2019年3月5日火曜日

英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)

日付は東アジアで「年月日 (Y/M/D)」だが、同じ英語圏でもアメリカでは「月日年 (M/D/Y)」、イギリスでは「日月年 (D/M/Y)」となっている。
英語圏以外では、ヨーロッパの多くの国・言語圏がイギリスと同じ「日月年 (D/M/Y)」を用いる。
このような、日本人や東アジア人から見て「逆転された順番」は、日付の数字のみならず、言語表現の随所に見られる。

「富士山(Fuji-san, Fuji-mountain)」は"Mt. Fuji, Mount Fuji"となる。
ただし、「日本海」は"Sea of Japan"、「マン島」は"Isle of Man"として前置詞"of"を伴うので、今は異なるパターンと考えよう。
「安倍首相」と「トランプ大統領」は"PM Abe (Prime Minister Abe)", "President Trump"となる。
人名においても、日本人の安倍晋三"Abe Shinzō"は姓・名だが、アメリカ人・西洋人のドナルド・トランプ"Donald Trump"は名・姓であるため、もし日本人を西洋で表記するならばシンゾー・アーベイ"Shinzo Abe"となる(姓はsurnameやfamily nameといい語順の観点において西洋では「ラストネーム"last name"」だが日本では「上の名前"upper name"」)。
地名表記・住所表記においても、「東京都千代田区千代田1-1 (皇居の所在地)」は"1-1 Chiyoda, Chiyoda, Tokyo"となる。

これらの「逆転された語順」は、ラテン語の同格表現(英語で"apposition" 同格・同位・併置・並置などと翻訳される)における語順を慣習的に用いたものと考えてよい。
古典ラテン語や教会ラテン語といったラテン語では、"dies illa (その日。dies = 日 illa = それ。文法的に女性名詞・単数・主格が同じ。いわゆるディエスイレ"Dies Irae"の"irae"は単数属格なので異なる)"のような同格表現が、日本語に翻訳された表現と逆の語順であることが多い。
また、そのような語順は、ここで「西洋式」と呼称しよう。
日本語に一般的な語順は、ここで「東洋式」と呼称しよう。
"dies illa"の"illa (男性形: ille)"は後世のロマンス語系の定冠詞"definite article" (スペイン語el フランス語le イタリア語il)の語源となるような限定詞"determiner"・指示代名詞"pronoun"の用法である以上、同格表現の例としづらくもある。加えて、それは教会ラテン語などのロマンス語と共にある時代の言い回しである。「私たちの父"pater noster"」も"noster"が所有代名詞"possessive pronoun"で形容詞"adjective"のようでもあり、同格表現の例としづらくもある。日本語のカタカナ語で認知された古典ラテン語の同格語は一般的に存在しないので、ここでは古典ラテン語っぽい同格表現を挙げてみる。「都市ローマ=ローマという名の都市"urbs Roma (奪格にするとurbe Romaになる。古典ラテン語の長母音を反映すれば主格urbs Rōmaが奪格urbe Rōmāとなる通り、urbsのみならずRomaも格変化による母音の変化がある)"」(cf. NLG Bennet, C. E. sect. 169)。余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる(記事末尾を参照)。ラテン語でも梵語系統の言語でも、王の名など肩書を伴った人物の呼称には極めて高い頻度で同格表現が用いられる。英語では"King **"のみならず、"** the King"のような東洋式の語順で定冠詞を介するパターンもある。

カッコ内に先述のように"Dies Irae"の"irae"は、"ira"の単数属格であって"dies (単数主格)"と格"case"を異にしている。しかし、意味論的に同格表現と考えられるべきであり、その際に用いられる属格が「同格の属格(説明の属格とも)"appositional genitive, appositive genitive"」と呼ばれる。英語での日本海"Sea of Japan"やマン島"Isle of Man"も、格変化なき英語とはいえ前置詞"of"が「同格の属格」を表現している。ただし、当記事でいう同格表現とは異なるものと便宜的に区別される。

もちろん英語の"President Trump"を日本語は「トランプ大統領 Toranpu Daitōryō」のみならず「大統領トランプ=大統領であるトランプさん」のように西洋式の語順を借用すること(loan)もできると留意されたい。有史以来、日本は漢訳仏典から間接的にインドの言語の影響を受けて似たような表現をしてきた可能性もあるが、それは希少であろう。

ラテン語の同格表現と同じ語順の「西洋式」の表現が、現在の英語・ドイツ語=ゲルマン語系統や、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語=ロマンス語系統や、ロシア語・チェコ語=スラヴ語系統の現代語に、どれほど広く用いられるか不明である。
何らかの「西洋式」の表現が、それらの言語系統においてどれほど古い時代から用いられるか不明である。
イタリア語の料理名や音楽用語の中には、しばしば英語や日本語の一般的な表現と逆の語順が看取される(何とかピザ"*** pizza"=ピッツァ・ナントーカ"pizza ***"や、何たら作品=オーペラ・ナンターラ的な)。
そもそもイタリア語自体、"Lingua Italiana"と自称する名(Italianoという男性単数のみの名称も有る)が西洋式の語順(これは同格表現でなく名詞 + 形容詞)である(英語ではItalian language)。
"Divina Commedia"は、「神曲」というその日本語・中国語(または明治訳語の和製漢語など)での通称と変わらない。
現代のヨーロッパ言語は、一言語内でもごちゃまぜの様相を呈していると思われる。
ちなみにフランス語は"au"(à le) のような縮約形"contraction"の前置詞+定冠詞が「ガトーショコラ"gâteau au chocolat"」とか「カフェオレ"café au lait"」とかの料理名に含まれるので、イタリア語と異なる。日本語だとカフェオレは「コーヒー牛乳=コーヒー入りの牛乳」でも「牛乳コーヒー=牛乳入りのコーヒー」でも理解できてしまうが、ガトーショコラは"au"の料理に関連した意味に限定させると「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」という語順でのみ理解できる。もし「ケーキを混ぜて作られたチョコレート」だと焼き菓子入りのチョコレートとでもいうことになるか?答えは、元の言語の前置詞の用法に明瞭である。フランス語はあくまでも、前置詞を伴っているので「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」と、規範的な理解のみを許す。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語la mareは男性、フランス語il merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

ともあれ、現代語は、ラテン語以来の「西洋式」を現代でも守り続ける傾向がある。
果たして、ラテン語と文法が合わないか、ラテン語と疎遠になってきた現代語において、いつまでもどこまでも「西洋式」を用いる必要が有るか?



●日付表記における東洋式の合理性

日付に関してはデジタルな領域において、内部の処理では「年月日」が常識的に用いられる。
ただし、ウェブサイトの表(テーブル)やエクスプローラーなどに搭載された並び替え(ソート)機能が西洋式の言語圏では、日付の表示の見かけが「月日年」や「日月年」にされている。
当然、並び替え(ソート)機能で日付の昇順や降順を行う場合、「年月日」がその基準となる。
科学的合理性に倣うならば、日付はどこの国の人であっても「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」にするとよい。
2018年12月1日(アメリカでDecember 1, 2018)は、20181201 (2018-12-01)となる。
当ブログの「日記メモまとめ記事」の日付表示は、開始当初から年月日8桁方式である(ただしパーマリンクはJuly-2015や後に月名を短縮してDec-2018とする)。

ましてや、アメリカとイギリスという同一言語圏で異なった表記があるとは、非合理的な側面が強くなるし、他の「日月年」の国の人が英語を用いた時であれば、なおさら「月日年」か「日月年」か判断が困難になることがありえる。
もし政治的な主張をする人が"9/11 (9.11)"と知られる出来事=「2000年9月11日のアメリカ同時多発テロ」を単に"9/11"として書いて政治的な主張をするならば、「日月年」の国(ヨーロッパなど)の人が「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊」と混同するかもしれない。



●人名表記における東洋式の合理性

学術論文で出典を示す際に、その本文中に「ハーバード方式"Harvard referencing"」で出典が適用される場合が有る。
それは、"Parenthetical referencing"ともいって本文中における括弧での挿入行為を伴い、括弧内には参考文献の著者の姓と発行年(author-date)のみが表記される。
当記事を出典にする場合、当ブログ筆者の姓「横野"Yokono"」と投稿の年「2019年」のみで (Yokono 2019) と表記し得る。
そして、「ハーバード方式」が適用されても適用されなくても、みな著者の人名が参考文献のリストにおいて「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
その場合に、当ブログ筆者「横野真史"Yokono Masashi; Masashi Yokono"」は、"Yokono, M. (姓に大文字を当てる方式ではYOKONO, M.)"となる。
任意の西洋人名 (a common placeholder name) "John Smith"は、"Smith, J."となる(cf. 英語版Wikipedia - Parenthetical referencing)。
それが人名表記の学術的な基準として世界的に浸透している。
姓は基本的に一つだけなので、これが強調されることは合理的であるためと思われる。
英語ではカーネル・サンダース"Colonel Sanders"とか、プレジデント・トランプ"President Trump"とか、クイーン・エリザベス"Queen Elizabeth"とか、エンペラー・アキヒト"Emperor Akihito"とかと、何の名称のどの部分が姓なのか名なのかその他なのか、言語知識の薄い人には判断しづらい状況も有ることを思えば、学問においては判断しやすく表記すべきことが自明の理である。
王侯貴族などの高貴な人の名は日本の諡(おくりな)・諱(いみな)のみならず、後述の古代ローマの"cognomen"など、複雑だったり多様だったりする。それ以上に、現代の英語の人名表記は、英語の言語習慣を把握しきれていないと、無茶苦茶であろう。

学術論文に採用された姓の表記は、インド学・言語学などの学者である「モニエル・モニエル=ウィリアムズ"Monier Monier-Williams"(ハイフンの用法に注目)」のような名前(本来の姓WilliamsにMonierが加えられて新しい姓Monier-Williamsとなった)も、学問分野を異にするような初見の人にとって判断しやすい。
彼は学術論文の参考文献のリストで同様に"Monier-Williams, Monier"などと表記される。
著者は誰であっても、西洋人であっても、日本人や中国人や朝鮮人=東アジア人と同じく、人名が「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
これも「東洋式」である。
学問においては、「東洋式」の語順こそが合理的であると断言できるし、すべからくそうあるべきである。



●グローバリズムに言語における合理性を適用する

この「グローバル」とやらの時代であるならば、英語は中途半端に言語の習慣を守ろうとせず、日付と人名との正統な表記において東洋式の語順に統べた方がよい。
日付は「年月日」が東アジアや他の国やデジタルな領域などで用いられても、「年日月」はどの時代のどの言語も用いることが無かったし、英語圏における混乱と同じ現象はほぼ起き得ない。

現代の英語は、ヨーロッパのみならず世界中の言語の影響を受けている。
アメリカ英語の母語話者やイギリス英語の母語話者が他の言語・文化から影響を受けるのみならず、世界中の英語を外国語として用いる者が英語に各々の言語・文化の独自性を持ち込んでもいる。
古い時代でさえ、同一言語の同一性は徐々に失われて緩急はともかく変化しつつあったが、現代ならば尚更、無秩序な変化が起こり得る(人間の体格や顔つきが往古より食文化と共に変化の速度が速まることに同じ)。
無自覚・無意識のままに無秩序な変化が起こることは構わないが、どうせならば、言語を科学的に把握して意図的に変化させても良かろう。
英語は、「グローバル」とやらの時代において、より合理的なものに向上させることができる。

英語の語順は、上記の例について、全て西洋式・ラテン語の同格表現もどきを、東洋式に改めることができるし、その方が合理主義的に好ましい。
無論、これは一つの「言語に関する自覚」を示すのみであり、私の願望ではない。
私が願望は、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。



●西洋式の古い慣習的な利点

ところで、「西洋式」の語順がそれとしてヨーロッパなどの言語(セム語派であるヘブライ語・アラビア語などにも見られる)に確立したことには、その原初に利点があったのではないかと思う。
「西洋式」の利点は、発展してゆく文明における言語の用い方(文脈・コンテクスト・コンテキスト"context")を想定した際に挙げることができる。

例えば、昔の西洋や中東の人は名乗る際に個人の名のみを挙げることが多いので、「私はガイウスです(古代ローマの名 praenomen)」とか「私はヨハネです(過去のヘブライ語やアラム語のようなセム語圏に多い名 後世の英語でジョン"John"となる)」とかと言われても、同名の人が多くなる場合に「誰々の子の~(son of who)」とか「どこ出身の~(from where; born in where)」とかと後から言い直す必要がある。
ラテン語的には「ガイウス・ナンタルス(何たら氏のガイウスさん・男性)」とかのようになる。
「ナンタルス」という部分は姓(surname, family name, last name)であり、古典ラテン語を用いた時代の古代ローマでは"nomen; nomen gentilicium"という。
この姓よりも更に後ろに来る"cognomen"もあり、同じ氏族でも家(分家、同じ兄弟でも新しい家族に成ったりするような場合がある)ごとに区別できたりする(cognomenの後ろに"agnomen"がある人もいる)。
姓と名とを備えた人名は、一部の文明において、その内の高貴な人に限られるかのようにも言われるが、それはどちらでもよい。
何らかの言語(そもそも言語の伝播は特定の文化性・経済性・政治性に拘束される)の話者が、そういう人名の名乗り方をしてきたことは考えられる。

地名についても「ここはムーラです」とかと言われても、同名の土地が多くなる場合に「どこ地方の~ (in which region)」とか「どこ国の~(in which country)」とかと後から言い直すことになる。
単に「Aさん: アレはどこにありますか? Bさん: 私の家です」という話であっても「Aさん: それ(Bさんの家)はどこですか? Bさん: ムーラにあります、エムーラ地方の(あえて英訳すれば It's in Mura, Emura.)」と言い直す。
これらは話し手が認知する最も身近な・最小単位のものがまず挙げられ、その後に補足する必要が有れば「誰の・どこの・どのような」といった情報が必要になる。
これはラテン語や英語などで、疑問代名詞と関係代名詞に発音の共通が多いことに通じる(梵語は疑問代名詞と別にयद् yad系の関係代名詞があり、古代ギリシャ語も同様。英語は限定詞・指示代名詞から派生したいわゆる制限用法の関係代名詞thatがある点も注意したい)。
日付についても「その日は何日です」、「それは何月の?何年の?」として、そういった言語の用い方を想定できるが、現代人だと「私は(西暦)1980年生まれです」くらいが普通なので必ずしもこの話には合わなかろう。東アジアでは干支=六十干支を用いて「〇〇の日」というような場合も多かったろうが、大概は先に「元号〇年」が伴う。

こうした言語の用い方を想定するならば、その言葉のやりとりにおいて、自然と「名・姓」や「都市名・国名」といった「西洋式」の語順が都合の良い場合も考えられる。
しかし、現代文明では、他ならぬ「西洋式」を用いる言語の人たちが「西洋式」の合理性を考え直さねばならない一面を抱える。
西洋の現代語は、ほとんど前置詞を用いることによってその語順で説明ができる。
前置詞を用いない場面では、「東洋式」の語順に切り替えることも可能である一面が多いと考慮できるし、先述の通り「デジタルな領域」や「学術論文」に東洋式が浸透している。
日付の表記においても、先述の通り、「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」や、その類似の表記が浸透しつつある。

日本人は、手放しにアメリカンスタンダードに迎合せず、東洋式の優れた側面を自覚した方が良い。
西洋人は日本人が思う以上に姓名表記を尊重しているであろうし、日本人や中国人などは自然な流れで東洋式の姓名を用いて問題は無い。
無論、西洋式のような名・姓の順に則る人々に東洋式の順を強いることはできない。
日付にしても人名にしても多くの同格表現にしても、2019年現在、東洋式の使用のために状況を選び、直感的に語順の特徴が意識されやすくなるための配慮を要する。
私は、この「言語に関する自覚」を示すのみであり、急進的な行動を望んでいない。
私が望むこととは、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。






起草日: 2019年1月28日

英語の語順・統語論のうち、同格表現の現代的用法(土地・日付・人名など)における伝統的な側面を、当記事で示した。
同格"apposition"とは、その英語の文法用語の語源について考えると、ラテン語の"ponere (直説法一人称能動態単数でappono)"に前置詞もとい接頭辞ad- (~へ、~に向かって、英語: ~に近い)が伴った"apponere"という、単に「置く・並べる・加える」などの意味である(接頭辞ad-は梵語接頭辞ā-と同じように能動的な意味を付加するに過ぎず「同」という漢字の意味は薄い)。
その"apponere"の派生語が"appositio"であり、英語では"apposition"(フランス語と綴りが同じだが中英語の時点ではもっと発音に近いapposiciounだったので後世に修正されたろう)となる。
ただし、ad-が日本語の促音便のように長子音(gemination)となってap-と変化を受ける(古典ラテン語発音でアド・ポスィティオー→アッポスィティオー)。
日本の外来語に「ポジション(位置・地位などの意味)」という言葉があるが、当然、"apposition"の "position"部分に相当する。
何が言いたいかといえば、「同格」という"apposition"の訳語において、「格変化"case change"」という時の「格"case"」は"apposition"という語に見出せないという点である。
ラテン語や梵語など、インド・ヨーロッパ言語(印欧語)の古典語で一般に見られる格変化の道理からすれば、それらの言語で実際に用いられる同格表現は確かに「格"case"」が揃っているので、意訳(semantic translation; free translation)としては「同格」が妥当な場合も有ろう。

しかし、ともすると「格」という言葉を英語知識しか持たない学習者が「格式・品格・人格・性格の格(もし英語にすればstatus, rank, character...)」などと、現代日本人の言語感覚で民間語源的に解釈すること(語呂合わせ)となりかねない。
無論、それでさえも英語しか外国語学習をしない人を対象にする説明としては、理解しやすい場合も有ろうが、小賢しい学習者は誰も腑に落ちないと思われる。
とりあえず、「同格」という"apposition"の訳語については、意訳(semantic translation; free translation)の側面が強いことについて考慮しておきたい。

同格表現に関する様々な情報(辞書・文法書・各種文献)を載せているページがあるので以下に示す。
古典ギリシャ語(古代ギリシア語)・ドイツ語の話題もあるが、そこでは必ずしも同格表現が「同じ格"case"になる」とは限らないことが示されてもいる。
2006年9月1日: 「同格: ta meta ta phonetika」
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2006/09/post_d8b5.html



以下に載せる※印の文は、記事本文に挿入しようとも込み入っていて長くなるので私がそこに掲載しなかった文である。
文献についての検証が不正確でもあるため、興味のある者が各自で検証すると、各自の学習のためにもなろう。

余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる。その語順は「西洋式」の場合と日本語のような「東洋式」の場合とが混在している。梵語系統では、平叙文の「〇〇は××だ」と表現する文においてコピュラ動詞・存在動詞を用いずに「○○××」と表現できる。この「○○××」が梵語系統の平叙文であるならばよいが、これが一文の名詞句に過ぎない場合、同格表現とも解釈できてしまう。梵語系統はラテン語のような西洋式の語順で同格表現をするように限れば、理解しやすい。無論、梵語典籍はその語順の制約を受けていないので、その読解は難しくなる。パーリ語の経典のうち、相応部22.100経の冒頭に「比丘たちよ、この輪廻は無始である"Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro."」とある。bhikkaveは呼格なのでさておき、Anamataggoyaṃとsaṃsāroはいずれも主格であり、Anamataggoyaṃは連声・サンディの状態をほぐしてAnamataggo ayaṃという主格の2つの単語を読み取ることができる。ayaṃ saṃsāroこそが「これは・輪廻は=この輪廻」という同格表現である。「これ"ayam"」という言葉は単に名詞や代名詞の主格ではなく限定詞のようなものであると取れば同格表現とし難いが、これは日本語と同じ「東洋式」の語順である。同経の他の同格表現には名詞 + 名詞の主格「これは・心は=この心は"idaṃ cittaṃ"」がある。形容詞 + 名詞の処格「強固なものに・柱に=強固な柱に"daḷhe khīle"」もある。同じくパーリ語の経典では名詞 + 形容詞「王は・マガダのものは=マガダ国の王は"rājā māgadho"」という語が見られ、肩書の名前などにラテン語と同じ「西洋式」の表現が見られる(長部2経など)。他に「王は・パセーナディは・コーサラのものは=コーサラ国の王パセーナディは"rājā pasenadi kosalo"」という、英語話者は2・3番目の語の間に前置詞"of"を入れれば理解しやすい例も有る(相応部3.1経など)。「王パセーナディ」とは、漢訳仏典で著名な「波斯匿王(はしのくおう)」であり、漢語・日本語とは語順が逆である。ただし、原点のような「王波斯匿」という語順も少なくはない。「西洋式」の同格表現が他の梵語系統に見られることに興味がある者は、何かしら例文を集めてみるとよい。ところで、複合語の一種である同格限定複合語は、梵語のそれ=持業釈"karmadhāraya (パーリ語でkammadhāraya)"だと「名詞A + 名詞B」の語順は日本語・漢語とそのまま同じであること(e.g. sākyamuni, śākyamuni 釈尊)に対し、片方が形容詞である場合にラテン語(もしくはセム語派であるアラビア語)の「名詞 + 形容詞」の語順が多く見られること(karma + dhāraya 持業釈という文法用語そのものに見られる)も付記する。姓名については、「ガウタマ・シッダールタ=ガウタマ氏(姓)のシッダールタさん」のように日本語と同じである。言語にはイレギュラーな事項も伴う傾向があるので、それも考慮すると、いつも同じことは言えないが、一応、規範的に、梵語系統は以上の特徴が窺える。

参考までにスペイン語で「イタリアのマッタレッラ大統領 or イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏」を表現すると"el presidente italianoSergio Mattarella"となる。ポルトガル語で「アメリカのブッシュ元大統領(子の方)」を表現すると"o ex-presidente americano George H.W. Bush"となる。同様に「アメリカのトランプ大統領」は"o presidente americano, Donald Trump"である。コンマ (, comma) の有無が例によって分かれることはここで論じない。

関連ワード?: 社会言語学"sociolinguistics" 固有名詞部分の話ではないが地名学"toponymy" 人名学"anthroponymy" 歴史言語学"historical lingustics" 認知言語学"cognitive linguistics" 語用論"pragmatics" 言語類型論"linguistic typology" 統語論"syntax"

P.S. 統語論では、文法事項である形容詞句"adjective phrase, AP"における形容詞"adjective"・名詞句"noun phrase, NP"における名詞"noun"といった句"phrase"を構成する成分である「主要部"head" (e.g. 名詞句に形容詞と名詞があるならば名詞が主要部)」について、言語ごとに主要部の位置が異なるとする。
言語類型論では、当記事に示される名詞句を構成する成分(形容詞や名詞や同格表現)の語順について、日本語は主要部後続型(head-final または主要部終端型)言語とされるので、当記事で対比されるようなラテン語・イタリア語は主要部先行型(head-initial または主要部先導型)言語のように見えるが必ずしもそう言われないらしい(head-directionality parameter)。
英語は、既述の通り混在しているが、主要部先行型言語とされる場合が多いものの、細かい分類では主要部先行型言語とされない(されるものはアイルランド語・マダガスカル語、筆者は詳しくない)。



追記: 2020年4月17日

中英語"apposicioun"という単語は、用例が1ないし0のハパックス・レゴメノンや幽霊語の類であるかもしれないと思った。
または、文法用語として中英語でもラテン語でも用いられた例を私は見たことが無いと思った。
そこで、中英語"apposicioun"の文例を可能な限り探すと、2件見当たった。
Neuermore be made scarificacioun bot if apposicioun
—謎。Hans Kurath, Robert E. Lewis名義で出された Middle English Dictionary に載る。掲載サイト: Google Books

That thou next at this apposicioun, (他の表記: þat þou next at þis apposicioun)
Whiche in the signe shal be of the Lion, (他の表記: Which in þe signe schal be of þe leoun)
—西暦1400年没 Geoffrey Chaucer による The Canterbury Tales (カンタベリー物語) 所収の"The Frankeleyns Tale";1行9音節で韻を踏んだ詩の中だが原典で前の2行は音節数が異なる。掲載サイト: 1, 2

この2件が、文法用語として用いられているようには見えないが、何らかの著名な辞書が中英語での語形として挙げるに足る量があることは明確である。
追加で探すと、Middle English Compendium というサイトの項目で、"Hou knos þu a preposicion? A party of spech þe wech ys vndeclynet and ys set before oʒþer partys of spechys togedyr in apposicion and composicion."が載っていたが、これは文法の話題に見える(1450年ころとされる Peniarth Accedence が典拠というが情報が少ない)。

