2019年5月16日木曜日

科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性

人文科学 (humanities, human science) や社会科学 (social science) における、自然科学 (natural science) と等しい「科学性」は何か?

何らかの発言・行動は、それが五感(五官・感覚器官)で認知される限りに「された事実」があり、その客観性がある。
その範疇で物質的な証拠によって客観的事実であり、科学的な道理がある。
思考についても、間接的に=発言・行動などから五感で認知できるし、直接的には他者が五感で認知することのできないもののようだが、現代に限って言えば脳波・脳の電気信号の観測・検出(ただし機器の誤作動や改竄を除く)などによる客観性がある。
人の発言・行動・思考・精神は、その範疇で物質的な証拠による客観的事実(論理学でいう真 true)であり、科学的な道理がある。

今の話は量的な"quantitative"研究を意味し、科学の一つの特徴である。
これらの科学的な道理が研究された結果に、人文科学や社会科学の科学性を提示できる。

他には、研究対象の間に本質的な優劣が無いと理性的に意識する研究方法や、本質的な優劣が有るように説明することの無い理論も、科学の一つの特徴である。
研究対象の間の優劣は、個人で自由に想像する・決定することが可能であるのみと思う。
任意の物体(石材など)・物質(分子など)の物性 (physical property, quality) はもちろん、任意の都市の人口・面積・人口密度 (population density) や、任意の人物の功績・業績などは、その数量や事実というものが同カテゴリと人々がみなす事物の間で異なる(大小・多少=多寡など)ことが当然である。
数量を統計にする・事実を提示することはできても、そこから優劣をみなすことは科学の題材に含まれない。
社会科学などで、民衆などが何らかの事物に優劣の感情を抱いているということは、当然、社会科学の題材に含まれよう。

科学の実行者が持つ精神と方法論にも、人文科学や社会科学の科学性を見いだせる。
科学の実行者は、「学者 scholar ・哲学者 philosopher・科学者 scientist・研究者 researcher」と呼びえる。
客観性に関する疑問、自己反省、好奇心・探究心といった精神性がある。
それが時には時代の趨勢に抗うような・左翼的な姿勢に見られることも有り得るが、もしその人の感情や衝動が起こす所であれば、疑問の解決などの行動・探究がある。
他人によって曲げられること・他の事象によって風見鶏のように左右されること、それらが無いように一所懸命の努力もあろう。
そこに、相応の紆余曲折・内心の苦労・葛藤を伴う。
これはメンタリティの話であって人による差異が大きいが、概ねこう見える事績は科学史や技術史から探してみるとよい。
近世以前に古典的なキリスト教神学の観点で望まれない傾向にあった人(管見の限りでは地動説で有名なコペルニクスさんやガリレオ・ガリレイさん)、近世以後に学校教育の通念から外れるように思われた人など、色々といる。
科学者とその共同体がキリスト教神学などから離れていった後であっても、時代ごとに主流の見解と相違する見解が起こり得るが、この例を示すとかなり些末に思われそうである。



科学前史=自然哲学 (natural philosophy, philosophia naturalis) は何か?
現代文明の人は、科学史を見ても見なくても、常に科学理論や技術が進歩し続けていると考えるであろう。
しかし、「人の努力がされてきた」という観点では、昔から変わらないし、どの時代における研究成果も等しいと言える。
ピタゴラス(ピュタゴラス 紀元前6世紀に活躍)やアリストテレス(アリストテレース 紀元前4世紀に活躍)の時代には、その時代に相応の価値観と方法論とで自然哲学・自然学が行われ、彼らの成果が当時であれ後世であれ評価され、それにならった研究が人々に継続される。
以後も人間の学問・研究の行為は、その人々の間の意識が異なっても、その時代に相応の価値観と方法論とで行われた場合に相応の成果が評価されている。
自然哲学という用語は、アイザック・ニュートン(17-18世紀に活躍。近代的な科学への過渡期を代表する人物)の著作の題"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"に、なおも見られていた。
たとえ自然哲学から即物的な性質・客観的考証を専らにする自然科学として独立するようになっても、人間(人々 homines, ヒト Homo sapiens sapiens )が行う限りに人間(ヒトで構成される世間)で評価する。



cf. 科学的方法 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_method
科学のヒエラルキー(階層)と関連事項 https://en.wikipedia.org/wiki/Hierarchy_of_the_sciences
科学理論 一往の「再現性 reproducibility」 再往の「反証可能性 falsifiability, disprovability, refutability(その提唱者カール・ポパー 1902-1994は科学哲学の第一人者であって自然科学の実務者でないがそういった立場からの研究で科学自体へ見解が示されることも大事であると留意されたい)」 i.e. 「不確定性 uncertainty」 (研究対象についての性質を意味した概念名称・科学哲学の概念名称などが混在するが参考までに記した)
メタ科学(メタ研究、科学を科学する) https://en.wikipedia.org/wiki/Metascience_(research) (およびメタ理論 https://en.wikipedia.org/wiki/Metatheory

科学に大事な疑問精神は、仏道における菩提心 (bodhicitta) に比するものと私は思う(信心 śraddhā, saddhā よりも)。
このようなことは科学哲学であって人文科学・社会科学同然であるため、私が語ってよい。
アドホックな仮説 (ad hoc hypothesis) といった「その人の信じる見解・学説を自ら擁護する・保存を試みるための仮説」は、「先に何かを肯定しようとする立場や意図でなされるもの」である。
その精神は、科学の発展を支えてきた疑問精神と異なるものと考えられている。
もちろん、私はアドホックな仮説とされる方法や研究についても結果的な研究の進展に繋がることもあろうし、全否定すべきだと思わないが、科学者の精神論としては、基本的に有り得べからざることとなろう。
仏道における菩提心や宗教の信仰全般に例えると、一部の科学者は不愉快に思うかもしれないが、人(命あるものたち)が自ら行くべき道を行くときは、何の分野でも根本的で大事な精神性が有ろうと思う。
それも、具体的な成果を上げた後の結果論だと言われようか。
何かヒューマニズムの目線で捉えるならば、疑問精神の他に、科学は、文明の発展へ貢献する心とか医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心が必要であると言う人もいると思う。
これも仏教でいえば、慈悲や利他の精神であろうが、それも修行者個人の福徳のための手段として必要であるということが上座部仏教でのスタンスであり、大乗仏教ではもっと高次の=仏の目的としての次元で重要視される(現代の仏教で在家信者が功徳やプンを積むと言って行うことは現世利益が望まれる傾向にあることに注意)。
科学の発展と「文明の発展へ貢献する心や医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心」の関連性は、もっと限定的であるし、科学哲学というよりも倫理観の話に近いと考えてもらいたい。

方法論が科学的であれば、宗教も人文科学・社会科学のうちの宗教学として、科学である。
キリスト教などの一神教には「この世(万物・人類・動植物)は神が作った」という起源説・創造神話があることは聖書(旧約聖書 Old Testament・タナハ Tanakh)に赫赫明明である。
たとえ教義が一つでも、そのような創造論にはいろいろな信じ方があろう。
神の存在と世界の起源とは、多くの信者が各々の人生経験などから導かれた範疇での「素直さ」のままに信じる。
賢い人には賢い人の検証によって一神教の創造論を信じることができ、そう信じる限りには科学的手法の有無によらず宗教的である。
ただし、「創造科学 creation science」の主要な説を私は、聖書の言葉に対して自然科学の説を牽強付会に用いる疑似科学であるとみなし、神学としても聖書が書かれた意図やモーセ・イエスらの精神に背く異端とみなし、宗教・信仰の補助知識としても気休めであって即物的な証拠が説の妥当性を左右する点で不安定とみなし、否定的である(この詳細については当ブログ2018年4月20日記事にある)。
このように手段に科学性が求められ、個人の決定意思に宗教性が求められ、科学・宗教が取り扱う事物は、それが神であれ宇宙であれ生命であれ、科学や宗教で一括りできない而もどちらも尊ぶ概念である「自然 (しぜん・じねん) "nature, natura"」ということになる。
様態論ではあるが、取り扱う事物や研究対象は何であれ「どのように人が用いるか」により、科学の題材にも宗教の題材にもなるという場合があると知られたい。



多方面への科学性の伝導

自然科学の系統の分野から、人文科学と社会科学へ、その科学性の伝導がある。
科学性の伝導により、合理主義的な人文研究がその度合いを高められてゆく。
キリスト教神学では高等批評・本文批評 (historical criticism, textual criticism) などが発生して普及するし、アジア各地の仏教学門(学問ではない)では近代的な仏教学が西洋から導入された。
みな、文献があるという事実とその作者がいるという事実を前提とした文献学的な立場 (philology) を重んじているであろう。
キリスト教も仏教も、もともと、そういった傾向が伝統的な学問・学門のうちにあったが(例えば仏教では大乗荘厳経論で有名な般若経=大乗非仏説について西暦6世紀以前からインドなどで議論されていた。中国では11世紀以前に天台宗などが像法決疑経・提謂波利経などの偽経説を議論していた。日本では13世紀以前に日蓮聖人などが大梵天王問仏決疑経などの偽経説を主張する際に中国の古い経蔵=貞元録・開元録にそれらが無いことを示していた)、西洋はルネサンス期に・日本は江戸時代に不干渉で合理主義的な人文研究をし始め、西洋は17世紀以後に・日本は19世紀以後(近代)には明らかに文献学が行われる。
伝統的な宗教には、その伝統的な学問・学門と並行して近代的な人文科学の手法を行う者たちがいる。

近代以後の日本の国語学は多かれ少なかれ西洋から影響を受けた面はあるが、日本語のためにローカルな用語の使用・造語などがある。
国語学に先駆ける江戸時代の国学は、日本の言語に神道の神秘性を見出していた。
江戸時代の国学の初期の人物である本居宣長さんの複数の著作に見られる発言を要約しよう。
彼は「日本語は本来に濁音(現代の音声学でいえば阻害音系 obstruent の有声音に加えて半濁音と言われる /p/ 唇系の無声破裂音)・促音(阻害音系の長子音 /Q/)・撥音(鼻音の長子音/N/)などが無く清音(阻害音系の無声音に加え有声音では流音など)のみを発していた。リズムが規則的で優雅であった。これが和語(やまとことば)であり、人間が話すにふさわしいことで唯一の存在であった」といい、美的価値や民族主義的思想が大いに表れていた点を注目すべきである。
彼であっても漢語・梵語など外国のもの(彼の師にあたる賀茂真淵も「国意考 c. 1765」で「天竺=インド・をらんだ=オランダ・北国=日本」の文字が漢字と比べて著しく少ない字数に少ない画数の字が占める文字体系であり天竺は五十字で多くの仏説を伝えたという話をしていた)を可能な限り比較して検討したうえでその話をしていたが、現代の人文科学から見ると多くの問題点を見つけることができる(言語学・宗教学における一例としては先のリンク先記事の本論や余談を参照)。

江戸時代は日本版ルネサンス(ルネッサンス)のごとくに、医学・数学・文学に相当する学問が進んだと同時に、人文系学問でも国学・仏教学門(大乗各派が小乗とされる律 vinaya などに関心を向けた。阿含経・大乗経の文献整理や梵語悉曇の研究)・漢学(筆者は詳しくないが儒教・道教・朱子学などか)で合理主義的な研究が盛りつつあった。
西洋のルネサンスは14世紀ルネサンス(14-17世紀)が代表的であって語源的に"Renaissance"はフランス語で"rebirth"のような意味を持つ通り、中世キリスト教文化から古代ギリシャ文化への再生や回帰と形容される。
しかし、やはり分野ごとの恣意性(何かを批判・擁護するための無理な説明の多さ)は付随しがちであった。
科学における合理主義 (理性主義 rationalism) の目で見れば、他者批判はそれもそれでよいことだが、彼をはじめとする江戸時代の人文系学者らの批判精神が不十分であったことになる(批判 criticism 自己批判とは単なる否定・非難・あら探しや心理学・精神病理学でいう病理的で自他の加害につながる感情作用のことではなく学問のための内省の手段を意味する)。
仏教徒が他の仏教徒に向ける批判(浄土系VS日蓮系の宗論のみならず江戸中期真宗大谷派の僧侶とされる法幢さんが中国法相宗の慈恩大師基さんの説を批判・修正するなど色々と見られる)は仏教における自己批判の側面もあるが、やはり反面にそれら事跡の多くが仏教徒各自の宗派や個人の信念や理念に追従する結果の行動だ、と私は見る。



人文科学と社会科学に科学性が伝導されて合理主義的になっても、現代では人間の主観性に関する客観性が重んじられることも多くなる。
人文科学で言語や宗教の多様性を認める・差異を尊重する傾向はある。
言語学について考えると、比較言語学・歴史言語学の関係に対照言語学がある。
現代語は大小さまざまに分岐して方言も多くあり、一見些末なものがあるように思われるが、研究者個人の思いによって広く研究がされる。
個別言語とみなされる存在(および話者の集団)同士の個性はサピア=ウォーフの仮説に、全ての言語使用の刹那的な特性はソシュールさんがアイデアを与えたとする記号学(または記号論。日本語ではこの順にsemiology, semioticsの訳語として用いるがことが多い)に示され、おそらく言語学者の卵はそれらの仮説や理論を学んでいるであろう(余談だがこれらを学ぶ以前に私は仏教学で中論の二諦・大智度論の四悉檀・天台宗の三諦や釈道安の五失本・鳩摩羅什の伝記にいう翻訳論・玄奘の五種不翻を学んで同様の考え方を持った。Dominus Immensusラテン語歌詞元ネタの自作宗教文学についても参照。それらは仏教の布教や自己の修行や哲学的な見解などの異なる目的のもとで言われているため言語学と同一視しないにしても広い理解の一つとして参考にしてもよい)。
大中小の異なる規模ごとに入れ子状態の主観性(i.e. 共通主観性"consubjectivity")が窺える。
言語学の語用論 (pragmatics) や認知言語学 (cognitive linguistics) や心理言語学 (psycholinguistics) は、現代語の発話やコーパスなどを考察の対象にできる。
様々な研究成果は、死語 (extinct languages) や原始の言語の推定にも繋げられよう。
宗教の教義の発生発展や勢力の離合集散を説明した私のブログ記事もあるので参照されたい。
無宗教の人や元宗教活動家・元信者の人が宗教を弁駁する行為についても触れている。
2017年4月21日投稿『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html
言語集団も宗教勢力も、個別の差異はあるが、人間における普遍性に関連する。

社会科学でも、政治・法律・経済で扱われる任意の個人や集団における精神・心理についての科学的根拠(証拠・エビデンス)の類が有っても無くても、「発言や行動が存在する事実」に関する客観性から精神を尊重する傾向がある。
しかし、社会科学の分野には出版・言論における売文家や御用学者が多く、私はその恣意性(e.g. ある意見や声を多数派・少数派と学者各位の判断で前提を作って論じるようなこと)を見る。
他方、脳科学や心理学や精神医学などのさまざまな観点で証明されるべき精神・感情・心理現象があり、まだまでこの倫理道徳らしい方面での課題が多いといえる。
学問研究からの社会的運用として、立法・司法・行政などは実際に起きた犯罪の例=どのような経済層などの背景を持つ者がどのような状況から何の行為に至ったかなど、鑑みて法令や条例や社会保障の予算配分を決めたり、個々の刑罰を決めたりする。
応用分野は、社会科学系も自然科学系も極めて倫理道徳を重んじる必要がある (cf. ES細胞とiPS細胞)。



現代日本語の語彙「カガク kagaku」…科学と化学

「科学(サイエンス science)」と「化学(ケミストリー chemistry)」の紛らわしさが、その発音にある。
両単語は、示すまでもなく、「カガク kagaku」として現代日本語の発音で共通する。
そのことは、日本の人々に、科学が化学であるようなバイアスをかけている。
「科学」と「化学」を同音で把握する日本人が日本人に対して、ステレオタイプとして科学者の外見が「白衣(オプションでメガネなど)」であるように定着させてきたろう。
これは言語音声に関する主観的認知とそのバイアスに関する話であり、認知言語学に関した一見解になる。
kagaku japanese words science chemistry
 これはどんな科学かな?
大学生と化した女児Sによる
科学者コスプレの絵+発音の図

言葉における科学性を示したいが、まず音韻論 (phonology) について話そう。
「科学」と「化学」とは、共に現代日本語の一般的な漢字発音で同音異義語 (homophones) となる。
これが歴史的にもそうであるか、他の言語でもそうであるか、検証してみたい。
以下に、両単語の字音仮名遣い(歴史的仮名遣い)と拼音(ピンイン Pinyin)とを示し、対応する音素 (phoneme) も表記する。

 (科學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音"kēxué (クーシェーまたはクーシュエー /kʰɤ ɕɥ̯œ/ トーンは第一声・第二声)"

 (化學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音で"huàxué (ファーシェーまたはフヮーシュエー /xu̯ä ɕɥ̯œ/ トーンは第四声・第二声)"

※参考までに、宇田川榕菴(宇田川榕庵)の「舎密開宗 (刊行年代は1837-1847)」は、「化学 chemistry」に相当する西洋の語句(一般にオランダ語 chemie とされ 現代の発音は /xemi/ ヘミに近い音)を「舎密(唐音: せいみ 参考までに拼音: shèmì シェーミー第四声・第四声)」または「舎密加」と音写している。明治時代の官庁に「舎密局」もある。「舎密」は今日の日本語で用いられていない。

このように、両単語が、日本語では現代発音でも字音仮名遣いによる古典発音でも、同じ音素を有している=同音異義語である。
しかし、両単語が、中国語ではそうならずに区別可能である。

「科学」も「化学」も、明治時代から学術・日常の範囲で日本語に取り込まれた語彙であろうし、けだしどちらも明治訳語であろう。
前者が仮に中国古典・漢籍に文字列があったとしても、英語"science"に相当する何らかの西洋の語句の訳語としては幕末~明治期の日本から用いられたろうし、後者は和製漢語(日本での造語)であったろうと私は推定する。
しかし、科学と化学が漢音読みで「カガク(クヮガク)」という同音になることが分かっていたらば、あえてどちらも採用する発想が不可解である(そこで調べなおすと化学の方は中国が先にchemistry相当の語彙として造ったという説を確認できた。もしそうならば中国に同調したか)。
興味のある方が各自で検証をするとよい。



現代日本語では、両単語の同音である状態を鑑みて、それぞれ「カガク・ばけガク(かがく・ばけがく)」と読むことが暫定的に求められる。

もしくは、明治~戦前期に「化学」の音読みが、「化」の呉音で「け(as in 化粧 けしょう keshō, 化身 けしん keshin)」の「けがく kegaku(字音仮名遣い: くゑがく kwegaku)」と作られていたらば、現代語で同音異義語とならず、その紛らわしさも無かったろう。
もし現代語発音で「化学 ケガク (クヱガク)」と読むような翻訳をすれば、「科学」と同音異義語にならないのみならずケミストリーの当て字(または音義対応 phono-semantic matching, jawp: 音義対応翻訳という語はWikipedia発祥の便宜的な翻訳語) に見える上手い訳でさえあったはずが、歴史的にそうならなかった(英語chemistryに当たる日本語を「舎密」と「化学」の決定的な動議が明治18年にあったとされるが化学フォロー側からこの読み方が提案されたか不明)。
「化学」を「ばけがく」と読むことは湯桶読み(ゆとうよみ・訓音の順)であり、「けがく」と読むことは明治訳語・和製漢語における呉音排除に悖る。
他方、湯桶読みのような訓音ハイブリッド読みも、呉音読みも、明治訳語・和製漢語には多く見られる(e.g. 病 呉音: ビョウ 漢音: ヘイ 病理ビョウリ⇔疾病シッペイ)ので、許容されてもよいはずである。

明治以降、果たして漢音・呉音といった漢字音の系統区分が、どれほど活かされたか?
その上で慣習的な表記を選択する柔軟さが、どれほど行使されたか?
同一概念の英語・ドイツ語など西洋言語での名称が同音異義語でないのに和製漢語でのみ同音異義語になる問題性が、どれほど鑑みられたか?
日本語の語彙論 (lexicology)・音韻論 (phonology) に限っても、その科学性を重んじるべき事項が多い。

