2016年8月25日木曜日

三大宗教の「慈悲」観を比較する

※敬語使用の背景は察してほしい

諸宗教にはない「空」の思想こそが平和の原理

「宗教はアヘン"Die Religion ist das Opium des Volkes"・信仰の意味は無知"Glauben heisst Nicht-wissen-wollen"」という西洋哲学者などの言葉は、キリスト教を念頭に置いて発されました。
これは、キリスト教やイスラム教などの一神教についての非難としては的を得ていましょう。
ただし、私としては、西洋において宗教や信仰全般を否定した、仏教を知らない多くの西洋哲学者の思想なども、一神教の教義と同様に愚昧なものと思っています。

さて、キリスト教やイスラム教が説いている慈悲とか慈愛とか博愛など(mercy, pity, love, kindness, compassion, agape)は、単なる精神論の美徳であり、空虚・空理空論です。
後述のように「慈・悲"Ji Hi = Skt: Maitrī Karunā"」はもっと奥深い概念でしたが、明治時代以降でしょうか当時の日本人はキリスト教やイスラム教の"Mercy"や"Compassion"ほか"Love"の類に「慈悲」を訳語として当ててしまいました(「戒・律"Kai Ritsu = Skt: Śīla Vinaya"」という言葉も漢字の意味からするとイスラム教の概念に訳語として当てては不適切)。
過去に宗教戦争を起こし続けたキリスト教は、第二次大戦後に盲目的な慈悲を説き続けて過激派を生む素地を整えてしまいました。
現況のキリスト教が説く慈悲などは、悪をも悪のまま助けてしまう紛い物です。
そこに、アッラー"Allah"を飾りあげる(Al Rahmanという異名)ための軽薄な慈悲を説くイスラム教の中から、無慈悲な過激派が忽然として勃興しています。

現在の様相は、まさに近現代キリスト教の思想的支配(多文化共生・宗教多元主義・人権尊重・人道主義・合理主義・民主主義・リベラルなど)が根本原因であると知らねばなりません。
過去の巨大戦争への(極端で自己陶酔の)反省をし、(自己陶酔のために)良かれと思って行い続けた人道支援やイスラム教への寛容な姿勢が、かえって過激思想の広まりを助長した事実です。
宗教という心を重んじても、ただ現世的で世俗的な物的支援ばかりで、彼らが奉じるところの西洋的な教育(イスラム主義を奉じた過激派が蔑視する)は不十分でしたので、過激思想を抑制することはありませんでした。
イスラム教徒・ムスリムとなる選択は、西洋的な教育を受けた後、「信教の自由」に任せて選ばせればよかったのでしょうが、それも実現が難しかったことでしょうか?

これからもほくほく顔を浮かべたローマ教皇(法王)・フランシスコだとかのお偉いキリスト教徒や、その走狗の如きEUなど人権屋、更に日本・世界中の識者さまが自覚しないうちは、今後とも悪を生み出すことでしょう。
彼らは高座ですまし顔でいられ、一部キリスト教徒やイスラム教徒が協調の姿勢を見せても、争いの当事者である下層の民衆やEU域内の移民・難民やテロリストなどの間では、軋轢が強まり、争いの火種が絶えず生まれ続けます。
虚栄の慈悲はかえって他人の悪を増長させる・・・「自由」や「放任」とは、決して過保護だとか好き勝手にさせることを意味しません。



私が奉じる仏教は、色んな教理に裏打ちされた「慈悲」を説いています。
「慈・悲"Ji Hi"」の字義を簡単に言えば、「慈」は思いやり、「悲」は哀れみであり、英語で言えば、"Benevolence"と"Pity"を合わせたような言葉です。
片方の英単語の意味だけでは足りません、両方の意味を合わせた単語です(「戒律」もこれで一つの意味ではなく「戒・律」という別の意味のある漢字を2つ合わせた単語)。
「慈悲」の字義から言えば、個人的には"Loving-Kindness"という通常英訳が適切と思いません(MaitriとかMettaといったサンスクリット語・パーリ語も実は"慈"の意味しか含んでおらず漢語の"慈悲"という四無量心・四梵住のうちの2つの概念を言うには不足がある)。
漢語では「抜苦与楽(苦を抜いて楽を与える)」と言われますが、この場合は「抜苦」が「悲」で、「与楽」が「慈」です。

また、「不生不滅」だからこそ「慈悲」です。
「不生不滅」といった「空」を知ってこそ、慈悲や信仰などの精神や実践は活きていきます。
「空」とは、キリスト教にもイスラム教にも強調されることのない真理の一つです。
大阪の覺應さんや大阪の英俊さんなど、彼らは「空」を理解しつつ、慈悲が大切であるとよく訴えられています。

苦しみの性質を説いた「縁起」、その苦しみを構成する事物・苦しみを受ける生命など「縁起」にとらわれる全ての事物・生命が「空」であり、それを知って自分の苦しみを捨て、「空」が根付いた「慈悲」で他人の苦しみを除く(除こうとする意志)、という点で、自他が苦しみから離れるには「空」と「慈悲」のどちらも必要です。
その関係性は飛行機の両翼とエンジンや、建築物の基礎と柱や、建材と金具(枘鑿・ぜいさく)の関係と似たようなものです。
こうして堅実に理解を積み重ねなければ、苦しみの呪縛は永く続き、解脱は到底ありません。
よって、一つでも欠かして進ませれば、手抜き工事の建築物のようにどこかで瓦解しましょう。
※今ご覧のみなさんは今すぐに「空」に関わる教理を解せずとも、一応そういうものと認識してくだされば理解できない文章でもありません。また、深い理解を求めれば、読んでいきなり達成できるはずもないため、ひとまず全文を読んで考え直しましょう。

私の説明を聞かない限り、「空"Emptiness, not Nihilism"」と慈悲は相容れないと思われる傾向がありますが、実は多くの教義とセットなのです。
大昔、仏教徒の中にも、「空」が他の教義を否定するのではないかという議論があったくらいで、理解されづらい歴史があります。
「空」の聖典である龍樹菩薩の中論・観四諦品(24章)にも、仏教の「四諦」や「四果」や「三宝」といった教義(分からなければそういう教義があると認識するだけでよい)は「空」で否定されず、むしろ「空」ありきでそれらの教義が立つとされます。
「四諦」などに限らず、慈悲であっても「空」が根本です(そのタネは"縁起")。
※典拠は中論24-20偈「若一切不空 則無有生滅 如是則無有 四聖諦之法」など(文意が分からなければそういう教説があると認識するだけでよい)

仏教の慈悲は、自分から他人への「抜苦与楽」のみならず、自他の悪をも抑制します。
それができねば、慈悲は慈悲でなくなります。
ただ自己や崇拝するものを装ったり、取り繕うだけの概念ではございません。
俚諺に「情けは人の為ならず」とあり、この"ならず"はナリ活用否定形なので「情けは人の為ではない、自分の為である」という意味となりますが、キリスト教などの慈悲は、所詮ここでいう「情け」の程度の粗末な美辞麗句に過ぎません。
自他は不二、善悪も不二、であるならば、仏教の慈悲とは他人への抜苦与楽のみならず、自分にも抜苦与楽があります(ただし小乗仏教では自分の抜苦与楽が本意である)。
自他に善をもたらして悪を打ち消します。



とはいえ、無論、仏教にだって素敵な教義(本覚思想など)を弄んで悪行を重ねる輩もいます。
しかし、それは多くの教理を知ったつもりで、実際はまともに理解していない慢心・不信心・無道心の者であり、また極少数です。
90年代のオウム真理教のみならず、戦国時代の日本では、愚かな民衆や僧侶までもが、一部仏教宗派の名のもとに戦闘に参加しました。
本来ならば「不生不滅」という「空」の思想に基づき、我が肉体が害されて滅ぼされようと結果論ですが、そういった宗派を奉じて戦闘に参加したことは、日本仏教を独自に信奉する私(未成年・広義の無宗教ですが)としても大いに省みるべき負の歴史です。

その「不生不滅」の理解は、原始仏教の故事が参考となります。
例えば、釈尊十大弟子の一人である目連尊者は「神通第一」といわれ、「神足」という瞬間移動などが使えますが、釈尊の涅槃も近い時、仏教を憎む外道(婆羅門・梵志)に殺害されようとします。
目連尊者は絶体絶命の危難を「神足」で脱するも、重傷を負っていたために同朋の元に戻ってから同朋にその原因を問われ、不可避の業による因縁を明かし、間もなく示寂されました。
また、釈尊は、故郷の人々が襲撃されると知って相手側に3度停戦を促すも、4度目を前に故郷の人々と相手側の深い因縁を知り、ついに停戦に入りませんでした(その後は相手側によって釈尊の故郷の人々への虐殺が始まる)。
「空」による戦闘の不参加は事実に明らかです。

※イスラム教のムハンマドは自分の命のために戦争を辞しませんでしたし、そもそも戦争"Jihad"して敵を滅ぼさねば死にそうになって説教もできなくなる人間が教祖では邪教そのものでしょう。仏教の釈尊や高弟たちが、婆羅門や六師外道や提婆達多などの迫害を受けても忍従された御事跡と、比べるに及ばない卑小な根性です。磔になって殺されたキリストも教祖として不十分であり、イエスのリザレクションは夢想です。己の命が惜しい常見のムハンマドに加え、キリストへの執着が強くて常見の教義を生んだクリスチャンも、「空」の理解などは絶無でした。

自分たちが殺されるとしても「不生不滅」、そもそも生きる我が身も死する我が身も、他人の身も、すべて「不生不滅」であり、「空」ですから、深い因縁があって殺されるならば受け入れるしかありません。
人間個人の生命とは最初から「空」であって、生まれも滅びもしないようなものです。
仏教に「生老病死」の苦が説かれていても、仮に説いたに過ぎず、「生老病死」もまた「空」です。
よって、例えば先ほどの目連尊者は、空の思想を理解していたため、死を恐れず(神足によって危難を逃れようとした経緯は仏教徒として生きる使命を自負していたためや相手に悪業を生ませないためか)、死に際しては苦しみもなく無余涅槃に入られたことでしょう。
※目連尊者の話も釈尊の故郷の人々の話も、増一阿含経(前者: 巻第十八 後者: 巻第二十六)を参照します。目連尊者の話については何と最後の偈の中に「不生不復滅」と一句があり、私の話どおり、「不生不滅」の理解を釈尊が示されていました



我が身への執着(我執)に気付かないと、宗教を奉じた戦争を起こします。
「神の名のもとに殺せ!」ではありませんが、やはり自分たちの宗教・宗旨・宗派に偏重したセクト主義があり、「空」を知らないままでは、その宗教・宗旨・宗派の教義の狭隘なる一部分だけを受け止めて戦闘に走ることは必定です。
無慈悲ですね、「空」を知らないで「慈悲」など、到底説けるものではありませんと分かります。
教理を学びきらなかった極少数の日本仏教徒や、西洋でいうと過去のキリスト教、現在のイスラム教(過激派)が、実際に具現化しました。
今のキリスト教であっても、独善的な反省が盲目的な「慈悲と称する偽善」を増長していますから、イスラム過激派の生みの親であり、過激派が台頭した根本原因です。

このように、仏教の「空」を知らねば、修羅の業による戦争を起こし、起こした者は地獄の境界のまま死後には地獄に堕ちる悲劇を歩んでしまいます。
ああ、なんと胸苦しいことでしょう。
彼らは、そういった仏法の真理・真諦には微塵も関わることがありませんでした。
そういった仏法の真理・真諦を知らない者たちが「外道」であり、自他に平和をもたらすことなく、己の解脱もままなりません。



最後に、「空」と「慈悲」が、より教義として密接に関係しあう理由を書きます。
お気づきの方はお気づきになるかもしれません。
目連尊者などは「不生不滅」という「空」を知りつつも、厭世的でなく、また虚無主義的でもなく、懸命に生き抜かれようとしていました。
自分も他人も、憎い人間も、憎んでくる人間も、家族も、国の支配者も、みな「空」です。
動物も植物もあらゆる物質も、人間の文明や言語や知識なども、全てが「空」です。

更に、自分の一生は「空」ですが、また何よりも大切です。
大事な自分の一生が空ですから、他人や、憎い人間や、憎んでくる人間や、家族や、国の支配者など全人類や、果ては動植物の一生も、みな「空」ですが、それも等しく大切でしょう。(事実はともかく仏教徒はこのように考えなければならない)
そして、誰でも大乗仏教でいう「仏性」があるならば、あるいは誰でも徳を積んで解脱ができるならば、どうしてその自他の生命をみだりに蹂躙できましょうか?(修行も解脱もできないように見える人間がいるという価値判断をひとまず捨てて仏教徒はこのように考えなければならない)
目連尊者も釈尊の故郷の人々も、生き延びようと懸命に戦われましたが、同時に、相手を傷つけず、殺さず、自分の生命への執着や生存への欲望に対しても戦われたのです。

「空」、「慈悲」・・・・・・このようなものであり、こうした考え方がそれぞれの教義を相互に活かしていく、そんな深遠にして俄かには理解しがたい仏教を、これからも私は「慈悲」のために広宣して参ろうと強く願いを発しています。
私のような煩悩具足ともいえる末世の凡夫には小慈小悲(自分の心を養えても他人を直接に救済できない小さな慈悲、仏・菩薩でもない衆生は誰しもこれが限度とされる)ばかりで精一杯ではございますが、一人でも多くの人が、真に「平和」という空想じみた、人類共通の理想を実現できる唯一の道を示す仏法の妙音に預かることがあろうと願ってやまない所存です。

こういった「空」の理解がないキリスト教やイスラム教の「慈悲」では、平和の実現も無ければ、常に同じ一神教同士の争いを発生し続け、どちらかを潰す(自他や善悪を分断する二分思考)までは解決しない上に、仮に片方が勝利しても、その中の派閥が争う展開は必定です。
今の時代は、核兵器など大量破壊・殺戮の兵器もあります。
そこでは、関与するほぼ全員が苦しんで死ぬか、文明破壊・人類絶滅の天変地異を待たない限り、争いの輪廻が断たれない悲劇を、再度、知ってもらいたく念を押します。
キリスト教やイスラム教が共存する文明で「平和」があるとすれば、それらの宗教の教条主義が消え、「民主主義・宗教多元主義」を立てて「みんな仲良し」という、宗教の形骸化くらいしかありません。
そんな「みんな仲良し」も、「空」が理解されないままでは絵空事に過ぎない夢想でしょう。



起草日: 20160803
「依空慈悲抄」?
思えば、戦後の日本も、そういった偏狭な慈悲を歌うキリスト教や西洋の人道思想に触発され、ただ中国や韓国に頭をペコペコと下げ、インフラ整備や莫大な投資を続けた(陰徳絶大)。
もし中国や韓国が日本を尊敬し、彼らも彼らの中の悪や非を自覚して抑制するならばよかったものの、実際は日本の寛容さに付け入ってその悪を増長している。
実例は枚挙に遑がないため、省く。
これも、偏狭な慈悲を歌うキリスト教およびそれを奉じている欧米(アメリカ・EU)が、中東やアフリカといった国々のイスラム圏の悪を増長させ、テロリストや過激派を生み出し、9.11テロやパリのテロなど、自分たちをも苦しめている現象と同一轍である。

同じ岐路に立たされている日本と欧米は、このキリスト教的な思想が元凶であると思うほかない。
日本も欧米も、自己陶酔のような反省で、中韓やイスラム圏を好き勝手に許して悪を見放しつつ(悪化してから米英仏露などが爆撃を行う始末)、自分たちの悪だけは強く戒めている。
中韓およびロシア・北朝鮮と、日本との問題は常態化しており、領土問題は勿論、拉致被害者であるとか、種々の問題は当面、解決の糸口が見えてこないばかりか、現状のままでは解決など夢のまた夢である。

やはり、自由・平等といった理念は相互が理解してこそ成立する。
悪を自覚して反省するにも、相手の悪をも責めて正さねば、公平ではない。
こうして相互の善悪を認めることで、初めて平和が成立するであろう。
この思考は、親子喧嘩を主題にして語った過去記事を参照されたい。



