2018年2月10日土曜日

俗世間の「神さま」と日本・インドの神"deva"とキリスト教の神"deus"の有無論

目次 (テンプレートの元)


1.1 (#folk1)

俗世間でいう「神・かみさま」を、子供たちは俗世間に定義された範疇で存在を否定し、同時に、神道やヒンドゥー教など多神教の「神・天"kami; ten, देव deva"」や、キリスト教の「神"θεός theos; deus"」などについても「神・かみさま」の言葉を摘まんで同一視して存在を否定する。
日蓮正宗・創価学会・顕正会といった宗教団体は、キリスト教(ユダヤ教・イスラム教を含む一神教全般)の「神」を徹底的に否定し、日本・インドの神々(天照大御神・梵天など)とは別物だという主張を大前提とする。
他の既成仏教でも、セクト主義的な立場ではキリスト教の神を否定する(人権・ヒューマニズム・宗教多元主義の立場では神のことを取り上げずにキリスト教の道徳的な一面を褒める)。
一般世間では、科学的見解を受けてあらゆる神"god; deity"の称号のある信仰対象とその伝承"tales; myths"を迷信として斥けつつも、各々の祈り"prayer; wishes"を兼ねながら宗教施設(神社・寺院・教会…)への参拝や祭り(祭祀・祭礼・儀礼)への参加をする場合が多い。

さて、筆者は生まれてこのかた「無宗教」であると同時に、小6のころより宗教に興味を持ったが、段々と唯物論・合理主義の傾向を強めて「世俗的な定義における神」を否定するに至った。
これは「神」の名が、「世俗と宗教とを分けない現世利益思考の俗人」によって顛倒して取られた「ニセ神さま」に用いられたものを否定したのであって、直ちに「無神論」となるわけでない。
様々な宗教で異なった定義のある「神」について、小中学生のころの私は分別をしきっていなかったが、興味を持つ一面もあったので、「無神論"atheism"・非無神論"anatheism"・非非無神論"ananatheism"…」であったろう、と回顧する。
物事の定義次第では、大概の日本人も、現世利益思考の範疇を出ていないので、みな「無神論に似た何か=非無神論・非非無神論…」となる。
その、中庸じみた「無神論に似た何か」は「不可知論"agnosticism"」と呼称される場合もあるが、同じく「非不可知論"anagnosticism"・非非不可知論"ananagnosticism"…」となるかもしれない。



日本の神は日本の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"kami, ten"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。

インドの神はインドの神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"देव deva"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。

キリスト教の神はキリスト教の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"θεός theos, deus"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。



1.2 (#folk2)

俗世間における「神・かみさま」信仰は、物質的な側面への期待と、自己の精神の問題とを混同して「(欲望の心にとって)よい結果であれば神はいる」とか「(欲望の心にとって)悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情に基づいたものである。
その信仰ならざる信仰は、禍福に左右される立場である。
あらゆる神は、客観的世界=我々の五感(仏教でいう六根=眼耳鼻舌身意)に基づく物質的実在・現象(仏教でいう六境=色声香味触法)を操る力は無い。
故に、俗人の顛倒のままに神へ祈っても、期待通りの効果は無い。
俗人の顛倒によって「良い結果であれば神はいる」とか「悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情=無常の物事への執着による苦がある。
※一喜一憂の感情とは、現代日本でも「刹那主義」と呼ばれるような感情であり、仏典では「心・意・識というものは須臾(=刹那)に転変して生滅を繰り返す。たとえば猿が樹の間を飛び回って枝を一つを掴んでは一つを放すようなことである(雑阿含経やパーリ相応部)」と喩えられ、よく表現が一致する。
顛倒の祈りによる幸福というものは定まらず、有るようで無く、勝ち組になることも無い。

しかし、神への祈りを「生宣り"inori"、命"inochi"、生き=息"iki、breath"=プラーナ"prāṇa प्राण"、プシュケーψῡχή、プネウマ πνεῦμα」といった要領で行えば、あらゆる場面において幸福に至って定まり、世俗的な勝ち負けの無い「真の勝ち組」となる。
神への祈りとは、心(精神)の揺るぎない誓いである。
この点で、仏の異名「至福の人・世尊・バガヴァーン"bhagavān"」や、「勝者・ジナ"jina"(またはヴィジャヤvijaya)」といった語句の仏教における意味が成立する。
路上や森林や肥溜めや墓場などで静かに端坐せられる仏は、人々によって「世尊」とも「沙門(寂静の人・修行者)」とも「比丘("bhikṣu, 印欧同語源begger"乞食)」とも「浮浪者」とも見られる。
世間の人は、そういった修行者を「負け犬!」と蔑む場合があるが、勝ち負けの心・愛憎の心の無い仏はどこで寝食をなすとも、真の勝者であると称えられよう。
それが、仏典によれば、インドにおける神々の称賛を博したことでもある(ただし神々を最高のものとして奉じるヒンドゥー教などの立場では異端・ナースティカの説と扱われる)。

さて、修行者はどんな場面にあっても苦の無い真の幸福を志向することとなるが、それでは世間の「臥薪嘗胆(薪に臥して胆を嘗める・辛酸苦渋・艱難辛苦)の努力」は、仏道修行とどう異なるものか?
世間の「臥薪嘗胆の努力」は、形だけ仏道に似せられても、魂胆が異なる上に、理想とする結果も異なる。
「煩悩に基づく苦が滅すること」や「智慧によって成仏すること」などを修行の果報とする仏道とは、比較にならない。
世間の欲(稼ぎたい・モテたい・世間的な苦=欲求不満を形式的に満足させたい等)を叶えても、畢竟苦の道にあるという理解や、自己の心の根本的な問題への自覚を伴わない行為は、たとえば着地を考慮せずに空を飛ぶように、結果として苦しい空中浮遊のまま=輪廻か、不意の墜落=堕地獄にしかならない。
仏道の果報・涅槃とは、そもそも生死・輪廻の空なることを知り、不生不滅であって最初から空を飛んでもいないので地面に落ちる苦も懸念も無く、換言すれば永遠に空を舞うことでもある(寂滅とも常住ともいう)。
俗人の意志を遂げる精神は尊くもあり、努力の姿勢は見習われるべきでもあるが、くれぐれも、現世の苦を自覚する者は世俗の欲について貪りがあるべきでない。

また、「他者に頼らない・寄生や依存をしない・神頼みをしない(世間でいう他力本願の否定)」という主張が世間に見られるが、これも仏道修行の姿勢と似て非なるものである。
世間における主張は、「金銭的な自立・独立・独り立ち(世間の情けに基づくものか・カリを作りたくない等)」ということを指したり、無理な自己負担を指したり、あるいは誰かが他者を突き放す際の口実であったりと、欲望にまみれた世界の相対性を出ない。
現代日本仏教徒の間では「自灯明法灯明」というフレーズが人口に膾炙しているが、この世間の主張と混同されている場合が多い。
「自灯明法灯明」もとい「自洲"attadīpa"に住み・法洲"dhammadīpa"に住み・他洲"aññadīpa"に住まず」とは、単なる精神論でなければ、金銭的な自立を指して釈尊は仰せになったのでもない。
具体的に、この仰せは自分の心身の問題(諸法)を常に意識し、今のありかたを如実に知るという「四念処(四念住)」のことである(過去記事に詳述)。

こうして法に依って(教説や道理に基づいて)自ら心身を調御する者は、仏教における天・神の守護が有る、ということとなる。
その場合、現世での延命も、副次的に保証され得るという見解がある(物質的に他者へ依存して乞食で身を養う比丘にとっては死活問題)。
後述するキリスト教でも、自分の欲望や憎悪といった精神的な問題を克服して信仰を正しく守る者もまた、神・聖霊の加護が有るといえよう。
精神が欲望や憎悪に蔽われる時、神の王国への門扉が閉じられる。
教えを理解して修道がある彼らには、多神であれ一神であれ、神が実に存在することとなる。
神の名や、意義(en: God, Devine, Deity, Divinity la: Deus, Deitas, Divinitas gr: Theos sa: Deva, Devata, Sura, Asura ir: Daeva, Ahura ja: Kami 漢訳仏典で神通力もとい精神"ṛddhi"の意味も)は多くあれ、古来より現代まで信仰する人々は、一つの真実を志向していたに違いない。
多神即一神、一神即多神、一神即一心・・・




1.3 (#folk3)

さて、この世を支配する神がいて、その神が人の運命・宿命をも司り、最初から人間が自ら人生などを変えることはできない、という見解が、古代インドやギリシャや現代日本にある。
それらの見解も、自然界の事象・人間の精神などを見た「因縁(認識・感情・思考など)の結果に唱えられたもの」でしかないが、固く信じれば心が楽になる者・行動が積極的になる者もいよう。
それはそれでよいし、そういう気持ちで神などにお祈りをする者もいるかと思う。
ここで、「神は心そのもの(見ようには悪魔にもなる)」という私の一見解(これも因縁の結果に過ぎないが)に基づいた、日記メモ文章を載せる。

1月8日の日記メモ「諸天善神の守護・三宝の加護」
 母は弟への不平不満・憎悪・瞋恚の炎で口(口業)を煮やしてグチグチ小言の音を立てている。人々の希望と不満(喜悲怒など)という日常的に繰り返す感情は、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。しかし、その自覚はされづらい。仏は、あらゆる感情や欲望の因果性を超えた、精神の法則を知っている。
 去る1月6日に母は一人で「神宮前駅」まで電車を利用したようであるから、熱田神宮にお参りしたろう。母は、そこで何を祈ったか?家内安全か?金運上昇か?他者への不満に基づく呪い事か?願い事も呪い事も、何であれ、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。神社で何を祈るとも、日々に・時々刻々に楽を求める心と苦を厭う心に関して自覚があり、意識されていれば、自分が苦しまない行動が適宜に行われる。神社で祈って「心のお守り」が得られる人は、生活の苦しみも直ちに除かれる。「お守りの形をした物質的存在」は、期待される効能(ナントカ安全・ナンタラ成就など)の認識があって時折目にせねば、「心のお守り」としての作用に至らない。また、諸天善神による守護とは、自ら心を守ることでもある。心・意思・意志・意識を守ることを「念」とも呼び、仏法僧という三宝による加護でもある。三宝による加護があることは、苦しみが除かれる利益に至る。今の母親のような人にお参りされても、神は悲しむ。仏も悲しむ。そう思える、日本仏教徒である。されば、仏教徒は、対象が神であれ仏であれ菩薩であれ、祈り(生宣り・命の叫び・生きる望み)・願掛けを自ら為すならば、自ら背かずにいてもらいたい。願いを捨てない心は、自身が尊ぶ対象の存在を離れることが無く、その守護を受ける。

神社・仏閣などに参詣・参拝して祈願する利益は、以上の通り、精神論・観念論の一種となるが、その現実的利益は、結果的に有無を問うことができる。
過去の有名人・偉人・神格化された人などに託された利益であり、他者がその利益にあずかっているという伝承や風説を聞けば、多くの人が喜んで信じ、崇めたり敬ったりする(聖人所説への信用は事実に比するもの=聖教量"āgama-pramāṇa"という見解が仏教論理学・因明学にある。例えば子が親の言葉を全て事実として信じることと同じ)。
その結果、世間では「(願いが叶ったからという条件で)神はいる」とか「(願いが叶わなかったからという条件で)神はいない」などといった分別を行う。
この点で、もし願いが叶って心が晴れ晴れとすれば、神が威光を以て人を照らすようなものと感ぜられ、人の期待に沿った神というものの実在性が当人において証明される。
そうして、その利益の顕れた場所は吉祥であり、霊験あらたかな聖地となるに至る(神社のみならず聖都エルサレムや教祖説法地のサールナート・メッカなど)。

その場所で、やる気・道心・目的意識というものを起こし、以後にも忘れずにいられるならば、実によいことである(功徳・福徳・服運というもの)。
聖地巡礼やお遍路といった行為においても、同様である。
俗に言うパワースポットも、信仰心こそがパワースポットたらしめるエッセンスである。
そうでなければ同じ地球上の等質な土地でしかない。

ただし、努力の結果として「即物的な願望の成就がなされなかった」という事実認識があった時、落胆してはならない。
それが、まさしく神に己が見放された(=心が自ら心を見放した)瞬間である。
この故に、真に神を奉じたければ、見返り(世俗的利益)を重視すべきでない。
※神即心、心即神、他離即自離、自離即他離、受動性・能動性一如・能所不二。この理は古代インドのヴェーダ・ウパニシャッド的な梵我一如に通じる。だが、仏教では、そういった見解を知ろうと知るまいと、固執しないことを説く。また、世俗の願望は刹那的な楽としかならず、無常の事物への執着は解脱に至らないという価値判断があり、解脱などを目的にして修行をする人にとって、最初から神と心との相関性は問題とならない。ただし、日本では仏教僧侶(持戒持律の人も・・・かえって無戒的な親鸞さんが神祇不拝を唱えたくらい)が日本の神々を敬って礼拝した事跡が多い。

なお、日蓮大聖人は、乙御前御消息に妙楽大師湛然さんの「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し(止観輔行伝弘決・巻第八)」を引用して「人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ」と仰せである。
冒頭に挙げた日蓮正宗系では、彼らの読む観念文(かんねんもん)に「諸天晝夜常爲法故而衛護之(諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す) 」(天・神による護法はパーリ語経典以来ある)という妙法蓮華経・安楽行品の文が載る(創価学会の御祈念文からは2015年に除かれた)。
彼らが指す「諸天(善神)」とは、インド以来の梵・釈・日・月(ぼん"Brahma"・しゃく"Śakra, Indra"・にち"Sūrya"・がつ"Soma; Candra")、日本の天照・八幡(てんしょう・はちまん)などである。
みな南無妙法蓮華経の三宝(仏宝=日蓮大聖人 法宝=本門の本尊 創価では彼らの御本尊 僧宝=日興上人ないし歴代法主上人 創価では信者全員)に帰依しており、三宝や修行者を守護する力用(りきゆう)を持ち、諸天の本地はみな釈迦如来だとする(諫暁八幡抄: 教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや)。
更に、釈迦如来・多宝如来の本地は南無妙法蓮華経である、とされる。
南無妙法蓮華経も、畢竟「一心・妙」であると、彼らの依拠たる日蓮大聖人御書に説かれている。
※私による観萌行広要の動画⑤説明文に総勘文抄・日女御前御返事などを引用した。他にも関連説多し。文献学ではその説の御書について中古天台本覚思想の流れだとか日興門流の写本が伝えられて真蹟が無いとして偽撰扱いをするが文献の存在は事実なので提示した。



2.1 (#dei1)

日本・ギリシャ・インドに見る多神教

現代学問的に「多神教(多神を崇拝すること・土着信仰や民間信仰も)」と分類されるものは、多くが「物質的存在」や「性質・法則」に基づいて名前があり、人格や神格のようなものを付して成立した神を有している(擬人化とも)。
「物質的存在」とは、単一の生命と見られる植物・動物や、象形として一個体と見られる山・海などであり、それらをそれらたらしめる神聖な性質・霊的なものを名付けて表現するか、事物の名のままに神・霊的存在と扱う(擬人化)。
「性質・法則」とは、自然現象としての音・風・火・発生・維持や、心・感情・精神作用・知性はもちろん、神聖さ=超自然的なこと・自由自在などである。
日本・ギリシャ・インド、様々にそういった事物に基づく神が多く見られる。

そのために、多くの神が並立したり、上下関係を抱えたり、人間の尊敬のありようによって神ごとの関係性の変異(ある時代・ある地域で最高の神だったものが別の時代・別の地域で別の神のしもべになったり神より下等の霊的存在になったり)なども生じる。
神ごとに、どんな由緒があるのであれ、個人の心に応じた存在(応化"nirmāṇa")であり、客観的な可視性(いわゆる目に見えること)は無い。
ただ、そういった性質・作用を、現象や感情変化によって看取でき、相応の名前を以て、人々により、認識されている。
事物を尊重する精神性の現れであり、人々の道徳に関連する。

この点を捉えると、より心の真実を追究して「仮の名前ある唯一の神(いわゆるヤハウェとかアッラーフとかという)」を示した一神教は、多神教に対して優れていることとなろう。
一つの信仰を正しく守る、という筋道が浮き彫りとなる。
イエス・キリストさんやムハンマドさんが多神教を卑下する理由もここに存していると考えてよい。

※「神が多く存在するならば心の真実からして相容れない」という見解だろうが、仏教では後述するように融通して一即多・多即一といえ究極的には一も多も無で寂滅である。仏教では、あらゆる神々・霊的存在(デーヴァやデーヴァター)が仏を敬うという立場にある(一部の夜叉・阿修羅・魔などはそうでないとも説くからパーリ仏典アーターナーティヤ経"Āṭānāṭiya Sutta"で毘沙門天がそれらによる修行者への妨害行為より守護すると誓う)。そういった多神ありきで一神の優越性が問えるところ、多神は絶対悪で否定されるべきものと扱った一神教は、その信者たちが歴史の随所で慢心や憎悪に基づく大規模な事件を起こした。もしイエス・キリストさんあたりが、釈尊のように多神・民間信仰の神からも尊敬を受けているというスタンスであったらば、後のキリスト教団やムハンマドさんなどにも差別的主張が減ったか、あるいは歴史における伝道拡大も無かったかもしれない。歴史に対する仮定の話は詮無い話であるが、しみじみと思う。ただし、キリストさん・ムハンマドさんには、神と扱われずとも聖霊とか天使とかの恩寵はあったと伝えられる。