大多数の日本人は、言語における科学性(知識の宝庫である性質・知的に用いられる性質, scientiaからscientificityのような英語の意味を筆者が恣意的に定義する)・合理性(歴史的な正統性・社会的な実用性)を顧みない。
「言霊・ことだま kotodama」と言っても言わなくても、歴史的に日本語族 (Japonic languages) の人々はそのようであったし、別に構わない。
※たとえナショナリズム・保守主義などが民間レベルに適用されても、朝鮮・ベトナム・インド・旧ソ連の国々が自国の言語改革をしたレベルのようなことを日本上下万民は全然できなかった。正書法 (authography) である「当用漢字=当面用いる漢字」はユーラシア諸国のハングル・チョソングル・クオックグー・アルメニア文字・ジョージア文字などと比べて酷い改変である。現代中国の簡体字でさえも一部に古形へ回帰した例がある(e.g. 「」は元々「雲 cloud」を象った字であったが「言 to say」の意味の仮借字となり、簡体字で再び雲を意味する。「」は日本新字体で「従 繁体字・旧字体:」だが簡体字で古形に戻された。ともに甲骨文字=3,000年以上前からある)キリル文字からラテン文字に変えた国はアゼルバイジャンなどあり。言語改革にはヒンディー語などが古典語・サンスクリットから借用するなどあり。科学的な話だと思われなくなりそうだが、これは自ら言語の歴史を軽んじ、他の言語とも歩調の合わないようなことをし続ける日本国・日本民族の悪しき宿命によるものと私は思っている。和製英語・各種スラング類も既成事実の文化として肯定的に見ることができるが、言語の科学性を重んじた場合は最も日本語に根深い悪習と思う。それで社会的には小学生の教科として英語必修化をしても、グローバリズムに適わないばかりか、自他の言語の尊重といった精神性に寄与しない。精神文化や自他民族伝統などに無頓着であったり、無節操である民族のうちから、自然科学分野で割と優れた成果を上げる人がいることも私は知っている。これは言語・宗教を高度に研究してきたヨーロッパの人々が近代科学を生んだり発展させたことと似ない例として考えることも可能である。無論、当記事で既述の通り、江戸時代の国学・仏教学門などはヨーロッパの近世~近代に行われた文献学・言語学・神学・インド学・仏教学の研究に如(し)くと思う。その無節操な民族のうちから西洋的な人文科学に繋がる研究で傑出した者が現れる。私はプロパガンダのみを書くための理論を作る気ではないため、雑駁だと思われそうでも知る限りの情報を示しつくす所存である。



用語「科学」についての他の考察

語用論 (pragmatics) の観点で「科学」および「サイエンス science」を考えると、一般に生物の写真や生態に関する話題や宇宙と天体の写真や3Dイメージなどを「科学 science」の象徴のように用いる例に重なる。
こういった用法は、「科学 science」が取りも直さず「自然科学 natural science・理科系学問」である意味を明示する。
そうなると、これは語用論というよりも意味論的 (semantic, semantics) である。
事実、英語の辞書(e.g. En. Wiktionary, 他にOED類CALD・ケンブリッジの英英辞典類もそうなのかといえば検証しづらい)には、そういった意味も"science"のうちに定義されている。
一般通念や常識のうちで、「科学」即「自然科学」という見方は承認されている。

単語の語源論 (etymology) については古文献の例示をしない間は私が話すことを好まないでおり、ラテン語の"scientia"が自然哲学に限られない広範の知識や学問 (knowledge, discipline) を16世紀以前に指すことが多かったという感性に随う。
しかし、今は専門的な言い方や詳細な説明を避けることはできない。
英語の"science"は動詞 scire の現在能動分詞 sciens の中性・複数・主格 = scientia, その古フランス語やアングロ・ノルマン語のような古いロマンス諸語の言語を経由して英語に借用されたものである。ラテン語の動詞 scire (語形変化の例: scio 能動態・直説法・現在時制・一人称・単数) は、何かを「知る・理解する・それに対する知識を持つ状態を得る」という意味である。
今の英語であっても"omniscience"(omni- + science) といえば全知全能の「全知」に当たる意味である(形容詞に omniscient もある)。
ラテン語訳聖書でいくらか用例を探してみると、"scientia"は多めに見られるが"omniscientia"はほぼ無い(分けられて文法的な表現が多い。数少ない用例に見えたローマ書15:14は"omni scientia"である他はヨハネ書18:4の"sciens omnia"のような表現も多く、文脈も予想しやすい神への称賛としての用法が見られづらい。"misericordia"のように存在するものと思っていた)。



ちなみに、日本で「物理学」というと、英語の"physics"(フィジックス, 原音よりでフィズィクス 学問の名称は-ics不可算名詞。physic フィジックと区別される。物理的なことの一般的な形容詞はphysical フィジカル) であるが、この英単語はラテン語・古代ギリシャ語に辿り着く。
その英単語に見られる学問名称の語源を見ると、「全体で部分を表す比喩(日本の論文で換喩・メトニミーや提喩と言っているがはっきりしない)」のような現代的な意味が感じられる。
英語に継承される以前のラテン語"physicus, physica"や古代ギリシャ語"φυσικός"(ピュシコス・形容詞のみ。φυσικήは古代ギリシャ語でその女性形だが現代ギリシャ語で物理学を意味する名詞であって英語からの意味借用"semantic loan"か。古代ギリシャ語の名詞ではφύσιςもある) は、自然に関する意味合い (形容詞: natural 名詞: nature) が主要である。
※単語の使用例はどうか?古代ローマの古典ラテンで書かれたキケロー著 De fato に"Non ita loquimur, ut physici"というフレーズがあることが、当ブログの2018年8月8日の記事に示される。この"physici"は、英訳の一つ(by H. Rackham)において「自然哲学者たち"the natural philosophers"」と翻訳されている。また、古代ギリシャのアリストテレースの著書「自然学」の英題・英語名称が Physics (原題も同様にΦυσικὴ ἀκρόασις) である。

しかし、英単語の場合は、一般的に「物理的なこと・物理学」の意味に限定されるのである。
早くても西暦14世紀以降にヨーロッパのどこかで、"physicus"系統の語彙にその意味が強く与えられて用いられるようになったろうか。
他の比較できる例には"physica"の派生として英単語の"physician"(フィジシャン、フィズィシャン。医者・医師または内科医) がある。



他には「科学技術」という言葉の存在も考えてみたい。
政治・経済などの文脈で「科学技術」という言葉は多く見られるし、ニュースなど世間一般でもそう言いつつ、簡単に「サイエンス(cf. カルチャー、スポーツ)」ともいう。
この言葉はもともと英語の"Science and Technology (Science & Technology)"という表現から借用したものと考えられる。
日本語では「科学技術」として四字熟語のように取れる形で用いられるが、英語に"and (&)"が用いられるように、「科学」と「技術」とで別概念の並列複合語"enumerative compound"である。
並列複合語を解して「科学と技術」、「科学・技術」となる。
別概念が並び称される際、このような用法からは、次第に「科学=技術」という同位(同格・等位)の概念や「科学的な技術"scientific technology"、科学による技術"technology with science"」という修飾関係に感じられるようになるし、一般大衆の中にはそう思う傾向もありえる。
これも「科学=化学」のように、バイアスの例であろう。
標準的な日本語の高低アクセント (pitch accent) において、「科学↓技術(カガクが頭高)」は並列複合語のように聴こえたり、「科学→技術(カガクが平板)」は修飾関係の複合語のように聴こえたりする(前者の発音は一般に用いられないので区別したい者が意図的に用いることを期す)。

技術とは一般的に、工科・工学"engineering"系統の分野であり、大衆の日常生活はそこから多く恩恵を受け、いわば科学研究の応用"application, applied"であるので後発的である(科学と違って技術開発には「物性などから目的に適う優劣を人間が判断する作業」が含まれる。構造的には技術も現代の科学も倫理に縛られやすいが)。
なまじ近現代においては科学研究の手段に工学的な技術の道具があるから、双方向・相互依存関係でもあるとも考えられる。
両者の境界が曖昧である現状(統一される?)に、「科学技術"Science and Technology"」という呼称は便利である。
ただし、技術という工学系統の話題を除いても、結局、「カガク、サイエンス」といえば「自然科学」の意味・用法が強く残ると思う。
言うまでもなく、「科学」の領域は広くも狭くもあり、その用語には細心の注意を払いたい。



大学の人文系・文科系の学部「文学部"Faculty of Arts"」
漢字「文」(the letter 文 bun, wén) の一用法

文学部という名称の「文」は、もともと英語の"arts (アーツ、複数形)", ラテン語の"ars (アルス、単数形)"に当たる言葉を指したろう。
英語の"arts"は、視覚芸術・美術"fine art"に限る必要性が無い。
トリヴィウム(trivium トリヴィアムとも)、リベラル・アーツ"liberal arts"ともいえる文章的な技術・技能 (writing skills; grammar, logic, and rhetoric) を指すことが"arts, ars"の原義に近かろう。
英語での名称の幅を拡大すれば、"humanity, humanities"も含まれよう。
「文学部"Faculty of Arts (and Humanities)"」は、"arts, ars"の学部"faculty"ということになる。
決して「文学"literature"」や「文化"culture"」の学部ではない。
このように英語など西洋言語での名称を介して考えると、人文科学の手法に近づく(それでさえ誤った前提や概念認識によって行われれば疑似科学・疑似人文科学になる側面も否定できない)。

先述の通り、「文学部」や「人文」という「文」の字の用法は、英語の"arts"に当たる言葉とその概念に由来するであろうが、これは明治以降の日本人が和製漢語・明治訳語のように用いたことが起源であろう。
その用法は中国の古典・漢籍 (Chinese classic texts) に見られないので、由来することも無い。

ところで、2014・15年に私(当時17・18歳)が日蓮正宗系の学問をしていて「明者は其の理(り・ことわり)を貴び、闇者は其の文(もん・ふみ)を守る(依義判文抄より)」という大石寺26世・日寛上人の言葉を見たとき、「理系・文系」の人を連想してしまった。
これは江戸時代の仏教徒・僧侶の言葉であって「文・理」は仏・釈尊や日蓮大聖人の教説の額面的な意味と真意(文底秘沈)とを区別したものであり、現代日本の「文系・理系」の区分と関係ない。
※原典の依義判文抄には「理」の字が「釈尊や日蓮大聖人の教説の真意」の意味で用いられた箇所が無いようでもある。更に「文・理」は三証のうちの「文証(もんしょう)・理証(りしょう)」のことでもなかろう。「依義判文」という題号の語彙における「文」に対比した「義」を、その「理」の同義語とみなすことも不自然である。論理学的にいうと「文底秘沈を知ってから文を判ずること」が「文と文の真意との従属関係」を不明瞭にしているので、循環論法や「鳥と卵」のようなパラドックスになり得る(文学の読解であれば人の人生経験とその価値判断が関わるのでそうとも限らないが)。古い文献・文学はフラグ回収(伏線回収)のようなことが必ずしもされないので、直ちに一文の意味を決定することは困難である。



卓越した先人たちの学問・芸術研究

学問領域の分化は、合理化された分業体制の一種であろう。
個別の学問の専門性が漸次に高められ、学者の知識が高度であらねばならず、現代では自然科学がそのように成り立つ。
※科学哲学者であるトーマス・クーンのパラダイム論(Kuhn 1962「科学革命の構造」)によれば、既存の学問のもとで未解決の問題が解決されるという新しい科学的業績=パラダイム(それは同時に新たな課題を作るもの)にベテランや若手の様々な研究者・科学者たちが賛同するなどして共通のテーマのもとで学問領域が分化する例が多いともいう。新しいパラダイムに移行するという「パラダイム・シフト paradigm shift」もある。それは著作でいうとアリストテレス「自然学」→ニュートン「プリンキピア」などであり、またニュートンらの古典力学からアインシュタインらの現代物理学のような例もあるという。彼は自然科学についてのみパラダイム論が適用されるべきであると概念・用語の制限をしている。パラダイム論は後に彼自身が放棄したものであるが、科学史と分野のアイデンティティを考える一つの基準ではあろう。

西暦1900年以前は、現代の学問から見て複数の分野とみなされる研究を一研究者の行動範囲に含むことが多かった。
それだと、一般的な科学者というよりは、哲学者・思想家・芸術家のようでもある。
博学の人"polymath"と称すべきか。
中世ヨーロッパの科学者たちは、一般教養としてキリスト教神学の造詣もあったし、彼らによる神学への言及もされた(多くの場合はキリスト教神学の範疇で科学的・自然哲学的な研究をしたとも考えられる)。
そのほか、人文系の研究に貢献する者が医者を生業にしていた例も多かろう(e.g. 記紀の研究者Motoori Norinaga 本居宣長や フィンランド伝承Kalevalaカレワラ編纂者Elias Lönnrot リョンロートや Esperantoの考案者で聖書翻訳者L. L. Zamenhof ザメンホフ)。

私が知る西暦1900年以前の博学な人物の具体的な例は、直ちに挙げづらいが、レオナルド・ダ・ヴィンチが典型例かと思う。
近代以後では、言語学で功績をあげた人に数学者・物理学者がいた。
例えば、ヘルマン・グラスマン (Hermann Grassmann, 1809-1877)とトマス・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)である。
前者は「グラスマンの法則 (Grassman's law)」と呼ばれる法則を言語学(印欧語研究)にも物理学(色彩・色覚関連)にも与えた(他にグラスマン代数とも呼ばれる外積代数がある)。
後者は「ヤング率 (Young's modulus)・ヤングの実験 (Young's interference experiment)」というエポニムが物理学で知られており、印欧語研究やエジプト学(ヒエログリフ研究)も行い、2006年出版の伝記の題"The Last Man Who Knew Everything"が彼の博学ぶりを表している。
両者は一括りに言えば「古典言語と光に関して通暁していたし先進的な研究をした」ことになる。
当記事の執筆に際して知った類似の人物に、チャールズ・サンダース・パース (Charles Sanders Peirce, 1839-1914) がおり、彼も数学などに長けていた・光に関する研究(天体の測光やメートル単位の基準に光の波長を用いる提案)をしていた・論理学や哲学に大きな影響を与えた(実用主義の英語名称2つpragmaticism, pragmatismはいずれも彼の造語。先述の記号学・記号論の一大潮流でありしばしばソシュールに対比してsemioticsという学問名称を用いる人物として挙げられる。2つの同様の名称を造ったことはそれこそが言語や記号のプラグマティックな側面を重んじることの現れであろう。言語学の語用論pragmaticsに似るが無関係)。

※余談だが、パラダイム論に関してこの例も挙げよう。光の本性(人々がそう思いたい本質・正体)とされるものは粒子か・波動かという議論があった。17世紀にニュートンさんが「光の粒子」説に当たる見解を示した。その前にホイヘンスという学者が「光の波動」説に当たる見解を示しており、先述のヤングさんは「光の波動」説が支持される実験をした人物である。後者の時代から光の波動説(数十年後にはフレネルという学者がホイヘンスさんの説を補強する)が物理学などで広く支持されるようになっても、19世紀後半から終盤までに「光電効果」に関する実験などが示され、光の波動説に危機が訪れた。粒子・波動の両者の性質が見いだされる光の作用が証明されている状況で、20世紀からはアインシュタインさんが「光量子・光子(フォトン photon)」説が支持される光電効果についての研究によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。光の本性とされるものを簡単に言えば、粒子でも波動でもなくどちらの性質も観測される「量子」であるということ (wave–particle duality) が結論であり、今日の科学で承認される。光学は今も光の波動としての性質に関するパラダイムに則る波動光学 (physical optics) と、光が量子であるとするパラダイムに則る量子光学 (quantum optics) とで異なる分野が並存し、研究されている。目的性によっては幾何光学 (geometrical optics) も研究される。

※パラダイム論や科学哲学に関してまだ思うことがある。現代日本のファンタジーのRPG (Role-Playing Game) 作品などには、そのゲーム内の魔法理論や錬金術理論などがある。一例として、魔法の属性は、それを示す図がシステマティックであるし、ゲーム内の世界で厳然とした事実である。ビデオゲームならば属性間の相性(火と水または火と氷が対称的)がプログラムで計算・処理・反映されて有意である。現代日本のファンタジーのRPG作品内の魔法理論や錬金術理論の淵源は定かでないが、やはり中東やヨーロッパにあったと思しき中世・近世の本格的な魔術・錬金術の学問や近代・現代のファンタジーの文学などに求められる要素は多いと思う。それらを骨組みに、世界各地の神話・伝承などで肉付けされてもいると思う。現代のファンタジー作品に限ればMP (Mana Points, Magic Points) のために「マナ mana」というポリネシア系言語(マオリ語など)由来の言葉が用いられるようになった経緯が分かるように、多少の要素の淵源を求めることができる。大局的に私は認知しない。何が現代日本のファンタジーのRPG作品の祖先に当たるかは断定的でなくも、いくらかパラダイムや規範となるような理論やそれを含む作品があることは考えられる。よくできた魔法・錬金術の理論は、科学と見紛うものである。しかし、現代日本のファンタジーのRPG作品は既に古典力学・物理学などよりも後の科学知識を知っているような人たちが築き上げた産物・所産ならば、詮ずる所、現代的な疑似科学またはSF (science fiction) であって最も精巧なモデルである。

先人たち彼ら個人の研究領域が幅広いことについて、その成果を知るのみでは、教養知識として「画竜点睛を欠く (an idiom in Japanese, it lacks a Chinese classic source)」ようなことである。
彼らの成果から感じ取れる彼らの探究心や知的好奇心の強さ(人間性)を、感じてもらいたい。
もちろん、学者個人の哲学や理念ということには、専門分野で直向きな努力をする人たちからも感じられることは多い。
現代の合理化された学術分野のうちで学者たちの精神が失われていない限りには、彼らの姿勢に精神性を求めることができ、彼らの精神性を良いものとも悪いものとも多面的に見てみると、自身の努力の糧になろう。



いわゆる文系・理系の学際性とペア関係

ここから、「文系・理系」という、現代で学術はもとより教育方針としても意味をなさない区分(二項概念)の名称を用いる。
反例として東京大学の文科一~三類・理科一~三類などがあるように、一部では機能している(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)。
口語的用法では、今も多少の日本人が学問とその研究者の人格に対して区分に用い続けていると見られる。
ただし、高等教育(大学)に関してこの区分が的確な側面もあろう。
ひとまず、文系・理系の学際性とペア関係について考えてみよう。

  • 心理学(学部でいえば文学部)と精神医学(学部でいえば医学部 alt. 精神病理学)
  • 地理学(学部でいえば文学部)と地球科学(学部でいえば理学部 abbr. 地学)
  • 分子人類学(学部不明。系譜学を物質的に証明する。人類学は言語学・考古学・民俗学に関連する)と分子生物学(学部でいえば理学部。生物学は主に生態学と形態学と分類学を含んで自然科学)

他に、社会学・言語学と情報技術・情報科学(技術というとエンジニアリング、プログラミングとか。理学部・工学部など)を示そうと思ったが、雑駁になりそうなので控える(古形としての情報学は社会や文献などの情報全般を扱う文系領域であろう)。
上記の例らは、私がペア関係だとみなす理由を詳述していないので、各自で想像するとよい。
実際に異分野間の研究者がどのくらい協力し合うことがあるかは、私が決定的に論ずることもできないし、上記の例らも、それぞれに程度の差が考えられる。
「心理学と精神医学」の相関性は想像に難くないが、「分子人類学と分子生物学」の相関性は考えづらくて「何となく似てる(口語)」という程度の感覚に思われよう(分子人類学の研究対象を身近な親戚・民族など家系レベルから拡げて現生人類のみならず比較のためにヒト属Homoないし霊長類Primates全般にするならば生物学と大きく重複する。任意の学問分野の研究は現生人類とショウジョウバエ特にDrosophila melanogasterなど非脊椎動物まで比較することもある)。

学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい1, 2)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。

私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。
今まで挙げた名前以外では、認知科学やメディア研究(メディア・スタディーズ)、メディア芸術(メディア・アート)が私に関係している。
2016年2月15日『二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得』(後年の追記①・②を含む。自然科学の要素は少なくて形式科学や認知科学に近い)
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』(音響学・音声学・音楽、他に形式科学という数学の考え方が適用される。以下の画像の周波数解析は音声学のうちの実験音声学に一般的な手法であって数字利用でしかないが他に母音チャートを3Dの立体図形として考えるなど)
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html


学際性というよりも、その学問の基本的な知識に2つ以上の学問の知見が大事になるものが、言語学に関連した「音声学 phonetics」である。

  • 言語発音の調音位置とその位置での調音方法について解剖学的な (anatomical, anatomy) 理解(実験におけるMRIの利用も稀にある)を要する。 i.e. 調音音声学 articulatory phonetics
  • 言語音声の解析にはスペクトログラムなどを用いて音響学的な (acoustical, acoustics) 方法をする。 i.e. 音響音声学 acoustic phonetics
  • 疑問→調音方法には力学的な (mechanical, mechanics) 分析もできるが、現今の音声学で数学の方法はハードに用いられていない(言語音声の生成に数理を用いる例はソース・フィルタモデル source-filter model, theory があり音響学・音声合成技術などで有名)。
  • 疑問→音声の知覚には神経科学的な (neuroscientific, neuroscience)・心理学的な (psychological, psychology) 考察(e.g. 音象徴)もできるが、現今の音声学の領域よりも認知言語学的である(聴覚音声学 auditory phonetics が包括するかも)。
  • 応用→音声処理技術に役立てることが可能。
  • 応用→歯列・骨格・筋肉の障害などによって発話が困難な人・言語障害者の補助のためなど、音声合成技術に役立てることが可能(2019年もアメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた)。
  • 応用→乳幼児言語教育や外国語教育や音声認知の研究の進展に役立てることが可能。

