2018年1月21日日曜日

道心あるニート・引きこもりの修行における障壁

世間には「ニート」や「引きこもり(ひきこもり)」という概念に「クズ」等と悪い印象の属性を付属させたり、事象に「自分を省みず他人を鑑みず意志が無い」と悪い印象の原因を想定した種々の説がある。
世俗の人から一部の宗教家まで、口をそろえ、「直ちに悪いもの」と説く。
漫画・アニメ・ドラマ・大衆音楽の歌詞なども、そういった思考を前提として作られたものであることが、2018年現在もおおよそ変わりなくあろう。
「直ちに悪いもの」と説くにも、社会・世俗や哲学・宗教の各々が異なる理由を述べつつ、見解を異にし、時には主張が対立して枘鑿(ぜいさく)の相容れざるが如しと言え、ただ正しい仏道修行者のみ、これを達観してゆく。
修行者は「所詮、世間とはそういうもので彼らの思考を変えさせる必要は無い」と了知して他者への執着や憎悪を捨て去り、速やかに修行に戻ろう。
同じく、彼ら他人たちもまた、彼らが想定する「社会悪」云々を排除できる道理が無い(当事者に憎悪の心があるうちは社会悪も消えず・世界平和も実現されず・真の幸福も無い)。

世間の人は、そういった概念の名称に、副次的に様々な属性を付属させる。
結果的に、同じ概念の名称(ニートや引きこもりなど)も十人十色に彩られてしまった。
それらはみな、条件に依存して付けられた「虚構・戯論」である。
その、世間の人の言説・心理は、十二因縁などの因縁・縁起を見れば、解明される。
※世間に生きるならば他人の主張を尊重することは重要だが、私は当事者と話したことも無いので、最初から関係が無い。あるいは同じく世間で主張する者は、同次元の因縁によって反論をなす権利もある。しかし、修行者は以下の通り、厭離(えんり)・遠離(おんり)・不戯論(ふけろん)・無諍(むじょう、怒りによる主張が無いこと、喧嘩が無いこと)である。

世間の見解の根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情や、など、多くの因縁を見る必要がある。
あらゆる見解・論理・主張とは、因縁によって構成された「虚構」である。
そして、「虚構、虚妄の構成物、有為法"saṃskṛta dharma"、たったそれだけのこと」と達観し、厭離すべきである。
世間に、客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)ので、どんな論難や非難でもあれ、みだりに悩まなくてよい(悩む心は執着・煩悩の心であり地獄に転生する原因)。
なおかつ、その仏教的見解や立場にも執着せず、自分のすべき修行を黙々と淡々と実直に質実剛健にすればよい。
これが不戯論の八正道・中道の仏道である。
阿含時の教説であり、小乗仏教における一乗"ekāyana"に通じる。

パーリ経蔵・相応部・悪魔相応"Rajja Sutta" (漢訳の雑阿含1098経)
釈尊が独りで坐り「非法(殺す・人間の勝ち負けなど)を行わず・民や臣下へ行わせず、法で王国を統治できるか?(世界平和は実現できるか)」と思った時、「あなた(釈尊は王族の出身)が還俗して王宮へ戻って国を統治すればよい。あなたの力があれば石も金に変わる」と勧める声が聴こえ、釈尊は悪魔のささやきと見抜いてこれを呵責せられた。加えて「世俗の幸福は無常であり、人々が欲求満足を得ても苦の根本的な解決とならない。たとえヒマラヤ山脈を黄金の山に変えても、足ることを知らず・更に求めさえするし、失われる恐怖もある。そのことを知る者は、国王として人々を欲求満足させる手段を願わない。私は人々に苦の因縁と苦の滅とを知ってもらって欲や執着の制御を願う」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

パーリ経蔵・小部・スッタ・ニパータ3章2経"Padhāna Sutta"
釈尊が未だ成道しない頃、真面目に苦行をしている時、「痩せこけてしまう醜い修行よりも世間の善行をしなさい。今のあなたの努力は無駄だ」と唆す声が聴こえ、釈尊は天魔の所行と見抜いてこれを呵責せられた。魔軍について「第一に欲望"kāma"、第二に嫌悪"arati"…(8つ以上に挙げて) この魔軍には、世間におけるどの人も天に生じた者"deva"も、気付けず・打ち破ることもできないが、智慧"paññā"であればできる」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

→自己反省をしている時、自分の道を見失わせるような思考・踏み外させるような思考が起これば、それを「悪魔のささやき」と了知して(知って・見抜いて viditvā)自ら振り払うようにせよ、という技が示される。自分の中にも「世俗的良心」があるが、それよりも、まず悟ることが、道行く自覚のある者の優先事項である。他者は修行の道において無知であり、既に見つけた自分の道・自分の人生に関しないし、単に音声や言葉が脳に入ったのであり、それ以上でもそれ以下でもないと了知すればよい。これらも自己が仏教に基づいて了知するという因縁(因と縁)の結果であり、その立場にも執着すべきでなく、心に迷いがあれば戯論があると反省思考(止揚)を繰り返す。戯論は輪廻であり、自己が苦しみの世界に転生する道である。その戯論を逃れて解脱することを思い、執着の心を自覚しないまま持ち続けるべきでない。とにかく!執着を離れる。一時的な不快感や憂鬱に浮き足立ってはならない!自ら心を欺かず、正直・正々堂々とする。

維摩経・仏国土品「(舍利弗言わく)我、この土を見るに、丘陵(くりょう)・坑坎(こうごん)・荊棘(ぎょうごく)・沙礫(しゃりゃく)・土石・諸山・穢悪(えあく)充満せり。」
法華経・如来寿量品「我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而も衆は『焼け尽きて 憂怖・諸の苦悩 是の如き悉く充満せり』と見る」(五字偈の形式に基づくスペースを挿入)

※実に世間は針の山のようである。一歩踏み外せば傷を受ける、煩悩・業・苦の娑婆である。趣味の事物は我々の興味を引くが、音楽の歌詞や漫画・アニメ・ドラマのセリフなどには苦が満ちており、食べ物一つさえも心身の患いを生むと観ずべし!苦のたとえが「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように示され、実に世俗の事物は「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように恐れて厭うべきである。世俗の事物は欲求の対象であると同時に、我が心身を苦に至らせる因縁を持つ。「華麗なバラにトゲがあることを恐れるように、欲望に注意を持とう」と。未だ悟っていない修行者の立場では、まずこのように世間を厭離すべきである。後述する「菩薩(平等の心)」の立場では別の話である。

そう、自分の心と違って他人の心を動かすことは、十二因縁の法において不可能である。
他人の心とは、色"rūpa"の一種として、自分の心の作用=受・想・行・識の外にしかなく、他の色"rūpa"が受"vedanā, pratyakṣa"の因縁によって把握されるように、推量の因縁によってのみ看取される。
自分の心の外の物事は「幻」であり、他人の思想も「幻」である。
「幻"māyā (マーヤー)"」とは「①自分の心をたぶらかすもの ②有って無いような幻影 ③心が生み出す象徴・幻想」とインド思想や般若・空思想に示されている(般若・空の教理では自分の心も当然、幻のようで無に等しいがそれは進んだ理法であり今は差し置く)。
修行者は、まず、自分の心の悪を自覚し、反省し、速やかに取り去るべきである。

「言葉で心を粉飾する『気休めの教え』」ではなく、自ら体得してゆくことは、自分の心を思いやることであり、他者にもまた体得してもらいたいと願う。



大乗仏教においてはどうであろうか?

インターネットで私が活動する際は、「仮名(けみょう)」としての「中卒・無職・ニート・引きこもり」である。
「仮名・仮設(けせつ)・仮施設(けせせつ)」"Prajñaptir upādāya (またはUpādāya prajñaptiḥ)"である。
世間で定義された意味の側面で、そのように名乗ることができる。
例えば「ニート」とは"NEET; Not in Education, Employment or Training"ということであり、世間の教育機関に属しておらず・職歴も無いという点で、私は該当する。
ただし、人間はいかなる概念に属せず、名称が当てはまらず、人間という概念自体が空虚であることは科学・哲学において論を俟たない。

科学・哲学においてすら、人間・人類"Man, मनु Manu, Human"の概念・定義は一定でなく、ある定義(法律的・感性的なものやヒト属ヒト種"Homo Sapiens"という生物学的なものなど)で一般的な名称を付したに過ぎない前提で、「『人間』という概念の名称」を用いる。
あなたはあなたであり、他の何者でなく、私も私であり、他の何者でなく、更にあなた・私という相対性を無我によって否定するならば、言語道断・心行処滅であるが、やはり私は「中卒・無職・ニート・引きこもりたる横野真史」と名乗り得る。
過去記事(2014年11月)に、以下の如く示した。
(謙遜と嫌味を区別すること・自己紹介する者の弁えについて) 例えば筆者、横野真史は「17歳・B型・埼玉生まれ・ニート(あとハゲあり)」である。ここからストレートに表現する。「17歳の若造ですが~若輩ですが~」あたりはよくあるへりくだり方だとしても、「17歳中卒のバカで~す」とか「B型だからだらしない奴です」とか「埼玉生まれでダサくてゴメンね」とか「ニートでどうしようもないんです」などと自ら口に出すことなどは考えもしない。このような自己紹介の仕方は、へりくだることで自分への評価を上げるどころか、頭の悪さを露見させ、かえって評価を素で落としかねない。また、B型以外の血液型の人が自分の非を並べて「B型っぽい○型」等と言うことも、学生やフリーターなどニートでない人がニートを自称して「ニートのような怠け者」だとかと自己紹介することも同様に、見識ある人間からは嫌悪を蒙るのみである。単に発言者自身が背負っている汚点を、別の概念に転嫁しないでほしい。

「17歳=若い≒未熟」、ということはよくある口上で通るとしても、それ以後の肩書き群がそのまま諸々のマイナス評価に繋がるなら、偏狭な感情に起因するものであろう。
上記のような「○○=××」も「非○○=××」という等号不等号の図式は必ずしも成立しない。風評の一元で物事を捉える人が特にその状況に置かれて、そういう自己紹介をするということが多いようであるから、それらのサイト(SNSなど)に入り込む気は起きないものである。ただ、たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる。

更に過去記事(2016年10月)に、「世俗の中観法」として以下の如く語った。
インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。 (中略、来歴など) 中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎない (中略) ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛、ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。 (中略、世俗の因果について) つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。これこそ仏道修行に通じているではないか。中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した (中略) 多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。

世間の人による「皮相的な思考」という迷妄の事相を知りながらも、横野真史は、偽りなく「中卒・無職・ニート・引きこもり」を称している。
そのようにインターネットで標榜すれば、その類の人が筆者を見るであろうから、と考える(類は友を呼ぶというもので釈尊が人間界に出現せられたことは「但以仮名字・引導於衆生」と法華経に説かれる・・・しかし私には今までにまともな理解者も反論者も現れず期待外れか)。
因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

その因縁の理法に加え、「他者は先述のような迷妄に陥っている」と見て憐れんでいる。
「人間の本当の心はそういった迷妄も無く清浄である」と慈悲を以て思えば、他者はみな愚かな子供のようであり、親のような立場で慈悲を持ち、なおかつ他者を見下さなくなる。
菩薩にとって、他人・一切衆生は幼稚な子供のようであり、我が子のように哀れむべきだが、なおかつ、そんな菩薩としての自分を育てた者もまた、他人・一切衆生であり、みな親のような存在であるとも知る。
これらも理由づけ=因縁により、他人はみな子であり、他人はみな親である、と了知した結果であるが、どちらにしても自分の心が苦しみを持たない、慈悲(抜苦与楽)の思考である。
大乗仏教を志す人は、同じく、因縁の理法のうちではあるが、このように他人を軽んじず、なおかつ特定の他人に依存しない「自由な心・解放された感情」を求める。
ただ仏法を尊重(そんじゅう)すること、法に依って人を見る(≒見ない)。

今は、仏教の教義のままに見れば、この世は不浄・険悪な場所であり、他人はみな愚鈍・愚昧・愚癡・迷妄の存在でしかないが、自分の心が仏のように清浄となれば、他人の心にもまた不浄な概念(自分が不浄と思う・不快に思う・偏見らしい概念)は無く、この世も浄土となる。
仏教の教義に依れば、まず他人は「不浄の悪」だが、それを見て自己反省して修行をする者にとっては、かえって「善知識(よい仲間)」とすら見える。
それら、他人の心の善悪や是非を詮索・邪推せず、「自他の心は不染不浄という真の清浄である」という教理が観萌行広要や清浄萌土抄に詳述されている。
内蔵萌心(讃萌語: 内に藏したる萌心)と肯定的に呼ぶこともある(>自性清浄心・阿摩羅識)。
自分も他人も、本当は、そんな悪い因縁に囚われねば、みな清らかである。
ただし、この娑婆世界にあって人間は三毒強盛で、清浄・解脱は修行による果報しかない。



上の説明に関連する教説を、大乗仏典より引用する。
一切衆生は如来・菩薩にとって我が子
妙法蓮華経・譬喩品より
如來已離 三界火宅 寂然閑居 安處林野 
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 
而今此処 多諸患難 唯我一人 能爲救護
 如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居して林野に安処せり。今この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。而も今この処は諸の患難(げんなん)多し。ただ我一人(いちにん)のみよく救護(くご)を為す。

一切衆生は如来・菩薩にとって我が親
大智度論巻十四より
(前略 耐え忍ぶこと=忍辱の修行を説く際に慈悲の心構えが必要だとする…「他者への慈悲は自己の為にもなる。他人は煩悩の自覚すら無いが自分には有るならば自分から忍辱をなさねばならない。もし他人が私の悩ませなければ、私の忍辱の修行が成立しないので、他人は師匠でさえある」と菩薩は思惟する。そして) 衆生無始世界無際。往來五道輪轉無量。我亦曾爲、衆生父母・兄弟。衆生亦皆曾爲、我父母・兄弟。當來亦爾。以是推之、不應惡心而懷瞋害。
 衆生は無始にして世界は無際なり。五道に往来して輪転すること無量なり。我もまた曽て、衆生の父母・兄弟と為れり。衆生もまた、みな曽て我が父母・兄弟と為れり。当来もまた爾り。是を以って之を推すに、応に悪心にして、瞋害を懐くべからず。

ほか維摩詰所説経・仏道品より
何等爲如來種。 (中略) 有身爲種。無明有愛爲種。 (中略) 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
 何等を以てか如来の種と為す? (中略) 身有る(原文: satkāyaḥ (-dṛṣṭi)→有身見とも)は、これ種なり。無明・有愛(三愛の一つ"原文: bhavatṛṣṇā")は、これ種なり。 (中略) 要を以ってこれを言わば、六十二見および一切の煩悩は、これ種なり。

他人を我が子や我が親のように見ることは妄語・妄想(もうぞう)でない
大智度論巻八より
(般若波羅蜜の説法がされるに当たって一切衆生が等心を得て他人を家族のように見たという事象についての問答) 答曰。一切衆生無量世中、無非父母・兄弟・姉妹・親親者。復次、實法相中無父母・兄弟。人著吾我顛倒計故、名爲父母・兄弟。今以善心力故、相視如父如母非妄語也。
 答えて曰く、一切の衆生は無量世中に、父母・兄弟・姉妹・親親に非ざる者無し。復た次ぎに、実の法相中には、父母・兄弟無く、人の吾我に著し、顛倒して計するが故に、名づけて父母・兄弟と為す。今、善心の力を以っての故に、相視ること父の如く・母の如くなるも、妄語には非ざるなり。

悪しき他人も善知識(よい仲間・師匠)となる
妙法蓮華経・提婆達多品より
由提婆達多、善知識故、令我具足、六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力四無所畏・四攝法・十八不共・神通道力。
 提婆達多が(連体助詞"の"=という)善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力・四無所畏・四摂法・十八不共・神通道力を具足せしめたり。
※提婆達多とは、仏となられて以後の釈尊に様々な法難を与えた人物であり、様々な経典(パーリ仏典・北伝部派経典・中国日本仏教書など)で悪人の典型例として示された。いわゆる阿鼻地獄に堕ちる大罪、五逆罪のうち「破和合僧・殺阿羅漢・出仏身血」の3つを犯した。大乗の教理によれば、そのような悪人こそが、理由づけ=因縁によって善人の親・師匠となる、と換言できる。

もし自分が清いならば他人も清くて世界も清い
維摩詰所説経・仏国土品より
若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
 もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土浄し。
同経・弟子品より
如佛所説「心垢故衆生垢、心淨故衆生淨。」(パーリ経蔵・相応部22.100経に同じ) 心亦不在内、不在外不在中間。如其心然、罪垢亦然、諸法亦然。不出於如。 (中略) 妄想是垢、無妄想是淨。 (中略) 諸法皆妄見、如夢・如炎・如水中月・如鏡中像、以妄想生。其知此者是名奉律。
 (戒律の師・優破離が弟子の破戒の罪を誡める時に維摩詰が彼らへ説く) 仏の所説の如きは「心垢つくが故に衆生垢つく。心浄きが故に衆生浄し。」となり。心もまた内に在らず、外に在らず、中間にも在らざるなり。その心の然るが如く、罪の垢もまた然り。諸法もまた然り。如(にょ、真如)を出でず。 (中略、優破離が解脱して垢が無いように諸法も垢が無い) 妄想(もうぞう)はこれ垢なり、妄想なきはこれ浄なり。 (中略) 諸法はみな妄見なり。夢の如く、炎(かげろう)の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、妄想を以って生ず。それ、これを知ればこれ律を奉ずと名づく。

