2020年1月7日火曜日

ジェンダー研究の例示(宗教学・社会言語学・美学・文化研究から)

"The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics)"という動画の説明文の案から派生し、当記事では、2016年以降の私の:絵とジェンダー研究に相当する文章を例示する。
以下から、日本語の文を載せる。



2019-08-19記事『文明的な意味での「自由」や「不自由」を芸術・美術で表現する方法』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/53702023.html
紹介: 芸術についての記事であるものの、ジェンダーに関する話題が占める範囲は大きい。絵柄と絵の表現対象の人物(または動物)へ性の認知はいかがか?別の話題でJohn Milton の Areopagitica (1644) を引用した箇所には、当時の英語に性一致 (gender agreement) があったことを説明している。科学研究と雇用における性差に関する言及は2019-05-16記事からの引用あり。実は外部サイトで「女性の管理職」という典型的な話題についても2019年11月に説明することがあり、この記事で載せないが、「セクシャルハラスメントの事案は性の問題を含めて個々に多様なので個人主義的な判断基準が必要になる」という趣旨がある。



▽ 2019-02-03記事の
この画像は同08-19,
同11-20にも掲載あり
2019-11-20記事『長い冬…? 絵の練習記事 (2018年12月~2019年8月分)』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/53489522.html
紹介: ジェンダーごとに期待される「美人(美男美女)」の容姿は:アート性 artisticity (辞書に載る用語でartistry, artisticness) の表象か?見た目に関わる差別、ルッキズム (sexism as lookism) か?(日本でいう)社会人のみがその批判 (criticism) を受けるか?



2019-09-10記事『言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/09/non-binary-expression.html
紹介: ジェンダー関連の英語に関する議論の現状(2019-03-05記事を参照)から、文法の性別=文法性 (grammatical gender) が無いエスペラント語/エスペラント Esperanto での代名詞・3人称 (pronoun, third-person) をめぐる修正 (reformo) についての報告。性別指示の形態 (e.g. 接尾辞 -ino, -iĉo) についても説明。および、文法性を持つ既存の言語(梵語やロマンス諸語 Brahmic languages and Romance languages)に関する考察。



Gender Studies or Cultural Studies?

Masculinity? Femininity? LGBT? Non-binary? (rhyming with words of 4 or 5 syllables)

原案: The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics).

横野真史によるイラスト作品についての注釈

 日本の創作界隈 *1 では、日本人(準じて世界中のファンたち)が思う可愛い少女 (cute girls, beautiful maiden, bishoujo, bishōjo) の外見のキャラクターが好まれ、それが多く題材にされやすい *2 。彼らには少女の外見についてそのような既成の観念があり、実在人物は男女を問わず憧れを懐くことが多い。何らかの美意識を持つ実在の女性や、美醜のコンプレックスが強い女性などには、それらを好ましく思わないかもしれない。または同調せざるを得ない方向になるかもしれない。私はあえて可愛い少女の外見のキャラクターを「女性的である (feminine)」とする必要性を感じないが、通念上、女性だと認知される外見をそう呼んでいたりもする *3 。性別の定義と別に、好きな題材や画風がある。他者への説明には、男女の典型的な区別を用いる方が直観的である。後述の仏教の話 *4 の通り、便宜的な区別のみであり、本質的にそうであることを言いたいわけでない。

 日本の創作界隈をフォローする海外のファンダム fandom は、彼らのスラング slang として「男の娘 otoko-no-ko」を「トラップ"trap"(罠)」と呼んでいる *5 。これは女性が女性である外見認識から来る性差別的用語 (sexist term) であろう。サブカルチャー subcultures (社会学や文化研究 cultural studies の脈絡の意味。アニメ系ポップカルチャーと混同しないこと)*6 は何であれ、差別主義的なスラングやジャーゴン jargon を用いる傾向にある点も、私が最近ことに興味を持つ点である。「ゲイ gay」という言葉 (too many definitions...) の現代的な派生は好例である *7 。日本のエロ文化 Ero subculture (adult as common, pornography; not to be confued with foreign "Hentai") においては「性的な魅力:巨乳 (huge/large) vs. 貧乳 (flat/small)」や「童貞と処女 (male virginity and female virginity)」も考えられる *8 。

 「好き嫌い」の精神が強い人々、優劣の価値観が強い人々こそがサブカルチャーを育んだように見える。そのようなサブカル日本人の間で2010年代には「サブカル系」・「サブカル女子」という用語が定着した *9 。それは学術的に受容されない。上記サブカルチャーの比較対象には日本の:鉄道文化、野球文化 *10 、釣り文化、パチンコ文化、麻雀文化、現代の飲酒文化 *11 などがあり (世界的には naturism/nudism, New Age, hacker, hippie, hip-hop, Sci-Fi/SF fanなどが考えられる)、みな「文化」を「サブカルチャー」と置き換える方が好ましい。任意のサブカルチャーの外にいる人たちは、それらの専門性を受け入れづらい場合が多いものの、必ずしも「オタク・おたく otaku (または geek, nerd)」とは呼んでいない。属する個人や、サブカルチャーごとのそのサブカルチャーとしての性質"subculturality" (または subculturalisticity) の高低を考慮した方がよい。

 サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"*12 が:
 高いものほど、他者に対する当人の精神・価値観に適合した侮蔑の表現が用いられやすい *13 。自虐に関しても同じことになる。属する者が多様性を重視するようになることはあまり無い。また、分野全体の集団性(好例はスラングの単語数の多寡や使用頻度の程度 *14 分野についての個人が持つ帰属意識が高い。サブカルチャーは個々が主要な社会と区別される(逸脱しているが乖離はしていない。大河の支流から作られた水路とも *15)。しかし、高収入や高学歴をステータスにする傾向も見えるなど、社会 *16 や経済における差別性に依存するように見える。多くのサブカルチャーは出費が多いほど誇らしくあるので、それと同じ領域に高収入や高学歴が組み込まれやすい(加えて知識や才能の高低)。音楽業界や漫画–アニメ–ビデオゲームは商業・同人–インディーズを問わず、ファンが出費することがリスペクトの提示だとか *17 、分野の発展に寄与することだとかと評価されやすい *18 。
 低いものほど、分野全体の集団性や分野についての個人が持つ帰属意識が低い。人によっては社会学でいう「左翼 left-wing, leftist」の理性的・リベラル的な側面 (rationalism, liberalism) が重んじられやすい(各個人の政治での自負を指さない。自称リベラルも正当にリベラルであると限らないことに同じ *19)。私(筆者)は左翼や右翼の真に良い側面を尊重する中道であると自負する。そして、サブカルチャーは何であれ、私にとってなじみづらいものであり、関心を持っても長居できない。

 今の結論では、人間の生命の平等の尊厳は、サブカルチャーにおいて通用しない場合が多い。サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"は、そのように対比される主流の文化 mainstream culture や社会 society の尺度(ものさし)*20 が前提にあることで、利用可能になる。どのような地域・文明 *21 の下にローカライズされた localized 多種多様のサブカルチャーがあっても、サブカルチャー属性・サブカルチャー性が普遍的–ユニバーサル universal である、と私は理解した。つまり、サブカルチャー属性の高い彼らは、それほどの深さで「夢中」である。差別の解消方法というものは、宗教的方法論を重んじる私であるが、様々な事例の科学的な分析から原因を追究した後に求めることもよいと思う。宗教的方法論で欲望の奔放さを急進的に対治するか *22、学校教育の改革で幼少期から科学的思考と自己の尊厳についての道徳を与えるか。私は他者を変えさせる意図を持たないので、この点について真面目に取り合おうと思わない。いつもの帰結として「自覚のある個人が自ら変えること *23」となる。



