110

「内蔵萌心」および「本来・本質の善意や良心」についての論証は以上の通りである。
本家ブログ絵の練習記事=2016年9月8日の絵と文章について考えている際、このような記事の起草に思い至った。
「二諦」ならぬ「2種類の真理(二種類の真理・2つの真理・二つの真理)」について、薄々、考え続けてきたことが萌心の思想や世間の物事に結びついた。

パーマリンク文字列(caritas-generis-humani.html)の意味について・・・ラテン語で"Cāritās [(名詞・単数・主格)愛]" "Generis [(名詞・単数・属格)種類の・類の]" "Hūmānī [(形容詞・単数・属格?)人の・人道的な]"とあり、直訳して「人類愛」であり、意訳して「慈悲・慈愛」とも言われるが、仏教の慈悲とは異なる。しかし、この慈悲も仏教の慈悲も、内蔵萌心の意義と通じているので、パーマリンクに用いた。なお"Caritas"の接尾辞"-itas"は、英語で形容詞を名詞にする接尾辞"-ity"と通じるので"Charity (一般にチャリティー・慈善)"とは同源(cārus)である。いずれにせよ、慈善や慈愛が「人間らしい精神」という見方は、2000年ほど前の西洋にもあることが分かったであろう。恐らくはどこの文明も古来からそういった精神を人間の徳として尊重している。「みんな一緒!」と思いたい。そのように自身で修める人間性を指す言葉としてはよいが、他人が人間的かどうかを計る言葉としては侮蔑・悪い感情・争いの元になるので控えよう。また、"Hūmānī (フーマーニー)"とは英語の"Human"に同じくして"Humanism (ヒューマニズム)"に通じている。「内蔵萌心」に合わせて言えば、なぜ可愛い萌えキャラに悲惨な運命の設定(エロ・グロ・猟奇)など考えられようか?心が痛もうぞ。フィクションだとしても「二三一体」と思うことが萌道の精神であり、"Cāritās Generis Hūmānī"に通じる。非人道的刺激性を、仏道に順ずる萌道においては求めないように心がけたい。無論、公然と「○○たんちゅっちゅ~」という顛倒の溺愛をなす道でもない。

この記事は2段階に分けて読むと面白い。
1段階目は、語義・文意の概要の理解を目的とする。
2段階目で多くの記述を読み直すと、私の記述の中に主観的真理らしきものが複数見られる、といった面白い発見があろう。
読解して「文底」の解明・謎解きに励んでもらいたい。
以下からは、2種類の真理について詳説しようと思う。



世俗の教えでは、現代だと人権尊重・人道主義に関連する思想が、「本来・本質の善意や良心」が人類に平等に具わっていると説いているようである。
これを例に取ると「ニンゲンは誰でも考えやココロが有るから悪口を言ってはいけない・思いやりが大切・譲り合うココロを持って怒らないでいればヘーワになる」などと表現できる。
これも、私が言う2種類の真理のうち、後者の主観的真理に該当するものだが、中にはこれを前者の客観的真理そのものと妄信してかえって自ら苦しみ、これを第一義として訴えることで、同じように2種類の真理の分別ができない他人を悩ませる人間もいるから滑稽である。

ほか、世俗の合理主義者(唯物論者・虚無主義者含む)が「本来・本質の善意や良心」の「主観的真理」を聞いたとき、こう考えるであろう。
「そんなものは生物の本能である欲望を種としている。情けは人のためではない!自分のためにするものでしかない!いわゆる善悪・道徳背徳の観念も、全てはやましい本能から生じている!進化論の軌道上である(故に生まれつき思考能力と欲望を持たない人間は当然これを持ち合わせない。思考能力と欲望と社会性があれば後天的に育まれるものでもあり性善説は成立しない)」と。
彼らの思想においては、「欲望ありきの良心」という見解こそが「客観的真理」と認定されている(それこそ彼らの感情や人生経験ありきで主観的に認定されていようが)。
また、彼らの思想的アイデンティティーを固持するための「主観的真理」でもある。
よって、大いに尊重・無視してよかろうと思う。

