2017年9月21日木曜日

梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」

「支度(したく)、忖度(そんたく)、度量(たくりょう・どりょう)」?
「思い量る?推し量る?計測する?計る?測る?」

「度」を「ド "do"」と読む人が一般的に多かろうが、この字音「ド(清音でト)」は本来「わたる・わたす(渡とほぼ同義)」という意味がそなわっており、仏教では「得度(とくど、わたるをえる)・済度(さいど、すくいわたす)・度脱(どだつ、わたりぬける)」などと用いる。
一方、「忖度(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は「タク"taku"」と読む。
「支度(したく shitaku)する」という表現は、行動の前の準備を意味するが、元々は行動前の計画・見積もりであって「計る・量る・図る(はかる)」意味に通じる。
現在に「度」は、「ド」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられている。
用例は「気温は何度(なんど)か?摂氏32度だ」、「度合いが大きい」という具合である。
当然、「何度・度合い」という表現は、本来「タク=はかる・はかり」の字音の意味合いである。

仏教で、数字に「度」が接する語句に「六度(ろくど)」というものがあるが、これは「六波羅蜜」の波羅蜜が"pāramitā (パーラミター)"という「(彼岸pāraに)わたる・わたす」という意味で「度」の訳を当てたものである(six-paramitasで六度という訳)。
やはり、仏教など伝統的な用例で「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味合いに尽きる。

一字で字音の種類が異なって意味も異なる漢字といえば「悪(オ"ʔo"・アク"ʔak")」や「易(イ"yi"・漢音エキ"yek"呉音ヤク"yak")」などがある(2015年9月7日記事・脚注2)。
「悪・易」の二字は、「度」のように入声音・韻尾-k (-ク・-キ)の有無の違いがある。

※「度」は中国語普通話でdoとduo(ともに拼音表記)という2種類の発音があるが、後者duoは「卓・托(タク tak)→卓"zhuo"、托"tuo"」という音の変化と同じで入声音-k発音の欠落による。その「度"duo"」における意味が「(物・心とも)はかり(中華サイト説明: 计算,推测:忖度。揣度。)」というものであり、前者doは現代日本語と同じ「度合い(中華サイト用例: 義1に尺度・義2に高度・義3に角度・義11に再度など)」とあり、説文解字では「法制也。徒"t音"・故"oまたはu音"・切」として「法制度の度・タク系入声音でない」ということを強調していた。「わたる・わたす」の意味が確認しづらいが、カッコ注釈の中華サイト説明では動詞「度過 (度过,越过)"pass"」として載っていた。「度過・過度」、上限を超すということは「数のはかり」に通じ、「渡る・わたる」ということにも通じるかと思うが、このままでは「ド(清音でト)発音=わたる・わたすの意」という説は萎縮してしまう。

「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能測仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √mā (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語らしい→"pramāṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「わたる・わたす」の「度(ド)」については梵本法華経に「度脱"vineṣyati (vi- +  √nī導く・)"」、「為度○○故"vinayārtha (vinaya教育・規律 + artha目的 = ○○を教え導くために…"」などが載る。この梵語"√nī"を用いることは、誰かが能動的に「(彼岸に・真理の世界に)わたる」ということではなく、釈尊の能動性が誰かを「(彼岸に・真理の世界に)わたす」ということとなる。「わたす」は他動詞であり、法華経の「度(ド)」には釈尊の威力(いりき)が籠められているようである。「度(ど)す」という訓読サ変動詞は、自動詞と他動詞とが曖昧だが、法華経での「度す」とは主に他動詞であり、如来"tathāgatha"が衆生"sattva"を「わたす(救う・済度する・救済する)"vineṣyati"」ということになろう。ちなみに自動詞「わたる(越える・通過する・克服するともいう)」は√tṝという語根の"tarati"があり、その使役形=「わたす」であれば"tārayati"やパーリ語"tāreti (tāresiはアオリスト?)"などがある。いわゆるアバターavatar・アヴァターラavatāra (ava- + tārati ti省きで名詞化)とは、化身と意訳するが「下に越すもの=降りて来るもの」ということである。下界に降りた者は神の化身ということで「ゴータマ・ブッダはヴィシュヌのアヴァターラ=化身だ」とヒンドゥー教徒が信じる。仏教でのアヴァターラは、釈尊が成道前に降ろした魔軍のことを指すであろう。

「度」の字には、このように2つの字音(ドorタク)によって異なる意味がある。
そのうち、後者「はかる・はかり」ということについては、漢語「度(動詞)」でも日本語「はかる」でも「心をはかる・物(数や大きさなど)をはかる」という細分化を問わないようである。
しかし、サンスクリット語だと明確に「物をはかる」ことは"mita मित  (ミタ)"と呼び、「心をはかる」ことは"pramāṇa प्र‍मान‍  (プラマーナ)"と呼んでいる(仮定)。
動詞語根は、前者√mitと後者√māである(記事の流れとして後に否定する仮説)。

※記事末尾に"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"との相違性について記した文章を載せる。また、「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所圖(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。



度・量・推・測・計 = 「はかる」・・・何を?


さて、記事の表題にあるよう、「はかる・はかり "mita" or "pramāna"」という意味を持つ漢字の数種について漢訳仏典を中心に考察しよう。
先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「量」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能測仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無量心」という語句も"apramāṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
心ではかれないことを"apramāna"といい、物をはかれないことを"amita"というようだが、「無量光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apramāṇâbha (第二禅の光音天に準ずる無量光天apramāṇābhaに用いる)"と分かれる。
√māと√mitの相違性は先述の通りであり、サンスクリット語の「(物か心を)はかる」という意味が別の単語同士であるが、似た意味合いで曖昧に捉えられている可能性もある。

なお、"pra- प्र-"という接頭辞は、先にカッコ注釈があるよう「前に・前方へ」という意味であり、英語の接頭辞"pre-"や源流ラテン語の接頭辞"prae-"もまた「before (時間的なものin time), in front (空間的なものin front)」という意味で同じである。
アーリア言語もとい印欧祖語"Proto-Indo-European, PIE"には、同様の接頭語が"per-"とある。
おお!"Proto-Indo-European"の"proto- (ギリシャ語πρωτο-もといπρός)"も、接頭辞"prefix"も、接頭辞pr-でみな意味が一緒のようではないか!
インド・アングロ・アーリア民族万歳!梵英一如!(ナ〇ス風の危険思想?)

上まで「量」について話したが、一点の補足をすると「量が多い・少ない」という時の「量」は「物・数のはかり」ということであり、「はかる」という概念の即物的なパターン(事物・形態)となる。
江戸時代以降の商業主義的な庶民文化の高まりによる俗化の影響が大きいと思われる(気温何度の度などは明治以後の西洋文化・訳語の影響か)。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校計(ぎょうけ)」という言葉がある。
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「計(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校計(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校計」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「計知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mit (mita)"や√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算の計といえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事で既に、「支度」や「孫子兵法における度量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
「計画」の「画(畫)」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵(繪)」の意味を持つ。
「計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「劃」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が作=サ・サクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「劃」もまた「計」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。


√mit と √mā の正体・・・誤解だった?


最後になるが、√mitの"mita"も、√māの"pramāna (pramāṇa)"も、頭の子音(韻頭)がMであり、実は同語源と考えるべきではないかと思う。
当記事よりも先に「十喩(大品般若経など所説)」に関する記事を起草したが、その十喩のうちに「化」というものがある。
「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。
心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(自然の事物に無い)も生まれる。
その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似する教説が長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経やパーリ長部の沙門果経にある)。
大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・宇宙原理ブラフマンでなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)が初禅の天であるように、仏教の神様たちの一部は四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。
いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。
有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。
おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!
接頭辞nir-は"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)であり、離れること(vi-と似る?)や外へ(pra-に似る?)を意味するの場合と、後の単語を否定形にする場合とがあるようで、"nir- + √mā"から成る単語は前者を適用して「作る」という意味を持つ。
√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。
それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。
不明確な調査と所見だが、一応、√mitと√māとが日本語の 「はかる、物をはかる・心をはかる」と同じような意味を持つ・似た用法がある言葉だと思ってよいことを付記する。

おっといけない、まだあるようだ。
英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√mitや√māと関連する語であろう。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経や大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
うおおおおおおおおお!!はかり!マー!ミタ!マートラ!マートゥラ!マーㇳラ(小書きト字)!
「○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。

ここまで文章を書いて気付いた・・・「√mitという動詞語根は存在しない」と。
辞書サイト類を調べて再確認した。
"mita"とは√māの過去分詞・形容詞であり、"amita"ならば阿字否定形で「はかることができない・はかりしれない・無量の・無限の」という形容詞となる。
「はかりしれない」という対象は、物・数・心などの区別は無かろう。
ちなみにパーリ語の"pāli: amata"はサンスクリット語でいう「アムリタ"amṛta"」、「不死の・死なない」を意味し、甘露という意味合いもある(私見だが甘露は後から転じて生じた語義)。
「不死」という文字通りの意味合いは英語の「イモータル"immortal"」に相当する。
ラテン語由来mortalやmurderは、サンスクリット語の"mṛta"と同語源(印欧祖語でmr̥tós)である。
なお、この√mṛから派生した"mṛta"も過去分詞や転じた形容詞である。

以上。ああ!阿阿!
-ita (-ṛta)は過去分詞および転じた形容詞・中性名詞だとして、-na (-ṇa)の格変化だかにつき、識者の意見を乞う。
おおっと!独逸瑜伽行者!ドイツのヨーガーチャリヤ!ヨーガ・グル!ヨーグルト!?
彼"Sukadev Bretz"氏ではなく"Oliver Hahn"氏の"Nomen Actionis"講義が簡素明解である。
-na (-ṇa)という接尾辞らしきものは、主に中性名詞を作るようである。

インド系言語のローマ字表記"IAST"に用いられるn系(鼻音)各字はどのような音素・音価か?
n = 一般的なナ行音で歯茎音のN (京都・ハーバード式 Harvard-Kyoto: n)
ṇ = そり舌音のN (Harvard-Kyoto: N、そり舌の子音の名称をインド音韻学でmūrdhan・頭に由来するcerebral・大脳とするが一般的な言語学ではretroflexと呼ぶ。-naと-ṇaは同じ言葉だが"r"もそり舌の子音として扱われるので-naが同器官化してṇaとなる。pramāṇaやbrāhmaṇaのように間にm唇音が介しても同器官化して-naが-ṇaとなる)
ñ = ニャ行音で硬口蓋音のN (Harvard-Kyoto: J)
ṅ = 鼻濁音ともいう軟口蓋音のN (Harvard-Kyoto: G、サンスクリット単語例はśṛṅgaなどkやgの軟口蓋破裂音の前にある。パーリ語では同じ条件の時に接頭辞saṃ-がsaṅ-に替わるなどして多く用いられる。skt: saṃghaとpl: saṅghaの違いがあるように)



起草日: 20170728

起草日の数日以内に「一語一慧(いちごいちえ)」なる集中記事投稿プラン(短くて1か月間、長くて1年間)を構想したこともあるが、当記事のようなボリュームで本家ブログに毎日投稿することは考えづらい。

本文に関連しているが、本文中に載せられないような話題に関する文章は以下である↓
話題『"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"とはどちらも「度(タク・ド)」?』
・・・おやおや、"pāramitā (パーラミター)"の後部"mitā (ミター)"とは、「度(タク)」に当てられそうな意味合いだが、この"mitā"はどういうわけか、「わたる・わたす」と一致しているようではないか。
サンスクリット語でも、漢語「度」の二音二義の如く、「はかる・はかり」と「わたる・わたす」が類似するように取られているか?
"pāramitā"とは、形態素の分析からして、語源説がいくらかあるようである。
①pārami-tā →parama- (形容詞) 「最高の」+tā (抽象名詞を作る接尾辞)で「完成」
②pāram-itā →pāram (中性名詞) 「彼岸に」+itā (動詞√i-「行く 」 の過去分詞ita の女性形)で「到彼岸(彼岸に到る)」。
①・②の、どちらが良い意味か?修行のための意味合いが成立しやすいか?
私は判断しがたいが、例えば般若心経の咒(真言)「ギャーテーもといガテー・ガテー・パーラガテー」にある「pāragate = 彼岸に行く・達する」の語句からして、後者の意味合い「彼岸に到る・わたる(六波羅蜜=六度というように漢字の度とも訳す)」が伝統的に支持される。
①・②のどちらをとっても、"pāramitā"の後部"mitā"に、"mita (はかる 記事執筆中: 過去分詞「はかった・はかられた」の形容詞や名詞化「はかったこと・者」)"という単語は関連しないと思われる。

なお、"pāra (彼岸・向こう岸)"については本文中にもある印欧祖語・語根接頭辞"per- (to front, to go overとも)"の諸語句と関連しており、"pramāna"の接頭辞pra-と同語源のように思う。
ギリシャ語プロトとか英語ファースト(first, フィルスト、ピルストphirst, pirst、ほらプロトそっくりじゃないか!p/f置換の発生、ともに両唇音)などもみな同語源のようであろう。
似た意味に"from"や"before, therfore, forward (for, fore)"などという英単語もあり、いずれも(ゲルマン祖語などを介して)印欧祖語接頭辞per-に同じ。
"pramāna"と「因明(仏教論理学)」で関連の深い"pratyakṣa (プラトヤクシャ・プラティヤクシャ・プラテャクシャ・現量と訳する場合は更にpramānaを付随する)"の"prat-"も、"prati प्रति"として同じ。

※波羅蜜の語源説は上述以外にもパーリ仏典などから考察してもよい。主にアビダンマッタサンガハや論蔵・アビダンマで十の波羅蜜が説かれていると記憶する。その大元は経蔵にあるかというと、小部・クッダカニカーヤ内の仏種姓経 (ブッダヴァンサ"Buddhavaṃsa")に見られる。十波羅蜜は"Dasa pāramī "である。paramatthapāramīという部分もあり、paramattha (= paramārtha 最高の真理・真諦・勝義)と接続している点は「①完成」の説と関連しそうである。また、パーリ語辞書(英語を参照)は上座部の解釈に依っているはずであり、その上でパーリ語"pāramī"を completeness; perfection (「①完成」の説に該当)と記している。「完成・完璧」という意味を踏襲した場合、般若波羅蜜は「智慧の完成」というよりも同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"として語順を替えた「完璧な智慧(布施・持戒といった残りの波羅蜜も同様)」として訳することもできる。果たして波羅蜜は、上座部において「①完成」なのか「②到彼岸」なのか、アビダンマなりティーカーなりアッタカターなりから読解できる人は挑戦していただきたい。学者よ!識者よ!

※先に印欧語根から解釈しもしたが、英語"perfect"の接頭辞per- (ラテン語に共通)もサンスクリット語"pāra, para, parama, pari"といった語句と同様に「外側・外れる・通過する・他の」の意味合いが含まれ、「最高のこと"parama"」・「彼岸"pāra"」・「完成する・完璧なこと"perfect, perfection"」という三種の語は、みな同種のようにも思う。

2017年9月11日月曜日

新しい諸法(縁生)の喩「壁=障害物・障礙・障碍"Antarāya, Pratibandha, Sambādha"」

今回は、2017年の作品「尊者名義談(そんじゃみょうぎだん)」の注釈文を、記事の話題としたい。

「壁」とは、物質的存在としての「壁"wall"」がさまざまに有り、抽象的存在としての「障壁」が有る(例えばベルリンの壁は双方の意味を兼ねていよう)。
精神的存在として「(彼らの間を)壁が隔てている・(それを行うには)壁が高い(ハードルが高いとも)・(行動する彼の前に)壁が立ちはだかる・壁を乗り越える・壁をすり抜ける・壁をぶち破る」といった表現などがさまざまに有る。
後者は、要するに「壁」と想定される「邪魔なもの」が前提に有ってこそ「ぶち破る・打ち破る・打破する・打ち壊す・打ち砕く(摧く)」と表現が続けられているわけだから、最初に「壁ありき」である。
悟りの人の世界(主観的世界であるが同時に客観的世界でもある)では、理論において「壁のようなもの・邪魔なもの」は無いし、「壁のようなもの・邪魔なものは無い」とさえ表現すべきでもない。

それはどういうことか?
さしずめ、仏典でいえば「無有障礙(障礙あること無し=壁は最初から無いようなもの)」となろう。
「無有(有ること無し=無いようなもの)」という表現は、まさに悟りの人が「言葉という仮の道具」を用いる際の「中道(絶妙なこと・その手段)」である。
ここに、件の「尊者名義談」注釈文(自筆)を引用しよう。



(前略) 「障礙が有って無いようなこと」とはどのようなことか?ある小説の主人公は、ほとんどの物事に無感情であり、彼が本能的に「敵」とみなす怪物のみをターゲットに入れて殺戮を行う。「障害・障礙というもの」は、それが「邪魔になる」という価値判断から、「障害・障礙のようだ」と認識され、「障害・障礙のような名称」が生まれ、名称による概念の定着がある。つまり、個々人の善悪の価値判断に因って「障害・障礙」が有る。外界に「障礙という事物」そのもの"bhāva"は無い。実体として壁は存在しない。彼には、善悪や快不快といった価値判断がほぼ存在しないので、その認識による感情の動きも最小限であり、他者からは「無感情な人」と見られる。その彼の発言は「善悪?くだらない」や「敵(と本能的に彼がみなす怪物)は殺す。それだけだ」である。およそ、彼は縁起の理法を覚っていると考えられる。そのような場合、どのように過酷な物理的な障害・障礙があっても、そのように「邪魔になる」という価値判断がなく、ただ冷静に感情を介入せず「現実・ゲンジツ」を見て状況に対処する。たとえ「物理的な壁」が四面楚歌のように自分を空高く囲っても、解脱の人にとって「壁」たりえず、「単にそこに有るモノ」とも判断されない「存在ならざる存在(非有非無・非非有非非無…)」である。つまり、「自分に立ちはだかる壁・障害物」という名の「不快な存在」と感じないようである。客観的世界の物質的存在は壁のようでも、心に壁の文字と定義とが無いので、主観的世界の精神的存在は壁でなく壁でないとも称すべきでない(非壁・非非壁)。彼の辞書には「欲望が求めるところの快楽」も「感情が嫌うところの障害」も存在しないようであるが、実際に仏教の悟りを得ているわけでない。よって、時折、怒りの感情が強く発現することもあり、その時は「邪魔だ!」と取り乱したりする。煩悩・感情がある時、「存在ならざる存在(非有非無)」が善悪の価値判断を介した「邪魔なもの・欲しいもの」などへと認識が変化する縁起である。山の向こうに新天地があると知って行きたいと思う人は、山が単なる山でなく「行く手を阻む障礙(障害物)・邪魔なもの」と認識する。