当記事を見直した理由は、以下の報告をブログ内のどこかに—現状は未定だが—記したかったためである:
漢文「A即B」という表現は、しばしば「AすなわちB」と訓読されるが、同じ訓読の「A則B」「A乃B」「A輒B」などと意味–用法で区別される。
漢文「A即B」は「BであるA」・「Bという名のA」という意味を持っていると感じることがあった。
つまり、同格表現の標識–マーカー (appositive marker) ではないかと思った。
これは何らかの文献の文脈から、意味論的に取ることができる。
英語Wiktionary "即" (oldid=58958461)は、同格表現の意味にある"namely; that is; to be the same as; i.e."を「即」の定義の1つに加えている。
そこでは現代中国語と中古漢語といった時代の差が示されていないことに注意を要する。

2019年2月17日日曜日

現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性

承前→「現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。



現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
好き嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。

いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。



日本語の自動詞・他動詞に関する概説

そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。

他動詞の例は、自動詞に相対する形で「消す"kesu"(消える、に相対する)」がある。
「消す」に相対する自動詞である「消える"kieru (文語の下二段活用の終止形: 消ゆ"kiyu")"」は「-える語尾 (-eru ending)」であり、これは元々、古文の助動詞である「-ゆ(自発・可能・受け身などの意味 e.g. 見ゆ⇔見える)」に由来すると思われる。
一方で、その「-える語尾」と発音が一緒でも語源が異なるものに、他動詞である「変える"kaeru"(文語の下二段活用の終止形: 変う・変ふ"kau, kafu; kapu")」がある。
これは「変わる"kawaru (歴史かな: 変はる kaf-aru; kaparu)"」という自動詞や、「変えさせる"kae-saseru"(文語の下二段活用の終止形: 変えさす "kae-sasu"または変えせしむ"kae-seshimu")」という自動詞の使役形に相対する。
その英語"to change"は"to move"に同じく、他動詞と自動詞のどちらでも用いられる(私は○○を××に変えるor変えさせる⇔私によって〇〇は××に変わる)。
日本語でいう他動詞も自動詞の使役形も一様に"transitive (他動詞)"として区分されるが、日本語では「変える・変わる・変えさせる」という三種が並立する以上、日本語学の内にこの三種を語形の論理(語彙論・形態論)として立てる必要がある。
「〇〇が××に変えさせられる」や「本が読まれる・〇〇は(彼にとって読まれたくない)本を読まれる(後者は自動詞の受動態="adversative passive")」や「泣ける・泣く・泣かせる(下二段活用: 泣かす)」に対する「泣かれる(自動詞の受動態="adversative passive")」等の受動的な表現(受動態"passive voice")はここで含めない。
自動詞の使役形である「変えさせる」を英語に直訳する場合、同様に自動詞のchangeを用いればよい。「私は彼を変えさせる」ならば「私は彼が変わるようにさせる」と改めて"I make him change."のようにする。この時の"to make"は二重他動詞"ditransitive"用法であり、これは日本語における自動詞の使役形を作る「~あす語尾(-asu ending)」に類する。英語版Wiktionary - makeにも"You're making her cry. (あなたは彼女が泣く-状態-にさせている=あなたは彼女を泣かせている)"と例文を載せている。その役割は、「自動詞の状態にさせる」ということだが、「自動詞の行為の原因を作る」こととも言える。

「泣く」は自動詞なので、本質的に受動態は無い。誰かが泣くことはその人の精神と肉体に終始していて他者が被動者"patient"として行為を及ぼされる道理は無いためだが、現代日本語では「泣かれる」という受動態の述語表現が有る。つまり、誰かが泣くことによって主語・ゼロ主語の人物が被害を受けること"adversative passive (被害受身 negative passive; 間接受身 indirect passiveとも)"であると言える。これは"adversative passive"の文法を持った日本語ならではの受動態である。「○○は雨に降られる」といえば、「雨が降る(雨が意思を伴って自身を降らす・降ろすわけでないが)」という自動詞の現象を見るなど五感で受け、○○=文の主体事物"subject of the sentnce"は何らかの被害(金銭や外見を損なうとしても究極的に精神的な被害)を受ける(他者であればそういう同情をする)ということである。"adversative passive"の受動態動詞は、元が自動詞である場合にこそ、有り得る。そのために「○○のいる時間のその場所で雨が降った」という事実認識の表現とは別に、「○○は雨に降られた」という自動詞の受動態という表現をする。また、被害を受けるという意味合いは基本的なものであり、もしそこで文が終わらずに別の節"clause"に接続されるならば必ずしもその文意に繋がらない。例えば、Alfonso, A. 1966 (Japanese language patterns: A structural approach)にA「綺麗なお嬢さんに泣かれるとちょっと嬉しいものだ"It's kind of nice when a beautiful girl cries because of you."」やB「風に吹かれながらショーウィンドウを覗いて歩く"I walk along in the wind looking at the shop windows."」という例文が挙げられているそうだが、これは「泣かれる"と"」や「吹かれ"ながら"」として接続助詞"conjunctive particle"「と・ながら」が伴って別の節"clause"になっており、被害を受ける表現には繋がっていない。添えてある英文は、そのAlfonsoか誰かによって取られた意味であり、必ずしも正確でない。「綺麗なお嬢さんに泣かれると、それが私or誰かにとっては嬉しい気持ちにさせるものだ」という主観的な意見の提示が主節"main clause"になってしまい、受動態の述語が従属節"subordinate clause"に追いやられている。もしBの文の語彙のまま従属節と主節の立場を変えるならば「私が歩いている"と"風に吹かれる」という文末・主節の自動詞受動態たる"adversative passive"となる。例文A・Bは、文末・主節・独立節"independent clause"の自動詞受動態たる"adversative passive"と明確に異なる。つまり、Alfonso例文Aのように「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)嬉しい」と感じる人もいるという意味に限らず、「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)困る」という意味にもなりえる。同様に「私の愛人に送る手紙が(を)愛人に読まれると私は嬉しい」とか「私の愛人に送る手紙が(を)その他の者に読まれると私は恥ずかしい」という二者(orそれ以上)が有り得る。要するに"adversative passive"は、文の主体事物(主語かゼロ主語)が、その「される(受動態・所相の述語)」ことによって、究極的に当の主体事物=人物の精神において目的に適えば嬉しく、目的外であれば困る感情表現であるといえる。そのように複数の節を用いることで、「このことが(を)ケンに知られるとユータは喜ぶがケンは悲しむだろう」という二種類を込めた言い方もできる。受動態の用法によって「読む・知る・聞く」も、英語の"to readto knowto hear"のように他動詞のみならず自動詞の用法も有ると分かるし、日本語では助詞と節のありようで"adversative passive"を作ることができる(「泣かれる」が「お泣きになる」という敬語・尊敬語の用法は排除した上での話)。なお、自動詞が自動詞である原理(行為とその対象範囲の同一性の自覚)を応用すれば、一切の他動詞は自動詞の用法を得るが、この話は哲学的なので(cf. ātman 自己 ātmanepada 自動詞or受動態or中動態 インド哲学とサンスクリットの文法理論の相違性や類似性に関する話)さておく。

簡単に好例でまとめてみよう。「立つ」は自動詞であって「う語尾 (-u ending)」である。「立てる」は他動詞であって「える語尾 (-eru ending)」である。「立たすor立たせる」は自動詞の使役形であって「あす語尾 (-asu ending)」もとい使役・尊敬の助動詞「す」に由来する。これらは動詞の3種の区分にあり、私は受動態を省く。「立たれる(文語終止形: 立たる)」は自動詞の受動態(受身の形)であり、「立たせられる」は他動詞の受動態であり、「る語尾 (-ru ending)」もとい受身・尊敬の助動詞「る」に由来する。前者=自動詞の受動態は主に"adversative passive"用法である。「立つ・立てる・立たす・立たれる・立たせられる」といった動詞は、形態論でいえば"to stand"の意味のある「tat語根or語幹 (tat- root or stem, 語根であれば√tatとも)」を共通して有する。

サ行変格活用(サ変)の動詞は、漢語・漢文の原義からすれば、自動詞・他動詞いずれも有り得る。
五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」と、サ変活用「化す・課す"kasu"」とは、動詞の発音が同じでも、後者が漢字の音読みに由来するため、本質的に異なると知った方がよい。
i.e. =呉音・漢音「タイ tai」訓「か-す ka-su」、=呉音「ケ ke」漢音「カ ka」、=呉音・漢音「カ ka」 五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」は終止形と連体形が同じだが、サ変活用「化す・課す"kasu"」は終止形が「-す」で連体形が「-する」と異なっている
「貸す」は「借りる"kariru"(文語: 借る"karu"。文語では四段活用だが後世に下二段活用と混同されて下一段活用になった cf. 飽きる⇔飽く)」という他動詞に相対して自動詞の使役のみであると分かるが、「化す・課す」のうち「化す」は「彼は○○と化す(文語的)・彼は〇〇に化ける=化ける(自動詞の使役形ならば"化かす"がある)」という英語"to change"の自動詞用法に当たる用法も有ることを知るべきである。
「変化する"henka-suru"(文語: 変化す、仏典の語で"変化す henge-su"とも言える)」というサ変動詞は変化させるという他動詞の意味も担うはずが、現代日本語では語源意識が希薄なので、文字通り「変化させる」という自動詞の使役形がある。訓読語であっても「変化せしむ"henka-seshimu"」と言った方が伝わりやすいかもしれないが、それであれば元の漢文に「令〇〇変化(令〇〇變化)」とあったほうがよい(訓読: ○○をして変化せ令む)。

現代日本語の述語はその3種の動詞に加え、4番目の位置づけとして文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉(動詞連用形由来の名詞・形容詞)が挙げられる。
「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉は感情表現の述語に用いられる。
なぜ「○○は××を好く・嫌う・恐れる(文語終止形: 恐る)・欲する(文語終止形: 欲す)」という他動詞の類で画一的なSOV構文で済むところを、「〇〇は××が好き・嫌い・怖い・欲しい」と言うか?
日本語で古代からどのような文・センテンス(文章的な構造を持った言語表現のことであって必ずしも記述された文章である必要はない)が話されてきたかは知り難い。
私は、これが婉曲的な言い回しであるように感じている。
婉曲的な言い回しとは、例えば、「する」という意思による行動をあたかも自然の成り行きであるかのように「することになった」と言う。謙遜表現・謙譲語で「いたす・いたします」という意思による行動をあたかも相手の了承が得られていることを決めつけるように「させて頂く・させて頂きます」と言う。これは他の現代日本語の特徴に似ている。これはまた、結果であれ過程であれ日本人の、その価値観と関連する(少なくとも「することになった・させて頂く」は他国の言語に見づらい表現)。これはあくまでも筆者の私見であり、筆者による類比である。現代日本人の大半は、どんな表現であれ、意味論的に認識して用いず、専ら役割を持たせた語用論としての形骸化した言い回しで用いることに注意すべきである。



グルジア語との比較・類比

南コーカサス語族(カルトヴェリ語族)に、グルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)がある。
グルジア語は能格言語や活格言語のようであり、分裂能格"split ergativity"を持つ。主語・目的語に付随する標識(マーカー"marker")の用法のことである(格接辞や日本語の格助詞に相当)。それにより、自動詞や他動詞やそのほかの動詞に関する文法的な位置づけが明瞭になる。グルジア語の場合は標準的に主語が日本語や英語と同じ主格であるが、他動詞が完了相または完了時制のようないわゆる過去形の時に限って主語に能格"ergative case"の標識が付く。能格性は他のコーカサス諸語(南・北東・北西の各語族)にも顕著(南は分裂能格のみで北東はチェチェン語などが能格言語で北西はアブハズ語などが能格言語)である。また、動詞の活用にはラテン語や梵語や古代ギリシャ語と似た行為者の一人称・二人称・三人称の区分が徹底されるが、被動者(patient)の標識を含めて一つの動詞とする点(筆者は学習不足なので不明)で、抱合語のような特徴にも注意を置くべきである。

英語版Wikipedia - Georgian verb paradigm記事には、"Georgian has four classes of verbs: transitive, intransitive, medial and indirect verbs"とある。
transitive と intransitive と medial と indirect という4種類の動詞を挙げている(Hillery, THE GEORGIAN LANGUAGEのサイトと類似の内容)。
このうち、"indirect verbs (直訳: 間接動詞)"について注目したい。
グルジア語の文法でも、感情表現の述語もとい動詞が普通の他動詞や自動詞とは別物と区分されているようである。
ただし、それは日本語の文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉と異なり、普通の自動詞や他動詞と同様の活用を持つ。
その記事のClass 4 (indirect or 'inversion' verbs)節から少し、引用する。
Class 4 (indirect or 'inversion' verbs)
  • This class of verb is known as indirect or 'inverted' as it marks the logical subject with the indirect object marker set (m- set) and the direct object with the subject marker set (v- set). Nouns are declined in agreement: the logical subject is in the dative, and object in the nominative (or sometimes genitive, as in gogo-s (dat.) dzaghl-is (gen.) e-shin-i-a - the girl is afraid of the dog).
  • Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs), including verbs such as q'av - to have (X, animate), kv - to have (X, inanimate) q'var - to love and nd - to want.
  • Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring), created using the circumfix e- --- -eb (compare tsek'v-av-s 'he dances' and e-tsek'v-eb-a 'he feels like dancing').
The verb paradigm follows. For simplicity, the verb form always assumes a 3rd person singular object: Verb root q'var - to love (筆者注: 前class 1から3では不定詞の形"infinite form"が併記されていたがここにはそれがされていない)

この区分のグルジア語の動詞の文例に"გოგოს ძაღლის ეშინია. The girl is afraid of the dog. (英文の逐語訳: その少女はその犬について恐れている。 意訳: 少女は犬が怖い)"を挙げているし、他の語彙として"to love"や"to want"を挙げている。
"to have"に関しては恐らく「私には○○がある」と言う時の"I have *** (直訳: 私は○○を持つ)"の意味を指すものと思われる(cf. ラテン語: *** mihi est. 文法上の主語である***が3人称の単語であるためその述語の動詞「ある」はestのような3人称の活用となる)。
その区分の動詞の活用を示す際に動詞語根"q'var (グルジア文字: ყვარ)"を例示している。
これは英語で"to love"、「愛する」という意味である。
「愛してるよ」・「君のことが好きだ」という日本語を英語で"I love you."というが、グルジア語では"მიყვარხარ miq'varxar ミクヴァルハール (mi-q'var-xar ミ・クヴァル・ハル)"となる。
q' の字(qにアポストロフィ。別の翻字体系でq̇)で表されたグルジア文字" (ムヘドルリ体)"はq'ariといい、無声口蓋垂放出音(音価のIPA: [q'])である。単語例"მიყვარხარ"に対して慣用的なカタカナ表記を付したが、後でインターネット上の音声を探すと、一例には「ミグヮルハル(migwarhar)」のようにV音が接近音か唇音化 [ʷ] らしく聴こえる(前の音ყ = q'と合わせて有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] にも聴こえる)し、無声口蓋垂放出音は有声軟口蓋破裂音 [ɡ] のように聴こえる。まあ「愛している"a-i-shi-te-i-ru"」を「愛してる"ai-shi-te-ru"」のように発音する現代日本語と同じように口語的な簡略発音(母語話者にとって他に弁別される類似発音の語が無く形式的に聞かれるフレーズを想起しやすいため)は有り得ると思われる。また、その例と他の例はともに代名詞"I, you"に当たる主語と目的語とを先に言って"მე შენ მიყვარხარ (me shen mi-q'var-xar メ・シェン・ミクヴァルハール)"としている点、「僕は君のことが好きなんだ(我、汝を愛す)」くらいに具体性を伴っている。"pronoun drop (pro-drop)"の類である。

これらを便宜的に"Class 4"と位置付けて"Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs)"という。
また、"Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring)"といって「~のような感じだ(~のような感じがする feel like ***)」という表現も含まれるという。
このグルジア語の動詞の位置づけの一つは、日本語の述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉に近い可能性が有ることを付記する。
関連する言葉は日本語も英語もグルジア語も概して自動詞のようだが語源が他動詞である表現かもしれない。
英語には先例の"to be afraid... (その例文: ワンワン怖いよぉ)"以外にも"to be shamed... (e.g. 人前は恥ずかしいよぉ)"がある。調べてみると、中英語以前(-12世紀)はもう少し、多くの動詞は今ほど他動詞が多かったわけでないという情報もある(cf. 鈴木, 2014とそこに示される中尾, 1972や大沢, 2000)。古英語やゲルマン語の古層に関して、興味が有れば調べてみるとよい。

この英語版Wikipediaの記事は、出典に乏しく、文献の参照の程度が不明瞭であるものの、書いてあることをそのまま信じれば、グルジア語の動詞は4種類あり、現代日本語の4種類の述語表現(他動詞・自動詞・自動詞の使役形・感情系述語表現)と綺麗に対応しそうである。
何らかのグルジア語学習の教材にも、恐らく同様の説明がされていると考えてよい(cf. 横井, 2000 グルジア語概観およびHillery, THE GEORGIAN LANGUAGEおよびAronson, 1990 pp. 332-369 Class 4についてはローマ数字でIVという表記例も多い)。
他の比較対象に、いくつかの西洋言語を取り上げてもよいが、扱いに困る。「私は××が好きだ"I like ***"」という表現は右のようになる、という例示のみをしよう。フランス語"Il me plaît ***", ドイツ語"*** gefällt mir", ロシア語"Мне нравится ***" これらのうち日本語文の「私は」にあたる語は、みな与格"dative case"(fr: me, de: mir, ru: мне)であり、そのような構文で共通している。グルジア語の文例で"გოგოს ძაღლის ეშინია (その少女はその犬について怖がる⇔その少女へその犬が怖がらす?その少女にその犬が怖がらせられる?)"も同様である。これらは与格構文"dative construction"だといわれ、本来は間接目的語に使われるような与格が英語や日本語の文における主語になっている(斜格主語"quirky subject; oblique subject")ために倒置構文ともいわれる。ただし、上掲の例におけるフランス語などの文の人称代名詞の与格用法と、グルジア語の文の名詞の与格用法とがどれほど類似しているか、筆者には判断しづらい。



感情表現・幼児語の正統性

「好き・嫌い・怖い・欲しい」という人間の感情は、あらゆる動詞に同じく、文法の規範によって表現できるものの、人類言語の原初(単一発生の場合も不干渉複数発生の場合もあるがそれはどれでもよい)には文法の規範が確立されていなかったろう。
心の現れとして、感情表現のために言語が用いられた当初、どのように動詞概念が有ったろうか?
自然の事象と、自覚された感情との二者は、どのように類似するものとして理解されたか?
古代の言語について考えなおす判断材料になると思う。
文法の規範や論理性を重んじる人や、英語中心主義の人は、現代日本語・口語の表現が稚拙で乱れたものと考えるであろう。
確かに漢語・印欧語など、文献的には紀元前から発達していた文明(例証として日本語よりも古い時に作られた文献が多い)で用いられる言語は、それだけの言語的な質・量を得ている。
しかし、それ以前の印欧祖語の存在性は不明確であり、印欧祖語以前の同型遺伝子の民族や同時代の他の民族において、どのような言語が用いられたかは、全く確証が無い。

cf. 元記事 述語省略の例文「お姉ちゃん、お菓子(人物への呼びかけ + 何らかの名詞)」
あるいは複合語「お姉ちゃんお菓子」としての解釈
依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」
持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」

もし何らかの言語がそれらの先史時代の民族に用いられていてその言語を推定したいならば、古今東西の言語を学び、知悉する必要がある。
英語において、主語・述語・目的語に関する規範的な用法でさえも古英語のころからが有ったか、最低限、残っている文献("Beowulf"など)だけでも読んで理解されるべきことがある。
言語に興味を持つ者にとって、課題がまだ多い。
私がいつもこの意志を保てるわけでないにせよ、かなり課題が残されていると自覚する。






起草日: 20190203

元記事と同様に、絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、6,000文字ほどを打った。
中卒無職(22歳)である私が、向学心によって学問を進めている。
エリート主義・権威主義的には「学問に置けない・不倶戴天の存在」かもしれない。
例えば、野良犬が狂犬病(rabies)などの伝染病(epidemic)を媒介したり、農作物・備蓄の食害を起こすことで、現に人間の生活(住環境や家畜の生育)に害をもたらすようなものである。
これは野良犬についての偏見と人間的な功利性を伴うが、あくまでもそれを認識した上での譬喩である。
「野良犬にも似た私の学問」が、エリート主義・権威主義的には忌避されると思われる。
私は学術用語・概念をどうにか駆使し、「野良犬かつ雑種犬が新しい血統の犬種と認められる」かのような努力を続けられるとよい。

本文中の※印注釈に関連した備考→『受動態(受け身・受身)・被動者の英語はラテン語由来の"passive, patient"である。いずれも語頭pa-であるしラテン語の語源(不定詞: pati 苦しむこと)が共通している。ところが、日本語の漢字名称は語頭の字が受・被で異なっている上に、受身は「うけみ」という訓読みである。"adversative passive (indirect passive)"に至っては「被害受身 (間接受身)"ひがいうけみ (かんせつうけみ)"」などとちぐはぐな読み方・ハイブリッド読み・四字二分重箱読みをしている。中国の言語学もとい語言學(simp. 语言学)では"passive, patient"が「被動語態・被動者」として訳語の語頭の字が「被(bèi ペイ)」で共通する(ピンインb-字の発音はラテン語の無気p-発音と同じ。語頭の子音が合う点も音義借用翻訳のようで好ましい)。またしかし"adversative passive"を「被害受身」とすると日本語における重言のようでもあるし、ここは「損害被動"そんがいひどう"(indirect passiveは間接被動"かんせつひどう)"」でよかろう。する・されるという概念は大乗仏教中国仏教以来、能・所(のうじょ)という対立概念の名にもなっていて言語学の相・アスペクト"aspect"にも能相・所相という名称があるのだから、能動態に対して所動態(しょどうたい)という名でもよい。受動態も中国のように被動態と改めるべきだ。つくづく日本の言語学における訳語には疑問を覚える(cf. 同格"appositon"⇔格"case", 内破音・入破音"implosive consonant"漢語伝統音韻である入声と語頭の字が同じだがに関係ない音。入声は[p̚] [t̚] [k̚]の無開放閉鎖音"unreleased stop"とされていてそれを内破音だと言い出す日本人学者もいるので紛らわしさの極み)。受身(うけみ)という訓読みの語はごく日本語の文脈に限って使うべきで英語概念の訳語には合わない。上代~近世までの仏教国・日本での漢語用法からしても「被動」や「所」でよいし現代中国に譲歩する考えもよい』

今回の記事のパーマリンク"indirect verbs"に関連したラテン語(由来)の文法用語"verba sentiendi"(verba: 名詞・中性・複数・主格 + sentiendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 情緒動詞・感覚動詞), "verba affectuum"(verba: 前に同じ + affectuum: 名詞・男性・複数・属格、意訳: 感情動詞), "verba habendi"(verba: 前に同じ + habendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 所有動詞)
軽い造語→"verba irregularia"(verba: 前に同じ + irregularia: 形容詞・中性・複数・主格、意訳: 不規則動詞)

今回、何となく目についたグルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)を引き合いに出したが、これは対照言語学的な手法として可であろうと私は考えている。
個人的な学問のための今後の展望として、日本語・漢語・印欧語(地理的にはフィンランド語・ハンガリー語・バスク語を含む)以外にも、グルジア語ないしコーカサス諸語をはじめとした膠着語・抱合語系統に対する学習を進める必要がある。
グルジア語ないしコーカサス諸語を対照言語学の中心にする場合、オーストラリアのアボリジニ系の言語群や、アメリカ大陸のマヤ系だったか西海岸北部とかだったかの言語群も引き合いに出した方がよいと思われる。
ユーラシアを超えた言語学習・研究・考察のための、意思がまだ無い。
どれほど、広い規模の言語が対象となるかと思うと、広いようではあるが、所詮は一球体・グローブ単位のグローバルであり、人類単位のユニバーサルである。
つまり、地球上の現生人類全体かつ単一人類(Homo sapiens sapiens)における共通性や普遍性の探求であることを意識すべきである。