音声学の現代までの過渡期には、他の学問の知見や方法を導入する学者がいたこと(言語の音韻研究は古代インドのシクシャーからして解剖学的だったので近代~現代のみならず伝統的にも同様の傾向あり)が明らかであろうが、今はその方法論が既成事実化しているので、学際性ではなく単一学問が持つ特徴に収斂する、と私はみなす。
音声学には、"interdiscipline"と呼ばれる、単一学問に対する分類名称が適用できる。



続いて、科学史や数学史の研究領域などはどうであろうか?
一学問分野それ自体の社会的地位や歴史的経緯(科学者個人ないし共同体・小社会)などを研究することは、学際というよりもその分野の社会科学の側面を研究していることになる。
論文・文献の整理や学説発表の順序など、自然科学系・理系ではこの行為が必要である(学問は人の手でなされてきたしこれからも人道的・人権的な見地とともにそうあらねばならないという倫理規範がある)。
各研究者個人で必要最低限に(彼らが論文を書く際に出典を示すために必要)そうするし、科学史(数学・化学・物理学・医学ほか自然科学系の歴史)の専門家は少ない人数でも必要になろう。
科学史などがもし社会科学の範疇にみなされるとしても、多かれ少なかれその分野の専門知識が要求されることになる(数学史であれば数学的知識と技能とが人物・学説を把握するレベルで必要か)。
※私は一学問分野それ自体を学問研究の対象とすることについて「メタ〇学"metascholarship"」と呼びたい。いわゆるメタ認知 (metacognition) は認知主体がそれ自身を客体=対象にして認知すること(心自ら心を知る。この用語の意味は脳科学や神経学の見地で反論されそうだが慣用的にそう言える)を意味するように、メタ meta- という接頭辞に再帰的な (reflexive) 意味があるが、メタ〇〇学はそれに加えて学問領域の範囲外に超越している状態を指す。しかし、メタ認知がそうであるように、メタ数学・超数学 (metamathematics) が数学の方法で数学を研究することから考えると、私の「メタ〇学」名称には問題があるので、この「呼びたい話」を気にしないでよい。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」
の学問における空虚さ

日本人は「文系・理系」として後天的アイデンティティを分別して用いることが好きであろう。
ここでいう「日本人」とは無標複数形(日本語では複数形のための標示 marker が無い語形・無標 unmarked で用いることが多く日本人の不特定多数を指す場合に「日本人たち」とはあまり言わない)であり、社会についての思考能力がある年代(例えば15~64歳)を想定する。
日本人はこの日本列島内に生まれ育つ過程で民族的差異(肌の色のみならず宗教や言語の多様性)と対立とを身近に経験しづらい分、同じ日本人のうちに後天的なアイデンティティを自己や他者に仮想したがると思う。

それはともかくとして、日本人は学問的な目的性や教育現場での便宜的な区分の前提を等閑視して「文系・理系」の分別(客観的基準さえ乏しいままのそれ)に依存した思考と発言とを行いやすい事実はある。
多くの恣意性を孕み、既に結論ありきの議論がなされることもあろう。
人により、そこから文系・理系に本質的な異なり・絶対的な隔たりが感じられよう。
日本語版Wikipedia - 文系と理系あたりを参照すればよい。

中国語圏だと、日本のような用例で「文系・理系」とは言わなかろう。
中国語版Wikipedia - 文理分科は、中国大陸や香港での高等教育に関する話題が書かれる。
文科は政治・法律・経済・リテラチャーとしての文学といった社会科学や人文科学の科目を指し、理科は自然科学全般(精密科学や生命科学など)の科目を指し、いずれも国語・外国語・数学などは必修のように見える。
文理分科および必修科目とは、学校ごとの程度の差があって基本的に自由の上で結果的に傾向が似たものか、それとも社会主義国家らしく国家的カリキュラムがあってそれに基づいたか?
中国語版Wikipedia記事は一般論が書いてあるとしても無出典の記述が多いので、大学の科目などに興味のある者が北京大学とか精華大学とかを調査すればよい。

それとWiki間リンク (wikidata) の付けられた英語版Wikipedia - Hard and soft science は、科学分野の特徴に関する区分としてそれらの名称が稀に用いられていることが提示されているようである。
口語的な用語 (colloquial terms) ではあるので、大まかに言うと"hard science"は理科系, "soft science"は文科系を意味する。
歴史的には、1960年代に初出のワードである(cf. Yngve 1961Storer 1967 哲学や社会科学の系統の人による思考の産物でもある)。
詳細な分野ごとの"hardness"、質・量の測定は不明確である(一応Storer, 1967に例示されている様子)。
学問的・哲学的な観点で"criticism (批判)"も多く考えることができるし、英語圏で一般的な分別概念・名称とは思えない。

Wikipediaのうち日本語版と中国語版と英語版とでは、全く別の概念が、wikidataで相互リンクを付与されているという、極めて稀な現象が示された。
文系でも理系でも、語学(国語・外国語)と数学(算数・幾何学)は学問の基本であると考えられるし、各々が要求される程度に随って習得すべきであろう(小学校の科目でいう”こくご”と”さんすう”を連想)。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」について、一般的に何の観点で行われるか?
ほとんど経済的な利益や、就職・就業・世間体で有利か不利かという観点が基本であると見てよい。
cf. 東洋経済「本当に強い大学ランキング」および島野清志「危ない大学・消える大学」の他著書 (英語版Wikipediaに2011年に日本語版から翻訳された記事があるが日本語版Wikipediaでは2012年に削除されている) 東洋経済もとい大学通信による「大企業(有名企業400社)就職率」などという調査もある

高等教育機関としての大学(入試・受験)に関する話題や就職活動に関する話題では、特に文系・理系の分別が世間で好まれよう。
※早慶とかMARCHとかFランク大学とかといった区分も、その世間での用法について、似たように見てよい(cf. 川上, 2017. 大学の“くくり”はどのように生まれたのか?)。「高等教育機関」のうちでは、東大・京大・早慶・MARCHといった学校が、22歳・学士・新卒としての典型的な現代人・社会人・労働者の量産を行っていると考えられる(第26代東京大学総長・蓮實重彦さんは平成10年度入学式における式辞でそれを望んでいないように語った)。「学術機関」としては、そう見られるべきでない。何の大学であれ、各々の使命感と目的性とによって学究研鑽をする者がいるからである(Fランク大学がそう呼ばれる所以はそれがいないからだと反論されそうだが)。学校の個性は、所在地が代表することもあり、北海道大学は北海道大学の価値があり、琉球大学は琉球大学の価値があると考えたい。フィールドワークのある学問研究では地方ごとの「地の利・ローカル性」が活かされる。こう話しても、個性的な学校以外を切り捨てるようであるから、あまり望ましくないかもしれない。「良い人材と出身校」は結果論のようだが、しかしまた、「この学校の出身者には良い人材が多い」という傾向が見出されることは、排除できない。効率主義の現代日本では、特にそういった「~だろう、~に違いない」の見解がマニュアル的になされることも妥当である。個人では解決できない社会的な課題である。

当事者の自負としてのアイデンティティは尊重されるべきだが、他者がそのまた他者へと一方的にみなすことは悪用と感じる。
自虐的な自己紹介・謙遜表現で用いる場合は悪用のグレーゾーンと感じる。
「文系・理系(および体育会系)」以外にも「草食系・肉食系(および雑食系)」や「右脳派・左脳派(一般に通俗的二項概念として用いられる。脳・神経科学では"ブロードマン脳地図44野はブローカ野の一部分であり、言語の発話に関係する"と語るように脳の詳細な部位を想定して思考や感傷などの機能を説明することが多いので単純に左右という二分法・二元論は通じない。そもそもこういった即物的な語彙を用いる一般人が即物的な実験を行っていないし専門家の説明や文献を参照しない。単に仮説として理性や感性を意味するならばそれでよいと思うが)」や「A型・B型など血液型」は、そういう用いられ方がされやすい。
アイデンティティの有無は、人間の精神性(感情・欲望)から分別の必要が相応にされるものの、日本人が行うものはかなり前時代的な人種論(18世紀~20世紀前半ヨーロッパなど)と似る。
それよりも更に悪い側面として、日本人は学問的な知見・方法論に疎遠である。
インターネットの二面性として、文化的な意識の向上と、小規模共同体の拡大とが見られ、高速な文化の消耗と生産とが起こるであろうが、どうにも学問的な知見・方法論は定着するよりも、遮蔽されて一般化しづらくある。

巷間の「文系には分からない・理系には分からない」などという論調が、実に一方が他方への秘密主義を持っていて学問的態度に反している。
何よりも人間 Homo sapiens sapiens の知的な可能性(sapience, sapientia. 分かることは結果論なので直観"intuition"か無感情知性"intellect"かはここで不問)を限定しているようで、人道的でない。
もし自他を文系・理系と分別して本質的に能力の異なる生まれを持つ価値観に固執するならば、人間の知的な可能性 (sapience, sapientia) を自ら放棄することに繋がりかねない。
19世紀以前の博学な者たち(人文学を行う医者たち・言語学を行う数学者たちなど)を私は先に示したように、個人の意思が尊重される限りは学問に「文系・理系」ごときの可能性の隔絶は無いと感じてもらいたい。
隔絶があると思うならば、専門分野に慣れた人たちが確かに他の分野になじみづらいということが尊重されてもよい(例えば物理学と生物学の生態学とでは理系同士でも著しく趣向が違うように専門分野に慣れた人たちが他の分野になじみづらい現象はもっと専門性に約すべき cf. 科学哲学でいう通約不可能性"incommensurability")。
そうでもない大概の一般人は「文系・理系」という便利な区分名称によって思考放棄や知的怠慢でいるに過ぎない。
それは社会人が社会人として役割分担の中で生きるには便利だと思うが、自他の能力を限定させる言葉の用い方は現代の個人主義 (indivisualism) ・自由主義 (liberalism) の理念に遠い。
私は、任意の専門でも学際でも研鑽・研究意欲のある姿勢を応援する立場であるが、あらゆる系統の学問の中で人間(i.e. 全人類)を区分して人間(i.e. 研究者個人)を限定するために「文系・理系」の分別を濫りに用いるべきでない。
※日本語の「人間 ningen」は多義的であり、文脈によっては英語で全く異なる色々な概念・名称となる点に注意されたい。日本語がもし英語やフランス語のようであればどうか?"ningen"という単語は無冠詞・不定冠詞・定冠詞、可算・不可算を問わず、色々と文法的な位置づけができる。文系の人も理系の人も、外国語で論文を書く場合に注意されたい。

その人間を限定する「文系・理系」という語彙は、その学問の専門性か、その高等教育を経ることか、通俗的二項概念としての「右脳・左脳」に託したものか、俗語での用法が判然としない。
先述の東京大学の文科・理科のような現代日本で稀な教科区分(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)とも似つかない、曖昧模糊の俗語用法であろう。
現代の個人主義は科学を支えるものと考えられるが、多くの日本人は未だにその語感に惑わされて意味を正しく把握せず、理系・文系、血液型などを妥当な目的なしに用いている。
「誰には分からない・分かる」ということから、かえってその人間の性質を世俗に生きる者たちの間で新たに定義したいのかもしれない。
「文系・理系の分別と、それによる言論」は、社会の経済・大衆の価値観のうちで利益もあろうが、学問のうちで害悪なるのみであり、真面目・真摯・実直な科学者たちにこの種の話がされるならば、彼らの機運を損じると私は思う。
ましてや、各科学の第一線に立つ者たちがそれを話したり論じることは、有り得べからざることである(有り得ることが望ましくない)。

もし、文系分野の人に、科学的姿勢が欠如していたらば(e.g. 経済学・政治学の大衆的な著者は売文家であってプロパガンダや偏向的な論調が多い)、彼らに理系の方法論を与えるのもよかろう。
しかし、文系であれ理系であれ、数学的な技能を使う分野もある。
数学的な技能がハードに用いられる分野であっても、それによる高慢さが、当記事に語られたような科学的態度を失わせることも有り得る。
参考までに、90年代の欧米(ここで主にアメリカ・イギリス・フランス)には、自然科学・数学などの知識をでたらめに援用する一部の人文・社会科学の行為を皮肉にした論文が発表されて1997年には著者アラン・ソーカル Alan Sokal らが"Impostures intellectuelles"(邦題: 「知」の欺瞞...)を出版して皮肉ではなく批判を行っている、「ソーカル事件 Sokal affair (およびthe science wars)」がある。

次の事実は恐るべきである。
学問の外で世間一般の人々が、いわゆる科学知識を借りて偏向的な主張をすることも多い(医学知識・健康法などの情報にこの傾向が有る e.g. 健康食品・運動器具の宣伝 cf. 私が19歳で提唱した真の健康法の理論的説明箇所)。
生命科学(生理学・医学・薬学など)は、応用分野であるし、応用できる知識や実生活に馴染む知識が多いので、疑似科学だと証明し得るか科学的根拠が確立しづらい偏向的な主張が混ざることを注意したい。

説明をする人の主観的な経験と客観的な法則とを混同して説明する人がいることにも注意したい。

これらの問題性には、歴史学・宗教学などの知見(cf. 戦争 セクト主義 同一宗教内の対立・分派)が有効なことも多いと思うので、是非、学んでほしい。
学者・専門家・権威の説であってもWikipedia上の説であっても匿名の説であっても、興味のある者が彼自身による検証で情報の取捨選択がされねばならない。
この要点は、「自洲・法洲・不住他洲 (DN 16: attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. )」といえる。
先のような仏教(特にパーリ・阿含の類)における仏道修行のスタンスを、また科学に援用することもできる。
この点で、科学研究も仏道修行も、その人の真に拠り所とすべきは知能・精神・五感の対象である現象(物事)であり、これについての説明を過去記事より引用しよう(仏道の場合でいう現象・物事・法"dhamma, dharma"はあくまでも以下に説明されるように科学的な範疇と異なる点に注意)。

同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。
つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。

Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。

(その参照)
改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

引用源:『仏道修行のための論理、不戯論のための戯論
および『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義

他の参考:『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

とりあえず、多くの学問・研鑽を行う者たちにおいて、科学性・科学的態度と科学分野の多様性に関する話題は現代の日本国を生きる上で、頭の片隅に置かれる。
少しでも、私からこの話題に対する見解を示し、学問の方向性を闡明したかった。
いつのどこでも真摯・実直な人は誰もが五里霧中にある状態を自覚すると思うが、各々の心にコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を携え、それを1日3回でも1月1回でも見直すようにすればよい。



少し社会・世俗の話題

最後に、日本国の科学分野(世間の人が思う対象の自然科学・医学・工学・技術全般)の現況についても少しだけ考えよう。
研究費用と国家予算の配分の問題や、自然科学・工学などでの女性の少なさなど、色々ときかれる。

前者は様々な科学者たちの意見が既に示されており、これから文部科学省(cf. 科学研究費助成事業)などの関係省庁・機関で何かしら改善が進められると思う。
当時民主党・台湾二重国籍報道で有名な蓮某議員のかつての発言「二位じゃダメか」とは、「国家的な科学技術の水準や地位を維持する目的のもとでの悪い例」として顧みられよう。
自然科学系の人たちは「多くの分野で被引用率・被引用数(一国中の機関の論文が一定期間内に国内外で引用された回数)は日本が中国に追い抜かれている。その主要な原因は科学技術に対する予算の少なさだ」と警鐘を鳴らす(10年以上は鳴らし続けている。早ければ先の蓮實さん式辞を加味して90年代からか。ここ5年は日本人ノーベル賞受賞者の発言も世間で報道されやすい。当記事執筆中の2019年5月上旬にも国立・科学技術振興機構 JSTが最近の調査情報を発表していると毎日新聞やNHK, k10011913021000.htmlで見た)。
費用に関する話は行政府などに限らず、民間・企業レベルでも世間で明るみに出る話題があり、2018年ノーベル医学・生理学賞を受けた本庶佑(ほんじょ・たすく Honjo Tasuku)さんが、彼の研究 (PD-1) に関連する医薬品オプジーボの特許に関する件で受賞以前からその製造・販売を行う小野薬品工業と対立する(本庶さんは基礎研究の促進や若手の育成を目的にして金銭を多く得ようとする)など(彼の研究に関連する特許問題は国外にも案件がある)、研究開発には色々な社会的な課題が伴うようである。

予算以外にも制度改正・法整備が、今までの技術の進歩や今の研究者の意欲(研究の発展)に対応して柔軟に進められる必要があるとも言われる。
例えば、2018年(法令・平成30年)中にはAI(Artificial Intelligence 人工知能)による学習行為において著作物が広く利用できるような著作権法の改正があった。
2015年ころに私は、司法解剖(検死・検視)の質や量を改善するための法改正が必要だと聞いた(科学技術と直接の関係はない話題だったと思う)。
生命科学の分野に関しては、法整備のための立法府に対する主張に加えて一般人・民間人レベルで理解を浸透させる必要もあろう。
人々があまり即物的になれば、倫理観を失い、別の弊害もあることは一種の悲観であろうか。

後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言・稲田さん防衛大臣期に数度の失言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学部生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。

私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比の値である(cf. 東京工業大学 14:86, 東京医科大学 50:50)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても女性が値10以下である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。
※「比の値」なのかは正確にどうか不明である。9:91を数学での「比 (ratio)」として見るならば、女性は百分率の比率における9%ではなく、9 割る 91 の答えから 9.89%となるためである。このあたりが数学での「比」なのか、通俗的な「比」(足して任意の数になるもの、ここでは 100 なのですでに百分率、パーセンテージである数値を並べてある)なのかは定かでない。
当地にも何か影響が及ぶかは不確定であるし、及ぶならば未知数である。
男女平等に関する事柄に限れば、先述の通り、日本の女性たち自身の意思や意識による部分も多い。
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
※蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱っても、大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的な範疇でさえ小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。

金銭や性の話題(男女やLGBTや性的嗜好)などはセンシティブでヒステリックであるから、あまり触れたくはなかったが、少し社会性の側面で示しておいた。
日本国では西暦2019年5月1日、平成31年をもって明仁天皇陛下が退位して上皇となり、新しい天皇陛下(徳仁)が即位したことで「新しい時代・令和」になった・改元されたと話題があることに便乗した形である。
日本国の学術領域がどうなるか、多角的な見地で観察し続けることは一興であろうと思う。

当記事の言いたかったことは社会性の話でないわけで、筆者としては「科学と化学 The terms in Japanese "kagaku and kagaku" ~ 言語における科学性もとい合理性と実用性」の話が最も重要であった。
表題の「科学的なこと」とは、客体 (object) それ自体は素粒子・分子・生物・惑星・宇宙、光・音・言語・神仏の何であれ、方法論によって何でも科学の研究対象になることである。
または研究対象が定量的な (quantitative) 方法に堪えられると判断されるともいう。
19世紀以前の科学史で確かに、言語や神仏など定量化しづらい事物・社会的な特性が人々において持たれた事物は科学の研究対象にならなかった(神学や国学などがザ・科学に似ても信仰に基づく側面が強い)と分かるが、過去のことである。
また、見解によって何でも哲学の考察対象になるし、宗教でいう真理"veritas, satya"に包含されることを忘れないでほしい。
これを帰一のもの・ユニバース"one, unus, universe"というが、万物"all things"であって無量の多さでもあり、客体の如何も自由に考えることが可能である。
改めて科学の語源である"science, scientia"ということを考えてもらおう。





起草日: 20190426

2019年4月上旬から、私は学問に関する別の文章を書いていた。
(2019年4月26日時点の文章内容を以下に引用する)