※自分の心が世俗の因縁=概念・理由・条件・思考に囚われていれば、世俗に相応した果報=喜怒哀楽など感情に関わる結果がある。それらの世俗の因縁を離れた心は非有非無で不染不浄である。その心を、仏教の仮名の因縁によって説明し直せば、最も清浄である。その心が見る物事もまた、みな清浄である。どれほどキチガイな他人であっても、清浄に見える。ゴキブリが100匹以上いて付近を悪臭・騒音・暴走バイクが行き交う6畳間の自室も清浄である(悪臭は悪臭でなく騒音は騒音でなくただ臭いや音がするような感覚があるのみ)。しかし、ゴキブリや排気ガスとされる事物のみを清潔だと考えることではない。真理にはゴキブリという我・自性も無く、不浄という属性も無いという理解がある。特定の何かが不浄だとか清浄だとかと考えないことが却って一切の清浄となる。そのように自分・他人・居場所といったもの(正報・依報)が、世俗の因縁においては不浄であったり、心の清浄において清浄であることは、「依正不二(えしょうふに)」とも言われる。これも仏教の真理の見解であり、仮想体験に過ぎないので、死ぬまで淡々と修行してゆく姿勢が肝要である。見解への執着で気を抜いていると、欲望や他者の言葉に打たれ弱くなる時がいつか来るので、仏教を讃嘆しながらも、心で教理=言葉の認識に依存し続けると、知らぬ間にドブに落ちたり、スキを見た泥棒が侵入するような「報い」がある。

心と仏と衆生の関係は多とも一とも無ともいえて融通・寂滅
旧訳華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品より
如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
 心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生もまた然り 心と仏と及び衆生と 是の三・差別無し

もし自分の苦しみが絶えたらば
妙法蓮華経・化城喩品より
願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
 願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼす 我等と衆生と みな共に仏道を成ぜん
※偉大なる仏教の教理を聞解(聞いて理解)し、修行して心が解脱したという私は幸いである。その喜ばしい福徳・功徳を、未だに迷い苦しむ他人にも伝え、みな同じ解脱を得させたい。そのように慈悲を念じてゆくことは、まだ私にとって性急なことである。仏教の教理や言語学的知識は喜ばしいが、私の心を一時的にごまかすだけであった。しっかりと修行に活かし、実際の果報としての解脱を求めてゆこう。ひとまずは、緩まず、弛まず、撓まず、間断なく、修行に精進しよう。
asmākamanukampārthaṃ paribhuñja vināyaka|
vayaṃ ca sarvasattvāśca agrāṃ bodhiṃ spṛśemahi||



起草日: 20180101
※当記事の内容は2018年1月2日に本家ブログで先行公開された。

いくらか分かりやすく・通俗的になるように説明し、文言の引用における訓読文にも、ひらがなが占める割合が増えるように直した。
原文ソースのリンクについても、学術的な海外サイトより、日本人に馴染みやすいサイトを選んだ。
訓読文(読み下し文)や現代語訳などがある(言語学的解釈や教義的解釈の相違もあるが気にしない)。

当記事のタイトルに「障壁」という言葉がある。
仏教の漢語・梵語といった言語学的理解を、過去記事に詳述した。
心の中の障害・障碍・障礙、見えない壁・・・。 Antarāya, Prākāra
人生すら行き詰る人々、いかに況や仏道をや。
それも「因縁」によるものと、当記事および当該記事所説のように了知されたい。
そうして、仏道の果報に於いては、障壁が皆無となる。

「道心あるニート・引きこもり」とは、閑居求道者とも呼び得る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html
ほかネイティブニート→http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

人間の思考・精神・知能・認識・人生経験などから、種々の概念があり、語句を関連付け、その語句に継ぎ接ぎの概念や属性がある。
それらは複雑に作られた空虚なものであり、畢竟、無に帰(き)す。
ただし、世俗の中では尊重すべきである…、といった反省思考・止揚を繰り返す。

今では、一語多義=一語無義=一切語無義が当然の帰結となっている。
それを、思考のみならず、修行によって心で体得できるように精進したい。

・・・、2017年の新年記事の前半パートと似たような内容になった気がする。



2018年1月10日水曜日

仏道修行のための論理、不戯論のための戯論

大乗と小乗との論争・融和

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi ディッティ (梵語: dṛṣṭi ドリシュティ)"が取り上げられる。
そのような見解の例としては「世は常住だ」、「世は無常だ」、「肉体と精神は同一だ」、「肉体と精神は別異だ」、「如来は存在する」、「如来は存在しない」、「如来は存在するともしないとも言える」、「如来は存在しないとも存在しないわけでもないと考えるべきだ」といった、偏頗なもの(極端)から中立的らしいもの(中庸)まで含む(いわゆる十四難・十四無記)。
釈尊の仰せに、これらの見解(ひいては世間のあらゆる見解)は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常"anicca (skt: anitya)"であるとする。
見相応の中では、「世は無常だ(一般的なaniccaでなくasassata)」という見解をも釈尊が例に挙げられており、無常"asassata"を無常"anicca"で否定することは自己矛盾や二律背反や循環論法やトートロジーでなく、あくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということである(反仏教論者などが論理矛盾だ自家撞着だと排斥してもよいがそのような排斥する意思について自省できなければ外道論師のように堕獄すると釈尊は仰せになろう・論理とは理想への便宜的手段"upāyakauśalya"に過ぎないために)。
論理よりも、論理の元となった理由・根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情など、多くの因縁を見る必要がある。
その結果として客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)。

因縁によって成立するものは、悉く無常・空である。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"vipariṇāma dhamma"への執着"upādāna (もとい取)"は、苦しみ"dukkha"の発生に繋がるので、見解"diṭṭhi"への執着を離れることを説く。
仏教における論理とは、見相応によれば、「無常・空虚」と知りながらも悟り"sambodhi "への道において重宝する程度のものである、と読解しえる。

※見=無常 執着=無常 見(無常)+執着(無常)=苦 無常=苦 四諦は「苦・集・滅・道」であり、ここに苦の原因(集)を明かして苦を離れる手段(道)を説き、苦が滅びる結果(滅)ともなる、という教理。苦・集・滅・道の「道」とは八正道であり、このように苦を離れることは八正道のうちの正見に当たる。後述の中論でも「正見とは有・無といった見解を離れることだ」という「迦旃延への教え(パーリ相応部12.15経Kaccānagotta Sutta)」を15-7偈に引用するように、あらゆる対立的見解(両極端でありそれに対する折衷的な中庸もまた固着論理であるときは非中庸との対立を為して新たな両極端となる)を離れること(中道の意義の一例)は八正道および四諦に通じている。



現代日本のセクト的論争や擬似学問の対宗教論争も、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人は「ブッダやインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解を持ち、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人は「釈尊や天台大師に勝る偉業」とする見解を持ち、対立する。
他にも、釈尊の故郷の人(釈迦族)がコーサラ国の毘瑠璃王に虐殺される話で「釈尊が毘瑠璃王の進軍を3度停めつつ、なぜ4度目を行わなかったか」という故事にも仏教徒と反仏教者が見解を対立させられるし、キリスト教の教祖イエスさんが処刑されたのは「慈悲方便の故」とも「無慈悲弱小の故」とも解釈できるし、イスラム教の教祖ムハンマドさんが戦争の指揮を執った事跡にも信者のスタンスや謗者のスタンスで様々な解釈ができる(キリスト教・イスラム教の話は過去記事に)。
これらは根拠(皮相的合理性)に基づいた論であり、その範疇でみな正論と言える。
主張する者の立場・スタンスにおいては、彼らの理由・根拠・条件に正しく基づいた、紛れもない正論である。
同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断するせよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。
教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経とパーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。



しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常である(即ち苦である)という分別・見解を知りながらも、論争を辞せざる構えとなる。
論理への執着を離れること・不戯論"niṣprapañca pl: nippapañca"のための戯論"prapañca pl: papañca"(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāyakauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)  ※「諸著を離れしむ=色々な執着のある人々を解放する"tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum"ために、無数方便=様々な手段"vividha upāyakauśalya"を用いる」。よって、本文の如く論理・論議への執着を離れさせるための論理・論議がある。
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmetyapi prajñapitam anātmetyapi deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ityapi deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ityevaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)
※法華文・中論頌の関連フレーズはまだ多くあるが終える。ほか、牽強付会になりそうだが、一部で龍樹造と伝えられる「方便心論 *upāya-kauśalya-hṛdaya śāstra」の冒頭部分を紹介→「問: 論を造る者は瞋恚と驕慢とにより自讃毀他をする。もし自他を利したければ、論争の法を捨て去るべきだが?(小乗的スタンス) 答: 私は勝ち負けや名利のためでなく、仏法の善悪を明らかにしたくて論を造るだけだ。論理が無ければ、世の人々は互いを惑わせて不善をなして悪趣(三ないし四悪道)を輪廻し、真実の利益を失ってしまう。人々が論理に通達すれば、自ら善悪や空が判断できるようになる。また、正法を世に弘める目的もある。甘い果実の樹を(鳥や獣や盗人などから)防ぐために網を張る果樹園があるように、正法を護って他に名利を求めない。私を諍論者とみなすことは誤りだ。護法のために論を造る(大乗的スタンス)」と、「論(論理学)」という方便・便宜的手段"upāya-kauśalya"を用いることが示される。

たとえ宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理・事相を誰よりも知ってきた私には、かえって実行が困難らしくもある。

2017年4月21日投稿の記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(例えば生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(我が宗は勝れて他の宗は劣るという自讃毀他の論争には何らかの過誤が付随するという説)は、これに該当する。
彼らがご覧になったろう大智度論(当該記事での引用文・スッタニパータ4章と共通する教説がある)などの影響も出ていよう。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。

そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。
法華経と中論の第一義諦・スッタニパータと大智度論の第一義悉檀には、三乗としての大乗も二乗としての小乗も無い「究極の大乗・円満の一乗」が示されます!!!
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/12/ekayana-ekasacca-ekasatya.html

あけましておめでとうございます。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。



起草日: 20171224

以下に示された「キャラクター理法」と、当記事に示された「論理縁起」とは、よく似る。
当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。
 - http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#hmi4

よく作られた思想・論理は「有為法・サンスクリタ"saṃskṛta"」であり、よく作られたものだから無常・虚妄という。
しかし、それを見て知ること(受)で起こる自己の想念・思考・精神的反応(想・行・識)についても省みる(無常であり即ち苦だと知ること)ならば、阿含教(阿含時の教義)の修行に資するであろう。
慈悲の釈尊・龍樹菩薩らは、それ(阿含教の基礎=仏教の基本中の基本)をまず知ってもらいたいと志向せられたのではなかろうか?
こう経文・論文より詮索する私もまた、他者の心を推量することはできないし、仮に推量できたところで意業・意触の因縁で得た結果に過ぎず、無常・虚妄となり、執着してはならない。
神通力・他心智は、無漏の人によって行われるので、最初から執着されようもない。
私が釈尊・龍樹菩薩および人物を語る際、どのような証拠に依っても、『元となった理由・根拠・条件=認知された情報・知識や、知能や人生経験、「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁』があり、同じく無常である。

拾主に仕える障礙尊者のウダーナに曰く
「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」と。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

※サンスクリット偈を、ブログ筆者・横野真史が①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声がある。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10


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2017年12月20日水曜日

法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義

法華経の方便品のサンスクリット文と、スッタ・ニパータの4章12経"Cūḷabyūhasutta"のパーリ文には類似フレーズがあり、また、後者にごく近い部分が龍樹(竜樹 ナーガールジュナ)菩薩の大智度論に載る。
法華経や大智度論を漢訳した鳩摩羅什三蔵(または龍樹菩薩ご本人か後世の中観派)は、両者の梵語テキストをご覧になっていると推定できる。
この大智度論により、スッタニパータの不戯論(唯一の真理)、大乗の一仏乗、四悉檀の第一義悉檀、法華最第一を確認でき、中国や日本の大乗仏教における論争の真相(俗諦による方便とその真意)も垣間見える。
そのことは過去記事で詳述した。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

以下に該当する類似フレーズをパーリ文→サンスクリット文(漢訳)の順で載せる。
類似フレーズよりも先に、スッタニパータと大智度論の対応を示す。

Sutta Nipāta 884-885 (4.12 Cūḷabyūha Sutta 通称: 小集積経) (VRI版)
Sakaṃsa­kaṃ­diṭṭhi­parib­basānā,
Viggayha nānā kusalā vadanti;
Yo evaṃ jānāti sa vedi dhammaṃ,
Idaṃ paṭik­kosa­ma­kevalī so.
Evampi viggayha vivādayanti,
Bālo paro akkusaloti cāhu;
Sacco nu vādo katamo imesaṃ,
Sabbeva hīme kusalāvadānā.
要約: 各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?

大智度論・巻第一(訳は鳩摩羅什)
「各各自依見 戲論起諍競 若能知彼非 是為知正見 (この後に続く二偈はSNP 886-887に対応)」
訓読: 各各自ら見に依り、戯論して諍競を起こす。若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す。 (衆義経中所説偈としての引用、衆義経≒経集スッタ・ニパータ
、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)

SNP 890
"Ekañhi saccaṃ na dutīyamatthi" (まさしく真理は一つであって第二のものは存在しないと… 後略)

Saddharmapuṇḍarīka Sūtra, 2nd Upāyakauśalya Parivarta (一般的な校訂本)
"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (まさしく乗は一つであって第二のものは存在せず… 後略)

妙法蓮華経・方便品第二(訳は鳩摩羅什)
「唯有一乘法 無二(亦無三)」

大智度論・巻第十八(訳は鳩摩羅什) ※執筆中の調査で新発見した
「佛言。一究竟道、無衆多也。 (この後に続く五偈は義品偈の名で引用されており、SNP 4.8経・パスーラ経"Pasūra Sutta"全体と部分的に対応する)」
訓読: 仏言く、一究竟道にして、衆多(しゅた)無きなり。 (しかし諸々の外道師は各々が自ら究竟道だと主張してやまないのだ、という話の脈絡でスッタニパータ4章8経に当たる偈が説かれたとして龍樹が語る、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)



この両フレーズ(法華偈・SNP890偈)は共に仏説であり、真意は同じであると拝すべきである。
ストレートに言い直せば「(自分の道や真理が唯一で正しいと真に思うならば)自分の目的のための行動に専念せよ!(それが真の大乗菩薩道や小乗解脱法だ!)」ということである。
※真とは「諸々の思想家・行者のような顛倒・迷妄」が無い境地だから、仏が指して指さない非有非無・非実非非実のこと。

共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
それでも、釈尊や龍樹菩薩や多くの高名な大乗僧侶たちは、他者との論議を倦まないつもりで布教したわけであり、そのことが多くの大乗経典に説かれていることを、合わせて知ると良い。
そのことも上掲の過去記事に詳述してある。
悟っているという自覚の有無、客観的な悟りの有無など、元より論ずべくもないとのことであろう。
不戯論のために戯論を用い、不戯論の教理を知らない他者(外道・部派仏教徒・思想家・哲学者)が行う戯論を打ち破るという、「毒を以て毒を制す・毒を変じて薬と為す」である。

※両偈は音節数が11のトリシュトゥブとなっている点も共通する…、と思ったが、方便品"ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate"句ないし以下3句は、12音節だった (e, kaṃ, hi, yā, naṃ, dvi, ti, yaṃ, na, vi, dya, te = 12)。

※類似表現ついては「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(チャーンドーギヨーパニシャド "Chāndogyopaniṣad")」にも見られる。6章2節1句(および2句) 有名な一節「〈ブラフマンこそが〉唯一であり第二のものは存在しない"Ekamevādvitīyam (英訳: ..is one only, without a second)"」と。「ウパニシャッドの語と似るくらいならば、法華経とスッタニパータの偈もたまたま似ただけだ」と言う者がいるであろうが、先にも後にも会通するように、法華経とスッタニパータの偈の真意は同じである。また、文献学的な経典編纂の観点・合理主義の視点からしても、法華経の方便品は法華経もといサッダルマプンダリーカの最初期に編纂され(仏教文献学が唱える通説では西暦1・2世紀ころとし口伝時代を想定するとそれ以前より有る)、教説も菩薩・声聞・縁覚(独覚)の三乗を和する教説が主要であるように、阿含系の教説との融和が図られる。パーリ語で伝わったスッタニパータに相当する教説を法華経編纂者が見ていたと学者が見解を持つことは必然的である。なお、古ウパニシャッドと仏教の関連性は、絶大権威の中村元氏ほか多くの日本学者の見解が世に多く見られており、これも合理主義の学問で肯定される。パーリ語経典に直接の言及は無くも、パーリ三明経に載る婆羅門の派閥名に「チャンドーカ」・「ティッティリヤ」といったウパニシャッドの名称とそっくりなものがあり、派閥名とヴェーダとの関連をパーリ経の注釈書ティーカーが述べていてウパニシャッドとヴェーダの関連と一致することは過去に説明した。つまり、釈尊在世でも修行者界隈にウパニシャッドの教説が広く知られていたと考えられるが、その類似表現のある法華経とスッタニパータの偈が直接影響を受けたとは断定しない。