2019年2月3日日曜日

現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

〇少し前置き

日本語で「何これ・これ何 vs. これは何ですか?」というような述語(動詞が文の必要な構成要素となる在り方)を欠いた表現の許容は、古今東西、見られよう。
梵語(サンスクリット及びパーリ語をはじめとした古インド・アーリア語)では、存在動詞やコピュラ動詞(梵語asti, ラテン語est, 英語isなど ある・いる、である・だ・なり)が額面的に用いられない文が多いことは日本語と似る側面がある(梵語の典籍からは基本的にコピュラ用法が見られない)。
また、梵語では、動詞の派生語で本来は述語たりえない分詞のうち、過去分詞(厳密には過去受動分詞"past passive participle")をそのまま述語のように使うことも多い(英語で過去分詞"past participle"は必ずbe動詞・コピュラ"copulative"・存在動詞を伴う。他の場合は単純過去形"simple past"と語形が同じことが多いのみで過去分詞と単純過去形は別の文法概念)。

今回はそれらのことと比べて、より日本語における「文法的単純さにおける多義性」が窺える例を探ってみる。
「述語表現の省略"omission of predicate"」がされた日本語の表現からは、存在動詞やコピュラ動詞以外の動詞の意味を見出すことができる。



〇表題の通りの話題

現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
そのうち、しばしば「ウナギ文」として「ぼくはウナギ(だ)」という文例が挙げられることは、「ぼく」という一人称代名詞=話し手が「ウナギ」を目的語に取り、その目的語「ウナギ」を要求するという文脈で解釈されている(I order unagi; eel as food)。
つまり、飲食店で「ウナギ(うなぎのかば焼き・うな重など)」の料理を注文するという場面で用いられたならば、当然その意味で解釈されることが自然であるという。
そのような場面が想定されるならば、よりシンプルに「ぼくウナギ」とか「ウナギ!」とだけでも通じてしまう(ただし「ウナギ!」だけでは先に他の人から「あなたの注文は何か?」という趣旨の問いが向けられねば発話者自身がそう発話することは一般の言語能力から発生しづらく思う)。
この場合、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」と想定される。

また、簡潔な自己紹介や他人を紹介するフレーズの場合に「ぼくは××」、「わたし××!」、「あいつ××」など(助詞"は・が"の有無は口語が用いられる場面ごとに分かれるためここでは不問)と表現される。
この場合、省かれた述語は「~だよ(である)=~という状態の人物である(I am... 他)、~という名である(My name is... 他)」と想定される。

それに限らず、現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
どのような状況でどのような述語が省かれたか、個別に考察されるべきである。
「〇〇(呼びかけ)、××」とは、「お姉ちゃん、お菓子」とか「父さん、お酒」とかとなる。

「お姉ちゃん、お菓子」とは、肉親としてのお姉ちゃん(血縁関係が有る者)であれ近所のお姉ちゃん(血縁関係が無い者)であれ一般的な年上女性のことであれ、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物にお菓子を求める言葉になると想定される。
しかし、反対に、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物に対してお菓子を捧げる意思表示とも想定される。
前者であれば、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」となる。
後者であれば、省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となる。
想像図「前者・後者」
後者は呼びかけの対象とされた人物・事物の名を主語に変えて「〇〇は××を受けよ(受動態命令形"passive, imperative mood")・受くべし・受くべきなり(受け身の推量形または動詞的形容詞ジェランディブ"gerundive")・お受けください・受け取りますように(受動態願望法・希求法"passive, optative mood")」のようにしてもよい。
いずれにせよ、やはり実際に用いられる言葉ならば、当然、その場の経緯が重んじられ、その場限りの意味で取る必要がある。

ここでもし、「お姉ちゃん」と呼ばれる人物が、前者とも後者とも解釈せずに「お姉ちゃん、お菓子」という言葉を、冒頭にも挙げられた「存在動詞やコピュラ動詞(ある・いる、である・だ・なり)」を補って「お姉ちゃんはお菓子(という存在)なんだね」と解釈して「お姉ちゃんはお菓子じゃありません(お菓子という存在ではない)」などと返答したらば、話し手にとって予期しない反応である。

「父さん、お酒」についても、後者の場合とその解釈で省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となろう。
話し手が「父さん」と呼ぶ人物に対してお酒を与えようとする(容器に注ごうとする)ために言葉を発するならば、その「父さん」が用いる酒の器(お猪口・グラスなど)を差し出すように頼む言語表現ができる。
つまり、「父さん、器(お猪口・グラスなど)」と言えば「父さんたるあなたは器(お猪口・グラスなど)を差し出してください」という意味で解釈される。
ただし、その場の経緯が同じである時、反対に言語表現は前者のパターンに変えることもできる。もし、一連の行為が餅つきのように頻繁に反復されるならば、もっと単純な「とうさけ(略とうさんおさけ)」という記号的表現が可能である。
究極的に、「はい」とか「それ」とかという1・2音節程度の語でも問題が無い。



「〇〇(呼びかけ)、××」の例を二三に挙げたが、この「××」は物品・物体の名詞に限らず、動詞由来の名詞・行為名詞(nomen actionis)にも適用できる。
その場合、想定される場面は「行為の指示・提案」となる。
誰かが「ケン(呼びかけ)、掃除」と言えば「ケンという名のあなたは、掃除をしなさい(サ変動詞の命令形: 掃除せよ)」という指示(命令)を意味する状況が想定される。
誰かが「ユータ(呼びかけ)、バトル」と言えば「ユータという名のあなたは、俺と一緒にバトル(何らかの対戦行為)をしましょう(しようぜ、サ変動詞の命令形: バトルせよ)」という提案を意味する状況が想定される。
※話は逸れるが、この2例は「ケンという名のあなたは、俺と一緒に掃除をしましょう」、「ユータという名のあなたは、誰かへバトルを仕掛けなさい(サ変動詞の命令形: バトルさせよ)」と指示と提案とが逆転した状況が想定されることも有り得る。

なお、先の「お酒」でさえ、単なる物品の名詞であるのみならず、お酒を注ぐ・お酒を飲む(呑む・飲酒する)といった、名詞自体に行為との関連を見出せる単語である。
その傍証として、現代の英語の動詞"to drink (ドリンク)"は酒(an alcoholic beverage)を目的語に取らず自動詞"intransitive"で用いることができることを参照されたい。
「お酒」のみならず、名詞が物品・物体を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「それを与える"to give it"・それを求める"to want it"・それを用いる"to use it"」ということとなる。
名詞が物品・物体ではなくて場所を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「そこにorへ訪れる・行く"to visit; go there"」ということとなる。
※当然のことながら、場所と物体との区別は主観的・相対的であり、本質的・絶対的に区分される基準は無い。「店の類(百貨店・飲食店・デパート・レストランなど)」は建物として物体だが、行き先=目的地(destination)などの用法がある以上、「場所」概念"where; place; location"として認識される。インド・ヨーロッパ言語の格変化に処格"locative"があることに同じ。



「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という日本語表現について、簡潔に言えば「物品の要求・物品の貸与・行為の指示・行為の提案を意味する述語が省かれた現象」となる。
インド・ヨーロッパ言語のうち、梵語や古典ラテン語よりも主語・述語をきっちりと表現する傾向にある近代英語では、以下のように一般的なフレーズによって表現される。

"Give me *** (ギブミー名詞ナントカ)"
"I give *** (アイギブ名詞ナントカ)"
"Please *** (プリーズ名詞ナントカ)"
"Let us *** / Let's *** (レッツ動詞ナントカ)"
※英文中の"***"および「ナントカ」は、先例の「××」に対応する。

これらフレーズにおいて先の「『お姉ちゃん』、お菓子」とか「『父さん』、お酒」といった例文にあるような、人物の呼びかけ(その文例の場合sister, my fatherなど)を伴うことは必ずしも多くないという側面も注意すべきである。



ここまで「述語表現の省略」とか「述語が省かれた」とかと書いてきた。
言語学的にこの現象が「省略"omission"もとい削除"deletion"(単に省略というと短縮・縮約"abbreviation; contraction"と混同されるため削除に言い換えよう)」か、「ゼロ化(ある語が形式上は無いが意味上は有る)」かといえば、やはり「省略もとい削除」であろうと思う。
当記事で扱われた「述語表現の省略」は、日本語文法で規範的に確立されておらず、口語のうちでも偶発的で気まぐれな表現に過ぎないと判断し得るためである。
一方、「ゼロ化」は、もう少し歴史的蓋然性が有ったり特殊な必要性を伴うと判断されるべき現象である・一言語内で標準的であると、私の脳内にある複数の例(ゼロコピュラ"Zero copula"など。当記事で詳述せず)から考える。

2019年2月26日に当記事のためのイラストを描き、後に掲載した。
そこで「前者・後者」の解釈の記号法が示され、ゼロ記号(ヌル記号。または空集合 empty setに同じ)を用いる。

 その解釈法の記号表記
 ∅S (null-subject) + A (○○) + B (××) + ∅V (null-predicate か null-verb)






起草日: 20190118

絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、4,000文字ほどを打った。
この記事であっても『言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い』という「定性"definity; definiteness"」を示す内容となっている。
それは言葉の真理を志向する者が、当記事ならびに日常生活の言語表現を気を付けているならば、自然と分かるに違いない(私が説き示す定性などのことが真理だという意味でない)。

また、当記事における文例「お姉ちゃん、お菓子」は、当然、読点で区切って呼びかけの表現として「お姉ちゃん」がいるだけであり、「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子(合成語・複合語"compound")として解釈されることが無いように仕向けてある。
「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子については、合成語・複合語"compound"解釈と関連するが、それは複数の2017・18年の記事(1, 2, 3)に詳述されている。
複合語解釈の例として依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」や「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」や、持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」や、「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」などがある。
「お姉ちゃん、お菓子」として読点で区切っている状態であっても、「お姉ちゃん、それと、お菓子(お姉ちゃんandお菓子)」のように何か連想して並列したり、目の前の事物を並列したりする状況も想定されることは有り得る。

「そもそも論」だが、文"sentence"が何であるかの形式的説明は、その最小限の要素について「主語と述語"subject and predicate"の構成だ」、「名詞句と動詞句"NP and VP (noun phrase and verb phrase)"の構成だ」、「内容語と機能語"content word and function word"の構成だ」と一般的に言われている。
当記事の例文は、いわゆる非文・「内容語の羅列」と、その形式・規範の観点でみなされる。
別の観点では文としての機能があること、異なる発話者の言葉が一文を作ること、行動言語を含めて音声言語が一文を作ることなど、巨視的な文の構造を示すことも可能である。

※単に形態論と言語類型論の範疇で考えれば孤立語"isolating languages"・分析的言語"analytic languages"(漢文や現代の英語が典型的)のように語幹の羅列であっても語順"word order"に依存しながら、名詞でも動詞でもその意味を取ることができる。もちろん、それは日本語の文法規範に有り得ず、語順に依存せずに「お菓子、お姉ちゃん」でも、既述の「お姉ちゃん、お菓子」の意味と同様に取ることが可能である。e.g. 「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:欲しいよ)お姉ちゃん(A呼格)」、「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:あげるよ)、お姉ちゃん(A与格)」

当記事の例文に「お酒」を持ち出した筆者は今月(起草日の月)で22歳になるが、20歳になってからの2年でお酒の類・アルコール飲料(日本酒・ビール・ワイン・ウイスキーなど母親は飲むようなもの)を一口も飲んでいない(記憶が確かな限りは)。
筆者の近況については、日記メモまとめ記事をご覧になればよい。



2019年2月3日、「現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性」という関連記事を起草した。
それは随時に投稿される。
Permalink: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/02/indirect-verbs-in-japanese.html
語用論"pragmatics"

2019年1月8日火曜日

究極の主観性・客観性と、入れ子構造の共通主観性(限定的客観性) ~言語・美術・音楽・宗教から

共通主観性(common subjectivity, consubjectivity)を知ることは、人間の認知プロセスと大きく関わる言語・美術・音楽・宗教の分野の学問に大きく寄与する。
あるいは、それら分野の学問に対する考察を深めた者が、共通主観性を知る。
多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られる(e.g. 数字1~nの中間に無数の自然数や小数のような数字が有ると見られる)。
そのように、究極の主観性・客観性と、入れ子構造の「共通主観性」を見る。

まず、当記事で「客観性"objectivity"」があまり扱われないことは、その前提(先行定義)が「客観的存在=認識の客体"objects"は本質的に無・空"empty"であり、共通主観性と分離しておく」というためである。
要するに、論理学でいう「真"truth, true"」や自然科学の知見もこの定義での客観的な判断に基づく「最大限の共通主観性"maximum consubjectivity"」の範疇であることとなり、一般世間の常識は、それに劣った通俗的なものであることになると留意されたい。
客観的に正しい事物とその認識を有する者は誰もいない・客観性は存在しないという前提で読みながら、「共通主観性」について色々と考えられればよい。



言語における例
例えば、言語音声に関して考えられることがある。
以下、 [ ] や / /によるIPA(国際音声記号)の使用に注意されたい。

日本語の「さ行」は過去の日本語(古代・現代の方言)における異音"allophone"として [sa] [ɕa] [ʃa] [t͡sa] [t͡ʃa]  [t͡ɕa] が有り得ることが、当ブログの過去記事(12)に示されている。
現代日本語で「さ /sa/・しゃ /sha/」は音素"phoneme"として弁別的であるが、「し」は母音イの「前舌の狭母音」という特徴のために硬口蓋化を起こして(あるいは古代に硬口蓋音だったものが化石的に残ったという見方もある)「さ」とは異なる音/shi/となっているが、基本的に日本語の標準的な語彙では/shi/を「すぃ/si/」と発音しても問題が無い。
「さ・しゃ」の音の矛盾は、ある意味で現代的に便利な「相補分布」をなしていると言える。
「しゃ」の音価"phone"は日本人が自発的に発する場合に [ɕa] (無声歯茎硬口蓋摩擦音)である(「し」も同じ子音 ɕ)。
他言語から転写された結果の場合、原語の音価(原音)は [ɕa] に加えて [ʃa] (無声後部歯茎摩擦音),  [ʂa] (無声反舌摩擦音)が有り得る(母音aは厳密に中央母音 [ä] だがここでは簡略化)。
「さ」の音価も他言語から転写された場合、その原音は一般的な [sa] (無声歯茎摩擦音) のみならず、[θa] (無声歯摩擦音)が有り得る。

[s] 以外の「しゃ・さ」について、日本語カタカナに転写された外来語の語彙を例示しよう。
※これら子音に母音「あ」以外が付いた形式を、基本的に省いておいた。

[ɕ] …「シャマタ=サンスクリット: शमथ (IAST: śamatha 漢訳仏典:舍摩他 パーリ語の同根語: マタ"samatha") (同言語からの例はシャーンティ शान्ति śānti, シャーストラ शास्त्र śāstra)」 (他言語では中国語ピンイン Pinyin: x によるものが有る)
[ʃ] …「シャツ=英語: shirt, shirts (単数形の場合 IPA /ʃɝt/) (同言語からの例はシャープ sharp)」 (他言語ではヨーロッパの一部や中東やイランなどに見られる)
[ʂ] …「シャンハイ=中国語普通話(官話): 上海 (IPA /ʂɑŋ xaɪ̯/ Pinyin: shànghǎi, English: Shanghai)」 (サンスクリットにこのシャが語頭の語は数詞6 ṣaṣ- シャシュ系のみがある。二重子音や語中のものではクシャナ क्षण kṣaṇa 刹那・クシャトリヤ 刹帝利・ラークシャサ 羅刹、シャ文字列にこだわらない場合はクリシュナ कृष्ण kṛṣṇaのシュが有る)
[θ] …「ード=英語: third (IPA: /θɝd/)」 (他言語ではヨーロッパのごく一部やアラビア語などに見られる)

日本語話者にとって、音声学における異なる3つの子音 [ɕ] [ʃ] [ʂ] は、共通主観性によって「しゃ行(シャ音素) /sha/」となる。
外国語知識に乏しい時は、共通主観性による「しゃ行」の概念が、そのまま当該外国語に通用すると思うことになる(つまり同一言語の話者集団の共通主観性=限定的客観性はもっと広い領域に通じづらくもある)。
現代中国語とサンスクリットでは [ɕ] [ʂ] が区別される(IAST: ś, ṣ Pinyin: x, sh)が、[ʃ] は基本的に発せられない音と、言語学・音声学でみなされる(発せられても ś श Pinyin: x 音素の異音として認識できるもの)。
同じように、多くの自然言語・人工言語では、基本的に [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない。

その両者の一方の音が、何らかの言語で用いられない音価であれば、妥協してその類似音を持つ音素に同化(または中性化)させて借用することとなる。
既成事実化した状態で、外国語知識に乏しい話者がその言語(母語)の特徴に同化させられた借用語を知ると、原語の音価との相違点に疑問を持たないことになる。
それであっても、その言語の内では何の問題も無いし、世界的にも多くの自然言語・人工言語で [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない以上、人類の言語の広範における共通主観性=限定的客観性が、その範疇で通じることは観測できる。

言語音声において以上のような例は枚挙にいとまが無い。
そのため、言語学(音韻論・文字論)において字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"などの仮定・分別の概念が用いられている。
例えば、"ch"綴りの字の単語も、英語では次のように認識された語源に基づく音が用いられる。
古代ギリシャ語由来の場合…軟口蓋破裂音 [k] (as in chaos, charisma and character)、
現代フランス語由来の場合…後部歯茎摩擦音 [ʃ] (as in charlotte 人名のみならず一般名詞でもある。ちなみに日本語だとショコラ"chocolat"やラングドシャ-chatが定着)、
他の多くの場合…後部歯茎破擦音 [t͡ʃ] (as in chant and chakra 前者はラテン語canto系で古フランス語経由であるが後世のフランス語と区別された方がよい。同系のフランス語にシャンソン"chanson"が有って音楽ジャンルとして日本語や英語に借用される)

日本語に入った古い中国語の語彙も、漢字の音読みの「呉音(主に仏教系由来)・漢音(主に漢籍や明治訳語由来。当然作者や普及者のリテラシーや慣用性の差でそれらに呉音や慣用音が混ざりもする例はある)・連濁の有無」といった区別で意味を区別することは多い。
ましてや現代中国語においては、なおさら、その音をカタカナ発音にして借用することが有ろう。
英語も日本語も所詮は自然言語であり、近代以前には庶民レベルで慣用的な意味の変化や歴史的な音変化や語源の混同などが多く起こっていたため、必ずしも一定でない。



語彙、概念の名称たる言葉(ことば)についての例は、私=筆者が過去の投稿・執筆のうちに多く記してきた。
現代において「萌え(可愛い存在・可愛さを覚える精神作用など)」はその極みにあるため、「萌えの典籍」では和語としての原義(芽が出ること)を含めた多くの意味を「摂取」しつつ、真実・真理を示す譬喩に用いた(当記事後述の「三萌義」も参照)。
一つの萌え、多くの萌え、無の萌え、それについての総説であり、「萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会)」とある。
実に結論なき結論たる「而萌不萌(萌而不萌)=萌にして萌ならず(觀萌私記・讃萌語脚注)」とも説く。
萌えの真実が分からないと、萌えは善か?悪か?そもそも萌えとは何か?植物か?二次元美少女か?三次元美女か?欲望の心か?綺麗な童心か?という「一語とその事物に関する多義性・曖昧さ」による論争が起こることになる(=人間は善か悪か?そもそも人間は価値判断できない赤ちゃんから賢明な為政者まで色々いて云々、といった世間のあらゆる論争に等しい。あるいは言葉を用いる人間の中に無自覚的な善悪意識が潜在している上で種々の言葉が発せられる傾向も多いため世間の言葉は慎重に吟味されるべきか、そもそも多くの場合は意に介すべきでない)。
何であれ世間の言葉=語彙・単語について、「この言葉は自由に用いられる」とか「この言葉は辞書に載る客観的な定義(正しい意味)に従わねばならない」とかという、相反する主張ができる。

要するに、言葉の意味には辞書的な定義と、それに相似するか相違する多くの実際の用法とが有り、枚挙にいとまが無い(当記事後述の「量性と定性~その場限り"ad hoc"」も参照)。
文法(語順・語形変化に関する規則性)や発音なども「通時のもの(恒常的)」と「暫時のもの(便宜的)」とを使い分けることは、口語のみならず音楽の歌詞・古代の韻文(詩)にも多い。
そのため、言語学者のうちの高名なソシュールという人物は、「ラング"langue"・ランガージュ"langage (It's not English term language)"・パロール"parole"(この3つの単語の訳語は小林英夫1928で言語・言語活動・言とする。インターネットでは言語規範・言語運用といった別の系統が主要。英語ではBaskin, 1959でlanguage, human speech, speakingが見られた)」という仮定・分別の概念を提唱したとかと、近代言語学でよく知られている。
これは先述の言語音声に関する見解に、「字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"」などの仮定・分別の概念が用いられていることと同様である。
それらは、「理論と事実(理と事…過去記事を参照)」、「演繹と帰納」、「条文と判例」のような二項概念に極めて多く類例を見る。

また、ソシュールさんのいう「記号の恣意性(arbitrariness of the sign; フランス語 arbitraire du signe, 意味は能記signifiant 所記signifié の間に絶対的な関係が無いこと cf. Cours de linguistique générale)」も、当記事にいう共通主観性=限定的客観性のようである。
当記事冒頭に「無・空」ということについて言及したが、「自作"Dominus Immensus"歌詞注釈文」にも同じような話がされているので、当該記事(2018年6月9日)より引用する。

2番Aメロには"quod apud mensorem erat, illud verbum omnia metitur, immensa causa ad principium"とあり、中日訳は「語言は量りて有るも、亦た是れ一切を量る、乃往の縁無量なり」とする。
前半のフレーズは「人によって用いられた言葉はその人の事実認識と推量行為とに依存する」と説いている。
何らかの言葉を初めて用いた人の意思によっても、後世の人の用法によっても、辞書の記載によっても、決して本質的な言葉の単一意義は無いという空の教義にも基づく(過去記事)。
そのような言葉の原初・往古における実質的語源は不可得・不可量であり (後略)



言語に関する他の例として、言葉と同じように用いられる「数・数字」がある。
以下に過去記事(2017年7月10日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。 例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ 電力Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量やをどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざる不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実は空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

※注釈範囲: 酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。酸素や水は、善か?悪か?どちらでもあり、どちらでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は万・億の善と万・億の悪を有するものが、それは無い。 →この※注釈範囲には中論という仏教論文の23:8-9偈24:18偈23:15偈が順に提示される。

他に、自然科学の知見によって「100%というものの誤謬」を言及する。
以下に過去記事(2017年3月8日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面・ディスプレイに出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。



美術における例
例えば、ある絵画に描かれた人物は、男性なのか、女性なのか?
そもそも人物ではなく、天使や悪魔や妖精(精霊)や妖怪や幽霊や獣人などの人外系かもしれない。
ある部分に用いられた色は、それが赤であるとも、茶であるとも、黄であるとも、他の色々な同名異色・異名同色らしい名であるように言える。

そして、そう認識し得る色や描写された客体(オブジェクト a object; objects)について、それが「美しい」とか「醜い」とかと価値判断されたことが、どのような他人たちに共通するか?
例えば、ブグローさんの描くヴィーナスやキューピッド(男の娘)が美しい(ヴィジュアルがかなり官能的だが)、そして背景も綺麗で優れた作品だという評価が有るとし、諸君はどう感じるか?
肉体的性別でいう男性同士ではどうか、女性同士ではどうか?
民族的に日本人の内ではどうか、他の東アジアの人々ではどうか、西洋の人々ではどうか?
日本人の内での未成年ではどうか、若年層ではどうか、高年層ではどうか?