(前略) 少し社会科学に近い話をしよう。
学問において今も一般の日本人が「文系・理系」、「右翼・左翼」、「中卒ないし大卒」の観念にとらわれている傾向がある。
Twitterや2chでそういった思考や価値観を披瀝する者は多く存在するようであるし、インターネットのニュースサイトもその種の記事を発し続けている。
私はそれを、14・15歳のころから、センシティブでヒステリックである異常事態だと忌避していた(cf. 2016年10月21日メモ帳記事)。
今に平成が終わろうとも、きっと多かろう。
これらは単なる即物的で功利的な者たちによって学問に非ざる世俗性が示されたに過ぎない、と私は考える。
「知能が優れている基準を挙げれば知能は物質的集合体でしかないという即物性で否定し得る」し、「作文能力は…」、「計算能力は…」、「社会的効能は…」、という文系でも理系でも分野とその人々の優劣を言おうとすれば、みな論理破綻・自己矛盾の側面が見えてくる。
目的によって優劣や効能が問えるというのに、自分の人生経験や精神性から得られた目的を鑑みることなく、各々の物差し・尺度で物事の客観性を決定することは、独裁国家の首脳と何も変わらない。
返す刀で己を斬るか、木登りで赤き尻を曝すサルか(私が活動し続ける分には私自身も同じようなものだが)。
「各々の物差し・尺度」とは、個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity"であり、誰でも我が身の五感・心とで価値判断ができる。
あたかも地球上の物質の状態と運動(e.g. 動物の歩行, 音の振動による伝播, 水の沸騰)が地球の重力"gravity"(拡大して外部の天体の引力いわゆる万有引力なども)や気圧などの条件下で通用するように、疑似客観性が過去・現在・未来の万事万物を発生・維持する。
人間や動物が重力などによる相対性"relativity"を自覚しなかったように、Homo sapiens sapiensの者たちが疑似客観性"pseudo-objectivity"を自覚しないでいる。

ある日本人は「権力を持つ政治家が要らない」と言うし、ある日本人は「大衆を惑わすアイドルグループやビデオゲームが要らない」と言う。
真面目な活動家や研究者を「暇人だ」とも言う。
これらの言葉を用いる者が多い日本語は、醜い言語となる。
日本人が言うところの文系・理系の人が日本人の尺度で社会に役立つかどうかという基準も、毛沢東思想には通用せず、「学者や知識人は多く要らない・糞の如き存在」とみなされて肉体的に抹殺されることになる(e.g. 臭老九"stinking old ninth"というが毛沢東主義の有力者による典拠は不明。過去の元朝"Yuan dynasty"でカースト制度があった際に10のうちの9番目が儒学者とされていて売春婦と乞食の間に位置付けられたことに由来し、知識人=知識分子に対する蔑称として毛沢東主義者が用いたそう)。
「文系・理系」分別などは今の俗な用法によって学問全体の支障・停滞にさえなり得ると思うし、そう用いる者たちが何か学問とその研究者について公然と発言することは望ましくない。
私が中卒ニートひきこもりとして、一人で多分野(即ち無分野・空虚な分別概念)に取り組む姿勢を示し・人々に見てもらうことで、もっと多くの分野(専門分野)の研究者が相互に尊重できるようになることを念願している。
誰であれ、世のためになることをしているはずであり、それが人の意志によるならば、これを蔑ろにするような思考と言論とは平成時代のうちに終えられるべきである。
私は何の専門家でもなく、普遍性への探究者であるが、まじめ・実直な専門家に対しては尊重しようと思う。
大学などで没個性的であっても師匠・弟子の形式で学問を行う人々がいれば、私にできないことをしているので、それとして尊敬に値する。
音楽のうちの演奏者も歌手も、美術のうちの画家も彫刻家も、師匠・弟子の関係のそれはよい。
特に意思がある場合に各々、そのままに目的を掲げ、邁進すればよい。
内心の自由を許すが、学問の人は自己に対しても他者に対しても無自覚の尺度(個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity")で優劣の判断が生む利益は無いと知るべし。
無自覚の尺度で優劣の判断をしたならばすぐに自覚・反省してまた目的を顧みて努力すればよい。

萌えの典籍などで散々、私が記したことをまた書いてしまった。
ネット弁慶ならぬ「ネトナカノ・ダ・ヴィンチ(ネットの中のレオナルド・ダ・ヴィンチ。音変化はベンケイ→ヴェンケイ→ヴィンキ→ヴィンチ)」が誕生することを願っている。 

それはYouTubeに投稿する動画説明文の案であったが、社会科学の話題に関する主張が長きに過ぎるために、独立記事にする案が従来あった。
2019年4月26日に当記事を起草することで決行された。

上の引用に「萌えの典籍」について一度言及される。
その件は、興味のある者が各自で調べればよいとしよう。
ここでは科学に関して言及した萌えの漢詩・偈を抜粋する。
地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat  Sanskrit: *medinī-gāthā)」と称され@、萌類(みょうるい)たちのアンソロジー形式で詠まれている。
以下には多多嚩(たたば)と阿若(あにゃ)のみを載せる。

(多多嚩誦曰)
地球如舞臺 有悲喜怒愛 人類踊其上 永苦後死來
他口舌爲聲 是諸法螺貝 聞歌作亂動 終受堕獄罪

(阿若誦曰)
地球中所有 咸從重力性 雖心法最重 隨時宜學之
佛法與物理 是等倶大事 若不依重性 原萌不應生
須觀諸物理 甜果從樹離 不得浮而落 是重性使爾
若原萌不生 無人形萌名 如是知物理 則欲去苦境



科学の教育・社会・世俗の話題と関連する記事↓
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html

この両親(父: 駒澤大学不明部 母: 帝京大学薬学部 離婚済み)からは、科学性(人間の科学的態度)も文化性も協調性も看取されづらいことが、過去の膨大な記録文書のうちに示されている。


2019年4月6日土曜日

母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門

表題のようなテーマから、言語音声と音楽メロディの調和を考えることが、2017年以降の私の個人的な課題となっている。
2019年以降、2017年に私が投稿した音楽動画の数々は、続々と2周年になっている。
それら音楽動画のうちの楽曲には、表題のようなテーマに基づいて付けられた日本語歌詞があるので、説明とともに公開しようと思う。

当記事は、表題のようなテーマにならった一つの理論・仮説を説明する。
「楽語共調(がくごきょうちょう、シンフォネディ 英語 symphonedy, ラテン語 symphonoedia, συμφωνῳδία 造語 of σῠν- + φωνή + ἀοιδή cf. symphoniacomoedia)理論 theory (または仮説 hypothesis)」と呼ぼう。
私は今まで、漠然と「母音 (vowel) の広狭 (?) と音階(後に呼称変更→音高 pitch) の上下 (?) は規則的な関りが強いほど主観的に良い聴こえとなって調和し (harmonize)、歌の魅力を損じないようになる」と仮定してきたが、2019年3月以降、理論化することにした。
そうして、新たに母音の特徴や、音声の道理を学ぶ必要が出てきたので、それを詳細にまとめた。



●日本語の基本的な5母音の特徴

その導入として、日本語の基本的な5母音 (5 vowels) から説明する。
参考までに、「5母音でない言語」であるフランス語やイタリア語は「え(エ)」に相当する音を /e/ (é 非円唇前舌半狭母音) と /ɛ/ (ê, è 非円唇前舌半広母音)として微細に区別(弁別)するが、そういった外国語発音の事情は当記事で基本的に紹介しないこととする。
それと別に、学問用語(術語)の英語における名称は頻繁に併記する。
また、発音の厳密な区別を示す場合に、国際音声記号 = IPAによる音素 (phoneme / /括り) や音価 (phone [ ]括り) を併記する(初心者の方はこれを知らなくても理論の趣意が分かる)。

日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音(以下、五音)のために、言語発音全般の母音の特徴による二分(にぶん dichotomy)か三分(さんぶん trichotomy)をする必要がある。
日本語のための「二分ないし三分」であり、外国語の事情を介すると、当然、より詳細になるが、当記事の問題でない。


言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図
右図は日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を言語発音全般の母音の特徴で示している。見ようにはX-Y-Z 3 dimensions, 三次元である。立体図形で再現できる。以下に値 (value) を書いておくが、あくまでも日本語の国語学的な最小限 (minimum) のスケールにした。外国語などと比較して科学的絶対性を求めるならば、数値はもっとプラス・マイナス両方向に大きくとられてもよい。

横軸X = 舌の前後の程度を二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1
縦軸Y = 口の広狭の程度を三分す 値-1, 0, +1
色相Z = 唇の円さを二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1



まずは、発音時の口の広狭の程度(口唇や口腔の舌などで摩擦音・阻害もとい阻碍系の子音 obstruent が生じない範疇)=広さ(英語圏では舌の高低による観点で高さ heightという)によって、三分をしよう。
「あ」が広い音 (open vowel)、「い・う」が狭い音 (close vowels)、「え・お」が広い音と狭い音の中間の音 (mid, open/close-mid vowels)である。
このように、広い音、狭い音、中間の音の三分がある。
熟語にすると、広母音(こうぼいん ひろぼいん)・狭母音(きょうぼいん せまぼいん)・中央母音(ちゅうおうぼいん)である。
位置の高低によって低母音(ていぼいん low vowel 広母音)、高母音(こうぼいん high vowel 狭母音のこと)ということもある。



続いて、舌の位置の前後の程度 (backness) がある。
「舌の位置」とは、あくまでも舌尖や舌端といった「子音をなす(作る)部分」以外の最高部である。
前側に舌の最高部が位置して発せられる音=前舌母音(ぜんぜつ- front vowels)には「い・え」が挙げられる。
後側に舌の最高部が位置して発せられる音=後舌母音(こうぜつ- back vowels)には「う・お」が挙げられる。
「あ(広い母音)」については前舌と後舌の中間 (central) の位置で発するということ(IPAで ä 非円唇中舌広母音)が音声学の一般的な見解であるが、前舌と後舌のどちらで発することもよい。
念のために注記しよう、もし「う」の音を前舌の位置で発すると、フランス語の"u"やドイツ語の"ü"や古代ギリシャ語のΥ υ(ウプシロン、ユプシロン。現代ギリシャ語ではイプシロンでイの音に変化ずみ)の発音に似た、「日本語話者がどのような状況でも発することの無い母音」 [y] となる。



続いて、唇の円さ (roundedness) がある。
円い唇で発せられる音=円唇母音(えんしん-)には「い・え」が挙げられる。
円くない唇で発せられる音=非円唇母音(ひえんしん-)には「う・お」が挙げられる(他の呼称では平唇母音 へいしん-)。
「あ(広い母音)」については円唇と非円唇のどちらで発することもよいが、後舌の時に円唇にすると、イギリス英語(特にRP発音)における"hot /hɒt/"の"o [ɒ]"、いわゆるホットのホにある母音オ [ɒ] と同じ発音になり、日本人の耳でもオ(お)の音に聴こえるので、基本的に非円唇で発するとよい。



う段音価の母音「う」は唇の円さや舌の前後位置が中間的とされ、その程度も話者や状況によって多様であるように分析されている。
状況による「う」の音の差異は、代表的に言われる例が語中で ɨᵝ 、語頭と語末で ɯ̟ᵝ が現れるということであり、前者 (補助記号ぬき: ɨ)は舌の位置から言えば「中舌母音(ちゅうぜつ-)」である。

(過去記事引用・前略) 現代日本のウ音は音素として/ɯ/と表記されるが、実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない。
この場合、IPAで音価として[u̜] (uの下にC字記号で円唇が弱まったもの"less rounded")や[ɯ̟] (ɯの下に十字で後舌がやや前になったもの"advanced")や[ɯ̈] (ɯの上にウムラウト記号で後舌が中央寄りになったもの"centralized")や[ɯᵝ] (ɯに上付きβで平たい唇・非円唇の程度を抑えたもの"compressed") (他に [ɨᵝ] と [ÿ] と [ɯ̟ᵝ])として現代日本のウ音の代用表記がされる。
 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot

(過去動画説明文引用・前略) 語中ウと語末ウは ɨᵝ と ɯ̟ᵝ で区別されることがある
 - https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4


いわゆる日本語の「五十音」は「あ段・い段・う段・え段・お段・ん」で構成されており、「ん」以外は「あ・い・う・え・お」五音を伴って発せられる。
五十音のうちの音は、音声学的に「モーラ (mora 拍) による発音 (moraic)」とみなされ、私も2014年以降、そう呼んでいる。
このモーラが、日本語のうちの音の、言語的な意味を得る最小単位である。
「か(カ ka)」や「ゐ(ヰ うぃ・ウィ wi 井戸の井も昔はこの発音)」などは1つのCV音節(CV = consonantとvowelの頭字語。音節 syllable)であり、1モーラでもある。
モーラの観点では、「ん」や「っ (促音・長子音 gemination、小さいツ)」や「ー (長音、長音符)」も1モーラとして数える(e.g. カッターは4モーラ、キャットは3モーラ。英語の cutter は2音節、 cat は1音節)。
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。
ここまで、日本語の伝統に基づく立場で「あ・い・う・え・お」の母音順を用いたが、「広狭・前後・円非円」という音韻論・音声学による分析で「あ・え・い・お・う (a, e, i, o, u)」の母音順に変えて話す。





●母音の科学的な意味で本質的・客観的な特徴は如何

あ・え・い・お・う五音は、音響学的に・聴覚的にどのような特徴があり、人間に認知されるか、科学的絶対性に近い立場でも考証したい場合は、以下のように実験する。
まず、あ・え・い・お・う五音を発するとき、それ自体は個別言語イントネーションや日本語のピッチアクセントが反映されないよう(いわゆる平板の状態で頭高・中高・尾高を制御)にし、録音する。
その音声を視覚的に表示する手段が有る。

音声波形 (waveform) は、音声信号に対応した2D波形である。
X軸に時間、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
それのみでは、当記事の目的による実験に適していなかろう。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトラムアナライザ (spectrum analyzer) は、音声信号に対応した2D音声視覚化の形式の一つである。
一般に何通りか系統の違いはあるが、私の使用できるものは同系統の2つである(過去動画に紹介済み、ちなみにAviUtlの"音声波形表示"にはスペクトラムアナライザ相当のType3, 4, 5がある)。
X軸に周波数、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
時間の次元に対応すべく前の時間の折れ線グラフを薄い色で重ねるものもある。
この実験に用いるべきかどうかは使用者の目的性や感性による。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトログラム (spectrogram) は、音声信号に対応した3D音声視覚化の形式の一つである。
X軸に時間 (time 単位は秒 sec.)、Y軸に周波数 (frequency 単位はヘルツ Hz)、色の濃淡(Z軸でも可)に周波数の振れ幅 (amplitude 単位はデシベル dB) を示す。
これを実験に用いてみよう。

以下、スペクトログラムを表示できるソフトの一つ Praat のスクリーンショットが2点ある。
サンプルの音声としては、2019年3月16日に私が自ら録音した「あ・え・い・お・う」A, Bである。
音声を聴きたい場合は、2019年4月6日YouTube動画も参照。

Praat より 一。
スペクトログラムは下部
(上部は音声波形)。
次に解説画像
「あ・え・い・お・う」を発した音声のうち、A = 現代日本語のピッチアクセントがついたものと、B = 平坦に発したものとを比較してみると、ピッチアクセントの有無という差がA・B範囲内の各母音間にあることが表示されていないと判断できる。
スペクトログラムの画面において、「い」の音には「い」の音たる特徴がどのようにあるかといえば、同じく狭母音である「う」の音の発音時間内の周波数帯域と振れ幅とを見比べることで分かる。
振れ幅が強い部分(色が濃い部分)のうち最も周波数の低い領域に注目しよう。
「い」は上下に開いて振れ幅の強い帯域があり、「う」は詰まって振れ幅の強い帯域がある。
また、「い」は、広母音たる「あ」の音(日本語でのそれ)と比べて下側=低い周波数の帯域に振れ幅の強さが見られる。
どの子音(/k/や /t/や /n/など)を発しても、その後に「い」や「う」や「あ」の母音発音が0.3秒間であれ1秒間であれ伴うならば、それらの母音発音の特徴が確実に看取できるであろう。

Praat より 二。
「振れ幅の強い帯域」の見た目は、時間のY軸上に見られる「ピーク (peak 頂点)」であり、言語音声において発音を特徴づけているものを「フォルマント (formant)」と呼ぶ。
自然界の様々な音声には同じ時間(Y軸)上のピークが複合的に見られる (e.g. 倍音 overtone) が、音声学としてはX軸の下=周波数の帯域の低い方から2つのフォルマント = F1, F2 に注目する。
母音音声は、F1, F2の値 (value) の差が、先述の「口の広狭・舌の前後・唇の円さ」という調音方法によって明確であるものとして扱うことができる。

英語版Wikipedia - Formantに載る"Catford, J. C. (1988)"の情報から近似する音を示そう。
日本語の「い」近似音 [i] はF1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
日本語の「う」近似音 [ɯ] はF1 = 300 Hz, F2 = 1390 Hz (差異 1090 Hz)
日本語の「あ」近似音 [a] はF1 = 850 Hz, F2 = 1610 Hz (差異 760 Hz)
これは平均値"average vowel formants"として載せられているものであり、個々の話者や状況による変異はあるとしても、先述のようにF1とF2の値の差が特徴的であるとして信頼できる。

参考までに日本語の「う」の唇の円さを高めた西洋言語にあるような円唇後舌狭母音 [u] は F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz)であって、 [i] F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) とは、狭母音共通の特徴として「低い周波数の帯域 F1 の強い振れ幅」が見られる。一方でその上隣の帯域に強い振れ幅を持つ F2 は、いわゆる極北、最右翼とでもいえるくらい乖離する。これは、「え・お」のような中央母音や中舌母音などを介すれば、数値が反比例していると感じられる。ほか、参考までにイギリス英語RP発音"hot /hɒt/"の"o" 円唇後舌広母音 [ɒ] は F1 = 700 Hz, F2 = 760 Hz (差異 60 Hz)であってF1, F2の差異が自然言語の音声として最小クラスであり、音名として対義語尽くしの非円唇前舌狭母音 [i] とは正反対である。

他にいろいろと示したいことはあるが、それは学習者各位の自由でよいとし、そろそろ音楽の話題に入ろう。





●音高の上下あるボーカルフレーズ、その対応する歌詞

ボーカルフレーズを構成する「音(小さい単位)」とは、元の楽譜やMIDIデータだと音符もといノート (note) と呼ばれるべきであるので、そう呼ぶ。
先述の「モーラ (mora)」の発音が、日本語の楽曲において最低でもノート1つ分を持つ。
イメージしやすく言えば、楽譜に歌詞が書いてあること(小学校の音楽の教科書で五線譜にのる音符ごとに対応した歌詞の字が書かれている状態)を思い返せばいい。
これは、仮に言語音声が1モーラ相当で声(母音など音節主音)を長く発して音高の上下があるとき、もう1つノートをその音高にも配置することで、2つ以上のノートを持つことになる。

音高・ピッチ (pitch) の上下とは、端的に言えば、一般的な「音階・スケール (scale) =異なる音高を持つキー (key, keys) の並び」の範疇においてノート (notes) が高いところ・低いところに移動してゆくことであり、「上下 (up-and-down)」とは周波数やMIDIのピアノロールに見られるような、数値や視覚表現での上下である。
視覚表現としてMIDIのピアノロールを私は多用するので、私がそう表現することについて留意されたい。
それについてもどのようなものか私の投稿作品(先の記述に挿入されたリンク他YouTubeのSundarknessチャンネル投稿動画など)から知るとよい。

以下から理論や実例を示すが、『あくまでも「メロディの美醜(好悪・好き嫌い good-and-bad)」の客観的な基準は存在しないものの多くの人が「共通主観性」で好むであろうと思われる特徴を合理性や数学的・科学的な考え方で求めたもの』、と理解していただきたい。
当記事で言うような主観性とは「人生における音楽的経験」などに依存して各々が持ち合わせている音楽的感性(楽器・調律・ジャンル・声色などに対する好悪)とその自意識とである。
良いか悪いかは、各々の主観性で判断するとよろしい。



原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。

いずれにせよ、私はそれらの相対性について、感じ取ってもらいたい。
一に、狭母音モーラから広母音モーラになる動きや、広母音モーラから狭母音モーラになる動きといった、異なる母音同士の移動。
二に、広母音モーラの連なりや、狭母音モーラの連なりといった、同じ母音同士の連続。
これら相対性の効果を把握すべきである。
曲の中で用いられる歌詞の発音に、曲調(イメージ・雰囲気)と一致があるか不一致があるか、しぶとく観測する必要がある;面倒に思っても。
そうして得た知見に基づき、改めて巧く歌詞の中で反映することが表題のようなテーマである。

表題のようなテーマにおいて想定する作詞行為は、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に「後から歌詞を付与すること」である。
もし作詞が先にあってボーカルフレーズが後に作られるならば、メロディのノートの音高の上下が作詞者の思うような言語発音に近くされるだろうし、現代日本語のピッチアクセントやイントネーションが反映されやすい。
英語の洋楽では多めにそういう系統の楽曲 (cf. 英語歌詞自作曲"Eradicated") があるし、日本語であってもラップ (rap, hip hop) のようなものであればこの傾向があるので、これは注意しておく。
ただし、仮に作詞が先にあっても、そのボーカルフレーズにおけるノートは、母音の広狭に合わせた音高の上下に配置することもよい。



