目次 (
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1.1 (#folk1)
俗世間でいう「
神・かみさま」を、子供たちは俗世間に定義された範疇で存在を否定し、同時に、神道やヒンドゥー教など多神教の「神・天"kami; ten,
देव deva"」や、キリスト教の「神"
θεός theos; deus"」などについても「神・かみさま」の言葉を摘まんで同一視して存在を否定する。
日蓮正宗・創価学会・顕正会といった宗教団体は、キリスト教(ユダヤ教・イスラム教を含む一神教全般)の「神」を徹底的に否定し、日本・インドの神々(天照大御神・梵天など)とは別物だという主張を大前提とする。
他の既成仏教でも、セクト主義的な立場ではキリスト教の神を否定する(人権・
ヒューマニズム・
宗教多元主義の立場では神のことを取り上げずにキリスト教の道徳的な一面を褒める)。
一般世間では、科学的見解を受けてあらゆる神"god; deity"の称号のある信仰対象とその伝承"tales; myths"を迷信として斥けつつも、各々の祈り"prayer; wishes"を兼ねながら宗教施設(神社・寺院・教会…)への参拝や祭り(祭祀・祭礼・儀礼)への参加をする場合が多い。
さて、
筆者は生まれてこのかた「無宗教」であると同時に、小6のころより宗教に興味を持ったが、段々と
唯物論・合理主義の傾向を強めて「世俗的な定義における神」を否定するに至った。
これは「神」の名が、「世俗と宗教とを分けない現世利益思考の俗人」によって顛倒して取られた「ニセ神さま」に用いられたものを否定したのであって、直ちに「無神論」となるわけでない。
様々な宗教で異なった定義のある「神」について、小中学生のころの私は分別をしきっていなかったが、興味を持つ一面もあったので、「無神論"atheism"・非無神論"anatheism"・非非無神論"ananatheism"…」であったろう、と回顧する。
物事の定義次第では、大概の日本人も、現世利益思考の範疇を出ていないので、みな「無神論に似た何か=非無神論・非非無神論…」となる。
その、中庸じみた「無神論に似た何か」は「不可知論"agnosticism"」と呼称される場合もあるが、同じく「非不可知論"anagnosticism"・非非不可知論"ananagnosticism"…」となるかもしれない。
日本の神は日本の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"kami, ten"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。
インドの神はインドの神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"देव deva"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。
キリスト教の神はキリスト教の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"θεός theos, deus"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。
1.2 (#folk2)
俗世間における「神・かみさま」信仰は、物質的な側面への期待と、自己の精神の問題とを混同して「(欲望の心にとって)よい結果であれば神はいる」とか「(欲望の心にとって)悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情に基づいたものである。
その信仰ならざる信仰は、禍福に左右される立場である。
あらゆる神は、客観的世界=我々の五感(仏教でいう六根=眼耳鼻舌身意)に基づく物質的実在・現象(仏教でいう六境=色声香味触法)を操る力は無い。
故に、俗人の顛倒のままに神へ祈っても、期待通りの効果は無い。
俗人の顛倒によって「良い結果であれば神はいる」とか「悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情=無常の物事への執着による苦がある。
※一喜一憂の感情とは、現代日本でも「刹那主義」と呼ばれるような感情であり、仏典では「心・意・識というものは須臾(=刹那)に転変して生滅を繰り返す。たとえば猿が樹の間を飛び回って枝を一つを掴んでは一つを放すようなことである(
雑阿含経やパーリ相応部)」と喩えられ、よく表現が一致する。
顛倒の祈りによる幸福というものは定まらず、有るようで無く、勝ち組になることも無い。
しかし、神への祈りを「生宣り"inori"、命"inochi"、生き=息"iki、breath"=プラーナ"
prāṇa प्राण"、プシュケー
ψῡχή、プネウマ
πνεῦμα」といった要領で行えば、あらゆる場面において幸福に至って定まり、世俗的な勝ち負けの無い「真の勝ち組」となる。
神への祈りとは、心(精神)の揺るぎない誓いである。
この点で、仏の異名「至福の人・世尊・バガヴァーン"bhagavān"」や、「勝者・ジナ"jina"(またはヴィジャヤvijaya)」といった語句の仏教における意味が成立する。
路上や森林や肥溜めや墓場などで静かに端坐せられる仏は、人々によって「世尊」とも「沙門(寂静の人・修行者)」とも「比丘("bhikṣu, 印欧同語源begger"乞食)」とも「浮浪者」とも見られる。
世間の人は、そういった修行者を「負け犬!」と蔑む場合があるが、勝ち負けの心・愛憎の心の無い仏はどこで寝食をなすとも、真の勝者であると称えられよう。
それが、仏典によれば、インドにおける神々の称賛を博したことでもある(ただし神々を最高のものとして奉じるヒンドゥー教などの立場では異端・ナースティカの説と扱われる)。
さて、修行者はどんな場面にあっても苦の無い真の幸福を志向することとなるが、それでは世間の「臥薪嘗胆(薪に臥して胆を嘗める・辛酸苦渋・艱難辛苦)の努力」は、仏道修行とどう異なるものか?