追記: 2016年10月24日
某サイトでの投稿に関連し、漫然と勉強する中に「慈悲」は3種類あるということをたまたま知った。
一般に「大慈大悲」という表現があり、状況によっては意味も変わるであろうが、3種類(三種)の慈悲は教理によって小・中・大が分かれている。
3種類とは「三縁」であり、慈悲の縁とするところ(対象とするところ)が3種類あるという。

まず小の慈悲が「衆生縁」の慈悲であり、「空」を知らずに衆生に対して起こす慈悲であり、本文中にもあるキリスト教や一般道徳で言われる程度の慈悲、情けの類である(ものによって「空」を知っていてもこれに当たるか)。
身近な出来事や人間関係などによって起こりやすい(私はむしろ仏教を学んでから改めて愚かしい親・他人などにかえって憐憫を感じるようになったので下記の大の慈悲があってこそ小慈悲も成り立つ一面はある)。
凡夫に多く残る煩悩が起こす慈悲である場合、好き嫌いの感情により、刹那的である=小さい慈悲と考えてよい。
中の慈悲が「法縁」の慈悲であり、自身の執着を無くしつつも「空」を中途半端に捉えた説一切有部の法有我や五蘊の有我に基づいた「いわゆる小乗仏教」において修行者が起こす慈悲である(とされる)。
小乗とされる阿含経・パーリ語経典に、「四無量心(四梵住)」としての「慈・悲(および喜・捨)」の修行が説かれる。
大の慈悲が「無縁」の慈悲であり、「空」を知ってこそ生じる平等の慈悲であり、私などは理性によって真似ができそうでも到底できはしない、仏・菩薩の大慈大悲である。

これらが小・中・大と名付けられる理由は、慈悲の平等さや盤石さに依ろう(本文説明の通り)。
このように「空」を知ってこそ広大にして強固な慈悲となる。
私の求めた答えが当日中、別の形で知ろうとは、仏法の不可思議なる利益を改めて感じ取る。

更に調べ直すと、空の聖人であらせられる龍樹菩薩の大智度論(ここでは文献学的な疑義を差し置く)巻第四十にもこの三縁慈悲(三種慈悲)について記述があり、大慈悲の「無縁」については「諸仏は善く畢竟空を修行するが故に、名づけて無縁と為す (諸佛善修行畢竟空故名爲無縁)」とある通りである。
大智度論は巻二十において、三縁を詳細に説いている(衆生縁の慈悲が「愛楽(あいぎょう)」によるなど)。



イエス・キリストさんが、実は空(心における縁起)を悟っていて一神教の神に仮託しつつ、慈悲忍従で処刑されたという発想は・・・。
いいや!仮にイエス・キリストさんが知っていても、「実際にその宗教で人々が幸福になるか?(抜苦与楽されるか?)」という問題に直面する。
例えば、日本の鎌倉時代で、法然上人の専修念仏が、国に害悪をもたらす教義・修行であるとして天台宗・法相宗(貞慶)・禅宗(栄西・道元)・明恵上人・日蓮大聖人などに非難されたわけである。
よしんばイエス・キリストさん(または高等批評でいう後世の聖書編纂者)が法然上人や親鸞聖人のように空の道理(縁起)を悟っていても、教化の中で明示されず(せいぜいルカ18章やヨハネ1章やローマ1章くらい)、明示されたところで歴史的なキリスト教は闘争的な一面ばかりが顕著であったろう。
日本仏教では、小乗も大乗も「一乗」であり、「平等に悟りが得られる(解脱ができる)」ことを高僧の誰もが知るが、本当に悟りが得られるかどうかは別の話だから、という前提で種々の論争があったわけで、この観点でキリスト教は、日蓮大聖人の「三証」のうち、百歩譲って文証・理証が良くとも、事証では好ましくない。
鎌倉仏教系の信徒でも、当記事で語るよう、武装をして宗派の教義を奉じながら流血の闘争に躍り出た点、畢竟、どんな宗教や時代でも、個人の精神が最重要だと言われてしまう。
個人主義の真意や、ヒューマニズムかも。



追記: 2017年9月21日
慈・悲・喜・捨という「四無量心(四無量行・四等心・四梵住)"apramāṇa citta (brahma vihāra)"」に関する見解は、萌えの法門で更に開示した。
萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会の擬古文や、四会の注釈にある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#ideo4

後々、パーリ経蔵・長部や漢訳・長阿含経にある「三明経」などにある「慈ないし悲・喜・捨で一方~四方・上下・横・一切処を満たす」という教説を閲覧した経緯を執筆した。
それは2017年8月であり、2017年10月に以下のパーマリンクに投稿する予定である。
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/10/brahmaloka-sukhavati.html

以下、参考程度に抜粋し、上記リンク先のページにしていない説明をする。
Dīgha Nikāya 13 - Tevijjasutta (長部13経・三明経。以下は中部40経Cūḷa assapura suttaなど経蔵の随所に同じ形で見られる)
慈で一方・四方・上下・横・一切処を満たすことの教説→So mettā­saha­gatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati. Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettā­saha­gatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.

悲→ karuṇā­saha­gatena cetasā …
喜→ muditā­saha­gatena cetasā …
捨→ upekkhā­saha­gatena cetasā …

そのように慈悲喜捨の心を「自分が思う・知り得る世界」に平等・普遍に満たすということ(じっくりと入念に堅実に粘り強くひろげてゆくこと)が「慈悲喜捨の心の無量である状態=四無量心"apramāṇa citta"」であり、三明経によれば、現世で梵天と共にあり、来世に梵天へ転生する業となるようである(このために梵住"brahma vihāra"とも呼ぶ)。
上記パーリ文の引用にもappamāṇenaという語があり、それは「無量」を意味するサンスクリットの同義語"apramāṇa"であり、具格である(apramāṇa-cittaという複合語は共に名詞の語幹であるが持業釈"karma-dhāraya"で語順を替えて「心の"citta"無量なる"apramāṇa"+状態」と訳せられる)。
上座部仏教でしばしば唱えられる「パリッタ中の慈経"Metta Sutta"(元はスッタニパータ1章8経)」にも、上記パーリ文の要点が含まれる(ほかMettāsuttaというほぼ同名の経が増支部11.15経)。

無執着・無瞋恚にして能動的な慈悲も備えるならば、相当の理法を弁えて智慧・般若もあるので、解脱どころか事における成仏の道でもあろう。
それとも、慈悲喜捨とかの業ですらも個人の解脱のみを目的とした際には、「道の杖」とか「河を渡るための筏」に過ぎなかろうか?
解脱したいか、成仏したり菩薩と成ったりして衆生済度をしたいか、とは、目的"artha"の置き方の違い程度であって「本来は毫釐の差も無い」事柄だろうか?

2016年8月18日木曜日

各宗の修行はみな解脱の正道である場合、日蓮大聖人のご教示をどう受け止めるか

西洋のことわざに「全ての道はローマに通ず」があり、日本でも比較的知られよう。
仏教・仏道の「解脱(成仏・往生・涅槃などを総括)」もまた然り、と考えられなくはない。

例えば、江戸時代のとある僧侶は、「正法」という宗派ごとに相容れない概念について円満にする見解を示している。
即ち、座禅にせよ念仏にせよ唱題にせよ真言にせよ、各宗の修行は名聞利養(世間の名誉・利益)などを眼中に入れず、専心に修行すれば、みな解脱の正法となる、と。
無心に専心に物事に取り組めば、目標とするところに行き着くであろう、とは、誰でも一度は思ったことがあろう(勇躍の足、自ずから長安に到る・略、自作の漢詩)。
その目標を叶える結果を強く望んでもよいが、望みすぎるままでもよくなく、真面目に直向きに質実に今を生き抜けばよい(反面に仏道で無心なのではこれもよくない)。
同じ目標のためでも、ただ私やあなたの良いと思う手段"Way"を選べばよく、私が他人の選択"Way"を批判してする権限が無ければ、他人に私の手段"Way"を嘲笑される筋合いも無い、とまでお考えのようである(背景として江戸時代などは仏教各宗の論争"宗論"が多かった)。
そのように仏道修行を広い視野・・・宗教多元主義的に見れば、「一切修行・皆是正道」とも言えようが、やはり各宗は多少の排他的主体性も無ければ宗派の尊厳も無くなる。

※この江戸時代の僧侶(慈雲尊者・飲光)も、ああ述べた本意は「戒律(特に四分律など二百五十戒)を持つ修行」へ導くためであった。超宗派的ながらに、彼のこだわりが表れている。あの当時、多くの僧侶が小乗の戒から大乗の戒まで持とうとしておらず、宗論に交わる者はそこそこいる程度で葬式仏教化が進んでいた。結局、仏道に入らねばみな六道輪廻を繰り返すか、逆として真面目に仏道を進めばみな後生善処や解脱に至るわけで、単に超宗派的では仏教不要・修行不要の邪見に陥りかねないから独自のこだわりは必要か。俗に「鰯の頭も信心から」と言っても、永遠にそれではならない。仮に敬虔なキリスト教徒がいて異性や富裕に興味を持たず信仰・修道を熱心に続けても、彼に解脱はできない。無心で滅私奉公する軍人、または労働者でも、当然解脱はできないことと同じで、須らく仏智に依るべきか。そういう時、この僧侶であれば、仏道修行の中でも戒律を重視するわけである。私の漢詩で言えば「勇躍の足」のみならず、仏法の智も満足している必要がある。セクト主義も、排除しきってはならない。



私の信奉は何であろうか?私の選択"Way"である。
私は様々な経緯によって日蓮宗的な信心を選び、日々に修行(2015年末から毎日に朝夕の勤行を上げるなど)を続け、教学の中心も法華経や御書(日蓮遺文・御妙判)としている(元々雑駁な研鑽の中でも最近は中観派きどり)。
その信心と修行が、諸道の中の「最第一」にして「成仏の直道」であると信じるところである。
祖師にあらせられる日蓮大聖人は、宗教に詳しい日本の人々・仏教諸宗の人々ならばご存知の「四箇の格言」に代表される排他性の印象を持たれている。
先の記事で私は、その一面を取り上げつつ、「中道・和」を感じさせる教学の在り方(日蓮大聖人の法門を諸宗の亜流であると言うつもりはない)も示した。

日蓮大聖人の法門には、まず「五重の相対」という教義の判断基準があるが、そのうち「大小相対」・「実権相対」の上から見れば、先ほどの僧侶のような宗教多元主義もとい超宗派的な「正法」観は、邪義に当たる。
「大小相対」という大乗教・小乗教の区別は、大聖人御在世において問題とならないが、やはり「実権相対」において権大乗の経典と教理「爾前権教」やそれに依る宗派「権宗」については当時非常に多かったので、そういった「権宗」へ、大聖人は個々に破折されたのであった。
特に他宗派色の強い経典(浄土三部経・大日経など)は、大聖人の教説の根拠とならない場合が多い(法華経以外で主要な引用経典は大乗の大般涅槃経が有力)。このように、法華経(および大乗の大般涅槃経)を「実経・実教」とし、五時教判で法華経以前(已前)とされた大乗経典を「権経・権教」として明確に分別をし、末法では「実」の教理しか有効でないとする大聖人の法門(究極は「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し・ただ南無妙法蓮華経なるべし」)においては「権」のものに執着すると謗法であり、罪障を積んでしまうらしい。

ここでもう一点を付け加えると、日蓮大聖人がご教示の修行法に正確に随わねばならず、一分なりとも信心を欠かせば地獄に落ちてしまうという教説である。
「正直に方便を捨て(法華経方便品の引用)」
「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ(法華経譬喩品の引用)」
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し(顕立正意抄・末文)」
「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄に堕つべし(曾谷殿御返事)」

こういった言葉を、私としては、その実際に地獄に落ちるかどうか自体を云々していると思わない。
つまり、「それほどに純粋な心(信心・求道心)で用心して挑まないと、邪心が生じて道を外れたり、折角の位を退転しちゃうよ」という「教戒(教誡・教訓)」であると私は受け止めている。
無論、そう理解した時、好き勝手に心を移ろわせてもよいわけではない。
日蓮大聖人のこういったご教示も、完璧にはこなせないかもしれないし、色々な紆余曲折や邪心もあるかもしれない中に、完璧にやり遂げようという気概は第一に尊いと思う。
完璧主義のために、少しの失敗や邪心があるごとに大きな罪悪感や背徳感を起こしてしまう潔癖症みたいな思考に陥らないよう、バランスをも保てばよい。
何事にもこういった理解や姿勢は、継続の肝心となるのではないか。
ただ、こう私が語るメンタル面の話は、管見の限り、大聖人のお言葉では未見である。



私のこうした理解も、例えば日蓮正宗・創価学会・顕正会では邪道・邪義とみなされようか。
これらの大聖人のご教示が単なる理屈や観念論ではなく、文字通りの「不惜身命」や「身軽法重・死身弘法」や「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」であるとし、その実践=折伏(彼らのいう破折屈伏・摧破調伏の意)を訴えている。
先の顕立正意抄にも「四悉檀(大智度論巻第一に言う説法の形式の4種類、悉檀"siddhānta"の原意は"成就・達成")」が挙げられ、このうちの「対治悉檀(3番目・薬が病原菌を撃退する勢いで相手の非を責める説法の形式)」のように強烈な折伏が、末法の世界で有効な手段であるそう。
それらは、哀れなる邪宗・無宗教の人々を「慈悲」によって救う精神で行うとする。
彼らの主張にも一理あるが、やはりそれは彼らの手段"Way"であり、機根低くして才覚にも乏しい私には至極困難であり、彼らを遠目に応援するだけとしておこう。

仮にも彼らと接触するだけで「勧誘される」とか「強引に入信させられる」とか「集団ストーカー被害者になる」とか「殺されちゃう」と思ってしまう人もいるであろうが、私はこの際、どうでもよく思っている。
いつも、禍福を結果論と思っているが、仏罰厳然たれば強く慚愧せねばならない。
いや、何事にも苦しみを覚え続ける私は常に自覚して反省し、改善への努力を続けねばならない。
個人的には、真諦から見た全ての現象には必ず原因があると思うも、俗諦から見れば原因は特別に挙げられないいわゆる「不条理」な現象・物事の方が断然多いため、「結果論」と思っておくことが一往は最善であるが、再往は真諦(十二因縁など)から見て全て悪しき我が生・業の果報と思う。
この真諦を踏まえて常に自覚して反省し、改善への努力を続ける姿勢は大事である。
無論、俗諦での原因も、単なる「結果論」として一顧だにしないという「思考放棄」を意味しない。
真諦の面も俗隊の面のどちらとも、しっかりと見つめて考えつつ、精神衛生上は気にしないことが修行者の道心を乱さないであろう、と言いたい。

さて、日蓮大聖人の法門は、きっと忠実に実践すれば、日蓮大聖人がご教示の果報、つまり即身成仏や一生成仏が得られるという。
まさに「如説修行」によってこそ、説の如くに果報が得られるのであろう。
ここまで引用したような多くの教説を根拠とした「如説修行」を、彼ら教団の信者は絶対的信心・急進的思想より、潔い「折伏」として展開しているであろう。
その急進的思想で革命的な布教活動・折伏闘争をする中に怨嫉や大難をも恐れず、勇猛精進をされている彼ら教団の中の信心深い人々は逞しい。
一方の私は、漸進主義を標榜し、これからも様々な思惟の中で実践の道筋が正され、いつの日かその果報に向かうことを仄かに願い続ける。

最後に、佐渡御書の「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。」というお言葉は、こんな漸進主義で「やはらかに法華経を弘」めんとする"ヤワ"な自分を戒めた言葉であることを耳に痛く思うと同時に、そういった彼ら教団の信者のような豪胆さも尊敬できる心情を表明したく思う。
進んで入会する意思は毛頭ないが・・・。
個人主義の現代文明にあって宗教・教団のしがらみを厭う、ヤワな現代人の特にヤワな人種に属する私は、もっと彼らに見習うべき一面を覚えてならない。



起草日: 20160727 「皆正法道抄」?