私たちはPCなど道具の扱いや他者との交流で時折、不快感を得て怒りを起こし、手を上げる場合もあろう。どのように制御するか、と悩む者は、必ず縁起の理法を知らねばならない。十二因縁など縁起の説は、難しいものであろうか?十二支の全てが「実感しづらい我が心の出来事」であり、仏様が理路整然とお示しになったのみである。感情・思考の強い人間は、誰でも例外なく「縁起の主役」である。「実感しづらい我が心の出来事」を、教えられることで実感できるようになり、その出来事の結果にある煩悩(欲望や怒り)をも自覚して防げるようになる。その利益を成就するには、教えを念じて(肝に銘じて)忘れない努力が肝要である。縁起の理法と合わせて、因果応報(善悪業報・自業自得)や慈悲のことについても、信仰を持って学んでおいて頂きたい。



結論としては、表題の通りである。
般若経典なかでも摩訶般若波羅蜜経など大品般若経には「十喩(じゅうゆ)」が説かれる。
それら十は「因縁によって生まれるもの」を代表するものとして説かれた。
因縁によって生まれることを因縁生や縁起といい、そのようなものは空であり、空を象徴する十種類のものを選り抜いて「十喩」とも「十縁生句(縁生=縁が生むもの)」とも総括する。
大品般若経の注釈である大智度論・巻第六には、十喩の詳細な説明・解釈が載る。

十喩 daśa upamāḥ *daśopama (十のたとえ)
"10 examples of illusory nature" (幻のような存在の例を十に示す)


1. 幻 (幻事) - māyā - an illusion
2. 炎 (陽炎・陽焔) - marīci - a mirage; a hallucination
3. 水中月 (水月) - jalacandra; udakacandra - a reflection of the moon in the water
4. 虚空 - ākāśa - sky
5. 響 - pratiśabda - an echo
6. 犍闥婆城 (尋香城) - gandharvanagara - city of Smell-eaters
7. 夢 (夢境) - svapna - a dream (梵語と同源の英単語: sweven)
8. 影 (光影) - darpaṇabiṃba - shadow
9. 鏡中像 (像・鏡像・映像) - pratibiṃba - a reflection in a mirror
10. 化 (變化事) - nirmāṇa; indrajāla - a magic play; Indra's net

※虚空"ākāśa"を、空花"kha-puṣpa; ākāśa-puṣpa (a sky-flower)"とするものもある。

※大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)所説の十縁生句では、幻と化や、影と鏡像を統合するなどして替わりに「浮泡」と「旋火輪(縄や棒を旋回すると輪に見えること)」を加えている。「泡"a bubble"」と「旋火輪"a whirling firebrand"」は大智度論における十喩の説明でも、引き合いに出される。

※大智度論における十喩の説明で、最初と最後を飾る「幻」と「化」とは、意味合いが似ているし、「幻化(げんけ・げんげ)」という複合語も諸経にあるが、どう異なるか?「幻」とは視覚的なものであり、梵語"māyā माया"として「たぶらかし」を意味することもある。「化」とは、ただ何かが別の何かに化けた・変化した状態などを指す。梵語"indrajāla"としてヨーガ方面の人は、「たぶらかし」の意味も兼ねて同一視することもある(ドイツ語"Yogawiki"のMayaとIndrajalaを参照)。大智度論が化を説明するには、明らかに、「視覚的な化たる幻(上記英訳の"a magic play"を含む)」と異なるものとなっている。つまり、心に生じた像そのものらしい。十喩の言わんとすることは、幻・炎・水月ないし化の、十種類すべてが同義であって自己・他者・万物など「諸法」もまた同様であるということである。大智度論などにとって、「三界唯心所作・一切唯心造」のように、諸法が「心の化」であることを最後に念を押したかったと思われる。



こういった十喩に対し、「壁"wall, prākāra (pra- 前に -ākāra に作る・名詞化 = 前に作られたもの・前を阻むものとしての壁)"」が尊者名義談の説明によって同種となった。
もしも、現代文化より十喩を設けるならば、「壁」を加えてよいと考えるに至った。
現代の十喩というものを想定する際、他に加えるべきものは、萌えの法門での説明が十全となった「萌相"myoso, śubharūpa" (萌え絵・可愛相)」に他ならない。
世間はなお、「萌え」の語句と意義とに迷い、広義の萌え系(可愛い人物などの絵)が好きな人ですら「萌え」の芳名を軽んじているわけだから、改まった説明を必要にされた経緯がある。

この尊者名義談が、萌えの法門・萌えの典籍の内にある。
萌相の空なることは、觀萌私記の萌義條脚注ならびに讃萌語脚注など本末に渡って示されており、萌え和讃では直に説いている。
萌相とは、萌えの二法のうち色法・萌色という外見的なものの総称であるが、それに人名や性格などを関連付けたものが人形萌類、いわゆる「萌えキャラ」となる。
萌えキャラについては、萌え話記事における本萌譚・異伝④で過去萌尊が詳細に語る。

そのような萌えキャラ(人間の思考の産物の典型例=諸法の代表者)とは、仏・菩薩に類する萌尊の智慧・慈悲の作用・応現であり、一種の「化作"nirmita"・幻化人"māyā-puruṣa"」である。
般若経典のうち、大品般若経の類には、幻人と菩薩に異なりが無い教理を示す。
要点は「(佛問)五受蔭假名是菩薩不。 (須菩提答)如是世尊。 (乃至) 五蔭即是幻人。幻人即是五蔭。(摩訶般若波羅蜜経・巻第四・幻学品)」である。
大智度論における注釈も兼ねて考えると、ちょうど幻の人が実在する人のように修行して功徳を積み、悟りを得るような姿を見せても、実際の功徳や悟りは無いが、この世の人も同じように功徳や悟りは有るようで無いであろう、ということである。
幻をビデオゲーム作品(数字0, 1の組み合わせである世界を電気で運用して液晶画面などで仮に反映して見せたもの)に置き換えれば、ゲームキャラがゲームの世界で経験値を積んでラスボスを撃破しても、それは、実在人物が肉体を現実世界で鍛えて目標を実現することと変わりがないようである。
生まれ死ぬ無常の世・物質の集まりである無我の身・無常無我の世界も自己も、みな心の妄想=唯心所作・一切唯心造であるならば、心の仮想も電子空間の情報も物質的肉体も幻に等しい。
幻人と萌えキャラは、どう似るか?

維摩経の天女は、女性の外見をしていても女性"strībhāva"という概念・認識が幻"māyā"のようなものであり、女性とか男性という性質が無であることを舎利弗尊者に語っていた(参照: 維摩詰所説経・観衆生品、Vimalakīrtinirdeśa 梵・漢・蔵・英)。
諸法も幻のようで自己は無所得であるという見解からして、天女が自ら菩薩・阿羅漢に等しいと説く(天女は先に自ら増上慢でないと断った上で我爲聲聞・我爲辟支佛・我爲大乘と説いた)。
萌えキャラもまた、どんな外見やどんな設定があろうと、みな名称の実体(女性・男性・人間・ケモノなど)は無い。
法華経の龍女(長寿の龍族の8歳の娘)は、女性や非人の立場でありながら成仏できることを、幻のようなもの(變成男子具菩薩行ないし普爲十方一切衆生演説妙法ないし龍女成佛)を多くの人に見せ、先に疑義を示していた舎利弗尊者・智積菩薩に信じさせていた(参照: 妙法蓮華経・提婆達多品)。
萌えキャラも成仏できることは、般若経・維摩経・法華経の説からして天女・龍女と異ならない。
十喩・幻にしても萌えにしても一切のキャラクターにしても、その例から知ってもらいたいことは、その理解のように諸法(ありとあらゆる物事)が空・仏と等しいことである。
※「壁」にしても「萌相」にしても、文字面や英単語を見たところで「幻・炎…」ほどピンと来ないという難点があり、「現代の十喩」構想は、つまるところ私のメモ替わりに役立つ程度となろう。

そもそも、「萌え(𢡗)」自体が萌義條の三つの萌えの意義にあるよう、「生(心に生じる・芽生える)」の置き換えであって因縁生・空・縁起の象徴でもある。
一切の法が摂取される教理がすでに明白であるので、大乗においては元より疑いが無い。
話題の「尊者名義談」にしても、その「障礙"obstacle; obstruction; antarāya; pratibandha; sambādha"」と名のあるキャラクターが、修行者に対して蚊をはじめとした「ウザイもの」に化けて「障礙する"obstract"作用」があるという考え方(平等の慈悲を支える修行にもなる)を脚注に記してある。
普く一切に通じている法、その象徴を萌えキャラ・菩薩として説く。
大乗仏教、方広の道・方等の義・方便の儀において、二千有余年ないし無量劫、続いていることと思う。
有漏の心・我が身にとって、ありがたい麁法(粗末な教え)とも妙法(微細な教え)とも言える。



改めて、この自作の偈(漢詩)を載せる。
「菩薩爲度衆生故 寧兼麁業示甘露 從萌道廻向佛道 當持萌相明大路」
呉音読み: ぼーさつゐーどーしゅーじょーこー、にょうげんそーごうじーかんろー、じゅうみょうどうゑーこうぶつどう、とうじーみょうそうみょうだいろー
訓読: 菩薩は衆生を度せんが為の故に、寧ろ麁業を兼ねて甘露を示す、萌道より仏道に回向するに、当に萌相を持(たも)ちて大路を明らかにすべし

萌え話記事における萌集記・イデオフォノトピア三会には、十喩に通じた箇所がある。
時に天、威力を現す。虚空に雲を集めて文字と為し、列ねたまわく
「こだまですか いいえ こころです かがみですか いいえ こころです」と。
十喩において、「こだま」とは響であり、「かがみ」とは鏡・映像であり、「こころ」に通じさせる。
心は物事を自由に映す。
これは先の「唯心所作・一切唯心造」とか、唯心偈の「心如工畫師・畫種種五陰」と同様でもある。

ほか、「現代の十喩」という構想には「円周率、π(過去記事説明)」を加える案もある。



起草日: 20170716

壁のサンスクリット語・パーリ語…当記事中で「阻むもの(物質・精神ともに)」"prākāra pl: pākāra"、「塀」の意味合いがある形としての"kuḍya pl: kuṭṭa"があり、両者がパーリ経蔵に"tirokuṭṭaṃ tiropākāraṃ (後述引用の石壁皆過という漢文に相当)"と散見され、"bhitti (bhittiyā)"はパーリ相応部・22蘊相応100経で"suparimaṭṭhe phalake vā bhittiyā vā dussapaṭṭe"として「絵画"pl: citta"をよく磨かれた板や壁や白い布(キャンバス)に描く」とある。これに関連すると思われる梵文俱舎論には"citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"とある。

「壁」に関する表現(慣用句)の一例として「壁が立ちはだかる(阻む)」というものを挙げた。
ちょうど、「障害となるもの・障害をなすもの(障碍・障礙)」を意味する"obstacle"の語源はラテン語の動詞"obsto (obstō オブストー)"であり、接頭辞ob-、一人称動詞stoである。
つまり、「obsto = 何者かの前に立つ(obsto形よりもobstare形の意味合い)」であるから、「壁が立ちはだかる」という時の「壁」は「何者かの前に立つ」という状態である。
それが転じて、「妨害する」という意味にもなり、現在の英語の名詞"obstacle"も同様に「前で立って"sto, stand"邪魔をする・妨害するもの」というニュアンスで用いられる。
日本で用いられる表現と、ラテン語由来の英単語の共通性について述べた。

この"obstacle"や"obstruction (ちなみにラテン語一人称動詞はstoでなくstruo)"を「障害となるもの・障害をなすもの・障碍・障礙」という意味で捉える際、梵語系統の語句を求めると、記事タイトルと本文中に挙げてある"antarāya, pratibandha, sambādha"がある。
このうち、"pratibandha (梵語経典より)"と"sambādha (パーリ語経蔵より)"とは、件の尊者名義談の注釈文に「語根の梵√bandhや巴√bādhとして、connectionの意味がある」と綴ってある。
"connection (接続・繋ぐこと)"という意味では「縛(ばく)」とか「繋縛(けばく)」という漢語があるが、その語根√bandhといえば、bandhantiとかbandhana (बन्धन)とも言う。
bandhana...、まさしくバンダナである。
頭を「縛(ばく)」する物「バンダナ"bandana"」、語源はヒンディー語もといサンスクリット語(ヴェーダ系)であった(軽くググると世間の説でバンドゥヌ"bandhnu"とあった)。

似たようなもので「バンド"band" (リストバンドとかバンドエイドとか)」といった外来語もあるが、これの語源が梵語・サンスクリット語・パーリ語と通じ、印欧祖語 (語根*bʰendʰ-)が共通するかは不明である。
印欧祖語の解釈では、接着剤の「ボンド"bond"」も、バンドやバンダナと同語源となろう。
ボンドは「(物同士を)接着する」という機能を期待して名付けられ、接着(接ける・着ける)とは、文字通り、「繋ぐ・接続する"connect"」という梵√bandhや巴√bādhの語根と同じ意味を兼ねる。
"bandhana"の漢訳語句と思しき「繋縛」とも通じている。
「繋縛」の動詞「繋縛する」とは、英語圏で"to bind up"と訳せられるが、この"bind (バインド・ビンド)"も同語源であろう。
何にせよ、漢語の「繋縛」と「障礙」とは、英語でも梵語でも語源が同じと考えてよい。
日本人の知らないうちに、バンド・バンダナ・ボンドといった語句で、微妙な浸透があった。

※なお、antarāyaは「中間の~」を意味する形容詞"antara"で、何物か両者に介在するものを指して「障礙」を意味し得るので名詞化して「障礙」と用いられる。このほか、語根√vṛに通じた「覆う・覆い隠す・囲む・遮る」という意味から「障礙」と用いられる"āvaraṇa, nivṛta (後者は接頭辞の解釈により無覆と反対の意味にもなる)"もある。語源不明のものでは"kiñcana"も障礙を意味する。



後半で萌えの法門に寄せても語った。
こちらについても言語学的に解釈する。
萌えとは"moe, moye (Historical Kana)"であり、幻(ja: maboroshi) "skt: maya, māyā"と似る。
当記事で、十喩にもある「幻"māyā (マーヤー)"」と萌えとの関連性を説明し終えた。
幻 māyāは 魔法 magic (マジック)といえる。
萌えキャラ"moe-chara, character"は萌えの人"moe person"である。
幻の人・幻人は"skt: māyā-puruṣa"というが、purusa, puruṣa (プルシャ)とは英語のperson (パーソン)と似る(古代ギリシャ語のπρόσωπονも参照。英語のpersonはラテン語でpersona ペルソナだが非印欧語のエトルリア語源説あり)。
英語(ラテン語)・サンスクリット、子音p, r, s (細かい発音の差異はともかく)が一致する。
日本語の人(ひと・hito)もまた、古くは"fito←phito←pito"という発音であり、印欧系言語と意味や韻頭pが一致する。
つまり、萌えの人"moye pito, maborosi pito (Historical Kana, Ancient Japanese)"とは、 "magical person (la: persona magi, persōna magī)"であり"maya purusa"である。
日本語・英語(ラテン語)・サンスクリット語・・・、みな頭文字がm, pで一致している事実に驚いた。
この話はダジャレ・牽強付会・荒唐無稽のようでもあるので、無視してよい。



後の記事(2017年7月28日起草のもの)の加筆段階にある8月11日の調査中、大品般若経の「十喩」にある「化」に関して梵語分析を行った。
当該記事に加筆した箇所を引用する(このうち梵語分析は後半にある)。
※当該記事のテーマは 、「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāna (プラマーナ)"」と認知した2つのサンスクリット語句の相違点と共通点とを調べることである。

 「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(視覚的事物に無し)も生まれる。その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似の教説は長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経やパーリ長部の沙門果経など)。大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・梵王でなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)などが禅の天であるように、仏教の神様たちは四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

 少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!接頭辞nir-は、否定を意味する場合と、離れること(vi-と似る?)や外へ(upa-に似る?)を意味する"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)の場合があるようで、"nir- + √mā"から成る単語は「作る」という意味を持つ。√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。

※当該記事の後の説明にあるよう、√mitという動詞語根は無い。"mita"は√māの過去分詞である。勉強の途上であるという意思を示す記述となる。

つまり、いわゆる「三身(法身・報身・応身 "trikāya、トリカーヤ")」のうち、応身や化身や応化身とよばれる"nirmāṇakāya (nirmanakaya、ニルマーナカーヤ)"ということも、「真理一法・一念(刹那 "kṣana")心・一心"ekacitta"」という過去・現在・未来に不可得"nopalabhyate"で言語道断心行処滅の心に、映えた諸法を意味しよう。
諸法は、そんな「一心(非有非無)」の化"nirmāṇa"である。
不可得だが仮想できる真理一法に結びつく、応身"nirmāṇakāya"である。

大智度論所説の般舟三昧経「三界所有皆心所作。(賢護経では今此三界唯是心有)」
六十華厳経・十地品の「三界虚妄但是心作。十二縁分是皆依心。"skt: te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"」
以上は「萌え和讃・解句抄」の記事でも引用済みである。
般舟三昧で見られた仏も、十地の現前地に示された十二因縁も、心における応身のようであり、それは心が生んだ虚妄であり、そうして虚妄の側面を知るので真実の側面を知るということとなる。