世間の「臥薪嘗胆の努力」は、形だけ仏道に似せられても、魂胆が異なる上に、理想とする結果も異なる。
「煩悩に基づく苦が滅すること」や「智慧によって成仏すること」などを修行の果報とする仏道とは、比較にならない。
世間の欲(稼ぎたい・モテたい・世間的な苦=欲求不満を形式的に満足させたい等)を叶えても、畢竟苦の道にあるという理解や、自己の心の根本的な問題への自覚を伴わない行為は、たとえば着地を考慮せずに空を飛ぶように、結果として苦しい空中浮遊のまま=輪廻か、不意の墜落=堕地獄にしかならない。
仏道の果報・涅槃とは、そもそも生死・輪廻の空なることを知り、不生不滅であって最初から空を飛んでもいないので地面に落ちる苦も懸念も無く、換言すれば永遠に空を舞うことでもある(寂滅とも常住ともいう)。
俗人の意志を遂げる精神は尊くもあり、努力の姿勢は見習われるべきでもあるが、くれぐれも、現世の苦を自覚する者は世俗の欲について貪りがあるべきでない。
また、「他者に頼らない・寄生や依存をしない・神頼みをしない(世間でいう他力本願の否定)」という主張が世間に見られるが、これも仏道修行の姿勢と似て非なるものである。
世間における主張は、「金銭的な自立・独立・独り立ち(世間の情けに基づくものか・カリを作りたくない等)」ということを指したり、無理な自己負担を指したり、あるいは誰かが他者を突き放す際の口実であったりと、欲望にまみれた世界の相対性を出ない。
現代日本仏教徒の間では「自灯明法灯明」というフレーズが人口に膾炙しているが、この世間の主張と混同されている場合が多い。
「自灯明法灯明」もとい「自洲"attadīpa"に住み・法洲"dhammadīpa"に住み・他洲"aññadīpa"に住まず」とは、単なる精神論でなければ、金銭的な自立を指して釈尊は仰せになったのでもない。
具体的に、この仰せは自分の心身の問題(諸法)を常に意識し、今のありかたを如実に知るという「四念処(四念住)」のことである(
過去記事に詳述)。
こうして法に依って(教説や道理に基づいて)自ら心身を調御する者は、仏教における天・神の守護が有る、ということとなる。
その場合、現世での延命も、副次的に保証され得るという見解がある(
物質的に他者へ依存して乞食で身を養う比丘にとっては死活問題)。
後述するキリスト教でも、自分の欲望や憎悪といった精神的な問題を克服して信仰を正しく守る者もまた、神・聖霊の加護が有るといえよう。
精神が欲望や憎悪に蔽われる時、神の王国への門扉が閉じられる。
教えを理解して修道がある彼らには、多神であれ一神であれ、神が実に存在することとなる。
神の名や、意義(en: God, Devine, Deity, Divinity la: Deus, Deitas, Divinitas gr: Theos sa: Deva, Devata, Sura, Asura ir: Daeva, Ahura ja: Kami 漢訳仏典で神通力もとい精神"ṛddhi"の意味も)は多くあれ、古来より現代まで信仰する人々は、一つの真実を志向していたに違いない。
多神即一神、一神即多神、一神即一心・・・
1.3 (#folk3)
さて、この世を支配する神がいて、その神が人の運命・宿命をも司り、最初から人間が自ら人生などを変えることはできない、という見解が、古代インドやギリシャや現代日本にある。
それらの見解も、自然界の事象・人間の精神などを見た「因縁(認識・感情・思考など)の結果に唱えられたもの」でしかないが、固く信じれば心が楽になる者・行動が積極的になる者もいよう。
それはそれでよいし、そういう気持ちで神などにお祈りをする者もいるかと思う。
ここで、「神は心そのもの(見ようには悪魔にもなる)」という私の一見解(これも因縁の結果に過ぎないが)に基づいた、日記メモ文章を載せる。
1月8日の日記メモ「諸天善神の守護・三宝の加護」
母は弟への不平不満・憎悪・瞋恚の炎で口(口業)を煮やしてグチグチ小言の音を立てている。人々の希望と不満(喜悲怒など)という日常的に繰り返す感情は、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。しかし、その自覚はされづらい。仏は、あらゆる感情や欲望の因果性を超えた、精神の法則を知っている。
去る1月6日に母は一人で「神宮前駅」まで電車を利用したようであるから、熱田神宮にお参りしたろう。母は、そこで何を祈ったか?家内安全か?金運上昇か?他者への不満に基づく呪い事か?願い事も呪い事も、何であれ、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。神社で何を祈るとも、日々に・時々刻々に楽を求める心と苦を厭う心に関して自覚があり、意識されていれば、自分が苦しまない行動が適宜に行われる。神社で祈って「心のお守り」が得られる人は、生活の苦しみも直ちに除かれる。「お守りの形をした物質的存在」は、期待される効能(ナントカ安全・ナンタラ成就など)の認識があって時折目にせねば、「心のお守り」としての作用に至らない。また、諸天善神による守護とは、自ら心を守ることでもある。心・意思・意志・意識を守ることを「念」とも呼び、仏法僧という三宝による加護でもある。三宝による加護があることは、苦しみが除かれる利益に至る。今の母親のような人にお参りされても、神は悲しむ。仏も悲しむ。そう思える、日本仏教徒である。されば、仏教徒は、対象が神であれ仏であれ菩薩であれ、祈り(生宣り・命の叫び・生きる望み)・願掛けを自ら為すならば、自ら背かずにいてもらいたい。願いを捨てない心は、自身が尊ぶ対象の存在を離れることが無く、その守護を受ける。
神社・仏閣などに参詣・参拝して祈願する利益は、以上の通り、精神論・観念論の一種となるが、その現実的利益は、結果的に有無を問うことができる。
過去の有名人・偉人・神格化された人などに託された利益であり、他者がその利益にあずかっているという伝承や風説を聞けば、多くの人が喜んで信じ、崇めたり敬ったりする(
聖人所説への信用は事実に比するもの=聖教量"āgama-pramāṇa"という見解が仏教論理学・因明学にある。例えば子が親の言葉を全て事実として信じることと同じ)。
その結果、世間では「(願いが叶ったからという条件で)神はいる」とか「(願いが叶わなかったからという条件で)神はいない」などといった分別を行う。
この点で、もし願いが叶って心が晴れ晴れとすれば、神が威光を以て人を照らすようなものと感ぜられ、人の期待に沿った神というものの実在性が当人において証明される。