ここまでの注釈

*1…英語で creative scene in Japan と呼ぶつもりでいる。creative は形容詞 adj. でも名詞 n. でも解釈できる。代替表現に n. creation (創造、創作) でも構わないが、任意の作品における「天地創造の場面–シーン(特に一神教)」で解釈されがちである。n. creationist に至っては「創造論者」の意味になる。n. creativist は辞書に無い。他に n. creator, n. creativity でもよい。「シーン scene」とは、ここで独特なニュアンスを秘めた「界隈」を意味する(後述の「サブカルチャー」の代替表現)。創作行為の種類が多岐に渡ると思う時は creative scenes とも。何らかの分野の:それがローカルな立場として in Japan と呼ぶか、固有の特性として the [...] of Japan と呼ぶかは、ここで前者を選ぶ。彼らの価値 (value) を標榜するキーワードは、ずばり「クリエイティブ kurieitibu」と「クリエイター」である。これら形容詞・名詞・前置詞句について理解を示したが、定冠詞 (the) の有無や複数形標示 (-s) の有無など、出だしのために、どうにでもなりそうな文脈に見える。
*2…女性を引き合いに出すので、反対に男性キャラクター–男子が題材であっても同様。大衆的なイラスト (イラストレーション illustration) が、音楽作品(特に歌詞 lyrics やミュージックビデオ music video)や映画–ドラマ–演劇 (film or movie, drama, performing arts) などと、同一の「とあるカテゴリ」に加えられる。社会の中のメディア media 領域として見た場合、「老若男女(特に児童と青少年)から各宗教の厳格な信仰を持つ者まで多くの人が見るものなので、道徳–モラル morality を重んじよ/性的特徴–セクシュアリティ sexuality を控えよ」、という論調が世間の一部にある。広い芸術分野の作品 (artwork, アート art 思想的表現全般に関するもの) として見た場合、「自由 (freedom) の範疇によって尊重されるべきだ(直ちに有害なものでない/想像力–創造力を萎縮させるべきでない)」という論調が世間の一部にある。私は中庸–中道の人なのでどちらも正しい側面がある、としか言えない。これらは、学問でいうとメディア研究 (media studies) や美学 (aesthetics) に関わってくる。それぞれの論調に見るように、ジェンダー研究(現状の性的少数者–マイノリティ sexual minority を含む)と問題意識が共有されやすい分野は前者にある。無論、それらの主張が出発点にあっても、研究の姿勢と理論の構築が「社会科学 (social science)」の目的に基づく場合、中立的であらねばならない *-1。イラストの話題について日本と欧米の差異の簡単な説明しよう。いわゆる人間(humanity, 衣服をまとう個体 individuals of  ヒト属ヒト Homo sapiens sapiens)を題材にする問題性が強い風潮で、人間的な表情と歩行を備えた他の哺乳類 (mammals) の動物 (animal, 価値観や自由意思を持たないと扱われる。比較的に恣意的なエロ/グロ表現が可能だと人々が思っている。日本でビデオゲームの:GTAシリーズがCERO Z指定なのに対して架空の動物のリアルな動作–狩猟–切断を伴うモンハン・シリーズはCERO C指定なことも似た例) によるファーリー furry が自然と育つものがWW2以降の欧米にあろう(cf. 1900年以前の絵画)。
*-1…研究の対象/客体 (objects) は本質的に優劣/善悪を問えない (an object の存在自体が無数の要因の副産物で幻に等しい)。2019-05-16記事での科学哲学についての私の説明が関連する。ジェンダー研究に関して言えば、20世紀のフェミニズム feminism に関わる者を含むポストモダン postmodernism 系の学者らの研究内容はアラン・ソーカル Alan Sokal らに指弾されたことが有名である。「E = mc2 は性化された方程式 sexed equation ですか?たぶんそうです(後略)」が著名な例であるが、この詳細は別稿にあずける。私はジェンダーに関連する研究領域を卑下したいのではなく、「人文科学 (human/humanitarian/humanistic science)」・「社会科学 (social science)」として注意を保って行えば、学問の進展として作用することを言いたい(最初から女・男のどちらかを優遇したい人々にとってもそうかどうか)。
*3…例えば、一般的に日本の創作界隈で、ひげ・ヒゲは何であれ (mustache and beard)、男性固有とみなされている。女性キャラの絵では、せいぜい探偵・紳士・仙人・学者などの変装–仮装–コスプレや一部のサンタコス (costume/cosplay of Santa Claus) の雰囲気を出すため、「つけひげ(付け髭)」がその目的で描かれるに過ぎない。それら女性キャラが同一人物で描かれる他の絵では、当然、ヒゲの描写が無い。私は萌え系の絵柄で自画像を描く際に私のヒゲを描くこと (e.g., 絵2016-07-19, 絵2017-01-06, 絵2019-12-14一公開例)に抵抗が無い。私本人のヒゲは成年男性として薄い。人々の思う女性的な外見にヒゲがあるという自画像は、人々の認知的カテゴリー (cognitive category) に反するかもしれない。単純にステレオタイプ stereotype が破られることである。感覚器官で分かる/観測可能な事実に少しずつ近づける努力(無数な例と反例とを知って中性化すること。努力の形式的完了は無い)は、文化面での差別全般の解消の近道である。何も二本足の動物やロボットやドロドロとしたクリーチャーを人間と呼ぶことが革命的であると言わない。そして私も運動に与するつもりで創作活動をしているわけでなく、本文の通り、好きだという気持ちでただ人生の一部の時間を捧げているに過ぎない。なので、多くの分野を渡り歩く(故郷・埼玉県から離れて愛知県豊橋市から9年間一歩も出ずに)。
*4…上座部や大乗の仏教経典と「萌えの典籍」から、ジェンダーにかかわる教説が示される。2019年以前に私が見聞したり、作成した物事である。ジェンダー研究(ジェンダー論)そのものでない。
*5…cf., 英語版Wiktionary - trap (n. definition 20 and 21), Wiki in Danbooru - otoko_no_ko. quote: English-speaking fandom has traditionally used the word "trap" for this concept. Due to the negative implications of the term and its history (which 男の娘 largely does not share) as well as the term's ambiguity in English [...]. 男性器のある人間は女性器のある人間のみを性的対象とせよ、という保守性である。女装する実在人物であれ架空キャラクターの作者であれ、人を騙す意図で女装している者は多くない。もしそれを見る誰かが「罠だ!はめられた!」と感じても(コメディ映画 comedy film, movie, drama ならばともかく)、その表現が定着するような文化性が欧米にあることは、何か日本と異なりながら似た部分も感じられた。たとえ日本では「男の娘」と女装する者の意思を助けるまたは当人による形容を受け入れることがあっても、各地には各地の差別意識が残っていることを注意する必要がある。「欲望(衝動性と悪い意味での自己保身を含む。人間に欲望が強いときは他人の意思を汲む度量が減る)」の強さを抑えることが難しくとも、理性の剣があれば差別の表面的解消が可能である。根本的解決には宗教的方法論が必要だが、説明を別にあずける。
*6…「下位文化・副文化・亜文化」とも訳される「サブカルチャー subculture」の意味の理解には、まずそれに対比される「文化=カルチャー culture (主流なものを指す。レトロニム: mainstream culture)」を知る必要がある。「文化」は多義的であるうち、考古学的な遺物や遺跡に依存して仮想される学問的概念 (e.g. Yamnaya culture = pit grave culture ヤムナ文化、他 *-1) を含む。ここで「サブカルチャー」は大衆文化 popular culture に属するものと、それ以外とがある。生活習慣や生活様式 lifestyle に関わる側面もある。他に、専門性のある点で職業や宗教に比較できるが、区別されるべき相違点がある。いずれにせよ、文化研究–カルチュラル・スタディーズ cultural studies には用語の適用が困難な研究対象 (objects) が多い点で、注意されたい。つまり、曖昧さが高い。本文に括弧で「アニメ系ポップカルチャー pop culture = popular culture と混同しないこと」と記した。結局のところ、アニメ(ここでは英語のAnimeに限らずanimation, cartoon全般)に関する各種業界は主流な社会に属する部分と、ファンの界隈の一部に見られる特殊な部分とが有るので、サブカルチャーの側面の有無が言われるものである *-2。アニメ作品は他のジャンルもあるような映画 (films) またはTV番組 (television programs) を大衆的ソース (source) とする。一般的なファンの場合、日本でも欧米でもアジアでも「幼少期に視聴していた作品が好き/子供に見せる作品が好き」という程度で、作品のグッズを買う場合もあるが、これは主流な社会の消費的コンテンツがある/経済的行為があるに過ぎない。クリエイターとされる人で、1980年代でも2010年代でも一般的な企業で主流に近いコンテンツを出す人が、裏の顔でアンダーグラウンドな活動を持つ場合もある。後述の「サブカルチャー属性・サブカルチャー性"subculturality"」の話が重要になる。
*-1…キクラデス文明などは文明 civilization と文化 culture のどちらもあるし、ドイツ語のインダス文明も Indus-Zivilisation と Kultur のどちらもあるので定義が不明瞭。多くの場合はよく聞く呼称に乗るしかない。
*-2…多かれ少なかれ、海外にいる日本アニメ (Anime) ファンダムの人々もそのようなものを the "subculture" のように言っているように見える。アニメ作品には字幕"sub"を付けるファン文化行為がある(fansub; 2010年代からは行為の対象として東アジアのミュージックビデオ全般に共通するインドやヨーロッパの音楽・映画の作品にそういうのがあまり見られないことは公式コンテンツの有無によるか不明。ファン翻訳の言語的批評はAbé Mark Nornes, 1999年 "For an Abusive Subtitling", 山本直樹 訳「悪態的字幕のために」がある)。この"sub"は英単語サブタイトル subtitle からの略語であるが、語感についての認知的な作用を持っている、と私は感じる。語句に伴う sub- 自体はラテン語の前置詞(意味:~の下に、など)に由来する接頭辞に過ぎないが、そのような語源認識を彼らは持っているかどうか?"subtitle subculture"と便宜的に呼称できるそれは、80年代から海賊版VHSの流通を伴うアンダーグラウンドな界隈として発生・成長し、公式な字幕コンテンツの整備–流通がITを通したデジタルデータで普及しつつある2019年現在もアイデンティティはともかく生存している。任意の作品の情報に:各地の言語で字幕を付けたり(元は無い語句や文章の挿入を指す)、セリフを変更すること (マンガの吹き出しなど。scanlation とは別にジョーク joke として) などは非常にミーム meme の活性化を促進する間で使用される。
*7…cf., 英語版Wiktionary - gay (especially adj. definition 5-2 as slang, derogatory), 一用法で「ださい・かっこ悪い」を意味する。これも"trap"と同じで普通の英語学習者にとって奇怪な英語の用法に見える。あらゆる英単語の「近年に定着した奇怪な用法(承認されたスラング的用法)」の中で、なじみづらい・容認しづらい代表格ではないか?古典的な"joyful, cheerful; v. to make happy or cheerful"の意味はどこへやら?私がたまたま見たもので、シェイクスピアの詩でも、仏教翻訳書 (e.g. Cowell, E.B. 1927. quote: Her arm gay with a white shell...) でも見られていた。古典的にゲイガール"gay girl"はカテゴリーの認知的エラー (cognitive error, cognitive fallacy) にならないが、現代英語話者ならばどう感じるか?
*8…それらの性的特徴に関するレッテル貼り–ラベリング labeling は、私が世間の言説を例示するまでもなく、意図されるものが想起できると思う。見た目に適合するラベリングもあれば、推定の方法に文章や行動からの心理の邪推を用いるものもあるが、主流な社会で行うには「政治的な公平さ」の観点で望ましくない。端的に言えば「嫌がる人が多い」か「嫌がる心を封印せざるを得ない」。しかし、雑誌やTVのようなメディアが煽ったり育んできたような歴史もあり(断定的でなく詳細な調査を要する)、エロ文化は社会的な部分も大きい。ところで、日本語版Wikipedia - 性的対象化という記事は2019年5月以前の版で「主な出来事の時系列」節へ大量に「性的対象化/客体化 sexual objectification」に関連する例が追加された。これはWikipediaの「フリー百科事典の目的 (cf. WP:5P)」と相違する「雑多な内容 (trivia sections)」に見えるが、参考までに閲覧してもよかろう。Twitterなどで運動家らが「炎上した」などと取り沙汰された例が多く挙げられる。「炎上 (enjō, flaming)」の定量的な (quantitative) 基準は相変わらず不明だが、世間ではそう言われる事象が起こるという。攻撃する側の意図するものと、攻撃される側とがおり、何が誰の人権侵害になるかを別に、企業が「性の商品化」とやり玉に挙げられることをする頻度は、どんどんフェードアウトするかと。
*9…用法や発生経緯を詳しく存じ上げないが、アニメ系ポップカルチャーに制約されやすい。侮蔑的な用法が多かったろう。次に、「サブカル○ソ女 sabukaru-kuso-onna」には、眉をひそめる。その謎めいた語句の起源と原意とその用法が何であれ、日本には慣用句としてそれが定着する土壌がある。「悪く言えば欧米の人々よりも『子供・おこちゃま・ガキンチョ』と形容されるべき日本人に、付ける薬は無い」とするのでなく、文化的な庇護が必要だと感じた。私は「オーストラリア政府はアボリジニ aboriginal, indigenous Australians とその文化を擁護する。台湾原住民/先住民は英語で Taiwanese aborigines という。日本人はある種のアボリジニ (Japanese aborigines) として文化が世界から尊重されるべきではないか?リベラルの風潮は日本に定着しえないし、今までの50年がそうだった」と2019年の数ヶ月間ほど思っていた。人権尊重などについて日本人の理解はどれほど高いか?性差別は、文化や雇用などの領域において解消の余地がない。好きなようにさせるので、日本人がどう生きたり死んだりしても問題は無いと、私は思っていた。大衆の無節操な気質は変わりづらい。しかし、日本人はまた苦汁を嘗めて自省による再出発の機会が与えられることを私は望む。生い立ちの異なる多くの民衆に精神修養を行わせることは不可能なので説明しない。
*10…一例で、日本の2ちゃんねる–なんJで隆盛した「~で打線組んだ」というネタ–ミームの元になる野球の打線についての感覚は、少し野球観戦しただけの一般人にとって詳細な意味が直感的でない。スポーツの競技 *-1 ごとに、このような性質–専門性の高低や濃淡を一般人は感じると思う。
*-1…スポーツについては、国籍–ナショナリティ nationality が人々の旗印であるため、大概は人々の印象が中性化されている。ナショナリティに基づく応援は万国共通(国は人々の精神的国土の意味でもある)。しかし、2019年には日本開催のラグビーW杯 (2019 Rugby World Cup) に関して「にわかファン niwaka-fan」という言葉が強く議論されたとされる(cf., 2019年11月6日発表の新語・流行語大賞ノミネートの一つ)。2015-12-10記事に18歳の私は:
世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない(中略)人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(中略)その時その時で特定のスポーツ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無く、子供の方が伸びしろの広さで優れているくらいだと私は見ている。子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何ら知性のない人間としか見られず。私の信念から来る感情が、そう否定的に向かせるのであるが、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。特定のスポーツ観戦などであれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私が濫りに批判すべき事象でないかもしれない。
…と記した。サブカルチャー界隈に聞かれやすい用語「にわかファン」をめぐってかつてないほど人々が騒ぐまでもなく、その種の話題に関与したくないと2015年18歳当時でも思う。サブカルチャー領域に自由主義–リベラリズムの概念が定着しづらいことが2019年現在でも分かりやすい。
*11…飲酒 (drinking, drunk) に関する文化性は、食文化と一部の社会現象のうちであって生活様式の性質が強いと思われるかもしれない。比較対象に、喫茶(茶道の抹茶や紅茶を含む)文化や喫煙 (smoking, 愛煙家 smoker) 文化や麻薬などのドラッグ系の文化を考える。彼らは各々の行為に適した道具を好み、場合によって専門用語の多寡(種類や頻度が多いか少ないか)がある。世界規模で見て、現代の法律や、違法である場合の流通量に依存する面が強いことなど、主流な社会との関係性が強いので、捉えることは難しい。更に、酒の愛好家たちは個人または酒抜きでも親密な身内で楽しむか、別の集会に酒を用意するだけで愛好家間の集団性が低い(わずかな反例でソムリエ的な人がいる)ので、一般的なサブカルチャーに似ない。その集団性が低いときは、他のいわゆるサブカルと競合することも多くない(例えば成年のアニメファンたちに飲酒する人は多いという私の観測がある。別の社会的意見で飲酒する人でも単にタバコの副流煙を嫌うなどはサブカルチャー間の競合と言わない)。
*12…サブカルチャー属性・サブカルチャー性(サブカル属性・サブカル性)と併記して紛らわしいので、便宜的な区別を与えよう。サブカルチャー属性を個人に当てて"subculturalisticity"とし、サブカルチャー性を分野に当てて"subculturality"とする。前者の英語名が長い(8音節)と思われるならば"subculturality"だけを使うこともできる。個人 (individuals) の定義はともかく、分野 (fields) の定義と事物への認定も主観的で曖昧ではあるが、それは別の話である。なぜならば世間の多くの文脈が個人と分野を曖昧に特定して呼称しており、私はその検分の役目を負っていない。個人サブカルチャー属性の高さ(濃さ)の認知から、日本の人々は「-ファン」・「-サポ(サポーターの略)」・「-民(みん)」と呼んだり、侮蔑的に「-オタ(オタクの略)」・「-豚(ぶた)」・「-厨」・「-信者」と呼んだりするようになると考えること(これらは状況に応じて比較的やさしい表現にされやすい)も可能である。一昔前 (2008–2012?) の「ギャルとオタクの類似点–親和性(gyaru, 見た目に関してギャルメイクのみの poseur や単に若いガール girl を含むなど比較的広い指示対象を持つがこの限りでない)」に関する世間での議論も、サブカルチャー属性を示唆するものと解釈できる。
*13…現代の商業的な文明の下で、どういう思想・哲学・歴史を知っても、サブカルチャー属性が高い人は自身の言語表現について、あらゆる差別 (discrimination) に関わることを配慮しない。サブカルチャー属性が高い人は他者の道具を「使える (useful)」とか「使えない (useless, trash, waste)」と品定めする。他者の才能の高低を鑑定する。ビデオゲーム界隈を例に取ると、どういうコントローラー(PCゲームでのキーボードまたはパッド)を使うとか、マシンスペックだとかについて、使う他プレイヤーに侮蔑的な評価ができれば、サブカルチャー属性が高い。下手とされる他プレイヤーに"noob, idiot"と侮蔑的な評価ができれば、サブカルチャー属性が高い。このように考えられる。サブカルチャーとされる分野に属する人々は往々にしてこの傾向を持ち、現代文明やそれぞれの国家・社会の下でも普通の構成員である顔をしている時よりも発現しやすい *-1 。つまり、普段は頭をペコペコする企業の従業員の顔であっても、サブカルチャーに属する時はこの傾向が出やすい。人の道具や才能などは個人の問題であって、相手が求めるなどの社会的要請や親密な関係にあるなどの精神的環境が無い限りは干渉すべきでないことが現代文明の個人主義的な特徴であって多様性の尊重がされるはずなので、サブカルチャー属性の高さはその反対を向いている。
*-1…これらの傾向は、更にそれがどれほどの匿名性 (anonymity) を高く持つインターネット上の一領域であるかによっても、かなり変動する。スポーツ会場での観戦におけるブーイング booing, boo が比較できる。サブカルチャーのコミュニティはweb上のBBSやフォーラム forum が土壌である点も考慮される。単に任意の個人の攻撃的な精神的傾向 (aggressiveness) が、突発的な条件で現れることや、私的な領域 (private space, privacy) に制限されることなどの検討は、心理学の領分なので関係ない。
*14…こうなると言語的事項に束縛された研究のようである。反例として任意のアフリカの部族は必ずしも言語コミュニケーション verbal communication に依存しないと言われることがある。しかし、具体的な発現を観測するために、コーパス言語学の方法論を借りた文化研究は、その言語的側面・社会性に限って高い効力を発揮すると思うので、まずここを切り拓くことが手っ取り早い。私が方法論を示すべきでないが、言語的文化領域に介在したサブカルチャー(これは他の言語的文化領域に共有されるのでここでは同一言語のバージョンのみ)の「スラングの単語数の多寡や使用頻度の程度」を調べることになる。情報技術の力の併用が望まれる。ただしビッグデータ的にサンプル量が多くある必要も無いと思う(サブカルチャーを始めとした文化の多くは形式的・定量的な定義ができないため。主観的な意見は学者個人の見解だと分かる形であれば問題ない)。民間–DIYの領域で、既にTwitter投稿物などを対象として似たような研究がされていると思う。
*15…社会の規範に必ずしも合わせる必要を持たないなど独自の倫理観が通用する点で、「逸脱 deviance」は研究初期(1970年代以前)の典型的なサブカルチャーの判断基準にされた。当然、サブカル性の高低を言う立場では、それも程度の差がある。露骨な反抗を伴う/記号的な表示をする場合はカウンターカルチャー counterculture という。次に、比喩で説かれる「大河-支流-水路」とは?主流文化=大河に様々な業界–分野–階級など支流があることは当然とした上で、水路またはその岸がサブカルチャーに当たる。大概はサブカルチャーに属する人々がそれで収入を得るなどしないが、一部は活動を収益化したり、実際の職業にする者もいる。そのようにサブカルチャーのフォロワーなのかリーダーなのかは個人差がある。相互作用・双方向でもありうる。リーダーである度合いは、高いほど大河-支流-水路のうち、支流から分かれた水路の付け根に近い傾向がある。単に世間の職業に従事する側面を持つ個人(芸能人やタレントや作曲家やIT技術者や経営者など)が、そのままサブカルのリーダーの側面を持っていることもある。スポーツにおけるスポーツ選手・アスリートや鉄道における乗務員・開発者 (players and athletes in sports, workers/engineers of railway) などを見ると、先にプロフェッショナルの人がいることは明白である。ただし、「任意の分野の独自性が強まる以前の開拓者・先駆者とされる人々は境界的であり、大概その分野の人でない」ということは別の話である。
*16…社会的に優れている自信を持ちたいならば、サブカルチャー志向や議論に傾注せず、無骨に労働・社会貢献・奉仕・慈善・育児をして他者や特定の社会層を侮蔑しなければ、私も「それだけの人」として称賛できるが、そういうわけでもないらしい。ところで、普通のホワイトカラー white-collar の会社員はそれ自体がサブカルチャーであると見ることは妥当か?そうでない。日本に飲み会 nomikai などがあることは、せいぜい日本の現代化された風習 (modernized traditon of Japan, 宴 utage ・酌み交わす云々の延長) であるし、若手や社会進出の女性たちなどが1980年以前に生まれた男性たちよりも酒・タバコを好まない傾向を持つので嫌がらせの一種・パワーハラスメント power harassment と考慮されやすい (cf., BBC: Japan's workplaces rethink 'drinking with the boss'. By Virginia Harrison)。良い側面だけ保たれればよさそうだが、酔った後の稀な暴行や性犯罪を防止するためなどで、ここ数年は飲み会を無くそうとする意見が高まっている。他のサブカルチャーとの大きな違いは、職業的目的で行われる点と、必ずしもその文化性が関係者の間で好まれない点とである。彼らが精神的に気にするものについての用語(ストレス・セクハラ・パワハラなど。敬語や社交辞令もあるか)も、サブカルチャーでの目的と異なるようである。労働者は労働者で、昔には、各地の民謡–フォークソング–労働歌を作ったとされる。これらも労働サブカルまたは民謡サブカルと呼ばない。サブカルチャー性の低さとは、そのように任意の分野が文明・文化の他の領域との関係性が強かったり、個人にとっても利害関係が深く結びついているものとも言える。そういうものは、サブカルチャーっぽくないと文化研究者も判断するであろう。
*17…cf., 過去記事2015-12-10 引用「一部の現代日本人は、芸能などカルト的に熱狂することもあり、どこどこのチャートで上位を取りたいグループの方策に乗せられて一人でCDを何千枚も買うことは、即物的利益の信仰ともいえ、事実ライブだか握手会・サイン会だかで会う・触れられるならば有難すぎるのであろう。また、何らかの作品や作者などへのリスペクト意識が高いという人は、金銭拠出・正規購入という形でこそリスペクト意識(敬意)の印になるとの即物的観念論を垂れるが、単なる商業主義・搾取のカモか」、過去記事2016-05-22 引用「即物的リスペクト意識」。経済学は私の好みでないが、それを好む人はそういう見地での文化研究も可能か(大学にいる研究者が学生を対象に出費に関して調査するなど)と思う。サブカルチャー性についての証明や反証には色々な切り口があるはずであり、本文に含意がある。
*18…本来大事なはずの愛する心の尊厳(自他の心の尊重)は、考慮されづらい気がする。貧困地域において食品の盗人–泥棒を集団リンチすることに等しい傾向がサブカルチャーに見られる。この点が解消されるほどサブカルチャーは主流な社会と混じり/交わりやすくもなろうが、私がすべき議論でない。サブカルチャーはサブカルチャーのままでよい。
*19…政治・イデオロギーにもサブカルチャー性の高低が見られる。政治サブカルチャーの政治ファン(political subcultures or cults, 日本のネット右翼・ネット左翼に限らず世界的にも多かろう)においては党派性がサブカルチャー性に近似する。「リベラル liberals」・「ネオナチ Neo-Nazi」・「ネトウヨ Netto-uyoku, Netouyo」といったラベル labels が、使用者の悪意によって歪められたり汚されたりしていて理性的・科学的な使用が少ないことは遺憾である。ここでの「科学的 scientific」は理性的に rationally, rational 実践されるものとしての社会科学 (social science) のことである。科学哲学についての私の記事 (2019-05-16) も参照されたい。政治サブカルの執着で、そういう感情的用法もある。専門用語さえ固定的・形式的な意味で用いられなくなる。左翼に関しては本来、科学的・理性的なものであって分野の差別や思想の隔たり自体が優劣にならないことを念頭に置くはずである。人間社会は理性と感性に代表される二項対立の一方のみに偏っては危機に陥るので、相克する限りに左翼と右翼に双方の価値があるし、誰でも両方の側面を持っている。それが悪い形で左翼的であったり、右翼的であったりする人がいるだけである。闘争に陶酔する人々が、別の個人の価値を自ら育ててゆくという考えがあるかどうか。その考えが基盤であって方法論や目標は人それぞれであることと、文明の維持・発展の近道になることを覚えているかどうか。
*20…いくつもの尺度(ものさし–メジャー measure)を以てしても、解決しづらい事項は「文化盗用 cultural appropriation」である。白人"white"が:黒人ヒップホップをまねることは"wigger"か?和服–着物 kimono を着ることは"weeaboo, wapanese"か?それらは軽蔑の表現であっても、似た趣旨で深刻な非難は世間にあろう。その尺度がはっきりとしない。現代文明は、片や意思による自由な表現・行動が許されている(白人にカテゴライズされるものとしてのロシア人 Russian がスカンジナビア・北欧文化 Scandinavian, Norse culture やケルト文化 Celtic culture を好いて仮装などをし・発音と文字を模倣して音楽活動してもヨーロッパで非難を受けない)上で、異文化の使用は消極的になる。文化に関するものは感傷的–センチメンタル sentimental, 感情的–センシティブ sensitive, センセーショナル sensational な基準が容れられやすい。異文化の使用は前提と方法と状況が少しでも悪いと「文化盗用」という非難を受ける恐れがある。文化は接触を繰り返す(ことで成立している原因の側面がある)という「定理 (らしいが詳細不明。assimilation, homogenizationの前提を指す)」があるが、今ある文化のうちで民族のアイデンティティに関わるものは少数のみ残すべき *-1 と言いたいか?これは現代的文化研究の難関の一つである。少なくとも、現代の仏教教団では、白人出家者がその宗教的目的で禅僧の直綴 (jikitotsu, 宋朝に伝わる。作務衣は農作業など。他の禅の衣服 rakusu などと呼ばれるが何が一般的なものか不明) や上座部仏教の袈裟(律にある三衣)をまとうことが問題視されないので、ファッション業界と異なる目線がある。
*-1…私のメモ帳ブログにおいて、文化研究の脈絡の記事は学問的見地で存在していなかった。「文化相対主義 cultural relativism」は、文化研究もとい文化人類学 (cultural anthropology) で重要な概念または規範となっている。参考までに、その簡単な説明をする。新年と文化相対主義:日本の新年(Japanese New Year おせち料理・年賀状・天皇新年一般参賀・寺社への参拝を含む)は旧暦の行事を新暦(グレゴリオ暦 Gregorian calendar)で用いるので、「アジア各地の旧暦による新年–正月–春節 (Lunar New Year, Lunisolar New Year)」と「春分によるイラン系文化の新年–ノウルーズ–ネウロズ (Nowruz, Newroz)」と「ユダヤ新年祭–ローシュ・ハッシャーナー (Rosh Hashanah, Jewish New Year, おせちのような縁起物を食べる)」に比べて折衷的である。日本とその他とで、相互の優劣を求めて吹聴することは学問的に推奨されない。何かしらの前提で、何かしらの度合いを見出すことは比較 (comparison) の方法で可能である。一方が他方よりも保守的または革新的に見える、という判断をしつつ、更に原因–背景–環境などを探るように知的好奇心での学者の研究がある。結論に「文化ごとの差異は結果論。多様性 diversity です」と言っても個人の意見として構わないが、結論ありきの研究は好まれない。自然科学から宇宙や生命の「不思議」を無くするように、文化の「不思議」を無くするならば、異文化や他者の意思に対する尊重も可能性が広がるかもしれない。現代文明の「理想」の一つに当たる。しかし、我が身の危機になる天災や人災を完璧に予防できることは考えられない。そうした時、悪魔を退治する宗教の力も、人間が選択肢として欠かすことはできない。
*21…すでに見てきた通り、日本と欧米は日本人にとって対比しやすい例である。1970年代以降に毛沢東主義を半ば放棄した中国は、日本と似て非なる地域特性を持つ。他のアジア東部(韓国・台湾・香港・シンガポール・モンゴル・フィリピン・タイ・ベトナム・インドネシア)とソ連崩壊以前からのロシアは、それぞれと似た部分を併せ持つ。これらが1980年代以降で日本発祥のサブカルチャーがローカライズされる。同様に、日本でも欧米のパンク・ロック punk rock やヘヴィメタル heavy metal のファン文化の受容と定着とがあるようなローカライズがある。ローカライズされると、本土(発祥の地域または伝来元 e.g. 日本仏教でいうインドと中国)に無い用語・概念が発生する場合 (e.g. 日本におけるHR/HMという呼称 *-1) や、すぐに廃れた用語・概念が長く定着する場合もあるが、ここでの考察対象でない。ナショナリズムやマイノリティの強い国家・地域では、日本発祥のサブカルチャーが定着しづらい。確かに少数民族やかつての被支配者であれば彼らの伝統の保持や士気の維持で精一杯の場合もあり、僅かな余裕のある人や知識人らしい人のみが外来の文化について学んで僅かに取り込むほうがよかったりする。少数民族(特に部族 tribes. 現代の国家の方針に従って伝統が変えられる程度が異なる)の伝統に、文明的な民主主義や自由–リベラルのメソッドを組み込むことは忌避されやすい。
*-1…日本ではヘヴィメタル(ヘビメタ)の普及の経緯に、ハードロック hard rock との同一視や同等に扱うことでの便利さがあったかもしれない。欧米の音楽シーンでハードロックは一時期の特徴について言われやすく、サブカルチャーの要素を強く持つものをヘヴィメタルとのみ呼ぶ。パンク・ロックを加えて考え、彼ら音楽ファンやバンドはファッション性が似る。ステレオタイプとしてレザージャケット leather jacket (革ジャン) をまとうという。00年代以降は黒いTシャツ black T-shirt/T-shirts の着用に移行した。Svartbyというロシアのバンドのメンバーは2015年に日本人から受けたインタビューで「私の要約:ロシアのメタルは多様だが、音楽だけの話。日本のライブを3つ見て驚いたことは、日本のバンドの多くがステージ用の衣装を用意すること。ロシアやヨーロッパでは街で着るのと同じ衣装にする者が大半であり、黒Tとジーンズ以外の舞台衣装は、ゲイ"gay"と思われている」と答えている(SIN23OU 2015年6月28日 http://sin23ou.heavy.jp/?p=4952 うちQ8。元のインタビューは英語で質問と回答がされた様子。日本語訳つき)。本文と関係なさそうな話だが、結局はローカライズの土地の既存または主流の文化による本土との差異が出ると分かるし、本土であっても動的な面がはっきりとしている。将来はともかく、今までに任意のサブカルチャーはスタイル面 style での変化が重ねられたろう。記録がある場合は記録のある限り、保守的・復古主義的な部分もある。メタルなどでそれは「オールドスクール old school」と呼ばれる。
*22…私はよく仏教の「衆生の病を治す仏法」の譬えを想像する。①パーリ語経典の皮膚病(らい病 kuṭṭhī)の男の治療の譬え–たとえ話(中部75経"Māgaṇḍiya Sutta")、②法華経の随所にある薬の比喩表現、③大智度論の対治悉檀(日記メモ2017-06-28, 本家記事2019-02-17でも言及)における異なる味の薬草の比喩表現など。ただし、各々の教説は対症療法としての薬(①・③)や究極的な薬(②のうちの複数。大正蔵9巻43頁a段「是好良薬・今留在此」は代表的な説)など、役割が異なる薬=教理や修行法が例示される点に注意されたい。変毒為薬という考え方もあり、三毒の心(精神的機能)がそのまま薬=信仰になることなど、仏教の「薬・薬師」観は多様である。思えば、対治悉檀の説で仏道修行の種目を対症療法の薬に例えていた大智度論も、巻第百(最後の巻)では「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」(大正蔵25巻754頁b段より訓読)という変毒為薬の案の提示があるばかりか、究極的な薬の意味も兼ねている。
*23…漢字「自」の形式的用法の一つに再帰マーカー reflexive marker (理解によって再帰接頭辞reflexive prefix とも) がある。この時の「自」は、いわゆる助字である。「自ら変える to change oneself」とは、その訓読で副詞として他動詞「変える to change (transitive)」に掛けている。他動詞の行為の客体を行為主体自身に反射–リフレクトする reflect のでリフレクシブ・マーカーである。再帰動詞 (reflexive verb) とも言え、現代人に分かりやすく言えば「自分で自分を変える」こと。「自分から=積極的に aggressively 変える…何を?→他者を」という意味での解釈は現代的であり、ここでの意味でない。それならば中間的に「自ら"を"変える」として「自ら」は再帰代名詞 (reflexive pronoun) にでもすればよいと言われそうである。なお、自動詞での「変わる to change (intransitive)」は修辞的にニュアンスの差異がある。目的や意識的な方向を伴って「自ら変える」ということである。何にせよ、男女のラベルは自ら付けず、あえて付けるにも対外的な「仮名–宣言」であり、「各々が自覚する当面の目標のための努力(いわゆる自己実現 self-actualization または自己満足)」をしてゆけばよいという話である。私に対する可能なラベリングは、2019-07-15記事にも2018-01-21記事から引用して説明される通り、とても多い。