2016年8月11日木曜日

諸宗の教義と日蓮大聖人の法門 "八万四千法門総在"?

日蓮大聖人の法門についてはしばしば、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇の格言に代表される排他的なものと見られている。
加えて後世の関連教団が行う「折伏と称する強引な布教活動」で改宗の強要なども多いため、共産主義のように革命的であって同化(画一化)を強制する危険な思想に見られる場合も多い。
しかし、大聖人の法門を他の宗旨(小乗・権大乗・密教)などと共に知ろうとすると、四箇の格言などに並べて非難された様々な法門(小乗・権大乗・密教)と通底しているように感じられてくる。
それは、ある種の「中道」や「和」である。

表題にある「八万四千法門総在」という私による表現は、端的に言い換えると「オールインワン」である。
日本天台宗・比叡山といえば、「四宗兼学(法華の円教を中心とした禅・戒律・念仏・密教)」と言われるが、それは、別物を別物としつつ雑駁に取り入れた修行法である。
大聖人の法門は、それらやそれら以外の教義や修行を広く折衷していると僭越に愚見する私だが、大聖人自身は「日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず(妙密上人御消息)」とお述べになっているわけで、ただ根本の「南無妙法蓮華経」を末法の世に弘めただけであると報恩抄などに示されている。
決して、新しい思想や奇怪な解釈、または既存の法門の二番煎じを述べたつもりはない、と。

大聖人の法門は、ある門流の場合、久遠実成釈迦牟尼仏を本仏とし、別の門流では日蓮大聖人そのものを久遠実成(久遠元初とも)の本仏とするよう、一見すると一神教に似ているように見られそうだが、日蓮大聖人は法華経の会座にいた多宝如来を始め、様々な仏・菩薩、十大弟子という声聞や、後の世に出現した龍樹・天親などの菩薩の敬称がある論師や天台・妙楽・伝教などに「南無(帰命)」を冠しているほか、天界の神々や魔王、密教の不動・愛染、日本の大師天照・八幡などの神までも分け隔てなく「十界の衆生」として曼荼羅御本尊の相貌に列している。
卑近な表現となるが、こういった多様性や共存のありかたは、「宗教多元主義」と言わないが、先述の「和」という日本の大事な心がよく現れているように思えてならない。
一切衆生はみな仏性があるから尊敬する・・・常不軽菩薩のようである。
みな等しく尊いという平等・不二の立場・・・無論、特別な尊敬対象(本仏・妙法という人法一箇の本尊)もあり、これは而二である。
大聖人にとって排除すべき事柄は、「南無妙法蓮華経」の根本から背いた枝葉末節の邪宗邪義であるとされていよう。
せっかくの仏性を勿体なくする(一切世間の仏種を断ずる)邪宗邪義が許せないといえよう。

法華経自体が排他的である、といった邪説を垂れる輩もいるわけで、見方次第では一理あるものの、それは皮相的な見解であろう。
法華経や大聖人の本意は「中道」や「和」に通じているものである、と念を押したい。
それはそうと、ここからは具体的に他の宗旨と照らし合わせて考察に入る。
浅学菲才・未熟者の謗りを免れがたい愚生ながらに事例を並べて参ろう。



  • 「南無妙法蓮華経」の唱題と「南無阿弥陀仏」の念仏
    • お題目の信心は、自力か他力か中道か
    • お題目の修行は、易行か難行か中道か

  • 「文底秘沈」と「密教(秘密に遺した教え)」(禅宗の「教外別伝」にも似る?)
    • 曼荼羅御本尊・唱題について様式の類例(明恵上人)
    • 合掌という手印(印契)を結びながら法華経の題目という真言を唱える

  • 一部門下にある己心本尊説・凡夫本仏説と唯心論的な禅宗の成仏観
    • 己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と不二
    • 凡夫の観心は御本尊なくして成り立たないとされる

  • 御本尊や仏性とは空か絶対的存在か・大聖人の見解
    • どこからどこまでが六師外道の教義となるか・寿量品所説の常住はどうか(調査不足・常楽我浄の四顛倒も四徳となる・唯識論の阿頼耶識と比べて空ではない第九識)
    • 身延派日蓮宗の荒行は外道修行か通過儀礼かパフォーマンスか"いのちに合掌"への自語相違か

  • 大聖人の御境涯は忍難慈勝にして頭陀(「内秘菩薩行・外現是声聞(外現声聞儀)」とは?)
    • 五戒などの戒律は保たず題目を唱える修行の日々を唯一の戒とす(飲酒の是非は?)

「中道」とは、「自力か他力か」という対立や「己心(内証)か色相か」という対立いずれにも当てはまり、大聖人の法門は「中道」を貫いている。これまで見た様々な教えの特徴も含まれるとすれば、「和」にも通じる。



概説すると、まず大聖人の仏法で肝要な教義・修行が、妙法蓮華経の題目を称える「南無妙法蓮華経の唱題」である。
およそ、一般的には「南無阿弥陀仏」と似ているように扱われるが、その「南無阿弥陀仏」という念仏は主に浄土真宗で「他力本願」と称するように、ただ阿弥陀仏の力で救済されるのみの代物でしかない(法然・親鸞さん以前の日本天台宗の念仏三昧などの念仏修行は真宗サイドから自力念仏と軽蔑されるし法然専修念仏義は旧来の念仏を認める明恵さんなどに非難された)。
日蓮大聖人の唱題も、法然・親鸞さんなどの念仏(専修念仏)も、余行(他宗らしい修行)を交えず、余念をも交えずに行うことが奨励されるか、強制される。
日蓮大聖人の言葉では「或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し(秋元御書)」と、題目を唱えつつ念仏も唱えてしまえば「飯に糞を雑(まじ)える」ようなもので、推奨されないようである。

「他力本願」の「念仏」に対して「南無妙法蓮華経の唱題」が自力か他力かといえば、大聖人の「一大聖教大意」の教説を披見すると、「四性計」に定義された自力・他力・共力・無因力の「四力」のうち、「今の法華経=大聖人の法門」のありかたとして自力も他力も否定されている。
共力・無因力については説明を略しているが、同様の理論で否定されようものと拝察できる。
大聖人の「中道」の見地では、「四力」いずれの要素も含むが、いずれも絶対的でないため、絶対的に自力であるとか他力であるとか、共力や無因力であるとは区別できないとしておられる。

私の浅智から判断しても、自力でも他力でもないという「中道」である。
つまり、南無妙法蓮華経の教主である御本仏の慈悲は深くして救済の仏力法力も高いが、衆生も自ら唱えない限りは功徳が無いわけであるため、自力であって自力でなく、他力であって他力でない。
「慈悲」の概念自体が自利利他であると同時に、慈悲を受け取る側も受け取る心構えがなければ功徳を授からず、ただ慈悲を与えようとする者だけが功徳を積むのみとなる。
「広宣流布(ここでは妙法蓮華経薬王品の語)」といって日本を始めとした全世界へと大聖人の法門・妙法が必ず普く弘められるという教義も、「仏語は実にして虚しからず」や「委細に三世を知るを聖人と云う」と言われるように、「大地を的として矢を射れば必ず当たる」ことと同じく、必ず当たるとされている(諸法実相抄)。
これも本仏や妙法の仏力法力によって、諸天善神が国に災難(大聖人在世では大蒙古・モンゴル帝国からの侵攻・元寇)を起こし、そのために凡夫が目覚めて妙法を信受するとされているが、その単なる他力のみで広宣流布するのではなく、やはり凡夫たちもまた布教活動(某宗でいう折伏など)に邁進してこそ実現するという、自力も他力も不二の立場である「中道」そのものではないか。
よって、妙法に背き、誹謗までする者は地獄にも堕ちる・・・それは真宗の親鸞上人も同様の趣旨を語っている(正像末和讃)ため、見ようには真宗の念仏も自力・他力の絶対的に片方であると言えなくなる(他力本願も所詮はスローガンみたいなものだし)。

続いて、自力VS他力(または中道)ではなく、易行VS難行(または中道)という比較で考える。
題目や念仏の理想を端的に書けば、「題目は一心に信じて唱えると無量の功徳いっぱい即身成仏」であり、「念仏は一向に信じて唱えると現世の利益いっぱい極楽往生」である。
こう概観すれば、どちらも易行であることを歌っているが、反面、法華経に「難解難入・難解之法」とあったり、阿弥陀経にも「難信之法」とあるわけで、一応、そういった面から、特に法華経の真理は「不須復説」といった態度が、方便品で取られる。
しかし、その迹門である方便品ではそうされるが、本門においては「五十展転(随喜功徳品)」といい、法華経の真理を伝えて弘めることが奨励されている。
その功徳は、分別功徳品において「法華経の真理を弘める功徳は六波羅蜜の智慧波羅蜜以外の5つ全てを修行した功徳に等しい」とされ、随喜功徳品において「『人々を物質的・経済的に豊かにするばかりか小乗の説法で阿羅漢果を与えた大施主』の功徳は法華経の真理を五十番目に伝えられて喜んだ人の功徳の百千万億分の一くらい少ない」とされるほど甚大であった。
その、分別功徳品など所説の法華経=円教の功徳は、円教より古い教えである「偏教」の中で最も易行である阿弥陀仏の念仏よりも比較にならないくらい功徳が多いと、あの浄土真宗などで高祖として崇められる恵心僧都源信さんが往生要集・巻下で語っている(守護国家論を披見)。
よって、法華経の題目・唱題とは、念仏よりも易行であって功徳も大きいが、しかし逆縁の人(唱題する側と唱題を誹謗する側の双方)も多く、今生の中では難行とも言えるため、中道としておく。



その「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に南無・帰依する)」とは、経典の妙法蓮華経においても「妙法蓮華経という真実の教え(諸法実相・二乗作仏・女人や悪人の成仏・久遠実成など)を弘めれば功徳が六波羅蜜(菩薩の基本的な6種の修行)よりも広大である」と説かれるのみで単語自体は載らず、また、ほかの漢訳経典のどこにも載っていない。
これでは、根拠のない教えであると人々が邪見を起こし、信じてくれない。
「南無妙法蓮華経」の教義的な根拠は、「文底秘沈(開目抄: 文の底にしづめたり)」である。
つまり、妙法蓮華経などの経典には明文化されないだけで、教えは厳然と存していると大聖人は説かれている。
真言や陀羅尼や呪文を唱えて外道たるヒンドゥー教まがいの護摩を焚く密教に関しても、在世の釈尊が説かなかった「秘密の教え」であるから、文献学的にも教義的にも一見、仏教らしからぬ修行ばかりであり、胡散臭さプンプンだが、こういった教義的な根拠は類似しているとも感じる。

文底秘沈である南無妙法蓮華経は、大聖人が出世される以前の正師である「天台大師」も法華三昧懺儀の中で「南無十方佛(中略)南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩・・・」と三宝や法華経の会座の衆生の中に題目を挙げており、この記述から天台大師自身は弘められずとも唱題の修行をしていたと、大聖人門下の間に伝わる。
そもそも、こういった記述が有ろうと無かろうと、大聖人は久遠実成釈迦牟尼仏および諸仏・諸菩薩・諸師(大乗仏教の馬鳴・龍樹・天親菩薩から天台・妙楽・伝教大師まで)がみな「南無妙法蓮華経」を唱えていた、と教示されている。
彼らが具体的に「南無妙法蓮華経」について述べられなかった理由は、まさに「正像末の三時」の立場で「末法」の時に弘むべき「南無妙法蓮華経」を、彼ら歴世の仏・菩薩・師は末法以前であるから述べず説かずにおいたとされる。

いわゆる「五重相対」とは、教義の優劣の基準であるのみならず、娑婆の仏である釈尊の説法・その十大弟子などの弘教が小乗の仏教(内外相対)であり、次の時代の馬鳴・龍樹・天親などの弘教が権大乗の仏教(大小相対)であり、次の時代の天台・妙楽・伝教などが法華経の一乗を奉じて一年三千を明かした実大乗の仏教(権実相対)などの「教相」にも通じている(報恩抄など参照)。
「文底秘沈」や「末法(後五百歳)に弘める」といった教義的な根拠を示されても、合理思考が強い方々には牽強付会であるように思われよう。
その場合は、真言密教・チベット密教もまた、教義的な正当性や遺伝の正統性が完全に崩れていることを考えたほうがよい。
大聖人自身も、大日如来を出世の由来などが伝わらない有名無実の仏とみなしている。
大日如来という法身仏が金剛法界宮と言う場所で秘密の教えを説法して金剛薩埵に授けたとか、龍猛という名の龍樹菩薩とされる人物が金剛薩埵が鉄塔に隠した秘密の教えを見つけ出したとか、空海さんが唐で正当な密教「純密」を受けて日本で大日如来の姿を現したとか、額面通りに取れば奇怪な話ばかり(最澄さんを相手に法論した徳一さんも空海さんに論難している)であり、禅宗の相伝説と同種であろう。
とりあえず、ここでは「文底秘沈」の教理である一念三千や南無妙法蓮華経が、密教の相伝や禅宗の相伝などに似ている感じがするという側面を示した。



禅宗といえば、特に道元さんを源流とした日本の曹洞宗で「只管打座」といい、無念無想といい、心身脱落といい、豁然大悟といい、単なる凡夫が座禅している状態でそのまま精神が「禅定」に入っているとみなし、それが仏の境地である、というかなり飛躍した成仏観が説かれている。
実際には、自分の思考を殺す無念無想などは虚無主義的である上に、その「エセ禅定」が実現できる人もそういないものである。
そもそも大乗の大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文を拡大解釈して人々が最初から仏であるといった教説もあるようだが、それらは全て邪義か、あるいは何らかの含蓄を持つ方便とも取れようが、邪義とみなせば私の浅慮かもしれないし、含蓄があると考えても思い込みに過ぎてしまう。
こういった教説を鵜呑みにしてしまったとき、「煩悩即菩提」のように、誤解が長じて仏教不要・修行不要として堕落しかねない。
日本の曹洞宗でなくとも禅宗全般が、日蓮大聖人から数々の側面より「謂己均仏」の増上慢であると非難されている(2016年6月20日記事の脚注1)。
※「一切衆生悉有仏性」について過去記事で私は、字面通りの意味がそのまま現実を表しているのではなく、方便のようなものや大乗仏教の極致をスローガンにしたもので、実際には天台教学でいう六即のように、仏教を知り、学び、修行をせねば仏性が無いに等しいと語った。

その大聖人の法門の門下においても「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只だ我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事)」という御文を最大の根拠として自分が既に仏であるとか、御本尊や御本仏と同格であるとか、あるいは実際の御本尊を拝まなくてもよい、といった「己心本尊説」が生まれている。
場合により、「本覚思想」とも表現されるか。
この御文については、額面通りに捉えていけないことが明確である。

まず、己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と、その己心が不二である。
凡夫(特に末法の衆生)の観心は御本尊なくして成り立たないとされ、色相・外相としての御本尊ありきで、胸中・己心の御本尊が生じるものと捉えるべきか。
あるいは十界互具の理の事実存在や、己心の本来の清浄なもの・・・つまり「アマラ識(九識)」と言われるものを、その象徴たる御本尊の拝見と観心とによって覚るといえよう。
「胸中の肉団におはしますなり」に続く「是を九識心王真如の都とは申すなり」という一文を鑑みても、こう考えるほかない。
このあたりはまだ領解が浅いので、今は何とも言えないが、少なくとも御本尊不要であるとか、無神論的で自己神格化を誘導することなどがあってはならないと考える。
凡夫も仏の境涯になれるが、それは「因分」と「果分(究竟果分)」の区別があって不二だけではなく、而二の意義も立てられ、完全に御本仏と凡夫が同格であることは意味しない。
少なくとも、凡夫は御本尊ありきの観心・成仏がある、そういった理解が望ましい。
大聖人が御本尊を顕し、門下に広く授与なさったという御事跡から推して知るべし。