そうして、その利益の顕れた場所は吉祥であり、霊験あらたかな
聖地となるに至る(神社のみならず聖都エルサレムや教祖説法地のサールナート・メッカなど)。
その場所で、やる気・道心・目的意識というものを起こし、以後にも忘れずにいられるならば、実によいことである(功徳・福徳・服運というもの)。
聖地巡礼やお遍路といった行為においても、同様である。
俗に言うパワースポットも、信仰心こそがパワースポットたらしめるエッセンスである。
そうでなければ同じ地球上の等質な土地でしかない。
ただし、努力の結果として「即物的な願望の成就がなされなかった」という事実認識があった時、落胆してはならない。
それが、まさしく神に己が見放された(=心が自ら心を見放した)瞬間である。
この故に、真に神を奉じたければ、見返り(世俗的利益)を重視すべきでない。
※神即心、心即神、他離即自離、自離即他離、受動性・能動性一如・能所不二。この理は古代インドのヴェーダ・ウパニシャッド的な梵我一如に通じる。だが、仏教では、そういった見解を知ろうと知るまいと、固執しないことを説く。また、世俗の願望は刹那的な楽としかならず、無常の事物への執着は解脱に至らないという価値判断があり、解脱などを目的にして修行をする人にとって、最初から神と心との相関性は問題とならない。ただし、日本では仏教僧侶(
持戒持律の人も・・・かえって無戒的な親鸞さんが神祇不拝を唱えたくらい)が日本の神々を敬って礼拝した事跡が多い。
なお、日蓮大聖人は、乙御前御消息に妙楽大師湛然さんの「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し(
止観輔行伝弘決・巻第八)」を引用して「人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ」と仰せである。
冒頭に挙げた日蓮正宗系では、彼らの読む観念文(かんねんもん)に「諸天晝夜常爲法故而衛護之(諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す) 」(天・神による護法はパーリ語経典以来ある)という
妙法蓮華経・安楽行品の文が載る(創価学会の
御祈念文からは2015年に除かれた)。
彼らが指す「諸天(善神)」とは、インド以来の梵・釈・日・月(ぼん"Brahma"・しゃく"Śakra, Indra"・にち"Sūrya"・がつ"Soma; Candra")、日本の天照・八幡(てんしょう・はちまん)などである。
みな南無妙法蓮華経の三宝(仏宝=日蓮大聖人 法宝=本門の本尊 創価では彼らの御本尊 僧宝=日興上人ないし歴代法主上人 創価では信者全員)に帰依しており、三宝や修行者を守護する力用(りきゆう)を持ち、諸天の本地はみな釈迦如来だとする(諫暁八幡抄: 教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや)。
更に、釈迦如来・多宝如来の本地は南無妙法蓮華経である、とされる。
南無妙法蓮華経も、畢竟「一心・妙」であると、彼らの依拠たる日蓮大聖人御書に説かれている。
※私による
観萌行広要の動画⑤説明文に総勘文抄・日女御前御返事などを引用した。他にも関連説多し。文献学ではその説の御書について中古天台本覚思想の流れだとか日興門流の写本が伝えられて真蹟が無いとして偽撰扱いをするが文献の存在は事実なので提示した。
2.1 (#dei1)
日本・ギリシャ・インドに見る多神教
現代学問的に「多神教(多神を崇拝すること・土着信仰や民間信仰も)」と分類されるものは、多くが「物質的存在」や「性質・法則」に基づいて名前があり、人格や神格のようなものを付して成立した神を有している(擬人化とも)。
「物質的存在」とは、単一の生命と見られる植物・動物や、象形として一個体と見られる山・海などであり、それらをそれらたらしめる神聖な性質・霊的なものを名付けて表現するか、事物の名のままに神・霊的存在と扱う(擬人化)。
「性質・法則」とは、自然現象としての音・風・火・発生・維持や、心・感情・精神作用・知性はもちろん、神聖さ=超自然的なこと・自由自在などである。
日本・ギリシャ・インド、様々にそういった事物に基づく神が多く見られる。
そのために、多くの神が並立したり、上下関係を抱えたり、人間の尊敬のありようによって神ごとの関係性の変異(ある時代・ある地域で最高の神だったものが別の時代・別の地域で別の神のしもべになったり神より下等の霊的存在になったり)なども生じる。
神ごとに、どんな由緒があるのであれ、個人の心に応じた存在(応化"nirmāṇa")であり、客観的な可視性(いわゆる目に見えること)は無い。
ただ、そういった性質・作用を、現象や感情変化によって看取でき、相応の名前を以て、人々により、認識されている。
事物を尊重する精神性の現れであり、人々の道徳に関連する。
この点を捉えると、より心の真実を追究して「仮の名前ある唯一の神(いわゆるヤハウェとかアッラーフとかという)」を示した一神教は、多神教に対して優れていることとなろう。
一つの信仰を正しく守る、という筋道が浮き彫りとなる。
イエス・キリストさんやムハンマドさんが多神教を卑下する理由もここに存していると考えてよい。
※「神が多く存在するならば心の真実からして相容れない」という見解だろうが、仏教では後述するように融通して一即多・多即一といえ究極的には一も多も無で寂滅である。仏教では、あらゆる神々・霊的存在(デーヴァやデーヴァター)が仏を敬うという立場にある(一部の夜叉・阿修羅・魔などはそうでないとも説くからパーリ仏典アーターナーティヤ経"
Āṭānāṭiya Sutta"で毘沙門天がそれらによる修行者への妨害行為より守護すると誓う)。そういった多神ありきで一神の優越性が問えるところ、多神は絶対悪で否定されるべきものと扱った一神教は、その信者たちが歴史の随所で慢心や憎悪に基づく大規模な事件を起こした。もしイエス・キリストさんあたりが、釈尊のように多神・民間信仰の神からも尊敬を受けているというスタンスであったらば、後のキリスト教団やムハンマドさんなどにも差別的主張が減ったか、あるいは歴史における伝道拡大も無かったかもしれない。歴史に対する仮定の話は詮無い話であるが、しみじみと思う。ただし、キリストさん・ムハンマドさんには、神と扱われずとも聖霊とか天使とかの恩寵はあったと伝えられる。
2.2 (#dei2)