何らかの主観性によれば、ムンクの「叫び (Skrik)」や、ピカソの絵画作品(i.e. cubism および類例として20世紀の西洋絵画の多くの例)を好むことがあり得る。
一部の人は、世間の眼における優れた美術作品よりも、「子供の落書き」や「学習途上の児童が一生懸命に描いた絵」を好んだり、それらに執着して他のものを嫌うこともある。
または、ある人が元々好みでない絵柄を、当人が同調したい性別・年代ないし一個人に合わせ(無意識・潜在的にそうなることが特に重要な現象)、そのような絵柄を好むようなことも有り得る。
※なお、単にある人が誰か好きな他人から注目を受けたいとか親交を深めたいとかといった美術の目的を離れただけの条件は、当記事の主観性に関する主題から離れるので除く。

萌えの典籍では、それらの事物・視覚表現の特徴の同一・別異の性質を解明して説明する。
どのようにして最高の美術作品が出来上がるかといえば、最高だということの基準(=最低だということの基準)自体が把握された心に本来出来上がっているか、今直ちに出来上がるものである。
過去の芸術家(画家・彫刻家)たちが言及した「芸術"Art"・自然"Nature"」とは、各々定義の異なりも有ろうが、萌えの典籍の説によれば、以下のように究極の主観性と共通主観性とに適用できる。

・心に本来ある"natural, original"最高の美術作品=究極の主観性についての譬喩
・世俗的な(五感・五官で知ることのできる)に認知し得る優れた特徴を持つ美術作品=共通主観性についての譬喩
これらを知る者が「萌尊」であり、心に本来ある"natural, original"最高の美術作品を「心」自ら照らし出す・顕現させる能力も持つ。



この心は、萌鏡真言にあるような"Paramaratna"を得た心である。
ॐ परमरत्न गुणप्रभात  स्वाहा | (IAST: Oṃ parama-ratna guṇa-prabhāta svāhā)
それで「真の自己満足」もできるが、他者から尊敬されるような者である以上は、客観的もとい共通主観性にならった世俗的な善・他者への顕示もできる。
世間の人格者とかということも、彼の内にある高尚さ(本当は他人に知り得ないこと)に加え、世間・世俗に讃えられる何らかの共通主観性が認められる前提に、その尊敬や称賛が有ろう。

萌尊は、「萌え(i.e. あらゆる動詞由来の名詞全般)」の多義性のうち、骨組みとして示された「三萌義」の理解(事物の存在・その認識・執着ある心による全てに対する価値判断)を必ず得る。
それは仏教教義の十二因縁(十二支縁起)などともよく通じたものであることが、「注三萌義」などに説明されている。
物事の自然を見て芸術にするという芸術家は、多かれ少なかれ、これに近い精神性が有ろう。

この「萌えの法門」において必ずしも適用されない芸術理論に「二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論(および相対的なデカ目度の測定)」がある。
これは、後述の音楽にも通用するような「人間の多少の先天性で定義された共通主観性」に関連しつつ、後世の主観的な認知の普遍性を明らかにしようとするものである。
果たして現代日本の美少女や美少年のイラストは、その特徴が、どれほどに実在人物の美人や、19世紀以前の西洋絵画・彫刻の人物の表現と相通じるものか?
「美しいとされるもの」を絶対性によって写実的に再現することに対し、相対的な範疇において擬似的に再現することがどれほど有効であるか、考えることとなる。

眼色 浄不浄 快不快

以下に、「晴天と草原」の色彩が「快楽・不快感」のどちらを催す因縁(原因・条件)となるかを論じた萌えの典籍の説(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・二会・拾主と尊者の問答)を引用する。
 尊者が「なでなで三昧」より出でて言葉を聴く心に変えたことを拾主は知ろしめし、法の解説(げせつ)を始められます。「晴天の色は澄み渡って心地がよい。その蒼茫たるさまに、我が心も澄むようである。草原の色に生命の息吹を覚え、環境の恵みを心身に受ける。晴天と草原と、そのハーモニーは人間としての煩いを離れさせると私は感じる。ここでそれ以外の事象を介在させないでほしい。例としては、視界の外に汚物が堆積しているとか焚火がされているとかで害悪のある臭いが漂っている、などである。晴天と草原の風景は、青と緑が彩る。その色彩について『生々しくて気持ちが悪い・青空や植物に悪い記憶がある』と感じる人もいる。人の感性とはそのようなものである。私がどのような美辞麗句を以て光景を讃嘆すとも、決して心に容れない者がいる事実は排除できない。それでは障礙の者よ、そなたに問おう。目に見える色そのものに『快・不快(浄・不浄)』が有るのか?」

 「いいえ、拾主さま。そうとは思いません!」 - 拾主問曰「障礙(尊者之名)、於汝意云何?眼色是淨耶不淨耶(or 眼色有垢淨不)?」。尊者答曰「不也拾主!」。

 「善く答えた、その通りである。色そのものに『快・不快』は具わっていない。この『色』とは、いわゆる五色(ごしき、青・黄・赤・白・黒)に代表された、単純に認識されている色である。しかも、目に見える色の和合(関係性)にもまた『快・不快』は有るということが無い。この『色の和合』とは、青と緑のハーモニーであり、その状態は青と緑の光景の場合に『生き生きとして気持ち良い(快)・生々しくて気持ち悪い(不快)』という二面性を有している。加之(しかのみならず)、いわゆる声・香・味・触・法(しょう・こう・み・そく・ほう)もまた『快・不快』という固有の性質"svabhāva"を有していない。色と声・香・味・触・法の六境の中に和合があっても、同じく『快・不快』は有るということが無い。それでは障礙の者よ、復たそなたに問おう。なぜ、色そのものや色の和合ないし六境といった諸法(ありとあらゆる物事)に『快・不快』は有るということが無いと考えられるか?」

 「はい、拾主さま。諸法は、存在と認識とに代表される五陰(五蘊、色・受想行識)など、表現しきれない衆縁(しゅえん・諸々の因縁)により、『存在するもの・存在している・存在していた・後に存在するかも』と認識されています。色に『快・不快』を覚えることも、その色の概念と名称とが記憶された状態においてその人の感情がどうであったか、その人がどのような物事と結びつけたかにより、いつでも『快適さ』か『不快さ』を得ることになります。別の情報・記憶・経験を通している(思惟憶想をする)ので、如実に物事を見られなくなる顛倒がございます。元々知らないことでさえも、新たに知った際に『知らなかったから感動した・知らなかったから悔しい』といった『快・不快』の感情を起こします。このような衆縁が煩雑にして夥しく確認でき、どれほど分析しても言葉にしきれません!」

「観萌行広要」関連文章には、絵画を見る心に加え、画家(画師・絵師)の心についても哲学的に言及されている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html

他、主観性の視覚表現(主観性による視覚表現・主観的に認知されたものを視覚的に表現したこと)は美術作品において種々に見られる。
・風景(自然や市街のみならず一個体の客体である植物や建築など)や人物に見られる部分的な誇張(いわゆるデフォルメ。それは主観的に誇張されたものであるために文化や時代によって手法が異なったり見る者の美醜の価値判断も分かれる。しかしなぜ良いと感じられるかについては良いと感じられる主観的理由・精神面の統計学的研究や観測機器利用実験のみならず、客観性の側面においても作品の幾何学的な特徴・傾向を考察する必要もある。 cf. 二次三次相対互換)
・尊い人物・聖人の肖像における光のようなもの(光背などと言われる。仏像でも頭頂から光を発するなどとある。三十二相の眉間白毫相は別の話。イスラム教ムハンマドの偶像でも密教の明王のような焔が描写される。後世のフィクション作品・漫画類では尊い人物・聖人以外に肉体的に強い人物の気功とか波動とか気の流れとかオーラとかとして表現されるようになる)
・人間は顔ないし頭部で人間ごとの区別をする傾向にある点で、その辺の特徴を抽象的にするか、非現実的なもの(髪色・肌色として存在しない色を用いたり極彩色にするなど)にすることで生々しい人間らしさを低減しつつも人間として認識し得る特徴を残すことができる。単純にデフォルメの類ならば動植物でも同様にできるが、人間に対して行うと、やはり好き嫌いが分かれよう。現代(早くて20世紀初頭から現在まで)の芸術関係では写実的な美貌を備えた人間視覚表現が減ったようである。
・人物の外見に対する美醜の価値判断は、先天性と後天性とによる。先天性によっては、本能的に雌雄の目的性(生存・繁殖の適性)に沿ったものが美しい・性的に望ましいと見られる。虫や鳥のオスにおいて、外見が華やかであること・鳴き声が美しいことが好例である。人間においては「男の肉体美・女性の豊満さ(masculinity, femininity)」などが挙げられる。性的"sexual"であり、性差別"sexuality, sexism"である。それはある種の客観性でもある。しかし、人間は後天性による主観性が強い一面もあり、それは物質的に裕福で精神的に自由な傾向にある時代・文明に顕著である。その場合、「男の肉体美・女性の豊満さ」が必ずしも人物の外見におけるアドバンテージ(利点)とはならない。五感を有する人間各自の主観性には相違点が許されるが、多かれ少なかれ、同じ時代・文明に共生する者としての共通主観性による類似点も有ろう。



音楽における例
音楽の良し悪しは、極めて主観に左右される。
先天的資質も考えられるが、ここではあまり言及しない。
特定の不自然な音には危険を察知する反射が有る、と人間や一部の動物から確認できるであろうが、特に人間が音楽においてそういったイレギュラーな要素・意外性を効果的に用いることは可能である(それは前衛的だとか実験音楽だとかと言われる)。
それであっても頻繁にされると、そのリスナーは学習能力によって慢性化(ウンザリ)するので、「効果的」ということも人間の主観性に基づくこととなる(まずは個人レベル・自己の心を自覚・意識し続けることが大事)。

おおよそ、後天的経験に音楽の良し悪しの感覚(梵語でいえばsukha, duḥkha 古代ギリシャ語由来の英語でいえばeuphoria, dysphoria)は分かれる。
男声が良いとも、女声が良いとも、そもそも音楽に人の声や歌詞は無い方が良いとも聴かれるし、その逆にアカペラなど声のみの音楽が良いとも聴かれる。
楽器構成については、シンプルで音色が自然なものが良いとも、シンセサイザーを主に用いた系統が良いとも、一般的な(古典的ともいう)音楽と特徴を異にするアンビエント(環境音楽)のような系統が良いとも聴かれる。
あるいは、特定の目的性(e.g. ダンサーがダンスに合わせるため or 詩を読む・歌うため or 手軽に音楽を聴ける現代において「作業用BGM」とするため)で音楽の良し悪しを分別している者(それは同時に、特定の目的性を除いて別に良い音楽が有ると思わない者でもある)もいようか。

物質的に豊かになった時代においては、多くの音楽表現が可能となっている。
それで、既成のジャンルに対する反骨精神によってアンチテーゼを突き付けて新しいものに止揚することも有り得る。
それらは音楽史を多く参照されたい。
私=筆者の過去ブログ記事には、以下の例がある。
2015年4月17日: 「依法不依人」に音楽の好みを惟う
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_17.html

2016年5月13日: 音楽と宗教の概論 ※メタルのジャンル分岐とセクト主義に関する話がある
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/musica-et-religio.html

音楽理論のうちの客観性の例として、科学的・数学的な精緻さが有る。
古典的な音階・コード理論が先にあり、近代の音波周波数のような知識で裏付けしたようなものが、今日の音楽演奏と制作のツール(実際の楽器やソフト音源やVSTiはもちろん、MIDIシーケンサーやDAWソフトでノートを打ち込むシステム)に浸透している。
例えば、鍵盤が88ある標準的なピアノの中央付近のラの音の周波数が440 Hzである場合、1オクターブ下の音の周波数はちょうど半分の220 Hzであるように、1オクターブの前後はその音の等倍・等分であるように調律・チューニングがされねばならない。
その近代以後に音楽へ与えられた科学的・数学的な知識が無い者でも、聴覚的な良し悪しに従って音楽演奏と制作が可能であるため、いわゆるブラックボックスの技術であろう。
そういった客観性の前提で、いくばくかの作者の主観性をまじえて「最高の音楽」といえるものをいくつも開発することもできる。
しかし、それだってリスナーの主観性の強さを重んじて考えれば、最初は良いと思われたものも、同じものや似た別物をいくつも聴くならば、学習能力によって慢性化(ウンザリ)することが想像に難くない。
また、何か悟りレベルで感性の優れた者が音楽(周波数の高い・低い音で構成されたもの)について「今聴こえる音楽も所詮は空気の振動の類だ。何であれ音という事物に好悪は無い」と観ずること(感じること)も有り得る。
客体は一つであっても、主観性によって「最高の音楽」と感じられるし、主観性によって好悪の別れもあるが、認知における客観性を強めれば、客体に関する好悪は無くなってゆく。

何を聴いてどう思うか・・・、それはまさしく主観性である。
何らかの理由・音楽理論で好悪や優劣を求めることもできるが、共通主観性の範疇であり、本質的には=客観的には、全て等しく価値が無いものとなる。
ただし、もし誰かが「この音楽はよい・好みだ」と感じて作曲するにもかかわらず、その人が10年かけても音楽理論で言える類似性が少ない(多い・少ないの価値判断も主観性だが)曲のみを作るならば、やはり「模倣さえできない・作曲者として劣っている者(しまいには人間的にもアレ)」と価値判断されることとなる。
音楽で快楽を得るどころか、最終的な快楽に至らない苦しみだけの過程と結果とに留まることとなる。
だから、音楽を志す人は、それで金儲けすることを志さない場合には、主観性の自覚・意識が肝心であろう。
しかしまた、金儲けをしたい者であっても、自己の主観性と他者の主観性とにおける普遍性を利用した意欲的な作曲が、時として「世間での極端な成功」のきっかけとなりえる。
やはり、世間の道は、何であれ、茨の道である。
「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。

音楽を作る者は、ひとまず共通主観性に則って音楽理論による「心地よい音楽・ハマる音楽」の特徴を知ることになる。
歌詞を書く者は、詩的な特徴…フレーズごとの拍数・音節数や韻(rhymes, 頭韻や脚韻)、音階の上下に伴う母音の広さ・狭さ(e.g. 次に来る音が相対的に低いと相対的に狭い母音を使う)など、様々に考察する。
何であれ、そのような努力をするならば、他人の音楽作品を聴く際に音楽理論や詩の韻律論や言語発音などについて意識をするために他人の音楽作品を、作曲や作詞をする以前の頃(e.g. 幼少期)と比べて「心地よさ・ハマり」を得なくなるし、苦しい気持ちすら強めかねない。
しかし、そうして作曲や作詞の努力をする者が、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感(快楽・喜悦)」を得ることもあろう。
過去の高名な音楽家に、そういう者がどれほどいたか分からないが、時に、その主観的な快感を得ることは、数年でも作曲や作詞の努力をする者が誰であれ、得たこともあろう。
音楽理論や詩の韻律論や言語発音などを知らないリスナーには、その者にとっての音楽に対する快感があるように、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感」が有る。
これも「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。



宗教における例
信仰を持つ人々は、何らかの理由で自身の奉じる神を他方の神と「別異」であるとみなしたり、「同一」であるとみなす。
モーセやダビデの感じ取った唯一神と、イエス・キリストの感じ取った唯一神と、ムハンマドの感じ取った唯一神とは、相互にどう異なり、どう同じであるか?
なぜ唯一神の名は、多神教の神々と同じような名称であるか?(アラビア語のアラー=アッラー=アッラーフ الله 定冠詞の有無や英語"God"大文字による固有名詞化などの区別によって別の語句・別の概念だとも言われるが、それ自体なぜ? cf. イスラム教のシャハーダでは"lā ʾilāha ʾillā llāh"として英語でいうgodやdeityは無くGod = Allahのみがいるという)
なぜ唯一神を示すために、時として無数の名や言葉を用いる必要があるか?
※例えば「イスラエルの神」や「万軍の主(1サムエル記1:3 צְבָא֖וֹת)・我が主」や「我が父・我らの父(マタイ6:9 Πάτερ ἡμῶν)」や「慈悲深きかた(クルアーン55スーラ الرحمان)」などという。イスラム教にはより多く・明確に、唯一神の異名が称えられる。仏教の仏についても現世に現れた釈迦牟尼仏や過去世の仏には「十号(10~11の称号・名号=如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御大夫・天人師・仏・世尊 サンスクリット: tathāgata, arhat, samyak-saṃbuddha, vidyā-carana-saṃpanna, sugata, lokavid, anuttarā, puruṣadamyasārathi, śāstā-devamanusyānām, buddha, bhagavān パーリ語は如来を除いた9~10種)」がある。理法が考察されると、上座部仏教でも大乗仏教でも法身(dharmakāya, パーリ語でdhammakāyaだがパーリ三蔵のうちでは長部27経=アッガンニャ経に一度きりbrahmakāyaと並列で挙げられるのみ)仏に関する教義が浸透するが、そちらは「毘盧遮那(virocana 遍照・普光の意味)」くらいにしておこう。

唯一神への信仰が深ければ、その信仰とされる感情を依拠に、同一であることを疑わないようにするし、そう主張する。
なぜならば、異なる神を有する者がいるとすれば、「唯一神の唯一たる性質(the unity of God, unityの語源はラテン語でunus + -itas 唯一性)」が空虚となる(ように主観的に認知する)からである。
※現代ではヒューマニズムの観点で信仰の心の共通性を重んじたり、廃れ行く宗教の結束として、「どの宗教の神も異なるようで同じ救いの力があるんだ!」とのように主張されることも多い。

しかし、排他的な信仰とされる感情を持つ者は、聖典=教団の異なる唯一神を別異だと主張する。
なぜならば、聖典とその教義=教団が異なる者が唯一神を信じているならば、彼ら自身の教義に自ら非を見ることとなる(ように主観的に認知する)からである。
また、神学的な道理から「宗教や言語(神の名)は多く存在しても人々が信じる神は唯一だ」と言いながら「私たちの教団は私たちの教団である」とのような主義・主張も多いと、宗教知識の少ない者からは、やはり多くの教団と用語が有る=その分に多くの信仰対象も有ると見られかねない。
現代人の価値判断基準で今のユダヤ教やキリスト教(カトリック教会・正教会・プロテスタント・モルモン教・エホバの証人・統一教会 etc.)やイスラム教(スンニ派・シーア派・アフマディーヤ etc.)として分別・包括される一神教の宗教(右記よりも更に細かい分派"sects"も有る)を見れば、多様性が有るように感じた結果に「多様故の畢竟一"oneness"」と感じることは難しいし、神学的な道理で統一的な信仰の状況を解しても大概は分別が強く残ったままである。

これら「同一・別異」に関する諸々の主張は、何の教義や宗教的行為をどう主観的に認知したかによって各々の主張が変わったに過ぎない。
無神論者のうちにも、表面的な宗教理解を以て彼らが想像する所の神=宗教が説く所の神は「いない」と否定する者もいるが、同じことである。
唯一神は、彼らの主観的認知=表層心理に現れた精神的偶像(無形偶像)たる神とは別に、存在していると言うこともできる。

現代、インターネットによって諸宗教の聖典のうち、パーリ語の上座部仏典と、梵語の大乗仏典と、それらに対応する漢訳仏典と、各種キリスト教翻訳聖書や、適宜に婆羅門系(現代では各種ヒンドゥー教が奉じる)の典籍や、アラビア語のクルアーンや、ヘブライ語のタナハ(キリスト教にとっての旧約聖書)などを読みたてまつった筆者としては、それらの主張も全て「正しく」、全て「誤り」である理由を言える。
何よりも、宗教信者となるならば、その信仰の目的性によって正誤が判断されるべきだと考えている。
信仰の目的とは、つまり、昇天や解脱や往生や成仏の類である。
※目的はインド言語・サンスクリットでアルタ"artha"だと世間でよく言われる。それは現世利益・即物的な利益を意味する言葉でもある(cf. Arthaśāstra 実利論)。釈迦牟尼仏の名は「シッダールタ"Siddhārtha (siddha + arthaの連声, パーリ語シッダッタも同様)"」だが、これも「成利(利益の成就)」と漢訳され、その「利・利益」は不特定の・何らかの「結果」であろう(cf. 悉達, 成利で大正蔵DBを検索)。仏教の目的達成の境地は、涅槃とよく言われるが、パーリ語仏典や漢訳阿含経などに涅槃は不死(amṛta, amata)、不死は甘露と言われるように涅槃・不死が甘露という甘い蜜(madhu)のようなものに譬えられることと似る(cf. 梵語アムリタ"amṛta अमृत"英語イモータル"immortal"・ラテン語"immortalis"古代ギリシャ語アンブロシア"ambrosia ἀμβροσία"は不死の意味ならずギリシャ神話で神々の何らかの食品・飲料の名となる。英語ネクター"nectar"という蜜もとい古代ギリシャ語ネクタルは滅びを超克するという原義から転じて同様)。この解釈が客観的に正しいと断定できず、私が私なりにインド言語・漢語の典籍や近代インド学解釈を見て学んだ結果の「主観的な意見」であると言えばそれまでである。

目的性とは、それを志す意識と、その達成・成就の手段である。
その信仰の目的性の支えに、自身および目的を同じくする他者(仲間・同志)のための言葉が、「正しく・優れている」とされるはずである。
結局、人が用いる言葉や、その前提となる思考は、いつも正しく保たれることが難しい。
その信仰や教義の正しさ自体否定されてはならないという様々な意識のために、宗教的な目的を達成する障害を信者自身が生むことになる。
宗教的な目的を達成する障害を生む要因に自我意識と欲望と不快感の類(仏教でいう無明・三毒やキリスト教でいう七つの大罪)が挙げられる。
これが、宗教の教理で把握されても、そのように信仰の目的性の支えとなる思考や言葉や行動は「いつも正しく保たれることが難しい」。
私の文章に、もし不快感を持つ者がいて執着が残るならば、彼もまた宗教的な目的を達成することは難しい。
私もまた、日頃、そのように自我意識と欲望と不快感の類に悩まされることを自覚している。

話を戻すが、世界宗教・民間信仰の何であれ、神というような名を持つ「尊い者(共通観念)」は、畢竟自己の内にある(究極的には実在する事物・人物も全て同様)。
仏教では、過去の無数の諸仏・諸菩薩の多様性や、功徳の高い娑婆世界の仏弟子など、尊い存在(仏宝・僧宝)が多くあったために、大乗仏教の方で法身・報身・応身の「三身"trikāya" (三身一体)」という答えを出した。
キリスト教では、主要な教会・教派で父・子・聖霊の「三位一体"trinity"」を信じて疑わない。
ヒンドゥー教では、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの「三神一体"trimūrti"」が多少支持される(基本的に各教派の信仰に主要な神格が変わる)。
それであっても、各宗教の信者が「自分たちの教義が尊い!他者のもの(と認識された自分たちと異なる教義や形式的に異なる教団の教義)は劣る!他者のものでは真の幸福を得られない!」という趣旨(言葉としてはストレートに表現しないとしても根源的・潜在的にはそういう意識がある)の主張がされることも多い(先述の通り信仰の目的性によって正しい主張でも誤った主張でもあることを留意されたい)。

一一色相、萌ならざるは無し、不染不浄・不一不異、みな萌えにして中道なり。萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く。彼の霊と人の心と草の芽と、その生ずることと、萌義を知りて顕示せる我と好色萌相と及び汝と、総て萌えの三身に合して皆萌えなり、余の諸法も亦た三身に非ざるは無し。一萌・多萌・無萌と次第に観て一即多・多即一・無一無多の萌えを仮に三種に分くるも、実に一異なく三も余も無し。 - 萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会より i.e. 当記事の脈絡で「宗教でいう『三〇』とその『一体』は真理でないが真理のように用いることができる」という二面性の説示と解釈できる

「多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られること」の例として、諸宗教の教義・教派・教団の特徴を知るとよい。
それには、自身が「仮想入信(無宗教・非無宗教の立場)」をして「自己・信仰におけるアイデンティティ」を仮定せねばならないことも知られたい。

参照
2017年4月21日: 形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

2018年1月10日: 仏道修行のための論理、不戯論のための戯論
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/drishti.html





以上、言語・美術・音楽・宗教から、少しの例を挙げた。

これらの事項について知る者が、人間の思考について、言語や行動などに現れた要素から「共通主観性が無限に大きくも小さくもみなし得る」と考える。
主観性の総合は客観性に等しい。
客観性の究極は主観性に異ならない。

これらのことは、次のようにも言い換えられる。
人間に対する、何らかの宗教でいう神・仏のようである。
何らかの宗教でいう神・仏に対する、何らかの宗教でいう悪魔のようである。
生と死の関係のようである。
世の人が言うところの「妄想と現実」の分別のようである。
最も大事なものは最も人々の知ることができないものである。
最も大きいものが最も小さいものである。
実に不可得(unobtainable, unobservable)・不可量(immeasurable)・不可説(ineffable)である。






起草日: 2018年11月27日
主観性・客観性の区別に関しては過去にも当ブログで幾度としてきたが、2018年9月以降、私は言語・美術・音楽・宗教といった人文科学分野において主観性が尊重されねばならない一面を感じるようになった。
そこで、それらに関するジンテーゼと、一つのアウフヘーベンを、最低限の例と共に簡略に示すことにした。
無論、先述の通り、過去のブログ記事でも仏教学・哲学のような脈絡で十分にこのことを説示してきたろう。
何せ、大乗仏教では「三身」や「三諦(中論に基づいた天台宗教義)」や「二諦(龍樹菩薩中論24:10偈以前から部派仏教で言われていたろうが中道・戯論寂滅と関連した点で中論のものが想起される)」といった教義で、これらのことを既に示していたからである。
現代的・学問的な応用のためには、そのための例示と説明が必要であるから、当記事ではそれを簡略に行った。