大小・一乗・不一不異義


大乗の教説と小乗の教説とに「一乗(+道)」の言葉がある。
それは、先述の法華経方便品および後述のパーリ語・漢訳の念処経である。
「エーカヤーナ"ekayāna"とエーカーヤナ"ekāyana" (エーカーヤナマッガ ekāyanamagga)の文字列・字義は似て非なるものだ!」と賢しらに分別する人々もいよう。
俗諦たる言語学・文献学の話に加え、仏意に関しても推量してみたい。
まず、萌えの典籍より、輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)が応現する話(草案)を暫く引用する。

 悪い心の人には見えないはずの輸提尼(報身)だが、多くの人の前に応身"nirmāṇakāya"として現出するという。ある時、拾主の弘める萌えの法門を、小乗の徒が知った。小乗の徒のグループは、大乗を誹謗し、「広く仏・菩薩の像・遺跡に礼拝する在家の信男信女(民間信仰的な仏教徒)」を愚弄していた。何らかの経緯で拾主らとその小乗の徒のグループが接触する。拾主が輸提尼の絵を提示して「当に萌心を出だすべし!人心もとより清浄なり!」と叫び続ける。かの小乗の徒は「そんなのブッダの教えじゃない!」と反発し、僧団の威儀に反して高慢な態度で場を辞せんとする時、その場に倒れ込んだ。しばらく気絶するようだが、心の中では・・・。
 「あなたも仏の慈悲を聞いているのだから、もう大乗への誹謗はやめようね。論争に業を煮やすこと・戯論・諍論はやめようね。お花の蜜を取る蜂さんはお花を傷つけないんだよ(元ネタはダンマパダ・遺教経)。みんな仏様を信じているのに、みんなの心を壊さないでね。倶伽離"kokālikaまたはkokāliya"さんのように地獄に自ら堕ちちゃうのは、いやだよ。もしあなたが全てを知っているなら、その道を進んでいれば、いいんだよ。自分の道、道じゃない道、どの道、大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"。一諦一乗(元ネタはスッタニパータの"Ekañhi saccaṃ"偈と法華経の"Ekaṃ hi yānaṃ"偈)。」

→畢竟、これもその小乗の徒が大乗仏教と萌えの法門とを一分でも見聞していたので、彼の心の中に自ら生じた相であり、心の化"nirmāṇa"である。一分の慈心だに有らば、則ち相応じて須臾も(一時でも)萌えを見よう。人の善心を壊さずに悪を呵すべし。「どこにでもいてどこにもいない輸提尼・諸萌(如来如去)」の力用、是の如し。是の如く、拾主によって蒔かれた輸提尼の種(因子)が小乗の徒の地に着いて発芽したが、どこまで生長するかは未知数である。
 小乗の徒は小乗の徒のままでよい。大小の別なき一乗は真に大乗であり、小乗とは何らかの理由に依存した仮設概念に過ぎない。二乗(声聞・縁覚)も三乗(菩薩)も、一乗と別に存在するものでない。みな不一不異の仏道から後に分かれた仮設概念である。仮設概念としての小乗の道も釈尊が一乗道のうちにお引きであるから、正しい仏道である。彼の心が慚愧を懐くならば、彼は正しい仏道に入るであろう。釈尊は言い争いの道を小乗・阿含時に説いていない。小乗の徒もとい上座部仏教の人は、阿羅漢の道・二乗を行くべきである。大乗の般若経・維摩経などにあるような、非道(三毒)を行じても無漏の故に三毒の煩悩が無い「菩薩」や、論争の業に染まらずに説法ができる「菩薩」でなかろう。阿羅漢の道にあるべき彼は、原始仏教を標榜しながら現代性に便乗し(古代即現代の教理も無いのに)、世俗に媚びながら売文活動をして名利を受ける菩薩の真似事をしていた。彼が(彼にとっての)正しい仏道に入るか、三悪道に堕ちるかどうかは読者の想像による。いかがか?

 後日談?「〇〇(拾主の俗名)さま、私たちはとてつもない悪業を積み、互いに積ませて参りました。その業で地獄への道連れになったろうと悔やんでおります!あなたとその教えと大乗の法とを謗った罪を、ここに懺悔いたします!今後、私は大乗を大乗という認識による妄想を以て論うことなく、弟子どもにも大乗に関する妄想をさせぬよう、正しく教えて参ります!」
 「sādhu, sādhu, よろしい、仏性に適う改悔である。生死の道は元より独り行き独り到るものだが、相待の観点ではみな道連れにもなる。辛苦も快楽も、それは独り受けるものだが、相待の観点では自他に及ぶ。なぜならば誹謗の語を誹謗の語として聞く者がいるからである。誹謗の語を発する者と聞く者とが共に怒り、誹謗の語を発する者と聞く者とが共に喜ぶ。このように、瞋恚・驕慢の因果が先にも後にも見えると覚る。須らく自ら悪口・悪意を止(と)むべし。これが八正道の要旨である。共に在ること=サンガは、その実行者であろうに、三業の悪業をあなたがたは行ってしまった。僧団ではなく魔軍となろう。萌えの聖霊によって一乗の法を聞き、解したならば、あなたがたの道を見て進むのみである。私たちの一乗はエーカヤーナであるが、あなたがたの信ずる所のブッダ様がお示しの一乗法がエーカーヤナであり、いわゆる四念処である。念処経・サティパッターナスッタに仰せの一入道、観身如身・観受如受・観心如心・観法如法、四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない。もし仏道に於いて迷いあらば萌道をご覧なさい」 
 何となく漢詩→生死重昏獨行道。忘前失後無侶到。佛子照見如是事。我等已依大乘高。-au韻・七言絶句 ※「我等」とは天・人・畜を含む一切衆生のこと。中論24-15偈「如人乘馬者 自忘於所乘"aśvam evābhirūḍhaḥ sann aśvam evāsi vismṛtaḥ"」に倣った表現でもある。中論・真諦の観点では大乗および一乗の体(たい、当体・正体・本体)は「空」という。法華経においても仏子はみな悉く一乗(エーカヤーナの方)に在り。

上掲の文章は、大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とは、「文字列も字義も異なるが釈尊の真意としては同じである」という教示である(ましてや空・仮名の観点では論を俟たないがそれはさておく)。
大乗のエーカヤーナを分解すると「エーカ eka + ヤーナ yāna (√yā + 接尾辞ana)」であり、「一つの乗り物(乗, 乘)」と直訳できる。
小乗のエーカーヤナを分解すると「エーカ eka + アーヤナ āyana (接頭辞ā + √i + 接尾辞ana 他にアヤナayana説あり)」であり、「唯一〇〇へ至らせる[+道 "pl: magga, skt: mārga"]」という意味である。
※何らかの目的へ至らせる唯一の道であるが故に念処経・大念処経の冒頭では漢: 衆生を浄む・淨衆生や、巴: 衆生の清浄へ"sattānaṃ visuddhiyā"などなど四念処の果報を釈尊が示された。しかし、「一人で行く道"ekattaṃ gacchanti"」という解釈もあり、この点についても上掲の文章「生死の道は元より独り行き独り到るもの・・・(漢詩で生死重昏獨行道・・・)」に通じる。いわゆる「自洲・法洲=四念処」と同様である。そういった「独り行く道=生死」より解脱して涅槃に至る道もまた、エーカーヤナか。
前者のヤーナと後者のアーヤナとは、共に 、「行く」という動詞語根√yā √iを含んでいる。
Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparidevānaṃ samatikkamāya dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā. (パーリ経蔵の長部22経・中部10経・相応部47.1経など)

世尊告諸比丘「有一乘道、淨諸眾生、令越憂悲、滅惱苦、得如實法、所謂四念處。」(雑阿含経にいくらかあるうちの相応部47.1経に対応する607経=巻第二十四より、上掲パーリ文に相当するアーガマの異訳は中阿含経98経・増一阿含経12.1経など)

こういった大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とを、共に「一乗」と訳することについて考えてみたい。
漢訳で、法華経などのエーカヤーナ"ekayāna (一つの乗り物)"を一乗と訳することは良かろう。
マハーヤーナ"mahāyāna"を大乗とし、ヒーナヤーナ"hīnayāna"を小乗とし、時代の下ったヴァジュラヤーナ"vajrayāna"を金剛乗と称するような系統にある。
しかし、四念処・四念住を指した"ekāyana"を一乗とすることは、雑阿含経の訳者「求那跋陀羅」三蔵が大乗経典も多く翻訳するなど、大乗の人であるために、敢えて大乗のエーカヤーナと似た「一乗道」と訳語を当てたろう。
求那跋陀羅三蔵は、「一道(中阿含経98経)」や「一入道(増一阿含経12.1経)」といった「乗(乗り物, vehicle)」の意味を含まないものとせず、大乗との会通(えつう)を図ったろう。
つまり、彼は「乗 ヤーナ"yāna"」と「道(入道) アーヤナāyana"」の両者の意味を取った。

その、彼の会通を、より明確に示した記述が、上掲の引用文にある。
「四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない」と。
そのように心を清浄にすることで衆生を浄め(相応部22.100経と維摩経弟子品の共通フレーズ)、仏国土を浄めてゆくことは、維摩経の浄仏国土説に通じている(→清浄萌土抄・観萌行広要)。
形としての大乗は、現世の即物的なものにも通用させる必要があるとはいえ、法華経の円満の一乗義においては、このように大小不二である。
このことは妙法蓮華経の五百弟子授記品に「内に菩薩の行を秘し 外に声聞の形を現ず 少欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む 衆に三毒ありと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す (内祕菩薩行 外現聲聞形 少欲厭生死 實自淨佛土 示衆有三毒 又現邪見相 我弟子如是 方便度衆生)」とある通りである。
こうして釈尊は懇切丁寧に小乗・声聞乗の人も菩薩と異なり無きことを説かれ、しかも成仏の記"vyākaraṇa"を授けられた。

以上、大乗と小乗の一乗について、不一不異義を「俗諦・言語学・文献学」においても示した。
これらはみな仏説を私が拝見して述べるところであり、真には「仏意量り難し」と付言す。
中道・言語道断心行処滅・不可量・不可説・不可得の不一不異である。
なお、上掲の引用文で大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"とあることは、過去記事に詳しい(仏法の説明に加えて言語学・文献学の見解もある)。





起草日: 20171218

過去記事の焼き直しとして、簡易なものとしたく発案したが、結果的に説明を多く増やすこととなった。

大乗仏教, 小乗仏教, 原始仏教, 初期仏教, 上座部仏教, 法華時, 阿含時, Mahayana, Theravada, Early Buddhism, Lotus Sutra, Agamas, Nikaya, Suttanipata, Prajnaparamitasastra, Da Zhi Du Lun Nagarjuna (Nāgārjuna) Kumarajiva (kumārajīva), Gunabhadra (Guṇabhadra), Sanskrit, Pali, Synonyms, Homonyms, Is -yana a vehicle or a path?

Saddharmapuṇḍarīkasūtra, Upāyakauśalyaparivartaは語幹表記であり、別にはSaddharmapuṇḍarīkasūtram, Upāyakauśalyaparivartaḥと-m(ṃアヌスヴァーラの場合も)や-ḥ (ヴィサルガ)が付く。
前者はsūtraにm = 中性名詞の主格を作る語尾m (ṃ)が付随した形であり、後者はparivarta (varta)に付随する男性名詞の主格を作るḥが付随した形である。



冒頭にあるリンク先の記事には、日本仏教の宗祖による論議・問答・諍論という事跡と、スッタ・ニパータに通じた大智度論との関連性が書いてあるが、その前に四念処を指したエーカーヤナに関する説明をした。
以下である。
※ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら「日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念」を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

※以下は当記事による引用※
そのダンマパダ・花の章"Dhammapada Pupphavagga"にある詩・偈
50 Pāvey­ya­ājīva­ka­vatthu
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.

漢訳の法句経・華香品
「不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼れの作すと作さざるとを観ずることに務めず、常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知る)」

Puppha Vagga = 「花の章」、漢訳「華香品」。そこになぜ「己を見よ」という釈尊の教説が載るか?疑問解消のために萌えの典籍(本萌譚・異伝④)より引用↓
 (拾主いわく)「跋聖(当記事注: 過去萌尊の一人)が後世を懸念した故に命ぜられた遺誡(ゆいかい)を少し示そう。一に (中略) 二に (中略) 三に『萌相や萌道を弘めるにあたって他者や自己に障害を感じても無理な行動で解決すべきでなく萌えを念ずべきだ。この萌えは、日照りにも負けず暴風雨にも負けず踏みつけにも負けることなく、勝つこともなく、ただ生きて死ぬる運命だが、常にその小さい身で大いなる果実を結ぼうと懸命に生きているものである。萌えは中道"madhya"・柔和"mārdava"である(当記事注: 觀萌私記>萌相條と共通する表現)。果実を結ぶ意志は無いが果実を結ぶべく懸命に生きる。懸命に生きる思いは無いが悩みも無く、どのような障害も有るようで無し。このような萌えの正念ある者には障害が有るようで無し。ただ目的へと邁進するのみだ』。跋聖の遺誡を今は略して三つに挙げた。他の萌尊にしても、弟子をお持ちであれば同じような遺誡を下されたろう」と。 続いて、以前尊者に説いた萌え和讃の一首を再びお詠みになって語ります。
 「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ・・・、萌えの萌えたることは萌義によるわけで、その萌義の雨が萌えを生長させる。萌尊が萌義を開示せねば、慈悲の用(ゆう)のある可愛い絵も萌相と呼ぶべきでなくなり、萌道も存在しなくなる。萌義の雨を受けた芽は、生長して必ず花を咲かせ、実を結ぶとも説く。花や実にも各々の異なりはあろう。花の色・香、実の色・香・味、人は良し悪しや価値の善悪を分けるが、植物にとって花は、生長の証・しるしである。虚仮の花弁(シュードフォリア)でなければ生殖機能も有す。果実は次の生命の種となるし、生きた跡ともいえる。人間の品種改良がされていない自然界の植物は、よほどの異常も無ければみな花と実を成す。これらの事項も、植物は思いもせず、今そうあるだけのことであるから、私が説くことは誤りであろうが、一応例示した。どのように行じ、どのような花たる好色萌相(二萌風の属性・五萌類の相貌など)を成すとも、萌心に依るものはみな萌道に違わない。今、仏家の法華経・一乗・草喩のようである。当世の風俗にも、似たような歌謡曲の詞があるそうだが・・・。 (後略)」

改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

そして、大乗のエーカヤーナは、四念処が行える人間的な能力(知能・精神・言語など)・煩悩即菩提の性質が無くてもすでにエーカヤーナである。
いわゆる不二・絶対の理において、仏の智慧・報身が一切諸法を対境として自他共に仏・中道・真如、法身を知り、応身と為す。
それは大乗の高度な教理となり、ある種の空"emptiness"・無義(無意味"meaninglessness")と言われかねないが、それまた、意に介すべきでない。
その空理空論・仮名(けみょう)と自ら知るならば、大乗でも、自ずと不戯論・寂滅となる。
心の浄化とは、己の三毒・煩悩を自覚してから三毒・煩悩の元となる物事=境(色・声・香・味・触・法、特に他者の論理・文言・記憶)を厭離(えんり)する・遠離(おんり)することである。

しかし、諍論を厭いつつも現世であえて論を構えることが自行化他(中道)の菩薩である、とも多くの日本・中国の僧侶は知っていた(況や末法をや)。
釈尊・龍樹菩薩・大乗仏教の僧侶たち、彼ら聖人たちは忍辱ある慈悲を以て人々に仏法を弘めたく、苦を以て苦を制すべく、伝道教化なさったろう。
非力の私には到底真似できないが、大乗の人であれ、小乗の人であれ、仏・菩薩を渇仰し、各々の手段"upāya"で忍辱と慈悲とを得てゆけるとよい。

これらを学んで念じて智慧・般若波羅蜜を成就することで、忍辱や慈悲も波羅蜜となるという(完璧"Perfect"になる・彼岸"Pāra"に至るという二義の問題を解決)。
龍樹菩薩の大智度論で有名な「過去世の舎利弗尊者と乞眼婆羅門(こつげんばらもん)」の説話は、般若波羅蜜を成就しない菩薩が布施波羅蜜をも成就しなかったという意味である。
菩薩行をする舎利弗尊者の過去世の人は、婆羅門の人から肉体の眼を求められ、「利用価値の無い眼を求めて何がしたいのか」と憂慮しながらも眼を自ら剔出し、その眼を与えた。
すると、相手に「臭い眼などいらない!(臭い=尊者の憂慮ある心を掛けている隠喩でもある)」と激怒されてしまい、相手がその眼球に唾を吐いて踏みつぶした様子を見て「利用価値の無いものを求めて剰え逆切れするとは!こんな狂人どものために布施の修行などできない!小乗の修行と果報の方がマシだ!」として菩薩を退転したという話である(大智度論巻第十二)。
見返りを求める「有漏善心」や他者を見下す心では、菩薩を退転するので慈悲が必要ともなる。