龍樹菩薩の求めた「第一義"paramārtha" (第一義諦・勝義諦・第一義悉檀)」や、世親菩薩の求めた「阿頼耶識"ālayavijñāna"・・・善悪二面的、阿摩羅識"再構: amalavijñāna" (八識・九識)」は、まさしく一心の無明を法性(仏性)に転じたものである。
例えば、コインの表・裏は有るが、表裏という区別は仮想概念に過ぎず、真実のコインは裏表が無くてコイン自体も存在しないようである。
一心(コイン)には無明(表)も法性(裏)も無く、一心すら別概念の構築・依存(因縁・空)による仮想概念で無存在だが、それを知りながらも、あえて言葉にする(中道)智慧が仏のようである。

日蓮宗系(特に日興門流)では、法身たるべき一法(不可得の心)を「南無妙法蓮華経」と呼び、それを知った報身たるべき智慧を「久遠実成釈迦如来(久遠元初の自受報身)」といい、応身たるべき一切を「法華経のあらわれ」というようである。
総勘文抄「此の心の一法(筆者: 法身)より国土世間(筆者: 応身)も出来する事なり (乃至) 然れば八万四千の法蔵(筆者: 応身)は我身一人(筆者: 報身、経に出現する仏を知って尊ぶのも嫌うのも人の智慧の所作)の日記文書なり」
日女御前御返事(建治三年?弘安二年?)「此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり」
※上述御書二篇の偽書説はともかく、鎌倉時代以後に素晴らしい道理に目覚めた聖人がいることは確かである(文献学でいう最古経典スッタニパータ4章・法華経・大乗涅槃経・根本分裂・中論・三一論争・鎌倉仏教・日蓮門下など思想対立や迫害の歴史は釈尊の往古インドより東遷して繰り返される。不戯論・無諍法をみな求めていた)。

ちょうど、真言宗の人が法身たる大日如来に「法身説法」などという報身属性や「遍満している・大日如来のあらわれ」という応身属性を付けていることや、浄土教で応身たる阿弥陀仏に「法身の弥陀・報身の弥陀・インドに応現した釈尊」などといった三身観を立てていることも、心(行為の主体・智)と法(対象の物事・境)を言い換えたものである。
本来の大日如来(毘盧遮那仏、真理を擬人化したような譬喩・有名無実の仏)や阿弥陀仏(東方善徳・西方弥陀というように応身諸仏の一端であり釈尊の仮説分身)の在り方を、後世の「精巧な三身"trikāya"教義(三身即一・不一不異の義の成立)」に結びつけて自宗の正義を顕揚したいので、彼らはそう(法身説法遍満大日・法身弥陀久遠実成阿弥陀如来)主張するが、実には「仮名(けみょう)」があるのみで、他宗への説得性に欠いてしまう。

※法身説法(実は報身・応身)=仮名仏非仏の仮名法身大日如来にある仮名ニセ三身。法身・報身の弥陀=釈尊分身のような仮名応身阿弥陀仏の仮名ニセ三身。実際に成道せられた釈尊にのみ三身即一を見ねばならないが、それもあえて釈尊"śākyamuni"の仮名を付する必要が無いと思う一面もあり、無三無一(不一不異)、無仏無非仏として中道の戯論寂滅となる。釈尊滅後どうしても教義の違和感を持ったニカーヤ仏教徒が議論をしたため、大乗教団ならびに龍樹菩薩や世親菩薩など大徳は「(本来不要な)正論」を唱えた。世智弁聡の人の不満を解消するための「方広・増広」が大乗の義である。小乗たるテーラワーダの人は十無記に従って如来の身"kāya"を詮索せずに修行し、大乗の極みである浄土真宗の人は本願を信じて法論せず愚直に念仏すればよい。

一という「法身」、一切という「応身」、との見方については仮定である。
別の仮定をしてみると、法身は無来無去のようであって一即多・非一非一切ともいえ、報身は作用ある「一心」であり、それを観察対象とすれば不可得の法身となる一面もあろう。
そんな鏡のような「一心」に映された諸法はまた幻のようで、仏さえもそうであれば、まさしく諸法も仏も萌えも「化(ニルマーナ)」の応身(ニルマーナカーヤ)となる。


2017年8月21日月曜日

二重母音の1モーラ化という漢字音、諸言語の例など

日本の漢字発音について、一般的な呉音と、2→1モーラ化が生じた際の呉音(推定古代音にも通じるか)を確認したい。
中古音・上古音は、おおよそ「バクスター・サガール(2014?)式 (BS式)」や「鄭張尚芳式(ZZ式)」であるか、それらを参考にした上での仮定表記や便宜的な簡略表記などがある。

まず「二重母音"ai"から母音エ"e"発音が発生することがある」という仮説から、漢字音の1モーラ化の例を取ろう。
「兄弟」は、「きょうだい(呉音)」とか「けいてい(漢音)」とかと読む熟語だが、前者で「弟」字は呉音かつ濁音(有声音)である。
「きょうだい」と読むときの「弟(だい)」は、提婆(だいば)のように、上代か古代の日本でD音(ダ行・有声歯茎破裂音)受容か?
その場合、弟子(でし)の弟(で)は「だい"dai"→で"de, dae"」という1モーラ化の例に当たる。
上に"de, dae"と綴った件は、「古代の日本語が八母音であった」とかという、「あいうえお"a i u e o, a e i o u"」よりも多いという学説を念頭に置いているが、こういった漢字音の1モーラ化について甲類の"e"とか乙類"e"とかという学説の存在を確認していない。

「ダイ→デ」といえば、朝鮮語の「現代(ヒョンデ・連濁)」とか「大韓民国(テハンミングク)・大洞江(テドンガン)」が連想される。
代・大などは、日本で「弟子の弟(で)」のような「デ・テ」と発音される語彙が見当たらないようでも、朝鮮半島で代・大の漢字音が伝わった当時の中国人は現代日本語と同じく「ダイ・タイ」に類する発音をしていたと考えてよい。
朝鮮語におけるこういった漢字音の表記に用いるハングルは、"ㅔ IPA表記の/e/"ではなく"ㅐ a+i = IPA表記の/ɛ/"であり、ハングル誕生以来、文字として明確な区別があるようである。
※なお、弟"je"は前者e音価のㅔを用いた제であり、下記の礼"rye>ye"はje音価のㅖを用いた례>예であるから、大대や海해などにあるa+i = /ɛ/という音価のㅐではなかったりする。

"-ai → e"他の日本漢字音の例として「礼・禮(呉音: らい)」がある(熟語は頂礼"ちょうらい"など)。
「礼」の草書体から、ひらがな「れ」が作られた。
地名の「波久礼(はぐれ)」や、人名の「稗田阿礼(ひえだ の あれ)」といった「れ」発音がある。
これらも当然「漢音: れい"rei"」の「い"-i"」が脱落したのではなく、「呉音: らい"rai"」が「れ"re, rae"」と1モーラ化したと、私が考えている。
うちマイナー地名の「波久礼(波久禮・破崩とも)」について興味を持ち、古事類苑のデータベースで武蔵国の記述など(具体的な位置関係が不明なので現在の大里郡・寄居町や男衾・榛沢に関する情報も)を探したが、名が見当たらなかった(秩父鉄道の駅設置に際して元々の表記で縁起の悪そうな「破崩」を万葉仮名っぽく改めたことで成立したものか)。

しかし、現代中国普通話ピンインは「弟・提・禮(代・大は日本の漢音・呉音を考慮すると系統が異なるので除く)」系統の漢字がみな「弟"di"」、「提"ti"」、「禮"li"」、「西"xi"」とあり、言語学者の中古音や上古音も"dei, di"のような"-ei, -i"ばかりであり、少なくとも"-ai"発音を確認できない。
「提」という字は、先に「提婆(だいば)」という語句を例に挙げたが、この元はサンスクリット語"deva (デーヴァ)"の音写であり、4世紀以前から、すでに「デ(デー)」発音に当てられている。
他の「提」を用いたサンスクリット語の音写語句としては「憂波提舍(うはだいしゃ・うばだいしゃ、提は帝・底を用いることもある)」であり、これもサンスクリット語"upadeśa (ウパデーシャ)"やパーリ語"upatissa (ウパティッサ)"を表す。

"ai"そのものが字音である漢字といえば、何よりも「愛」が浮かぶであろう。
あい・アイという発音は、現代日本の字音に限らず、中国普通話でも同様である。
"ai → e音"の例として、地名では「愛媛」や「愛知(えち・滋賀県の愛知郡や愛知川)」がある。
"e音"に類する発音は、呉語の"e"や、韓国語の"애, ae (2000年式・MR式)"である。
この「愛」はIPAなどの厳密なローマ字表記だと、単なる"ai"ではなく"ʔ"という声門破裂音の字を用いており、中古音・上古音で母音で始まるような字音のローマ字表記には、ほぼ必ず用いられている。
「愛」を例に、ざっと引用すると /ʔʌiH/, /ʔəiH/, /ʔɒiH/, /ʔɑ̆iH/ といった調子である(余談だが末尾の大文字Hは四声(トーン)を表す記号のうち、「去声(平仄では仄に含む)」を意味する・上声であれば大文字Xが用いられる)。



この"ai → e音"という音韻法則は、過去記事や独り言で多く語るよう、ギリシャ語・ラテン語・英語などの関係性にも同様に観られて世界の言語学者の常識とも言える。
ギリシャ語で"αι(アルファ・イオタ)"と綴った発音は、ラテン語で"Æ(合字), ae"となり、現代英語では余分な"a"の綴りを消しているわけだから、日本・朝鮮・西洋、場所を問わず同じ現象が発生していると見られる。
2014年に"pedia"というギリシャ語由来接尾辞について語ったことがある。
そこでは、ウィキペディア"wikipedia"でもペドフィリア"pedophilia"でも、"ped"の文字列がラテン語"paed"という語根に由来し、"paed"の元はギリシャ語"paideia, παιδεία"であると説明した。
ギリシャ語・ラテン語・英語は"pai → pae → pe"という綴り・発音(名と実)の変遷がある。

ついでに言えば、インド方面でもサンスクリット語の連声か何かの法則に"語尾a +語頭ī → e (長音)"という例がある(-a īśvara → -eśvaraという場合の例は観自在アヴァローキテーシュヴァラ・大自在マヘーシュヴァラ・世自在ローケーシュヴァラなど)。
サンスクリット語の同じような法則としては、"語尾ā + 語頭u → o (長音)"という例がある(大智度論の再建語の一例がマハープラジュニャーパーラミトーパデーシャ"-tā upa- → -topa- "という)。
サンスクリット語の連声とか、詩を唱える際などに発生するほか、単一の語句レベルではサンスクリット語に対するパーリ語などのプラークリットにも多い(ガウタマ→ゴータマなど)。
"au → o, ō"は日本の歴史的仮名遣い"あふ・あう→おう"や、ラテン語→英語の変遷(例はアウストラロピテクス・オーストラリアの差)にもあって、同じく世界の言語学者の常識と言える。



韻尾(後部音韻)省き(脱落・欠落)の例

功徳(くどく)、恭敬(くぎょう)という、2モーラ目が元・軟口蓋鼻音の漢字の1モーラ化・連濁発音の仏教用語がある。
「恭敬礼拝(くぎょう・らいはい)」の「恭(古代の音をkongと仮定してコウと片仮名にできる)」は二重母音が詰まって「く(前の件の要領でkou→ku)」と読むが、
しかも、「礼"呉音: rai" 拝"呉音: hai<φai"」などは「れへ"re he<φe"」という読み方をしない。
恭敬礼拝(くぎょう・らいはい)は、「恭(古代: kong 漢音: キョウ、呉音: ク)」の一字のみが現代でも1モーラ化の字音として伝わって読まれることとなる。
「礼(ライ→れ)」は、地名「波久礼(はぐれ)」などに残る字音であったが、「恭(く)」は地名で見かけづらいようである(かつての首都に恭仁京"くにきょう"というものがある)。

元・軟口蓋鼻音"ng, ŋ"の漢字が「ウ"u"」に変わり、更に二重母音が詰まって1モーラ化しても、恭敬(くぎょう)の「敬(キョウ)」や、功徳(くどく)の「徳(トク)」を濁音にする作用が残っている。
いいや、日本語で二重母音が詰まる以前に濁音化したものが、その形のまま残っているのであり、「恭・功」の1モーラ化した「元・軟口蓋鼻音たる"u"発音」に作用が残っているわけではない。
「ウ"u"」という母音は、「鼻母音」のように鼻音化しやすく、それが連濁の作用を持つ可能性もあるが、当初の日本人がその自然性でその都度、連濁発音をしていたと考えることに無理がある。
例の通り、字音の伝来当時の中国人による連濁(有声音化)の発音が残ったものと、見解を示す。



-ngに相当する韻尾が省かれる日本字音の法則を過去記事で説明した例↓
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/blog-post_10.html#case3
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html

※上代や平安・鎌倉時代など、どこまで同様であったかは、まだまだ文献の確認が必要かと思う。二番目のリンク先記事で「種種("すす"と綴られた)」や「衆生("すさう"と綴られた)」を語ったように、当時の熟語音読みの仮名遣いが可能な限り知られるとよい。拗音や濁音の表記が無い当時の字音が、当時のままと思われる状態で現代に伝えられている事実があるのだから。



起草日: 20170606


2017年8月10日木曜日

仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)

小6・中1のころ(特に2009年1月以後)は、法律に興味を持っていて著作権"Copyright"に関心が強く、これを少し学んだ。
当時は小5(2007年6月)にして2ch初利用という経緯もあり、ひろゆき氏(当時2ch管理人)が関わった共著「2ちゃんねるで学ぶ著作権(西村博之・牧野和夫、2006年)」を教材としたほか、当時に住んでいた家(埼玉県)に有る母親(兵庫県→愛知県在住)の遺品に「司法書士(行政書士)の資格に関する本」が大量にあったので、そちらも参考にしていた。
当時の印象に残った事柄は、翻案権の許容範囲(パロディ云々)や著作人格権(著作者人格権)や同一性保持権であった(オーサーズライト"Authors' rights"などという英単語も覚えた、著作権における固定的な性質と流動的な性質の二分法を覚えた)。

以上は個人的な来歴であり、現在の学習行為全般とは関係が無い。
以下から本題に入る。



【「自己・他者・同一性」について法律と仏教】

西洋から輸入された法律制度や法律学は、概念としての「自己」や、自己に関する「他者」や、著作者・著作行為・著作物などを定義している。
世俗上の「同一性」に暗黙の了解がある(同一性とはIdentityのことだが著作権法20条にいう同一性保持権Integrityも対象を人person; authorでなく物produciton; workに当てたもの)。

仏教の無我(アナートマン)といった教理からすると、「自身の同一性(自性・スヴァバーヴァ)」というものを、肉体と精神の一致(生存)にも、肉体そのもの(器)にも精神そのもの(魂)にも求められない。
また、行為(呼吸する・歩く・思う・言う・文字を書く・仏教では「作=なす」という)も、その対象(仏教では「所作=なされるもの」という)も、みな「因縁によってそう認識されただけの存在・諸法実相・空・都無」であり、誰がどう認識しても同一の行為・存在(絶対的な物事)とならない。
諸行無常であって諸法無我であって、自己はもちろん、万物、ましてや「著作物」と法律で定義されるものに「同一性(抽象的概念・仮想概念)」のあるはずがない。
著作者というものも、仏教でいえば「作者(さしゃ)=なす人物」に当たり、同じく、その無自己・無我が「作(さ)」をするわけもなく、「著作者」たりえない。

一歩譲って言えば、「同一性・我・自性」といったものは、言葉と想定の範疇において「仮名(けみょう)・仮施設(けせせつ)"nominally establish または dependently designate"」のみが有る。
後述するよう、倫理・道徳とか、自他の欲望(生存欲求・我が身を愛する心・命より愛おしい物を守る欲望)を守るため、仏教でも政治でも「仮の自己」を定義する。

※Wikipediaにも載っている説は「ミリンダ王の問い」の記事にある(本記事末に漢訳版の訓読もした)。いくつかの例え話が引かれる。それらはあくまでも「業(カルマ)の報いを受けるもの・輪廻をするものは何か?」という命題に基づいた「例え話」に過ぎないが、紹介する。果樹の苗木は人物Aが植えたものであり、苗木から生長した樹に「果実」が成った。苗木と生長した樹は似ないし、後から成った「果実」が人物Aの所有物とも考えづらいが、人物Bがその果実をもぎ取って盗んだらば、人物Aの所有物を盗んだ罪が認められ、彼らの国の法律によって裁かれるということである。現代の法律では「不法侵入(人物Aが苗木を植えた敷地へ人物Bが侵入した)」などといった罪科が窃盗罪を補完する。かの時代のインド・ギリシャでは不文律・慣習法が主流で、恣意的な裁判(いわゆるザル法)も有り得るかもしれない。このほか、購入された牛乳がヨーグルトに変質した状態での牛乳の同一性など、様々な例が説かれるが、全て物事が変化するという前提(諸行無常)で同一性を見る。世俗においては言葉にしづらい時間的同一性・相関性があり、仏教でもこの「現世の人間に通用する同一性の認識=我見(アートマンが有るという見解)」は肯定されているようである。このような「我見」が肯定されないと、倫理・道徳が成立しないから、国の治安が乱れる。もちろん、新たに利益を得たくて或る主張をする者もいれば、既得権益を守りたくて正反対の主張をする者もいて、一方の主張の理論のみを取れば、常に不調和が生じるから、バランスは大事である。「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を行いたくて他の著作物の同一性を無とする理屈を述べる者、「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を禁じたくて自分の著作物を守る理屈を述べる者、どちらも理論として正当であり、どちらも欲望に基づいた邪説である。公平公正の真理には、いかなる論理に正も邪も存在しない。仏教でも、倫理・道徳を支える「我見」は、世俗の中で肯定する場合もある。言い換えると、みな「善良な我見」を持たずとも互いの苦しみとなる行為をしない(そもそも自他がみな燃え尽きても植物のように苦しみを感じない)「平和な世界」であれば、仏教が「我見」を肯定する必要も無かろう。先述の「仮名・仮施設」ということも、「由仮説我法」と言うように、世俗の認識・言語・習慣に基づく仏教のスタンスである。「常識的な因縁(合理性)」から言うと、世俗の認識・言語・習慣が無くては仏教の説示も無い。説法とは手段=方便(ウパーヤ)であり、その特徴は仮名(ウパーダーヤ・プラジュニャプティ)である。