「仏教の話」

2017-01-DD原稿, 2017-08-18記事『観萌行広要の原稿 + 動画中の説明挿入』
URL: http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html
紹介: ジェンダーに関連する話は「④上 #v4a」などを参照。萌えキャラ (a moe-character) に対する男女の識別 (identification) は予断を許さないという話がある。万物の真理の側面を象徴すると定義された「萌えキャラ」に関するいかなる議論も通じない(「言語道断」の原意。中国以来の仏教の表現で「言語道断・心行処滅」と言われる比較には中論18:7偈「心行言語断」がある)。それは「觀萌私記」の萌えの3つの定義(三萌義)を知っている観萌(いわゆる瞑想)の修行者のために説かれたものであり、社会的な意味を基本的に持たない。

「④上(動画版 5:03 に肉声での発言あり)」より抜粋:
萌相・萌え絵を観るにあたっては、何らかのキャラクター(人格・観念偶像・象徴)の存在を想定することになる。
ここでは他人の作ったキャラでも各自のオリジナルキャラでも、私・横野真史のキャラでもよいので、「萌えキャラ(漢語の場合は人形萌類)」と名付けて説明を始める。
萌えキャラについて観想して心に留めようとすると、萌えキャラに自我があって感情を持っているように捉えられ、萌えキャラを観想している自分に対する好き嫌いの感情があるかのように感じられることもあろう。
萌相條の現代語の注釈文(及び萌相條勘注)に「萌え絵から『覗き込むな!キ○イ!』とは思われないから安心してね」と綴ったが、そのように後ろめたく感じてしまう人もいるであろう。
[...]
萌えキャラのみならず、万物は空・因縁所生であって慈悲応現であり、即ち平等の存在であるという法理に基づくならば、ついには愛憎の二情を超越できよう。
本来、萌えキャラ自体は愛憎の心も平等の心も無いわけ(無記・中道・真如・寂滅)だが、我が萌心の眼(まなこ)で捉えた時、高尚な精神を有した認識的存在に昇華される。
萌え絵の魂魄・エッセンスとは萌心であり、我々が吹き込むものである。
それでは、萌心ではない心で萌えキャラを観るならば、どうであろうか?
女性的な外見であるから、ただの女か?またはメスブタか?
そういった修羅・畜生の心で畜生認定をし、「つまらない存在」か「性的対象」に見てしまう可能性もある。
[...]
萌えにも多種あって、有形の実在(有相)と無形の想念と精神作用(無相)や、有形であれば可愛の相と雑草という様々な種類のものはあるが、それらも悉く二而不二の中道を示現している。
無論、「萌えが中道を示現している」とは能動的表現であり、こう表現することも悟りの立場で「仮名」したにすぎないから、真実・実際には萌えが中道を示現しておらず、示現していないことも無い中道である。
事物に感じる偏向性も、それらを包括して中道だとする悟りも、みな「人間の感情・思考・価値判断」の結果であるから、もともと「人間の感情・思考・価値判断」は有って無く、有ることも無いことも無いと観て更に中道を知る。
このように、中道は説明しても説明しきれない「不可説・言語道断」であり、求めても求めきれない「不可得・心行処滅」と表現される、「不可思議境(摩訶止観・巻第五)」である。



2017-03-04マイナー
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/p/google.html
紹介: 仏教的な存在である「萌え・萌やし」と、龍樹菩薩の中論にある「燃え・燃やし」の譬え(燃可燃)との、相互の等価性が示される。原因と他縁と結果 (causality) が示され、萌えの主体と客体はどこにも存在しない。そして言う:
「燃え」ならぬ「萌え」の一語は、仏教の因果を雄弁に説いている。女性的であり男性的であり、中性的だが中性的でない妙相はありがたい。萌相は善悪・愛憎の心が無い(無記)ので、我々も萌相に男女の相を感じても執着せず、淫欲や嫉妬の心が起こらないようにすべきである。



2017-05-27動画『男性絵師と女性キャラ(?)』
URL: https://www.youtube.com/watch?v=ncbatUTaC8c
紹介: 「萌え絵と男女観」を説明文に綴る。漢文–文言文 (Classical Chinese) で表現して「雖似女相。非女非非女。男相亦爾。是名中道。亦為是不可思議真如。男女・美醜、是可愛相・可憎相也。是故、非可愛・非可憎。萌尊、以方便故、謂可愛相。当推知真理与真如相。」と言い、次に清浄萌土抄とその脚注と萌相三十儀とを引用している。



2017-06-11マイナー
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/p/google.html#stribhava
紹介: 大乗仏教で維摩経が示す「女性・女性性・女性の本質"strībhāva"」の意義と、一般的な仏教における女性の位置づけとが簡潔に示される。

抜粋:
維摩経の第七章の後半で [...] 天女は「私は自分に『女の性質"strībhāva"』を求め続けても知り得ませんでした(膣や子宮や卵巣や男性も持つ女性ホルモンが女性の本質・エッセンスだとは言えないし声や性格なども女性らしさの根源でない)。本質的に女性でない者が男性に変わることはできません。例えば、幻を用いる術者が幻の女人を映し、見る者が幻の女人に対して『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と質問することは正当でしょうか?」と問い返し、舎利弗尊者が「否。幻には実体が無いから転じる対象が無い(もし幻の中での男女の定義はあっても幻の外に同じ定義は通じない)」と答えた。更に天女が「あらゆる物事"sarvadharma"は、幻の性質"māyānirmita-svabhāva"と同じで存在しないのに、どうして尊者は『なぜ自ら女の身を転じないのか?』と問うのでしょうか?」と告げると、神通力を発揮し、舎利弗尊者を天女の姿に変え、天女は自ら舎利弗尊者の姿となった。 [...] 天女は「今の尊者のように、私は女性の姿で現れるだけであり、女性"strī"ではありません。あらゆる女性の人も同じです。仏は『一切諸法(ありとあらゆるもの)は女に非ず・男に非ず"sarvadharmā na strī na puruṣa"』と [...] 「非非男非非女」は維摩経でも活躍した文殊師利菩薩に対して釈尊が発した、文殊師利問経の言葉である。そこでは、何の分別も用いず、任意の客体が存在しないとさえ思わないための「修行智慧波羅蜜」が教えられていた。このような真理の立場では、当然「男女平等(もっと言えば不平等非不平等)」であるが、比丘・比丘尼の戒律差別(八敬法など)があるように、世俗法では男女の差別が存在する。[...]

これに他の紹介もある:
それは「幻"māyā"」そのものの逸話である。髪や声のみならず、体内のあらゆる特徴でヒト属ヒト(Homo sapiens)のメス(female)として定義される形態を得ても、現象世界の「幻"māyā"」に等しい定義であり、真実には存在しないと理解できる。また、天女は神通・智慧を持ち、過去世からの誓願と共に多くの修行を経てきた、と維摩居士が舎利弗尊者に話す"dvānavatibuddhakoṭīparyupāsitā bhadanta śāriputra eṣā devatābhijñājñānavikrīḍitā  praṇidhānasamucchritā kṣāntipratilabdhāvaivartikasamavasaraṇā  praṇidhānavaśena yathecchati tathā tiṣṭhati satvaparipākāya"ので、個人(an individual)の才能や努力の意思に形態として男・女であること(biological sex)は同じカテゴリ下に服属されないという、現代人の目線で固定的な観念へのアンチテーゼと見ることも可能である。[...]



2016/2017-MM起草, 2018-07-21公開『萌えの典籍・萌集記・街の女人篇・説法十箇の事』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html#mjk-mnn-spjk
紹介: 「(四)」は「容器の砂と天秤、概念と二項対立、外は限りなく広いが、外も内もない」と全体が要約される。「(五)」は「女性(ストリーバーヴァ strībhāva)に関する後日談」と全体が要約される。一般的な文学の方面を念頭に置いていると同時に、社会的な意味を基本的に持たない。注釈文は人文科学としての仏教学の側面(上座部経典での反例を示すなど反証的)を兼ねるが、基本的に仏教の信仰に資する目的である。

「(四)」より抜粋:
(街女人へ拾主が説く)あなたが女性の優れた点を挙げても、一辺のことである。同じように一面的な主張を好む人が、それを聞くと反発して女性の劣った点や男性の優れた点を連想することであろう。諸々の優劣論争も、絶対強者や"0% : 100%"は論争の範疇に存在しない。論争の範疇を超えても存在しない。例えば砂漠から砂を2つの容器に取り入れ、天秤を片方へ完全に傾けさせた方の『容器の砂』が、世界のどの砂の集まり(砂漠・海底の沙など)よりも絶対的に多いという道理はない。天秤という基準で計量した結果に軽重の区別があるにすぎない。天秤は人間が作ったろう。『容器の砂』も人間が容器に砂を入れる行為の結果であろう。男女の優劣も、先天性や後天性という科学・社会など人間の価値判断の範疇に語られるものであり、[...]

「(五)」より抜粋:
(街女人へ拾主が説く:)女性とは何か?顔が女性らしいと女性か?しかし、女性らしい顔とは各々が後天的な経験から価値判断するものである。では髪が長いと女性か?しかし、女性同士でも坊主頭・短髪・腰ほどの長髪・直立で地面に着く長髪など多種ある。声の特徴などを対象にしても同様である。なおかつ、それらの話は男性も同様である。では子供を産む者が女性か?しかし、その者が産む瞬間を誰もが見られるわけでないし、初潮の来ない幼女も適齢期を過ぎた老女も、女性は女性であるといわれる。では股間の状態を確認してこそ女性と決定するか?しかし、我々が逐一性器を観る必要はない。腹部の切開かレントゲン写真撮影などで子宮の有無を確認するか?または性ホルモンや染色体を分析するか?そこまでこだわる必要は無かろう。さて、これらの判断基準の『中ぐらい』で女性認定が可能だといえるか?しかし、『中ぐらい』では確定的判断基準とならず、畢竟、主観的判断であるのみだ。このように全ての判断基準を以てしても女性を女性だと証明できないが、女性を女性だと世間では当たり前のように決め、誰も疑わない。男性に対しても同様である。[...]

「(五)」に伴う上座部仏教の経典を例示した注釈文
「根本的な性認識による性差別(sexism)」に関する仏教的な啓蒙である。肉体によっても精神によっても、便宜的な男女たる性質(masculinity, femininity)を見出し得るに過ぎず、本質的にそれは存在しないことになる。反例らしい仏説もある。小乗仏教とも言われる上座部仏教の、パーリ語経典や漢訳阿含経には、釈尊が「男または女とされる心(眼で事物の外形を見る・耳で事物の音声を聴くなど認識を前提とする)のありかた」を前提に、その心が反対の性質にある事物(男に対する女、女に対する男)に執着することは「他に無いほど最も強い執着だ"増支部の一集1-10経: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ.  増一阿含経の男女経: 所謂男子見女色、便起想著…(rūpa = 色の部分はそれぞれ声香味触といった五塵に置き換わる。男と女の語も入れ替わる)"」という理解を説いている。額面通りに・直感的に「男・女」として読解できるその教説は、どうしても「男・女という仮定表現」を用いてあらゆる事物の存在と心による認識・執着を説いたものであるように、私は読解したくなる。こういった関係性に関する参考の説には雑阿含経・パーリ相応部「黒牛・白牛" (黒い牛・白い牛)"」の譬喩があり、黒牛は白牛を繋ぐ主体でなく・白牛は黒牛を繋ぐ主体でなく、両者を繋ぎ合わせた縄・紐(軛・鞅)が両者を繋ぎ合わせる主体であること=十二因縁でいう「触・受」が「愛(taṇhā これは貪"rāga"の異名だが先述の執着に置き換えてもよい)」の主体であることを説く。






起草日: 20191224 (一部は3週間前?)

"The man with long hair - gender studies (on religion and sociolinguistics)"という、計画段階にある動画の説明文の案から派生して当記事を作成する、経緯があった。
当初の題は"The man with long hair and his gender studies (religion and sociolinguistics)"である。
当記事では、2016年以降の私の:絵とジェンダー研究に相当する文章の例示がされた。

YouTube動画の説明文(字数制限は空白–改行ありで5,000 letters, バイト数 bytes は不問)として1月1日ころから1月5日までに、一部の記述の英語の訳を作った。
当記事が作成される本来の意図は「日本人である横野真史が描く絵–イラストについてのジェンダーに関連する説明」であるため、導入のみ翻訳して序盤に置いた。
残りは、英語圏の人が深入りするのにためらいが生じやすいであろう仏教学の、私による説明がしたかったので、そのあたりが重点的にされる。
私の絵の行為と並行した時間が長い行為の一つが、仏教の研鑽であった。

動画は未完成だが、1月7日0時の版を載せる:
A comment of My Moe-illustration Works:
In the creative scenes in Japan, characters of the appearance of cute girls (bishoujo, beautiful maiden) that Japanese people (and fans from around the world) think are preferred, and many of them tend to be the subject. Real people (to be male or female is regardless) have such a preconceived notion of a girl's appearance, and often yearn for them. Real women with some sort of beauty-sense, or with a strong complex of beauty/ugliness may not like them. Or those women might be forced to go along with them. I do not feel the need to recognize the characters "feminine", but I sometimes call so the appearance that is perceived as women by common subjectivity. Apart from the definition of gender, there are my favorite subjects and styles of art. It is more intuitive to use the typical gender distinction in explaining to others. As in the Buddhist doctrine described later, this is only an opportunistic/temporary distinction, and does not mean to say that it is essentially so.

Overseas fandoms follow the creative scenes in Japan, call otoko-no-ko (男の娘, Japanese slang used to refer to persons of male biological gender who have taken on the appearance of the female gender) their slang "trap". The "trap" may be a sexist term comes from the perception of appearance that women are women. What I am interested in December 2019 is that any subculture tends to use discriminatory slang or jargon. The modern derivation of the word "gay" (too many definitions) is a good example. I leave this topic to another article.

Sanskrit word "strībhāva" means female nature/essence or femininity. The word is founded in Mahayana Buddhism Sutra Vimalakīrtinirdeśa, an example of Chinese translation is 維摩詰所說經 by Kumārajīva (CE 406 弘始八年). In an English translation, the word is "female state" by Robert Thurman. In chapter "devatāparivarta" (觀眾生品) of the Sutra, the character "devatā" (天女, goddess, divine/celestial woman) appears, performs a number of miracles, demonstrates wisdom, and declares that all things do not really exist. Meanwhile, Śāriputra (舍利弗) the wisest man among the Buddha's disciples asked her "What prevents you from transforming yourself out of your female state?". Using the metaphor of "magical incarnation", she said that her own female state did not exist, transformed him into her body with her magical power (神通力), and her into his body. Also she said "In all things, there is neither male nor female" (sarvadharmā na strī na puruṣa 一切諸法非男非女) as the Buddha preached. Compare with "非非男非非女" from 文殊師利問經 (the Buddha preaches so to Bodhisattva Mañjuśrī 文殊師利菩薩, who was active in the same chapter of the Sutra).

Reference shown in the video: Vimalakīrtinirdeśa-sūtra in Bibliotheca Polyglotta
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&vid=37&view=fulltext#7339668

In a story in Moe-religion literature (Moe-scripture), the lord (拾主) told the town woman (街女人) about "strībhāva".
↑保留の段落

There is a comment exemplifying a Theravada Buddhism Sutta:
This is a Buddhist enlightenment (*originally 啓蒙 keimō, in the western sense) on "sex discrimination based on fundamental gender recognition". We only temporarily feel masculinity and femininity, both by body and by mind, essentially they do not exist. Some doctrines are counterexample. See Theravada Pāḷi (Pali) Sutta "Aṅguttaranikāya 1.1–10 Rūpādivagga" and traditional Chinese Sutra "Ekottarāgama 9.7 男女經". Shakyamuni Buddha preaches the strongest attachment to anything else. That is, on the assumption of "a mind of man or woman (has perceptions such as seeing the appearance of an object with eyes / listening to the sound of an object with ears)", the mind is attached to objects of the opposite nature (woman for man, man for woman). "AN 1.1: Nāhaṃ, bhikkhave, aññaṃ ekarūpampi samanupassāmi yaṃ evaṃ purisassa cittaṃ pariyādāya tiṭṭhati yathayidaṃ, bhikkhave, itthirūpaṃ. EA 9.7: 所謂男子見女色、便起想著... (*rūpa/色 = visual form will be replaced to five objects such as sound, odor, flavor and touch four times later. The words of man and woman change places.)" The doctrine contains expressions that can be literally/intuitively read as "man and woman". I would like to read the doctrine as if the mental perceptions and attachments to the existence of all objects/things was preached using the "assumed expression of man and woman". [...]

Reference shown in the video: Aṅguttaranikāya, Ekakanipāta, Cittapariyādāna Vagga
https://suttacentral.net/an1.1-10



2013年(16歳)にはヘヴィメタルのサブカルチャーに見られるジェンダー観–セクシュアリティ(セクシャリティ)を私が口で模倣する音声が公開されている(静止画のYouTube動画)。
題名『メタルは男の音楽ジャンル!女はアイドルでもやってろ!』
https://www.youtube.com/watch?v=DI_kqmfpwSQ

ヘヴィメタルの人々の中でもステレオタイプに近いジェンダー観で2013年当時の日本の大衆文化を見る、という前提が「アイドル (aidoru, idol group)」という語句で表出する。
「アイドル」は指示対象が男女を問わない言葉であっても、そこでは、その男性の立場に対置するために女性に特徴づけた。
当時にヘヴィメタルに関して主張したかったことはジェンダー観そのものでなく、商業的コンセプトと結果的な人気に関する疑問であった。
生物学的な特徴で「性=性別 (confusion with sex and gender?)」を隔てると、人間の可能性は性別によって完全に制約されることになる。
「女性であることからの人気(と当時のYouTubeのメタル界隈で観測される現象を私が見たこと)」を逆手に取って皮肉にしたかった。
「男性が3人以上いるバンドに女性が1人だけいることは奇妙だ(傾向としてベース bass, ボーカル vocal, キーボード keyboard)。女性の存在を理由にそのバンドを好むならば、女性が女性だけで構成するアイドル・グループに属することで本能的な性別による役割 (gender roles, ただしそういう語彙は当時に無い) の実現される。それが正当かつ正統ではないか?女性自身の意思と別に、商業音楽は尚更」と。
この話の前提には、Black Sabbath (最初期), Metallica, Slayer (スラッシュメタル), Cannibal Corpse (デスメタル) のような各メタル(70–80年代)の古層バンドと同時期の典型的なバンドの9割以上が全員男性(と見られるか自称する人物)による構成であったという観念がある。

このような見解は、私による他の活動に関連しないが、過去の問題意識として例示する。

しばしば世界中で人気のあるK-popはセクシスト (e.g. boy band の Bigbang, BTS, Exo. girl group の Kara, Twice, Blackpink) と槍玉に挙げられるが、K-pop人気についても、世界の大衆が今なお"boys and girls"(boys or girls) を好んでいることの反映かもしれない。
彼らへの非難は、露骨な差別行為を対象としない限り、当たらないと思う。
アリアナ・グランデ Ariana Grande がポピュラー音楽を含む「芸術作品」のセクシュアリティ(本文注釈*2参照)に関して同様の趣旨を発言していたろう。
大衆については、変えるよりも、相互関係の微細な摩擦によって変わることの方が望ましいようであるから、「自覚のある個人が自ら変える (changing oneself, themselves) 」と本文でも記している。
ジェンダーに関するノンバイナリーの表明が、欧米の芸能で見られつつある。
当ブログでエスペラントからノンバイナリー3人称代名詞を説明した1週間以内に、Sam Smithという歌手がノンバイナリー3人称代名詞としての"they"(singular they) を用いることを表明したと報道があった(同年にはその後も辞書のMerriam-Websterが"they"をそう定義するとか"Word of the Year"に選んだとかと報道される)。