また、多神教の神のうちには、元々現世で生きていた人間であったりするものもある(祖霊崇拝とは区別される場合がある)。
日本の神道には、歴史上実在した誰彼が神社に祀られていることがよく認知される。
先に日蓮正宗系の話もしたが、彼らや祖師・日蓮大聖人にとって日本の神の中でも重要視されて御本尊に尊名が載る存在は「八幡神(八幡大菩薩・正八幡)」であり、これも「元は応神天皇として日本の歴史に実在した人間であった」と一般的に認知されて信仰されるものである(諫暁八幡抄: 今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり 神国王御書: 第十四仲哀 八幡大神父也 第十五神功皇后 八幡大菩薩母也 第十六応神天皇 今八幡大菩薩也)。
※学問において「本来の八幡神は応神天皇と別もの」とされるが、後述の梵天のように実在人物が習合・神格化される歴史的事実は確かにある。民間信仰とは、そうであり、次第にそれが正統派となる傾向もまた、歴史の中に看取し得る(僅かな強者の作為性と多くの民衆心理が関わる)。
現代日本でも、そういった伝統的な事象と似て非なる現象として、特定の分野に長けた人や、有り難い行為をした人について「〇〇の神さま・神様」とか「神(形容詞的・副詞的な接頭辞)〇〇」とか「女神」とかと称えることがある(ただし神の名称に限らず他の尊い名称…"達人"などを用いることも多いためその同一カテゴリとして"神"と称する発想の人もいよう)。
インドの場合、現況のヒンドゥー教のブラフマー(単数形でブラフマ)は単体の神だが、古代インドや仏教の梵天・ブラフマーは、現世で修行などをしてブラフマンを得て(梵我一如を成して)梵天界・ブラフマローカへ往生した「元・人間」である。
現世の努力によって一人が「高尚なもの」と人々によって見られ、人々から称賛され、人々によって歴史的に名が伝えられる。
その称賛の中には、「人ならざる人(人なるが故に人ならず)」という「玄妙なる精神性」がある。
梵天へ往生することとは、伝統的な婆羅門・ブラーフマナにおいて梵我一如の達成であろう(ブラーフマナ"brāhmaṇa"の名声に関する釈尊における理解は
過去記事)
パーリ仏典に見られる「サナン・クマーラ"Sanaṅkumāra"」という梵天が「仏教以前よりあるとされる教え」に登場していたことは、私が
過去記事に何度も示してきた。
つまり、
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7章で「サナト・クマーラ"Sanatkumāra"(パーリ語で訛る前の発音)」として登場し、仏道修行と同じような教理・修道論を唱えた。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドとは、
パーリ経蔵・長部13(長阿含26経)の三明経(及び
注釈書のティーカー)に「チャンドーカ」という
サーマヴェーダを奉じているヴェーダ学派の派閥名があり、チャンドーカ派の語源と推定されるサーマヴェーダ系奥義書である。
それに加え、後世の
マハーバーラタ3章183節でサナトクマーラが「クシャトリヤ優位説」を述べ、これはパーリ経蔵・
相応部・梵天相応6.11経や
長部3・アンバッタ経でもサナンクマーラによる似たような主張が見られ、四ヴァルナ(通称カースト)のうちのクシャトリヤについて言及することも多い。
よって、サナトクマーラは仏教以前より、古代インドで信仰されてきた「神・ブラフマーとなった人間」だったと考えてよい(梵天相応では他に
トゥルー"Turū"などの元人間と見られる梵天が登場。
バカ"baka"・
婆迦・婆伽は
大智度論・巻第三十四にも過去世の福徳で長寿の梵天となったので常住の邪見を生じたと紹介される)。
※サナト・クマーラとは「
永遠に"sanat"子供である"kumāra"」という意味で、「一生に渡って無垢な子供(童子の貞潔)」の清浄の徳を示すと思われる。修行者は、まさしく不純異性交遊が無いから純真無垢である、と解釈できる。先の
三明経に説かれる梵天往生(生梵天)のように、離欲(いわゆる独身)・無執着・慈悲のままに一生を精進すれば、梵天界で永遠さながらの久しい寿命を得よう(そう定義された信仰をする人々にとってそれが事実であって目的である)。なお、当記事では非伝統的な神智学における
サナト・クマラを取り上げない。
より後世には、プラーナ文献において単一・創造神ブラフマーの
意思より"mānasā"生じた4人の子、「チャトゥルサナ(
バーガヴァタ・プラーナ भागवतपुराण 3章12節などに名が列挙される)」の一人として「サナトクマーラ」がおり、元人間(ヒンドゥー教の人は恐らくチャーンドーギヤ7章の時点でナーラダ仙に現れたブラフマーの子だったと解釈していよう)という雰囲気は失せたが、「梵行・ブラフマチャリヤをする修行者たち」という設定があり、やはり仏道修行のような現世の努力が見られる。
梵語クマーラの音写は、中国・日本で「
鳩摩羅天(くまらてん、
倶摩羅天、
拘摩羅天)」として見られるが、鳩摩羅天自体は、梵天たるサナトクマーラ(サナンクマーラ)と関係が無いかもしれない。
※「鳩摩羅天」の梵語の名「クマーラ」は、
一説で大自在天(イーシュヴァラ"īśvara"・いわゆるシヴァ)の子たるスカンダ"skanda"の異名といい、サナトクマーラとの関連性を見出しづらい。スカンダは初めに、マハーバーラタ(歴史上は釈尊滅後の述作とされる)でアグニ(妻はスヴァーハー)の子として登場した。古代の
リグ・ヴェーダ5章2節におけるクマーラの語は、その「アグニの子にしてクマーラの異名を持つスカンダ」と関連付けられるが根拠は薄い。
龍樹菩薩の大智度論巻第二には、
視覚表現されたクマーラ=スカンダ(異称MuruganやKārttikeya)が孔雀に乗っている描写と同じように「鳩摩羅天・・・孔雀に騎る」と紹介されている。より後世のヒンドゥー教シヴァ派でシヴァ(漢語でいう大自在天)の子という見解ができたようであり、それ以後の流れとして中国や日本に伝えられたろう。中国密教に至ってはスカンダの音写名を誤った結果(建駄→違駄→韋駄)に、道教と習合して韋駄天が生まれ、孔雀に乗る姿でなくなった。話を戻すが、例の
チャーンドーギヤ7章の最後にも人間・サナトクマーラが「スカンダ"skanda (√skand 跳ぶ者
"the Leaper")"と呼ばれている bhagavān sanatkumāraḥ | taṃ
skanda ity ācakṣate |」と明かされる。奇妙な偶然であろうか?