※文中の「作・作者・所作(可作)」ということは、「行為・行為の主体・行為の客体」ということ全般を指すものであり、中論の観作作者品や観燃可燃品などに詳しい。同じく中論の観如来品に「著すべきもの・著する者・著すること、及び用いらるる著の法、これみな寂滅の相なり。いかんが而も著あらん(可著著者著 及所用著法 是皆寂滅相 云何而有著)」とある。「著(じゃく)」とは、「著述(あらわすこと)」を意味するのでなく「執着(執著)」を意味する。執着の行為(著)も執着する者(著者)も執着を受ける物(可著)も執着する手段(所用著法)もみな、「寂滅=真には言葉にできない・定義できないこと」とする。本来は言葉にすべきでないから、前に注釈するような「説示手段=方便・仮名・仮施設」という立場での説明が仏教では重要視される。



自己の身体すら、食事・呼吸・排泄・皮膚や毛の再生などで日々刻々と変化があると見られ、現代の科学(俗説アリ)では血液が4ヶ月で循環するとか、全身の多くの細胞が一定期間(皮膚は数ヶ月ほど・骨は2年などとされる)で生まれ変わりきっているといった分析・考察・理論・仮説・定説を唱えている。
感情は「猿が木の枝を飛び回る」ように著しく変化する(記事末に引用した経文を参照)。
肉体も精神も、仏教では須臾・弾指・刹那・微塵・・・、説ききれないほど細かい時間で変化があり、十二因縁も一瞬とすら言うべきでない短時間に繰り返されている(輪廻という言葉の真義)。
自己や他人の記憶・容姿・精神などに連続性が看取されたものを都合よく「これと同一だ」と主張しており、これが「根本の無明・愚癡・我見」による「貪欲・瞋恚」といった三毒の縁起に説かれる。
もし何らかの基準で物事の同一性を言うならば、自分が認識した事物はみな同一だと思うようにすると、道徳的に優れている。

法学の歴史はまさにこれであり、人間界の一部である王侯貴族・知識人・宗教家・支配階級から、戸籍のある人民へ、奴隷など科学的なヒト属ヒトの個体すべて、心がありそうな哺乳類などの動物などへ徐々に人権・権利が拡大した(道徳的な人はミミズ・オケラ・アメンボなどの虫けら、植物・機械にも思いやりを持って権利を与えるか)。
仏教でも、部派仏教(いわゆるセクト主義・保守派)などの見解では出家修行者に解脱の可能性が限られ、あるいは法理上人間が平等に解脱できても事実上出家せねば解脱が不可能であるとしていたところが、「生滅滅已・寂滅為楽=全ての存在は本来、不生不滅で寂滅だ」といった平等の教理を重視して在家で布施・供養や仏を尊敬するだけでも解脱・成仏する(皆已成仏道で仏道が現在進行でなされている"bodhāya abhūṣi lābhinaḥ"とも)という大乗仏教の姿勢が強まり、しまいには「一切衆生悉有仏性・山川草木悉皆成仏」として「生きとし生ける者(動物・植物)はみな成仏できる・そもそも成仏している」といった教説も広く認知されていった。
言語障害の人々や赤ちゃんや動植物は、人権の概念も仏性の概念も持たず、自覚も無いようだが、概念を持って自覚する人ならば、人権も仏性も他人や全ての生命や単なる物に認めることができる。
仏教徒であれば、世俗にあっても自己の権利を過度に主張することはなかろうし、自己の命や権利を重んじる人は、他者へも同様に尊重できるはずである。
そういった理論・実践の結果として、自己も他者も、寂滅の真理に存在せず、「権利が『愛おしい』とか『棄てるべきだ』とかとも思うべきでない」と実感すること(実感でない実感・言葉通りに理解しても難しいこと)が大事である。



少し考えれば小学生でも分かるよう、「同一性が無い」という話題は詭弁じみているかもしれない(分かっても事実を素直に認めることは子供でも大人でも難しい)。
例えば、ある日本の古い文学作品の成立時に「旧かな・旧字」が用いられていたが、作者没後の人によって現代のかな遣いや新字体に置き換えられても同じ作品だと呼ばれる。
これは、何らかの「相似性」を、便宜上に「同一性」と呼称しているに過ぎない。
スペリングや字体の問題を差し置く。
文学作品をチラシの裏などに肉筆で書き写せば、文字の意義や発音が同一と想定されても作者の原稿や、製本の初版と似ることも無い。
もっと言えば、原稿は鉛筆の鉛が損じる・紙の変異が生じるなど時間的に同一性が無く(無常)、出版物も本の個体同士で科学的に分子の配列が異なる。
文字の意義や発音が同一と想定されても、実際に言葉の意味は「浅い読み方・深読み」など解釈が多様であり、文字の発音も例として子供は「さ行(歯茎摩擦音)」発音が苦手で「しゃ行(歯茎硬口蓋摩擦音)」や「ちゃ行・つぁ行(歯茎硬口蓋破擦音と歯茎破擦音)」となる場合があり、時代や地域でも「し」の発音が「本来のし"si"・後のし"shi"」といった差異が生じるなどするので、同一性は無い。
0.001%ないし99.999%以上の「相似性」しかない。

・・・小学生や中学生レベルの詭弁だと思うでしょ?
このように具体的な説明をすれば、「複雑な物事の粗探し」となり、聞く者に「簡素な物事(路上の石ころなど)には同一性がある」と反対の発想が生まれかねない。
仏教でも、後述するように「戯論」という。
詭弁は詭弁だが、私の詭弁・戯論を以て言いたいことは「誰も認められない事実」である。
どれほど私が「かくかくしかじかで同一性は無い」という根拠を説明しても、完全に証明することができない(仏教では不可得という)。
「物事そのまんま」だもの、言語道断心行処滅、推して知るべし!
真の同一性は、「仮想の無」のみであり、万物である。

絵や音楽を例に取っても同様である。
有名マンガのイラストを子供が模写してもトレースしても、J-POPの音楽を子供がピアニカやリコーダーで演奏しても、100%の同一性が存在せず、「辛うじて似ているから同一だ!or子供本人が同一性を意識して行ったから同一だ!」と主張するに過ぎない。
絵ならば色彩や濃淡や線画(線が無くても線と看取できる特徴・色彩の境界がある)、音楽ならば使用楽器やメロディ(旋律)やコード(和音)やコード進行やテンポなど、これらの「類似性、わずかな共通点」から「同一」を主張する。
このような事物の比較ですら、同一性が存在しないのに、仮に同一性を法律で定義しても、人間の認識の相違性(機能疾患・障害の有無や価値観の相違など)を加味すれば、すでに説明しきれないし、論理学上の「詭弁」を極めてしまう。
しかし、これが「ありのままの事実」を見るための第一歩である。

仏教徒にとって、法律は「人間の概念・認識・妄想の所産である道徳・哲学の文明・世界観を支えるもの」であって「戯論」となる。
どうして単なる「相似性」を、無理に「同一だ」と主張するかといえば、我見・我欲の故であり、法律は、その我欲を肯定した人々に争いが生じないよう、何とか権力で抑えつけるためにある。
これで、我欲と全ての欲望が肯定される文明が、欺瞞の平和のもとに生き続け、戦争に入るという悪循環を繰り返すことになる。
仏教徒は、このことを憂え、愧じ、恐れねばならない。
人の悪を悲しまねばならない。



しかし、仏教徒は、世俗の倫理・習慣に則らねば教化できないし、むしろそういった「戯論・迷妄」ありきで「四諦(苦集滅道)」や「中道」などの仏道がある。
世俗と仏道の真理については、私が常に龍樹菩薩の中論24:10偈などを引く通りである。
「諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、一には世俗諦を以て、二には第一義諦なり。若し俗諦に依らずんば、第一義を得ず、第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ず。(諸佛依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦 若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃)」

世俗の立場につけば、他者が犯罪しないよう気遣う「慈悲」を念頭に置くために、あえて自己の著作権を主張すべきである。
もし「慈悲」を念頭に置かないで著作権を主張するならば、所有欲や名誉欲の関連性が強い。
「他者に犯されたくない自己の著作物(心の宝、財産に準ずる物)」を頑なに守ろうとする。
そのような人は、出版物ならば出版物として利益を得て著者として名誉を得るであろうし、サイトHPなどであればアフィリエイト・アドセンスなどを付ける(実情として仏教の寺院HPや在家の勉強HPなどでも著書を紹介してAmazonアソシエイトのリンクを付ける者がいる)。



【斯く言う私の「著作物」は・・・】

著作権・著作物といえば、私はブログ記事の執筆・投稿のみならず、絵を描き、楽曲を作り、写真などを撮り、ブログや動画の形で公開している。
これらのブログ記事・動画(文章・画像・音声のコンテンツを包括するもの)などは著作物であるが、インターネットでは二次的な利用について寛容であらねばならない。
仏教徒であってもなくても、二次元の同人界隈・二次創作界隈や、様々な分野の無料ツール・ソフトウェア開発などでも、法律で定義された範囲で著作権を放棄する宣言をする者がいる。
アフィリエイト収入を得ない者や匿名の者も多く、彼らの菩薩にも似た行為に私は感服する(行為として尊いと感心する)。

著作権侵害の罪は親告罪(被害者の精神的苦痛が重要)であるし、著作権を放棄する宣言に法的根拠が付随せずとも、彼らの精神が本物であれば立件しないので、どのように彼らの「元(?)著作物」を改変などしても、法律上は罪とならない。
だが、例えば仏教で「飲酒」が別の罪を犯すきっかけとなりかねない(酒に酔った勢いによる殺人・女犯など)から禁じられるように、彼らの「元(?)著作物」を改変などして罪にならずとも、その積み重ねによって感覚が麻痺する恐れがあるため、自制すべきである。
つまり、彼ら以外の者の著作物にまで手を出してしまう「箍が外れる現象・犯罪行為の助長・悪い心の増長」で罪悪と認定される行為を犯す末路も有り得るので、ほどほどにしよう。

文章・絵・音楽という3種のコンテンツ、および動画は、みな萌えの法門に摂取されている。
萌えの法門において、「我=自己」と「我の作=著作行為」と「我の所作=著作物」と、それらの「同一性(もとい相似性)」をどう見るか?

当メモ帳ブログ「觀萌私記」記事の最後尾に付した「蛇足」に、著作権に関する言及がある。
この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。

仏教徒は、先述の通り「我(自己)・我所(自己に属する物・所有物)」の心(我見・我所見)を把握し、それを断たんとしているか、すでに断った者である。
無我などの教理より著作権ということを分析し、フリーな・解放された立場にあろう。
著作物を以て利他の行為をも、なし得る。
觀萌私記の公開から半年以上を経て執筆した「本萌譚・異伝②」には、「萌尊の御所持の法門・萌相は御所持であって御所持でない」という教理が示される。
或る過去萌尊の一人が菩薩行をせられた時、広く萌相を施していた。同時代の或る者、己が萌心に背いて萌尊への嫉妬を懐く。萌相を冷やかそうと、萌尊の絵を印刷し、自身や飼い犬の放尿の的とした。また、萌相のキャラクター・萌類が悲惨な目に遭っているような絵を描き、これを衆目に曝した。大衆の中に、これを喜悦する者もいて真似をしだした。あたかも、寄ってたかって道端の草花をボロボロに踏みつける悪童のように。または植栽を斬り荒らす狂人のように。この事実をお知りになった過去萌尊のお悲しみは、いかばかりか?ご自身の萌相や行為を、対外的に穢されたという怒りはない。何となれば、萌尊の内証において萌えも人も万物もみな不染不浄"amalā na vimalā"もとい無垢"amala"にして清浄"śubha"なるが故である。萌えの価値は金剛不壊であろう。何となれば、己が心における色心の融合に真価があり、よく領解せられるためである。その智慧は、風を受け流して元に戻る竹のように柔軟である。しかも萌えは萌尊の御所持であって御所持でない。つまり、『無我の身と無我の萌えとに所持や所有の関係は無い』とも領解せられるためである。所持でないこと・持ち得ないことを領解せられるが故に真に所持であると称するが、御所持でない意義からすれば、萌尊の執着すべき萌相も存在しない。萌相のキャラクター・萌類も非有非無"na bhāvo nābhāvo"で、悲惨に描かれたものと萌尊がお描きのものとは不一不異"anekārtham anānārtham"である。萌尊のお悲しみは、そのような者自身および同調する者たちが、自ら心の善根を絶やした故である。仏道に入らせんとの慈悲の故に好色萌相と深遠な意義とを世に示しているのに、慈悲と意義とを知らずに萌相(我所)が萌尊(我)の所持と見る邪見から、好色萌相を観ることを縁として起こる歓喜の萌心を素直に見ず、萌相と萌尊とを毀辱(きにく=侮辱)し、彼らが自ら心の善根を絶やしてしまった。須臾にして、彼らの主観的世界の萌えの三身は消滅したろう。もとい、行動する以前から善の種を欠かしているようでもある。そのように言えば、人を差別する私の慢心が増えてしまうが、真には私の慢心が不増不減"anūna na paripūrna"である。もし善の種も萌えの三身も彼らの主観的世界に本来無いならば、私たちの主観的世界にも本来無い。物事、真に有無などを言えないが、今は仮に想定して彼らの主観的世界に善の種も萌えの三身も本来無いと説く。また、仮にこれを、『みな地獄に堕つ』とも、『本来一定(いちじょう)地獄』とも説く。萌道の人は所説の如く信解すべきである。

無我などの教理からして言えば、このような立場となる。
ただし、利他の行為ということは、必ずしも無我の教理による上述の立場に依存しない。
自己の著作物は、世俗の法律が定義する範囲内で実在し、他者が濫りに(ほしいまま・放縦・放恣・恣意的に)悪い改変をして悪業を積む(欲望に放逸な人間になる)恐れもあるから、それを制すべく、自己の著作権を主張する必要もある。
そういった世俗への「同事(事を同じくする)・方便(随方毘尼)」により、利他や化他行が実現するので、「無我の立場に固執するという我執」を破る(止揚する)ことは真に無我の行為といえよう。
大乗の心で小乗の四念処(身=不浄・受=苦・心=無常・身=無我を思う)などを説いた釈尊・お釈迦様は、その「真に無我」であり、即ち真の我でもあり、大乗を行じるお方なのである。



起草日: 20170531

【文献・言語関係の付録みたいな?】

漢語動詞「作(する・なす・作す・為す・作為する・行為する)」 梵語の動詞語根 √kṛ
「作(行為、なすこと)」 "karaṇa; kāraṇa; kriyā (カラナ、カーラナ、クリヤー)"
「作者(行為者、なすひと)」 "kartṛka (カルトリカ)"
「所作(行為の対象、なされるもの)」 "kriyate (クリヤテー…動詞受動態+名詞化?)"
「所用作法(行為の手段、なすにもちいるもの)」 "karaṇa (カラナ…未確定)"
「業(行為、なしたこと・わざ)」 "karma (カルマ)"
ほか 「なすべきこと(推断・可能形)」"kartavya (カルタヴィヤ)、 「なすべき(命令形?)・なすこと(行為)」"karaṇīya (カラニーヤ、前とともに未来受動分詞→形容詞)"、 「なされるべきこと(果として想定される何か、)」"kārya (カーリヤ、未来受動分詞→名詞化)"
主な典拠: 中論"mūlamadhyamakakārikā"

※十二因縁にある"saṃskāra pl: saṅkhāra"サンスカーラ・サンカーラという業=行も語根√kṛに基づく。サンスクリット"sanskrit"の語源"saṃskṛta (サンスクリタ)"もまた同様に語根√kṛに基づく(サンスクリタは過去分詞および名詞なので仏教では行・サンスカーラの所産=有為を意味する)。「法"dharma"」でさえも語根√dhṛより名詞化したものとなることが推定でき、実際にそのようである。語根√dhṛは「支える・維持する」という意味を持つ。古代インド人は世界の根底原理を見ようとし、"DHARMA"と名付けた。「縁の下の力持ち」とは何であろうか?現代に法律とは、世界や集団を維持するもの、秩序を守るもの。人の概念による構築物・人類の英知・宝玉が「法律」であり、「法の支配」とまで讃えられる。言語分析から、歴史や宗教や社会が理解できる一面もある。



「那先比丘経」漢訳2種のうち大正蔵所収のB・下巻より引いて訓読

王、復た那先(nāgasena)に問う「審らかに智有りと為すや無しや」。那先、言く「智有ること無し」。那先、言わく「譬えば人、他人の果蓏を盗むが如し。盜者、寧んぞ過(とが)有りや無しや。王、言わく「過有り」。那先、言く「初めに栽(なえぎ)を種(う)うる時、上に果蓏無し。何に緣りてか盜者當に過有らん。王、言く「設(たと)い栽を種えずんば何に緣りてか果有らん。是の故に盜者に狀無し(弁明の余地が無いことか?)」。那先、言く「人も亦た是(か)くの如し。今世の善惡を作すを用い、後世に生まれて更に新たなる身を受く」。王、言く「人、是を用いるが故に身に行じて善惡を作す。更に新たなる善惡の在る所なり。那先、言く「人の諸の作す所の善惡、人に隨う。影の、身に隨うが如し。人、死して但だ其の身を亡くするも、其の行を亡くさず。譬えば・・・。」