私、仏教徒としては、大慈大悲・不可思議の仏法に憑んでゆくのみ。
思えば、私が小中学生の時も、性善説を否定する合理的見解に帰結していた。
仏教ではそういった性悪説を一辺倒には説かず、私の「内蔵萌心」も仏教的性善説の一面を説いた言葉であって性善説の妄信ではない。
仏教は菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く「中道」の立場である。
現代世俗的科学の所説に則れば、間違いなく「欲望ありき」の性悪説が真実である。
しかし、科学を極めてゆくうちに、そんな「欲望ありきの良心」というものではなく、人間が人間として発展した歴史に根差した、本能的・反射的に起こる「善意としての良心」も証明されよう。
否、科学的に証明されずとも、仏教徒の慈悲の実践に何ら差支えは無い。
私が知るところ、科学は進歩するほどに仏教の真理(主観のもの・客観のものを問わず)に通じていくものと観ている。
※科学史を見れば、命題に対して矛盾であるとされた見解こそが正当であって後の学界の定説・常識となった研究成果がいくつも確認できるよう、矛盾じみた部分もいずれは認めざるを得なくなる場合がある。既に仏教は、世間的に合理なことも世間的に非合理なことも全て包括した「真の合理性」を打ち出している。



なお、私の愚見によると、仏教の教義や修行の多くは、原始的なものも部派仏教的なものも大乗仏教的なものも、基本的にすべてが「生死を度する筏」であって方便のようにも感じている。
龍樹菩薩や江戸時代の某僧侶(過去記事)などは、そのように捉えていてもおかしくない。
龍樹菩薩・中論24章で、「空」による「三宝・四諦・四果」教義の論証を行っており、「空」があってこそそれらの教義が成立すると説く(24-14偈空義有るを以っての故に一切の法は成ずるを得...)。
「空」が「仮名(仮に名付けられて説かれたもの)」であり、その俗諦に依る「仮名の空」が「中道」であると説かれる。
世俗の思想を見ても、人権思想などの道徳的・倫理的・観念論的・唯心論的なものや、精神論を嫌う合理主義的・社会主義的・虚無主義的・唯物論的なものの全ては、当事者の知識・経験より信頼されて信奉されているものである。
世間で「人の数だけ人生や価値観(知識・経験・感情を包括したもの)がある」と言われるが、そうであるならば、その人に適合した主観的真理は、むしろ必要である。
「主観的真理」が無いことこそ人間としては抜け殻である、というか、抜け殻にはそもそも最初から主観的真理を得る能力がない。

仏教徒は、今ある宗派にしたがって宗派の信奉と修行を護持するなど、現世の「仮の自分」が行うべき立場を自覚して如説修行を継続することこそ、正しい仏道ではなかろうか。
こう考えざるを得ない今の私だが、江戸時代の某僧侶も、そういった「言語道断・心行所滅」で「難信難解」の真理の見地に立った時、こう言わざるを得なかった。
真に客観的な真理というものは、やはり「不可説の諦"Ineffable Truth"」である。
龍樹菩薩の説法(二重否定とか帰謬論証とかと呼称される)は、奉じたくても奉じられない真如実相に随っているものである。
しかし、それに基づいて歩む「人生」というものは、有って無いものである。

「客観的真理に基づく人生」とは、どのような人生か?
何も考えず、何も言わずにいることこそ真理の体現・・・いつかそんな考えを起こした記憶もある。
それでは、かえって仏教の生き方に背くではないか。
仏道から見て「外道」と言い、世間では「人でなし」と呼ばれ、真正の虚無主義となりかねない。
それが出来る者がいるならば、尊敬こそできねども、一種の超人(廃人?)として尊重したくなる。
煩悩・苦というネガティブな概念に対比して菩提・悟り・智慧・解脱・涅槃と呼称するわけだから、凡夫が発心して行う仏道においては、そういった「自然」そのまますぎる在り方は受容されない。
この客観的真理・・・「諸法実相(ダルマター)」は、人間として生きる以上、形ある存在である以上、実現されることはないと再度注記する。