2.2 (#dei2)

また、多神教の神のうちには、元々現世で生きていた人間であったりするものもある(祖霊崇拝とは区別される場合がある)。
日本の神道には、歴史上実在した誰彼が神社に祀られていることがよく認知される。
先に日蓮正宗系の話もしたが、彼らや祖師・日蓮大聖人にとって日本の神の中でも重要視されて御本尊に尊名が載る存在は「八幡神(八幡大菩薩・正八幡)」であり、これも「元は応神天皇として日本の歴史に実在した人間であった」と一般的に認知されて信仰されるものである(諫暁八幡抄: 今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり 神国王御書: 第十四仲哀 八幡大神父也 第十五神功皇后 八幡大菩薩母也 第十六応神天皇 今八幡大菩薩也)。
※学問において「本来の八幡神は応神天皇と別もの」とされるが、後述の梵天のように実在人物が習合・神格化される歴史的事実は確かにある。民間信仰とは、そうであり、次第にそれが正統派となる傾向もまた、歴史の中に看取し得る(僅かな強者の作為性と多くの民衆心理が関わる)。
現代日本でも、そういった伝統的な事象と似て非なる現象として、特定の分野に長けた人や、有り難い行為をした人について「〇〇の神さま・神様」とか「神(形容詞的・副詞的な接頭辞)〇〇」とか「女神」とかと称えることがある(ただし神の名称に限らず他の尊い名称…"達人"などを用いることも多いためその同一カテゴリとして"神"と称する発想の人もいよう)。

インドの場合、現況のヒンドゥー教のブラフマー(単数形でブラフマ)は単体の神だが、古代インドや仏教の梵天・ブラフマーは、現世で修行などをしてブラフマンを得て(梵我一如を成して)梵天界・ブラフマローカへ往生した「元・人間」である。
現世の努力によって一人が「高尚なもの」と人々によって見られ、人々から称賛され、人々によって歴史的に名が伝えられる。
その称賛の中には、「人ならざる人(人なるが故に人ならず)」という「玄妙なる精神性」がある。
梵天へ往生することとは、伝統的な婆羅門・ブラーフマナにおいて梵我一如の達成であろう(ブラーフマナ"brāhmaṇa"の名声に関する釈尊における理解は過去記事)

パーリ仏典に見られる「サナン・クマーラ"Sanaṅkumāra"」という梵天が「仏教以前よりあるとされる教え」に登場していたことは、私が過去記事に何度も示してきた。
つまり、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7章で「サナト・クマーラ"Sanatkumāra"(パーリ語で訛る前の発音)」として登場し、仏道修行と同じような教理・修道論を唱えた。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドとは、パーリ経蔵・長部13(長阿含26経)の三明経(及び注釈書のティーカー)に「チャンドーカ」というサーマヴェーダを奉じているヴェーダ学派の派閥名があり、チャンドーカ派の語源と推定されるサーマヴェーダ系奥義書である。
それに加え、後世のマハーバーラタ3章183節でサナトクマーラが「クシャトリヤ優位説」を述べ、これはパーリ経蔵・相応部・梵天相応6.11経や長部3・アンバッタ経でもサナンクマーラによる似たような主張が見られ、四ヴァルナ(通称カースト)のうちのクシャトリヤについて言及することも多い。
よって、サナトクマーラは仏教以前より、古代インドで信仰されてきた「神・ブラフマーとなった人間」だったと考えてよい(梵天相応では他にトゥルー"Turū"などの元人間と見られる梵天が登場。バカ"baka"・婆迦・婆伽は大智度論・巻第三十四にも過去世の福徳で長寿の梵天となったので常住の邪見を生じたと紹介される)。
※サナト・クマーラとは「永遠に"sanat"子供である"kumāra"」という意味で、「一生に渡って無垢な子供(童子の貞潔)」の清浄の徳を示すと思われる。修行者は、まさしく不純異性交遊が無いから純真無垢である、と解釈できる。先の三明経に説かれる梵天往生(生梵天)のように、離欲(いわゆる独身)・無執着・慈悲のままに一生を精進すれば、梵天界で永遠さながらの久しい寿命を得よう(そう定義された信仰をする人々にとってそれが事実であって目的である)。なお、当記事では非伝統的な神智学におけるサナト・クマラを取り上げない。
より後世には、プラーナ文献において単一・創造神ブラフマーの意思より"mānasā"生じた4人の子、「チャトゥルサナ(バーガヴァタ・プラーナ भागवतपुराण 3章12節などに名が列挙される)」の一人として「サナトクマーラ」がおり、元人間(ヒンドゥー教の人は恐らくチャーンドーギヤ7章の時点でナーラダ仙に現れたブラフマーの子だったと解釈していよう)という雰囲気は失せたが、「梵行・ブラフマチャリヤをする修行者たち」という設定があり、やはり仏道修行のような現世の努力が見られる。

梵語クマーラの音写は、中国・日本で「鳩摩羅天(くまらてん、倶摩羅天、拘摩羅天)」として見られるが、鳩摩羅天自体は、梵天たるサナトクマーラ(サナンクマーラ)と関係が無いかもしれない。
※「鳩摩羅天」の梵語の名「クマーラ」は、一説で大自在天(イーシュヴァラ"īśvara"・いわゆるシヴァ)の子たるスカンダ"skanda"の異名といい、サナトクマーラとの関連性を見出しづらい。スカンダは初めに、マハーバーラタ(歴史上は釈尊滅後の述作とされる)でアグニ(妻はスヴァーハー)の子として登場した。古代のリグ・ヴェーダ5章2節におけるクマーラの語は、その「アグニの子にしてクマーラの異名を持つスカンダ」と関連付けられるが根拠は薄い。龍樹菩薩の大智度論巻第二には、視覚表現されたクマーラ=スカンダ(異称MuruganやKārttikeya)が孔雀に乗っている描写と同じように「鳩摩羅天・・・孔雀に騎る」と紹介されている。より後世のヒンドゥー教シヴァ派でシヴァ(漢語でいう大自在天)の子という見解ができたようであり、それ以後の流れとして中国や日本に伝えられたろう。中国密教に至ってはスカンダの音写名を誤った結果(建駄→違駄→韋駄)に、道教と習合して韋駄天が生まれ、孔雀に乗る姿でなくなった。話を戻すが、例のチャーンドーギヤ7章の最後にも人間・サナトクマーラが「スカンダ"skanda (√skand 跳ぶ者 "the Leaper")"と呼ばれている bhagavān sanatkumāraḥ | taṃ skanda ity ācakṣate |」と明かされる。奇妙な偶然であろうか?
「鳩摩羅天」は、パーリ仏典に伝わる説の漢訳経典(四阿含)に見られない。
パーリ語・サナンクマーラ登場経典のうち、梵天相応6.11経に当たる雑阿含経1190経は娑婆世界主梵天王=サハンパティという別の梵天に置き換わり、ほかの漢訳経典でもサナンクマーラ以外の名の梵天に置き換わる傾向にある。
※クマーラは子供・童子の意味である。関連性が不明な教説として長部18経に「サナンクマーラ梵天が自己を化作して五髻"pañcasikha"ある童子"kumāra"の容姿になる」シーンがあり、漢訳長阿含経4経・闍尼沙経に「大梵王即化作童子頭五角髻(仏説人仙経: 大梵王以童子形於彼勝會忽然出現頭有五髻色相具足)」とある。
日本へ伝えられた「鳩摩羅天」には、それら古代インド信仰・仏教興隆・ヒンドゥー教展開という三大潮流における「種々サナトクマーラ人格」が看取されない。

ともあれ、インドの神・デーヴァとされる者のうち、日本の神道のように「元は人間であった」という例が確認できたといえよう。
初め古代インドでは明らかに「ブラフマンを得た元人間(ウパニシャッド的な梵我一如の達成者 or 仏教的な離欲慈悲の修行者)たる多ブラフマー」であったが、後世ヒンドゥー教では「創造神たる単一のブラフマー(元人間たるサナトクマーラ梵天の名はその4人の子のうちに収められた)」となっているため、ここの峻別は必要になるかもしれない。
歴史書・伝承、古代インドにかつて存在した「第五のヴェーダたるイティハーサ・プラーナ "itihāsapurāṇa"(現在あるプラーナ文献とは別物)」の類が確認できないか、他にも説明されない現状は推測に留まるが、おおよそ歴史学・宗教学・民俗学的に承認し得るかと思う。
※イティハーサプラーナは噂のチャーンドーギヤ7章で「第五のヴェーダ"itihāsapurāṇaṃ pañcamaṃ vedānāṃ"」として説明される。サナトクマーラを尊師"bhagava"と仰ぐナーラダが学んだ物事の例示のうちに示された。その記述は英語版Wikipedia - Fifth Vedaにも引用される。

※さて、世界の主宰・創造神・造物主というと、パーリ仏典ではパジャーパティ"pajāpati"という名があり、パーリ注釈書によれば他化自在天"nimmitavasavatti..."(第六天)の主のことをいい、ブラフマーでない。パジャーパティは、リグ・ヴェーダでいうプラジャーパティ"prajāpati"のことである。学説においてリグ・ヴェーダ末期に編纂されたという第10章に頻出する名である。ヴェーダ以後のプラジャーパティとは、ブラーフマナ文献でブラフマーを指すようになる。古代インドの或る時期や或る地域ではプラジャーパティとしてのブラフマーが強勢であったろうが、マハーバーラタ述作のあたりにはヴィシュヌやシヴァの立場も強くなる。仏教書でも、龍樹菩薩の中論・青目釈・巻第一や大智度論などに、大自在天(マヘーシュヴァラ、シヴァ)や韋紐天(ヴィシュヌ)が一切を生み出したという説が紹介され、最高原理ブラフマンとか創造神ブラフマーにあたる創造説・万物根源説が無い。ただし、同じく大智度論・巻第十では一梵天王が「私は諸の梵天を作った」というように表現されており、ブラフマン擬人化ブラフマーの祖たる一梵天がいることを示唆するようである。龍樹菩薩在世(西暦2世紀)~鳩摩羅什翻訳(西暦5世紀)の間にはインド広範に「創造神(=破壊も自由自在)はヴィシュヌorシヴァ(ルドラ・マヘーシュヴァラといった呼称を含む)」という見解が定着したと思われる。ヴェーダ学派・婆羅門の間で創造神の立場が三つ巴状態となった時期は、龍樹菩薩より以前であろう。この三つ巴状態において、トリムールティ"trimūrti"として三神一如の立場が表明されたろう。ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ、神格や名称は異なっても、ヴェーダ学派の相互の神の信奉者の主張は似てしまっており、別に仏教徒やジャイナ教徒のような「ナースティカ」が存在するならば、ヴェーダ学派間の見解を統合すべきであり、新たな統一神を設けてもならないと考えたろう。ヴェーダ・ウパニシャッド以来、最高原理が唯一無二であること"Ekamevādvitīyam (英訳: ...is one only, without a second)"に変わりはないのだから、トリムールティという形式的教義を俟たずとも、本来・諸神一体であろう。ヒンドゥー教の調和的トリムールティの明確な記述はクールマ・プラーナ"kūrma puraṇa"に多く見られる(tistrastu mūrtayaḥ proktā brahmaviṣṇumaheśvarāḥなど)。学説で、日本における古事記・日本書紀の編纂(8世紀)までに天照大御神が最高神と位置づけられて全国やおよろずの神々を承認しつつも下位に置いたことや、後述する西洋一神教が他の神々を斥けてただ一神のみ有りとしたこととは、別の個性が感じられる。

※記事投稿後の追記で恐縮だが、パーリ仏典・長部24経のパーティカ経"Pāthika Sutta"(漢訳は長阿含の阿㝹夷経)には、沙門婆羅門のうちに梵天による創造説・自在天"Issara (īśvaraのパーリ語)"による創造説があるとして、釈尊が認知を示し、それを代弁し、尚且つそれらの創造説(他にもいろいろ紹介される)に執着していないという教説がある。釈尊在世から、自在天・イーシュヴァラ(シヴァ)による創造説などが認知されていたことの傍証として参照できる。

インドの神・天・デーヴァ"deva"ということは上の通りであり、仏教の経典にも登場し、現代の日本・中国・東南アジアなど多くの地域の寺院や宗教施設で、それぞれの祭祀・信仰の内に取り込まれている。
それは過去記事(2016年9月11日記事では主に上座部仏教圏を対象とした)においても語ったので省略する。
最後に、仏教の一見解を大智度論巻第二より要約・補足したもので示す。
(前略、仏陀は一切智と称されるが「天の神々もまた一切智だと称えられる」という問答。彼らが一切智であるはずはないとする) 天の神々は様々な芸術・文学に表現されるが、みな武器を手にしている。(芸術・文学は人間の心の所産であり)彼らはみな力の弱さを覚え、(作者たる人間の)心が不善で怯えているから武器を執る。彼らは苦を自ら除く術が無い。(元々芸術・文学は人の心の現れなのでその当事者たる)人間は、彼らを恭敬しただけで現世の憂いが晴れることが無い。人により、彼らを敬わずにいても、現世の快楽を妨げない。当に知るべし!虚誑にして実事無きことを!世間の衆生は業の因縁で輪廻がある。徳の因縁で天に転生し、半端なものは人となる。智者(文脈的に智者は覚者・仏陀"Buddha"を指す)は天の神々に依らない。 (中略) 仏(現世に現れた覚者)のみが仏の名にふさわしい存在であり、修行者は仏のみを敬って師とすべきである。天に事(つか)えてはならない。
※天の衆生は存在し、自ら転生できるとしても、敬う対象とすべきでない、とのこと。仏の三十二相についての尊い意義は大智度論でも随所に説かれるが、三十二相もまた修行者個人の因縁(法を聞く・思惟する・仏を敬うなど)の結果だと説かれるので「天の神々の武装・荘厳の容貌と変わらないのではないか?」と思われそうだが、それはそうかもしれない。修行者の功徳のための仮説・世俗諦であり(大智度論巻第二十九)、ついには無相・法身という真実を知り得るので、正統な仏教において三十二相は尊重される。



3.1 (#god1)

一神教(主にキリスト教)

キリスト教の神は、それら「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"Word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」 ※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。
ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節) ※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"Singular"と複数形"Plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

※原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。その場合、神・テオスは無明・行・識に当たり、言・ロゴスは以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。「言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取され、創世記1~3章の創造神話も概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(概念)があったと説かれるが、これも個人の一生・因縁観に基づいている側面を見受ける。後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。苦の因縁の始まりは、前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪の分別が生じた(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)とし、後者で衆生が"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る)という色・味・香あるものを指で食べて渇愛が生じた(その後は"rasapathavi"を貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)とし、共に説かれる。いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。昇天も堕獄も「業(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・律法や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

※「彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようも無いという意義を示す。動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出ても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。更に仏・菩薩や宗教家は、他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。他者の心=神性は量りようも無いが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。

中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 ※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」
六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」 ※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本 心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説き、後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。

※因縁法として心は神と呼べる。修行の果報としても心は神と呼べる。因果倶時となろう。しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, cordis, καρδία, heart, hṛdaya"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3やヨハネ13:26)。心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具といった呼び方もできる。

とはいえ、仏教とキリスト教の相違点が数ある。
教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



3.2 (#god2) キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場を明確にした。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



サンスクリット サンスクリット語 聖書 sanskrit bible romans



起草日: 20180110

うだつの上がらない昨今の精神状態に加え、同日は動画制作作業も兼ねながら、同日中に8,000文字程度(引用された典拠の文を含む)をメモした。
この日は午前1時台起床で22時前就寝である(普段は2時台起床で19時ころ就寝)。
※最終的に、当記事は以上で20,000文字を超えた。

一神教に関する説について、注釈などが雑多に入り混じっているため、後に記事の話題が無くなったとき、別途「整理された記事『一神教と因縁観』」として投稿してもよいと思う。
どこの国の神でも、一神教の意義における神でも、心の真実・因縁・空・精神の象徴として究極的には同義化するようであり、そのことは普通の学問的研究(憶想・分別)の領域で知り得ない。
宜なるかな、中論4章8-9偈は、梵文と鳩摩羅什漢訳版とで解釈が異なると文献学者・論理学者に主張されるが、これも同じことである。
「空によって(梵文: śūnyatayā)」も、「空を離れて(漢訳版: 離空)」も、論理は同一線上にしかなく、論理の依拠・因縁たる概念・名称も、同じことに過ぎない。
多神より一神を推定するのであれ、一神ありきで多神ありと主張するのであれ、悟りの人にとっては不一不異(不一義不異義)である(無論、学問の人はこの真理性を形而上学的だとみなして学術の領域より除く)。
ほか、本文中にリンクとして原文・典拠を示した記述が多く有るが、それ以外に、本文中の内容と多少の関連記述を以下に設置しよう。

仏典における神・魔について
「萌集記 イデオフォノトピア遊行の事 四会の注釈」より抜粋
注釈: なぜ仏典には、人間に不可視のはずの諸天(いわゆる神・天使・天子)や悪魔が登場し、現世の人間たちと場を共にし、人間たちと言葉を交わすことになるか?諸天も悪魔も、不可視の作用から名を設けられており、当然姿形は無いし、目で見られることも無い。宗教では外界の事物や現象や精神作用などに名称や容姿や性格を付けており、現代世間のフィクション作品はその延長として想像されたものである。諸天とは人の感情の快楽に通じるものや、本人が主観的に快楽を得ずとも世人が徳と感じる行動などの権化である。悪魔とは人の感情の苦痛に通じるものや、本人が主観的に苦痛を得ずとも世人が罪と感じる行動などの権化である。世間の漫画・アニメ・ドラマ等でも善の自己(良心による呵責)と悪の自己(欲望による汚染)とを心に想定して「天使と悪魔」に擬人化する。