前の段落が書かれる前から、以下の文章がある。

政治的な公平さや正当性 (political correctness) というものは大衆文化に率先して取り込まれる道理が無い。
その時代・その地域の保守性が自然に表現される。
その点で、日本発祥でも欧米発祥でも韓流でも大衆文化は文化的範疇で前衛的なものがあっても、革新的/進歩的でない。
理性的な人物がいる/科学的な知識が用いられるようなフィクション作品も、社会の哲学的実践の範疇で理性的/科学的でない。
平たく言えば、一部の人には「愚昧なもの」として見える。
任意の文化を好む一方が他方の文化を疎ましく思うということは多くある。
私はほとんど「クリエイター creator」や「クライアント–カスタマー client, customer」として商業的領域で関与しない。
しかし、良いと思う部分で愛好したり、実践することは個人の意思の範疇で行われてよいし、私自身もその行為で楽しんでいる。
いつも私は自身の性質について中庸・中道である、と思っている。

絵と音楽の実践を私が中学生のころから重ねながらも (cf. 2014-08-18)、日本のアニメ系コンテンツや音楽産業に資するものは何もない (cf. 公式2014-09-04)。
私による任意の活動について、分野に関連する他人の誰もが、私の存在を望んでいないであろう。
プロ–プロフェッショナルはもちろん、アマ–アマチュア–インディーズ–同人も、みなそうであろう。
学校生活しかり、無宗教非無宗教信仰生活しかり。
※私は横野真史以外にもいくつかのコミュニティの別名義活動を持っている。私が3年以上の安定的な活動を示しても他者は私を無視したという例が2つある。反対の側面もあるにはあるが、すぐにサイトを去る人が多くいたし、それ以外から私は親しい扱いを比較的に得づらい。そういう場合、リアル衣食住は最低限適っている現代的生活の下で、声を掛けられない限り、同人などで「合同企画」とかに参加する意味が無い。キャリアを求めているわけでない。同人誌でもアルバムCDでも、業者に委託で製作して、即売会に出すとか、ダウンロード販売をするとか、それで金銭を得る活動をする必要が無い。サブカルチャーの共同体・協会 (association, a definition of "society") にさえ疎遠である。金儲けにも凶悪犯罪にも意欲・発想は無い。しかし、母親のTV音声やインターネットから世間の毒を多く見せられるので、騒音を発生する身近な人間を殴る/作品を換金するなどの貪欲・瞋恚が少なからず生じる。というか、科学的に物事の善悪が無い上で、様々な可能性を模索する「視野の広い人」が私であり、当分の目的を外れる余分な行動は抑制する repress/suppress しかない。

色々な人は色々な境界に位置するものだが、私ほど多くの境界に位置して両足のそれぞれが対称的な領域(垂直方向の下方に円形の異なる分野が多く重なると仮定)の真ん中に乗っているという者はいないと思う。
性別・宗教・言語・イデオロギーなど文化的/社会的な事項も同様である。
何となれば、これらを含む一切は真に平等な世界には存在しないからである。
慈しみと悲しみと愛おしさを持たないと、この愚昧な場所に平穏な精神状態ではいられなくなる。
慈しみと悲しみと愛おしさを持つことが難しい私はあまり平穏でない。



他の補足・・・当記事の投稿時点で、内容物の日付表記にはYYYY-MM-DDのハイフン表記 (hyphenation, input with hyphen) を用いている。これを「1. はっきりとした日付および時刻 YYYY-MM-DD hh:mm:ss.nnnの確定があること。 2. 技術的に記号の利用が制約されること」が前提であるときの表記として、日常言語に関わる範疇では別表記:ハイフンをスラッシュ (slash) に変え、01にあるような0を省くものにしようと思った。なぜならば期間範囲 (duration, time intervals) の指定のために:ハイフンは用いられないし、エヌダッシュ (en dash, –)はハイフンとの識別に困難がある(視認性が低い)からである。そこでこの表記の規格「ISO 8601」を見直すと、そのためにスラッシュを用いればよいとのことであった。今後はそれで個々の要素の範囲を示そうと思う (i.e. 2016年9月未明から2017年1月未明は2016-09/2017-01-DD. 2017年1月未明までの4ヶ月を示す時はP4M/2017-01-DD.)。

2019年12月7日土曜日

民間療法・対症療法としての舞踊・武術の開発のための筋道

表題に言う「筋道」は:
① 問題点を露出させる、
② 解剖学ないしスポーツ科学のような知識で詳細に分析する、
③ ②の手段を兼ねて具体的に舞踊・武術を考案する、
④ エビデンスを得る、
概要・抽出 (abstract) としてこのように考えられる。

「開発 development」では、②~④が無制限の繰り返しになると思う。
定義の起点がどこか曖昧になりそう(循環論法になりそう)だが、あくまでも「舞踊・武術」と私が想定する運動の行為が開発結果である。
科学的な方法論 (scientific method) に則る場合、形式的にこれが妥当であるが、もちろん、形式的な範疇である。

もっとも、ここでは最初に目的や目標を明確に定め、その世俗的な実用性を制約している点で科学史にある偶然性の側面と対をなす位置にある。
何らかの物質や現象の発見について、それはそう実証される限り、相互の善悪や差別は無い。
発明 invention という点でも、ここで限定的な実利を定義していることから、未知の可能性は切除されていて、過去の「偉大な発明・発明品および発明家 inventor」として称えられる事績・事物および人物に及ぶことは有り得ない。



次は、具体例である。

2019年10月22日に、私の生活における身体的な問題点や衰弱・老化現象に関する思考の中で、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種がある。
①と②を含むように、2018年から続く右足小指の問題と、デスクワークなどで使われづらい筋肉がある問題などを、問題視した。
③のように、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種は:
・股から足首までの脚を開き、上半身はそのうちの一方に向き、その状態での後ろにあるつま先が直角の方を向いているように、立つ(何かしらの有酸素運動というかエアロビクスやエクササイズやダンスなどで基本的な姿勢の一種だが名称不明)。
・両脚の小指に、普段よりもバランスの重点を置いて/力を加えて立つようにする。
・腰を動かしながら手の指先をビロビロと動かす。
という動作が反復されるものである。

④のためであってもなくても自分で試す場合に、短時間でやりすぎないように注意しておきたい。
どれほどの期間に1度行い、1度にどれほどの回数で行うかを研究する過程などは、③と④の相互作用になろう。
1度とは一定の時間のまとまりを表現したものである。
動作は光や音のような波 (wave) ・振動 (oscillation) という周期的なものとして考えるとき、秒間の反復の回数=周波数 (frequency) がいくらかということも数量化することができる。
回数の基準は、その周波数のように + 側のピーク peak から - 側のピークを介してもう一度 + 側のピークに戻ることで1回とする。 
この動作の場合、1秒あたり2回=2/s (秒間2回)が速い部類になる。
もし1秒以上に及ぶ動作の場合は10秒あたりn回=n/Ds (デカ秒間n回) で数量化する。
回数または速度として 2/s (2 Hzとも) でこの動作をする場合、私については10分ほど続けると身体的な害に達すると見込まれる。

参考:最も大きい振れ幅の動作は4秒に1度の反復をしているアニメーション。その間、もっと小さい振れ幅の動作が速く反復する。ここで「大きいものは腰の動き、小さいものは手の指の動き」として当てはめて考える。 from Wikimedia commons (CC0, PD)


固定的な運動または舞踊・武術のワザとするにしても、これはやはり問題点に相対する限りで有効であることが立証されればよいものであり、何か崇高な体術とすることにはならない。
流派の開創を意図するものでもない。
目的に対応した手段、対症療法ということが、表題に書かれるような前提にある。

個々人の自覚的な問題点のための、自発的な解決方法として、筋道①~④が理解されればよい。



考え直すと、仏道修行の基本的な姿勢(e.g. 過去記事に幾度も示されるカーラーマ経の要旨『パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。』や大智度論の四悉檀など)に近いようである。
哲学だと、道具主義とも実用主義とも言われるプラグマティズム (pragmatism, 個々の哲学者でいう誰の思想に近いかは詳しくないので不明) のようでもある。
これは科学的な方法論である以上に、合理的に冷めた印象のある技術開発の理念 (philosophyの一義) を説いたものと思うべきか。


当記事の「舞踊・武術」の実演動画 (2019年11月8日撮影) https://youtu.be/kueKZEj-HJ0



総論と注意点
固定的な運動または舞踊・武術のワザとして開発が完了されても、問題点に対する意識を失わないことが人間的である。
「任意の現象が問題点である」としての自覚と治療と予防も、人間の一心から願われて保持されるものである(自覚・反省・努力に同じ)。
その心があるときに、生活習慣の見直しなどが伴うはずである。
私が「ひきこもり」である立場では、当記事が「ひきこもり科学(引きこもり科学)」の技術開発部門を示していると考える。

④の方法は、私に協力者がいないし協力を募ることもしないので、自分で行い続ける限りの方法のみがあることになる。
一般的な技術開発では複数の被験者・サンプルが必要になる。

ところで、それで単独でも複数人でも、「偽薬、プラセボ、プラシーボ効果 (placebo, placebo effect)」ということは一つの注意点になることも忘れてはならない。
「何かをし続けること」が、幾らか自尊心のある人にとって「自分が行うこと=自分が信じること」というそれ自体の目的性と帰属意識に繋がり、その尊さが形成されるならば、その分に良い効果がありうるものである。
場合によっては、実際の効果を問わずに認知バイアス (cognitive bias) を起こす場合もある。
④については、可能な限りに実験的な調査をすべきであるとしても、調査の経緯や調査結果に対して非常に慎重である必要がある。

仮に④で、①の問題解決という期待された結果・エビデンスを得たとしても、その舞踊・武術のワザが原因の性質を持っていることの証明はされない。
科学的思考には、反証も付きまとう。
任意の運動行為は、先述の通り、やりすぎると悪影響・副作用(adverse effect 先述:身体的な害)がありうる。
野球のピッチャーによる投球の多さと肘・肩の損傷の関係(投球数制限が少年野球と高校野球の脈絡で挙げられる)が著名の例として知られ、現代の人権的な観点で「やりすぎないように」すること(関係ないが類例には熱中症の危惧がある炎天下での練習や後遺症の危険を伴う運動会の組体操の大技などもある)は日本国内で進められている。
これは単に、社会的な話(議論が多いために一般人が議論に貢献できないもの)の例示である。
運動による治療法の良し悪しを確定させる際には、その条件や反対の要因の排除が明示されている必要がある。






起草日: 20191022

私に「舞踊(alt. 舞踏)・武術(martial arts, alt. 武芸・武闘・武道 ※道については思想上の意味が付加されやすい)」が関係する要素は、2012年以降、動画投稿活動の一環で出現している。
一人物からの影響であるが、一般的に舞踊・武術が動画の見栄えとしてはよくなりうるので、しばしば動画の題材にしていた。
表向きの投稿において:
2012年の投稿例に『いじめてくる不良を明日から撃退できる武術』(本家チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=H8NrYe1PEZg
最後である2017年の投稿に『長髪のお兄さんが半裸で動きまくる (資料映像3)』(日記チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=d39t9EoTMsc


これら投稿物における演出は、記事末尾である場所における個人的な身辺の事情の説明なので、記事本文の論旨と関係ないことが明白である。

2019年11月22日金曜日

母が私に買い与える物の一部について

まず母親に2019年5月26日と2019年9月12日の写真の添付とその簡単な写真の説明を書いたメールを送信する。
次に以下のような(=ネットでの公開と別に修正を加える)長文のメールを送る。

以下、メールの文章の案である。

基本的に母へ物の要望をしない私であるが、過度な場合について問題性を指摘することはある。
「私の我慢の限界の程度」は、時期によって異なるが、2013年から、私がそのようにしている。
2013年6月には2015年時点の未使用品があるという基準で計算して1度で1万円以上の無駄遣いが行われた。
タンスの肥やし(箪笥の肥やし)が蓄積する一方である。

2013年10月19日に当時16歳の私は以下のメールを母親に送った。
抜粋する:(全文は本家2013-10-22記事に載る)
今年6月頃に俺に買い与えた服も、正に夏に着るために買ってきたようなものの上、酷いセンスのデザインだから夏にすら着る気も起きない。
お前の持ってる服はそんなにおかしな服でもないのに、俺には小学生が着るようなものばかり与えるから呆れてるし、俺をダサイ見た目にして笑いの対象にでも仕立てあげる気なのかと疑うほどだ。

前回の衝撃的な一件のその日の内に試算したが、使わない大量の安物に計一万円以上も使っていたと発覚した。
「安物買いの銭失い」という言葉を知っているだろ。
着ずに虫が湧くのが落ちではないか、虫が湧けば家の問題になる。
たとえ量こそ少なかれど、俺が気に入ったものを数点に一万円を使うほうが遥かに有意義だ。

とりあえず、お前のセンスは信用できないから、ネットで一通り買い揃えられるほどの金を用意してもらい、その金で服を購入する。
(中略)
俺がまだイオンに行けた今年6月に俺に相談して金を渡して購入させれば希望はあったのに、お前は勝手に何も言わずにゴミだけ買ってしまった。
ここまで来たらネットで購入するしか術はない。
実際に、去年9月はどうにか一人でイオンに行け、服を買えたのだが。(以前も話した)

こういう文章を書いていると本当に気分が悪いし、善人の俺がまるで悪人に思えてくる。
生活必需品の購入にあてる資金くらいスッと出してくれないと、以前少ししか出資してくれなかった、だから去年9月はユニクロで2点しか購入できなかった。
(中略)
わかったら、これからは簡単な要求くらい素直に飲み込め。俺の気を悪くしないうちに。

以上は2013年10月19日のメールからの抜粋である。
これに対する母親の返信は「あなたが外出しないことが私の困ることにはならない」というメッセージを含めたものであったと記憶するが、母親からの返信については記録を失っている。



当時に持っていた知識とその行動における反映は、後年の記録からうかがうことも可能である。



※2015年7月12日※
押し入れ下段にはタンス(チェスト)があり、その最上段には小5(小6?)の時から所持している部屋着・寝巻き用の上下セットが収納される。購入時の身長・体重には長袖として適正なサイズであり、"150cm"と思いきや、"M"と書いてあるのみ。バスト79~87cmという表示があるが、何にせよ今でもさほど窮屈な感じはなく着られ、これを着て撮った写真は中3・当地の自室にて全身を写したものと、2012年6月28日に撮った2枚の計3点しかない。

これを着るに問題あらば、時期的な経緯も含めて母親に次回木曜日の買い物で新しい夏物の部屋着を買うように頼む必要が出てくる。高学年から20歳まで同じ服を着続ける人は、なかなか見つからないと思う。それはともかく、他にも買う際に数点添える事項があるだろう。

一に長袖であること。既に「私の相談なく母親の独断で買われた」半袖の衣類がいくつもあり、タンスの肥やしとなっていて、仮に母親や下の弟に渡そうとも、各々が別々の意味で着られる代物ではないが、前者ならせめて「私(母)が着たくないものは○○(息子の私)も着ないだろう」という気持ちから、独断で買うにもしっかり品定めをしてもらいたい。

二に繊維は化学繊維、中でもポリエステルが好ましいこと。部屋で着る際に着やすさ・着心地だとか機動性であるとかは肝要であり、前がボタンで開閉されない服は綿の場合、新品は腕を通しづらいことが多く、このスウェットも最初そうだった。ポリエステルは他にも丈夫・万能であって、件の部屋着もポリエステルが主体で織られる。綿などはファッション、だけど7月10日の日記メモに触れたお気に入りの黒いシャツも、綿とポリエステルが半々なんだよね。三にカラーであるとか、その他の指定。

結局、私が小5から今まで捨てずに留めているこの部屋着自体が長袖であり、長袖を求める気持ちは今でも変わらない。中3となった下の弟が今でも上半身裸で過ごすこととは気持ちが異質なのに、その心を知り難い母親には、言葉で言うしかないが、それでも伝わらないことが多い。メールでの要望は、もちろん当メモのような長文でなく、要点のみの簡潔なものとするが、寧ろこの方が平易で要旨のみは堅実に伝わろう。

最後に、今着ているスウェットと合わせて一点書くが、やはり夏場には件のポリエステル的なものが合うだろう。通気性は言うまでもない。冬物のスウェットを常時着続けて、綿の生地を汗や湿気でくたくたにして、いざ再び冬を迎えるとき、衣が薄くては過ごし難いではないか。よって、夏には夏に合わせた衣類を調える必要性がある。

注釈: この2015年7月12日の記述ではポリエステルを高評価するが、あくまでもそのような織られ方である場合に限られる。2019年8月22日に母が私に渡した「上(トップス)1点ポリエステル100%の半袖ポロシャツ」は手触りザラザラ+胴体の表皮にチクチク感+静電気で夏の部屋着に適していない。他の肌着併用で外出に適するかも不明である。いずれにせよ、私自身で着る物を選ぶ方が家計にも地球環境にも好ましい。




※2019年5月26日※
16時台、「2013年6月に母親が勝手に私へ買い与えた衣類・カバン類のうちの一つである手提げ・トートバッグ風のカバン・鞄」は、合成皮革素材の部分が風化していた。いわゆるポリウレタンの加水分解の類である。未だに外での使用を経験しないこのカバンは、このような状態となっており、母親が無駄な投資ばかりをする傾向に、改めて呆れる。中学生のころから「目的性による物の良し悪し」の分別ができている、精神的・知能的に自立した子供との相性が悪い、母親である。



※2019年8月22日に母が夏の衣類として私に渡した靴下3点・上下短い服1点ずつについての補足事項※
上(トップス)1点はポリエステル100%の半袖ポロシャツであり、ザラザラ感がすさまじく・肌着として着た際の胴体の表皮にチクチク感がある(私は外出しないのだから部屋着として実用性が確保されるべき。用いる当人の目的をわきまえないで母親は買い与える)上に、残暑の9月11日(湿度は少なくとも低くないと思う)に試しに着た際には静電気のバチバチとした音を聴いた。靴下3点は1色の地に2色のドット(水玉模様)が伴う柄物である。柄物の一部は、履く際に指に引っかかるか、耐久性の欠陥を伴うなどで、実用性に欠ける。8月・9月10日以前に一度試しに履いて問題があった。9月12日には水玉の位置に対応した皮膚への陥没が確認できた。母親は、自分が着ない素材・デザインの衣服を息子に与えたがる。2012年から問題視していて、まともな言葉を理解できない人に対しては「黒一色のものを買えばいい」とだけ言うしかない。母親は長い説明に理解を示さないか、空虚な返事だけで守ろうとしないからである。それでさえも比較的長い時間の経過で、破られる。もし2012年から、私が「外出して適宜に自分で衣服を選んで購入する」という話を母親承諾していれば、ポリウレタン部品多き未使用バッグの加水分解現象などで無駄な出費が発生することもない。引きこもり傾向にあった私の外出頻度も多少は高くなったろうが、その旨を私が2013年にメールで主張すると、母親は「あなたが外出しないことが私の困ることにはならない」などと、精神的に親とは思えない最低な反発・非難をしていた。




2019年9月12日12時59分に上掲の写真を撮った。
これは、水玉、ドット柄のステッチ stitch, stitches のある靴下によって足の皮膚に跡がつく現象を示す。
前述「水玉の位置に対応した皮膚への陥没が確認できた」。
母親自身の使用としては買わないであろう代物を、私に対しては買い与える矛盾に憤りを覚えている。



2019年10月28日15時39分の母親へのメール「2019年10月28日14時20分ころの出来事について」には、以下の記述がある。
追伸だが、機会があれば「頼まれずに買い与えて無駄遣い&安物買いの銭失い&タンスの肥やし&で未使用品の経年劣化 (e.g. ポリウレタン加水分解 ファッション大好き中学生の時でさえ私は警戒する頭がある)」に関しても詳細に伝えようと思う。機会が無い場合は、私のために私がする作業がされ、あなたに言う事柄はない。






起草日: 20190912 ?
結局のところ、実生活のうち外出に関するものについても検討するときがあろうから、ここで現状から算出される結論を書く。

他人よりも買い替え頻度の低い=経済活動機会の少ない私は、自然災害・襲撃犯罪などの非常時に困らない道具がよい。
材質のよい・丈夫な作りのものを選ぶとよい。
最低限ポリウレタンは避ける。
ポリウレタンはその合成皮革やフェイクレザー以外にも、衣服のゴム状の部分(リブ)など、様々な利用があり、劣化に緩急の差もあるので、全部避けよと私は言うつもりでない。

カバン・かばん・鞄・バッグを買う時は、用途によって材質を考える。
もし買い物の頻度が高ければ荷物を入れるために用いるバッグは、綿かポリエステルで100%を占めるようなものを選ぶ(荷物の大きさの割に重量のあるものに対する強度などは織り方など他の構造を見て感覚ではかればよい)。
他はショルダーバッグでもトートバッグでも何でもそう。