仏教では、人の身として生きる以上、即身成仏・有余涅槃・得羅漢果といった境地(これも体感していないが信仰の立場で事実とみなす)にあっても、守るべき仏道修行を続けねばならない(釈尊・菩薩・十大弟子など諸比丘が好例である)。
思想的理論も大事だが、仏教では、釈尊などの振る舞いという事実からも学ばねばならない。
この「事実」も、我々がこの目で見ることはできないが、仏教徒が信順すべき経典に伝わる通りに理解すればよい。
仏教の教説や理論の完全な理解ができずとも、仏教の事実における修行を見習えば、おおよそ実践するための把握ができよう。
諸々の大徳が客観的真理にごく近い境地にいたからこそ、仮の世である現世に仮の「使命(本質・エッセンス・自性・自我・アートマン)」を見出して死(臨終・涅槃・入寂・入滅)の間際まで実践されていた(それが我執となるかといえば中道を理解する以上は我執であって我執でない)。
だから、生死を度するには、俗世に生きる私たちが主観的真理を選択して信奉せねばならない。

私は、その最善策を仏教、なかんずく、お題目の法門に見出しているわけである。
こう書いてしまうと某教団から「不信心者・摧尊入卑」の謗りを免れない。
結局、この私も、一神教の神ヤハウェの存在などを客観的真理の見地においては「無記(沈黙)」として全否定できないし、もう、信心・修行を取るしかない。
仏教(上座部仏教・大乗仏教・密教など現存する伝統仏教の全て)は根本的にこういった「中道」の思考があるために、教義や修行法、信仰体系の多様化や、外道の受容もあった。
雑然・玉石混淆に思われそうだが、これこそ仏法の真理の現れとして好例である。
釈尊のいわゆる「原始仏典」の教説でも、どう文献学的にケチをつけようと、輪廻説・ブラフマーなど合理主義的仏教学者が嫌う「外道らしい教義」は説かれるが、主観的真理の必要性を知る釈尊が当然受容したり方便でもよいから用いる教説である。
龍樹菩薩(竜樹菩薩・ナーガールジュナさん)がもし現代にいらっしゃれば、その妄執が著しい仏教学者や小乗仏教原理主義者の過った主観性を完膚なきまでに粉砕されよう(若し俗諦に依らざれば第一義を得ず!と大音声の獅子吼が木霊する)。
諸宗の論争も、「自行化他・自他不二」の大乗仏教の観点で主観的真理の最善を論じている(客観的真理を自らみなす錯綜が諍論を呼ぶのであろうが私からはもはや容喙できない)。
私には私のための道"My True Path"が解脱への直道となっている、そう「事実はそのまま真理」と如実知見することが一皮むけた主観的真理である(二諦も如実知見も私の理論に敷衍できる)。

人は、知れば知るほど慢心を増やす一面があるが、途中から慢心が減ってゆき、慎重さが増えるようになる。
例えば稲が、成長段階ではピンピンと茎(稈)が伸びるが、稲の背丈がピークとなるまでに穂が実ったら「頭を垂れる」ようである。
智者の至りとしては、物事の判断について慎重にならざるを得ない(無論、思考停止になるということはないし世俗については「蓋然性」を信頼して明瞭迅速な判断もできよう)。
ある上人の「物をよく知れば驕慢こそ起らね」と語った真意である。
「本当のこと」は、生きている我が身において分かりっこない。
それと同時に信仰の精神性を重んじられるようになる、これこそ主観的真理の真髄であった。
物事にある「柔軟さ」や「程度の差」という微妙な加減が、面倒のようでも重要に思えてならない。

※仏道で言えば、鎌倉時代、持戒でありながら歌道に親しんで「歌や詩のセンスがない人が得道することはない」とまで主張する僧侶がいた反面、無戒を自覚しながら歌道の執着を嫌った僧侶もいた。それぞれが主観的真理・理念・信条・ポリシー・プライドを持って仏道を歩んだのであろうし、それらの主張同士では相容れない。しかし、主観的真理の真髄や客観的真理から見れば、どちらも主観的真理としては非の打ち所のない正当な教説となる。仏教の真理は平和をもたらした。

さて、真理に基づく人生には色々とあるが、それもまた総括できる。
人間界が大樹であり、一切の個人が様々な「(枝葉)末節の真理」に基づいて生きることと、その生き方自体が一応の真理の体現であって「根幹の真理」と言える。
つまり、様々な主観的真理が「末節の真理」であり、その自覚・行動の人生が「根幹の真理」である、と主観的真理にもまた2種類があると示す。
果てには「真理の種子」に通じていく。
「真理の種子」は、枝葉の我々・現世の凡夫には知りようもないものであり、真の客観的真理を示している。
何とか菩提の果実を結び、大地に落ちて自ら種となるしかない。
成仏などによって真理との同化を願う。