 例えば、釈尊が成道せんとする時に悪魔は妨害せんとし(直前に受けた乳かゆ供養の食事による快楽や長時間の坐禅に徹することによる食欲・睡眠欲や肉体の苦痛などに心が奪われることは魔障であって魔軍が責めるようなもの)、釈尊が成道した時に諸天は徳を讃える。イデオフォノトピア本文は三会に於いて梵天勧請のエピソードを紹介していて同様である。摩訶迦葉尊者が主導した大阿羅漢衆の経典結集もまた、一切の善悪が絶えた中で再び萌(きざ)した善の心・慈悲・菩薩の心に依るものであり(大智度論巻第二には迦葉が諸天より「当に大慈を以て仏法を建立すべし」と勧請を受けたとし阿含系の仏般泥洹経巻下にも「吾等が慈心、四阿含を写す」とある)、同様である。菩薩精神は釈尊や仏滅後の迦葉・阿難尊者にも顕れたと。梵天・梵住は無瞋・無執着にして慈悲深い処という教説が長阿含経・パーリ長部の「三明経"Tevijjasutta"」に有る。梵天は大変に幽かで奥深い処であり、「見ないことで見られる境地」といえる。その信仰で、梵天・帝釈・四天王・浄居天(大自在天maheśvara)による仏法守護の意義も、第六天魔王による仏法壊乱の意義も成立する(みな非有非無・仮名・自分の心の出来事だから)。

 また、釈尊が涅槃に入って世を去るならば、悪魔は欣喜雀躍し、諸天は色界下位の者が有漏の仏弟子と共に歔欷悲泣し、色界上位・無色界の者が無漏の阿羅漢と共に世の無常を観る。経典の世界に起こる諸々の異変・天変地異も、「その時の阿難尊者(ほか経典編纂者)の心のあらわれ」を表現する。これらの現象を釈尊が語った場合は、心の相を示して縁起の理法を気付かせようとする方便である。萌えの典籍でも、当然「化(け)」たる存在が、善ならば徳を讃えたり、悪ならば悪を重ね、様々に仏法を示現する。地獄も天国も心の住処、「依報(えほう)」である。そこに住む心、「正報(しょうぼう)」は、どのような心か?清浄萌土抄*によって仏教の仏国土・浄土思想と「依正不二」が解き明かされる。

 ともあれ、我々は、経典の文字通りに読解すべき信仰がある。文字通りとは、つまり、業によって死後にも天界や地獄などへ赴くと信ずべきである。釈尊がシッダールタ王子としてお生まれになったり、菩提樹の下で悟りを得られたり、衆生済度のために法をお説きになったりすると、その場に花が咲き乱れる(華が雨る)などといった現象を、文字通りに信ずべきである。釈尊の涅槃の折に、草・花・樹が枯れて雷霆霹靂が世を震わせるといった現象を、文字通りに信ずべきである。それは、やはり、心と向き合う結果を得て、縁起の理法を観ることとなる。どのように地獄や天国(天界)といった六道(修羅道を除くと五道)を流転輪廻するか?十二因縁(十二支縁起)にある心の因縁(心の存在・認識・作用など)が、地獄や天国といった六道を流転輪廻する。悪い行為を悪い行為と自覚して悪い気持ちを生じ、善い行為を善い行為と自覚して快い気持ちを生じる分別は善悪の業報を示し、縁起の理法を観る。最後には善悪概念・苦楽を断じ、六道・須臾刹那の転変・生死を滅し、流転輪廻を止めて還滅・解脱となる。言葉としては、それだけ。

きざみこまれた、カラクテール・キャラクター。つくられた、サンスクリタ・クリーチャー。(やや学術・やや民間語源説)
「本萌譚 異伝④」より抜粋
拾主の注釈『当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or sura deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。サンスクリタとしての仏・如来は、三身のうちの「応身・ニルマーナカーヤ"nirmāṇakāya"」であり、我々の業・カルマ"karma"や行・サンスカーラ"saṃskāra"に応ぜられた相となり、個々人で異なり現る。この時、仏は萌えキャラとして応現せられる。応身を知ったならば、法身・報身を知ることで仏の威徳を知る。経説より心を学ぶように、応身より法身・報身を知る。それは仏の慈悲に通じ、己が慈悲を養う。諸仏・諸萌はみな歓喜せられよう。注釈が長くなって愧じ入る』
当記事注: 宗教語源説"religious-etymology"は宗教の醍醐味ともいえる。聖典の編纂者・説法者らの知る語彙のみで不足はない。聴聞者の信仰や修行に資することが期された。萌えの法門の立場と、既成宗教の説を同時に示した文章は、雑萌喩 (六)である。和讃→「花の名たれか言ひ初むる 物に名づくる心とは いつにもほとけ居りぬらし 名をもちゐるは人のわざ」

萌えの典籍中にあるブラフマー"Brahmā"語源説
「萌集記 三会」より抜粋
拾主のたまわく「古の能耕心田師、菩提樹の下に於いて始覚あり。衆(もろもろ)の魔軍を破りて仏土は空無の清涼となれるも、時に慈悲心を観ず。師の思惟したまわく『三界の一切苦を度せんと欲するも何んが妙法を以て鈍根の衆人に教うべき。言語の法は能く諸の顛倒を生ず。譬えば人有りて毒蛇を摒除(びょうじょ)せんに、把むこと難くして還って毒苦を受くるが如し』と。爾の時に梵王(ブラフマー)及び諸天、合掌礼拝して彼の前に現れて説法を請ず。梵王の告げたまわく『唯だ願わくは世尊、人が間にして塵垢の微薄なる者あれば此れが為に法を説きたまえ。応に大悲を垂れたまうべし、然らば言語の法は能く諸の善根を生ぜん』と。当に知るべし、是の如き梵天衆、師の慈悲の応現なり。この故に慈悲并びに喜捨の四つをば梵住"Brahma-Vihāra"と名づく。又た、梵の義は固有名詞の余(ほか)に清浄の義あり(梵行"Brahma-Carya" 梵音等)。清浄は是れ萌えの真如の体なり。往古に於いて原義(語根*bʰerǵʰ-)は長ずること"grow, to rise, become high, to swell"なり(攝萌敎脚注)。長ずることは是れ若芽の萌え"bud"に異ならず。是の如く能耕心田師、慈悲心より萌えを観じて衆人に説きぬ。自ら萌土を養い、他の善根をも生ぜしめん」

当記事注: このほか、觀萌私記・末・攝萌敎の現代語注釈では、サンスクリットの語根"√bṛh"を例に取って語る。そこでは、萌えとブッダとブラフマーということの類似性をも説明してある。いずれにしても、日本語やインド言語の動詞語根があり、その名詞化であるという言語学的共通点があるし、原形の動詞の意味が類似する。人の名称の元は行為に基づく、という語源説は本記事にも例示された仏典・アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳阿含で小縁経など)にも見られる。過去記事(2017年11月20日)で、ブラーフマナ"Brāhmaṇa"の言語学的語源と、パーリ語経典における原形の考証をする際、この教説を参照した。

フィクション人物のリアル応現と、歴史的実在人物の実在性について "fiction and fact (先のヨハネ1:3のfactumとヨハネ1:3・ローマ1:20のfactaは男性単数主格factusの格変化形で英語fiction, ラテン語fictioに似た意味がある。ラテン語で別に中性単数主格factumで英語factと同義の単語があり、どちらも中性名詞としては同じum形の第二変化で分別をつけがたい。英語のfictionもfactも対義語のようだが元は神の被造物として虚構"fiction"でも事実"fact"でもあり非実非虚という真理性・二面性に基づいた派生語のようである)"
「本萌譚 異伝④」より抜粋(本文も注釈も原文中のもの)
 拾主はここまでの話を終えて補足せられます。「かの萌尊・跋聖の、このご説法は、いわゆる『萌風』の教示である。慈悲を持ちながら、空・無我の理法を知ることで菩薩行を毅然となし得るという道理である。萌風に関して、キャラ無我・ストーリー虚妄と知りながら菩薩の像(心の像・偶像・観念)を勧めるという彼の願望を述べ、聴聞者に実行を求めた」尊者は直ちに問いを発しました。「跋聖さまに弟子がいらっしゃるとして、実際に所説の萌風の物語をお作りになった方はいらっしゃいましたか?」拾主は少し黙せられてからお答えになります。「当世に菩薩精神を感じられる素敵な物語があれば、それだと思ってよい。当世に無いならば、跋聖の弟子と考えられる人がいても誰も作らなかったろう」尊者は、「さて当世に、そのような作品がございましたか?」と思いながら、返答をしました。「・・・、今を生きる私たちが正しく行動せねばなりませんね」と。意味深長な拾主の言葉の意義を得た尊者は、使命感が高まりました。

注釈: 釈尊・釈迦牟尼仏・瞿曇悉達多太子、ガウタマ・シッダールタ・ゴータマ・ブッダ"Gautama Siddhārtha, Gotama Buddha"は実在したか?現在に経として伝わる所説を説かれたか?説かれたと思うならば、既に説かれている。過去の事をどう想定しても、全て実在のはずが無いが、「これは事実・あれは虚構」と人は浅薄な基準から分別する。経の諸説を疑えば、(経が示すところの)仏法への信頼を失う。それはなぜなのか?心の因縁により、釈尊も諸経も実在するし、実語が有る。経の意義を汲み取るから、信ずべき仏説となる。「仏は実在したか?経や法は実語か?」という議論・思考は既に滅んだ。その議論・思考に心が著(じゃく)するならば慧眼(えげん)を破る。法華経・如来寿量品と中論・観如来品の所説の如し。かくの如く解(げ)せば、ただ信心と修行とが肝要である。ここでの尊者は、既に戯論寂滅の位につき、心服随従し、菩提心を発している。「当世に事実が無いと思うならば過去世にも事実が決して無い・・・、現世の我らがどうあるべきか?」尊者は拾主の亡き後に「歓喜奉行の人(素直な心で実行する人)」となる、ということが尊者名義談に示される。


2018年1月21日日曜日

道心あるニート・引きこもりの修行における障壁

世間には「ニート」や「引きこもり(ひきこもり)」という概念に「クズ」等と悪い印象の属性を付属させたり、事象に「自分を省みず他人を鑑みず意志が無い」と悪い印象の原因を想定した種々の説がある。
世俗の人から一部の宗教家まで、口をそろえ、「直ちに悪いもの」と説く。
漫画・アニメ・ドラマ・大衆音楽の歌詞なども、そういった思考を前提として作られたものであることが、2018年現在もおおよそ変わりなくあろう。
「直ちに悪いもの」と説くにも、社会・世俗や哲学・宗教の各々が異なる理由を述べつつ、見解を異にし、時には主張が対立して枘鑿(ぜいさく)の相容れざるが如しと言え、ただ正しい仏道修行者のみ、これを達観してゆく。
修行者は「所詮、世間とはそういうもので彼らの思考を変えさせる必要は無い」と了知して他者への執着や憎悪を捨て去り、速やかに修行に戻ろう。
同じく、彼ら他人たちもまた、彼らが想定する「社会悪」云々を排除できる道理が無い(当事者に憎悪の心があるうちは社会悪も消えず・世界平和も実現されず・真の幸福も無い)。

世間の人は、そういった概念の名称に、副次的に様々な属性を付属させる。
結果的に、同じ概念の名称(ニートや引きこもりなど)も十人十色に彩られてしまった。
それらはみな、条件に依存して付けられた「虚構・戯論」である。
その、世間の人の言説・心理は、十二因縁などの因縁・縁起を見れば、解明される。
※世間に生きるならば他人の主張を尊重することは重要だが、私は当事者と話したことも無いので、最初から関係が無い。あるいは同じく世間で主張する者は、同次元の因縁によって反論をなす権利もある。しかし、修行者は以下の通り、厭離(えんり)・遠離(おんり)・不戯論(ふけろん)・無諍(むじょう、怒りによる主張が無いこと、喧嘩が無いこと)である。

世間の見解の根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情や、など、多くの因縁を見る必要がある。
あらゆる見解・論理・主張とは、因縁によって構成された「虚構」である。
そして、「虚構、虚妄の構成物、有為法"saṃskṛta dharma"、たったそれだけのこと」と達観し、厭離すべきである。
世間に、客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)ので、どんな論難や非難でもあれ、みだりに悩まなくてよい(悩む心は執着・煩悩の心であり地獄に転生する原因)。
なおかつ、その仏教的見解や立場にも執着せず、自分のすべき修行を黙々と淡々と実直に質実剛健にすればよい。
これが不戯論の八正道・中道の仏道である。
阿含時の教説であり、小乗仏教における一乗"ekāyana"に通じる。

パーリ経蔵・相応部・悪魔相応"Rajja Sutta" (漢訳の雑阿含1098経)
釈尊が独りで坐り「非法(殺す・人間の勝ち負けなど)を行わず・民や臣下へ行わせず、法で王国を統治できるか?(世界平和は実現できるか)」と思った時、「あなた(釈尊は王族の出身)が還俗して王宮へ戻って国を統治すればよい。あなたの力があれば石も金に変わる」と勧める声が聴こえ、釈尊は悪魔のささやきと見抜いてこれを呵責せられた。加えて「世俗の幸福は無常であり、人々が欲求満足を得ても苦の根本的な解決とならない。たとえヒマラヤ山脈を黄金の山に変えても、足ることを知らず・更に求めさえするし、失われる恐怖もある。そのことを知る者は、国王として人々を欲求満足させる手段を願わない。私は人々に苦の因縁と苦の滅とを知ってもらって欲や執着の制御を願う」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

パーリ経蔵・小部・スッタ・ニパータ3章2経"Padhāna Sutta"
釈尊が未だ成道しない頃、真面目に苦行をしている時、「痩せこけてしまう醜い修行よりも世間の善行をしなさい。今のあなたの努力は無駄だ」と唆す声が聴こえ、釈尊は天魔の所行と見抜いてこれを呵責せられた。魔軍について「第一に欲望"kāma"、第二に嫌悪"arati"…(8つ以上に挙げて) この魔軍には、世間におけるどの人も天に生じた者"deva"も、気付けず・打ち破ることもできないが、智慧"paññā"であればできる」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

→自己反省をしている時、自分の道を見失わせるような思考・踏み外させるような思考が起これば、それを「悪魔のささやき」と了知して(知って・見抜いて viditvā)自ら振り払うようにせよ、という技が示される。自分の中にも「世俗的良心」があるが、それよりも、まず悟ることが、道行く自覚のある者の優先事項である。他者は修行の道において無知であり、既に見つけた自分の道・自分の人生に関しないし、単に音声や言葉が脳に入ったのであり、それ以上でもそれ以下でもないと了知すればよい。これらも自己が仏教に基づいて了知するという因縁(因と縁)の結果であり、その立場にも執着すべきでなく、心に迷いがあれば戯論があると反省思考(止揚)を繰り返す。戯論は輪廻であり、自己が苦しみの世界に転生する道である。その戯論を逃れて解脱することを思い、執着の心を自覚しないまま持ち続けるべきでない。とにかく!執着を離れる。一時的な不快感や憂鬱に浮き足立ってはならない!自ら心を欺かず、正直・正々堂々とする。

維摩経・仏国土品「(舍利弗言わく)我、この土を見るに、丘陵(くりょう)・坑坎(こうごん)・荊棘(ぎょうごく)・沙礫(しゃりゃく)・土石・諸山・穢悪(えあく)充満せり。」
法華経・如来寿量品「我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而も衆は『焼け尽きて 憂怖・諸の苦悩 是の如き悉く充満せり』と見る」(五字偈の形式に基づくスペースを挿入)

※実に世間は針の山のようである。一歩踏み外せば傷を受ける、煩悩・業・苦の娑婆である。趣味の事物は我々の興味を引くが、音楽の歌詞や漫画・アニメ・ドラマのセリフなどには苦が満ちており、食べ物一つさえも心身の患いを生むと観ずべし!苦のたとえが「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように示され、実に世俗の事物は「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように恐れて厭うべきである。世俗の事物は欲求の対象であると同時に、我が心身を苦に至らせる因縁を持つ。「華麗なバラにトゲがあることを恐れるように、欲望に注意を持とう」と。未だ悟っていない修行者の立場では、まずこのように世間を厭離すべきである。後述する「菩薩(平等の心)」の立場では別の話である。

そう、自分の心と違って他人の心を動かすことは、十二因縁の法において不可能である。
他人の心とは、色"rūpa"の一種として、自分の心の作用=受・想・行・識の外にしかなく、他の色"rūpa"が受"vedanā, pratyakṣa"の因縁によって把握されるように、推量の因縁によってのみ看取される。
自分の心の外の物事は「幻」であり、他人の思想も「幻」である。
「幻"māyā (マーヤー)"」とは「①自分の心をたぶらかすもの ②有って無いような幻影 ③心が生み出す象徴・幻想」とインド思想や般若・空思想に示されている(般若・空の教理では自分の心も当然、幻のようで無に等しいがそれは進んだ理法であり今は差し置く)。
修行者は、まず、自分の心の悪を自覚し、反省し、速やかに取り去るべきである。

「言葉で心を粉飾する『気休めの教え』」ではなく、自ら体得してゆくことは、自分の心を思いやることであり、他者にもまた体得してもらいたいと願う。



大乗仏教においてはどうであろうか?