いわゆるエナメルバッグという「エナメル」は、特定の動物由来の革や植物由来の繊維や化学的な合成素材(合成樹脂、合成ゴム)の名称でない。
土で焼いて作る土器-セラミック-セラミックス–陶磁器(陶器と磁器 pottery and porcelain)の光沢を付ける加工法に用いられるガラス質の部分に由来するもので、詳細には"vitreous enamel", "porcelain enamel" などと英語で呼ぶ。
日本語では琺瑯-ホーローと呼び(日英とも狭義には後述の金属の焼き物に限るそう)、加工法 (overglaze enamelling) では釉薬 (glaze) という珪石などガラス質の物質 (vitreous substance) を含んだ材料(日本語の琺瑯は結果と原因のどちらを指すかWikipediaもコトバンク所収百科事典類も不明瞭な点が悩ましい;英語も実は同じ?辞書サイトでも注釈があるわけでないし)を高温で加熱して融かすプロセスから出来上がる (cf. グレイズ glaze, ガラス glass, 光を放つ-自動詞 glow, 輝き・光沢・ツヤ gloss, 光沢ある・艶やかな glossy)。
七宝焼きという金属の焼き物 (cloisonné) に関しても釉薬によるエナメル部分がある(琺瑯とエナメルは金属に限るという本来の意味では結果にも原因にも同じ言葉が指すことになり、釉薬とグレイズも陶磁器を対象にした結果にも原因にも同じ言葉が指すという紛らわしい語句のようで混沌–カオスである;産業関係者が明瞭に説明せよ)。
それらの工芸分野から、革製品のための光沢加工の用語にも派生した(エナメル革 patent leather, enamelled leather は本革の加工に限って呼ばれる。加工や歴史経緯はここで説明しない)。
革は500度も無い温度で焦げて炭化するように、革の光沢加工に用いる何らかの物質も焦げると思われるが、釉薬の方は500度以上で融けるような実際のガラス–珪素などの物質が用いられるので、これらエナメルは指示対象の物質が大いに異なる。
現代日本ではPVC (polyvinyl chloride ポリ塩化ビニル) やポリウレタンを材料としたバッグの光沢のあるものを指して「エナメルバッグ」と呼んでいる(運動部の学生は他の通学カバンと区別して「エナメル」とも呼ぶ)ことになる。
つまり、その種類も実際の製品について検分して選ぶ方がよい。

靴・シューズ・ブーツなどでもこの考えが適用される。
布類によるスニーカーなどは綿でも麻でもよいがソール部分(sole: アウトソール outsoleなど)でポリウレタンが用いられるものが多いことに注意する。
ソール部分の古風な例としては木製(木底)が浮かぶ。
印象の良いものとして古風な革靴(タイプ不問。実際に靴職人お手製で本革・・・動物の皮革素材となるとドコドコ産のお高いものになる)がある。

ベルト(2点以上の買い替えを希望)でもこの考えが適用される。

服に関しては、髪の長い私にとっての着脱の容易さが求められる。
2012年以降に母親が買い与えてきた半袖Tシャツ風トップス服(無標の複数形)は、後年ほどに首回りの開き具合が狭まっている。
狭まってきた後年の新品が、しかもその問題性を補えるだけの伸縮性を持っていない。
こうなると、髪をタオルでまとめた膨らみのある状態においてその服の系統を不注意に着ると、タオルの状態が崩れるか、髪の根元が引っ張られて抜けるおそれがある。
つまり、風呂上がりで肌着の代わりにそれらを着るが、ものによっては単純にタンクトップのようなノースリーブのトップスやボタンで留めるパジャマなどが1点も無いことも疑問である。
どちらにせよ、父親と二人暮らしの時を含む中学生のころから自分の当面の目的に合致する行動ができる自立的人間に、他者が衣類を選択することがあらゆる面での不都合しか生じないこと(金の浪費を伴ってまで当人の抑圧を実現したいか?)は、当記事本文に引用する2013年のメール文章に明らかである。


2019年11月7日木曜日

学問的な英語動詞のうち他動詞・自動詞がいずれもある単語の翻訳案

日本語的な複合動詞(梵語のnamas-√kṛやmanasi-√kṛのようなもの)を作ることが最も日本語に合うと思う。
以下は翻訳の試案と言うべきものであるから、諸君にしっくりくるか定かでないが、他の代案も用意してあるので「形式的な他動詞・自動詞区分」の考察のきっかけになるとよい。
以下に例示する単語は、たとえ1つの語形に多義的であっても例示する意味を「とある単一の定義"a certain definition"」に限定している。
「形式的な他動詞・自動詞区分」を考察する目的性の通り、他動詞と自動詞 (transitive and intransitive) を、別途、分けている。

「他動詞・自動詞がいずれもある」と表題に記したが、それは私が調査前に思い浮かべた単語のことであり、実際に調べてから辞書に自動詞が定義されないものに関しては打消し線 <strike> を施している。



to bias - 辞書: CALD英英, OED英英, Wiktionary英, Weblio英和

他動詞
~をバイアスあるものにする
日本語訳案1: ~をバイアスがける(バイアスがけする 漢字: がけ=懸けor掛け)
日本語訳案2: ~をバイアスに かける
日本語訳案3: ~を偏見がける(偏見がけする 漢字: がけ=懸けor掛け)
日本語訳案4: ~をバイアスる(冗談交じりではあるが縮約表現としては妥当)
日本語訳案5: ~を偏らせる

自動詞
日本語訳案1: バイアスがかる(バイアスがかりする 漢字: がかり=懸かりor掛かり)
日本語訳案2: バイアスが ある
日本語訳案3: 偏見がかる(偏見がかりする 漢字: がけ=懸かりor掛かり)
日本語訳案4: バイアスだ(バイアスである)
日本語訳案5: 偏る

例文
He bias it. (bias as transitive)
→Wiktionary英に"Our prejudices bias our views."(偏見は見解を偏らせる/バイアスがける) とある。任意の例文サイトでは"biased the results"(結果を偏らせた) というように数量的/統計的な結果 (quantitative/statistical result) に偏りを生じさせるものについて多く見られた。同じ例文サイトでは受動構文: "heavily biased"(重度にバイアスがけされた/偏らされた) も多く見られた。辞書がそうであったように、実際の文で自動詞の用法は無いかもしれない。
He bias it us. (bias as ditransitive)
He bias on it. (bias as intransitive)
→to biasに自動詞は無いものか?



to contrast - 辞書: CALD英英, OED英英, Wiktionary英, Weblio英和

他動詞
日本語訳案1: ~をコントラスト置きする
日本語訳案2: ~を対照的に する (日本語で同音異義語の対象・対称でないことに注意 not 対象・対称 homophones in Japanese)
日本語訳案3: ~を対置or対比させる (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

自動詞
日本語訳案1: コントラストに ある
日本語訳案2: 対照的に なるor対照的だ(対照的である)
日本語訳案3: 対置or対比する (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に自動詞に用いる)

例文
He contrast it. (contrast as transitive)
→任意の例文サイトでは"contrast the approach"などの形で見られた。何か対照的にするとき、"contrast XX's approach with YY's approach"などと with が介する。
He contrast with it. (contrast as intransitive)
→任意の例文サイトでは"contrasting strongly with..."(○○と強く対照的である) などの形で見られた。ここで自動詞の補語は with による前置詞句である。



to relate - 辞書: CALD英英, OED英英, Wiktionary英, Weblio英和

他動詞
日本語訳案1: 関連づける(関連づけする 漢字: づけ=付け)
日本語訳案2: ~を関連させる (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

自動詞
日本語訳案1: 関連づく(関連づきする 漢字: づき=付き)
日本語訳案2: ~に関連する (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

例文
n/a
(他動詞の時のX relates A to B.は受動態be related to = A is related to B.であることも示すか?)



テンプレート↓
to yyyy - 辞書: CALD英英, OED英英, Wiktionary英, Weblio英和

N動詞
日本語訳案1:
日本語訳案2:
日本語訳案3:





起草日: 20191005

編集段階に、例文の欄で、動詞以外の単語について「具体的かつ可能な限り指示語を用いないよう修正」という注記をしていた。
その後、それを撤回して指示語を中心にして例文の基本形を書き(本文にそう用いた指示語は人称代名詞の系統。代数のようなA, B, X, Yなどでもよいと思ったがやめた)、補足事項として具体的な語句を伴う例文を付与した。
また、補足されている例文(retrieved 2019-10-18)を読めるサイトのリンクを貼るつもりでいたが、そのうちの1つはシステム上 不可能であったので、最終的に何も載せないでおいた。

ところで、インターネット上の出典の閲覧に関して"retrieved 2019-10-18"と用いられる"retrieve"(慣用カナ: リトリブ、レトリブ、リトリーブ、レトリーブ) という言葉についても、少しだけ記そう。
これは辞書的に「取り戻す・取り返す」という意味(語源的に接頭辞re- + 英語trouver, 同根語trope, ラテン語tropus, ギリシャ語τρόποςに相当する何らかの言葉で作られる言葉が中期フランス語から中英語に入ったという)が見られ、カタカナ語としては行為者名詞"retriever"が犬種の「○○・レトリバー(レトリーバー)」で知られる。
英語の論文などでは、インターネット上にある出典を閲覧した or 情報を取得した日を目的語にする意味の他動詞 (transitive) であり、過去分詞の語形を用いて出典のリストに用いる。
インターネット上の出典としてURLを書く際はコンマで区切るか、前置詞"from"で間接目的語 or 補語にする(補部を作る)。
普通の他動詞の感覚では、日付が取得されるよりもページまたはページ中の情報が取得されて日付は前置詞"on"などで間接目的語になる (retrieved an-information, on 2019-10-18) ように考えられるため、かなり不思議な語法と私は感じる。

インターネット上の出典の参照の日付を書きたいとき、"retrieved 2019-10-18"以外に"Accessed: 2019-10-18"や、人物 (author) の隣に日付だけを書く(カッコ・括弧でくくる)方法もある。
日付に関しては、識別可能な限り何の表記法(英語圏の場合アメリカ: October 18, 2019. イギリス: 18 October 2019.などで異なる)にしてもよい。
これらにはAPA, MLAなど色々な方式の説明 (1, 2, 3 ..."retrieved"を用いる例はAPA styleのみ) が世間にあるため、興味があれば各自で調べるとよい。

上記括弧内リンク1に関する注意点だが、APA style や MLA style と同列に、"Harvard style"と呼ばれる何か不明の方式が示されている。
関連性は不明だが、括弧を用いて本文で表記する参照方法をハーバード方式 Harvard referencing と呼ぶことについてさえ、ハーバード大学の公式サイト一ページで「公式な機関としての接点がないため、誤った呼び名です The "Harvard System" is something of a misnomer, as there is no official institutional connection.」とする (cf., Chernin氏1988年の文書 The "Harvard System": a mystery dispelled)。
APAやMLAやChicagoなどは公式にスタイルガイド本が出版されていてそれを基盤とするわけであり、この点からもハーバード式–ハーバード方式というものは同様のものとして存在しないし、「参照方法」の名称としても不正確であることになる。
そのリンク先のページなどでいう"Harvard style"の正体が何かについては、特定しない。


2019年10月4日金曜日

自室の模様替えの案

PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向ける(前:自室中央で押入れ側に移動する)こと
利点
・「異常事態=ふすまの向こうの人たちが自室のふすまを開けるなどの行為」を察知しやすい
・「異常事態=外から車が衝突するなどの危険」の際に回避する対策
・「異常事態=冷房時水気・水滴の零落・飛散」からPC 電化製品や紙製品を避難させる
・衛生的に疑問の残るエアコンの風を直に受けない

欠点と→解決法
・二方向の障子はいずれも開放時に、外から自室内でPCに向き合う私の姿が見えやすくなる
・折りたたまれ状態の敷布団の置き場所は、現状以外だと用途ごとに問題が伴いやすくなる
・屋内の他人の生活音が私に届きやすくなる(特に声やTV音声)
・私の所持する冷蔵庫とPCは、同じ接続口(コンセント、プラグの差し込み口、プラグソケット plug socket)に挿入されて稼働すると定格電圧・電流を超えるかも・ショートの危険があるかもしれない
→・冷蔵庫を他の接続口のある場所に移動してそこで稼働させればよい

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
・折りたたまれ状態の敷布団は同じ置き場所で90度回転にする・エアコンの直下にゴミ袋など(ただし靴箱は元のまま)を置く・エアコンの直下にカラーボックスを置いてテーブルクロス様の布orビニール製のものを敷く
・絵の練習の紙や段ボール箱は他の場所(保留の案)に置く



冷蔵庫をエアコン側に移動すること
利点
・ふすまやドア側で自身の通行が便利になる

欠点と→解決法
・既に定位置で稼働した範囲の絨毯・畳を汚している (cf. メモ2018-10-01) ので、この他の場所を汚す危険性を生む
・「異常事態=ふすまやドア側で他人の通行」が便利になる

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
n/a






起草日: 20190731

上記の日になってから、その数ヶ月に思われた案をまとめたという経緯になる。
当記事のパーマリンクのうち"abcding"は部屋の模様替え・リフォーム (wasei-eigo: reform, reformation) ・再配置について"room remodel, remodeling, renovation, transformation, makeover"などと不統一な英語が色々と存在したために選びかねたための指定である。
ええ、そうしようと思ったが"remodeling"でよい。

上記の日以後で実行したものを以下に記す。

携帯電話内蔵カメラ写真 (201909191649)▽
↑の画像に対応するPC内蔵Webカメラでの写真 (WIN_20190919_16_46_33)▽

2019年9月19日の日記メモから引用:
14時50分前から「自室の模様替えの案」のための整理整頓・清掃を始めた。試験的に、いくつかの物の配置を変更した。(中略)16時30分ころに一段落ついた(一段落がついたor一段落をつけた)。その写真を撮ることが後にされて、写真の枚数がPC内蔵カメラでの1点と携帯電話内蔵カメラでの2点になる。17時50分ころから、少し物の配置を変更する作業をした。「或る方角の窓」の正面右手側に置かれていた大きめの段ボール箱1つ(本年7月30日メモに写真あり)を持ち上げようとする際、糸の細めな蜘蛛・くも・クモの巣に触れる感覚があった。主は、例の通り全長5mm未満の子グモである。彼を捕まえる衝撃で彼が潰れた。巣の方はしばらく放置してみる。

具体的に、「PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向けること」の内容が、その日に実現された。
もしかすると、段階的に「冷蔵庫をエアコン側に移動すること」の実現と、従来の案である「PCと低デスクを自室中央で押入れ側に移動すること」の復活とがありえるが、当面、この状態のまま過ごす。
2019年9月30日時点で大した問題を感じない。
当初は料理の際の不手際が生じやすくなるなど「慣れない」ことに起因する現象を懸念し、注意しながら行っていた。
現時点で解決の手段の実現性が無い問題は、実害が軽度であるが、晴れた日の昼間の外の光の強さにPCディスプレイの光の強さが負ける点である。
「①その時に雨戸=シャッターを閉ざす、②その時にPCディスプレイの光の強さ・高度・明度を強める、③その時にPCを用いずに過ごす、④その時までに寝る」のいずれかを行うことは、実現性が無い(i.e. デメリットが付随する点で行いたくない)解決手段である。

2019年9月10日火曜日

言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)

表題について、まず私の先行研究を示す。
以下に2019年3月5日投稿記事『英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)』からの引用をするが、それは※印での注釈に留まっている。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

※性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanはhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語il mareは男性、フランス語la merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

当該記事からの引用は以上である。
繰り返しになるが、※印での注釈は原文のうちにある。



表題の通り、ノンバイナリー表現を中心に考察する。
ノンバイナリーとは、英語で"non-binary"(alt. ノンバイナリ) と記し、二極でないこと(梵語advaya, advaita は不二一如系になるがここでは多極を標榜するかもしれない)を意味する。
ジェンダー観・ジェンダー論のうちでも性的少数者に関する分野で用いるので、性別の位置づけとして一般に言われる。
日本では「Xジェンダー」と呼ばれる。
数学やIT関係では「バイナリ binary」という言葉が「0, 1 の二進法」の名詞として知られるが、原義的には「2つから成る or 2つのものを含む binarius」という形容詞であり、「バイ・ビ bi」は2つについての事柄を指す形態 (morph) であり、二極・両極端でもある。
「性別の二極でないこと」を換言すれば、男女の二分法に拘束されない性別である。
人によっては、生物の本能に依存した性別の生理的作用をゼロに帰するような立場であろう。

表題には括弧(カッコ)でジェンダーフリー"gender-free"、ジェンダーレス"genderless"、ジェンダーニュートラル"gender-neutral"と併記されるが、記事注ではノンバイナリーとジェンダーニュートラルの2つを基本的に用いる。
抽象名詞に"gender neutrality (性の中立性)"もある。
言語・現代語において、そのような「動き・運動"movement"」があることについて考察する。

人称代名詞 (personal pronoun) の彼・彼女・それ (英語: he, she, it) は、言語における文法的な性 (grammatical gender 以下"文法性") での男性・女性・中性 (masculine, feminine, neuter) になる。
ノンバイナリーおよび性別不明の生命の個体のための専門的な人称代名詞は、英語に無いとされる。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
自然言語には慣習的な特徴が尊重されるべきであるとすれば、急進的に英語でノンバイナリー表現を普及するには困難さが伴う。
現状は、性の無い複数形の人称代名詞である"they"を単数形で用いることが一般的である。
この用法の"they"は、近代英語初期の英訳聖書であるKJV (King James Version, 欽定訳) にも見られる。

Then shalt thou bring forth that man or that woman, which have committed that wicked thing, unto thy gates, (even) that man or that woman, and shalt stone them with stones, till they die. - Deuteronomy 17:5 (旧約聖書・タナハのうち律法・トーラーにある申命記17:5), KJV

※"they die"はそのまま複数形の方に見える。もし3人称の単数形ならば数の一致で"they dies"になるはず。2人称の代名詞 you が複数形由来であることと同様かもしれない。いちおう単数形 they = singular they は主格・主語である場合に述語の動詞が複数形の語形であることは一般的であると一ページに示されるた例文から判断できる。上記引用について、KJV以前からある中英語ウィクリフ訳 Wycliffe (1384, 1394) では、KJVの"that man or that woman"が"þe man and womman (the man and the womman)"として数量的に複数で取れる名詞句を形成しており、その上で"þei ſhulen be þrowen doun (thei schulen be oppressid with stoonus)"と they にあたる人称代名詞を用いる。あまり関係ないが同じ文のヘブライ語では"and"か"or"かというと、"or (either)"の意味に取れる語句 א֖וֹ が使われる。KJVでの他の例に"If an ox gore a man or a woman, that they die: then the ox shall be surely stoned... - Exodus 21:28 (Wycliffe 1384: If an oxe wiþ þe horn ſmyte a man, or a womman, and þei weren deed... ;die が他動詞「死なす」の意味を含んだ時代に"weren deed"で受動構文にしたか)"がある。

当記事では、人工言語であるエスペラント(エスペラント語)でどうか、見てみよう。
あらゆる個別言語において最も特筆すべき動向・議論があろう。



エスペラントは元々、3人称・単数の人称代名詞の語形のみ、文法的な性によると思しき語形変化=屈折 (inflection, alt. 曲用 declension) を起こす。
すなわち、li (彼 he), ŝi (彼女 she) のみである。
人称代名詞・指示代名詞の語末には、mi, vi, ni, ĝi など規範的に - iが語尾として伴う(cf. 疑問詞・不変化詞 ĉu; 英語やラテン語に同じ用法の無い不変化詞でポーランド語czyから来る, 疑問代名詞=関係代名詞 kiu; 文法的に意味を有する接尾辞-uが付く, ほかwikt. Category: Esperanto pronouns)。
物理的な性別が言語の指示対象にあって名詞が有すると推測される性は、自然の性・自然性 (natural gender) である、との定義もある。

li, ŝi の2つに、その対格 (accusative case) の語形もある。
ラテン語などと違って対格の標識 (marker) である形態は語尾の -n のみである。
単純に実在の事物における性の区別が必要という観点で、鶏のオスとメス(雄鶏・雌鶏)を koko, kokino (接尾辞 -ino で女性の意味を付与) として・父と母を patro, patrino (両親を意味する場合にgepatrojで複数形のみを用いる)として区別するようなことが、この人称代名詞にも反映されたに過ぎないと考えることもできる。

エスペラントの冠詞は定冠詞 (definite article) である la の一つのみである。
英語と違って不定冠詞 (indefinite article) は無い(数詞 unu = 1 を代用する者もいる)。
参考までに、フランス語には冠詞・名詞・形容詞にいずれも文法性や文法数 (grammatical number) があり、それらの一致 (agreement alt. 呼応) があるが、名詞と形容詞には中途半端に思える文法性・数の無い例もある。
性の無い形容詞や名詞を単数形で用いる際には、冠詞が男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"un enfant espiègle"(「やんちゃな男児」を意味して定冠詞unのみが男性形) と"une enfant espiègle"(「やんちゃな女児」を意味して定冠詞uneのみが女性形) がある。
定冠詞の複数形は文法性で語形が変化しないので、名詞・形容詞に異なった語形がある場合は、それが男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"les adultes français"(「フランスの成人男性たち」を意味して形容詞françaisのみが男性形) と"les adultes françaises"(「フランスの成人女性たち」を意味して定冠詞françaisesのみが女性形) がある。