私は「空・諸行無常」の道理を客観的真理とみなすが、人間が人間の思考で認識する過程では、客観的事象であっても全て「六根・六識・五蘊」という眼鏡を経由しているから、「私が認定したもの」としては主観的真理の一端となる。
般若経典・中論でいう真諦・俗諦の観点でも、俗諦の言葉を以て真諦の概念を説くわけであり、「説かれたものとしての真諦(=義理の真理)」は俗諦に収まる。
空の法を絶対的真理と思い込む時点で絶対的真理ではなく、そういった姿勢のあった部派仏教に対し、大乗仏教は中論の如く「空義・仮名・中道」の意義を以て批判を加えた。
客観的真理とみなす法則や事象を客観的に見たつもりとなれば、これも客観的でなく、どこまでも客観が続いてしまうため、客観的真理は「有って無い一応認識されるもの」に過ぎない。
「空」とは「道理としては真実」かもしれないが、言葉で示されている時点だと言葉のうちであろう・・・当たり前ではあるが、しかも文字を見たり声を聴いたりする人間がどう取るか、などの条件が幾重もあって100%の理は99...%のように純度を落とす(そのまま説かれた言葉をそのまま受け取れば99...%でも蓋然性の信頼で事実上100%でもある)。
ここに改めて主観的真理の細分化が感じられよう。



いまいちまとまらないが、暫定的にまとめる。
2種類の真理・・・「主観的真理」と「客観的真理」
主観性の細分化・・・「個人や共同体の知識・経験・意思・感情で定まる普遍的法則や抽象的真実についての主観的真理」と「六根・五蘊で捉えられた蓋然的に信頼できる実相(科学・現象)の主観的認識の真理」
客観性の細分化・・・「存在して存在しないようで捉えられず言葉に出来ない客観的真理」と「客観的真理がそのようなものと理解する一応の真理」と「主観的真理を主観的真理として認識して主観的な生き方を自覚する真理」

こうして観れば、相変わらず、俗世に生きる我ら凡夫(全人類なかんずく修行者)には主観的真理および俗諦(言語・言説)が必要であると実感できよう。
一応、仮に説かれた多くの真理が一つの真理を示す。
仮に説かれた多くの真理を学んでゆく中で「真理が有って無いもの」と実感し、一即多・多即一・一も二も多も有って無い、という無分別の境地に到る。
客観的真理および真諦については、もはや言うまでもない。
「空」であるからこそ、「空」なればこそ、「空」であるが故に、大乗仏教の仏性説も「内蔵萌心」も否定されず、むしろ証明し得る。
空=因縁があるからこそ、人は成仏でき、地獄にも落ちるし、法華経にも常不軽菩薩から成仏の授記を受けた一闡提の四衆の堕地獄と後世で釈尊の説法を聴聞する因縁が説かれている通りであり、仏性は十界互具の人の心に共通する。
元々この論理があるから天台教学においても「空」と「仏性」が二律背反だとかという疑難が生じることも無く、教学が成立していた。
要するに、「自明の理」であって「問題外」であったろう(管見では文献に参照されないが)。

斯くして、矛盾は肯定され得るものである。
空の思想・二諦論などは多くの教義に敷衍できた。
つまり、思想家の各個人が見事に発見できるか否かの違いであった。
「空(意義の空・仮名の空)」の教義"Pure, Noble Doctrine"とそれ以外の教義"Dogmas"とは、相容れないようでも、上手に縫い合わせると優美なること至上の織物となるようであり、その妙技を得た方が龍樹菩薩や諸々の大徳である。
我々も、同じようにして様々な教義や仏教用語が、一つの真理に繋がっていて別個のもの同士ではない、と理解できるよう、脳内でバラバラにされた布をあるべき姿へ縫い合わせてゆきたい。

