2018年4月20日金曜日

キリスト教の縁起観 (一神教聖書と仏教経典の創造論・起源説を中心に)

当記事は2018年2月10日に投稿された記事の一部分を基に、再構成して投稿する。

まず、簡潔に「縁起」の語義釈…。
「縁起」とも「因縁生」とも表現される概念の名称は、梵語: pratītya-samutpādaの漢訳表現である。
pratītyaについて、「縁」とも「因縁」ともいうが、漢訳経典における新訳と旧訳(くやく)との差である。
旧訳経典では、因縁という漢訳語が、単に"pratītya"部分を指すのみならず、別の用語である"hetu-pratyaya (因と縁=異なる概念どうしの並列複合語)"を指すこともある。
そのため、新訳経典では、混同を避ける意図もあって"pratītiya"を、単に「縁」と表現するようになったろう。
samutpādaについて、これはsam-ut-√padという3つの形態素を示し得るような「生じること=発生・生起」という意味があり、「縁"pratītya"」に接続して名詞-動詞由来名詞の複合語(従属複合語・格限定複合語・依士釈 tatpurusha)を形成するので、「縁起」とも「因縁生」ともいう。

ともあれ、筆者の方針では、「縁起・因縁生」という2種類の表現を、同義語として用いる。
「十二支縁起(支"aṅga"込みの表現)・十二因縁(旧訳の表現)」も同義語として用いるが、「縁起・因縁生」に対する「因縁」は別概念として、明確に使い分ける。

「縁起・因縁生」ということは、本文を読む中で次第に理解されると思うが、別途、詳しく知りたい人は、Googleで検索したり、Wikipediaや辞書系サイトをご覧になるとよかろう。
または、パーリ語経典や中論の翻訳・解説などが、確かな聖典を頼りにする手段としてよかろう。
ページ「リンク集・智慧の聖典」に、良質・適切なサイトが載る。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_6.html

以下から、当該過去記事の文章を、本記事の為に改良して掲載する。
当該過去記事においては、引用領域"quotation"内の注釈が長いものでも徹底して載せられていたが、ここでは主要な説明文として扱う。





キリスト教の神"the God"は、「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・虚妄の有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。

まずは聖書!!
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"the word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」
※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。

ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節)
※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"singular"と複数形"plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

しばし注釈

原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。
その場合、神・テオス"Θεὸς"は無明・行・識に当たり、言・ロゴス"Λόγος"は以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。
より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。
キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。


Γένεσις (Genesis - chapter 1)
1:24 Καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ἐξαγαγέτω ἡ γῆ ψυχὴν ζῶσαν κατὰ γένος, τετράποδα καὶ ἑρπετὰ καὶ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος. καὶ ἐγένετο οὕτως. 1:25 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὰ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος, καὶ τὰ κτήνη κατὰ γένος αὐτῶν καὶ πάντα τὰ ἑρπετὰ τῆς γῆς κατὰ γένος αὐτῶν. καὶ εἶδεν ὁ Θεός, ὅτι καλά. 1:26 καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾿ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾿ ὁμοίωσιν, καὶ ἀρχέτωσαν τῶν ἰχθύων τῆς θαλάσσης καὶ τῶν πετεινῶν τοῦ οὐρανοῦ καὶ τῶν κτηνῶν καὶ πάσης τῆς γῆς καὶ πάντων τῶν ἑρπετῶν τῶν ἑρπόντων ἐπὶ γῆς γῆς. 1:27 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα Θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.


Aggaññasutta (パーリ仏典。某・英訳は"A Book of Genesis"と銘打つ)
2. Rasapa­tha­vi­pātu­bhāva - Ekodakībhūtaṃ kho pana, vāseṭṭha, tena samayena hoti andhakāro andha­kā­ra­timisā. Na candimasūriyā paññāyanti, na nakkhattāni tārakarūpāni paññāyanti, na rattindivā paññāyanti, na māsaḍḍhamāsā paññāyanti, na utusaṃvaccharā paññāyanti, na itthipumā paññāyanti, sattā sattātveva saṅkhyaṃ gacchanti.

「ヨハネ1:2 言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取される(言・ロゴスは文字通りに載らないが要旨は看取されるということ)。
創世記1~3章の創造神話も、概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。
例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。
人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。
普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。
パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では、無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて「"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(名・呼称は事物の認識の概念より生ずるもの)があった」と説かれるが、これも個人の一生・因縁観(縁起観)に基づいている側面を見受ける。
後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。



Γένεσις (Genesis - chapter 3)
3:5 ᾔδει γὰρ ὁ Θεός, ὅτι ᾗ ἂν ἡμέρᾳ φάγητε ἀπ᾿ αὐτοῦ, διανοιχθήσονται ὑμῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καὶ ἔσεσθε ὡς θεοί, γινώσκοντες καλὸν καὶ πονηρόν. (中略、καὶ εἶπε Κύριος ὁ Θεὸς τῷ...) 3:16 καὶ τῇ γυναικὶ εἶπε· πληθύνων πληθυνῶ τὰς λύπας σου καὶ τὸν στεναγμόν σου· ἐν λύπαις τέξῃ τέκνα, καὶ πρὸς τὸν ἄνδρα σου ἡ ἀποστροφή σου, καὶ αὐτός σου κυριεύσει. 3:17 τῷ δὲ Ἀδὰμ εἶπεν· ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν, ἀπ᾿ αὐτοῦ ἔφαγες, ἐπικατάρατος ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φαγῇ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·

Aggaññasutta (2. Rasapathavipātubhāva - 3. Candimasūriyādipātubhāva)
Atha kho, vāseṭṭha, aññataro satto lolajātiko: ‘ambho, kimevidaṃ bhavissatī’ti rasapathaviṃ aṅguliyā sāyi. Tassa rasapathaviṃ aṅguliyā sāyato acchādesi, taṇhā cassa okkami. Aññepi kho, vāseṭṭha, sattā tassa sattassa diṭṭhānugatiṃ āpajjamānā rasapathaviṃ aṅguliyā sāyiṃsu. Tesaṃ rasapathaviṃ aṅguliyā sāyataṃ acchādesi, taṇhā ca tesaṃ okkami. Atha kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Yato kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Atha tesaṃ sattānaṃ sayaṃpabhā antaradhāyi. 

苦の因縁の始まり(縁起)は、共に説かれる。
前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪(καλὸν καὶ πονηρόν he: טֹ֥וב וָרָֽע׃)の分別が生じたとする(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)。
後者で衆生が「"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る。たしかにリグ・ヴェーダでもラサー川というものが出てくるのでそういった民族史の観点でも根拠がある)という色・味・香あるもの」を指で食べて渇愛が生じたとする(その後はrasapathaviを貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)。
いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。
これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。
原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。
昇天も堕獄も「業(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。
人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・戒"pl: sīla"・律法"gr: νόμος"や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

「ヨハネ1:3 彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようもないという意義を示す。
動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。
例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出しても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。
因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。
同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。
更に、仏・菩薩や宗教家は、自己の信仰や修行を超えて他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。
他者の心=神性は量りようもないが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。

心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。
個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。
部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。
みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。
古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。



次に仏典!!
中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 
※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」

六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」
※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説く。後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。一神教は一切法・現象の大局的な本源を神=心に求めても、神は涅槃の如くに苦の報いを受けない点で、因果関係は仏教と似ない。やはり法身・応身としての神が渾然一体らしい。

注釈・妄心と真心との区別

因縁法として心は神と呼べる。
修行の果報としても心は神と呼べる。
因果倶時となろう。
しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, καρδία, heart"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書1:21 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。
しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。
「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3やヨハネ13:26)。
心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。

当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。
十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。
聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。
心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具(仏の一界と他の九界の互具、先述の因果倶時)といった呼び方もできる。



以上のように、仏典・聖書の記述より、共通点を示した。
とはいえ、仏教とキリスト教の相違点もまた、数多くある。

教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場が明確に示された。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



サンスクリット サンスクリット語 聖書 sanskrit bible romans
仏教徒におなじみの用語をサンスクリット版・新約聖書で確認



起草日: 20180110
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。

元の記事の末尾では、一神教の神と仏教の縁起観に関する真理の側面を学ぶことができる自作の文章を多く引用して載せてあるので、それについても参照されたい。



さて、今更になるが、当記事や元記事はご覧のように、宗教的目的(昇天・往生・解脱・涅槃・成仏など)を全面に押し出した前提で論が展開されている。
故に、創造神話などを語るにしても、現代の科学的見解や進化論や社会科学的事実をほとんど交えないでおいた。
一神教教義や創造神話を、自然科学的知識や社会科学的事実(=科学的見解全般)に結びつけることを「創造科学"Creation science"」と呼ぶそうである(より原理主義であれば科学的見解を否定して創造神話やモーセやイエスの事跡を実話として強調する場合もある)。

創造科学の説は、現代人の中でも一神教に興味ある人や一神教に理解を持ちたい人を速やかに納得させるための便宜的説明によかろうが、それ以上の価値を私は感じない。
私も、小中学生のころは神話や民間伝承やフィクション作品について事象を科学的見解との融通を図る思考回路があったものの、今はほとんど顧みなくなった。
一神教聖書(タナハ・セプトゥアギンタ・ウルガータ、新旧テスタメント)が「なぜ永く信じられ、なぜ世界に流布したか」という背景からしても、近現代の科学的見解との融通を図るようでは、信仰と布教との時空的根拠の答えが得られない。
ましてや、モーセやダビデやイエスや使徒などに帰せられる一神教聖書の編纂者や説教者の意図よりかけ離れてしまう。

一神教教義や創造神話には、自然科学的知識や社会科学的事実と符合するものとそうでないものとが混在している。
しかし、それも、自然科学的知識や社会科学的事実を知る現代人の知能が結びつけようと試みた結果に過ぎない。
※人間がこの一生で得てきた知識は「畢竟、神のものであり神の思し召しである」という見解によれば、宗教と科学との辻褄を合わせることも、必然的な流れとなるかもしれない。英語"Earth"は元々「地(地の性質)・地面・大地・大陸(ラテン語"terra"は渇いたものという意味に由来する)」を指していたが、現代は"The Earth"として定冠詞を付けられるべきものとして「地球(青と緑の球体・太陽を周る惑星の一つ。ラテン語"terra"は天動説の時代にもThe Worldの意味があったが地球の意味はない)」を指す。定冠詞の無い"Earth"は単なる「地」とも現代の「地球」とも意味が取れるが、古典の英訳などでは当然前者の意味であるが、後者で解釈する人がいる。現代人のアイデンティティや世界観は、自然科学の通説に乗じており、宗教信者もほとんど同じ環境で育ったならば古い言葉にも現代と同じ意味で解釈することがある。
また、創造神話に科学的見解に近似するもの(例1: 神は天地・地における陸と海・植物・動物・人を次第に造った=地球誕生~生物の進化 例2: アダム・エバよりノア・セムに至るまで人類の言語には差別が無く発音も語彙も等しかった=歴史言語学)があったところで牽強付会である。
創造神話と科学的見解との近似があることは、仏典でいう「虫が木材を食い破ってたまたま字になるようなこと(如虫食木偶得成字)」である。
その「木材を食べる虫」は字を書きたかった意図が無いように、モーセやダビデやイエスや十二使徒などに帰せられる一神教聖書の説教者や編纂者は ―私が推し量るべきでないが― 科学的な説教をしたい意図は無かろう(もちろん世の起源を知りたい人へ物質的事実認識に通じそうな便宜的説明をすることで理解を促す意図は有り得る)。
聖書での創造説も仏典での起源説・輪廻転生も、物質的な科学と何ら関係が無いとすれば、それらが進化論・大陸移動説・地動説を否定することも無いし、信者はその信仰と現世的な思考とが相容れないことも無い。

そもそも、どの学問や議論にも言えることとしては、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのである。
少なくとも、宗教(特に個人の修道の立場)ではそういった世俗的な対立を離れるよう説くと、当記事の本文にも明白に示されていよう(過去記事も参照)。
創造科学などの論議や主張は、どこまで煎じ詰めても「科学における迷信・宗教における迷妄」であり、イエス・キリストさんが有名な「主の祈り」にあたる発言の直後に「盗まれやすい地上よりも天国に財を蓄えよ。2人の主を持つことは誰にもできない、なぜならば心で一方を愛して一方を憎み、行動では一方に親しんで一方を軽んじねばならないから(マタイ6章19-24節より要約、持つこと=心で執着することと解釈し得る。マルコ10章21-25節・ルカ18章22-25節には財産に執着する人物を見た上でイエスが金持ちは神の王国に行き難いと説く)」と譬えたように、科学的見解によって宗教説話を神の意思(本文中の"みこころ voluntas, θέλημα, will")に適った実話として信じることはできないし、信仰もまたそのようである。
実話の実話たる所以は、話を聞く者の明かし切れない種々の因縁(本文を参照)による。
信仰者の智慧が浅いとき、二つの理解(二股をするような不純な心)は二重苦として彼を悩ます。
しかし、それは聖者たちが神を知る智慧に依って真に融通することができるし(マルコ10:27・ルカ18:27"人にできないことも神にとってはできることだ Τὰ ἀδύνατα παρὰ ἀνθρώποις δυνατὰ παρὰ τῷ Θεῷ ἐστιν."という意味にも通じる)、私であっても聖者たちを通じて「文字上の理解」をし得た。
二つの理解(仏教でいう二諦や四悉檀も同様)を兼ね備えながら、二つの心(世俗的理解を妄信する心と世俗的執着を厭離する心)とはならず、そうして聖者は「一意に一心に」現世をお行きになるものである。

創造科学などの論議や主張は無益のようであるが、さすがに現代人に対して一神教教義を納得させる一手段とはなろうから、そういう観点で論議を進めて布教に用いたい人は用いればよい。
人の用いよう(目的性・価値判断)によって「ゴミの山(と既成概念や多数決によって認識されていたもの)も宝の山に変わる道理(新しい価値観や特殊な人物によって逆転すること、真理においては物事の価値は最初から存在しないし最初という点すら存在しない)」はあるから、是非とも、各々が金科玉条のように論や説を用いてほしい。
そういう化他の目的性により、智慧の高い仏・菩薩は論争をしても悪業を積まない(真理においては誰彼が何をする・何をされるといった能動性も受動性も表現されない)。
ただし、世俗に心が繋がれたままの私は常に悪業を積む(悪魔崇拝者のように)。

宗教・科学・哲学(など)の特徴および仏教との共通点・相違点について、過去記事に語ったことがあり、そちらも参考までに読まれたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

2018年4月8日日曜日

日本語の複合語とパーニニ梵語文法との関係 サマーサ"samāsa (六合釈・六合釋)"とは

過去記事「語源考証の試案」の復習を目的に、そこより抜粋したものを校正して投稿する。

別の過去記事にも述べられた、インド言語学由来の「六合釈(ろくがっしゃく 漢音:りくかっしゃく)」による複合語解釈法である。
梵語・サンスクリット文法家パーニニ"Pāṇini"の述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"(および注釈"Kāśikāvṛtti")」に示され、中国・日本では梵語学・悉曇学において伝えられた。
漢語の仏教圏で、梵語訳語としての漢語を理解する際に重宝された解釈法である。

六合釈(六合釋・殺三磨娑)"ṣaṭsamāsa"の6つの用語 (pl=パーリ語名称。パーリ文献のByākaraṇa系の書 - AbhidhānappadīpikāṭīkāやBālāvatāraなどによる)
相違釈・相違釋"dvandva pl: dvanda" 連結複合語 Copulative compound (itaretaraという語の場合は並列複合語 Enumerative compound)
依主釈・依主釋(依士釈・依士釋)"tatpuruṣa pl: tappurisa" 限定複合語 Determinative compound
持業釈・持業釋"karmadhāraya pl: kammadhāraya" 同格限定複合語 Appositionally defined compound
帯数釈・帶數釋"dvigu pl: digu" 数限定複合語 Numeral determinative compound
有財釈・有財釋(多財釈・多財釋)"bahuvrīhi pl: bahubbīhi" 所有複合語 Possessive compound
隣近釈・隣近釋"avyayībhāva pl: avyayībhāva" 副詞的複合語(不変化複合語) Adverbial compound
※何らかの日本語や漢語や英語の複合語に当たった際、多様な解釈ができてしまうことがあるので、文脈を検討しながら、この六合釈に則った判断をするとよい。上から順に検討するとよい。日本語では通念上、「山川」は「山と川」=相違釈"dvandva"に解釈し、「山寺」は「山の寺」=依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に解釈する。ギリシャ語由来のラテン語→英語の複合語"philosophy, haemophilia"なども同様に依主釈で、"phil-"の位置が異なっているが、それによって意味が変わることは無い。ギリシャ語系の複合語はphil-とかlog-のような形態素=結合辞"combining form"が各々定式的に位置を占める傾向にある・その例外もある(英語版Wikipedia - Classical compoundにその記述があるが元はConcise Oxford Companion to the English Language 1998からの転載)。