主観性の尊重は、物事の客観的善悪や損得の無い、虚妄に想定された絶対性に心が支配されない精神状態に至る手段となる。
何か、今までの心にとって悪い出来事に直面しても、柔軟に・冷静に処置できるようになれば、学問・芸術はもちろん、日々の生活においてもメリット(ベネフィット)が多いと、私は思う。
それも、形骸化した私にとっては、なかなか効果的に機能しなくなってきた。
その匙加減もまた、主観性の道理にならって考察されねばならない。
やはり、学問・芸術と人生とにおいて私の探求は終えようにも終えられない。
場合によっては、「仮想入信」による現代的個人主義における宗教信仰も兼修されねばならない。

なお、記事表題などに「入れ子構造(英語: nesting, プログラミング用語でもある)」という表現を用いたが、この代替表現には「フラクタル"fractal"」を私は想定する。
それは、数学や幾何学の、関数や相似の図形に関する意味(自己相似"self-similarity")と、そこから比喩的に用いられる形容詞の意味とがある。
本文の随所や、中でも最後の方に書かれたことのイメージの例として参照してもよい。



以下メモ
言語分野における関連用語

「量性と定性"quantity and definity (後者は個人的な造語で言語学などに用いられず後の勉強でたまたまdefinitenessという同義語を知った)"」

量性"quantity"…「どれほど(どの程度 いくら ラテン語でいうquantus)多いか(more 反対にどれほど少ないか less)」ということの「量り(quantum, measurement)」についての性質。それによって「どれほど"how much, how many"」という疑問詞や「それの程度」の表現や、「数量詞"quantifier"」や「形容詞(よりもっと~=比較級、最も~=最上級を含む)」が用いられる。つまり、人が事物・現象に「多寡(多少)」や「優劣」や「正邪(正誤)」や「善悪」などを主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「量性」を見出す。

定性"definity"…「これとそれとは同一である・別異である(same, different または等しい・異なる)」ということの「一」や「同一認義(to define; to determine)」についての性質。それによって「限定詞"determiner"・指示詞"demonstrative"」や英語・アラビア語などに代表される言語群の「冠詞"definite article"(仏・伊・西などロマンス諸語では歴史的にラテン語の"ille"のような限定詞・指示代名詞の類が定冠詞に変化した)」が用いられる。つまり、事物・現象を同一性あるもの(反面にその別異のものも想定される)と主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「定性」を見出す。

さて、本当に、あなたと私(読者と筆者)とは、「この言葉・その言葉"the word"」を認識できていようか?そもそも、筆者が本当に文を書いているということ(筆者の筆者たること)を、誰が証明できようか?「この・その」という同一認や仮や暫的表現も、共通主観性による「便宜的想定」の範疇で有り得る(=真の客観性としては有り得ない)。ある話し手が「これはマルでこれはバツで」という時の「これ"this, 梵語: etad, ラテン語: hoc"」は、話し手とその聞き手とが共に在る状況でしか通じない。言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い。しかし、固定的な意味とその作用を期待して人々は後世に及ぶような教育・思想を示し、文書・文学を著す。古語・死語・外国語であれば、普通は後世の母語のみしかできない人には通じないのに、結局は翻訳されて通じるか、通じたい者がわざわざ古語・死語・外国語を学ぶこととなる。

量性の「どちらの事物・どちらの時が、他方の事物・他方の時よりも、どのくらい多い・少ない(優劣・正邪・善悪など)」という表現や、定性の「これ・それ」ということも、その事物が客観的に知られている状況にあらねば、最も詳細な表現も等しく空虚となる(emptiness, meaninglessness, nonsense)。基本的に、日常的な会話も独り言も世間の格言も、この「量性・定性」や、言葉の「その場限りであること」という、「条件によって意味があること」に乖離するものでない。これら「空虚である」という認識から、無量の・無限の(範囲や時間に限定の無い)愛や慈悲(love, kindness, compassion)が保たれることは、宗教信者の美徳である。私には、そういった徳の有る考え方・見解(thought, view, 梵語: vitarka, dṛṣṭi)が、維持されづらい。

「量性と定性」の事例が示された過去記事 (quantity, definityといった語はほぼ出ないが類義語や語源的に通じる英語・ラテン語・梵語などの語句が見られる)

2017年1月6日: 本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理 ※主観的真理と客観的真理に関する説示
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html

2017年2月20日: 仮設エッセンス(仮我・假我) ~ 主観的真理に生きる道
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/02/provisional-establishing-of-the-essence.html
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。
いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。

2017年8月10日: 仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/buddhist-dharma-and-social-law.html

2017年9月21日: 梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

2018年6月11日: 語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響 ※仏教やキリスト教の聖典の説を参照+「量り」の梵語・古代ギリシャ語にある同根語を調査
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/06/hakari-hakanai-etymology.html

2018年9月9日: 日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/09/japanese-indo-european-quantity.html



2019年10月の補足事項
命題の真"true"の通俗的客観性・限定的客観性のことで、疑似的客観性・疑似客観性"pseudo-objectivity (ギリシャ-ラテンハイブリッド複合語)"という表現も当記事以後の投稿2019-05-16うち4月上旬文の引用でした。余分なので当記事に記さなかった。多くの科学者は信念or理念として、彼らの「共通主観性」を客観性(証明可能な絶対的・客観的な真理性)と考え、研究対象を量的な自然物として扱う。人文・社会系の人の一部は、相対主義やポスト構造主義や社会構築主義の立場でその正統派の科学観に否定的だが、私の言いたいこととは異なる。なお、個別の客観性を言うと、「水はH2O (化合物の一種) である」とは科学で承認される客観的な事実であり、「水はH2O (化合物の一種) であると信じる」とは認識論的な哲学者側の説明である。「水は存在しない。H2Oは存在しない。ということも無い」とはニヒリズム寄りの形而上学で説明の意味上の全否定(即肯定)かつ承認の行為まで否定する説明(本質的ナンセンス nonsense, meaninglessness および空 śūnya)である。

「共通主観性」を今までに私による英語名称の文字列でしか検索したことが無く、今更に日本語でダブルクォーテーションマーク完全一致検索をすると、"共同主観性"とGoogleが示してきた。英語の"intersubjectivity" (ドイツ語intersubjektivitätで表すことがフッサールという現象学の哲学者に帰する説明に多く見られる。フランス語版Wikipedia - Intersubjectivité, oldid=162854583 はカントの判断力批判で開発された"développé"というが恐らく原典にその語自体は無い)を示唆する場合に他の訳は相互主観性・間主観性でもある。一応、付記する。


2018年12月5日水曜日

MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)

MIDIのピッチベンド(Pitch bend)で特定の周波数を再現する方法を考えた。
ここでは、インターネットで讃嘆されることのある 432 Hz (432ヘルツ)を再現しよう。
そもそも、現代の音楽のチューニング基準は 440 Hzであるとされ、それはMIDIキー (a.k.a. Scientific pitch notation)でいうと C4ラ (音名"la"のこと 英語: A; A4 日本語: イ)であるということを念頭に置く必要がある。
つまり、普段の音楽が一般的に440 Hzであり、それに対して432 Hzという別の基準の音楽もあるということである。
それは楽器のチューニングにおいて、その C4ラ を432 Hzにして実現されることとなる。
DTMで音楽制作をする場合の手短に音を432 Hzに変える手段を、私は望んだ。
ここでは、MIDIで簡単に432 Hzを再現する方法を説明しよう。

方法の説明 (数式の求め方)

440 Hz と 432 Hzの数値上の差は8である(1st: 440 - 432 = 8)。
ピッチベンドは8191 ~ 0, -1 ~ -8192の数値で構成される。
この+-値は、キー(ピアノ鍵盤相当、半音)でいえば上下2つ分の音の差(全体で4つ分)が有ると定義される(ソフト等の使用環境にもよるらしいが一般的にデフォルトではキー2つ分=2半音という、ここではその前提)。
i.e. ピッチベンド -8192 = キー -2


キー -2は、周波数440 Hzの置かれた C4ラ (la 英語: A 日本語: イ)から数えて2つ下の C4ソ (sol 英語: G 日本語: )である。
その C4ソ の周波数は 391.995...という無理数らしく、ここでは四捨五入して392 Hzとする。
周波数440と392は絶対数48の差が有る(2nd: 440 - 392 = 48)。
先ほどの周波数440と432の整数は8の差が有ることを思い返し、両者の割り算をしたいが、ここでは8を48で割り、0.16666... という数値を求めた(3rd: 8 / 48 = 0.16666...)。
これをキー-2 = ピッチベンド -8192に掛け算をすることで、私は周波数 432 Hz を再現するピッチベンドを近似値として -1365に定めた(4th: 0.16666 * 8,192 = 1,365.27872...)。

以上の如く、周波数 432 Hz の音楽をMIDIで再現したいときはピッチベンドで-1365 (または微調整で -1366)を指定すればよい、と結論付けておく。

(440 - 432) / (440 - 392) * 8192 = 1365.27872... ≈ 実用の整数-1365





検証①
計算結果の数値をピッチベンドに適用し、その音声を録音するか、音声ファイルに出力する。
何らかの波形編集ソフトで「スペクトラムアナライザ(スペクトラムアナライザー)」などを用いて具体的に周波数を確認してみるとよい。



こちらは、そのようにピッチベンド値 -1365を指定して実際に再生された音楽の、音声比較動画である。
ソフトウェアはPraatであり、スペクトログラムで音声を視覚化(可視化)している。

「人間の認知機能の主観性(subjectivity of cognition)」を重んじる立場から言えば、ただ従来に440 Hzとされる何らかの音楽を主に聴いた人が、その人の感性の差によって、432 Hzとされる何らかの差異に好印象を覚えたり悪印象を覚えたりするくらいのことと私は考えている。
だから、もし臨床実験をして432 Hzに良い健康的効果(癒し効果など)が確認されたという客観的な統計結果が取れても、それを解釈することに関しては客観的な善悪が問えないと私は考えている。
現今の世間では、432Hz癒し云々・440Hz悪魔云々・440Hzナチス云々という説(1, 2)があり、かつまたそれらが陰謀論の扱いを受けている。
一応、主観性を重んじる立場であるからこそ、この音楽動画を示すことをしておく。
実験音楽"Experimental music", 認知音楽学"cognitive musicology", 音楽神経科学"neuroscience of music"の趣旨についても考慮する。



検証②
A = 432 Hzであるときの他の音高の周波数を書いているページが外部にある。
こちらを客観的情報の一例として比較してもよい。
https://pages.mtu.edu/~suits/notefreq432.html

※2018年12月18日にWaveToneというソフトをダウンロードした。当記事の目的に関連した説明のみをする。これは任意の音楽ファイル(wav, mp3, ogg等)を開く際に「基準周波数」の値を指定することで、そのソフトの画面内のピアノロールにキーごとの周波数の値(小数点第二位まで)がピアノロールより上のバーに表示される。このソフトの「基準周波数」という項目は、そこに入力された周波数の値がC4ラ (ソフト内ではA4)であることを意図している。各自で任意のピッチ基準のキーごとの周波数が調べたい場合、このソフトを参考に用いてもよい。



背理法による裏付け?



備考: ピッチベンド -8192(どの環境であれピッチベンドの最も低い数値)がキー -2 (-2半音)でない環境での計算のためには、適宜にその分のC4ラの下の音を用いて計算する。つまり、仮定的な記号で数式を示し直すと、
1st: 440 - H = h →
2nd: 440 - M = m (このmの数値はhよりも高くあらねばならない)→
3rd: h / m = d →
4th: d * 8192 = P となる(あくまでも近似値なので実際に用いる数値は四捨五入か当人聴覚で適切な整数に調整)。



備考: もしピッチベンドの両端がキー2つ分のみである人が、キー2つよりも外の周波数(392 Hz未満と494 Hz以上)が基準値である音楽を作りたい場合、音楽全体のMIDIノートのキーの位置を近いところへずらす(これは普通の作曲プロセスで転調のための作業に同じ)かキー設定を変える必要がある。基本的に、キー1つ分よりも狭い周波数が基準値である条件においてその計算を行う。要するに、440 Hzから見た432 Hzとは、キー0.32ほど下の音であり、それは普通の楽器の「1オクターブを構成する12個のキー」で鳴らし得ない音であり、MIDIのピアノロールもそう作られていないから、ピッチベンド-1365 (先の仮定記号P)という近似値を求めた。



備考: MIDIで440 Hzよりも高い周波数が基準値である音楽を作りたい場合、それに必要なピッチベンドも + (正)の数値となる。その場合、先の仮定記号のうちh, mはそれぞれ-hと-mとなるが、そのまま割り算をすれば負の数同士の割り算が正の数になるという中学校一年の数学で習ったような話の通り、dそのものとなる。後は、ピッチベンド8191 (0を1と同じように数える方法では厳密にマイナス時と同じく8192でなくてはならないとも考えられる)に掛け算を行えば、Pの数値が出るので、この場合も近似値を求めつつ、正の数字のまま用いる。例えば444 Hzを望んで主要部と同じ計算方法(この場合はキー2つ上のC4シ = 英語: B 日本語: の周波数の近似値をMに当てる)を試すと、606.74...という数値になったので、606か607を適宜に用いればよい。



備考: A = 440 Hz よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は220である。かつ、「検証②」に示されるサイトのページ内には、A432 (432 Hz)よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は216 Hzである。これらはC4ラ = A4 であったときの周波数8の差が、半分の4になるなど、整数の差が等分になっている。オクターブ差は、1オクターブ高い場合が同様に等倍である。無理数の場合も、オクターブの差がある分に、欠けた端数以下まで等分や等倍となる。例として、C3ド (英語: C 日本語: ハ)は 261.6255... Hzだが1オクターブ低いと130.8127... Hz、1オクターブ高いと523.2511... Hzである。それらは実際にそうやってA = 440Hzにチューニング・調律された楽器の音を鳴らして測定しつつ、それらの音が適切な和音を鳴らした際に不協和音にならないことを聴覚で確認した上で、数学的な道理をも鑑みて学問的に決定された数値と考えてよい。



他の参考事項
・1オクターブを構成するキーの周波数に適用された十二平均律・2の12乗根 (twelfth root of two)
・キー4つ離れ(5度)やキー6つ離れ(7度)の位置でノートを重ねてパワーコードを鳴らすこと



雑学: 432 Hz を良いものとして推奨する論調は、数秘術 (numerology) の一種から出ているかもしれない。比較の材料に「ソルフェジオ周波数 Solfeggio frequencies (日本語訳書にレオナルド・G・ホロウィッツ著「ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz」 ISBN 978-4198633431がある)」のドグマ・教義 (1, 2) がある。英語タイトル The Book of 528: Prosperity Key of Love "2. 528, John Lennon and the Church of Satan" (ISBN 978-0923550783)。 「自然物としての音」または「デジタルな信号の配列から出力される音」が別個である場合に、432という規則的に見える数字列や174-285-396, 417-528-639, 741-852-936といったアナグラム数字列を当てても、医療的に有益な効果 (benefits) があるとは言えない。先述の通り、「癒し」などの効果を求めるにも、「もし臨床実験をしてそれが確認されたという客観的な統計結果が取れても、それを解釈することに関しては客観的な善悪が問えない」し、原因の積極的な解明や説明は、既に実証されたと医学界で承認される方法に比べて困難である。せいぜい「効能書き」を見た個人にプラシーボ効果 (placebo effect) があるのみではないか?他の事項については「ツッコミ」をしないでおく。





起草日: 20181021

当記事の途中(検証①)においても埋め込み表示してある動画は、当記事の内容の補強として投稿された。
https://www.youtube.com/watch?v=Pn9bFeIhdLE

関連記事
2014年10月5日: MIDIにおいて再生時間を算出する数式・公式のメモ
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/midi.html

後年の追記
キー key の意味をカラオケ的な感覚(ネット上の用例の曖昧な認識)で理解していたり、ピアノ鍵盤の白鍵・黒鍵 (keyboard with white keys and black keys) の類推をしたり、という私の誤用が見受けられる。
カラオケ的な「キー 」であっても、これは調や移調のためのシステムに関して言われるようである。
括弧で「半音」とも併記しているが、こちらのみが一義的に正しい、と修正したい。
他の音楽用語に詳しくない諸氏にも、改めて正しく覚えていただきたい。

2018年11月4日日曜日

半母音、響音(鳴音・共鳴音) YとWに関する考察 (やわらかさ)

表題のYとWとは、その音がなぜ日本語に"YaWarakai (やわらかい 柔らかい・軟らかい soft), YoWai (よわい 弱い weak)"という語の音として表れるかといえば、自然言語の道理によるものと考えられる。
それら語句の発生から現代まで同質の"y"(弁別される音素)が保たれているという条件下であれば、それが証明し得る。
「やわらかい"YaWarakai"」は語幹形・古代日本語に直すと「やはらか"YaParaka"」となるように見られれば、既に異質の音に変化していると思われようか。英語"SoFt"は無声摩擦音のSとFが使われる点でこれも柔らかそうな印象である。印欧祖語としてはF音がP音になるように考えられがちであるが、ドイツ語などのゲルマン語派以外に同根語は無いので、印欧祖語の"soft"を求めるための比較・証明はし得ない。なお、「やわらかい」の対義語は「かたい"KaTai" 硬い(漢字音はKō, Gō, QN: ngạnh, MC:/ŋˠɛŋH/) 堅い(漢字音はKen, QN: kiên, MC: /ken/) 固い(漢字音はKo, Ku, QN: cố, MC: /kuoH/)」である。「かたい"KaTai"」のK・Tの音は、英語"hard"という単語と同じゲルマン語のH音=軟口蓋摩擦音 [x] から印欧祖語のK音が推定される言語学で推定された印欧祖語 *kert- にも使われる(この印欧祖語の類義語に *kret- があるが意味は「強い・賢い」関連である cf. 梵語kratu)。なお、日本語「かたい」と英語"HarD"には、「難い=難しい・しづらい"DiffiCult"」の意味も共通する。「かたい"KaTai, HarD, KerT"」という単語から、自然な言語感覚で、たしかに「ゴツゴツ・コツコツ"GoTuGoTu, KoTuKoTu"」とした「かたさ"KaTasa, HarDness"」が想定できる。無論、K・Tの音が有ればその単語は単純論理によってみな「かたい"KaTai, HarD"」という意味になるというわけでない(cf. 高い"TaKai")。

一つの傍証として、当記事ではYとWが「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。
これに際して、YとWのみならず、五十音「あかさたなはまやらわ」の「やらわ」として最後部に列せられる「ら」音=LとRについても「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。



Y, W, L, Rの音声学的な位置づけ

[ ] カッコで国際音声記号=IPA単音・音価表記をする(当記事で多用することに注意)。
Y (他言語異字: J I): 硬口蓋接近音 [j] (ドイツ語・スペイン語では有声硬口蓋摩擦音 [ʝ])
W (他言語異字: V U): 両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇接近音 [β̞] 唇歯接近音 [ʋ] (多くの現代ヨーロッパ言語では有声唇歯摩擦音 [v] ただし歴史的に有声両唇破裂音 [b] の音変化の場合がある)
L: 歯茎側面接近音[l] 歯側面接近音 [l̪] ("lateral" 他に多く異音あり)
R: 反舌接近音 [ɻ] 歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] ("rhotic" 他に多く異音あり)

これらを当記事で「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」と扱うが、簡潔に語義の注釈をする。
シクシャーに基づいた音韻表
by Manomohan Ghosh (1938)
「半母音」の根拠を、私は古代インド音声学・シクシャー(शिक्षा śikṣā)の典籍の記述に求めた。
そこに半母音は"antaḥstha (またはantastha, īṣat-spṛṣṭa, duḥspṛṣṭa)"と呼ばれ、その該当する音として日本語「や・ら・わ」行に当たる"IAST: ya, ra, la, va (Dev. य र ल व)"が挙げられている(タイッティリーヤ・プラーティシャーキヤ1.8節および対応する2.40-43節、パーニニーヤ・シクシャー38詩"īṣan..."など)。
シクシャーは古代インドで「6つのヴェーダーンガ(六論・ヴェーダ関連学問)」の1つであり、音声学的な考察や分類の明確さが近代の西洋における言語学に影響を与えた。日本には平安時代以前から「式叉論」の漢語名称で伝わっているが、その名称は古代インド音声学を指すものとして認知されなかった。5世紀ころの中国人・嘉祥大師吉蔵さんの百論疏など、中国・日本の文献に「式叉論、直訳の意味は学論(英語圏でも"learning"などと訳す)、詳細には六十四能法がある」と注釈されているが、「六十四能」の詳細を誰も語らない。2018年10月13日に私がその「不明事項」を文献学的に検証して出した「インドに原点・原典があり言語発音の種類を指す」という結論を、過去記事に追記した。式叉論に興味のある方は、参照されたい。
なお、英語で「半母音」は"semivowel"であり、音声学用語としてはY系の硬口蓋接近音 [j] やW系の両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇硬口蓋接近音 [ɥ] 軟口蓋接近音 [ɰ] に限られる。
これらは接近音"approximant"の内でも、狭母音 [i], [y], [ɰ], [u] と他の母音を連ねて発音するなどしたイ+ア=ヤ [ja]、ウ+イ=ヰ・ウィ [wi] のようであるため、その音声学用語・狭義の半母音"semivowel"と定められる(イ+ア=ヤ [ja] という見解は平安時代の悉曇の「悉曇要訣: 乃至 य ya 字はイア (i + a) なること亦た勘文有り」や江戸時代の国学の「字音仮名用格」にも見られる)。

「響音(響き音・ひびきおん・きょうおん)」とは、英語"sonorant (sonorants)"の訳語である。
この概念については、日本語版Wikipediaの記事名で「共鳴音」とされ、日本の音声学の論文でも「共鳴音」・「共鳴性("sonority"からの訳語)」といった訳語が用いられるが、「共」という字は"consonant"のcon-という接頭辞を想起させるために紛らわしく余分である。
中国語版Wikipediaの記事名「響音」や、別の日本語論文らの「鳴音」という、それを用いた方がよいと考えるため、私は「共鳴音」という語を主に用いず、併記のみした。
響音としての性質"sonority"がある音を音声学では響音と呼ぶ(その英語での名称は既に記された"sonorant"以外に"resonant"、古くはソナント"sonant"とも)ならば、当記事で説明されるY, W, L, R系のみならず、M, N=鼻音の系統も挙げられる(過去記事にも記したがそれらは実際に話される言語の内でも「成節子音」という子音と合わせる母音的に用いられる・音節主音として用いられる特徴を持つ e.g. チェコ語・スロバキア語・スロベニア語などスラブ語)。

当記事で、私は外国語の日本語カタカナ(カナ)表記を、以下のようにする。
W(V U)字は慣習的にワやヴァと私は綴るが、上記の音価の違いは言語ごとに意識されたい。
ドイツ語のJa-やスペイン語の-lla (同一言語内の方言差あり)などは、一般的な日本語のヤ・ジャと異なるが、私は既成事実化した綴りでヤ・ジャなどを適宜に用いる(実際の発音・音価としては異なっても音素としては同一言語内で割と区別可能・排他的で類似するので気にする必要も無いが)。
その他の字とその発音に関することも、慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ表記にするが、常に何の音価(IPA 音声学の記号を用いることのできるもの)であるか、意識されたい。
なお、当記事の随所で、カタカナ表記自体の話題も行われる。





Y (他言語異字: J I)