仮に「私は今、現世における最上の(主観的)真理を得た」と言い放ったところで、他人はその言葉を否定しようとも否定しきれない。
主観的真理の法則にならえば、他人が私の主張を否定しても否定しきれず、私もまた他人の主観的真理と主張を否定しきれない(自己肯定もしきれないが)。
相互に100%の否定(および肯定)が不可能であり、ここに中道の見地から「尊重(怒りがある時は無視もその手段)」の姿勢が重要となる。
私はすでに、尊重の姿勢の実践(他人の主張にベタなお世辞を付けることではない)ができているようである。
尊重の姿勢の実践は、「内蔵萌心」の思想に基づくこともできる。
一般的なものとしては、仏教の慈悲・四無量心や世俗の人権尊重のみならず、法華経の教学や日本の和の思想も推奨したい。

よって、主観的真理とみなされる諸々の思想や見解にも優劣が生じると思う。
もし「鰯の頭も信心から」と言って額面通りに「鰯の頭」を有り難く祀って信仰して成仏できるというならば、既に凡人でない(すなわち我ら凡夫には鰯の頭信仰修行が無益である・仏の立場では修行法に差別は無いが仏教は凡夫本位で有益な教法と修行を説いた)。
「世界平和」などの理想論も、過去の大徳たちは誰一人として実現できなかった。
個人の身近な場面でも不穏な争いが絶えない世の中である。
「世界平和」などは、実現し得ない(蓋然性による主観的断定)理想であろう。
諸仏・諸菩薩が衆生の成仏や解脱を助けようとも、俗人はみな悪道に著している。
しかし、だからこそ、実現を願っての行動がある。
そのように行動できる人こそが過去の大徳たちであった。

「(99%以上・蓋然的に)その理想は実現し得ない」と思考の中で結論しても、人間が本当のことを分かりきることは無いので、実現を願って行動することこそ、最も高尚で理想的な人生である。
発菩提心・四弘誓願、「主観的真理に基づく人生」はこれである。
信頼・信仰の大切さを再確認できたであろうか。
また、過去の大徳たちの生き様を「悪あがき」と見る人は、「断見(合理主義・虚無主義・唯物論)」の人であり、輪廻転生を否定したことになる(物事の段階を説く上で現世の一生では実現しない理想もあるから、たとえ荒唐無稽の教説に思えても修行者は輪廻転生を信じる必要がある)。

大乗経典では、たびたび、未来世に仏法が流布する授記であるとか、過去世において仏法に通じた賢王の為政が国土を安楽にして五穀豊穣となる物心両面で裕福にした、といった教説がある。
「ただの譬喩や方便(または偽経)であるから」として無視する人もいるであろうが、修行者は、方便であるが故に現世の仏道修行を助けるものと理解せねばならない。
「教説の如くに仏法が流布して安穏な世界となるか」、仮にこういった疑問が沸いても、一応、真理として肯定し、信順すべきである。
「無疑曰信(むぎわっしん・疑い無きを信と曰う)」という言葉もあり、この立場の人々からの叱責を免れない言い方ではあるが、彼らの真理は彼らの真理で尊重しておく。
疑問は人間の徳ともなり毒ともなり、なかなか捨てづらい。
しかし、本当にどうなるかは誰にも分からず、自分の思考による結論が正当とは断定できない。
その自覚あっての行動に徳が顕れる。





追記: 2018年
旧来より「単語の用例」が、伝統的な文献に見られる必要を感じる私であった。
2018年に"Cāritās Generis Hūmānī"の用例を、伝承される文献より探してみると、キケローさんの「善と悪の究極について"De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII 英訳リンク)"」に一度きり用いられることを確認した(いわゆるハパックス・レゴメノン"Hapax Legomenon")。
その文脈も、「尊い概念の提唱」という雰囲気でない。

De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII)

[65] In omni autem honesto, de quo loquimur, nihil est tam illustre nec quod latius pateat quam coniunctio inter homines hominum et quasi quaedam societas et communicatio utilitatum et ipsa caritas generis humani. [...]