元の記事では、漢文訓読のために日本語において作られた「互い(+に)」を例に取って副詞と動詞由来名詞の複合語だとする説明した。
当記事では、六合釈に基づいた日本語の複合語解釈を語った部分を抜粋し、校正して投稿する。





日本語では、多くの複合語が並列複合語・相違釈"dvandva"や限定複合語・依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に当たる。
その意義は日本語版Wikipedia - 複合語の記事にも、「並列関係」や「従属関係」として載る。
例として、姓名はその極みである。
英語版Wikipedia - dvandvaで「山川"yamakawa"」という複合語を相違釈の例として挙げてあり、「山の川」という意味ならば「やまがわ"yamagawa"」と連濁するが、「山!川!」のような並列関係=対立=平等の状態では、連濁しないことが通常である。
「山と川」という2つの語句が象徴的に風景全般を表すという(いわゆるメトニミー"metonymy"の一種でありシネクドキ"synecdoche"ともいう)。
慣用的に「善悪(ぜんまく、ぜんあく、善と悪"good and evil 英語と同じヘブライ語 ט֖וֹב לָרַ֛ע ギリシャ語 Acc.καλὸν καὶ πονηρόν)」が道徳観念"morality"全般を表すことと似る。

筆者のペンネーム「横野(よこの Yoko-no)」は、依主釈で「横の野・横にある野・よこしまの(邪悪な)野」と解釈できる(姓名に用いられる野字・埜字は語源的に問うと当て字のようであろうが)。
ちなみに、「動詞: 横切る(切るは当て字っぽい)」は「副詞: 横に + 動詞: きる(撥音便省略連濁: ぎる)(よぎる・すぎる・すごすという動詞も似た語源となる)」という複合動詞である。
※「横切る・よぎる・すごす」は五段活用(現代口語)・四段活用(文語・古語)だが、「すぎる」は昔に「すぐ=過ぐ」という終止形を用いたように上一段活用(現代口語)・上二段活用(文語・古語)であるので、同一視できない問題もある。よって、「似た語源」程度の認識でよい。例えば、腕を大きく動かす動詞は、「薙ぐ・殴る」が五段活用であり、「投げる」が下一段活用(現代口語)であることから類比・類推して容認できよう。往古に同根であったかの根拠は、現代の学問で断定できない面がある。「横切る・よぎる・過ごす」及び「過ぎる」は、みな「通過する(英: pass)」という意味のある同根語が想定できると思えばよい。Proto-Japonic verbal root *kiɾ-
サンスクリット・パーリ語の「接頭辞ati (過ぎて) + 動詞語根√i (行く)」は「よぎる・通過する・超過する」という意味の複合動詞であり、ati √iの過去分詞"atīta अतीत "は「形容詞: 過去の 名詞: 過去・過ぎ去ったこと(英: pastに比較)」を意味する(同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"と思ったが違うか)。
依主釈は、前後の形態素(語根・語幹など)が依存関係にあるものを指す(梵名tatpuruṣa自体が"tat彼の + puruṣa人"=あるじorしもべという意味になるので漢語では依主釈という)。

動詞の連用形の名詞化と、その前に動詞の目的語を付随したものが多くある。
「窓拭き=目的語の名詞: 窓 + 動詞の連用形の名詞化: 吹き」は、「①窓を拭くという行為"deed, act"」と、「②窓拭きの行為者"agent"」と、「③雑巾のような、行為の達成に用いられる道具"instrument"」の3つのいずれにもなる。
もしも別途にそれぞれの意味を明示したければ、「①窓拭き-作業 ②窓拭き-屋さん ③窓拭き-ツール」のように後続の言葉で補う。
梵語でも、行為者や所持者の意味を明示するために「-क -ka」で補うことがある。
また、「人殺し cn: 殺人(①-罪 ②-者 ③-刀など)」"homicide"といった、動詞・目的語"verb-object, VOまたはobject-verb, OV"構造の複合語はみな、依主釈に当たる。

この整然とした・弁別的な複合語解釈は、梵語・サンスクリットは元より、現代の英語にも適用できるので、形式的英語学習者・会話オンリーの人であっても注意深く学べば、一切の言語の学問的道理・発生プロセスに通達する。
こういった複合語の名詞は、様々な意味を持つ場合があり、先述の「窓拭き」の窓は「窓を・・・対格"accusative case"」であるが、「拭き掃除」の拭きは「拭き=拭く行為によって・・・具格"instrumental case"」である。
ほか、「尻拭い」という言葉もまた「窓拭き」と同じ3つの意味を見出せるが、英語で"ass-wipe (尻拭い→トイレットペーパー→クソヤロウ)"という表現が、"bahuvrihi compound"であると英語版Wiktionaryに載っている。
"bahuvrīhi"=所有複合語・有財釈とは、過去記事にも詳述した通り、"bahu-vrīhi"のままでは同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"で「多くの-米」という意味だが、実際にはその所有者「多くの米を持つ者=金持ちの人」を指すことである。
例えば、英語で「ホワイトカラー"white-collar"(白い襟)」という言葉も「白い襟の服を着た者=事務員」という意味となって同様である。
いったん、「多くの米=それが単に存在するのでなく誰かの目的によって所持されている=その人は金持ち」や「白い襟=その服が単に存在するのでなく誰かの目的によって着られている=その人は事務員(オフィスワーカー)」として言葉が成立すると、以後は、金持ちが多量の米穀を財産として保有しない・オフィスに白い襟の服(ワイシャツ)着用者がいない状態でも「ヤツはバフヴリーヒ"bahuvrīhi"だ!"They are white-collars!"」と呼ばれる。

古代インドと同じ言語感覚による複合語が、現代アメリカなどにも発生することは、面白い。
当事者の身体に付随したものの例で、古代ギリシャ語「ὀκτώπους (いわゆるオクトパス)=八つの足-を持つもの=タコ・蛸」や、日本語「ふとっぱら"futoppara"=大盤振る舞いの人」があるが、外的所有物でない点で有財釈と似て非なるものと区別されるべきかと思う。
事務員が「ホワイトカラー・白い襟の服」を着ることも、事務員としての当事者にとって身体そのものである点で、実は、有財釈と似て非なるものか。
それらは「広義の有財釈」として区別してみたい。



※パーニニの述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"」は、「8つの章(数詞aṣṭa=8)を設けて(具格のように用いるべく私が付した)考察する(動詞語根√dhyā)説("-説"とは事物を示すために名詞化接尾辞・準体助詞として私が付した)」と解釈できる。中国の文献においては「八分毘伽羅論(八分=aṣṭaの訳)」と呼ばれた。婆藪槃豆法師傳に「馬鳴菩薩は是れ舍衞國・婆枳多(大正蔵の本の誤植か底本の誤写で正しくは娑枳多・サーケータ"Sāketa"か)の土の人なり。八分毘伽羅論および四皮陀(4つのヴェーダ)・六論(6つのヴェーダーンガ)に通じ、十八部(インド外道学問全般の十八大経で通常4ヴェーダ・6ヴェーダーンガを包括)を解す」とある。また、記事後記のように、毘伽羅論とは、vyākaraṇa ヴィヤーカラナ=インド言語学の名称である。ヴィヤーカラナは多義的な言葉だが、一応、ここではインド言語学・梵語学を指す。パーリ語の蔵外文献でもbyākaraṇa ビヤーカラナの区分に複数の文法書がある。





起草日: 20180206
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。



元の記事では、パーニニ文法における複合語(サマーサ"samāsa")解釈と日本語における訓読語との関係性に言及した。
パーニニさんを端緒とした梵語・サンスクリットの文法学は、「声明論・聲明論(しょうみょうろん、毘伽羅論"Vyākaraṇa"、言語学全般の名称、五明 Pañcavidyāという学問総称の一カテゴリとしても用いられる)」として古代日本・上代日本に知られていたと推定できるので、その方面の研究が進むことを期した。
現今の宗教学や言語学で、深く言及されない梵語文法と日本語(和語)文法との関係性であるが、今後は、そういった仏教の文化的影響を鑑みた研究が必要となろうと考える。
歴史的脈絡や蓋然性があることを、私自身が実感しており、宗教学者(仏教学者)をはじめとした人々が証明してゆくべきである。

元の記事の随所に、そういった要素を記した。
「たがいに」造語当時(広く見て7~11世紀)の日本で、おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者が梵語学(玄奘三蔵門下の法相宗系か密教悉曇系か法道・菩提僊那のような中央アジア・インド系渡来僧の直伝か)の文法概念を学んでいた可能性がある。

パーニニの漢字表記・音写は「波爾尼、波膩尼、波儞尼(はにに"modern: Hanini, ancient: Panini")」がある。
「玄奘三蔵は婆羅覩邏邑(村名・都市名、大正蔵の本の誤植か底本の誤写で正しくは娑羅覩邏・シャラートゥラ"Śalātura"か)に至り、波爾尼仙(パーニニ仙人)の窣堵波(ストゥーパ)を見た」という記録が、大唐西域記などに載る(ちなみに英語版Wikipedia - Salaturaは塔"stūpa"でなく像"statue"だと記しているがそこに引用される1904年の学者による英訳は"tope"と訳していて相互に異なるし一次資料たる漢語原文が載っていない)。
こういった玄奘三蔵の門下には、法相宗開祖の基(き、慈恩大師窺基)などがおり、一切経音義の玄応をはじめとした多くの学僧が梵学に長けていた(同名の書の著者である慧琳は後述の密教関係の人で不空三蔵の弟子とされる)。
玄奘三蔵訳経論や法相宗の釈書などには、先の梵語複合語理解・六合釈の用語が多用されている(個人的に感心したもので成唯識論T31-19bや妙法蓮華経玄賛T34-658cなどがある)。
日本の南都六宗に関する史実が立証されているように、それらの漢語典籍が7世紀以後の日本にも多く伝えられたことは確実である。

その時期以前であっても、中国・朝鮮・インド・中央アジア・南アジア系の僧侶が、梵語知識や文法概念を多かれ少なかれ伝授したろうことは推定できる。
特に中国(漢民族らしい)以西の地域出身者が日本に渡来した可能性について、「波斯・破斯(はし"modern: Hashi, ancient: Pashi or Pachi")」という「ペルシャ"Persia"=現代のイラン付近とされる地域」からの渡来人が奈良時代などに存在したことはよく知られる(正確な事実は学問的に未確定)ので、いわんやインド・中央アジアをやである。
学問的に未決の事象にも敷衍すれば、梁書・巻五十四において「扶桑国」を語った項目に「其國(=扶桑国のこと)有沙門慧深(えじんorけいしん)來至荊州、説云 (中略) 罽賓國嘗有比丘五人、游行至其國(=扶桑国のこと)、流通佛法經像」とあり、この「扶桑国」を日本列島の一部地域と見ても見なくとも、梁(中国)より東の「倭国」よりも更に(梁→倭国→文身国→大漢国という)東に位置する「扶桑国」に「罽賓国(同書で西北諸戎に分類される渴盤陁国・朅盤陀"Khabandha"=現在のタシュクルガン地域の南に接しているとする)」というインド・中央アジアに位置する国より比丘(僧侶)が遊行したと伝承される以上、中間に位置する「倭国」とされる日本列島にインド・中央アジア系の比丘が遊行したという類推も可能である。
※罽賓国は「けいひん」と読まれるが、より正確な呉音では「かいひん*kaipin, kaibin」か「けひん*kepin, kebin」となろう。一般にカシミール"Kashmir, skt: Kaśmīra"の音写だとする。この漢語音写はプラークリット経由と思われ、プラークリット復元形は*kejbirとなろう。硬口蓋系J/SH互換や両唇音系P/B/M互換の法則や「安息(あんそく・あんさく・あるさく)アルサク 𐭀𐭓𐭔𐭊 アルサケス的N/R対応」などによる。
「梁書の扶桑国(地在中國之東…)」に関しては参考までに考慮してほしい。
学問的に未決の事象であって正確性に疑問の持たれた伝承であっても、多少の推定に用いることが可能であると、私は考える。

伝承や学問的事実から、様々な推定・仮定ができた。
しかも、伝教大師最澄・弘法大師空海や、慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然さんなどの時代となれば、言うまでもない。
彼らはもはや、密教が中国に伝えられて以後に入唐したり(前4人はみな入唐僧として名高く他に宗叡などがいるが詳細が不明瞭)、日本で相承された密教を学んだりもしてきており、そういった密教関連の悉曇学においては、当然、パーニニ文法に端を発する梵語学・声明論に関与する。
元の記事と当記事の本題である「(6種類の)複合語解釈=六合釈(ろくがっしゃく、りくがっしゃく)・六離合釈"ṣaṭsamāsa"(殺三磨娑)」や、梵語における「8つの格変化(パーニニ文典では7つ=七例句が示されたので後世に発展したものか)=八転声(八囀声、はってんじょう、はちてんじょう)"vibhakti, kāraka"」など、梵語学習での常識になったと見られる。
上記の用語に関して、相当する概念の説明に必ずしも文字列が完全に一致した状態で用いられないが、細かく分析すれば、中国・日本の法相宗・華厳宗(唐の法蔵さんなど)・真言宗(密教・密宗)の書に多く確認できる。

江戸時代・18世紀に至ると、日本国内で様々な思想・哲学・宗教が相競って合理主義的な学説(大乗非仏説論・古神道・国学など)を主張するようになる。
中でも国学者(本居宣長・その弟子・その他もろもろ)が比較言語論・比較文化論に秀でており、悉曇・梵字・インド音韻学・中国音韻学(インド悉曇に影響を受けたものとしての等韻学など)を理解した上で、日本語の発音の優位性を誇示した(漢字三音考や奈萬之奈などを過去記事でも紹介、民族主義プロパガンダ的な向きが本居宣長さんにも平田篤胤さんにもあったが問題視しない)。
その渦中で仏教徒も慈雲尊者飲光や法幢さんなどが西洋インド学に先駆けた梵語研究や文献研究を示した。

いずれにしても、日本語が外国の文物に触れて発展する途上で訓読語などを整備する際、「7~11世紀ころに生きた学問(学門)の人や僧侶・宗教家などの智者たち」は、パーニニ文法に端を発する梵語学の理解に基づいた造語をした、と私は結論付け、学問的に提案する。
梵語学の理解に基づいて日本語(やまとことば)・中国語(漢語)・サンスクリット(梵語、ほかパーリ語などプラークリット)・ギリシャ語・ラテン語、ひいては英語をはじめとしたあらゆる言語について日本人が研究できるようになるとよい。

サンスクリット詩の連声(連音、サンディ"saṃdhi")には韻律規定(チャンダス"chandas")や歌いやすさを考慮して柔軟な有無が見られ(連声が固定的規則としてあるのでなく歌いやすさの相対性で連声となる)、日本の古代和歌(万葉集など)でも句中の字余り母音重複の単音化について柔軟な有無が見られる(二重母音が合わさって一音・1モーラ=1拍となることも固定的規則としてあるのでなく句の拍数を考慮した読みやすさの相対性で単音となる。この現象は本居宣長さんの字音仮字用格という書にも示される「歌に五もじ七もじの句を一もじ餘して六もじ八もじによむことある、是れ必中に右のアイウオの音のある句に限れること也。古今集より金葉詞花集などまでは此格にはづれたる歌は見えず。 自然のことなる故なり(萬葉以往の歌もよく見れば此格也)」ついでにこれを引用した論文1, 2も参照されたい)。
詩歌の音韻にも、サンスクリット(同様にパーリ語)と日本語の間の共通性について参考にすることができる(インド音声学・音韻論は式叉論・シクシャー"śikṣā"、先の韻律・チャンダスは漢語音写で闡陀論となる)。
過去の歴史的経緯や学問的価値や今後の展開など、様々に沃野の広さが感じられる。