「母音の広狭と音高の上下」の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである。
曲調(イメージ・雰囲気)によっては、適宜に反することもよいと思うが、基本的にこれを意識しておく。

・・・、という仮説の概要がこのように2017年以降に考えられてきたが、当記事を執筆している2019年3月になってから、その「フォルマント (formant)」 F1, F2 から母音の特徴を見出す術を知り、その裏付けが取れた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。
「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。
これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど、私が「良い印象(少なくとも聴いた感じの違和感が少ない印象)」として捉える部分から例示できる。
「い」の音の二面性は当該楽曲を説明する項で再考しよう。



まず、主に長調楽曲に多いような、明るい(明朗な)印象の楽曲に合う例を示す。
世間の音楽界にも見出しやすい傾向だと私は捉えている。

出だしが弱起 (Auftakt; anacrusis) の場合で音高が著しく上下しない範囲では、ノートが単数であれ複数であれ、狭母音(close系)か中央母音(mid系)が良い。
また、複数であるとき、音高が著しく上下しない範囲では、たとえ広母音(open系... 日本語では「あ段」のみ)であってもそれのみを使う場合は母音の広狭の相対性を生じないので、用いて可である。
弱起から小節の頭の音に繋がる場合に、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音が良い。
これは相対性により、雰囲気の開きや明るさ(明朗さ)を出す意図である。

出だしが小節の頭か中腹よりも前の場合には、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音か中央母音が良い。
たとえ狭母音で始めても、時間的に0.6秒以内(4分の4拍子にテンポ BPM 100以上で4分音符より短いような状態)の場合に次の音が広母音であれば、明るさや上昇のムードがある。

・・・、このように説明する形式も良いが、以下から表題に言うような「実験の意図で作詞された楽曲」を示してそれに随って説明するほうが良いと思う。



手始めに、簡単な音感のテストをしてみよう。
下記リンク先の動画の0:39~から流れるマリンバ(木琴の一種)によるフレーズで、当記事の理論にいうような母音の広狭に関して、読者各自が試すとよい。
https://www.youtube.com/watch?v=qhrGuEFp8ok
このフレーズ(BPM 204のテンポで4分の3拍子で4小節に収まる)を構成する音楽は、音符・ノートにして4分音符と8分音符のみである。
4分音符を「〇ん」、8分音符を「〇」と表記するが、この〇には、た行の各1モーラのみを用いる。
途中にフレーズの休止があるが、タンバリンが背後で鳴っているので、それも4分音符「ちっ」で併記する。

クリックで拡大

 とんたんたんてんとんたんとん。(ちっちっ。)
 とん・(8分休符・)とんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん。 (後略、最後の小節に残り4分音符2つで次のフレーズの弱起に相当する)
上記フレーズのカナ表記におけるモーラの母音の広狭・前後 (roundness and backness) と、ノートの音高の上下とに、どれほど違和感を覚えるであろうか?
全体的に違和感を覚える人にとっては、この理論によって付けられる歌詞が好まれないかもしれない。
音高の上下にきっちりと対応した母音の広狭・前後の歌詞は、3種の母音のみの場合にこのように表現されるので、私であっても些細な違和感を覚えながら、記した。

もう少し私の感性や記憶が定着させた印象に近づけて記したものも、載せてみる。
 とんたんてんたんとんたんとん。(ちっちっ。)
 たん・(8分休符)・たんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん



2017年3月10日に、私は「『街の子』をイメージした楽曲2つ」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ
「交差点」という名の楽曲は、そこでの2曲目として公開された。
「交差点」はAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、それで終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞を、2018年12月2日に行った。

「交差点」のための歌詞は、韻 (rhymes) の踏み方・押韻 (rhyming) を何通りか持っている。

当該楽曲が"街女人・つじさゆり"のテーマでもあるので、その人物キャラクターに由来する特徴づけがあることよる押韻がある。
いわばキャラソンの役割が兼ねられており、「う」や「い」のような狭母音の頻度が高いことによる"街女人・つじさゆり"の身の上に感じられる「不自由・抑圧」のような印象を与える。
「その昼 sonohiru、下がり sagari、わたし watashi」
「傾く katamuku、日差し hizashi、見たり mitari」
「道行く michiyuku、つかり tsukari、ぱたり patari」

「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である。
ただし、日本語の言語の音声としては、先述の通り、「う」の音の唇の円さが中性的である。
声楽の人は、はっきりと西洋流に円唇発音にすると思われる。
そのような「う」と「い」との違いは、唇の円さを意識しながら発音をして自ら確認するとよい。
「交差点」歌詞で、「う」と「い」との押韻が多いことも、私がその意識から作詞しているためである。
この日本語が合うポップス楽曲に西洋言語発音が望ましいか、好みが分かれそうだが、それについても各々の主観性で判断するとよい。

また、人名"さゆり"に関連づけて歌詞のフレーズの語末モーラが「-り -ri」に占められる場合が多い(e.g. 見たり mitari、つかりぱたり tsukari-patari、ぴたり止まり pitari-tomari、そうゆらり souyurari; so'oyurari)。

サビは、いくらか長いノート(音符)や休みのある部分(楽譜で休符が伴う部分)が「-お -o」のモーラで終えられる。
言語上の韻ばかりを示しても本題とかみ合わないので、その脚韻あるモーラ相当の音楽のノートが、前のノートと比べてピッチ・音高もとい半音 (semitone, key) がいくつ上がったか・下がったかを併記する。
「今日も kyo'omo (moは符点2分音符・上2半音)」
次のフレーズまでに「また mata」、「行く yuku」があるが、広母音や狭母音モーラでそれぞれ揃えられている。
「ひごろ higoro (roは符点2分音符・上1半音)」
「何がどこで起きても nanigadokode'okitemo (moは4分音符・上2半音、次に8分休符。途中のdoは符点4分音符で少し長い)」
「私は私だけずっと watashiwawatashidakezutto (早口。toは符点8分音符・上2半音、次に8分休符)」

以下は、尾母音が先にある (-ino, -eno) 2モーラ分の押韻となる。
「道の michino (noは符点4分音符・上2半音)」
「すみの sumino (noは全音符・下4半音、次に2分休符)」
「誰の dareno (noは2分音符・上1半音、次に4分休符)
「求めの motomeno (noは4分音符・上9半音、次に8分音符)」



2017年4月24日に、私は「心が弾むハードコア・パンク系の自作曲・オリジナル曲 (3曲)」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=nDxFB6IWhUw
名称が付けられていない一楽曲(後に「ハレマジェット」)は、そこでの2曲目として公開された。
それはAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、アウトロのギターソロの後で終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞は、2017年4月中、部分的であれ、既に行われていたろう(cf. 2017年4月23日にその楽曲が先行公開された動画の内容に歌詞の一部分が表示される)。

頭韻などを試した。
1番Aメロの各句の頭がi-a-i 「日差し hizashi」、「ひかり hikari」である。
その歌詞のモーラの母音が狭い→広い→狭い (i-a-i) という動きが、音階のうちのノートの低い→高い→低い(下げ→上げ→下げ)に対応している。

閲するに、当該楽曲はほとんどC5 (楽器チューニング基準音を440 Hz = C4 AまたはA4とすればそれよりも高い) の音域で発せられており、「ソプラノ soprano」級である。
最も高いところでは、C6 G (G6, 88鍵ピアノで2番目に高いソの音)に達している(歌詞では「吹き消すの」の「け ke」)。
C4, C5, C6という時のCとは、国際的な基準の代表的な一種による。88鍵ピアノで1番目のC = ド、和名ハによってC1を呼び、そのオクターブ相当のCは"C1 C"である。4番目のCが有る領域のCは"C4 C"であっていわゆる中央ハ (Middle C) である。私が主に用いるMIDIシーケンサーのソフトでこの音程・音高・キーの呼称が用いられているので2012年以降の私も認識を同じくする。この方式ではC-1 Cが0番目と数えられ、中央ハ = C4 Cは60番目、チューニング基準音の440 Hz = C4 Aは69番目となる。MIDIでの最高部が127番目でC9 Gである。cf. wp:Scientific pitch notaton
これをその音域のままに言語発音で歌うことは、成年の人々のうちでも女性歌手、特にプロのソプラノ歌手でないと困難であろう。成年男性である私は、1オクターブ下げないと(オク下でないと)歌えない(DAWソフトなどでピッチ調整をすれば別の話。それではUTAUのような音声合成ソフトの音源も作れる)。
そもそも男女問わず人間の言語音声をPraatで色々と見直すと、そのピッチは普通の状況で70 ~ 300 Hzのみが現れている。女声の楽曲でさえそのフレーズは、高音を意図しないで作曲された場合に400 Hz (C4 A = 440 Hzの場合にC4 G相当の高さ) を超すことがあまり無いことも、個人的な調査で分かった(オペラとかのシーンは専門外なので調べないが一応C6領域は有り得るそう)。もう少し手持ちの音声ファイルを調べると、某百合系ボイスドラマ作品のアテレコと思しき音声リストのうちで女児を想定したキャラクターの言語音声から、600 Hz以上が頻繁に観測された。想像上の女児(作中での年齢設定はともかく口リ系)でもあれ実在の女児でもあれ、500 Hz以上 (cf. C5 C = 約523.25 Hz) の言語発音は有り得ることも付記する。この後、喘ぎ声(嬌声)を調べたが、言語音声と関係が無いのでさしおく。
vowel vowels identify identifying identified cognition 母音 識別 認知

そこで言いたいことがあるが、このような(C6以上)高い音域になると、人間の耳では母音ごとの区別が不明確になるであろう。
当記事の理論の例外事項として、このことが考慮されるべきである。
当該楽曲の歌詞に話題を戻そう。

サビの歌いだしはBメロの末から弱起として始まり、「晴れ時々雨の日には」という歌詞である。
「はれと(弱起)き↑(小節の頭)どき、あめの(弱起)ひ↑(小節の頭)には…」と書き直す。
「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられている。
音高が高いのに「い」の音=狭い音・狭母音が用いられているが、聴いた感じでは違和感が無い。
なぜであろうか?
それは、「い」の音が狭母音であると同時に前舌母音 (front vowel) であってフォルマントの見方におけるF2が高い周波数で発せられており、ボーカルフレーズのノートが前のノートよりも高いとしても共鳴するようであると言える。
cf. 先の表"average vowel formants" F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
「い」のみならず、同じ前舌母音の「え e」の音についても高低を選ばず使える側面があると思われる。
しかしまた、同じ前舌母音だからといっても、口の広狭が広いほどF2の周波数の値は下がっている(F1との差異が中和されている e.g. [e] 差1910Hz, [i] 差2160Hz)という、別の側面もある。



種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。

当記事の理論の高度な実現のためには、日本語歌詞の歌い手(歌手)にも高度な発音の知識と技術とが要求されよう。
ただし、基本的には「あ・い・う・え・お」の5母音の音素 (phoneme) と識別される現代日本語発音で検証されるべきである。



●外国語へ楽語共調理論を応用することの是非

外国語へ楽語共調理論を応用することは、それも日本語との差異を考慮しつつ、おおよそ同じように説明が可能であろう。
この理論に関連する日本語との差異とは、既述の通り、音素 (phoneme) として弁別される母音の数が日本語の「あ・い・う・え・お」という5母音よりも明確に多い言語や、4母音(4種類の母音)よりも少ない言語(e.g. 古典標準アラビア語 3母音 /a/, /i/, /u/ および長母音)がある。
当記事では、主な要素を詳述しないでおくが、今までの話題と関連する事柄から一つだけ説明しよう。

当記事ではしばしば「弱起 (Auftakt; anacrusis)」という音楽用語を用いてきた。
過去記事で説明済みなので、2種類の語義をそこで参照するとよい。
2種類の語義とは、音楽用語としての弱起と、それよりも古い時代からある韻律論としての弱起とである。
「強勢 (ストレス stress) としてのアクセント (accent)」を持つ言語のうち、教会ラテン語(Ecclesiastical Latin 俗ラテン語 Vulgar Latin)・イタリア語・スペイン語といった語中でアクセントが出やすい言語において、韻律論における語義を発揮し得るように感じる。
3音節語の1音節目はほぼ必ず「強勢としてのアクセント」が伴わない。
1音節目が母音のみである場合は、イタリア語"opera"がオペラやオペーラではなくオーペラとなるように1音節目に強勢としてのアクセント(+長母音化)がある。古典ラテン語でも"opera (女性単数の名詞。opusという男性名詞の複数形の方ではない)"は1音節目にアクセントがあるとしてWiktionary英語版に載っている。古典ラテン語アクセントについてしばしば「3音節以上の単語は1音節目が長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)で2音節目が短母音(韻律論の観点では短音節"short syllable"・重い音節"light syllable; 梵語 laghu"でもある)であればそこにアクセントが付与される」といった説明がされるが、これは短母音のみで構成されているにもかかわらず、1音節目にアクセントがあるというか?

私が作詞した"Dominus Immensus"は古典ラテン語だが、そのサビの歌い出しを例示しよう(ラテン語歌詞サビは音声として2019年3月現在は未発表なので動画の改訂版を待つこと)。
それは"Immensa phaenomena sunt"であり、"Im-"は音楽用語としての弱起部分となり、"-me-"は1小節目についた主音 (tonic) となる。
the anacrusis notes "I-" = F (ファ), "-m-" = G# (ソのシャープ),
the tonic note "-me-" = A# (ラのシャープ、なおAメロ歌い出しの"dominus..."も同じ音のオクターブ違い)
インメ~エンサ~、パエノメナ、スント。
しかしまた、これが韻律論としての弱起でもある。
言語学的に、古典ラテン語でも教会ラテン語でも、"immensa (男性形: immensus)"の語は、"-me-"という2音節目にアクセント(古典ラテン語のアクセントはストレス強勢かピッチ高低か学問的に未決だがどちらでもよい)があるという。
"Im-"は閉音節1つであるが、それを構成する2つのノートは、次の"-me-"主音ノートのピッチよりも低いので、音高の上下としては下から上へ(低から高へ)と推移している。
また、狭母音と鼻音(日本語学で言う撥音)の構成から、中央母音(中母音 mid vowel)へと推移している。
"Dominus Immensus"は、そのボーカルフレーズにおいて原典の障礙尊者自説偈の梵語であれ、後の古典ラテン語歌詞であれ、"-me- (-mē-)"の長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)発音が、心地よいものと、私は感じている。

このような具合で小節の主音であるノートを発音する音節主音・母音は、弱起の時のよりも広めの母音が良く、強勢としてのアクセントを有する言語であれば、そこにアクセントが置かれるようであると、心地よいようなことが有り得る。
改めてこの理論について注意すると、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に後から歌詞を付与することが、理論の適用対象として望ましい。
それに加えて、この理論の科学的合理性で論じられた「主観的な美醜・善悪」を逆利用して「意外性・滑稽さ」というものを表現することも構わない。






起草日: 2019年3月16日

関連する投稿
2018年11月29日: モーラ発音の日本語の高低アクセントと音節発音の英語の抑揚を比較する
https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4

2018年12月5日: MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/12/MIDI-pitch-bend-frequency-calculation.html



主観性ということを私は主張したが、この自覚には、社会科学の統計のような手法以外にも心理学のような発想で認知プロセスが自覚される必要がある。
また、認知プロセスの自覚のためには、先に物質的な存在について解明される必要がある。
そうでなければ「この曲or絵は人(私or他人or民衆)が良いと思うから(by myself; itself, themself; themselves)良いんだ」という簡単な循環論法を了承できる。
そして、世間の人が各々の価値観によって美醜 (good-and-bad) や善悪 (good-and-evil) などを分別して他の見解を排除するようなことは、この限りであると、私は懐疑的に捉えている。

音楽や美術の作品は、現に聴いたり見たりできるものである。
よって、認知プロセスや主観性を人間が自覚するために、物質的な存在についての深い理解が必要だ、という前提がある。
ちょうど、過去に私が宗教学で得た知見と同じであろう。
宗教の教義は、特に仏教やキリスト教で、多くの譬喩(比喩)・たとえ話・メタファーが用いられる。
ここでは、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩ではなく、自然界の事物・物質的な存在の道理を用いた譬喩を指す。

私がすぐに思い浮かべる例は、仏教にある「琴(vīṇā 弦楽器の一種)の弦を張るとき、固すぎても緩すぎても良い音色が出るようにならない。ちょうどよい張り方(不急不緩)で良い音色が鳴る」という譬喩である。
パーリ語仏典では経蔵・増支部6.55経"Soṇasutta"にあり、漢訳仏典では中阿含経123経「沙門二十億経(CBETAから引用)」などにある。
これは琴を奏でることのできる人物「二十億 (パーリ名はソーナ soṇa) という名の沙門」のために釈尊(仏さま・ブッダ)が説かれた譬喩であり、琴の音色の良し悪しはいくらか客観性に準じている。
いわゆる調律、チューニング (tuning)には、音の周波数 ** Hzとして数学的に解明できる音階の道理を知っても知らなくても、音階のバランスのための適切な弦の張り方をせねばならない。音色の良し悪しは主観性によるとしても、数学的に音の周波数の関係性(ピアノならば中央のラ音が440 Hzの時に1オクターブ高低は880 Hz, 220 Hzという等倍・等分である)は言えるので、「科学的な意味で客観的(共通主観性の範疇)」である。

これが「琴の弦と同じく、修行者はその人の相対性における厳しすぎる修行(原語では精進 vīriya)を始めても易しすぎる修行を始めても良い結果が得られない。あなたはあなたの相対性でちょうどよい修行を…」という、人の精神の主観性のための譬喩に用いられている。
これは当然、仏道修行の心得を説いたものであって、私が芸術理論のモットーのように用いることはおこがましい。
琴の譬喩(琴のたとえ)の漢訳仏典には、やはり仏道の目的性とその果報が示されている。その人物「二十億(ソーナ)という名の沙門」は悟りの後に「色聲香味 身觸亦然 愛不愛法 不能動心 (見た目・音声・香り・味・手触りなどで欲望や憤怒などを起こす事物は私の心を動かすことができない)」という頌(じゅ、うた)を唱えている。額面的に、美術や音楽といった芸術の目的性とは正反対である。逆説的に、「戦争と平和」のごとく表裏一体であろう。

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, kusalo tvaṃ pubbe agāriyabhūto vīṇāya tantissare”ti?
“Evaṃ, bhante”.
世尊告曰:「沙門!我今問汝,隨所解答。於意云何?汝在家時,善調彈琴,琴隨歌音,歌隨琴音耶?」
尊者沙門二十億白曰:「如是。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo accāyatā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃急,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃緩,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Yadā pana te, soṇa, vīṇāya tantiyo na accāyatā honti nātisithilā same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
Evaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴調絃不急不緩,適得其中,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「如是。世尊!」

“Evamevaṃ kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atisithilavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamathaṃ adhiṭṭhaha, indriyānañca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī”ti.
世尊告曰:「如是。沙門!極大精進,令心調亂;不極精進,令心懈怠。是故汝當分別此時,觀察此相,莫得放逸。」

一応、私にとって発想の原点が宗教学にあることを知られたい。
たとえ自然科学分野であっても、精神性からのインスピレーションが偉大な発見や発明に繋がるという事例(逸話)が科学史に種々求められることも、比較参照するとよい。

私が美術や音楽の「主観的な美醜」を解明するならば、先に客観性を考究したほうが良いことは、宗教教義や教説から得た一つの学問前提である。
今後も、この方面で多角的な研究が進められるとよい。
美術関係では「二次三次相対互換の理論」の客観性の側面による考察(当該記事追記欄を参照)を望んでいる。

これら、「主観的な美醜」に先立つ客観性を認知して、クリエイターたちが作品を作るならば、現時点の人類の共通主観性に広く適合した作品になる。
しかし、いつかは定式化する、マンネリ化する、慢性化する、形骸化する事態がある。
柔軟な者たちは、事前に察知して予防し、新しい可能性の開拓にも繋げてゆく。

少し芸術(音楽・美術)の歴史を振り返ってみよう。
19世紀後半から第二次世界大戦の開戦前まで、西洋美術においては写実性から遠ざかる流行 (impressionism?) や、感情表現の濃い画風 (expressionism?) が強まった。
第二次世界大戦の後、一部の西洋人は「楽器と聴衆を目の前にしながら演奏しない音楽」や「作品の掲示されない展覧会」といった「空虚さ・虚無の美」についての実験的な (experimental) 芸術を行った。
または、観る者と作る者とが一緒にいて実演されてこそ作品であるとする思想(パフォーマンス系 performance)の音楽や美術が構想されていた。

