2017年5月21日日曜日

仮名文字は仮に名付ける為に・・・さ行表記と拗音・破擦音の関係、唐音「茶(ちゃ)」の検証

すす すず 種種 すさう すざう 衆生
「種」、「衆」は現代ピンインで"zhong4"のように古代中国でも破擦音・2モーラ(日本語相当)であった
→日本は1モーラの「しゅ"shu, syu, sju"」として受容し、平仮名・片仮名は江戸時代以前に「す」と綴った


前回記事関連(承前のこと)

仮名(かな・カナ)表記で拗音表記や濁点・半濁点が無かった時代(江戸時代以前か?)、文書に「すす(すゝ、スス)」と平仮名(片仮名)で書いてある場合、人々は文脈に合わせて「しゅじゅ・種々・種種 "Shuju, Syuzyu"」と読んだろう。
私が確認した鎌倉時代の仏教の僧侶の文書・当時の書簡に、そういった仮名表記が見られる(参考: 日蓮聖人真蹟・種々物御消息、ほか日蓮大聖人御書全集 全文検索"すずの")。
僧侶自身は難しい漢字を読み書きできても、紙が不足している状態にあれば筆で緻密に書く際の視認性を考慮して仮名文字で略記するし、識字率の低い時代に読み手が一般庶民・在家信者であれば考慮して仮名文字の表記を用いる。

難しい漢語を仮名表記した例は、「ひるさな(びるしゃな・毘盧遮那)」や「すりはむとく(しゅりはんどく・修利槃特・・・"槃"の字の中古音や韓・粤語発音は韻尾-mではないがあの時代は仮名"ん・ン"の発音と文字表記が普及していないためか)」などである。
鎌倉時代など、仮名表記が本当に「仮」という感覚で用いられた時代には、口の発音に則していない状態ではあったろうが、読み手は「すす」といった便宜的な表記から「しゅじゅ・種々」を連想したと考えてよい。
これら一部の漢字語句カナ表記における「さ=しゃ」、「す=しゅ」といった発音は口伝されて江戸時代辺りにようやく拗音表記が生まれ、現代まで漢字音の拗音読みがもたらされたと考えてよい。
明治時代になっても拗音表記が出来ていない場合、文字を文字通りのまま読む風潮が生まれ、現代にはシャ行発音が口語・俗語・方言以外では命脈を断たれていたであろう。
後述する、本来日本にあった「チ="ti"ティ、ヰ="wi"ウィ」という表記・発音が、外来語の仮名表記ために拗音表記として生み出されることが有り得るくらいであろう。

なお、「種」という字は、記事本文にある「良」のように、軟口蓋鼻音"ng, ŋ"が韻尾の漢字と同じく、2モーラ化していない「しゅ」という読み方で普及した字の一種である。
現代のピンインでは"zhong (チョン、条件によりジョン)"と書かれるよう、本当は日本でも「しょう・しゅう」という2モーラの発音がされるべきであったろう。
「良」の「ら」という読み方は、現代の国語学だとかでは正当な漢字音・呉音・漢音とみなされず、伝統的にも仏教用語などに見られないが、「種」の「しゅ(す)」という読み方は「種々」に見るよう、古い時代から正当な発音として現代まで伝わっている。

その一方、仏教用語の一部には「種子」を一般的な「しゅし」と読まず、「しゅうじ」や、「しゅじ」と読むこともある。
「しゅうじ・しゅじ」とも、軟口蓋鼻音の影響で連濁したもの(鼻音連濁・過去記事)となっている。
「しゅじ」のみならず、「種々・しゅじゅ」については、2モーラ目"う"が残らない字でも「功徳"くどく kong tok, kong dok"・恭敬"くぎょう kong kieng,  kong gieng"」のように「隠れ軟口蓋鼻音」の連濁が発生している。
このように現代では2モーラ目"う"が省かれた字でも、本来は軟口蓋鼻音の韻尾が存在し、そのために連濁したものと分析せねばならない(「何となく連濁した」とか「訛って連濁した」とか「語感をよくするために連濁した」とかという経緯ではないということ)。
※「衆(眾)」という字も、現代のピンインでは「種」と同じく"zhong (チョン、条件によりジョン)"と書かれる文字であり、また呉音も「種」と同じく「しゅ」が多く、「衆生(しゅじょう)」という場合は、やはり軟口蓋鼻音"ng, ŋ"が韻尾である影響で連濁が発生している。衆生は、「すす(現代校正: すず)」表記に則った場合「すさう (すざう、現代校正: すそう・すぞう)」となる。恵信尼消息に見られる。

ほか、「ひるさな(ヒルサナ)=毘盧遮那(毘盧舍那・びるしゃな)」を例に取ったが、これについての一考も記す。
毘盧遮那とは、梵語・サンスクリット「ヴァイローチャナ"Vairocana"」の音写語句である。
弘法大師空海さん・慈覚大師円仁さん(ほかに禅僧?)など、中国に渡って中国語や梵語発音を聞いた人は、便宜上「さ」という仮名表記や相当する漢字を用いることがあっても、口頭では臨機応変に「チャ(破擦音系統)」と発音した可能性がある。
真言・陀羅尼・咒といったものの発音は、梵語の発音を知る彼らが梵語に近い発音で唱えないことは考えづらい。
現代、カタカナ表記をカタカナ表記のまま唱えれば光明真言の「ベイロシャノウ(べいろしゃのう・びろさのう・びろしゃな...)」という、「ヴァイローチャナ"Vairocana"」とは全く異なる発音をしかねないが、実際は当時の人々の間で、もっと梵語に近い発音がされていた可能性もあろう(推定: ベイロチャナ)。
後の日本国内で流布したものとしては、既に中国語や梵語といった原語の発音から遠ざかっていたかもしれないが、一部の大寺院の僧侶や、実際に大陸へ渡った僧侶は、奈良・平安・鎌倉時代の日本語にはない「チャ」の発音を「さ」に相当する仮名表記や漢字から発音していたと考えてよい。

※梵語発音の受容については過去記事(2016年12月12日投稿のもの)で「達摩・達磨"Dharma"(だつま・だるま)」を例に挙げた。http://lesbophilia.blogspot.com/2016/12/dharma-sanskrit.html



歯茎音グループの仮名表記における関連性

さ行=歯茎摩擦音 "s, z"
た行=歯茎破裂音 "t, d"
しゃ行(古来仮定さ行)=歯茎硬口蓋摩擦音など "sh (ɕ, ピンイン: x)"
ちゃ行(古来仮定さ行)=歯茎硬口蓋破擦音など "ch (ピンイン: j, q, zh)"
その他・・・つぁ行=歯茎破擦音 "ts"、中国音韻ではちゃ行"ch"の祖である場合がある

文字とは記号であり、仮名"kana"とは読んで字のごとく仮の表記である。
当時においては「文脈や話の脈絡から機敏に異なる発音を選んでいた」と、古人に対する信仰心も相俟っているので、こう推量している私である。
「チャ」の発音について、いくらか古い時代の日本には民間的にされなかった可能性を示唆したが、例えば「茶」の「ちゃ」という音は、いわゆる唐音(唐宋音)という、中国が唐そのものでなく宋や元である時代以後、日本に伝来したものと見る(日本Wiktionaryの人が閲覧した辞書は慣用音として載せているが編纂者・学者の浅い見解や未完成の学説によるか)。
それ以前の時代の中国に「ちゃ"cha"」発音がある場合は、唐音表記とされる「さ」に通じている。
いいや、この「さ」に相当する仮名表記・表音漢字が古文献に載っているのであり、先述の通り、当時の人々はその表記を頼りに「チャ"cha"」の発音をしていたと理解すべきである。
「ひるさな=毘盧遮那=梵語のヴァイローチャナ"Vairocana"」といった例など、証明する根拠は極めて多い(なにせ仮名の拗音表記が無い時代だもの!)。
「遮断する」の「遮」という字も、現代日本では「しゃ」と発音しているが、中国語・広東語・朝鮮語など、みな"ch"系発音であり、"sh"系発音が全く見られないことから推して知るべきである。

「茶」の字の話に戻すが、「茶」が頭子音"t, d"の発音の時代(現代中国でも閩南語"te"など方言に残る)においては「だ(漢音)・じゃ(呉音・歴史的仮名遣いは"ぢゃ"なので現代的に"でゃ dya, dia"と表記すべき発音である)」として伝来したようである。
英語"tea"の語源としての「茶」は、"cha"でないし、"さ・sa"であるはずは到底有り得ない。
「茶」が頭子音"t, d"の発音の時代はあり、かなり古層であろうが、そこから歯茎破擦音系統"ts・つぁ"および"ch (ピンイン: j, q, zh)・ちゃ"に変化したということが転訛の法則からして理に適う。
後にどう変化しても日本に頭子音"s"発音で伝来することは無いと考えるべきである。
※禅僧などがある時期に中国の一部地域を往来した際、その時その場のみが茶を"s"で発音することも無い。唐宋音、鎌倉時代のものはどうか・どのような文献に記録が有るかは不明である。例えば12世紀に入宋した栄西さんによる「喫茶養生記(通称の読み: きっさようじょうき)」の19世紀の写本に「हूं ウン("hūṃ"吽・フーム)」の梵字・カナ表記などがあっても、「茶」の字音表記は見られない。以後の項目に「一茶名字(一に茶の名字)」として爾雅が引用されるが、言葉や植物の説明が主要であり、反切などの音韻・字音への言及は無い。

「中」という字が上古音・中古音では"t"行発音であった説が多く、現代日本の「ちゅう"chu"」、現代中国の「チョン"zhong"」、現代韓国の「チュン"jung, chung"」と発音される原型は字音仮名遣い「ちう"tiu = ting, tiŋ"」であり、バクスター・サガール式(以下、BS)でも鄭張式でも王力式でも/*truŋ/, /*tuŋ/, /ȶĭuŋ/として"t"系の字が用いられる通りである(知・智という字も全く同じ頭子音の変化が生じた)。
字音仮名遣い「ちう・チウ」とは、現代のカナ発音を考慮して表記し直すと「ティウ」である。
よって、もし1000年前の日本人が「ロマンチック」や「ビルヂング」という表記と見たらば、小さいツやチの濁点を理解させれば必ず「ロマンティック」や「ビルディング」と英語に近い発音をしたであろうと言える。
「チ"chi, tsi"」、「ヂ"zi, dzi, dji"」、「ツ"tsu"」、「ヅ"zu, dzu"」といった発音は転訛の一種であり、江戸時代~昭和時代に成立したであろうかと思う。
西洋言語で例えると、ラテン語"gratia"が古典発音のグラーティアでなく、俗語・教会発音のグラツィアであるようなものである(教会発音は聖歌Veni Creator Spiritusの音声で聴かれる)。

※"ts, ch"等の歯茎破擦音のさ行表記の例として、「清(淸、呉音しょう、漢音せい)」という字は唐音で「しん"shin"」というが、現代中国語では「チン"qing, ching"」であり、これも伝来時の唐音は「しん」と表記したとして実際は"chin"発音だったろう。「日清(にっしん)」とか江戸期前後に禅宗系が伝えた「清規(しんぎ)」なども、"shin"発音や"sin"発音がされるはずは無く、"chin (元はching)"発音である。明治のころに日本に名がはっきりと伝わった「青島(青は清の字の音符)」が"チンタオ"と仮名表記されたことは、近代化によって正しく伝わった点と、た行い段の「ち」が"ti, tsi"から既に大方"chi"に移行したためである。「清」の字もまた上古音・中古音では"t"発音であった説が多く、鄭張式が"s"発音ではあるが、現代中国・朝鮮・ベトナム発音に"s"発音が無い通り、少なくとも唐音は、ツィン・チン"tsin, chin"として伝来して「しん」を仮名に当てたろう。

辞書に載るとされる「さ」という唐音表記は、やはり「記号」として古人がスペリングしたものであり、まさに「仮名(kanaならぬケミョウでもよい・仏教思考と同じで浅い物事を頼りに深い物事ひいては実相を知る)」である。
例えば「小林一茶(こばやしいっさ・1763-1828)」という江戸時代の文人・俳人がいるが、彼が実在した時代に「いっさ"issa"」という発音が実際にされたとは考えづらいし、実際にされたとしても、「茶」という漢字が「さ」と仮名表記されても、そのような発音を伝来して表記を考案した人と周囲の人間・同時代の人々は「チャ」と発音していたと考えられる。
無論、「小林一茶」という人物がいた時代の知識人たちが、「チャ」発音並びに「いっちゃ"iccha, itcha"」という呼び方をしていたかは不明である。
江戸時代中期・後期となっても、そのように正統な「チャ」発音が口伝されていたか、当時の国学などの文献は未検証であり、判断が困難である。
江戸時代中期・後期は「日本語の乱れ」が顕著化してきた時代であるし、「小林一茶」という人物は当時から「いっさ"issa"」と呼ばれてもおかしくなかろうし、かえって「いっちゃ"iccha"」と読むことが「慣用音・転訛・百姓読み」と笑われる可能性が高い。



別件

中古音・上古音・広東語などで鼻濁音・軟口蓋鼻音"ng, ŋ"が頭子音(韻頭)となっている漢字音の受容に関し、当メモ起草の前日である3月10日に少し考えたことがあるので、記したい。
この漢字の例は「我・義・呉(誤)・原(願)・厳・崖・言・吾(語)」などがある。
いずれも、現代中国の普通話・ピンインでは頭子音が"-w"や"-y"に変わり、そもそも頭子音がない例「崖"ai"(癌"ai"という中国の現代医療における発音の由来でもある字)」などもあるように、すっかり別物に変質している。

我 = wo (nga) 義 = yi (ngi)
呉(吳) = wu (ngu, nga) 原 = yuan (ngan)
厳(嚴) = yan (ngam) 崖 = ai (nge, またはngre)
月 = yue (ngat) 業 = ye (ngap)
玉 = yu (ngrok)  言語 = yan yu (ngien'ngio, またはngan'nga)
※軟口蓋鼻音のIPA記号"ŋ"は環境依存文字である点を考慮して"ng"に置き換えた。介音として用いられる"r"は"i, j, y"系統と同じような作用か、ふるえ音もどきの作用があろう。

これは韓国語・朝鮮語においても同じ現象が見られる(漢字音の伝来時からかは不明)。
ベトナム語は、ローマ字表記を見る限り、いずれの字音もしっかりと鼻濁音が残っている。
一方、日本では、いずれも頭子音が"g"であり、ガ行発音(現代は鼻濁音で発する世代と発しない世代が混在)のみで残っている。
これら頭子音"ng"漢字の伝来当時は、鼻濁音・軟口蓋鼻音(カ゚行・半濁音のカ)が専らに用いられ、カ行の濁音として発声するガ行発音とは区別されたと推定する。
よく言われる、伝来当時と推定される上代・古代の日本語は、特定条件による連濁しか濁音が発声されないためであり、鼻濁音"ng"は漢字音のために使い、連濁由来のガ行発音"g"とは区別していたという理由がある。

そして気付くことは、中古音などで、頭子音を軟口蓋破裂音の類"k, g"と発音し得た漢字が、やはり日本漢字音でも、カ行とガ行の清音・濁音の別が共に発音(仮名表記)されている。
現代のピンインにおいて頭子音が軟口蓋破裂音の類の漢字は、"k, g"のみならず"j, q"といった表記が見られる。
鼻濁音グループの漢字「我・義・呉(誤)・原(願)・厳・崖・言・吾(語)」の発音と、軟口蓋破裂音類グループの漢字の連濁などの条件で濁音化した漢字「(主に仏教)歓喜(かんぎ)・三界(さんがい)」について、現代の日本人は一様に、アナウンサーだとか高齢者と言われる人が鼻濁音"ŋ"で発するか、若い世代と言われる人が有声軟口蓋破裂音"g"で発するだろうが、元の漢字音はかなり別物として区別できる。



また、現代のピンインにおいてガ行・カ行発音でも特殊なグループは「幻・玄・古」などの字である。
なぜ日本語ではガ行・カ行発音となっているか、解明しよう。
「幻」は、現代のピンインにおいて"huan (粤: waan)"など摩擦音の子音(h, w)で綴るが、上古音などでは"g (鄭張: gren)"が頭子音であると推定されている。

「玄」は、頭子音"h"が韓国語"hyeon"やベトナム語"huyen"に見られるのに対し、現代ピンインにおいて"xuan (粤: jyun)"となるよう、"x"が頭子音という謎の変化を遂げている。
上古音などでは、やはり"g (BS: gin, 鄭張: geen)"である。
ピンインで頭子音"x"は、口頭だと"sh"シャ行発音(厳密には歯茎硬口蓋摩擦音)に似るが、本来"hs (ウェード式のローマ字)"という綴りもできたものであり、実際に中国音韻の変化法則からも"sh"よりは"hs"の方が合理的である。
それをピンインで"hs"でも"sh"でもなく"x"と綴っているが、この"h"は軟口蓋摩擦音(日本では声門摩擦音)の流れからして軟口蓋破裂音"k"と親和性があり、「夏(カ)」が現代中国普通話カナ表記で「シア」と呼ばれるピンイン"xia"であるように、"ka→ha→hsa, sha, xa→xia"という音韻変化が想定される。
あるいはX字形の文字としてキリル文字の"Х(ハー)"の音価が"h, f"に通じており、ギリシャ文字"Χ(カイ)"においては"kh (古代にk有気音)"→軟口蓋摩擦音である。
ラテン文字で"x"といえばエックス・エクスな文字であるが、その場合の源流はキリル"Х"・ギリシャ"Χ"ではなく、ギリシャ文字の"Ξ, ξ(グザイ・クサイ・クシー)"であり、音価は"ks"である。
これらの要素により、"ks"を"hs"に変えてピンインでも"x→ks→hs"といった関連付けができる。
話が逸れたが、こういった文字・音韻理論の観点で「夏」に関しては"hsia"と綴るべきであり、"玄"も"xuan"ではなく"hsuan"の方が、「幻"huan"」と同じ頭子音"g"音が由来であると推定しやすくなる。