※日本古文の特徴的な語法・文法に「○○(名詞)な(助詞・目的語)××(動詞・連用形、カ変とサ変では未然形)そ=否定要求表現」、「係助詞か・や=疑問形係り結び」といったものがある。それについて、中国語やサンスクリットとの類似性を見出すこともできるが、深く言及しないでおく。また、サンスクリット詩は韻律規定に見合った自由な語順があり、現代日本語で倒置法の一種として受け入れられる語法もよい。SVO型・前置詞の特徴が強い英語よりも、サンスクリット・日本語は基本的なSOV構造に制約されない場合が多く、ヴェーダ詩・古代和歌からも看取できる。私が音楽方面の創作をする際、古代日本語や現代日本語に見られる自由な一面を用いて「メロディを乱さない歌詞」を作りたいと思う。



追記: 2018年10月13日

「式叉論(学論)・六十四能法」の謎の解明

シクシャー शिक्षा "śikṣā"は、古代インドで「6つのヴェーダーンガ(六論・六皮陀分・ヴェーダ関連学問)"vedāṅga"」の1つであり、音声学的な考察や分類の明確さが近代の西洋における言語学に影響を与えた。
日本には平安時代以前から「式叉論(十八大経の一つ。十八大経に四吠陀=4ヴェーダと六論=6ヴェーダーンガと八論=後世ヒンドゥー教でいう4ウパヴェーダと4ウパーンガの18を含む)」の漢語名称で伝わっているが、その名称は悉曇学の流れと関係しない(i.e. 近代インド学が入るまでの日本ではインド音声学がシクシャー=式叉の名で認識されなかった)。
「式叉論」は5世紀ころの中国人・嘉祥大師吉蔵さんの百論疏などや、それらを参照した日本人の諸々の文献に「直訳の意味は学論(英語圏でも"learning, study of skill"などと訳す)、詳細には六十四能法がある」と注釈されているが、「六十四能」の詳細を誰も語らない(DDBなど辞典サイト類もそれを語らない)。
もし語る者がいても、大智度論の巻第二に「言四違陀經中治病法・鬥戰法・星宿法・祠天法・歌舞・論議難問法。如是等六十四種世間伎藝」とあることに結び付けよう。
その「世間伎芸(技芸)」とは、英語版Wikipedia - Shikshaに"Shiksha literally means "instruction, lesson, study, knowledge, learning, study of skill, training in an art"."とあることと同じようにシクシャーという語の原義(√śikṣ 学、便宜的に名詞化接尾辞「論」を付けて「学論」と漢訳された)を示唆していると考えてよい(後で考察し直す)。

今年に入ってから私は当記事のような話題でシクシャーがなぜ「インド音声学」の名であるか、インドのうちの既成事実とその説明のみならば納得できたが、日本・中国における「式叉論」の知名度の低さ(悉曇学が江戸時代の国学者の関心を得ていたことに比して実質0。式叉論を標榜した漢語文献の存在も実質0)や、「六十四能」という語のみで音声学を思わせない説明のされ方に疑問を覚えていた。
それら疑問についてどれほど調べても、インターネットで他人による説明(活字の複製を含む)は見られなかった。
2018年10月13日に筆者は、そういった「不明事項」の解決に至るような検証・推定をした。

まず、シクシャー文献の一つ「パーニニーヤ・シクシャー"Pāṇinīya Śikṣā"」の1930sにおける英語翻訳・注釈を参照する。
引用: That speech-sounds in Prakrit and Sanskrit are sixty-three or sixty-four, according to their origin, has been said by Brahman (Svayambhū) himself. (中略。前翻訳、後注釈) The expression tri-ṣaṣtiś catuḥ-ṣaṣtir vā shows how the author of these spurious verses felt a difficulty over the meaning of the first two couplets of the PŚ. and could not say for certain whether 63 or 64 letters were meant by Panini. - Manomohan Ghosh. 1938. 筆者注: 意味と解釈は後述。
太字でハイライトしたように、翻訳文に"That speech-sounds in Prakrit and Sanskrit are sixty-three or sixty-four"、注釈文に"63 or 64 letters"とある。
シクシャー文献に"64 (六十四 catuḥṣaṣti-)"という数詞が載っている証拠を捉えた。
また、漢語「能」は「能作・可作(することができる、せねばならない等の意味)」と関連して原語が"kāra (カーラ、原義は「なすこと」、多様に使用される語句)"であると推定した。
kāraは、例えば"hakāra"でハ音またはハ字・ハ音素 ह を指すように、字や音素の概念を示す。
私はsixty-fourとkāraとを合わせることで、「六十四能」という漢語名称の原語(梵語名称)はあくまでもヴェーダ=古インド・アーリア語の発音に関する意味であると推定した。
「ヴェーダ発音はヴェーダを読む前に正しく学ばれるべきものだ (語根√śikṣ = 学ぶ)」という原義の意味から「学論」ともいう(cf. 英語版Wikipedia - Shikshaに載るタイッティリーヤ・ウパニシャッドの1:2詩 cf. パーニニーヤ・シクシャーの1-2詩 cf. 翻梵語という書に式叉歌羅尼・しきしゃからに*śikṣākaraṇiという梵語が「学・可作」として説明され、これは式叉摩那という女性出家者=五百戒ともいわれる男性よりも厳しい戒律を持つ比丘尼になる前に2年ほど戒律に関して学ぶ・訓練すべき者のことを指す cf. 仏教用語の三学=戒・定・慧は梵語でシクシャー"sa. śikṣā, pi. sikkhā")。

ただし、その"64 letters"とも言われる64の字・音素の内訳は不明である。
参考までに般若経典(注釈書の大智度論にも示される)の四十二字門には、阿字 "a अ "から若字"jña ज्ञ " 乞叉字"kṣa क्ष "までインド言語観念の字・音素が挙げられる。
それが密教や悉曇学に継承される五十字などともいう。
サンスクリット・ヴェーダ語で63や64という計数は、母音(a ā ai i e aḥ ṛ ḷ अ आ ऐ इ ए अः ऋ ऌ など)の他に jña ज्ञ , kṣa क्ष (cf. ラテン文字 X ギリシャ文字 Ξ) のような二重子音字"biconsonantal letters"などの二重音字"digraph"が一字のように扱われるインド言語観念を含ませて達成できそうである。

とりあえず「六十四能」という漢語名称のうち「64」という数詞がインドの典籍にあることと、それがヴェーダーンガのシクシャー文献の扱う主題と同じように「言語発音」を示すことは証明し終えた。
Quod Erat Demonstrandum. (証明せらるべきこと有り、過去にも未来にも)
以下に、別の疑問点について付記しよう。

大智度論の巻第二(放牛の譬喩)に、その翻訳者の鳩摩羅什さんがシクシャーにあたる言葉を「六十四種世間伎藝」としたことは、六論(ヴェーダーンガ)・八論(後世ヒンドゥー教では4ウパヴェーダと4ウパーンガに分かれた)を暗示するヴェーダ学問の脈絡であった。
※大智度論自体の梵語原典は不詳だが、その放牛の譬喩の「牛を飼う者が身につけるべき11の支(アンガ"aṅga")と同じように比丘が身につけるべき11の法(ダンマ"dhamma")がある」という説法の趣旨は鳩摩羅什訳の仏説放牛経(大正蔵0123 V. 02)とパーリ経蔵・中部・33経"Mahāgopālaka Sutta"にも説かれる。しかし、大智度論巻第二で「六十四種世間伎藝」という言葉が載る話の脈絡は、それら経典に見られない。菩薩の「方便」として鳩摩羅什さんか大智度論作者とされる龍樹菩薩が補ったとも考えられる。
しかし、「六十四種世間伎藝」という言葉を用いた彼の思考において、このヴェーダ発音の学問たるシクシャーを示唆するインドの語句(catuḥ-ṣaṣtiḥとkāra)へ理解が不足していたためか、または別の概念を指していたためか、それは証明しようもない。
前者である場合も、鳩摩羅什さんに梵語を教えた人々や彼の出身地・亀茲国とされる地域の慣習に「śikṣāは六十四種ある世間伎芸のこと」という認識が定着していた可能性もある。

先に引用したパーニニーヤ・シクシャーのManomohan Ghoshによる翻訳・注釈にも、「パーニニーヤ・シクシャーの作者(パーニニの理解の如くに説く"pravakṣyāmi pāṇinīyaṃ mataṃ yathā"という人)は63と64のどちらがパーニニさんによって示された字数・音素の数であったか分からなかった」という趣旨が記される(韻律のために言葉を補ったともパーニニさんとされる古の賢人がどちらも説いたとも原文を解釈できるが)。
その63と64という数詞が出る詩節はパーニニーヤ・シクシャー全体のうち第3詩であり、第1-2詩"Now I shall give out the Śikṣā according to the views of Pāṇini. In pursuance of the traditional lore, one should learn it with reference to the popular and the Vedic languages. Though words and their meaning are well known, yet these are not within the knowledge of persons intellectually deficient, (hence) I shall dwell once more on the rules regarding the pronunciation of words. (第1-2詩の英訳文)"が作者自身にとって難解だったとかと記される。
引用範囲よりも後には、カウティリヤのアルタ・シャーストラ(Artha Śāstra 実利論)を紀元前3世紀ごろとみなした上で、そこに"63 letters"のみを示すと記される。
次にアグニ・プラーナ(Agni Purāṇa, 略号AP.)というプラーナ文献をパーニニーヤ・シクシャーよりも後世の西暦8世紀ごろの作だとみなした上で、そこに"vakṣye śikṣāntriṣaṣṭiḥ syurvarṇā vā caturādhikāḥ (triṣaṣṭiḥは63)"と述べられて先の第1-2詩が難解であるように捉えていたと記される。
1-3詩は他の文献群(pañjikāなど複数の作品群をrecensionsと代名詞的に呼んでいる)にも載っていると Note 2. に記されるが、インターネットにその3詩(IAST表記・校訂本)は何ら検索に掛からない(文献群の各個の校訂本がインターネットに公開されない・論文での引用なども無いか)。
それで「他の文献群がアグニ・プラーナの説を用いたか独自に説いたか分からない」と記されるが、それらの文献のどういう説を指しているのか、私は分からない。
何となく、私は日本語で説明を記したが、自信(私自身の理解への信頼)があまり無いため、英語のできる人はご自身で検証するとよい。
どちらにしても、何らかの文献はインターネットだけでの検証が困難な状況に違いない。


2018年3月8日木曜日

破裂音・破裂有気音が破擦音や摩擦音になる現象 (破擦音化・摩擦音化)

表題に関して、日本語・中国語・印欧諸語(インド系言語・ラテン語・ギリシャ語・英語)・中東諸語(アラビア語・ヘブライ語)における古代語・現代語・方言の例を挙げて説明しよう。
記事内で注意されたい事項は、ラテン文字による発音表記であり、国際音声記号=IPAや、各言語ごとに用いられるIAST・ヘボン式ローマ字などの表記や、慣用的なカナ表記を用いているので、種々の転写"transcription"・翻字"transliteration"にどういう音価が実際に伴うか(どういう音価を筆者が想定しているか)、しっかりと区別する必要がある。

本論の前に、両唇破裂音系の語彙より例を挙げるので、言語感覚を確認するとよい。
無声両唇破裂音 [p]
 破裂音"plosive"、破裂、ぱれつ・はれつ "paretu, pa-let" (haretsuではない) ぱらっと、ぱじける(弾ける)、ぱぜる(爆ぜる)
その有気音 [pʰ]
 中国語の"pòliè" 梵語の√phal √sphut 頭破七分のパーリ語経文"muddhā phalatu sattadhā" (頭が破裂せよ"phalatu = 命令法"、七つに)
有声両唇破裂音 [b]
 英語の"break, burst" ばらばら、ぼんぼん
→後世の日本語・中国語・英語・他ヨーロッパ語、そしてアラビア語やヘブライ語は、一部の語彙が [ɸ] や [f] (日本語は一歩進んで [h] も) に変化するという論旨である。



日本語 Ancient Japanese, dialects (hōgen), Japanese languages

日本語「あかさたなはまやらわ」という五十音・仮名文字の音価は、上代から現代にかけ、破裂系の音の弱化が見られる。
例えば、歯茎系(歯茎or歯茎硬口蓋or後部歯茎)の破擦音たる「さ行」が「し"chi→shi "」「す"chu→su"」(「せ・そ」は「さ」と同じ変化)ととなるように、破擦音が摩擦音となる。
※ch, shを国際音声記号=IPAで/t͡ɕ/, /ɕ/と想定する。以下から同様にIPAを併記する。
歯茎破裂音たる「た行」が「ち"ti→chi /t͡ɕi/"」「つ"tu→tsu /t͡su/"」(「た・て・と」に顕著な変化は無い)となり、両唇破裂音たる「は行」が「は"pa→ha"(中世にfa /ɸa/)」「ひ"pi→hi /çi/"」「ふ"pu→fu /ɸu/ (稀に/hu/)"」(「へ・ほ」は「は」と同じ変化)となるように、破裂音が破擦音や摩擦音となる。

過去記事にも示されたように、仏教・梵語・インド系言語(厳密にはサンスクリットやプラークリットなど典礼言語から口語まで)より成る中国漢字音写語句の現代日本語発音と、原語と思しき発音を比較すれば、具体的な根拠が分かる。
現代日本人に比較的知られている単語より例を挙げよう。
「さ行…毘盧遮那 びるしゃな(中世カナ表記: ヒルサナ)"birushana; hirusana"・ヴァイローチャナ"vairocana"」
「た行…三摩地 さんまぢ"sanmaji"・サマーディ"samādhi"」
「は行…波羅蜜 はらみつ"haramitsu"・パーラミター"pāramitā"」
※歴史的に全く同じサンスクリット・梵語発音に基づいて漢訳仏典の訳経僧らが漢字音写をしたとは限らず、プラークリットや平易な口語発音の場合もある。

このように、破裂系の音の衰退・弱化が見られる。

※古代中国の音韻によって対応する漢字へ音写・転写が梵語の語句にされたので、古代日本の呉音や漢音の類も推定できることを言う。例の中の三摩地の三"接頭辞sam-"や「釈迦(しゃか skt: śākya)・舎利弗(しゃりほつ skt: śāriputra)・沙門(しゃもん skt: śramaṇa)」などの語句は、当然、原語の語頭が摩擦音であるので、想定カナは古代において一字多音ということが言える。カナ・仮名は表象であって実際の古代日本人に異音の同一性・音素"phoneme"が認識し得たろう。例えば、現代日本語の「ひ/hi/」発音を声門音[hi]や声門拗音[hji]や硬口蓋音[çi]で発しても、普通の現代日本人は聴き分けずに同一の音と感じる。独特な発音の人が「ふぃ」 = 唇歯音[fi]や両唇音[ɸi]で発しても、その特殊性が認知されている条件下では、同じく「ひ/hi/」発音としての理解が得られよう。また、標準語さ[sa]が九州弁しゃ[sha]となるが、通常の条件下で話の意味が互いに通じる。任意の幼児は「さ音素/sa/(歯茎摩擦音)」を「た[ta](歯茎破裂音)」で発する場合が多くても、言葉を教えてきた保護者には幼児の発したい言葉が分かる。古代日本の方言・口語は同じ単語でも些か異なる発音をする可能性がある。ましてや、外来語たる漢語・梵語を扱う便宜的状況によれば、仮名の音価が一定でない。例えば、漢語の「訶"ha"」などを「カ」と綴っても、実際に[ka]と発音するとは限らず、「カ」を記号的に用い、[ha]という当時の日本語に無い音声を発することもできる。つまり、梵語の漢字音写である「摩訶"mahā"、蘇婆訶"svāhā"」などを仮名で「マカ、ソワカ(悉曇要訣・大正蔵Vol. 84 p. 529ではモコ、ソモコ。母音が現代中国語móhē等に似る)」と綴りながらも、それを参考にして「マハー、スヴァーハー"mahā, svāhā"」という梵語発音をすることもできる。より正確には、中国密教以来の「二合・引」といった表記が必要である。ソ・蘇"su, so"とワ・婆"ba, va, wa"を「二合(二字の子音結合)」で結びつけたり(su + va = sva)、「引」で長音にしたり(sva→svā, ha→hā)するとよい。