[66] Nam cum sic hominis natura generata sit, ut habeat quiddam ingenitum quasi civile atque populare, quod Graeci politikon vocant, quicquid aget quaeque virtus, id a communitate et ea, quam exposui, caritate ac societate humana non abhorrebit, vicissimque iustitia, ut ipsa se fundet in ceteras virtutes, sic illas expetet. servari enim iustitia nisi a forti viro, nisi a sapiente non potest. [...] (後略)

"nicht-wissen-wollen (知りたくなかった)"な気持ちになってしまう。水を差す話となるが、一応、学問的な公正さを期してこの追記をしておく。
※文法解釈を先のものよりも詳細に示そう。"Generis Hūmānī"部分が男性・単数・属格を並べたものであるならば、その部分がCaritasの事物=精神や感情の客体として作用する「目的語の属格(Objective Genitive)」となることも留意されたい(つまり「人類愛」と直訳できても厳密には「人類・他人への愛情」ということか)。

何らかの言葉の用いられた経緯は人それぞれ。
古代ローマのキケローさんには、キケローさんの用い方がある(彼も一応人間主義的な意味の"humanitas"という言葉を用いたようであるが)。
その言葉の原初は知り難し。
後は、知った人の二次的な用い方である(ただしアーリア人という学問的仮設概念をナチスが悪用した事跡などを念頭に置く必要がある。スヴァスティカ=まんじ 卍もインドや東アジアで伝統的に用いられたものと似たものがたまたまドイツ帝国時代の考古学者にトルコの印欧語関連の遺跡Hisarlikからも見つけられたためにナチスがハーケンクロイツという名のシンボルに用いて現在はドイツ政府がアレルギー症状を起こすほどに毛嫌いされてしまったので注意したい)。
現代日本のラテン語音楽・・・Quod apud mēnsūram erat, illud verbum omnia mētītur. immēnsa causa ad prīncipium, liberātor per verbum nōn trīstis.

なお、このパーマリンク文字列には某サイト方面の圧力が懸念されるため、dualism-of-truth.html に変更した。

2016年12月23日金曜日

諸言語の誕生・増加・減少に見る繁栄・衰退、多様化・画一化の法則

小規模・原始的な文明の成長には言語の誕生が付き物である。
しかし、他の文明と対峙して合流するようになれば、複数の言語は折衷するか一方が消滅する。
そのような誕生・増加・合流・減少を複雑に重ねて今の世界文明がある。
今日、多く人が国際的な言語の学習を志向する風潮は当然であるが、同時に少数のものを保護する国連やユネスコのような最上層の機関もある。
世間が多数派の言語に傾倒しようと、少数派を重んじて保護しようと構わないと思うが、間違いなく少数の者は消滅する。
あらゆる物事を時間的に観察すれば、誕生・繁栄・衰退・消滅(絶滅)は必然的な原理であると実感できるからである。

今回の記事で諸言語に寄せて称する「繁栄・衰退」とは、「多様化・画一化」である。
各文明が便宜によって産み出した言語も、より大きな文明に包括される認識があれば、そのようなものに合流・淘汰されて当然の道理となる。
小さい範囲では日本語とその方言、広げて中国語圏、そして確認できる最大規模の範囲では英語圏がその好例である。

「やまとことば」から多様な「ホーゲン」が生まれ、次世代の「ニホンゴ」に昇華するようである。
今でこそ「ホーゲン(方言)」の尊重だとか保護活動は盛んのようだが、風前の灯火である。
そのような現代、私はやまとことば(和語)、古語、漢文に親しんでいる。
私の執着は時代錯誤であろうか?否。不也。笑止千万。



英語 世界文明
日本人は個人主義的である反面、同調心理も強いから、国際社会というしがらみによって多くの一般人が英語を第一外国語として学ぼうとする。また、同言語は文化的にも極めて日本に浸透していて身近な外国語であると同時に、土着化しつつある(いわゆるGairaigoやWasei-eigo)。世界各言語の地域にも同様の傾向があるのみならず、歴史においては大英帝国の影響が著しく、母国語として話す者は多い。そのため、土着の言語と一緒に公用語と認定される例は枚挙に遑がない。一般的な文字体系であるラテンアルファベット(ラテン文字)を採用していることから、同様の文字を用いる言語話者・国においては親しみやすい。様々な条件によって蓋然的に世界で比類なき一大言語と成り得る。要約すると、歴史的には大英帝国による形式的な帝国主義による影響・現代的には米国などの非君主の帝国主義(揶揄だが)による影響から、世界的に受容されている。