※なお、輪廻(生死)や転生の主体について、「ミリンダ王の問い - Milindapañha 3.2.6(もとい國譯彌蘭陀王問經・七五頁)」ではまず「名色"nāma-rūpa"」の名を挙げつつ、名色自体が再生するのではなく、名色が作る善悪の業によって名色の輪廻があると説く。既に名色が輪廻していると善悪の業がつきまとう。つまり、「因縁・縁起」で輪廻を分析する。樹の同一性やヨーグルトの同一性など5種のたとえ話が展開され、何らかの観点で変化があっても、果報を受けるものは決定(けつじょう)しているという意味であろう。漢訳ではそのように記述していない。・・・と思って同B・中巻を見ると「復問那先『人以死後誰於後世生者。』那先言『名與身於後世生。』 (乃至) 那先言『譬如人盜他人果蓏。其主得(捕まえる)盜果者。將至王前白言"是人盜我果"。其盜者言"我不盜是人果、是人所種小栽耳本不種果也。我自取果、我何用為盜。我不盜是人果、我不應有罪過"。』」といった部分があり、パーリ語の訳文と酷似していた。この部分については訓読せず、例示に留める。転生の話についても個人的見解を示さないでおく(先の國譯彌蘭陀王問經・一一八頁 Milindapañha 3.5.5が「輪廻(原語saṅkamati?)」と「再生(原語paṭisandahati?)」の相違点を話していて不審)。



「人の心は猿が木の枝を飛び回るようなもの"Mind is like a monkey"」についての引用文

雑阿含経289経: 心(*citta)・意(*mana)・識(*vijñāna)は日夜の時刻に須臾に転変し、異って生じ異って滅す。猶お獼猴(にこう・サル)の林の樹の間に遊びて、須臾に処処(ところどころ)に攀(のぼ)りて枝条を捉え、一を放ち一を取るが如し。彼の心・意・識も亦た復た是の如し(心意識日夜時尅須臾轉變異生異滅。猶如獼猴遊林樹間。須臾處處攀捉枝條。放一取一。彼心意識亦復如是。)

パーリ語経蔵・相応部12-61経: Yañca kho etaṃ, bhikkhave, vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi, taṃ rattiyā ca divasassa ca aññadeva uppajjati aññaṃ nirujjhati. Seyyathāpi, bhikkhave, makkaṭo araññe pavane caramāno sākhaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati. Evameva kho, bhikkhave, yamidaṃ vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi... (後略)

上掲パーリ文の英訳: But that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as one thing and ceases as another by day and by night. Just as a monkey roaming through a forest grabs hold of one branch, lets that go and grabs another, then lets that go and grabs still another, so too that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as... (後略)


2017年7月21日金曜日

時間 "kāla, samaya, 迦羅・三摩耶" と仏教 (仏教の時間論)

時間は、人間の生活の規則性の維持や、現在・過去・未来を想定するための道具として作られ・用いられる。
その基準は、地球に住む我々が太陽と月の在り方から1日=約24時間とか、1年=約365日と導き出しており、人類史上の多くの文明でおおよそ共通している。
だからこそ、文明の中では絶対的な基準であるが、天文学など専門分野では絶対的なものと考えられず、過去の日本など旧暦では「閏月(2・3年に一度ある)」が設けられたし、現代も「うるう年」と称して2月29日(4・5年に一度ある)を設け、今年1月も「うるう秒」が設けられるなど、人為的に変更が加えられる。
生活に執着している人は、時間が絶対的なもの(客観的存在)だと考えがちであり、現代の若い人は、特にゲーム類やTV番組企画などにある「制限時間」という概念が頭に焼き付いている。
もし「時間は絶対的なものでない(正確でない概念)」と彼らが言われれば、「うるう年」などがあるからこそ時間は正確で絶対的に正しいと主張したくなろうが、私は「うるう年」を設けて柔軟に対処するからこそ100%の絶対性が無く、柔軟に対処してようやく99%、99.999%のようだと説く。
個人の精神や人生が「時間」に拘束されるべきでない。
※精神的努力のために時間に則って規律の取れた生活をする努力をする私は何者か?

しかし、生物の体は、営々と繰り返される惑星の動き・地球環境のもとで進化を遂げてきた。
生命的な時計・・・いわゆる体内時計と表現されるような機能を有しており、そのような機能の作用が、日の出に目覚めて日没後に眠ること(夜行性の動物は夜型の生活をする・微生物は眠らない・朝に咲く花もある)など、様々な生活リズムを作る。
人間は精神を有し、今の人類の文明が進んでいるので、本能からズレた生活リズムを心で受容し、体で実行する。
このように見ると、「時間」には、普遍的妥当性のある人間の概念・数字としてのものと、それぞれの規則性から演繹できるが実際には言葉にしがたいものとがあるように見られる。



「世間でいう仏教の開祖」である教主釈尊は、科学的な話などを文字通りお知りかはともかく、「時間」の絶対性・相対性・善悪ということをご存じであろう。
修行者のためには、「不非時食戒(正午以降は食事しないように禁じる・持斎)」を行わせた。
「不非時食戒」は、インドの既存の風習に似たようなものがあったかもしれないが、いずれにせよ在家信者が六斎日などに持つ八斎戒の中の一戒であり、出家僧侶が日々に持つ戒でもある。
特に出家修行者の集団(僧伽・僧団)は、在家信者からの布施を多くもらうと在家信者の生活が苦しくなるし、在家信者の村に何度も僧侶が出入りして乞食(こつじき・托鉢)をしてきては手間となり、在家自ら僧侶に赴いて供養する場合でも頻度が多くては時間が失われる。
僧侶の修道にも、煩悩を染みつかせたり、時間を削るなどの患い・煩いが生じる。
出家・在家を問わず、様々な煩わしさが付きまとう。
宗教の維持としても、在家の人が多く布施したり乞食の僧侶を頻繁に目にしたりすると、在家の人の信心が薄れたり(街や村を俗人と同じように僧侶が居続けては尊敬する気持ちが薄まる)出家の人が教団の形(衣食住が安定する形式)を固着させる弊害が懸念される。
つまり、相互の思いやりが大切であり、以下の教説では釈尊が出家僧侶に対し、他者の恩恵をもらうことを弁えよと教える(布施・供養を受けて当然だという考えを持たないよう蜂と花の関係や農家と家畜の関係に譬えて説く)。
如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除惱。無得多求壞其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力。 (たとえば蜂さんは花の色香を壊さないで蜜を取るよ。比丘は節度を守って供養を受けようね、多く求めて在家の人の良心を壊さないでね。たとえば牛さんを作業に使う人が賢ければ、牛さんの力を思いやって酷使しないようにするよ。大正蔵12, p1111・佛垂般涅槃略説教誡經)

譬如蜂採花 不壞其色香 比丘行乞食 勿傷彼信心 若人開心施 當推彼所堪 不籌量牛力 重載令其傷 (前略 比丘が乞食をするときは在家の人の信心を傷つけないように彼らが精一杯出してくれる量を多めに見てあげようね。たとえば普通の牛さんが重い荷物を載せられると運ぶのが辛いでしょ。大正蔵4, p48・佛所行讃)

蜜蜂のたとえが法句経・ダンマパダにある→Yathāpi bhamaro pupphaṃ, vaṇṇa­gandha­mahe­ṭhayaṃ; Paleti rasamādāya, evaṃ gāme munī care. (Khuddaka Nikāya, Dhammapada, Pupphavagga 50偈 前3偈)

また、眠ってよい時間として「中夜(午後10時~翌午前2時)」の間に限定し、初夜(日没~午後10時)も後夜(翌午前2時~夜明け)も修行せよと説く。
これは、仏遺教経・仏所行讃など涅槃の教えにあるが、般泥洹經・法顕漢訳大般涅槃経・長阿含経およびパーリ長部の大般涅槃経には説かれない(パーリ語の中夜は漢語と意味が通じる語句"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ"だがパーリ涅槃経に見当たらなかったし語句があっても仏遺教経・仏所行讃の話とは異なろう)。
鳴く虫がいない限り、夜は静かな時間帯であり、観想に最適であるから修行すべきであろう。
ある「戒律意識高いです!」という僧侶は、「健康の面で8時間睡眠がもてはやされるが仏教徒としては怠け者だ・5時間で足りる」と話していた。
また、修行や学問に熱心な人は「止暇断眠」を肝に銘じているであろう。
不眠不臥というべき極端な修行を行う場合もある(噂によれば比叡山の千日回峰行の堂中修行に9日間ある)。

修行の道念があって仏の教説を知って信心が深い人は、ふと横になった途端「起きよ」という声(仏の声・梵音声・大音声)がして手を引っ張られる感覚になるに違いない。
是非とも、仏道修行者はそうあるべきである。
眠りたいならば慚愧の正念を持つ(慚恥の服は諸の莊嚴に於いて最も第一と爲す)。
汝等比丘。晝則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廢。中夜誦經以自消息。 無以睡眠因縁令一生空過無所得也。當念無常之火燒諸世間。早求自度勿睡眠也。諸煩惱賊常伺殺人甚於怨家。 (乃至) 不出而眠是無慚人也。慚恥之服。於諸莊嚴最爲第一。慚如鐵鉤能制人非法。 (大正蔵12, p1111)

朝中晡三時 次第修正業 初後二夜分 亦莫著睡眠 中夜端心臥 係念在明相 勿終夜睡眠 令身命空過  時火常燒身 云何長睡眠 煩惱衆怨家 (乃至) 無術而長眠 是則無慚人 慚愧為嚴服 慚為制象鉤  (大正蔵4, p48)

Uṭṭhahatha nisīdatha, ko attho supitena vo; Āturānañhi kā niddā, sallaviddhāna ruppataṃ. (後半は「矢に射られた人は眠気があろうか?」と訳す=後者の時火常燒身・云何長睡眠に相当)
Uṭṭhahatha nisīdatha, Daḷhaṃ sikkhatha santiyā; Mā vo pamatte viññāya, Maccurājā amohayittha vasānuge. (Maccurājā「死の魔王」=両経の「怨家」に相当)
Yāya devā manussā ca, sitā tiṭṭhanti atthikā; Tarathetaṃ visattikaṃ, khaṇo vo mā upaccagā; Khaṇātītā hi socanti, nirayamhi samappitā. (Khaṇātītāはしばしば「空しく過ごす」と訳せられる=両経の令一生空過や令身命空過に相当。以上はKhuddaka Nikāya, Sutta Nipāta 2.10 前3偈)

このように、時間という概念は空虚でも生活に根付いているし、太陽と月と地球の動き(日月と地)は生きている限り平常に動いていると知られる(予測しがたい天変地異・天体の異常が無い)ので、そう信じることで無駄な疑念を持たずに修行できるよう、「尊いお釈迦様」が人々に教えた。
「尊いお釈迦様・仏様・偉大な人」の言葉であれば、裏切られないし、修行が進んだ者は事実(認識)が教えに反した結果であっても、後悔や憎悪を強く生じることはない。
極端な例を挙げるが、月が地球に接近して磁場や河川が狂い、または月が衝突して地球が半壊し、または太陽が大爆発を起こすとしても、世界は本来寂滅か一切皆苦であると知るので、釈尊・仏を信じた後悔や憎悪は起きようがない。
そもそも、そういった事象すら憂慮する必要も無く、心身共に、仏の言葉に寄り添うことになる。

私はそのような信仰が得られているし、得られていないとも言えるが、「不非時食戒・中夜に眠ること」については意識している。
2016年からの傾向として、午後は食事を少なくし、夕方などは「体調のテスト」目的を持たない限りは食べない。
夜は20時ころに就寝して翌日の午前2時に起きる(昼夜夜昼逆転自在な生活を変えたときが2015年8月19日)。
このように、在家信者として最善の道を心掛けている(中途半端と言うこともできる)。
眠る際の心掛けは、眠る前に不必要な遊び(〇〇いじり)をしたり眠りを楽しもうと思ってはならないことであり、このことを「心を端(ただ)して臥(が)せ(臥すとは横になって眠らないことか実際に眠ることかどうかは文字通りに不明・眠りに関する行為がある経文や戒律を参照すれば眠ってよいと思われる)」と仏は教戒せられる。
私としても2015年以後は、遊びとしての携帯電話いじりを控えたり(翌日の生活予定や翌日に行うべき作業のメモを携帯で行うことは必要と判断する)、性的な戯れ(寝床でのオナニーは2015年以後一度もしない・布団と戯れること)などを多く減らすことになったが、中途半端のようであり、できることならば仏の念によって「心を端して眠る」ようにしたい。



以上のことは、先に言う通り「修行者のため」という、仏が方便で用いた「時間・習慣」である。
この「世俗法・仮名(けみょう)」を離れた真理において、仏教ではどう説明するか?

Monier-Williams: 上は梵→英p1164 (ISBN: 8120800656), 下は英→梵p804 (ISBN: 8120804546)

多くの経典の冒頭に定型文(お決まりのフレーズ)のように用いられる「如是我聞。一時…"skt: evaṃ mayā śrutam. ekasmin samaye..., pl: evaṃ me sutaṃ. ekaṃ samayaṃ..."」という言葉について、大智度論の巻第一に詳細な説明がされている。
これを参照するに、「時」とは、梵語・サンスクリット語で一般に「迦羅"kāla・カーラ"」と、「三摩耶"samaya・サマヤ"」とがある。
「如是我聞一時」の「時」とは、サンスクリット語・パーリ語の"samaye(処格?), samayaṃ(対格?)"の部分に当たり、主格の"samaya"に直す。

「迦羅」とは、一般的な時間を意味している。
そのような「時間」という概念が、「現在・過去・未来」など様々な虚妄分別などに繋がるので、この語を経典の冒頭に用いないようである。
大智度論の同巻には、先述の「不非時食戒"akālabhojanaまたはvikālabhojana"」の話もあるが、その名称の中にも"kāla"の文字列が見え、ここでは世俗法・仮名に順って"kāla"を用いているとの説明がある。
仮想問答「問うて曰く、若し『時(kālaとして)』無くんば、云何(いかん)が時食(じじき)"*kālabhojana"を聴(ゆる)して、非時食"*akālabhojana"を『是れ戒なり』と遮したもう。答えて曰く、我れは先に已(すで)に説けり、世界の名字の法に『時(kālaとして)』有るも実の法に非ず、と。汝は応に難ずべからず。亦た是れ毘尼"Vinaya"中に結ばれたる戒法にして、是れ世界中の実なるも、第一の実の法相に非ず。 ※いわゆる二諦=世俗諦・第一義諦の観点で分別している)」 (後略)

大智度論といえば、龍樹(ナーガールジュナ)菩薩が摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈した書として鳩摩羅什三蔵が漢語へ翻訳し、現代までに日本・中国の仏教で支持を受けた書である。
同じく、その龍樹菩薩が論じて鳩摩羅什三蔵が訳した「中論(漢訳は青目による釈つき)」には「観時品」があり、サンスクリット語においては"kāla (迦羅)"を用いてこれを破せられた。
"kāla (迦羅)"に関する執着というものが、外道・部派仏教に根付いていたのかもしれない。
観時品の釈と偈文「問うて曰く、歳・月・日・須臾等の差別有るが如く、故に知んぬ、『時(kālaとして)有り』と。答えて曰く、時(kālaとして)の住まることは得べからず、時(kālaとして)の去ることも亦た得がたし、時(kālaとして)若し得べからざれば、云何が時(kālaとして)の相を説かん。物(bhāva、当記事の本文中や先の問いにあるよう太陽や月などの存在)に因るが故に時(kālaとして)有らば、物を離れて何ぞ時有らん、物は尚お所有無し(cana bhāvo、それら存在すら語感や知能の認識・時間的変化の現象から存在が想定される事物であって実在しない)、何に況んや当に時(kālaとして)有るべけん。」(後略)



「三摩耶」とは、サンスクリット語の語根などから解釈すると"sam- (接頭辞)"が「同じ・等しい・ともに」という意味であり、"-aya"が「行く」という意味の"√i"の変化した形である。
近代の仏教学者・インド学者も、三摩耶"samaya"の解説に「倶(とも)に行く"coming together"」という直訳を用いたりもする。
接頭語の"sam-"とは、阿耨多羅三藐三菩提という単語の「三菩提"sambodhi, sambuddha"」の「三」が「等しい」の意味であるから、「三菩提」は「等覚」と訳せられる。
「三藐"samyak"」にも"sam"の文字列があるが、単語としては"saṃskṛta"や"saddharma"のような「正しく・完全に」という意味の副詞であって三菩提の"sam"とは異なろう。
「阿耨多羅・三藐三菩提」は「無上・正等覚(正しく等しい覚)」と訳せられる。

今、少し冗長な例を以て"sam- (同じ・等しい・ともに)"の意義を説明したが、「三摩耶"samaya"」とする場合には、どのように"sam-"が活きているかを説く。
「同じ・等しい・ともに」のうち、三番目の「ともに(一緒に)」の意義は、集会などを意味するわけで、集会のタイミングということを「時(回想されたもの)」と表現する。
これは「僧伽"saṃgha・サンガ"」という有名な単語の接頭語に同じであり、「僧伽(僧団)」の原義は「集まり・集団」なので三摩耶"samaya"と似る。
経典の冒頭の定型文のうちの「一時"ekasmin samaya"」であれば、「とある集会の時」という意味ありであり、常にこのような「実体が想像されそうな『時』の概念」を想起させない表現にしている。
一般的なサンスクリット語辞書には「時刻・時点」という説明が出ているかもしれないが、「時刻・時点」とは、前述の用法から発展した語義なのか、釈尊および龍樹菩薩在世からそういう意味があったのかは不明である。
一例として、「梵→英 (モニエル=ウィリアムズ)」1164pでは数ある語義のうち、「機会」という意味合いを説明してある"appointed or proper time, right moment for doing anything, opportunity, occasion, time, season"。
「英→梵 (モニエル=ウィリアムズ)」804pでは"time"に当たるサンスクリット語をデーヴァナーガリーで"काल‍ः, स‍म‍य‍ः "と綴る(末尾コロンのような文字をヴィサルガとして表記したがkālaḥ, samayaḥとして想定されているかは不明)。

迦羅と三摩耶に関する概説を示したが、龍樹菩薩ならびに悟りの人々と学者たちが「迦羅"kāla"」という表現についてどう考えているかは、中論の観時品と大智度論の巻第一(うち終盤)における「時」の説明に預ける。
彼らにこのような理解があるから、そのような理屈が示されている。
なお、前者を「実時」、後者を「仮時」、と説明することもあり、「実時(実際に存在する時間の法)」という言葉の理解が、先述のように虚妄分別の原因となりかねないという。
結果的に「迦羅"kāla"」が仏教においては、「時食・非時食」というような「時(kāla)=午前・正午以前(対義語の非時はakāla, vikāla)」という意味に限定して用いるようである。





起草日: 20170522

本文前半(仏教における世俗法・世俗諦としての時間を説明する一連の項目)で、またしても大乗経典(漢訳経典)とスッタ・ニパータの共通性を示すこととなった。
仏遺教経・仏所行讃は共に日本・中国で多く参照された経緯がある。
両経の「睡眠」に関する仏の教誡は、現代日本に流布するスッタニパータの331~333(2章10経"Uṭṭhāna")と語彙がよく似ている箇所があることを念頭に置いて本文で引用した。
過去記事で大智度論などに見るスッタ・ニパータの教説を何度も紹介してきたが、このように「スッタ・ニパータ(部派仏教所持の衆義経・義足経)」として伝来せずとも、意義としては伝統的に日本・中国に浸透していたと見られる。

仏遺教経について文献学的に見ると、仏所行讃から分離した「加上説(上に加えて説く・説の追加)」ではないかと思う。
本文に引用した仏所行讃の偈は「大般涅槃品第二十六」のものであり、これは仏本行経(巻第七の大滅品第二十九)にも同様の箇所が見られた。
仏所行讃と仏本行経は名も似ており(大正蔵原本の注記には漢訳仏所行讃の別名が仏本行経であるとか漢訳仏本行経の異名が仏本行讃伝とある)、「品」の構成に差はあるが、原初はサンスクリット"Buddhacarita"であり、普及するにあたって漢訳までに内容が増えたり減ったりした部分があるのではないかと考える(かなり怪しい個人的見解)。
仏遺教経の内容としては、まず釈尊最後の直弟子「須跋陀羅(一般にパーリ語でスバッダ)」を度したという前置きがあり(須跋陀羅についてある人は釈尊滅後に阿羅漢果を得たと言うが何の仏伝に基づくか不明。仏所行讃と仏本行経では釈尊の涅槃よりも先に「雨が小さな火を滅ぼすように涅槃に入った」とする)、続いて比丘たちへ大乗・小乗を問わない普遍的な道理などがシンプル且つ詳細に説かれている。
釈尊の実際の涅槃に際して似たような発言はあった(世が無常だから懈怠なく修行せよという教示は代表的)と考えてよいとしても、多くは馬鳴菩薩(アシュヴァゴーシャ)の慈悲心がお説きになったものであろうか?