大聖人御図顕の御本尊は有り難く頂戴・受持する。
己心の仏界(十界互具だから九界までも?)を色相において顕した"もの(準体助詞)"であり、単なる形だけの"モノ・物(物体の名詞)"ではない。
色相において顕すことで己心の仏界(ないし九界?)を観ぜられるわけであり、外相と己心という「物質と精神」のような対立概念も「不二」である「中道」がここにも看取できる。
端的には「色心不二」や「物心一如」であるが、やはり御本尊を単なる形だけの"モノ・物"と思ってはならない。
ただ、中道の原義に基づくと「中道=仮名=空」であるし、物(色相)にせよ心(己心)にせよ執着してはならない・・・それは中論の所説に基づきすぎた原理主義的教義であり、単純に広義の「中道」、今までの「自力・他力」や「易行・難行」といった二元対立に対する「中道」という定義でよい。
また、日蓮大聖人の法門において信心を持つならば、そういった四法印・空の「第一義諦・勝義諦・真諦」に執着しても齟齬があってだね・・・。
この信心においては、広大無辺の功徳が具わる「唯一無二」、「絶対」、「末法万年から未来の果てまで不滅の大宝」として信ずべきであろう。

この信心は、仏教の「空」に背く外道義と見られるのであろうか?
あるいは「空」の理解とは別に、功徳を積む修行として両立させてよいか?
また、大聖人の法門において重要な法華経寿量品、そこに説かれる「常住」とは、常見であろうか?方便ではあるまい。どのような含蓄があるか?
諸賢の御教示を乞うばかりである。

※2016年11月~翌1月投稿の新しい見解→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html



外道といえば、日蓮大聖人と直接関係のない話に変わるが、身延派の日蓮宗には、大荒行という冬期の行事(毎年11月1日から100日間)があり、同宗の大本山・中山法華経寺にて行われる。
主に若い僧侶の通過儀礼であるが、志のある者はまた何度も挑もうとするらしい。
それで、特に若い僧侶・「初行」と呼ばれる初参加の者から、しばしば死者が発生している。
様々な意見や疑惑はあるが、この記事で取り上げるべきものがある。

歴史的に不仲である日蓮某宗は、この大荒行について「釈尊が禁止された外道・バラモンの酷烈な修行と同じであって大聖人と関係もなく、謗法呵責もしない癖にこんな修行を取る本末転倒」と非難し、「極楽寺良寛(忍性・後述)の如き尊敬を集めたがるパフォーマンス」と断じ、加えて「『いのちに合掌』という綺麗なスローガンと微塵も符合しない自語相違」とも嘲笑していた。
反論の形ではないが、日蓮宗の僧侶としては、釈尊が禁止された酷烈な修行に似る大荒行について「僧侶たる者、釈尊の6年間の苦行のようにこういった心身の苦悩を経験していかねばならない」と主張しているようである。
私自身は日蓮某宗側の主張に同感である上、娑婆で成道する前の釈尊が経験されたとしても、後の仏教徒が進んで取り入れる必要は無いように思う。
しかし、この際、取り入れたい者がどういう思惑であれ、仮にも彼ら修行者の菩提が養われるならば、自由に取り入れて構わないとも思っている。



さて、大聖人は多くの大難を耐え忍ばれ、ある時は、冬が極寒となる佐渡島に流されて現地のあばら家に3年もお過ごしになるなど、頭陀の行者でもある。
大聖人ご自身は「法華経の行者」であって頭陀に関しては触れることは無かったが、私は個人的にこの御振舞も敬うべきと思っている。
そういった頭陀の御振舞は、大聖人が自称される「法華経の行者」の所以である、大難を受けて法華経を身読・色読したという根拠にも通じている。

大聖人の法門は「末法無戒」ともよく言われ、事実、身延の山林に入られてからの大聖人は、信徒からの御供養のお酒なども口にされ、いわゆる不飲酒戒をお守りの様子ではなかった。
大聖人ご自身は御書の中で「日蓮は無戒の比丘なり」、「日蓮は(中略)持戒破戒にも闕て無戒の僧」とする記述があるが、「今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず」とする記述もあり、場合によって立場の示し方が変わっている。
それはそうとして、教義において考えれば、身延派の日蓮宗も、富士派の日蓮正宗も、分派した勢力や教団も、五戒から具足戒(二百五十戒)まで守ろうという教義はほぼ無い(個人レベルは別の話・具足戒なら四分律を持ったとされる深草元政さんなど)。

実際、日蓮大聖人の法門において戒律を持っても、伝教大師所説と伝承される末法燈明記には「設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。(御書では語句が異なる訓読文を四信五品抄で引用)」と書かれ、これが支持されている。
端的に言うと、末法の世(日本仏教では西暦1052年に当たる永承7年以降)では多くの戒律が時代遅れで、多くの僧俗にとって到底維持できず、その末法の世において戒律を保つ人がいれば、それは街の中に虎や原始人が現れることと同じくらい奇怪である、とされる。
伝教大師(とされる別人説のある筆者)の「此誰可信=誰がこれを信じられようか」という記述については当たらず、日蓮大聖人の時代にも「忍性(極楽寺良観)」という僧侶が橋の建設や難病患者救済などの慈善事業を行ったり、その「具足戒」を持って人々から崇拝されたとされ、この忍性さんを日蓮大聖人は偽善者として「律国賊」の根拠にもした。
他の御書には「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し」や「伝教大師の市の虎の事」と示される。

しかし、同じく伝教大師が定めた「大乗の戒=円頓戒」では、先の飲酒に関連して言うと、自分が飲むことは当然禁止の上に、他人に飲酒を勧めたり強引に飲ませても同罪とする。
大乗仏教の慈悲・自利利他の精神においては、「勧善懲悪」が表れており、この戒相を考えると、まさしくその教理が反映されていよう。
この場合は「勧善懲悪」を通り越して「悪を勧めても同様に懲罰がある」と言い換えられる。
この円頓戒の原典は梵網経であり、厳密な名称は「十重四十八軽戒」とされる。
その梵網経では、美称として「金剛宝戒」ともされる。
なお、比叡山出身であって法華経を重んじた日本曹洞宗の開祖である道元さんは、この円頓戒を「仏祖正伝菩薩戒」と称賛して教義に取り入れた様子である(今の禅戒一如とのたまう曹洞宗僧侶がいかに守っているかは不明だが)。

ところで、日蓮大聖人が説示した唯一守るべき戒も「金剛宝器戒」と名付けられ、その中身は「ただ南無妙法蓮華経の題目を唱え続ける」というものであり、「金剛宝器(ダイヤモンド製で宝飾がきらびやかな器)」とあるだけに「金剛不壊(ダイヤモンドのように堅固で壊すことはできない)」の戒体であるという(教行証御書)。
同名でありながら、戒の中身・戒相や、戒体はかなり異なっている。
ともあれ、飲酒をされた説が確定している日蓮大聖人であるが、やはりこの末法において小乗の戒律が有益でないとの教理を信ぜしめるため、身延入山以降は信徒から頂いたお酒を嫌わずにお飲みになったと考えてよい。
こういった事跡も説法の体現である。
大難を数多く耐え忍ばれた日蓮大聖人というお方が、お酒を嗜み愛するなど考えられないため、やはり慈悲の説法と見るべきである。

※「慈悲」は、戒律を持つ思想の師匠からすると逆の形で現れる。昔は何らかの病気の時に飲酒で治療することも多く、僧侶もそういった場合に飲酒することは許された。しかし、そういった思想の師匠の場合、自身が病気にかかったときに飲酒をすると、病気でもない弟子が仮病などで好き勝手に飲酒するかもしれないという懸念から病気の時でも飲酒しないでいる。弟子や後世の弟子がそうなるくらいならば、自分が飲酒せずに死ぬべきであり、己の不飲酒戒も破らないから己の後生のためになる、と。

とはいえ、私自身の修養としては、お酒を飲むことが成人後もありえないと断言しておく。
閑居求道者たる私が身を挺してお酒を買い求めることは考えられようか。
第一に虚弱体質であり、酒類は心身とも壊す毒であると"体感"している。
多くの未成年者は、多少の飲酒経験があろうという前提で、私の飲酒経験も素直に示した。





最後に、似るべくして似たが、関連性は無いか、たまたま似た程度の例も挙げる。

末法思想関連
煩悩具足にして非僧非俗の親鸞さん
末法無戒思想(五戒など小乗の戒は瓦器"ガキ")
イエス死後に久しくして現れる偽預言者・アンチクライスト
末法に蔓延る邪宗・仏法の中に外道教義(我"アートマン"に類する概念など)が混ざる(古くはインドの犢子部など・今は日本の民間信仰)

教理がキリスト教みたいだ、主張がイスラム教みたいだ("みたい"と特別に書くわけだからどの宗派よりも相対的に類似性が高いという意味)、という他の例示は省く。
そもそも、そういった一神教は、日本の宗派と無関係(学説によっては大乗経典がキリスト教の影響を受けたというものもあるが確証もないし一説に過ぎない)であるから、戯論のようなものであり、論外であろう。
キリスト教やイスラム教について類似点を並べることをここではしない。



起草日 20160725夕

2016年7月20日水曜日

現行憲法の改正に対する仏教徒の然るべき立場・見解

さて、仏教徒は盲目的に平和を唱えていればよかろうか?
戦争は確かによくないとしても、現況の改憲・護憲論争について飛躍した主張は多い。
無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。

大前提は、改憲を行えば絶対に安全が保障できるとか、護憲を維持すれば絶対に平和が維持できる、などという結果を望んではならない。
改憲も護憲も、共に功罪はあるが、それは2016年6月23日(現地時間)に実施されたイギリスの国民投票(Brexit投票)の趣旨で、イギリスのEUからの離脱・残留の双方に功罪を包含している事実と同じである。
その功罪の具有を理解し、己が後悔しない判断が第一である。
中道を理解し、この前提を踏襲すべきである。

まず私は、既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しない。
しかし、したい勢力が大勢ならば、好きに改憲をすればよい。
民主主義国家・法治国家ならば当然であろう。
今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば、改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。
改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は、民主主義の現代文明下で起こらないと信じる。

「護憲」の語については多義的である。
「立憲主義」は都合よく用いられる。
護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。
今時に立憲主義を標榜する者は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。



現行憲法9条の原義である、後の自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。
例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。

また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。
皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の、一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。
こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意・ここでの他力とは"平和を愛する諸国民"ではなく"米軍"のことか)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。
現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。
日本の仏教宗派では、浄土真宗・浄土宗系のほか、禅宗系とりわけ曹洞宗は現行憲法の護憲論者が多く、教団規模の取り組みにすら見えてならない。
もっとも、「団体・法人の目的を超えた活動」という非難を恐れて大胆には動かないであろうが(これを怖じずに憲法9条を守ろうと運動する日本山妙法寺という団体もある)。

仏教において戦争・平和とは、欲望などの三毒が生み出す忌まわしい地獄・修羅の業の結果である上、その三毒に塗れたまま命を落とせば死後も地獄などの悪道に堕ちてしまう。
かといって、無理に抑制しようとするものでもない。
結局、当事者の過去遠々劫に於いて積み重ねた悪業の因縁によって結果的に発生する。
巻き込まれる者も同様であり、「自業自得」とは本来、こういった広い見地より言う。
6月20日の記事で紹介した釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)も、最初こそ釈尊は当事者間の衝突を食い止めようと動かれたが、3度目以降に彼らの悪業の因縁を知り、不可避の闘争であると識って不本意ながらもそこで行動を終えられた("仏の顔も三度まで"という諺の原意)。
悪業・宿業の根深さとその忌まわしさは、十大弟子の一人にして阿羅漢果を得た目連尊者が婆羅門に打擲せられて亡くなった故事(尊者自身が過去世の業を覚って死を覚悟した)にも見られるが、妙法である日蓮大聖人の法門は、悪しき宿命をも転換して現世安穏・後生善処の利益がある。
無論、南無妙法蓮華経の信心を守り抜いて他宗信者の武士に処刑された熱原三烈士の死に様は、目連尊者にも似るが、これらは「転重軽受」による罪障消滅であり、無始以来の罪業を現世の一瞬で"軽く受けた"といわれる(死に際しても泰然としておられた心の現世安穏)。
話を戻して戦争・平和についていえば、立正安国論で諸経を引かれて「他国侵逼」から国を護る手段を訴えておられる。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法の理想は空理空論である。
坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。
武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。
その「今」とは、西洋的合理主義が巷間に蔓延って定着し、仏教にも外道の邪教にも理解がなく、現代的合理主義の個人主義と啓蒙思想の相乗効果で宗教を一緒くたに卑下して世俗的・皮相的な思考しかできない現代人(世俗教シャカイ派信者)ばかりの「末法悪世」ではないか!
宗教家であれば、憲法の議論よりもこの事態を甚だ悲しまねばならない。



平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。
率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。
先述の釈尊御在世の故事(6月20日中の記事釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。
虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。
世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は発言する勇気があっても発言した内容の実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。

時宜に随って変化する世俗の条文や法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
事実の真否を問わず、古くから日本人の立法観・政治観はこのように「諸行無常」を弁えていよう。
日本国憲法については昭和天皇の勅語(昭和21年)にも、「國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたのである。」と、あくまでも当時における「國家再建の基礎」を前提としていたし、当時は実際にアメリカなどの占領下であって軍事衝突など考えられなかった(ソ連は終戦直後に千島列島などを不法に侵略したが)。
時局に対して柔軟にあるべき政治ならば、必要性を訴える声に応じて前向きに議論すべきである。



修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。
よほどの聖人や上根上機の人でもないと、俄かには煩悩を断ちがたい。
また、人間(健常者)は誰しも悩みを抱えながら生きている。
多くの悩みをいきなり排除して奔放に生きることなどできないし、他に悩みの速やかな解決の手段としては自殺くらいしかない。
しかし、「死の絶対性」に任せるだけの虚無主義ではいけない。
そこで仏教では、死後の輪廻を説き、また現世における解決法をも説くから、「死ねば終わり」の虚無主義を一蹴している。
人間として生存する以上、どのように悩みを解決して幸せを得てゆくか、慎重に考える必要がある。

国家もまた然り。
しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。
日蓮大聖人の「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず (乃至) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(学会御書 1,192~1,193p)」と仰せになった御書の大意は、兵法が優れていても兵法を活かせる運や根本的な精神が無ければ役に立たないことを意味している。
つまり、兵法(国家で言うと軍隊)による危機の回避を認めておられる。
「なにの兵法」とされる実質的能力も、「法華経の兵法」という精神やそれによる福運と共に必要であるそう(ある種の中道や和を説いている)。
お言葉を賜った四条金吾殿は、絶体絶命の諸余怨敵の攻撃を回避すべく、「兵法」を行使したわけであるが、同じく日本国も怨敵の攻撃を防ぐために軍備は必要である(怨敵の如き侵略戦争などしない)。
※大聖人の御文の如くんば、軍備を強化しても放棄しても、改憲も護憲も最終的には国内の乱れ・他国の攻撃を受けて窮地に陥ってしまうか、やはり正法なくして国家の安泰は成り難い。

軍備とは忌々しいもので、核兵器などはその典型例である。
諸刃の剣の如く、自国にもリスクが大きく、保有国がアメリカから北朝鮮までこぞって将来的な核廃絶を主張していても、核軍縮は進まず、核開発を継続するなど、保有国間の疑心暗鬼が強い。
このように、核兵器ですら手放しがたく、現在はなお疑心暗鬼が強まっている。
娑婆に完璧な清浄は有り得ない。
過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。



改めて中道の意義に念を押すと、憲法論争の元凶は無明の邪見「常見・断見」に尽きる。
「常見・断見」とは、人間の生死(死生観)という哲学的・宗教的テーマに限らず敷衍できよう。
極端に現行憲法を「不磨の大典」として守りたがる人は「常見」であり、一方で帝国憲法の復活を訴える人も「常見」であり、自主憲法を作り直そうという徹底的な改革を目指す人は「断見」である。
この「常見(有への執着)」も「断見(無への執着)」も極端な見解であり、「中道(非有非無)」の仏教においては何ら推奨しない。
ただ、改憲の必要があると意見が高まれば、その一点を議論すればよい。
強ちに改憲をせずともよい状況では、差し置けばよい。