「鳩摩羅天」は、パーリ仏典に伝わる説の漢訳経典(四阿含)に見られない。
パーリ語・サナンクマーラ登場経典のうち、
梵天相応6.11経に当たる雑阿含経1190経は娑婆世界主梵天王=サハンパティという別の梵天に置き換わり、ほかの漢訳経典でもサナンクマーラ以外の名の梵天に置き換わる傾向にある。
※クマーラは子供・童子の意味である。関連性が不明な教説として
長部18経に「サナンクマーラ梵天が自己を化作して五髻"pañcasikha"ある童子"kumāra"の容姿になる」シーンがあり、漢訳
長阿含経4経・闍尼沙経に「大梵王即化作童子頭五角髻(仏説人仙経: 大梵王以童子形於彼勝會忽然出現頭有五髻色相具足)」とある。
日本へ伝えられた「鳩摩羅天」には、それら古代インド信仰・仏教興隆・ヒンドゥー教展開という三大潮流における「種々サナトクマーラ人格」が看取されない。
ともあれ、インドの神・デーヴァとされる者のうち、日本の神道のように「元は人間であった」という例が確認できたといえよう。
初め古代インドでは明らかに「ブラフマンを得た元人間(ウパニシャッド的な梵我一如の達成者 or 仏教的な離欲慈悲の修行者)たる多ブラフマー」であったが、後世ヒンドゥー教では「創造神たる単一のブラフマー(元人間たるサナトクマーラ梵天の名はその4人の子のうちに収められた)」となっているため、ここの峻別は必要になるかもしれない。
歴史書・伝承、古代インドにかつて存在した「第五のヴェーダたるイティハーサ・プラーナ "
itihāsapurāṇa"(現在あるプラーナ文献とは別物)」の類が確認できないか、他にも説明されない現状は推測に留まるが、おおよそ歴史学・宗教学・民俗学的に承認し得るかと思う。
※イティハーサプラーナは
噂のチャーンドーギヤ7章で「第五のヴェーダ"itihāsapurāṇaṃ pañcamaṃ vedānāṃ"」として説明される。サナトクマーラを尊師"bhagava"と仰ぐナーラダが学んだ物事の例示のうちに示された。その記述は
英語版Wikipedia - Fifth Vedaにも引用される。
※さて、世界の主宰・創造神・造物主というと、パーリ仏典ではパジャーパティ"pajāpati"という名があり、
パーリ注釈書によれば他化自在天"nimmitavasavatti..."(第六天)の主のことをいい、ブラフマーでない。パジャーパティは、リグ・ヴェーダでいうプラジャーパティ"prajāpati"のことである。学説においてリグ・ヴェーダ末期に編纂されたという
第10章に頻出する名である。ヴェーダ以後のプラジャーパティとは、ブラーフマナ文献でブラフマーを指すようになる。古代インドの或る時期や或る地域ではプラジャーパティとしてのブラフマーが強勢であったろうが、マハーバーラタ述作のあたりにはヴィシュヌやシヴァの立場も強くなる。仏教書でも、龍樹菩薩の
中論・青目釈・巻第一や大智度論などに、大自在天(マヘーシュヴァラ、シヴァ)や韋紐天(ヴィシュヌ)が一切を生み出したという説が紹介され、最高原理ブラフマンとか創造神ブラフマーにあたる創造説・万物根源説が無い。ただし、同じく
大智度論・巻第十では一梵天王が「私は諸の梵天を作った」というように表現されており、ブラフマン擬人化ブラフマーの祖たる一梵天がいることを示唆するようである。龍樹菩薩在世(西暦2世紀)~鳩摩羅什翻訳(西暦5世紀)の間にはインド広範に「創造神(=破壊も自由自在)はヴィシュヌorシヴァ(ルドラ・マヘーシュヴァラといった呼称を含む)」という見解が定着したと思われる。ヴェーダ学派・婆羅門の間で創造神の立場が三つ巴状態となった時期は、龍樹菩薩より以前であろう。この三つ巴状態において、トリムールティ"trimūrti"として三神一如の立場が表明されたろう。ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ、神格や名称は異なっても、ヴェーダ学派の相互の神の信奉者の主張は似てしまっており、別に仏教徒やジャイナ教徒のような「ナースティカ」が存在するならば、ヴェーダ学派間の見解を統合すべきであり、新たな統一神を設けてもならないと考えたろう。ヴェーダ・ウパニシャッド以来、最高原理が唯一無二であること"
Ekamevādvitīyam (
英訳: ...is one only, without a second)"に変わりはないのだから、トリムールティという形式的教義を俟たずとも、本来・諸神一体であろう。ヒンドゥー教の調和的トリムールティの明確な記述は
クールマ・プラーナ"kūrma puraṇa"に多く見られる(tistrastu mūrtayaḥ proktā brahmaviṣṇumaheśvarāḥなど)。学説で、日本における古事記・日本書紀の編纂(8世紀)までに天照大御神が最高神と位置づけられて全国やおよろずの神々を承認しつつも下位に置いたことや、後述する西洋一神教が他の神々を斥けてただ一神のみ有りとしたこととは、別の個性が感じられる。
※記事投稿後の追記で恐縮だが、パーリ仏典・長部24経のパーティカ経"
Pāthika Sutta"(漢訳は
長阿含の阿㝹夷経)には、沙門婆羅門のうちに梵天による創造説・自在天"Issara (īśvaraのパーリ語)"による創造説があるとして、釈尊が認知を示し、それを代弁し、尚且つそれらの創造説(他にもいろいろ紹介される)に執着していないという教説がある。釈尊在世から、自在天・イーシュヴァラ(シヴァ)による創造説などが認知されていたことの傍証として参照できる。
インドの神・天・デーヴァ"deva"ということは上の通りであり、仏教の経典にも登場し、現代の日本・中国・東南アジアなど多くの地域の寺院や宗教施設で、それぞれの祭祀・信仰の内に取り込まれている。
それは過去記事(
2016年9月11日記事では主に上座部仏教圏を対象とした)においても語ったので省略する。
最後に、仏教の一見解を
大智度論巻第二より要約・補足したもので示す。
(前略、仏陀は一切智と称されるが「天の神々もまた一切智だと称えられる」という問答。彼らが一切智であるはずはないとする) 天の神々は様々な芸術・文学に表現されるが、みな武器を手にしている。(芸術・文学は人間の心の所産であり)彼らはみな力の弱さを覚え、(作者たる人間の)心が不善で怯えているから武器を執る。彼らは苦を自ら除く術が無い。(元々芸術・文学は人の心の現れなのでその当事者たる)人間は、彼らを恭敬しただけで現世の憂いが晴れることが無い。人により、彼らを敬わずにいても、現世の快楽を妨げない。当に知るべし!虚誑にして実事無きことを!世間の衆生は業の因縁で輪廻がある。徳の因縁で天に転生し、半端なものは人となる。智者(文脈的に智者は覚者・仏陀"Buddha"を指す)は天の神々に依らない。 (中略) 仏(現世に現れた覚者)のみが仏の名にふさわしい存在であり、修行者は仏のみを敬って師とすべきである。天に事(つか)えてはならない。