ピンイン作者(周有光氏は2017年に111歳でお亡くなりになった)は、つくづく、不可解な発想をしたように思う(そもそも"Pinyin"という表記が「拼」という字の并という音符の韻尾"-ng"に相違して"g"を省くという過失がある・今は既成事実化してみな"ping"より"pin"と発されていよう)。
ピンインで頭子音"x"のものは、「玄・シェン"xuan"」のような説明がつけられるものが多いとよいが、先例の「夏"xia"」のみならず「小"xiao"」など、上古音・中古音時代が単なる"s"や"sh (sy, sj, si...)"だったものも多く混ざっており、古い音の想定に不向きで、理に適っていない。
頭子音"x"で"sh"発音とは、外国語圏からしても、奇怪な翻字・転写の手法だと思われよう。
あえて共産主義・合理主義・効率重視のために二重子音を嫌うならば、"zh"という奇怪な二重子音表記も無くして"q (ピンインではchと似た発音)"に統合すべきだったろうに、と思う。
話を戻そう。

「古」は、現代のピンインにおいて"gu, ku"と綴られるが、どういうわけか、これを音符に含めている「胡」については現代のピンインにおいて"hu (粤: wu)"と綴られるような発音に変化している(これは実際に"h"発音という裏付けが胡徳"Hood"や聖胡安"San Juanサンフアン"という語句にある)。
しかし、上古音で「胡」は言うまでもなく"g (BS・鄭張: ga)"が頭子音であると推定されている。
※「胡」が頭子音"g"と推定するのに「古」の方は"k (BS・鄭張: ka)"が頭子音と推定している。

この形成文字の「胡"hu (粤: wu)"」と音符の「古"gu"」の関係と似ている漢字の例として、会意形成文字の「含"han (粤: ham)"」と音符の「今"jin (粤: gam)"」が挙げられる。
頭子音"h"が後の時代の訛りである例を、「胡」と「古」の関係や「含」と「今」の関係に検証した。上古音や中古音の学説を確認する前から、過去記事でも記したように梵語の音写「阿含・アーガマ"āgama"」や「阿那含・アナーガーミ"anāgāmi"」などに見られる通り、いくらか古い時代の中国で頭子音が今の"h (粤語w)"ではなく、"g"や"k"であると想像が付く。

ところで、当該記事に「好・海・韓(漢)」など、日本の呉音・漢音で頭子音"k"(カ行発音)として現代に伝わる漢字の一部は、古くから大陸で"h"であって上代・古代日本にその音韻が無かった学説に対比して記した(今のハ行は中世にファ行とか上代・古代にパ行と言われ、実際に朝鮮語や中古音の"p, b"という両唇破裂音類の漢字がみな現代はハ行・連濁バ行・連濁パ行で発せられている)。
もしかしたらば、これら"h"発音の「好・海・韓(漢)」が伝来した当初の日本人は自分たちに無いながらも漢字音のために"h"発音をしていた可能性もある。
そう仮定すれば、万葉仮名や後のひらがな・カタカナなどが用いられる時代には、「好・海・韓(漢)」などへの"h"発音を再び失っていたと考えられよう。
日本の中では、ごく一部の者が、大陸に渡ったり、大陸の人間と交渉する時のみ発音したろう。
※阿弥陀仏・観音菩薩の種子にキリーク(キリとも)というものがあるが、元の梵字によるラテン文字IASTは"hrīḥ"であり大日経の茶吉尼ダーキニーの真言にも摩訶"mahā"の訶"ha"を用いて「訶唎訶(厳密には訶去唎二合訶上で去声・長音・上声といった発音の特徴が示される)」がある。日本の過去の真言僧はキリークと書いて"hrīḥ"やह्रीः(デーヴァナーガリー表記)相当の発音をしたろうか?弘法大師サマの肉声相承はどこまで続いたか?



起草日: 20170311

当記事は、元々「日本語カナ読みと漢字音韻の雑なメモ」と題して5月10日投稿記事の後書き以後に載せるつもりでいた。
しかし、その記事が投稿される以前の2017年4月9日、内容が充実してきたり、別個の価値を感じられた経緯から、今回の記事として独立させる案を決定した。



後年の追記:拼音、ピンインは音韻的な区別ができるようにしたうえで、英語で用いられる ABC ... WXYZ ラテン文字のみで母音と子音を表記できるようにしており、なおかつダイアクリティカルマークで声調、トーン、四声を示すが、初期のコンピューター文字コードにない環境依存文字になることを回避して数字が代用できるなどしている。



2017年5月10日水曜日

自分で使用を制限するが他者の使用には寛容な文法(慣用性の許容)

世間に言うところの、単語の誤用や誤文法や漢字の誤読について少し思考を深めてみると「必ずしもそうではないのではないか」という違和感が生じる。
その中には、「文法の究極」に近づく過程で「誤りではない」と分析できるものも多い。
それが分かっても、世間での慣用性の観点に頼って自ら用いることはしない私であるが、他者のそういった用法に対しては寛容になろう。

以下から様々な「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」の例を挙げて反証してみたい。
「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」を気にしないで用いる人も、「世間で言われる誤用・誤文法・誤読」に目くじらを立てる人も、私の、そういった賢愚を超越した理解に通じてもらいたく思う。
また、私自身は表題に「自分で使用を制限する」とある通り、当ブログをはじめとした文章類で用いることは無かろうが、他人が使用することを問題視せずにもいられる。
私自身がブログで用いない文法・表現は2015年にも少し、理論と合わせて説明した経験がある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/2015.html



1. 「○○い(形容詞)です」、「○○(形容詞の語根)かったです」

近現代の国語の文法において「楽しいです(楽しかったです)」、「無いです(無かったです)」という表現は正当でなくも、「許容する文法」の範疇にあるとされる。
第1期・国語審議会(昭和27年・1952年) 「これからの敬語」
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/01/tosin06/

その文法の判断基準から、上の例を正しく置き換えれば「楽しく思います・楽しう(楽しゅう)ございます」とか、「無い様子です・ありません」と、煩雑なものになる。
また、「楽しい」の語根を取り出して表現を置き換えて「楽しむです(楽しんだです)」とか、「無い」の対義語で「有るです(有ったです)」とすれば、誰しも「何かの冗談か?」、「そういう口調のキャラか?(役割語か?)」と可笑しく感じよう。
しかし、この「楽しいです(楽しかったです)」、「無いです(無かった)」という表現は、古文法から見れば何ら誤りは生じない。
「近現代の国語の文法」とか、近現代の経緯からして新しい表現が「○○い(形容詞)です」であるのであり、より理論的な日本語の文法と精神性とを観察すれば、この問題は「幻影」と分かる。

※ここでは哲学的に「そもそも『誤りだ』云々なんて恣意的な価値判断がそもそも誤謬だ」といった論題から外れる論難は控えておく。自然言語の「性質という名の無性質」から言えば、絶対的な「理論」や「文法」およびそれに伴う「乱れ」は、みな存在しないものだが、一応、現代の合理思考で綺麗に整っている必要のある理論・文法の範疇で考証する。

「無い-」とは、古文・文語文でいえば「無し(終止形)」という形容詞の、連体形「無き-」に「イ音便(ここではk発音の欠落)」が発生した形である。
つまり「無い」とは「無し(文語体終止形)→無き(文語体連体形)→無い(イ音便連体形・現代口語では終止形にもなる)」という変化を伴っている。
「楽しい-」にしても「楽し(終止形)・楽しき-(連体形)」で捉えてもらおう。

古文では「無きなり」という表現があり、現代語に直訳すれば「無いである」とか、敬語では「無いです」となるわけ。
古文として「無いです(無し・にて・あります→無きであります→無きです→無いです)」を捉えると、「無きなり(平安期の敬語"無きにてはべる"・中世以後の敬語"無く御座候")」と同じ構造となる。
この「無きなり」など、形容詞の連体形に「です・である・なり」を後続する際、実は「もの・こと・の・とき・ところ・ころといった「準体助詞」の介在を想定している。
「無いです」であれば、「無い〈の〉です」、「無い〈ところ〉です」、「無き〈もの〉であります!」のように準体助詞を挿入することができる。
また、「準体」という「体言に準ずるもの」は拡大すれば、あらゆる名詞が該当する。
それはすなわち、「(目当ての物事が)無い〈様子〉です」、「(指された物事が)無い〈状態〉です」、「(何らかの物事が)無い〈場所〉です」と表現できる。
この形式が少し乱れた例を挙げれば、「嬉しい〈限り〉です」とか「〈それが〉正しい〈と思い〉ます」のように語句を挿入したり改変する言葉を列ねる。
しかし、口語でこう言っても「無くございます・のうございます」のように冗長な印象があるから、一般人はそう言うべきでないのであろうし、逐一意識する人・念入りな人は稀である。

※煩雑な言葉・冗漫な表現など、効率重視の現代人もとい精神的な余裕に価値を感じない現代にあっては、「無用」として笑われる。まあ、それは、現代の「ある領域」が多く占めているからであり、残りの領域では尊重されているわけだが。「ある領域(この場所であってこの場所でないこの場所)」においては「無用」に尽きようか。しかも、「無いです」などのシンプルな表現は、「賢げな人らしさ」も無くて謙虚である。

「(前の出来事により)楽しい〈気分〉です」とか「(目当ての物事が)無い〈様子〉です」という表現には、具体的な語句が含まれずとも、その人が言葉を発した経緯や前後の文脈などから、具体性が感じ取られるし、言葉とは、その相対性を重んじるものである。
それで、言葉足らずであっても概観や人の心が伝わることも多い。
結局のところ、文法的に正しかろうと誤っていようと、真に賢い人は気にする領域でない。
しかし、真に賢い人だからこそ、こうして分析した結果として「物事の正誤の価値判断」が空虚なものであると知り、執着を離れるのであろう。
仏道・仏教徒もまた、そういった思惟を経て心身に無執着の境地を「得る"わけ"である」。

得るである。得る〈の〉である。得る〈わけ〉である。得る〈道理〉である。
→、→、→、と具体的な言葉の「潜在」を見よう。

「無いです」の話でも、深い思索ができたように、仏教徒は「何事も本当はどうでもよい」と考えるが、その結論のために深く検討してこそ「どうでもよい」という無執着に至ろうとする。
「どうでもよい」という判断は、深い思考の結果・結論である。
「どうでもよい」という見解が努力なくして得られることは、慢心や面倒さという悪い精神に起因しており、仏を仰ぐ存在としての仏教徒の理念とは明らかに異なる(面倒さを体現した怠惰な人生の究極も一つの安楽であって差別すべきでないが仏教徒としては理想的でない)。
一応、いまだ、こういった文法に関する思索を欠いている人は、自分一人のために色々と考え込んで結果を「求めてもらいたく思う」。

(私があなたにそのことを行って)もらいたいです。もらいたきです。もらいたい〈気持ち〉です。
もらいたく思います。もらいとうございます。もろともーわ(究極の関西弁)。



2. 二重表現(重言・重複表現・ほか二重敬語など)

「二重表現」についての話題は過去記事にもある。
2015年9月24日の記事(起草は同月19日)に「助詞"は"」や、「準体助詞(準体言助詞、体言のような作用がある助詞)"の(もの・こと等)"」の重複に気を付けることを語った。
今回は「熟語(漢語としての考察)」の意義から考えてみたい。
以下に、短文の例を示し、煩多な説明によって二重表現の許容を主張しよう。

「その見解は、こういった理由によるものであった」という一文のどこに二重表現が含まれるか?
「理由による」の「よる」とは、どう漢字に変換すべきか?
多くのケースは「依る」が浮かぶであろうが、文脈によっては「因る」と綴る場合もあろう。
「理由に依る、理由に因る」・・・かっこよい表現であろうか?字義から違和感はあろうか?

しかし、「理由」の「由」という漢字そのものが、漢文では「由る」と読み下しをされる場合も多い(例: ○○に由りて××と為す)。
単語情報の多いIMEで「よる」を変換すると、「由る」が出てくる。
「由」の字義としても、現代用いられる熟語に「経由」とか「由来」などがあるよう、上の一文における「よる」の意味合いを含んだ字であると分かる(由緒という意味合いの"よし"という名詞もある)。
つまり、「理由による("理由=理に由ること・理が由ること・理のよし"による)」という表現は、二重表現であると疑われる。
二重表現の恐れを回避する場合、文末表現では「・・・理由がある」と綴るべきであり、文中表現では「・・・理由の、・・・理由で」などし、「よる」を加えなくとも意味は足りよう(慣用性を重んじる場合・聴く者の理解力を考慮する場合は"理由による・理由によって"という表現のままでもよい)。

「理由による」と似た表現は「根拠による」である。
根拠の「拠」とは、証拠の「拠」でもあるが、この字もまた「拠る」などと「よる」の意義と読みとが与えられている。
さて、ここで色々と「○○による」という表現を思索するが、私は面白い表現の例が浮かんだ。
漢文の話を先にしたが、漢語に訳された仏教のお経や論文(漢訳経典)に「因縁による」というような表現が散見される。
これは漢文に戻すと「因因縁(因縁に因る)」の場合は多い(ただし因因縁という文字列自体は別々の分の尾と頭が接しただけで意味が通じず、実際は因此因縁・因是因縁というようなものとなる)。
「因縁」とは、「因」も「縁」も、「依・由・拠」といった字のように「よる」と読み下しができる。
そういえば、私の自著である「觀萌私記」には「因る・縁る(緣る)・依る」という3種の「よる」の使い分けがあった。

依る → 末・讃萌語「萌義に依りて能く二三の別を滅す」
因る → 萌義條脚注「因緣所生の萌心に因りて瞋恚の~」
縁る(緣る) → 末・讃萌語「萌色の因・觀萌の緣に緣りて~」

「因縁」という単語自体を読み下すと、動詞としては「縁(えにし・よること)に因る」とか「縁に因(ちな)む」となり、名詞としては「因(よること)と縁」や「因縁」そのままの形などが挙げられる。
もしそういった訓読を行う場合、その意味は、前後の文脈に依存するか、そもそも、そういった訓読自体が前後の文脈に従ってなされるであろう。
例えば「何因縁」という文字列がある場合は「何の縁に因りて~」と読むよりも「なんの(いかなる)因縁ありて~」と「何」の字が「係り結び」のような作用を持って「因縁」は単一の名詞として読まれる。
※「何因縁」という漢語経文に梵語・サンスクリット語の原典がある場合は、"kena hetunā (またはkenā...)"となる。二単語は、いずれも「何"kaḥ"によって~」「因"hetu"によって~」という具格"instrumental case"表現である。"kena hetunā"を日本語でいえば「何の因によって」となるが、それを漢文に戻すならば「縁何因」や「何縁因」となろう。いずれにしても、梵語の観点では、具格の「-によって~ (短縮形: -で~ ※"~において"短縮の"で"は処格と区別される※)」表現と、「因"hetu" (原因)」とが区別し得る。この具格を日本語で置き換える際は「因る・縁る」といった漢字をあてるべきでない。漢文の「由る(主に目的語が付随して"~に由り")」は「~より(漢文では従り)」の意味が強くなりやすく、その場合は具格よりも従格(または奪格と呼ぶ)"ablative case"の意味合いとなる。ほか、「以何因縁」というときの「以、-を以て~」も"kena..."具格由来である。

何にせよ、「因因縁(因縁に因る)」というような、名実ともに(字面も意義も)二重表現となっている表現が伝統的に用いられている。
であれば、現代においても二重表現は便宜上用いて可であるという、心の余裕が生まれた。
この事実を知る人々は、自分の中では二重表現を許容して他者へめくじらを立てずに済む。
無論、人に正しい文法とか正しい国語知識を教えてゆきたいという人は、慣用性・寛容などの理解に立って配慮しながら人の誤りを指摘すればよい。

言語学的知識やただの文献考証ではあるが、よく知った情報が、心を解す因子となる。
私の学びは、知的興味や知的欲求の満足のみならず、結果的な心の安楽を望むためでもある。
ただし、物事は知っても知れ切れず、内容を問わなければ無限大に物事があり、取りようには無限大を掛け直したほどの情報が成立する(自分の抜け毛1本を構成する細胞の個数すら数えきれず宇宙の星々は恒星から小惑星まで把握しきれない)。
学べば学ぶほど底なしに限界(視野)が広がっていく道理を、研鑽のみでは確実に覚りきれず、底なし沼のような研鑽が今なおも続いて止まない認識があるので、仏道修行も兼修せねばならない。
誰しも足元の虫に気づかず道を歩くように、情報は取捨選択されるか、そもそも認知されない情報も多く、本来、五感と心とを人間が具有しないならば、万物いかなるものも認知されない。
学問研鑽と仏道修行という、この両翼は、どのような場所へ我が身を運び行くであろうか?