このように、布施の修行を退転したくなければ、布施波羅蜜(檀波羅蜜)を成就したければ、般若波羅蜜を修習しなさい、と龍樹菩薩が説明せられた。
同じく、大乗の智慧によって小乗の修行が成就できるであろう・・・世諦においても、真諦においても、というスタンスは有る。
世諦においては、世俗的な意味の「実際・ゲンジツ」に則った自己の修行の成就であり、困難は伴うが、大智度論のスタンスでは同じことと思われる。
真諦に近いものは、布施の修行者(無)が一切衆生とされる対象(無)に何らかのもの(無)を布施をすること(無)=心に布施・主客の関係性を思わない無分別の布施行がまた布施波羅蜜だと言われており、そうでない=顛倒ある布施行が波羅蜜(彼岸に到ること)でない此岸の布施だとする。
布施波羅蜜を布施波羅蜜たらしめる理法も究極的には般若波羅蜜(智慧波羅蜜・智度)であるので、このように菩薩は聴聞・修習をする。

荒く・粗く記述したが、興味あらば、是非とも大智度論の全巻か少なくとも一~二十を通読せられたし(英訳はÉttienne Lamotte エティエンヌ・ラモット氏のVol. 1~5がありVol. 1なら巻第十の最後まで、Vol. 2なら巻第十八の最後までとなる)。
私にとって量り難い仏・菩薩の智慧は、決して道を退転しない正念となり、その智慧の正念は何事をも成就させてゆくので、やはり一乗となろうことを思う。
以上、思想の偏向ある解説を交え、私の意思に基づいて仏説・菩薩論文などを抄った。
改めて「仏説の言語(釈尊も凡夫が理解できるように配慮した言葉を用いたろう)を明かしても、真には仏意量り難し!一切の心行もまた不可量・不可知・不可説・不可得」、南無南無南無南無…



輸提尼 一乘 一乗 一諦 ekayāna ekāyana ekasacca ekasatya
一乘 一諦 एक‍यान‍ (ekayāna) एक‍स‍‍ (ekasacca, skt: ekasatya)…2017年9月12日に描いた絵。
その話で「応現」した輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)の一つ(話の想定上は同時に3体以上出現している)。

以後、別の絵を追加する予定



追記: 2018年1月9日
法華経の一乗は、智慧第一の舎利弗尊者を首とした会座の聴衆によって聞かれた教説である。彼らはみな因縁法(小乗)・般若空(大乗)を御存知であるから、一乗とは「具体的に何物だ」と考えられない(不可得)と、彼らによって理解される。パーリ語で伝わるスッタ・ニパータの「一諦(Ekaṃ saccaṃ)」は、舎利弗(パーリ語でサーリプッタ)尊者が説いたとされるマハー・ニッデーサ"Mahāniddesa"(大義釈)で「一諦とは苦滅(苦集滅道の四諦)・涅槃を言う"Ekaṃ saccaṃ vuccati dukkhanirodho nibbānaṃ"」と具体的に説かれてある。法華経の「一乗(Ekaṃ yānaṃ)」は、もはや「言語道断・心行処滅」と思われる。それはなぜか?如来は愛憎の心を離れていて涅槃の如くにあるが、衆生は愛憎に因って自ら苦や分別を起こす。憶想・分別の心(妄想)によって仏道が二乗にも三乗にもなるが、無分別の自由な心においては「更に余乗なし」であり、真の一乗を説き得る。一乗は因縁観によっても理解し得た。言語表現へ皮相的に執着して分別をする凡夫には、一乗が見えない。説法せられる如来は、その苦・顛倒・執着を除こうという慈悲をお持ちであった。

マハー・ニッデーサの説明に「苦滅・涅槃」とあるが、これはまさしく、法華経の意趣にたがわない。スッタ・ニパータ原文は「無二の真理・諦"sacca"を知る者は論争を起こさない(形式上の不戯論)」という趣旨あり、専ら自己の修行・実践に向けられる。その「苦滅・涅槃」の実践とは、マハー・ニッデーサに同じく、先の物語で「拾主」がおっしゃる「八正道(および正念の行に摂せられる四念処)」である。マハー・ニッデーサの説明は、法華経の一乗・諸法実相なる修行・果報と相違しない。依義不依語の大智慧・大乗教"mahājñāna mahāyāna"によれば、一乗即一諦・法華経即スッタニパータといっても過言ではない。俗諦・言語・文字通りの解釈は而二だが、真諦・仏心によれば不二という大乗の理解である(仏心によるが故に仏心また量り難し)。

「薬草喩品: (如来は)無有彼此・愛憎之心"na kaści vidveṣu na rāgu vidyate |"」「如来寿量品: (如来は)以諸衆生有種種 (中略) 憶想分別故、欲令生諸善根 "api tu khalu punaḥ sattvānāṃ nānācaritānāṃ nānābhiprāyāṇāṃ saṃjñāvikalpacaritānāṃ"」「中論観法品: 諸法實相者 心行言語斷 無生亦無滅 寂滅如涅槃"nivṛttam abhidhātavyaṃ nivṛttaś cittagocaraḥ | anutpannāniruddhā hi nirvāṇam iva dharmatā ||"」

2017年12月10日日曜日

釈尊が受けられた最後の供養「スーカラマッダヴァ」の文献学的な考証

キーワード・概略
スーカラマッダヴァ"sūkaramaddava" (やわらかい豚肉・猪肉, tender pork or boar)
スーカラ"sūkara" (豚・猪, 英語のスワイン swine, sow, 学名Sus, Suidaeと同語源の印欧祖語*suH- インド・イラン祖語*suH- 猪についてはヴァラーハvarāhaという語もある)
マッダヴァ"maddava" (サンスクリット語mārdava 漢語 柔軟"にゅうなん" 同系の言葉にskt: mṛdu, pl: muduがある)
複合語スーカラ・マッダヴァ→同格限定複合語 カルマダーラヤ"karmadhāraya"=持業釈「柔らかさのあるスーカラ(語順反転タイプ)」、所有複合語 バフヴリーヒ"bahuvrīhi"=有財釈「柔らかさのあるスーカラを用いた料理・スーカラが柔らかさを持った料理(スーカラ料理)」
アッタカターによる注釈「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」

※パーリ長部16経・大般涅槃経で、「スーカラマッダヴァ」を鍛冶工の息子チュンダ"Kammāraputta Cunda"が釈尊へ供養したというが、漢訳経典「遊行経(長阿含2経)」における鍛冶工の息子チュンダ→工師子・周那(プラークリット由来?)による供養の品は「栴檀樹耳(≒茸・キノコ)」とされている。栴檀(旃檀とも)はもともと梵語チャンダナ"candana"の音写であるが、同経梵語写本(一部欠損)にはスーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava")の名が無く、チャンダナをチュンダが供養しない。

※「スーカラマッタヴァ」という表記ゆれ(ダ→タ)もある。手塚治虫の漫画などにそう表記されているようである。




2017年11月18日の日記メモでは、日頃の身体的な悩みについて少し仏典の記述を想起したので、色々と文献の調査をしたことを記してある。
日記メモ特有の「簡略な表現」を心掛けてあるので、学術的に危うい部分もあろう。
これを、以下に引用するが、記事で掲載するために内容を多く補強する。




下剤と便秘(排便間隔)に関しては、どのような食品を食べるか、という問題が思い浮かぶ。
問題とは、食べる時間・食べ物の種類・食べ合わせ・一度の摂取量などの検討である。
養生の法"āyus"は仏教らしくなさそうだが、阿含時の教説では多くの用語が見られる。

例えば、「消化"pariṇāma"(pari √nam = 変化=食物については消化することを指すので漢訳経典に消飲食・消食とある)」ということをしばしば問題にしている(説法の報酬として受けた供養は如来以外に正しく消化できる者がいない等とマハーパリニッバーナスッタやスッタニパータといった現代に有名なパーリ経にも見られる表現)。
科学では人間が食物を摂取して後のプロセス「燃焼(糖質・カロリー・生理的熱量)」が言われるよう、仏教でも四大(四界または地・水・火・風・空・識の六界)の「火"teja"」に関連する事象に消化行為(吸収または燃焼・代謝)が示される(食後に体温が上昇するためであろう)。
ajjhattikā tejodhātu = 内なる火界、火の要素(中部28経など)、なるほど、火が物(有機物や油)を燃やして煤と灰・炭素化合物の温室効果ガスを生むことと、体が物(糖質など)を消化・吸収して老廃物・二酸化炭素を出すことは、よく類似するし、共に「燃焼」と呼ばれる。
このように、様々な教説で食物を「正しく消化すること"sammā pariṇāma"」についての言葉が見られる。

経文を按ずるに、出家修行者・沙門・比丘(乞食・托鉢を行う者)にとり、「自由で多様な食事」は取れないための身体的・病理的な悩みが付きまといやすいと思われる。
仏教・仏道修行のスタンスとしては、スッタ・ニパータ4章16経で釈尊が舎利弗尊者に「食べ物・食べる場・寝床・寝苦しさという4つの思慮"vitakka"は己を迷妄に陥れるので制御すべきである(取意)」と説かれるように、積極的に良い衣食住(えじきじゅう)を求めず、如法のままに得られたもので満足すること(少欲知足)である(出家修行者は持戒持律で実現できる)。
私の生活上の課題である「下剤」に通じる概念も"virecana (慣用表記virechana)"として見られる(パーリ経蔵では長部1・2・10経の戒に関する教説でのみ見られる言葉、後述のパーリ涅槃経チュンダ供養話にVirecamāno bhagavā avocaとして下痢"Virecamāna"の単語が見られる)。
心身共に、下剤や耳栓などの常用による延命策に依存することは、非道となるが、どうしても甘えてしまう私である。
※この話題については「真の健康法」についての記事を参照されたい。

有名なパーリ長部16経・大般涅槃経(マハーパリニッバーナスッタ)の釈尊がチュンダ"Kammāraputta Cunda"から供養を受ける話に、"sūkaramaddava (直訳で柔らかい豚肉)"という複合語がある。
前半のスーカラ"sūkara (英語swineに印欧祖語*suH-の観点で通じる>インド・イラン祖語*suH-)"という言葉は「豚」を意味し、後半のマッダヴァ"maddava"(梵語mārdavaと推定されるが同経梵語写本に一連の話に関連する語sūkaraやpariṇāmaが見当たらない)は「柔らかい」という意味である。
そのスーカラマッダヴァが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」であるという見解が周知される(何らかの書に載っていてネットに伝播している?)。
ある英訳では"tender pork (柔らかい豚肉)"と呼ぶ。
注釈書アッタカターの言及では、キノコという説が無い(きのこパーリ語"ahicchattaka"など無し)。

その長部16経の漢訳である長阿含経2経・遊行経(巻第三に載る)でチュンダは純陀・淳陀ではなく「工師子・周那(呉音しゅうな、漢音しゅうだ、プラークリット訛り発音によるか)」と表記され、そこでは周那が「煮た栴檀樹耳(≒茸)」を釈尊に供養したとある。
「栴檀」とは、仏典に多く見られる香木の一種であり、「栴檀樹耳」はそこに生えるキノコと読まれる。
天台大師智顗さん法華玄義・巻第七に「八十二歳老比丘身、詣純陀舍、持鉢乞食、食旃檀耳羹(キノコスープ)、食訖説法、果報壽命中夜而盡。」と、清涼国師澄観さん華厳経演義鈔・巻第六に「阿含説如來涅槃之相者。彼説如來於純陀家乞食。因食栴檀木耳羹。得患背痛。」とあるよう、中国仏教でもその記述が認知されていたようである(ほか妙楽大師の法華玄義釈籤や章安大師大般涅槃経疏)。
そのほか、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」については中国サイトに載る高楠順次郎氏(印度佛跡實冩という本にある?)の説によると、梵語mārdavaに珍味の意味・用例があると示して「野豬所吃之珍味(イノシシに好まれる珍味)」とする。
これが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」説の文献学・学術的根拠と思われる。

※豚は豚でも、メス豚が「オス豚の精巣で作られ唾液に含まれる性フェロモン・ホルモンに似た媚薬効果のある物質を含んだ香りを放つトリュフ (Tuber spp.)」を求めることに依るわけだから、インドに「トリュフのようにメス豚が求めるキノコ」があるかどうかを調べねばならない。しかし、まずは家畜化された豚でなくインド固有種イノシシ"sūkara"のメスにも、同じ性質があるかを証明せねばならない。ちなみに、インドのキノコ(菌類)について生物学的な話・実地調査の例が載る論文がある(日植病報51 p. 251にスーカラマッダヴァに対する所見)。生理学的な話において、ある毒キノコの食後何時間で症状が起きるということを書いてある箇所は、経文の誤読に基づくので無視すべし。インド学者・岩本裕氏の、自虐史観にも似た学問的主張も載っているように、情報を正しく吟味すべし。

しかし、その漢訳された阿含経典の原型に「スーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava"またはガンダーラ語などプラークリットでの表現)」という表現があったかといえば、現在出土している梵語写本(校訂: Ernst Waldschmidt 一部欠損・中央アジア出土らしいが詳細不明)に見られないため、長阿含経の訳者(仏陀耶舎・竺仏念さんら)が「スーカラマッダヴァ(に相当する単語)」に直面して「栴檀樹耳(or茸)」と訳したという可能性は低い。
阿含経典の原型となる仏教の伝承や、後世の部派仏教(特に北伝仏教)における変化など、様々な事情を鑑みると、スーカラマッダヴァ(に相当する単語)が必ずしも長阿含経の訳者に認知されるわけでなく、パーリ経チュンダ話に6度載る"sūkara"が梵語写本に一度も載らないことから推して知るべきである。
パーリ経に基づく解釈でもアッタカターに見るように「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」というものでしかない以上、パーリ経におけるスーカラマッダヴァ自体が「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」を指すという根拠になることは無かろう。
「栴檀樹耳」というキノコを用いた料理が釈尊最後の供養であるとしても、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」がスーカラマッダヴァ(に相当する単語)の訳語となるわけでない。
偉大な学者・高楠順次郎さん(大正新脩大蔵経や南伝大蔵経の主要な編纂者)ともあろう方がこの説を唱えたことは、恐らく「お釈迦さまは肉食なんかしていないでしょ?仏教の決まり事だから」という日本仏教徒(特に禅宗系)の信仰を壊したくなかったための、擬似学問の方便だと考えられる。

※とあるパーリ語辞書に、「スーカラマッダヴァ=トリュフ」という西洋人の学者の解釈らしい記述が見られた。その場合のmaddavaは「(豚が)喜ぶもの(=欲求の対象)」という解釈となる(果たしてそんな用例があるか不明・望文生義かも)。そこで少しウェブ検索を行った。西洋の学者が発祥とされる。本来は高楠さんなど戦前の日本の仏教学者では想像しづらい見解を、彼らが想像したと思われ、高楠さんはその説を借りた可能性もある。ネット上には、トリュフ説への批判が見られる。白人比丘Shravasti Dhammika氏は「トリュフ(のようなキノコ)truffle, trufflesはインドに生育しない。フランスで実際に行われるブタによるトリュフ採取は近代のもので無根拠の説だ。菜食主義が仏教の修行だという誤った見解に基づいた主張だ(菜食してもよいが慈悲に根ざしていなければ"food fad"で無益)」とする。スーカラマッダヴァの事実について、現代では解明しようも無い問題だが、学者の一般的な見解は「豚肉(or猪肉)」で一致しているそうである。

釈尊はその、スーカラマッダヴァと表現される鍋料理(スープ)を食べ、残りをチュンダに捨てさせてから強烈な腹痛・下血に至ったという話である。
そういう私は、本日の起床後、キノコと豚肉の粥を作って食べた。
排便も下痢も無い様子である。

※釈尊がスーカラマッダヴァを食べ残してチュンダに捨てさせたことは、スーカラマッダヴァによる中毒症状を予見したためという解釈がある。腹痛・下血・下痢の原因は必ずしもスーカラマッダヴァの成分の影響や雑菌による食中毒とは言えず、単にお年を召された釈尊が食事を機に、そういった症状を引き起こす可能性があっただけで食事を自らやめただけかもしれない。しかし、パーリ経に「たくさんの"pahūta"」という表現もあるから、大勢の比丘が食べられる分量を(中毒症状を予見して釈尊みずから毒味をしつつ)他者に食べさせずに捨てさせたという解釈も妥当である。チュンダ話の全体に、どういった読解ができても、仏教徒は食事に感謝しつつ、五欲を戒めることが大事である。釈尊もといブッダに関する歴史的事実を知りたい人は、経典の伝承を文字通りに見て科学的に考察しても、伝承が曖昧である場合、的外れになることを留意されたい。近代合理主義や現代人の知識のものさしにより、古典や聖典に対して誤った解釈(当人の思想に基づいた都合の良い解釈)をすることは、近代学問に多く見られる。「スーカラマッダヴァの訳語としてのトリュフのようなキノコ」説のように。合理主義学問の範疇なればこそ、中立的に極力多角的な目線で、合理的な分析をしつつ、人文系であれば伝統・信仰を重んじることが重要である(学術・伝統ともにトリュフという珍解釈が雑じる余地は無い)。この観点で文献学を仮に用いる私である。合理主義という名称でも、近代以後にしみついた形式的なもの(悪習・無自覚)と、真に体現されたもの(前進・有自覚)と、細分化があり、道心ある若い世代は須らく後者なるべし。