波羅蜜の「波」は、平仮名「は"Ancient: pa Modern: ha"」の字形の原型であり、現在も中国では「ポー (拼音 Pinyin: bō 平声)」と発せられる。
日本語の音写漢字=万葉仮名の古代中国語音韻・上古音・中古音を検証すれば、いくらでも証明ができる(笑い声で発せられるような"hahaha"や梵語・古代中国語の"ha"音などは古代にカ行字を用いるような形でハ行カナ"pa"と区別される・・・例として明覚の悉曇要訣でha梵字にカ行カナを付してある。過去記事に「仮名文字」は仮に用いるものであって便宜的手段・臨機応変のものだという心得を記したように実際の音価を目ざとく推定すべし)。
日本語もとい「和語・やまとことば」の語彙にも、破裂音で扱わないと擬音語的な・オノマトペ的な語句の成立を説明できないものが多くある。

悉曇に基づいた五十音図・音価再建
(リンク先に元画像)
そもそも、「あかさたなはまやらわ」という五十音の段表記は、仏教の影響で、悉曇学もといインドの言語学・音声学に倣って中世(近世との説もある)において日本語音韻のために仮名文字で並べられたものである。
江戸時代の国学者・本居宣長さんが「五十連音の圖はもと悉曇字母に依りて作れるもの…(字音仮名用格より、他)」として説明するくらい、伝統的に認知されている。
近現代においては、言語学の知見でも説明できる。
インドの言語学・音声学における原形に基づいて五十音のア段を示すと"a ka cha(IAST: ca) ta na pa ma ya ra(la) wa(IAST: va)" (現代カナ: アカチャタナパマヤラワ)となり、インド音声に対照すると s系(歯擦音"sibilant fricative")や h といった摩擦音が無い。
つまり、当時の日本人は s系や h の摩擦音に基づいた仮名を作らなかった。

インドの音声学は「シクシャー शिक्षा śikṣā」と呼ばれ、「式叉(しきしゃ"shikisha" 中古音: shik-cha  これはs系摩擦音のまま異音的に日本で受容か)」として中国・日本でも知られた(インド学問の口伝・原典が漢訳されたわけでないが少なくとも分野の名称は漢語に伝えられた)。
それによると、「あ"a"」は母音"svara"系であり、「か"ka"~ま"ma"」は接触する音"sparśa"=閉鎖音系で軟口蓋(か)・硬口蓋(さ)・歯茎(た、な)・両唇(は、ま)といった子音の調音位置に基づいた順序(奥から先まで)となっている。
「子音の調音位置に基づいた順序(奥から先まで)」は、「や"ya"・ら"ra"・わ"wa"」という母音と子音の間の音"antaḥstha"=半母音系にも適用される。
この発音順序は、西洋人が編纂したサンスクリット辞書(モニエル=ウィリアムズ、アプテ等)の単語掲載順にも採用される(詳細にはa ka kha ga gha ṅa ca cha ja jha ña ṭa ṭha ḍa ḍha ṇa ta tha da dha na pa pha ba bha ma ya ra la va śa ṣa sa ha)。

インド系言語・梵語・サンスクリット語・ヴェーダ語の s系には、歯茎摩擦音 स (IAST/s/ IPA/s/ )・口蓋系の摩擦音 श (IAST/ś/ 硬口蓋そのものと思えず歯茎硬口蓋・後部歯茎ならIPA/ɕ, ʃ/)・そり舌(反舌)摩擦音 ष (IAST/ṣ/ IPA/ʂ/)があり、h は声門摩擦音 ह (IAST/h/ IPA/h/)である。
インドの音声学は、摩擦音を「ウーシュマン"ūṣman"(またはウーシュマ"ūṣma")」と呼び、s系3種を無声音・アゴーシャ"aghoṣa"、hを有声音・ゴーシャ"ghoṣa"と区別する。
現代日本のさ行・は行発音は、インドで摩擦音・ウーシュマンと区別されたもの"ś, s, ṣ, h"に含まれている。
そのサ sa [sa], シャ sha [ɕa], ハ ha [ha]を、そのまま発音した音価は、摩擦音・ウーシュマンと区別されたもの"ś, s, ṣ, h"に共通する。

もし上代~中世日本における音素さ行・は行の発音・音価が、現代日本語のさ行・は行と同じ発音・音価であれば、"sparśa"系統と"antaḥstha"系統と"ūṣman"系統を区別しているという「あかさたなはまやらわ」の順が成り立たない。
すなわち「あかたなまやらわさは"a ka ta na ma ya ra wa(IAST: va) sa ha"」となろう。
中世日本に整備された平仮名・片仮名・五十音順は、どうあっても、悉曇学もとい「式叉論・インドの音声学」の伝統に則っている。
当時のさ行発音が破擦音 [t͡ɕa]・は行発音が破裂音 [pa]であった事実(上代~中世日本語の内的な事実に限って言えば異音として摩擦音シャ [ɕa]・ファ [ɸa]があったことも容認できる)が、近現代の言語学的見地で推定できる(以後の他言語例も参照)。

※インド音声学・音韻論・シクシャーに関する文献は、以下のものがネット上で参照できる。
パーニニーヤ・シクシャー→http://archive.org/stream/PaniniyaShiksha/paniniya_shiksha (IAST校正)
タイッティリーヤ・プラーティシャーキヤ→http://www.sanskritweb.net/yajurveda/tp-comb.pdf (IAST校正)
五十音図の原型を垣間見る平安時代の悉曇文献は、同じくネット上で参照できるものが安然「悉曇蔵 (大正蔵2702 V. 84)」(西暦880年、元慶4年)と、明覚「悉曇要訣 (大正蔵2706 V. 84)」(平安後期)である。一般的に認知されるものに明覚「仮名反音作法」があるものの、現状はアクセシビリティが低い。



中国語 Old Chinese, Middle Chinese, Modern Standard (Mandarin), Chinese languages

中国語の漢字音にも、古代・上古音から普通話・官話・現代にかけ、破裂音が破擦音や摩擦音となる現象が見られる。
以下、英語版Wiktionaryの記事所載の、「鄭張尚芳(Zhengzhang 2003, ZZ)式の上古音」と「呉音の歴史的仮名遣い・Sino-Japanese慣用ローマ字」と「現代ピンイン(拼音 Pinyin)」とを引用して示す。

「佛・仏 /*bɯd/ (字音仮名遣い: ぶつ・ブツ"but")」が、現代ピンインで"fó (慣用カナ: フォー )"となるように、両唇破裂音が唇系の摩擦音となる(ほか→現代漢音: ふつ"fut, futsu" 広東語: fat6 客家語: fu̍t 閩東語: hŭk 閩南語: hu̍t)。
「中 /*tuŋ/ (字音仮名遣い: ちゆう・チユウ"tyuu")」が、現代ピンインで"zhōng (慣用カナ: チョン )"となるように、歯茎破裂音が歯茎系の破擦音となる(中国語の言語コードzhの由来)。
「胡 /*ɡaː/ (字音仮名遣い: こ・コ"ko")」現代ピンインで"hú (慣用カナ: フーまたはウー)"となるように、軟口蓋破裂音が軟口蓋摩擦音となる(広東語wu4などでは接近音)。
「玄 /*ɡʷeːn/ (字音仮名遣い: ぐゑん・グヱン"gwen")」が、現代ピンインで"xuán (慣用カナ: シュアンまたはシャン"となるように、軟口蓋破裂音(接近音混ざり)が歯茎系の摩擦音となる。
「幻 /*ɡʷreːns/ (字音仮名遣い: ぐゑん・グヱン"gwen")」が、現代ピンインで"huàn (慣用カナ: フアン)"となるように、軟口蓋破裂音(流音混ざり)が口蓋系の摩擦音となる(広東語waan6などでは接近音)。

これらの例は過去記事でも示された。
ハ行音の反証→傍証として、古代日本と中国の漢字音におけるK/H置換もしくは互換(例は摩訶・まか/マハー、上海・じょうかい/シャンハイなど)ということも多くの過去記事で語っているので参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post_30.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html

蛇足だが、「沸騰する」はブクブク、梵語budbuda 英語boil ボイルの如くにされねばならないので、現代日本語発音の「ふっとう・フットー"futtou, futtō"」ではなく、「ブッドン"buddong"」とでもいうべきか(沸・騰の二字の上古音・中古音を知りたい者は私と同様に調査すればよい)。



ラテン語 Classical Latin, Ecclesiastical Latin (Vulgar Latin, Midieval Latin)
イタリック語派・ロマンス諸語 Italic languages, Romance languages

先に日本語の「ち"ti→chi」という破裂音の破擦音化現象を確認した。
これは、ラテン語の"gratia"が「古典発音: グラーティア/ˈɡraː.ti.a/→教会発音: グラツィア/ˈɡra.t͡si.a/」となるよう、西洋言語にも見られる。
ラテン語は伝統的ローマ地域の言語であり、ローマ所在地のイタリアの口語もまた時代を経て「ウェネティア Venetia」が「ヴェネツィア Venezia (いわゆるベネチア、ベニス)」となったように、文字表記までもが破裂音"ti"から破擦音仕様"zi"となっている。
教会ラテン語では例外的に"...sti (~スティ)"という場合が破裂音として発音される(2種の"ti"発音は聖歌Veni Creator Spiritusの音声で聴かれる)。

※後の調査において、日本語の「ち"ti→chi /t͡ʃi/"」や、ラテン語の"ti→tsi /t͡si/"という現象は、「歯擦音化"assibilation"」という名称のWikipedia記事に説明されていることを確認した。それによれば、ラテン語・俗ラテン語・イタリア語はもちろん、フランス語でも同様の語句が破擦音から摩擦音[sj]に至ったことが示される(例: 古典ラテン語ナーティオー"nātiō"→俗語ナツィオ"natio"→イタリア語ナツィオーネ"nazione" フランス語ナショorナスョ"nation" 英語ネーション"nation")。先の中国語の上古音・中古音・現代ピンインに見られる「中 /*tuŋ/ or ちう → zhōng or chū」といった現象も、同じことであり、過去記事に説明された「茶(だ・た・さ・ちゃ"da, ta, cha-sa, tja-tya" en: tea)」は言うまでもなく、「衆・種(古代中国語で破裂拗音→現代普通話は破擦音)」という漢字が現代日本で「しゅ"shu"・しゅう"shū"」の発音にされることも、当該フランス語句と同じことといえる。

英単語において - in English words
英語にも前後の音の相対性による字の音価の変化が多く見られ、例えば"c, ch"は前後の音の相対性によって破裂音・破擦音・摩擦音いずれの音価も発生する(c例: カップ"cup" キャップ"cap 〈/kæp/ 恐らく日本語のキャ発音 [kʲa] でない〉" シティ"city" ch例: クローム"chrome" コーラス"chorus" チェス"chess" マシン"machine")。
英語における"c"については、いわゆるhard Cとsoft Cの区別がある。
hard Cとsoft Cがどのような条件において明確に異なって現れるかは、把握できそうでも、例外的な単語がある。
例えば、語頭ce-の1音節で"cell, cent"がセ発音(soft C)なのに、"Celt"=ケルト(セルトでなく)のみはケ発音(hard C)になる(セ発音の場合もある)といった、疑問が残る。
"Celt, Celts"がケルト人という伝統的な民族の名称であるから、ギリシャ語Κελτοί (keltoi)に由来するような古風な発音が保持されていると考えることもできる。
調べてみると、「英語版Wiktionary - Celt」に"A consciously archaizing pronunciation /kɛlt/ was advocated during Irish and Welsh nationalism beginning in the 1850s."とあり、アイルランドやウェールズのナショナリズムの方面から1850年代に発生した発音とのことであり、「昔から保持されている」というよりも復古主義的な経緯で再興されたシロモノである。

※「前後の音の相対性」について…ラテン文字の"c, C"は元々、ギリシャ文字のγ(ガンマ)の大文字Γに由来するものである。古典ラテン語で"c, C"は軟口蓋破裂音/k/であったが、これは後のラテン語で前舌母音"front vowel"が関わると硬口蓋破裂音/c/となったり(硬口蓋化"palatalization"現象、日本語やパーリ語など祖語・古代語に対する口語によくある現象でロシア語では軟音化を起こす)、ciは後部歯茎破擦音/t͡ʃi/となる。英語では条件的に摩擦音(シー、スィーという字名自体に表れる)となる。ラテン文字"c, C"は、音価が著しく異なったり多様化している文字である。

※学問的に想定・建設された古代の印欧祖語(インド・ヨーロッパ祖語)には、更にケントゥム語派とサテム語派という2つの潮流が想定されている(現代では実質的な2つの潮流として見ることに否定的だが音変化のモデルケースとしては単純明快なので参照される)。その名称に用いられたケントゥムとサテムという二語は、イタリック語派古典ラテン語の"centum"と、インド-イラン語派アヴェスター語の"satəm" (同系のサンスクリットは"śata-"シャタ-)に由来し、どちらも数詞の"100"を意味する。"centum"は教会ラテン語でチェントゥムという破擦音である。印欧祖語という大昔より、カ発音とサ発音(サ[sa]の異音や祖形にシャ[ʃa] チャ[t͡ʃa] キャ[ca]等を想定)の系統の置き換わりがあったということが考えられていることも留意されたい。ところで、現代の英語はラテン語の語彙を1000年ほど前から漸次に古フランス語や中期フランス語経由で受容してきた。フランス語・スペイン語・ポルトガル語もまたC字がS発音を表すこと(ca等は例外的)がほとんどである(それらロマンス諸語の祖語と目される俗ラテン語"Vulgar Latin"の時に兆候があったと想定される)。ケントゥム"centum"派生語のセンチ-"centi-"(単語例はセンチメートル"centimetre")は、「想定上の古代のサテム語派」のような音変化を成している。



ギリシャ語 Ancient Greek, Greek languages

ギリシャ文字にφ、θ、χという文字がある。
それら文字の音価は、古代ギリシャ語において"ph, th, kh"といった3種類の破裂有気音(有気音or帯気音or含気音の破裂音)である。
しかし、現代では、3種類の破裂有気音がみな摩擦音に移行している。
φ(カナ名称: ペイ→フィ(通称ファイ)) /pʰ→f/ (有気無声両唇破裂音→無声唇歯摩擦音)
θ(カナ名称: テータ→シタ(通称シータ)) /tʰ→θ/ (有気無声歯茎破裂音→無声歯摩擦音)
χ(カナ名称: キー(通称カイ)→ヒ) /kʰ→x/ (有気無声軟口蓋破裂音→無声軟口蓋摩擦音)

英単語において - in English words
"ph"や"th"というはスペリングは、現代の一般的な英単語にも継承されているが、やはりみな同様の摩擦音となっている。
具体的に前者"ph"は無声唇歯摩擦音/f/であり、後者"th"は無声歯摩擦音/θ/と有声歯摩擦音/ð/である。
特に後者"th"は、日本語カナ表記で「サースティ"thirsty, sāsuti"、スローン"throne, surōn"、ブレス"breath, buresu"」や「ザ・ジ"the, za or zi or ji"、フェザー"feather, fezā"」となり、「さ行の歯茎摩擦音s z・破擦音j」で表記される。
英単語において"kh"というスペリングはアジア系言語の翻字に多くあり、一般的な単語は先述の"ch"の形式を取る。
それらはギリシャ語借用系(大概はラテン語経由)・ギリシャ造語系に「キャラクター"character (χαρακτήρ)"」や「コーラス"chorus (χορ-)"」や「クライスト"Christ (Χριστός)"」や「モノクローム"monochrome (χρῶμ-)"」や「シンクロナイズド"synchronized (χρόν-)"」といった語句がある。

※ちなみに、ギリシャ語根に由来する英単語で"th"と"ph"を兼ねたものは、"Theosophy (Theo-Sophy, θεοσοφία)"があり、その日本語カナ表記では「テオソフィー"teosofī"」となるが、これは破裂音と摩擦音が混在しており、概ね古代ギリシャ語寄りの「θεός テオス"theos, teosu"」と現代英語寄りの「φιλοσοφία ピロソピア→フィロソフィー"philosophy, firosofī"」を一緒にしたろう。カナ表記の基準に則れば「セオソフィ"seosofi"」、実際の英語発音/θɪˈɒsəfɪ/に近付けると「シオソフィ"siosofi"、シアサフィ"siasafi"」となる。ドイツ語では「"Theosophie"、テオゾフィー"teozofī"」として、イタリア語・フィンランド語・ポルトガル語では「"Teosofia"テオソフィア」として、先のカナ表記「テオソフィー"teosofī"」に似る。慣用的な混成語としては、「テオソフィー"teosofī"」の方が親しまれやすいかもしれない。