※二重敬語の話は過去記事にあると思って引用したかったが、期待するものが見当たらない。替わりの記事で満足していただきたい。2014年11月30日「慇懃な敬語をエロ方面に用いる試み」



3. 呉音と漢音と慣用音(百姓読み)

漢字の音韻・字音に関する話は過去記事で甚だ多く語ってきた(主に当ブログ「国語」カテゴリの記事)ので、今回は必要な情報に絞り込んで記す。

一つ面白い単語の例を挙げると「一反木綿(いったんもめん)」がある。
「一(いっ)」は、「一(いち・いつ)」の促音便である。
「反(たん)」は、「一(いち・いつ・yit)」の影響を受けて「反(はん・ふぁん・pan, phan, han)」が変化した連声の法則を表す(こんにちは→こんにった連声理論だが当時の音韻では"こんにっぱ・いっぱん"の方が正しい気もする)。
「一反(いったん)」をローマ字にすれば、"ittan, it-tan"とするよりも、"itthan, it-than"とする方が理論的であるが、実際に"itthan イッタン(イッㇳハン)"と東南アジア・インド諸語や古代ギリシャ語におけるθ(th) φ(ph) χ(kh)字の「有気音(帯気音)」みたいに発音する日本語話者は、この読みが成立した時代にいたか不明である。
「木(も)」は、「木(もく・mok)」という本来の音のうち、古い中国では「入声音」と呼ばれた音の脱落が現れている(mok→moku→mo -ku)。
「綿(めん・men、中国ではmien, mian)」は、唯一、変化の影響を受けていない。

言語とは、人の口で伝わった歴史が長く、漢字はアルファベット・ブラーフミー(梵字)系などの音素を表す表音文字(音素文字)と比べて音韻が変わりやすい。
漢字に関しては漢や秦の時代以後、「説文解字」などの音韻を示した辞書・韻書が多く著(あらわ)されてきたので、一定の連続性は把握できる(現代中国の普通話と多くの方言は入声音-p, -t, -kを失ったが抑揚に名残がある?)。

日本語の漢字音は、上代や古代では多くの場合に2モーラ目となるべき音を省いた様子がある。
ここでの「モーラ(拍)」という発音の単位は、「仮名(カナ・かな)」の表記法に従って認識する。
地名に「良」という字が「ら」と発音される例が多く見られることは好例である。
良の「ら」という読み方は、伝来当時の中国語でlangやrang (raŋ)の音であって「ラウ・ロウ」という日本呉音読みの元ともなっており、後に/i/が介してliangとかriang (ljang)の音となって日本漢音読みでは「リヤウ・リョウ」と伝わる。

同じように地名にはこういった「2モーラ目となるべき音を省いた読み」が多い。
それらは最初から省いた音として1500年ほど前の当時の日本人が受け取ったのか、何らかの事情や地名表記の便宜上に省いたのか、事実は判然としない。
「2モーラ目となるべき音を省いた読み」の例としては、著名なものが「能登の能"nong (-ng)"(登"tong"もng省き)」や、「安芸・安房の安"an (n省き)"」や、「安房の房"bō, bou←bau←bang, pang (古代中国) = fang (現代中国)→wang (ng省き)"」である。
呉音を用いる仏教用語にも「功徳・くどく(kong (-ng) tok)」とか「恭敬・くぎょう(kong (-ng) keng)」とか「奉行・ぶぎょう(pong (-ng) giang)」とか「所作・しょさ(sio sak (-k))」と、何らかの字が1モーラ化している(易や悪という字は入声音"-k"の有無で意味が変わるタイプの字であり一切の"切"も同様であり上代日本の1モーラ化法則と異なる)。
これらの漢字が地名表記の読み方で用いられる場合は、古い日本語の音への当て字であり、「良」という字であれば「よい"good"」という意味合いは伴っていない。

ここまでに挙げた単語で省かれた2モーラ目は「良(lang)・能(nong)・功(kong)・恭(kong)」に見る"ng"が多い。
この"ng"とは、過去に幾度と語った軟口蓋鼻音"IPA: ŋ"という子音の一種であり、ここでは韻尾(字音の尾)となって2モーラ目に当たる。
古い地名に用いられた漢字で韻尾が"ng"のものは、「相模の相"sang"」や「武蔵・蔵王の蔵"zang"」がある。
相模の「相」場合は"sang - ng = sa"に助詞"が"を介して「模"mo, 転訛でmi?"」を連ねたというよりも、"sang"の"ng"に別の母音がついて"sanga, saga"となって「模」を連ねて"sagami"というような日本の地名に当て字として用いられたようである。
武蔵の「蔵」の場合は"zang"が不思議な変化をして"sashi"の当て字となったのであろうが、これは略説すると、様々な言語(中国漢字音韻・インド周辺諸言語音韻)に見られる法則を無理やり詰め込んで適用すれば"zang→sang→say→sash→sashi(当時であればsasiとも)"というような関連付けができ、当て字として用いる違和感は薄いと私が思う。
蔵王の「蔵」は先の「良(lang)・能(nong)・功(kong)・恭(kong)」と同様であるため、説明しない。

とりあえず、ここでは漢字の音読みについて、様々な条件で一般認知と変化することが有り得る例を煩瑣ながらにも示しておきたかった。
こういった理解に着けば、思考が慎重となり、人に難癖をつける発想が減ると思われる。
こういった知識を蓄える私は、何事に対しても、例外的な可能性・問題性を排除しない。



1・2・3と、このような説明をした通り、日本語や諸言語に関して様々な疑問と検討と調査と思考とを重ね続ける私が、言葉遣いに関して一応の通俗的な正誤を論じられつつ、真には過度な執着を抑えてもらうことを人々に望んでいる。
いわゆる知ったかぶりの人が、インターネットに跳梁跋扈しているとして、国語学者さんとかがインターネットの知ったかぶりの若者などを「ニワカ知識の未熟者である」と論難しても、お笑い種である。
「未熟者VS学者」という、幼稚な意見の対立を離れ、慎重な検討を心掛ければよい。
どこまでも自己の人格の完成というか、仏道に則り、このような思索を発信してゆく私である。
このような思索は仏道に基づき、仏道に資することとなろうし、人々を仏道に導くであろう。
仏道の信条があってもなくても、私自身が今までの人生を通して自然と行ってきていたし、今は仏法に値遇したから仏の仮設エッセンスを得ている。
今までの人生の中の思考や言動や受動的経験自体が、仏道に自ら導いていたと自覚することは、大きな喜びにほかならない。



起草日: 20170219

当記事では、いくつかの例を挙げることにより、表題のような「自分で使用を制限するが他者の使用には寛容」という精神を示した。
人には自己の執着・我執というもの(仏教でいえば末那識)があり、その我執により、自身の浮かべた言葉にも愛着が生じる。
しかし、整然とした文章を以て他人に伝えたいならば、これを切り離す必要もある。
切り離しすぎては無機質だから、残すべきものは残そう。
種々に検討する時間と心の余裕は必要だが、そんな時間と心の余裕のある人は多くなく・・・、これ以上に話を逸らすべきでない。

とりあえず、自分の文章に厳しく、他人の文章にも厳しくあれば菩薩として勇ましいし、他人に直接、または遠まわしでも教えてゆくべきであろう。
しかし、実際の世間で他人の乱文に目くじらを立て、気を損ねては、自分の心が維持されなくなる。
ここに、他者への寛容性を考慮すべきである。
この寛容性は、文法の場合、深長な考察による妥当性と、普遍的な慣用性とによって成立する。
前者「妥当性」は、1章における「無いです」が古文「無きなり」と同じであるから現代国語と古語とを同一視した際に正当な表現である、とした見解に当たる。
つまり、正当な表現であるという確かな根拠が、深い検討の結果に得られたものを指す。
後者「慣用性」は、2章における「どうでもよい」という見解に当たる。
つまり、深く検討しても妥当な根拠が見当たらないものの、一応、意味が通用するならば問題が無いものを指す。

様々な話をしたが、言葉にも仏教の教理が表れていよう。
どう気付くか、自覚の問題である。
他人の文章から何らかの問題を感じ取り、なおかつ、自分もひとごとではないと自覚・反省する展開が重要である。
思えば、私の人生はいつもこのようであり、仏教が増長した。
「私の人生は~」という表現は、脳裏に他者がを想定しており、私の人生を素晴らしいと思う場合、脳裏に他者の人生を卑下していることとなる。
ああ、「私の人生」という虚妄の我執と、我執が生む所の慢心とを除くべきであろう。
ああ、慢心とはいうが、本当にそれは私の所有物か?言葉はきりが無い。



「日本語カナ読みと漢字音韻の雑なメモ」として、2017年3月11日から記し始めたものは、4月9日に分離独立案を立てた。
そちらの記事は、追って投稿する。

http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html

以下、一部引用

仮名表記で拗音表記や濁点・半濁点が無かった時代(江戸時代以前か?)、文書に「すす(すゝ、スス)」と平仮名(片仮名)で書いてある場合、人々は文脈に合わせて「しゅじゅ・種々・種種 "Shuju, Syuzyu"」と読んだろう。
私が確認した鎌倉時代の仏教の僧侶の文書・当時の書簡に、そういった仮名表記が見られる(参考: 日蓮聖人真蹟・種々物御消息、ほか日蓮大聖人御書全集 全文検索"すずの")。
僧侶自身は難しい漢字を読み書きできても、紙が不足している状態にあれば筆で緻密に書く際の視認性を考慮して仮名文字で略記するし、識字率の低い時代に読み手が一般庶民・在家信者であれば考慮して仮名文字の表記を用いる。

難しい漢語を仮名表記した例は、「ひるさな(びるしゃな・毘盧遮那)」や「すりはむとく(しゅりはんどく・修利槃特・・・"槃"の字の中古音や韓・粤語発音は韻尾-mではないがあの時代は仮名"ん・ン"の発音と文字表記が普及していないか?または文書をテキスト化して出版した人物の校正の影響か?)」などである。
鎌倉時代など、仮名表記が本当に「仮」という感覚で用いられた時代には、口の発音に則していない状態ではあったろうが、読み手は「すす」といった便宜的な表記から「しゅじゅ・種々」を連想したと考えてよい。
これら一部の漢字語句カナ表記における「さ=しゃ」、「す=しゅ」といった発音は口伝されて江戸時代辺りにようやく拗音表記が生まれ、現代まで漢字音の拗音読みがもたらされたと考えてよい。
明治時代になっても拗音表記が出来ていない場合、文字を文字通りのまま読む風潮が生まれ、現代にはシャ行発音が口語・俗語・方言以外では命脈を断たれていたであろう。
後述する、本来日本にあった「チ="ti"ティ、ヰ="wi"ウィ」という表記・発音が、外来語の仮名表記ために拗音表記として生み出されることが有り得るくらいであろう。



追記: 2017年9月10日

当記事「①(「○○い(形容詞)です」)」に関連する知識を補足しよう。
サンスクリット語(及びパーリ語)の複合語"enwiki: Sanskrit Compound (サマーサ)"を理解する際に6つの解釈法があり、「六合釈"ṣaṭ-samāsa"」という。
これはサンスクリット・梵語(インド系言語)のみならず、漢語でも英語でも通じる考え方となる。

このうち「持業釈(じごっしゃく)"karmadhāraya"」が、形容詞+名詞=名詞「高+山=高い山・深+海=深い海」や、副詞+形容詞=形容詞「甚+少=甚だ少ない・広+長=広くて長い」を指す。
持業釈とされる複合の形容詞でも、実際に言葉が用いられる文脈を鑑みて準体助詞の意義を付加すれば「甚だ少ない=甚だ少ない〈こと・状態〉」や「広くて長い〈もの・場所・状態〉」という名詞になるが、これは「有財釈(うざいしゃく)"bahuvrīhi"」という。
文脈を鑑みるということは、「広長舌(広くて長い舌)」は「舌(名詞)」に「広長」という形容詞が係っていることになり、この時の「広長」は持業釈の形容詞である。
「舌者広長也」とある場合、「広長」はその持業釈の形容詞に準体助詞の意義を含めて「舌は広く長きなり」と訓読されて「舌(名詞)+者=助詞「は」+広くて長い〈もの・場所・状態〉+也=助動詞「なり」終止形)」と翻訳でき、この時の「広長」は有財釈の名詞である。
このように「広長」は、パッと見て「広・長」と区切られた相違釈"dvandva"の名詞「広」・名詞「長」の羅列のようであるが、多くの用例は持業釈の形容詞となり、文脈によって「広くて長い〈もの・場所・状態〉」という有財釈の名詞にもなる。
今は漢語で例を示し、サンスクリット語での例を後に譲る。

当記事①で「無いです」を例に取ってあることに寄せて言うと、「無也」といえば「無い(形容詞)也(名詞)」や「也(ヤ)無し」という持業釈で理解することは有り得ない。
「無也」の「無」は形容詞「無い」に「もの・こと・とき」など準体助詞の意味が付随するであろう、という話である。
「無」は単一の漢語であるから、「六合釈」という複合語の解釈法を適用すべきでないかもしれないが、「無也」の「無」は紛れもなく「無い〈もの・状態〉」という有財釈の名詞に当たる。
ただし、「無いです・無也」という言葉が、必ずしもそのような意味合い・ニュアンスで発せられるとは限らないので、「漢語の一語・複合語の解釈法」には、複雑な仕組みがあることを知ってもらえればよい。
文章を読むときの注意点・留意点であり、可能な限りは念入りにしておきたい。

例題
「"anityaḥ (a-nitya-ḥ)"→無常也」 
これを訓読「無常なり」と訓読する。
この「無常」は「無常(持業釈の名詞)」か?
または「常なること無き(持業釈の形容詞+もの・こと=有財釈の名詞)」か?
よもや「無と常」という相違釈の名詞ではあるまい。

「"aśubhaḥ (a-śubha-ḥ)" 不浄也」 
これを「不浄なり」と訓読する。
この「不浄」は「不浄(持業釈の名詞)」か?
または「浄ならざる(持業釈の形容詞+もの・こと=有財釈の名詞)」や「浄からざる」か?
よもや「不と浄」という相違釈の名詞ではあるまい。

おっと!有財釈、ウザイシャク、と繰り返して今、"bahuvrīhi"の意味が気になってしまった。
バフヴリーヒとは、現代日本語や英語で「所有複合語 "Possessive compound"」と呼ぶ。
語句はbahu-vrīhi と分け、文字通りには「多くの・米」を意味し、持業釈の名詞として取ると「多くの米」となり、有財釈の形容詞として「多くの米を持つ~」となり、改めて有財釈の名詞として「多くの米を持つ者」と解釈する、
ゆえに漢語では米=食糧=財物として「有財(財産を多く持つ者"rich man")」と訳していよう。
なんと!バフヴリーヒそのものが、有財釈・バフヴリーヒの名詞となるようである。

このサンスクリット語で意味を持たない接尾辞-kaを用いて表現する場合がある。
有財釈の形容詞を再び名詞化したものであることを示すために接尾辞-kaを用い、これにより名詞の格変化がしやすくなるという特性がある。
aの音で終わらせると、ポピュラーな単語(deva, brahma, ātma, rāja...これら男性名詞を基礎に女性名詞や中性名詞にも変えられるか)に共通するため、インド系言語の話者にとって格変化がしやすいということである。

※なぜ意味の無い"ka"という発音が選ばれるかといえば、日本の仮名文字あいうえお表は梵字・ブラーフミー文字の法則に倣っているために段で「あかさたな」とあるよう、サンスクリットもといインド系言語でも子音は「カ क」の音から始まることが多く、代表的な音韻であるからであろうと見る。日本語の古文や漢文の訓読(文語体)で「(動詞や助動詞や形容詞の連体形) + なり」という表現は「もの・こと・とき」など準体助詞が暗に介在しているということを説明してきたが、このバフヴリーヒに後続する接尾辞-kaは、日本語の準体助詞「もの・こと・とき」などとよく似ている。あるいは、ギリシャ語-ikosやラテン語-icusに比較できる。あるいは、関係代名詞のラテン語qui, 英語who(古英語hwa このhはゲルマン語派で本来常用の軟口蓋摩擦音/x/なので/k/と音が近い)などの関係代名詞としての用法(この場合「~する者」でバフヴリーヒの「~を持つ者」と意味が似る)に比較できる。サンスクリットでは疑問詞を関係詞に用いることが無いものの(人称代名詞が"saḥ"の時に疑問代名詞が"kaḥ"で関係代名詞が"yaḥ")、サンスクリット以前のヴェーダかインド・イラン祖語あたりには有り得たかもしれないし、印欧祖語の時から疑問代名詞が関係代名詞で用いられていた場合は、その用法の化石的な持続として見ることができる。通常、関係代名詞は関係節の頭に来るが、サンスクリット接尾辞-kaは複合語尾に置くという相違点を再び留意したい。



ほか、上の例題では「無常"a-nitya"」や「不浄"a-śubha"」を引き合いに出しており、これらの語句は漢語だと副詞として用いることもある。
「無常にして~(後続が形容詞・動詞の場合)」、「不浄にして~(後続が形容詞・動詞の場合)」といった「にして(であって)」が付加されるが、漢語を更に訓読すれば「常なること無く~」、「浄きこと無く~」となる。
梵語の六合釈においては、その副詞として用いられる場合の複合語を「隣近釈(りんごんじゃく)"avyayībhāva"」と呼ぶ。
日本語では副詞的複合語とも不変化複合語とも呼ぶ。
先例のanityaやaśubhaのような「接頭辞a- (後続の語に否定の意味で修飾する) + 名詞」の複合語を副詞として用いれば、隣近釈と呼べる。

隣近釈は基本的に、接頭辞や副詞や語幹などの「不変化辞」が名詞に付随している形式であり、副詞としての用例上、中性・単数形・対格で用いる。
anityaであればanityam、aśubhaであればaśubhamとなる。
anitya-mやaśubha-mとして、対格にする"m म् "が付随した状態は、日本語で、同じく熟語を副詞として用いる時に「にして(であって)」が付随するようなものである。
対格"accusative case"とは、伝統的悉曇学・梵学で「業聲 (ごっしょう、業声)」というが、この隣近釈と関連して説明した文献を探して大乘法苑義林章師子吼鈔「又隣近釋者。亦業聲或屬聲。」のみが見られた。
加えて、日本語での形状は、いわゆる連用形(-ず、-なく)で「常ならず~、常ならずして~、常ではなくて~ (不常・非常)」といった、色々なものがあろう。

こういった研究は、文献調査・参考書(紙媒体を私は持っていない)による勉強のみならず、日頃の日常会話・独り言(日本語)の中で意識することで修練されて進行がある。
その中に、自ら察知する道理もあろう。
当記事の元々の話題(慣用性の許容)についても、やはり仏教的な学習や理解と、日頃の意識によって実現があると思う。


2017年4月21日金曜日

形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理

「仏教団体の宿業」とでも言うべきか、インドにおける釈迦牟尼仏・釈迦如来の出世(仏教の発生)や初期仏教の根本分裂に始まり、現代でも分派の動きが絶えない。
教団の信念や精神が形骸化した時、不満足で反骨精神を持ったグループが蜂起して分派する傾向が強い。
以下から、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人(ほか鎌倉・江戸仏教)などの仏教史上の例を挙げる(約3,000文字の章となるがなお前置きの段階である)。