要するに、エスペラントには性の一致にあたる文法的な機能が、ラテン語やフランス語と違い、存在しないことになる。
3人称・単数の人称代名詞は適宜に照応 (endophora) で用いられれば、それが日本語にもあるような文法的な機能と少し異なる性の一致になるかもしれない。
それでさえも、性別不明の生命の個体を指す場合・秘匿したい場合・性的少数者(性的マイノリティ)への配慮が必要である場合などのため、ノンバイナリー表現を模索する人々は多い。



ノンバイナリー3人称・単数の人称代名詞のためには、何があるか?
ri が、現状で最も一般的である。
これは新語"neologism"である。
性別不明の生命の個体に用いられることが更に一般的である。
ri の使用は Riism, riismo と呼ばれる。
この一種で、両親を意味する gepatroj という複数形のみの言葉の単数形を設けて gepatro と言ええば、ノンバイナリー(ジェンダーフリー・ジェンダーレス)の立場にある親を意味する。
性別が不明または任意の親である人物を指して"unu gepatro"と言ったりする。

なお、ri を用いるなどを基本としてエスペラントから性差を無くする修正・改革 (reformo) としては La riisma Esperanto があって riismo と別に扱われる。
これには基本の語形に女性の形態が別に用意されるものを、男女別で専用の形態を用いることで語形が基本的にニュートラルであることを示す手段も含まれている。
それは iĉismo と呼ばれ、先の雄鶏・雌鶏は、性別不明の個体が koko であって雄鶏・雌鶏は専用の接尾辞 -iĉo, -ino (表記として -iĉ-, -in- も見られる) を用いて kokiĉo, kokino となる。
ことさらに女か男か(雌雄、メス・オス;畜産の人・酪農家などにとって実用的)を示したい場合の手段が用意された修正案である。

li は男性以外にジェンダーニュートラルの用法が伝統的に有ったともいう。
これは epicinity, male-as-norm のようでもある。
英語版Wiktionary - liでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの用法は推奨されない。

※ epicinity かどうか不明だが、古典ラテン語には名詞に限って common gender (コモンジェンダー・通性) があるという。冒頭に引用した文に「原則的に生命・生物はインド・ヨーロッパ古典語で男性名詞である。中性では無生物などになるため」と注釈した時の言葉 homo もこの例に当たるとして何らかの辞書に定義がある。何らかの文法書は civis (市民), sacerdos (祭司・巫女), parens (親) などを挙げる。これらが男性・女性の実在人物のいずれにも同じ語形で用いられて形容詞との性一致もあるという。新語としてのエスペラント単語 gepatro を待たずにラテン語でこのような例もあることになる。

li, ŝi を合わせて ŝli (ŝi/li の縮約"contraction"ともいう) とする、ジェンダーニュートラルな表現が作られている。
これは新語"neologism"である。
英語版Wiktionary - ŝliでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの単語は推奨されない。

tiu (その人・あの人 that person, that one) は本来の用法から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも両性的"epicene"(エピシーン、エピスィーン。抽象名詞は epicinity エピシニティ。両性的 androgynous, androgyny と異なる。男性の欠如) である表現に用いるとされる。
ただし、これは代名詞よりも限定詞 (determiner alt. 指示語・指示詞) や指示代名詞 (demonstrative pronoun) として"tiu homo"(その人・その人物・そいつ)というような用途が主要かもしれない。
これも恐らく、専用の単語でない(代替表現らしい)点で、不満足な層がいる様子である。

ĝi (それ・あれ it)は本来の意味から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも"epicene"である表現に用いるとされる。
それで英語版Wikipedia - Gender reform in Esperanto に「1901年の La Revuo 23号にエスペラントの創始者であるザメンホフが性別の不明な個人のために使うことが可能であるという規定がある(筆者が検証すると1901年にLa Revuoという雑誌が存在していない様子。いくつかのサイトを見て1907年として原文を引用する例を見た)」と記され、L. L. ザメンホフさんが実際に用いた文例が子供を対象とする場合にのみあるとする。
挙げられる文は"La infano ploras, ĉar ĝi volas manĝi"(意味は「子供La infanoが泣いている、その子供ĝiは食べる行為をしたいので」という前方照応) である(典拠はL. L. Zamenhof 1893 "Ekzercaro de la lingvo internacia Esperanto"という)。
"infano"は先のフランス語"enfant"と同じ語源を有する言葉であり、伝統的な文法用語としての"epicene"であると言いたいかもしれない。
英語版Wiktionary - epicene の英単語説明の sense 2 としてその仏単語が例示される。
元のラテン語の infans は辞書の定義に英語の"infant"を挙げ、それがまた辞書の定義に「6か月から2歳程度の子供」とするならば、それほど分詞 fans の元の動詞の意味の「話す」ことが否定辞(欠性辞)-in としてできない年齢の子供であって服装や髪型の外見に性別が特徴づけられない場合、日常生活では性器を直に見ないで実在するその個体の性が判断できない。
なので、古典ラテン語からして分詞 fans が男女で性の形態の無い(これはラテン語文法で男女が共通の語形を有するものと扱う)ために否定辞 -in と合わせて、話すことができない(会話が成り立ちづらい)年齢の子供の一般名詞に用いられたろう。
L. L. ザメンホフさんはこの語源を知っても知らなくても、性別不明の子供"La infano"に対する前方照応 (anaphora) に、"epicene"の代名詞として"ĝi"を用いたという旨が当該Wikipedia記事に記された。
同じく当該Wikipedia記事 (oldid=911895413) に「ĝi が人間に用いられないとする考えは英語ゆずり。他の言語には人称代名詞の中性が人間でも用いられる。 e.g. トルコ語 o, フィンランド語 hän そもそもウラル語族やトゥルク語族は3人称の代名詞に性差が無い」とも記される。

L. L. ザメンホフさんが活動していた時代には、当然、言語とジェンダー観のうちの性的少数者に関する議論がほぼ無い。
ただし、冒頭に過去記事を引用するうちに記されたような近代的なヨーロッパ言語は文法性による語形の区別が古典ラテン語など古語よりも少ない、と多くの言語学者が気づいていたろう。
そこからエスペラント(当初に国際語"Lingvo Internacia"という公称がある)をザメンホフさんは構築した、と私は考える。
既述の通り、3人称・単数の人称代名詞にのみ性の語形変化を起こして li, ŝi の2つ(およびその対格 accusative)のみを得る。
文法性による語形の区別が少ない場合は、表現の能力が低くなるので、少ないくらいならば文法性を無くする方が都合のいい結果も得られると考えられる。
その点でフランス語よりも英語が理想に近いモデルとなる。
エスペラントでは意図的に文法性に関して英語らしくしつつ、職業名につくような"-man, -woman"の対立的な形態は用いないようにしたと私は考える。
件の人称代名詞 li, ŝi の2つ以外に、-ino を付けて女性・メスであることを強調するのみで、エスペラントには文法的な性が皆無と思う。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
フランス語の形容詞に男女の語形が異ならない単語も、多くは男性が原型であったかもしれない。

※当記事の後記を参照。イタリア語・スペイン語の話がある。ロマンス諸語のフランス語もイタリア語もスペイン語も男女の語形が異ならない形容詞が、ラテン語でもそうである場合が多いこと (e.g. 3言語 grande, forte に対するラテン語 grandis, fortis) は、少なくともラテン語がロマンス諸語の3言語と同じ傾向を示していたことになる。梵語(サンスクリットおよびパーリ語 Sanskrit and Pali)では基本的に形容詞・分詞が3つの性別 (m. f. n.) を有する (e.g. sa. nava नव の主格 m. navaḥ, f. navā, n. navam; pa. mahant の主格 m. mahanto, f. mahantī, n. mahantaṃ 用例)。



単語例が多く示されているが、エスペラントでノンバイナリー表現のためには、ri が、現状で最も一般的である。
これが唯一、ノンバイナリー表現たりえる専用の表現・単語であることが大きな理由かと思う。
英語で、そういう新語や造語は、伝統や慣習からして定着しない(する場合は一部のコミュニティにおけるスラング slang の一種)。
どの程度に普及しているかは、特に説明しないでおく。
ノンバイナリー表現の将来性についても、私から意見を述べるものでない。
ただし、自然言語でも、過去から現在までを類推すれば、途中の時代まで自然に弱まってきた事実は既に説明されている。
近代から言語のリテラシーが教育の拡充によって高まっているので、自然に変容することは考えづらいが、変容する場合は、言語・文法における性を認知する人々による運動のような「人為的な力」が加わる結果かもしれない。
社会などのことは現在の未知の事柄はもちろん、1年後・10年後・50年後などそれぞれが未知数だし、これを無理強いに量りたいと私は思わない。
民衆からの変革は急進的な成功が困難であること(特に日本国内規模でそう)のみが考えられる。






起草日: 20190909

社会言語学のうちの語彙など簡単な話題について、詳細に説明を行った。
語彙に関して、現代の言語は大きめの拡張性を持つ。
大概は言語を用いる側が、外的要因に受け身である結果に過ぎないが、当記事では運動にも似た能動的な例を挙げている。
既述の通り、自然言語の各言語やそのうちで最も高い国際的地位を得ている英語よりも、人工言語の一種であるエスペラントは、柔軟かもしれない。
最初の提唱者・創始者というザメンホフさん以来の形式は、ある程度に守られても、エスペランティストのパンク的な精神の側面では、変えたい意思で変えようとすることもあろう。
それが旧時代の否定か、新時代のための要請か、その演出かは不明である。


当記事の起草までの2か月間には、本家ブログにおける絵に関する記事の編集・画像制作などで大いに時間が過ぎた。
今時に行うべき言語関連の話題は無いと思っていたが、9月5日からエスペラントについて少し調査を始め、過去記事に僅かな関連のある話題が見つかったので、このために起草した。
起草日での先の時間に、某所で似たような文の投稿をしていた。
一応それと当記事は、同じ私による投稿である。

ジェンダー関連の話題は本家ブログ2019-08-19記事にも2度記されている。
1度は社会に関する説明(主に男女平等・フェミニズム・LGBT, LGBTQ関連)で、もう1度は言語(近代英語での性一致型の照応)に関する注釈であった。
私の絵と絵画・美術の行為には、大概、社会の話題が直接含まれる余地が無いスタンスであるが、そこではそのように説明するという趣向がある。



古典ラテン語などにおける文法性の区別を、私は割と好むが、情報技術に依存して創作・学習するからこそ、私は煩瑣に思われそうな語形変化の事柄に精神的な余裕を保つ。
古典ラテン語よりはイタリア語がもっとシンプルである。
いずれにも、好ましく感じることは、後舌母音による語形 -o, -us が男性であることを象徴してキャラクタリスティックであることである。
インド系言語のうち、パーリ語も文中で主格の時の一般名詞男性形が -o(長母音かつ音声学的な母音の特徴はheightが低め=広め *ɔ かもしれない)であってサンスクリット語の -aḥ からの派生という点で、イタリア語・ラテン語に比較する。
パーリ語で一般名詞女性形は -ā が多く(他の例は割愛)、イタリア語・ラテン語で -a に比較する。

しかし、イタリア語であっても -a が固有名詞 Andrea (アンドレア 由来: Ἀνδρέᾱς Andreas アンドレアス) , Luca (ルカ 由来: Λουκᾶς Lucas ルカス) のように男性形である場合もある。
ラテン語では古代ローマの著者 Seneca(セネカ 位置づけはコグノーメン)も男性名詞で扱われる。
反対に、ラテン語には Venus (女神ビーナス、ヴィーナス、ウェヌス), pinus (松などの樹・植物"pine tree"、生物学ではマツ科"Pinaceae"のマツ属 Pinus) など -us が女性形として扱われる名詞もある。
スペイン語の Venus は惑星を指す場合に男性(ラテン語と比べて他のロマンス語と同じく中性が無い言語なのでノンバイナリー?)であると思う。
例文として"Venus es el segundo planeta del sistema solar en orden de distancia desde el Sol"(スペイン語ウィキペディア - Venusより) を見出すも、どうにも planeta がスペイン語の男性名詞(ラテン語・古代ギリシャ語も同じ)であるから、その前の定冠詞と形容詞(序数 ordinal number)が男性形を取ったに過ぎないようである。
私自身が彼ら言語を近いと思っても、夜空の星々のことではないが、遠い部分があるっぽい。

既存の文例を探す困難さが伴うならば、「Google翻訳」で訳文の例を求める手段もある。
金星と水星と地球を序数の形容詞で求めて平叙文を作ると"Venus es el segundo."(原文:金星は2番目である。), "Mercurio es el primero."(原文:水星は1番目である。), "La tierra es tercera."(原文:地球は3番目である。;定冠詞la含まれず。「太陽系で」と付け加えてLa tierra es la tercera en el sistema solar.という) として男性形の定冠詞や形容詞で訳文が返答された。
参考までに人称代名詞で作ると"El es el segundo.", "Ella es la segunda."として男女性の区別が確認できる。
ただし、Google翻訳は日本語→スペイン語で翻訳するために用いる際、内部で英語を介しているので、女神ビーナス"Venus"まで惑星"Venus"として処理されるから、女神ビーナスについての翻訳では信頼できず、妥協案で"Diosa Venus es la segunda."とするしかない。
そのまま女神ビーナスと金星と水星を形容詞「白い」で求めて平叙文を作ると、今まで男性扱いの金星について"Venus es blanca"(原文:金星は白い。;返答でピリオドが付与されない) と女性として返答された。
つまり、内部の処理で女神ビーナスと金星の混同があるとき、その確率論は不明だが、どっちかの時には男性・女性で異なって処理されるように、"Venus"という語形は意味によって文法性が異なるものと看取される。
自然言語処理 (Natural language processing, NLP) の壁の一つではあるが、この打開には複文で脈絡を演出することが挙げられる。
すると、その発想で女神ビーナスと金星の違いを先に位置付けた複文を作ると"Venus es una diosa y Venus es blanca."(原文:ビーナスは女神であり、ビーナスは白い。;コンマなし), "Venus es un planeta y Venus es blanco."(金星は惑星であり、金星は白い。;コンマなし) として理想的な返答があった。
注記すると、数ある形容詞で「白い (blanco, blanca, blancos, blancas; white)」を選んだことは、「大きい (grande, grandes)・明るい (brillante, brillantes)」などが男女 (masculine and feminine) の区別を有しないためであり、それ以上に筆者の感性を込めたつもりでない。
後で「良い (bueno, buena, buenos, buenas)」が浮かんだので、そちらでもよかったろう。

このように「Google翻訳 (Google Translate)」を使う手段は、語学のための技能であって、当記事本文にあるような言語学研究と峻別されるべきであると思う。
語学でも言語学でも、個別言語を扱う際、例外を掬い取るような優れた辞書や文法書などがあれば、そちらですぐ調べることをおすすめする。

2019年8月10日土曜日

言語における科学性の多面的な説明

「言語における科学性」の話題は本家ブログ2019年5月16日投稿記事などに示された。

筆者は基本的に、言語を人文科学の研究対象とし、言語学を人文科学の範囲に置いている。
しかし、言語の何らかの側面を何らかの方法で研究するかによっては、言語学が社会科学にも自然科学にも形式科学にも認知科学にもなるという柔軟な判断もできる。

人文科学に分類されるべき「言語学 (linguistics)」の歴史を顧みよう。
ヨーロッパでも日本でも広い文明の範囲の古語・古典が、研究の端緒だったと思ってよい。
ヨーロッパにとって、古代ギリシャ語・古典ラテン語はもちろん、ヨーロッパ各地の古語(古フランス語・ゲルマン語派の古ノルド語・古英語など)や当時における近代語・現代語も考えられる。
ヨーロッパでは、彼らの言語とインド系の言語との大きな共通性が見いだされて以降の18~20世紀で、基本的に、古文献・古典から古語の特徴を集めたり(文献学 philology の領域に重なる)、次第に世界各地の現代的な言語(自然言語・口語・方言)をフィールドワークなどで集めるようなこともされ、それらが言語学の「基礎研究 (basic research)」ともいえる行為であったろう。
そこから歴史言語学のように一定の「言語」動詞をグループにした「語派」と、可能な限り巨大なまとまりにした「語族」と、それら大小の言語の「祖語」を想定することが主要な研究であった(代表的にはインド・ヨーロッパ祖語・印欧祖語がある)。

日本にとっての漢語・梵語と上代日本語が、その古代ギリシャ語・古典ラテン語とヨーロッパ各地の古語に類する。
ヨーロッパ各地の民族が彼ら自身のアイデンティティを確立する動向の同時期~その100年前=江戸時代中期・後期に、不干渉ながら日本で国学 (Kokugaku) の発展があった。
漢語・梵語(蘭学系以外では困難だが稀に西洋言語)は可能な限りに学ばれ、日本語の相対的な特徴を認知したり、古文献が万葉仮名で記されている制約下でいわゆる「内的再構」に類する作業が上代日本語のために行われた。
これには哲学的な思索が付随しており、神代の言葉(ことのは)を推し量りもした。
明治時代以降は西洋の人文学・人文科学が日本にも導入されるようになる。
日本についての説明は、当記事で必要な説明をしたが、具体的にどんな学者がいたかなどは2019-05-19記事やインターネット上の他サイトを見ればよい。

現代では、そういった人文科学に分類しうる言語学の歴史的な経緯の結果に様々な「応用分野 (applied…)」ともいえる研究や、その自覚がされている。
ちなみに、欧米では基本的に言語学を社会科学 (social science) と扱っている。



言語学の、人文科学 (human science, humanities) 以外の科学分野と近い点を端的に示そう。

形式科学 (formal science) …理論や規範に適う文法、一応の道理としての言語。数学的・論理学的 (mathematical, mathematics; logical, logic) な特徴の追求。応用として人工言語やプログラミング言語も有りえる。言語学は単なる形式科学でないが、もし形式科学の性質を強めれば、生身の人間の実用に適さない「形式言語。0, 1のような数字の羅列で示される、多義語や同音異義語や文法の混同が存在しない絶対性による言語」ができる。またはユークリッド幾何学の「幅の無い線(長さ無限 ∞ 究極の1または0の直線=一次元 ユークリッド原論 Στοιχεία に云くΓραμμὴ δὲ μῆκος ἀπλατές.)」と同じような「音も文字も概念も無い言語」ができる。それでは極端なのでまだ一般的な言語学になじんだ例を挙げる必要もある。現代言語学で文法を考察する際の構文木 (parse tree 解析木) を用いた分析 (e.g. IC分析 immediate constituent analysis, 生成文法 generative grammar) は、これも形式科学の特徴を持つ。

認知科学 (coginitive science) …人によって使用される言語(自然言語)の文法・語彙・音韻が状況(知覚とそれが脳で処理されること・恣意的な取捨選択や推定や譬喩・比喩の行為など)によって固定的でない前提に基づいた研究。それは主観性と一括りにできるが、使用能力の制約なども加味する場合は主観性に限られない。美術や音楽などの芸術分野は、外界の知覚や他者との認識の共有に基づくとしても主観性が重要である点で、自然言語の刹那的(その場限り)・主観的な側面に適合する(私は「共通主観性」に関連して音楽作詞に方法論を応用して「楽語共調理論」を作った。リンク先記事では美術の表現主義 expressionism や実験音楽 experimental music などに疑問を呈してもいる)。認知言語学に似た神経言語学は神経科学(neuroscience, brain science 日本で脳科学として人気)に関連するが、言語を手段として研究される脳機能の検証・実験・解明は、言語学が研究対象とする事物でない。

社会科学 (social science) …言語の社会的・現代的な使用の分析(流行語やスラングは扱いづらい)。商業や経済(マーケティング)など多分野での応用。民族 (ethnic group) と言語の関係。言語政策 (language policy) に代表される、政治 (politics) と言語の関係。各地の公用語教育(national language, 事実上のもの de facto を含む)・外国語教育のような言語教育での応用。多言語と共生できる文明の可能性の追求。

自然科学 (natural science) …音声学における解剖学・音響学の応用。音韻論における硬さ・軟らかさといった音声的物性。形態論 (morphology) における複合語 (compound) の特徴は、化学 (chemistry) の化学式・化合物のようである(複合語や品詞の形態素 morpheme に関しては原子や分子や素粒子などよりも素数や素因数のように数学に似るように感じる。ただし手 te という日本語は手綱 tazuna, taduna の ta があるように古代日本語での構成 ta + i = te2 て乙類で化学式に似る。形態素も音素 phoneme で構成されることが音声言語には必須)。形態論と同じ英語名称を持つ生物学の形態学 (morphology in biology) とは似ないが、語形に関する知識が言語の特徴をはかる基準になれば生物学の形態学に似る。そうしたプロセスや、民族区分(一般には個人の自負が尊重されるので歴史上の推定のためには地理学 geography 人類学 anthropology 全般の知見も借りられる)に基づいた個別言語の分類は、生物学の分類学 (taxonomy in biology) に似る。死語・消滅言語 (dead, extinct language) の特徴を文献 (inscription, epigraph, folio; writing; cf. 化石 fossil) から把握したり、個々の単語の再建 (reconstruction) に及び、祖語の推定は古生物の復元にも通じる(古生物学 paleontology に似る古文書学 palaeography は即物的であるので基本的に言語学よりも考古学 archaeology の領域)。