ちなみに、英語といえば印欧語族>ゲルマン語派だが、この語派の言語と他の諸語派の語句とで同根語の比較をすると、やはり破裂音が摩擦音に変化している様子を観察できる。
「あなた (2人称代名詞・単数主格)」
インド語派>サンスクリットtvám त्वम् (与格・属格はte)
イタリック語派>古典ラテン語 tū; tu (対格・奪格はtēで長母音がサンスクリットと同じ)
ゲルマン語派>ドイツ語 du
ゲルマン語派>英語 thou (このthは/ð/有声歯摩擦音)
印欧祖語 *túh₂
※英語で一般的な"you"は、古期の単数目的格"thou"の複数形"you (主格 ye)"が拡大された結果である。サンスクリットでも2人称複数形がyで始まるので"y- *j- =硬口蓋接近音"は通常の印欧語で複数形である。

「足 (名詞・単数主格)」
インド語派>サンスクリット pāda पाद
ヘレニック語派>古代ギリシア語 poús πούς (英語のオクトパス octopusの語源)
イタリック語派>古典ラテン語 pēs; pes (英語のペダル pedal, ペデストリアン pedestrianなどの語源)
ゲルマン語派>英語 foot (ドイツ語はFußとして摩擦音が2つある)
印欧祖語 *pṓds

※ほか、西洋言語学では印欧祖語の破裂有声音*b, *d, *gが英語では摩擦音となる現象を、グリムの法則と呼ぶ。一例: 印欧祖語 *d → やや古い印欧系語派 t → ゲルマン祖語・英語 th (摩擦音/θ, ð/としてのth)。同じくグリムの法則で、印欧祖語の破裂有声音・有気音*bʰ, *dʰ, *gʰが有気音でなくなるなどの現象を指摘する。「兄弟」を意味する言葉は、サンスクリットの"bhrātā (ブラーター、語幹形bhrātṛ)"が英語で"brother (ブラザー)" ラテン語で"frāter"とあるなどの例が挙げられる(再建された印欧祖語は*bʰréh₂tēr)。英語"brother"の摩擦音"th"が原語における*tなど破裂音の位置の相対性によって生じたとする説を、ヴェルナーの法則と呼ぶ。



英語 English, dialects

現代のアメリカ英語では、/p, t, k/の破裂音が有気音/pʰ, tʰ, kʰ/で出ることがある。
英語版Wikipedia - Aspirated consonant (有気音の子音 直訳: 吸引された子音)の項目には、pinとspinを比較してpinが/pʰɪn/という有気音として発せられ・spinが有気音として発せられないことを例示するほか、音声付きでアメリカ英語の発音の「"distend" with unaspirated t /dɨˈstɛnd/ "distaste" with aspirated t: /dɨsˈtʰeɪst/」を例示してある。
ほか、インターネット上には"Rule for English Aspiration"というPDFが確認され、potが有気音であってspotが有気音でなく、topが有気音であってspotが有気音でなく、cotが有気音であってScotが有気音でない、ということを例示してある(このうちtopは英語版Wiktionaryでイギリス英語・アメリカ英語のどちらにも/tʰɒp/ /tʰɑp/という有気音のケースを掲載してある)。

こういった、文字上は単なる破裂音であるべきp, t, k語句が、口語で有気音として発せられると、時代の移り変わりとともに「古代ギリシャ語φ, θ, χのような摩擦音化」が生じるかもしれない。
ただし、日本語の「ぱ(パ)"pa"」が促音便の相関性で現在も主要な日本語の発音に残されながら、破裂音が継続している外来語の影響もあるために「は・ぱ」という清音・半濁音の弁別があるように、英語でも、何らかの別の理由・条件によれば、しばらくはp, t, kが現状のままに保存されよう。
当記事に示された現象が進展すると、「(人類文明が高度に保たれるという条件下で)数百年後に人間の口語が機械音声・電子音・ノイズ音のようなもの(モニョモニョmnmnヴルヴルvrvrズウィーzwee, murmur...)になっていようか(あるいは人工的に機械化されていようか)」とも考えたくなる。

※英語はゲルマン語派"Germanic languages"であり、その観点でも少し記す。古英語に通じる語頭h(声門摩擦音[h])語彙は、同じゲルマン語派のドイツ語h(軟口蓋摩擦音/x/)が語頭の単語と対応する。また、英語疑問詞"what"など語頭wh語彙(両唇軟口蓋接近音[w])は中英語(500年ほど前)でhwと綴られたし、現代日本で"what"をワットでなく「ホワット」と書くことも、この中英語の綴りに示された両唇軟口蓋摩擦音[ʍ]発音(現代はアメリカの一部などに残る稀な発音)に由来する。それら語彙のwやhは現代日本語のワ発音やハ発音よりも、カ発音=軟口蓋に調音位置が近かったことになる。"what, who, how"のような疑問詞は、ラテン語で語頭qu- (quis, quam等)=軟口蓋破裂音+唇音化[kʷ]となるなど、カ発音(より近似するクヮ発音kwaが古代日本漢字音にあったが)に近い。ゲルマン語派ないしゲルマン祖語にも、学者は摩擦音化や事前の兆候を観察する。これのみならず、一人称代名詞"I, ich"や二人称代名詞"thou (単数形の古形)"といった単語もラテン語"ego"や"tu"等と比較すれば、様々に摩擦音化を観察できる。なお、同じゲルマン語派でも、英語の破裂音がドイツ語の摩擦音・破擦音に対応する語彙もある(英apple, 独Apfelや 英book, 独Buchなどの差)。古英語g音は近代英語にy(硬口蓋化関連、接近音化・母音化)となるが、ドイツ語に残る(古dæġ, 英day, 独Tagなど cf. 再建ゲルマン祖語*dagaz)。ゲルマン語派のうち、英語やドイツ語と異なって古ノルド語系統の現代語を求めるならばアイスランド語を見てもよい。例えば前述の英語who, ラテン語quis (疑問詞) qui (関係詞)は、ドイツ語でwerだが、アイスランド語で"hver"=軟口蓋摩擦音+唇音化が残るのでラテン語・印欧祖語に似る(デンマーク語hvem ノルウェー語hvemは文字に名残があるが発音上[vem]で唇音のみを発する英語・ドイツ語に似る)。なお英語whoの原型は、ゲルマン祖語で *hwaz、印欧祖語で *kʷos (*kʷis) と推定されている。



アラビア語 Classical Arabic, Modern Standard Arabic (fuṣḥā), dialects, Arabic languages
ヘブライ語 (ヘブル語) Classical Hebrew, Hebrew languages
セム語派 Semitic languages

アラビア語の語彙かつイスラム教の教義用語「カリフ」は、英語圏で"caliph"と綴られる。
しかし、ドバイの高層建築物「ブルジュ・ハリーファ」に見られるような「ハリーファ"khalifa"」が、「カリフ」よりも現代アラビア語に近い発音だ、と考えられる。
「カリフ」は頭子音が軟口蓋破裂音であるが、「ハリーファ」は軟口蓋摩擦音か声門摩擦音のようで、破裂音と摩擦音の互換性が看取できるが、原語の発音がいかなるものか判断できない。
さて、実際にカリフ"karifu"的な発音とハリファ"harifa"的な発音は、古代のアラビア語と多くのアラビア語方言の、いずれに分類されようか、と疑問に思った。
もしかしたらば、同じセム語派"Semitic"やアフロ・アジア語族"Afro-Asiatic"のヘブライ語で"Tanach"や"Tanakh"と綴られるユダヤ教聖典の「タナハ」という名称の「ハ"ch, kh"」と同じような音価を表しているかもしれない。
それに、ラテン文字転写"caliph"の"ph"は、古代ギリシャ語φのような両唇破裂音の有気音を示唆するものか、あるいは単に摩擦音の"f"を慣用的に"ph"で転写したに過ぎないものか、一目に区別が不明瞭である。

Khalifa caliph
"Khalifa" in Hans Wehr 4th ed., page 298 (of 1303)

いくつかの疑問を伴うのでこれを検証すべく、日本語カナ表記のされたアラビア語「カリフ・ハリーファ(ハリファ)」とヘブライ語「タナハ(タナフ)」の現代の原語文字表記を求めた。
前者アラビア語がخَلِيفَة (ヴェーア式: ḵalīfa) خليف (ヴェーア式: ḵalīf) 、後者ヘブライ語がתנ״ך ニクダー・ニクード付きתַּנַ״ךְ (IPA 音素/tɑːˈnɑːx/ 音価[taˈnaχ]) である。

前者アラビア語については、カ・ハ部分が خ (無声咽頭摩擦音/ħ/ حに点がついた形 خ で無声軟口蓋摩擦音/x/を表す)「ハー"Ḫāʾ"」、フ・ファ部分が فَ (無声唇歯摩擦音/f/ فに同じ)「ファー"fāʼ"」である。
これらの文字と、学問的に考察されたセム語派の諸言語との関係性を求めれば、カ・ハ部分 خやحは基本的に摩擦音系であるから、西洋におけるカリフ"caliph"転写のカ"ca"は、アラビア語の方言(日本漢字音韻のH/K置換のようなもの)もしくは誤写の可能性がある。
「خ=軟口蓋摩擦音としてのハ(現代日本では声門摩擦音)」の音のために用いられた"kha"や"ḵa"は、単なる"ha"と比べて軟口蓋の音(IPAで/x/、より奥の口蓋垂の音/χ/とも)であることを示唆する目的があろう。
フ・ファ部分の転写は唇歯摩擦音を意図したものと捉えて差支えが無いが、なぜ"caliph"では"ph"を用いて"f"としなかったかといえば、"caliph"の元がラテン語"calipha"とされており、転写当時に"f"字が無いからか、転写した人が古典期の破裂有気音でなく後世の摩擦音で"ph"になじんでいたからか(または当時の発音でのギリシャ文字Φ経由か)、と考えられる。
ちなみに、1883年のラテン語辞書における"calipha"の説明に「halifaを参照せよ "Vide halifa"」とあった(参照せよというのにhalifaの項目が無い)。
フ・ファ部分に対応するアラビア文字فは、学問的に構築されたセム祖語"Proto-Semitic"で*p音だったとされており、ハリーファ原語のひとつ خَلَفَ (動詞verb)も*ḫalap-. (ḫという字はDIN 31635表記によりヴェーア式のḵに相当)だったとされており、本題の「破裂音→摩擦音」の現象に関する肯定的根拠となる。
※ちなみに英語版Wikipedia - Stop Consanant (閉鎖音もとい破裂音)の項目>Common stopsの節で、上記の事柄について"the labial is the least stable of the voiceless stops in the languages of the world, as the unconditioned sound change [p] → [f] (→ [h] → Ø) is quite common in unrelated languages, having occurred in the history of Classical Japanese, Classical Arabic, and Proto-Celtic, for instance."と説明される。当記事で語られた上代日本語と現代日本語との差異も例示されている。古代アラビア語はハリーファを「ハリーパ *ḫalīpa」としたろうか。

後者ヘブライ語については、ハ部分が ך (軟口蓋破裂音כの語尾形)「カフ, ハフ"Kaph; Chaf"」である。
この文字「カフ」と、学問的に考察されたセム語派の諸言語との関係性を求めれば、基本的に破裂音系であると同時に、現代は条件的に軟口蓋摩擦音ともなるようである。
なお、ヘブライ語関係の学問で、軟口蓋摩擦音を表す文字"ḵ"は、先のアラビア語ハリーファのヴェーア式"ḵalīfa"にある軟口蓋(口蓋垂)摩擦音を表す文字"ḵ"と同じである。
問題の「タナハ תנ״ך」とは、頭字語・アクロニムであり、 תּוֹרָה‎ (torá), נְבִיאִים‎ (n'vi'ím), כְּתוּבִים‎ (k'tuvím)の頭文字より成り立つ言葉である。
ハ部分はもともと、軟口蓋摩擦音でなく、軟口蓋破裂音だったことが垣間見える。
厳密に説明しなおすとヘブライ語句 כְּתוּבִים (慣用カナ表記: クトビーム、ケトゥビーム、クトゥヴィーム…)は、ニクダー・ニクード付き表記で כְּ (ここでは語中形)という真ん中に点=ダゲシュのついた文字が使われ(下の縦2列の点はシュヴァー"Shva"と呼ばれ/e/エの音を示すものだがアポストロフィで曖昧な母音Ø əを示す記号?)、タナハは ךְ (ここでは語尾形)という縦2列の点のついた文字であり、それによって軟口蓋破裂音/k/にも軟口蓋摩擦音/x/ (ḵ)にもなる。
というよりは、発音によってニクダーが便宜的に付されると捉えた方が、歴史的な目線で妥当である(ヘブライ文字の母音記号・ニクダー成立初期にそうされた)。
ヘブライ文字 ך (語中・語頭形: כ)は、学問的に構築されたセム祖語"Proto-Semitic"で*k音のみだったとされており、本題の「破裂音→摩擦音」の現象に関する肯定的根拠となる。
※セム祖語および古典ヘブライ語について、軟口蓋破裂音*k のための「ך (語中・語頭形: כ) カフ"Kaph; Chaf"」と、軟口蓋放出音*q = IPA/k'/ のための「ק コフ"Qoph; Kuf"」とを混同しないよう、注意されたい。「ק コフ"Qoph; Kuf"」は現代に軟口蓋破裂音/k/のみで用いられるようであり、昔は軟口蓋放出音もしくは軟口蓋破裂音の咽頭化した音(総称して強勢音 emphatic consonant ≠stress)だったという。2つの字の韻尾「フ」も、両唇破裂音の摩擦音化があったと見られる。セム祖語的にカプとかコプとしてp音にする方が、本来的である。フェニキア文字"Phoenician_alphabet"・アラム文字"Aramaic"でカープ"Kāp"・コープ"Qōp"などと呼ばれたようである(cf. ギリシャ文字 Κ カッパ"kappa", Ϙ コッパ"qoppa")。

以上のように、慣用カナ表記でアラビア語「カリフ=ハリーファ」とヘブライ語「タナハ」における「ハ(カリフのカ)」は、前者と後者が同じ発音である場合と異なる発音である場合とがあるが、みな摩擦音であることが共通した。
一方、文字としては、セム語派のアルファベット体系において異なる字であることが確認できた。
さて、アラビア語とヘブライ語のラテン文字転写・表記問題については、私は表題に関連する事項の概要として記してきたので、より詳細に学びたい人は、以下のページより確認されるとよい。

http://en.wikipedia.org/wiki/Romanization_of_Arabic
http://en.wikipedia.org/wiki/Arabic_phonology (日本語版の情報の方がよいか)
http://en.wikipedia.org/wiki/Romanization_of_Hebrew
http://en.wikipedia.org/wiki/Hebrew_language

※シュヴァー"Shva"記号=縦2つの点 ְ  (翻字ではアポストロフィ ' )の発音例
トーラー朗読後に唱えるアリヤより"וְנָתַן לָנוּ אֶת תּוֹרָתוֹ transliteration: v'natan lanu et torato"
וְ = v' 。ヴェ"ve"の発音例が多く見られた→1, 2, 3, 4。現代語・ティベリア式・セファルディム式・アシュケナジム式・非中東圏学習者などといった差について未検証だが、いずれもシュヴァー相当の字のタイミングでエの発音[e (ɛ)]をしている点は共通している。「音声記号シュワー・中舌中央母音/ə/ (聴覚的にアに近い音)の発音だ」という説は、限られた事実にのみ当たると思われる。後日たまたま、音声学的見解の論文「現代ヘブライ語における歴史的シュワーのゆれ」を見た。それによれば、様々な条件(地域差や話者個人の状況など)によって[e (ɛ)]や[ɘ] (非円唇中舌半狭母音 論文仮定@1)や[ĕ] (超短母音・最短母音 論文仮定@2)や[a]や[∅] (無音)で現れるようである。

追記: 2018年4月4日にシュヴァーについての考察を動画で投稿したhttp://youtu.be/oB2Vfnux4is



インド・アーリア語派 Indo-Aryan languages
ヴェーダ語 
Vedic language
サンスクリット・パーリ・プラークリット 
Sanskrit (saṃskṛta), Pali (pāḷi), Prakrit (prākṛta, prakṛta)