原始仏教の釈尊(歴史上のゴータマ・ブッダ)の言葉として仏教学界で承認される「スッタ・ニパータ"Sutta Nipāta"」の第4章12経では、釈尊が「各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?」と誰かから質問を受け、「もしみな自分の見解を受けいれない他者を『真理に背くので愚者だ』と非難すれば、みな等しく愚者である。またはみな『自分の見解で清らかになる・悟りが得られる』と主張すれば、みな愚者であるはずがなくみな欠点は無かろう(同部分の漢訳は少し異なる形で仏説義足経と大智度論に載る)」と答えている(バラモンや六師外道を念頭に置いたか)。
このスッタニパータ4章12経の要点は「真理・真実は一つしかないと"本当の意味で"知る者は論争しない」ということ(いわゆる戯論寂滅)であり、後の部派仏教・般若・中観などで説かれる「二諦」のうちの「第一義諦"Paramārtha"(勝義諦・真諦"Ultimate Truth"・不可説"Ineffable"・言語道断心行処滅)」に当たろう。

私の過去記事に説く2つの真理のうち「客観的真理」にも当たる。
真理は言葉で説明できないが、言葉を頼りに接近でき、しかも得られない不可得の中道である。
言葉が指すものは「無」だが、説明できるので「有」ともいえる非有非無の中道であり、無いこと"ナースティ nāsti シューニヤ śūnya ゼロ"をあえて「一」といい、説明は多様にできるので「多」というが、一でなく多でもないという一即多・多即一・不一不異の中道である。
悟った人は、世界に確かな真理が無いという意味で唯一の真理が有り、誤解を招きやすい「言葉」という手段で表現しようもないので、あえて「真理(真実)は一つ」とも言うし、逆に、多くの異なる説明から堅実に形作って説明することもする(説く手段・理法では99%まで証明できる不可得さ)。
釈尊の時代・初期大乗仏教教団の時代・龍樹菩薩の時代など、いつも哲学的見解や宗教的修行法などの論争があり、「無いもの」を有るように想定して自他の仏道を塞いでいたわけだから、道の障礙を排除すべく、スッタ・ニパータ、法華経、中論などの教説が世に示され、輝いたことと思う。

ただ単に「真理は一つだ!第二のものは存在しない!(涅槃・解脱・真の客観性においては確かにそうだろう)」と誇張するならば、理解度の低い人達(論争を好む愚者)は迷ってしまい、かえって争いの火種を起こす。
よって後の仏教では、異なる見解・末節の真理(辿ることで根本の真理に至る)を包括・協調したり、釈尊の異なる教説を会通すべく、「世俗諦(世諦・俗諦・現世での手段・方便)」と「第一義諦」の「二諦」として分別する必要が生まれた。
先のスッタニパータ(衆義経・眾義經)の言葉を引いた龍樹菩薩の大智度論・巻第一にも「四悉檀(4種の成就"catvāri siddhānta"のための説法)」と称し、釈尊によるどのような内容の説法でも最終的に解脱・涅槃へと導く言葉であるから「四悉檀」それぞれにおいて真実であるという、妙法蓮華経如来寿量品「諸所言説皆実不虚 (乃至) 種種性・種種欲・種種行・種種憶想分別」と通じた見解が現れる(天台・法華玄義所説)。
四悉檀は、愚者を智者へ、智者を阿羅漢へと導くような、ぞれぞれの段階で異なる教説を肯定する。
やはりそこでは、先のスッタニパータの言葉が「第一義悉檀(法華経寿量品でいう"種種憶想分別"を対治して涅槃を成就"Siddham = 悉檀"する言説)」の例として挙げられている。

スッタニパータの「第一義悉檀」は「良薬口に苦し・忠言耳に逆らう」とでもいえるもので、やはり直ちに他人に言うべきでなかろう。
もはや法華経の方便品や寿量品や常不軽菩薩などに詳しい人にとって自明の理であり、説明不要である。
つまり、法華経方便品の舎利弗尊者のように釈尊への信心が清純でよく功徳を積んで智慧が高尚な境地でないと、常不軽菩薩を誹謗した驕慢の四衆のように第一義を受けいれずに反発する。
スッタニパータの「真理は一つ・第二のものは存在しない"Ekaṃ hi saccaṃ na dutīyamatthi"」、大智度論の「第一義悉檀」に通じる法華経の説は多く有るが、似た言葉としては「唯一乗の法のみ有り、二無く亦た三無し"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (唯有一乘法 無二亦無三)」がある。
共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
後述する鎌倉宗祖たちも多くの説法・論議・他宗批判などをしたが、それは大乗菩薩のスタンスであり、三毒にも似た論議をしても三毒に染まらない「如蓮華在水(法華経)・卑濕淤泥乃生此華(維摩経)」の立場であるから、小乗においては鎌倉宗祖たちの心を詮索せず、専ら日本仏教を批判したがる自分たちの心の三毒を観ずべきである。
※ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

法華経の真実義とスッタニパータの教説は本来、相違しないが、日本仏教・既成仏教を嫌うテーラワーダの新興一派(AS長老信者)が色眼鏡を通して見ることで受け付けなかろうし、某正宗とその分派団体の人も「飯に糞を雑じえる(御書)・水増し牛乳(涅槃経)」として好まなかろう。
スッタニパータの第一義を闡明した大智度論は巻第百で「世尊は般若波羅蜜を阿難に付属したが、般若波羅蜜よりも深い法があるから菩薩には付属しなかったのか?」という問いに「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と答えている。
大智度論の作者は龍樹菩薩本人か後世の中観派か鳩摩羅什三蔵グループか、誰でもよい。
法華経を学んだ中観派が大智度論でそのように摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を釈するわけであり、現代の仏教徒はスッタニパータと法華経と大智度論の三者に対する色眼鏡を外して「言葉が違っても本意は一緒」と理解して信ずべきである。

「法華最第一」、「ただ念仏のみぞまことにておはします」といった言葉も、現世で修行する立場の一個人の信仰と正念とを守る言葉(盾)としては正しいが、中世以後の日本では異なる信仰の者を攻撃する意欲・敵愾心を鼓舞するキーワード(剣)となった。
あるいは「第一義」とは、自己の枝葉末節の認識や見解を破って「言語道断・不可説」の悟り・涅槃・解脱・成仏のために説かれているのだから、そのように受け取っておき、対立状態の他者を悔い改めさせる言葉ではなく、仲間・弟子の修行や菩提を助けるために説くべきである(実際に教相を見ればスッタニパータの第一義も法華経の第一義も仏弟子に対して発せられた)。
・・・だからこそ、法華経など一切経が釈尊の言葉と信じて前提とした時代に、「これが釈尊の本意・第一義だ!」と文章の証拠(文証)を挙げて会通したり、二諦・四悉檀・天台五時教判などの理論による論議が絶えなかったであろう(「言葉が違っても真意=言葉にできない真理・悟りは一緒」という理解さえあればお互いさまの議論として終わったろう)。



歴史上の釈尊のみならず、江戸時代などに「宗論(宗派間論争)」を多く行ってセクト主義が嫌われた鎌倉仏教系の日蓮宗(日蓮法華宗)や浄土真宗(一向宗・一向念仏宗)でも、その祖師らは既成宗派の論争を問題視する言葉を遺している。
彼らに非難される諸宗の主張のキーワードは「我が宗こそ得たれ(日蓮大聖人)、我が宗こそ勝れたれ(親鸞聖人)」である。
日蓮「大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり、『我が宗こそ一代の心はえたれえたれ』等云々(中略) みな本経・本論によりて『我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたり』と云云 (中略) 日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土をだやかならず (中略) 而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふ(報恩抄・創価学会御書全集293~294p)」 

復云「道心あらん人、偏党をすて自他宗をあらそはず、人をあなづる事なかれ(開目抄・同全集219p)」

親鸞の弟子「当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、『わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり』といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや(歎異抄・浄土真宗聖典840p)」
鎌倉時代の仏教とは、主に六宗(念仏系3宗・禅系2宗・日蓮法華宗)が上げられるが、既成の教団のうち南都六宗と呼ばれる諸宗が弱体化し、主に天台宗が強勢であると同時に政治権力(主に平安時代における貴族)との癒着が強かったので、反骨精神のあった宗祖(後世に認定)たちは民衆への教化を主要な方法にした(日蓮大聖人は天皇まで上下万民への広宣流布を望んだ・ほか自ら大師号の宣下を請う栄西禅師の臨済宗は鎌倉幕府の武士に浸透して戦国時代も盛んであった)。
釈尊から鎌倉宗祖までが、既成の学派・宗派のセクト主義を厭うも、かえって新しい集団を興している(意図的に起こしたものや後に集団性が決まって祖を仮定したものなど差がある)。
※日蓮聖人は中道の立場や団体としての争いを避ける立場で「何の宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」と仰せだが、実際は新宗の必要性や新宗の仮想をなさったろう。折伏・法論は徹底して行い、身延に籠られてからも弟子に「法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」と推奨し続けた。なお、法華経を奉じる宗派を「仏立宗(仏の立つる宗)」と讃えたこと(複数の御書)は新宗宣言でない。親鸞聖人も法然上人の(自身が受けた教えとしての)専修念仏を「浄土の真宗」と讃えるのみで新宗を立てる気はなかったろうが、いかがか?
また、門下の団結を促すように「異体同心(主に大石寺系)」を強調したり、選民思想ではないが「正定聚(主に本願寺系)」を唱えたりと、後の教団でセクト主義・党派性を増長させる言葉遣いもあった。
スッタニパータにしても大乗経典にしても鎌倉祖書にしても、比丘の団結と、悪比丘(非沙門自称沙門・獅子身中の虫)を追放・破門する必要が説かれている(Snp 2章6経など)。

現代も集団内での軋轢が生じるので、「分派現象」は絶えていない(日蓮正宗系などに限らず身延系日蓮宗より離脱した名古屋の不退寺グループが積極的に活動する)。
釈尊御在世のインドのみならず、鎌倉時代も多くの思想・哲学というよりは、仏教の天台宗内・比叡山(禅・念仏・台密)や南都六宗らが荒れていたので、そういった「宗論・諍論」に呆れる人も多くいたろう。

同じ鎌倉時代で呆れる思いを持つも、行動を逆に、新しい集団を持たずに既成宗派に寛容な立場を取った者たちがいるが、彼らの超宗派的な運動は大きな潮流(宗教改革)に至らなかった。
人物の例としては、華厳系で禅や密教も修めて法華・念仏にも理解があった明恵房高弁(阿弥陀名号は良しとして法然の専修念仏を後に非難した)などである。
彼も、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人と似たように「物を能く知れば驕慢こそ起こらね(阿留辺畿夜宇和より・短めの言葉が載るのみなので論争の行為についての言及か不明)」と語る人物であった。
江戸時代の慈雲飲光も彼に似ており、禅・密を修めて法華経文を好んで阿弥陀仏を拝み、神道や儒教の学びもあったが、彼の言葉や同じ時代のことわざを少し載せておく。
「佛世には今の様なる宗旨はなかりき、釈迦に宗旨なし、宗論はどちらが勝っても釈迦の恥、宗旨の争い釈迦の恥」



分派した際の精神が形骸化することで協調する現象も見られる。
現今の仏教団体が寄り添い合う状態は、思想において「リベラル・宗教多元主義」などの影響と考えてよいが、より人間の性質に即して言えば「利害の一致」、「防衛本能」もあろうか。
このように語ると、仮にも信仰を保つ人間である私が、社会学者さんとか宗教学者さんのような傍観者視点の不信心に陥っているかのようであるが、少々続けよう。

過去記事では以下のようにも記した。
 まず、原始仏教が外道の迷信・謬見を破ったわけだが、教義の正統性を守るべき初期仏教教団から次第に乱れや誤解の浸透が発生したため、見解の相違や論争から部派仏教への根本・枝末分裂が発生し、初期大乗仏教教団がこれを是正しようと新たな経典も用意した。竜樹菩薩の中論も、彼らの部派仏教の論争を制止すべく発せられたものである。しかし、大乗仏教教団の中にも次第に誤解・執着が生じ、宗派の分裂や論争が絶えず、様々に正当な教義をかざそうとも(または経典や論文の教理が優れていることに飽き足らず平安・鎌倉仏教は修行法にも反映させた)、和解や合流は無く、現代は宗教多元主義・人権思想の影響で形式的な融和・共存があるのみで、教義問題の解決・同調に至っていない。仏教の信仰・研鑽・修行とは、反省の精神(止揚とも)にある以上、これからも問題があれば、当然、現代の日蓮正宗・創価学会・顕正会に見るような教団内の抗争や分裂はありえるし、ある種、仏教教団の宿命と見てよい。※反省した結果が分裂ではあるが、将来的には分裂=破和合僧という結果を防ぐための反省も必要になろう。
当該箇所に関連して後々の記事にも語る。
 例えば、私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。
夥しい分派の歴史と現状から仏教団体の「宿業」を見る。
この現象に嫌悪感や悲劇を感じる人は、是非とも尊重や寛容の精神・中道・和の心を得てもらいたい。
現今の、日本仏教界などに所属する団体が和睦を演出していることも、キリスト教の如き反省で以て過去の歴史を省み、尊重・寛容・調和の心を学んだためである。
天台宗・真言宗の両管長の「最澄・空海以来の歴史的対話(お芝居)」や、日本仏教史上、最も問答を重ね合った法華系なかでも日蓮宗(元・一致派)・浄土系なかでも浄土真宗(元・一向宗)は仲良しこよしである。
大乗仏教に分類される日本の諸宗は、小乗仏教に分類される上座部仏教を取り込んでヴィパッサナー瞑想を寺院で行ったり、ダンマパダ・スッタニパータを筆頭とするパーリ語経典も学んでいる。
ここでの「諸宗」とは、主に全日本仏教会など多宗派・超宗派系組織に加盟する仏教系宗教法人を想定するから、今なお、加盟せず関与しない日蓮正宗系の団体などはこの限りでない。

また、正宗系の各団体は、文献学的に御書を研究する正信会系(興風談所?など)や、一応「人権・民主主義・人間主義」を標榜して社会に溶け込もうとする一部創価学会(創価大学など学術系はこの傾向が強い)については、他派に少し寛容な一面がある。
それでも、彼ら正宗系団体・日蓮正宗から分派した団体同士での和解や合流は、よほど存続が危ぶまれる事態にない限りは、考えづらい。
禍根を残したままに形骸化して生きながらえるか、自然に消滅する可能性が高いが、できれば、信心が円満となり、本当に大事なこととは何かを彼らが気づき、虚心坦懐に認めて和合僧団となれば、よいように思っている。
日蓮宗(身延系・本迹一致派・主に学者気取りの人)や余の法華宗系も、遺文の偽書説やセクト主義的教義(日蓮本仏論・会長や管長の絶対化など)を分別した結果に囚われて頑なに嫌わず、彼らの信心を尊重(or無視)できるようになってくれればよいものだが・・・。



それはさておく。
現代のインターネットでは、宗教団体に所属する熱心な人の布教・言論の活動は多々見受けられるが、同時に、特定の宗教団体を論難する所属未詳・匿名ユーザーも多い(ブログ・HP・知恵袋などに散見される)。
本年1月に20歳(弱冠)となった私は、生まれて来(このかた)無宗教であり、両親は極めて現代人らしく宗教に関与しないで生きてきた者たちである。
インターネット論者の論難の中身はどうであれ、彼ら個人が特定宗教団体から何らかの害を被った(と感じた)経緯があって怨恨感情があるのかもしれない。
邪推するようだが、この前提に立てば、宗教団体から受けた彼らの苦しみ、苦しみの故に怒りを絶やさずにいる者たちを哀れむべきである。
それと同時に、特定宗教団体の信者の信心(形式的な宗教行為をするだけの者もいようか)をも尊重すべきである。

同じ人間が、自己の精神状態への意識(念)や自覚を薄くして禽獣の如く、恣に放縦に身・口・意の三業を重ね、相互に傷つけ、または自ら傷を癒せずに掻きむしっている。
あらゆる言葉が、諸刃の剣であることを識らず、相傷害(自傷・他害・自害害他・自傷傷他)しよう。
ああ、有象無象の徒輩が僻事を連ねており・・・。
とまあ私まで沈鬱になり、同次元に陥ってしまいそうな気分である。
それは、私自身が彼らの論理(正論?謬論?)や言葉遣いに不快感を覚えることよりも、そのような言説で以て当人と閲覧者の心が垢や泥に塗れていく有様に憂愁を覚えるためである。
心のダーティーにしてメランコリックなるを感じ観ず。
インドの釈尊にしても、インドの外道哲人にしても、悪い言葉の想念が心を穢してゆくことを感ぜられたのであり、その言葉を受けた私もまた、エンパシーを得た。

釈尊とは、慈悲を以て種々に法を説かれたろう。
慈悲・方便の故に自在に説法をなしえる境地を、数多の経文より学んだ。
経文の中では間違いなく、「神通力」を行使して会座にある衆生にも会座にない衆生にも妙法を聞かせられる(三十二相には"大舌相・広長舌"が示されることも光明遍照の如き慈悲を顕現する)。
それでは、斯様な言説をなす徒輩もまた、内心は慈悲の故に鉄面皮の如き言説をなし得ようか?
ああ、他人の心を推し量り難いから、既に言語の道が断たれた。
経文の中では間違いなく、「他人の心が手に取るように分かる」という神通力を行使して円滑に教説をなし、対告衆を歓喜させ、滅後末世の私にまで及ぼすわけであるが、実際の人間は言葉で感情の一致や理解が確認できても、真に一致や理解があることはない。