私は、それらも認知したうえで、現時における通念上の理想的な音楽や美術を追及している。
簡明な例は、キャッチーなメロディーに心を弾ませるリズムの楽曲や、美麗な風景に美少女のような人物がいる絵画である。
これは私個人の童心にも関わることであるから、当然、世代や人種や経済層(貧富)などの違いでいくらでも好き嫌いを分かつ結果がある。
世間のうちでは、「流行とそれに対する便乗」のような精神性による美醜・善悪の価値判断さえ有り得て、それも主観性のうちではあろう。
しかし、そういう社会的状況の一例を除き、人間史である程度普遍性のある「共通主観性」を説明することができる。
「私が良い(美い・善い)と感じるもの(何ものたりえる可能性のある事物、それだけではゼロ・空虚な存在 object)」に、どれほど人類で普遍的に良いと感じ得る特徴を見出せるか、追求してゆこう。

認知プロセスと認知客体に関しては、他にも五何法(十如是)の説などが私にとって印象深くあった。
萌えの典籍「注三萌義(段・十如是)」も参照されたい。
唯仏如来知一切法"sarvadharmānapi tathāgata eva jānāti"。①何等法"ye ca te dharmāḥ" ②云何法"yathā ca te dharmāḥ" ③何似法"yādṛśāśca te dharmāḥ" ④何相法"yallakṣaṇāśca te dharmāḥ" ⑤何体法"yatsvabhāvāśca te dharmāḥ"。
①~⑤→何等 云何 何似 何相 何体"ye, yathā, yādṛśā, yallakṣaṇā, yatsvabhāvā"。



追記
2020年3月11日に『楽語共調理論の拡大, 反対の仮想–反例, 自己反証』という続編の記事を投稿した。


2019年3月5日火曜日

英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)

日付は東アジアで「年月日 (Y/M/D)」だが、同じ英語圏でもアメリカでは「月日年 (M/D/Y)」、イギリスでは「日月年 (D/M/Y)」となっている。
英語圏以外では、ヨーロッパの多くの国・言語圏がイギリスと同じ「日月年 (D/M/Y)」を用いる。
このような、日本人や東アジア人から見て「逆転された順番」は、日付の数字のみならず、言語表現の随所に見られる。

「富士山(Fuji-san, Fuji-mountain)」は"Mt. Fuji, Mount Fuji"となる。
ただし、「日本海」は"Sea of Japan"、「マン島」は"Isle of Man"として前置詞"of"を伴うので、今は異なるパターンと考えよう。
「安倍首相」と「トランプ大統領」は"PM Abe (Prime Minister Abe)", "President Trump"となる。
人名においても、日本人の安倍晋三"Abe Shinzō"は姓・名だが、アメリカ人・西洋人のドナルド・トランプ"Donald Trump"は名・姓であるため、もし日本人を西洋で表記するならばシンゾー・アーベイ"Shinzo Abe"となる(姓はsurnameやfamily nameといい語順の観点において西洋では「ラストネーム"last name"」だが日本では「上の名前"upper name"」)。
地名表記・住所表記においても、「東京都千代田区千代田1-1 (皇居の所在地)」は"1-1 Chiyoda, Chiyoda, Tokyo"となる。

これらの「逆転された語順」は、ラテン語の同格表現(英語で"apposition" 同格・同位・併置・並置などと翻訳される)における語順を慣習的に用いたものと考えてよい。
古典ラテン語や教会ラテン語といったラテン語では、"dies illa (その日。dies = 日 illa = それ。文法的に女性名詞・単数・主格が同じ。いわゆるディエスイレ"Dies Irae"の"irae"は単数属格なので異なる)"のような同格表現が、日本語に翻訳された表現と逆の語順であることが多い。
また、そのような語順は、ここで「西洋式」と呼称しよう。
日本語に一般的な語順は、ここで「東洋式」と呼称しよう。
"dies illa"の"illa (男性形: ille)"は後世のロマンス語系の定冠詞"definite article" (スペイン語el フランス語le イタリア語il)の語源となるような限定詞"determiner"・指示代名詞"pronoun"の用法である以上、同格表現の例としづらくもある。加えて、それは教会ラテン語などのロマンス語と共にある時代の言い回しである。「私たちの父"pater noster"」も"noster"が所有代名詞"possessive pronoun"で形容詞"adjective"のようでもあり、同格表現の例としづらくもある。日本語のカタカナ語で認知された古典ラテン語の同格語は一般的に存在しないので、ここでは古典ラテン語っぽい同格表現を挙げてみる。「都市ローマ=ローマという名の都市"urbs Roma (奪格にするとurbe Romaになる。古典ラテン語の長母音を反映すれば主格urbs Rōmaが奪格urbe Rōmāとなる通り、urbsのみならずRomaも格変化による母音の変化がある)"」(cf. NLG Bennet, C. E. sect. 169)。余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる(記事末尾を参照)。ラテン語でも梵語系統の言語でも、王の名など肩書を伴った人物の呼称には極めて高い頻度で同格表現が用いられる。英語では"King **"のみならず、"** the King"のような東洋式の語順で定冠詞を介するパターンもある。

カッコ内に先述のように"Dies Irae"の"irae"は、"ira"の単数属格であって"dies (単数主格)"と格"case"を異にしている。しかし、意味論的に同格表現と考えられるべきであり、その際に用いられる属格が「同格の属格(説明の属格とも)"appositional genitive, appositive genitive"」と呼ばれる。英語での日本海"Sea of Japan"やマン島"Isle of Man"も、格変化なき英語とはいえ前置詞"of"が「同格の属格」を表現している。ただし、当記事でいう同格表現とは異なるものと便宜的に区別される。

もちろん英語の"President Trump"を日本語は「トランプ大統領 Toranpu Daitōryō」のみならず「大統領トランプ=大統領であるトランプさん」のように西洋式の語順を借用すること(loan)もできると留意されたい。有史以来、日本は漢訳仏典から間接的にインドの言語の影響を受けて似たような表現をしてきた可能性もあるが、それは希少であろう。

ラテン語の同格表現と同じ語順の「西洋式」の表現が、現在の英語・ドイツ語=ゲルマン語系統や、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語=ロマンス語系統や、ロシア語・チェコ語=スラヴ語系統の現代語に、どれほど広く用いられるか不明である。
何らかの「西洋式」の表現が、それらの言語系統においてどれほど古い時代から用いられるか不明である。
イタリア語の料理名や音楽用語の中には、しばしば英語や日本語の一般的な表現と逆の語順が看取される(何とかピザ"*** pizza"=ピッツァ・ナントーカ"pizza ***"や、何たら作品=オーペラ・ナンターラ的な)。
そもそもイタリア語自体、"Lingua Italiana"と自称する名(Italianoという男性単数のみの名称も有る)が西洋式の語順(これは同格表現でなく名詞 + 形容詞)である(英語ではItalian language)。
"Divina Commedia"は、「神曲」というその日本語・中国語(または明治訳語の和製漢語など)での通称と変わらない。
現代のヨーロッパ言語は、一言語内でもごちゃまぜの様相を呈していると思われる。
ちなみにフランス語は"au"(à le) のような縮約形"contraction"の前置詞+定冠詞が「ガトーショコラ"gâteau au chocolat"」とか「カフェオレ"café au lait"」とかの料理名に含まれるので、イタリア語と異なる。日本語だとカフェオレは「コーヒー牛乳=コーヒー入りの牛乳」でも「牛乳コーヒー=牛乳入りのコーヒー」でも理解できてしまうが、ガトーショコラは"au"の料理に関連した意味に限定させると「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」という語順でのみ理解できる。もし「ケーキを混ぜて作られたチョコレート」だと焼き菓子入りのチョコレートとでもいうことになるか?答えは、元の言語の前置詞の用法に明瞭である。フランス語はあくまでも、前置詞を伴っているので「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」と、規範的な理解のみを許す。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語la mareは男性、フランス語il merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

ともあれ、現代語は、ラテン語以来の「西洋式」を現代でも守り続ける傾向がある。
果たして、ラテン語と文法が合わないか、ラテン語と疎遠になってきた現代語において、いつまでもどこまでも「西洋式」を用いる必要が有るか?



●日付表記における東洋式の合理性

日付に関してはデジタルな領域において、内部の処理では「年月日」が常識的に用いられる。
ただし、ウェブサイトの表(テーブル)やエクスプローラーなどに搭載された並び替え(ソート)機能が西洋式の言語圏では、日付の表示の見かけが「月日年」や「日月年」にされている。
当然、並び替え(ソート)機能で日付の昇順や降順を行う場合、「年月日」がその基準となる。
科学的合理性に倣うならば、日付はどこの国の人であっても「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」にするとよい。
2018年12月1日(アメリカでDecember 1, 2018)は、20181201 (2018-12-01)となる。
当ブログの「日記メモまとめ記事」の日付表示は、開始当初から年月日8桁方式である(ただしパーマリンクはJuly-2015や後に月名を短縮してDec-2018とする)。

ましてや、アメリカとイギリスという同一言語圏で異なった表記があるとは、非合理的な側面が強くなるし、他の「日月年」の国の人が英語を用いた時であれば、なおさら「月日年」か「日月年」か判断が困難になることがありえる。
もし政治的な主張をする人が"9/11 (9.11)"と知られる出来事=「2000年9月11日のアメリカ同時多発テロ」を単に"9/11"として書いて政治的な主張をするならば、「日月年」の国(ヨーロッパなど)の人が「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊」と混同するかもしれない。



●人名表記における東洋式の合理性

学術論文で出典を示す際に、その本文中に「ハーバード方式"Harvard referencing"」で出典が適用される場合が有る。
それは、"Parenthetical referencing"ともいって本文中における括弧での挿入行為を伴い、括弧内には参考文献の著者の姓と発行年(author-date)のみが表記される。
当記事を出典にする場合、当ブログ筆者の姓「横野"Yokono"」と投稿の年「2019年」のみで (Yokono 2019) と表記し得る。
そして、「ハーバード方式」が適用されても適用されなくても、みな著者の人名が参考文献のリストにおいて「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
その場合に、当ブログ筆者「横野真史"Yokono Masashi; Masashi Yokono"」は、"Yokono, M. (姓に大文字を当てる方式ではYOKONO, M.)"となる。
任意の西洋人名 (a common placeholder name) "John Smith"は、"Smith, J."となる(cf. 英語版Wikipedia - Parenthetical referencing)。
それが人名表記の学術的な基準として世界的に浸透している。
姓は基本的に一つだけなので、これが強調されることは合理的であるためと思われる。
英語ではカーネル・サンダース"Colonel Sanders"とか、プレジデント・トランプ"President Trump"とか、クイーン・エリザベス"Queen Elizabeth"とか、エンペラー・アキヒト"Emperor Akihito"とかと、何の名称のどの部分が姓なのか名なのかその他なのか、言語知識の薄い人には判断しづらい状況も有ることを思えば、学問においては判断しやすく表記すべきことが自明の理である。
王侯貴族などの高貴な人の名は日本の諡(おくりな)・諱(いみな)のみならず、後述の古代ローマの"cognomen"など、複雑だったり多様だったりする。それ以上に、現代の英語の人名表記は、英語の言語習慣を把握しきれていないと、無茶苦茶であろう。

学術論文に採用された姓の表記は、インド学・言語学などの学者である「モニエル・モニエル=ウィリアムズ"Monier Monier-Williams"(ハイフンの用法に注目)」のような名前(本来の姓WilliamsにMonierが加えられて新しい姓Monier-Williamsとなった)も、学問分野を異にするような初見の人にとって判断しやすい。
彼は学術論文の参考文献のリストで同様に"Monier-Williams, Monier"などと表記される。
著者は誰であっても、西洋人であっても、日本人や中国人や朝鮮人=東アジア人と同じく、人名が「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
これも「東洋式」である。
学問においては、「東洋式」の語順こそが合理的であると断言できるし、すべからくそうあるべきである。



●グローバリズムに言語における合理性を適用する

この「グローバル」とやらの時代であるならば、英語は中途半端に言語の習慣を守ろうとせず、日付と人名との正統な表記において東洋式の語順に統べた方がよい。
日付は「年月日」が東アジアや他の国やデジタルな領域などで用いられても、「年日月」はどの時代のどの言語も用いることが無かったし、英語圏における混乱と同じ現象はほぼ起き得ない。

現代の英語は、ヨーロッパのみならず世界中の言語の影響を受けている。
アメリカ英語の母語話者やイギリス英語の母語話者が他の言語・文化から影響を受けるのみならず、世界中の英語を外国語として用いる者が英語に各々の言語・文化の独自性を持ち込んでもいる。
古い時代でさえ、同一言語の同一性は徐々に失われて緩急はともかく変化しつつあったが、現代ならば尚更、無秩序な変化が起こり得る(人間の体格や顔つきが往古より食文化と共に変化の速度が速まることに同じ)。
無自覚・無意識のままに無秩序な変化が起こることは構わないが、どうせならば、言語を科学的に把握して意図的に変化させても良かろう。
英語は、「グローバル」とやらの時代において、より合理的なものに向上させることができる。

英語の語順は、上記の例について、全て西洋式・ラテン語の同格表現もどきを、東洋式に改めることができるし、その方が合理主義的に好ましい。
無論、これは一つの「言語に関する自覚」を示すのみであり、私の願望ではない。
私が願望は、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。



●西洋式の古い慣習的な利点

ところで、「西洋式」の語順がそれとしてヨーロッパなどの言語(セム語派であるヘブライ語・アラビア語などにも見られる)に確立したことには、その原初に利点があったのではないかと思う。
「西洋式」の利点は、発展してゆく文明における言語の用い方(文脈・コンテクスト・コンテキスト"context")を想定した際に挙げることができる。

例えば、昔の西洋や中東の人は名乗る際に個人の名のみを挙げることが多いので、「私はガイウスです(古代ローマの名 praenomen)」とか「私はヨハネです(過去のヘブライ語やアラム語のようなセム語圏に多い名 後世の英語でジョン"John"となる)」とかと言われても、同名の人が多くなる場合に「誰々の子の~(son of who)」とか「どこ出身の~(from where; born in where)」とかと後から言い直す必要がある。
ラテン語的には「ガイウス・ナンタルス(何たら氏のガイウスさん・男性)」とかのようになる。
「ナンタルス」という部分は姓(surname, family name, last name)であり、古典ラテン語を用いた時代の古代ローマでは"nomen; nomen gentilicium"という。
この姓よりも更に後ろに来る"cognomen"もあり、同じ氏族でも家(分家、同じ兄弟でも新しい家族に成ったりするような場合がある)ごとに区別できたりする(cognomenの後ろに"agnomen"がある人もいる)。
姓と名とを備えた人名は、一部の文明において、その内の高貴な人に限られるかのようにも言われるが、それはどちらでもよい。
何らかの言語(そもそも言語の伝播は特定の文化性・経済性・政治性に拘束される)の話者が、そういう人名の名乗り方をしてきたことは考えられる。

地名についても「ここはムーラです」とかと言われても、同名の土地が多くなる場合に「どこ地方の~ (in which region)」とか「どこ国の~(in which country)」とかと後から言い直すことになる。
単に「Aさん: アレはどこにありますか? Bさん: 私の家です」という話であっても「Aさん: それ(Bさんの家)はどこですか? Bさん: ムーラにあります、エムーラ地方の(あえて英訳すれば It's in Mura, Emura.)」と言い直す。
これらは話し手が認知する最も身近な・最小単位のものがまず挙げられ、その後に補足する必要が有れば「誰の・どこの・どのような」といった情報が必要になる。
これはラテン語や英語などで、疑問代名詞と関係代名詞に発音の共通が多いことに通じる(梵語は疑問代名詞と別にयद् yad系の関係代名詞があり、古代ギリシャ語も同様。英語は限定詞・指示代名詞から派生したいわゆる制限用法の関係代名詞thatがある点も注意したい)。
日付についても「その日は何日です」、「それは何月の?何年の?」として、そういった言語の用い方を想定できるが、現代人だと「私は(西暦)1980年生まれです」くらいが普通なので必ずしもこの話には合わなかろう。東アジアでは干支=六十干支を用いて「〇〇の日」というような場合も多かったろうが、大概は先に「元号〇年」が伴う。

こうした言語の用い方を想定するならば、その言葉のやりとりにおいて、自然と「名・姓」や「都市名・国名」といった「西洋式」の語順が都合の良い場合も考えられる。
しかし、現代文明では、他ならぬ「西洋式」を用いる言語の人たちが「西洋式」の合理性を考え直さねばならない一面を抱える。
西洋の現代語は、ほとんど前置詞を用いることによってその語順で説明ができる。
前置詞を用いない場面では、「東洋式」の語順に切り替えることも可能である一面が多いと考慮できるし、先述の通り「デジタルな領域」や「学術論文」に東洋式が浸透している。
日付の表記においても、先述の通り、「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」や、その類似の表記が浸透しつつある。

日本人は、手放しにアメリカンスタンダードに迎合せず、東洋式の優れた側面を自覚した方が良い。
西洋人は日本人が思う以上に姓名表記を尊重しているであろうし、日本人や中国人などは自然な流れで東洋式の姓名を用いて問題は無い。
無論、西洋式のような名・姓の順に則る人々に東洋式の順を強いることはできない。
日付にしても人名にしても多くの同格表現にしても、2019年現在、東洋式の使用のために状況を選び、直感的に語順の特徴が意識されやすくなるための配慮を要する。
私は、この「言語に関する自覚」を示すのみであり、急進的な行動を望んでいない。
私が望むこととは、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。






起草日: 2019年1月28日

英語の語順・統語論のうち、同格表現の現代的用法(土地・日付・人名など)における伝統的な側面を、当記事で示した。
同格"apposition"とは、その英語の文法用語の語源について考えると、ラテン語の"ponere (直説法一人称能動態単数でappono)"に前置詞もとい接頭辞ad- (~へ、~に向かって、英語: ~に近い)が伴った"apponere"という、単に「置く・並べる・加える」などの意味である(接頭辞ad-は梵語接頭辞ā-と同じように能動的な意味を付加するに過ぎず「同」という漢字の意味は薄い)。
その"apponere"の派生語が"appositio"であり、英語では"apposition"(フランス語と綴りが同じだが中英語の時点ではもっと発音に近いapposiciounだったので後世に修正されたろう)となる。
ただし、ad-が日本語の促音便のように長子音(gemination)となってap-と変化を受ける(古典ラテン語発音でアド・ポスィティオー→アッポスィティオー)。
日本の外来語に「ポジション(位置・地位などの意味)」という言葉があるが、当然、"apposition"の "position"部分に相当する。
何が言いたいかといえば、「同格」という"apposition"の訳語において、「格変化"case change"」という時の「格"case"」は"apposition"という語に見出せないという点である。
ラテン語や梵語など、インド・ヨーロッパ言語(印欧語)の古典語で一般に見られる格変化の道理からすれば、それらの言語で実際に用いられる同格表現は確かに「格"case"」が揃っているので、意訳(semantic translation; free translation)としては「同格」が妥当な場合も有ろう。

しかし、ともすると「格」という言葉を英語知識しか持たない学習者が「格式・品格・人格・性格の格(もし英語にすればstatus, rank, character...)」などと、現代日本人の言語感覚で民間語源的に解釈すること(語呂合わせ)となりかねない。
無論、それでさえも英語しか外国語学習をしない人を対象にする説明としては、理解しやすい場合も有ろうが、小賢しい学習者は誰も腑に落ちないと思われる。
とりあえず、「同格」という"apposition"の訳語については、意訳(semantic translation; free translation)の側面が強いことについて考慮しておきたい。

同格表現に関する様々な情報(辞書・文法書・各種文献)を載せているページがあるので以下に示す。
古典ギリシャ語(古代ギリシア語)・ドイツ語の話題もあるが、そこでは必ずしも同格表現が「同じ格"case"になる」とは限らないことが示されてもいる。
2006年9月1日: 「同格: ta meta ta phonetika」
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2006/09/post_d8b5.html



以下に載せる※印の文は、記事本文に挿入しようとも込み入っていて長くなるので私がそこに掲載しなかった文である。
文献についての検証が不正確でもあるため、興味のある者が各自で検証すると、各自の学習のためにもなろう。