2017年11月18日の早朝にキノコと豚肉を用いた「お粥」を作った




以上、2017年11月18日の日記メモより抜粋となる。
個人的な「スーカラ・マッダヴァ文献考証」の結論は、冒頭の概略や本文にまで終始一貫するように、「柔らかい豚肉を用いた料理(豚肉を柔らかくした料理)」である。




当記事での補足となる。
スーカラマッダヴァに関するアッタカターの記述を中国人が中国語訳と共に載せているページがあり、当該箇所を以下に引用する。
https://www.facebook.com/tbcm.org.my/posts/1009531315792191:0
隔天,純陀邀請了佛陀和比丘僧團到他的家裡用餐,在供養的食物中,也準備了一些軟豬肉(sukaramaddava)。由於純陀是一位初果聖者,所以這些軟豬肉是他派人到市場買來的現成肉,不是叫人殺的。在《長部註》裡解釋說:「這些軟豬肉是一頭不太幼、不太老很好的雄豬的肉;據說這些肉柔軟而且有油質,是令人煮好、準備好的肉(Sūkaramaddavanti nātitaruṇassa nātijiṇṇassa ekajeṭṭhakasūkarassa pavattamaṃsaṃ. Taṃ kira mudu ceva siniddhañca hoti, taṃ paṭiyādāpetvā sādhukaṃ pacāpetvāti attho.)。」佛陀要純陀把軟豬肉單單只供養給佛陀自己,而供養比丘們其它食物,把剩餘的軟豬肉埋在地下。



ちなみに、私の身体的な悩み・便秘について、当日の翌日や翌々日には「良い便り」がある。
興味のある方は該当する日記メモまとめ記事よりご覧になってほしい。
医学的所見も書いてある。
キノコが便秘に対して善く作用したかどうかは、判断しづらい。



追記: 2018年1月29日
小部・ウダーナ8章"Udāna 8.5 - Cundasutta"にもスーカラマッダヴァが登場するので、そちらの注釈書アッタカターも見ると、「柔らかく脂身の多い豚肉説"sūkarassa mudusiniddhaṃ pavattamaṃsa..."」とは別のものとして、「豚に踏みつぶされた場所に生えるキノコ"sūkarehi madditappadese jātaṃ ahichattaka"」という説もあると記されている。
漢訳の長阿含経のように、パーリ語の文献もキノコ説を示した(今回は注釈書であるアッタカターのみ)という、事実提示をしておく。
漢訳の長阿含経は、原本が法蔵部によるものという近代的研究もある(慈恩大師窺基さんが妙法蓮華経玄賛で四阿含全てが大衆部によるものというが日本の法幢さんは倶舎論稽古で法蔵部の分派元の化他部によるものといって窺基さん説を批判した)。
そういった様々な部派の伝承における原語や、原語の変遷(後日投稿する記事における長部27・アッガンニャ経のrasapathavīに関する解釈が一例でありパーリ語経典=いわゆる上座部・スリランカ大寺派の典籍とインド諸部派の典籍とでは複合語の構成などに差異が生じていることから解釈の相違を見出す)や、それに対する訳経僧の解釈など、年代の関係は把握しきれない。

2017年11月20日月曜日

訛らないパーリ語句"Brahmā (Brāhmaṇa)"や"Bhadra (Bhadda)"の謎と経典編纂の光景

パーリ語の経典(元来パーリは聖典の意)を見ていると、部分的な語彙がサンスクリットもといヴェーダと比べて「訛り(二重子音の単純化・長子音化=促音便・撥音便)」となっている。
しかし、中でも"Brahmā (ブラフマー、語幹Brahma)"や"Brāhmaṇa (ブラーフマナ、婆羅門・バラモン)"という語句は全く訛りを見かけない。
例えば、サンスクリット語の"Bhadra (形容詞や語幹となり賢・善・吉祥などと訳)"は、パーリ三蔵を見ると、ある時に"Bhadra"であり、パーリ語らしい促音化をした"Bhadda"と混在している。
パーリ三蔵における"Bhadra"の例は、スッタ・ニパータ5章の対告者の一人バドラーヴダ"Bhadrāvudha"などがある。
促音化"Bhadda"の例は、釈尊在世で最後に弟子入りした須跋陀羅・スバドラ"skt: Subhadra"がスバッダ"pl: Subhadda"、跋地羅諦偈(ばつじらたいげ・古語発音バッディラタイ)・賢善一夜・賢善一喜・一夜賢者・吉祥染著・祥染はバッデーカラッタ"Bhaddekaratta (Gāthā・偈)"と言う。
上記は語中draがddaと促音化した例であるが、語頭であればpra-という接頭辞がpa-になることが有名である(般若prajñā プラジュニャーまたはプラギャー → paññā パンニャーなど)。

同じようにブラフマー"Brahmā"も、パーリ語ではバフマー *Bahmāとか、バンマー *Bammāと二重子音の単純化や撥音便などが生じているであろうが、そのような例をパーリ仏典より見出せない。
なぜ、このようにブラフマーのみ訛りが生じないか?
やはり高尚な概念で、釈尊在世の人々や経典結集までの仏弟子になじんでいたからであろうか?
その前提であれば、「パーリ語は仏の用いた言語」説や、反対に「パーリ非マガダ語」説は共に肯定できる。
「パーリ語が仏の用いた言語である」という説について、ブラフマーという重要な語句などはしっかりと当時の人々が発音していたという理由で肯定できる。
80年代以降の日本仏教学の一般論で、「パーリ語(仮名)という口語が釈尊在世の下位カースト(梵ヴァイシャ・巴ヴェッサ、梵シュードラ・巴スッダの2種)の人の口語だから釈尊(通称ゴータマ・ブッダ)も教化の為に用いられた」という見解を尊重する。
一方、「パーリ語が仏の用いた当時のマガダ語(解明されていない古代言語)でない」という説は、ブラフマーの発音が普通のパーリ語やプラークリット・方言で有り得ないという理由で肯定できる。
ここでは、後者の説の理由について検討してみる。

※現代のインドのヒンドゥー教徒の間で「ブランハー、ブランハナ(Bramha, bramhana?)」といったような発音がされていることについても一考の余地はあるが、当面は措いておく。



まず、「普通のパーリ語やプラークリット・方言」とはどのようなものであるかは、現代に伝わるパーリ語経典とプラークリット文献から考えればよい。
以前、パトナ(パータリプトラ)近辺やガンダーラの「ダルマパダ"Dharmapada"」を参照した時のように調べてみよう。
ダルマパダ二本にも、パーリ語ダンマパダ"Dhammapada"のように婆羅門・ブラーフマナに関する章が設けられており、パトナは"Brāhmaṇa"、ガンダーラは"Brammaṇa (ブランマナ、文字の特性上で元は長音ブラーンマナか?)"とあり、後者に-hm-個所の撥音便が見られる。

プラークリット文献での調査は、これを限界とし、続いて英語版Wikipedia"Pali"を参照する。
パーリ語に関して学問的な立場で何らかの情報が書かれていることを期待して参照すると、かなり耳寄りな情報があった。
Following this period, the language underwent a small degree of Sanskritisation (i.e., MIA bamhana > brahmana, tta > tva in some cases). [出典: K. R. Norman 1983]

私訳および誤記修正: この期間に続き、パーリ語はある程度のサンスクリット化を受けた。すなわち、中期インドアーリア語 (MIA, Middle Indo-Aryan)の Bamhaṇa が Brāhmaṇa となり、時には動詞の絶対詞(連続体)を作る ttā が tvā となる。 ※修正はインターネットで見つけた原典"Pāli Literature"にならった。

学問的に見るならば、現代にパーリ三蔵として伝わる言葉は、釈尊が往古に用いた言語から何らかの改良が加えられたものと推定される。
ブラーフマナとかブラフマーといった発音は、紛れもなく、元々のパーリ語と思われる古代言語で用いられなかったろうが、僧団・仏教教団の身近にサンスクリットやヴェーダの言語に堪能な婆羅門がいてもおかしくないし、婆羅門からの供養だって釈尊が多く受けられたように、後の僧団も婆羅門からの供養を受けたろうし、僧団にも婆羅門出身の者は多かった。
時代のいつであれ、サンスクリット・ヴェーダの発音を聞き得たと思われる。
多くの神様・語句などには「訛り」の特徴を残しても、ブラフマーやブラーフマナなど一部の語句はサンスクリットへ後世に置き換えられたろう。



さて、仏教であるから、再びお経を見直そう。
パーリ長部27経"Aggañña Sutta"(起源経、世起経、漢訳長阿含経の小縁経)に、学問でいう「通俗語源説(民間語源"folk-etymology")」が見られる。
例として「カッティヤ"khattiya"(貴族・王族・武士、梵語クシャトリヤkṣatriya)は、ケッタ"khetta"(国土、梵語クシェートラkṣetra)の主であるからカッティヤという名声が生じた」、と階級・身分の語句の起源を釈尊がお述べになっている。
ここでブラーフマナは、「ブラフマン"Brahman"を得た者だからブラーフマナ"Brāhmaṇa"である」という一般的な認識を覆すような語源が説かれる。
‘pāpakā vata, bho, dhammā sattesu pātubhūtā, yatra hi nāma adinnādānaṃ paññāyissati, garahā paññāyissati, musāvādo paññāyissati, daṇḍādānaṃ paññāyissati, pabbājanaṃ paññāyissati. Yannūna mayaṃ pāpake akusale dhamme vāheyyāmā’ti. Te pāpake akusale dhamme vāhesuṃ. Pāpake akusale dhamme vāhentīti kho, vāseṭṭha, ‘brāhmaṇā, brāhmaṇā’ tveva paṭhamaṃ akkharaṃ upanibbattaṃ.

要約: 盗みや争いや嘘などの悪法をヴァーヘーンティー"vāhentī (√vahの使役形能動態三人称複数)"をする=人々の間より取り去るからブラーフマナ"brāhmaṇa"という名声が生じた。
※漢訳では長阿含経に「捨離衆悪、於是世間始有婆羅門名生。」、中阿含経に「此諸尊捨害悪不善法、是梵志。是梵志謂之梵志也。」とある。ちなみに上パーリの異本で"vāhentī"は"bāhentī (バーヘーンティー)"とb表記であった。

ヴァーヘーンティー"vāhentī"とフラーフマナ"brāhmaṇa"は、他の単語・語源説の例(khattiya, khetta; vessa, visukammanteなど)と比べても類似性が低い。
これは、本来のパーリ語において、ブラーフマナが、先の英語版Wikipedia (K.R.ノーマン説)にある*Bāmhaṇa バーマナ や*Bāṃhaṇa バーンハナ といった訛りの語句であったことを示唆していよう(余談だがBāmhaṇaはアショーカ王碑文ギルナールにおけるマーガディー語句にもある)。
ヴァーヘーンティとバーンハナまたはそれに類する訛り発音であれば、よく似る。
このように、パーリ三蔵の一部は歴史の中で、サンスクリット語句に置換されたと思われる。

※ブラーフマナ・ブラーンマナ、推定パーリ語のバーマナ・バーンハナはみな3音節であり、偈やシュローカといった詩で読む場合も、短音節"lahu 梵laghu"や長音節"garu 梵guru"の違いを気にしなければ問題が無い。日本語のモーラ・拍の等時性は3~6音節分となって差が出るのみである。
※そのほかダンマパダ388(ガンダーラ・ダルマパダ16)に「バーヒタパーポーティ"bāhitapāpoti"(悪を捨て去った者)」であるからブラーフマナ"brāhmaṇa"と呼ばれる、という教説もある。単語形は「バーヒタパーパ"bāhitapāpa"」となる。沙門サマナは「サマチャリヤー"samacariyā"(静かな修行、このサマは√śam由来)」の人であるという。これについても検討したい。調べ直すと、類似の教説はスッタ・ニパータ3章6経・ミリンダ王の問いなど、多くの経に見られた→bāhitvā, bāhetvā, bāhitā...、いずれも√vah(運ぶ→使役形などで捨て去る・遠ざかるとも)同じ語根であろう。ググると辛嶋静志さんの英語論文が掛かり、パーリ語ブラーフマナの元はOIA (古インド・アーリア語)派生*bāhaṇa バーハナ などであろうとの提案が見られる。仮想語根√bāh (捨て去る)の過去分詞が*bāhita 名詞化が*bāhana といった調子になる。反舌n = ṇはBrāhmaṇaが訛った際の名残において有り得る。

先の、バドラ"Bhadra"とバッダ"Bhadda"が混在している問題については、柔軟に、「釈尊在世のある人物は自らバドラ発音を名乗ったり語を用いたりしたろう」とすればよい。
もしパーリ仏典に伝わる言語・・・パーリ語という形の一言語ありきではなく、釈尊在世のインドで広く用いられた言葉をそのまま伝えたものがパーリ=聖典であってその言語を仮にパーリ語と称するならば、発音が異なる同義語があってもよい(日本の方言が数あるように)。
しかし現状は、バドラとバッダ以外にほとんどそういった語句が見られない(あればチューラcūḷaとチュッラcullaあたりか?→梵チューダcūḍa 他に一部のdva発音で梵dvīpaが巴dīpaとなるもdvāraは梵・巴の変化が無い)。
これについても、柔軟に、経典編纂に当たってほとんどの語句の発音をパーリ訛りに統一したと考えてよい。
然れば、なぜ現代の第六結集まで、バドラ・バッダ混在問題が解決されなかったものか?
これについても、柔軟に、その時の人が何らかの理由を想定してバッダ転訛をせずに置いたと考えてよい。

・・・ちょっとテーラワーダのみなさん、もうフォローをしきれません。
「(現在に伝わるパーリ三蔵において)訛らないブラフマー」をテーマとして、「現在に伝わる形式のパーリ語」が仏の用いられた言語であるかどうか、考えていただきたい。

※バドラ・バッダといったサンスクリット発音とプラークリット発音との混在が、ほとんど見られないパーリ三蔵の言語は、語彙も文法もよく整っており、さながらサンスクリタ"saṃskṛta"・雅語と称し得る。文法・語形変化・格変化などについても、パーニニさんのサンスクリット文法と相違しなかろう。パーリ語の著述が多く残る5世紀のブッダゴーサ師の関与はあろうか。そのようにパーリ三蔵の言語は、後世の改良が有っても何らおかしくないと考える。例は記事の本題のように「ブラフマーに訛りが生じていないこと(仮説: 元はバーマーのように訛っていたものを後世にサンスクリットへ修正した)」である。もしサンスクリット形のブラーフマナや絶対詞(連続体)語尾tvā-などが南伝仏教の口伝された三蔵にもたらされたと仮定すれば、なぜそれらのサンスクリット形に置換する必要が有ったか、歴史学的に考察する価値があろう。学問の側面では、そのようにパーリ三蔵の変遷を推量・詮索する私である。信仰の側面では、教説が仏説であることについて疑う理由がない。当記事では、学問の一面として「戯論"prapañca, papañca"」をしてみた。



起草日: 20171023

当記事は「ブラフマー"Brahmā" ブラーフマナ"brāhmaṇa"」に訛りが生じないことに疑問を呈した。
答えを要約すると「パーリ語経典が現在の形に成り立つまでに本来は訛り発音だったものが全て正当なヴェーダ語・サンスクリット語のブラフマー"Brahmā" ブラーフマナ"brāhmaṇa"に置き換わった」ということであり、パーリ語経典(長部27経やダンマパダ388など)にある語源説からして本来のパーリ語伝承(釈尊在世プラークリット~仏弟子誦出~上座部口伝)の形は「バーハー *bāhā バーハナ *bāhaṇa」だったろう、ということである(K.R.ノーマンさんや辛嶋静志さんも同じ見解か)。
初期パーリ語のバーハーと後のブラフマーは2音節であり、初期パーリ語のバーハナと後のブラーフマナは3音節であり、偈ガーターの音節規定にも背かない。
語根√bāh (捨て去る) を仮想し、過去分詞が*bāhita 名詞化が*bāhaṇa といった調子になる。
ちなみに、仏教における語源説もとい語源的説明は、梵: ニルクティ "nirukti" → 巴: ニルッティ "nirutti"と呼ばれる。