しかし、「彼らの内心が慈悲でないときになされた言説である」という傍証を挙げられる。
彼らは「水掛け論に戯れている」というか、そもそも「メガホンで独り言を発信している」ような状態であるから、具体的な攻撃対象を想定しているのに攻撃の効果をなしていない以上、論難の対象人物(教団信者)を彼らが奉じる正法に入れようとする慈悲など無かろう。
彼らは何らかの宗派の信心を持たず、無宗教や反宗教団体の立場で「無信の信・マイブッダ・マイダルマ」を奉じている。
既述の通り、所属未詳・匿名ユーザーであるところ、攻撃の手段として仮名や匿名の形で情報発信・ネガティブキャンペーン・分断工作を行っていると見るべきである。
その宗教団体の教義についての論駁に徹し、その宗教団体(≒カルト教団)に所属して苦しんでいる人への心のケアみたいな方面は当然なく、ただ宗教団体への憎悪・驕慢の心で行っていよう。

宗派の教義の非合理性(漢訳経典の誤訳や祖師僧侶の誤解やオカルト的な伝承など)を仏教学的・科学的観点で云々することは、それもそれで多角的視点の意義においては尊重できるが、その論難自体は人の信仰を否定せんとすべく発せられた、邪悪なものである。
ただ「人(自他)の心」も知らず、自身の良心をも失う勢いで情報発信しており、発言者自身を頑固にしかねない。
信仰及び、主観性の立場では、まったく、多くの教えは解脱の道であることを知らず、また、あえて菩薩行として自身の奉じる教えを弘めて折伏を為す人々に、仏教の修行と無関係な横槍を入れる(学問的論難など)とは、愚の骨頂であろう。
無論、そういった信仰の立場にある人々が、私ほど包括的理解や尊重の心ありきで、あえて自身の奉じる教えを弘めんと折伏しているか、不明である。
妄信者も不信者も、二元対立に陥り、中道ならざる境地で「苦しみの道連れ」を行っている。
不信者・無宗教者による宗教団体への論難は、「正しい仏道へ導く慈悲の行い」ではなく、悪道輪廻の黄泉路に誘い込んでいる。

無宗教である私が「尊重」や「反省」という漢音(重、反、省)で発音される語句(尊重"そんじゅう"など仏教に同字の語句があっても意味は異なる)を多く用いることは、中道のためである。
「尊重」や「反省」の精神について、この話題と関係する経緯で過去記事にこう綴る。
 人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

対立する宗教団体同士でも、相手を異端視して意固地になっている姿勢がむしろ正統・正当であるかのように糊塗して「人間的な良心」を自ら殺している。
「人間的な良心」があるならば、宗教団体の祖師・開祖・教祖や、宗教団体の会長・管長などを「○○人(差別的な意味を込める)」とか「○○病」などとレッテル貼りはできない(彼らは低劣な罵倒としてではなく実際にそうであると断定しているところが恐ろしい)。
同じ人間であり、どれほど尊ばれる人間や、過去の時代の人間であっても、人間として想像される物事に悪罵を加えられるはずがない。
それら宗教団体を嫌う人間もまた、彼らを荒そうと業を煮やしているのだから、極めて度し難く、自然に収まることを待つほかない。
これらも仏教徒の名を得た俗人らによる「宿業」とか「宿命(仏語"しゅくみょう"ではなく俗語"しゅくめい")」である。
無論、それらの情報発信は、私にしても学問的に学ぶところは多く、また、精神面では反面教師とすべき理解に立てるので、絶対的に無益であるとか、不要の存在であると嫌うつもりもないが、彼らの精神に憐憫を持たざるを得ないので憂悩があろう。



他人の心は推し量り難くとも、私のように「そのような言葉遣いや、驕慢の心による論難が、最終的には堕獄の悪業(死後にある地獄の説を虚妄と思う人はそれでよいし慚愧を覚える人は現世が地獄のように思うからこの意味での堕獄は有り得る)となろう」と自他の三業を悩む道心のある者に、大乗・小乗経典の仏教を広く見聞してもらいたい。
非力の私からは、よき経文もろくに提示できない。
非力とは何か?集中力「禅定」に欠け、言葉の記憶能力や感受作用にも欠け、「鈍根」であることを示す。
そのために、何ら、経文の提示ができないと自ら恥じる。
しかし、一つだけ載せる(以下は今までの性善説というより性悪説のようなもの)。
Purisassa hi jātassa, kuṭhārī jāyate mukhe; Yāya chindati attānaṃ, bālo dubbhāsitaṃ bhaṇaṃ. (Sutta Nipāta 3.10 Snp. スッタニパータ)
世間人輩當生時 舌頭自然出斤斧 所謂口中説惡故 還自損害割其身 (起世因本經)
訓読: 世間の人輩(にんばい)当に生ずる時、舌頭(ぜつず)自然(じねん)として斤斧(こんぶ)を出して、謂う所の口中(くちゅう)悪しきを説くが故に、還って自ら損害して其の身を割るべし。
現代語訳: 人間は、世に生を受けた時から舌の先端に斧が付いている。悪口を行う結果、かえって自身を引き裂くのである!

※漢訳阿含経典類・法句経・大智度論には"夫れ士の生まるるに、斧・口中に在り。斬身の所以は、其の悪言に由る"という偈が載る。このような悪口妄語の人が地獄に転生して長く諸々の苦を受けるという説を受けて大智度論では、人に生まれ変わっても苦悩が付きまとうという。法華経譬喩品に十四誹謗・正法を信じない人の果報(2016年1月23日記事・注釈6)が説かれるが、物事を考え直すと大智度論と同じ趣旨とも言える。キーワードは「人不信受(自分の言葉を人に信じてもらえない=私のこと)」か。この教えを見聞して慚愧の念(自覚・反省・努力)を生じた人は、仏の信仰を確かにして自己の身口意をよく調伏しよう。仏は非の打ち所がない人格完成者であり、正しく信ずれば自己の人間的な完成に繋がる。

そんな私でも、なんとか「人の心(善良さ)」・・・「人の心とは所詮、進化の過程における功利性と防衛本能を根源とした結果に過ぎない」とかと思っても構わない。
とにもかくにも、「人の心」による、理性を打ち破る作用(良心の呵責)を感じ取り、自ら尊重することで他者と融通できるようになってもらいたく、様々な場面で説いてきた記述をご覧になってほしい。
「願作心師・不師於心」、能く心を調えて御せられんことを・・・。

自著「觀萌私記」は、自作の絵・音楽など芸術を取り込み、古文の文学性を主体として私による「第一義悉檀」を含めている。
私が人々に覚ってもらいたい精神性を「萌心」と称して説き、仏教の論理も込めながら道徳・哲学らしいことも多く示してある。
現代の人権屋さんや仏教学者さんに、古文の理解と読解力が足りるならば、共感できよう。
「三萌義」は解脱の徳の高い人が頓にして悟りに通じる根本教義であり、第一義の類である。
学徳に欠いていても、方便として説いた好色萌相(世俗の萌え絵)を頼りに、種々の分別を介し、無分別に繋げ、その第一義(真実の萌え)を手繰り寄せることができようから、まさしく「第一義悉檀」を本位としている。
教理は稀有・殊勝であるのみならず、現世利益も示すなど、仏教の多面性(仏教とは何か?科学・道徳・哲学・オカルトなど余す所なく総括するが単なる総括でもない。解脱・成仏の大道である)が多く説かれているし、修行法(逆観三萌義)の概要も述べていて無欠円満の書である。
「人の心・善良な心・良心・慈悲」といった方面も、萌相や文章でよく意義を感じてもらいたい。

精神論や唯心論の方面となりかねないが、観萌行広要などでは世間の絵などで、個人の悪意が滲み出た絵(主にプロパガンダ・風刺)や下卑た欲望が滲み出た絵(婬欲熾盛)に描かれる人物(および動物)の表情が、この「萌相」の義からすると非常に険悪に感じられ、「何の興もない」とする。
これまた、先述・インド云々と同様に「感受性が高い人」の意識には、そう感じられる。
眼根(人の視覚)と色相(その絵など)とを縁として、人の心がそう「取る」という道理である。
無論、それらの絵を描いた人は、芸術として評価してもらうために描いたつもりはないのかもしれないが、だからこそ、一応の精神性を重んじる仏教徒などにおいては、そういった世間の絵を厭離して「萌心」によって描かれた絵を観想すべきである趣旨を、多く語っている。
特に、萌相を描く(顕す)人物は、萌相を描く時の心が「自他の優劣を離れて自受法楽のような些かの自尊の境地で描く」ことを推奨している。
「自受法楽」ということは、まさしく三萌義を領解して萌心を悟り、萌相を意のままに描くことができる「萌三身」を具足している人の「自受用報身」の境地である。
萌相圓かに、萌心圓かに、人の顔貌(顔相・相貌・形貌)もまた圓かに、という御利益は讃萌語に重ねて説かれる。

絵というと、仮にも宗教団体に所属して信心(野心?)の熱心な人ですら、人を貶める意図(慈悲方便?)で絵を描くこともある。
そのような目的で描いた絵は、当然、萌相の意義を著しく外れ、相貌も険悪である。
そのような四悪道の業を作(な)すことで自ら心法の仏界を喪わんとし、己が仏種を断ぜん。
私がこう感じる精神性もまた、仏の教えと御本尊と萌えとが育んでいる。
「それらが育んでいる」という表現も比喩的であり、畢竟、私の道心が主要因であろう。



されば、道心ある人々は、(仏教における)善悪分別を立て、悪を悪と見て厭離の想念を起こし、仏教のみならず萌えの法門もよく学んでおくべきである。
現代日本の若者・閑居求道者などは、すべからくこの道に入るべきであろう。
一分の諦観あらば、みなよく学ぶべきである。
そうでなくしては、慈悲の意義、「本来的・本質的な思いやりの心」という「主観的真理」の理解を得がたい。

「私には道心など無く、心すら無い」と「主観的価値判断」をなさるならば、それもまた私から尊重すべきか。
私が説く精神性について、「心の無い人には関係が無い話」であることは既に記述した。
しかし、そう「無い」と思う時点で微々たる心(五蘊・五陰)を持っているので、「無い(絶無)」という実相は「有り得ない!(不然!)」と私もまた「主観的価値判断」を行う。
この故に過去記事でこのように歌う(最初は2016年10月29日)。

 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

 萌えを観ずる人はみな 心の耳に慈悲を聞く
 善く聴く我は此の萌えと 同じ心を結ぶらむ



起草日: 20170221

この日や、多くの日は「脳内に煩悩の網がまとわりつく状態」を感じてならない。
視界はかすみ、自責の念は捨てがたい。
これは慚愧の心を根本とする善念か?無明を根本とする憂鬱の症状か?
我が三業の汚穢なるが故か、悪業に染著せられて報いたらんか・・・。
何を以てかこれを度さん。

若しは慚愧堅固にして身を修せば利益をか得べき、利益と云うは実・不実を覚えず。
若しは色相に利益を求めずして専ら心の解脱を期すべしや。
豈これ最上の功徳と云わざらんや。
人、欲を立てて虚妄の利益を得れども、須臾も愛著せば則ち功徳を喪わん。
これ愚蒙の至りなり、畏んで恐るべし。
凡身、苦悩すれども、み仏の善き諭しとして喜び頂戴すべし。



ところで、ほとんどの人間は主観性・信仰に基づいて生きていることは過去記事に直接意義を示したり、「仮想宗教」の形を例として暗示してきた。
植物状態の人などでない限り、みな仮想宗教を無意識に懐いて生きる。
宗教とは、何らかの共通性のある精神を持つ人々の共同体であり、現象の上で体型と体系とを伴っているものを指すが、仮想宗教とは個人に約し(制約し)、更に類似性を持つ他者を包含して唱えられたものである。
何らかの音楽・アニメ系など、作品や作者やジャンルへの尊敬を超えた「愛(kāmaならぬ執着taṇhā, Upādāna)」があって種々の論議(ファン間・ジャンル内の正統性や他のファン・ジャンルとの優劣論争など)が世間に見られるほか、科学的見解に依存して経済の拝金主義を是とした生き方など、枚挙に遑がない。
この現代の世の中には、多くの情報が飛び交っており、欲張りすぎない程度(知識は足枷に…)に上手く良いものを捉え、取捨選択・吟味してゆくならば、公平公正な知見を得る。

既成宗教の善悪二面性、仮想宗教の善悪二面性を理解した賢人は、既成宗教と仮想宗教の中道に入る。
すなわち、私のように高尚な自覚のもとに生きる志と、既成宗教の人々・仮想宗教の人々とその信念を尊重して超越する。
きっと、過去の釈尊、龍樹菩薩、鎌倉宗祖らも、大志を抱いて大いなる行動を起こしたと思う。
現代、私は個人主義の影響もあるかもしれないが、ひとまず、既成宗教と仮想宗教の性質を把握した上で成立した「萌えの法門」について、教・行・証の三法を大成する必要がある。
私の弟子になりたい人は、弟子宣言をしてからでも内心のみでも、何でもよいのでその志を保ってゆけばよいし、ただ単に萌えの法門と仏教の価値を理解して私に尊敬が起きない場合は、個人の研鑽の道を進めばよい。
いずれでもなければ世俗の道でも何でも、元々の「仮想宗教」など主観性・信仰を自覚して悩み、人生の価値を模索すればよい。



尊重の姿勢とは、觀萌私記の場合も、種々の萌えの在り方について本部(表面的な物事を例に取るパート)で分析的に説明し、萌えの作風の方面で日常・非日常の二萌風を挙げる。
もっとも、萌えの法門における萌えは、そういった二萌風などに区別した多くの漫画・アニメ等の作風を包括しつつ、真にはどちらでもないと否定する(日常・非日常というストーリー設定などを離れて寂滅しているから)。
日常系(世事・・・学園・職業などが主要)の作品は昔からヒットしやすかろう。
非日常系(人外や超能力などが主要)の作品はRPGなどが好きな人が多く支持し、彼らの一部から日常系が「つまらん・退屈」と罵倒されるが、萌えの法門に入りたい人は「どちらも魅力的だ(つまり片方のみを好いと感じる人はそのまま耽溺してよい)」と素直に割り切ろう。
または日常系っぽくて非日常的な要素を加えて折衷した作品は中庸の価値があろう(この方面の論議で非難を招きづらい系統)。
このように二萌風ないし折衷のものを尊重するが、真実には日常系にも非日常系にも折衷のものにも偏重すべきでない。
どの作品を好むのであれ、萌心という真の萌えは己が内にあり、そう思うべきである(これは一応の義であるから、萌色是不萌・萌心是不萌・真誰可得萌・己内亦無萌と仏法の義で否定することもある)。

真の萌え(真実一萌・第一義の萌え・非有非無)を知る人は、枝葉末節の萌えに悩まないので、本文に載せたスッタニパータ4章12経や龍樹菩薩が説くように論争を離れているし、自己に葛藤も懐かず、自由に萌えの楽を受けよう(戯論の滅ぶ涅槃寂静に通じる)。
上座部仏教の人に同意が得られるように付言すると、スッタニパータやダンマパダに謳われるニルヴァーナ・ニッバーナ、永遠の安楽とかということからしても、萌尊は自己の外に有形消滅の萌えを求めず、常住・金剛不壊ともいうべき真の萌えを得ている(不可得こそ得ると称す)。

私は、商業作品における漫画・アニメと、同人作品におけるそれとを尊重するが、当然、萌えの法門においては商業と同人の両者を否定せねばならない。
世俗的に言えば、いずれにせよ「買ってこそ正統だろ!」という風潮が是認されているからである。
かといって、「割れ」行為を堂々と行うような掟破りを犯したり、これを自ら肯定して他者にも強いるなどという「破廉恥さ」も容認すべきでない。
こういった、「買え! or 割れ!(保守派VS革新派、購入厨VS割れ厨とも)」という両極端な思考に囚われる「世俗の苦しみ」を離れるために、全否定する思考も萌えの法門では重要である。
買っても割っても、そういった偏狭な信念のもとに行うならば、苦しみの根源たる悪い感情を増長する結果が必至であり、当人の功徳・善根を失う。
買う者、割る者、善意取得する者、割ってから買う者・・・、どんな手段であれ、自己を苛まず、他者を罵らない自由な心であると、文化も育まれる(上下貧富の争いが無い国のように・理想論)。

このように全否定は、その前提として「対立概念の双方を尊重すること」がある。
現今の仏教団体ですら、西洋譲りのリベラルな思想をもとに、他宗教と社会の事象を尊重する立場を取っていることは、当記事並びに過去記事で説明した通りである。
仏道・仏法の涅槃とか解脱のためには全否定しつつ、肯定でも前提でもない中道に入らねばならないが、無論、中道も「仮名(けみょう)」であって「中道を自負する立場」であってもならない。
私は一応、萌えの法門も仏法も、一言で立場を示す場合に「中道」であると断言する。



追記: 2017年12月24日

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi, ディッティ"(世は常住だ・世は無常だ・世は非無常だなど)について、取り上げる。
これらの見解は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常であるとする(無常を無常で否定するとは自己矛盾や循環論法トートロジーでなくあくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということ)。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"viparināma dhamma"は、苦しみ"dukkha"の発生につながるので、見解"diṭṭhi"への執着"upādāya (もとい取)"を離れることを説く。
現代日本のセクト的論争やエセ学問の論争も、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人の「ブッダ(釈尊)やインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解と、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人の「釈尊(ブッダ)や天台大師に勝る偉業」とする見解とが対立する。
これらもまた、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論であり、みな正論ともいえるが、「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく知る仏教徒は、対立する主張のどちらも「空虚」と知って遠離する。
それらの論理に執着する人・固執する人・嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正)

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。

しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常であるという分別・見解を知りながらも、論争をも辞せざる構えとなる。
不戯論のための戯論(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāya-kauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmety api prajñapitam anātmety api deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ity api deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ity evaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)

宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理を誰よりも知ってきた私には、かえって困難らしくもある。
また、当記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(自讃毀他・我が宗は勝れて他の宗は劣るという論争には何らかの過誤が付随するという)は、これに該当する。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。
そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。