余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる。その語順は「西洋式」の場合と日本語のような「東洋式」の場合とが混在している。梵語系統では、平叙文の「〇〇は××だ」と表現する文においてコピュラ動詞・存在動詞を用いずに「○○××」と表現できる。この「○○××」が梵語系統の平叙文であるならばよいが、これが一文の名詞句に過ぎない場合、同格表現とも解釈できてしまう。梵語系統はラテン語のような西洋式の語順で同格表現をするように限れば、理解しやすい。無論、梵語典籍はその語順の制約を受けていないので、その読解は難しくなる。パーリ語の経典のうち、相応部22.100経の冒頭に「比丘たちよ、この輪廻は無始である"Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro."」とある。bhikkaveは呼格なのでさておき、Anamataggoyaṃとsaṃsāroはいずれも主格であり、Anamataggoyaṃは連声・サンディの状態をほぐしてAnamataggo ayaṃという主格の2つの単語を読み取ることができる。ayaṃ saṃsāroこそが「これは・輪廻は=この輪廻」という同格表現である。「これ"ayam"」という言葉は単に名詞や代名詞の主格ではなく限定詞のようなものであると取れば同格表現とし難いが、これは日本語と同じ「東洋式」の語順である。同経の他の同格表現には名詞 + 名詞の主格「これは・心は=この心は"idaṃ cittaṃ"」がある。形容詞 + 名詞の処格「強固なものに・柱に=強固な柱に"daḷhe khīle"」もある。同じくパーリ語の経典では名詞 + 形容詞「王は・マガダのものは=マガダ国の王は"rājā māgadho"」という語が見られ、肩書の名前などにラテン語と同じ「西洋式」の表現が見られる(長部2経など)。他に「王は・パセーナディは・コーサラのものは=コーサラ国の王パセーナディは"rājā pasenadi kosalo"」という、英語話者は2・3番目の語の間に前置詞"of"を入れれば理解しやすい例も有る(相応部3.1経など)。「王パセーナディ」とは、漢訳仏典で著名な「波斯匿王(はしのくおう)」であり、漢語・日本語とは語順が逆である。ただし、原点のような「王波斯匿」という語順も少なくはない。「西洋式」の同格表現が他の梵語系統に見られることに興味がある者は、何かしら例文を集めてみるとよい。ところで、複合語の一種である同格限定複合語は、梵語のそれ=持業釈"karmadhāraya (パーリ語でkammadhāraya)"だと「名詞A + 名詞B」の語順は日本語・漢語とそのまま同じであること(e.g. sākyamuni, śākyamuni 釈尊)に対し、片方が形容詞である場合にラテン語(もしくはセム語派であるアラビア語)の「名詞 + 形容詞」の語順が多く見られること(karma + dhāraya 持業釈という文法用語そのものに見られる)も付記する。姓名については、「ガウタマ・シッダールタ=ガウタマ氏(姓)のシッダールタさん」のように日本語と同じである。言語にはイレギュラーな事項も伴う傾向があるので、それも考慮すると、いつも同じことは言えないが、一応、規範的に、梵語系統は以上の特徴が窺える。

参考までにスペイン語で「イタリアのマッタレッラ大統領 or イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏」を表現すると"el presidente italianoSergio Mattarella"となる。ポルトガル語で「アメリカのブッシュ元大統領(子の方)」を表現すると"o ex-presidente americano George H.W. Bush"となる。同様に「アメリカのトランプ大統領」は"o presidente americano, Donald Trump"である。コンマ (, comma) の有無が例によって分かれることはここで論じない。

関連ワード?: 社会言語学"sociolinguistics" 固有名詞部分の話ではないが地名学"toponymy" 人名学"anthroponymy" 歴史言語学"historical lingustics" 認知言語学"cognitive linguistics" 語用論"pragmatics" 言語類型論"linguistic typology" 統語論"syntax"

P.S. 統語論では、文法事項である形容詞句"adjective phrase, AP"における形容詞"adjective"・名詞句"noun phrase, NP"における名詞"noun"といった句"phrase"を構成する成分である「主要部"head" (e.g. 名詞句に形容詞と名詞があるならば名詞が主要部)」について、言語ごとに主要部の位置が異なるとする。
言語類型論では、当記事に示される名詞句を構成する成分(形容詞や名詞や同格表現)の語順について、日本語は主要部後続型(head-final または主要部終端型)言語とされるので、当記事で対比されるようなラテン語・イタリア語は主要部先行型(head-initial または主要部先導型)言語のように見えるが必ずしもそう言われないらしい(head-directionality parameter)。
英語は、既述の通り混在しているが、主要部先行型言語とされる場合が多いものの、細かい分類では主要部先行型言語とされない(されるものはアイルランド語・マダガスカル語、筆者は詳しくない)。



追記: 2020年4月17日

中英語"apposicioun"という単語は、用例が1ないし0のハパックス・レゴメノンや幽霊語の類であるかもしれないと思った。
または、文法用語として中英語でもラテン語でも用いられた例を私は見たことが無いと思った。
そこで、中英語"apposicioun"の文例を可能な限り探すと、2件見当たった。
Neuermore be made scarificacioun bot if apposicioun
—謎。Hans Kurath, Robert E. Lewis名義で出された Middle English Dictionary に載る。掲載サイト: Google Books

That thou next at this apposicioun, (他の表記: þat þou next at þis apposicioun)
Whiche in the signe shal be of the Lion, (他の表記: Which in þe signe schal be of þe leoun)
—西暦1400年没 Geoffrey Chaucer による The Canterbury Tales (カンタベリー物語) 所収の"The Frankeleyns Tale";1行9音節で韻を踏んだ詩の中だが原典で前の2行は音節数が異なる。掲載サイト: 1, 2

この2件が、文法用語として用いられているようには見えないが、何らかの著名な辞書が中英語での語形として挙げるに足る量があることは明確である。
追加で探すと、Middle English Compendium というサイトの項目で、"Hou knos þu a preposicion? A party of spech þe wech ys vndeclynet and ys set before oʒþer partys of spechys togedyr in apposicion and composicion."が載っていたが、これは文法の話題に見える(1450年ころとされる Peniarth Accedence が典拠というが情報が少ない)。

当記事を見直した理由は、以下の報告をブログ内のどこかに—現状は未定だが—記したかったためである:
漢文「A即B」という表現は、しばしば「AすなわちB」と訓読されるが、同じ訓読の「A則B」「A乃B」「A輒B」などと意味–用法で区別される。
漢文「A即B」は「BであるA」・「Bという名のA」という意味を持っていると感じることがあった。
つまり、同格表現の標識–マーカー (appositive marker) ではないかと思った。
これは何らかの文献の文脈から、意味論的に取ることができる。
英語Wiktionary "即" (oldid=58958461)は、同格表現の意味にある"namely; that is; to be the same as; i.e."を「即」の定義の1つに加えている。
そこでは現代中国語と中古漢語といった時代の差が示されていないことに注意を要する。

2019年2月17日日曜日

現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性

承前→「現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。



現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
好き嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。

いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。



日本語の自動詞・他動詞に関する概説

そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。

他動詞の例は、自動詞に相対する形で「消す"kesu"(消える、に相対する)」がある。
「消す」に相対する自動詞である「消える"kieru (文語の下二段活用の終止形: 消ゆ"kiyu")"」は「-える語尾 (-eru ending)」であり、これは元々、古文の助動詞である「-ゆ(自発・可能・受け身などの意味 e.g. 見ゆ⇔見える)」に由来すると思われる。
一方で、その「-える語尾」と発音が一緒でも語源が異なるものに、他動詞である「変える"kaeru"(文語の下二段活用の終止形: 変う・変ふ"kau, kafu; kapu")」がある。
これは「変わる"kawaru (歴史かな: 変はる kaf-aru; kaparu)"」という自動詞や、「変えさせる"kae-saseru"(文語の下二段活用の終止形: 変えさす "kae-sasu"または変えせしむ"kae-seshimu")」という自動詞の使役形に相対する。
その英語"to change"は"to move"に同じく、他動詞と自動詞のどちらでも用いられる(私は○○を××に変えるor変えさせる⇔私によって〇〇は××に変わる)。
日本語でいう他動詞も自動詞の使役形も一様に"transitive (他動詞)"として区分されるが、日本語では「変える・変わる・変えさせる」という三種が並立する以上、日本語学の内にこの三種を語形の論理(語彙論・形態論)として立てる必要がある。
「〇〇が××に変えさせられる」や「本が読まれる・〇〇は(彼にとって読まれたくない)本を読まれる(後者は自動詞の受動態="adversative passive")」や「泣ける・泣く・泣かせる(下二段活用: 泣かす)」に対する「泣かれる(自動詞の受動態="adversative passive")」等の受動的な表現(受動態"passive voice")はここで含めない。
自動詞の使役形である「変えさせる」を英語に直訳する場合、同様に自動詞のchangeを用いればよい。「私は彼を変えさせる」ならば「私は彼が変わるようにさせる」と改めて"I make him change."のようにする。この時の"to make"は二重他動詞"ditransitive"用法であり、これは日本語における自動詞の使役形を作る「~あす語尾(-asu ending)」に類する。英語版Wiktionary - makeにも"You're making her cry. (あなたは彼女が泣く-状態-にさせている=あなたは彼女を泣かせている)"と例文を載せている。その役割は、「自動詞の状態にさせる」ということだが、「自動詞の行為の原因を作る」こととも言える。

「泣く」は自動詞なので、本質的に受動態は無い。誰かが泣くことはその人の精神と肉体に終始していて他者が被動者"patient"として行為を及ぼされる道理は無いためだが、現代日本語では「泣かれる」という受動態の述語表現が有る。つまり、誰かが泣くことによって主語・ゼロ主語の人物が被害を受けること"adversative passive (被害受身 negative passive; 間接受身 indirect passiveとも)"であると言える。これは"adversative passive"の文法を持った日本語ならではの受動態である。「○○は雨に降られる」といえば、「雨が降る(雨が意思を伴って自身を降らす・降ろすわけでないが)」という自動詞の現象を見るなど五感で受け、○○=文の主体事物"subject of the sentnce"は何らかの被害(金銭や外見を損なうとしても究極的に精神的な被害)を受ける(他者であればそういう同情をする)ということである。"adversative passive"の受動態動詞は、元が自動詞である場合にこそ、有り得る。そのために「○○のいる時間のその場所で雨が降った」という事実認識の表現とは別に、「○○は雨に降られた」という自動詞の受動態という表現をする。また、被害を受けるという意味合いは基本的なものであり、もしそこで文が終わらずに別の節"clause"に接続されるならば必ずしもその文意に繋がらない。例えば、Alfonso, A. 1966 (Japanese language patterns: A structural approach)にA「綺麗なお嬢さんに泣かれるとちょっと嬉しいものだ"It's kind of nice when a beautiful girl cries because of you."」やB「風に吹かれながらショーウィンドウを覗いて歩く"I walk along in the wind looking at the shop windows."」という例文が挙げられているそうだが、これは「泣かれる"と"」や「吹かれ"ながら"」として接続助詞"conjunctive particle"「と・ながら」が伴って別の節"clause"になっており、被害を受ける表現には繋がっていない。添えてある英文は、そのAlfonsoか誰かによって取られた意味であり、必ずしも正確でない。「綺麗なお嬢さんに泣かれると、それが私or誰かにとっては嬉しい気持ちにさせるものだ」という主観的な意見の提示が主節"main clause"になってしまい、受動態の述語が従属節"subordinate clause"に追いやられている。もしBの文の語彙のまま従属節と主節の立場を変えるならば「私が歩いている"と"風に吹かれる」という文末・主節の自動詞受動態たる"adversative passive"となる。例文A・Bは、文末・主節・独立節"independent clause"の自動詞受動態たる"adversative passive"と明確に異なる。つまり、Alfonso例文Aのように「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)嬉しい」と感じる人もいるという意味に限らず、「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)困る」という意味にもなりえる。同様に「私の愛人に送る手紙が(を)愛人に読まれると私は嬉しい」とか「私の愛人に送る手紙が(を)その他の者に読まれると私は恥ずかしい」という二者(orそれ以上)が有り得る。要するに"adversative passive"は、文の主体事物(主語かゼロ主語)が、その「される(受動態・所相の述語)」ことによって、究極的に当の主体事物=人物の精神において目的に適えば嬉しく、目的外であれば困る感情表現であるといえる。そのように複数の節を用いることで、「このことが(を)ケンに知られるとユータは喜ぶがケンは悲しむだろう」という二種類を込めた言い方もできる。受動態の用法によって「読む・知る・聞く」も、英語の"to readto knowto hear"のように他動詞のみならず自動詞の用法も有ると分かるし、日本語では助詞と節のありようで"adversative passive"を作ることができる(「泣かれる」が「お泣きになる」という敬語・尊敬語の用法は排除した上での話)。なお、自動詞が自動詞である原理(行為とその対象範囲の同一性の自覚)を応用すれば、一切の他動詞は自動詞の用法を得るが、この話は哲学的なので(cf. ātman 自己 ātmanepada 自動詞or受動態or中動態 インド哲学とサンスクリットの文法理論の相違性や類似性に関する話)さておく。

簡単に好例でまとめてみよう。「立つ」は自動詞であって「う語尾 (-u ending)」である。「立てる」は他動詞であって「える語尾 (-eru ending)」である。「立たすor立たせる」は自動詞の使役形であって「あす語尾 (-asu ending)」もとい使役・尊敬の助動詞「す」に由来する。これらは動詞の3種の区分にあり、私は受動態を省く。「立たれる(文語終止形: 立たる)」は自動詞の受動態(受身の形)であり、「立たせられる」は他動詞の受動態であり、「る語尾 (-ru ending)」もとい受身・尊敬の助動詞「る」に由来する。前者=自動詞の受動態は主に"adversative passive"用法である。「立つ・立てる・立たす・立たれる・立たせられる」といった動詞は、形態論でいえば"to stand"の意味のある「tat語根or語幹 (tat- root or stem, 語根であれば√tatとも)」を共通して有する。

サ行変格活用(サ変)の動詞は、漢語・漢文の原義からすれば、自動詞・他動詞いずれも有り得る。
五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」と、サ変活用「化す・課す"kasu"」とは、動詞の発音が同じでも、後者が漢字の音読みに由来するため、本質的に異なると知った方がよい。
i.e. =呉音・漢音「タイ tai」訓「か-す ka-su」、=呉音「ケ ke」漢音「カ ka」、=呉音・漢音「カ ka」 五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」は終止形と連体形が同じだが、サ変活用「化す・課す"kasu"」は終止形が「-す」で連体形が「-する」と異なっている
「貸す」は「借りる"kariru"(文語: 借る"karu"。文語では四段活用だが後世に下二段活用と混同されて下一段活用になった cf. 飽きる⇔飽く)」という他動詞に相対して自動詞の使役のみであると分かるが、「化す・課す」のうち「化す」は「彼は○○と化す(文語的)・彼は〇〇に化ける=化ける(自動詞の使役形ならば"化かす"がある)」という英語"to change"の自動詞用法に当たる用法も有ることを知るべきである。
「変化する"henka-suru"(文語: 変化す、仏典の語で"変化す henge-su"とも言える)」というサ変動詞は変化させるという他動詞の意味も担うはずが、現代日本語では語源意識が希薄なので、文字通り「変化させる」という自動詞の使役形がある。訓読語であっても「変化せしむ"henka-seshimu"」と言った方が伝わりやすいかもしれないが、それであれば元の漢文に「令〇〇変化(令〇〇變化)」とあったほうがよい(訓読: ○○をして変化せ令む)。

現代日本語の述語はその3種の動詞に加え、4番目の位置づけとして文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉(動詞連用形由来の名詞・形容詞)が挙げられる。
「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉は感情表現の述語に用いられる。
なぜ「○○は××を好く・嫌う・恐れる(文語終止形: 恐る)・欲する(文語終止形: 欲す)」という他動詞の類で画一的なSOV構文で済むところを、「〇〇は××が好き・嫌い・怖い・欲しい」と言うか?
日本語で古代からどのような文・センテンス(文章的な構造を持った言語表現のことであって必ずしも記述された文章である必要はない)が話されてきたかは知り難い。
私は、これが婉曲的な言い回しであるように感じている。
婉曲的な言い回しとは、例えば、「する」という意思による行動をあたかも自然の成り行きであるかのように「することになった」と言う。謙遜表現・謙譲語で「いたす・いたします」という意思による行動をあたかも相手の了承が得られていることを決めつけるように「させて頂く・させて頂きます」と言う。これは他の現代日本語の特徴に似ている。これはまた、結果であれ過程であれ日本人の、その価値観と関連する(少なくとも「することになった・させて頂く」は他国の言語に見づらい表現)。これはあくまでも筆者の私見であり、筆者による類比である。現代日本人の大半は、どんな表現であれ、意味論的に認識して用いず、専ら役割を持たせた語用論としての形骸化した言い回しで用いることに注意すべきである。



グルジア語との比較・類比

南コーカサス語族(カルトヴェリ語族)に、グルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)がある。
グルジア語は能格言語や活格言語のようであり、分裂能格"split ergativity"を持つ。主語・目的語に付随する標識(マーカー"marker")の用法のことである(格接辞や日本語の格助詞に相当)。それにより、自動詞や他動詞やそのほかの動詞に関する文法的な位置づけが明瞭になる。グルジア語の場合は標準的に主語が日本語や英語と同じ主格であるが、他動詞が完了相または完了時制のようないわゆる過去形の時に限って主語に能格"ergative case"の標識が付く。能格性は他のコーカサス諸語(南・北東・北西の各語族)にも顕著(南は分裂能格のみで北東はチェチェン語などが能格言語で北西はアブハズ語などが能格言語)である。また、動詞の活用にはラテン語や梵語や古代ギリシャ語と似た行為者の一人称・二人称・三人称の区分が徹底されるが、被動者(patient)の標識を含めて一つの動詞とする点(筆者は学習不足なので不明)で、抱合語のような特徴にも注意を置くべきである。

英語版Wikipedia - Georgian verb paradigm記事には、"Georgian has four classes of verbs: transitive, intransitive, medial and indirect verbs"とある。
transitive と intransitive と medial と indirect という4種類の動詞を挙げている(Hillery, THE GEORGIAN LANGUAGEのサイトと類似の内容)。
このうち、"indirect verbs (直訳: 間接動詞)"について注目したい。
グルジア語の文法でも、感情表現の述語もとい動詞が普通の他動詞や自動詞とは別物と区分されているようである。
ただし、それは日本語の文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉と異なり、普通の自動詞や他動詞と同様の活用を持つ。
その記事のClass 4 (indirect or 'inversion' verbs)節から少し、引用する。
Class 4 (indirect or 'inversion' verbs)
  • This class of verb is known as indirect or 'inverted' as it marks the logical subject with the indirect object marker set (m- set) and the direct object with the subject marker set (v- set). Nouns are declined in agreement: the logical subject is in the dative, and object in the nominative (or sometimes genitive, as in gogo-s (dat.) dzaghl-is (gen.) e-shin-i-a - the girl is afraid of the dog).
  • Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs), including verbs such as q'av - to have (X, animate), kv - to have (X, inanimate) q'var - to love and nd - to want.
  • Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring), created using the circumfix e- --- -eb (compare tsek'v-av-s 'he dances' and e-tsek'v-eb-a 'he feels like dancing').
The verb paradigm follows. For simplicity, the verb form always assumes a 3rd person singular object: Verb root q'var - to love (筆者注: 前class 1から3では不定詞の形"infinite form"が併記されていたがここにはそれがされていない)

この区分のグルジア語の動詞の文例に"გოგოს ძაღლის ეშინია. The girl is afraid of the dog. (英文の逐語訳: その少女はその犬について恐れている。 意訳: 少女は犬が怖い)"を挙げているし、他の語彙として"to love"や"to want"を挙げている。
"to have"に関しては恐らく「私には○○がある」と言う時の"I have *** (直訳: 私は○○を持つ)"の意味を指すものと思われる(cf. ラテン語: *** mihi est. 文法上の主語である***が3人称の単語であるためその述語の動詞「ある」はestのような3人称の活用となる)。
その区分の動詞の活用を示す際に動詞語根"q'var (グルジア文字: ყვარ)"を例示している。
これは英語で"to love"、「愛する」という意味である。
「愛してるよ」・「君のことが好きだ」という日本語を英語で"I love you."というが、グルジア語では"მიყვარხარ miq'varxar ミクヴァルハール (mi-q'var-xar ミ・クヴァル・ハル)"となる。
q' の字(qにアポストロフィ。別の翻字体系でq̇)で表されたグルジア文字" (ムヘドルリ体)"はq'ariといい、無声口蓋垂放出音(音価のIPA: [q'])である。単語例"მიყვარხარ"に対して慣用的なカタカナ表記を付したが、後でインターネット上の音声を探すと、一例には「ミグヮルハル(migwarhar)」のようにV音が接近音か唇音化 [ʷ] らしく聴こえる(前の音ყ = q'と合わせて有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] にも聴こえる)し、無声口蓋垂放出音は有声軟口蓋破裂音 [ɡ] のように聴こえる。まあ「愛している"a-i-shi-te-i-ru"」を「愛してる"ai-shi-te-ru"」のように発音する現代日本語と同じように口語的な簡略発音(母語話者にとって他に弁別される類似発音の語が無く形式的に聞かれるフレーズを想起しやすいため)は有り得ると思われる。また、その例と他の例はともに代名詞"I, you"に当たる主語と目的語とを先に言って"მე შენ მიყვარხარ (me shen mi-q'var-xar メ・シェン・ミクヴァルハール)"としている点、「僕は君のことが好きなんだ(我、汝を愛す)」くらいに具体性を伴っている。"pronoun drop (pro-drop)"の類である。