「学問でいわれる・学問のいわゆる・学問所謂(しょい)の『通俗語源(民間語源)説』」について、釈尊は慈悲が深くて対告衆たるヴァーセッタ・バーラドヴァージャさん・諸々の仏弟子に方便を以て説いたわけであり、「仏語実不虚(仏語は実にして虚しからず)」である。
ゆめゆめ、軽視すべきでなく、学者さんの言葉を学問上、表現を借りておいた。
萌えの典籍「雑萌喩・六」(仮公開)においても、植物の語源に関するダジャレ的な説から妙法を示している(または日蓮大聖人・冨士派の教学にある当体蓮華・譬喩蓮華説)。
過去の萌尊は、「なす"nasu"(いわゆる茄子)」と「なのはな"nanohana"(なばな"nabana"・いわゆる菜の花)」の名の意味を修行者の立場で明示せられた。歌にいわく「汝(なれ)為さで たれか為すべき 汝(な)が花は 汝が為すところ 汝(なれ)の在りたれば」と。「あなたの花・汝(な)の花」をあなた自身が「なす」ということである。他の種族や、同じ種族で他の個体には咲かせられない花である。萌えの法門に値遇したので、すでに修行者の種は形作られた。種が持つ花への力は、その個体として完成されねばならない。植物と違って人に自我意識があるならば、自身の行為の意志を持ち合わせて実現してゆくべきことを、力強く説明せられた折の一首である。疲倦(ひけん)が多い私は、この歌を受持し、還って自ら問うべきである。この歌は言葉遊びと思われようか?更に言えば、「梨"nashi"」の実はりんごと違って酸味が薄く、その理想的な甘い果実を目指して甘い実(好色萌相)をも為して(作して)ゆかねばならない。
(中略) 萌尊の心には、理を観ずるが故に新設・再定義の名や意味がある。命名自由・得意自在であって世俗を超越している。主観的世界では、慈悲の心で物に名付けなさい。なにせ世の人は、怒りの心や嘲りの心で「バカ〇〇」とか「クソ〇〇」という名を他人や物に付けてしまうのだから。萌尊の慈悲による「仮名(けみょう)」は徳行にほかならない。その命名法も「両萌融通」を実現する。慈心・智慧の萌えと、万物の萌えという境智冥合である。(後略、蓮"padma"・はちす・当体蓮華の話)

ともあれ、ヴァーヘーンティー"vāhentī"とブラーフマナ"brāhmaṇa"の関連が示されたことで、パーリ語の原型を想定しやすくなったわけだから、学問的な価値もある教説であろう(言語の伝播・受容・変遷という言語学の至上命題を解き明かすためのヒントとさえ成り得る>ピジン言語)。

さて、パーリ語と同じくプラークリット類では、ジャイナ教の文献にも似たような教説があるという。
ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(大雄、ギリシャ語メガやラテン語ヴィルと同語源の複合語)もといニガンタ・ナータプッタ(尼乾子・尼犍若提子)も、釈尊の故郷コーサラ国と近いマガダ国出身で、様々な学説において釈尊より年下とされる。
ほぼ同時代・同時期のプラークリット類(AMg. Ardha-Māgadhī アルダ・マーガディーらしい)を用いたマハーヴィーラたちは、どのようにジャイナ教の経典で記録されているか?
それまたいつの編纂でいかなる変遷があるか不明であるが、参考のために紹介する。
「通俗語源説」のある経典は、インターネットに載る1986年の論文にまとめられている。
その中の「通俗語源説」の例は、沙門=シュラマナ"śramaṇa"(摩擦音と接近音の連係シュラ・シラ発音)を、彼らのプラークリット(と伝わる言語)でパーリ語と同じ「サマナ"samaṇa"」について"samamaṇaī teṇa so samaṇo"と、平等"samā"との関連を示している。
これはAṇuogaddārāiṃという経典に載っているそうである(梵語はAnuyogadvāra-sūtra)。
"samā, sama"という形容詞語幹はサンスクリット・パーリ・彼らのプラークリットに共通するが、それがsamaṇa = śramaṇaの語源となることはないので、これが「通俗語源説」とされる。

一方、ブラーフマナについてはバンバナ"bambhaṇa"またはマーハナ"māhaṇa"と呼ばれ、「殺さないこと(mā = するな haṇa = √han殺す)」に関連付けており、殺さないことによって婆羅門マーハナ・バンバナなのだ、という(殺さないことが梵行bambhaceraらしい)。
ジャイナ教・マハーヴィーラさんもまた、釈尊のように出家者であり、しかも弟子への教導のスタイルは苦行主義であった。
何であれ、祭祀を生業として甘い蜜を吸っていた(?)婆羅門・ブラーフマナ階級のことを以て婆羅門だと呼ばず、自分たちが婆羅門という名声を得るべきだと捉えた。
とりあえず、当記事の言語学的な立場で見直すと、婆羅門・ブラーフマナという言葉は沙門・出家者界隈でも嫌われるべきでなく、むしろ名声の形として尊重されていたようである。
六師外道と称せられるほかの派閥はともかく、仏教でもジャイナ教でも、真の婆羅門・バラモン・ブラーフマナということを説いて人々を教化した事実は有ろう。
その上で、ジャイナ教のプラークリット文献にはバンバナ(またはマーハナ)という訛りが見られ、仏教パーリ語も本来は似ていたと考えてよいと思われる。

※ちなみにブラフマー"Brahmā"の言語学的な語源については、当ブログの随所で示した経緯がある。動詞語根でいえば√bṛh(成長する)である。ブラーフマナ"brāhmaṇa"は、そのサンスクリット語根√bṛh (もしくは印欧語根*bʰerǵʰ-)に端を発するものか、ブラフマンbrahmanに端を発して派生したものか、定かでない。後者であれば、修行の徳があってブラフマンを悟って梵我一如を証明した人のことをブラーフマナと呼ぶであろう(ウパニシャッドなど)。近代以後の歴史学では、「インドに入ったアーリア人が自ら高尚な存在に託してブラーフマナと呼んでいる」という見解にもなる。この方面での深い探求・言及を私は避けておく。

※釈尊や仏弟子などが主に用いた言語は「古アルダ・マーガディー語(古半マガダ語)」という仮名がある。そのように仮想されるが、詳細は不明である。例えば「ご先祖様」は確かに人間として存在していたが、詳しい顔や名前が不明であるように。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラもといヴァルダマーナもといニガンタ・ナータプッタも同様の言語を用いたと学者は見る。経典の所説に従うならば長部2経の沙門果経"Sāmañ­ña­phala­ Sutta"にマガダ国の阿闍世王(アジャータサットゥ)がマハーヴィーラさんなど六師外道へ質問する話がある。相応部の41質多相応でもマッチカーサンダ(雑阿含経の菴羅林はカーシ国のマッチカーサンダに菴羅林があることを指しヴァッジ国ヴェーサーリーのアンバパーリーの菴羅林とは別物)に住む質多長者(チッタ)が、そこへ遊行に来たニガンタ(尼乾、マハーヴィーラ)さんと問答する話がある。さて、どのような土地(マガダ国やコーサラ国やカーシ国)でも、王様(阿闍世さん)や商人(質多さん)や沙門(尼乾さん等)などの人々に共通の言葉・方言が通用したろうか?なお、ここでは「仏教による他宗・思想・哲学批判のために創作されたフィクション」という合理主義的な懐疑論を唱える意図が無い。



アショーカ王碑文 Edicts of Ashoka Aśoka Girnar ギルナール 文字 ブラーフミー文字 マーガディー マガダ語 プラークリット

資料: アショーカ王碑文ギルナールにおけるマーガディー語句らしい。
オスロ大学人文学部のサイト"Bibliotheca Polyglotta (多言語図書館の意)"より
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&view=fulltext&vid=362

碑文に用いられたスクリプトは、ブラーフミー文字"Brāhmī"である(ブラーフミー系"Brahmic"の文字の中でも古層)。
Girnar IIIの4行目などに婆羅門を意味する"Bāmhaṇa (𑀩𑀫𑀡)"の文字が見える。
バーマナとカタカナ表記できるが、マは有気音・帯気音mhaとすれば、パーリ語およびプラークリット類では有り得ない・・・"Bāmhaṇa"というIAST表記をした学者さんに、意図を問い詰めたくなる。

画像の文字はma字 𑀫 とha字 𑀳 の合成のように見えるので、何となくmhaという綴りを用いたか?
念のため、右上に同字の2例を引き、いずれにも黄色の〇で囲った。
読者には、よくよく対照をしていただきたい。

mhaという、サンスクリットはもちろん、多くのプラークリットに見られない発音が、もしかするとアショーカ王の時代に用いられたかもしれない、と学者さんが考えた可能性もある。
または、文字上、ma字とha字の合字で発音がṃ(アヌスヴァーラ)的な無母音の鼻音とhaの発音で別々のものである、と学者さんが考えた可能性もある。
※学界における字音の見解は英語版Wikipedia - Brahmi script や Edicts of Ashokaなども参照。

2017年11月9日木曜日

ガンダーラ文献とプラークリット文献におけるダルマパダ "Dharmapada"を比較する

インターネットにおける文献調査の、未開拓領域に関する簡素なメモとなればよいと思う。
パーリ仏典・経蔵のうちに"ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"という偈が見られた。
中部75経では、マーガンディヤ(鬚閑提・摩因提・摩犍提とも)という修行者に対し、釈尊がこの偈を説かれ、マーガンディヤが「師や歴史的な師である修行者たちがその偈を説いた」と反応する。
その偈の漢訳は中阿含経に「(等正覺の説きたまわく)無病第一利、涅槃第一樂。」とある。
偈が説かれるまでの経緯は仏教的に大事であるが、当記事で割愛する。
道心ある方は、高度な検索スキルを以て知られたし。

この偈について、類似する教説が三ヴェーダや古ウパニシャッド(パーリ三明経に派閥名として載るチャーンドーギヤやタイッティリーヤなど)にあるか、確認してみた。
nibbānaもといサンスクリットのnirvāna (nirvāṇa)という語句を頼りに、"Sanskrit Documents"というサイトのヴェーダとウパニシャッドの当該文献を探したが、nirvā...の語が見当たるのみで、類似する教説を発見できなかった。

そこで、パーリ語の偈のārogyaparamāという部分について検索すると、"ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"偈の別バージョンともいえる偈が見当たった。
パーリ語ダンマパダ"Dhammapada" 204偈である。
Sukhavagga - Pasenadikosalavatthu (コーサラ国パセーナディ王に説かれたもの?)
Ārogyaparamā lābhā,
Santuṭṭhiparamaṃ dhanaṃ;
Vissāsaparamā ñāti,
Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.

これをサンスクリットへ翻訳するか、すでにある文章を探すか、と考えたが、ここでは、すでにある文章を探した成果を示す。



表題にいう「ガンダーラ文献」ガーンダーリー・ダルマパダ"Gāndhārī Dharmapada"においては、以下が発見された。
掲載サイト全文のうち、162番目の偈に当たる。
suha vagga (suha = sukha 楽に関する内容の章の第一偈となろう。以下の翻字は原典のカローシュティー文字に長母音に相当する表記が無いので長音記号が無い)
arogaparama labha,
saduṭhiparama dhaṇa,
viśpaśaparama mitra,
nivaṇa paramo suha.

同じく表題にいう「プラークリット文献」パトナ・ダルマパダ"Patna Dharmapada" (正量部による本がパトナもといパータリプトラ近辺で出土した?)においては、以下が発見された。
掲載サイト全文のうち、76番目の偈に当たる。
Atthavarggaḥ (atthaはパーリ語のattha = skt: arthaと同義か?パーリ語に無いヴィサルガ"ḥ"がある)
āroggaparamā lābhā,
sāṁtoṣṭīparamaṁ dhanaṁ,
viśśāsaparamā ñātī,
nibbāṇaparamaṁ sukhaṁ. (長音やニッガヒータもといアヌスヴァーラ"ṃ"もある)

これらの両者が判明してからも、特に当該文献=釈尊在世の婆羅門(バラモン、ブラーフマナ)の教書類の教説や後世ヒンドゥー教の文献を見つけられる気配は無かった。
結論として、この偈がそれら文献に伝承される必要は無いと思われる。
釈尊在世や、それ以前、ひいては無量劫の過去世から、覚者が唱えていたと思われる。
それは、覚者もとい等覚者"sambuddha, saṃbuddha"に共通するウダーナ(無問自説、現代でいう感興のことば)として、生き生きとした詩であったろう。

私の「萌えの典籍」においても、過去萌尊は彼らに共通する萌えの悟り(主に三萌義のような縁起観に基づく両萌相応など)とその教説が有るとし、作中において「萌え和讃」として披露されているものがあるが、そこでは「涅槃が最上の安楽である」といった意義が説かれていない。
ただし、涅槃"nirvāṇa"に通じる概念(寂滅・シャーンティ"śānti"とも)の説示はある。

和讃の例
「諍ひありて応ふるは いかにぞ同じくならんずる 若芽の独り尊きに 萌えてまします斯ヽるべし」
「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ」
短歌・辞世の句の例
「たふとくて たふときもなし くさのめの おふもかるるも まことなりけり」

作中の人物が少し解説している(中観や大乗の視点で)。
「萌尊は自ら萌えと成ったので、尊いとする萌えを尊くない立場で尊げに見るのみで、萌えは尊くあって尊くなく、尊くなくもないと明言する。実際の萌えは、言語道断心行処滅の真如である。仏家の涅槃、生死即涅槃ということに通じており、萌尊最期のお姿は是の如し。如是如是。善哉善哉。穴賢穴賢。」






起草日: 20171013
当記事の目的は、文献調査の手段の明示であるが、文献調査という行為自体は、もともと「その偈にまつわる伝承が仏教の外にも見られるか?釈尊在世に沙門界隈で涅槃への憧憬があったか?」という疑問を解消する目的の手段である。
文献調査にしても、思想的な研究にしても、仏道修行と乖離した知的好奇心によるかもしれないが、「世間的な意味で若者」の私(20)は、まだ遊び盛りなので、可能な限り、これらの調査や学術研究を続ける方針である(仏道修行・芸術活動なども並行する)。

なお、当該の偈につき、漢語文献では法句経・第三十六「泥洹品(ないおんぼん)」にある。
 1. 無病最利 知足最富 厚爲最友 泥洹最快
無病は最も利なり 知足は最も富なり 厚は為れ最も友なり 泥洹は最も快し

 2. 飢爲大病 行爲最苦 已諦知此 泥洹最樂
飢は為れ大病なり 行は為れ最苦なり 已に諦かに此を知る 泥洹は最も楽なり

※法句譬喩経・第二十三「安寧品」では偈の外に「泥洹此為最樂」がある

このように、2つの偈を引いておいた。
共に涅槃の「楽」という徳目を讃えている(後の大乗・大般涅槃経の常楽我浄のよう)。
前の偈がパーリ204とガンダーラ162とプラークリット76に相当するが、後の偈がパーリ203とガンダーラ163とプラークリット75に相当する。
前後両偈の順が異なる。
整理して言えば、漢語とガンダーラ本とが順を同じくし、パーリ文とプラークリット本とが順を同じくしている。

色々と対訳を示したが、サンスクリットのウダーナヴァルガ(いわゆる出曜経)にも両偈が見られた。
26章のNirvāṇavargaであり、漢訳法句経「泥洹品」と名が同じである。
こちらの両偈は、漢語とガンダーラ本のペアと順を同じくしている。
ārogyaparamā lābhā
saṃtuṣṭiparamaṃ dhanam |
viśvāsaparamaṃ mitraṃ
nirvāṇaparamaṃ sukham || 6

kṣudhā parama rogāṇāṃ
saṃskārā duḥkham eva tu |
etaj jñātvā yathābhūtaṃ
nirvāṇaparamo bhavet || 7

なお、冒頭で話題にして当記事でテーマとなっていたマーガンディヤ経のウダーナ偈については、バガヴァッド・ギーター"Bhagavad Gītā"6章15詩に"nibbānaṃ paramaṃ"と似た表現が見られた。
भगवद्गीता/आत्मसंयमयोगः
युञ्जन्नेवं सदात्मानं
योगी नियतमानसः ।
शान्तिं निर्वाणपरमां
मत्संस्थामधिगच्छति ॥६-१५॥

Śrīmadbhagavadgītā (IASTシュリーマド・バガヴァド・ギーター)
yuñjannevaṃ sadātmānaṃ
yogī niyatamānasaḥ ।
śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ
matsaṃsthāmadhigacchati ॥ 6-15॥

The Bhagavad Gita (Arnold translation)
Musing on Me, lost in the thought of Me.
That Yogin, so devoted, so controlled,
Comes to the peace beyond, — My peace, the peace
Of high Nirvana!