中国語 一国・多民族・全体主義思想
効率重視の合理主義的国家に制定された簡略化された文字(簡体字・簡化字)を使う。広東語など各種方言の存在を強権的に淘汰しようとすると、国連やユネスコや多くの諸外国より非難されるので、一応、便宜的に認めている。少数の方言を尊重すると、当該方言の話者が「一つの中国」というアイデンティティ・帰属意識から逸してしまうので、全体主義思想に基づいた本心では許したくなかろう。いつかは国内で完全なる言語支配と、共産党勢力の拡大によって世界的な普及を目論んでいる、と私は邪推している。そこまでいくと帝国主義のようになってしまい、彼らの二律背反となるので、さすがにその自覚くらいは持つと考えるが、そんな将来のことなど、私は知らない。ただし今の中共国家は、漢字の表音に第二次大戦前からある注音符号(成立経緯に日本文化の影響があり現代は台湾で主に用いられる)を利用せず、戦後に作った拼音(ピンイン)というローマ字表記を利用する点、必ずしも中華文明を純粋に押すことはなかろう。

アラビア語 一教・多国家・全体主義思想
ムハンマドの金口(こんく)より発せられたアッラーフお墨付きの聖なる言葉である。イスラーム信仰の者がアラビア語を学ばずにいられようか?愛する子供たちに学ばせずにいられようか?よって宗教多元主義・アフリカ貧困地域の恒常的人道支援のスキをついて猛烈に布教するイスラム教の信仰者(ムスリム)の間では当然、普及してゆく。全体主義的イスラーム世界の広まりと同時にアラビア語も国際的立場が強まるであろう。主要先進国や中国の人口が伸び悩むので相対的に立場を強めるのみならず、イスラーム世界の拡大と配下の民衆の増殖でネイティブスピーカーが増える。そうした場合、イスラーム世界の外の地域でも、後天的に学ぶ必要を持つ人が学んで習得するケースも増える。



多くの言語は主要な語彙からごく一部の語彙まで、サンスクリット語の影響を古くから受けている。
中国ではほとんど外来語扱いで音写や漢訳の当て字がある程度であったが、英語はもちろん、多くの西洋言語とその祖語であるギリシャ語・ラテン語も、サンスクリット語の影響を多大に受けている(日本にも仏教を介して土着して意味も変わった「塔"とう・とふ=ストゥーパ"」とか「旦那"だんな=ダーナ"」などがある)。
アラビア語は不明だが、何らかの影響はあると考えてよい。
そもそも一神教のヤハウェ、エホバと呼ばれるような「神」は、インドにおける創造神・ブラフマーの影響であると考えてもいる。
ただし、今は「ブラフマーとアブラハムって似ているじゃん?」というホラ吹き程度で精一杯である(勉強不足のため)。

サンスクリット語およびその影響を受けた諸言語は、インド・ヨーロッパ系の言語であり、「印欧語族
」と呼ぶ。
言語学者は、根本的な共通の祖語を仮想し、「印欧祖語」と呼んでいる。
諸言語においてサンスクリット語に通じる多くの語彙は、その「印欧祖語」の「印欧語根」を踏襲する。
ブラフマーであれば、「成長」を意味する√bṛh という語根を踏襲していると明かされており、この語根の祖語(印欧祖語)の語根は*bʰerǵʰ- という。
"bʰerǵʰ-"は「1.昇る 2.高い 3.山」という意味があるとされる。
上付き文字の"h"(有気音?)を除いて表記すると"berg"となり、ドイツ語の"Berg (山)"、いわゆる「何とかベルク」や「何とかバーグ(英語発音)」という地名に見る"-berg"と同じ意味となる。
もしや、「ブラフマーとベルク」もナチス・ドイツの特異なアーリア人種説の根拠の主要な一因となっているのであろうか?
アーリア人とか印欧祖語とかというものも全て近代的な学説に過ぎない概念ではあるが、全ての見解に対して慎重な立場でいる私としては「一理ある」と言うしかない。





起草日: 20161018

仏教ネタを交えない言語学的な記事(比較言語学とかいう)は久々に投稿する。
ただし、表題に「誕生・増加・減少」とある通り、言語学というよりは、社会科学である。
なおかつ、こういった見方は些か哲学的な影響もある。
全くもって世の中は、押しなべて「繁栄・衰退」という「多様化・画一化」の法則が適用される。
そう綴るだけでは情緒的であり、感傷に浸っている状態に過ぎないであろう。