現代の言語学は、いくらかの分野で発話における文法・音韻・プロソディ (prosody, 詩学の用語と同じく韻律と翻訳される) の特徴を把握するために実験を行うなどの姿勢が、認知科学・社会科学・自然科学の各分野の方法論に重なる。

※生成文法のノーム・チョムスキーさん Noam Chomsky は言語学を心理学(認知心理学 cognitive psychology のことか不明)の下位と考えたようである。彼の派閥の人 (A. George) は心理学を生物学・自然科学とみなしたうえで言語学を心理学・生物学の下位に入れるように主張する。「人間の生物学」という情報も出たが、英語でいう"human biology"のことか不明である。チョムスキーさんが導入した生成文法を研究する人たちであっても一枚岩でなく、チョムスキーさんが言語の文法について示した見解に批判や議論が生じるようでもある (cf. 西山 1998 で Chomsky派George, A. がKatz, J.を論難しようとした旨)。チョムスキーさんら言語学者たちがどれほど自然科学の概要を把握して何の前提に基づいてそう主張するか、私は知らず・論駁せずにいようと思ったが、ここまで記してチョムスキーさんと信奉者たちが持つ生物学の見解を調べ直そうと思う。チョムスキーさんが他にも示した普遍文法 (universal grammar, UG) という発想を神経科学から証明する酒井邦嘉さんの研究や、チョムスキーさんとも交流したマサチューセッツ工科大学 MIT Linguistics教授・宮川繁さんの統合仮説"integration hypothesis"(2015年BBCの特集でも彼の名が載る)を調べてみてもよい。MIT博士号(言語学)を持つ福井直樹さんも「自然科学としての言語学」と題する著作 (4469212652) を出している。要するに言語能力の先天性から人間に普遍的な文法というものが想定され、後天的に日本語や英語など(普遍文法と個別言語の関係にはパラメーター parameters が想定されるという)を幼児が言語獲得(first-language acquisition)に至るということであり、一理ある。しかし、先天性を引き合いに出すならば、日本人は日本人限りの遺伝性で英語の習得には音韻・文法とも遅延があろう(i.e. 民族ごとに遺伝される内容・生得的な言語能力に微妙な差異がある)と私は思う。反対の目線での研究も大事である。無論、私の姿勢が専門家からは雑駁に思われそうでも、私は何の専門家でもないから色々な観点で物事を考えて党派に属さなかろう。

以上、端的に示しておいたことは、言語学が扱う言語関連の事物のどういった側面をどう研究するかにより、言語学の人文科学以外の特徴を示そうとしたものである。
実際に言語学の任意の分野の研究者が、以上で示された他学問の研究者と共同で・協同で研究を行う必要性は無いので、そのことのみ、注意されたい。

言語学の他の科学(=科学分野。加算・複数形)に通じる特徴が示されるならば、人文科学に関わる人々が他の科学に親しみを持てるようになると思うし、一般の民衆も身近な領域から「科学(不可算としてのScience)」を考えることができると思った。
言語学を「いわゆるカガク=リケー(理系・理科系)」として権威付けしたいわけではない。
インターネットで情報技術が普及したのであるから、一般人も言語のことぐらいはメディアリテラシーによって科学的に考察できてもよい。
上記のように科学も多種多様であるし、「基本的な科学の精神」と共に色々な観点で「言語・言葉(ゲンゴ・コトバ)」という客体を測ることができると思ってほしい。
他の科学も「同じ人間が行っている」ということで、パソコンや携帯電話(スマートフォン、情報端末)や身近な家電などを作るための高度な数学や機械工学や、遠くの天体を精密に観測するための天文学は身近に行えない(実際の製造や観測などは金銭がかかるし個人の趣味の範疇でも望ましくない)としても、心での風を止めて抵抗感を無くしてもらおう。



!以下から大々的に下書き (draft) 状態!
(記事投稿日時時点)


数学関連の学習(平方根・方程式など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
数学関連の学習(アレ関数など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
物理学と数学の関係
http://physics.thick.jp/index.html
理工系数学
https://risalc.info/index.html
情報処理関連
https://algorithm.joho.info/image-processing/binary-editor-stirling-bmp-file/
化学関連の学習(基礎の全般)
https://pigboat-don-guri131.ssl-lolipop.jp/



言語学に応用数学の技法を取り込む研究の案

筆者が少し中等教育数学を学びなおした上で提案しよう。
以下の案では、統計の手法や、関数・幾何学の知識などを取り込んで研究することになる。

統計的方法 (statistical methods) を言語学に取り込む発想くらいは、私でなくとも既に先行研究が多くあるのではないかと思ったが、2019年5月までに私は一度も見たことが無かった。
せいぜい歴史言語学や語用論のためのコーパス言語学の範疇で、言語の用例を任意の範囲内の文献(小さな研究目的に相応)から探して定量的に提示するようなものが見られる程度であった。
統計的方法を言語学に取り込むことは、学問分野でいうと数理言語学 (mathematical linguistics) の下位・副分野 (sub-descipline) としての「計量言語学 (quantitative linguistics, QL) 」になるかと思う。
亜種には「計量比較言語学 (quantitative comparative linguistics) 」もあるが、当記事で以下から示す「硬口蓋化指数」は比較言語学の歴史言語学的な目的に限らないため、その領域の内外に跨るものかと思う。
他には「計算言語学 (またはコンピュータ言語学 computational linguistics)」もあり、理工系の「自然言語処理 (natural language processing, NLP)」に関わりのあるものとして当記事で便宜的に区別をしたい。

関数や幾何学の知識を言語学に取り込む発想は、私の脳内で「数理言語学 (mathematical linguistics) と呼ばれるに値する」と思っていたが、当記事の執筆に際して色々と調べなおすと、学問分野の区別が一般的には不明瞭であるようであったし、便宜的に数理言語学と呼ぶしかない。
幾何言語学・幾何学的言語学という呼び方もあろう。



硬口蓋化指数 (?)
※そもそも日本で応用的な分野に用いられる「指標」に関する意味の「~指数 (shisū)」とは、英語でいうと何か?「指数関数 exponent function」という時のそれでない。「知能指数 intelligence quotient」の"quotient"は、割り算の解の整数部である「商 quotient (e.g. 20 ÷ 6 = 3 あまり 2 は a / b = q... r と代数にして 3 = qに相当する)」と同じ言葉である。「ボディマス指数 the body mass index, BMI」 "EPI, Environmental Performance Index"などは"index"と称し、計算方法が明らかに知能指数と異なる。他に、"** scale"や"** score"などの名称で社会や医療の考察対象である事象が数値化されることは多いので、どういうものがあるか色々と探して知見を得る必要がある。

「硬口蓋化 (palatalization@ alt. 口蓋化)」は、任意の言語の古形とその後世の形とで相対的に見られる子音の変化現象である。
代表例はティ /ti/ →チ・シ /chi, shi/のような歯擦音化 (assibilation, alt. spirantization, fricativization) であるが、他にも多様な変化がある。
言語ごとに、具体的な子音の起点と終点の音価の異なりがあるし、時代差もある。
硬口蓋系だとされる音自体も多様であり、単純に「硬口蓋化した子音 [ʲ]」とするもの(e.g. スラヴ語学でいう軟音ь 日本語の拗音のうちキャ行・ミャ行・リャ行の音)や、硬口蓋破裂音 [c] や、硬口蓋系の破擦音 [t͡ɕ] [t͡ʃ] など、様々に異なる特徴の子音を一様に硬口蓋系であるとか硬口蓋化であるとかと括ることもできる。

※なお、「音声学でいう硬口蓋化」と、「歴史言語学・音韻論でいう音変化 (sound change) としての硬口蓋化」は、定義が異なり、硬口蓋化指数でいう硬口蓋化が後者であることに注意されたい。前者=音声学でいう硬口蓋化はIPAにある [ʲ] が伴った子音のみを指す。日本語の拗音のうちミャ行の音はマ行に対比でき、スラヴ語学でいう軟音ьも硬音Ъに対比できる。後者=歴史的な音変化の現象に含まれる子音の範囲は必要に応じて広さがある(先述の通り・後に具体例を示す)。

硬口蓋化現象の終点側の歯擦音に限っても、「任意の地理的範囲の東と西」とで異なる音の傾向を持っていたりもする。
例えばチャ発音が歯茎硬口蓋音 [t͡ɕ] である漢字文化圏=日本/チ, ch/・中国/ㄐ, j/・朝鮮/ㅈ, j/とスラヴ語圏のロシア/ч/・ポーランド/ć/などに対し、後部歯茎音 [t͡ʃ] である現代インド=ヒンドゥスターニー・ベンガリと西ヨーロッパがある(主要な言語発音として言語学で承認があるものはそれらの地域で代表的にそうある。方言や他の言語には別の場合もある)。
言語に「東vs.西」という二項概念が適用できてしまう例、と私は考える。
こういった言語の傾向には歴史的な見地での解明が可能であるが、更に単純化する「物差し・メジャー measure」として「硬口蓋化指数」を開発することもできる、と私は思っている。



まず、「硬口蓋化」と想定される言語現象(音変化 sound change)について、私が想定する例を示す。
例の通り、一般的なIPA(国際音声記号)を付与し、音素表記 (phoneme) と音声表記 (phone 単音 音価) とを分ける。
特に断らない限り子音は無声音を示し、有声音の場合に「有声」という接頭語を用いる。
日本語の場合はそれ自体の言語発音を示すものと見るべきだが、西洋言語の場合に付されたカナは参考までに私が一般的な音写例を示したに過ぎないものと注意されたい。

ラテン文字の音素「C シー=スィー (現代語での名称はドイツ語ツェーなど破擦音も多い)」
古典ラテン語 [k] (軟口蓋破裂音)→ 現代イタリア語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) (ニワトリ擬声語由来の英語コック・チキン互換のch表記で見られる音変化), 現代フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例: -cia キア/ki.a/→チア/tʃi.a/・チャ/tʃa/(保留。イタリア語の例だとマイナーになりそう)→シア/ʃi.a/・シャ/ʃa/(ガリシア Galicia, オフィシャル official. それぞれラテン語での語源はGallaeci, Gallaecia; officialis, officia, officium 一般的に日本でカナ表記される語彙でないが一応→ガラエキアまたはガッラエキア、オッフィキアリスまたはオッフィキアーリス)
※オフィス office はオッフィキウム officium の類であるため、この例だが、その他に英語やフランス語に見られるス -ceは古典ラテン語-tia系 (e.g. Venetia, Venice; scientia, science) になるので後述。

日本語族の音素「か行い段=き」
音声としては標準的な日本語で [k] および [kʲ] (硬口蓋化軟口蓋破裂音。特に強めの硬口蓋化か。一説に硬口蓋摩擦音が続く [kç] も挙げられるが二重子音か破擦音か摩擦音化かどうか説明が無い)→恐らく琉球語派の一例で [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:標準的な日本語 おきなわ okinawa [o̞kʲina̠ɰᵝa̠] 琉球語派の一例 うちなー ucinaa (uchinaa) /ʔut͡ɕinaː/ (英語版Wiktionary - 沖縄 に各言語のIPA表記例が載る)
※日本人は元来、前舌母音の音が前後にある際の無母音子音にイの音を付加してきたことがある。漢音「一色 いっしょく isshoku」に対する呉音「一色 いっしき isshiki」や、「節分 setsubun」に対する「お節 osechi」/setubun, oseti/(比較として節という漢字の中古音を参照。節の音素 /t/ は入声・閉音節・無子音)や、Graecia, Greece = グラエキア・グリース/guraekia, gurīsu/にあたる西洋言語の語句の音写「ギリシア・ギリシャ Girishia, Girisha」(イギリス Igirisu はその類例。ただし中国語か任意のアジア言語を介して日本で音写されたパターンであるならばそれらの言語も似た性質があったと考える必要がある)や、「マックス max, makkusu」に対する「マキシ maxi, makishi」などの単語に見られ(類例はtext テキスト・テクスト tekisuto, tekusuto, 反例は肉 呉音: ニク niku, 漢音: ジク jiku 漢字音は当然、現代の辞書に載るような一般的に継承された例のみを取った場合の話。過去に 中古音で任意の-ng韻が呉音-you, 漢音-ei韻となる場合の漢字音を頻繁にあげたそれも、當 tangが当然のトウ=タウ tauではなくタイ taiとして當麻寺 当麻寺 Taima-deraになっていることなど中古日本語以前の例は探しても判断しづらい)、日本人が自覚できないくらい日常的に大量に使われる。これらは、原語で無母音子音の前後にある母音が日本語で前舌母音となるエ段・イ段 /e, i/ の音であるために [kʲ] (キャ kya の子音 /kj/)という硬口蓋化の音として受容したことが、古代から現代までの日本語での個別語句の借用の原初にあったと思う。借用のタイミングのことは歴史的な音変化との関連性が低いので、この例に含めない。「硬口蓋化指数」のためには余分になると判断する。

古代ギリシャ語に対する現代ギリシャ語の音素「Κ カッパ」 /k/
[k] (軟口蓋破裂音) → [c] (硬口蓋破裂音または [c̠] 後部硬口蓋破裂音)
単語例:Μακεδνός [mɐc̠e̞ˈðno̞s̠] (現代ギリシャ語は日本に借用語が少ないので英語版Wikipedia - Voiceless_palatal_stop#Post-palatalから引用した。単語は歴史学でマケドニアと関連付けられる「背が高い」という意味の形容詞だが現代ギリシャ語では一般に用いないと思われる。日本語のケの軟口蓋破裂音と異なる表記だが発音の例を聴くと同じように聴こえる。軟口蓋破裂音との違いを無理に見出すならば調音位置が軟口蓋よりも硬口蓋で発せられたようなチェの要素がわずかに感じられる。現代日本語ではキほどでなくもケが硬口蓋化しているように思えてある意味では現代ギリシャ語のκεと同じような音だと思う。気になるならば自分で発音しながら解剖学的に意識したり、日本語音声 [kʲe] と推定上純粋な軟口蓋音 [ke] とそのギリシャ語音声とをスペクトログラムで解析してフォルマントの特徴などを抽出すればよいがここでは詳述しない)

印欧祖語に近似する音価もあるケントゥム諸語に対するサンスクリット(パーリ語に共通して梵語)の硬口蓋 (tālavya, tālu) 阻害音系音素
[k] (軟口蓋破裂音)または[kʷ] (唇音化した軟口蓋破裂音)→ [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音) [ɕ] (歯茎硬口蓋摩擦音) [d͡ʑ] (有声歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:ラテン語クヮットゥオル quattuor(いわゆるクアトロ quatro)⇔梵語チャトゥル catur चतुर्、 ラテン語ケントゥム centum⇔梵語シャタン śataṃ शतं (シャタ śata शत)、 古代ギリシャ語ギグノースコーγιγνώσκω(いわゆるグノーシス gnosis に関連)⇔梵語ジャーナーミ jānāmi जानामि (辞書形3人称ジャーナーティ jānāti जानाति; カナ表記の定まらないヨーガ用語 ājñā आज्ञा アージュニャー・アージニャー・アジナ・アジュナ・アジュニャーに関連) 過去記事参照
※これに限らず、サンスクリットで反舌 (mūrdhan, mūrdhā) 摩擦音とされる音素 ṣa ष を持つ単語の一部が、相当するケントゥム諸語の単語によって印欧祖語での音素が *k, *kʷ と推定される。数詞の八・英単語エイト eight の同系であるギリシャ語ラテン語同系オクト(オクトー) octo, ὀκτώ に対するアシュタ aṣṭa अष्ट、英語ドラゴン dragon の語源で動詞「見る」の派生語であるギリシャ語 δράκων (drákōn) に対するサンスクリット語根 dṛś दृश्  (当ブログでは仏教用語の見・ドリシュティ dṛṣṭi でおなじみ。この語根は硬口蓋系の摩擦音śa श で扱っていて実際の単語ではś + tの転結で反舌音化する現象により副次的ではある)がある。

ラテン文字の音素「T ティー (一部でZ字使用)」
[t](歯茎破裂音) → 何かの言語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例:ダルマチア Dalmatia ・英語の犬種ダルメシアン Dalmatian とかを複数言語で調べてみよう@、古典ラテン語ナーティオー nātiō →俗語ナツィオ natio →イタリア語ナツィオーネ nazione, フランス語ナショorナスョ nation, 英語ネーション nation
※ウェネティア Venetia →ヴェネツィア Venezia例はイタリア語で歯茎破擦音 [t͡s] なので硬口蓋化の例でない(i.e. 歯擦音化のみ)。ただし英語のVenice, フランス語のVeniseは [s] (後者は [z]) に該当(過渡期・中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語などに硬口蓋系歯擦音か摩擦音だったと考えられる)。
他の単語例:多分RP英語で [t] tree (カタカナ英語でツリー) GAとしてのアメリカ英語tree [t̠ɹ̠̊˔ʷɪi̯] チュリー(複雑なIPA "t̠ɹ̠̊˔"は後部歯茎で調音されながらも非歯擦音としての破擦音であることを意味している。この単語GA発音の例では唇音化してさえもいてトゥルウィーと無理にカナ表記することも可能)
※英語の抽象名詞に見られる-ション -tion (根源はラテン語 -tio) については中英語の文献で-cionのようにC字を用いるなど、中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語やアングロ・ノルマン語などからして、摩擦音か破擦音への歯擦音化が既成事実化していたことを想定する。まさかとは思うが、t = /t/ が同じく破裂音である c = [k] に変化したという、基本的に言語学で観測されづらい現象は無かろう。

上代日本語と現代日本語の音素「た行い段=ち」
 [tʲ] (硬口蓋化した歯茎破裂音)→  [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:上代日本語 *miti, tika 標準的な日本語 道 michi, 近い chikai 琉球語の宮古方言 mtsï or mcy むツ, tsïka or cyka ツカ (借用語などにあるティ/ti/やテュ/tyu/の類は硬口蓋化した歯茎破裂音 [tʲ] として解釈される)
※現代語に関する現象で「なんという nan to iu・なんていう nan te iu」や英語の"Did you..."が、硬口蓋系の破擦音「なんちゅー nanchū」や英語 [dɪdʒuː](近似カナ: ディヂュー)で発現することがある。反対に、ドイツ地名の外来語 (gairaigo) カナ表記「テュービンゲン tyūbingen(原語ではuウムラウト = ü が用いられる)」にあるような硬口蓋化子音 [tʲ] としての「なんてゅー nantyū」を大半の日本語話者は常用しない。連声(外連声・内連声)・連音・サンディ (sandhi) を古代から形式的に保持するサンスクリットにそういう種類のものは無くも、同系言語のパーリ語にはサンスクリットと同じ単語が硬口蓋系破擦音に変化したような単語が多い。それは2018-03-08記事に"satya"に対する"sacca"などを縷々と例示して説明される。先の日本語・英語の例にあるような、文法的な形態の連結の場合にサンスクリットやパーリ語で同様の現象があるかは定かでない。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋化系 /Cj (Cʲ, CはConsonantの略)/
明、呉音ミャウ・ミョウ、漢音メイ、唐音ミン 中国語拼音ming 韓国語ラテン文字表記 revised romanization = 文化観光部2000年式でmyeongミョン@
※上古音ではlやrのような流音で二重子音を形成していたと推定される。
※「中」と「種」は現代中国語で"zhong"系であるものの、字音仮名遣いでは前者「ちやう/*tyau/」と後者「しゆ/*syu/ orしう/*siu/」に分かれる。これは広東語前者zung1後者zung2・韓国語前者jung 중後者jong 종・ベトナム語前者trung後者chủngを比較に用いれば、中古音ZZで前者/ʈɨuŋ/後者/t͡ɕɨoŋX/と推定されることが分かる。2017-05-21記事にも同じ趣旨が書かれる。中古音で硬口蓋系の破擦音であると分かるか硬口蓋系の響音・介音があると分かるか硬口蓋化 [ʲ] があると分かる、限りはこの例に含めない。もしそれ以前(日本・朝鮮・ベトナムなどに現代までの命脈を保っている借用がある以前や上古音)に硬口蓋系の音が子音部に無い限りはこの例に含めてよい(上古音は不確実の要素が多いが参考にしようという。例としてBS前者*truŋ-s後者*(mə-)toŋʔ-sで含める例=硬口蓋化の発生前に当たるように見える)。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋鼻音系 /ɲ (nj)/
現代中国語普通話で拼音"r" /ʐ/ (有声反舌摩擦音or接近音) に相当し、朝鮮語で文化観光部2000年式"y" /j/ (硬口蓋接近音。ハングルで母音表記のみ)に相当し、広東語で粤拼"j" /j/ (硬口蓋接近音)に相当。e.g. 「柔 Hepburn: nyū (ニュウ:呉音), Pinyin: róu (ゾウorロウ), revised: yu (ユ), Viet: nhu (ニュ), Jyutping: jau4 (ヤウ)」 「二 Hepburn: ni (ニ:呉音), Pinyin: èr (アーorアル), revised: i (イ), Viet: nhị (ニ), Jyutping: ji6 (イorイィ)」 「然 Hepburn: nen (ネン:呉音), Pinyin: rán (ザンorラン), revised: yeon (ヤンorヨン), Viet: nhiên (ニェン), Jyutping: jin4 (インorイィン)」 @