インターネットで私が活動する際は、「仮名(けみょう)」としての「中卒・無職・ニート・引きこもり」である。
「仮名・仮設(けせつ)・仮施設(けせせつ)」"Prajñaptir upādāya (またはUpādāya prajñaptiḥ)"である。
世間で定義された意味の側面で、そのように名乗ることができる。
例えば「ニート」とは"NEET; Not in Education, Employment or Training"ということであり、世間の教育機関に属しておらず・職歴も無いという点で、私は該当する。
ただし、人間はいかなる概念に属せず、名称が当てはまらず、人間という概念自体が空虚であることは科学・哲学において論を俟たない。

科学・哲学においてすら、人間・人類"Man, मनु Manu, Human"の概念・定義は一定でなく、ある定義(法律的・感性的なものやヒト属ヒト種"Homo Sapiens"という生物学的なものなど)で一般的な名称を付したに過ぎない前提で、「『人間』という概念の名称」を用いる。
あなたはあなたであり、他の何者でなく、私も私であり、他の何者でなく、更にあなた・私という相対性を無我によって否定するならば、言語道断・心行処滅であるが、やはり私は「中卒・無職・ニート・引きこもりたる横野真史」と名乗り得る。
過去記事(2014年11月)に、以下の如く示した。
(謙遜と嫌味を区別すること・自己紹介する者の弁えについて) 例えば筆者、横野真史は「17歳・B型・埼玉生まれ・ニート(あとハゲあり)」である。ここからストレートに表現する。「17歳の若造ですが~若輩ですが~」あたりはよくあるへりくだり方だとしても、「17歳中卒のバカで~す」とか「B型だからだらしない奴です」とか「埼玉生まれでダサくてゴメンね」とか「ニートでどうしようもないんです」などと自ら口に出すことなどは考えもしない。このような自己紹介の仕方は、へりくだることで自分への評価を上げるどころか、頭の悪さを露見させ、かえって評価を素で落としかねない。また、B型以外の血液型の人が自分の非を並べて「B型っぽい○型」等と言うことも、学生やフリーターなどニートでない人がニートを自称して「ニートのような怠け者」だとかと自己紹介することも同様に、見識ある人間からは嫌悪を蒙るのみである。単に発言者自身が背負っている汚点を、別の概念に転嫁しないでほしい。

「17歳=若い≒未熟」、ということはよくある口上で通るとしても、それ以後の肩書き群がそのまま諸々のマイナス評価に繋がるなら、偏狭な感情に起因するものであろう。
上記のような「○○=××」も「非○○=××」という等号不等号の図式は必ずしも成立しない。風評の一元で物事を捉える人が特にその状況に置かれて、そういう自己紹介をするということが多いようであるから、それらのサイト(SNSなど)に入り込む気は起きないものである。ただ、たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる。

更に過去記事(2016年10月)に、「世俗の中観法」として以下の如く語った。
インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。 (中略、来歴など) 中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎない (中略) ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛、ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。 (中略、世俗の因果について) つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。これこそ仏道修行に通じているではないか。中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した (中略) 多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。

世間の人による「皮相的な思考」という迷妄の事相を知りながらも、横野真史は、偽りなく「中卒・無職・ニート・引きこもり」を称している。
そのようにインターネットで標榜すれば、その類の人が筆者を見るであろうから、と考える(類は友を呼ぶというもので釈尊が人間界に出現せられたことは「但以仮名字・引導於衆生」と法華経に説かれる・・・しかし私には今までにまともな理解者も反論者も現れず期待外れか)。
因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

その因縁の理法に加え、「他者は先述のような迷妄に陥っている」と見て憐れんでいる。
「人間の本当の心はそういった迷妄も無く清浄である」と慈悲を以て思えば、他者はみな愚かな子供のようであり、親のような立場で慈悲を持ち、なおかつ他者を見下さなくなる。
菩薩にとって、他人・一切衆生は幼稚な子供のようであり、我が子のように哀れむべきだが、なおかつ、そんな菩薩としての自分を育てた者もまた、他人・一切衆生であり、みな親のような存在であるとも知る。
これらも理由づけ=因縁により、他人はみな子であり、他人はみな親である、と了知した結果であるが、どちらにしても自分の心が苦しみを持たない、慈悲(抜苦与楽)の思考である。
大乗仏教を志す人は、同じく、因縁の理法のうちではあるが、このように他人を軽んじず、なおかつ特定の他人に依存しない「自由な心・解放された感情」を求める。
ただ仏法を尊重(そんじゅう)すること、法に依って人を見る(≒見ない)。

今は、仏教の教義のままに見れば、この世は不浄・険悪な場所であり、他人はみな愚鈍・愚昧・愚癡・迷妄の存在でしかないが、自分の心が仏のように清浄となれば、他人の心にもまた不浄な概念(自分が不浄と思う・不快に思う・偏見らしい概念)は無く、この世も浄土となる。
仏教の教義に依れば、まず他人は「不浄の悪」だが、それを見て自己反省して修行をする者にとっては、かえって「善知識(よい仲間)」とすら見える。
それら、他人の心の善悪や是非を詮索・邪推せず、「自他の心は不染不浄という真の清浄である」という教理が観萌行広要や清浄萌土抄に詳述されている。
内蔵萌心(讃萌語: 内に藏したる萌心)と肯定的に呼ぶこともある(>自性清浄心・阿摩羅識)。
自分も他人も、本当は、そんな悪い因縁に囚われねば、みな清らかである。
ただし、この娑婆世界にあって人間は三毒強盛で、清浄・解脱は修行による果報しかない。



上の説明に関連する教説を、大乗仏典より引用する。
一切衆生は如来・菩薩にとって我が子
妙法蓮華経・譬喩品より
如來已離 三界火宅 寂然閑居 安處林野 
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 
而今此処 多諸患難 唯我一人 能爲救護
 如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居して林野に安処せり。今この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。而も今この処は諸の患難(げんなん)多し。ただ我一人(いちにん)のみよく救護(くご)を為す。

一切衆生は如来・菩薩にとって我が親
大智度論巻十四より
(前略 耐え忍ぶこと=忍辱の修行を説く際に慈悲の心構えが必要だとする…「他者への慈悲は自己の為にもなる。他人は煩悩の自覚すら無いが自分には有るならば自分から忍辱をなさねばならない。もし他人が私の悩ませなければ、私の忍辱の修行が成立しないので、他人は師匠でさえある」と菩薩は思惟する。そして) 衆生無始世界無際。往來五道輪轉無量。我亦曾爲、衆生父母・兄弟。衆生亦皆曾爲、我父母・兄弟。當來亦爾。以是推之、不應惡心而懷瞋害。
 衆生は無始にして世界は無際なり。五道に往来して輪転すること無量なり。我もまた曽て、衆生の父母・兄弟と為れり。衆生もまた、みな曽て我が父母・兄弟と為れり。当来もまた爾り。是を以って之を推すに、応に悪心にして、瞋害を懐くべからず。

ほか維摩詰所説経・仏道品より
何等爲如來種。 (中略) 有身爲種。無明有愛爲種。 (中略) 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
 何等を以てか如来の種と為す? (中略) 身有る(原文: satkāyaḥ (-dṛṣṭi)→有身見とも)は、これ種なり。無明・有愛(三愛の一つ"原文: bhavatṛṣṇā")は、これ種なり。 (中略) 要を以ってこれを言わば、六十二見および一切の煩悩は、これ種なり。

他人を我が子や我が親のように見ることは妄語・妄想(もうぞう)でない
大智度論巻八より
(般若波羅蜜の説法がされるに当たって一切衆生が等心を得て他人を家族のように見たという事象についての問答) 答曰。一切衆生無量世中、無非父母・兄弟・姉妹・親親者。復次、實法相中無父母・兄弟。人著吾我顛倒計故、名爲父母・兄弟。今以善心力故、相視如父如母非妄語也。
 答えて曰く、一切の衆生は無量世中に、父母・兄弟・姉妹・親親に非ざる者無し。復た次ぎに、実の法相中には、父母・兄弟無く、人の吾我に著し、顛倒して計するが故に、名づけて父母・兄弟と為す。今、善心の力を以っての故に、相視ること父の如く・母の如くなるも、妄語には非ざるなり。

悪しき他人も善知識(よい仲間・師匠)となる
妙法蓮華経・提婆達多品より
由提婆達多、善知識故、令我具足、六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力四無所畏・四攝法・十八不共・神通道力。
 提婆達多が(連体助詞"の"=という)善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力・四無所畏・四摂法・十八不共・神通道力を具足せしめたり。
※提婆達多とは、仏となられて以後の釈尊に様々な法難を与えた人物であり、様々な経典(パーリ仏典・北伝部派経典・中国日本仏教書など)で悪人の典型例として示された。いわゆる阿鼻地獄に堕ちる大罪、五逆罪のうち「破和合僧・殺阿羅漢・出仏身血」の3つを犯した。大乗の教理によれば、そのような悪人こそが、理由づけ=因縁によって善人の親・師匠となる、と換言できる。

もし自分が清いならば他人も清くて世界も清い
維摩詰所説経・仏国土品より
若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
 もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土浄し。
同経・弟子品より
如佛所説「心垢故衆生垢、心淨故衆生淨。」(パーリ経蔵・相応部22.100経に同じ) 心亦不在内、不在外不在中間。如其心然、罪垢亦然、諸法亦然。不出於如。 (中略) 妄想是垢、無妄想是淨。 (中略) 諸法皆妄見、如夢・如炎・如水中月・如鏡中像、以妄想生。其知此者是名奉律。
 (戒律の師・優破離が弟子の破戒の罪を誡める時に維摩詰が彼らへ説く) 仏の所説の如きは「心垢つくが故に衆生垢つく。心浄きが故に衆生浄し。」となり。心もまた内に在らず、外に在らず、中間にも在らざるなり。その心の然るが如く、罪の垢もまた然り。諸法もまた然り。如(にょ、真如)を出でず。 (中略、優破離が解脱して垢が無いように諸法も垢が無い) 妄想(もうぞう)はこれ垢なり、妄想なきはこれ浄なり。 (中略) 諸法はみな妄見なり。夢の如く、炎(かげろう)の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、妄想を以って生ず。それ、これを知ればこれ律を奉ずと名づく。

※自分の心が世俗の因縁=概念・理由・条件・思考に囚われていれば、世俗に相応した果報=喜怒哀楽など感情に関わる結果がある。それらの世俗の因縁を離れた心は非有非無で不染不浄である。その心を、仏教の仮名の因縁によって説明し直せば、最も清浄である。その心が見る物事もまた、みな清浄である。どれほどキチガイな他人であっても、清浄に見える。ゴキブリが100匹以上いて付近を悪臭・騒音・暴走バイクが行き交う6畳間の自室も清浄である(悪臭は悪臭でなく騒音は騒音でなくただ臭いや音がするような感覚があるのみ)。しかし、ゴキブリや排気ガスとされる事物のみを清潔だと考えることではない。真理にはゴキブリという我・自性も無く、不浄という属性も無いという理解がある。特定の何かが不浄だとか清浄だとかと考えないことが却って一切の清浄となる。そのように自分・他人・居場所といったもの(正報・依報)が、世俗の因縁においては不浄であったり、心の清浄において清浄であることは、「依正不二(えしょうふに)」とも言われる。これも仏教の真理の見解であり、仮想体験に過ぎないので、死ぬまで淡々と修行してゆく姿勢が肝要である。見解への執着で気を抜いていると、欲望や他者の言葉に打たれ弱くなる時がいつか来るので、仏教を讃嘆しながらも、心で教理=言葉の認識に依存し続けると、知らぬ間にドブに落ちたり、スキを見た泥棒が侵入するような「報い」がある。

心と仏と衆生の関係は多とも一とも無ともいえて融通・寂滅
旧訳華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品より
如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
 心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生もまた然り 心と仏と及び衆生と 是の三・差別無し

もし自分の苦しみが絶えたらば
妙法蓮華経・化城喩品より
願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
 願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼす 我等と衆生と みな共に仏道を成ぜん
※偉大なる仏教の教理を聞解(聞いて理解)し、修行して心が解脱したという私は幸いである。その喜ばしい福徳・功徳を、未だに迷い苦しむ他人にも伝え、みな同じ解脱を得させたい。そのように慈悲を念じてゆくことは、まだ私にとって性急なことである。仏教の教理や言語学的知識は喜ばしいが、私の心を一時的にごまかすだけであった。しっかりと修行に活かし、実際の果報としての解脱を求めてゆこう。ひとまずは、緩まず、弛まず、撓まず、間断なく、修行に精進しよう。
asmākamanukampārthaṃ paribhuñja vināyaka|
vayaṃ ca sarvasattvāśca agrāṃ bodhiṃ spṛśemahi||



起草日: 20180101
※当記事の内容は2018年1月2日に本家ブログで先行公開された。

いくらか分かりやすく・通俗的になるように説明し、文言の引用における訓読文にも、ひらがなが占める割合が増えるように直した。
原文ソースのリンクについても、学術的な海外サイトより、日本人に馴染みやすいサイトを選んだ。
訓読文(読み下し文)や現代語訳などがある(言語学的解釈や教義的解釈の相違もあるが気にしない)。

当記事のタイトルに「障壁」という言葉がある。
仏教の漢語・梵語といった言語学的理解を、過去記事に詳述した。
心の中の障害・障碍・障礙、見えない壁・・・。 Antarāya, Prākāra
人生すら行き詰る人々、いかに況や仏道をや。
それも「因縁」によるものと、当記事および当該記事所説のように了知されたい。
そうして、仏道の果報に於いては、障壁が皆無となる。

「道心あるニート・引きこもり」とは、閑居求道者とも呼び得る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html
ほかネイティブニート→http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

人間の思考・精神・知能・認識・人生経験などから、種々の概念があり、語句を関連付け、その語句に継ぎ接ぎの概念や属性がある。
それらは複雑に作られた空虚なものであり、畢竟、無に帰(き)す。
ただし、世俗の中では尊重すべきである…、といった反省思考・止揚を繰り返す。

今では、一語多義=一語無義=一切語無義が当然の帰結となっている。
それを、思考のみならず、修行によって心で体得できるように精進したい。

・・・、2017年の新年記事の前半パートと似たような内容になった気がする。



2018年1月10日水曜日

仏道修行のための論理、不戯論のための戯論

大乗と小乗との論争・融和

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi ディッティ (梵語: dṛṣṭi ドリシュティ)"が取り上げられる。
そのような見解の例としては「世は常住だ」、「世は無常だ」、「肉体と精神は同一だ」、「肉体と精神は別異だ」、「如来は存在する」、「如来は存在しない」、「如来は存在するともしないとも言える」、「如来は存在しないとも存在しないわけでもないと考えるべきだ」といった、偏頗なもの(極端)から中立的らしいもの(中庸)まで含む(いわゆる十四難・十四無記)。
釈尊の仰せに、これらの見解(ひいては世間のあらゆる見解)は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常"anicca (skt: anitya)"であるとする。
見相応の中では、「世は無常だ(一般的なaniccaでなくasassata)」という見解をも釈尊が例に挙げられており、無常"asassata"を無常"anicca"で否定することは自己矛盾や二律背反や循環論法やトートロジーでなく、あくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということである(反仏教論者などが論理矛盾だ自家撞着だと排斥してもよいがそのような排斥する意思について自省できなければ外道論師のように堕獄すると釈尊は仰せになろう・論理とは理想への便宜的手段"upāyakauśalya"に過ぎないために)。
論理よりも、論理の元となった理由・根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情など、多くの因縁を見る必要がある。
その結果として客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)。

因縁によって成立するものは、悉く無常・空である。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"vipariṇāma dhamma"への執着"upādāna (もとい取)"は、苦しみ"dukkha"の発生に繋がるので、見解"diṭṭhi"への執着を離れることを説く。
仏教における論理とは、見相応によれば、「無常・空虚」と知りながらも悟り"sambodhi "への道において重宝する程度のものである、と読解しえる。

※見=無常 執着=無常 見(無常)+執着(無常)=苦 無常=苦 四諦は「苦・集・滅・道」であり、ここに苦の原因(集)を明かして苦を離れる手段(道)を説き、苦が滅びる結果(滅)ともなる、という教理。苦・集・滅・道の「道」とは八正道であり、このように苦を離れることは八正道のうちの正見に当たる。後述の中論でも「正見とは有・無といった見解を離れることだ」という「迦旃延への教え(パーリ相応部12.15経Kaccānagotta Sutta)」を15-7偈に引用するように、あらゆる対立的見解(両極端でありそれに対する折衷的な中庸もまた固着論理であるときは非中庸との対立を為して新たな両極端となる)を離れること(中道の意義の一例)は八正道および四諦に通じている。