ラテン文字Y字は、ギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、古典ラテン語では円唇前舌狭母音 [y] (イのように舌が前に来るウ音であって古代ギリシャ語のΥ字の発音。古代ギリシャ語からの借用語に限られる)のために用いられた。
古英語(文献は"Beowulf"など)でも、当の母音 [y] とその長音 [yː] の音価となるが、現代英語のY用法=ヤ行音・硬口蓋接近音 [j] のためにはG字(ġとも)または Ȝ "yogh"を用いていた(同時に当時は他の音のためにもG, Ȝ字が混じって使われた)。
後の中英語や近代英語初期には、イの音 [i] のために用いられた(母音 [y] の音変化 [i] や子音 [j] の表記に用いるなどした経緯もあって相変わらず混じりが多い)。
現代の英語における文字の名称は「ワイ /waɪ/」であり、日本語でもそう呼ぶ(同じ半母音のW音が現れて置き換わった名前であり混ぜこぜ cf. 英語vowel フランス語voyelle)。
当記事では、あくまでも現代英語や日本語ヘボン式ローマ字などでヤ行音・硬口蓋接近音 [j]のために既成事実化して用いられる子音・半母音としてのYとして説明する。
紛らわしさを回避する場合は [y] のような表記(何度も示す通りIPAの音価表記であってこれは円唇前舌狭母音を示す)によって区別している。
「硬口蓋」の音"palatal"と硬口蓋化した音が、「やわらかい音」の代表であると私は当記事で語りたい。後述のスラヴ語学の用語「軟音」も参照されたい。「やわらかい音・軟音」は「口蓋"hard palate"」で発せられる。その「硬」という字が「口蓋」に掛かっている通り、「口蓋"palate; roof"」という調音部位が物理的に硬い部分・軟らかい部分に分かれていることを示す。反対に、「口蓋"soft palate"」という名称の調音部位もあるが、これが一般的なK音・カ行音(硬・かたい"Katai")無声軟口蓋破裂音 [k] "voiceless velar stop; plosive"などを有している。

日本語の学問で「拗音」と呼ばれる音のうち、「開拗音」は「きゃ・にゃ」など「小文字や行(ゃ・ゅ・ぇ・ょ。ぇは母音としてのぇと区別する)」を用いて示された硬口蓋化の音(IPAでは [ʲ] の字が付される)を指す。
ヘボン式ローマ字など、一般的なラテン文字表記では子音字と母音字とに"y"を介して"kya, nya, rya"と綴られるが、「じゃ」という有声歯茎硬口蓋破擦音は"ja"と綴られる(もっと翻字的な"jya"とする者も稀にいる)。
日本漢字音のうち比較的古層のものは呉音であるが、それらのうち語頭が硬口蓋化歯茎鼻音 [nʲ] の発音の字は、中古音ともSino-Japaneseとも呼ばれる音で硬口蓋鼻音 [ɲ] (中古音の学者たちは歯茎硬口蓋鼻音 [ȵ] とする)が想定される。
その字は「に・にゃく・にゅう・にょ・ねん(例は二・若・柔・如・然)」などが当たる。
それが漢音では「じ・じゃく・じゅう・じょ・ぜん」といった、音素「ざ」行/z/となる(歯茎鼻音のナン・ナム発音の字は男=ダン・ダムとなるなど類例があるがそれは鼻音・破裂音の互換であるため別の現象と考えた方がよい)。
現代日本語で「柔軟=じゅうなん"jūnan" (仏教読経: にゅうなん"nyūnan"」と発音する言葉も、修正主義・合理主義的に呉音でいえば「にゅうねん"nyū'nen" (i.e. にゅうにぇん"nyū'nyen" 中古音やSino-Japaneseとしては/ɲiu.ɲen/となろう)」と読まれるべきものである。
現代中国語普通話でも、同じ子音系統の発音で"róuruǎn (拼音 Pinyin による)"と読まれる。
つまり、「柔軟(にゅうにぇん"nyū'nyen")」は、軟らかそうな印象の子音が頭に付く音節を2つ重ねた熟語である。
当記事のR字の項目でも、この系統の漢字音について再び記す。なお、この日本語学問で開拗音といわれる発音のうちSino-Japaneseで硬口蓋鼻音 [ɲ] のような発音だった漢字は、二人称の代名詞「汝・你」や状態の代名詞・指示代名詞「爾(尔・尓)・若・然」などに見られる。その仔細はシナ・チベット語族の学問に任せよう。そこではシナ・チベット祖語の再構語(二人称代名詞・単数形 *na-ŋ)が提案されている。当記事冒頭に「よわい"YoWai"」という和語の字を挙げたが、これも漢字の「弱い・」は漢音「じゃく"jaku"」に対して呉音「にゃく"nyaku"」がある(中古音の例→ 鄭張 /ȵɨɐk̚/ 王力 /ȵʑĭak̚/ cf. 蒟蒻の"蒻 ニャク nyaku")。「柔軟・軟弱」の3字の同一性は、ベトナム語の国語"Quốc ngữ"表記だとみな語頭nh- (硬口蓋鼻音 /ɲ/)であること nhu, nhuyễn, nhược が直接根拠になる。

そのように、発音が状態そのものを指す言葉を「自己言及"self-reference"・自己整合語"autologisch, autonym"」ともいう(後者は日本語インターネットだと英語"Autological word"から翻訳されたWikipedia記事が発祥であり、活字の日本語文献で説明されたことは無い)。
これぞ「ふにゃふにゃ"funyafunya"」、「やわらか"yawaraka"」発音である。
冒頭にも「やわらか」ということに関して同じように説明していたが、「にゃ」と「な」のどちらの方が柔らかい・軟らかい・柔軟だと感じるかは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
「柔軟」も、その極端な発音に変えるならば、「にゅうにぇん(じゅうじぇん)」か「ぬーなん(なお軟の"なん"発音は辞書的に慣用音とされる)」となるが、どちらの方が柔らかいと感じるは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
ここでは古代からの言語感覚の実例を示すことができたらば、それでよいと思う。
擬態語「ふにゃふにゃ」の音は母音の連なりによって動的な印象が付与される。"u-a-u-a"という母音の連なりは"口を意識しながら発音してみると実感できるように、狭い母音・広い母音の移動である。もし「ふにゃふにゃ」という擬態語の実物があるならば、それが「ふにゃふにゃ性」を失っている時、多少の音変化を伴って「ぼなぼな"bonabona"」とでも表現できる。現代日本語の慣用句(オノマトペ系)「有耶無耶(うやむや"uyamuya")」と「もやもや・ぼんやり"moyamoya, bon'yari"」を比較されたい。

ヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ を有する言語のうち、オランダ語など一部の言語ではY字でなくJ字を用いる。
オランダ語では、条件異音・強調発音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] が現れる。
有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] は、標準の音素として同じゲルマン語派のドイツ語 j や、イタリック語派ロマンス諸語のスペイン語 y に用いられている。
音韻学的に少し説明したいことは、「接近音」というものが有声音のうちで最も閉鎖性(インド音声学・梵語でいう接触"sparśā, spṛṣṭa")が弱い=子音性が少ない(半母音"antaḥstha"または"duḥspṛṣṭa")が、その発音の閉鎖性を少しだけ強めると、そのような有声摩擦音になる。
この点で、それらの言語は、「強めの発音」を行った際にヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ が異音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] になるものか、新たな音素として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] に変化して既成事実化したものか、ということになる。



Y系の音はロシア語などで「軟らかい"soft ru: мягкий... [ˈmʲæxʲkʲɪj]"」とされる (on Slavic languages)

一方、外国語では印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)のスラヴ語派(スラブ語派)の多くの言語に、日本の拗音>開拗音と同じような「軟音"soft consonants"」がある。
キリル文字を用いる場合は、「Ь (軟音符または軟音記号"soft sign") IPA: [ʲ]」に表される。
日本の開拗音といえば、音声学で硬口蓋化"palatalization"による発音"palatalized"を指すが、スラブ語学ではそれらを"softening (柔らかくすること)", "sofetened (柔らかくなった音)"と称するようである(典拠不詳)。
キリル文字において、軟音の発音は「Ь」以外に、平仮名の「や・ゆ・よ(ゃ・ゅ・ょ)」に相当する「軟音系の母音」とみなされた「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」も用いられる。
「軟音」という語を「硬口蓋化した発音」として用いることは、スラヴ語学に限定される。音声学で「軟音(対義語: 硬音)」というと、これは別の概念を指す点に留意されたい。また、「Ь」字は古代教会スラヴ語で"front yer"として前舌・狭母音の弱母音 [ĭ] を示していた字だとされ、初めから軟音・硬口蓋化を示す字だったわけでないことを留意されたい。似た字形に「Ъ (硬音符または硬音記号"hard sign")」があり、これは軟音・硬口蓋化でないことを示す字だが、先と同様に古代教会スラヴ語で"back yer"として後舌・狭母音の弱母音 [ŭ] を示していた字だとされる。

日本語の「や・ゆ・よ」とロシア語など東スラヴ語群の「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」とは、文字単体の場合に音声学では硬口蓋接近音 /ja, ju, jo/ として扱われるであろう。
日本語と東スラヴ語とにおける硬口蓋接近音が、なぜ母音「あ・う・お (a, u, o)」しか無いかといえば、「い・え(i, e)」は前舌母音(front vowels)として発せられる音であって硬口蓋接近音の硬口蓋化の音と発音の仕組みが似ているためである。
そのため、現代日本語で通常は「いぃ(ゆぃ yi)・いぇ(ye)」を発しない(イェス"yes"とかイェール"Yale"のような外来語か再建された古代日本語ヤ行音くらい)し、キリル文字にも「Я Ю Ё」を主に用いて"yi, ye"系の音の字を用いない。
yi発音 /ji/ はウクライナ語 Ї が有り、ye発音 /je/ はロシア語・ベラルーシ語(2語は異音としてのみ)・ルシン語 Е が有るが、使用(および異音出現頻度)が限定的である。
南スラヴ語群のうちのブルガリア語に関しても、英語版Wikipedia記事に「イェ /jɛ/ から エ /ɛ/に変わること」が示される。
スラヴ語派は、キリル文字を使わない言語も多くあり、それらにおける「軟音」の有無や多寡も別途検証されたい
例としては「鹿"deer"」を意味する言葉に、チェコ語jelen スロヴァキア語jeleň ポーランド語jeleń セルボ・クロアチア語jèlen/јелен (セルボ・クロアチア語のみ南スラヴ語群で他は西スラヴ語群)などがあり、語頭が硬口蓋接近音 [j] のイェレン発音であるが、スラヴ祖語(*(j)elenь リンク先に東スラヴ語群のロシア語оленьなど諸々の例あり)ないし印欧祖語(*h₁el-)ではその音が無かったと推定されている。

「Y発音・ヤ行音(音声学的に特定すれば硬口蓋接近音)」が「やわらかい(軟らかい・柔らかい)」ということは、外国語・西洋言語の中でも言われることが確認できた。
記事の本題・仮説のための一つの根拠としよう。



備考: 中世~近世日本語「あ・い・う・え・お」は"a, i, u, ye, wo"?

先のスラヴ語のうち、一部は印欧祖語・スラヴ祖語でエ系統だったものが現代までにイェ系統になっている言語(チェコ語・ポーランド語など)が確認された。
また、その一方でイェの発音が消失したか条件的に現れる・方言に残っているらしい言語(ロシア語・ウクライナ語・ブルガリア語など)も確認された。
日本語はというと、国語学者・言語学者の一部は中世(ここでは平安後期~戦国時代)や近世(江戸時代)に「あ行=あ・い・う・え・お」が"a, i, u, e, o"ではなく、"a, i, u, ye, wo"のようなものだったと考えている。
そのような雰囲気を私は感じていた(誰々の説かは不確か)ので、当記事の執筆に際して江戸時代の国学の書を見直した。

本居宣長さんの「字音假字用格(もじごゑのかなづかひ)」に「アヤワ三行の差別を明らかにすべきだ」、「オの字はア行であってヲの字はワ行だ(i.e. ア行の"オ o"が"ヲ wo"の音で発せられることは誤り)」、「(梵語への漢字音写について)梵語の長ウ(ū ऊ)と短オ(o ओ この悉曇学でいう短オはグナであって長オはヴリッディau औ)とを混同して空海はどちらにも『(新字体: 汚 簡体字: 污 ネット複製には汗と誤植される)』という同じ字を当てる。(中略) ウとオの区別もできない者にオとヲの区別など不可能だ。インド人の宝月(Ratnacandra)から梵語を学んだ慈覚(円仁さんのこと)は『(平仮名お・片仮名オの原形)・』などの字でア行オを正しく表現した。当時の日本人が正しく学べば正しくオとヲの区別をできたはずだ」という見解が示されていた。
なお、彼は中国・日本におけるア行オの誤った漢字音写の例として「」の他に「」などを挙げてもいるが、現代中国語ピンインでwuとかyuとか中古音・反切の頭音で羽とか雲とか汪とかのようにy系もw系も有るし、於や奥などもそれぞれy系やw系と相互に表現し合う傾向にある。母音についてもo系とu系は「都・図・頭(呉音がu系 漢音がo系)」に代表される相似性がある。時代ごとに異なる反切などが示された韻書・字書の見方を誤って論ずると、循環論法になりかねない。これは本題と逸れる。彼がどう漢字音を認識していたかは、興味のある方が別途考察すればよい。
これら記述が示唆することは、18世紀のころに「ア行オ /o/=音声的にヲ [wo] でワ行オ /wo/と同じ」だったことである。
また、ア行エ"e"とヤ行エ"ye [je]"との混同を示す書に大矢透さんの「古言衣延辨證補(明治40年作という)」があり、そこに「万葉集など上古には阿也(ア・ヤ)二行のエ音を分別して仮名(漢字音写)で記していた」とし、ア行エが「衣(音を借る) 得(訓を借る)」・ヤ行エが「延・要(音を借る) 江(訓を借る)」などであるとしてその詳細が示されていた(その元の話題は奧村榮實・奥村栄実さんの「古言衣延辨」でそちらにも同様の説がある)。
こちらの方は、古典における万葉仮名・など和語漢字音写の区別に関する話題が主立っていて中世や近世の日本語の音価の比定には向かないが、参考までに例示した(なお、後者・大矢透さんの書に「空海さんの時代にも別の音であることが常識的に認識されていて『いろは歌』に"越えて ko-ye-te"のみあってア行エが載らないことから彼は『いろは歌』作者でない」という話も書かれる。彼はア行エとヤ行エが区別されない時代のエ音素の音価を [e] ではなく [je] の方に定めていたと分かる)。

JAPONIAE INSULAE DESCRIPTIO.
(Flickr and Wikimedia commons)
他に、室町時代・安土桃山時代・戦国時代のあたりの新ラテン語(c. 1500-)の日本地図や、日葡辞書などを参照するとよい。
地図のうち"IAPONIAE (JAPONIAE) INSVLAE (INSULAE) DESCRIPTIO."には、令制国の名前など主要な地名が記されており、伊豆"Hizu", 和泉"Hizumi"といった語頭H字が現代フランス語"h aspiré, h muet"と同じような彼らのラテン語発音によって無音のままに付けられていたような表記があるので、この語頭H字を有字無音(黙字)として読んでもらいたい。
その上で「越後"Hiechigo"」は、発音を示すと「いぇちご"Iechigo Yechigo *jechigo"」だったと読み取れる(越前"Hiechigen"・越中"Hietchu"も同様)。
ヤ行の音の比較のためには「大和"Hiamato"」、「伊予"Iyo"」がある。
ただし"Fechi Iouoxima"のIoはジョであって八丈島(現代ローマナイゼーション"Hachijō-jima")を指し、その南の"Iasima"は八つの島=八島(やしま Yashima)で伊豆大島と八丈島の間にある島々(伊豆諸島の一部)を指すと思われる(この地図に描かれた状態としては現代のそれらと大分異なるようだが当時の西洋人が少ない伝聞などから製図したためであり当記事の話題に関しない cf. 1720s J.C. Scheuchzer日本地図"Fatsisio. I")。
「越」の字は、字音仮名遣いで「ゑつ"wetu"(そもそも字音仮名遣いは初めに江戸時代の国学者が宋以前の韻書・反切などを参照して既存の仮名遣いを修正して整備したもの)」であった(cf. 説文解字・広韻: 王伐切・わうばつ→わつ"watu" 南"Vietnam" QC: Việt Nam)。
このワ行エ"we"のヱ(ゑ)の語頭w-が、中世にはア行エ"e"・ヤ行エ"ye"との区別を失い、すべて"ye [je]"に変化(合流)したということになる。

現代に語頭がオ音である単語に「奥州・近江・尾張・隠岐(字音かな→あうしう・あふみ・をはり・おき)」があるが、それぞれ"Villoxu, Vlloumy, Vlloari, Vuoqui"と、語頭の音の同一・別異を問わずに綴りが不揃いである(しかも後述のW = V, Uの項目やLの項目に示されたラテン語・ロマンス諸語の道理を知らねば綴りの意図が想定しづらかろう)。
それであっても、当時のオ音素は、その音価が語頭V字(U, Wに相当)であることからワ行オ"wo [β̞o, wo]"であったと示唆する(気になる例は大"ō historical: ofo"長母音が反映されていない大隅"Osumi"と大五島?"Ogoto" 豊後"BVNGO = Bungo"と書かれた九州島とその周辺にある)。

これらの情報や、私が未だ示していない情報など(e.g. 日蓮大聖人御書・真蹟遺文 ほかカナ文字の写本類 近世の外国語文献 cf. enwiki: Japanese yen#Pronunciation and etymology)から、確かに中世~近世の日本語に"a, i, u, je , wo (極端な場合はa, yi, wu, ye, wo)"がア行の音であったという説を肯定できる。
中世や近世の日本語で、ある程度の地域・期間にア行のエが"ye"で、オが"wo"ということも、単なる母音よりも強めに発して接近音にした方が良いように感じられたか。
これらの時代の特殊な状況下には現代のハ行音価=喉音系・声門摩擦音 [h] (近似するものに軟口蓋摩擦音 [x])によってア行を発すること(ha, hi, hu, he, ho)もできたろう(先のフランス語など中世ヨーロッパ言語の有字無音hを比較。中古音などにおける一部漢字音はh語頭らしいものが呉音でア行の仮名にされることもある)。

以上のように、中世~近世の日本語のア行エ・オの音価が [je] , [wo] だったとして、江戸時代の後期や明治時代には"e, o"のような母音に推移(移行・変化)しきる。
ただし、[wo] だけは助詞「を"o, wo"」で限定的に(i.e. 条件異音として)現れる。
後に外来語を受けてイェ・ウォとして、「五十音から失われた音(音素phoneme, 単音phoneどちらも)」を発する機会が多少増える([ji, wu] も、ごく稀にイィ(ユィ)・ウゥ(ヲゥ)と表記される)。





W (他言語異字: V U)

ラテン文字W, V, U字および先述のY字はみな、究極的にギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、それはまたセム語派の文字「ワウ(waw またはワーウ wāw, フェニキア文字ではY字形)」に由来するという。
500年以上前までのヨーロッパでは、多くの場合にV字形のラテン文字大文字が、母音U (ウ)と子音V (ヴ、ワ)のいずれにも用いられた事実がある。
ヨーロッパ言語の地域で広く用いられてきたラテン文字の始祖ともいえる言語のラテン語のV字は、古典ラテン語(近現代に再建された発音)が母音Uに加え、子音カタカナ「ワ」で表される音=接近音である。
それよりも後世の教会ラテン語のV字子音は、カタカナ「ヴァ」で表される音=有声摩擦音である。
厳密には、前者が両唇軟口蓋接近音 [w] で、後者が唇歯有声摩擦音 [v] である。
つまり、歴史的にはより古い前者が「ワ [wa]」系統で、より後世の後者が「ヴァ [va]」系統である。
単語例は現代ラテン文字で"Vulgata, Vulgāta (古くはVVLGATA)"と綴られる単語を前者で「ウルガータ(wuルガータ)・ウルガタ」ということ、後者で「ヴルガタ」というようなものである。
なお、教会ラテン語で完全にV字ワ系の発音 [w] が絶たれたのでなく、qu-の語句"qui, equus (i.e. 古い表記でQVI, EQVVS)"などに [kw] として残っている(古典ラテン語発音は唇音化 [kʷ] か接近音付与 [kᶣ] で微妙に違う)。
なお、Q字の名称は日本語で「キュー kyū [kʲɨᵝː]」、英語で /kjuː/ と発音されるが、この用法からすれば「クウー /kwuː/ [kʷuː]」と発音されるべきものである(cf. オランダ語・フランス語 ク /ky/ スペイン語 /ku/)。
教会ラテン語発音は、インターネットで探せば多く聴いて確認できる。YouTubeでは"Pater noster qui es in..." https://www.youtube.com/watch?v=PyWBaIEkZ7w (教会ラテン語の統制機関と関連するカトリック教会・ローマ法王による発音)などがある。古典ラテン語発音は、世間の研究者によるものが確認できる。私も自作歌詞の歌唱をしている

インド系言語において、V字= व は、ヴァとワのどちらも歴史的に発音されたと私は見ている。
一般的に、サンスクリットであれパーリであれ他のプラークリットであれ、V字単語が漢語(中古中国語・主に1世紀~唐とそれ以前)ではB系の音の漢字に音写される。
例えば「毘(呉音: び"bi")」は、沙門"sa: Vaiśravaṇa pi: Vessavana"・瑠璃(瑠璃・流離)"sa: vaiḍūrya pi: veḷuriya 元素ベリリウム鉱物berylL/R音位転換"・盧遮那"sa: Vairocana pi: Verocana (パーリ経蔵・相応部11.8経によると阿修羅の名=盧闍那だが中部49経には virocana 単に輝く・光を放つという意味の形容詞も載る)"と音写に使われる。
この「毘」は、B字・BH字 ब भ 単語の音写にも使われる。
同様に阿濕"sa: aśva"(馬を意味する語だがわざわざ音写している場合は人名中に用いられるもの)の「婆(呉音: ば"ba")」といった字も、V字・B字・BH字単語の音写に使われる。
一部漢訳仏典で「婆」はP音梵語の音写に使われることもある(e.g. 後述ヴィパッサナーもといヴィパシヤナーの音写例である毘婆舎那 Trad. 毗婆舍那)が、元の梵語発音者や口語発音の系統に依存するものである。また、現代中国語で「毘(毗) Pinyin: pí」・「婆 Pinyin: pó」はP音外来語の音写にも使われるが、現代中国語は無声音・有声音の区別が薄いためであり、ここでは関係ない。当記事では以後にも「口語発音」のような同語異音現象や、古代と現代の同型言語の差異について、筆者が注意点を示したり、筆者が意識しても注意点を示さなかったりするので、いずれのことも読者が注意すべきである。音声学や歴史言語学自体が言語発音の客観性と主観性について、適宜にすべきものである。
これらは西暦1世紀~10世紀のインド・中央アジアの人物が、インド系言語のV字発音をワ系統でなくヴァ系統で発していたことを示唆する(一部でバ系統に合流することも考えられる)。

漢語の仏典で以上のV字インド系言語・梵語が「毘」や「婆」というヴィ・ヴァやビ・バを思わせる字が使われてきたことに対し、現代のインド・東南アジアでインド系言語(典礼言語としてのサンスクリット語やパーリ語)のV字は、ワ発音である。
イーシュヴァラ(īśvara 神、シヴァ、漢訳・漢語仏教圏でいう自在天)を「イーシュワラ(英語圏でもIshwaraなどとラテン文字表記される)」と、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
マハーヴァンサ"mahāvaṃsa"をマハーワンサ、テーラヴァーダ"theravāda"をテーラワーダと通称することを始め、東南アジア人が主体となっている上座部仏教(特にミャンマー・スリランカの流れ)の語は、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
ただし、ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー"vipassanā"」などは北米で普及した流れを受けてIAST翻字上Vである字をヴァ発音にする英語発音で日本に伝わった経緯があるか、英語風の発音にしたい人がV字(シンハラ文字 ව デーヴァナーガリー व など唇歯接近音 [ʋ] とみなされるワのような音)をヴァ発音にした経緯があろう(現代東南アジアに合わせるならばVヴィパッサナーはWウィパッサナーになる。一方でオウム真理教ラオス遠征動画 on Youtube - 29:46 ヴィパッサナー発音や29:26 バーヴァナー"bhāvanā"発音はヴィパッサナ、パヴァナと聴こえる)。

先述の単語のうち、"aśva (男性主格単数aśvas, aśvaḥ)"は「馬」を意味するサンスクリットであり、その発音をカタカナに示せば「アシュヴァ、アシヴァ」または「アシュワアシワ」となるが、同じく先述のラテン語"equus"も「馬」を意味し、その発音をカタカナに示せば「エス、エクゥス、エクウス(エkwuス)」となる。
二語"aśva, equus"は印欧祖語における同根語であり、サンスクリットのś字の音はシャタ (śata) がラテン語ケントゥム (centum) となるようにK (C), Q字の音と置き換わることが多い(cf. ケントゥム・サテム説)。
これら"śva, quu"は、ともにW発音の方がしやすく、V発音の方がしづらいことは、今、この文を読む者が発音すれば確実に分かるであろう(後述の「モスクワ・マスクヴァ」に関する注釈も参照)。
音声学的に定式化した理論としては、二重子音のうちの先の音が無声音ならば後の音も無声音であると発音しやすいということである(日本語・漢語の鼻音による連濁は先の音が鼻音=有声音ならば後の音も有声音であると発音しやすいという現象を示す)。
「後の音による無声音化現象」は、あくまでも例示だが、英語describe ラテン語describoが接尾辞-tion, -tioが後ろに接することによってb→pとなる事実(en: description, la: descriptio)に現れる。