中古音・漢字音の音素での軟口蓋鼻音系 /ŋ (語頭に限るng)/
日本語カナでガ行音素に相当、現代中国語普通話と朝鮮語で無子音(ゼロ、ヌル。ハングル字母でㅇ)に相当するが、一部が普通話で拼音 /y/(硬口蓋接近音)に相当、ベトナム語と広東語で軟口蓋鼻音の音素に相当。e.g. 「我 Hepburn: ga (ガ), Pinyin: wǒ (ウォー), revised: o (オ), Viet: ngã (ガorア), Jyutping: ngo5 (ゴーorオー)」 「牙 Hepburn: ge (ゲ:呉音), Pinyin: yá (ヤー), revised: a (ア), Viet: nha, ngà (ニャ・ガorア), Jyutping: ngaa4 (ガーorアー)」@






以上に見るように、硬口蓋化は多様である。
基本的な原因としては、単語例に見られるように阻害音系の子音にエ /e/ やイ /i/ のような前舌母音 (front vowels) が付いたCV構成の発音が主要である。
それに種々の間接的な原因=条件 (conditions) があるものとして、私は思考を重ねた。

多様な「硬口蓋化」の歴史的な条件と発生時期について、2019年3月ころに指数を求める発想があった。
その指数は、日本語族の日本語と琉球系の一言語・ロマンス諸語のフランス語とイタリア語・サンスクリット・朝鮮語・中古音の一系統から現代普通話の中国語漢字音など、各々のために個別に決定されることになる。
値が近似する言語どうしは硬口蓋化に代表される音変化の特徴が似ていると判断する。
その指数を求めるための基準に以下を私は想定する。

・硬口蓋化の起点 (e.g. [k], [t]) や終点 (e.g. [t͡ɕ], [ʃ]) など種々の子音の発音に必要なエネルギー量
 「エネルギー量」は、参考までにアフリカの言語のうちでもナミビアあたりにいる民族が用いるコイサン諸語で常用される「吸着音"click consonants"」を考察するとよい。文明的な国では古代でも現代でも、それが言語音声の弁別に用いられたという証拠が無いが、アフリカの部族・民族の一部では日常的に用いられているという、このような二分法が可能である。アフリカがHomo sapiens sapiensの起源を持つこと・原始人が狩猟採集をしていたことなどと、その部族・民族の生活が一致しているので言語も原始的な特徴を持つと考えるかもしれないが、「吸着音は最古層の言語音声だ」と結論付ければ早計である。私はその物質的な証拠を何も認知しない。また、生物の進化の多様性は各々の必要な時間をかけて成り立ってきたことからして(ダーウィン進化論についてしばしば言われる話)、言語の多様性もそういう過程から各言語の個性が成り立ったろう。アフリカの狩猟採集の部族・民族もまた、その個性が一定の時間をかけて成り立った可能性 (i.e. 子音強化 fortition) がある。現代日本人である筆者は、吸着音がとてもエネルギー使用の大きい子音発音だと思うが、それで最も古代の言語の特徴であると断定しづらい。とりあえず、エネルギー量の大小は、大まかに吸着音≧破裂音>破擦音>摩擦音>接近音のように想定されると付記する。無論、今に列挙されて最もエネルギー量が少ないと見られる接近音も、多くの言語話者にとって歯茎系の破裂音・破擦音よりも接近音 [ɹ] の発音が困難とされるならば、解剖学的・生理学的な構造にその原因があり、実際に力学的にも調音器官を動かす際に話者ごとの余分なエネルギー使用が発生するので、あくまでも任意の調音点における任意の調音器官による各種調音方法の子音を機械的に発音した際の想定である。

・時期ごとにおける異言語との接触

・食品の軟化または硬化(e.g. ある採集狩猟民が固い木の実・草・生肉を食べていたが農耕が定着して調理技術が進んでからはご飯 coocked rice, grain, cereals やパン bread を食べるようになった)が発生した後にその継続によって変化した歯列・骨格による発音能力
 2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済み。「人間の文明は裕福となり、数万年前~数千年前の人類が硬い肉や木の実や穀物を食べていたことに比して食肉も果実も穀物もみな柔らかくなっているし、現代は様々な機械音(エンジン音や動作音)・電子音(シンプルな波形など)・人工的音声を聴覚的に受けてもいる。人の顎と歯が退化し、舌などの機能が弱まり、聴覚的に人工的な音声を多く聴くといった因縁(感受・認識・経験・定着)のある現代文明の条件下であれば、その果報が相応に発生するということである」といい、仏教の因縁観を援用して認知科学・神経科学の趣旨を説いている。

これらの条件や判断材料も数値化・整理する必要があるので、実現のためには非常に多彩な分野の情報や多くの研究者の共同作業を要すると思う。
それで硬口蓋化指数とされる何かを作ることができても、学問的にその確実性を得られるかは定かでない。
一応、この硬口蓋化指数を用いることで言語における様々な音変化や民族の遺伝的形質の変化などを推定することが私の期待である。
分子人類学や遺伝学で究明されるべき「民族」(mtDNA, Y-DNAハプログループとかの何らかの範疇を拡げて通念上の日本人<東アジア人種などの領域で想定)ごとの言語の特徴(最適性理論に関連)も、歴史的・社会的な経緯で徐々に形成されたか、生理学的な特徴(調音位置・調音方法が人体の形質や脳・神経の機能の傾向に依存する)から進化論的に形成されたか、硬口蓋化指数が手掛かりになると期待する。

硬口蓋化によって破裂音の特性が変わったり、破擦音・摩擦音になるということ(更にはジャ・シャ系統が硬口蓋接近音としてのヤ [ja] になるか一言語の古い文献ではその異言語の似た系統の音 like as [ʝa] を/ja/で記録するような場合もあること)は確かに承認されるが、そのようなものは「子音弱化 lenition」であって反対に「子音強化 fortition」も言語によっては存在する。
子音強化は、歴史的な音変化よりも異言語間の借用語に見られ、特に文明の発達の度合いが高いものから低いものへ借用があった際に多く見られる。
これも私がその概念名称を知る以前に、(借用の起点と終点)「パーリ語とタイ語」、「漢字中古音とベトナム語」、「西洋言語と朝鮮語」を引き合いに出して2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済みであるため、参照されたい。
英語版Wikipedia記事 - Fortition (oldid=892797175)には「スコットランド語・ラテン語・英語などとスコットランドゲール語 Scottish Gaelic」の例が挙げられる。



ここまで綴られ、読者がこれを読み、「硬口蓋化指数とは何を表現したいか?」と疑問に思うかもしれない。
硬口蓋化指数という名で、色々と考えられた。
1. 硬口蓋化という音変化が現代語に見られる結果の量的表示
2. 硬口蓋子音および近似する子音の現代語における微細な弁別(e.g. キ・チの弁別、ニのような硬口蓋系の鼻音と目された中古音漢字が日本語呉音とベトナム語では維持されるが中国語普通話と韓国語では維持されていない)の量的表示
3. 硬口蓋化の原因となる民族的特徴(遺伝学・分子人類学・形質・病理など)の量的表示
4. 硬口蓋化の原因となる文化的背景(食事・言語接触など)の量的表示

これらを全て数量化してから総合的な硬口蓋化指数を作るべきであろうか・・・、発想当時のアイデアがいつの間にか不明瞭になっている。
どうぞ天才学者さんで興味をお持ちの方が仕上げればよろしうございます。
2を調べるには、大学所属の学者の常套手段で世界各地出身の学生たち数百人を臨床試験に用いるなどすればよろしうございます。



概念図(抽出図)であっても、その日本語族・ロマンス諸語・サンスクリット・中国漢字音・朝鮮語などの個別の指数をチャートにして示す@



科学的な母音表 (scientific vowel chart) を自然科学の手法で生み出す案

生成音韻論 (generative phonology) と実験音声学 (experimental phonetics) の統合は言語音声研究における課題と考えられるようである。
生成音韻論における「弁別素性(distinctive feature または弁別的素性)」では、何かしらの基準に対してプラス + マイナス - を振るような発想が1960年代からあるが、未だ定説を見ないようである。
個人的にも、例えば「日本語の無声破裂音/k, t, p/は常に少ない有気音"aspirated consonants"の特徴で発せられる(音素としては有気音・無気音の弁別が無いが有気音を弁別する言語にとって無気音に置換できる)」と言うとき、その言語音声の具体的な一例(/ka/ 1モーラのみ)を、現代英語ネイティブスピーカー(彼らは語頭でアクセントある破裂音を有気音で発する)にはアクセントのある音節だと認知する者とそうでない者とがいたり、朝鮮人には有気音=激音(격음 またはコセンソリ 거센소리)として認知する者とそうでない者とがいると仮定する場合、音声学の立場では、日本語の破裂音の音素は無気音とも有気音とも確定しづらい側面がある。
弁別素性では、「日本語の破裂音の具体例」が有気音であるかどうかを、[+/− spread glottis] で判断すると思う(i.e. 日本語の破裂音は [+ spread glottis])。
言語音声を通言語的に識別するにも、弁別素性で +, - の二分法だけでは通じないかもしれない、と私は思っている。
もし、認知に関することよりも客観的な調音部の運動などを基準とするならば、私が彼らの論点を捉えていなくて弁別素性を考え直すことができない。
とはいえ、「日本語の破裂音の有気音としての特徴の多寡」のような微量の差異も学術的に名称のある場合がある(後述の母音にて詳述)し、やはり+, - の二分法だけでは言語音声の分類に課題が残ると思ってよい。

弁別素性・生成音韻論という、言語学のうちの一分野に貢献できるか不明であるが、本論に入ろう。
実験音声学の解剖学的な方法論 (調音音声学 articulatory phonetics) のみならず、音響学的な方法論 (音響音声学 acoustic phonetics) で示された「フォルマント (formants; F1, F2, 必要によってF3)」の発想から、新たに同様の通言語的な設計を生み出しえる。
ここでは、母音に限って説明をしよう。

現代の音声学などで母音を示す際に用いられる「母音表 (vowel chart)」は、左に前舌母音・右に後舌母音、上に狭母音・下に広母音の基準を有し、右辺が垂直の線で左辺が上辺から下辺へ狭まる斜線で構成された四辺形で示されている(言い換え→四辺形ABCDで辺CDが垂直・辺ABが辺ADから辺BCへ狭まって伸びる斜線で構成されている)。
母音の区分には、その前舌・後舌や、口の広さ=狭・広(舌の高低)以外にも、唇の円さ=円唇・非円唇があり、それについては四辺形上の点の左を非円唇・右を円唇として区別する。
これは一般的な言語の母音を詳細に示す手段のうちでも基本的であり、調音の条件や骨格などによる制約を上手く捉えている。
しかし、日本語のウの音の微妙加減、エ・オの広さの中間具合などは、基本的なうちに含まれず、更に詳しい説明やIPAの補助記号を用いるなどして示す必要がある。

▽立体図形と母音の点と座標の値を示した画像

立体図形と母音の点と座標の値を示した画像。背景黒で線だけの立体図形に [u] X=63狭, Y=63後舌, Z=-64円唇 有声音である黄色の点を示す。[a] や [i] や 日本語ウも示す@

既存の母音表以外を基盤する場合は左右対称6角形を立体化するなど代案がある@

コンピューターの技術が日常的に用いられる人においては、やはり立体図形とその座標で、母音の特徴を数値化して示すことが、容易に想像できよう。
すなわち、既存の母音表の特性を生かしながら、判断基準すべてを数量化してしまい、X, Y, Zに配当して立体化する(その四辺形に奥行きを付ける)。
そこに個別の母音の位置を点で示すことで、あらゆる言語の母音を「構造的に(近代言語学・哲学のような言い方。構造主義的に structural。または生成的に generative)」示すことができる。
点にはX, Y, Zの座標の数値が示され、IPAで近似する記号を表示できる。
なお、無声母音"devoiced vowel, voiceless vowel" (e.g. ささやき声や日本語の語末ウ音 [u̥]) や、鼻母音"nasal vowel" (e.g. 日本語の撥音/N/の前で発せられる鼻音化した母音) を表現したいときには、これらを別次元に扱って表記する方法もある(普通の点を任意の色の円として無声母音や鼻母音の点を他の図形とするか色彩を変えるなど)。

このような考え方が、当ブログの2019年4月6日投稿記事に示されていた。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html

単母音"monophthongs"は以上のようであり、二重母音"diphthongs"の場合は通常の母音表だと矢印直線で起点から終点を指している。
これもそのまま図形の中で再現できるであろうし、直線でなく適宜に曲線(後述の音声合成関連で生理学的・力学的な理由に基づく cf. 非ユークリッド幾何学のような曲がった直線。平面図形の世界地図上の直線と地球儀準拠の世界地図の曲線)を用いても可能と思う。

さしずめ、ノーム・チョムスキーの生成文法のようなモデルを母音表に反映したものと言おう。
こうしてチョムスキーさんの派閥の人が行う「生成音韻論」の「弁別素性」も、母音に限っては音響音声学・実験音声学の知見を加味して考察できるであろう。
そう思ったが、彼らの論点と、この研究とにはあまり関連性が無いかもしれない。
何かの発想に繋がればよいと思う。

言語学者たちの想像する言語音声のうち、母音のみであれば、これで自由に特性を示しえる。
これはまた、科学的絶対性にもならっている。
是非とも、いわゆる理工系の人に音声学(IPA, 調音位置・調音方法とその音響的発現)を学んでもらうことで音声合成技術の作成に役立ててもらいたいと思う。
この立体図形上の任意の点に対応した音声を、音声合成技術で簡単に出力できる発想もある。
※音声合成技術と音声学の知見の関連は、あまり公表されないが、管見の限りでは神経科学分野の福祉の方面で実用が考えられている(cf. AIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行うUCSFの Chang Labによる技術)。自立的な歌手とハイテク系シンガーソングライターが作編曲する場合やDAWを用いる音楽家がボーカルを扱う場合やボーカルのインストゥルメントのデータ(VSTi, SoundFont, 日本のアマチュア界隈で主流の歌声合成・歌唱合成ソフト関係)を作成する場合などにも多かれ少なかれ音声学の見解が借りられてもいる。

無論、人間の一般的な言語・自然言語で用いられない母音(無用なもの)をも発生させることになるが、もし生身の人間および言語学者に区別できない限りでは、何も問題の無いことである。
地球の座標 (geographical coordinates) も、単なる海面を指すことがあるのと同じで、直ちに問題とはならない。
考え直せば、人間の母音もまた自覚的・意識的に発せられたり聴かれたりすることは、人間の生物学的な知覚システムのために排除されているわけで、改めて科学的絶対性に近づけた見地では、発音の一時的な微細な区別を知ることになる。
無論、母音表の立体図形をコンピューターのソフトウェアで表示する際、点を置くことが可能な位置の数を限定すれば、特に学問的に実用的な範囲での使用も可能になる。

最先端の科学研究や技術開発でタブーな話題は「その研究題材や成果が直ちに役立つか・実用的か」ということである。
何らかの人にとってくだらないように思えても、そのように発明されたものが後々の研究や技術開発に役立つような事例を科学史から学んでいる人には、の研究の意義の有無を問うことが、科学自体の意義の有無を問うことであると分かるかと思う。
ましてや私は在野の研究者で、公費による支援は無いし、日頃の個人的な生活の時間が研究に傾けられるのみである。
そういうわけで、研究意欲のある人が可能な限りに色々と素敵な研究ができることを、在野の研究者である私は心で応援している。



少し話を変えるが、日本語の母音のウの音についての音素的認識が共有された日本人の間では、同じような音響的特徴を示現するであろう。
同じ狭母音のイの音でも、より広いアの音でもエの音でもオの音でも、音素的認識が共有される限りには同じような音響的特徴を持っている音であろう。
それは言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人で、彼らがウの母音を認知したり発音したりする場合も平等であろう。
声のオクターブ的な違い=人それぞれの基調となる声色を問わず、一般的な母音は固定的な特徴がその相対性のうちに示されている。
言い換えれば、母音の同一性とは、そのように固定的な特徴を言うことができる。

これも私が思う数学的な考察の仕方で示しえる。
第一フォルマント F1 と第二フォルマント F2を求めて長方形(四辺形の一種)のX方向とY方向の長さとし、それを言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人の発音標本から作製する。
それは数学でいう「相似 (similar, similarity)」として等しい幾何学的特徴を持つことになる。
ウの音にはウの音の長方形ができ、イの音にはイの音の長方形ができ、アの音にはアの音の長方形ができ、それが日本人の老若男女に共有されると考える。
数学や幾何学の形式科学の特性を言語の音韻論に適用した場合にそうであって、自然言語・音声言語の事実としてもそうであると言いたいわけでない。

他にも、X軸上にF1とF2との差を点にして置き、Y軸上に一個体の標本の標準的な声色のピッチ(音の高さ)を並べてみても面白い。
それでウの音とイの音とアの音は、それぞれ一次関数のような線としてX, Yの図に顕現する。
・・・、実際にどうなるかはともかく、何か数学的な発想を音声学に取り入れるための思考訓練として、こういった考えをしても面白いと思っている。




言語数理モデルの他の例示 (10月2日追記)

アナグラム (anagram) に近い形で何かしらの言葉遊び (word play) に役立つ指標を考えることがあった。
骨組みに:
①現代日本人の言語感覚によくある「複数の単語間または一単語を基準にした他の単語との文字列の一致度」
②ヨーロッパ広域(歴史的文献では中国を含む)で典型的な押韻
③音声学的な調音位置・調音方法の近似
などを含む。
個人的な作詞や言葉遊びの領域で、それらが骨組みの未完成な指標が少し利用される程度であり、今までに言及しないでいた。

上記のうち、一般的な類例は無いか?
①に近いものでレーベンシュタイン距離 (Levenshtein distance, edit distance) というものがある。
これはあくまでも情報理論 (information theory) に関連した歴史的経緯から成立した文字列の測定基準であり、様々な情報技術分野で便利に応用される・初歩的なスキルとして用いられる。
これだけだと、言語の系統に限らず数字に適用され、パズル的でもある。その方面で、ハミング距離 (Hamming distance) も重要にある。
回数の制約などのマイナーチェンジには「ダメラウ・レーベンシュタイン距離 Damerau–Levenshtein distance」があり、スペルチェックをはじめとした自然言語処理に寄与する。
私であっても、日記メモの編集行為・プログラミング言語の使用・バイナリエディタの使用などから、効率性を考慮する過程でそのような測定基準を脳内に持つことはあった。
③には何かしらの言語音声アルゴリズム (phonetic algorithm) が適用できる。
とはいえ、近似的であるから、私が求めるようなものは可能な限り私の方で考え、その後に比較・対象行為が行われよう。

改めて2019年10月2日に、この方面で参考までに知るべきことを知ったので、当記事に補足する。






起草日: 20190527

起草日とその翌日に草案として11,000文字程度を書いた。
その時に「思考が混乱しそうである。しばらくこの記事の話題を保留にして既存の美術・音楽・学術の作業に戻らねばならない。それから1か月間でも1年間でもじっくりとこの記事の話題に取り組もう」と考えた。

言語学に当記事で示したような応用数学の手法を取り入れる案は、言語学が人文科学である伝統と手法を、研究者の意識から埋没させるかもしれないことに注意したい。
自然科学で応用数学の手法を取り入れて成功しているようなことは、扱いが悪いと大きな失敗を招くかもしれないし、浅学である私は特に注意したい。
「人文科学である伝統と手法」はすでに示したような18~19世紀における印欧語の比較言語学・歴史言語学や印欧祖語の再建などに代表される分野の研究史と研究行為を指す。
20世紀後半から言語学の現代的な発展・多様化が顕著となるにつれて様々な方法論が学際的に用いられたり、開発されたりしたが、「人文科学である伝統と手法」無くしてはそれらも無かろう。
実例としては、2019年5月16日投稿記事に示された「2019年、アメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた」ことである。
英語の音素・音価に関して国際音声記号 (IPA) を用いる手法などが、神経科学の医療的な技術開発でも見られるという。
音声波形・スペクトログラムの利用は音声学(音響・実験)の手法であるとしても知見とは異なろう。
この実例は言語学の外であり、広い言語学のうちではなおさら「人文科学である伝統と手法」が活かされている。



2019年7月から数学関連の学習として最低でも中等教育レベルを行った上で当記事を投稿する予定であったが、絵や音楽に関連する作業と調査(個人的な興味として地理・気候・植生などもある)に追われて、全く実現されなかった。
言語学への関心も遠のいてしまったので、この記事は2019年8月10日現在、明らかに下書き状態の範囲が広い。
7月20日~8月9日の20日間には、100文字も加筆編集できなかったろう。