現代日本のセクト的論争や擬似学問の対宗教論争も、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人は「ブッダやインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解を持ち、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人は「釈尊や天台大師に勝る偉業」とする見解を持ち、対立する。
他にも、釈尊の故郷の人(釈迦族)がコーサラ国の毘瑠璃王に虐殺される話で「釈尊が毘瑠璃王の進軍を3度停めつつ、なぜ4度目を行わなかったか」という故事にも仏教徒と反仏教者が見解を対立させられるし、キリスト教の教祖イエスさんが処刑されたのは「慈悲方便の故」とも「無慈悲弱小の故」とも解釈できるし、イスラム教の教祖ムハンマドさんが戦争の指揮を執った事跡にも信者のスタンスや謗者のスタンスで様々な解釈ができる(キリスト教・イスラム教の話は過去記事に)。
これらは根拠(皮相的合理性)に基づいた論であり、その範疇でみな正論と言える。
主張する者の立場・スタンスにおいては、彼らの理由・根拠・条件に正しく基づいた、紛れもない正論である。
同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断するせよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。
教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経とパーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。



しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常である(即ち苦である)という分別・見解を知りながらも、論争を辞せざる構えとなる。
論理への執着を離れること・不戯論"niṣprapañca pl: nippapañca"のための戯論"prapañca pl: papañca"(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāyakauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)  ※「諸著を離れしむ=色々な執着のある人々を解放する"tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum"ために、無数方便=様々な手段"vividha upāyakauśalya"を用いる」。よって、本文の如く論理・論議への執着を離れさせるための論理・論議がある。
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmetyapi prajñapitam anātmetyapi deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ityapi deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ityevaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)
※法華文・中論頌の関連フレーズはまだ多くあるが終える。ほか、牽強付会になりそうだが、一部で龍樹造と伝えられる「方便心論 *upāya-kauśalya-hṛdaya śāstra」の冒頭部分を紹介→「問: 論を造る者は瞋恚と驕慢とにより自讃毀他をする。もし自他を利したければ、論争の法を捨て去るべきだが?(小乗的スタンス) 答: 私は勝ち負けや名利のためでなく、仏法の善悪を明らかにしたくて論を造るだけだ。論理が無ければ、世の人々は互いを惑わせて不善をなして悪趣(三ないし四悪道)を輪廻し、真実の利益を失ってしまう。人々が論理に通達すれば、自ら善悪や空が判断できるようになる。また、正法を世に弘める目的もある。甘い果実の樹を(鳥や獣や盗人などから)防ぐために網を張る果樹園があるように、正法を護って他に名利を求めない。私を諍論者とみなすことは誤りだ。護法のために論を造る(大乗的スタンス)」と、「論(論理学)」という方便・便宜的手段"upāya-kauśalya"を用いることが示される。

たとえ宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理・事相を誰よりも知ってきた私には、かえって実行が困難らしくもある。

2017年4月21日投稿の記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(例えば生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(我が宗は勝れて他の宗は劣るという自讃毀他の論争には何らかの過誤が付随するという説)は、これに該当する。
彼らがご覧になったろう大智度論(当該記事での引用文・スッタニパータ4章と共通する教説がある)などの影響も出ていよう。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。

そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。
法華経と中論の第一義諦・スッタニパータと大智度論の第一義悉檀には、三乗としての大乗も二乗としての小乗も無い「究極の大乗・円満の一乗」が示されます!!!
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/12/ekayana-ekasacca-ekasatya.html

あけましておめでとうございます。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。



起草日: 20171224

以下に示された「キャラクター理法」と、当記事に示された「論理縁起」とは、よく似る。
当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。
 - http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#hmi4

よく作られた思想・論理は「有為法・サンスクリタ"saṃskṛta"」であり、よく作られたものだから無常・虚妄という。
しかし、それを見て知ること(受)で起こる自己の想念・思考・精神的反応(想・行・識)についても省みる(無常であり即ち苦だと知ること)ならば、阿含教(阿含時の教義)の修行に資するであろう。
慈悲の釈尊・龍樹菩薩らは、それ(阿含教の基礎=仏教の基本中の基本)をまず知ってもらいたいと志向せられたのではなかろうか?
こう経文・論文より詮索する私もまた、他者の心を推量することはできないし、仮に推量できたところで意業・意触の因縁で得た結果に過ぎず、無常・虚妄となり、執着してはならない。
神通力・他心智は、無漏の人によって行われるので、最初から執着されようもない。
私が釈尊・龍樹菩薩および人物を語る際、どのような証拠に依っても、『元となった理由・根拠・条件=認知された情報・知識や、知能や人生経験、「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁』があり、同じく無常である。

拾主に仕える障礙尊者のウダーナに曰く
「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」と。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

※サンスクリット偈を、ブログ筆者・横野真史が①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声がある。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10


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2017年12月20日水曜日

法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義

法華経の方便品のサンスクリット文と、スッタ・ニパータの4章12経"Cūḷabyūhasutta"のパーリ文には類似フレーズがあり、また、後者にごく近い部分が龍樹(竜樹 ナーガールジュナ)菩薩の大智度論に載る。
法華経や大智度論を漢訳した鳩摩羅什三蔵(または龍樹菩薩ご本人か後世の中観派)は、両者の梵語テキストをご覧になっていると推定できる。
この大智度論により、スッタニパータの不戯論(唯一の真理)、大乗の一仏乗、四悉檀の第一義悉檀、法華最第一を確認でき、中国や日本の大乗仏教における論争の真相(俗諦による方便とその真意)も垣間見える。
そのことは過去記事で詳述した。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

以下に該当する類似フレーズをパーリ文→サンスクリット文(漢訳)の順で載せる。
類似フレーズよりも先に、スッタニパータと大智度論の対応を示す。

Sutta Nipāta 884-885 (4.12 Cūḷabyūha Sutta 通称: 小集積経) (VRI版)
Sakaṃsa­kaṃ­diṭṭhi­parib­basānā,
Viggayha nānā kusalā vadanti;
Yo evaṃ jānāti sa vedi dhammaṃ,
Idaṃ paṭik­kosa­ma­kevalī so.
Evampi viggayha vivādayanti,
Bālo paro akkusaloti cāhu;
Sacco nu vādo katamo imesaṃ,
Sabbeva hīme kusalāvadānā.
要約: 各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?

大智度論・巻第一(訳は鳩摩羅什)
「各各自依見 戲論起諍競 若能知彼非 是為知正見 (この後に続く二偈はSNP 886-887に対応)」
訓読: 各各自ら見に依り、戯論して諍競を起こす。若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す。 (衆義経中所説偈としての引用、衆義経≒経集スッタ・ニパータ
、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)

SNP 890
"Ekañhi saccaṃ na dutīyamatthi" (まさしく真理は一つであって第二のものは存在しないと… 後略)

Saddharmapuṇḍarīka Sūtra, 2nd Upāyakauśalya Parivarta (一般的な校訂本)
"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (まさしく乗は一つであって第二のものは存在せず… 後略)

妙法蓮華経・方便品第二(訳は鳩摩羅什)
「唯有一乘法 無二(亦無三)」

大智度論・巻第十八(訳は鳩摩羅什) ※執筆中の調査で新発見した
「佛言。一究竟道、無衆多也。 (この後に続く五偈は義品偈の名で引用されており、SNP 4.8経・パスーラ経"Pasūra Sutta"全体と部分的に対応する)」
訓読: 仏言く、一究竟道にして、衆多(しゅた)無きなり。 (しかし諸々の外道師は各々が自ら究竟道だと主張してやまないのだ、という話の脈絡でスッタニパータ4章8経に当たる偈が説かれたとして龍樹が語る、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)



この両フレーズ(法華偈・SNP890偈)は共に仏説であり、真意は同じであると拝すべきである。
ストレートに言い直せば「(自分の道や真理が唯一で正しいと真に思うならば)自分の目的のための行動に専念せよ!(それが真の大乗菩薩道や小乗解脱法だ!)」ということである。
※真とは「諸々の思想家・行者のような顛倒・迷妄」が無い境地だから、仏が指して指さない非有非無・非実非非実のこと。

共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
それでも、釈尊や龍樹菩薩や多くの高名な大乗僧侶たちは、他者との論議を倦まないつもりで布教したわけであり、そのことが多くの大乗経典に説かれていることを、合わせて知ると良い。
そのことも上掲の過去記事に詳述してある。
悟っているという自覚の有無、客観的な悟りの有無など、元より論ずべくもないとのことであろう。
不戯論のために戯論を用い、不戯論の教理を知らない他者(外道・部派仏教徒・思想家・哲学者)が行う戯論を打ち破るという、「毒を以て毒を制す・毒を変じて薬と為す」である。

※両偈は音節数が11のトリシュトゥブとなっている点も共通する…、と思ったが、方便品"ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate"句ないし以下3句は、12音節だった (e, kaṃ, hi, yā, naṃ, dvi, ti, yaṃ, na, vi, dya, te = 12)。

※類似表現ついては「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(チャーンドーギヨーパニシャド "Chāndogyopaniṣad")」にも見られる。6章2節1句(および2句) 有名な一節「〈ブラフマンこそが〉唯一であり第二のものは存在しない"Ekamevādvitīyam (英訳: ..is one only, without a second)"」と。「ウパニシャッドの語と似るくらいならば、法華経とスッタニパータの偈もたまたま似ただけだ」と言う者がいるであろうが、先にも後にも会通するように、法華経とスッタニパータの偈の真意は同じである。また、文献学的な経典編纂の観点・合理主義の視点からしても、法華経の方便品は法華経もといサッダルマプンダリーカの最初期に編纂され(仏教文献学が唱える通説では西暦1・2世紀ころとし口伝時代を想定するとそれ以前より有る)、教説も菩薩・声聞・縁覚(独覚)の三乗を和する教説が主要であるように、阿含系の教説との融和が図られる。パーリ語で伝わったスッタニパータに相当する教説を法華経編纂者が見ていたと学者が見解を持つことは必然的である。なお、古ウパニシャッドと仏教の関連性は、絶大権威の中村元氏ほか多くの日本学者の見解が世に多く見られており、これも合理主義の学問で肯定される。パーリ語経典に直接の言及は無くも、パーリ三明経に載る婆羅門の派閥名に「チャンドーカ」・「ティッティリヤ」といったウパニシャッドの名称とそっくりなものがあり、派閥名とヴェーダとの関連をパーリ経の注釈書ティーカーが述べていてウパニシャッドとヴェーダの関連と一致することは過去に説明した。つまり、釈尊在世でも修行者界隈にウパニシャッドの教説が広く知られていたと考えられるが、その類似表現のある法華経とスッタニパータの偈が直接影響を受けたとは断定しない。



大小・一乗・不一不異義


大乗の教説と小乗の教説とに「一乗(+道)」の言葉がある。
それは、先述の法華経方便品および後述のパーリ語・漢訳の念処経である。
「エーカヤーナ"ekayāna"とエーカーヤナ"ekāyana" (エーカーヤナマッガ ekāyanamagga)の文字列・字義は似て非なるものだ!」と賢しらに分別する人々もいよう。
俗諦たる言語学・文献学の話に加え、仏意に関しても推量してみたい。
まず、萌えの典籍より、輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)が応現する話(草案)を暫く引用する。

 悪い心の人には見えないはずの輸提尼(報身)だが、多くの人の前に応身"nirmāṇakāya"として現出するという。ある時、拾主の弘める萌えの法門を、小乗の徒が知った。小乗の徒のグループは、大乗を誹謗し、「広く仏・菩薩の像・遺跡に礼拝する在家の信男信女(民間信仰的な仏教徒)」を愚弄していた。何らかの経緯で拾主らとその小乗の徒のグループが接触する。拾主が輸提尼の絵を提示して「当に萌心を出だすべし!人心もとより清浄なり!」と叫び続ける。かの小乗の徒は「そんなのブッダの教えじゃない!」と反発し、僧団の威儀に反して高慢な態度で場を辞せんとする時、その場に倒れ込んだ。しばらく気絶するようだが、心の中では・・・。
 「あなたも仏の慈悲を聞いているのだから、もう大乗への誹謗はやめようね。論争に業を煮やすこと・戯論・諍論はやめようね。お花の蜜を取る蜂さんはお花を傷つけないんだよ(元ネタはダンマパダ・遺教経)。みんな仏様を信じているのに、みんなの心を壊さないでね。倶伽離"kokālikaまたはkokāliya"さんのように地獄に自ら堕ちちゃうのは、いやだよ。もしあなたが全てを知っているなら、その道を進んでいれば、いいんだよ。自分の道、道じゃない道、どの道、大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"。一諦一乗(元ネタはスッタニパータの"Ekañhi saccaṃ"偈と法華経の"Ekaṃ hi yānaṃ"偈)。」

→畢竟、これもその小乗の徒が大乗仏教と萌えの法門とを一分でも見聞していたので、彼の心の中に自ら生じた相であり、心の化"nirmāṇa"である。一分の慈心だに有らば、則ち相応じて須臾も(一時でも)萌えを見よう。人の善心を壊さずに悪を呵すべし。「どこにでもいてどこにもいない輸提尼・諸萌(如来如去)」の力用、是の如し。是の如く、拾主によって蒔かれた輸提尼の種(因子)が小乗の徒の地に着いて発芽したが、どこまで生長するかは未知数である。
 小乗の徒は小乗の徒のままでよい。大小の別なき一乗は真に大乗であり、小乗とは何らかの理由に依存した仮設概念に過ぎない。二乗(声聞・縁覚)も三乗(菩薩)も、一乗と別に存在するものでない。みな不一不異の仏道から後に分かれた仮設概念である。仮設概念としての小乗の道も釈尊が一乗道のうちにお引きであるから、正しい仏道である。彼の心が慚愧を懐くならば、彼は正しい仏道に入るであろう。釈尊は言い争いの道を小乗・阿含時に説いていない。小乗の徒もとい上座部仏教の人は、阿羅漢の道・二乗を行くべきである。大乗の般若経・維摩経などにあるような、非道(三毒)を行じても無漏の故に三毒の煩悩が無い「菩薩」や、論争の業に染まらずに説法ができる「菩薩」でなかろう。阿羅漢の道にあるべき彼は、原始仏教を標榜しながら現代性に便乗し(古代即現代の教理も無いのに)、世俗に媚びながら売文活動をして名利を受ける菩薩の真似事をしていた。彼が(彼にとっての)正しい仏道に入るか、三悪道に堕ちるかどうかは読者の想像による。いかがか?

 後日談?「〇〇(拾主の俗名)さま、私たちはとてつもない悪業を積み、互いに積ませて参りました。その業で地獄への道連れになったろうと悔やんでおります!あなたとその教えと大乗の法とを謗った罪を、ここに懺悔いたします!今後、私は大乗を大乗という認識による妄想を以て論うことなく、弟子どもにも大乗に関する妄想をさせぬよう、正しく教えて参ります!」
 「sādhu, sādhu, よろしい、仏性に適う改悔である。生死の道は元より独り行き独り到るものだが、相待の観点ではみな道連れにもなる。辛苦も快楽も、それは独り受けるものだが、相待の観点では自他に及ぶ。なぜならば誹謗の語を誹謗の語として聞く者がいるからである。誹謗の語を発する者と聞く者とが共に怒り、誹謗の語を発する者と聞く者とが共に喜ぶ。このように、瞋恚・驕慢の因果が先にも後にも見えると覚る。須らく自ら悪口・悪意を止(と)むべし。これが八正道の要旨である。共に在ること=サンガは、その実行者であろうに、三業の悪業をあなたがたは行ってしまった。僧団ではなく魔軍となろう。萌えの聖霊によって一乗の法を聞き、解したならば、あなたがたの道を見て進むのみである。私たちの一乗はエーカヤーナであるが、あなたがたの信ずる所のブッダ様がお示しの一乗法がエーカーヤナであり、いわゆる四念処である。念処経・サティパッターナスッタに仰せの一入道、観身如身・観受如受・観心如心・観法如法、四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない。もし仏道に於いて迷いあらば萌道をご覧なさい」 
 何となく漢詩→生死重昏獨行道。忘前失後無侶到。佛子照見如是事。我等已依大乘高。-au韻・七言絶句 ※「我等」とは天・人・畜を含む一切衆生のこと。中論24-15偈「如人乘馬者 自忘於所乘"aśvam evābhirūḍhaḥ sann aśvam evāsi vismṛtaḥ"」に倣った表現でもある。中論・真諦の観点では大乗および一乗の体(たい、当体・正体・本体)は「空」という。法華経においても仏子はみな悉く一乗(エーカヤーナの方)に在り。

上掲の文章は、大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とは、「文字列も字義も異なるが釈尊の真意としては同じである」という教示である(ましてや空・仮名の観点では論を俟たないがそれはさておく)。
大乗のエーカヤーナを分解すると「エーカ eka + ヤーナ yāna (√yā + 接尾辞ana)」であり、「一つの乗り物(乗, 乘)」と直訳できる。
小乗のエーカーヤナを分解すると「エーカ eka + アーヤナ āyana (接頭辞ā + √i + 接尾辞ana 他にアヤナayana説あり)」であり、「唯一〇〇へ至らせる[+道 "pl: magga, skt: mārga"]」という意味である。
※何らかの目的へ至らせる唯一の道であるが故に念処経・大念処経の冒頭では漢: 衆生を浄む・淨衆生や、巴: 衆生の清浄へ"sattānaṃ visuddhiyā"などなど四念処の果報を釈尊が示された。しかし、「一人で行く道"ekattaṃ gacchanti"」という解釈もあり、この点についても上掲の文章「生死の道は元より独り行き独り到るもの・・・(漢詩で生死重昏獨行道・・・)」に通じる。いわゆる「自洲・法洲=四念処」と同様である。そういった「独り行く道=生死」より解脱して涅槃に至る道もまた、エーカーヤナか。
前者のヤーナと後者のアーヤナとは、共に 、「行く」という動詞語根√yā √iを含んでいる。
Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparidevānaṃ samatikkamāya dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā. (パーリ経蔵の長部22経・中部10経・相応部47.1経など)