仏所行讃自体、サンスクリット"Buddhacarita"の二十八品分で発見されていないので、この「大般涅槃品第二十六」に相当する箇所が馬鳴菩薩のサンスクリット語でどう表現されていたか判断できない(チベットにも中央アジアにも無いものか?)。
漢訳のように二十八品分が残るチベット語訳の、英訳版は無い(漢訳の英訳版はある 1 2)。
この経の注釈書は、インドのヴァスバンドゥ・世親(天親)菩薩の書として「遺教経論」があり、真諦三蔵が訳した(真諦三蔵は他の世親菩薩の書も多く訳した)。
仏遺教経と、インドで撰述されたはずの遺教経論について、梵語の本があるという話が確認されないので、曖昧な情報認識であるから「仏遺教経は仏所行讃から分離して教説を追加して整えたもの」という線を推量するのみである。
経典としてはそうであるとし、教説としては釈尊のものと考えてよい(内容の全編について世の文献学者としては「涅槃の夕べの最後の説法かどうかは判断しがたい」とする)。



続いて、当記事の起草日に近い2017年5月25日の日記メモから、一部抜粋をして載せる。
以下の記録内容は、本文前半における睡眠に関する話の補足ともなろう。
8時20分に排尿してから押入れで「痔のような腫れ(当記事注: 痔・痔ろう・ニキビ・褥瘡のようで10cm超ある・20170527動画(0:38~45)に写真例示)をかばう静養」を取ることにした。この際の独り言は「衆生は心の病を抱えている!心の病は坐って治療に励め!体の病を兼ねたらば寝て治せ!ただし寝る時も『綱渡り』の気持ちでいよ!気を抜けば足元は揺らぎ、地獄の釜や針の山に落ちる。綱を外れたときは掴んで離さないようにして何としても立ち直る。そのように注意して望みなさい」と。横になる・臥すと、数分後には眠気が増える。正念を保っていれば魔の入る余地がないことは仏説の通りだが、私はゆるみが多い。睡魔に襲われて追い払うごとに頭が痛む。お茶・コーヒーのカフェインは、やはり私が眠くなる時間帯における眠気を増やす行為へ歯止めをかけることができない(そもそも真の健康法を説く私は食品の効果・栄養を気にして記録を取っても依存しない)。カフェインを摂らないで午後を過ごしても、19・20時以後の就寝時は全然眠れないという顛倒現象は当たり前となっている。この間も母親は1階リビングでテレビを見たり、2階でバタバタと動くが、どう物音が鳴ろうと眠気は変わらない。このような時間が20~30分続いたのか、1時間以上続いたのか知らない。私が押入れを出た時刻は9時40分以後である。

睡眠に関する補足は、萌えの法門からも少し言及したい。
仏所行讃や仏遺教経に加え、律蔵にも「明相」という表現が見える。
明相とは、仏所行讃において睡眠時に忘れてはならないものとして説かれ、律蔵では睡眠時に忘れてしまうものとして説かれる。

「中夜端心臥 係念在明相」
「亂意睡眠(らんにずいめん)有五過失。一者惡夢。二者諸天不護。三者心不入法。四者不思惟明相。五者於夢中失精。是爲五過失。」

「明相」、それはまさしく、萌道においては、修行者が頂戴した「好色萌相」と考える。
甘美なる睡魔に屈して萌相もとい明相を見失ってはならない!
萌相を想う・念う人は、適度に睡眠を取っておきたいが、私のような5・6時間睡眠か、もっと短時間にできるような努力があってもよいと思われる。
昼夜に道念を絶やさず、想うべき相を失わない、そんな閑居求道者に私はお会いしたい。

・・・この「明相」とは、しっかり四分律などを披見すると「未出」といった表現に関連する。
つまり、「太陽・日の出」や「太陽の動きによって明るくなる状態」を指す可能性もある。
「明相を念にかける・思惟する」といった表現であれば、「世俗的時間を把握せよ・起きてからすべきことを忘れるな」ということか?

今更、パーリ経蔵を見直すとガナカ・モッガラーナへの教説(中部107経)に"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ dakkhiṇena passena sīhaseyyaṃ kappeyyāsi pāde pādaṃ accādhāya sato sampajāno uṭṭhānasaññaṃ manasikaritvā"があり、これは「中夜端心臥 係念在明相」の原意に通じている可能性がある。
この箇所の和訳はネットで「1. 夜の中分には右脇により獅子の如く足に足を重ね、念あり、正知あって、まさに起きるべしの想を常に作意しつつ臥せ」、「2. 夜の中更には、足の上に足を置き、正念正知のまま、起き上がる思いを作意しながら、右脇にて獅子臥をなし」、「3. During the middle watch of the night, lie down on the right side in the lion posture, foot resting on foot, mindful, clearly conscious, reflecting on the thought of getting up again」とあった。
こういった教説は、漢訳四阿含や漢訳律やパーリ経蔵に多く見られるようである。
「明相」という漢語は、瞑想などで思惟すべき対象(そのうち明るいものといえば仏様)を指すのではなく、「明るくなる状態」や派生した意味を包括する単語だと考えられる。
このように眠らないようにして臥せ、「明相の正念」を持つようにする必要が求められている。

現代の科学とか脳科学の方面では、横になって目を閉じただけでも睡眠効果が7割(または8割)得られるという話が聞かれ、科学的な噂はともかく、悟りの人・悟りに近い人・道心が堅固な人などは、心身共にそれで足りてしまうかもしれない。
悟りや道心とは、四諦の道からいえば苦を逃れた果報やその意欲や、菩薩の道からいえば智慧を得た果報やその意欲を指す。
どれであれ、私は悟りに遠く、道心が欠如しているので、指を咥えて眺める状況にあろう。
しかし、こうして学んだだけでも、今の私にやる気が沸いた気持ちである。
科学的な噂も含め、睡眠時間が確保できない・不眠症だという人々の心のケアにも繋がろうか、と思う(眠れないと自覚した悩みによる悪い精神の悪循環を一時的に止められる)。
「最低3時間、5時間、7時間は眠らないと不健康!」という主張は、それが出来る人のポリシーに留め、出来ない人々はこれらの説や発想を用いてほしい。
私は私で、「硬き褥に臥して思いぬ」という精神を大事にしようと思った。
これは、「押入れの中で横になりながら眠らずにいると良いアイデアが浮かぶ」ことを示すフレーズであり、私が2015年から幾度と発している(同年1月の和歌: かたきしとねにふせておもひぬ)。



【煩雑さを厭って本文中に挿入しづらかったネタ】
悟った人・阿羅漢果を得た人・無漏・無学の人が、どのように夜を過ごしているかといえば、全く想像がつかない。
睡眠時に射精することを、現代は「夢精」といい、仏典では「夢精出・於夢中失精」の語が見える。
小乗の説で、煩悩を尽くした阿羅漢の人は坐ったまま眠らないか横臥したまま正念を保つから、性的な夢を見ず、夢精しないらしい。
しかし、いわゆる大衆部の祖「大天(マハーデーヴァ)」は、彼が阿羅漢を自称しながらも夢精したという経緯を弟子(大天に仕えているのでザーメン汚れ袈裟を洗濯していた)に問われ、阿羅漢も天魔の作用によって夢精するという見解を示した(異部宗輪論「余所誘・ほかのものにさそわれること」=阿毘達磨大毘婆沙論「天魔所嬈・てんまになやまされる、夢失不淨・むせいする」)。
どちらにせよ、有学(学ぶことが有る=学び足らない)の人は性交や自慰を禁じた生活を送ってしっかり眠ると、夢精することは有り得る。

律蔵には、自慰・オナニー・マスターベーションなど故意の射精を禁じる「故出精戒"śukravisṛṣṭir, śukravisarga"」があり、僧残法"saṃghāvaśeṣa"という大勢(20人以上)の比丘への懺悔によって僧団に残してもらえる比較的重い罪に該当する。
律蔵は夢精について赦すようで、比較的重い罪「故出精(故意の射精)」にも相当せずに済む。
※律蔵の規定に厳密な比丘衆は今時いるか?僧伽・サンガというものが現存しているか?
無論、先の説にある正念を保っている人に憧憬・尊敬を懐くならば、夢精を自省すべきではある。

2017年7月10日月曜日

仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱

仏教について、世間では「科学的・合理的だ!」とも、「宗教・オカルトだ!」とも聞かれる。
話を聞けば、的を射ているものから、当ての外れたものまであり、諸説に断定的な肯定も否定もしない私が、肯定と否定とを駆使して仏教が何であるか、中立的な立場で「宗教・科学・哲学・倫理・道徳」と仏教の類似点・相違点を慎重に検証し、続いて修行者の立場で積極的に述べてみたい。



目次 (テンプレートの元)


●概説

仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
端的に仏教を仏教たらしめるものを問えば、四諦の法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
たとえ、仏教がどんな色でどんな味つけをされても、「苦が滅びる道」の目的意識と、その教義理念「中道"middle way, madhyamā"」を外れることはない。

真理はどこまでも説明可能だが、一言では足りず、一億の言葉を尽くしても説明されきることはないように、どのような分野の学問や思想をいくら混ぜても仏教とはならないが、逆に仏教はどのような学問や思想、職業や芸術などをも包括できる。
「仏教」という区別・認識もまた、何らかの定義で説かれた概念に過ぎず、実際は「真理そのもの」とも「真理に至る道」とも、何とでも言い換えられるので、本来は言葉という手段に制限されず、どう表現のしようもない。
「仏教"Buddhism, Bukkyo"」という言葉を言語学的に解釈するならば、2つの意義がある。
1. 「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え・教義"Doctrine, Dharma, Vacana"」
2. その仏(釈迦牟尼仏)とその所説を「信じる主義・宗教"Religion, Śāsana"」
以上の2つとなるが、それでは「仏の教え"1. Buddha's doctrine"が何であり、どのように信じること"2. Religion of Buddha"が成立するか」を、よくよく考察しておきたい。

当記事では、まず宗教・科学などの分野を個別に論じて仏教との類似点・相違点を示し、続く本論に於いて様々な譬喩で説明し、「中道」の理念を釈尊のスッタ・ニパータと、龍樹菩薩の大智度論などの記述から説明したい。
私は日蓮大聖人の法門を奉じているが、今回のテーマは五重相対でいう「内外相対(内道と外道の対比)」であるから、「阿含時」以来の伝統的な見解を折衷する。
私自身も、日蓮大聖人の甚深の法門を正しく理解するための前方便(下準備)として、よく学んでおきたく思う。


●例を取って弁駁す


【科学・数学など】
例えば、鏡やディスプレイの画面は平坦に見えるものであっても複数の材質の層があり、その表面は分子の集まりだとすれば微細な凹凸がある(20170308投稿記事・類似の説あり)。
眼球には複数の構造があって角膜や水晶体(レンズ)が立体的である。
視覚の像(網膜から得られた信号)や鏡の像などはみな平面的な二次元であり、視覚の構造や鏡の構造などは立体的な三次元であるから、絶対的に二次元・三次元という認定ができなくなり、二次元・三次元とは、ある場合の仮定のための概念に過ぎないと知る。
こういった見解は「空の悟り」に近い。
※仮定のための概念でしかないならば会話も不要になって思考が空虚になる。当然、修行者は思考や言語を捨てるべきでない。仏など大慈悲の人も悟りの世界から「離れずに離れて」思考や言語を用いて教化する。思考や言語が空虚ながらにも重要であるという中道・中庸である。

また、人間を一つの生命というが、空気中・水中などのウイルス・雑菌などの微生物は体内に取り込まれて生存しているし、胎児の時から多くの菌が主に大腸にあるなど、一つの身に多くの生命が取り込まれている(寄生虫やシラミがいることもある)。
それを排除しても、「生命活動の主体」は皮膚・体液・臓器・脳などのどこにも無く、ただ先天性も後天性も無く知能・精神が自己の生存や他者の生存を知って生命の概念を認定するのみである。
これは空のみならず、無我・不浄・苦の悟りにも通じるが、それらの思考のみで慈悲などの心が生じたり、冷静な判断力を得る効果や悪い感情を抑制する効果があるとは言えない。
無常の悟りも、高度な科学的分析の果てに有り得るが、同様に精神への影響はさほどでもないばかりか、無我・無常の見解への執着を生じる恐れもある。

科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。
例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。
その延長が科学や数学だが、高尚な学問理解・知識に対する執着を起こした際の道徳的な矯正が存在しないので、仏教と異なる(科学者や数学者は真面目で冷静な印象があるが)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量をどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざるミネラル分などの不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実には空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

科学・数学は、何らかの理屈が仏教に共通しても、真理において「算数(さんじゅ)」などの法を否定する仏教の理に適っていない。
いくつか私が例示した事柄を、科学者や数学者の誰かが覚っても、彼らの分野において無関係な見解であるから、素直に受け入れられないか、頭の片隅に置き去りにされよう。
また、そう覚って「想定・概念・名称・数値」の世界を区別し、そこから離れようとする人々が哲学の界隈にいるが、哲学も後述する理由で仏教と異なる。
科学も数学も哲学も、大事な「修行と証果」に欠いているので、仏教と異なる。


※近頃、仏教と、物理学・量子力学などの科学が「同じ一元論である」とする見解が蔓延っている。恐らくは華厳経など一部の大乗経典の説(華厳なら一即多・多即一・事事無礙法界・因陀羅網などとE=mc2や超弦理論)の影響が大きい。一元論を、方便とすれば「言語道断心行処滅」の真理に至るかもしれないが、言葉や理論として執着すれば悟りから離れる。釈尊も龍樹菩薩も「空・シューニヤ"Śūnya"(インド数字のゼロに同じ)」を説いており、中論で「不一不異(または不一不多)」と形容する。同一でも別異でもないというのに、一元性を殊更に強調すると陥穽を伴う。見解への執着で慢心を起こす危険性を孕むし、聞いた人々も満足感に耽溺する。もし教説・見解への執着を自覚できた人は、中論18・24章、大智度論巻第一、スッタ・ニパータ4章(主に9経と12経)などをよく読み、「第一義諦・第一義悉檀」の意義をよく留意して念ずべきである。ある意味で真理は一つだが、上っ面の認識ではその真理を見なくなる。中論・大智度論を深くお読みであった南岳大師・天台大師の一心三観(萌え和讃5首目の脚注で説明)を行えば、なおよし。多元を一元とも称し、真実は一元でも多元でもないが、どちらかのようにも見える。多くの科学者にとっても、何らかの科学分野の定説か学説か何かが仏教教義に牽強付会で用いられることは「そのような見解の学者がいるか、そのような仮説を吹聴しているか」と捉えるであろう。

※酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。こう言っても龍樹菩薩の第一義にとって語弊がある。物事自体に浄・不浄、苦・楽の原因などが無いと説く(中論23:8-9偈)。酸素や水は、善か悪か無記か?いずれでもあり、いずれでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は億の善と億の悪を有するが、それは無い。一色一香無非中道。中道を空と説き、十二因縁など「無明・価値判断の因縁」を空と説く(中論24:18偈)。物も心も人も、それらの関係性も、「是皆寂滅相(中論23:15偈)」であることを知る必要があると思う。

※「我が身並びに一切は『四大 mahābhūta・四界 dhātu』と称されるものの集まり(四大所成)」であるように四念処の身念処(界方便観・界分別観)で教えるが、それは科学よりも古代ギリシャ以来の自然哲学と似た見解であろう。そこから、「欲界を離れる」こと(いわゆる煩悩から離れること)を志すならば、それはエピクロス主義のような哲学(快楽主義)であるし、体系的な教義と三宝帰依があれば仏教の修行法である。科学的と思われそうな知識が瞑想などの修行に援用されても、単に援用である。それでさえ、部派仏教も龍樹菩薩も「修行者は異なる悪業を持つ者たちであり、みな形式的に同じ修行をすれば一部の者はかえって悪業を強める(異なる病気を持つ者たちが同じ薬を飲めば一部の患者には強い副作用がある)」と説く(対治悉檀などの説)ように、必ずしも科学的である必要は無い。カガク・カガクと言う一部の仏教徒は、古代ギリシャの自然哲学などを学んだ方がよいかもしれない。