再びインド系言語、いわゆるインド・アーリア語派の話題をしておく。
ヴェーダ伝承以来の正当な発音のインド系言語は、学問的に「古代インド・アーリア語派」に分類されている。
インド文法学者「パーニニ」がヴェーダなどの古代インド・アーリア語を用いた口伝に基づいて体系的に説明したことで「サンスクリット(サンスクリタ"saṃskṛta")」と呼ばれた言語と、それに対比する形で「プラークリット(プラクリタorプラークリタ)」と呼ばれたインドの口語・俗語は、おおよそ「中期インド・アーリア語派」に分類されている。
中期インド・アーリア語派の口語のうち、仏教開祖といわれる釈尊(ガウタマ・シッダールタorゴータマ・シッダッタ)の在世(学問的に紀元前5~6世紀と見られる)の言語は、パーリ語文献やジャイナ教のアルダ・マーガディー(半マガダ語)文献やアショーカ王碑文より垣間見ることとなる。

ここでは、古代インド・アーリア語(OIA)をサンスクリットと呼び、中期インド・アーリア語(MIA)をパーリと呼び、対比して破擦音化語句を列挙する。
※特筆されない限りは、当記事の先例の如く、インド学専門の発音表記IASTを用いる。"c, j, ś"の発音は「軟口蓋"kaṇṭhya"でない口蓋"tālavya"」とみなされるが、現代発音(ヒンドゥー教・テーラワーダ仏教などあらゆる伝統宗教による発音)はいずれも硬口蓋"palatal"破裂音・摩擦音[c, ɟ, ç]でなく、歯茎硬口蓋の破擦音・摩擦音[t͡ɕ, d͡ʑ, ɕ]で発せられる。古代ヴェーダ~釈尊在世・ヴェーダ教派成長期においてどういう発音だったかは、シクシャーなどのヴェーダ学問伝承に倣っても断定できない。無論、信仰のある人は、今に行われる発音を「教法の原初に等し」と思えばよい。

無声音"aghoṣa"(清音)の例 tya→cca thya→ccha系
・諦 サンスクリットで"satya"→パーリで"sacca"
・縁起(or因縁生) サンスクリットで"pratītyasamutpāda"→パーリで"paṭiccasamuppāda"
・辟支(ひゃくし 復元: prak-chi ) サンスクリットで"pratyeka"→パーリで"pacceka" (後続buddhaで辟支仏=独覚or縁覚という語句になる)
・迦旃延(かせんねん 復元: ka-chan-yan) サンスクリットで"Kātyāyana"→パーリで"Kaccāyana" (またはKaccāna)
・邪 サンスクリットで"mithyā"→パーリで"micchā" (手段が不正な行為=邪婬・邪命などの接頭辞としての用例が仏教的に多い)

有声音"ghoṣa"(濁音)の例 dya→jja、dhya→jjha系
・明(神通力や学問の総称) サンスクリットで"vidyā"→パーリで"vijjā"
・禅那(ぜんな 復元: dyan-na) サンスクリットで"dhyāna"→パーリで"jhāna"
・覚支 サンスクリットで"bodhyaṅga"→パーリで"bojjhaṅga"

ヴェーダ典籍にも載る言葉"ārya"は、カナ表記でアールヤともアールャともアーリヤともアーリャともアーリアとも表現できるが、これはギリシアとかギリシャとかギリシヤのような違いと似たもので、母音と子音の関係性をラテン文字からどう読み取ってカナ表記をするかの差である。
"ārya"は2音節の語句であるが、二重子音の単純化現象の多いパーリ語において"ariya"と3音節の語句になっており、アリヤとカナ表記できる。
パーリ語において、"r"の拗音的な"rya"部分(厳密にはrとyが日本語の拗音ほど強く絡まない)に"i"の一字を介し、より明確に硬口蓋接近音"ya /ja/"を独立させている。
似た例として、サンスクリットのシューニヤ・シューニャ"śūnya"・アニヤ"anya"は、パーリ語でスンニャ"suñña"・アンニャ"añña"といった「歯茎鼻音"n" + y /j/」が「硬口蓋鼻音/ɲ/」となっている。
アーリヤ・シューニヤ話は破裂音の破擦音化や摩擦音化と関係ない事項であるが、破擦音化や摩擦音化と相関性の強い「硬口蓋化(口蓋化)」の例として示す。
"ārya"の発音を、私が実演しているので、参考までに聴いていただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM (0分20秒)

※ārya→ariya現象は硬口蓋化に関連するという見解に、反例がある。「阿羅漢」はヴェーダ≒サンスクリット"arhan"がパーリ"arahanta (一般的には主格: arahaṃ 与格: arahatoなどの形式)"となるよう、rと別の子音にa音の挿入が見られ、この反例を基準にすると、「後ろに硬口蓋音"y /j/"が伴わずとも歯茎音たる"r"音が顕在化する」というだけのことかもしれない。"r"音の特殊事情は、「成節子音の確立」にもある。成節子音"syllabic consonant"(音節主音的子音)とは、サンスクリットIASTで ṛ という字(インド系言語の反舌rと区別する場合は r̥)で表記され、慣用ラテン文字表記で"ri"、慣用カナで「リ」と綴られる。便宜的にリ"ri"と綴っても、発音は母音"i"を伴わない。"ṛ"のみで母音と同じように1音節を成すという特殊な子音である。リグ・ヴェーダ"ṛg-veda (ṛg.ve.da=3音節)"やサンスクリタ"saṃskṛta (saṃ.skṛ.ta=3音節)"のリが相当する。サンスクリットで「仙人」を意味する「リシ"ṛṣi"」は、パーリ語で「イシ"isi"(善見律毘婆沙: 伊私)」となり、これもまた硬口蓋接近音"y /j/"と関連性の深い"i"音になっている。しかし、これにも反例があり、サンスクリットで「心臓」を意味する「フリダヤ"hṛdaya"」は、パーリ語で「ハダヤ"hadaya"」となっており、後続の"da"の相関性で"hṛ"が"ha"になったと看取される(別のプラークリットのシャウラセーニーやマハーラーシュトリーやアパブランシャでは"hiaa" हिअअ )。ṛがuになった例もあり、サンスクリットで"pṛthagjana"→パーリ語で"puthujjana"がある。みな母音調和の可能性もあるか。なお、"ṛgveda"は"irubbeda"、 "saṃskṛta"は"saṅkhata"となる。他に"gṛdhra"→"gijjha"も考察の余地がある。込み入った話になるが、さまざまな語句の例を挙げておいた。何らかのひらめきがあるとよい。



このほか、インド・イラン語派全般や、その祖語にまで穿って見ることで言える事項を付記する。
ヴェーダ語(リグヴェーダ第1巻1章など)・サンスクリットの"mitra (ミトラ मित्र)"の"t"は歯茎破裂音or歯破裂音/t̪/ (歯音は英語"dental"でありヴェーダ学問・シクシャーで歯の音"danta"とされることによる)であり、これがイラン多神教のゾロアスター教の聖典アヴェスター"Avestā"(うちヤスナ"Yasna"1章など)では"mithra (ミスラ、有気破裂音のthではない)"の"th"が歯摩擦音/θ/として現れるような置換・転訛が見られる。
インド・イラン諸語に同源の祖語を求めるならば、古代インドの"t" 古代イランの"th"(アヴェスター語の発音はいつごろ成立したもので誰が継承したり音声学的な示唆がアヴェスター語の文献や口伝にあったかも不明)の音がIPAでいう/t̪/に帰せられよう。

これは、インド・イラン祖語で破裂音だったものが、何らかの時代にイランでは摩擦音となった例である。
イランの古い呼び名はペルシャまたはペルシアであり、これは"Persia, Περσίς"という古代ローマや古代ギリシャが今のファールス州"Fars, فارس‎ (fârs)"の古名「パールサ 𐎱𐎠𐎼𐎿 (Pārsa)」から取ったろう。
これも言うまでもなく、"p"が"f"へ摩擦音化したものであり、なおかつその時代は現代から2000年以内のイランの一地域に端を発するように見える(イランといっても広いしイラン語派も古代ペルシア語やアヴェスター語など昔から多く存在するので私が特定することは困難)。





起草日: 20180221

当記事「破裂音・破裂有気音→破擦音or摩擦音になる現象」に示された多くの単語例などから、言語法則を把握できるアイデアが生まれるとよい。
この現象には、逆の事例も多い。
当記事で既に示された例には、アラビア語「ハリーファ خَلِيفَة (ヴェーア式: ḵalīfa)」が西洋で「カリフ"caliph"・カリファ"calipha"」として受容される現象や、「摩訶 (中古音: muɑ hɑ 現代中国ピンイン: mo he, móhē) महा "mahā"」が日本で「マカ(受容当時は便宜的に"maha"発音の可能性もある)」として受容される現象などがある。
近代や現代の日本だと、「印欧系言語/v/ (有声唇歯摩擦音)→/b/ バ(両唇破裂音)」という現象が身近である(ヴァ行で受容された音を多くの日本人は有声両唇摩擦音/β/で発する傾向)。
これを、「摩擦音(→存在しない音声を異文明で文字化する)→破裂音」という「音韻→文字→音韻」という文化的事象に基づく問題点として留意すべきである。
この他、異文化交流・外来語の受容によって訛った借用語のうち、「摩擦音→破裂音」となったケースには、以下がある。
パーリ語「ブッダダーサ"Buddhadāsa"」→タイ語「プッタタート"Phutthathat /pʰúttʰətʰâːt/"(摩擦音→破裂音、有声音→無声音、尾母音脱落)」のような変化や、ベトナム人名「ティック・ナット・ハン」のティックが「お釈迦さま=シャカの釈・釋(しゃく)"ja: shaku vn: thích"」の漢字中古音/s, z, ʃ/→ベトナム漢字(Hán)/t, tʰ/のような変化があり、タイ語(タイ・カダイ語族)やベトナム語(オーストロアジア語族)のような東南アジア言語の特徴の一種と看取される。
西洋語の無声唇歯摩擦音/f/が、朝鮮語・韓国語で無声両唇破裂音/p/として受容される現象は、よく知られる。

さて、当記事の要旨は、本文中の「一文」に読み取れる。
当記事に示された現象(破擦音化・摩擦音化)が進展すると、「(人類文明が高度に保たれるという条件下で)数百年後に人間の口語が機械音声・電子音・ノイズ音のようなもの(モニョモニョmnmnヴルヴルvrvrズウィーzwee, murmur...)になっていようか(あるいは人工的に機械化されていようか)」とも考えたくなる。
人間の文明は裕福となり、数万年前~数千年前の人類が硬い肉や木の実や穀物を食べていたことに比して食肉も果実も穀物もみな柔らかくなっているし、現代は様々な機械音(エンジン音や動作音)・電子音(シンプルな波形など)・人工的音声を聴覚的に受けてもいる。
人の顎と歯が退化し、舌などの機能が弱まり、聴覚的に人工的な音声を多く聴くといった因縁(感受・認識・経験・定着)のある現代文明の条件下であれば、その果報が相応に発生するということである。
放出音"ejective"・吸着音"click"など「複雑で力強い発音」の多いコイサン諸語や、破裂音"plosive (stop 閉鎖音とも)"と入破音"implosive"(訳語の問題で内破音とも)を区別して用いる言語があるニジェール・コンゴ語族やナイル・サハラ語族(有名部族マサイ族のマサイ語など)といったアフリカ系の言語(似た傾向はマヤ語族やケチュア語族など南北アメリカ大陸の諸語にもある)について知り、それを古代より摩擦音が増えた現代日本語・英語などと比較すれば、自ずと知れよう。
「現代文明の状況が維持される」という条件に反していれば、当然、上記とは反対の現象が発生することとなる。
摩擦音の語句を破裂音として受容する一部アジア言語は、まだ摩擦音化現象が起こっていない様子である。
原始的生活の因縁(感受・認識・経験・定着)には原始人の果報が有り、現代的生活の因縁(感受・認識・経験・定着)には現代人の果報が有るので、現代には上記の事象の蓋然性がある。
現代は事物の進展が加速度を上げているので、密度の濃い進展の末に、滅亡も早くなるであろうという推測を念頭に置いているので、予断を許さない慎重な表現を期している。
高度な文明が事実上崩壊したらば、当然、原始人の果報を得るので、それ以上の推測が通用しなくなる。



当記事および本項の主題「子音が弱まる(破裂音・破裂有気音→破擦音or摩擦音、放出音→破裂音など)」という現象に限らず、母音についても「母音が緩む」という現象が考えられる。
「母音が緩む現象」とは、いかなるものか?
例えば、現代日本のウ音は音素として/u/や/ɯ/と表記されるが、実際の現代人発音は/u/円い唇・/ɯ/平たい唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない。
この場合、IPAで音価として[u̜] (uの下にC字記号で円唇が弱まったもの"less rounded")や[ɯ̟] (ɯの下に十字で後舌がやや前になったもの"advanced")や[ɯ̈] (ɯの上にウムラウト記号で後舌が中央寄りになったもの"centralized")や[ɯᵝ] (ɯに上付きβで平たい唇・非円唇の程度を抑えたもの"compressed") (他に [ɨᵝ] と [ÿ] と [ɯ̟ᵝ])として現代日本のウ音の代用表記がされる。

そのように、今の日本人は、母音の区別のために口を大きく開閉する雰囲気でない。
多くの外国語は、母音自体が曖昧なようでも実際には区別されるので、日本人が半端な母音で外国語発音をするとそのネイティブスピーカーが理解を示さない場合もある(近年のYouTubeで自動生成された字幕"Auto-generated"は多くの話者の英語の音声に極めて忠実であるので日本人には分かりづらい共通性が聴きとれるかもしれない)。
仰々しい口の開閉・唇の筋肉の使用は、小中学生が音楽の授業で教師の指導(口は縦に指三本分開けよ!)に対して毛嫌いするように、今の日本人・若者が好まない行為である(声楽・アナウンサーはいざ知らず)。
いわゆるボソボソ・ゴニョゴニョ声(murmur...)と呼ばれるような発声方法でも、問題が無かろう。
しっかりとした場面では、ボソボソ・ゴニョゴニョ声でも大仰な開閉でも、日本語ではよろしくないので中庸であるほうがよいのではないか、と言ってみる。
日本人で言語学・音声学を行う上で、「あ・い・う・え・お」、という字に象徴される、明朗な発音を心掛けておきたいと思う。

ほか、上代日本語・古代の日本語では、いわゆる8母音説に見られる現代より多い弁別的母音があり、万葉仮名の使用の差別や複合語の結合辞(天・雨="あめ・結合辞あま"、木・菓="き・結合辞こ")などによって類推されて肯定できる。
五十音仮名文字5母音のイ・エ・オに準ずる音(イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・ヘ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・モ・ヨ・ロおよびそれらの濁音とされる)に甲類・乙類という区分が設けられており、実際の音価は諸説あって学問的合理性によって特定できるものはまだ無い。
この8母音のように細かい母音の差異を、同じ日本列島の人でも、今以上に区別できていた。
それも、後世の日本真言密教が梵語発音の相伝をできなかったことと同じく、日本人は文字文化に依存すれば、早々と母音の区別を失ったり子音の訛りが進んだりしたろう。
現代日本人の、文字・言葉に対する倒錯・誤解と外国語学習の障害を見れば、この点も肯定できる。

「母音が緩む現象」も、精神性や生活習慣や食文化に基づく肉体の修練の多寡など、種々の要因・因縁(感受・認識・経験・定着)により、世界的傾向となり得る。
今までの5000年・500年・100年を振り返っても劇的な変化があり、先述の条件がおおよそ維持されれば、今後の100年・500年は加速度的に変化すると推測できる。
人体に関する進化論的・科学的見解は小学生のころに「小指が退化して消える・Y染色体が消える・現在の体毛が薄いように髪も薄くなる(グレイ型宇宙人)」などが聴かれたが、それよりも早く、精神性や口の機能の退化に基づいて身近な言語・発音・音素が消える可能性を示唆しておく。
果ては機械音声のようn(ry



余談: インド系言語の発音の「クセ」 (文字表記された状態を前提として)

1. 破裂音や破擦音が顕著

先に挙げた古代ギリシャ語の破裂有気音よりも、更に破裂有気音が多いものがインド系言語であり、東南アジアにも現代に多く残る。
西洋では、古代ギリシャ語にあった破裂有気音(φ, θ, χ)も、現代において摩擦音となることは先例の通りであり、インド系言語との様相の異なりを顕著にしている。
そういった西洋言語の発音特徴を、潜在的に知る現在日本人であれば、インド系言語や東南アジアの言語に、西洋言語との大きな違いを感じてしまうであろう。