世尊告諸比丘「有一乘道、淨諸眾生、令越憂悲、滅惱苦、得如實法、所謂四念處。」(雑阿含経にいくらかあるうちの相応部47.1経に対応する607経=巻第二十四より、上掲パーリ文に相当するアーガマの異訳は中阿含経98経・増一阿含経12.1経など)

こういった大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とを、共に「一乗」と訳することについて考えてみたい。
漢訳で、法華経などのエーカヤーナ"ekayāna (一つの乗り物)"を一乗と訳することは良かろう。
マハーヤーナ"mahāyāna"を大乗とし、ヒーナヤーナ"hīnayāna"を小乗とし、時代の下ったヴァジュラヤーナ"vajrayāna"を金剛乗と称するような系統にある。
しかし、四念処・四念住を指した"ekāyana"を一乗とすることは、雑阿含経の訳者「求那跋陀羅」三蔵が大乗経典も多く翻訳するなど、大乗の人であるために、敢えて大乗のエーカヤーナと似た「一乗道」と訳語を当てたろう。
求那跋陀羅三蔵は、「一道(中阿含経98経)」や「一入道(増一阿含経12.1経)」といった「乗(乗り物, vehicle)」の意味を含まないものとせず、大乗との会通(えつう)を図ったろう。
つまり、彼は「乗 ヤーナ"yāna"」と「道(入道) アーヤナāyana"」の両者の意味を取った。

その、彼の会通を、より明確に示した記述が、上掲の引用文にある。
「四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない」と。
そのように心を清浄にすることで衆生を浄め(相応部22.100経と維摩経弟子品の共通フレーズ)、仏国土を浄めてゆくことは、維摩経の浄仏国土説に通じている(→清浄萌土抄・観萌行広要)。
形としての大乗は、現世の即物的なものにも通用させる必要があるとはいえ、法華経の円満の一乗義においては、このように大小不二である。
このことは妙法蓮華経の五百弟子授記品に「内に菩薩の行を秘し 外に声聞の形を現ず 少欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む 衆に三毒ありと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す (内祕菩薩行 外現聲聞形 少欲厭生死 實自淨佛土 示衆有三毒 又現邪見相 我弟子如是 方便度衆生)」とある通りである。
こうして釈尊は懇切丁寧に小乗・声聞乗の人も菩薩と異なり無きことを説かれ、しかも成仏の記"vyākaraṇa"を授けられた。

以上、大乗と小乗の一乗について、不一不異義を「俗諦・言語学・文献学」においても示した。
これらはみな仏説を私が拝見して述べるところであり、真には「仏意量り難し」と付言す。
中道・言語道断心行処滅・不可量・不可説・不可得の不一不異である。
なお、上掲の引用文で大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"とあることは、過去記事に詳しい(仏法の説明に加えて言語学・文献学の見解もある)。





起草日: 20171218

過去記事の焼き直しとして、簡易なものとしたく発案したが、結果的に説明を多く増やすこととなった。

大乗仏教, 小乗仏教, 原始仏教, 初期仏教, 上座部仏教, 法華時, 阿含時, Mahayana, Theravada, Early Buddhism, Lotus Sutra, Agamas, Nikaya, Suttanipata, Prajnaparamitasastra, Da Zhi Du Lun Nagarjuna (Nāgārjuna) Kumarajiva (kumārajīva), Gunabhadra (Guṇabhadra), Sanskrit, Pali, Synonyms, Homonyms, Is -yana a vehicle or a path?

Saddharmapuṇḍarīkasūtra, Upāyakauśalyaparivartaは語幹表記であり、別にはSaddharmapuṇḍarīkasūtram, Upāyakauśalyaparivartaḥと-m(ṃアヌスヴァーラの場合も)や-ḥ (ヴィサルガ)が付く。
前者はsūtraにm = 中性名詞の主格を作る語尾m (ṃ)が付随した形であり、後者はparivarta (varta)に付随する男性名詞の主格を作るḥが付随した形である。



冒頭にあるリンク先の記事には、日本仏教の宗祖による論議・問答・諍論という事跡と、スッタ・ニパータに通じた大智度論との関連性が書いてあるが、その前に四念処を指したエーカーヤナに関する説明をした。
以下である。
※ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら「日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念」を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

※以下は当記事による引用※
そのダンマパダ・花の章"Dhammapada Pupphavagga"にある詩・偈
50 Pāvey­ya­ājīva­ka­vatthu
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.

漢訳の法句経・華香品
「不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼れの作すと作さざるとを観ずることに務めず、常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知る)」

Puppha Vagga = 「花の章」、漢訳「華香品」。そこになぜ「己を見よ」という釈尊の教説が載るか?疑問解消のために萌えの典籍(本萌譚・異伝④)より引用↓
 (拾主いわく)「跋聖(当記事注: 過去萌尊の一人)が後世を懸念した故に命ぜられた遺誡(ゆいかい)を少し示そう。一に (中略) 二に (中略) 三に『萌相や萌道を弘めるにあたって他者や自己に障害を感じても無理な行動で解決すべきでなく萌えを念ずべきだ。この萌えは、日照りにも負けず暴風雨にも負けず踏みつけにも負けることなく、勝つこともなく、ただ生きて死ぬる運命だが、常にその小さい身で大いなる果実を結ぼうと懸命に生きているものである。萌えは中道"madhya"・柔和"mārdava"である(当記事注: 觀萌私記>萌相條と共通する表現)。果実を結ぶ意志は無いが果実を結ぶべく懸命に生きる。懸命に生きる思いは無いが悩みも無く、どのような障害も有るようで無し。このような萌えの正念ある者には障害が有るようで無し。ただ目的へと邁進するのみだ』。跋聖の遺誡を今は略して三つに挙げた。他の萌尊にしても、弟子をお持ちであれば同じような遺誡を下されたろう」と。 続いて、以前尊者に説いた萌え和讃の一首を再びお詠みになって語ります。
 「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ・・・、萌えの萌えたることは萌義によるわけで、その萌義の雨が萌えを生長させる。萌尊が萌義を開示せねば、慈悲の用(ゆう)のある可愛い絵も萌相と呼ぶべきでなくなり、萌道も存在しなくなる。萌義の雨を受けた芽は、生長して必ず花を咲かせ、実を結ぶとも説く。花や実にも各々の異なりはあろう。花の色・香、実の色・香・味、人は良し悪しや価値の善悪を分けるが、植物にとって花は、生長の証・しるしである。虚仮の花弁(シュードフォリア)でなければ生殖機能も有す。果実は次の生命の種となるし、生きた跡ともいえる。人間の品種改良がされていない自然界の植物は、よほどの異常も無ければみな花と実を成す。これらの事項も、植物は思いもせず、今そうあるだけのことであるから、私が説くことは誤りであろうが、一応例示した。どのように行じ、どのような花たる好色萌相(二萌風の属性・五萌類の相貌など)を成すとも、萌心に依るものはみな萌道に違わない。今、仏家の法華経・一乗・草喩のようである。当世の風俗にも、似たような歌謡曲の詞があるそうだが・・・。 (後略)」

改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

そして、大乗のエーカヤーナは、四念処が行える人間的な能力(知能・精神・言語など)・煩悩即菩提の性質が無くてもすでにエーカヤーナである。
いわゆる不二・絶対の理において、仏の智慧・報身が一切諸法を対境として自他共に仏・中道・真如、法身を知り、応身と為す。
それは大乗の高度な教理となり、ある種の空"emptiness"・無義(無意味"meaninglessness")と言われかねないが、それまた、意に介すべきでない。
その空理空論・仮名(けみょう)と自ら知るならば、大乗でも、自ずと不戯論・寂滅となる。
心の浄化とは、己の三毒・煩悩を自覚してから三毒・煩悩の元となる物事=境(色・声・香・味・触・法、特に他者の論理・文言・記憶)を厭離(えんり)する・遠離(おんり)することである。

しかし、諍論を厭いつつも現世であえて論を構えることが自行化他(中道)の菩薩である、とも多くの日本・中国の僧侶は知っていた(況や末法をや)。
釈尊・龍樹菩薩・大乗仏教の僧侶たち、彼ら聖人たちは忍辱ある慈悲を以て人々に仏法を弘めたく、苦を以て苦を制すべく、伝道教化なさったろう。
非力の私には到底真似できないが、大乗の人であれ、小乗の人であれ、仏・菩薩を渇仰し、各々の手段"upāya"で忍辱と慈悲とを得てゆけるとよい。

これらを学んで念じて智慧・般若波羅蜜を成就することで、忍辱や慈悲も波羅蜜となるという(完璧"Perfect"になる・彼岸"Pāra"に至るという二義の問題を解決)。
龍樹菩薩の大智度論で有名な「過去世の舎利弗尊者と乞眼婆羅門(こつげんばらもん)」の説話は、般若波羅蜜を成就しない菩薩が布施波羅蜜をも成就しなかったという意味である。
菩薩行をする舎利弗尊者の過去世の人は、婆羅門の人から肉体の眼を求められ、「利用価値の無い眼を求めて何がしたいのか」と憂慮しながらも眼を自ら剔出し、その眼を与えた。
すると、相手に「臭い眼などいらない!(臭い=尊者の憂慮ある心を掛けている隠喩でもある)」と激怒されてしまい、相手がその眼球に唾を吐いて踏みつぶした様子を見て「利用価値の無いものを求めて剰え逆切れするとは!こんな狂人どものために布施の修行などできない!小乗の修行と果報の方がマシだ!」として菩薩を退転したという話である(大智度論巻第十二)。
見返りを求める「有漏善心」や他者を見下す心では、菩薩を退転するので慈悲が必要ともなる。

このように、布施の修行を退転したくなければ、布施波羅蜜(檀波羅蜜)を成就したければ、般若波羅蜜を修習しなさい、と龍樹菩薩が説明せられた。
同じく、大乗の智慧によって小乗の修行が成就できるであろう・・・世諦においても、真諦においても、というスタンスは有る。
世諦においては、世俗的な意味の「実際・ゲンジツ」に則った自己の修行の成就であり、困難は伴うが、大智度論のスタンスでは同じことと思われる。
真諦に近いものは、布施の修行者(無)が一切衆生とされる対象(無)に何らかのもの(無)を布施をすること(無)=心に布施・主客の関係性を思わない無分別の布施行がまた布施波羅蜜だと言われており、そうでない=顛倒ある布施行が波羅蜜(彼岸に到ること)でない此岸の布施だとする。
布施波羅蜜を布施波羅蜜たらしめる理法も究極的には般若波羅蜜(智慧波羅蜜・智度)であるので、このように菩薩は聴聞・修習をする。

荒く・粗く記述したが、興味あらば、是非とも大智度論の全巻か少なくとも一~二十を通読せられたし(英訳はÉttienne Lamotte エティエンヌ・ラモット氏のVol. 1~5がありVol. 1なら巻第十の最後まで、Vol. 2なら巻第十八の最後までとなる)。
私にとって量り難い仏・菩薩の智慧は、決して道を退転しない正念となり、その智慧の正念は何事をも成就させてゆくので、やはり一乗となろうことを思う。
以上、思想の偏向ある解説を交え、私の意思に基づいて仏説・菩薩論文などを抄った。
改めて「仏説の言語(釈尊も凡夫が理解できるように配慮した言葉を用いたろう)を明かしても、真には仏意量り難し!一切の心行もまた不可量・不可知・不可説・不可得」、南無南無南無南無…



輸提尼 一乘 一乗 一諦 ekayāna ekāyana ekasacca ekasatya
一乘 一諦 एक‍यान‍ (ekayāna) एक‍स‍‍ (ekasacca, skt: ekasatya)…2017年9月12日に描いた絵。
その話で「応現」した輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)の一つ(話の想定上は同時に3体以上出現している)。

以後、別の絵を追加する予定



追記: 2018年1月9日
法華経の一乗は、智慧第一の舎利弗尊者を首とした会座の聴衆によって聞かれた教説である。彼らはみな因縁法(小乗)・般若空(大乗)を御存知であるから、一乗とは「具体的に何物だ」と考えられない(不可得)と、彼らによって理解される。パーリ語で伝わるスッタ・ニパータの「一諦(Ekaṃ saccaṃ)」は、舎利弗(パーリ語でサーリプッタ)尊者が説いたとされるマハー・ニッデーサ"Mahāniddesa"(大義釈)で「一諦とは苦滅(苦集滅道の四諦)・涅槃を言う"Ekaṃ saccaṃ vuccati dukkhanirodho nibbānaṃ"」と具体的に説かれてある。法華経の「一乗(Ekaṃ yānaṃ)」は、もはや「言語道断・心行処滅」と思われる。それはなぜか?如来は愛憎の心を離れていて涅槃の如くにあるが、衆生は愛憎に因って自ら苦や分別を起こす。憶想・分別の心(妄想)によって仏道が二乗にも三乗にもなるが、無分別の自由な心においては「更に余乗なし」であり、真の一乗を説き得る。一乗は因縁観によっても理解し得た。言語表現へ皮相的に執着して分別をする凡夫には、一乗が見えない。説法せられる如来は、その苦・顛倒・執着を除こうという慈悲をお持ちであった。

マハー・ニッデーサの説明に「苦滅・涅槃」とあるが、これはまさしく、法華経の意趣にたがわない。スッタ・ニパータ原文は「無二の真理・諦"sacca"を知る者は論争を起こさない(形式上の不戯論)」という趣旨あり、専ら自己の修行・実践に向けられる。その「苦滅・涅槃」の実践とは、マハー・ニッデーサに同じく、先の物語で「拾主」がおっしゃる「八正道(および正念の行に摂せられる四念処)」である。マハー・ニッデーサの説明は、法華経の一乗・諸法実相なる修行・果報と相違しない。依義不依語の大智慧・大乗教"mahājñāna mahāyāna"によれば、一乗即一諦・法華経即スッタニパータといっても過言ではない。俗諦・言語・文字通りの解釈は而二だが、真諦・仏心によれば不二という大乗の理解である(仏心によるが故に仏心また量り難し)。

「薬草喩品: (如来は)無有彼此・愛憎之心"na kaści vidveṣu na rāgu vidyate |"」「如来寿量品: (如来は)以諸衆生有種種 (中略) 憶想分別故、欲令生諸善根 "api tu khalu punaḥ sattvānāṃ nānācaritānāṃ nānābhiprāyāṇāṃ saṃjñāvikalpacaritānāṃ"」「中論観法品: 諸法實相者 心行言語斷 無生亦無滅 寂滅如涅槃"nivṛttam abhidhātavyaṃ nivṛttaś cittagocaraḥ | anutpannāniruddhā hi nirvāṇam iva dharmatā ||"」

2017年12月10日日曜日

釈尊が受けられた最後の供養「スーカラマッダヴァ」の文献学的な考証

キーワード・概略
スーカラマッダヴァ"sūkaramaddava" (やわらかい豚肉・猪肉, tender pork or boar)
スーカラ"sūkara" (豚・猪, 英語のスワイン swine, sow, 学名Sus, Suidaeと同語源の印欧祖語*suH- インド・イラン祖語*suH- 猪についてはヴァラーハvarāhaという語もある)
マッダヴァ"maddava" (サンスクリット語mārdava 漢語 柔軟"にゅうなん" 同系の言葉にskt: mṛdu, pl: muduがある)
複合語スーカラ・マッダヴァ→同格限定複合語 カルマダーラヤ"karmadhāraya"=持業釈「柔らかさのあるスーカラ(語順反転タイプ)」、所有複合語 バフヴリーヒ"bahuvrīhi"=有財釈「柔らかさのあるスーカラを用いた料理・スーカラが柔らかさを持った料理(スーカラ料理)」
アッタカターによる注釈「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」

※パーリ長部16経・大般涅槃経で、「スーカラマッダヴァ」を鍛冶工の息子チュンダ"Kammāraputta Cunda"が釈尊へ供養したというが、漢訳経典「遊行経(長阿含2経)」における鍛冶工の息子チュンダ→工師子・周那(プラークリット由来?)による供養の品は「栴檀樹耳(≒茸・キノコ)」とされている。栴檀(旃檀とも)はもともと梵語チャンダナ"candana"の音写であるが、同経梵語写本(一部欠損)にはスーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava")の名が無く、チャンダナをチュンダが供養しない。

※「スーカラマッタヴァ」という表記ゆれ(ダ→タ)もある。手塚治虫の漫画などにそう表記されているようである。




2017年11月18日の日記メモでは、日頃の身体的な悩みについて少し仏典の記述を想起したので、色々と文献の調査をしたことを記してある。
日記メモ特有の「簡略な表現」を心掛けてあるので、学術的に危うい部分もあろう。
これを、以下に引用するが、記事で掲載するために内容を多く補強する。




下剤と便秘(排便間隔)に関しては、どのような食品を食べるか、という問題が思い浮かぶ。
問題とは、食べる時間・食べ物の種類・食べ合わせ・一度の摂取量などの検討である。
養生の法"āyus"は仏教らしくなさそうだが、阿含時の教説では多くの用語が見られる。