【思想・哲学】
言葉というものを、言葉が通用する基準の中で種々に思索をしている分野が、哲学や思想である。
物事をばらばらに分けて見る・分別をし、理論や概念を多く生み出す。
その理論や概念で支えた見解は、時として心の苦しみを和らげるかもしれないが、かえって悩みを多く生む。
「これが正しい!これが真理だ!」と、概念に概念を固めることが倒錯・顛倒であると、仏教は真諦(勝義諦・第一義諦)の上で説く。
なぜ人が作り出した概念を組み合わせて真実を計ろうとするか?
尤も、それで満足し、事実に於いて諸々の執着を離れて涅槃に入るならば、一つの仏道の目的の成就ではあろう。

しかし、実際は釈尊が在世より予知せられた通り、現代までの仏教教団の歴史が論争・諍論の本源となっていて涅槃の道を絶やしてしまうことを体現し、龍樹菩薩が中道の意義を以て破折せられた。
故に、釈尊のスッタ・ニパータと、その所説に影響を受けたと考えられる龍樹菩薩の中論・大智度論などでは、特定の概念などについて肯定的に取り上げなかった。
大智度論は建前として摩訶般若波羅蜜経の注釈書なので、大概は「般若波羅蜜(六波羅蜜のうち般若=智慧に関するもの、智慧の完成を意味するとされるが単語の用法としては限定的)」の法を称賛するが、それは「無諍法」として機能している状態にのみ表れる。
更に進み、巻第百(大智度論の最後の巻)では「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」として「般若波羅蜜が秘密(真理の法を示していて小乗の人が知らないこと)・最勝(最も優れていること)」という主張を自ら抑制している。
釈尊も龍樹菩薩も、どういう立場でどう説法せられても、様々な衆生に種々の方便・譬喩などを用い、種々の修行法を示された。
究極としては、偏狭に一説を奉じた原理主義・セクト主義を助長しないように自ら過去の所説を否定するような言い回しもある。
後に詳述するスッタニパータ4章9経と大智度論巻第一では「仏様はどのような見解"Diṭṭhi"・戒律"sīla"・生活"jīva"や、それによる転生(例: 天界に生まれる、解脱する)があると説くのか?仏様が『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということはない」とする。

何であれ、多くの哲学は、言葉・概念の構築によって思考・論議を行うなどしてその結論に真理があると考える(その哲学を疎ましく感じて龍樹菩薩のような卓見を示す哲学者もいるようだが→ヴィトゲンシュタインとかハイデッガーなど?ともに1889年生まれのドイツ語名の人)。
言葉は、言語の形ですら文化・習慣・宗教が反映された限定的なものであり、普遍的な意義のあるものとしても、相対的な物事を示す道具に過ぎず、99%以上の説明を尽くすことができても100%や0%を実現することがない。
思考の結果として発した言葉は、みな正論であるが、何らかの定義・道理を前提(命題)としている場合に限る。
そのように「一理ある」からこそ全体に適うことはないと推して知るべきで、その智慧こそが最も真理に近く、仏教が目指さんとする真理も、「論争」を主題とした場合、このようである。
哲学や、多くの宗教など、みな往々にして異なる真理を奉じてしまうならば、既に真理を自ら絶やしたことになる(異なっている現象をそのまま如実に見れば真実でもあろう・私が真実を限定すると真理から離れる)。
これもスッタニパータ4章の随所に説かれ、龍樹菩薩も大智度論巻第一に引用していることは過去記事に私が紹介する通りである。
※究極的にはどんな主張も、主張の中身を言語の法として理解するのではなく、主張が発せられた縁起を見れば、それで真理に通じるのかもしれない。これをまた「人の世の常」と端的に表現する、真理の一端である。

「形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

【倫理・道徳(政治)など】
仏教を標榜する教説といえば、法句経(ダンマパダ)の「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教(七仏通戒偈と天台大師が名付け一般認知される)」であろう。
そのように悪をなさず、善を行うことで、自然と心が清まることが諸仏の教えであると説く。
これを現代の価値観で額面通りに取ると、一般的な道徳(勧善懲悪)そのものとなる(もちろん偈としての意味はそうでない)。
道徳といえば、恐らく学校教育でも、国語や道徳の教科書に「雨ニモマケズ」や「蜘蛛の糸」などが載っており、どちらも仏教から影響を受けた作品である(前者: 常不軽菩薩、後者: 謎のお釈迦様)。
教科書に載っていないとしても、仏教の道徳性ということを考える際、世間一般に伝える場合はこの2作品を例に取るかと思う。
後述するよう、他者への寛容・親切心という消極性のみならず、能動的に自己犠牲というような利他主義・奉仕精神の積極性が求められてもいる(大乗仏教との親和性が見られる)。

倫理、道徳。その目指すところは、健全な人間関係・社会の実現というものか。
現代文明の大勢は、民主主義・人権尊重・人道主義・自由主義、そして多様文化や宗教多元主義である。
既にいくらか健全さがあるからこそ、より良い健全さを願って倫理や道徳を重んじようとする人もいる(あるいは利益や保身のために振る舞う偽善もあろうが)。
仏教団体の維持も、共産主義者(例: ポル・ポト、中共、ほか社会主義・国家主義)や異教徒からの迫害がよほど強くなく、民衆の信心が保たれる時代と場所において有り得ている。

理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、多くの修行者の成長(解脱など)と仏教の流布の結果にありえるかもしれないが、仏教の流布で必ずしもそうなるとは、誰も断定できない。
仏教徒はなおも論争を好んで派閥内の分裂を多々起こしてきたように、人間関係ですらギクシャクしてしまうことが歴史的経緯・現代の教団(ただし大勢としてリベラル思想・ヒューマニズムを重んじて仲直りをしようとする)に明らかである。
しかし、教団同士の問題はどうであれ、個人レベルで解脱した人は別の方面でいたろう。
仏の在世にすら自殺で死を目前にするも自殺意思を別問題にして涅槃に入ったゴーディカ(相応部"SN, Saṃyutta Nikāya"4-23経)・ヴァッカリ(同22-87経)尊者などがいる。
仏教と、倫理・道徳とは、教えも目的も似ているが、明らかに異なっている一面がある。
理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、副次的な結果として有り得ても、仏教が目指すところではない(あえて言えば維摩経や法華経でいうように元から平和な世界=悟りの教理として娑婆がそのまま仏国土・浄土・常寂光土と呼ばれる)。

修行について、菩薩の布施行や四摂法などを見ると、慈善事業や社会奉仕活動のように思われる一面もあるが、あくまでも自身の解脱や他者を仏道へ導く方便・一手段に過ぎず、それ自体は美徳と言われない(通俗的に見て尊い行為かもしれないし心が清らかであれば功徳かもしれないが)。
布施といえば、六波羅蜜では一番初めにあり(パーリ語経典で10挙げられているものも同様)、まず自分の無駄なものを捨てるとか、物質的な執着を最低限まで減らすこと(俗世からの出離とも)に意義があり、そうして「持戒(戒の原語"śīla, sīla"は道徳的な習慣という意味がある)」などで自身を守り、忍辱・精進・禅定というように修行を積むものである(布施には法施といって物質的なものに限らない側面もある・化他行の一種)。
道徳の理論や思考などにおいては、「公平無私」といっても、自他の我・アートマンを排除しない上でのみ成立しているし、その範疇を出ることがないので、「無我」を説く仏教の教理とも異なる。
何度も繰り返すよう、仏教とは目的が異なっているので、教義にもその結果として類似点と相違点が表れる。

菩薩や仏の慈悲とは、教理にあるような無我や空の悟りによって偉大であり(過去記事)、そのように自己の仏教的な悟り("仏教的な"とは語弊がある・この悟りはそのまま世俗に通用して哲学・科学にも相違しない)や、最低限の理解が求められている(三縁の慈悲の説など)。
これを言い換えて「忘己利他・慈悲之極 (伝教大師の山家学生式)」とも言うが、「空の悟り」から一旦離れ、悟りの心のまま「仮の世間」に出た立場「自他の我・アートマン」が前提である。
絶妙に「空・仮」を使い分ける仏・菩薩の「中道」の智慧による慈悲は、堅固であって絶大である。

【宗教】
仏教とは、当記事の冒頭に説明するよう、現代人の一般認識は西洋の"Buddhism"に対応する訳語として用いられている。
"Buddhism"としては「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え"Doctrine, Dharma"」というよりも、その仏・所説を「信じる主義・宗教"Religion"」という意味合いの方が強い。
「宗教"Religion"」とは、西洋の概念であり、その目線から様々な部派・宗派を包括する名称として「仏教"Buddhism"」が提唱されたと考えてよい。
ブッダ बुद्ध"Buddha"が梵語である場合、バウッダ बौद्ध"Bauddha"は梵語のヴリッディという規則に従って仏教徒の名詞や仏教に関するものの形容詞(英語のBuddhistと同じ)になる。

「宗教」全般は、説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じ、その補助となる教説および教祖を信じる場合が多い。
その真理・存在や、教説と教祖とを信じること=信仰は、一般の信徒から施される金銭として表れ、宗教団体の維持や宗教家の修道(修行)を補助している。
戒律の厳しい仏教団体(サンガなど)はその場しのぎの衣食を乞い、所属者(僧侶)は金銭を持たない(触れていけない決まりがある)はずだが、現代にはほぼ存在しない(東南アジア・スリランカの上座部仏教の大勢も同様)。
この形態は広範な布教に現れているので、宗教は日本古来の神道など家系や土着性を重んじている「祭祀(おまつり)・崇拝」の方面と区別されることもある(祭祀を朝鮮語でチェサ"jesa"とも呼んで似たような文化性が見られる)。

※神道などの「祭祀」は、自己・家族・村落などが本意であり、よそのものには融通が利かないから、「宗教」と異なって広範な布教が出来ないが、神道に限っては明治以後の近代化によって既成宗教の影響で海外への流布を目論んだ経緯もある(日本書紀「掩八紘而爲宇」を根拠とする近代の八紘一宇思想で天照・天皇の御稜威が日本国に限らず世界に普く及ぶという理解に基づく)。宗教の道徳性・勧善懲悪は、高尚なる教祖とその教説への信仰において成立するわけだが、神道の場合は具体的な聖典に欠いており、教祖も存在しないが、ある程度の時代は日本書紀・古事記に基づいて神武天皇の実在を前提とし、戦時中は天皇陛下を現人神として崇めていたので、宗教性がある(世界宗教や土着信仰の中間とも言えようか・一国型宗教)。明治以後に泡沫の如く発生した新興宗教の中には、仏教やキリスト教などから影響を受けた「超宗教・諸教同根」の団体も多く、これらは紛れもなく「祭祀」ではなく「宗教」と分類する(実際に本来の神道にある氏子という発想が薄れていて俄かに発生した神秘的な教祖やその家族などに利益が集まって本来の神道と異なる)。なお、インドの祭祀と思われる婆羅門・ブラーフマナ・バラモン教と呼ばれるものは、アーリア人(印欧祖語から派生したと推定されるヴェーダ語・サンスクリット語を用いたインド・アーリア人)のセンスが効いたヴェーダの教えであって「宗教」である(ヴェーダ以前の祭祀は不詳)。

仏教団体のスタンスも、そういった一般的に宗教と呼ばれるものの形態によって布教があり、維持があるし、多くの教団は現代国家の「宗教法人格」を取得している以上、自ら宗教の立場を肯定し、国法を順守していることになる。
さて、当然、このような教団の形態や、信仰の性質は、紛れもなく宗教そのものであるが、だからこそ「教団の形態・信仰の性質」の観点での宗教性を確認するのみであり、教義の方面まで他の宗教との共通性があるかは断定できない。
ひとまず、一般認知される「仏教」は宗教であり、信奉のある集団もまた多くの例が宗教団体であることは確定した。

教理についていうと、先に「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じる」という話をしたが、一般的にその例は「世界の発生・自己の前世・死後の世界」などである。
人々を導く上でモーセにせよイエス・キリストにせよ、釈尊にせよ、みな説明の必要があったろう。
キリスト教など一神教・啓典の宗教と、仏教がどう異なるかといえば、因果応報による六道輪廻(または五道)の話がよく引き合いに出されるが、説明を略す。
そのような因果応報とか善悪業報とか、輪廻転生とか、実在としての六道といったものは、相手を選んで随時、釈尊が説くことはあったろう(いわゆる対機説法)。
人の心の状態としての六道(喜びは天界のようだ・人々は地獄のように苦しむ)という表現もあるが、どのような意義の教説であれ、様々に説き、ある時は肯定し、ある時は否定する。
この性質がパーリ語経典(スッタ)・阿含経典(アーガマ)にせよ、大乗仏教にせよ、よく現れている。
後述のスッタ・ニパータ4章9経と大智度論巻第一の教説や、過去記事にも説明した「四悉檀」の意義や、部派仏教の論蔵・大乗の般若経典・中論にある「二諦」の意義をよく考慮すべきである。

各人の立場で取るべき信仰・教義があり、これを(生死の大海・三途の川の)洲"dīpa, dvīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう。
「取る」ということは「捨てる」場合もある。
それは、「能動的に捨てるもの」として「筏のたとえ"Kullūpamaṃ, 中部経蔵・マッジマニカーヤの22経など、中阿含経では阿梨吒経に載る"」が著名である。
※同中部22経や阿梨吒経は先に「毒蛇のたとえ」が説かれる。毒蛇を捕まえるために中腹を掴んだが蛇の頭が手に噛みいてきて苦しみを受ける者Aと、毒蛇に対して道具で制して頭を上手く掴んで噛みつかれずに済んだ者Bがいる。仏の教説を聞く場合も、表面的な理解のせいで論争したがって苦しむ者Aと、正しく理解して自他の解脱の役に立たせる者Bの二者がいることを説く=どんな教義でもその人が迷うことも悟ることもあるという。善悪の二面性=一如=無(不一不異)にも通じる。どんな教義にも善悪の二面性があることを言えば、どの宗派の教義・修行でも正しく理解して実行すれば解脱(涅槃・成仏・往生)を得られるということになる。しかし、この高尚な道理ですら「修行せずとも成仏できる」とか「仏教じゃなくても悟りを得られる」などと気が変わる恐れがある。どの宗派でもよいと理解するからこそ、既に信心を決めた人々は、当然、自分の宗派が自分に最適だと信ずべきであり、無宗教の人・困っている人に勧めよう。まさに正法。

能動的に捨てずとも、修行して解脱の徳の高い者は、無意識に執着を離れているかもしれない。
このように、スッタ・ニパータ・阿含など小乗仏教・上座部仏教系の諸経から、大乗仏教の経・論まで、「客観的真理(真諦・勝義諦・第一義諦とも)」に近い方面では基本的に一貫した見解のようである(この一面を現代人が仏教は合理的だとか他の宗教と異なるとかドグマが無いとかと称賛する)。
「中道」の立場で言い直せば、「真理に通達した見解がある=それは見解と言えない=見解と言えなくもない」となる。
教義や教祖(教団における目上の人・法蠟の高い僧侶・在家信者に対する僧侶などを含む)に対する信仰が、あくまでも「目的のための手段」というスタンスを説明し、解脱などの目的を成さんとする時にはブッダ様とそのダルマ(ダンマ)にも執着してはいけないとする(複数の宗派の信仰においては仏様への信仰と関係のない雑念や未練を断って成仏や往生を念じよと説く)。

当然、私を始めとした多くの現代人は未熟者であり、心も脆弱であろうから、釈尊やあらゆる所説、並びに諸々の大徳や現代の宗教指導者を信仰・尊敬すべきである(ブッダ・ダルマ・サンガの三宝の一体性を考える)。
先の六道輪廻などの教理についても吟味し、信仰とまでいかない哲学的合理性でも何でもいいから、肯定的に見ておくべきである。
今までに論じてきた内容を総括して言えば、他宗教に無い仏教ならではの教義の特徴が中道の理解である。
本論からも深く「中道」について考証するが、興味のある方は「論争・アートマン(本質・エッセンス)」をテーマにした過去記事も参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

※なお、仏教における「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在」とは、そういった「世界の発生・自己の前世・死後の世界」という大層なテーマを設けずとも、般若経典や中論や、多くの大乗経典では、万物自体が万物であって万物でない、認識できて認識できないような「中道・真如実相・言語道断心行処滅・不可説・不可得」のものとして説明する。どのような存在・非存在・想定された事物であれ(自己・他者・仏・我が心・行為…)、みな寂滅の相であるという教理(中論23:15偈)であり、特別なテーマを要しない。



●総括・本論


仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳(ほかのカテゴリーとして医療・健康・文学・芸術・音楽・スポーツなども挙げられる)、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
唯物論でも唯心論でもあってなく、どちらでなくもない。
性善説でも性悪説でもあってなく、どちらでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
※唯物・心論については、仏教でも物を物として分析し、心を心として分析する二元性を見るが、更に物心一如(または色心不二)といい、物と心の元々が一如とも言えない無・無相という。性善・悪説については、菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く中道である。二論二説みな空虚な定義で議論を促進するに過ぎず、机上に留まる。

ある道理や基準に則って物事を見たとき、現代でいう宗教的な見解・科学的な見解・哲学的な見解や、唯物論・唯心論などという区分に当てはめるが、仏教はただ真如を説こうとする(真諦)か、真如が何であるかを理解させるまでの方便を説いた(世諦)に過ぎない。
むしろ、余(ほか)の宗教・科学・哲学などがたまたま仏教の教説に似たというべきであるが、互いに模倣した・影響を受けたなどとも考えるべきでない(邪見を持つべきでない)。
釈尊は、悟りの内容を智慧と慈悲とによって明示せられた、と私は信じており、その結果として宗教・科学・哲学・倫理・道徳や、唯物論と唯心論や、性善説や性悪説に類似する点も含まれたのみである。
更に私は、この意義を「中道」と説く。
たとえ、仏教がどんな色づけ・どんな味つけをされても、中道を外れることはない。