ただし、接近音も標準的に有声音(声帯の振動を伴うもの)である。
つまり、[swa, kwa] 発音と [sva, kva] 発音のどちらが発音しやすいかとは、その発音者の能力・感覚(主観性)に依存するということであろう(cf. イスラエルの国歌"Hatikvah"ハティクヴァ)。

なお、過去の日本でクワもといクヮ音=拗音のうちの合拗音(唇音化"labialization"の音"labialized" [ʷ] または [w] 付き二重子音)は、漢字音として発音されていたことが認められる(字音仮名遣いクワ・クヰ・クヱ・グヱなど。字の例は花・華・歸・外など)。
二重子音の無い日本語のうちにも、クヮとかキャといった音であれば二重子音とも取れるような音が有り得ることとなる(唇音化・硬口蓋化した音 [kʷa] [kʲa] に定めれば二重子音でない)。
何であれ、ヤ・ワ音、Y W音の半母音たる性質を、私は感じる。

インド言語の話をしていたので、それに関する「半母音たる性質」について一つ補足しよう。
サンスクリットなどに見られるサンディ(連音・連声)の例として、母音イで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはヤ行の音となり、母音ウで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはワ行の音となる現象が挙げられる。
この現象も、古代インドの音声学において半母音"antaḥstha"のうちにY W音が含まれる根拠ではなかろうか(それでは同じくその半母音のうちに含まれるL, R音がどのように半母音の性質を持っているかといえば、当記事で後に考察される通りである)。



続いて、日本語のワ行音・わ字(ワ・和)の話をする。
古代日本語の音素(および歴史的仮名遣い)は万葉仮名などによって推定・再建される。
冒頭に※注釈で示されたよう、「歴史的なハ行音素の変化である古代日本語*pa (パ 音価を理論上想定すると無声両唇破裂音 [pa])→上古日本語*fa (ファ 音価を理論上想定すると無声両唇摩擦音 [ɸa])→中世日本語*wa (ワ 音価を理論上想定すると両唇接近音 [β̞a])というハ行転呼」によるものは、古来からのワ行音と区別されるべきである。
ハ行転呼は、語中のものが主要である。
参考までに、名詞の例には「岩(いは"ipa, iɸa, ifa iwa")」・「家(いへ"ipe, iɸe, ife, iwe, 中世後期: iye? 現代: ie")」などがあり、動詞の例には「言ふ・言ひ・言へ・言はば(いふ・いひ・いへ・いはば ip-, iɸ-, if-, i∅-)」=四段活用ハ行などがある。
原則的に、語頭ワ行音はハ行転呼に由来するものでないと思われる(i.e. 語頭ハ行音はハ行転呼の対象でない)。
語頭ワ行音の例として、「分(わく・わかる・わける)、割る、悪(わるい・わるし・わろし)、井(ゐ)、酔(ゑふ)、尾(を)・居り」が挙げられる。
万葉仮名などから推定された古代日本語に、ワ行音が語中に現れづらいとすれば、ワ行音は半母音の性質があると観測できる。
そのことは、和歌において句中の母音が字余りで許容されるという道理(cf. 国学者見解)・エリジオンを比較されたい。

ただし、ワ行の音が語中に現れる例も少しあり、名詞の例には「声(こゑ"kowe" 現: こえ"koe" 結合辞: こわ"kowa")」・「故(ゆゑ"yuwe" 現代: ゆえ"yue")」・「青(あを"awo" 現代: あお"ao")」があり、形容詞の例には「弱し(よわ-"yowa-", 記事冒頭にも記される)」がある。
中でも、動詞「うえる(植える・飢える・餓える"ueru")」の文語体終止形「うう *uwu (連用形: うゑ) (実際にこの終止形がそういう万葉仮名で文献に載っているかどうかは未検証)」=下二段活用ワ行について(据えるも同系。用ゐる・率ゐるは上二段活用ゐる複合動詞なので除く)、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。
語頭わ行の動詞であっても、文語体終止形「ゑふ *wepu (いろは歌に連用形・名詞化"ゑひもせす"とある)」が現代に「よう(酔う"you, yō")」となっており、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。ただし、後でそれを少し考え直し、その歴史的な音変化を推定すると /wepu/ → /wefu/ → /jefu/ → /jewu/ → /jou/ (よう you)として理に適うようでもある(その後に英語版Wiktionaryの「酔う」項目を見て同じような推定が載っていることを確認した)。
半母音・母音の性質について、このことに重要な示唆が含まれようか。
つまり、断定できないほど古代=原初からその日本語の語句の語中にワ行音があったか(世間の言語学者か在野研究者が各々ウラル語とかアルタイ語とかオーストロネシア語とかオーストロアジア語とかドラヴィダ語とかシナ・チベット語とか扶余語とかと日本語の起源・祖語を探る対象にあるような当時の外来語・借用語ということも有り得て若しそうならばそのまま受容されたか)、断定できないほど古代=原初には異なる音価だったかということであり、当記事では音韻論の上からの判断材料だけを示しておく。



続いて、ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話をする。
V(ファウ)字はファ系統=Fの音(無声唇歯摩擦音 [f])のみを発する(e.g. 前置詞von)。
ただし、"Verb, Vakuum"のようなラテン語由来の語句はヴァ系統=Vの音無声唇歯摩擦音 [v] だという。
W(ヴェー)字はヴァ系統発音だが、フォルクスワーゲン (Volkswagen)のようにsという無声音が直前にある時はワ発音となるような異音が有ろう。
そうなると、ハーケンクロイツ異称の元ネタであるインドのスヴァスティカをスワスティカ (Swastika; Svastika स्वस्तिक) と、ヘブライ文字の記号であるシュヴァー (Schwa; š’vā שווא / שְׁוָא‎) をシュワーと発音すべきであろう。
そこで、Google翻訳の音声合成機能を用いて聴いてみると、やはり「フォルクスワーゲン、スワスティカ、シュワー」という発音を私が聴きとれたので、このようにW字 [v] が直前の無声音s (歯茎摩擦音 [s]) やsch (後部歯茎摩擦音 [ʃ])による条件的な異音 [w] (または [ʋ])として発せられると分かる(反例? cf. ツヴァイ"Zwei [t͡sʋaɪ̯]" シュヴァルツ"Schwarz [ʃʋaʁts]" IPA音価表記は接近音 [ʋ] だがWiktionary添付音声はヴァ音に聴こえる・後述の仮名表記問題>インド言語も参照)。



続いてロシア語キリル文字におけるV・W字の話をする。
в(ヴェー)字はヴァ系統・ファ系統がある。
ヴォルゴグラード・トヴェリ"Волгоград, Тверь"というヴァ系統の地名や、スラヴ系言語の人名なんとかフスキー、都市名なんとかフスクなどに用いられる(過去記事)。
ほか、酒の名であるウォッカ"водка"はヴァ系統(ヴォトカ→[ˈvotkə] Wiktionaryで発音ファイル付き)だが、日本語では慣習的にワ(ウァ)行のカナ表記を用いる。
ロシアの首都は通称「モスクワ」だが、キリル文字Москва́をロシア語読みすると、マスクヴァ [mɐˈskva] に近い。
モは強勢アクセントが置かれてマとして口の開きが広めの母音を伴う(Росси́яをロシアでなくラスィーヤといいрусскийをルースキーでなくてロースケイ≒露助というが如し)。
ワは実際の発音がヴァ系統となるが、音声学的理由が見当たらない。
理由とは、前後の音の相対性が挙げられ、それは必ずしも同じ道理が存したり同じ原因から同じ結果が起こるわけでない=「各言語ごとのクセがある」ということである。
先述ドイツ語は無声音Kとの調和によるスヴァ→スワという変化が観測されたが、ロシア語は無声音S (с)との調和によるクヴァ→クワ法則が適用されないのかもしれない。
しかし、それは先のインド言語に見るように、時代や地域が変われば別の話でもあろう。
すなわち、Москва́を現代ロシア語「マスクヴァ」のように発音せず、日本語カナ「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者が別地域・別時代にいることも有り得る。
ただし、日本語カナ「モスクワ」はМосква́を翻字的に表記しただけで、実際の「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者に由来した表記でないともいえる。
所詮、学問の仮説とは、ある一面に基づく真っ当な思考でいくつも理由(既に認知する事実とその推定)の挙げられる空虚なものである。
また、それを検証して合意が得られれば、当面、真実のように扱われて次の推定や仮説がいくつもされる。
言語学では、事実の例が少ない事柄・インフォーマント情報の不明瞭な事柄でさえ、学者が断定的に論ずることが多い(cf. 過去記事に載る神山2000における成節流音など)ので、過去の発音情報の整理と実在話者の発音例のデータベース化とがされて必要に応じて閲覧できればよい。



備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?

不思議なことに、半母音YとWが、古典ラテン語(文字上は古層のラテン文字に無し)とサンスクリットには有っても、古代ギリシャ語(古代ギリシア語)にはその発音がされない。
古代ギリシャ語の「イデアー(イデア)"idea ἰδέα"(動詞εἶδονに関連。見た目、転じて哲学概念にも・女性名詞)」の同根語(印欧語根*weyd-)に、サンスクリットの「ウィディヤー(ヴィディヤー)"vidyā विद्या"(語根√vidより。目に見える事柄についての知性・知識のこと、ヒンドゥー教ではより神聖な概念に、大乗仏教では五明などの学問の名に、仏教全体では無明"avidyā, pi: avijjhā"のように否定接頭辞を付けても用いる・女性名詞)」やラテン語の「ウィデオー(ヴィデオ)"video" (見る・動詞・能動態・直説法・一人称・単数)」がある(英語の「ワイズ"wise"」も関連する)。
この「イデアー(イデア)」は、ヘレニック祖語で*widéhā (ウィデハー)と再建される。
現代ギリシャ語ではβ(ベータ)字が本来のB発音 [b] からV発音 [v] に変化して一般的に発音されるし、また外来語借用(cf. サナレス Σαγιονάρες)で有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] がある。
しかし、英語のY W [j, w] 日本語のヤ・ワに近似する音は今も無いか、条件異音として有り得る程度と思われる。
よしんば、これらが現代ギリシャ語に有るとても、古代ギリシャ語に有ったと考えづらいが、ここでは有ったという可能性も考察しよう。

例えば、古代ギリシャ・小アジアの地名イオニア Ἰωνία (紀元前1300年代のヒエログリフにエジプト学再建音 /iːuːni ɑːʔɑ/ となる語が有ってイオニアを指すという・かつ"a hapax legomenon")は、古代ペルシャ語(古代ペルシア語)でヤウナ"Yauna 𐎹𐎢𐎴"、中期インド・アーリア語 MIA のパーリ語でヨーナ"Yona" (中部93経など。サンスクリットのヤヴァナorヤワナ"Yavana"はヨーナ=ヤウナからのBack-formation)、ペルシャ語・アラビア語・ヒンディー語でユーナーン"Yūnān یونان यूनान"というので、逆に考えると、古代ギリシャの一部地域・時代においてもイオニアをヨニャとかヨニア(長母音を考慮すればヨーニャー)とかと読んでいたことを推定できる(ちなみに1世紀ごろのユダヤ系ローマ人フラヴィウス・ヨセフスはイオニア人の祖先を聖書の人物「ヤーワーン יָוָן Yāwān, Yavan, Javan」に託したという)。
しかし、その直接の肯定的根拠や否定的根拠は何も無い。
イオニア Ἰωνία の古代ギリシャ語アッティカ方言の再建音は/i.ɔː.ní.aː/ イオーニアーである。
古典ラテン語ではI字がY発音(日本でいうキリスト教祖イエス・イエズスは古典ラテン語でイェースス"Iēsus, Yesus"とでもいえ再建された古代ギリシャ語ではイエースースないしイエスス Ἰησοῦς /i.ɛː.sôːs/ 聖書ヘブライ語ではイェーシューア יֵשׁוּעַ‎ yēšū́aʿ だとかと云々)のためにも用いられたので、その古代エジプトに端を発するというイオニア様の発音が正しく伝わらなければ、ヨニャ様の発音がされることも有り得る。
ただし、イオニア様は4音節で、ヨニア様は3音節でヨニャ様は2音節であり、サンスクリットのヤワナは3音節でパーリ語のヨーナは2音節であるなど、音節の韻律の詩を擁する文化において同じ語が方言間・話者間で音節数が合わないと、問題が生じる。韻律の便宜上に連音(サンディ)の有無を決めることや単語の音節数を意図的に減らす・増やすことは古代インドでも古代ギリシャでも観測されるが、方言間・話者間で固定的に異なる音節の同義語があることは違う。例えばサンスクリットのhṛdayaに相当する語はどう訛っても3音節のまま(e.g. パーリhadaya アパブランシャhiaa हिअअ 後者は実際のMIA口語に有り得るか不明 cf. ヒンディー語 hiyā हिया アッサム語 hia হিয়া)であり、背景にその「音節の韻律の詩を擁する文化」を私は感じる(ただし2音節サンスクリットārya, 3音節パーリariyaのような例外も多い そのまた例外2音節パーリayyaもある)。
所詮は音素として定式的な発音をみなし得ても、過去の話者のどの程度の人々がそのような発音をしたとか、別の発音をしたとかということの一端を示すに過ぎない。
一応、ここで、I字=イ音が、ヤ行音・Y音・硬口蓋接近音、もしくは開拗音・上付きj音・硬口蓋化音と成り得ることを示した。

ラテン語・サンスクリット・古英語はYとWが有るので、印欧祖語もYとWが有る(e.g. *yū́ *weǵʰ-)と言語学において推定されている。
古代ギリシャ語に、YとWが基本的に無いとしても、非常時には有り得るか話者個人レベルでは有り得るか、より古いミュケーナイやヘレニック祖語では有り得る可能性も付記する。
2018年10月27日、「ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話」に書こうとしたことを示す。ラテン文字Fはギリシャ文字「ディガンマ Ϝ (δίγαμμα またはワウ Ϝαῦ ウアウοὐαῦ)」に由来するがそれも先述のセム語派の文字ワウ"waw"に由来するという)。このディガンマは音素 /w/ だったというが、後述の「備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?」で語られるように、古代ギリシャ語の語彙には基本的に無いので、何らかの外来語・借用語のために用いられたろうか?なお、その(アッティカ方言)古代ギリシャ語よりも古いミュケーナイ・ギリシャ語に用いられた線文字B"Linear B"においては wa, wi, we, wo の4つの音節文字があり、その音韻論にも音素 /w/ が承認されていることを留意されたい。
サンスクリット"Yavana"がパーリ"Yona"のような口語からのBack-formationであるという例示については反例もある。サンスクリットの接頭辞"ava- (下へ・下の)"はヴェーダにもあるとして、その複合語アヴァターラorアワターラ"avatāra"は後世のパーリでオーターラ"otāra (相応部20.8経など)"となる(反例かどうか未決だが文献学者らが議論しているものとして比較されたいもの→観音菩薩の「観」・アヴァローキタorアワローキタ"avalokita"が西暦5世紀以前に作られた像の碑文カローシュティー文字・ガンダーラ語と思われる語句"oloiśpara"、サンスクリットのアヴァダーナ"avadāna"がパーリのアパダーナ"apadāna")。種々の例について、一応参考にされたい。



備考: "Y, W"系統に見る接近音と摩擦音の仮名表記問題

当記事で既に出された話題を、改めておさらいしよう。
一言いえば、接近音は多くの場合に(標準的に)有声音(声帯の振動を伴う)であるから、その接触・接近・閉鎖性が強まると有声摩擦音になる。

インド言語のIASTで"v"となる字・音素の発音は、主に有声唇歯摩擦音 [v] と唇歯接近音 [ʋ] に聴こえ、そのためにカタカナ表記ではヴァ行とワ行に分かれるという問題がある。
既述の通り、"v"となる字・音素の音価は、古代インド音声学・シクシャーに"dantoṣṭha (歯-唇のこと), antaḥstha"であり、そのために西洋音声学などで唇歯接近音 [ʋ] に音価を定める。
通念上、接近音として「ワ」に近い音である唇歯接近音 [ʋ] も、話者によっては「ヴァ」のように発せられるか、聴く者によってはますますそのように聴き取られるかもしれない。
また、理論的に「狭母音イは広母音アよりも接触・接近・閉鎖性が強まるので有声摩擦音になりやすい(dvaはドゥワのように発するがdviはドゥヴィのように発する者もいる)」ともいえる。
母音を発する際の関係部位の広さ・狭さは、例えば「舌の前後位置によって歯擦音化・硬口蓋化を起こしやすくなる現象(e.g. 古代日本語ti→現代日本語chi 古典ラテン語ti→教会ラテン語tsi・ロマンス諸語shi ただし二重子音stiは歯擦音化しない)」と同じように、子音の音価をも変える現象を起こす性質(自然言語を用いる民族が各々の発しやすい子音発音に変える)があると考えてもよい。
判断を困難にする例が「古代日本語tu→現代日本語tsu」という無声歯茎破裂音 [t] が狭母音たるuを受けて破擦音化 [t͡s] することである(du, tsuも同様)。
これについては「わ行う(ワ行ウ) /wu/ が日本語から無くなったことは接近音たるウ音の性質が話者にも聴く者にも紛らわしさを生じるし、古代よりこの音を持つ語彙(植える・植う uwuなど)が少なかったからだ」という説明から演繹して「た行う(タ行ウ)=つ /tu/ も同様だ」と単純に結論付けることが可能である(要するに相対性の観点で何か別の条件を示して中性化する)。

インド言語の /v/ 音素の聴こえ方の同様の例は、ヤ系統Y音にもある。
ドイツ語の"j"が「ヤーパン"Japan"」としてヤ行に表記されるも、日本語のヤ行が硬口蓋接近音 [j] であることに対してドイツ語の"j"が有声硬口蓋摩擦音 [ʝ]であるとするならば、これはジャ行にも表記できる。
スペイン語 -lla も、スペイン本土に対するメキシコ・アメリカ大陸などと発音の差を生じていて「有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] ジャとヤの中間の音」のように説明されることが日本語版Wikipediaの記事「トルティーヤ(同じ綴りのスペイン語トルティージャも参照)」、「ジェイスモ(より日本語のジャ=有声歯茎硬口蓋破擦音 [ɖ͡ʐ]に似た音である有声歯茎硬口蓋摩擦音 [ʑ] の話題もある)」などに見られる。

一般世間(日本語領域)で外国語を表記する際、現状ではその言語に既存の「慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ(カナ)表記」を参照して援用する(複数候補が有ればよりポピュラーなもの)しかないが、ここに示されたような音声学の音価を認知している者は、その人にとっての類音のカナを妥協レベル(筆者が稀に行うようなアイヌ文字用の小書きカナなどを用いない一般的な綴り)で用いることとなる。
言語学と、一般言語使用における慣用性・寛容さについて、過去記事(2017年5月10日)でも言及した(衒学的なことは相手によってとても歓迎されるがとても憎まれることもある。後者を厭う場合は学問知識は無窮・無上で真実は不可得・空と他者への自慢は空虚という真の自己満足=悟りの慈悲にすることができるので一般人に教える時は慣用的・寛容的なカナ表記ができる)。
どうしても何らかの特殊な発音や発音体系の言語をカナ文字で表記したいときは、Unicodeの何らかの領域(Katakana Phonetic ExtensionsKana Supplement)を探すなど適宜にする。言語学・音声学方面の話題においては、特定言語のために整備されたラテン文字転写"transcription"か翻字"transliteration"か国際音声記号=IPAを用いて過度に説明せずにおけば、それも一つの処置となる(説明を求められたらば当記事のような長い説明を用いる)。





L

Lには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、サンスクリット(事実上一語kḷpta कॢप्तのみ)やスラヴ系言語には、成節子音L /l̩/ がある(IAST; ḷ またはl̥)。
このことは、読者がLの音=歯茎側面接近音 [l] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー(ルーー lll)」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう(なおサンスクリットの la ल はシクシャーで歯音"danta"と言われることから歯側面接近音 [l̪] だとする見解もある)。

一般的な英語学では、"able, -able -ible"の語(フランス語経由・後期ラテン語由来)にある l が成節子音Lである(音素表記としては /bl̩/ など)とされるが、Lの側面接近を維持した音というよりも、母音とほとんど変わらない音である。
英語のL字は前後の音の相対性によって変わりやすい。
世間に見られる慣用カタカナ表記では、先に挙げた"able, -able -ible"がエイブル・-アブル・-イブルとされがちだが、母音の音にされたものに「アンビリーバボー "unbelievable"」がある。
この-アボーと同系の慣用カナは「アップル⇔アポー"apple", ピープル⇔ピーポー"people"」などがあり、みな語尾の-leが「オー(より似せてオゥ)」の音にカナ表記がされる。
これらのほか、"milk, feel, animal, vowel, bold, world"にある l は、"Dark L"と呼ばれるもので、音声学では軟口蓋歯茎側面接近音 [ɫ] に定められ、英語(および多くの主要言語)でこれが語頭の発音となることは無い。
ついでに、"milk, feel"を2種類のカナ表記にすれば「ミルク⇔ミゥク(ミォク)、フィール⇔フィーョ(フィーォ)」となる。

ロマンス語の一部においては、"ll"の綴りがラテン語・イタリア語のような長子音 [lː] でなくなっている。
例えば、古典ラテン語で"mille"と綴られてイタリア語"mille" ミッレと発せられるような音は、フランス語"mille" ミル、スペイン語・ポルトガル語"mil" ミルのように変化している。
更には、スペイン語の-illa, フランス語-ille がトルティーヤ"tortilla [toɾˈtiʎa] 墨・米 [t̪orˈt̪iʝa]"(スペイン料理)・ミルフィーユ"mille-feuille [mil fœj]"(フランス菓子)・マルセイユ"Marseille [maʁsɛj]"(フランス都市)・ヴェルサイユ"Versailles [vɛʁsaːj]"(フランス都市)などとカタカナ表記をされるように、「laのようなLっぽさ」が無い発音となっている。
具体的にスペイン語の-illaの-ヤは-iʎa (子音ʎは硬口蓋側面接近音)またはメキシコ系-iʝa (子音ʝは有声硬口蓋摩擦音)となり、フランス語の-illeの-ユは-**j (子音jは硬口蓋接近音)となっている。
フランス語の-illeは、日本語のヤ行の子音・Y音素と同じ音価(硬口蓋接近音)に変わっているので、LとYの類似性を窺うことができる。

英単語"palm"と"salmon"は、それぞれカナで「パーム」、「サーモン」となるし、IPA表記や一般的な発音例で見ても /pɑːm/(UK) /pɑm/(US), /ˈsæmən/ となるなどエル発音を思わせない。
前者の単語は、語源のラテン語で"palma"とあり、「手のひら (palm of the hand)」と「アブラヤシの木 (palm tree)」を意味することは共通語源のものとして辞書に定義される。
この単語の語形は、それと別の語源である意味も与えられており、それは"parma"(パルマ、盾の一種)からの派生である (一辞書の説明に collateral とあるが傍系形容詞 collateral adjective のことではない、この段落に紹介される単語は全て名詞) とされ、なぜか l と r とが置き換わる現象が発生しているようである(過去に実際にパルマ盾を指して"palma"と綴る文献が、いつどれほど多かったかについては未調査)。


こういった点を挙げれば多岐にわたるが、これだけでもLが「半母音、響音」の性質を備えた=事実の例に見えるような発音例があると理解できる。
過去記事および動画説明文に私は「どの学問や議論にも言えることを一つ書くと、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのであろうが、私は確かに掴んだ手掛かりを世俗中の頼りとし、精神的な迷いを捨てることで、世俗中の目的(現世的な願望・学問や芸術)が達成されてゆくことを期す」と書いた。
Lという字とその発音の事実相を挙げて分析するほど、空"emptiness"の真理が現れる。
すなわち、Lという概念と名称が無く、当然、本質"essense"・客観的存在"objective existence"も無いということである。
なおトルティーヤ・ミルフィーユ(-lla, -lle)云々の話題や、「本質」ということは当ブログ2015年9月7日の記事にも書いてある。当記事で「(何の音と字であれ)本質"essense"は無い」と書いたことは色々な理由が言えるし、既に記されてもいる。当時は「"J"の字が本質的に"I, Y"などイ・硬口蓋接近音だ」と捉えていたが、要するに、それであっても学問的に考察すれば、ラテン文字・ギリシャ文字・セム語派の文字・エジプトのヒエログリフというようなものの各々の発生経緯を分析すれば、学問的にも「最古の本質」ということは相対的なもの(価値判断のできる人類"Homo sapiens"が必要に応じた用いたもの)であって絶対的なものとみなすことはできず、「本質"essense"」がナンセンスとなるという「空の真理が現れる」という話である。