例えば、「消化"pariṇāma"(pari √nam = 変化=食物については消化することを指すので漢訳経典に消飲食・消食とある)」ということをしばしば問題にしている(説法の報酬として受けた供養は如来以外に正しく消化できる者がいない等とマハーパリニッバーナスッタやスッタニパータといった現代に有名なパーリ経にも見られる表現)。
科学では人間が食物を摂取して後のプロセス「燃焼(糖質・カロリー・生理的熱量)」が言われるよう、仏教でも四大(四界または地・水・火・風・空・識の六界)の「火"teja"」に関連する事象に消化行為(吸収または燃焼・代謝)が示される(食後に体温が上昇するためであろう)。
ajjhattikā tejodhātu = 内なる火界、火の要素(中部28経など)、なるほど、火が物(有機物や油)を燃やして煤と灰・炭素化合物の温室効果ガスを生むことと、体が物(糖質など)を消化・吸収して老廃物・二酸化炭素を出すことは、よく類似するし、共に「燃焼」と呼ばれる。
このように、様々な教説で食物を「正しく消化すること"sammā pariṇāma"」についての言葉が見られる。

経文を按ずるに、出家修行者・沙門・比丘(乞食・托鉢を行う者)にとり、「自由で多様な食事」は取れないための身体的・病理的な悩みが付きまといやすいと思われる。
仏教・仏道修行のスタンスとしては、スッタ・ニパータ4章16経で釈尊が舎利弗尊者に「食べ物・食べる場・寝床・寝苦しさという4つの思慮"vitakka"は己を迷妄に陥れるので制御すべきである(取意)」と説かれるように、積極的に良い衣食住(えじきじゅう)を求めず、如法のままに得られたもので満足すること(少欲知足)である(出家修行者は持戒持律で実現できる)。
私の生活上の課題である「下剤」に通じる概念も"virecana (慣用表記virechana)"として見られる(パーリ経蔵では長部1・2・10経の戒に関する教説でのみ見られる言葉、後述のパーリ涅槃経チュンダ供養話にVirecamāno bhagavā avocaとして下痢"Virecamāna"の単語が見られる)。
心身共に、下剤や耳栓などの常用による延命策に依存することは、非道となるが、どうしても甘えてしまう私である。
※この話題については「真の健康法」についての記事を参照されたい。

有名なパーリ長部16経・大般涅槃経(マハーパリニッバーナスッタ)の釈尊がチュンダ"Kammāraputta Cunda"から供養を受ける話に、"sūkaramaddava (直訳で柔らかい豚肉)"という複合語がある。
前半のスーカラ"sūkara (英語swineに印欧祖語*suH-の観点で通じる>インド・イラン祖語*suH-)"という言葉は「豚」を意味し、後半のマッダヴァ"maddava"(梵語mārdavaと推定されるが同経梵語写本に一連の話に関連する語sūkaraやpariṇāmaが見当たらない)は「柔らかい」という意味である。
そのスーカラマッダヴァが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」であるという見解が周知される(何らかの書に載っていてネットに伝播している?)。
ある英訳では"tender pork (柔らかい豚肉)"と呼ぶ。
注釈書アッタカターの言及では、キノコという説が無い(きのこパーリ語"ahicchattaka"など無し)。

その長部16経の漢訳である長阿含経2経・遊行経(巻第三に載る)でチュンダは純陀・淳陀ではなく「工師子・周那(呉音しゅうな、漢音しゅうだ、プラークリット訛り発音によるか)」と表記され、そこでは周那が「煮た栴檀樹耳(≒茸)」を釈尊に供養したとある。
「栴檀」とは、仏典に多く見られる香木の一種であり、「栴檀樹耳」はそこに生えるキノコと読まれる。
天台大師智顗さん法華玄義・巻第七に「八十二歳老比丘身、詣純陀舍、持鉢乞食、食旃檀耳羹(キノコスープ)、食訖説法、果報壽命中夜而盡。」と、清涼国師澄観さん華厳経演義鈔・巻第六に「阿含説如來涅槃之相者。彼説如來於純陀家乞食。因食栴檀木耳羹。得患背痛。」とあるよう、中国仏教でもその記述が認知されていたようである(ほか妙楽大師の法華玄義釈籤や章安大師大般涅槃経疏)。
そのほか、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」については中国サイトに載る高楠順次郎氏(印度佛跡實冩という本にある?)の説によると、梵語mārdavaに珍味の意味・用例があると示して「野豬所吃之珍味(イノシシに好まれる珍味)」とする。
これが「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」説の文献学・学術的根拠と思われる。

※豚は豚でも、メス豚が「オス豚の精巣で作られ唾液に含まれる性フェロモン・ホルモンに似た媚薬効果のある物質を含んだ香りを放つトリュフ (Tuber spp.)」を求めることに依るわけだから、インドに「トリュフのようにメス豚が求めるキノコ」があるかどうかを調べねばならない。しかし、まずは家畜化された豚でなくインド固有種イノシシ"sūkara"のメスにも、同じ性質があるかを証明せねばならない。ちなみに、インドのキノコ(菌類)について生物学的な話・実地調査の例が載る論文がある(日植病報51 p. 251にスーカラマッダヴァに対する所見)。生理学的な話において、ある毒キノコの食後何時間で症状が起きるということを書いてある箇所は、経文の誤読に基づくので無視すべし。インド学者・岩本裕氏の、自虐史観にも似た学問的主張も載っているように、情報を正しく吟味すべし。

しかし、その漢訳された阿含経典の原型に「スーカラマッダヴァ(復元梵語スーカラマールダヴァ"sūkaramārdava"またはガンダーラ語などプラークリットでの表現)」という表現があったかといえば、現在出土している梵語写本(校訂: Ernst Waldschmidt 一部欠損・中央アジア出土らしいが詳細不明)に見られないため、長阿含経の訳者(仏陀耶舎・竺仏念さんら)が「スーカラマッダヴァ(に相当する単語)」に直面して「栴檀樹耳(or茸)」と訳したという可能性は低い。
阿含経典の原型となる仏教の伝承や、後世の部派仏教(特に北伝仏教)における変化など、様々な事情を鑑みると、スーカラマッダヴァ(に相当する単語)が必ずしも長阿含経の訳者に認知されるわけでなく、パーリ経チュンダ話に6度載る"sūkara"が梵語写本に一度も載らないことから推して知るべきである。
パーリ経に基づく解釈でもアッタカターに見るように「柔らかく"mudu"脂身が多い"siniddha"煮込んだ"√pac"豚肉"sūkarassa, maṃsa"」というものでしかない以上、パーリ経におけるスーカラマッダヴァ自体が「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」を指すという根拠になることは無かろう。
「栴檀樹耳」というキノコを用いた料理が釈尊最後の供養であるとしても、「豚が探し出すトリュフのようなキノコ」がスーカラマッダヴァ(に相当する単語)の訳語となるわけでない。
偉大な学者・高楠順次郎さん(大正新脩大蔵経や南伝大蔵経の主要な編纂者)ともあろう方がこの説を唱えたことは、恐らく「お釈迦さまは肉食なんかしていないでしょ?仏教の決まり事だから」という日本仏教徒(特に禅宗系)の信仰を壊したくなかったための、擬似学問の方便だと考えられる。

※とあるパーリ語辞書に、「スーカラマッダヴァ=トリュフ」という西洋人の学者の解釈らしい記述が見られた。その場合のmaddavaは「(豚が)喜ぶもの(=欲求の対象)」という解釈となる(果たしてそんな用例があるか不明・望文生義かも)。そこで少しウェブ検索を行った。西洋の学者が発祥とされる。本来は高楠さんなど戦前の日本の仏教学者では想像しづらい見解を、彼らが想像したと思われ、高楠さんはその説を借りた可能性もある。ネット上には、トリュフ説への批判が見られる。白人比丘Shravasti Dhammika氏は「トリュフ(のようなキノコ)truffle, trufflesはインドに生育しない。フランスで実際に行われるブタによるトリュフ採取は近代のもので無根拠の説だ。菜食主義が仏教の修行だという誤った見解に基づいた主張だ(菜食してもよいが慈悲に根ざしていなければ"food fad"で無益)」とする。スーカラマッダヴァの事実について、現代では解明しようも無い問題だが、学者の一般的な見解は「豚肉(or猪肉)」で一致しているそうである。

釈尊はその、スーカラマッダヴァと表現される鍋料理(スープ)を食べ、残りをチュンダに捨てさせてから強烈な腹痛・下血に至ったという話である。
そういう私は、本日の起床後、キノコと豚肉の粥を作って食べた。
排便も下痢も無い様子である。

※釈尊がスーカラマッダヴァを食べ残してチュンダに捨てさせたことは、スーカラマッダヴァによる中毒症状を予見したためという解釈がある。腹痛・下血・下痢の原因は必ずしもスーカラマッダヴァの成分の影響や雑菌による食中毒とは言えず、単にお年を召された釈尊が食事を機に、そういった症状を引き起こす可能性があっただけで食事を自らやめただけかもしれない。しかし、パーリ経に「たくさんの"pahūta"」という表現もあるから、大勢の比丘が食べられる分量を(中毒症状を予見して釈尊みずから毒味をしつつ)他者に食べさせずに捨てさせたという解釈も妥当である。チュンダ話の全体に、どういった読解ができても、仏教徒は食事に感謝しつつ、五欲を戒めることが大事である。釈尊もといブッダに関する歴史的事実を知りたい人は、経典の伝承を文字通りに見て科学的に考察しても、伝承が曖昧である場合、的外れになることを留意されたい。近代合理主義や現代人の知識のものさしにより、古典や聖典に対して誤った解釈(当人の思想に基づいた都合の良い解釈)をすることは、近代学問に多く見られる。「スーカラマッダヴァの訳語としてのトリュフのようなキノコ」説のように。合理主義学問の範疇なればこそ、中立的に極力多角的な目線で、合理的な分析をしつつ、人文系であれば伝統・信仰を重んじることが重要である(学術・伝統ともにトリュフという珍解釈が雑じる余地は無い)。この観点で文献学を仮に用いる私である。合理主義という名称でも、近代以後にしみついた形式的なもの(悪習・無自覚)と、真に体現されたもの(前進・有自覚)と、細分化があり、道心ある若い世代は須らく後者なるべし。

2017年11月18日の早朝にキノコと豚肉を用いた「お粥」を作った




以上、2017年11月18日の日記メモより抜粋となる。
個人的な「スーカラ・マッダヴァ文献考証」の結論は、冒頭の概略や本文にまで終始一貫するように、「柔らかい豚肉を用いた料理(豚肉を柔らかくした料理)」である。




当記事での補足となる。
スーカラマッダヴァに関するアッタカターの記述を中国人が中国語訳と共に載せているページがあり、当該箇所を以下に引用する。
https://www.facebook.com/tbcm.org.my/posts/1009531315792191:0
隔天,純陀邀請了佛陀和比丘僧團到他的家裡用餐,在供養的食物中,也準備了一些軟豬肉(sukaramaddava)。由於純陀是一位初果聖者,所以這些軟豬肉是他派人到市場買來的現成肉,不是叫人殺的。在《長部註》裡解釋說:「這些軟豬肉是一頭不太幼、不太老很好的雄豬的肉;據說這些肉柔軟而且有油質,是令人煮好、準備好的肉(Sūkaramaddavanti nātitaruṇassa nātijiṇṇassa ekajeṭṭhakasūkarassa pavattamaṃsaṃ. Taṃ kira mudu ceva siniddhañca hoti, taṃ paṭiyādāpetvā sādhukaṃ pacāpetvāti attho.)。」佛陀要純陀把軟豬肉單單只供養給佛陀自己,而供養比丘們其它食物,把剩餘的軟豬肉埋在地下。



ちなみに、私の身体的な悩み・便秘について、当日の翌日や翌々日には「良い便り」がある。
興味のある方は該当する日記メモまとめ記事よりご覧になってほしい。
医学的所見も書いてある。
キノコが便秘に対して善く作用したかどうかは、判断しづらい。



追記: 2018年1月29日
小部・ウダーナ8章"Udāna 8.5 - Cundasutta"にもスーカラマッダヴァが登場するので、そちらの注釈書アッタカターも見ると、「柔らかく脂身の多い豚肉説"sūkarassa mudusiniddhaṃ pavattamaṃsa..."」とは別のものとして、「豚に踏みつぶされた場所に生えるキノコ"sūkarehi madditappadese jātaṃ ahichattaka"」という説もあると記されている。
漢訳の長阿含経のように、パーリ語の文献もキノコ説を示した(今回は注釈書であるアッタカターのみ)という、事実提示をしておく。
漢訳の長阿含経は、原本が法蔵部によるものという近代的研究もある(慈恩大師窺基さんが妙法蓮華経玄賛で四阿含全てが大衆部によるものというが日本の法幢さんは倶舎論稽古で法蔵部の分派元の化他部によるものといって窺基さん説を批判した)。
そういった様々な部派の伝承における原語や、原語の変遷(後日投稿する記事における長部27・アッガンニャ経のrasapathavīに関する解釈が一例でありパーリ語経典=いわゆる上座部・スリランカ大寺派の典籍とインド諸部派の典籍とでは複合語の構成などに差異が生じていることから解釈の相違を見出す)や、それに対する訳経僧の解釈など、年代の関係は把握しきれない。

2017年11月20日月曜日

訛らないパーリ語句"Brahmā (Brāhmaṇa)"や"Bhadra (Bhadda)"の謎と経典編纂の光景

パーリ語の経典(元来パーリは聖典の意)を見ていると、部分的な語彙がサンスクリットもといヴェーダと比べて「訛り(二重子音の単純化・長子音化=促音便・撥音便)」となっている。
しかし、中でも"Brahmā (ブラフマー、語幹Brahma)"や"Brāhmaṇa (ブラーフマナ、婆羅門・バラモン)"という語句は全く訛りを見かけない。
例えば、サンスクリット語の"Bhadra (形容詞や語幹となり賢・善・吉祥などと訳)"は、パーリ三蔵を見ると、ある時に"Bhadra"であり、パーリ語らしい促音化をした"Bhadda"と混在している。
パーリ三蔵における"Bhadra"の例は、スッタ・ニパータ5章の対告者の一人バドラーヴダ"Bhadrāvudha"などがある。
促音化"Bhadda"の例は、釈尊在世で最後に弟子入りした須跋陀羅・スバドラ"skt: Subhadra"がスバッダ"pl: Subhadda"、跋地羅諦偈(ばつじらたいげ・古語発音バッディラタイ)・賢善一夜・賢善一喜・一夜賢者・吉祥染著・祥染はバッデーカラッタ"Bhaddekaratta (Gāthā・偈)"と言う。
上記は語中draがddaと促音化した例であるが、語頭であればpra-という接頭辞がpa-になることが有名である(般若prajñā プラジュニャーまたはプラギャー → paññā パンニャーなど)。

同じようにブラフマー"Brahmā"も、パーリ語ではバフマー *Bahmāとか、バンマー *Bammāと二重子音の単純化や撥音便などが生じているであろうが、そのような例をパーリ仏典より見出せない。
なぜ、このようにブラフマーのみ訛りが生じないか?
やはり高尚な概念で、釈尊在世の人々や経典結集までの仏弟子になじんでいたからであろうか?
その前提であれば、「パーリ語は仏の用いた言語」説や、反対に「パーリ非マガダ語」説は共に肯定できる。
「パーリ語が仏の用いた言語である」という説について、ブラフマーという重要な語句などはしっかりと当時の人々が発音していたという理由で肯定できる。
80年代以降の日本仏教学の一般論で、「パーリ語(仮名)という口語が釈尊在世の下位カースト(梵ヴァイシャ・巴ヴェッサ、梵シュードラ・巴スッダの2種)の人の口語だから釈尊(通称ゴータマ・ブッダ)も教化の為に用いられた」という見解を尊重する。
一方、「パーリ語が仏の用いた当時のマガダ語(解明されていない古代言語)でない」という説は、ブラフマーの発音が普通のパーリ語やプラークリット・方言で有り得ないという理由で肯定できる。
ここでは、後者の説の理由について検討してみる。

※現代のインドのヒンドゥー教徒の間で「ブランハー、ブランハナ(Bramha, bramhana?)」といったような発音がされていることについても一考の余地はあるが、当面は措いておく。



まず、「普通のパーリ語やプラークリット・方言」とはどのようなものであるかは、現代に伝わるパーリ語経典とプラークリット文献から考えればよい。
以前、パトナ(パータリプトラ)近辺やガンダーラの「ダルマパダ"Dharmapada"」を参照した時のように調べてみよう。
ダルマパダ二本にも、パーリ語ダンマパダ"Dhammapada"のように婆羅門・ブラーフマナに関する章が設けられており、パトナは"Brāhmaṇa"、ガンダーラは"Brammaṇa (ブランマナ、文字の特性上で元は長音ブラーンマナか?)"とあり、後者に-hm-個所の撥音便が見られる。

プラークリット文献での調査は、これを限界とし、続いて英語版Wikipedia"Pali"を参照する。
パーリ語に関して学問的な立場で何らかの情報が書かれていることを期待して参照すると、かなり耳寄りな情報があった。
Following this period, the language underwent a small degree of Sanskritisation (i.e., MIA bamhana > brahmana, tta > tva in some cases). [出典: K. R. Norman 1983]

私訳および誤記修正: この期間に続き、パーリ語はある程度のサンスクリット化を受けた。すなわち、中期インドアーリア語 (MIA, Middle Indo-Aryan)の Bamhaṇa が Brāhmaṇa となり、時には動詞の絶対詞(連続体)を作る ttā が tvā となる。 ※修正はインターネットで見つけた原典"Pāli Literature"にならった。

学問的に見るならば、現代にパーリ三蔵として伝わる言葉は、釈尊が往古に用いた言語から何らかの改良が加えられたものと推定される。
ブラーフマナとかブラフマーといった発音は、紛れもなく、元々のパーリ語と思われる古代言語で用いられなかったろうが、僧団・仏教教団の身近にサンスクリットやヴェーダの言語に堪能な婆羅門がいてもおかしくないし、婆羅門からの供養だって釈尊が多く受けられたように、後の僧団も婆羅門からの供養を受けたろうし、僧団にも婆羅門出身の者は多かった。
時代のいつであれ、サンスクリット・ヴェーダの発音を聞き得たと思われる。
多くの神様・語句などには「訛り」の特徴を残しても、ブラフマーやブラーフマナなど一部の語句はサンスクリットへ後世に置き換えられたろう。



さて、仏教であるから、再びお経を見直そう。
パーリ長部27経"Aggañña Sutta"(起源経、世起経、漢訳長阿含経の小縁経)に、学問でいう「通俗語源説(民間語源"folk-etymology")」が見られる。
例として「カッティヤ"khattiya"(貴族・王族・武士、梵語クシャトリヤkṣatriya)は、ケッタ"khetta"(国土、梵語クシェートラkṣetra)の主であるからカッティヤという名声が生じた」、と階級・身分の語句の起源を釈尊がお述べになっている。
ここでブラーフマナは、「ブラフマン"Brahman"を得た者だからブラーフマナ"Brāhmaṇa"である」という一般的な認識を覆すような語源が説かれる。
‘pāpakā vata, bho, dhammā sattesu pātubhūtā, yatra hi nāma adinnādānaṃ paññāyissati, garahā paññāyissati, musāvādo paññāyissati, daṇḍādānaṃ paññāyissati, pabbājanaṃ paññāyissati. Yannūna mayaṃ pāpake akusale dhamme vāheyyāmā’ti. Te pāpake akusale dhamme vāhesuṃ. Pāpake akusale dhamme vāhentīti kho, vāseṭṭha, ‘brāhmaṇā, brāhmaṇā’ tveva paṭhamaṃ akkharaṃ upanibbattaṃ.