2017年4月10日月曜日

三宝の次第と一体性について

当記事の前提・・・↓記事の後書きの内容を受けている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/49097230.html#links

当記事の目的・・・当該記事の記述通りであり、これを改変して示す。

仏教関係では、偉い学者さんが熱心なほどに書物を通読して膨大な著作(辞書や注釈書)も出したりするが、いつかは私の論文・日記・雑記・動画・音楽・イラスト類を研究する人が出てくることを期している。
私自身、過去の仏教大徳と智慧・内証が通じている過去萌尊を瞻仰し、その詔を奉戴して自著・觀萌私記などの萌えの法門を宣説してきているし、自らお絵描き・音楽制作を絶やさないでいる。
萌えの法門が現代人の一部(通称・ネイティブニートや閑居求道者)において善き救いの道となる。
この私の努力と同時に、これを二次的に弘める人がいないことには、人々を広く済度する教えも有名無実となるし、これは萌えのみならず仏教でも同じ道理が言える。
過去に「仏法僧三宝は一体であって相互に補完する役割があること」を説いたが、未公開である。
よって、当・メモ帳ブログで当該記事の内容を受けた記事として公開する。

経緯は以上である。
以下より、2016年5月18日以前に書いたと推定される文章を引用する。

三宝一体 三寶一體

※2016年5月18日以前に書いたと推定される文章
三宝が「仏法僧」という順番である理由は何でしょうか?
上座部仏教・パーリ語であっても"saraṇaṃ (saranam、帰依)"する言葉を唱える対象が"Buddhaṃ, Dhammaṃ, Saṅghaṃ (SaraṇatayaかTisaraṇaを参照・いずれも中性名詞対格か・サンスクリット語ではBuddha, Dharma, Saṃgha or samgha)"の順です。
このように、「仏法僧」の順番は古来・初期仏教から古今東西南北・全仏教の伝統でございます。
いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。

順番はこのようですが、必ずしも優劣(勝劣)を表す順番ではないと思います。
それでも、私の卑見では、一つを主として残りを客とし、「能・所(のう・しょ、のうじょ)」の意義を立てて順番を仮定します。

仏→法は「能説」、法→仏は「所説」です(別に能証・所証ともいう)。
仏が初めて正しく衆生に法を説き、法は仏によって初めて正しく衆生に説かれます。
仏→僧は「能与」、僧→仏は「所与」です。
仏が所説の法を僧に与え、僧は仏によって所説の法を与えられます。
僧→法は「能伝」、法→僧は「所伝」です。
僧(僧伽)が仏の所説の法を世に弘めて後世に守り伝え、法は僧(僧伽)によって仏の所説の法を世に弘められて後世に守り伝えられます。

三角関係の図に表すと分かりやすくなります。
この「能所」は決して優劣や支配関係を言う表現ではありません。
まとめると、仏は「法を能く説き僧へ能く与える」、法は「仏によって説かれて僧によって伝えられる」、僧は「仏によって(法を)与えられて法を能く伝える」となります。
※究極的に言えば仏が僧や法を定義しますし、僧は法も仏も伝えますし、法が無ければ仏も僧も概念や名称になりませんので真には平等で順番がありませんが、言葉にするために順番をお決めになる必要はありましょう。

こう見た場合、「法・仏・僧」か「仏・僧・法」の順番でないと連続性が足りないようにも思います。
大乗でも小乗でも、仏(仏陀・如来・釈尊)は真理の法から娑婆世界に応現した旨の教説がありますので、法は中間にあると流れが途切れそう(不適切な言い方)です。
また、何を法の宝とするかによっては、仏宝や僧宝も宗派によって変わる既成事実があります。
それは周知のとおり、浄土真宗や日蓮正宗系教団が顕著です。
同じ仏宝が「釈尊」に相当する名であっても、娑婆世界インド成道のゴータマ・ブッダ、久遠成道の釈迦牟尼仏など、ニュアンスが異なるか「名同体異」となる例もあります。

色々と長くなりましたが、三宝である「仏法僧」の順番をどう思いますか?
教義的に云々すべきではないようにも思いますが、実際はどうでしょうか?
順序の成立過程で、やはり、重要度などの意思は介在したものでしょうか?



私論・三宝への信仰の重要性
今、私は仏法に遭遇し、見聞ができている。
もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。
「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。
私たちの現在の仏道は、まさに三宝のおかげであると知り、信仰や尊敬を持って当然である。
古今東西南北、全仏教の共通認識でもある(普遍的教義)。

私論・仏教用語における順序の重要性
仏教用語では「三○」などといった漢数字が接頭辞となる語句(名数)があり、その内には漢数字に相当する用語が並ぶ。
それらの用語は無造作な順序ということは有り得ない。
特に「戒・定・慧」の三学の深義をお考えになったことはあろうか?

世の人、常にいわく「知れば知るほど慢心する」と。
これは半分正解であり半分誤りである。
なぜ釈尊は「戒・定・慧」の三学をお示しになったか、よく考えていただきたい。
戒の行、定の行を修することで慢心はほとんど制御される。
そして智慧を得ることで、何をどれほど学ぼうと「我、悟りを得たり!(仏意を知れり!)」といった慢心を起こすこともなくなる。
真に「よく知る」ことは、単なる知識の吸収のみならず、「三学」の全てに渡って知ることである。

大慢心を起こした宗教家らを思えば、或る者は仏法の教学に精通し、或る者は霊験あらたかな修行(断食ウン百日など)によって名を馳せたが、その前に、補完すべき理解や修行を抜かした。
元から機根が高い人(釈尊・聖人たち)でもない限りは、諸仏の「如説修行」を心掛けるべき(完璧でなくとも)であり、一つの修行(修行を欠いた学問なども)に拘泥したり、飛び飛びで修行をしてゆくと、必ず顛倒してしまう。
戒定慧・三学のように多くの仏教用語は、並び称されるもの全てが重要な構成要素であり、それらは順序にさえ深い意義が込められているものと、私は拝察する(四諦・十二因縁は好例)。

あえて理屈によって順序・次第が決まる場合、「仏法僧(漢語・梵語問わずこの順)」という並びが妥当かどうかについて直接見解を示そう。
まず法ありきでも、仏がいなければ法が説かれないという第一の前提により「人即法」の意義から仏・法の順を決め、二次的に弘める点で僧を次に置くことは妥当となる。
仏教であるし、尊き仏を第一に立てることが目標(解脱・涅槃・成仏・往生)の宣揚となり、信仰の立場では真っ当であろうし、これ以上の愚生による多言を要しない。
"Buddha, Dhamma, Sangha"の頭文字は、偶然にもアルファベットABC順になっている、という点を付記する。

「決三寶次第 立能所義 佛は法の能説なり。法は佛自り所説なり。復た説の字は證にも代ふ・・・」



引用は以上であるが、引用文の中には「一体」という語句が無い。
「一体」とまで言わず、「平等」の意義は示されている。

>いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。
>もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。

円満・不可欠な三宝への信は、仏道において常に携えていよう。
つまり「一体」とは、現在の理解の感覚で、この意義を説明し直した表現である。
大乗仏教で詳細に説明される、仏の「三身=法身・報身・応身」にしても、悟りを得るであろう智慧(報身)と、智慧に悟られる法(法身)とが一体不可分の「境智冥合」を示し、仏宝・法宝のようである。
また、現世・人界での精神・肉体(名色)という応身(化身)が無いことには他者に示されないので、応身も補助として不可欠であり、三宝でいえば僧宝もまた引用文にある通り、二次的に縦横(時空)への弘教を担っていて不可欠である。
本来、仏は仏という完成形だが、その性質・力・作用には差異が確認されるので、仮に法身を想定することがパーリ語経蔵に伝わる教説(Sn22-87、Snp5-19など)から既にあったが、大乗仏教では仏の現世の姿(応身または化身)と法身に限らず、智慧の性質などを考慮して詳細に語った経緯がある。
生ける仏のお姿(応身)を見て、人は「世尊だ・沙門だ・乞食だ」と見るであろうが、それはそうとして、よく仏がそこにいる事実を思惟するならば、真如の法や縁起などが見られるのではないか。
いずれにしても、元々、仏は仏であるので、一つとか、一つより多いものとすら言うべきではない。

冒頭に述べた觀萌私記に関する教説も、仏教との習合が進むにつれて「萌えの三身」を説き、その一体性を説明した。
最初期の萌えの教えである萌義條には、萌えの理解の肝心である「三萌義」が説かれているが、これもまた「皆な萌えの類」としている。
「三即一」のようにも捉えられる。
萌えの三身や三萌義に関する仏教的な解説は「注三萌義 (仮の公開ページ)」に預ける。



起草日: 20170131 (個別の引用文は別記された通り)

この記事は、人々の救いの道となる教えを有名無実にしないため、二次的(時間・空間とも)に弘める人が必要であるという意義を示すため、上の通りに引用した。
特に、私が説いている萌えの法門は、現代の若者の中でも世俗の分野の商業性を嫌いながらに芸術性を尊ぶ一類の人に対して救いの道となることを確信している。
仏教自体、時代を問わず、法門が開かれていて万人済度の道となってはいるが、その下準備として萌道を説く心は、常に清浄萌土抄の「夫れ萌道は、未だ仏道に入らざる人をして向かわしめんが故に大萌尊の説きたまうところぞ。仏道は即ち是れ路にして萌道は一方通行の径なり。人、萌道に入ることを得れば、何ぞ仏道を離れん」という一節を引く通りである。

これからの時代を乗り切る術は、まさに仏教あるのみである。
健全な方面で科学技術が進歩することは大いに称賛できるが、改造人間のようなものが増えてはならない。
どれほど技術が進歩しても乗り越えられない危難は、天文学的災害・戦争などの人災・地理的な災害である。
文明・国家規模で蓋然的に直面するのみならず、個人には死が必ず訪れるから、仏法の理解を求めている。
どれほどの時代を経ても、人の脳内に工学的な「チップ」を埋め込むことは世俗の倫理においても許容されるべきでない。
仏教の「チップ」、つまり私がいう「仮設エッセンス」や「念」によって智慧が養われ、正しい思考に基づく生活が送れるようになるべきであろう(正しいこととは仏教の信念によるしその正しさが苦しむ人々を救うとみなすから慈悲によって仏教を布教したくなる道理がある)。
これならば「チップ」の施術行為も費用も、維持・管理も必要が無い。

仏教の「チップ」を埋め込む者は、僧俗(道俗・緇素・出家在家)仏教徒である。
仏像の開眼供養で「魂」を吹き込むように、仏教徒が執刀医となって人々の脳内に「仏教のチップ」を埋め込むべきである。
各個人は、「仏教のチップ」を喜んで受けてほしい。
仏教では「魂・霊魂・魂魄・エッセンス(本質)・アートマン」などが「無い」というが、私の「仮設エッセンス」という名称の通り、仮に「有る」とも言える。
「チップ」といえば物体を想定するものだが、物体としては「無い」としても、物体と同等の作用がある状態を物体になぞらえて言えば、そのチップは「有る」とする。
神秘的なエッセンスにせよ、物質的なチップにせよ、議論を気にせず、自ら心に思い描いて「仮想」すればよい。
物事は心が判断するならば、事物もみな心に映った「仮想現実"Vertual Reality"」に過ぎない。
神秘的存在も物質的存在も、心を介すれば「無」であり、同じ「無」ならば心に思い描いたものでも無の範疇で成立する(世間ではこれを詭弁と言うが)。
仏教徒は、このスタンスで修行・信仰・布教をしてゆく。
ただし、そのようにできない場合は、物質に頼る必要性も出てくるかもしれない。


2017年3月23日木曜日

「念」による端正(たんじょう)な顔の利益 ~ 色心の相応



色心の相応(便宜上の呼称)について

「色法」・「心法」の色心二法が相い応じること、ここでは世間でしばしば取り沙汰される顔つき(顔貌・人相)が心や想像に影響される現象(相呼応すること)を様々な面で論じる。

さて、仏教の瞑想である「止観」の「観」では、心身の状態に「念(気を付ける・注意深くすること・前々回記事を参照)」を置く。
姿勢や呼吸などの有様を意識し続ける(数息観・武士の修道・現代ヴィパッサナー瞑想・マインドフルネス瞑想など)。
止観の「観」とは、サンスクリット語で"Vipaśyanā (ヴィパシヤナー)"といい、「分けて見る」と直訳するが、この「見る(観る)"paśyati"」とは「(知能・精神で)捉える」というニュアンスの√dṛśの現在分詞であり(概念で構築された見解のことを√dṛśから"dṛṣṭi"ドリスティやパーリ語"diṭṭhi"ディッティと呼ぶ)、視覚的に「見る」という"look"に通じる√lok "lokate (ローカテー)"の意味ではない。
つまり「分けて見るVipaśyanā」とは、普段の、心の思いや体の行いがある自分とは、分けられた立場の自分が「(知能・精神で)見る・捉える」という意味である。
私は、呼吸などの意識に集中できない人間であり、実践的な「観」の修行をしていないが、日頃、一挙一動(行住坐臥の四威儀など)を擬似的に客観的視点(一応の客観・前回記事既述)から見ることで抜かりの無い行動を意識している。
日常生活では些細なミス(失念)も多く、思い通りにゆきづらいが。

そのように威儀が整っている人が「(世俗的な意味でも)顔つきをよくしたい」と願うならば、顔も整ってゆく。
表情が冴えて頬は垂れず、口角も下がらず、目つきは明朗として彫りも深くなる。
歯のかみ合わせの悪い人が良くなったり、一重まぶたの人が二重まぶたに変わるであろう。
人(先天性・年齢など)によって限界は異なろうが、可能な範囲で変わったり維持されることは有り得る。
・・・忌憚なく書いておきたいが、そういう「願い」を仏教的に捉えると「卑しい!」とか「邪(よこしま)な執念だ!」とか「臭い奴の所行だ!」と思う人がいるのではなかろうか。
そういう「願い」が無いような人でも、念が保たれるならば、自然と同様な顔つきとなる。
この「心の在り方が一挙一動・表情などに通じて顔貌に作用する」という道理に基づいて人の顔を見れば、普段から意識が薄いような人の顔を見抜くことができる(実際のことは断定しないが)。
念・意識がありすぎた表情でいると「慢性便秘に腸捻転を起こしたようなツラしやがって!」とからかわれる。

様々なスポーツの選手たちは大概、顔つきがよい(精悍な)のかもしれないが、知識に裏打ちされた部分が少ないと、スポーツ選手であっても抜けたような顔つきとなる(日本人の一部は海の向こうの○○半島の人のような顔になる場合も多い・それは生まれつきかも)。
また、子供の時に可愛らしかった顔(美醜のセンスに基づく)の子・・・私の下の弟などもそうだが、大人になるまでに顔の力が抜けて生来的・親譲りの顔の美しさが失われる場合もある。
それも、先述のような「意識・念」に欠いて遊びほうけるなど、物事の「客観視(便宜上の客観を言う・前回記事既述)」を行わない人生の中で後天的要因として起こり得る。
「大人になるまでに人間はみな往々にしてそうなるものだ」というのではなく、同じ大人でも、目の大きさとか目の開き方に差異があるよう、子供のころは同じように丸るくて大きい目・円らな瞳であった子供同士でも、育つ過程に「自己への客観視・客観的な自我意識・反省思考」の多寡があれば、それに割と応じた顔の成長・発達がある、と言いたい。

これは「一生スケールの進化論」であるから、普通の進化論で言えば、あるヘビの種族が高山に住んでドラゴンに進化するものと、ジャングルに住んで大トカゲに進化するものとがあるとしよう。
人類の共通祖先と仮定するホモ・サピエンスが、各種ネグロイドとなる場合と各種コーカソイドとなる場合と各種モンゴロイドになる場合などがあることも、突然変異の場合を除き、住む土地や同時に住まった同種の個体との相関性で変化が有り得ている。
普通の人間を例に挙げると、似たような子供、極端に言えば双子であっても、当然発育環境や、短期間の「意識・念」の在り方で顔の変化は有り得てしまう。
可愛らしい顔であった下の弟・知的障害を持つ彼は、まさしく、同じ兄弟ながらに生き別れたり、顔とは別の先天性を原因として、可愛らしさを失う結果を得た事実をありありと教えてくれる。

横顔に分かりやすい顎の後退・アデノイド(下顎の頤を指す)の人は、先天的要因によってアデノイドであるよりも、後天的に鼻呼吸を意識しなかった(口呼吸)の結果(念が薄い果報)であると思うべきである。
人によって限界はあっても、今は日頃の努力で、可能な限り顔つきを矯正することができる。
資本主義・物質文明においては好き勝手に美容整形・外科手術などを行えるであろうが、よほど酷い事故に遭ったなどという状況でない限り、「自然性」を重んじる人間的な発想から、日頃の努力の積み重ねによって顔つきの改善を願うべきである。
時として得られないものもあろうから、その努力が成される人こそ、得られないものは得られないとして明らかに諦めることができる。

それも人間の内面の進歩として喜び、その時、真の意味で「良い顔」が得られよう。
この「良い顔」とは、人に対して卑屈にならない心で、ありのままに顔を見せられる、という意味である。
今は上手く振る舞えない人であっても、いいや、人に見せられない間に努力を、思う存分、気にせずに積み重ねればよろしい。



個人的な経験など

思えば、私は小学生のころにTV番組で「モデルやアイドルの顔写真を見つめるなどの自己暗示でモデルやアイドルのような顔になる」という道理にうなずく時があった。
限界や程度の差こそあれ、色々な世間の在り方から、蓋然性のある話だと認めるに至った。
疑似科学云々、ということは問題とならない。