自民党に陰謀論多しといえども、現行憲法を既成事実として受け入れ、改憲に前向きである点は、もっとも「中道」、安倍さんのいう「中庸」の旨に近い存在と、私は思っている。
更に言うと、「与党の中の野党」を自称する公明党は、宗教政党だけあって政策も改憲議論も穏当な立場に見え、良くも悪くも中道に見える(支持母体の教団一般会員側と政権与党での立場のバランスが微妙を極める)。
背後の教団も含めた歴史的経緯(投票事件・言論ナントカ・主張の変節・各種陰謀など)についてはここで論じない。

色々と論じてしまえば、自民党がアメリカの言いなりであるから各種政策を成立させてきたとか、過激な護憲派や民共野合野党が中朝の手先であるから与党に文句をごねてばかりで、中朝など実際に戦争を起こしかねず今も国際法を蹂躙したり近隣国家と衝突している現実的脅威には何も抗議をしない、などの陰謀論に走ってしまうから、それらの邪推は封じ込める。
ここまでにそういった方面を触れないでおいた理由は、疑惑による悪心を起こさぬためである。
実相に詳らかでない物事を推し量って仮に信じても、盛んに広めないほうがよい。
万事に顛倒を起こしかねない(6月20日の記事・脚注3に同意)。

政治的な最善をここであえて言及すると、そういった陰謀論・陰謀説を含めて胸襟を開いた議論がされ、護憲派も改憲派も明確な認識を相互に示すことであろう。
とはいえ、今後ともそんな公平公正の議論などされようもないこと、欺瞞に満ちた政治家や政治団体を見ている人は嫌というほど御存知であろう。
現状、相互に邪推をかけて譲らないわけだから、今までが仏教の「中道」に適っていないばかりか、日本の「和(譲り合いや話し合いの意義を重んじている)」の思想にすら遠い。

聖徳太子の十七条憲法に「十七に曰はく 、夫れ事・獨り斷む可からず。必ず衆と與に宜しく論ふべし。少きことは是れ輕し。 必ずしも衆とす可からず。唯だ大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故に衆と與に相辯ふるときは、辭・則ち理を得。」と。
この一条の意義を熟考して拝察し、心せねばならない。
※この訓読文は、複数の検索結果から独自に組み直した。理論を概説すれば、全て和語で読めるようにし(例えば"論う"ならぬ"論ず"は漢語サ変動詞だから非推奨)、"是"・"唯"などは送り仮名を振り、原文にある漢字は出来る限り残した。準体助詞"とき"や再読文字の場合の"べし"はひらがなでよい。





起草日: 2016年7月8日・・・同日に前の政治記事を原稿とした動画を投稿したり、同記事に脚注を設けて2つの注釈を加えた。

追伸: 2016年7月13日19時、今上の天皇陛下が、生前、特に数年以内に退位せられる意向を示しておられるとの御報を耳に入れた。
この日、参院選で当選した無所属議員1人と別の民主系無所属議員も自民党に入党せんと発表し、自民党が参議院で27年ぶりの単独過半数になんなんとする政局の変化を見た矢先である。
時局に複雑さを感じる私だが、向こう数年間は陛下がコロンと崩御せられることはなく思う。
陛下の御宸襟を探るようではあるが、この際に書いてみる。

お年を召されながらに、陰陽、様々な公務の折にも、深いお考えを胸中に秘めておられ、時に随ってこれを周知せしめんと思し召されていたのであろう。
やはり偶然もあろうか(そもそもNHKの独自報道が第一報であって以前より皇室で内々に同意もあった様子)と思うが、陛下の御耳におかれては政局や世情を聞し召しておられようし、生前のうちの退位を御決意せられた経緯は、こういった心境があろうと邪推を致す。
日本国憲法に関連する議論の進行の注視や最終的な裁定、今なお止まない男系護持のための皇室典範の改正議論の動向もあって今は早すぎず遅すぎず、と判断して妥当であるから、こういった政局や世情を観ぜられた影響を拝察する。
現行の皇室典範(異称: 占領典範・日本敗戦後に作られたため)には、この「生前退位」を認める規定もないため、改正の必要性が言われ、これを契機に様々な改正が議論されようか。

無論、皇位の在り方は陛下の御意思こそが第一であり、それ自体を民衆や政治家は論ぜず、ただ戦後に制定された現行の皇室典範の改正の是非を論ずればよかろう。
例えば、現行の皇室典範では皇室の方(皇族)の婚姻に関して内閣総理大臣を議長とする「皇室会議」のメンバーが結婚の是非を決議する必要があり、皇室の尊厳を政治に関連するものとして民主主義の枠に押し込めた、尊卑逆転の制度が縛りつけている。
ただ、皇室の方の意思に対して皇室会議の構成員が著しく反発することも有り得なかろうし、そもそも皇室の方は、民が失望しない判断に自然となるお徳をお持ちであられる。
煩雑な皇室会議の合議も、皇室への障害とはならないように思う。
事実の真否や、実際の行く末はともかく、こういった私の見解も仏教の思想が大いに出ているので、再度、理解を深めてほしい。
そのために、恐れ多くも愚見を忌憚なく綴っている。


2016年7月10日日曜日

真の健康法の弁証 ~ 既成の健康知識に飽きた現代人へ

まず欲望があるとし、その欲望が満足されれば、これから起こる欲望を肯定する心理が生じる。
それが欲望を起こし続けてやまなくなるか、その極致でようやく満足が得られても、満足の心境や生活状況を持続できない場合が多い。
好例は現代文明の「スポーツ・飽食・便利な生活」を享受できる富裕層である。
仮に欲求満足を死ぬまで持続しようにも、不覚の急所を補えていない(非常時を想定していない)と、稀な幸運の者しか叶わないし、ましてや万人・大衆が実現できるという普遍性が無いし、ごく一部の人間は虚栄に用いる(民主主義・上流階級の理想は人類平等であろうに)。
奔放に欲望が起き続ける健康は「真の健康」と到底言えない。

「生老病死」の四苦は誰にでも必ずあるから、これを心の奥底より打ち克とうとしなければ、安楽が崩されようとする時に大なる苦しみ(自覚できずとも)を受けるため、真の健康に遠い。
「真」とは絶対性である(後述)ので、心身ともなる健康が崩れない境地は「真の健康」と呼べる。
「真の健康」には特別な道具も食事も費用もいらず、道理が分かれば多くの人が今の生活のままに実現できる(一定の自由がある前提だが)。
さて、真の健康とはいかなるものであり、どのように実現されるか、しばし開陳する。



真の健康法は己が内にあり、どうであろうか?
世の人々を見るに、どういう食事法であるとか、何を食べるとか、どう調理するとよい(焼き加減)など、「即物的観念論」にとらわれている。
また、テレビや雑誌などの通販に、こういうサプリメントだとか栄養補助食品で「何キロ痩せた」、それらや化粧品などで「綺麗になった・見た目年齢何歳若返った」と、実証的な宣伝がされているが、これは人によって「胡散臭い」と思うかもしれない。
私はそれらの方法論や製品に関する疑義を、ここでは述べないでおく。

そして、何よりも「昔の日本人は健康的な食生活を・・・」などという評価は、むしろ昔の日本人の心に背いていよう。
食生活は時代背景による食料のあり方と、精神性による結果的なものであり、それを現代人がありがたって真似する様はお笑い種である。
何を食べるとか、どう行おうとかと、形だけを真似しても、派手なメイクや美容整形で繕う欺瞞的な人々と大きな差はない。
みな、現代的な思想に毒されていて大事なものを見失ってしまった姿である。

我田引水となろうが、伝教大師最澄さまの素敵な言葉を引用する。
「法華経を贊(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す (法華秀句)」*1と。
これは、法相宗・三論宗という宗派の高僧たちが、法華経というお経の注釈書を作って法華経を讃えたが、それら宗派の本心は唯識論などを尊び、「法華の一乗」の思想に背いているから、「彼らが法華経を讃えることはかえって法華経の心を殺す」、そう最澄さまは説かれている。
今の日本人の一部は、平安貴族が豪遊していた(高等遊民?)とか、官僚が高収入だとか、ナンタラ造りの屋敷が壮麗だとか、そんな夢想ばかりに耽っているが、これは「昔の日本スゲー!カッケー!」と讃えているようでも、かえって昔の日本人にご迷惑ではないか。
子孫末裔である我らが、時に先人を悪しく讃えるが、先人は虚栄を誇りたくてそんな生活をしたとは限らない。

健康法の話に戻すが、要はそういった心も知らずして徒らに妄りに、昔の日本人は何を食べて健康的だった、理想的な食生活を取っていたとかと科学的実証をした上で多大な評価をするが、どこまでも先人の心には遠ざかっている。
真の健康法は食事療法・運動療法などではないため、真の健康も得られないことであろう。
健康に関する俗悪な諸々の書籍など手に取るに値しない。
「食事と運動のバランス」が健康の肝要である通説には一理あるが、それだけでは不十分である。

特に、ダイエットなどは、自分の心を律していれば自ずと痩せるものである。
これは単純な精神論にあらず*2。
そもそも、「自律」ができていれば過度な状態に陥らないはずであろう(特異体質など例外を除く)。
仏教で、少しポピュラーな言葉に「少欲知足(欲を少なくする・足るを知る)」がある。
この言葉自体、「健康法」とは何ら関係はないし、仏様はそんな現世の延命のつもりで説法をしなかったろうが、実際にこの精神性が「良薬」と思う。
世のことわざにいう「良薬(は)口に苦し」の「良薬」とは、「物体としての薬が良品ならば苦い」という矮小な見解で捉えてはならない。
一億総精神病患者であると自覚し、仏教という最上の良薬を須らく取って服すべし。

※精神云々も西洋の概念で近代の訳語だが、便宜上使った。精神医療の業界はしばしば「薬漬け」の問題が取り沙汰されている点など、薬全般の普遍的問題の顕著な例が判然としている。



真・俗の二義あり*3。
真は絶対性、俗は相対性に約す。
真と俗、これを現代語で具体的に示すと、精神と物質(肉体)、心と形(物)ともいう。
だがまあ、凡夫(全人類)の精神や心そのものを以て「絶対的真実・真理」と言わない。
人の心とは、別の外形的事象に流されるからである。
いずれにせよ、心の動き(判断)から行動が発生し、物事の状態が決まってゆくことも人の世の常である。
私が披瀝するところの「真の健康法」では、このうちの「俗」と称する科学的な健康知識も多少取り入れ、真・俗も不可分の立場を取る。
仏教の僧侶も「俗の道理を踏まえねば真の道理を得ることはない。真の道理を得ずして涅槃(当記事でいう真の健康に置き換えてよい)を得ることはない」と説いた(脚注*3にも少し引用)。

故に私は、「悪い食べ物を食べても問題がない」と極端な結論を言うつもりはない。
物心一如の上から真っ当な論理を述べるにあたり、今の日本人は「物・心」のうち、後者が著しく欠けている問題を提起する。
健康的な食事や生活を求めることは構わないが、その物質面に先立つ精神性を得ることが急務でなかろうか。
それだけでも自然と食事や生活などの全てが適度に整って健かになろうから、栄養学的知識・摂る食品の良し悪しや効能などは、その後に考えればよい。



むしろ、ややもすれば今の日本人はくだらない精神論(綺麗ごと)を垂れ流すわけだから、私の所説が精神論という領域に押し込まれることは、相対的(綺麗ごとに対する比較)ながらあり得ない。
最も普遍的で世界中の誰もが行える、いな、本来の日本人の能力であったものが、100年以内に失われ、今や日本人は夢にも思わない。
私の言う真の健康法とは、「健康法」と称するまでもなく、実に本来の日本人の生活に具有されていた。
ただし、それを忘却して久しい現代では便宜上、真の健康法と呼ぶに値する。

「真の健康」は、人間の性質として具している(性具"しょうぐ")。
「真の健康法」は、これを自覚して呼び覚まして維持することである、と言い分ける。
真の健康は、必ずしも「平均寿命より長生き(長寿)」とか「無病」などという結果を指さない。
本来の身体的機能が精神によって再起し、心身ともに「人間らしさ」を可能な限りに取り戻すのみで、それ以上の健康体(不自然な手段による)を望めば、すでに真の健康ではない。
しかし、精神面の健康を得たことで肉体面の健康も同時に自然と得られる人は、全員とまで言わずとも確実に増えるであろう。
世間の健康食品などの宣伝では、使用者(愛用者)の声だとか、○○健康法を実践してそちらの面の健康を得たという人の話などを載せるが、私はわざわざ他人の実例(セーシンが優れている人)などを示さない。



仏教には「八万四千の法門」という言葉がある通り、多くの教えや修行法がある("八万四千"は数の多さを表す比喩で文字通りの数を意味しない)。
健康法に関しても「○○ダイエット」だけで凄まじいほど喧しく聞かれ、虚実・ピンキリ、様々な方法論などが飛び交う。
テレビやネットやチラシや雑誌の通販にもまた、虚実・ピンキリ、様々な製品(健康食品や運動器具など)が夥しくあり、その効能を鵜呑みにして信じる消費者もいれば、消費者庁の改善命令ほか、行政や司法の介入で制限が入る例もある。

種々の通販は、世にいう「新興宗教の勧誘」などと何か異なるであろうか?
信じることで宣伝される効能以上の結果を出す(プラシーボ効果?)者もいるであろうし、「何だこれ全然効果ねーじゃん!」と難癖を付ける者もいるわけだが、結局のところもっともらしい実証を顕揚すれども、宗教の神秘性を過ぎない。
それらの製品や方法論の信者にせよ謗者(批判者)にせよ、特段、私から侮蔑はしないが、詮ずる所はインチキ宗教と同類である。

製品という物体にお金をどれだけ出せるかと言えば、私は最初からその健康的御利益に期待して出費などしない。
先述したよほどの「悪い食べ物("悪い"の認識も人によるが)」でない限り、食えれば何でも良かろう。
逆に外形的な手法や物質にこだわると、体がそれに慣れて効果が薄まったりする。
しかも、体の本来の身体的な機能の低下のために常にそれを取り込まないと、心身の維持が困難となることは誰でも知っていよう。
依存症の負のサイクルなど、今どきの子供は学校・教育機関で教わる。

この原理を逆手に取れば、身体の免疫機能の原理となる。
微量のアレルゲンを経口摂取することで、アレルギー物質への耐性がつく可能性もある。
効果の鈍化の原理(マイナス系統)と免疫機能の原理(プラス系統)は人間の身体の善悪二面性=表裏一体*4であり、進化の賜物である。

薬物中毒はもちろん、多くの薬の常用、カフェインやアルコールも同様であり、広げればすべての食品や含有成分にも微弱ながら、その性質が備わる(摂食量が適正を外れて多ければ満腹感が緩んでいくことは好例)。
俗世間で言われるように、貧しい人(貧困な国民)が過酷な環境でも丈夫で心身とも元気だったり(ただし寿命が短い)、反対に衣食住が調って雑菌・ウイルス・アレルゲンに弱くなったり、心身が緩むとか、時間や金銭に余裕があるうちは慢心して怠けやすくなるとか、こういった方向にも敷衍できる。
与えられるままだと自ら要求・生産・維持するという能力を失う道理と同じ法則は、どこの世界や物事にも敷衍できる。
だから、単なる物質(何の成分・栄養素が何ミリグラム配合されているなどの製品の能書きも)に拘泥するだけでも迷信(科学的民間信仰)じみているのに、効能があればあるほど心身ともに麻痺してしまう悪因となるから、ゆめゆめ注意してほしい。
依存するにしても、例えば重症の入院患者の点滴だとか、打ち上げロケットの燃料タンクみたく、一時の補助(方便)として利用しながら、いつかは切り離すべきである*5。