要約: 盗みや争いや嘘などの悪法をヴァーヘーンティー"vāhentī (√vahの使役形能動態三人称複数)"をする=人々の間より取り去るからブラーフマナ"brāhmaṇa"という名声が生じた。
※漢訳では長阿含経に「捨離衆悪、於是世間始有婆羅門名生。」、中阿含経に「此諸尊捨害悪不善法、是梵志。是梵志謂之梵志也。」とある。ちなみに上パーリの異本で"vāhentī"は"bāhentī (バーヘーンティー)"とb表記であった。

ヴァーヘーンティー"vāhentī"とフラーフマナ"brāhmaṇa"は、他の単語・語源説の例(khattiya, khetta; vessa, visukammanteなど)と比べても類似性が低い。
これは、本来のパーリ語において、ブラーフマナが、先の英語版Wikipedia (K.R.ノーマン説)にある*Bāmhaṇa バーマナ や*Bāṃhaṇa バーンハナ といった訛りの語句であったことを示唆していよう(余談だがBāmhaṇaはアショーカ王碑文ギルナールにおけるマーガディー語句にもある)。
ヴァーヘーンティとバーンハナまたはそれに類する訛り発音であれば、よく似る。
このように、パーリ三蔵の一部は歴史の中で、サンスクリット語句に置換されたと思われる。

※ブラーフマナ・ブラーンマナ、推定パーリ語のバーマナ・バーンハナはみな3音節であり、偈やシュローカといった詩で読む場合も、短音節"lahu 梵laghu"や長音節"garu 梵guru"の違いを気にしなければ問題が無い。日本語のモーラ・拍の等時性は3~6音節分となって差が出るのみである。
※そのほかダンマパダ388(ガンダーラ・ダルマパダ16)に「バーヒタパーポーティ"bāhitapāpoti"(悪を捨て去った者)」であるからブラーフマナ"brāhmaṇa"と呼ばれる、という教説もある。単語形は「バーヒタパーパ"bāhitapāpa"」となる。沙門サマナは「サマチャリヤー"samacariyā"(静かな修行、このサマは√śam由来)」の人であるという。これについても検討したい。調べ直すと、類似の教説はスッタ・ニパータ3章6経・ミリンダ王の問いなど、多くの経に見られた→bāhitvā, bāhetvā, bāhitā...、いずれも√vah(運ぶ→使役形などで捨て去る・遠ざかるとも)同じ語根であろう。ググると辛嶋静志さんの英語論文が掛かり、パーリ語ブラーフマナの元はOIA (古インド・アーリア語)派生*bāhaṇa バーハナ などであろうとの提案が見られる。仮想語根√bāh (捨て去る)の過去分詞が*bāhita 名詞化が*bāhana といった調子になる。反舌n = ṇはBrāhmaṇaが訛った際の名残において有り得る。

先の、バドラ"Bhadra"とバッダ"Bhadda"が混在している問題については、柔軟に、「釈尊在世のある人物は自らバドラ発音を名乗ったり語を用いたりしたろう」とすればよい。
もしパーリ仏典に伝わる言語・・・パーリ語という形の一言語ありきではなく、釈尊在世のインドで広く用いられた言葉をそのまま伝えたものがパーリ=聖典であってその言語を仮にパーリ語と称するならば、発音が異なる同義語があってもよい(日本の方言が数あるように)。
しかし現状は、バドラとバッダ以外にほとんどそういった語句が見られない(あればチューラcūḷaとチュッラcullaあたりか?→梵チューダcūḍa 他に一部のdva発音で梵dvīpaが巴dīpaとなるもdvāraは梵・巴の変化が無い)。
これについても、柔軟に、経典編纂に当たってほとんどの語句の発音をパーリ訛りに統一したと考えてよい。
然れば、なぜ現代の第六結集まで、バドラ・バッダ混在問題が解決されなかったものか?
これについても、柔軟に、その時の人が何らかの理由を想定してバッダ転訛をせずに置いたと考えてよい。

・・・ちょっとテーラワーダのみなさん、もうフォローをしきれません。
「(現在に伝わるパーリ三蔵において)訛らないブラフマー」をテーマとして、「現在に伝わる形式のパーリ語」が仏の用いられた言語であるかどうか、考えていただきたい。

※バドラ・バッダといったサンスクリット発音とプラークリット発音との混在が、ほとんど見られないパーリ三蔵の言語は、語彙も文法もよく整っており、さながらサンスクリタ"saṃskṛta"・雅語と称し得る。文法・語形変化・格変化などについても、パーニニさんのサンスクリット文法と相違しなかろう。パーリ語の著述が多く残る5世紀のブッダゴーサ師の関与はあろうか。そのようにパーリ三蔵の言語は、後世の改良が有っても何らおかしくないと考える。例は記事の本題のように「ブラフマーに訛りが生じていないこと(仮説: 元はバーマーのように訛っていたものを後世にサンスクリットへ修正した)」である。もしサンスクリット形のブラーフマナや絶対詞(連続体)語尾tvā-などが南伝仏教の口伝された三蔵にもたらされたと仮定すれば、なぜそれらのサンスクリット形に置換する必要が有ったか、歴史学的に考察する価値があろう。学問の側面では、そのようにパーリ三蔵の変遷を推量・詮索する私である。信仰の側面では、教説が仏説であることについて疑う理由がない。当記事では、学問の一面として「戯論"prapañca, papañca"」をしてみた。



起草日: 20171023

当記事は「ブラフマー"Brahmā" ブラーフマナ"brāhmaṇa"」に訛りが生じないことに疑問を呈した。
答えを要約すると「パーリ語経典が現在の形に成り立つまでに本来は訛り発音だったものが全て正当なヴェーダ語・サンスクリット語のブラフマー"Brahmā" ブラーフマナ"brāhmaṇa"に置き換わった」ということであり、パーリ語経典(長部27経やダンマパダ388など)にある語源説からして本来のパーリ語伝承(釈尊在世プラークリット~仏弟子誦出~上座部口伝)の形は「バーハー *bāhā バーハナ *bāhaṇa」だったろう、ということである(K.R.ノーマンさんや辛嶋静志さんも同じ見解か)。
初期パーリ語のバーハーと後のブラフマーは2音節であり、初期パーリ語のバーハナと後のブラーフマナは3音節であり、偈ガーターの音節規定にも背かない。
語根√bāh (捨て去る) を仮想し、過去分詞が*bāhita 名詞化が*bāhaṇa といった調子になる。
ちなみに、仏教における語源説もとい語源的説明は、梵: ニルクティ "nirukti" → 巴: ニルッティ "nirutti"と呼ばれる。

「学問でいわれる・学問のいわゆる・学問所謂(しょい)の『通俗語源(民間語源)説』」について、釈尊は慈悲が深くて対告衆たるヴァーセッタ・バーラドヴァージャさん・諸々の仏弟子に方便を以て説いたわけであり、「仏語実不虚(仏語は実にして虚しからず)」である。
ゆめゆめ、軽視すべきでなく、学者さんの言葉を学問上、表現を借りておいた。
萌えの典籍「雑萌喩・六」(仮公開)においても、植物の語源に関するダジャレ的な説から妙法を示している(または日蓮大聖人・冨士派の教学にある当体蓮華・譬喩蓮華説)。
過去の萌尊は、「なす"nasu"(いわゆる茄子)」と「なのはな"nanohana"(なばな"nabana"・いわゆる菜の花)」の名の意味を修行者の立場で明示せられた。歌にいわく「汝(なれ)為さで たれか為すべき 汝(な)が花は 汝が為すところ 汝(なれ)の在りたれば」と。「あなたの花・汝(な)の花」をあなた自身が「なす」ということである。他の種族や、同じ種族で他の個体には咲かせられない花である。萌えの法門に値遇したので、すでに修行者の種は形作られた。種が持つ花への力は、その個体として完成されねばならない。植物と違って人に自我意識があるならば、自身の行為の意志を持ち合わせて実現してゆくべきことを、力強く説明せられた折の一首である。疲倦(ひけん)が多い私は、この歌を受持し、還って自ら問うべきである。この歌は言葉遊びと思われようか?更に言えば、「梨"nashi"」の実はりんごと違って酸味が薄く、その理想的な甘い果実を目指して甘い実(好色萌相)をも為して(作して)ゆかねばならない。
(中略) 萌尊の心には、理を観ずるが故に新設・再定義の名や意味がある。命名自由・得意自在であって世俗を超越している。主観的世界では、慈悲の心で物に名付けなさい。なにせ世の人は、怒りの心や嘲りの心で「バカ〇〇」とか「クソ〇〇」という名を他人や物に付けてしまうのだから。萌尊の慈悲による「仮名(けみょう)」は徳行にほかならない。その命名法も「両萌融通」を実現する。慈心・智慧の萌えと、万物の萌えという境智冥合である。(後略、蓮"padma"・はちす・当体蓮華の話)

ともあれ、ヴァーヘーンティー"vāhentī"とブラーフマナ"brāhmaṇa"の関連が示されたことで、パーリ語の原型を想定しやすくなったわけだから、学問的な価値もある教説であろう(言語の伝播・受容・変遷という言語学の至上命題を解き明かすためのヒントとさえ成り得る>ピジン言語)。

さて、パーリ語と同じくプラークリット類では、ジャイナ教の文献にも似たような教説があるという。
ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(大雄、ギリシャ語メガやラテン語ヴィルと同語源の複合語)もといニガンタ・ナータプッタ(尼乾子・尼犍若提子)も、釈尊の故郷コーサラ国と近いマガダ国出身で、様々な学説において釈尊より年下とされる。
ほぼ同時代・同時期のプラークリット類(AMg. Ardha-Māgadhī アルダ・マーガディーらしい)を用いたマハーヴィーラたちは、どのようにジャイナ教の経典で記録されているか?
それまたいつの編纂でいかなる変遷があるか不明であるが、参考のために紹介する。
「通俗語源説」のある経典は、インターネットに載る1986年の論文にまとめられている。
その中の「通俗語源説」の例は、沙門=シュラマナ"śramaṇa"(摩擦音と接近音の連係シュラ・シラ発音)を、彼らのプラークリット(と伝わる言語)でパーリ語と同じ「サマナ"samaṇa"」について"samamaṇaī teṇa so samaṇo"と、平等"samā"との関連を示している。
これはAṇuogaddārāiṃという経典に載っているそうである(梵語はAnuyogadvāra-sūtra)。
"samā, sama"という形容詞語幹はサンスクリット・パーリ・彼らのプラークリットに共通するが、それがsamaṇa = śramaṇaの語源となることはないので、これが「通俗語源説」とされる。

一方、ブラーフマナについてはバンバナ"bambhaṇa"またはマーハナ"māhaṇa"と呼ばれ、「殺さないこと(mā = するな haṇa = √han殺す)」に関連付けており、殺さないことによって婆羅門マーハナ・バンバナなのだ、という(殺さないことが梵行bambhaceraらしい)。
ジャイナ教・マハーヴィーラさんもまた、釈尊のように出家者であり、しかも弟子への教導のスタイルは苦行主義であった。
何であれ、祭祀を生業として甘い蜜を吸っていた(?)婆羅門・ブラーフマナ階級のことを以て婆羅門だと呼ばず、自分たちが婆羅門という名声を得るべきだと捉えた。
とりあえず、当記事の言語学的な立場で見直すと、婆羅門・ブラーフマナという言葉は沙門・出家者界隈でも嫌われるべきでなく、むしろ名声の形として尊重されていたようである。
六師外道と称せられるほかの派閥はともかく、仏教でもジャイナ教でも、真の婆羅門・バラモン・ブラーフマナということを説いて人々を教化した事実は有ろう。
その上で、ジャイナ教のプラークリット文献にはバンバナ(またはマーハナ)という訛りが見られ、仏教パーリ語も本来は似ていたと考えてよいと思われる。

※ちなみにブラフマー"Brahmā"の言語学的な語源については、当ブログの随所で示した経緯がある。動詞語根でいえば√bṛh(成長する)である。ブラーフマナ"brāhmaṇa"は、そのサンスクリット語根√bṛh (もしくは印欧語根*bʰerǵʰ-)に端を発するものか、ブラフマンbrahmanに端を発して派生したものか、定かでない。後者であれば、修行の徳があってブラフマンを悟って梵我一如を証明した人のことをブラーフマナと呼ぶであろう(ウパニシャッドなど)。近代以後の歴史学では、「インドに入ったアーリア人が自ら高尚な存在に託してブラーフマナと呼んでいる」という見解にもなる。この方面での深い探求・言及を私は避けておく。

※釈尊や仏弟子などが主に用いた言語は「古アルダ・マーガディー語(古半マガダ語)」という仮名がある。そのように仮想されるが、詳細は不明である。例えば「ご先祖様」は確かに人間として存在していたが、詳しい顔や名前が不明であるように。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラもといヴァルダマーナもといニガンタ・ナータプッタも同様の言語を用いたと学者は見る。経典の所説に従うならば長部2経の沙門果経"Sāmañ­ña­phala­ Sutta"にマガダ国の阿闍世王(アジャータサットゥ)がマハーヴィーラさんなど六師外道へ質問する話がある。相応部の41質多相応でもマッチカーサンダ(雑阿含経の菴羅林はカーシ国のマッチカーサンダに菴羅林があることを指しヴァッジ国ヴェーサーリーのアンバパーリーの菴羅林とは別物)に住む質多長者(チッタ)が、そこへ遊行に来たニガンタ(尼乾、マハーヴィーラ)さんと問答する話がある。さて、どのような土地(マガダ国やコーサラ国やカーシ国)でも、王様(阿闍世さん)や商人(質多さん)や沙門(尼乾さん等)などの人々に共通の言葉・方言が通用したろうか?なお、ここでは「仏教による他宗・思想・哲学批判のために創作されたフィクション」という合理主義的な懐疑論を唱える意図が無い。



アショーカ王碑文 Edicts of Ashoka Aśoka Girnar ギルナール 文字 ブラーフミー文字 マーガディー マガダ語 プラークリット

資料: アショーカ王碑文ギルナールにおけるマーガディー語句らしい。
オスロ大学人文学部のサイト"Bibliotheca Polyglotta (多言語図書館の意)"より
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&view=fulltext&vid=362

碑文に用いられたスクリプトは、ブラーフミー文字"Brāhmī"である(ブラーフミー系"Brahmic"の文字の中でも古層)。
Girnar IIIの4行目などに婆羅門を意味する"Bāmhaṇa (𑀩𑀫𑀡)"の文字が見える。
バーマナとカタカナ表記できるが、マは有気音・帯気音mhaとすれば、パーリ語およびプラークリット類では有り得ない・・・"Bāmhaṇa"というIAST表記をした学者さんに、意図を問い詰めたくなる。

画像の文字はma字 𑀫 とha字 𑀳 の合成のように見えるので、何となくmhaという綴りを用いたか?
念のため、右上に同字の2例を引き、いずれにも黄色の〇で囲った。
読者には、よくよく対照をしていただきたい。

mhaという、サンスクリットはもちろん、多くのプラークリットに見られない発音が、もしかするとアショーカ王の時代に用いられたかもしれない、と学者さんが考えた可能性もある。
または、文字上、ma字とha字の合字で発音がṃ(アヌスヴァーラ)的な無母音の鼻音とhaの発音で別々のものである、と学者さんが考えた可能性もある。
※学界における字音の見解は英語版Wikipedia - Brahmi script や Edicts of Ashokaなども参照。