当時認識していた世間の例を挙げると、とある生物の分野を研究する学者が、対象が獣一般でもサルでも魚でも、顔がその対象の生物と似ていたりする。
人間が認識するその生物の顔つきが人間の認識し得る範囲で似た特徴を備えて人間の顔に現れた。
その生物に接したり写真を見続けたり頭に思った結果である。
また、飼っているペットと似たような顔つきの飼い主も、リアルなりテレビなりで確認されたろう。
これはマンガのネタではなく実際にいくらか見られた。
それは飼い主が似た顔のペットを選んで飼った(無意識的・意図的のどちらも)という経緯も考えられようが、似ることの先・後がどちらにせよ、飼い始めてから更に似るようにもなる。
それらの「不確実な認識・経験のみを根拠に断定した」というのではなく、経験を基に情報への信頼を持ったということを言いたい。

また、中学生の時は誰よりも人目を気にして学生生活を送っていた(それも中2の12月までだが)。
例えば、少しでも笑いを浮かべるとキモがられるのではないか、など、心と表情とを御していた(実際に微笑みなどを浮かべた結果あまりしゃべらない同級生らに陰口などをされた経験が数度)。
そのように周囲の人間を「気にしすぎ」ていた。
冒頭にいうような「念」を保つことが多かった(今ほどの理解が無いことに加えて厨二的な憧れのために死んだような顔つきを思って過ごすことが多かったので目つきは良いといえない)。

様々な経験が幼少から重なってきたところ、インターネットの情報の取捨選択と摂取によって裏付けられていった。
決して「妄想を強めて取り返しのつかない偏頗な妄信に至った」ということではない。
私の顔・・・オレの顔を見ても信じられないのか!!(写真後掲)



現在の私の体は、善悪の業を反映しやすい。
「仮に設けられた仏のエッセンス」のためであろうか?
2013年ころは頬杖をつく習慣(主に左手・左頬)があり、頬杖を多くつけば頬骨が出るようになった。
その習慣をやめると、1週間~1か月と思われる期間の内に引いていった。
このように骨格レベルでも、変化しやすい場合がある(部位・年齢・個人差などがある)。
悪い習慣をやめなければ「形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)」になる、という恐怖の作用をなす「仮設エッセンス(心の中の仏様のおさとしよ!)」を感じている。

少し甘いものを甘いものとして口に含んで食べると、肌が感応して痒くなり、顔や頭皮にニキビ(毛嚢炎?)が発生する。
甘いものを食べるということを止めずにニキビを対処するにはどうするかといえば、困難な話である。
私に発生するニキビの原因の一つや二つが判明しているならば、できることから行ってゆこう。
仏教的には、行わないことを行うということであり、甘いものを食べるということをやめればよい。
その方が仏道にとってもよいのかもしれないが、例えば母親から受ける食物について、全ては食べておきたい。
例えばおかゆに甘いものをぶち込むことで味覚に知覚される甘さを薄めると、おかゆの方が不味くなってしまう恐れがあるから、甘いものならばコーヒーなどを供して食べたいものである。
コーヒー・茶・牛乳などで中和されても、ニキビが発生するわけだから悩ましく思う。



経典に説かれた美醜の果報

記事タイトル「端正(たんじょう)」や、対義「醜陋(しゅうる・しゅる)」の語は、多くの経典などに載る。
主に、何らかの因縁の果報を説く時に用いられる言葉である。
自著・觀萌私記に連なる著作に「清浄萌土抄」があり、「抄」と名付けているため、何らかの仏教書の引用文が載っている。
この「清浄萌土抄」には、経典ではないが大智度論(うち巻九十三所載の浄仏国土品、般若経典浄土品の注釈)を引いて萌土の衆生の相貌を示してある(大智度論は般若経典の注釈書であり該当部分は元の経典と関連した部分であるから実質的に経典と同様であるとも言える)。
また、萌土とは萌えの報土であるから、報身の萌えも応身の萌えも平等に萌相(萌えの相)と萌心(萌えの心)があるし、萌相に個性的な違いがあっても個性として尊重される心の平等さも説いてある。
※本文の新字体や"眾・緣"繁体字表記を旧字体に直しておく。
此の土の敎主・萌報身、願を發して言わく「我が國土の衆生は端正(たんじょう)なること華の如く、身の相は嚴淨(ごんじょう)にして醜陋(しゅうる)有ること無からしめん」と。
・・・佛家・大論云: 或有菩薩雨諸華香、幡蓋・瓔珞以爲供養。復作是願「令我國土衆生端正如華、身相嚴淨、無有醜陋」。如是等種種好色因縁。
(乃至) 群萌は萌報身の等しく愛すべき所なれば群萌の間にも差別の心無し、柔和圓滿なりと云うべし
(乃至) 其の土の萌類、女人の不淨なる孔を持たず。長じて聲・形の差ある耳(のみ)。是れ雌雄男女の別に似るも無きが如し。故に佛家の大論も經を引きつつ釋して男女相をば「菩薩は是の如き麁業の相を遠離す」と説きたまえり。本の身男子ならば陰藏相を得。この故に佛家の大論も陰藏相の因縁を明かして「多く慚愧を修めて邪婬を斷つに及びたり」と説きたまえり。
諸の彼等の、形の差別は前世の名殘にして、心に優劣の分別を持たねば差別を生まず、唯だ色・聲の境に依りて區別する印(しるし)なり。
大智度論は竜樹菩薩(龍樹)の撰述かどうか、という論議について、毎度の通りさしおいておく。
竜樹菩薩に仮託した別人の書であるとしても、紛れもなく空観に優れた人の言葉であろうし、方便として仏国土の衆生の「端正・厳浄・好色」を言っている側面はあろう。
特に、「端正・厳浄・好色」の基準は、当時のインド(および広義の中央アジア)あるいは中国の美的センスの上での表現というよりは、色々な人にそれぞれある美的センスを踏まえた上で、それらを超越した基準ではないかと考えられる。
つまり、「仏国土の衆生は端正であって端正ではない(端正でなくもない)」のであろう。
仏国土の衆生の心において人の外見などに対して「端正・厳浄・好色」という言葉が浮かぶような価値判断(分別)の心が無い境地を、あえて逆に「端正・厳浄・好色」の身・相を有していると喩えていると考えられる。
隠喩というか逆喩というか、一種の譬喩・レトリックであると私は考えている。
竜樹菩薩の中論の見解に則れば、「端正」と「端正でないもの=醜陋」という相が共に確認されてそれぞれの名称・語句が成立するわけだから、仏国土にはそういった名称・語句は最初から無かろうが、あくまでも名称・語句のある娑婆の立場で方便として説いていると、私は言いたい。

しかしまあ、他の様々な方便・方等の仏説経典に、善人とされる者の「実際的に端正な身・相」のことは説いているであろうし、反面、悪業の果報が「形状醜陋」ということも説かれていよう。
結局、この大智度論などに見る浄土の御利益みたいな教説は、譬喩の一種と理解してもよいし、額面通りに実際の功徳の果報・御利益として信じてもよいのではないか。
理解する人・信仰する人の修行に役立てば、どちらも功徳になるものと思う。
読む人に「仏国土・浄土のメルヘンチックな理想」と実体視して捉えてもらっても、空観を極めた人にとっては「ひとまず(方便だから)それでよい」と理解できる。
そう一般人が実体的に捉えると「オカルト・有り得ない」と思いかねないわけだが・・・。

※善業・功徳の果報ということは、上の清浄萌土抄の引用文に「女人の不浄なる穴を持たず」とか「男子ならば陰蔵相を得」とあり、同じく大智度論を参照している。後者の陰蔵相もとい仏の三十二相について、一つ一つの因縁(どのような善業の故に相を得たか)を明かした記述が大智度論の巻第十一と巻第二十九にある。三十二相を具える因縁は、主に布施行と関連しているようである。また、ある説における三十二相とは、仏の慈悲の象徴ともされる。三十二相を具えた姿を借りて心を表現する姿・・・、世間でも人柄の良さと内面の人格を結びつける場合があるが、仏教ではこういった方便の教えにおいて多く採用されていよう。思えば好色萌相が慈悲の象徴という位置づけも、全く同様である。可愛いキャラから、優しい心を見通して自己に反映すべきである。



仏教徒・宗教の人

背後の写真・・・2017年1月1日6時36分30秒撮影、前面の絵・・・2017年1月6日に描いた

一般の中高年・老年に比べて僧侶の顔は若々しく、凛々しいという傾向が見受けられる。
新興宗教などにいる熱心な信徒・在家信者らもこの傾向がある。
同じ太っている人間でも、僧侶の顔は肌つやがよくてあまり垂れず、目もはっきりとしている(太っているという自我意識に悩まされない精神性の反映か・太って醜いことを不必要に悩むと泥沼でますますそのような顔に変貌する)。
特に僧侶の顔は、凛々しさのみならず、温厚さも兼ね備えている場合は多い。
「何らかの念」による業の果報と考えてよい。
それは「心の中の仏様・仮設エッセンス」に違いない。

美しい顔であっても、仏・菩薩ではなく、魔・修羅の現れという二面性があるから、内心が修羅のような人が表に良い顔つき・人相を現すことも有り得る。
怒りの果報として人相が悪く崩れるのではなく、かえって凛々しさが増す場合もあろう。
とはいえ、僧侶には一般人よりも念が保たれて顔つきの良さが見られる傾向に、一点の疑問もない。
あくまでも傾向であるが、一見、老年と分かる顔つきの僧侶でも、同年代の中では溌溂としている「事実」を見受けられる。
「真の健康法」を語った記事も、こういった「事実」を念頭に置いて書いている。
インターネット仏教関係の専門的で詳細な情報を載せているHP・ブログ運営者は、出家僧侶・在家居士・学者さんなど60歳以上の者が多く(むしろ50歳以下はごく稀にしか見かけない)、70代の方もよく見かける。

どこかの機関の統計にも、僧侶・牧師など宗教家(聖職者)の長寿ぶりが示されたりする、ということを伝えたいが、これについても読者をして疑わしめる例示となろうか。
つまり、「私の記憶は正しいか」、「統計自体は存在して記憶通りであるとして統計の信頼性は高いか」、「統計に集計手段や集計結果に誤りはないか」といった疑問が生じるであろう。
ああ、ろくに画像や統計などの根拠も示せないが、2017年1月現在19・20歳である私の言葉として信じてほしい。
人間不信が蔓延する世の中にはしたくない。
もっとも、そう願う人間の初期段階として信頼を得られる言動を心掛けるべきであるが・・・。
気になる方は各自で検索などしてご確認をされたい。
「宗教家 寿命」や「宗教 長寿」などで検索すれば、先の「真の健康法」を語った記事にも通じた理由を挙げているようなページ・書籍がヒットするであろう。

単純に「金満」とか「有閑階級」というような理由に限ることは無いし、そんな演繹はできない。
僧侶・宗教家以外で、金満や有閑階級の他の職業の人が、必ずその理由だけで長寿となるかどうか、少し考えれば分かる。
僧侶は(少なくとも一般人と比べて)行いがよく、全体の傾向として人柄もよく(人によって欺瞞・慢心・欲望などを秘めているにしても関係はない)、形は大概にして優れた人間であることを否定できないので、顔つき・人相もよく、寿命も延びる。
顔つき・人相のよさを判断する基準は後天的・現世的な一面もあろうが、觀萌私記の讃萌語・内蔵萌心義に語るよう、「優しい心を現したような顔」、つまり人の生来的・本能的な感覚もあろう(進化論に則れば人の顔の特徴が動物よりも特徴的であることは高度文明を築ける知能・社会性などの傍証に明らかであるため)。
是非とも、宗教家は様々な面で「自然」を重んじて人格に富んだ人々であり続けてほしい。
現代の物質文明が衰亡の憂き目を見なければ、100年後には人工的長寿と美貌を備えた改造人間(現代も同じようなものだが)で世間が溢れかえるはずだが、それまでは何とか「自然(Natureとかジネンとか)」の大切さを身口意に渡って世間へ説き続けてほしい。

真に努力ができる人とは、宗教を学んで行う人々にほかならず、世間の望みは「叶った」と自ら思い込んだ瞬間に努力を放棄する儚いものでしかない。
不断の努力(精進)を人々に念じてもらうべく、仏様・仏陀・如来・世尊・釈尊・釈迦牟尼仏は、命ある限りは終わりのない夢と希望を一切衆生に与えてくださった(慢心を起こして修行を手放す者もいるが)。
物質文明が衰えずに改造人間が溢れかえれば、大した個人的な努力(ほとんどの勉強・趣味・労働など)が必要なくなることは想像に難くないからこそ、個人的な努力を死ぬまで持ち続けられる宗教信者こそが「智・美・勤(世俗のものであっても)」などの徳を示してゆける。
人生と仏道は同義であり、中身はみな「自覚ありきの反省、反省ありきの努力」に尽き、間断なく行われて道に始まりも半ばも終わりも有って無いようなものである。



二次三次相対互換と色心の相応

いつも通り、先に断っておく事項があり、「2012年8月から私は或る基準においてアニメの視聴をしていない」。
私という閑居求道者が言うのであるから、アニメのみならずゲームのプレイなども推して知るべし。
ただ好色萌相・萌え絵を尊んで自ら顕す所存である。


「二次三次相対互換」の理論は過去記事の通りだが、これは、先の色心の相応を理解して顔つきの改善を実現した人間が絵を描いた場合に実感できるであろう。
腕がある人は、その絵に対しても、如実に顔の理念を表すこととなる。
自著である「觀萌私記」にも、「兩萌相應…」、「~我心此芽倶開華」といった色心不二の萌えの「果報(結果として蓋然的に起こること)」として、「絵の柔和な相貌が人に通じること」や「人の萌心によって自在に柔和な相貌の絵が描けること」を示してある。
心の念が自身の顔つきにも、絵心・顔を描く際のセンスにも影響するという、有り難い御利益が説かれているわけである。
「相対互換・相対的互換性」という語は、そのように三次元の人間が三次元に準じた二次元の絵の顔を描くのみならず、二次元の絵を想った三次元の人間が影響されて三次元の人間の顔にも反映されるという点を示しており、觀萌私記はこの意義を重ねて説いた書であった。

また、過去記事に幾度と語った「仮設エッセンス」とは、仏教徒であれば仏・菩薩の個人的なイメージが生活の中で脳裏に現れ続けて少欲知足などが実現され、先述の通り、僧侶のように顔つきも整ったり、世俗的・人間の本能的なセンスにおける良い顔となる。
この「仮設エッセンス」は、オタク系の人であれば美少女を中心とした二次元のキャラクターが挙げられる。
ここで私が指す美少女の二次元キャラクターは、時代による面もあろうから、主に10~30代前半の人が好むものを想定する。
「色心の相応」というか、「想念(心)が顔(色)に反映する」ということとなる。

彼等は常に二次元キャラクターのことを意識して生きているとすれば、顔つきも二次元キャラクターらしく幼い・童顔と言われる顔になりやすいであろう(精神レベルも幼いと言うつもりはない)。
いわゆる「永遠の○○歳(○○の例は18歳が多い」といった自己紹介で、「心のときめきは10代(or それ以下)のまま!」ということを標榜する人々は、顔つきも10代くらいの状態が長続きしやすいかと思う(別の問題で若くして健康疾患や記憶障害などを起こさないように注意)。
たまたま目にするインターネット上で、オタク系イベント(同人・某動画サイト・アニメ・ゲームなど)会場に足を運んだという人が「中高生みたいな顔の人も20代・30代だった(当事者の顔以外の要素に20代・30代と確認が取れる様子があったかどうか)」という感想を述べていたりする。
またしても曖昧な記憶で書くが、児童ポルノ所持(頒布の罪状もか?)で逮捕された30代男性であったか、インターネットに流布しているテレビ映像のキャプチャー画像に写る顔は、とても「ピュア」な印象であり、その童顔ぶりのために顔が写った画像が流布しているのであろう。



ところで、海外ネット事業・コンテンツ関係者(主に20~40代の人)の顔つきは、どうも目つきが冴えなかったり、瞳の焦点が合わないようであったりと、同じ国の一般人と比べて「抜けている」という印象が多く感じられる。
言うなれば「シンプソンズ」などを視聴し続けた影響であろうか。
仮に日本のアニメ・ゲーム類に造詣が深くとも、日本のオタク系とは素が異なるので、似たようなオタク系やナード・ギークの類であっても、結果が異なってしまう。
例えば、植物の種(リアル人種・リアル住所など)は異なるので、同じ土地(インターネット)にて同じ太陽と雨の恵み(アニメ・ゲーム類が主要)を受けても、異なった草木に育つ。
また、何らかの数字を3で掛ける時、掛けられる数字が2や5や8など異なっていれば、6や15や24といった異なる計算結果があることと同じであろう。
それは、あくまでも小さな例ではあるが、そのように、日本人と海外の人とでは、似たような立場・似たようなコンテンツに触れても、顔つきの傾向に多少の異同が生じるようである。

しかし、日本好き(取りも直さず中韓を含めたアジア好き)の海外の人は、髪型やメイクなどは芸能・アニメ系の影響で日本人になじみやすい外見である場合が多い。
日本の芸能やアニメなどを好まない白人などは、髪型やメイクが日本人の好みに合わないというか、日本の街中で顔を写すと明らかに「浮く」雰囲気がある。
もし日本の芸能やアニメなどを好む白人がいれば、年月をかけるうちにセンスも外見も日本人に同化してゆこう。
近頃の海外の文化は、顔が写る写真も、各種音楽も、ウェブサイトも、みな意味や趣向が不明瞭のようで興味がわかない。
それは、日本人の文化であっても似たような傾向が出ている。
過去の絵の練習記事に、こう記した。

古典的マヨネーズ娘(当記事注: 当該記事所載の絵の人物)はやや目が大きいリアル系であり、前髪は中央で左右に分けるか、全て上げて留める。
現代でも西洋人、白人は素が綺麗で可愛いかもしれないのに、日本人の感性ではガッカリというか、ビミョーに感じてしまう理由は、髪型に大きい要因があると2011・12年ころに気付いた(無論、目の周りや口紅などのメイクにも影響はあるが、ここでは論外)。