※IAST翻字・音写字"c, j, ś"の発音は「軟口蓋"kaṇṭhya"でない口蓋"tālavya"」とみなされるが、現代発音(ヒンドゥー教・テーラワーダ仏教などあらゆる伝統宗教による発音)はいずれも硬口蓋"palatal"破裂音・摩擦音/c, ɟ, ç/でなく、歯茎硬口蓋の破擦音・摩擦音/t͡ɕ, d͡ʑ, ɕ/で発せられる。古代ヴェーダ~釈尊在世・ヴェーダ教派成長期においてどういう発音だったかは、シクシャーなどのヴェーダ学問伝承に倣っても断定できない。無論、信仰のある人は、今に行われる発音を「教法の原初に等し」と思えばよい。"c, j, ch, jh, ś, ṣ"といった破擦音・破擦有気音・摩擦音について、もし現代と同じ発音をサンスクリット・ヴェーダ語に適用するならば古典ラテン語・古代ギリシャ語との比較(数詞4*kʷetwṓrチャトゥル⇔クァトロ⇔テッサレス、数詞8*kʷetwṓrアシュタ⇔オクトー⇔オクトー、速いもの=馬*h₁éḱwosアシュヴァ⇔エクース⇔ヒッポスなど)において多大に相違する要素となる。言語学者諸士はインド・イラン語派に「口蓋化(歯擦音化と関連するものとして)」が生じた現象の論拠としているが、私にはやはりサンスクリット・ヴェーダ語"c, j, ch, jh"の遍歴を断定できない問題となる。仮説として硬口蓋破裂音とその有気音/*c, ɟ, cʰ, ɟʰ/を視野に入れることもできよう。

2. "pp bb tt dd kk gg"といった、いわゆる「促音」発音の単語が多い

インド系言語では、日本語の促音「-ッ~」に似た発音(長子音 long consonants; 子音重複 gemination)となる(特にカナ表記では「ッ」を用いることで日本人にとってそういった印象となる)。
英単語にそういった綴りの語句があっても、おおよそ日本語の促音のように発せられない。

加えて、プラークリット(アルダ・マーガディー等)やパーリ語では、サンスクリット二重子音の単純化現象によってとても増える。
記事本文で挙げられた-tya→-cca -thya→-ccha語句以外に、-tma→-ttaや-kra→-kkaや-rva→-bbaなど、多く存在する。
サンスクリット語句→パーリ語句で例を挙げると、アートマ"ātma"→アッタ"atta" シャクラ"śakra"→サッカ"sakka" ガンダルヴァ"gandharva"→ガンダッバ"gandhabba" 等・・・
ちなみに、パーリ語文献では同一語句の「訛りの状態」と「訛る前の状態」のどちらも現れるケースがあることを過去記事に示してある(例はbhadraとbhadda)。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/11/brahma-brahmana-pali.html

3. 畳語的な発音(畳音・繰り返される音)が多い
4. ア音/a/ (阿)が多い

「与える (to give)」の現在形・直説法・能動態・一人称・単数(present, indicative, active voice, 1st, singular)
古代ギリシャ語で「ディドーミ (δίδωμι dídōmi)」
サンスクリット・ヴェーダ語で「ダダーミ (ददामि dadāmi)」
印欧祖語 Proto-Indo-Europeanで*dédeh₃mi
※ペルシャ語・ペルシア語でも「ダーダンorドーダン (دادن dâdan)」といってサンスクリットと似たような形式となる。
※サンスクリット語根√dā 印欧祖語の語根*deh₃- インド・ギリシャ・ローマの代表的な共通語で、サンスクリット過去分詞"datta"は"Devadatta (具格の依士釈: 神によって-与えられた 漢訳: 天授 音写: 提婆達多 だいばだった Daibadatta 調達 じょうだつ・でうだつ Jōdatsu; Deudat)"という人名に用いられ、ローマ系ラテン語人名にも"Deusdeditus; Deusdedit; Adeodatus (奪格支配の前置詞 ā + 奪格の依士釈: 神より-与えられた、なおdeditus-の動詞原形はde+doで「捧げる」という意味)"がいる。これらは偶然の一致であるが、印欧語の関係によって必然的でもある。

「ディドーミ、ダダーミ」!
これを代表例とし、動詞のアオリスト形でも古代ギリシャ語とサンスクリットの相違点が同様に見られる。
語彙・文法(複合法・格変化・動詞活用など)に類似点の多い古代ギリシャ語とサンスクリットであるが、畳語的な発音やア音の割合は最も隔たっており、両者の相違性を特徴づけている。
※現代ヒンディーやサンスクリット発音のア音は、前舌で広い/a/よりもウ音やオ音に近い・中間的な/ə/中舌中央母音だとする見解があり、その発音であれば喜劇的な印象は減る。

破裂音・破擦音・畳語・ア音とは、「パパ!ママ!ダーダ!かーか!バーバ!ちゃちゃちゃ!」といった幼児語の平易さに似ており、現代日本人の言語感覚では何となく重ね合わせてしまう。
外国語は、このようなインドの言語のほかに、アラビア語・ヘブライ語のような言語の特徴に、日本人にとって難しさが感じられる。
アフリカ地域にもまた、日本人には半信半疑か俄かには信じがたい発音をする言語が多くある(吸着音を多用するコイサン"Khoisan"系の言語など)。
実際の母語話者発音や学問的音声定義などが、インターネットの資料・動画によって手軽に広く知られる。

江戸時代の国学者・本居宣長さんは、外国(とつくに)の音(および江戸時代口語や漢学者による訓読語)の特徴を示しながら、「鳥獣万物の声、ケダモノ・禽獣の如きもの」であって「正しからざるもの」とみなした。
それは、現代の学問によるハ行破裂音説や、筆者の過去記事に示されたオノマトペ和語に反する見解となり、国学者の「神の国」観念に基づいた結論(原始人的な言語成立よりも神秘的な言語成立を望んだ結果)であると、筆者は考える。

外國にはハ・ヒ・フ・ヘ・ホに清濁の間の音あり。 濁音を呼ぶ如くに唇を彈て正音に呼ぶ。 ※ハを烟波の波の如く、ヒを尊卑の卑の如く、フを南風の風の如く、ヘを權柄の柄の如く、ホを一本の本の如く呼ぶ是なり。※ 此方にて半濁と云ふ、漢國にてはこれをも清音とする也。 此れ殊に不正鄙俚の音なり。 皇國の古言に此音あることなし。上件種々の音は此れ鳥獸萬物の聲に近き者にして、皆不正の音なり
(中略)
絲(こと)の聲はピンポン、竹(ふえ)の聲はヒイ・フウ・ビイ・ブウ、金の聲はチン・チヤン・チヨン・グワン・ボン、革(つづみ)の聲はデン・ドン・カン・ポン、木の聲はカッカッ、石の聲はコッコッなどと鳴る。 萬の物の聲皆此類にて、長き者は必ず響ありて短きことあたはず。 短き者は必急促つまりてゆるやかならず。 凡そ鳥獸萬物の中に、其聲の皇國の五十音の如く單直にして正しき者は、一つもあることなく (後略)
- インターネット「漢字三音考」より引用、当方で軽く修正、割注を※字囲いにした。

それは言い過ぎでも(コイサン系の言語などは禽獣どころかかえって超人的)、外国語発音を広く知ると、何となく現代日本語発音に安心感を覚えることがある。
こういえば、「母国語は母国語として用いられた個人の因縁によって当人の母国語ならばどんな様式にも安心感を起こす一面がある(反面に悪い記憶がしみついたものならば当人の母国語でも毛嫌いされる)」と仏教の縁起法によって否定されよう。



・・・!そう、「産土(うぶすな)の言葉が神の言葉(神によって作られた言葉)である」とは、この観点で真理に近い。
日本なら、江戸時代の国学者が理想を願って再建した古代日本語(日本神話に神が造った説あり)が神の言葉である。
現代日本人なら、安心の現代日本語(外来語の語彙を含む)が神の言葉である。
インド人なら、サンスクリットもとい梵語もといヴェーダ言語が梵天に象徴される神(ヒンドゥー教でいう三神一体・諸神一体)によって造られたインド・アーリア語が神の言葉である。
西洋人なら、何らかの神話に求めて古典ラテン語や古典ギリシャ語(イギリス人なら古風な英語でもよいしドイツ人ならナチス的アーリア説に基づいたドイツ語でもよい)が神の言葉である。
キリスト教・ユダヤ教信者なら、イエスやモーセの用いたと思われるアラム語・古典ヘブライ語もといセム語系言語(唯一神が造った言語がバベルの塔建設の最中に乱されて後にセムによって継承されたという創世記10~11章の説あり)が神の言葉である。
イスラム教信者(ムスリム)なら、アラビア語(唯一神アッラーがムハンマドへの啓示に用いたという解釈が定着)が神の言葉である。
または、各宗教が古代語・古典語と思われるものを現代流の発音で唱えたり読んだりすることも神に通じている。
これらは概要の例示であり、各個人の自覚の仕方が違えば、その分、神の言葉も異なる。

個人の現世誕生に世界の原初を託して見ることができる、仏教の起源説や一神教の創造論(過去記事および今後投稿予定の記事に詳述)からしても、各個人の誕生以来の言語形成期に得てきた情報は、神より与えられたものという仮説や譬喩が成立する。
あくまでも、仏教の縁起観を知らねば、神が造った・神が与えたという説明は子供騙しにしかならないが、当然、仏教の縁起観を知れば、仮説や譬喩として用いることもできる。
ただし、釈尊や諸仏は、よほどの時(世の起源の物質的見解の一面で説明が必要な際は天界の衆生が造ったと託するように)でもなければ、そういった仮説や譬喩は用いないであろう。
一応、現代のヒューマニズム的な目線で、各々の言語形成期に得てきた言語への依存を尊重することは可能となるし、それを支える上で、「神の言葉」という表現はよいと思われる。
当然、セクト主義・原理主義的な対立のために「神の言葉」という概念が用いられることは容認されないが、各々の言語への自信を持ってもよく、その上で互いに尊重するということが大事である(それが難しい人も多いのであろうが)。


2018年2月20日火曜日

語源考証の試案 日本語における副詞や動詞の複合語構造

「たがいに」・「たすける」・「たよる」という言葉には、漢語「他(た ta)」が接頭辞として用いられているのではないか?と考えられる。
当記事では、この仮定より出発して梵語(サンスクリット等インド系諸語)の文法理解や複合語解釈に基づいた日本語の語源探求について言及することを目指す。

※以下から語源説の予備知識として、上代日本語・古代日本語の「は行=ぱ行"pa or fa or ɸa"」や、いわゆる「やまとことば」の語頭に濁音・有声音は無くて「鼻音(な行・ま行)語句の撥音便(なにと→なんど→など、ひむかし→ひんがし→ひがし等の例が多い)などの条件に基づく連濁由来」であることなどがある。



「たがいに」


「たがいに"modern: tagaini, Historical Kana & ancient: tagapini"」とは、学説(1, 2)において漢文訓読の便宜上に作られた言葉だとする。
実に、「互」という字(漢語)の訓読のためであろう。
漢語の「互」は、交互に・相互に、といった意味の副詞として用いられていることと思われ、訓読で「たがいに」とする。
「交互に・相互に行為をする」という関係性にある2人以上の人物(または2つ以上の事物・動物・集団など)は、自分から見た相手が他人であるし、相手から見た自分も他人である。
他人同士が交互に行う状態の副詞を、「たがいに・互いに」という。
※派生の意味として「交互に行う状態=動詞を修飾するもの」でなく、「双方が同様の状態=形容詞や動詞の形容詞的用法(-した・-している等の梵語の過去分詞や現在分詞っぽい用法)を伴うもの」もあるので一応の区別を要する。類義語に「かたみに」がある。

「訓読の便宜上に作られた言葉(漢語由来の造語)」という前提に基づいて、語源を考えると「他(た) + 交う・かう→連用形: かい + なり→連用形: に」と取られる。
最初から漢語ありきなので、漢字発音に由来する「た=他」が接頭語としてありえる。
「かう→かい」が連濁となることについては、この「た=他」にも「に」とか「の」のような鼻音の助詞が、造語の当初に介されていたためと思われる。
改めて「たがいに」という言葉の形の変遷を遡って示すと、
「たがいに(他交いに)"tagaini"、たがい(他交い)"tagai"←たがひ(他交ひ)"tagapi"←たんがひ"tangapi"←たんかひ"tankapi"←たにかひ(他に交ひ)"tanikapi"」となる。

「たにかひ」だけならば「たにかふ(他に交ふ)」という動詞の複合語の名詞化だが、梵語学・悉曇学・サンスクリット的解釈でいえば、隣近釈アヴィヤイーバーヴァ"avyayībhāva"の副詞的用法として有効となる。
即ち、「たにかひ(仮想された名詞)→たがい+に(副詞)」として助詞「に(ナリ活用の連用形)」が伴う。
「たにかひ+に→たがいに」が、漢語「互」の訓読語として造られたろう。
中国語や梵語の副詞的な語句の特性なども、当時の日本における造語の人(おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者)は理解していたと考えられる。
それは文学・口語にももたらされ、現代まで副詞として使用されるに至る。

※ちなみに、梵語=ブラーフミー言語、インド・アーリア語における「互いに・相互に」という意味の副詞は、サンスクリットで"anya"を重ねて用いた"anyonyam"であり、パーリ語でも同じく"añña"を重ねて用いた"aññamaññam"である(使用例はググれば多く見つかるが1例は"aññamaññaṃ sañjānanti")。これらの語幹たる梵語"anya, añña"は「他の」を意味する形容詞・「他人」を意味する名詞である。また、「互い」という意味の代名詞が古代ギリシャ語に"ἀλλήλων"、英語に"each other"(これは目的格・所有格でしか用いられないという。英語の副詞はmutually)とあり、それらはギリシャ語"alla, allos ἄλλος (単語例はallophone 異音)"、英語"other"、という"anya"の同義語・同根語を含んでいる(ほかに英語"else"も同義語・同根語)。インド・ヨーロッパ諸語を例示・比較することによっても、日本語もとい漢語訓読造語の「たがいに」の「た」が漢語「他」の意味・発音を借りている可能性を示唆したい。

古典的には「たがいに(たかひに・タカヒニ)」と表現しても、「たがいなり」といったナリ活用の変化形や、「たがいの=名詞: たがい + 連体助詞: の」といった形容詞化とか属格的表現は見られなかった。
現代では「たがいの」という「両者の、おのおのの(両数形として認知される事象のみ)」という意味の形容詞で用いられる傾向にある。
こういう例示では、「異なる者どうしの=違(たが)いの」という意味にも取れてしまい、前述の「他交い」という仮説は否定され得る。
その他に、「おたがいさま」という複合語や、「たがいが」という主語の表現もある。
繰り返し言うと、「たがい + に」とは、あくまでも漢文「互」という漢語の訓読のために副詞"adverb"として用いられる造語(副詞的複合語・隣近釈"avyayībhāva")であった。
「たがいに」造語当時(広く見て7~11世紀)の日本で、おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者が梵語学(玄奘三蔵門下の法相宗系か密教悉曇系か法道・菩提僊那のような中央アジア・インド系渡来僧の直伝か)の文法概念を学んでいた可能性がある。