ただし、これは哲学の話題の記事でなく、言語学的な考察をすべき記事なので、その点を1つ言い直そう。
印欧祖語=インド・ヨーロッパ祖語とその末裔の言語の関係性に興味のある人は、おおよそ、このLの原初の発音(想定上の最初の印欧語話者グループの標準的な音価)を歯茎側面接近音 [l] と信じるであろう。
これについて直接の肯定も否定もできないが、仮説や信仰の範疇で私も歯茎側面接近音 [l] とみなし、信じている。
以下、R字とその発音に関しても先に結論を出すと、その原初の発音を私は歯茎ふるえ音 [r] とみなし、信じている(ただし近頃はインド音声学の考察を深めながら複数のヨーロッパ言語を鑑みて反舌接近音[ɻ] か 歯茎はじき音[ɾ]だとも考えることも多い)。





R

Rには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、スラヴ系言語やサンスクリットには、成節子音R /r̩/ がある(IAST: ṛ またはr̥)。
スラヴ系言語にある成節子音Rは、チェコ語・スロバキア語の早口言葉"Strč prst skrz krk IPA: [str̩t͡ʃ pr̩st skr̩s kr̩k]"が分かりやすい。
興味のある方は、当該Wikipediaほか、YouTubeなど多くのサイトで発音を聴けばよい。
現代のインド人らによるサンスクリット・ヴェーダ系の成節子音Rの口頭での発音の例を聴きたい方は、筆者が2018年4月23日に投稿した動画を参照されたい(それら音声転用の他に筆者による実践の音声がある)。
https://www.youtube.com/watch?v=rs7Mvis6-TA

ソノリティのことは、読者がRの音=歯茎ふるえ音 [r] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ルルル rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
Rの音価は各言語・個人レベルで様々に異なる部分もあるが、英語の接近音R=反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] 後部歯茎接近音 [ɹ̠] など)の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
ふるえ音Rや接近音Rは、みなソノリティがある。
フランス語・ドイツ語に見られる有声口蓋垂摩擦音 [ʁ] やふるえ音 [ʀ] も同様。後者を持続させるならば、いびきのように口蓋垂(のどちんこ)を鳴らす状態を持続した発音となる(その音を顕著にして練習し続けるとグロウル・デスボイスのように喉を傷める恐れがある)。ただし、はじき音"flap consonants"の類はソノリティが破裂音と変わらない印象である。

サンスクリットとインド・アーリア語派の最古のヴェーダ語にある成節子音R = IAST: ṛ (Dev. ऋ)は、パーリ語だとa, i, uのいずれかに変化する。
以下、その例をサンスクリット(ヴェーダ)→パーリの順に挙げるが、併記されたカタカナは慣用的な表現であり、音声学的な正確さに基づくものでない。
サンスクリタ"saṃskṛta"→サンタ"saṅkhata"
フリダヤ"hṛdaya"→ダヤ"hadaya" (後世のプラークリット・アパブランシャ: アア"hiaa" हिअअ )
フリダヤ・ハダヤという「心・心臓"heart; cardia καρδιά"」を意味する言葉はラテン語corやヒッタイト語kerなどによって印欧祖語で*ḱḗrと再建されており、斜格系で*ḱr̥d-という成節子音Rが現れるとみなされている。ヴェーダと同じインド・イラン語派の古典「アヴェスター」のアヴェスター語ではzərəd, zarəδaiia ザラザヤのような発音で介音がある。ヴェーダ系以外に成節子音が見られないことと現代スラヴ系言語の成節子音が後世の転訛によるものという前提から「印欧祖語に成節子音(l, r, n, m)は無い」とみなす学者もいる。なお、動詞語根や過去分詞にある成節子音Rはそれを原形とみなした際にグナ音"a"やヴリッディ音"ā"に子音 r が続く形にもなる(e.g. 「死ぬ √mṛ」 ムリタmṛta →マラナmaraṇa →マーラヤティmārayati cf. 漢梵兼語: "danmatsuma" 英語murder, ラテン語由来英語mortal)。
プリティヴィー"pṛthivī" (プリトゥヴィー"pṛthvī"とも)→タヴィー"pathavī"
シ"ṣi"→シ"isi"(パーリ語からの漢訳文献・善見律毘婆沙: し)
グリドラ"gṛdhra"→ッジャ"gijjha"
プリタグジャナ"pṛthagjana"→トゥッジャナ"puthujjana" (サンスクリット仏典とパーリ仏典にそれぞれの語形で載っているが前の語幹の単語のヴェーダ語源は少し異なるかも i.e. पृथक् pṛthak系 पृथु pṛthu系)

このようにパーリ語では、サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rが次の音節の母音と同じものに変化する傾向が強いため、「母音調和"vowel harmony" (フィンランド語とかトルコ語とか韓国語とかの接辞が顕著な膠着語系統ための用語なので普通はこう用いない cf. 母音交替"apophony")」が強いと考えられる。
その母音調和が有り得るか不明瞭となる音変化に グ・ヴェーダ"ṛg-veda"→イルッベーダ"irubbeda" があるが、それはパーリ三蔵(律蔵・経蔵・論蔵)のうちに無くて5世紀以降のブッダゴーサ"Buddhaghosa"よりも後のパーリ復注ティーカー"ṭīkā"に初めて現れる単語なので、紀元前(BCE)からインド・アーリア語派の古い口語として存在するパーリ語に本来は有り得ない語形と考えてよい。そうなると先例グリドラ"gṛdhra"→ギッジャ"gijjha"はなぜ成節子音が単独で"i"に変化したかといえば同様の話がされる過去記事に反舌Rと硬口蓋音との関連を示唆して説明した。しかし、他にも類例があるであろうし、それが押し並べて同じ説明で通用するものと限らない(cf. トリティーヤ"tṛtīya"→ティヤ"tatiya")。要はイレギュラーな音変化も方言学的に許容される必要があるし、もし客観的な理由を求めるならば特殊な経緯が考えられる。
サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rは音素 /r̩/ と表現できても、近代(主に19世紀)にインド各地のバラモンたち(西部や南部やベンガル地域など)はそれぞれどう発しているかという報告が不足しているし、パーリ語以外のインド・アーリア語の口語における音変化も詳らかでないため、その音価が2000年以上前はいかなるものであったか、判断が困難である。
ただ、パーリ語における音変化を見て、私はRの接近音・響音たる性質"sonority"を感じている。

英語学における一見解として、"better"の語にある r が成節子音Rの音素 /r̩/ であるというが、実際の発音・音価はR音性の母音([ɚ, ɑ˞] など)である。
その音価は英語のR発音自体が反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] など)であることに関連しているので、スラヴ系言語やサンスクリットの成節子音Rとは音韻構造も聴こえも全く異なる。
英語のR発音は、同様に日本語のラ行(主に歯茎はじき音 [ɾ])や西洋言語古典風の発音に多いR音(歯茎ふるえ音 [r] ルラァ的なもの・いわゆる巻き舌)とかなり異なる。

先述のサンスクリットの成節子音Rは「ルルル(無母音で続けて発する)」というような歯茎ふるえ音 [r] か反舌ふるえ音のようなもの(サンスクリットのR字・R音素自体は反舌はじき音 [ɽ] などでもよいがはじき音"flaps"にはソノリティが乏しくて現代ヒンディー語のような ऋ /ɾi/リ発音(子音に付く場合はクリ कृ)でないと母音的に用いることが困難)だと私は考えてきたが、最近は英語的な接近音に近い音ではないかとも考えている。
なぜならば、今までも説明されたように、インド音声学シクシャー・日本悉曇学などで多くの書に半母音系統"antaḥstha"として"ya, ra, la, va य ल व"が挙げられ(ただし安然「悉曇蔵 (大正蔵2702 V. 84)」はva音素を唇系の摩擦音系統"ūṣman"として分類する)、そこに र R字 (repha रेफ)・R音素が含まれるためである。
かつ、そのR字について、調音部位が反舌"mūrdhan (JBud. 舌頭 en: cerebral)"であるとしている。
シクシャー・悉曇学に定義されたサンスクリットR字の調音部位が"mūrdhan"で音の種類が"antaḥstha"であるということは、そのまま理解すると「反舌・半母音"semivowel"(接近音"approximant")」となる。
これらの説は、古くからの伝承であって当時から音素を整然と区分していても、その音価は必ずしも詳細に読み取ることができない(ただし1000年以上前の地球上の文明にこれほど詳細に言語発音が説明されたことは無い点で有り難くもある)。
色々な推測・憶測ができてしまうため、サンスクリットR音素の音価の判断が困難である(後の「なお①」も参照)。
したがって、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rの音も、英語的な接近音かスラヴ系と同じふるえ音か、判断が困難である。



備考: 反舌接近音(そり舌接近音) [ɻ] の特殊性

アメリカ英語などでは、R字が語頭にあるか・母音を伴っている時、反舌接近音 [ɻ] で発せられる。
このR音に似た音を日本語で探すならば、「ら行」音よりも、「わ行」音に近い。
ほとんどの日本語話者は「わ行」音を両唇接近音 [β̞] か両唇軟口蓋接近音 [w] で発しているが、極一部の日本語話者が常に・特定の日本語話者が稀に、わ行音を軟口蓋接近音 [ɰ]で発すれば、それがR反舌接近音 [ɻ] に近いと言える。
現代中国語で語頭がピンイン r 字の発音 [ɻ] [ʐ] は、歴史的にみな語頭が硬口蓋鼻音 [ɲ] だった(それはただ音素だともいえて音価としては複数の異音 [nʲ] [ȵ] も有り得る)と考えられる(本"nit-pon, ri-ben"=ニッポン、ジーペンかリーベンのようなもの)。
そのことは過去記事でも示されているが、ここにIPA音価で歴史的な音変化を示すと [ɲ] (ニャ系) → [ȵʑ] (ジャ系、prenasalized?) → [ʐ] (ズャ系統だが一部話者は反舌接近音 [ɻ]) となる(日本の呉音⇔漢音や広東語音⇔閩南語音の比較をすれば明解であるし、自ら発音して音ごとの類似性を触覚で感じても理解しやすい)。
更に、二・児(兒)・爾(尓)といった字は er化 (R音性母音 [ɚ])となる(爾・尓字 ěr は現代で外来語のɚ・無母音L・R音写に用いられる→アイルランド"Ireland 爱兰" アルバニア"Albania 阿巴尼亚" しかしアルメニア"Armenia"は亚美尼亚で用いられず。他に語尾-l, -r音 ソウル"Seoul 首" 語尾-rは英語・ドイツ語・オランダ語・フランス語などで参照。他の使用例1, 2 これらは色々な例外も見られた)。
朝鮮語では近代まで [ɲ] 系統だったものが現代朝鮮語・韓国語 [j] (ヤ系統Y音だがyi音はヤ行イが現代日本語に無いように [∅] 無子音、いわゆるイルボン 일본 ilbon)となる(cf. タイ語 ญี่ปุ่น yîi-bpùn 広東語Jyutpin粵拼 jat6 bun2  [jɐt˨ pun˧˥])。
これらは「広義の硬口蓋音(反舌音もこのうちでイ音のみ無子音のようにも成り得る)」を移動してきた、正常な音変化と考えてよい。
「正常な」とは、「自然な・標準的な・規則的な・推定しやすい」という言い換えもできる。それは、この東アジア広域(気候の差が多少あっても構わない)の言語だと蓋然的に言えるのであって少し場所や文明が変わると、そういった蓋然性による推定が通用しないこともある。

反舌接近音 [ɻ] の特殊性により、現代言語におけるR字の作用から歴史的な音変化を窺う。
ノルウェー語とスウェーデン語はRの字がSの前にあるとき、Sが無声歯茎摩擦音 [s] でなく無声反舌摩擦音 [ʂ] となる。
ノルウェー人の自称は「ノシュク"norsk"」であり、この「シュ"rs"」が無声反舌摩擦音 [ʂ] となっている(口語の名称もニーノシュク"nynorsk"という…発音例は現地語の何らかの動画音声を参照すればよい)。
このノルウェー語・スウェーデン語(ゲルマン語派)のほかには、ポーランド語(スラヴ語派)の"sz"に加え、その有声音 [ʐ] たる"rz"もある(英語版Wikipedia - Polish phonologyには破擦音も示される)。
余談だが、二重字"digraph"のうちrで始まるものは非ラテン文字の言語(アボリジニ系など)の反舌音の子音に用いられる傾向があることは、アメリカ英語の反舌Rやノルウェー語・スウェーデン語・ポーランド語の"rs, rz"表記から影響を受けて近現代に出来たと考えてよい。要するに、ノルウェー語・スウェーデン語"norsk"はノルド"nord"的な同根語からして本来は二字一音でなく子音の連結であってゲルマン祖語*nurþrazに繋がるものであり、後世に非ラテン文字の言語で二重字"rs, rz, rt, rd, rn"などで反舌音が示されても伝統的にラテン文字系統を用いてきたかノル・スウェと成立経緯が全く異なるということである。ポーランド語の"sz, rz"は"rzeka"がロシア語"река"などに比較的できるようにノル・スウェと成立経緯が異なる。

その更なる余談だが、先例のうち、ノルウェー語"rs"とポーランド語"rz"とが一部の方言において、反舌音でない「変わったR音」で発せられる。ともに、「上より無声歯茎ふるえ音 [r̝̊] (voiceless alveolar raised non-sonorant trill)」になる例がある(前者の方言はオスロ以北の各地、後者の方言はワルシャワ以北の各地)という。また、後者の方言には「上より有声歯茎ふるえ摩擦音 [r̝] (voiced alveolar fricative trill)」になる例があるともいう。

去年まで、筆者は「無声反舌摩擦音 [ʂ] が中国語普通話(Pinyin: sh)やインド・アーリア語派やドラヴィダ語族(主にタミル語以外)などのインド地域の言語に有ってヨーロッパには無い」と思っていた。
参考までに、中国語漢字音の反舌音(捲舌音 ㄓ ㄔ ㄕ ㄖ)のうちの無声反舌摩擦音 [ʂ] は「・数 shǔ (ㄕㄨˇ cf. 呉音: シュ 漢音: ス 慣用音: すう 他にサクのような同字異音異義もshuòで反舌音)」が例になる。その中古音・上古音は‹ srjuX › , /*s-roʔ/ (バクスター・サガール式。Xは上声トーン記号)となる。前者の時の r は前の s と合わせて無声反舌摩擦音を表す(cf. カールグレン式 /ʂi̯uX/)が、後者の時の r は二重子音・響音・流音としての r であるという。簡単にカナ表記すると、前者はシュ(反舌音)で後者はスロ(二重子音)、ということになる。つまり、現代の漢語学問・音韻学の人は、推定された上古音の時代に r が二重子音として発音され。それらが「數」のような反舌音の漢字となった(ただし逆に反舌音の漢字""など全てが上古音で二重子音 r を有していたわけでない)と考えている。上古音再建案の事実性はともかく、学者の思考にさまざまな条件要素が伴っていることは確認できた。反舌音の発生経緯に後世の条件依存があるという意味で、英語の反舌接近音やノルウェー語などの反舌摩擦音の考察の一助にされたい。

なお①、サンスクリットもといヴェーダ語以来のインド言語ではR音 IASTで"r, ṛ (普通の子音と成節子音)"が何らかの位置にあるとき、次の子音"t, th, d, dh, s, n"は反舌音"ṭ, ṭh, ḍ, ḍh, ṣ, ṇ"になる。
これは反舌音の連声・連音・サンディの現象である(同器官的子音"homorganic consonant"があるので同器官化"homorganization"とも記したいがそのような用語は使われていないそう→同化"assimilation"という)。
この現象は、母音と唇系の音がある場合も有効であり、その例は"karaṇa (√kṛ + na)"や"pariṇāma (pari + √nam)"や"brāhmaṇa (√brah + na)"である。
このR音を、私にとって従来に考えられた歯茎ふるえ音 [r] や反舌ふるえ音 [ɽ͡r] や反舌はじき音 [ɽ] ではなく、反舌接近音 [ɻ] の方が自然ではないかと近頃の私は考えている。
サンスクリット「ドリシュティ"dṛṣṭi"」やパーリ語「ディッティ"diṭṭhi"」(ともに単語の意味は「見解」でパーリ語の単語からはヴェーダ・サンスクリットの成節子音R "ṛ"が消えて"i"となるが化石的に反舌T "ṭ"が長子音・有気音で現れる)あたりを発音して検証すればよい。
なお②、スウェーデン語・ノルウェー語の通常の r は、音価が歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] 反舌はじき音 [ɽ]など多種あり、ポーランド語では歯茎ふるえ音 [r] のみとされる(中国語ピンイン r は先述の通りに反舌接近音 [ɻ] と 有声反舌摩擦音 [ʐ])。

この「備考」は、Rが半母音たる立場を兼ねているという「本題」を外れているものだが記される。
一つ言い直せば、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rが「ふるえ音」としてソノリティを有するよりも、英語R発音や他の半母音Y・Wのような「接近音」としてソノリティを有している可能性が、往古(パーリ語などBCE中期インド・アーリア語の口語発生のころ、ヴェーダ伝承への考察次第ではもっと早い古インド・アーリア語のころ)にあったことを示唆しておくが、なお①を書いて以後に考え直して「kとs二重母音はkṣでないとならない法則(e.g. vakṣyati)」や「語末-sの語幹が後続の音によって-ṣや-rや-ḥなどで現れる法則の内にṣがあること(e.g. nis→niṣprapañca, dyaus→dyauṣpitā 某書47によると語末-sの前の子音や母音の条件が主要という)」などを私は顧みた。







起草日: 2018年10月5日

当記事では、半角カッコ内に限定して"c. (circa 頃・~年ごろ)"とか"cf. (confer 比較せよ・参照せよ)"とか"e.g. (exampli gratia 例のために・例えば)"とか"i.e. (id est それは~である・すなわち・つまり)"といった略語表現(abbr., abbreviation)を用いている。
一方で"etc. (et cetera ~と他plural・その他)"を用いていない(これに相当する日本語の「など」および視認性の上で漢字の「等」を適宜に用いる)。
これらの略語の元であるラテン語を理解した上でこれらを便利だと思って多用したが、日本語の代替表現が用いられるべき場面では適宜にそれを用いた。
その略語表現以外の略号の類としては言語名en, ja, pi (パーリ語"Pali"のことでインド系学問ではplとされやすいし私も過去記事でそうする。当記事は世界的な範囲のためポーランド語"Polish"と混同を避ける意図でISO 639-1に準じた)や文字名Dev.や伝統宗教JBud.などがある。
当ブログで未曽有のようであるから、ここに上の如く断っておく。

また、当記事では、音韻論的に不明瞭・不確実な事柄を示す際、筆者の見解や感覚を客観的事実のように扱うべきでないため、「筆者・私」という言葉を主語にして表現した部分がある。
何らかの学者論文や活字出版物などでは、その主観性を自覚しない論者が客観的事実のように記すこともある(古代言語に関する見解を記した活字出版物の内容がネット上に引用されつつ読者側から指摘されている例→1, 2)。
読者に相応のメディアリテラシーが有れば「あくまでも論者の理由や前提によって求められた見解・視点・主観にすぎない」と判断できる(大概の学者もそれで暗黙の了解は有るから断定的に記す者もいよう)が、多くの一般人はそうでないので、私は一般人向けにその措置を取った。

↑の注意事項を記す以前に、↓の後書きを書いた。

日本の自称の名である「やまと"Yamato"」と、漢字で当てられた「大和(8世紀の好字二字令)」・「邪馬台国(台は臺とも壹とも)」・「倭(委、和)"Wa"」ということも、現代にヤ行・ワ行の音素で認知されている。
ヤ行・ワ行、Y W音、半母音に関する研究をすることで、これらの名が文献上に現れるようになった時代の発音や、想定上の最初の時の発音などを想定する一助になるかもしれない。
今の私からは、特にこれらの名に関する言語学的な言及をしないでおく。
それらは音声学・言語学のみならず、文献学的な考察や地理学的な前提も必要であるからである。
いわば、当記事も文献的には直接に原本・写本・碑文などを当たった検証がされずに論考を載せているし、大概この学問分野は一般的な校訂本などに信頼が置かれて研究がされている。
先進的・先鋭的な研究においては、複数分野の垣根を超えている・複数分野の手法を兼用している・相互依存にあるということについて留意されたい。



関連記事: 2015年に私が示したY, W, L, Rへの類似見解

2015年6月16日投稿「B H V W、準じてF Pの互換性 & Vから派生したU W
2015年9月7日投稿「呉音では濁音となる漢字・鼻音の後でも連濁しない漢字(天など)」 (脚注5と脚注終了以後)



備考: 実験音声学との関連
(この備考を書くまで私は分野名を「実証音声学(実証的な音声学)」と記憶していた)

2018年11月11日5時に、私は [a, ja, wa, la, ɾa, ka, sa, ta, pa, kɾa, sɾa, tɾa, pɾa, kɻa, sɻa, tɻa, pɻa] の発声とその録音を行った。
発声の録音データ(発音データ)は、当方の録音環境(特に使用機器の品質)の関係で、音量を上げると声ミュート時における環境音・ノイズが聴こえる。
それを音声波形・スペクトログラムとして(Praatという専用ソフトウェアを用いた)視覚化・表示し、簡単な説明画像を作った。
作業の途中で、変更事項がある。当該音声をステレオからモノラルに変換し、スペクトログラム表示の案を捨てて音声波形表示だけにした。それらの変更事項を付記する。

音声付きの動画→https://youtu.be/qhrGuEFp8ok
母音"vowel" [a] (以後の子音類はこの母音とのCV~CCV音節で発音される)
響音"sonorant" [ja, wa, la, ɾa]
阻害音"obstruent" [ka, sa, ta, pa]
二重子音"double consonant"(阻害音と歯茎はじき音"alveolar flap") [kɾa, sɾa, tɾa, pɾa]
二重子音(阻害音と反舌接近音"retroflex approximant") [kɻa, sɻa, tɻa, pɻa]

ちなみに、私が日本人として母音/a/音素を発しているため、厳密な音価・単音としては中央母音の [ä] となっているかもしれないが、この発声・録音・視覚化の行為の目的に反することでないので、気にせずによい。
ちなみに、当記事の話題・本題と離れるが、「破裂音の特徴についてPraat画面の図と音声データとを示しながらこの項目よりも詳細に説明した記事」がインターネットに見られたので、参考までにURLを載せる→https://sites.google.com/site/utsakr/Home/praat/vot



備考: 音楽制作との関連

MIDIシーケンサーのピアノロール方式の「打ち込み(sequence 作曲手段)」をしている時、伴奏楽器パートでもボーカル代用楽器パートでも「ゴーストノート」の打ち込みを、私は適宜に用いている。
ゴーストノートは二重子音"double consonant (doubled consonant)"の発音を思わせる。
その時の考えは、このようである。
「ゴーストノートの内に普通の一音の導入として用いられるものがある。それは1小節の先頭に置かれるべきか、または、その前の小節の末尾に置かれるべきか (小節でなくとも1小節を192等分したMIDI目盛りにおける4分の4拍子は3, 6, 12, 48が1つの区分として同様に考えられる)」
「二重子音の内に"kr"が有る。これは1音節の先頭に"kr"同時に発せられるべきか、または、その前の音節の末尾に"k"が発せられるべきか (同じ二重子音でも破裂音の連なり-ktなどは…、三重子音scr, -ncrなどは…)」

ゴーストノート 二重子音 三重子音 MIDI
"doctrina"はdoc-tri-naとなる (vs. do-ctri-na, doct-ri-na)
ラテン語歌詞を書いて自ら歌った"Dominus Immensus"の、その歌詞のシミュレーションのためにボーカルパートを打ち込む際には、かなりこのことを思った。
私が何を思って創作や研究をするということは、言語学や音楽の主題と関連しないが、これらを行う人が参考までに見ると良かろうと思い、少し記した。