つまり、仏はお一人であり、お一人でなく、お一人でなくもない。
真実の法は唯一であり、唯一でなく、唯一でなくもない。
この「そうである、そうでない、そうでなくもない」という三者は、常に「ある道理において」という理解が前提にある。
例を挙げれば、「(ある道理において)仏はお一人であり(歴史上の釈尊)、(ある道理において)お一人でなく(信仰上の諸仏や一切衆生悉有仏性)、(ある道理において)お一人でなくもない(釈尊も諸仏も実在と言えない・真実には仮名ケミョウあるのみ)…」、あらゆる物事"sarvadharma"についても同様に考察できる。
仏と、仏に説かれた法とは甚深微妙であり、稀有殊勝であり、帰依すべきである。

目の見えない人(盲人)たち(群盲・衆盲)に大きい象を触らせる例え話・譬喩がある。
彼らは当然、象の姿を見たことが無い上で、「象」がどのようなものかと考える。
鼻を触った者は「象は立派な大蛇のようだ」と言い、しっぽを触った者は「ぞうさんって細いね」と言い、脚を触った者は「象は樹の幹のようだ」と言い、脇腹を触った者は「ゾウとは岩なのか?」と言い、牙を触った者は「象牙そのものだ(象と象牙は同一だ)」と言う。
目が見える者ですら、象は人間やほかの動物と比べてとても大きいと言ったり、世界に比べれば同じちっぽけな存在だという。
みな、一面的な道理とその思考の中では正しいが、そのために、普遍的真理・ありのままの真実を曇らせる言い方に陥っている。

龍樹菩薩の論法は、全て空の雲が水の粒の集まりが見えるのみであって「雲そのもの」という実体がないようなものと打ち破り、雲のあるがままに燦然たる太陽を明かすものである。
地球に我らが生存する限り、雲を払って太陽を明かしても、水の粒の層(大気圏)は晴れきることがない。
地球とは心が捉えた外界、我らとは心そのもの、雲とは貪瞋癡という三毒の煩悩であり、太陽は悟りである、人は呼吸をするから常に水蒸気が発されるが、これに譬えた。
人が世に生きていれば煩悩・業・苦があり、悟ったとされる仏や菩薩もまた凡夫を教導するにあたって意識・言語・修行などの三業を用いているが、仏・菩薩は速やかに涅槃に入られる。
凡夫もまた、本来は無我であれば、煩悩・業・苦と呼ぶべきものも無であり(中論23:3偈「無我諸煩惱・有無亦不成」)、仏・菩薩と凡夫とは「毫釐の差別も無し(中論25:20偈)」である。
これも中道の要義である。

真実の仏法は円満であり、我々の見る教理はいびつな円のようである。
円とは不思議なもので、数学の円周率をどこまで計算しても求められないように、円満の中道を実現したくとも円周率のように100%を求めきれない。
完璧な円・完全無欠の円は存在せず、円周率は無理数(むりすう"Irrational number")の代表例(万物自体当記事で詳述のように一杯の水=無数の分子で構成されるように無理数だがこれはメタ数学的な話である)となるが、世間の事物ならびに仏法もまた不可数(ふかしゅ"innumerable, uncountable"、華厳経入法界品や大智度論など)である。
だからこそ、円周率は"3.14"という、ほどほどの慣用的なものを算数の授業に用いるわけで、仏教徒も借り物の真理(主観的真理)を現世に活かさねばならない。
※より簡略的なものにはπ(パイ)がある。仏教では「南無」の言葉などがこれに当たる。

宗教と思ったらば宗教、科学と思ったらば科学、哲学と思ったらば哲学、倫理・道徳と思ったらば倫理・道徳、それらのイートコドリと思ったらばそれらのイートコドリと思う。
思い込まない・執着しないことを目的に、そう思って意業を慎むということである。
迷妄はそのまま真実であることが大乗の極理となるが、迷いと悟りという仮の区別さえつけづらなくなった私は、狂乱してすでに正気でないかもしれない。
さらっと邪説を唱えているかもしれない。

今、端的に仏教を仏教たらしめるもの(エッセンスといえば語弊があるが)を言えば、まず小乗以来、四諦(苦あり・苦の因縁あり・苦は滅ぶ・苦を滅ぼす手段あり)の初転法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
苦を滅ぼす・輪廻からの解脱という目的を掲げた仏道があるが、この「道」の認識こそが仏教を仏教たらしめるものである。
その「道」に資する教えは、みな仏教、覚者"Buddha"の教えである。
人々は、その教えの中の一つや二つを見て、宗教・哲学・科学・倫理・道徳のいずれかに似ていると主観的価値判断を種々になしている。
先に言う、目の見えない人々・目の見える人々が、大きな象を種々に形容したように。

象 可愛い 怖い 可愛 可恐
拾主「於汝意云何?象者…可愛耶?可怖耶?」 尊者「二倶不然!」

もし、この象という概念が「暴れるもの」と認識されていれば、「象」の名を聞くだけで人々は怖じ恐れる(概念を頭に思い浮かべるだけでも同様)。
暴れ象でなく、「可愛い象さん」という甘美な思い出のみあれば、象が暴れる可能性を考えずに安心しきってしまう。
「象」は、怖いものか?愛らしいものか?
どんな判断であれ、恣意的な認識・感情が伴うものであれば、みな虚妄であり、真実ではない。
小賢しさも愚かさも迷妄であり、結果的に苦を結実する。
「象」が、幸せの根源だとか不幸の根源であるはずがないように、どんな物事にも「浄・不浄」「愉快さや不快さ」の根源が存在しないと悟ることは大乗の理想でもある。

ちなみに私は、小さな虫すら、部屋で見ると恐怖を覚える。
「人間の住み処にいてはならない存在が自室にいることは怪異(けい)である」という恣意的な価値判断がある(人間の住み処という想定も世俗的な妄想)。
暗闇で蛇のような影を見て恐れることも、影の正体が単なる縄であると知って恐れを消すことも、蛇(怖いもの)や縄(怖くないもの)の価値判断(妄想・顛倒)に基づいているから迷妄である、と説かれる仏教において、修行者を自負する私が不埒の極みである。

※唯識・瑜伽や法相宗などを中心に「蛇縄麻(だじょうま)の喩え」として有名であるが、これは摂大乗論(漢訳2種どちらも)に出ているものであり、麻に言及しないものとして楞伽経(漢訳2種どちらも)がある。「蛇縄麻の喩え」は唯識・瑜伽・法相宗の方面で「三性"trisvabhāva"=遍計所執性(縄を見間違えて蛇と思い込む状態)・依他起性(縄と知って縄を真実だと執着する状態)・円成実性(縄は真実の存在でなく麻糸の集まりで造形されたものを縄と知って全ての執着を無くした状態)」の説明に用いられる譬喩である。仏教も、宗教・科学・哲学・倫理・道徳など何らかの分野に似るが、いずれかであるとか、いずれかの良さを持ったする何かだとする見解に執着すべきでなく、仏教をどう説明しても仏教とならない「円成実性"pariniṣpanna"」の立場(中道)を知らねばならない。縄は麻糸の集まり・我が身並びに一切は四大と称されるものの集まりであり、五蘊のプロセスで縄とか麻糸とか肉体とか四大とかという概念・物事を見聞き・認識・分別していること・・・みな円成実性=都無・実有・中道ではないか!!一色一香無非中道!と、こういった主張にも拘泥・執着すべきでない。例えば、折角手に入れた宝珠・水晶玉=中道真如仏教が、曇って最後には砕けてしまうであろう。



さて、仏教らしい研鑽をする者でも、例えば仏教学者は、「名(名目)」としてのみ仏教である。
仏教学という学問は、これまた学問の範疇にあり、仏教そのものではない。
先述の「道」、つまり、苦を滅ぼすことや解脱することを目的とした「道」の意識が無く仏教を学ぶならば、仏道修行者でも仏教徒でもなく、単なる「学者さん」になる。
学位の取得などを目的としていることもある、学問の人である。
一方、僧侶の姿をしていても、「社会!シャカイガー!」とばかり「法話」をする人もいる。
世界平和を夢想する倫理・道徳の人である。

日蓮大聖人の御書から言葉を借りると、辛口ではあるが「但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者」や「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり」であろう。
「道」の自覚の有無で、仏教か否かは明確に決まる。
※そういった学者さんやお坊さんが実際に解脱を目的とした「道」における一手段・方便として学問なり社会貢献なりをしているつもりならば、もはや私は容喙できない。そもそも他人の心をみだりに推し量るべきでないが、説明のために記した。

無論、「道」というからには、自覚と教えに加え、修行すること(行)、果報を得ること(証)が重要になる。
些細なことからでも行動し、その結果を確認してゆくように、反省と努力を絶やさない。

なお、解脱という目的についても、どのような修行などが有効であるかといえば、一般に「戒・定・慧」の「三学」が重要であるとする。
しかし、それら三学とその中身(五戒や止観など)や、六波羅蜜などに拡げて考えても、その経典の中では強く奨励することもあろうが、教理の究極においては、必ず解脱を成すとは説かない。
これは、スッタニパータ4章9経に説かれ、大智度論巻第一に「阿他婆耆経(摩犍提の偈)」の名で説明がある。
スッタニパータの当該箇所では、釈尊が、娘を嫁がせに来たマーガンディヤ(大智度論では摩犍提)という在家の人から「(あなた釈尊は)あらゆる王が愛して求めた美女(彼の娘を指すか不明)を求めずに、どのような見解"Diṭṭhi"・戒律"sīla"・生活"jīva"や、それによる転生があると説くのか?」と問われ、「『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということが彼(Tassa, 有って無い自己と諸の覚者を仮想した=釈尊ご自身)にはない」として説明した。
つまり、そういった「見解・戒律・生活(=教義や修行法)」の形式が「必ずこうであれば解脱する(suddhiṃ・清らかになる)」と説くことがない、という意味である。

多くの宗派の教義では、その宗派の修行法を、「解脱=涅槃・成仏・往生などの目的を達成する有効な手段」として主張し、唯一の大道と宣言することもあるが、それは主観的真理の確信において肯定される。
実際の中道の立場では、どのようなものでも、言葉にするならば肯定的な断定ができない。
釈尊と龍樹菩薩は、中道の立場に於いて説く場合、「それ(上述の教義や修行法)・それでないこと」を提示しながら、更に「それ・それでないこと」をも全否定せられた。

龍樹菩薩は、大智度論巻第一において、その説(厳密には少し異なる)を、多くの経典の最初にあって阿難尊者の発言と信じられる「如是我聞"evaṃ mayā śrutam (パーリ語: evaṃ me sutaṃ)" (このように私は聞いた)」の「如是(このように…)」に関連付けている。
つまり、「如是我聞(別の訳に我聞如是や聞如是もあるが)」とは、阿難尊者が「このように聞いた」ということであり、「私はこう聞いた(我聞之)、私が"このようなこと"を聞いた(我聞如是)」という断定が伴わない微妙なニュアンスを持っている。
阿難尊者など阿羅漢が「こうだ!絶対こうなんだ!」という断定の表現を使うはずはなく、梵語でいう"evam"、漢語でいう「如是」という語は極めて重要であることを、龍樹菩薩が示されている。
解脱は、物事の束縛から解放・脱出した境地であり、何ものにも制約(束縛)されないことをあえて言葉の制約下に表現した単語であるが、実際について、学問・見解・戒律・修行法などに制約されてはいけないし、そもそも制約されるはずがない。

確かに千ないし千二百五十ないし無数の阿羅漢は、仏の教導のもとに解脱したか、そうであると信じられてはいるが、現今の仏教団体に解脱の可能性が制約されることは、本当に「解脱」と考えるべきか?
それでも、修行者たる私は、釈尊という仏を尊敬し、諸仏の教えと自己の仏性とを信じねばならない。
これもまた、「(修行者の目線にとっての)仏教(の一面)」であるから。

※解脱は不可思議であろう。仏教学者の見解を受けた人々はしばしば「形而上学的な輪廻・解脱・涅槃のことについて釈尊は説明をやめて沈黙したんだ!(十四無記の説)」とばかり強調する。あえて中道の意義によって説明するならば、龍樹菩薩の中論「自・他・共・無因」の区別法に則った天台宗の「四性計」がある。解脱の成就とは、理論・教義・絶対神などの他力によるものでなければ、修行などの自力によるものでもなく、その両方の調和・折衷(他の教えを聞いて自分で考えて修行)という共力によるものでもなく、何もせずに成就する(そもそも最初からしている)無因力によるものでもない。何らかの原因は解脱の結果からいくらでも求められるが、自力・他力・共力・無因力のどれかに限定などできないし、安易に推量してもならない。これを「不可思議」というので、秘密主義というものでもない。いずれでもあり、いずれでもない、円満・中道である。私の所説を素直に理解できれば解脱の土壌を耕せている。

スッタニパータ・般若経典・中論・大智度論など、釈尊・龍樹菩薩は、悟りの立場で「否定的な中道」と「あえて仮名(けみょう・仮に名付けること)する」という論理を示してきたが、更に深まった大乗経典=法華経・維摩経・華厳経・涅槃経などでは不染不浄の娑婆世界をあえて「浄土(法華経・維摩経の"Buddhakṣetra"を鳩摩羅什三蔵がしばしば浄土と訳した)」と名付け、天台宗などで依正不二・常寂光土とも説くようになり、萌えの法門で清浄萌土の譬喩に援用する。
このように「仮名」の意義から、「積極的・肯定的な中道」となった(悟りの人・信心の深い人以外が見ると誤解を招く危険性があるので大乗が秘密の法門であるともいう)。



本題に関して仏教を真実の立場で説明するならば、やはり相手の「仏教はこうだな」と思うところ(宗教・科学・哲学・倫理・道徳のいずれかを想像)を推量して粉砕することに始まる。
それが龍樹菩薩らしい「中道(否定的なもの)」の論法である。
相手の「仏教はこうだな」と思うことを許容したいならば、それ以外のことについても例示して肯定すると、それも「中道(肯定的なもの)」の一類である。
その際は先述の「如是我聞」のごとく、「(ある場合は)宗教のようだ・(ある場合は)科学のようだ」といった、断定的でない表現(推量表現)を用いると、より良い。

何よりも、修行者であれば「苦集滅道(声聞・小乗の場合)」や「皆成仏道(菩薩・大乗の場合)」に則った教えを奉じることが、修行者の「主観的真理」に適った「仏教」ではなかろうか。
パーリ経蔵において相応部(サンユッタ・ニカーヤ)56-31の経"Sīsa­pāvana­sutta"は、仏自身が説いた教えは「苦・集・滅・道」の四諦に則ったものであってそれ以外の何物でもないことを、「手に取った葉っぱ数枚(四諦に則った教え)」と、「背後の林の樹々の葉っぱ(それ以外のこと)」に譬えている。
これは、仏自身が「仏教"Buddha's doctrine, Dharma, Teachings"とは何か?仏教はなぜ仏教か?」を示した教説と拝す。







起草日: 20170428

原案は起草日の前日就寝時に録った音声である。
動画として投稿し、以下に埋め込みプレーヤーとリンクとを掲載する。


http://www.youtube.com/watch?v=ACOa22TWnXo

上掲動画の説明文には、本題にある四句分別のような表現について注釈している。

注釈: 「①これである、②これでない、③これであってこれでない、④これでなくもない」という類の論理は「四句分別」の一種かと思われる。その前提で音声ファイルを添付したメールにはこのような一文を添えた「(半角カナ打ちのものを校正→)このような四句分別をし、さらに言語を離れたものが仏教だが、そうともいえない。客観性に近づいて言えば、それこそ仏教の真理に通じるが、修行者の主観性も尊重すべきである。つまり、『いずれか一つである(仏教はカガクテキだ! or サイコーのテツガクだ!等)』と仮に信じてもよい。それが菩提の道の灯火となるならば(菩提の道の灯火=三途の川の洲"dīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう)。」

最も仏教の「妙」といえるものは、何か?
無執着とされる境地もまた「不可得」であり、常に反省(止揚)を続けて「形式的教義"Doctrine"」に囚われて囚われない境地がそれである。
形式的教義を超越すること、その手段=方便が形式的教義であり、このような境地は「最妙」であり、「醍醐味」ともいう。

私はあくまでも「内外相対」を明確にすべく「四諦・四仏知見」に基づいた全ての教えを仏教とし、「中道」の論理を用いたが、仏教の「醍醐味」は、常に正念を保って善悪を自覚し、反省の努力を続ける人から学ばれよう。
改めてそれは「無執着・不可得・中道」の「事実相(五感で認知・世俗的価値判断できること)」といえる。
仏教はその「事実相」を示す教えを含み、仏はその教えを説いた事実相の本人である、と信仰をしてやまない私である。



上掲動画の音声は、携帯電話のバッテリーが切れそうな警告を携帯電話が強制表示したために、録音が途切れた。
携帯電話・バッテリー切れの現象は2016年以後に顕著な現象であり、ときどき日記メモ(16/01/01や16/03/12後半など)に記録する。
充電器・充電コードの半壊状態は2014年からであろうが、最初の記録は2015年11月「日記メモ啓発月間中の本家ブログ」の記事のうち、11月17日分のもの(前日メモとして載る)であろう。
この現象は、2016年末より某サイト・携帯電話アプリ作曲を控えるようになった経緯に大きな影響を与えた(2016年末まで2ヶ月間・適度に携帯作曲をしていたが当時も不便さを多く感じていた)。
ちなみに2016年末から、某サイトにかわってYouTube音楽チャンネルの動画投稿を本格化した。

上掲動画の説明文には、動画中にも確認できる充電切れ現象について説明している。
携帯電話のバッテリー劣化・充電器の不安などは過去の日記メモで幾度と説明しており、この音声が途中で切れている状態も、バッテリー劣化・充電器の不安によって電池残量が不十分であるためである。
それでも、この日の独り言の概要は、音声の中でまとまった。
途切れた箇所も、上手く要旨を留めた。