これらを便宜的に"Class 4"と位置付けて"Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs)"という。
また、"Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring)"といって「~のような感じだ(~のような感じがする feel like ***)」という表現も含まれるという。
このグルジア語の動詞の位置づけの一つは、日本語の述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉に近い可能性が有ることを付記する。
関連する言葉は日本語も英語もグルジア語も概して自動詞のようだが語源が他動詞である表現かもしれない。
英語には先例の"to be afraid... (その例文: ワンワン怖いよぉ)"以外にも"to be shamed... (e.g. 人前は恥ずかしいよぉ)"がある。調べてみると、中英語以前(-12世紀)はもう少し、多くの動詞は今ほど他動詞が多かったわけでないという情報もある(cf. 鈴木, 2014とそこに示される中尾, 1972や大沢, 2000)。古英語やゲルマン語の古層に関して、興味が有れば調べてみるとよい。

この英語版Wikipediaの記事は、出典に乏しく、文献の参照の程度が不明瞭であるものの、書いてあることをそのまま信じれば、グルジア語の動詞は4種類あり、現代日本語の4種類の述語表現(他動詞・自動詞・自動詞の使役形・感情系述語表現)と綺麗に対応しそうである。
何らかのグルジア語学習の教材にも、恐らく同様の説明がされていると考えてよい(cf. 横井, 2000 グルジア語概観およびHillery, THE GEORGIAN LANGUAGEおよびAronson, 1990 pp. 332-369 Class 4についてはローマ数字でIVという表記例も多い)。
他の比較対象に、いくつかの西洋言語を取り上げてもよいが、扱いに困る。「私は××が好きだ"I like ***"」という表現は右のようになる、という例示のみをしよう。フランス語"Il me plaît ***", ドイツ語"*** gefällt mir", ロシア語"Мне нравится ***" これらのうち日本語文の「私は」にあたる語は、みな与格"dative case"(fr: me, de: mir, ru: мне)であり、そのような構文で共通している。グルジア語の文例で"გოგოს ძაღლის ეშინია (その少女はその犬について怖がる⇔その少女へその犬が怖がらす?その少女にその犬が怖がらせられる?)"も同様である。これらは与格構文"dative construction"だといわれ、本来は間接目的語に使われるような与格が英語や日本語の文における主語になっている(斜格主語"quirky subject; oblique subject")ために倒置構文ともいわれる。ただし、上掲の例におけるフランス語などの文の人称代名詞の与格用法と、グルジア語の文の名詞の与格用法とがどれほど類似しているか、筆者には判断しづらい。



感情表現・幼児語の正統性

「好き・嫌い・怖い・欲しい」という人間の感情は、あらゆる動詞に同じく、文法の規範によって表現できるものの、人類言語の原初(単一発生の場合も不干渉複数発生の場合もあるがそれはどれでもよい)には文法の規範が確立されていなかったろう。
心の現れとして、感情表現のために言語が用いられた当初、どのように動詞概念が有ったろうか?
自然の事象と、自覚された感情との二者は、どのように類似するものとして理解されたか?
古代の言語について考えなおす判断材料になると思う。
文法の規範や論理性を重んじる人や、英語中心主義の人は、現代日本語・口語の表現が稚拙で乱れたものと考えるであろう。
確かに漢語・印欧語など、文献的には紀元前から発達していた文明(例証として日本語よりも古い時に作られた文献が多い)で用いられる言語は、それだけの言語的な質・量を得ている。
しかし、それ以前の印欧祖語の存在性は不明確であり、印欧祖語以前の同型遺伝子の民族や同時代の他の民族において、どのような言語が用いられたかは、全く確証が無い。

cf. 元記事 述語省略の例文「お姉ちゃん、お菓子(人物への呼びかけ + 何らかの名詞)」
あるいは複合語「お姉ちゃんお菓子」としての解釈
依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」
持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」

もし何らかの言語がそれらの先史時代の民族に用いられていてその言語を推定したいならば、古今東西の言語を学び、知悉する必要がある。
英語において、主語・述語・目的語に関する規範的な用法でさえも古英語のころからが有ったか、最低限、残っている文献("Beowulf"など)だけでも読んで理解されるべきことがある。
言語に興味を持つ者にとって、課題がまだ多い。
私がいつもこの意志を保てるわけでないにせよ、かなり課題が残されていると自覚する。






起草日: 20190203

元記事と同様に、絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、6,000文字ほどを打った。
中卒無職(22歳)である私が、向学心によって学問を進めている。
エリート主義・権威主義的には「学問に置けない・不倶戴天の存在」かもしれない。
例えば、野良犬が狂犬病(rabies)などの伝染病(epidemic)を媒介したり、農作物・備蓄の食害を起こすことで、現に人間の生活(住環境や家畜の生育)に害をもたらすようなものである。
これは野良犬についての偏見と人間的な功利性を伴うが、あくまでもそれを認識した上での譬喩である。
「野良犬にも似た私の学問」が、エリート主義・権威主義的には忌避されると思われる。
私は学術用語・概念をどうにか駆使し、「野良犬かつ雑種犬が新しい血統の犬種と認められる」かのような努力を続けられるとよい。

本文中の※印注釈に関連した備考→『受動態(受け身・受身)・被動者の英語はラテン語由来の"passive, patient"である。いずれも語頭pa-であるしラテン語の語源(不定詞: pati 苦しむこと)が共通している。ところが、日本語の漢字名称は語頭の字が受・被で異なっている上に、受身は「うけみ」という訓読みである。"adversative passive (indirect passive)"に至っては「被害受身 (間接受身)"ひがいうけみ (かんせつうけみ)"」などとちぐはぐな読み方・ハイブリッド読み・四字二分重箱読みをしている。中国の言語学もとい語言學(simp. 语言学)では"passive, patient"が「被動語態・被動者」として訳語の語頭の字が「被(bèi ペイ)」で共通する(ピンインb-字の発音はラテン語の無気p-発音と同じ。語頭の子音が合う点も音義借用翻訳のようで好ましい)。またしかし"adversative passive"を「被害受身」とすると日本語における重言のようでもあるし、ここは「損害被動"そんがいひどう"(indirect passiveは間接被動"かんせつひどう)"」でよかろう。する・されるという概念は大乗仏教中国仏教以来、能・所(のうじょ)という対立概念の名にもなっていて言語学の相・アスペクト"aspect"にも能相・所相という名称があるのだから、能動態に対して所動態(しょどうたい)という名でもよい。受動態も中国のように被動態と改めるべきだ。つくづく日本の言語学における訳語には疑問を覚える(cf. 同格"appositon"⇔格"case", 内破音・入破音"implosive consonant"漢語伝統音韻である入声と語頭の字が同じだがに関係ない音。入声は[p̚] [t̚] [k̚]の無開放閉鎖音"unreleased stop"とされていてそれを内破音だと言い出す日本人学者もいるので紛らわしさの極み)。受身(うけみ)という訓読みの語はごく日本語の文脈に限って使うべきで英語概念の訳語には合わない。上代~近世までの仏教国・日本での漢語用法からしても「被動」や「所」でよいし現代中国に譲歩する考えもよい』

今回の記事のパーマリンク"indirect verbs"に関連したラテン語(由来)の文法用語"verba sentiendi"(verba: 名詞・中性・複数・主格 + sentiendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 情緒動詞・感覚動詞), "verba affectuum"(verba: 前に同じ + affectuum: 名詞・男性・複数・属格、意訳: 感情動詞), "verba habendi"(verba: 前に同じ + habendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 所有動詞)
軽い造語→"verba irregularia"(verba: 前に同じ + irregularia: 形容詞・中性・複数・主格、意訳: 不規則動詞)

今回、何となく目についたグルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)を引き合いに出したが、これは対照言語学的な手法として可であろうと私は考えている。
個人的な学問のための今後の展望として、日本語・漢語・印欧語(地理的にはフィンランド語・ハンガリー語・バスク語を含む)以外にも、グルジア語ないしコーカサス諸語をはじめとした膠着語・抱合語系統に対する学習を進める必要がある。
グルジア語ないしコーカサス諸語を対照言語学の中心にする場合、オーストラリアのアボリジニ系の言語群や、アメリカ大陸のマヤ系だったか西海岸北部とかだったかの言語群も引き合いに出した方がよいと思われる。
ユーラシアを超えた言語学習・研究・考察のための、意思がまだ無い。
どれほど、広い規模の言語が対象となるかと思うと、広いようではあるが、所詮は一球体・グローブ単位のグローバルであり、人類単位のユニバーサルである。
つまり、地球上の現生人類全体かつ単一人類(Homo sapiens sapiens)における共通性や普遍性の探求であることを意識すべきである。

2019年2月3日日曜日

現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

〇少し前置き

日本語で「何これ・これ何 vs. これは何ですか?」というような述語(動詞が文の必要な構成要素となる在り方)を欠いた表現の許容は、古今東西、見られよう。
梵語(サンスクリット及びパーリ語をはじめとした古インド・アーリア語)では、存在動詞やコピュラ動詞(梵語asti, ラテン語est, 英語isなど ある・いる、である・だ・なり)が額面的に用いられない文が多いことは日本語と似る側面がある(梵語の典籍からは基本的にコピュラ用法が見られない)。
また、梵語では、動詞の派生語で本来は述語たりえない分詞のうち、過去分詞(厳密には過去受動分詞"past passive participle")をそのまま述語のように使うことも多い(英語で過去分詞"past participle"は必ずbe動詞・コピュラ"copulative"・存在動詞を伴う。他の場合は単純過去形"simple past"と語形が同じことが多いのみで過去分詞と単純過去形は別の文法概念)。

今回はそれらのことと比べて、より日本語における「文法的単純さにおける多義性」が窺える例を探ってみる。
「述語表現の省略"omission of predicate"」がされた日本語の表現からは、存在動詞やコピュラ動詞以外の動詞の意味を見出すことができる。



〇表題の通りの話題

現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
そのうち、しばしば「ウナギ文」として「ぼくはウナギ(だ)」という文例が挙げられることは、「ぼく」という一人称代名詞=話し手が「ウナギ」を目的語に取り、その目的語「ウナギ」を要求するという文脈で解釈されている(I order unagi; eel as food)。
つまり、飲食店で「ウナギ(うなぎのかば焼き・うな重など)」の料理を注文するという場面で用いられたならば、当然その意味で解釈されることが自然であるという。
そのような場面が想定されるならば、よりシンプルに「ぼくウナギ」とか「ウナギ!」とだけでも通じてしまう(ただし「ウナギ!」だけでは先に他の人から「あなたの注文は何か?」という趣旨の問いが向けられねば発話者自身がそう発話することは一般の言語能力から発生しづらく思う)。
この場合、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」と想定される。

また、簡潔な自己紹介や他人を紹介するフレーズの場合に「ぼくは××」、「わたし××!」、「あいつ××」など(助詞"は・が"の有無は口語が用いられる場面ごとに分かれるためここでは不問)と表現される。
この場合、省かれた述語は「~だよ(である)=~という状態の人物である(I am... 他)、~という名である(My name is... 他)」と想定される。

それに限らず、現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
どのような状況でどのような述語が省かれたか、個別に考察されるべきである。
「〇〇(呼びかけ)、××」とは、「お姉ちゃん、お菓子」とか「父さん、お酒」とかとなる。

「お姉ちゃん、お菓子」とは、肉親としてのお姉ちゃん(血縁関係が有る者)であれ近所のお姉ちゃん(血縁関係が無い者)であれ一般的な年上女性のことであれ、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物にお菓子を求める言葉になると想定される。
しかし、反対に、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物に対してお菓子を捧げる意思表示とも想定される。
前者であれば、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」となる。
後者であれば、省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となる。
想像図「前者・後者」
後者は呼びかけの対象とされた人物・事物の名を主語に変えて「〇〇は××を受けよ(受動態命令形"passive, imperative mood")・受くべし・受くべきなり(受け身の推量形または動詞的形容詞ジェランディブ"gerundive")・お受けください・受け取りますように(受動態願望法・希求法"passive, optative mood")」のようにしてもよい。
いずれにせよ、やはり実際に用いられる言葉ならば、当然、その場の経緯が重んじられ、その場限りの意味で取る必要がある。

ここでもし、「お姉ちゃん」と呼ばれる人物が、前者とも後者とも解釈せずに「お姉ちゃん、お菓子」という言葉を、冒頭にも挙げられた「存在動詞やコピュラ動詞(ある・いる、である・だ・なり)」を補って「お姉ちゃんはお菓子(という存在)なんだね」と解釈して「お姉ちゃんはお菓子じゃありません(お菓子という存在ではない)」などと返答したらば、話し手にとって予期しない反応である。

「父さん、お酒」についても、後者の場合とその解釈で省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となろう。
話し手が「父さん」と呼ぶ人物に対してお酒を与えようとする(容器に注ごうとする)ために言葉を発するならば、その「父さん」が用いる酒の器(お猪口・グラスなど)を差し出すように頼む言語表現ができる。
つまり、「父さん、器(お猪口・グラスなど)」と言えば「父さんたるあなたは器(お猪口・グラスなど)を差し出してください」という意味で解釈される。
ただし、その場の経緯が同じである時、反対に言語表現は前者のパターンに変えることもできる。もし、一連の行為が餅つきのように頻繁に反復されるならば、もっと単純な「とうさけ(略とうさんおさけ)」という記号的表現が可能である。
究極的に、「はい」とか「それ」とかという1・2音節程度の語でも問題が無い。



「〇〇(呼びかけ)、××」の例を二三に挙げたが、この「××」は物品・物体の名詞に限らず、動詞由来の名詞・行為名詞(nomen actionis)にも適用できる。
その場合、想定される場面は「行為の指示・提案」となる。
誰かが「ケン(呼びかけ)、掃除」と言えば「ケンという名のあなたは、掃除をしなさい(サ変動詞の命令形: 掃除せよ)」という指示(命令)を意味する状況が想定される。
誰かが「ユータ(呼びかけ)、バトル」と言えば「ユータという名のあなたは、俺と一緒にバトル(何らかの対戦行為)をしましょう(しようぜ、サ変動詞の命令形: バトルせよ)」という提案を意味する状況が想定される。
※話は逸れるが、この2例は「ケンという名のあなたは、俺と一緒に掃除をしましょう」、「ユータという名のあなたは、誰かへバトルを仕掛けなさい(サ変動詞の命令形: バトルさせよ)」と指示と提案とが逆転した状況が想定されることも有り得る。

なお、先の「お酒」でさえ、単なる物品の名詞であるのみならず、お酒を注ぐ・お酒を飲む(呑む・飲酒する)といった、名詞自体に行為との関連を見出せる単語である。
その傍証として、現代の英語の動詞"to drink (ドリンク)"は酒(an alcoholic beverage)を目的語に取らず自動詞"intransitive"で用いることができることを参照されたい。
「お酒」のみならず、名詞が物品・物体を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「それを与える"to give it"・それを求める"to want it"・それを用いる"to use it"」ということとなる。
名詞が物品・物体ではなくて場所を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「そこにorへ訪れる・行く"to visit; go there"」ということとなる。
※当然のことながら、場所と物体との区別は主観的・相対的であり、本質的・絶対的に区分される基準は無い。「店の類(百貨店・飲食店・デパート・レストランなど)」は建物として物体だが、行き先=目的地(destination)などの用法がある以上、「場所」概念"where; place; location"として認識される。インド・ヨーロッパ言語の格変化に処格"locative"があることに同じ。



「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という日本語表現について、簡潔に言えば「物品の要求・物品の貸与・行為の指示・行為の提案を意味する述語が省かれた現象」となる。
インド・ヨーロッパ言語のうち、梵語や古典ラテン語よりも主語・述語をきっちりと表現する傾向にある近代英語では、以下のように一般的なフレーズによって表現される。

"Give me *** (ギブミー名詞ナントカ)"
"I give *** (アイギブ名詞ナントカ)"
"Please *** (プリーズ名詞ナントカ)"
"Let us *** / Let's *** (レッツ動詞ナントカ)"
※英文中の"***"および「ナントカ」は、先例の「××」に対応する。

これらフレーズにおいて先の「『お姉ちゃん』、お菓子」とか「『父さん』、お酒」といった例文にあるような、人物の呼びかけ(その文例の場合sister, my fatherなど)を伴うことは必ずしも多くないという側面も注意すべきである。



ここまで「述語表現の省略」とか「述語が省かれた」とかと書いてきた。
言語学的にこの現象が「省略"omission"もとい削除"deletion"(単に省略というと短縮・縮約"abbreviation; contraction"と混同されるため削除に言い換えよう)」か、「ゼロ化(ある語が形式上は無いが意味上は有る)」かといえば、やはり「省略もとい削除」であろうと思う。
当記事で扱われた「述語表現の省略」は、日本語文法で規範的に確立されておらず、口語のうちでも偶発的で気まぐれな表現に過ぎないと判断し得るためである。
一方、「ゼロ化」は、もう少し歴史的蓋然性が有ったり特殊な必要性を伴うと判断されるべき現象である・一言語内で標準的であると、私の脳内にある複数の例(ゼロコピュラ"Zero copula"など。当記事で詳述せず)から考える。

2019年2月26日に当記事のためのイラストを描き、後に掲載した。
そこで「前者・後者」の解釈の記号法が示され、ゼロ記号(ヌル記号。または空集合 empty setに同じ)を用いる。

 その解釈法の記号表記
 ∅S (null-subject) + A (○○) + B (××) + ∅V (null-predicate か null-verb)






起草日: 20190118

絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、4,000文字ほどを打った。
この記事であっても『言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い』という「定性"definity; definiteness"」を示す内容となっている。
それは言葉の真理を志向する者が、当記事ならびに日常生活の言語表現を気を付けているならば、自然と分かるに違いない(私が説き示す定性などのことが真理だという意味でない)。

また、当記事における文例「お姉ちゃん、お菓子」は、当然、読点で区切って呼びかけの表現として「お姉ちゃん」がいるだけであり、「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子(合成語・複合語"compound")として解釈されることが無いように仕向けてある。
「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子については、合成語・複合語"compound"解釈と関連するが、それは複数の2017・18年の記事(1, 2, 3)に詳述されている。
複合語解釈の例として依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」や「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」や、持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」や、「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」などがある。
「お姉ちゃん、お菓子」として読点で区切っている状態であっても、「お姉ちゃん、それと、お菓子(お姉ちゃんandお菓子)」のように何か連想して並列したり、目の前の事物を並列したりする状況も想定されることは有り得る。

「そもそも論」だが、文"sentence"が何であるかの形式的説明は、その最小限の要素について「主語と述語"subject and predicate"の構成だ」、「名詞句と動詞句"NP and VP (noun phrase and verb phrase)"の構成だ」、「内容語と機能語"content word and function word"の構成だ」と一般的に言われている。
当記事の例文は、いわゆる非文・「内容語の羅列」と、その形式・規範の観点でみなされる。
別の観点では文としての機能があること、異なる発話者の言葉が一文を作ること、行動言語を含めて音声言語が一文を作ることなど、巨視的な文の構造を示すことも可能である。

※単に形態論と言語類型論の範疇で考えれば孤立語"isolating languages"・分析的言語"analytic languages"(漢文や現代の英語が典型的)のように語幹の羅列であっても語順"word order"に依存しながら、名詞でも動詞でもその意味を取ることができる。もちろん、それは日本語の文法規範に有り得ず、語順に依存せずに「お菓子、お姉ちゃん」でも、既述の「お姉ちゃん、お菓子」の意味と同様に取ることが可能である。e.g. 「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:欲しいよ)お姉ちゃん(A呼格)」、「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:あげるよ)、お姉ちゃん(A与格)」

当記事の例文に「お酒」を持ち出した筆者は今月(起草日の月)で22歳になるが、20歳になってからの2年でお酒の類・アルコール飲料(日本酒・ビール・ワイン・ウイスキーなど母親は飲むようなもの)を一口も飲んでいない(記憶が確かな限りは)。
筆者の近況については、日記メモまとめ記事をご覧になればよい。



2019年2月3日、「現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性」という関連記事を起草した。
それは随時に投稿される。
Permalink: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/02/indirect-verbs-in-japanese.html
語用論"pragmatics"