※余談だが、梵語文法家パーニニ"Pāṇini"の述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"(注釈"Kāśikāvṛtti")」および中国・日本に伝えられた梵語学・悉曇学に基づいた日本語の複合語解釈を記す。日本語では、多くの複合語が並列複合語・相違釈"dvandva"や限定複合語・依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に当たる(日本語版Wikipedia - 複合語の記事に並列関係や従属関係として載ること)。例として、姓名はその極みである。英語版Wikipedia - dvandvaで「山川"yamakawa"」という複合語を相違釈の例として挙げてあり、「山の川」という意味ならば「やまがわ"yamagawa"」と連濁するが、「山!川!」のような並列関係=対立=平等の状態では、連濁しないことが通常である。「山と川」という2つの語句が象徴的に風景全般を表すという。慣用的に「善悪(ぜんまく、ぜんあく、善と悪)」が道徳観念"morality"全般を表すことと似る。筆者のペンネーム「横野(よこの Yokono)」は、依主釈で「横の野・横にある野・よこしまの(邪悪な)野」と解釈できる(姓名に用いられる野字・埜字は語源的に問うと当て字のようなものであろう)。ちなみに、「動詞: 横切る(切るは当て字っぽい)」は「副詞: 横に + 動詞: きる(撥音便省略連濁: ぎる)(よぎる・すぎる・すごすという動詞も似た語源となる)」という同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"の複合動詞である。サンスクリット・パーリ語の「接頭辞ati (過ぎて) + 動詞語根√i (行く)」は「よぎる・通過する・超過する」という意味の複合動詞であり、ati √iの過去分詞"atīta अतीत "は「形容詞: 過去の 名詞: 過去・過ぎ去ったこと(past)」を意味し、持業釈である。依主釈は、前後の形態素(語根・語幹など)が依存関係にあるものを指す(梵名tatpuruṣa自体が"tat彼の + puruṣa人"=あるじorしもべという意味になるので漢語では依主釈という)。動詞の連用形の名詞化と、その前に動詞の目的語を付随したものが多くある。「窓拭き=目的語の名詞: 窓 + 動詞の連用形の名詞化: 吹き」は、「①窓を拭くという行為"deed, act"」と、「②窓拭きの行為者"agent"」と、「③雑巾のような、行為の達成に用いられる道具"instrument"」の3つのいずれにもなる。もしも別途にそれぞれの意味を明示したければ、「①窓拭き-作業 ②窓拭き-屋さん ③窓拭き-ツール」のように後続の言葉で補う。梵語でも、行為者や所持者の意味を明示するために「-क -ka」で補うことがある。また、「人殺し cn: 殺人(①-罪 ②-者 ③-刀など)」"homicide"といった、動詞・目的語"verb-object, VOまたはobject-verb, OV"構造の複合語はみな、依主釈に当たる。この整然とした・弁別的な複合語解釈は、梵語・サンスクリットは元より、現代の英語にも適用できるので、形式的英語学習者・会話オンリーの人であっても注意深く学べば、一切の言語の学問的道理・発生プロセスに通達する。こういった複合語の名詞は、様々な意味を持つ場合があり、先述の「窓拭き」の窓は「窓を・・・対格"accusative case"」であるが、「拭き掃除」の拭きは「拭き=拭く行為によって・・・具格"instrumental case"」である。ほか、「尻拭い」という言葉もまた「窓拭き」と同じ3つの意味を見出せるが、英語で"ass-wipe (尻拭い→トイレットペーパー→クソヤロウ)"という表現が、"bahuvrihi compound"であると英語版Wiktionaryに載っている。"bahuvrīhi"=所有複合語・有財釈とは、過去記事にも詳述した通り、"bahu-vrīhi"のままでは同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"で「多くの-米」という意味だが、実際にはその所有者「多くの米を持つ者=金持ちの人」となることである。例えば、英語で「ホワイトカラー"white-collar"(白い襟)」という言葉も「白い襟の服を着た者=事務員」という意味となって同様である。いったん、「多くの米=それが単に存在するのでなく誰かの目的によって所持されている=その人は金持ち」や「白い襟=その服が単に存在するのでなく誰かの目的によって着られている=その人は事務員(オフィスワーカー)」として言葉が成立すると、以後は、金持ちが多量の米穀を財産として保有しない・オフィスにワイシャツ着用者がいない状態でも「ヤツはバフヴリーヒ"bahuvrīhi"だ!"They are white-collars!"」と呼ばれる。古代インドと同じ言語感覚による複合語が、現代アメリカなどにも発生することは、面白い。当事者の身体に付随したものの例で、古代ギリシャ語「ὀκτώπους (いわゆるオクトパス)=八つの足-を持つもの=タコ・蛸」や、日本語「ふとっぱら"futoppara"=大盤振る舞いの人」があるが、外的所有物でない点で有財釈と似て非なるものと区別されるべきかと思う。事務員が「ホワイトカラー・白い襟の服」を着ることも、事務員としての当事者にとって身体そのものである点で、実は、有財釈と似て非なるものか。それらは「広義の有財釈」として区別してみたい。



「たすける」と「たよる」


続いて、「たすける"modern: tasukeru, ancient: tatsukeru, or tachukeru "」や「たよる"tayoru"」という動詞について考えてみたい。
これもまた、語頭の「た」が、漢語「他(た ta)」に由来すると考えられる。
事実、「たすける"tasukeru"」の連用形名詞化「すけ"suke"(助太刀"sukedachi"という複合語があり助や介や輔といった類義の漢字が用いられて人名に定着する)」は、語頭の「た」が無くとも、「助ける」の意味に共通している。
この前提において、「たすける=たすく"tasuku"(下二段活用終止形)」の原型を求めれば、「すける"sukeru"=すく"suku"」という答えが導き出される。
「助ける」という意味で「すける・すく」という動詞を用いた例は未見であるが、先述の「すけ」という言葉が化石的に生きている点が傍証となろう。
「たよる"tayoru"」についても、語頭の「た」を省いても、それだけで「よる"yoru"(依る)」という類義語になる。
これらもまた、訓読の便宜上に作られた言葉の可能性を、私は示唆する。
それについて、明確な学説や、文献的根拠は明示できない。

「たすける」・「たよる」という動詞は、「他(た)が助太刀する」とか「他(た)に依る」という「他者・他人」の意味を強めるべく、漢語の「他」が頭に接続された造語のようである。
一応、「すける(終止形: すく)」も「依る」も、それだけで他動詞=目的語・客体の認識を伴う動詞であるから、改まって「他」を頭に接続させる必要は無かろうか。
「他助る、他依る」・・・。

一通り、この文章を書いてから、少し「たすける・すく」ということを検索してみると、「たすける - ウィクショナリー日本語版」が検索にかかったので見てみた。
そこに載る説では『古典日本語「たすく」 < 手(た) + 助く(すく)』という。
「たよる」についても同様に『「た」(手) + 「よる」(寄る)』という。
出典は不明だが、ウィクショナリーに載るような見解が学者によって示されたということであろう。

もし「手(て→た)」の複合語ならば、「たすける(手助る)」は「手によって(具格"instrumental")助る」という農作業の手伝いが想像され、「たよる(手依る・手寄る)」は「救いの手に(対格"accusative")依る」ような光景が想像される(具格とか対格とかと文法格"grammatical cases"を書いたのは梵語複合語解釈の格限定複合語=依主釈を示唆するため。漢語や英語のようなSVO構造は必ずしも日本語や梵語に適用できないことを知る必要がある)。
「手綱(たづな)の手(た)」のような結合辞を用いる言語感覚のある時代か、その言語感覚のある話者らのうちにおいて、この語が発生したことになる。
「たすける・たよる」の構造に関して、接頭辞が「漢語の他(た)"ta"」ではなく「日本語の手(た)"ta"」であるという相違点が確認できた。
要するに、私の論理は正しかったが、接頭語認識について仮定を誤っている恐れはある。

※余談だが、「助く(すく)」ということは「救う・救ふ」と関連がありそうである。やまとことばの展開としては蓋然性がある。詳細な検証は、当記事の目的より逸れるので、行わない。



研究の展望

さて、いずれにしても、多くの過去記事(国語カテゴリ)と合わせて、この記事においても日本語の語源を判断する何らかのアイデアが示された。
梵語の複合語(サマーサ"samāsa")解釈ということは、古代の日本人(特に西暦8-10世紀)も中国仏教を介してインドの言語学を参照していたろうし、是非、学んでもらいたく思う。
諸言語の普遍性を知っていただきたい。
複合語・造語に伴う音便や連濁といった現象も、蓋然的に伴うので、現代日本語を見た際に、そういった点を注意すれば、日本語の中の複合語・造語がいかなるものか、見分けがつきやすくなると考えられる。

この試案について、以下のように思う人もいようか。
「メートル法の時代・国土において尺貫法を用いるようなものだ」、「第一義諦の理法と世俗諦の理法を弁別する過程無くして同一視する(空見に著する)ようなものだ」と。
私の検証は、古代・上代日本の歴史的・宗教的な背景を鑑みたことに由る。
比較言語学・比較文化論よりも踏み込んだものとなる。
物事、考え方・思考法というものは、適度に良い一面と、悪い一面とを認識し得るものであり、個人的には合理的に妥当な用い方を意識し続けると、過度な問題性を生むことが無い。

私にとっては、中国・インド・西洋(ラテン語=イタリック語派、ギリシャ語=ヘレニック語派)などと同じユーラシア世界の目線を、より多く取り込んで日本の文化・歴史、特に言語について顧みることも必要に感じられる。
私はまだ21歳で、インド・中国・西洋のように歴史が華々しい「中東」の非インド・ヨーロッパ語族(ヘブライ語・アラビア語=アフロ・アジア語族など)について詳しくない。
南北アメリカ大陸の諸言語も同様である。
インターネットで学び得ることを、可能な限り学ぼうと思う。

日本語自体は、ウラル系とかアルタイ系とかシナ系とか朝鮮系とか南方系(オーストロネシア~オーストロアジア?)などの様々な語派・原語的潮流の語彙・文法の影響を受けている点(タミル語とかヘブライ語を引き合いに出す説もあるので借用語の範疇で仮説的に肯定するが直ちに起源説とすべきでない)に加え、やまとことばとしての独自性もあるが、いずれも成立した地域・時期と、後の変遷や合流が明確でない。
日本語の起源説は、学者的な人々(インターネット上で見られる例は北山嘉暲さん・小林昭美さん・金平譲司さんなど)が各々の自説を奉じて主張しており、私はその領域に飛び込もうと思わない。
ただし、個人的には、西洋言語にも通じる自然言語的な成立(主に動詞語幹に見られるオノマトペ的な特徴より看取されること)を支持する。



起草日: 20180205

当記事の要旨は「日本語に見られる複合構造の副詞・動詞の形態素に、漢語が含まれる可能性を指摘しつつ、そういった日本語の発展の土壌には梵語の文法理解のインスピレーションがあったと指摘すること」である。
その前提に基づいた日本語・俗語分析や、日本語史研究や、日本語の将来的発展を模索することを期待している。
中国・インド的な理解に立った音韻論(慣用音・百姓読みを含む)は、2015年以降、過去記事に展開されている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post_30.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/blog-post.html

東アジア言語・西洋言語の知識などを例に、日本語の歴史的変化を語ることは、今までの段階的な勉強の過程を示す記事に見られる。
2015年
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/b-h-v-wf-p-vu-w.html
2017年
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/2-morae-single-morization.html

日本語と中・印欧で共通する自然言語的なオノマトペのこと
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/12/b-p-f-w-m-v-h-circle.html
※文化的・人類史的に交流の起き得ない領域にまで類義・類音の語句があって、それらを結びつけるならば詭弁となりかねない。また、例えば「インドとイギリスの言葉は似ているからどちらかが片方の起源だ!」という仮説を持つ人が、「文化交流における借用語"borrowing"=異母親戚の交流」と「共通祖語の異なる展開"cognate"=祖父母・両親・子・孫」という相違点を区別せず・認識せずに語れば、玉石混淆・牽強付会となる。日本人が漢籍の漢語と和製漢語と仏典の梵語訳語と、呉音・地名に残る古代漢字音・漢音・唐音といったものを、現に区別できていないのだから、況やインド・西洋言語をやである。しかし、自然言語的な類似性を証明することにおいては、その問題性を伴いづらい。自然言語性は、人間の思考に即しているので、かなり必然性・蓋然性を伴う。反面、通俗語源・民間語源"folk-etymology"となる恐れもあるので、自然言語性を取り扱う場合にも、過度な固執は禁物である。



日本語中の参考例: 擬音語・擬態語「パッツン(髪の毛の断たれる音・切られた髪型の状態)」と動詞「はさむ」とその連用形名詞化「はさみ」
http://masashi.doorblog.jp/archives/50481680.html#s1
※ちなみに「パッツン"pattsun"」と「ハサミ"hasami"(挟む)」は共に擬音語か擬声語か擬態語由来ではなかろうかと思う。「古い日本語・上代日本語のハ行(h・声門摩擦音)はパ行(p, ph・両唇破裂音)であり、サ行(s・歯茎摩擦音)はツァ行(ts・歯茎破擦音・当時の方言などに拡大して歯茎硬口蓋摩擦音などにもなる)である」との学問的見解に基づいた上では、「ハサミ→はさむ・ぱつぁむ"hasamu→patsamu"」と復元される。古代の「はさむ"patsamu"」という動詞は、現代の「パッツン"pattsun"」という擬音語もしくは擬態語に似る。「パッサリ"passari"」という擬音語or擬態語とも似る。これも両唇破裂音・歯茎破擦音で「パッツァリ"pattsari"」と復元し得る。サ行と破擦音(チャ行・ツァ行)の関係性→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html ちなみに「震える・旧仮名終止形ふるふ」はプルプルと同じく擬態語に由来しよう。



日本語中の参考例: 「花びら・はなびら=はな(+の or な?)・ひら+鼻音連濁」と印欧語の類似
花・はな・ぱな "modern: hana, ancient: pana"
ひら "modern: hira, ancient: pira" =ヒラヒラもといピラピラとした様子
葉っぱ・はっぱ・ぱっぱ "modern: happa, ancient: pappa"

サンスクリットで、花"ancient: pana"は फुल्ल "phulla"や पुष्प "pushpa"といって古代日本語と発音が近い。
花びら"ancient: panabira, pananbira, panapira?"=花弁も、葉っぱ"ancient: pappa, pa"に同じ意味の पत्त्र "patra, pattra"といって古代日本語と発音が近い。
英語でpetalという単語が、それらと意味と発音が似る。
英語"petal"は、古代ギリシャ語"πέτᾰλον pétalon"が語源で、これは単に葉・リーフ"leaf"の意味を持つが、「葉」という漢字も字音仮名遣い・歴史的仮名遣いに「えふ・エフ"efu, ancient: yepu, Sino-Japanese: yep"」であり(上古音の学説ではBS式が/*l[a]p/、鄭張式が/*leb/)、音韻構造(fとpという唇系の語幹が生じやすい発音、例えばフとプという日本語になじみ深い例がある。ここまでの議論の前提にハ行→パ行説があるようなもの)・発音が似る。
花弁・花辨の「辨」の発音は、"bien, pien, ben, pen"の類で、古代中国語にも通じる(上古音の学説ではBS式が/*[b]renʔ/、鄭張式が/*breːns/, /*brenʔ/)。
また、古代ギリシャ語"φύλλον phúllon, phullon"は、先のサンスクリット फुल्ल "phulla"と文字列・発音が似ているが、意味は花でなく、葉となる。
これらも、日本・中国・印欧語(印度・欧州の共通祖語)の自然言語性の傍証となる。
※別の系統の言語では、ヘブライ語で 「名詞: 花 פֶּרַח "pérakh 慣用的にはperach ペラハ"」 「動詞: 咲く פָּרַח "parákh"」 と呼ばれているそうである点も、気になる。

参考の過去記事引用 (花と剣の絵に関連して衒学的メモ行為)
http://masashi.doorblog.jp/archives/49405117.html#s2
【花・草と剣に関する話】
英語"foil"はフェンシングの剣、ラテン語"folia"は葉っぱや花弁を意味する"folium"の複数形
英語"flower"とフランス語"fleur"は共に花、フランス語"fleuret"はフェンシングの剣、"fl-"一致
英語"blade"は刃、英語"bloom"は花・咲くこと、"bl-"一致
英語"sword"は剣、英語"sward"は草地?、"sw*rd"一致
草花・刃物の謎の関連性 ※フォイル・フォリア・フォリウム・フラワー・フルール、いわゆるフローラ・フローレンス。フルーレ・ブレード・ブルーム(開花してブロッサム)・ソード(スウォード)・スワード(スヮード、一般にカタカナ表記されない語句)

【刃物を除いて、印欧語根ネタ】
ラテン語"flos"のWiktionary記事より
印欧祖語*bʰleh₃-s (“flower, blossom”), *bʰleh₃-
「グリムの法則」で印欧祖語に対するゲルマン諸語のb系とf系の互換が生じている。
サンスクリット語 फुलम् phulam は「花」
फुल्ल phulla- पुल्ल pulla- は形容詞「咲いている~」
古代ギリシャ語 φύλλον phúllon は「葉」
プロン、プッロン、プラ、プッラ、プラワー"phlower"、フラワー。
पुष्प puṣpa- これも「花」、プスパ。プㇱパ(小文字シは音価[ɕ])。
花・華とは、ハナ、ファナ、パナ、古い日本語。上代日本語発音。
f ,b, pなど両唇音・唇歯音が勢ぞろいの現象!!!!



後日の追記
当記事の一部分を強化して独立記事を作成し、2018年4月8日に投稿した。
『日本語の複合語とパーニニ梵語文法との関係 サマーサ"samāsa (六合釈・六合釋)"とは』 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/04/panini-in-japanese.html