※天の衆生は存在し、自ら転生できるとしても、敬う対象とすべきでない、とのこと。仏の三十二相についての尊い意義は大智度論でも随所に説かれるが、三十二相もまた修行者個人の因縁(法を聞く・思惟する・仏を敬うなど)の結果だと説かれるので「天の神々の武装・荘厳の容貌と変わらないのではないか?」と思われそうだが、それはそうかもしれない。修行者の功徳のための仮説・世俗諦であり(大智度論巻第二十九)、ついには無相・法身という真実を知り得るので、正統な仏教において三十二相は尊重される。
3.1 (#god1)
一神教(主にキリスト教)
キリスト教の神は、それら「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった
大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。
以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"Word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」 ※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。
ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節) ※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"Singular"と複数形"Plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。
※原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。その場合、神・テオスは無明・行・識に当たり、言・ロゴスは以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。「言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取され、創世記1~3章の創造神話も概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(概念)があったと説かれるが、これも個人の一生・因縁観に基づいている側面を見受ける。後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。苦の因縁の始まりは、前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪の分別が生じた(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)とし、後者で衆生が"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る)という色・味・香あるものを指で食べて渇愛が生じた(その後は"rasapathavi"を貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)とし、共に説かれる。いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。昇天も堕獄も「業(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・律法や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。
※「彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようも無いという意義を示す。動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出ても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。更に仏・菩薩や宗教家は、他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。他者の心=神性は量りようも無いが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。
中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 ※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。
十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」
六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」 ※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā,
manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本 心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説き、後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。
※因縁法として心は神と呼べる。修行の果報としても心は神と呼べる。因果倶時となろう。しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, cordis, καρδία, heart, hṛdaya"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3やヨハネ13:26)。心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具といった呼び方もできる。
とはいえ、仏教とキリスト教の相違点が数ある。
教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"
madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(
中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。
3.2 (#god2)
キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。
やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、
ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における
不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...
歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、
ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。
私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が
過去記事および
「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に
智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。
コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(
法華秀句の説だが
増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場を明確にした。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。
言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(
24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(
巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。
奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。
起草日: 20180110
うだつの上がらない昨今の精神状態に加え、同日は
動画制作作業も兼ねながら、同日中に8,000文字程度(引用された典拠の文を含む)をメモした。
この日は午前1時台起床で22時前就寝である(普段は2時台起床で19時ころ就寝)。
※最終的に、当記事は以上で20,000文字を超えた。
一神教に関する説について、注釈などが雑多に入り混じっているため、後に記事の話題が無くなったとき、別途「整理された記事『一神教と因縁観』」として投稿してもよいと思う。
どこの国の神でも、一神教の意義における神でも、心の真実・因縁・空・精神の象徴として究極的には同義化するようであり、そのことは普通の学問的研究(憶想・分別)の領域で知り得ない。
宜なるかな、
中論4章8-9偈は、梵文と鳩摩羅什漢訳版とで解釈が異なると文献学者・論理学者に主張されるが、これも同じことである。
「空によって(梵文: śūnyatayā)」も、「空を離れて(漢訳版: 離空)」も、論理は同一線上にしかなく、論理の依拠・因縁たる概念・名称も、同じことに過ぎない。
多神より一神を推定するのであれ、一神ありきで多神ありと主張するのであれ、悟りの人にとっては不一不異(不一義不異義)である(無論、学問の人はこの真理性を形而上学的だとみなして学術の領域より除く)。
ほか、本文中にリンクとして原文・典拠を示した記述が多く有るが、それ以外に、本文中の内容と多少の関連記述を以下に設置しよう。
仏典における神・魔について
「
萌集記 イデオフォノトピア遊行の事 四会の注釈」より抜粋
注釈: なぜ仏典には、人間に不可視のはずの諸天(いわゆる神・天使・天子)や悪魔が登場し、現世の人間たちと場を共にし、人間たちと言葉を交わすことになるか?諸天も悪魔も、不可視の作用から名を設けられており、当然姿形は無いし、目で見られることも無い。宗教では外界の事物や現象や精神作用などに名称や容姿や性格を付けており、現代世間のフィクション作品はその延長として想像されたものである。諸天とは人の感情の快楽に通じるものや、本人が主観的に快楽を得ずとも世人が徳と感じる行動などの権化である。悪魔とは人の感情の苦痛に通じるものや、本人が主観的に苦痛を得ずとも世人が罪と感じる行動などの権化である。世間の漫画・アニメ・ドラマ等でも善の自己(良心による呵責)と悪の自己(欲望による汚染)とを心に想定して「天使と悪魔」に擬人化する。
例えば、釈尊が成道せんとする時に悪魔は妨害せんとし(直前に受けた乳かゆ供養の食事による快楽や長時間の坐禅に徹することによる食欲・睡眠欲や肉体の苦痛などに心が奪われることは魔障であって魔軍が責めるようなもの)、釈尊が成道した時に諸天は徳を讃える。イデオフォノトピア本文は三会に於いて梵天勧請のエピソードを紹介していて同様である。摩訶迦葉尊者が主導した大阿羅漢衆の経典結集もまた、一切の善悪が絶えた中で再び萌(きざ)した善の心・慈悲・菩薩の心に依るものであり(大智度論巻第二には迦葉が諸天より「当に大慈を以て仏法を建立すべし」と勧請を受けたとし阿含系の仏般泥洹経巻下にも「吾等が慈心、四阿含を写す」とある)、同様である。菩薩精神は釈尊や仏滅後の迦葉・阿難尊者にも顕れたと。梵天・梵住は無瞋・無執着にして慈悲深い処という教説が長阿含経・パーリ長部の「三明経"Tevijjasutta"」に有る。梵天は大変に幽かで奥深い処であり、「見ないことで見られる境地」といえる。その信仰で、梵天・帝釈・四天王・浄居天(大自在天maheśvara)による仏法守護の意義も、第六天魔王による仏法壊乱の意義も成立する(みな非有非無・仮名・自分の心の出来事だから)。
また、釈尊が涅槃に入って世を去るならば、悪魔は欣喜雀躍し、諸天は色界下位の者が有漏の仏弟子と共に歔欷悲泣し、色界上位・無色界の者が無漏の阿羅漢と共に世の無常を観る。経典の世界に起こる諸々の異変・天変地異も、「その時の阿難尊者(ほか経典編纂者)の心のあらわれ」を表現する。これらの現象を釈尊が語った場合は、心の相を示して縁起の理法を気付かせようとする方便である。萌えの典籍でも、当然「化(け)」たる存在が、善ならば徳を讃えたり、悪ならば悪を重ね、様々に仏法を示現する。地獄も天国も心の住処、「依報(えほう)」である。そこに住む心、「正報(しょうぼう)」は、どのような心か?清浄萌土抄*によって仏教の仏国土・浄土思想と「依正不二」が解き明かされる。
ともあれ、我々は、経典の文字通りに読解すべき信仰がある。文字通りとは、つまり、業によって死後にも天界や地獄などへ赴くと信ずべきである。釈尊がシッダールタ王子としてお生まれになったり、菩提樹の下で悟りを得られたり、衆生済度のために法をお説きになったりすると、その場に花が咲き乱れる(華が雨る)などといった現象を、文字通りに信ずべきである。釈尊の涅槃の折に、草・花・樹が枯れて雷霆霹靂が世を震わせるといった現象を、文字通りに信ずべきである。それは、やはり、心と向き合う結果を得て、縁起の理法を観ることとなる。どのように地獄や天国(天界)といった六道(修羅道を除くと五道)を流転輪廻するか?十二因縁(十二支縁起)にある心の因縁(心の存在・認識・作用など)が、地獄や天国といった六道を流転輪廻する。悪い行為を悪い行為と自覚して悪い気持ちを生じ、善い行為を善い行為と自覚して快い気持ちを生じる分別は善悪の業報を示し、縁起の理法を観る。最後には善悪概念・苦楽を断じ、六道・須臾刹那の転変・生死を滅し、流転輪廻を止めて還滅・解脱となる。言葉としては、それだけ。