まるでこう書けば、西洋的啓蒙思想にも通じているようである。
啓蒙思想風に言えば、「栄養素」などの数値や、最近(ここに加筆する2016年5月現在)の世間で不正が取り沙汰されている自動車(日産の傘下に入る三菱自動車)の「燃費」の数値など、こういった数値は経験的知識とならないから、一般人が気にしてもさほど有益でなかろう。
これらの数値は科学的にもっともらしく実証されているように見えるが、それでは一介の利用者や消費者がどう実感できようか?実利的価値がどこにあろうか?
信じるだけで気分が軽くならなるばそれでも良かろうが、過度に気にしては全く愚の骨頂である。
やはりこう見れば、現代日本人は万物に神秘的な価値を求めなくなっても、実在しそうで実利的価値がありそうな物事を無節操に過信する点で、宗教的な盲信が強い。

燃費の数値の不正といった偽装問題の有無を問わず、多くの実証的数値は過信すべき対象でないと知るべし。
栄養素の成分表だとかは、「健康管理」がよほど必要な患者以外、細かい数値を精査しても、一般人の肉体的健康に資するものではないと諦念を持つべし。
だからこそ、精神的な浄化に立脚した「真の健康法」によって心身ともに健全となろう。
健康に関する世俗の知識の多くは執着の元であり、ひとまず離れてみる必要がある。
ただし、その知識を目安にもせずにいろ・骨組みごと取り払え、という意味ではない。
そんな外形的な要素を信じてばかりの現代人は、一度自己に具わる「可能性」を振り返られたい。
己の可能性に気付かなければ、仏教でいう「一切衆生悉有仏性」も空言となってしまう。

一切衆生悉有仏性、すなわち「人間(ひろげて山川草木の万物)は誰でも仏に成れる」という教理は、「一往」の教理として釈尊がお説きになったのであり、「再往」の事実上は、これを聞き知って目覚めなければ、仏性は有って無きが如し、となる。
これを天台教学の「六即」で言い直せば、成仏できる可能性を持つ一切衆生は単なる「理即」、その教えを聞き知った衆生は「名字即」であり、実際の成仏まではまだ4つの段階がある。
PCに例えれば、PCに電源を入れていない状態が「理即」で、電源が入った段階は「名字即」、次いで起動作業中の段階や、パスワード入力してサインインした段階、何らかのソフトを開いた段階、すべき作業を処理した段階などがある(適切な譬えになっていないようで非力を嘆く)。
電子機器に電源を入れなければ用をなさないわけで、仏性も、ただ持っているだけで悟りを開くことは無いし、その教理だけを聞いて「アリガタヤーアリガタヤー」と感嘆してお終いではない。

自己の可能性を説く教理を知ることをきっかけとして自覚・維持することが、己の功徳となって真の健康に繋がる。
これは「戒・定・慧」の三学に通じるが、「自覚・維持」と言う場合は「定・戒・慧」という順序となる。
三学または六波羅蜜でいえば、「真の健康の性具」の自覚は禅定のようであり、維持は持戒・精進と言う。
そうして自然と、心身の健康の増進に繋がることは智慧の獲得という。
こういった精神性の向上が真の健康に向けた土壌を育むこととなり、そこで初めて生活全般も可能な限り改善され、ゆくゆくは長寿だとか無病息災といった結果も得られよう、と言える。
繰り返すが、その健康的御利益は真の健康の道の外であり、直ちに求むべきものでない。

斯く言う私は日々、精神的には希望を淡く持ち、肉体的には問題(便秘など)の緩やかな改善傾向にあるが、同時に日々の生活の中で所作(行住坐臥の四威儀)や言動や思考に注意を払ってこそ、心身とも良い状態が維持できている。
在家の修行者なかんずく閑居求道者は「自室即道場・生活即修行」と肝に銘じよ。
やたらと良質の食材を使って調理法に凝った料理や、必死な形相で街路を走らずとも、素朴な食事と最低限の注意を常に保った生活をしていれば、それで食事と運動のバランスは満たされる。
神秘的な御利益があるわけでもないが、一喜一憂に溺れることもない。
そんな私を上回り、穏やかな海面や湖面の在り様に、ただ心を和ませる境地が、真の健康であろう。

世間に溢れる健康情報に飽き飽きとして来た人は、いち早く真の健康を志向すべきである。
私の所説が気にくわないと思ったらば、いくらでも健康食品や健康器具に散財浪費し、運動やスポーツや方法論の実践に汲々としておればよい。
ただ私は、前代未聞の健康の境地を説示するものである。





私が真の健康に関するイメージを追究するに至った一例を示そう。
水を飲めば、期待通りに水分補給が叶おうか?
または便秘の改善に繋がろうか?
誰もが、そう聞かれれば肯定するであろうが、私は過度な水分補給が逆効果を起こしているように捉えており、「何事もバランスだ!」と主張する気はないが、やはり水分は不必要に貪ってはならないし、多くの食品も、効果を期待して多く摂ることは、かえって問題となろう。
断食や食糧不足において、水を食品の代わりに摂取するにも、分を弁え、量を知った方がよい(足らない場合は糖分や塩分を適量加える、加える動作の過程で飲食を行う実感を持つことで少量ながらに満足感がある)。
どの医薬品やサプリメントにも「用法・用量を守る」旨が注意書きされており、水についても同じように注意せねばならない。

外形的な物質に理性から依存を始めると、体もその物質の摂取にばかり機能を依存してしまうから、本来の身体能力(自然治癒力)も損なう。
そのために、過度な水分補給では、かえって喉を枯らし(物理的に一時のみ潤う程度であって液体に糖分が含まれていれば酸に変わって気持ち悪くなる)、肌を乾かし(特にただの水やぬるま湯では期待するほど潤わない)、排尿される一方で便秘の改善はされない。
それは個人差があり、あくまでも私の実感としての話だが、真の健康においては物質への執着や依存の心が、身体機能までも依存させ、自立的な健康維持が困難となると弁えねばならない。
必要最低限の分量できっかけを与えるのみで、後は身体の作用に任せる方法が最善である。

外形的な物質や手段に頼る傾向は、現代人の日常生活に多く見られる。
歯磨き・風呂・髪洗い・体洗いといった習慣も、毎日きっちりと行う必要はない。
現代人に染み付いた「やらなきゃ不健康・不衛生・キモイ」といった強迫観念であろう。
「自浄作用」なる語彙があるよう、実際に身体は自浄作用の機能(免疫など)を備えているが、現代人のような習慣が無いか薄い昔の人々は、平民も貴族もみな野獣同然の不潔さであろうか?
昔の人々の寿命の長さはさておき、決してそんな風に蔑視しないでほしく思う。

私は歯磨きであれば、「風呂(シャワシャン)」の最中にのみ行い、普段の食事では、口に残る糖分や、それを餌にして細菌が生んだ酸を流そうと、少量の水で口を濯いで飲むのみである。
「風呂(シャワシャン)」という言い方の通り、湯船に水を張ることは2010・11年から一度も行わずにいる。
・・・ああ、そうか、もう最低でも5年経つのか、と振り返ってしまう。

ともかく、それらの衛生観念・強迫観念といった執着からも一度は離れることが「真の健康」への入門となるから、これを志向する者は人目だとかも気にせずにいてほしい。
とはいえ、歯磨きをしないと口臭が酷い、体を洗わないと体臭が酷いから人間関係に問題が出るなど、思い煩う面が強い場合には早急な移行が難しかろう。
「真の健康」は、元から当人の精神や肉体や環境の適性が求められるようで、人を選ぶらしいし、当然、魅力を感じないならばそれでも良い。
プロテインの栄養剤を大量に摂取してムキムキのボディビルダーなどもまた、健康か否かを別とし、一つの生き方として咎める気はない。



「自分が変われば世界も変わる」とだけ言えば実に安直で疎漏であり、反発を招きやすく、そう言うだけの一般人ら*6は不親切の極みである(私の場合は寧ろその不親切さが成長に繋がる)。
いきなり答えだけを言って理解させたがる一般人らは、浅薄であり、思考放棄であり、急進的思想に毒されており、丸暗記の学習を是とした現代的教育の傀儡である。
この意義を詳細に説明すれば、自分が変われば他に自分と影響のある物事は、その分、比例して変わり、また、自分から他の自分と関係の深い物事の扱いも変わる、といった具合に相互の影響を示す。
「自・他」や、「内・外」といった対立概念の一体性*4など、仏教や東洋の哲学思想を学べば、その真意を理解しやすくなる。
「真の健康」においては、自分の内なる意識や精神状態が変わることで、他人・外界の、自分に対するあり方や、その逆に、自分から他人・外界への扱うあり方も変わると言える。
だから、外形的な要素は後から自然と変わる、私はそう言い続けるが、こういった意義も学ぶ中で理解しやすくなる。



2015年10月29日に書いたとする文章は、当記事の意味を大いに含んでいる。
その趣旨は「可能性の自覚をし、自然と自律がなされ、自然と願望の成就に近づく」と。以下に一部分を引用をする。

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
(中略)
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレと策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。



なお、仏教に通じた健康法とは、誤っても断食や一日一食(不非時食戒を持つ)という形式的な方法論そのものを指さない。
ましてや正しい修行者は、健康御利益のために断食や一日一食を行うことを決してしない。
単なる健康法としての実践は、沙門覺應さん風に言えば「勘違い仏教」であろう。
それらの実践で誰もが、個々人の理想とする「健康」を得られる必然性もなければ、仏教上の意義を理解して行い、結果としてたまたま「健康」を得られる場合がある程度のことで、「肉体的健康」自体を断食や一日一食の目的としない。
かえって世間でも、一部の専門家らは「体に悪い」と訴える(一学説)わけだから、断食などに健康御利益を期待する者は外道でしかない。
無論、仏教上の意義を踏まえた修行であるか、一種の精神修養のつもりで行う分には、何ら咎められない。
いわゆる「入定」などで灰身滅智の解脱(無余涅槃)を完成する上で断食を行うことも否定はしない(それで解脱ができるかを私は論じ得ない)。

だが、一時的な禁欲とは、本当に「一時的に欲を禁じる」程度であってはならない。
その点で信仰の中から形式的に断食月間(ラマダン)を設けるイスラム教は愚昧であり、こう見れば一時的な禁欲がいかに無意味な行為であるか実感できるし、仏教ではそういった無意味な修行などは「戒禁取」といって奨励しない。
また、食事に限らず、男を磨くなどの下心で一時的に自慰行為を禁じる「オナ禁」も同様である。
真の健康を志向する場合も仏教の解脱を求める場合も、人間にとっていきなり相対的に落差の大きい行為に及ぶより、漸次目的に進む行為こそが奨励され、摂食方法であれば「少欲知足」を旨とすべし。
少欲知足は、相対的で時宜に適う基準が良いから、太っていても痩せていても、細かい基準は気にせず、その人の腹八分目など、今現在よりも少ない量を心掛けておくべきであるが、人によっては一人で適正な判断ができない者もいよう。
ただ、真の健康の観点から言えば、自戒する努力の心が大事であり、これを弁えれば自ずと少欲知足が実現される。
仏教の妙なる教えで、苦も楽に変わると思えば、軽度の空腹にも沸き立つ喜びが感じられよう。
仮に少し食べすぎた時も、反省して改善する努力の改心を起こせばよいのである。

一方、極端に太っている人間が過激なダイエットを行うなどは、何も大事なことを学んでいないためにそう太り、何も知らないためにそう痩せようとする愚昧な発想でしかなく、大概はリバウンド現象にすら陥る。
理論上、過激なダイエットを行って痩身を得て維持できるものの、それはその才能や環境がある場合に限り(断食などにしても才能や環境が不足しては)、実際上、多くの者には不向きである。
いきなり理想を実現しようとする急進的思想は、かかる愚物の所業と判じて唾棄すべし。

あらゆる例からして真の健康法は、元々心身ともに一定の健康が求められるようであった。
仏道もまた同じことであり、現世での修行が身体的・精神的に無理ならば、その求道心・菩提心だけは念じて来世に再度人間へ転生してもらうしかない。
せめてもの慈悲として、私は仏法の妙音を多くの者に聞かしめ、人々に聴聞の功徳を得せしめんと思っている。





起草日は2016年4月29日以降であり、同年5月10日までに加筆が続いた。
それを一区切りとし、その内容を大幅に補う記述(未整理状態の場合は以下から)を2016年5月14日から開始した。
そんな中、5月23~6月1日まで何も加筆しない時間も挟んだ。
以後も加筆が断続的に続いた。

漢語の名称は「則真健康法」?「真義健康法」?「仏法健康法」?
パーマリンクの文字列は http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/the-way-of-true-health-is-within-us.html (新約聖書ルカ17:21が元ネタ)としてあるが、記事タイトルを直訳すれば"Proving the Way of True Health"となる。
思えば、最近の過去記事もパーマリンクが"idol-and-idea.html"や"musica-et-religio.html"など個性的である(どちらも文法が"○○と××"で一緒だが○○や××自体に面白味がある)。




脚注
本文の脈絡が崩れたり雑多になる問題を回避すべく、脚注の形式で記述を整理するわけだが、ここで読者に「脚注に押し込まれた情報は些末なんだ」と認識されては悩ましい。
確かに、相対的な本末関係はあるかもしれないが、であるが故に「本末一如」で、本・末のどちらも知ってもらいたい必要な情報である。

*1・・・この法華秀句における最澄さまの言葉はその後「故湛然記云」と続く。つまり、最澄さまの天台宗の源流である中国天台宗の高僧である妙楽大師"湛然"さまの「法華文句"記"」の「唯識滅種死其心」を引いて前言を補っている。法相宗・三論宗という宗派の高僧とは誰か、といえば法相宗の高僧は慈恩大師窺基さんで、三論宗の高僧は嘉祥大師吉蔵さんである。特に後者の吉蔵さんは「法華義疏」など、多くの論・疏を撰述した。これらの高僧らは法華経の注釈書や論文などを多く撰述しながら、実際には唯識・三論・華厳などの教学を第一義としていたようであるが、私は原典を通読する能力がないため、判断は難しい。そんな高僧らが法華経の注釈書や論文などを多く撰述した背景も不明であるが、天台大師智顗さまが彼ら高僧と交流があったり、先の「唯識滅種死其心」のように智顗さまの弟子・湛然さまが実際に彼ら高僧を批判していた様子である。

*2・・・仏教における心の立場は「願作心師・不師於心(願って心の師と作るとも、心を師とせざれ)」であり、自分の心は大事ながらも、自分の心に全て気を許してはならないと説かれる。だから、「自分の心を律する」大事は、単純な精神論ではない。徒らに心ばかりを重んじてはいけない。この言葉は曇無讖訳の大般涅槃經(大乗)に初出し、私の尊敬する日蓮大聖人も御書で引用され、一部禅宗の僧侶、とある現代の真言宗持戒僧Kさん(近年まで"婆塞"を名乗っていたから実は在家で寺院HP管理をしているだけの可能性も)なども引用している。同じく日蓮大聖人や法華経を尊敬して信仰した宮沢賢治さんも趣旨を詩に歌い、茶道の人も放った言葉らしく、昔から日本人に親しまれてきた言葉である。また、大乗・小乗を問わず、心に染めておくべき釈尊の金言である。類義の経文として「爲心師・不師於心」が大乘理趣六波羅蜜多經に見られて御書にも引用されていた。余談だが、「自分の心を律する」ダイエットについては、仏教だと「パーリ語の相応部(経典の集まりの一つ)」や「雑阿含経」の中にパセーナディ王(波斯匿王)が行ったという話が載っている。世界初の体重減少ダイエット(the world’s first weight loss diet)とも言われる。