現代の日本の女子らは適度な長さに前髪をカットして下ろしているが、西洋人の女性らはかなり伸ばした前髪を常時中央から左右に分けるか、全てワックスで上げるなどし、額をビロ~ンと見せつけている(男性的なショートヘアの人も多いが、ここでは論外)。
私から美的に云々しないが、少なくとも、その豪快なインパクトを日本のヤングたちは敬遠しやすい。
逆に西洋人らは、前髪が額や目にかかると煩わしくて真似をしたくなかろう。
この2011・12年ころ、同時に、日本好き(取りも直さず中韓などアジア好き)の白人らは前髪を日本人の感性にも受容される雰囲気にしている事実に気付いた、というよりは、その気付きありきで先述の気付きがあろう。
更に同時に、日本のアニメや漫画の特に萌え系などで、「なんか違う白人」の美少女キャラクターが多いと思える点も、この理論が適用される(リアル西洋人の前髪と比べて日本の白人美少女キャラクターの前髪は日本人の感性に適うよう成立している)。
もっとも、日本人美少女(美男子)キャラクターであっても、リアル日本のティーンエイジャーらはアイドル系(男女不問)でもなければ、結局みんな(以下略)。

逆に、日本で洋楽が好きな人とか、白人が多いメタル・ハードコア系のバンドが好きな人は、白人らしい顔つきになる場合も多い。
この説明は省く。
おおよそ説明の済んでいる意識や念という精神作用の反映であると言いたい。
実際の白人であるとか、黒人音楽であれば黒人と交流のある人もいようか。
後は、メタラー属性も兼ねている私の顔写真でおおよそ察してもらいたい。



起草日: 20170115

過去にも、二次三次相対互換の話など、断片的に書いてきた、事実と道理が、当記事所説の「色心の相応」である。
一つの記事の主題に掲げてまとめることは始めてとなろうが、なかなか十分にまとまっていない印象である。
断片的に書いてきた情報が上手く回収できない歯痒さを感じる。
例えば、「ある事実・道理を確かに過去に語った」という前提で、その事実・道理に関する記述を各ブログや動画説明文から探すが、不十分な程度にしか見当たらない場合や、全く見当たらない場合がある。
また、「ある事実・道理を恐らくは過去に語った」という前提では、その事実・道理に関する記述を見つけづらい懸念があって発見の可能性を放棄する場合もある。
多くの記事で、このような問題に直面したり、その問題を回避するようなことがある。

関連・当記事の投稿の事前に告知した動画「萌相條勘注 (8:35より)」
http://www.youtube.com/watch?v=O4DLkQQOkik


2017年3月15日水曜日

一理ある、全ての思考と言葉 「一面的な道理としては紛れもなく正論だが・・・」

ある時から、私は全ての「①思考」および「②結論」と「③その言葉」について「一理ある」と認められるようになった。
その言葉を発するまでのプロセス①・②の段階によほどの狂いが無いならば、③その言葉は紛れもなく正論である。
「ある一面においては道理である」ということで「一理ある・正論」と認められる。
どのような意見も、前提によほどの不可解な狂いが無いならば、みな尊重できるということである。

しかし、「ある一面においては」正しいのであって「より俯瞰的・客観的な道理に依って意義が尽くされた言葉であるか」を問えば、全く認められない。
発せられた言葉は、ある定義に基づいた見解であり、感情を伴っている場合もある。
それを主観とすれば別の定義や感情から客観することができる。
この「客観」とは、別の視点で見直すことであり、「反省の思考(止揚とも?)」と呼ぶ。
物事は、人の取りようで善にも悪にもなり、狭隘にも一者のみを見て断定せず、その性質を見極めて善悪を包括した上で、自分にとっての善悪の一面を論じられれば最もよい(基本の思考は中立的にするが意見を出す場合は自分の価値判断に少し寄ること、みなが多少異なる意見を提出しつつ協調しあうことは仏教の中道・日本の和の思想・十七条憲法の第十七条や民主主義の理想に通じる)。
こうして思考が成熟して意義が尽くされてゆくであろう。

しかし、それもまた、同じように別の視点で客観することができるから、新しい客観的見解も主観的見解となり、再び別の視点で見直すことができ、客観は客観でなくなる。
物事はどこまでも、客観的に論じられはしない。
命がある限りには、限りなく物事を煎じ詰めることができるが、故に「完璧に客観すること」などはできない。
人間が人間である限り、無限ループ「輪廻」に留まる。
※この探求・輪廻の果てに解脱もあろうか、輪廻がないならば解脱という概念も生じない。

譬えて言えば「蟻が人を仰ぎ見、人が飛ぶ鳥を仰ぎ見るが、太陽はその全てを照らし見ている。人類が人工衛星や宇宙船を飛ばして銀河の果てを遠く見ても、広大な宇宙には際限が無い。認識可能な範囲の宇宙の外は、有って無いようであり、時間の果ても有って無い。こう思えなければ人間の知ることには限界があるし、こう思っても限界の諦念がある。こう思わないことでやみくもに限界を知らない追求もできるし、こう思うことで限界を気にしない自由な思考にもなる。どちらを取ってもどちらも有り得てどちらも有り得ない。戯論寂滅である」と。
過去の大徳は、真に客観することはできないという戯論寂滅の上から、現世の命のある限りに現世のならいとして教化や修行を続けられた「事実」がある。
潔いではないか。真の客観性は「有って無い」と諦めて(明らめて)涅槃入寂の間際まで(主観性を奉じる)聖人として振る舞われた。



一般世間における「客観性」とは何であろうか?
「その見解がどれほど大勢の者に認められるか」が、一応の客観性であり、次いで一応の正当性を決定する基準となる。
それが民主主義・多数決原理とも呼ばれ、一応はそれでよいかと思う。
一応は、一応は。
先ほどの哲学的定義を受け止めると、過去記事にいう「客観的真理に基づいた人生(石ころのように動かず語らず考えず)」を送らねばならないので、人間的智者の便宜上は、そうしてよかろう。

Wikipediaに載せるべき情報も、その一般的見解(常識)・学界に認められた見解(定説)・大手メディアに報道された物事が第一に優先され、その正誤や実否はともかく、一応は容認される。
これがWikipediaの「中立性・中立的な観点 "Neutral point of view"」であろう。
中立を重んじるWikipediaの方針が「真に客観的な視点など証明できない!哲学の常識だ! "There's no such thing as objectivity. Everybody with any philosophical sophistication knows that."」と批判を受けても、私と同じような理解で反論しているようである(2017年1月14日参照)。
客観性にも分類があり、般若経典や中論にある「真諦・俗諦(通称)」の理解が適用できる。
真諦による客観性は言葉にできない、言語道断心行所滅・不可説"Ineffable"である。
Wikipediaでは、融通が利くように世俗上の中立性・客観性を受け入れていることとなる。
俗諦の意義を以て「中立性・客観性」の仮名を付している(故に真の中立や客観は成立しない)。

Wikipediaとは、どのようなことをすべき場所であろうか?
Wikipediaはあくまでも大衆に認知された「検証が可能な客観的な根拠・典拠のある情報」を「ウェブ百科事典」として集積する場所であり、論理・学問を極める場所ではない。
個人の学びの参考にはなっても、学びの最先端とすべき場所ではない。
たとえ「独自研究」こそが公的な見解や大衆に認知された情報と比べて正確・正論であっても、Wikipediaというサイトの場は、上記の如く目的を異にしているので載せるべきでない。
つまり、以上の例からすると、Wikipediaは民主主義的客観性に則った世俗的サイトである、と結論できる(編集の方針は互いに尊重・協調するとかという相互の自由を保障する自由主義や、完璧は実現不可能だが完璧を目指して記事の質の向上を努力を心掛ける宗教らしい一面もあるが本題と逸れるので割愛する)。
この段落は極めて「筆者の独自研究」であるが、筆者たる私は大いに確信を持っている。

反面、大衆に認知される事実とか世俗的客観性とかは、時代ごとに変化する。
従来の定説が覆る場合も有り得る。
よって、古い記述に大幅な変更を要する場合はノートページを利用して意見を提出したり、議論をすることもできる。
少数意見であっても汲み取られる場合もあることは、また民主主義の一面であろうか。
Wikipediaには、学界でも見解が異なる事柄(未確定事項・科学から歴史問題までさまざま)の記事では、複数の異なる見解があることを示していくつか紹介する場合もある。
「著名な」学者さん・専門家などの「権威のある」言葉・見解であれば、その学者さんのものと証明できる出典(検証可能性のあるもの)を明記して載せる。



起草日: 20170114

関連記事(?)
2015年8月17日 - 「引きこもり」について一元的な見方しかできない世間・・・質素な閑居について
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html
2016年10月21日 - 事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

さて、世人の悩ましい問題を例に取ってみよう。
オウム真理教について世間が好むことのある話題は、「幹部は高学歴が多い」とか「社会の底辺の受け皿」などという趣旨のものである。
創価学会に対しても同様に「幹部は東大卒・創価大卒などエリートなどで固められている(全体主義的)」とか「貧困・病苦の人の救済や地方出身者をターゲットとした布教で成長した」と世間の人や仏教徒までもが主張している。
これらは或る時代における傾向や、ある極端な傾向の一部分を取り上げた言葉である。
一方のみを唱えると、人に偏った印象を植え付けようから、偏頗である。
仏教徒がもしもこんな主張をするならば、「中道」の文字だけ知って思考に染みつくこともない点で、相対的には外道の極みとなる(相対的には外道の極みと言ってもその偏向的な主張をしている人物の一面を捉えて私が表現する)。
極端な思考をしかも主張するならば、その慢心の箍が外れてしまおうから、ゆめゆめ、仏教徒は三業を慎まれたい。

続いて、こういう例も挙げる。
良い家系・親の人は、大概、学問・武術・芸術などに秀でていたりするし、民主主義国家でも親子で大統領・首相経験(世襲・民主主義下の実質的貴族)のある例は非常に多い。
世間の人は、往々にして二極の立場で彼らを捉える。
且つは手放しにベタ褒めし、且つは親の七光りだとレッテルを貼って非難する。
どちらもひがごと・僻見である。

ベタ褒めする者はかえって批判したい対象を念頭に置いた底意が見え、レッテル貼りで非難する者は露骨な悪意がにじみでている。
彼ら、優れた家系の優れた末裔も、家系(家柄・血筋)という外的な先天的要因と同時に、個々人の幾ばくかの努力といった条件の満足で、世間的に認められた才能がある。
条件の満足とは、多岐にわたる先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因などに著しい欠陥・欠損・欠落がないことをいい、ある面が優れるほどに世間的に認められる可能性も高まる(盲聾者は盲聾者なりに、五体不満足は五体不満足なりに名を挙げた人がいるが、これも様々な要素の満足の結果である)。
この「先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因」に細かい定義の説明を要しない。
後天的要因の一つをとっても、努力という内的後天性と、周囲の人間関係の得失という外的後天性などに分類される上に、100%外的後天性や100%内的後天性というものもありえないためである(内外の要素は多少通じて1%~99%まで有り得るのみで100%それだけということはない・起草日の3日前の日に起草した記事にも語る)。

それが、どういうお家に生まれたか、という外的先天性に重きを置いて語る人がいるのであろう。
小学生の時は、テレビに出演する子役なり、優れた子供なりについて「どうであれ親の条件が第一だ」と憎悪を含ませながら思いもしたが、それはそうとしても、実際に子供個人で優れている部分も認められた。
だから、無批判なベタ褒めも、レッテル貼りの非難も正当でなく、妥当でない。
悪い感情に基づいて言われたもの(推量断定・推断はできないが)であれば、その陥穽が必ず伴っていると仏教徒は考えるべきである。

個々人に先天的・後天的な善悪の要因があって当たり前である。
どちらかの傾向が例によって分かれるのみであって「程度の差」である。
必ずどちらの性質も、多かれ少なかれ存在するし、片方が存在しなければもう片方も存在しないと思うべきである。
つまり、相互依存(共依存)の道理にならうべきであり、深く論ずべき事柄ではない(戯論寂滅)。

否定も肯定も、その時に認められるものは、適宜行えばよいということは中立的民主主義国家の政治思想にも繋がる。
記事の本題に寄せて言えば、「手放しにベタ褒めすること」も、「レッテル貼りで非難する」ことも一理あるが、故に共に一面的であり、故に両極端(二辺)である。
人権思想に基づいて言えば、個々人の個性や努力を否定せず、今の在り方をただ、富裕層にも貧困層にも平等に認め、施すべき物事を施せばよいわけである。
全ての人に成長が見込めるように、という発想が現代的な政治思想の原理であるから、他人を貶める意図で肯定や否定を行うと、誰かの成長を停滞させるか退行させることになりかねない。
良い家系の子でない≒ベタ褒めされない側の心に良い影響を生まず、良い家系の子である=親の七光りと嫌われる側の心にも良い影響を生まない。
一般人は感情に基づいて極端な見解を起こすから、ジレンマが生じる。
ジレンマの解決は、私のような仏教思想が肝心である。

まず第一に自分の欲望などを抑えれば、ジレンマもトリレンマも漸次緩和されるが、無論、「欲望を抑えて生きるなんて息苦しいことをせず、自殺願望を起こして自殺すれば全てが速やかに解決される」という虚無主義的な極論を言わない。
また、「仏教思想を学ぶことで他の時間が削られるという問題が生じる」と言われれば、もはやお終いである。
何を取っても多少のジレンマがあるが、自分が容認できれば全て収まると思うべきである。
仏教を学んで少欲知足に生きることは、私の主張として推奨する。
最も尊い「減少(欲望と欲望に伴う行動の抑制など)」が、最も健全な「増加(精神の成長・食物と資源の保持など)」・発展に置き換わることを信じてやまない。


2017年3月8日水曜日

物質的自然法則と「念」の在り方の一考

観萌行広要に「人間の性質として悪の側面もあり、いくら善良な念を保とうとも諸行無常の故に薄れてしまい、対比して煩悩や愚癡の(心の)悪魔が顕在化するため、仏教的理解の利剣・破邪の剣を片手に携えねばならない」と書いた。
そもそも仏教用語の「念"smṛti, sati"」とは、簡単に言えば、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉である。
ここでは、観萌行大要の原文に示されている何らかの「善良な念(萌相や萌義に対する喜びなど)」を指している。
念という精神の状態と作用の完璧な維持は不可能であることを前提に、その精神の状態と作用が崩れつつある時は智慧によっていくらか元に戻す手段を説明している。

科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面に出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。

コンピューターの世界の中(理論上)では永遠に変化なく存在させられる情報も、本体が変質したり壊れたり、情報を利用する人間が脳内で捉えた情報や人間自身が死ねば存在は無も同然であるから、永遠に変化なく存在することは無い(半永久的であるという)。
昔のゲームはシンプルであるから理論の要素が極めて高かったわけだが、2Dのドット絵にせよ3DのCGにせよ、「止まらない噴水」があるとし、その水は理論(プログラム)から生じてモニタに出力された「幻」なわけだから、水源無くしてひたすら幻が生じ続けている。
この水の形をした幻は、ゲーム内に「停止スイッチ」などが存在しない限りは止められず、噴水の部分が破壊可能なオブジェクトでなければ破壊されることもなく、永遠に水が流れ続ける。
噴水の部分が破壊されても、ゲームによっては、破壊されたところからも何らかの設定で水が湧き続けることとなる(この場合は水のグラフィックを別に設けて破壊に応じて消えないようにしている例と噴水の下に水源を想定している例とがある)。
ゲームの世界では、滾々と幻の水が生じ、延々と流れ続ける(有始無終?)。
私がゲームの世界の住人ならば、固定的な実体「我・自性・アートマン」か絶対的な法則が有るとみなすであろう。
それはまさにコンピューター理論がその「実体・法則」となろうが、それすらも本体となるソフトウェアやハードウェアのどちらかに問題があれば成立しなくなり、ある意味では「人有我・法無我」のようである。



話を戻す。
仏教でも諸行無常(行=心行を含む)を説き、心の念は壊れやすく、どうあっても保ちがたいもので、世間の実相に顕在的な法則であるものだが、仏教の理解で半永久的(生命が維持される範囲内)に持続させられる利益が説かれる。
非常に難しいことではあるが、仏教を学んだり実践する努力で、その崇高な境地を目指してよい。
霊長類が現生人類(猿人・原人・ヒト属ヒト種)へ進化することによって知識や欲望や感情を得て意思から種々の行動を比較的自由に行える能力を得たように、個人も仏教の理解によって自由な心の境地が得られるとよい。
そこで、「仮設エッセンス」の価値も成り立つ。
努力の継続=修行の精進とは、仏教知識のみならず、仮設エッセンスも重要である。
観萌の行・萌えの法門においては仏教の理解と、「内蔵萌心の自覚・持続(仮設エッセンスに相当)」を要している。

平等の心が泰然として据わった時、仮設エッセンスも忘却されて泰然自若の姿が出来ているのかもしれないが、それは仙人もどきであり、大乗仏教ではあまり理想的でないかもしれない。
人間として生きている間の悟りは、たとえ終生揺れない悟りであるとしても絶対的とは言えず、「仮」の域を出ない(先ほどの100%の考察と類義)。
仏・菩薩のように、力の限りに法を説き続けてゆこう。
よくよく慢心を制御しながら。

心に誓ったことも保ちづらく、仏教の知識というもののありがたみさえも損なわれやすい自分は、常に恐ろしく感じる。
せっかく感動した・歓喜した教えにも、「自分が記憶・認識し続けるもの」としては誤解・顛倒が伴っているのではないか、という悪い「疑い」が起こってしまうときがある。
正念を失っている状態であろうか。
それが一過性であり、すぐに智慧の心を目覚めさせたい。



起草日: 20170111

仮設エッセンスが念として作用し、念が日常生活の中に生きることを説明した過去記事がある。
およそ、仏教徒の生活・仏道は、各々異なりがあるとしても、そのような念が活きており、八正道を行くための杖となろう。
諸々の所作、一挙一動、五感に捉えた物事の全てが仏を意識させ、四念処と呼ばれるような想起がある。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2016/09/blog-post-20.html