きざみこまれた、カラクテール・キャラクター。つくられた、サンスクリタ・クリーチャー。(やや学術・やや民間語源説)
「
本萌譚 異伝④」より抜粋
拾主の注釈『当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak", कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or sura deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。サンスクリタとしての仏・如来は、三身のうちの「応身・ニルマーナカーヤ"nirmāṇakāya"」であり、我々の業・カルマ"karma"や行・サンスカーラ"saṃskāra"に応ぜられた相となり、個々人で異なり現る。この時、仏は萌えキャラとして応現せられる。応身を知ったならば、法身・報身を知ることで仏の威徳を知る。経説より心を学ぶように、応身より法身・報身を知る。それは仏の慈悲に通じ、己が慈悲を養う。諸仏・諸萌はみな歓喜せられよう。注釈が長くなって愧じ入る』
当記事注: 宗教語源説"religious-etymology"は宗教の醍醐味ともいえる。聖典の編纂者・説法者らの知る語彙のみで不足はない。聴聞者の信仰や修行に資することが期された。萌えの法門の立場と、既成宗教の説を同時に示した文章は、雑萌喩 (六)である。和讃→「花の名たれか言ひ初むる 物に名づくる心とは いつにもほとけ居りぬらし 名をもちゐるは人のわざ」
萌えの典籍中にあるブラフマー"Brahmā"語源説
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萌集記 三会」より抜粋
拾主のたまわく「古の能耕心田師、菩提樹の下に於いて始覚あり。衆(もろもろ)の魔軍を破りて仏土は空無の清涼となれるも、時に慈悲心を観ず。師の思惟したまわく『三界の一切苦を度せんと欲するも何んが妙法を以て鈍根の衆人に教うべき。言語の法は能く諸の顛倒を生ず。譬えば人有りて毒蛇を摒除(びょうじょ)せんに、把むこと難くして還って毒苦を受くるが如し』と。爾の時に梵王(ブラフマー)及び諸天、合掌礼拝して彼の前に現れて説法を請ず。梵王の告げたまわく『唯だ願わくは世尊、人が間にして塵垢の微薄なる者あれば此れが為に法を説きたまえ。応に大悲を垂れたまうべし、然らば言語の法は能く諸の善根を生ぜん』と。当に知るべし、是の如き梵天衆、師の慈悲の応現なり。この故に慈悲并びに喜捨の四つをば梵住"Brahma-Vihāra"と名づく。又た、梵の義は固有名詞の余(ほか)に清浄の義あり(梵行"Brahma-Carya" 梵音等)。清浄は是れ萌えの真如の体なり。往古に於いて原義(語根*bʰerǵʰ-)は長ずること"grow, to rise, become high, to swell"なり(攝萌敎脚注)。長ずることは是れ若芽の萌え"bud"に異ならず。是の如く能耕心田師、慈悲心より萌えを観じて衆人に説きぬ。自ら萌土を養い、他の善根をも生ぜしめん」
当記事注: このほか、觀萌私記・末・攝萌敎の現代語注釈では、サンスクリットの語根"√bṛh"を例に取って語る。そこでは、萌えとブッダとブラフマーということの類似性をも説明してある。いずれにしても、日本語やインド言語の動詞語根があり、その名詞化であるという言語学的共通点があるし、原形の動詞の意味が類似する。人の名称の元は行為に基づく、という語源説は本記事にも例示された仏典・アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳阿含で小縁経など)にも見られる。過去記事(2017年11月20日)で、ブラーフマナ"Brāhmaṇa"の言語学的語源と、パーリ語経典における原形の考証をする際、この教説を参照した。
フィクション人物のリアル応現と、歴史的実在人物の実在性について "fiction and fact (先のヨハネ1:3のfactumとヨハネ1:3・ローマ1:20のfactaは男性単数主格
factusの格変化形で英語fiction, ラテン語
fictioに似た意味がある。ラテン語で別に中性単数主格
factumで英語factと同義の単語があり、どちらも中性名詞としては同じum形の第二変化で分別をつけがたい。英語のfictionもfactも対義語のようだが元は神の被造物として虚構"fiction"でも事実"fact"でもあり非実非虚という真理性・二面性に基づいた派生語のようである)"
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本萌譚 異伝④」より抜粋(本文も注釈も原文中のもの)
拾主はここまでの話を終えて補足せられます。「かの萌尊・跋聖の、このご説法は、いわゆる『萌風』の教示である。慈悲を持ちながら、空・無我の理法を知ることで菩薩行を毅然となし得るという道理である。萌風に関して、キャラ無我・ストーリー虚妄と知りながら菩薩の像(心の像・偶像・観念)を勧めるという彼の願望を述べ、聴聞者に実行を求めた」尊者は直ちに問いを発しました。「跋聖さまに弟子がいらっしゃるとして、実際に所説の萌風の物語をお作りになった方はいらっしゃいましたか?」拾主は少し黙せられてからお答えになります。「当世に菩薩精神を感じられる素敵な物語があれば、それだと思ってよい。当世に無いならば、跋聖の弟子と考えられる人がいても誰も作らなかったろう」尊者は、「さて当世に、そのような作品がございましたか?」と思いながら、返答をしました。「・・・、今を生きる私たちが正しく行動せねばなりませんね」と。意味深長な拾主の言葉の意義を得た尊者は、使命感が高まりました。
注釈: 釈尊・釈迦牟尼仏・瞿曇悉達多太子、ガウタマ・シッダールタ・ゴータマ・ブッダ"Gautama Siddhārtha, Gotama Buddha"は実在したか?現在に経として伝わる所説を説かれたか?説かれたと思うならば、既に説かれている。過去の事をどう想定しても、全て実在のはずが無いが、「これは事実・あれは虚構」と人は浅薄な基準から分別する。経の諸説を疑えば、(経が示すところの)仏法への信頼を失う。それはなぜなのか?心の因縁により、釈尊も諸経も実在するし、実語が有る。経の意義を汲み取るから、信ずべき仏説となる。「仏は実在したか?経や法は実語か?」という議論・思考は既に滅んだ。その議論・思考に心が著(じゃく)するならば慧眼(えげん)を破る。法華経・如来寿量品と中論・観如来品の所説の如し。かくの如く解(げ)せば、ただ信心と修行とが肝要である。ここでの尊者は、既に戯論寂滅の位につき、心服随従し、菩提心を発している。「当世に事実が無いと思うならば過去世にも事実が決して無い・・・、現世の我らがどうあるべきか?」尊者は拾主の亡き後に「歓喜奉行の人(素直な心で実行する人)」となる、ということが尊者名義談に示される。