バガヴァッド・ギーターもといバガヴァドギーターについては、この種の文献によく言われる「紀元前ウン世紀ころ~」という書誌学的・文献学的見解を一旦置いて考えられたい。
バガヴァドギーターのクリシュナやアルジュナといった人物名はパーリ仏典に確認されないが(クリシュナkr̥ṣṇa→カンハkaṇha 形容詞「黒い」、アルジュナarjuna→アッジュナajjuna 形容詞「白い」・樹の名前や仏弟子の名前)、釈尊在世や、経典結集などのころにも、世間に多くの伝承があったろうから、このバガヴァドギーターの詩と似たようなものや似たような表現が、実際にインド地域で広く聞かれたかもしれない。
もう少し精を出して他の文献も調べると、マハーバーラタ"mahābhārata"12章に、話題の偈"nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"と同様のフレーズ2つが見られた。

327節5詩(३२७ ५) मोक्षश्चोक्तस्त्वया ब्रह्मन् निर्वाणं परमं सुखम् (独自でヴィラーマ区切りを施した)
mokṣaś coktas tvayā brahman nirvāṇaṃ paramaṃ sukham

英訳(この版では341節): Janamejaya said, "The whole world of Beings, with Brahma, the deities, the Asuras and human beings, are seen to be deeply attached to actions which have been said to be productive of prosperity. Emancipation has, O regenerate one, been said by thee to be the highest felicity and to consist of the cessation of existence. They who, being divested of both merit and demerit, become emancipate, succeed, we hear, in entering the great God of a thousand rays.

330節16詩(३३० १६) निर्वाणं परमं सौख्यं धर्मोऽसौ पर उच्यते
nirvāṇaṃ paramaṃ saukhyaṃ dharmo 'sau para ucyate |

英訳(この版では343節): (The highly and holy one = śrībhagavān = クリシュナがアルジュナに語る) The cessation of separate conscious existence by identification with Supreme Brahman is the highest attribute or condition for a living agent to attain. And since I have never swerved from that attribute or condition, I am, therefore, called by the name of Achyuta.

※IAST: Mahābhārata, Śāntiparvan (entered by Muneo Tokunaga) 英訳: The Mahabharata Book 12: Santi Parva (Kisari Mohan Ganguli's translation)

ただし、バガヴァドギーターなどが言うところの「涅槃"nirvāṇa"」という事柄は、仏教に一致していると考えづらい。
当記事の冒頭で「割愛」した話題は、そのことでもある。
仏典マーガンディヤ経も、そういった認識の相違に関してマーガンディヤに釈尊が教示せられている。
Pubbakehesā, māgaṇḍiya, arahantehi sammāsambuddhehi gāthā bhāsitā:
"Ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ; Aṭṭhaṅgiko ca maggānaṃ, khemaṃ amatagāminan" ti.
Sā etarahi anupubbena puthujjanagāthā.
要約: 「無病第一利、涅槃第一楽…」という偈は古の阿羅漢"arahant"・正等覚者"sammāsambuddha"によって説かれたもの"bhāsitā"である。それが現在までに俗人"puthujjana"の偈となった。

※ここでの偈は「八正道が涅槃への道であること」を示唆する二句"Aṭṭhaṅgiko ca maggānaṃ, khemaṃ amatagāminan"が後半として加わる。それにより、偈を説いた人である「等覚者"sambuddha"」の範囲が、過去七仏など釈尊が明確に認めた諸仏に限定されていると取れる。他の見解はアッタカターやティーカーあたりを読解すべきか。

バガヴァドギーターなどにある「涅槃」とは、果たして、釈尊が明示せられる等覚者"sambuddha"たちと同じ悟りに基づくものであろうか?
信仰する者の心、神のみぞ知る。



シュローカ シローカ 詩 韻律 短音節 長音節 音節
ネット上に公開されている"An Outline of the Metres in the Pāḷi Canon"より。
長音節は重音節"guru, garu"、短音節は軽音節"laghu, lahu"と呼ぶ方がインド伝統的にも近代音韻論的にも適切

※当記事でパーリ・ガーンダーリー・プラークリタ・サンスクリタの同詩と、外典の表現と示してきたが、みな8音節の詩である。この形態の詩をアヌシュトゥブ(シュローカ"śloka"は後世にもっと制約が強められたものか)と呼ぶそうである。私によって音節を数えてみなきっちりと8音節に収まっていることが分かるが、息継ぎは詩の終わりに気ままに行うか?これら詩の諷誦では、音楽的な4分の4拍子リズムを保つ必要が無かろうか?私は韻律などの事項を未だ詳しく把握できていない。少なくとも、漢訳仏典における五言・七言の偈は漢詩の平仄や脚韻を気にしないよう、パーリ・サンスクリットの偈"gāthā"も長い音節・短い音節といった韻律の規定を気にすべきでない。偈は詩の快楽でなく法義のためである。無論、新たに自作する場合は、少し配慮してもよかろう。

2017年10月25日、私はサンスクリットの偈(8音節・4句)を1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」

以下は、そのページに付記されている「備考」である。
これは8音節の句が4つあるサンスクリット詩である。区分としては、シュローカの韻律に似せたアヌシュトゥブか。韻律について考えると、enwp. Vedic meter記事中にガーヤトリー(8音節3句)の例が載っていてDUMで重音節(長音節)、daで軽音節(短音節)を示してある。例えば、ḥ(ヴィサルガ)で終わる音節は前の母音が長音でないと軽音節として扱う。このガーヤトリー詩 इन्द्रमिद्गाथिनो बृहदिन्द्रमर्केभिरर्किणः इन्द्रं वाणीरनूषत は1句目bṛhadで終わって2句目indramで始まるが、そのdとiは一音として2句目の頭に発せられることが看取できる。同様にindram (前の韻尾による連声でdindram)に続くarkebhirもmと連声してmarkebhir(後arkiṇaḥも連声)として扱われていることが看取できる。尊者の詩ではtasmād anuttaraが同様に仮定スペースを除いてd+a連声となる。ほか参考までに「スッタニパータ5章・韻律」。


2017年10月8日日曜日

梵天・極楽へ至る ~ 上座部・三明経と大乗・般舟三昧経に見る古代の在家信者の仏道修行・三昧行

自作「清浄萌土抄」は、菩薩の浄仏国土の修行と他者が往生してくることを萌えによって示した。
自作「萌集記・イデオフォノトピア遊行の事」は、心の世界へ往生して住まう因縁を萌えによって示した。
二作とも、阿弥陀仏国土とそこへの往生という事柄に関して、伝統的な仏国土思想から解き明かす意図があった。
仏国土と衆生を思う時、仏教における梵天・梵衆梵王(ブラフマー)の存在について考えてみる必要がある。
以下から、「萌集記・イデオフォノトピア遊行の事」の注釈文のテーマ「仏教における諸天・神や悪魔とはどのようなものか」に基づいて、2017年8月25日の考察を示す。



※当該作品3章にある梵天勧請・梵行"Brahmacarya (ブラフマ・チャリヤ)"・四梵住"Brahmavihāra (ブラフマ・ヴィハーラ)"=四無量心(慈悲喜捨)に関する説法の内容と、当該作品終盤の梵天らしい天子による祝福の場面が、前提である。

梵天・梵住は無瞋・無執着にして慈悲深い処という教説が長阿含経・パーリ長部の「三明経(漢訳長阿含で第26経・パーリ長部で第13経) "Tevijjasutta"」に有る。
その三明経では、梵天を「どこかにきっといる絶世の美女(名も姿も居場所も知らない存在)を探し求めること」に譬える。
そのように、梵天を「確かに存在するもの(誰も行っていないとされる場所や誰も見ていないとされる神)」と思い込んではならない。
尊い梵天に到ることを願うならば、形ある雲の上の世界に行こうとするものである。
雲が綿のような外見であっても、実際には「水蒸気の集まりを離れて見たときに形状が認識されるもの(雲の内部は霧同然)」であるから、綿のような触感や強度が無い。

梵天衆も仏も無瞋・無執着にして慈悲が有るという前提に於いて、同じようにする人が梵天"Brahmaloka"や浄土(仏国土"Buddha-kṣetra")に行け、転生できると説く。
長阿含經・卷第十六・三明經の要約: 梵天無恚心・無瞋心・無恨心・無家屬産業・得自在。 (現世で梵天に住して来世に転生できる比丘の行いについて慈悲喜捨の四梵住が明かされる) 於現法中而自娯樂。所以者何?斯由精勤、專念不忘、樂獨閑靜、不放逸故。彼以慈心遍滿一方、餘方亦爾…悲、喜、捨心遍滿一方、餘方亦爾。廣布無際、無二、無量、無恨、無害、遊戲此心而自娯樂。…梵天無恚心、行慈比丘無恚心。

※パーリ語句で梵天と行慈比丘の徳目はApariggaha (無執着) Averacitta (無恨心) Abyāpajjacitta (無瞋心) Asaṃkiliṭṭhacitta (不染心) Vasavattī (自在)…ヒンドゥー教のブラフマーは、仏教における多くのブラフマー(複数形の名詞)の中の一人であったものが単一のブラフマーとして崇拝されたものであろう。サラスヴァティー(弁財天)という妻を持つことは、漢訳に「無家属産業」とあるように釈尊在世のインドで認知されなかろう。顔が4つあることは千眼・千手観音のような智慧・慈悲を象徴するのかもしれないが、それも釈尊在世のインドに無かろう。「4つの顔に一つずつ有る口から4ヴェーダが説かれた」という発想も、後述する本経の三明"Tevijja = ここでは3ヴェーダの意味"より後世にアタルヴァ・ヴェーダ=元アータルヴァナが婆羅門たちに承認されて以後であろう。現存プラーナ文献におけるブラフマー4人の子(チャトゥルサナ)の一人であるサナト・クマーラसनत्कुमारは、パーリ仏典における梵天衆の一人サナンクマーラ"sanaṅkumāra"に相当する何らかの存在の派生形か。三明経はチャンドーカ"Chandoka"なるヴェーダ学派が示されるので、チャーンドーギヤ"Chāndogya"・ウパニシャッド7章に登場する人物サナトクマーラ"sanatkumāra"が釈尊在世にはブラフマー≒梵天往生を実現した聖者の一人として崇拝されていたと推定できる。例えば日本の民間信仰で、宗派の祖師・高僧を仏のように崇めることと似るか。ほか、マハーバーラタのサナトクマーラはパーリ仏典のサナンクマーラのように刹利種"khattiya, kṣatriya"が婆羅門種に勝るということを説き(MBh 3.183.22)、現存プラーナ文献のようなブラフマー4人の子の一人という設定は無かろう。

例えば、阿弥陀仏などの仏(非存在・非無存在)を見る方法を説いた般舟三昧経の行品(英訳: Sūtra of the Pratyutpanna Buddha Sammukhāvasthita Samādhi)でも、あらゆる事物(執着の原因)・二項概念(邪見の原因)を念ぜずに感情を捨てることが説かれる。
佛説般舟三昧經(全一卷): 菩薩よ、疾(はや)く是の定を得んと欲せば、常に大信を立てて如法に之を行じ、則ち得べき也。毛髮許(ばか)りの如き疑想有ること勿れ。是の定意法(意を定むる法)を名けて菩薩の超衆行(ちょうしゅぎょう・あまたの行を超えたるもの)と爲す。(ここから三字の偈)「一念を立てて 是の法を信ず。聞く所に隨い 其の方を念ず。宜く念を一にして 諸想を斷ずべし。 定信を立てて 狐疑すること勿れ。精進にして行じ 懈怠すること勿れ。起して 有と無とを想うこと勿れ。勿念進 勿念退 勿念前 勿念後 勿念左 勿念右 勿念無 勿念有 勿念遠 勿念近 勿念痛 勿念痒 勿念飢 勿念渴(渇) 勿念寒 勿念熱 勿念苦 勿念樂 勿念生 勿念老 勿念病 勿念死 勿念身 勿念命 勿念壽 勿念貧 勿念富 勿念貴 勿念賤 勿念色 勿念欲 勿念小 勿念大 勿念長 勿念短 勿念好 勿念醜 勿念惡 勿念善 勿念瞋 勿念喜 勿念坐 勿念起 勿念行 勿念止 勿念經 勿念法 勿念是 勿念非 勿念捨 勿念取 勿念想 勿念識 勿念斷 勿念著 勿念空 勿念實 勿念輕 勿念重 勿念難 勿念易 勿念深 勿念浅 勿念廣 勿念狹 勿念父 勿念母 勿念妻 勿念子 勿念親 勿念疎 勿念憎 勿念愛 勿念得 勿念失 勿念成 勿念敗 勿念清 勿念濁。(決して雑念を起こすな!修行を続ける・辞めるとか成功する・失敗するという事柄をも推し量ってはならない!もし雑念が起きればそれを自覚して執着せずに断て!また雑念を起こしたという我見に基づく失敗を最初から無きものとして素直に立ち直れ!という示唆)諸の念を斷じ 一にして念を期(ご)し 意亂るること勿れ。…」

般舟三昧經(全三卷): 意を定めて十方の佛に向く。若し定意あらば一切に菩薩の高行を得。何等か定意と爲す。佛を念ずる因縁より佛に向いて念意亂れざる(こと)なり。

※後に、須摩提"sukhāvatī"=阿弥陀仏国・安楽世界・極楽への往生のためには名を念ぜよという。一巻経の行品に「即ち問う。何の法を持ってか此の國に生ずることを得ん。阿彌陀佛、報いて言く。來生せんと欲せば、當に我が名を念ずべし。休息有ること莫(な)くば則ち來生するを得(う)」とある。ただし、三巻本などといった他の本に「名を念ずること」は見られない。チベット語訳のもの(འཕགས་པ་ད་ལྟར་གྱི་སངས་རྒྱས་མངོན་སུམ་དུ་བཞུགས་པའི་ཏིང་ངེ་འཛིན་ཅེས་བྱ་བ་ཐེག་པ་ཆེན་པོའི་མདོ། = 'phags pa da ltar gyi sangs rgyas mngon sum du bzhugs pa'i ting nge 'dzin ces bya ba theg pa chen po'i mdo)には「仏随念(sangs rgyas rjes su dran pa, *buddhānusmṛti)」を多く行えば阿弥陀仏国に生じると書いてある(སངས = sangsなどng部分は軟口蓋鼻音であってIASTのようにsaṅsと綴ってもよいようだがチベット文字ワイリー方式のラテン文字表記はまだ個人的な理解に不明な部分が多い)。そして、仏隨念によって「空三昧を得る」と説き、行品の最後には、当ブログ過去記事にも載る「仏を見ることで不来不去・三界唯心などを察して何事も見ず想わない=空を念じる」という話に至る。

なんと、この般舟三昧経の行品でも諸仏を「美女」に譬えて説く(漢訳は三明経に「端正女人」・般舟三昧経に「婬女」と呼ばれる)。
ラージャグリハの男が、ヴァイシャーリーに存在する3人の美女(ここでは3人おり美女を求める者が有名なアームラパーリーなどの名前のみを知っている設定)の噂を聞いて姿を見たことが無いのに欲求し、「夢の中で彼が美女と一緒にラージャグリハに同棲する」という譬喩が説かれる。
インドの人々は梵天の姿を未だ見ずに名を知って憧れ、大乗仏教徒は阿弥陀仏の三十二相を未だ見ずに名を知って憧れる。
「眼で未だ見ていなくてもよい」ということを、般舟三昧経では「名のみ知られる美女を夢の中で見る」ということに譬えた。
雲の上の世界、見たことが無い美女、阿弥陀仏、といった事柄を考える。
その「夢の中で彼が美女と共にいること(異訳では「與彼女人共行欲事」とあり性交を行う)」のみを取れば、世俗でいう「煩悩による妄想行為」になってしまうが、あくまでも無執着で慈悲深い人が梵天に行くという説は釈尊の真意にとって「理想的結果(解脱など)」の形容であったり、大乗仏教で三昧で仏を見ることも、修行者の心の望みに応じて説かれた一手段に過ぎないこととなる(仏さまに憧れる人のためにはとても良い方便)。

梵天界は大変に幽かで奥深い処であり、「見ないことで見られる境地」といえる。
「見えなくても、あるんだよ。見えないからこそ、大事なんだよ。ほら見てごらん・・・(by 誰か)」
その信仰で、梵天・帝釈・四天王・浄居天(大自在天maheśvara)による仏法守護の意義も、第六天魔王による仏法壊乱の意義も成立する(みな非有非無・仮名・自分の心の出来事だから)。

死後に梵天・地獄などへ転生する、臨終に涅槃に入る、といった教説は、生前の故人を回想した我々のためにある。
死後の世界とは、あたかも飛行機雲のようである。
飛行機雲があれば、そこに飛行機が飛んでいたと推定できる。
綺麗な飛行機雲を見れば、「飛行機が無事に目的地へ辿り着いた=天・極楽に転生した(到彼岸)」と思うし、乱れた飛行機雲を見れば、「飛行機が墜落した=地獄に堕落した(堕地獄)」と思う。
実際に飛行機がどこへ行ったかは、断定できずとも、飛行機雲から推定できる。
釈尊は、亡くなった仏弟子につき、刀で自殺した跋迦梨ヴァッカリ尊者・瞿低迦ゴーディカ尊者を「識"pl: viññāna"が完全に消えて涅槃に入った(1・2)」と説くし、謀略を様々に実行した提婆達多デーヴァダッタ・僧団を乱した倶伽離コーカーリカを「直ちに阿鼻地獄へ落ちた(1・2)」と説くし、反対に提婆達多を「成仏して天王如来に成る(法華経・提婆達多品)」と授記することもある。