*3・・・大般若経では「勝義諦・世俗諦(玄奘訳)」の「二諦」とも呼称し、龍樹菩薩の中論では「世俗諦・第一義諦(先の勝義諦と同じ)」と偈に呼び、「第一義諦」は「不可説(言葉で表せない)」であり、「不得第一義 則不得涅槃(第一義諦を得ないと涅槃を得ることもない)」と説明される。逆に、仏教の解脱の一つである「涅槃」を得るには、真理を体得する必要があり、その真理の体得には、経典などの教説を学んで理解して覚えるだけでは足らないとも言える。それでも、一応は経典などを学ばねばならない。涅槃の証得に向け、「学ぶこと」に加えて「考えること・戒めること」などが、いずれも欠かせない実践(聞思修や戒定慧など)である。どれかを欠せば、不十分であるのみならず、誤解や慢心のために悪道へ堕ちかねない。「真の健康」においても、ただの精神論に終えず、実際の科学知識を多少折衷する必要もある。だから、逆に科学知識(俗説や迷信も混ざる)に偏重する現代人の問題も言える。バランス・中道の上から言えば、釈尊や御弟子も、肉体の不調や病気は「耆婆(ジーヴァカ)」というお医者さんに診てもらい、薬を服用したわけで、強ちに科学的見解や世俗の健康法を排除する思想ではない。過去記事にも、薬への依存を問題視しつつ、全面的に薬や医者を毛嫌いすれば「頑固な高齢者っぽい」と綴っている。要は、安易な薬・医者への頼り方は唯物論に寄り、反対に「自分は強い・心だけで病気を治す」という思想を貫いても唯心論に寄るなど、中道から離れる。異なる双方の良さを認めて取り入れれば、本来の日本人の「和」の心にも適う。

*4・・・例えば、科学技術で人類が急速に繁栄したり絶滅の危機に陥るなどというよう、問題解決の秘訣・要旨は、二面性の把握と表裏一体の悟りである。現代の上流階級は、そのような観点からも、環境問題や経済難といった現代の課題に臨んでいる。そもそも、人が問題を起こすことは、二面性のある物事の認識による。仏教では、それを因縁・縁起の法において詳説する。その因縁・縁起の法を、仏の教えとして聞いたり、修行する(常に念じて心を観察する)中で実感して「四苦」といった人間の問題を解決する。悟ったところで、肉体における生老病死は免れられない現実だが、そのような「苦」を感じる心と「現実とされる事象」が結びつくことは、因縁・縁起に基づくものである。修行が維持されること=精進によって堅実に因縁・縁起や「苦」が滅ぶ。苦が滅んだ人は価値判断も滅んでいるので「生老病死という事象は有ると認識できるが過去にも現在にも未来にも無いようなもの」となる。少し難しい話だが、「真の健康」に関して、このことも留意されたい。

*5・・・仏教の教義は、仏が「人々を苦しみから解き放たれるように(四諦)・偉大な智慧を得られるように(四仏知見)」という前提で説かれる「方便(便宜的手段)」である。仏教徒が聞く教義は方便であり、なされる修行も方便である。それは「川を渡るために筏(便宜的手段)は必要だが、渡り切ったらば陸路で持ち運ぶ必要はないばかりか、かえって重荷となる」というたとえ話で示される。ゆえに、何らかの教義を知っていたり、修行をなすだけでは、悟ったと言われない。そういった慢心を制御すべく、仏は筏のたとえ話が説かれたり、「教義を信じたり何らかの修行をするだけで人が浄化される(イコール人々が平和になると思われる)と主張するならば、主張する人はみんなすでに浄化されているのに言い争いばかりをしている(イコール平和になっていない、仏も彼らを救うために言い争いへの介入を辞さなかった)」と説かれた。これらは、初期仏教のお経(パーリ経蔵では中部22経、小部スッタニパータ4章9と12)にあり、漢訳された大智度論という先*3の龍樹菩薩が書いたという書物(うち一巻目)にも全てが紹介されている。

*6・・・近現代の日本人は、理性万能主義しかり(浅い人生観で神仏・信仰を否定するなど)と唯物論的であるのに、一方では「言葉はいらない」などの言語不要論・浅薄な唯心論にも陥っている。以心伝心、テレパシーでも使えようか?それで、「血眼になって長い論文を書く人間もそれを血眼になって読む人間も必死でキモイ」とか「シンプル言葉(片言隻句・片言隻語)ほど印象的で心に響く」などと放言する。シンプル錯誤・シンプル顛倒の低劣な言説である。確かに、下手な長文は煩雑だし、短い言葉で端的に力強く表された言葉は、そういった言霊というか、「心に響く」力があるのかもしれない。だが、長文などを全否定して闇雲にシンプルのみを肯定し、説明不足をも是とすることは顛倒である。現代で割と知性の優れている人物は長文を読まずに厭うことが無い。仏教での解脱も、教えをよく学ぶことは「"聞"思修」や「"戒"定慧」として必要な一要素に列され、不可欠である。この修練を欠かして大智慧を得られる者は、よほどの超人しかいないから須らく修むべしと説く。結局は極端に顛倒した主張や、浅識に起因する中途半端な思想しか持たない、知的怠慢と慢心の強い現代日本人は問題である。しかし、その無節操な自然性こそがまた日本人らしい。



2016年6月20日月曜日

「19歳・閑居求道者」的政治観 ~ 仏教徒はどう投票すべきか?

今月22日に公示される第24回参議院選挙では、私のようないわゆる未成年者も、18歳以上であれば投票の権利を有しているから、投票が行えるらしい。
無論、閑居求道者たる私は、投票所へ足を運ぶことが無かろう・・・。
加えて、為政者の思惑が「主権拡充(他の民主国家の水準に合わせる)」か「政治の改善(若者に政治の関心を持たせる)」どちらであるかは不明だが、政治家の愚昧さは小手先の制度改革があったところで変わることも無かろうため、私に投票の意欲は沸かない。
しかし、多くの未成年者や、元より有権者である人々が誰も当記事を熟読しないとしても、一応、私の政治観を披瀝した方が良く思っているため、少々、開陳しておく。

前置きを挟むが、誤解なく捉えていただきたい言葉は「世法即仏法*1」であり、逆に仏法も世法に還元できる「仏法即世法」は、一種の道理である。
第二次大戦後の世界(主体は国際連盟UN)が欺瞞的平和に向けて「人権尊重・民主主義・人道主義」を掲げてきたが、これは仏教の教義にも通じる「中道」や、生命の尊厳を平等に認めるよう、世界中の知的階級の総意が自然と仏教に似てくることから「世法即仏法」の実相が窺えよう。
実際、穏健で平和志向であるから、主に先進国同士の軍事衝突が起きず、70年を過ごしてきた。
無論、そんな「人権尊重・民主主義・人道主義」で「世界平和」となるには不十分である。
また、私のように仏教を学んでいれば、世間の問題や、科学的知識など、一見仏教とは無関係な方面に対しても、的確な判断や、比較的正しい見解ができる現象をもって「仏法即世法」の実相が窺えよう。

「閑居求道者」は、何事にも仏教の中道の思想や自然性・漸進主義といった思考を踏襲する。
「閑居求道者」の思想を無理やり異称で表現すれば「さすらいびと・自由人・冒険者」である。
そのような境地を、現代の議会制民主主義の文明に置き換えてみよう。



【強いて現状を変更せず・善悪を認めて執着せず】

仏教徒は政治について思い煩う必要はないし、いわゆる「無党派」を恥じずともよい。
基本的には、現体制を維持する穏健な立場で、与党(及び擁立の候補者)に投票する。
現体制のままでも、自覚があれば緩やかに状況を改善することは出来る(その理想は何であっても出来るが、程度によって困難な度合いも変わる)。
自分(及び全有権者)にとって問題と思える事態が起きれば、その時に対処すればよいし、そもそもそのような事態は、最初から起こらないものと思えばよい。
仮に問題が有って世間に発覚しない場合でも、単なる一般人が詮索せずともよい。
悪事があればいつかは公に露呈しよう(天網恢恢・疎にして漏らさず)。
広い心・無量の心をもってどの政党が与党であろうと、その善悪を認めよう(ここでいう善悪の定義は個々人の思い思いでよいが無理に定義すれば社会通念上のものを指す)。
時間と空間に渡って普遍であり、分けず隔てず。

どんな人間も政党も、完璧なものはないし、汚点はあるし、仮に今は汚点がない場合も(最初は無垢でも)いつかは汚点を作る(私的なところで既に悪事に手を回している者さえいる)。
与党の政党も野党の政党も、「完璧はない(永遠もない)」という絶対的道理には外れない。
大した善悪がないまま短命に終われば、最初から何も言えない。
正当も不正も、清浄も不浄も必ずあるわけだから、それを認める前提は必要である。
「この政党や思想では絶対にいけない」という安易な軽蔑や、「この政党や思想ならば絶対に正しい・政治や経済を改善してくれる」という過度な期待などは捨てた方がよい。
端的にいえば、潔癖思想(衛生観念)やセクト主義(派閥主義)は捨てた方がよい。

細かい長所や短所を、誇大に取り上げては悪癖となり、己の思考が歪んでしまう。
政治家は自党の宣揚のために自党の政策の長所や、与党ならば野党、野党ならば与党の短所や汚点や過誤を責めるが、それは政争と称する今の彼らの仕事の一環である。
政治家でない多くの民衆・一般人らは、殊更に支持・不支持の論拠を強調せずともよい。

無論、一般国民の間の政治議論も全くの無意味とは言わない。
インターネットでも様々な政治議論があり、ある種の「直接民主制」に通じているが、それは現代社会の一面でしかなく、ましてや仏教徒が政治の些細な問題を論っても空しい。
仏教徒は、誰彼を嫌わず、温かい目で万事、静観していればよく、よほどの事態でもない限りは心を動かさずにいるべきであろう。
例えば、因縁あってカピラ城の釈迦一族を滅ぼそうとしたコーサラ国の毘瑠璃王と軍勢に対し、釈尊が道中に座り込んで引き返す暗示をされたように泰然としつつ、3度の撤退をしてなおも毘瑠璃王の恨みが止まず、釈尊は両者の深い因縁を知ったときに彼らを強いて制止しなかったように「自然」へ随う(ちなみに両族とも釈尊の信者)。
この故事は四分律や増一阿含経など(コーサラ国王の名は琉璃王・流離王などと記載)に見る。

仏教を学んだはずが、「安倍は悪魔・アベ暴走」とかと口走る輩も多い。
そんなに安倍政権が憎く、危険と思うか?政治への不満に怒りを燃やすか?
安倍さんの10%への消費増税は、大規模な災害や金融危機などの不測の事態が起こらない限り、予定通り実行する意向を見せ、一見頑なに見えたが、熊本の大地震やG7の会合を経て再延期が発表されたよう、彼は時局に応じて腹を割る決断もできる(その良し悪しはともかく)。
政局は未だ火急の事態にあらず。



このように理解しながらも、思考放棄に陥らず、事大主義的な投票行為や、惰性の投票行為とはならないほどに思考を維持できる者は、この政治観を踏まえて投票すべきである。
どうしても、その政党の過去の汚点(所属する政治家の不祥事・可決された忌まわしい法案・外交での弱腰による失敗など)が拭いされないという潔癖思想の強い者は、好きに敵対政党を支持すればよい。

中道の境地を志す者には、よい言葉を残す。
私は仏教を信奉して禅宗は嫌うものの、禅宗などで尊ばれる「菜根譚」から紹介する。
「風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹、声を留めず (風來疎竹、風過而竹不留聲)」と。
また、中阿含経にいわく「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ。過去の事・已に滅したり、未來も復た未だ至らず (根本分別品・温泉林天經第四・跋地羅帝偈)」と。

このような無為自然・中道の境地を、今すぐでなくともよいので、学んで知らねばならない。
ゆっくりでよい、着実に堅実に、いつかは・・・、「漸進主義」である。
つまづいても虚心坦懐に反省し、努力のため立ち直ればよい(これまた難しかろうが)。

人間は正当も不正も、清浄も不浄も持ち、誤りは絶対ある反面、改善の可能性も有している。
政治家や政党であっても、過去に汚職や失敗などを重ねているが、それを隠さず、それでいて強く悔いず、素直に認めて反省と努力の改善ができるはずではないか。
もっとも、それが出来れば、の話である。

しかし、それが政治家や政党に出来ようと出来まいと過度に期待せず、また、最初から「無理に決まっている」と決めつけず、ほのかに信じてあげればよい。
こういった「甚深微妙・玄妙深絶」の境地において考えられる人々が、日本に2割くらいでもいるならば、残りは愚民のままでもよい。
賢愚の差別を認めて「和」を生み出す。
ご覧の「あなた」、そう、「あなた」がまともに思考を維持できる人間であれば、その2割の賢人となるべきである。



みんなが一様に、漸進主義や中道の思想から与党に投票しても、議会制民主主義として成立しづらくなる。
邪悪なる共産党・カルト公明党(と世間に言われる)、これらも強ちに排除する必要はない。
かといって盛んに支持する必要もない。
人間の禍福とは個々人の思い思いによるし、人々の中の幸福とも不幸ともいえる結果が訪れようと、もはや結果論であるから、強く原因を責めず、また強く幸福を望んでもならない。
先に引用した「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ」という中阿含経のフレーズはこの意(こころ)である、と再度説示する。

賢愚の共存は、いつか大いなる調和となって緩やかに改善に向かおうことをほのかに信じる。
そうするうちに、今まで方便として語った「民主主義」なども全て「用済み」となり、世界中に真如の法である仏法が普く流布されようことをほのかに願う。
閑居求道者の願う世界平和とは「天皇陛下の『和』による八紘一宇の政治、人類への仏教広宣流布・受持」に基づいていなくてはならない。

「乃往(そのかみ)の 大和(やまと)の心に 生きつれば 右と左の 隔ても消えつ ("ゲンダイのニホン"に対比して"いにしへのみずほ"とか"そのかみのやまと"と呼べば面白い)」
「イデオロギー上の真正中道・仏法と世法の融即イデオロギー」



ここまでは綺麗な話で続けられたが、ここからは少し細かい事例などに穿って書こうと思う。
当然、与党への投票や、自治体の首長を決める選挙の場合、与党が擁立する候補者ならみな支持すればよいわけではない。
こういった事例は、投票したければしっかりと吟味した方がよい。
それでも、よほど酷い政策や酷い思想が見られない限りは、支持の集まる候補者に投票してよいと考える。
その「酷い政策・酷い思想」の基準は、投票権を行使する者たちの判断に任す。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

政党の政策や方針についても、例えば憲法改正*2や外国人参政権など様々な議論がある。
これも、各自で良し悪しを吟味し、更にその政党による実現性の有無も推定して投票の判断を行えばよい。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

余談だが、最近、政治資金などの不正という、影の悪行が露呈した舛添都知事は、2014年の都知事選挙がある前から、不適任の印象を私は持っていた。
それが、猪瀬・前都知事の功績である2020年東京オリンピック関連に、様々な問題(ザハ案の新国立競技場撤回・アレ服装盗作・エンブレム盗作・ABCDエンブレム欺瞞選定・出来レース審査)を起こし、最後には自身の馬脚を露すという、稀に見る悲惨な東京都知事であった。
オリンピック競技会場の既存施設活用については良案だったかもしれないが(ザハ案切り捨ては別問題)、自分が豪奢でいるのに都政で倹約を求める(庶民派を気取る?)となれば、実に自己矛盾も甚だしく、認めづらい(舛添さんの政治資金問題の論点は"公私混同"だが)。
政治家は常に、遁走する手段を持って行使できる。
東京の大舞台を自ら汚し、汚職の発覚を問わず、五輪までには任期を終えて跡を濁し得る。

程度の低い話題になったが、ここでは、必ずしも与党やその候補者へ投票すれば適切であるとは言えない例を挙げて念を押したかった。
無論、個々の政党や政治家がどうなろうと、また、それらが何をしてきて政治や経済が少しばかり乱れたところで意に介する問題ではないし、私自身も容喙の意思はない。
今後の選挙などで、自分たちが投票できる候補者などがみな期待しづらい者たちであれば、否みな期待が出来ようと出来まいと、投票したければここまでの原理に倣って「強く軽蔑せず強く期待せず」投票すればよいし、そもそも意欲が沸かなければ、私のように投票しなくてもよい。

大事なことは「あれに投票して後悔した・投票に行かなくて後悔した」というように、己の判断に後悔が生じないことである。
投票を行うも行わないも、権利を行使するも放棄するも、相応の覚悟を持って判断できれば、現代に生きる在家の仏教徒として一番正しい選択であろう。