一が多を生み、多が一へと戻るようである。
戻るところが単一でなくとも、少数の多数派に合流・吸収がされてしまう。
微細な部分でいくらか増減はあるかもしれないが、全体としてはこの傾向である、
あらゆる物事を観察し、確かな知識・経験として身につけてもらいたい。
数年間、この諦観を実感し続けてきた。
具体的な例は当記事における諸言語・方言の話はもちろん、「過去記事 - 音楽の没個性化の段」に述べた音楽ジャンルの事と個人の一生の話や、90年代における各省庁や地方銀行の合併や、近年の子会社化・買収行為(大手小売業・GoogleなどIT企業・中華資本に多い)や、地方都市・町村の衰退(大都市集中)など、ごくごく普遍的に見られている。
こう見返すと、社会科学的であり、哲学的な分析となる。
現象に即した見方であるため、仏教的に表現できても、仏教の「如実知見」とは異なる。
他の例としては、個人的な思索・思考にも、一つの問題提起に様々な憶測や意見を生じ、最終的に妥当であるものへと帰結するプロセスもある。



【雑考 (2016年10月19日)】
イギリスとは何であろうか。イギリス"Igirisu"はイングリッシュ"English"であり、エングリスク"Aenglisc"である。エングリスク(アエングリスク・アングリスク)はアングロ民族"Angles"の言葉である。アングロ"Angle"とエンジェル"Angel"はアナグラム"Anagram"である。アナグラムはどうでもよい。エンジェル"Angel"とアンジャー"Anger"は語尾にlとrの違いがある。アングロ民族"Angles"は、"Angel"なのか"Anger"なのか?原形をゲルマン祖語に尋ねる。

"Angel"は"angiluz"である。"angiluz"の意味は不明である。"Anger"は"anguz"である。"anguz"の意味は「狭い・細い」であり、"anger"のみならず"angry"と似た発音の"ugly"にも通じている。なぜであろうか。"Angel"に通じる"angiluz"は古代ギリシャ語"ἄγγελος (メッセンジャー・伝道者・預言者)"でガンマ"γ = g"が2回連なる。gはnに変化し、"Angel, angiluz, Anger, anguz"が生まれた"ugly"にしても祖語"uggligr (uggr ‎+‎ -ligr.)"はジー"g"が2回連なり、"n"が省かれた。日本語ですら撥音便の末に"ん"が省かれた単語「なにと→なんど→など」や「のみと→のんど→のど」という単語があるので言語学・音韻学に詳しい人は容易に実感できる("など・のど"の例は適切でない)。"ugly"の話は差し置く。

要するに、イギリス=イングリッシュ(イングランド人)=アングロ・アングル・アングレスとは、「狭い"Anguz, h₂énǵʰus"土地の民族」という意味であった。"Angles"は"l"で通じる"Angel"よりも"Anger"に通じるそうである。この説は、未完全な言語学の説を私が端的にまとめて事実を推定したものに過ぎないので、事実を的確に当てた説ではない。なお、この説を補強できる記述が日本語版Wikipedia「アングル人」の項に見られたので引用する→『アングル人の名はブリテン島に定着する前の同民族の故地であるアンゲルン半島に由来すると考えられている。アンゲルンの地名の由来については、ゲルマン諸語において「狭い(水辺)」という意味を表す語根"eng-"(或いは"angh-")が元になったとする見解や、印欧語の語根で「曲がった」という意味を表す"ang-"から派生したという見解など、複数の説がある。』なお、アングロ民族・アンゲル人がアンゲルン半島の民族と見た場合、アンゲルン半島の外見はさほど「狭い土地」という印象ではない。相対的な外見は十分、幅が広く、一般的な半島よりも半島らしい特徴が目立たない(ユトランド半島・デンマーク国外の小半島である)。"Angle, Angeln"の語根に「釣り針・曲がった」という意味も含まれる説は未検証だが、この説を採った方が適切かもしれない。これ以上、検証の余地はなくなった。ついに我が疑いを滅ぼそう。