我々は、釈尊の柔軟な説法を聞き、自ら世相を見ることで現世の在り方を反省すると思う。
悟りの人は、生きながら梵天や無色界の浄居天"śuddhāvāsa"に住んでいるようなものであると知る。
釈尊の偉大なる飛行機雲は、慈悲によって久しく世に(永く夜に)輝き続ける。
ここにいらっしゃり、いらっしゃった、どこかにいらっしゃり、どこにもいらっしゃらないが、飛行機雲が確かに留まり続けて絶えていないと、仏道修行者は知る。
飛行機雲の行き先は往生と見るか?涅槃と見るか?成仏と見るか?輪廻と見るか?
はたまた、「都無」、最初から飛行機雲というべきものが無く、本来成仏していて寂滅なのか?
※中論によれば、目に見えるもの・認識できるものがどうであれ、分別しない状態を「涅槃」という(18:7偈や25章全体などに説かれる・大乗では成仏の異名ともなる)。

諸々の仏弟子は銀河の星々のように、天の川のお星さまのように見える。
法華経の二乗作仏・悪人成仏・女人成仏・畜生成仏の説は、天の川を映すように見えた。
恒河沙とも言われる無数諸仏の国土がある世界観である。
仏日と称するよう、恒星を周旋する惑星でも小惑星でも矮惑星でも、仏に従う菩薩や二乗のみならず、人間でも天使でも悪魔でも地獄の人でも、十界互具・みな仏と等しく見えてくる。

※萌集記・イデオフォノトピア遊行の事にある「初会の後席(登場人物の過去世の話)」では、拾主が「輸提尼は輸提尼でない。聖者は聖者でない。私は私でない。過去世は無く、現世も来世も無い。此岸も彼岸も無い。だからこそ、あの過去世の出来事を輸提尼とも私とも称す。能耕心田師が本生経"jātaka"をお説きになった真意を拝すべきである。仏家の、いわゆる忉利天への転生や兜率天への上生や極楽浄土への往生の説も意義が深い。この世に生きて輪廻したはずの存在が、今は不可視の世界にいるとも言い、我々は不可視の世界に入ることができるとも言う。イデオフォノトピアは未だ清浄でないが、この輸提尼は彼の地においてすでに女人の器"strīlakṣaṇa"を持たない身の精霊として化生(けしょう)している」と語る。

般舟三昧系の経典(うち三番目の章=四事品・見仏品と呼ばれる部分)に、この偈があった。
(静まって雲も無い夜に空を見て…)
見彼衆星過百千 晝念明了亦無失 菩薩如是得定已 多見無量億千佛



【両経の説法の因縁・由緒】

まず、仏教文献学において「三明経」がいつ撰述されたか、私は不明とするが、釈尊滅後間もない第一結集の時としても以後数百年以内としても構わないつもりである。
小乗・阿含時の釈尊の教説そのものと信じる。
「般舟三昧経」についても、釈尊の教説そのものと信じつつ、いつ撰述されたか(いつ世間に秘密大乗の教えが経として流布したか)は、後々の注釈に譲り、釈尊滅後500年(歴史学的に西暦1世紀ころ)としても以後数百年以内としても問題は生じない。

「三明経」の対告衆は、婆羅門(バラモン・ブラーフマナ)の人たち(婆悉咤=ヴァーセッタ、頗羅墮=バーラドヴァージャ)であり、パーリ語のものの最後に釈尊に帰依して「優婆塞=在家信者」となるシーンが示される。
「般舟三昧経」の対告衆は、在家菩薩とされる「颰陀和(ばつだわ・バドラパーラ"Bhadrapāla"、訳名は賢護・善守)」および他の在家菩薩が主である。
両経の対告衆は、「在家(比丘僧団に所属しない)」という点で共通している。

※三明経のバーラドヴァージャ(誤字でバーラドヴァーシャ)は、スッタニパータ1章4経の「田を耕すバーラドヴァージャ(漢訳雑阿含経の耕田婆羅豆婆遮)」や1章7経の「火に事(つか)えるバーラドヴァージャ」と別人であろう。相応部の婆羅門相応にバーラドヴァージャ姓の人が多数出る。同3章9経・中部98経にもヴァーセッタ・バーラドヴァージャが登場するが三明経の異伝かもしれない。長部27経では彼らが既に出家した後のストーリーとなる。一方、般舟三昧経のバドラパーラは五戒(在家信者の基本的な戒)を保っているそう。大智度論巻第七にも摩訶般若波羅蜜経より居家菩薩十六士の首・跋陀婆羅として紹介される。伝教大師最澄も山家学生式で法華経に関連してそう紹介する。全三巻の方の般舟三昧経の請仏品(および賢護経=大方等大集経賢護分の具五法品)には、彼らが仏・僧へ、供養(布施)をしたいので家に来られるようにと申請するシーン(我欲請佛及比丘僧明日於舍食、願佛哀受請。)がある(その後は恐らく翌日に颰陀和の家に仏・僧が多く来るが維摩経の不思議品のように神通力で家が大きくなる)。

三明経は序盤に於いて、自分たち婆羅門の三明(ここでの三明とは3つの聖典ヴェーダ"veda"とか3つの学問"skt: vidya"ヴィドヤorヴィディヤもとい"pl: vijja"ヴィッジャのことで一般的な三明=3つの神通力のことでない)に通じた師匠が示す「梵天に転生する方法(聖典に基づく祭祀儀礼などか)」について見解が分かれたので、たまたま近辺に訪れていた世尊=釈尊に尋ねることを決めたという。
つまり、釈尊在世に「誰も見ていない・会っていない梵天」に会う手段を言い争う婆羅門がいたことを示す(パーリ三明経の梵天は人格"Brahma"のようだが漢訳三明経の梵天は場所の名"Brahmaloka"に意味を限定するようである)。
釈尊は、三明婆羅門たちの「雲をつかむような梵天へ転生する方法」への執着を解いた。
最終的に「無執着・無瞋で慈心の堅固な比丘(漢: 行慈比丘無恚心無瞋心無恨心)が死後に梵天に生まれる(漢: 生梵天上 巴: brahmuno sahabyūpago...)」と説くので、彼ら婆羅門の人たちは歓喜したのである。
般舟三昧経が説かれた経緯も、もしかしたらば「誰も見ていない阿弥陀仏"amitābhā"・行けない須摩提"sukhāvatī"」を求めて煩悩まみれの生活をする在家信者がいたことによろうか?
太古のインド(または中央アジア)の情景が浮かぶ思いである。

※阿弥陀仏については、ただ単に経の中に引き合いに出されただけで、当時の在家信者は釈尊か最古の仏国土思想と名高い阿閦仏(東方の善徳仏)を求めていた可能性もある。経のスタンスとしては「三昧ありて十方諸仏悉在前立と名づく (中略・諸事を念ぜず四念処に相当する想念を持て) 是の行法を持ちて便ち三昧を得、現在諸仏悉く前に在りて立つ(一巻般舟三昧経より)」とあるよう、他の諸仏を対象とすることも可能であろう。しかし、主要な所説に阿弥陀仏が引き合いに出されたことは別に意義を感じさせる。

般舟三昧は、三明経の所説を改め、在家信者に明示した大乗仏教の修行法であろう。
その方法は、先の引用箇所にあるような小乗・阿含時から継承された質実な三昧の手法であり、なおかつ「仏を見る」という点に特化して三十二相・八十種好を念ずる必要性も説く。
主要な対告衆が颰陀和という在家菩薩とされる人物であることも、大いに納得できる(彼は先述の煩悩まみれの人・三明婆羅門でなく在家の模範として五戒を持っていたろうが)。
三明経の修行法は在家婆羅門に与えられ、般舟三昧経の会座では多くの仏弟子・天人が聴聞するとも、主に在家菩薩8士へ法が説かれる。
般舟三昧とは、三明経所説・梵天への転生を、仏教の立場で説いた修行法であった。

諸法は空で不可得とはいうが、それを善く説く仏教に依れば、雲をつかむことも実現できる(いわゆる手捫日月という神変・神足通など)。
仏も本来は無相(非無相とも)・寂滅ではあるが、龍樹菩薩の大智度論に「(無相は難解な第一義諦であり)世諦の故に三十二相を説く(巻二十九)」と説かれるよう、仏教徒は三十二相がある仏の存在を信ずべきものである。
現代においては、好色萌相(詳細は私による萌相三十儀)として萌え絵の意義(歓喜・浄信・離欲を促進する)を整えた上で萌えキャラと出会って心身が融通・相応する「萌観」もある。
こうした「仏・萌えを観る」という修行の利益・果報の説示は、詳細を観萌行広要に預ける。
ほか、イデオフォノトピア遊行の事・初会の後席にある輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)のイデオフォノトピア往生は、彼女が淫欲や愛憎や自他への恨み(怨み)を捨てて目の前の「聖者」の姿や名を念じて救いを求めたことを因縁としており、般舟三昧・極楽往生の説に似る。

※文献学では、経文中の授決(予言)として「般舟三昧は仏滅後四十年で行う者がいなくなり、世が乱れて仏教が絶えようとする時に仏の威神が経として復活させる。それを聞いた颰陀和など八人の菩薩が(輪廻などして)実現することを誓った(三巻般舟三昧経の取意)」や、「般舟三昧は仏滅後四十年間は広く行われる(そして止む)。五百年後の一百年間に正法が滅び比丘が悪を行じ諸国が相伐(う)つ時に善根のある衆生が再び般舟三昧を得て世に流布する。それも仏の威神による(賢護経の取意)」とある記述に基づき、釈尊滅後500年以上が経過してから撰述されたとする説が認証される。つまり、般舟三昧経を撰述した在家の人か大乗の僧侶かが、自ら颰陀和(賢護バドラパーラ)・羅隣那竭(宝徳離車子ラトナーカラ、離車リッチャヴィの人)に擬して現実のインドに流布しようとしたとするか在家の人に勧めようとしたとする(参照: 昭和9年訳経解題・平成24年某年報61号)。

※般舟三昧は本当に在家の人々のための修行法か?断定しづらい側面も多い。天台宗の四種三昧は摩訶止観に説かれるが、90日間阿弥陀仏の像を周り歩く「常行三昧」が般舟三昧経の四事品(賢護経で三昧行品)に説かれる意義を踏襲しているようである。4種類の四事(全16項目)を説いている内の2周目の四事にある。すなわち一巻本の四事品に「菩薩有四事法、疾逮得是三昧。 (中略) 二者、不得睡眠三月、如彈指頃。三者、經行不得休息三月。除其飯食左右。」とあり、三ヶ月間も眠らないようにしたり、食事の時以外は歩き続けて休まない(三巻本では臥すな・坐るなとあって摩訶止観の表現と似る)ようにするという。一般的な在家生活では非常に困難となるので、世俗を厭離して日本で実際に行われてきた比叡山延暦寺くらいの深山で精進せねばならなかろう。しかし、跋陀婆羅菩薩くらいの方には、この三昧修行が開示されてもよかったと思う。あるいは四事が4種類あるから、各人が持ちやすい行法1種を選択するように説かれたか?なお、萌えの法門では本萌譚・異伝③に、「過去萌尊の一人がどう萌尊と称される境地に達したか」を示すにあたり、世事に追われていたある人物が他者の「可愛相」に憧れたので時間を確保して夜明け前から日没まで集中して「可愛相」を見たことが第一段階として示されている。私としては、萌えの法門であっても九十日や三月の三昧行を示そうとは考えられないし、実に口にしがたく畏む。再建語 *tricandra (*trimāsa ? pl: temāsa)-caraṇa *sadācaraṇa



起草日: 20170828

例の通り、本文中の記述に対する補足(余談)↓

本文中、『般舟三昧経が説かれた経緯も、もしかしたらば「誰も見ていない阿弥陀仏"amitābhā"・行けない須摩提"sukhāvatī"」を求めて煩悩まみれの生活をする在家信者がいたことによろうか?』と綴った。
その時、「ちょうど煩悩具足を謳う浄土真宗のような状態に似る」とも思ったが、当然、親鸞さんの教えに託けてそういう「積極的な破戒・無戒の人」もいるであろう、という程度の意味である(元は摧邪輪などから非難された法然さんの教えによることもある)。
本地が観音さまという親鸞聖人信仰から見れば、親鸞さんの言いたいことは、清浄萌土抄に寄せた「余談」にも暗示するよう、「素直な信心による真の絶対他力=絶対自力=他力即自力=非自力非他力」となり、それによって自ずと心が浄まり、身口意の三業が制御されるという理論が成り立つ(もちろん普段から僧俗無別に女房と淫行・飲酒をしてよいとするのだろうが)。
一心(刹那一念の心法"ekacitta"でなく世俗的に見て長めの時間の心)に阿弥陀仏を思うわけだから、般舟三昧経の行品に説かれた第二段階の修行法(観仏)に通じる。
かえって難しい修行であり、「修行不要論」扱いを受ける天台本覚思想や華厳法性思想(中国以後の華厳教学)や左道密教(真言宗立川流)の方が「易行」かと思う(伝統的な天台・華厳・真言はやはり聖道門として難行認定を受ける)。

素直な心、直心(じきしん)、柔和質直(にゅうわしちじき・・・自我偈に説かれる仏を見る心)。
キリスト教の聖書にあるという「富める者が神の国に入ることよりもラクダが針の穴を通るほうがたやすい」という比喩や「戒律を守る者が神に持戒自慢をして救われなかったが、戒律を守らず世俗に生きた者が心から祈って神に救われた」というたとえ話(十二部経でいうウパマーではなくアヴァダーナにあたる)と同義となる(前者はLuke 18:25、後者はLuke 18・・・どっちもルカによる福音書18章だったとは!)。
暴れないラクダさんは、神の不可思議な力用によって針の穴(人が思うような10cm未満の小さい針ではない)を通り抜けるように神の国に行くと思われる(=阿弥陀仏に救ってもらう?)。
方便の化身・愚禿(ぐとく)親鸞の身は阿弥陀仏国土・西方極楽世界について「この世の彼方に実在するもの」と本心で想っていようが、本地・観音菩薩は「唯心・非有非無・真如非如」と考える(仮にも比叡山における止観業などの資格を有していた親鸞は二空の理や往生要集に載る般舟三昧の意義を理解していたろう)。
それは一神教のヤハウェ・アッラー・神の王国"Regnum Dei, Βασιλεία του Θεού"の真実(空・唯心・非有非無・方便譬喩)にも通じている(神による天地創造も無始無終の言い換え。ムハンマドさんもそういう理解があったと仏教徒の見地では推定できるがイスラーム世界では負の一面が強く受け止められて実体視する精神が強いために唯一神のことは闘争・戦争の原因となりやすい。現代カトリックに見るヒューマニズムとか平和主義はイスラム教に困難)。

伝統的な仏教の逸話にある、朱利槃特尊者(チューラパンタカ"Cūḷapanthaka" チューダパンタカ"Cūḍapanthaka")の修行法「掃㨹(そうえ?そうすい?、掃くホウキを指す)」も、「素直な心による修行」の一端となる。
掃㨹修行とは、いわばルーチンワークだが、言葉が覚えづらく他の人と同じ戒を守れないながらに素直な信心ある尊者が、悲嘆に暮れる折に釈尊から教えられた「簡素ながらも賢げな人々には極めて難行」となる「易行」である。
増一阿含経では、その掃㨹修行を「掃(掃く)・㨹(ホウキ)」と唱えて行う中で、思惟(主に四念処か)の徳を発揮し、梵行を成就する。
そうして朱利槃特尊者は、阿羅漢と成ったと語られる(十六羅漢にも列なる存在)。
漢字でいう二字の経「掃(掃く)㨹(ホウキ)」すら苦労して覚えた「鈍根の愚者」は、かえって速やかに菩提を得た「利根の賢者」となる。

恐ろしい!易行即難行・難行即易行、鈍根即利根・利根即鈍根、愚者即賢者・賢者即愚者という不二法門を暗示せられた周利槃特菩薩!
彼の得道は、鈍根即利根というよりも鈍根も利根も平等に得道するという教理によるべきか。
覚えやすくて単純でも、素直に行えば往生などの目的が実現できるので称名念仏などが「易行」と名付けられるのであるが、実際にそれで目的が実現できるかは用い方次第であることは釈尊や龍樹菩薩が中阿含経の阿梨吒経やパーリ経蔵・中部22経や中論24章に「誤って捉えた蛇に噛まれて苦しむ⇔うまく捉えた蛇を利用する」と譬えるようである(過去記事に説明)。

なお、パーリ経蔵・小部・テーラガーターやジャータカでの彼は、襤褸衣で拭き掃除を行う中で禅定の三昧"Samādhiṃ"に入ったとし、三明"Tisso vijjā"神通力を獲得して1,000体の化身を作ったことが示される(漢訳経典では増一阿含経九衆生居品9経に彼が何かを化作する記述がある)。
ほほう、三明"Samādhi"、三昧"Tevijja"って、記事タイトルにも書いてある言葉だ。
頭からケツまで三明・三昧!
当記事【因縁】の項目中に注釈を済ませてあるよう、尊者の「三明」は3つの神通力の方を意味しているので、三明経の三明=テーヴィッジャ"three vijjas, three vidyas, three vedas (三ヴェーダ)"と意味が異なる点に注意されたい。