脚注 (2016年7月8日設置)
*1・・・原文は天台大師の摩訶止観の一節「若深識世法即是佛法(若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり・元は金光明経・原文未見)」であり、これを略した「世法即仏法」の形で広く用いられる。この直後には儒教の五行や五常と、仏教の五戒とを付会し、結論として、世法・外道の教え(世法薬・世間法藥)では一時的な救いしかできないと説く。やはり、後生善処は仏法に依るべきである。

禅宗系の在家信者(70歳以上)がインターネットで、この「世法即仏法」の著しい俗用をしていた。中世の日本にいた禅宗系の僧侶(半臨済・半曹洞?)の教説に倣っているようである。社会での労働が徳を積んだり、執着を断つにふさわしいとする。一理あるかもしれないが、実際にはそんな好青年や労働者など現代社会にいるであろうか?魔訶止観の原文の続きの所説に見る通り、そんな俗事一辺倒で仏道が成るはずはない。俗事一辺倒で徳を積む発想は、共産主義の「唯物教」であり、外道に過ぎる。この方は、天台大師のお言葉であることを隠し、その禅僧を専らに扱っていた。そもそも禅宗系は、戒律に背いて「作務」という農耕や労働を是認している(その作業着を作務衣といいこれも非法不如法で僧侶の衣服でない)。かかる「座禅教」は非仏教の外道に類す。中道の上では、世俗も仏道も完璧には切り離せないが、あの教説は、「正」の道である俗事に、「傍」の教えとして仏法が補助するという、本末転倒に陥っている。

日蓮大聖人が「仏法は体の如し、世間は影の如し。体曲れば影ななめなり(学会御書 992p)」と仰せのように、世法は後の話である。俗人は往々にして「煩悩即菩提」などの不二を表す仏語を俗悪に解釈し、己の三毒を肯定して仏道に背いてゆく。堕於悪道中・堕在泥梨の悪業を生む禽獣である。他の仏教教団でも「シャカイで証明」とか「シャカイがー」といったスタンスで「世法即仏法」の語を悪用する者は、所詮、社会での御利益を仏道に対して望んでいる不純な輩であろう。世法と仏法は通じ合う一面もあるが、完全なイコールではない。而二不二の義を知るべし。また日蓮大聖人は、かかる俗悪禅宗に対して「只だ不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり(学会御書 489p)」とも仰せられたのである。禅宗が外道の性質を持っている点も、別の見地から「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う(学会御書 152p)」とも仰せであり、これは「不立文字」の教義(およびナンタラ禅師の禅語だとかの語録に偏重している顛倒)を呵責している。禅宗は思い上がりの教義ばかりでまさに「謂己均仏」の増上慢・外道である。

*2・・・※後日別途記事投稿※ 無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。まず私は既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しないが、したい勢力が大勢ならば好きに改憲をすればよい。今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は民主主義の現代文明下で有り得ないと信じる。「護憲」の語については多義的である。「立憲主義」は都合よく用いられる。護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。今時の立憲主義は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。

現行憲法9条の原義である、自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法は空理空論である。武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。時宜に随って変化する世俗の法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。

本文中の釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。国家もまた、しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。娑婆に完璧な清浄は有り得ない。過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。

*3・・・インターネットでは様々な憶測が飛び交う。それらの例を、当記事では取らないでいた。詮索はよくない。本文の冒頭「為政者の思惑」にしても、例えば18・19歳という拡大された新有権者らは、インターネットの影響で右傾化があり(SEALDsとかいう茶番団体は虚勢)、その他は事大主義的で無知のため、けだし自民党(連立与党)に投票する、そう現政権が判断している可能性もあるといえる。しかし、そんな邪推を書くわけにはいかない。冒頭にはもっともらしく「民主主義の観点での主権拡充」か「主に若年層の政治への関心の向上」という点のみを取り上げた。

ここであえて話すと、例えば「陰謀論」はよく聞かれる。公明党と創価学会の歴史的経緯や、自民党の主要な閣僚議員が日本会議・神社本庁に所属しているという情報は客観的事実とし、中にはクリスチャン(キリスト教徒)だとかカトリック(キリスト教の一派)だとかフリーメイソン(ユダヤ系)だとかという単語との関連も挙げられている。また、集団的自衛権(安保法制・蔑称で戦争法案など)・秘密保護法・TPP・慰安婦合意などはアメリカの後ろ盾が囁かれる。その一方で、安倍首相を偏執の軍国主義者・ネオナチとも揶揄している人がいる。安倍首相一人に対してすら、特定集団の陰謀とかアメリカの使い魔とか偏執ネオナチとかと相容れない表現が当てられている。また、民主党(民進党)や共産党や社民党が中国共産党や朝鮮総連の言いなり・手先であるとはよく言われる。マスコミ(テレビ・新聞・雑誌)などは金に釣られてあっちこっちに流動していると罵られる。

みなピンキリがあり、ものによって客観的事実であるとしても、それらは基本的に排除して「中道」を考えてもらいたい。しかし、ある程度は加味して「中道」を考えてもらいたい。曖昧かと思われようが、日々に「中道」を思っていれば、理解できる日は遠くなかろう。政治家は畢竟すべて欺瞞的であり、敷衍すれば物事も全て「空」なるものと思う。しかし虚無主義や厭世思想にも陥らず、「諦らかに」物事を判断すべきである。素直な心こそが仏法の中道である。「非有非無」の判断は最も執着が無く、苦しまないながらに有益な思考である。心における無上の処世術であり、それが後生を度する功徳となるから、龍樹菩薩は中論で「若し俗諦に依らずんば第一義を得ず。第一義を得ずんば則ち涅槃をも得ず」と説かれた。



2016年6月13日月曜日

類聚(7) ~ 「詩歌」篇

*横野要文類聚 第七篇・前節*
和と申す意(こゝろ)、この國に具はれり。(開法身)
和の當體は(者)、代を歷(ふ)るところの天皇にして彼が統める國土なり。(開報身)
和の君・土、共にあるを以て、この國の古き歌をば和歌と號するなり。(開應身)
然るに當代、和に於いて心を失ひ、唯だ形ばかり殘りて和食・和服・和風なんど申すばかりあり。
※えっ、漢詩の説明は・・・



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「詩歌」である。
ここでは、形式のはっきりとした(=散文ではない)和歌から漢詩までを聚める。
和歌の形式とは、5・7・5の俳句、5・7・5・7・7の短歌、7・5・7・5・7・5・7・5の今様までが含まれる。
漢詩についても、1句を7文字とする詩や、仏教経典に擬した1句5文字の偈の2種がある。
当類聚においては、掲載要文のクオリティを鑑みて日付の降順で掲載する。






おもしろや あらおもしろや おもしろや 面おもしろや 面白き儂…2016/04/07
当記事注: 臨終において法悦を感じながら、自分の相貌が白くなっている状態に気づく。
この状態を涅槃の相とも成仏の相ともいう、仏法による辞世の句、歌。
人間としての一生に満足し、もう「おもしろ」以外には表現ができなくなった状態でもある。
「おもしろい」という一般的な形容詞と「面(おもて)が白い」という字面の意味を前半と後半で徐々に変えてゆく(発音も単に「おもしろや」ではなく「おも・しろや」という区切りを意識する)。

類聚記事の目的を外れた例は、第一篇の終盤など、すでにある。
上の歌が2016年4月7日に浮かび上がったことにより、同日に類聚7の記事の編聚を発願した。

あきらけく ざえすぐれたる ものなれど まれにあだなる しかもありなむ…2016/01/01

風に乗せらる 年の瀬に 悔いは除こる 行く年の 憂ひも消えて 巡るらむ 年の来たれる 大晦日…2015/12/31

人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし…2015/10/25

我が日々の 永かるべきは 黒髪が 筵を撫でて 色抜けるまで…2015/10/05 
当記事注: 12月中の2度においては"我が日々は 久しかるべし 黒髪の 筵を撫でて 色抜くるまで"とあるが、意味は同10月5日の日記メモに述べている通りで同様である。


さきたまの うらわのみよを たどるなら ちよやちよなる すめらぎにすぎ…2015/08/19


ゆめつ國 湯水の如く 消ゆる金 過ぎにし方に 夢また知んぬ…2015/06/08

暮(ゆうべ)には 夢(ゆべ)をみるとも 宜(むべ)ならず…2015/06/08


ハゲアリヌイマノワタシニクラブレバ、アナタハモノノカズニアラザリ…2015/04/09


つまごひの きじのすがたは しげけれど ふけにけるとき いづくにかおはす…2015/02/27

ヤンゴトナシヤチエノモノ カロンジテオシハカリケル オソレハバカレハジシラズ クチニナダシソカレガミナ…2015/02/05

浄土の園に咲きたるは 蓮華・優曇華・曼珠沙華 あな曼陀羅華咲きにけり はるばる西のエウトピア…2015/02/02

こーくぉでおーおたーがも~もとせめぇ~ と~おっくま~みえーしあ~だが~たき~ おぉめおぉめの~がしーてなーるもぉのかぁ~ く~びはーねせっしめぇ~たーてまっつれ~…2015/02/02


虚しかる 我が慈しみ 誰が為ぞ…2015/01/25

いたづらに 命は死なん いづちへと…2015/01/22

のぞみしは ながぬばたまの こいしかみ…2015/01/20

どしがたく かいしがたかる うきよにて もちたるゆめは あぶくのごとし…2015/01/20 (同日記事)

みのらずに からゆわかばは またもゆる つよきみさおを かかえのぶらむ…2015/01/16

すめらぎの よもにあまねし おほみいつ かたきしとねに ふせておもひぬ…2015/01/11

1. 神の力を 仰がたる 時こそまさに 神は笑め 尊き御名を 称えれば 無上の才を 授からん 2. アマデウス殉じ 喜ぶは 神の殺めを 受けし故 アマデウスの死を 弔わば 誓いの心 固まりき 3. 不退転なる 信鋼を 身命惜しまぬ 練鋼を 汝鋼道 本懐たれ 汝鋼道 本懐たれ…2014/12/31

ご威光ぞ ここに普く 輝けり (or輝ける)…2014/12/06

高師の名 普く渥美に 轟けり…2014/12/03
当記事注: 「高師の名」が、なぜ「普く渥美に轟」いていたかは、リンク先の記事の話題の当該記述付近の説明の通りであるが、2016年4月29日は「高師(たかし)」に相当する名前が倭名類聚抄に載っていることを知った。訓読みの漢字表記が「高蘆(たかし、高天原"たかまヶはら"のように"あ"の連続を省くか。後に高足)」で、漢字音写は「多加之(たかし)」である。同書では渥美郡に属す。意外と由緒がある名前であった。「高蘆」を冠する神社もある。当該記述の話題は「高師原」だが、「高蘆原・高芦原」と表記を変えると、付近の「芦原」の地名は「高師」から副次的に生じたものと考えてよいように思った。

召喚詠唱「五濁悪世より離れ、寂光の園を築き給うた主の御稜威ぞ、此處に普く輝きぬ!」 "Veni Creator Spiritus!!"…2014/11/30
当記事注: 日本語として5モーラや7モーラを基準に構成されるが、「五濁悪世」という漢語は2モーラ化して読んでみてもよい。ラテン語"Ve-ni Cre-a-tor Spi-ri-tus"は8音節であり、標準的な西洋古典詩のリズムを構成するが、この一節だけでは歌として不足があるかもしれない。意欲的な詩人は、是非とも日本語とラテン語を融合した詩を考案されたい。

辜の無き 愛子を疎み 飢ゑせしむ…2014/10/16

摘むほど 滴り落ちる 油かな…2014/10/09

須臾にして 欠けたる月を こひねがふ…2014/10/08

謗るまじ 譬へメタルに 飽きたとて 汝メタルに 背かば死なむ・・・2014/10/04





一點之禿在頭頂 (一点之禿在头顶)

熟瞻網有數議場、雜談・諍論・罵詈席。不分長短於彼中、在何処須恐思離。…2016/06/04

当記事注: 2016年5月17日の日記メモの擬古文の意味を七字四句の漢詩で詠んだ。一句に七字で四句詠むことは過去に一度もなかった。七字四句という、フルバージョンの漢詩(七言絶句というそう)を一度でも詠んでおきたかった。なお、件の日記メモにもある通り、インターネットの話題であるから、三文字目の「網」とはインターネット(簡体字: 网)を意味している。ところで、上の詩を読んで間もなく、漢詩は韻を踏まねばならないという認識を持った。近代以降はこの傾向があるらしい。上掲の詩も以下からの詩も、韻を踏むことは何ら考えなかったのでショックである。まあ、やりたいようにやろう。「近代」というからには、古い日本・中国の漢詩はさほど韻を踏んでいない。あと、仏教の偈も。また、「平仄」なるものまで気にすると、制約が凄まじい上に、平仄は1000年以上前の韻と明・清などの韻と現代の韻などで差があり、参考にすべき韻書も定かでない(佩文詩韻が推奨されるか?)。平仄にこだわる人以外は差し置いてよい。

勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近。(勇躍の足、自ずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し)…2016/03/31

一點之禿在頭頂 (上掲の"求道相"とはその"禿"の箇所を指す)…2016/03/25 (上掲の絵を描いた日と同時に考案)

若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)…2016/02/15

PC即是應身故、願無障礙於我道。(PCは即ち是れ應身の故に、願はくは我が道に於いて障礙無からんことを)…2016/02/11

髙德依機人 柔軟説方便 母両舌翻弄 是如魔惱亂…2015/12/22

豈謂妙髪驟燋燃 (豈、妙髪驟かに燋燃すと謂う)…2015/12/XX (推定時期、肉筆、"燋、ショウ"は環境依存文字)

雖昇天界即歓喜 而或人言非可悦 (天界に昇りて即ち歓喜すと雖も、而も或る人"悦ぶ可きに非ず"と言ふ)…2015/11/XX (推定時期、未完成未公開楽曲の印象フレーズ)

世濁悪強盛 著根本無明 於是如夜永 有人見月星 不得遊戯処 久受大苦悩 而識少真理 則入安穏道…2015/10/17

無因無策無禍根 (因無し策無し禍根無し)…2015/08/22 (日記メモ・過去記事に幾度と引用)

前無礙・傍若無人 (前に礙無く、傍らに人無きが若し)…2015/06/07


不爲實於無根草 我亦如是而自戒…2015/06/10 (この二句版自体は2015/12/19)

当記事注: 母親がどうしようもなく「残念な人」であることを示す際に詠んだ詩であるが、それは父親も同じように「残念な人」である。一応、親や先祖には日本に生まれ育ち命を繋いだ功労・恩恵に感謝をするものの、両親への尊敬など誰ができようか?その末裔であり、子たる私もまた「残念な人」であるに違いなく、夫婦も親子も不二の状態であるという東洋の思想から「我亦如是」と続ける。しかし、その東洋の思想の理解はそこに留まらず、愚物の親あってその子であるからこそ、自戒する心を持って努力しようと謳っている。これこそ、仏教徒の姿勢ではないか。他人がクズならば自分もクズである。その自覚があるからこそ、成仏や往生や涅槃など、いわゆる「解脱」という境地を目指す努力を仏教徒は行う。同じクズ=全人類=凡夫でも、自覚のあるクズは一歩進んでいる。



追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、和歌(数種類)・漢詩が読まれる。
漢詩の押韻などのこだわりは、「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に表れる。
六首版の萌え和讃では、語調の良さはもちろん、上代日本語ライクな二重母音省略による字余り回避を用いるというこだわりが見られる。



追記: 2017年11月16日
前節の"※"を受け、漢詩の説明を少し書いた(通俗語源説っぽく書いた)。
漢は是れ大人の義なり、梵語には摩訶"mahat"と爲し、又た毘訶"bṛhat"と爲す。
詩は是れ迦尾也"kāvya"と云はば、漢詩を名づけて摩訶迦毘也"Mahākāvya"と爲す。
梵語・天竺・印度偈は婆羅賀摩"Brahma"化して毘訶迦毘也"Bṛhākāvya (類推)"なるべし。

・・・、私は梵語もといサンスクリットの偈(8音節・4句)を2017年10月25日に1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」